第三話 バンシー
泣き声は、広場の端まで来て、そこで留まった。
炎の向こう側に、白い影が立っていた。背を向け、佇む女だった。
長い白髪が風もないのに揺れ、薄い衣の裾は霧に溶けている。そして、かすかに肩を震わせ、静かに咽び泣いていた。
エイダンの心臓が、ドクン、と大きく跳ね上がった。
この夜に現れるという、人ならざる美しい女の妖精。
そして、記憶の底にある、あの豊満で、すべてを惑わすような圧倒的な後ろ姿のシルエット――。
精霊学者としての理屈が、この瞬間、頭から消えた。
(……まさか、あの時の、リャナンシー!?)
幼い頃に一目惚れし、ずっと探し続けていた「彼女」の幻影が、目の前の白い背中に重なる。
話しかけるな、という師匠の言葉が頭をよぎった。さっき、爪先が光の縁を越えかけたことも思い出した。今度こそ、守る。
それでも、高鳴る鼓動を止められなかった。今ここで声をかけなければ、一生後悔する。
「……あの、失礼ですが!」
弾んだ声で呼びかける。泣き声が止まった。白い衣の女が、ゆっくりとこちらを振り返る。
青白い、どこか疲労の滲む美しい顔。涙に濡れた瞳が、まっすぐ彼を見た。
そして、エイダンの視線は、彼女の胸元へと自然に吸い寄せられ――静かに凍りついた。
(……あ、普通だ)
記憶の中の、視線を釘付けにして離さないボリュームが、ない。つつましやかで、至って標準的だった。
エイダンの血の気が引いた。直後、顔に血が戻ってきた。耳まで熱い。
気まずい沈黙が広場を支配した。
エイダンは、赤くなった顔を隠すように、くるりと背を向けた。
篝火に薪を足す。もう一本足す。さらに足す。足しすぎて、炎が自分の背丈を超えた。熱い。
「……あなたは、私を誰かと間違えたのね」
女の声は、驚くほど穏やかだった。
エイダンは火に向かって「すみません」と言ってから、気づいて向き直った。手帳を開く。顔はまだ熱い。
「あ、いえ……! 書物で読みました。その、死が訪れる前に泣く存在がいると……。あなたは、バンシーでしょうか?」
「そう。人間は、そう伝えているのね」
「違うのですか」
「違わないわ。人が死ぬ前に、私は泣くもの」
「あなたが泣くから、人が死ぬのですか」
女の顔に、初めて戸惑いが浮かんだ。
「いいえ。人が死ぬから、私は泣くの」
エイダンは、手帳に書いた。
『対象は、人間の死に先立って出現することを肯定。ただし、死との因果関係は否定』
「この村の誰かのために、来られたのですか」
「いいえ。火が見えたから」
それも書き留めた。
『村の誰かのための来訪ではない。火に引かれて来た』
「では、誰のために泣いているのですか」
「いなくなった人のために」
「……これから、いなくなる人のため、ではなく?」
「あなたには、これからなのね」
女は、不思議そうに首を傾げた。
「私には、もう過ぎたことよ。あなたたちが先に聞いて、あとで知るだけ」
ペンが止まった。
「それなら、知らせようとは思わないのですか。その人に、あるいは誰かに」
「何を?」
「亡くなることを」
「もう亡くなった人に?」
言葉が、出てこなかった。
「その人は、まだ生きています」
「あなたには、そう見えるのね」
責める調子ではなかった。ただ事実を言っているだけの声だった。
「あなたの目には、まだそこにいる人でも、私には、もう会えない人なの」
「……それは、悲しいことですか」
「悲しい、というのは、あなたたちの言葉ね」
彼女は涙を拭おうともしなかった。
バンシーの声を聞きながら、エイダンはいつしか薪をくべる手を止めていた。
背後で、ぱちり、と小さな音がした。さっき足しすぎた薪が燃え尽き、炎ががくりと低くなる。赤い熾火が灰の下へ沈んでいく。
けれど、彼の意識は目の前の女に向けられたままだった。
「でも、泣くのよ」
エイダンは手帳を見下ろした。先ほどの一文がある。
『対象は、人間の死に先立って出現することを肯定。ただし、死との因果関係は否定』
間違ってはいない。けれど、これでは何も記録できていないのと同じだった。
彼は、その一文に線を引いた。書き直そうとして、ペン先を紙に置いたまま動かなくなった。
『死の予知能力』あるいは、『時間認識の差異』。
どちらも、間違いではないのだろう。
けれど、どちらの言葉にも、彼女が泣いていた理由は書かれていなかった。
エイダンは、手帳を閉じた。
バンシーは再び、静かに泣き始めた。
エイダンはもう、視線を逸らさなかった。
気づけば、炎を回り込み、一歩、また一歩と、彼女のほうへ近づいていた。
やがて、女が涙に濡れた顔を上げた。
「ほら、火が小さくなっている。戻れなくなるわよ?」
「……え?」
その言葉と同時に、エイダンは急激な息苦しさを覚えた。
空気が薄い。世界全体の体温が、急速に奪われていくような感覚だった。
頭痛がして、視界が歪む。咄嗟に頭を押さえようとして、エイダンは目を見開いた。自分の手の向こう側に、夜の森の木々が、透けて見え始めていた。
光の縁が、いつの間にか、自分の背後まで縮んでいる。彼女に近づくあいだに、自分は、火の光の外へ出ていた。
「何を見ても、何を聞いても、決して火から離れるな」という師匠の言葉が、遠くで警鐘のように鳴り響いた。
エイダンは這うように篝火へ戻り、薪を掴んで、狂ったように炎の中心へ投げ込んだ。
パチパチと、火の粉が爆ぜる。
一気に炎が燃え上がった。赤々とした熱が、顔を打つ。
それでも、すぐには息ができなかった。
喉がひゅうひゅうと鳴り、肺が空気を拒んでいる。薪を掴む指先は震え、膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになった。
炎の熱を浴びながら、エイダンは必死に息を吸った。ひとつ、ふたつ。ようやく肺が空気を受け入れ始める。
「はっ……! ごほっ、げほっ……!」
炎が大きくなると同時に、堰を切ったように空気が肺に入ってきた。冷え切っていた手足に、じわりと血の巡りが戻ってくる。
呼吸を整えながら、振り返る。
バンシーの姿は、すでに霧へ溶けかけていた。
「待ってください。あなたは、また来るのですか?」
「分からないわ」
エイダンは、それ以上尋ねなかった。
女は小さくうなずき、霧の向こうへ消えていった。泣き声は、もう聞こえなかった。
しばらく立ち尽くしてから、彼は手帳を開いた。空白のページを見つめる。
結局、何も書かなかった。
彼は手帳をしまい、篝火に薪を一本くべた。
夜は、まだ長い。
森の向こうで、水の流れる音がした。




