第二話 プーカ
言ってしまった。
エイダンは口を閉じた。
今のは質問ではない。質問の許可を求めただけだ。まだ会話は始まっていない。そういう解釈が成り立たないか、彼は大真面目に考えた。
「いいぞ」
霧の向こうから、あっさりと返事があった。
……始まってしまった。
彼は一度だけ目を閉じ、覚悟を決めて手帳を構えた。
「ありがとうございます。あなたは、プーカと呼ばれる存在でしょうか?」
「お前は、人間と呼ばれる存在か?」
「はい」
「なら、そうなんだろうな」
どさり、どさりと、重いものが跳ねる音がした。
霧の中から現れたのは、黒い兎だった。ただし、大きい。後ろ足で座り込んだ背丈が、エイダンとほとんど変わらない。艶のある毛並みに、長い耳。暗闇でも妙にはっきり見える金色の目と、兎にしては人間くさい笑み。
兎の姿も、伝承にはあった。ただし、人間大とは書かれていなかった。
兎は篝火の向こう側に腰を下ろし、首を傾げた。長い耳が、片方だけぱたりと折れた。
「お前、何をしている?」
「火の番です」
「火の番が、そんな紙切れを持っているのか?」
「手帳です。観察した事象を記録するためのものです」
「何を観察している?」
「今夜の主目的は、異界の住人の行動様式の調査でして……」
「つまり、俺を見に来たんだな?」
「正確には、個体としてのあなたにも大変興味が……」
「見に来たんだな?」
「……はい」
兎は、鼻をひくひくと動かした。笑ったらしい。
「人間ってのは変わった生き物だな。こっちは見せるつもりもないのに、勝手に見に来る」
「あなたが人を惑わせるという伝承がありますので」
「ほう。それで、お前は迷っているのか?」
「いえ、迷っていません」
「そうか。じゃあ、道を教えてくれ」
「……はい?」
「迷っていないんだろう。なら、道を知っているはずだ」
「あなたがどこへ行きたいのか分からなければ、案内のしようがありません」
「行きたい場所?」
兎は、あたりを見回した。長い耳が、ぐるりと向きを変える。霧。枯れ草。黒い木々。燃え盛る篝火。
「さあな」
「さあな、とは……」
「行き先が分かっているなら、迷う必要もないだろう」
エイダンはペンを止めた。
なるほど。
なるほど?
彼は手帳に書き込んだ。
『道に迷わせる存在が、道を尋ねてきた。伝承との不一致。要検証』
「ところで、人間。その火の番を任せた師匠は、どこにいる?」
「食中毒で寝込んでいます」
答えてから、はっとした。師匠の言いつけは「質問されても答えるな」だった。しかも今のは、守り手の不在を明かす答えだ。
「ショクチュウドク?」
一度答えてしまった以上、ここで黙るほうが怪しい。エイダンは観念した。
「……傷んだキノコ料理を食べて、腹を壊したのです」
「へえ」
兎はしばらく黙り、実に楽しそうに言った。
「愚かな師匠だな」
「師匠は普段、とても優秀なドルイドです!」
「傷んだ料理を食べたのに?」
「……それとこれとは別です」
「人間ってのは、変なところで線を引きたがるな」
エイダンは反論しかけて、やめた。深呼吸をする。聞くべきことは、決まっている。
「あなたは、人間を迷わせることに、何か目的があるのですか? 人間が困る様子を見ること自体が、目的なのでしょうか?」
兎は、じっと彼を見た。笑みが、ほんの少し薄くなった。
それから黒い前脚で地面を掻き、土の上に、一本の線を引いた。
「これは道か?」
「……いいえ。ただの線です」
「お前がここに足を置いて、向こうへ歩けば?」
「そこが歩いた跡になり、道になります」
「そうだ。では」
兎は、その線を、ひょい、と跳び越えた。
「今、道はどうなった?」
エイダンは答えられなかった。跳び越えられた線は、ただ地面に残っている。
「森は、お前たちが引いた線を知らない。俺も知らない」
「では、人間が迷うのは……」
「迷わせたつもりはない。俺は、線を跳んだだけだ」
エイダンは、手帳を見下ろした。
先に書いた一行がある。
『伝承との不一致。要検証』
彼は、その一文に線を引いた。少し考えて、書き直す。
『対象と人間では、道という概念が異なる可能性がある』
「……興味深い」
「何がだ」
「あなたの話です」
「そうか」
兎は、また笑った。
「じゃあ、もっと教えてやろう」
兎は篝火の周りを、ゆっくりと跳ね始めた。
エイダンは目で追い、跳躍の間隔と火との距離を記録した。兎は火を中心に、ほぼ円を描いて跳んでいる。ただ、広場の端の古い腰掛けの前を通るときだけ、跳ぶ間隔がわずかに詰まった。
『腰掛け付近で跳躍間隔が短縮。理由不明』
書き込んだとき、兎が動きを止めた。火の光が途切れる、ぎりぎりのあたりだった。
「ところで、人間」
「はい」
「お前、何か探している顔をしているな」
エイダンの手が止まった。
「……研究対象を」
「それだけか?」
「……それだけです」
「そうか」
兎は霧のほうへ首を向けた。
「探しているものは、火の外にいるかもしれんぞ」
兎が、一跳び、霧の中へ入った。
気づけば、エイダンは半歩、前に出ていた。靴の先が、火の光の縁を越えかける。
――何を見ても、何を聞いても、決して火から離れるな。
師匠の声が、頭の中に落ちてきた。
彼は、止まった。
爪先は、光と闇の境目のちょうど上にあった。
兎は、少し離れたところから、それを眺めていた。
「……そうか。止まったか」
「なぜ、止めなかったのですか」
「俺は誘っただけだ。踏み出すのは、お前の足だろう」
エイダンは、ゆっくりと足を引き、元の位置へ戻った。篝火の熱が、頬に戻ってくる。
「それじゃあな、人間。お前が道を見失わないことを祈っているよ」
黒い姿が、霧の中へ溶けていく。跳ねる音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなった。
エイダンは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
それから、ゆっくりと手帳を開いた。
『第一の観察対象。プーカと思われる。人間を惑わせる存在として知られるが、本人に惑わせている自覚はない。火の外へ誘う発言あり。ただし、踏み出しかけたのはこちらの足である』
そこまで書き、彼はペンを止めた。最後に、もう一行だけ付け加える。
『会話は非常に有益。ただし、師匠には報告しないほうがよいと思われる』
そのときだった。
森の奥から、細い声が聞こえた。泣き声だった。
風に揺れる枝の音とは違う。獣の鳴き声とも違う。ひとりの女が、誰かを悼むように泣いている。
エイダンは、手帳を閉じた。
今度こそ、話しかけてはいけない。
彼はそう自分に言い聞かせながら、泣き声のする方向を見つめた。
声は、少しずつ近づいてくる。




