第一話 火の番
「絶対に、話しかけるな」
毛布にくるまった老ドルイドは、死人のような顔色で言った。
「はい」
「向こうから話しかけられてもだ。質問されても答えるな。名を尋ねられても教えるな。取引を持ちかけられても応じるな」
「はい」
「何を見ても、何を聞いても、決して火から離れるな」
「分かりました」
エイダンは師の言葉を一つ残らず頭に刻み、胸ポケットから革表紙の手帳を取り出した。
「ちなみに、会話をせずに観察するだけなら問題ありませんよね?」
「問題しかないわ!」
藁葺き屋根の小屋に怒声が響いた。直後、老人は腹を押さえて呻く。
「うぐっ……!」
「師匠、やはり町の病院へ――」
「行けるものなら、とうに行っとる!」
窓の外では、夕暮れの谷から白い霧がせり上がっていた。村へ続く一本道は、すでにその底に沈んでいる。エイダンのスマートフォンは、昼からずっと圏外のままだ。
「サウィンの夜は、霧が道を食う。朝まで誰も出られんし、誰も入れん」
「では、朝まで私がお傍に付き添って――」
「火の番は誰がやる」
老人は、顎で窓の向こうを示した。村外れの広場には、高く積まれた薪が黒い影になっている。
「日が沈めば、村の戸は祖霊のために全部開く。あの火の番を空けた夜に、何が家々へ流れ込むか。お前に説明してやる体力はない」
エイダンは口をつぐんだ。
老人は恨めしげに、枕元の空の鍋を睨んだ。
「だいたいな、なぜもっと早く言わなんだ」
「言いましたよ」
エイダンは、数時間前の台所を思い返した。
◇
昼下がり。儀式の準備に追われる師匠は、窓辺の日向に置かれた鍋から、キノコ料理を立ったまま匙でかきこんでいた。薪の数を数え、供え物の籠を運び、その合間に口へ運ぶ。味わっている様子はなかった。
エイダンも、味見に一口だけもらった。
吐き出した。
「師匠、さっき食べてたキノコ料理、傷んでますけど?」
「……は?」
「日向に丸一日置いてあったら、傷みますよね?」
「まさか。これはさっきできたものじゃ……」
「いえ、作ったのは一日前です」
老人は、匙を持ったまま固まった。
「うっ、腹が痛い」
◇
「言ったのは、食い終わったあとだ!」
「私は一口目で気づいて、吐き出しましたので」
「自慢するな!」
エイダンは手帳の余白に書き込んだ。
『老ドルイド、食中毒。原因は日向に丸一日放置されたキノコ料理。なお、指摘を受けた直後に発症した模様(因果関係は不明)』
「聞こえておるぞ!」
エイダンは二十五歳。ロンドンで精霊学者を名乗っているが、肩書きに見合う実績はまだない。三年間、手紙を送り続け、先月ようやく、アイルランド西部の森奥に住むこの老人から「見るだけなら」という返事を引き出した。
見学。あくまで見学のはずだった。
観察項目は先月から整理した。筆記具は予備まで揃えた。夜食も用意してある。
まさか当日になって、師匠が傷んだキノコ料理に敗北するとは思わなかったのである。
「お前は、知りたいものに近づきすぎる」
老人は、這うようにして顔を上げた。
「研究者ですので」
「お前が精霊学者になった理由を、もう一度言ってみろ」
「子供のころ、緑の丘でリャナンシーを見かけたからです。一目惚れでした」
「そう言っていたな」
「緑の丘に、さらに二つの丘が重なっていました」
「……おい」
エイダンは真顔のまま、拳を握った。
「いつか彼女と会話を成立させ、きちんと許可をいただいたうえで、あのおっぱいに埋もれさせてほしいのです!」
「動機が不純だ!」
老人の絶叫が屋根の藁を揺らした。そして、また腹を押さえる。
「……その動機のまま、向こうのものに近づくな。あれらは、好奇心の強い人間が大好物なんじゃ」
「向こうも興味を持つなら、観察し合う価値がありますよね?」
「だから近づくなと言っとる!」
老人は毛布に倒れ込み、天井を見たまま、ぽつりと言った。
「……会話をするな。引き込まれるぞ」
その一言だけは、いつになく重かった。
エイダンは、今度こそ真剣にうなずいた。
「分かりました。決して会話はしません」
老人は疑わしげな目を向けたが、それ以上、説教を続ける体力は残っていなかった。
*
日が沈むと同時に、村の戸はすべて開け放たれた。鍵は外され、窓辺には灯りが点り、食卓には祖先の席と食事が用意されている。
広場には、薪が山のように積まれている。エイダンは師に教わった手順で火口に火を移し、細い煙が赤い炎に変わるのを見届けた。
この篝火には役割がある。異界との境が薄くなる夜、境の向こうから来るのは祖霊だけではない。招かれざるものたちの目を引きつけ、村の家々ではなく、この火のもとへ集めること。
だから、火を絶やしてはならない。だから、火から離れてはならない。そして、決して彼らと関わってはならない。
「よし」
炎が安定したところで、エイダンは手帳を開いた。時刻、天候、風向き、湿度、炎の高さ。記録は順調だった。
広場の端、炎の光がぎりぎり届く辺りに、古い木の腰掛けが一脚と、縁の欠けた木椀が置かれているのに気づいた。椀は空だった。
師匠の小屋の椅子とは、作りが違う。
『腰掛け一脚、木椀一つ。用途不明。要確認』
小声でそう書き込み、薪を足す。
スマートフォンを取り出すと、画面は相変わらず圏外だった。時刻だけが、律儀に進んでいる。
そのとき、広場の向こうで霧が動いた。谷を埋めている霧とは別の、地面を這う白い靄だった。風に流されることなく、まっすぐ炎のほうへ近づいてくる。光の届くぎりぎりのところで、霧の輪郭が揺らいだ。
その向こうに、何かがいる。
エイダンは息を潜めた。
話しかけるな。名を教えるな。取引をするな。火から離れるな。
彼は深くうなずき、ペンを構えた。
霧の中から、二つの光る目がこちらを覗いていた。
「……記録開始」
ペン先が、紙に触れた。
「おい、人間」
霧の向こうから、声がした。
手が止まる。
「こんなところで、何をしている?」
エイダンは、唇を固く引き結んだ。
話してはいけない。絶対に、話してはいけない。師匠は言った。質問されても答えるな、と。
答えては、いない。
彼は指を折って数えた。話さない。名を教えない。取引をしない。火から離れない。
四本目を折り終えた。そこから、三秒、耐えた。
「質問してもよろしいでしょうか?」
夜の霧が、楽しげに揺れた。




