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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第37話中編:若き術者と偉大なる先輩術者達のほっこり飯

###〜静寂なる寺院の茶会と、明かされる御仏の絶対守護〜


一同が女性住職の管理する格式高い浄土宗寺院へと到着すると、まずは全員で凛とした静寂が満ちる重厚な本堂へと足を運んだ。

お線香の高貴な香りがかすかに漂う静謐な空間の中、一同は本尊の御仏の前で静かに手を合わせ、日々の感謝を込めて丁寧な御参りを厳かに執り行う。


その後、住職の案内によって、美しく手入れされた中庭が見渡せる風情ある離れの客間へと移動する。

女性住職と綱江の二人がテキパキと台所に立ち、先ほど京都駅の老舗店舗で呪術師が購入した手土産の上品な羊羹を手際よく綺麗に切り分け、人数分の香り高い温かい煎茶を用意してくれた。

全員が年季の入った座卓を囲んで畳の上に席に着くと、まずは全員で胸の前で静かに合掌し、仏教の伝統に則った厳かな「食前の言葉」を全員で称えてから、和やかな雰囲気の中で午前の茶会を楽しむこととなった。


それぞれが温かいお茶に口をつけ、上品な甘さの羊羹を味わいながら一息ついたところで、先ほどからの疑問がどうしても頭から離れない晴道が、座卓から身を乗り出すようにして首をかしげる。

「なあ、おっさんと住職さん。さっきの境内の大立ち回りの時、あんたら一体何をしたんだ?俺の目には、二人とも霊力とかの気配が一切しなかったのに、あのデカい怪異の攻撃を平然と無効化しちまっただろ。あれの種明かしを教えてくれよ」


晴道が自身の術者としての常識に照らし合わせながら不思議そうに尋ねると、隣にいた綱江は即座にその端整な頬をぷくっと膨らませ、座卓の下から晴道の脇腹を小突いた。

「晴道君、あんたは本当にさっきから、初対面の偉大な大先輩方に向かって、またそんな失礼な呼び方をしてるし!少しは立場を考えて言葉遣いを改めよし!」


綱江がプンプンと怒りながらたしなめると、お茶の入った湯呑みを静かに持っていた才狐が、いつものように淡々とした冷静な声音で言葉を挟む。

「御住職さんは術を使って防いだというよりは、むしろ最初から最後まで何もしてはらへんかったように見えました。それに、呪術師さんが怪異の放った凶悪な瘴気を、片手だけで難なく払わはるところに関しては、僕は以前にも別の現場で見せて貰いましたよね」


才狐が、さも当然のことのように事実を述べると、呪術師は自身の湯呑みを静かに置き、その端正な顔立ちをぴくりとも動かさない無表情のままで、淡々と静かに話し始めた。


「才狐さんの仰る通りです。こちらの御住職にはね、人間が放つあらゆる呪術の類も、現世を侵食するような悍ましい瘴気も、あるいは怪異達からの直接的な攻撃であっても、その身に一切届くことはあらへんのです。そうですな、現代の若い人達が使うスマートフォンのゲームアプリの用語に例えて言うのなら、そういう無敵の状態が最初から『デフォルト』と言いますか、常に発動しとる『パッシブスキル』と言いますか、まさにそんな感じの超常的な状態なんですわ」

呪術師はそう無表情のままで実に現代的な例え話を淡々と話して、再び静かにお茶を飲む。


そのあまりにもゲーム感覚な説明を聞いて、晴道は驚きと共に思わずニカッと笑った。

「パッシブスキルって、おっさん、それはまんまゲームアプリの用語じゃねえか!こないだ会った羅生門の鬼といい、京都の年寄りや怪異の連中は、マジで現世の知識を最先端にアップデートしてるんだな。なんだか妙に親近感が湧くぜ」


晴道が感心したように声を上げる中、綱江は女性住職の持つその神秘的な力の源に思い至り、尊敬の眼差しを向けながら尋ねた。

「あの、呪術師さんが仰る、御住職さんの絶対的なお力というのは、やっぱり日々のお勤めによる、仏様のご加護ですか?」


綱江がそう尋ねると、法衣を纏った女性住職は、いつものように見る者の心を芯から癒やすような優しい菩薩笑顔を浮かべ、静かにその美しい首を縦に振って応える。

「ええ。この未熟な身は、日々仕え奉っている慈悲深い御仏によって、いつでもお守り頂いております。ですから、私自身の意思で術を練り上げて防壁を展開しているわけではないのです」


女性住職のそのあまりにもスケールの大きな言葉を聞いて、才狐もお茶を一口飲みながら、過去の記憶をなぞるように言葉を重ねた。

「確か、御住職のその御仏のご加護の力は、現世に存在する全ての呪いや、怪異の放つ瘴気の類を、完全に無効化出来るんでしたよね。だからさっきの手の眼さんの攻撃も、触れることすら出来ずに消えてしまった、と」


才狐が納得したように言うと、晴道は切り分けられた最高級の羊羹をフォークで器用に口へと運び、もぐもぐと美味そうに食べながら感嘆の声を漏らした。

「へえー!触れる前に消滅させちまうなんて、仏教の力ってのはマジですげえんだな。実家の神社とか神道の結界とは、また随分と違った凄さがあるぜ」


晴道が素直に感心していると、呪術師は再び淡々とした、しかし確固たる事実を告げるような声音で若者達に告げる。

「そやから、こちらの御住職のすぐ近くに身を置いている時こそが、最も安全な場所と言えるんですわ。どんな強力な怪異が襲ってこようとも、突破することは出来ひんのやさかい」


呪術師が淡々と告げると、晴道は羊羹を飲み込み、我が意を得たりとばかりにニヤニヤとした勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「なるほどな。まあ、住職さんが仏の加護でめちゃくちゃ強えってのは、さっきのを見てよーくわかったよ。だけどよ、おっさんにあんなハエを払うみたいな芸当が出来た理由に関しては、未だに俺の中で謎のままだぜ。あ、そうか!閃いたぞ!おっさんはさっき、住職さんのすぐ近くにいたから、その御仏のパッシブスキルの範囲内に巻き込まれて、一緒に護られてただけだったんだな。自分の実力じゃなくて住職さんのおかげだったってわけか。」


晴道が一人で納得してガハハと豪快に笑うと、そのあまりにも失礼極まりない的外れな考察を聞いた綱江は、今度こそ完全に堪忍袋の緒が切れたようで、顔を真っ赤にして頬を膨らませて呪術師に詰め寄った。

「こら!またこんな失礼な事言うてるし!自分の実力で見抜けてへんのを棚に上げて、大先輩に向かってなんて不敬な……!呪術師さん、この世間知らずな脳筋男、教育のためにも、ここらでいっぺん厳しくしばいといた方がいいですよ!」


綱江がプンスカと怒りながら呪術師に提案したが、当の呪術師はそんな若者の不躾な言葉など全く意に介さない様子で、穏やかにお茶をすする。

「いやいや、構いません。実際のところね、僕の実力なんて御住職の足元にも及びませんし、さっきの現場でも、御住職の尊いお力に守って頂いとったのは紛れもない事実ですからなあ。彼の言うことも真理ではあります」

呪術師がどこまでも謙虚にそう言うと、女性住職は「ふふ、御謙遜を」と菩薩の表情で微笑む。


晴道はさらに調子に乗って、座卓をバンバンと叩きながら笑った。

「ほらみろ綱江!本人もこうやって素直に自分の口で認めてるじゃねえか。それに、俺がさっきから何度も言ってるだろ?このおっさんからは、術者としての強力な霊気の気配が全くしねえんだ。だから、実力もないのに『呪術師』なんていう大層な一般名詞を自分で名乗ってること自体が、そもそもおかしな話なんだよ!」


晴道がそう言ってからかうように笑うと、綱江は今度こそ怒りのボルテージが頂点に達し、両拳を握りしめて立ち上がりかけた。

「あかん、本気でこの男を今すぐ蹴っ飛ばしてやりたくなってきたわ!」


綱江がプンスカと本気で怒り狂うと、晴道は余裕たっぷりの表情でそれをひらりといなし、自慢の体躯を誇示するように笑う。

「おいおい、物騒な真似はやめとけって。お前、俺が東京の実家の道場で、昔から本気で空手をやってんのを知ってるだろうに。いくら術の才能があろうが、女の子の生身の筋力じゃ、俺の腕っぷしの相手にはならねえよ」


晴道が自信満々に笑い飛ばすと、それまで静かに羊羹を食べていた才狐が、その大きな瞳を晴道に向け、いつもの淡々とした静かな声音で言葉を返した。

「綱江さんは本当に強いよ。術式を緻密に操る力もそうだけど、実戦の体術に関しても、君が思っている以上に遥かに手強いからね」


才狐が真面目なトーンで綱江の実力を評価すると、それまで怒っていた綱江は一瞬で顔を赤く染め、嬉しそうに照れくさそうに微笑んだ。

「もう、才狐君ったら急にそんなに褒めてくれたって、何も出えへんよ?それに、体術のセンスやったら、ウチよりも才狐君の方が圧倒的に強いやんか」


二人がお互いを信頼し合って微笑み合う甘い空間を目の当たりにして、冷やかし担当の晴道は、わざとらしく両手を合わせて拝むような仕草をしてみせた。

「はいはい、朝っぱらから熱いことで。御馳走さん御馳走さん。当てられっぱなしで喉が渇くぜ。あ、でもさ、このおっさんがわざわざ京都駅の店で買ってくれたこの羊羹、マジでめちゃくちゃ美味いな!これを奢ってくれたことに関しては、俺も素直におっさんに感謝しとくぜ!」

晴道は羊羹の最後のひときわ大きな切れ端を口に放り込み、満足そうに豪快に笑う。


そのどこまでもマイペースで、大先輩の実力を見抜けない晴道の様子を見て、綱江はジト目になりながら呪術師の方へと向き直った。

「呪術師さん……あの、やっぱり今のうちに、この何も分かってへん晴道君に、本当の恐ろしさを身を以てわからせたった方がええんとちゃいますか?このままやと、いつか本当に大怪我しますよ」


綱江が少し心配も含んだジト目で晴道を見ながら提案すると、呪術師は相変わらずその表情を鉄仮面のように無表情に保ったままではあったが、その瞳の奥にだけは、若者達の騒がしいやり取りをどこか愛おしむような、微笑ましいと言った感じの温かい光を宿して若者達を静かに見守っていた。

「まあまあ、若い術者が見習いの頃は、それくらい元気が余っておる方が何事も宜しい事ですわ。これから嫌でも色々な現実を知っていくことになりますさかい」


そんな彼らの賑やかで微笑ましい様子を、格調高い法衣を纏った女性住職は、まるですべての衆生を慈しむ温かい菩薩の眼差しで、物静かに微笑みながらそっと見守り続けていた。


---


###〜蛸薬師通の麗しき昼食と、錦へと続く新たな近所付き合い〜


澄み渡る朝の光の中で行われた静かなお茶会も、穏やかな空気のままに終わりの時間を迎えた。

呪術師と、才狐、綱江、晴道の若き術者3人は、温かくもてなしてくれた女性住職に向かって深く頭を下げ、心からの感謝を伝えてお礼を言うと、歴史あるお寺の山門を後にする。


お寺を出て京都の街をのんびりと歩いていると、時計の針はちょうど、腹が空き始める昼食の時間と言う事もあり、一行は賑やかな四条通を少し北へ行ったところにある、蛸薬師通の喫茶店で昼食を取る事にした。

レトロで落ち着いた雰囲気が漂う店内の席につくと、皆でそれぞれの食べる量やサイズに合わせた、お店の名物である芳醇なオムハヤシを注文する。


やがて湯気を立てる美味しそうな料理が運ばれてくると、呪術師は高校生の3人にしっかりと合わせて、4人で神社にまつわる伝統的な食前の言葉を一緒に静かに称えてくれた。

厳かに祝詞の響きを交わした後、全員で綺麗に「頂きます」をして、スプーンを手にして理儀正しく食事をし始める。


その食事の席において、呪術師の魅せる一挙手一投足、スプーンの扱いから背筋の伸び方に至るまで、食事の作法がどこまでも美しい。

その洗練された大人の気品漂う美しさに気圧されるようにして、才狐と綱江の二人も自然とその美しい所作を見習って、背筋を伸ばして綺麗に食べるのだった。

普段はガサツに見える晴道も、実は東京の実家の神社で幼い頃から厳しく躾けられていた為、その食べ方は同年代に比べれば十分に綺麗であった。

しかし、そんな晴道の肥えた目から見ても、信じられないほどに無駄がなく綺麗な食べ方をする呪術師の姿には、思わず深い感心を抱かざるを得なかった。


晴道はオムハヤシを口に運びつつ、ずっと気になっていた疑問をぶつけるようにして呪術師に尋ねる。

「なあ、さっきから見てて思ったんだけどよ、おっさんって、住職さんのお寺にいた時は、確か浄土宗の食前と食後の言葉だっけか、あれを完璧に綺麗に称えてただろ?なのに今度は、俺達の神社の食前の祝詞まで完璧に知ってて一緒に称えてるし……。おっさん、もしかしてその正体は、ただの重度のオカルトマニアなのか?」


晴道がまたしても不躾な分析を口にすると、隣で上品にスプーンを動かしていた綱江は、呆れ果てたようにその瞳をジト目に変えた。

「晴道君、あんたは本当にどこまでも口の悪い脳筋男やねえ……。よっしゃ、決めたわ。これからあんたがその口から失礼な事を言うたびに、ウチが拳骨を脳天に一発ずつ御見舞いしたろ」


綱江が座卓の下で小さく拳を握りしめてジト目で晴道を見ると、晴道は全く怯む風でもなく、むしろ楽しそうにケラケラと豪快に笑う。

「ハハハ!お前の拳骨なんて、毎日空手で頭を鍛えてる俺に効くわけねえだろ。それに、そんな可愛い女の子の方からわざわざ身体に触れに来てくれるなんて、俺からすりゃむしろご褒美だぜ」


晴道が余裕たっぷりにそう言ってのけると、その斜め上の返答を聞いた才狐は、咀嚼し終えたオムハヤシを綺麗に飲み込むと、不思議そうに小さく首をかしげる。

「え……?綱江さんからの痛い拳骨が、晴道君にとっては御褒美なん?僕にはちょっと、その感覚がよく分からへんわ」


才狐が本気で意味が分からないという風に無垢な疑問を投げかけると、晴道はここぞとばかりにニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべる。

「おいおい才狐、お前はもうちょい女の子の心理ってやつを知る事だな。じゃねえと、将来お前がこの綱江とめでたく結婚した後で、夜にしっかりと喜ばせてやれねえぞ?」


晴道がからかうようにそう言ってニヤニヤすると、そのあまりにも直球で大胆な未来予想図に、綱江は一瞬にして顔を耳の裏まで真っ赤にしてプンスカと怒り出す。

「ちょっと晴道君!食事中にそんな破廉恥なセクハラ発言しなや!」


綱江が真っ赤になって怒り狂う中、当の才狐はやはりその言葉の深い意味がよくわかっておらず、全く動じることもなく、黙々と目の前の美味しいオムハヤシをマイペースに食べる。

若者達のそんな甘酸っぱくも騒がしいやり取りを前にして、呪術師はただ静かにスプーンを動かし、その表情を一切崩さずオムハヤシを食べていた。


「何とも元気に満ちあふれた青春をしてはって、本当に宜しゅうおすなあ」


呪術師は無表情のままであったが、その落ち着いた声音でぽつりと呟いた。


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そうして賑やかな時間が過ぎて食事が終わり、再び神道の食後の祝詞を全員で綺麗に称えた後、呪術師が全員分の会計をいつの間にかスマートに済ませてくれた。


奢ってもらった高校生の3人は並んで深く頭を下げ、声を揃えてお礼を言う。

「「「有難う御座います、御馳走様です」」」


感謝を伝えて全員で喫茶店の店を出ると、晴道は食後の腹を軽く叩きながら、これからの予定について才狐に尋ねた。

「そんでだ、才狐。妖古さんからの次のミッションは一体なんだ?次はどんな怪異のところへ突撃するんだよ」


晴道が先ほどの活躍に味を占めたように張り切って尋ねると、才狐はいつもの淡々とした静かな声音で告げる。

「いや、ミッションやないんやけど、今日は早朝に気狐さんに挨拶に行く以外は、妖古さんからは特に何も言われてへんよ。だから、今日の予定はこれで終わりのはずやね」


才狐がそう告げると、彼らの会話を静かに聞いていた呪術師が、コートのポケットに手を突っ込んだまま静かに提案をする。


「ほな、これといって予定がないのでしたら、これから錦の辺りをぶらぶらと歩いてみましょか」

呪術師はそう言うと、京都の台所とも呼ばれる賑やかな錦通りを目指して、迷いのない足取りでゆっくりと歩き始めた。


晴道はその後ろ姿を見つめながら、不思議そうに声を上げた。

「錦通り?錦通りに一体何があるんだ?美味いもんでもあるのかよ?」


晴道はそう疑問を口に言いながらも、すでに呪術師の後に続いて歩き出した才狐と綱江の二人に遅れまいと、慌てて呪術師の頼もしい背中を追って賑やかな京都の街へと歩き出した。


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###〜錦市場の出会いと、東の空に漂う不穏な気配〜


賑やかな街並みを抜け、呪術師は京都の台所として古くから親しまれている錦通りへと入って行った。

狭い路地の両側に多種多様な食材を扱う店がひしめき合う中、呪術師はある老舗の小豆が売っている店へと迷わずに足を踏み入れる。


そこには、一人の小柄な老人が店頭に立っていた。

老人は並べられた小豆の袋を熱心に眺めては、ふむふむと深く納得したように一人で何度も頷いている。


その老人の背中に向けて、呪術師は胸の前で静かに両の手のひらを合わせた。

「小豆洗いさん、こんにちは。相変わらず熱心に品定めをされておられますな」


呪術師が声をかけると、その老人はハッと振り返り、呪術師の姿を認めてその柔和な顔をほころばせた。

「おお、呪術師はん、こんにちは。いやあ、今日もええ豆が揃うとるよ。おや、今日は珍しく、後ろに隨分と若いのを大勢連れとるんやねえ」

小豆洗いはその優しい眼差しを高校生達に向けながら、温かく微笑む。


才狐と綱江の二人は即座に姿勢を正し、丁寧にお辞儀をした。

「「こんにちは」」


二人が行儀よく挨拶を交わす中、そのただならぬ名前を耳にして、やはり晴道だけは一人で驚きを隠せない様子だった。

自身の短く刈り込んだ頭をポリポリとかきながら、不思議そうに首をかしげる。

「あ、ども、初めまして……って、おい才狐、今おっさんがこの人のことを『小豆洗いさん』って呼ばなかったか?小豆洗いって、あの川のほとりでショキショキと音を立てて小豆を洗うっていう、あの有名な妖怪のことか?どこからどう見ても、ただの人の良さそうな普通の爺さんにしか見えねえぞ?」


晴道が素直な疑問を口にすると、老人の姿をした怪異は、その様子を愉快そうに見つめて声を上げて笑う。

「おたくとは初めましてやね。驚くのも無理はあらへん。こうして賑やかな娑婆の街中に買いもんに出てきとる時はな、周囲の人間に怪しまれんように、儂はこうして普通の人間の姿に化けとるんでな」


小豆洗いが人懐っこい笑顔で説明すると、才狐が一歩前に進み出て、感謝の気持ちを伝えるようにお礼を言う。

「小豆洗いさん、先日、摩訶不思議食堂にお邪魔した時に、小豆洗いさんと小豆婆さんが心を込めて作って下さった、特製の豆餅を頂きました。上品な甘さが本当に美味しくて、温かい緑茶によく合いました。素晴らしいお味を、本当に有難う御座います」


「私も一緒にいただきましたけど、本当においしかったです。あんなに美味しい和菓子は初めてでした。素敵なデザートを、本当に有難う御座います」

綱江もまた、才狐の隣で嬉しそうに微笑みながら丁寧にお礼を言う。


二人の言葉を聞いて、晴道も先日の感動的な味を思い出し、素直に頭を下げた。

「あ、なるほどな!あの摩訶不思議食堂で、ステーキ膳の後に食ったデザートのあの美味い豆餅、この爺さんが作ったってことだったのか。あれはマジで絶品だったよ、美味いもんを食わせてくれて、御馳走さん!」


晴道が豪快に笑ってお礼を言うと、小豆洗いは自らの成果を若い術者達に認められたことが何よりも嬉しいようで、その白い髭を撫でながら優しく微笑んだ。

「ふぉっふぉっふぉ、そりゃあ若い人達にそうやって喜んでもらえるのが、一番やで。まあ、儂はどちらかというと店で鯛焼きとかをパリッと焼くのがメインの担当でな、あの豆餅とか大福とかの繊細な和菓子は、小豆婆さんが作ってて、それこそ一級品の達人やでな。そうやって気に入ってくれたんやったら、またいつでも店に食べにおいない」


怪異との温かい交流が交わされる中、呪術師は店頭の木箱に視線を落とす。

「小豆洗いさん、今日の店頭には、なかなか見事な色ツヤをした上等な黒豆が入ってますなあ」


呪術師が淡々と呟くと、小豆洗いは自慢げに何度も頷いた。

「そやねん、流石、よく分かってくれてはるね。次の豆餅に使うための新しい黒豆を探しに来たんやけど、やっぱりこの錦通りは、昔から活気があって、ええもんをしっかりと揃てくれとるでな。よし、今日はこの辺りの上質な豆をいくつか仕入れて帰るとするか」

小豆洗いはそう言って、実に御機嫌な笑顔になる。


その様子を見届けた呪術師は、これ以上の邪魔は野暮だと判断し、静かに別れの言葉を告げた。

「それは宜しゅうおすなあ。ほな、僕らはこれで失礼しますさかい、買い物をどうぞ楽しんで下さい」


呪術師がそう言って店を出ていくと、高校生の3人も小豆洗いにそれぞれ丁寧に挨拶をしてから、その後を付いて行った。


---


賑やかな錦市場の人混みをしばらく歩き、通りを抜けたところで、呪術師はふと足を止めて東の空を見上げた。

「次は、そうですなあ……。おや、東の方の空気が、なんだか少しばかり妙な具合に歪んでおりますな……なんともまあ、次から次へと」

その顔は仮面のような無表情のままではあったが、何か不穏な気配を察知したようで、深いため息をつく。


呪術師が深刻そうに呟くと、ただならぬ雰囲気を察した才狐が尋ねる。

「え?呪術師さん、そんなに深くため息をついて、東の方で何かトラブルでもあったんですか?」


才狐の問いに対し、呪術師はゆっくりと視線を落とし、3人の顔を静かに見つめた。

「ええ、どうやら若い御三方にとっては、神職としても人間としても怪しからんと思うような身勝手な事を、向こうで起こしてしもた不届きな輩がおるようですな。ほな、これ以上酷くなる前に、様子を見にそこへ行きましょか」

呪術師はそう淡々と告げると、迷いのない足取りで東へ向かって歩き出す。


その言葉を聞いて、先ほどの一件で不完全燃焼だった晴道は、待ってましたとばかりに両拳を握りしめた。

「お、なんだなんだ!?怪しからん輩ってことは、またさっきの手の目の時みたいに、俺達術者が一肌脱いでドカンとドンパチやらかすような出番があるのか!?」


晴道が不謹慎にもワクワクしながら付いて行くと、その様子を見ていた綱江は、呆れたように深い溜息をついた。

「はぁ……晴道君って、どれだけ平和的な解決を見せられても、その戦闘脳はなかなか治らんみたいやね。もう少し穏やかに物事を考えられへんの?」


綱江はそう文句を言いながらも、呪術師の頼もしい黒いコートの背中を追って、才狐と共に足早に付いて行くのであった。


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###〜錦の突き当たりに張り巡らされし拒絶の結界と、怒れる狛犬の一触即発〜


東の空に漂う歪んだ霊気の正体を確かめるべく、黒いロングコートを翻した呪術師は、多くの観光客や買い物客で賑わう錦通りを真っ直ぐ東に向かって迷いなく突っ切って行く。

そして、様々な食材の香りと活気に満ちたアーケードを通り抜けると、その突き当たりにひっそりと鎮座する目的の神社までやって来た。


それは、一見するとごく普通の、古都の長い歴史の中に当たり前のように溶け込んでいる、京都では決して珍しくない街中にある小さな神社だった。

しかし、普段であれば誰もが気軽に参拝できるはずのその場所には、今この瞬間に限っては、外からの人間が入るのを明確に拒んでいるかのような、肌を刺すような禍々しい気配が周囲に重苦しく漂っている。


先頭を行く呪術師のすぐ後ろを歩いていた晴道は、その異様な空気の変化を術者としての本能で敏感に察知し、その鋭い切れ長の目を細めて周囲を激しく見回した。


「おい、待ちやがれおっさん……!なんだかこの鳥居の向こうから、あからさまに『ここから先へは一歩も入るな』って言わんばかりの、強烈な拒絶の気配がビリビリと出してやがるぞ。これ、間違えねえ、かなり上等な術者が張った強力な結界か何かっぽいな」

晴道はそう言って即座に身構えると、パーカーの上着の懐へと素早く手を入れ、鍛え上げてきた破邪の御札をいつでも引き抜いて放てるように強く警戒する。


しかし、そんな晴道の極限の緊張を余所に、先頭に立つ呪術師は立ち止まることすらしない。

「なるほど、中では随分と派手なことが始まっておりますなあ。それでは、ちょいと失礼しまっせ」


呪術師は無表情のままでそう短く呟くが早いか、目の前に張り巡らされているはずの強固な霊力的障壁に対し、まるで部屋の入り口にかかっている暖簾やカーテンを片手で軽く横へと祓うかのような、極めて無造作なしぐさをしてみせた。

すると信じられないことに、その呪術師の指先が空気を軽く裂いただけで、晴道が戦慄するほど強固に見えた拒絶の結界は、ガラス細工のようにあっさりと粉々に砕け散って破れてしまう。


大先輩の常識外れの技術を目の当たりにし、3人の若き術者達は並んで驚愕の声を上げた。

「「「あ!」」」


驚きに目を見開いた才狐、綱江、晴道の3人は、結界が消滅したことで一気に流れ出してきたただならぬ冷気を肌に感じながら、慌てて呪術師の背中を追うようにして一緒に境内の奥へと入って行く。

鳥居をくぐり抜けて神社の敷地の中心部へと一気に踏み込むと、彼らの視界には、普通ではあり得ない異常極まりない光景が飛び込んできた。


中では、この神社を預かっている神職らしき服装をした中年の男性と、紅白の巫女服に身を包んだ若い女性が一人ずつ、恐怖のあまり顔面を真っ青に引きつらせていた。

二人は本殿の目の前に背中を預けるようにしてへたり込み、手にした大幣や御札を必死に前に突き出しながら、震える身体で必死に構えている。


そして……。


神社の境内の中央には、およそ神聖な神域には似つかわしくない、泥に汚れた無骨なドラム缶が乱暴にゴロリと転がっていた。

さらにそのすぐ傍らには、普通なら一般家庭の壁や鴨居に大切に飾られてお祀りしてあるはずの、木製の古びた神棚が、無惨に地面に転がっているのが見える。

よく見れば、その神棚の木肌には何かで乱暴に燃やそうとしたかのような、痛々しく少し焦げた部分が生々しく残されている。


その惨状のさらに上空、神社の屋根に近い高さの空中には、驚くべきことに、全身から凄まじい神聖な神気と激しい怒りの炎を揺らめかせた一頭の狛犬が、古めかしい未知の御札をその前足の鋭い爪の間にしっかりと握りしめたまま、もの凄い怒りの形相を浮かべて浮遊していた。


そして、その怒れる狛犬のすぐ目下、境内の冷たい石畳の上には、高級そうなスーツ姿に身を包んだ若い男性が一人、恐怖のあまり完全に腰を抜かして尻餅をついていた。

その男性はガタガタと歯の根が合わないほどに激しく震え上がり、上空の怪異を見上げてただ命乞いをするように怯えきっている。


これらの一連の惨状をその鋭い視線で一通り見回した呪術師は、何が原因でここまでの大騒動に発展したのかを、その瞬間に全て察したように冷静に見据えている。

すると、黒いコートの襟を片手で静かに直しながら、深く、呆れ果てたようなため息をついた。

「……はぁ、なんともまあ。朝の手の眼さんの時と言い、ほんまに今日の京都の神域は、どこもかしこも騒々しいことでんな」


呪術師のその低く落ち着いた溜息と、状況を見透かしたかのような静かな呟きを敏感に聞き咎めた上空の狛犬は、その恐ろしい一対の眼球をギロリと呪術師達へと向けた。

激しい怒りによってその大きな口の端から火の粉を散らしながら、地響きのような声を境内に轟かせる。


「なんじゃ、われええ!勝手に入ってきた不届き者どもは一体何者じゃ!まさか、そこにおる神職の奴らが、ワシを無理やり調伏するために外から新手の応援でも呼び寄せよったんか!」

狛犬はそう叫ぶと、本殿側にいる腰の抜けた神職と巫女を再びギロリと激しく睨みつけ、その大きな口を大きく開けて、内部に強烈な神気のエネルギー弾らしき攻撃を今すぐ仕掛けようと激しく光らせ始めた。


そんな一触即発の緊迫した状況であるにもかかわらず、呪術師は自身の立ち姿を一切崩さず完全な無表情のままで、どこまでも呑気に淡々と自らの素性を告げた。

「いやいや、誤解せんといてください。僕は応援でもなんでもおへん、ただのそこら辺を散歩しとる、通りすがりのおっちゃんですわ」


呪術師があまりにも緊張感のない言葉を返した瞬間、隣にいた晴道は我慢できずに一歩前に躍り出た。

呪術師の身体を自らの大きな背中で庇うようにして前に出ると、懐から引き抜いた強力な破邪の御札を指先に構え、重心を深く下げる。


「いや、おっさん!何呑気な事言ってやがるんだ!こいつ、どう見ても俺達を敵とみなして、一発デカい攻撃をぶっぱなす気満々じゃねえか!素人は大人しく俺の後ろに下がってろ!」

晴道が鋭い声を張り上げて戦闘態勢に入ると、すぐ後ろにいた才狐と綱江の二人も、ただ事ではない状況を察してすかさず霊力を練り上げ、印を結びながら強固な防御の態勢に入る。


上空で浮遊する狛犬は、若い術者達が次々と武器を構えて身構えた姿を見て、自らの神聖な怒りをさらに爆発させるように、その巨体を激しく震わせた。


「おのれえ!結界破りよったんはそこのごついクソガキか!?ワシが折角、中にいるこの人間の大罪人を誰にも邪魔されずに徹底的に裁くために、人避けのごっつい強めの結界まで親切に張ってやったっちゅうのに!それをわざわざ外から力任せに破って勝手に入ってきよってからに、この生意気なクソガキ共が!ワシの裁きを邪魔する気なら、まとめてひねり潰してやるわ!上等じゃワレエエ!!」

狛犬は前足の御札を掲げながら、天を衝くような凄まじい雄たけびを境内に響かせた。


その最大級の威嚇の咆哮を正面から受け止めながらも、戦闘狂としての血が完全にたぎってしまった晴道は、獰猛な笑みをその顔に浮かべ、負けじと大声を張り上げる。

「上等だコラア!相手が狛犬だか何だか知らねえが、売られた喧嘩を黙って買わねえ阿倍野晴道様じゃねえんだよ!やれるもんならさっさとやってみやがれ、このくそ犬が!」


晴道が御札から破邪の光をバチバチと放ちながら挑発したことで、境内の空気は一瞬にして極限まで張り詰め、まさに一触即発の激しい戦闘状態へと突入しようとしていた。


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###〜怒れる狛犬の呪符の嵐と、呪術師が魅せる一瞬の神技〜


晴道の放った不遜極まりない挑発の言葉を受け、上空に浮遊する狛犬の全身から立ち上る神聖な怒りの炎は、とどまるところを知らないほど激しく燃え上がる。

最早、誰の目から見ても戦闘は完全に避けられない絶望的な状況へと突入していた。


狛犬は神気の光に満ちたその鋭い眼光をさらに凶悪に釣り上げると、鼓膜を破らんばかりの凄まじい雄たけびを境内に向かって轟かせる。

「よう言いよったわ、このデカいだけの未熟もんのクソガキが!己の実力も弁えん不届き者め、まずはその生意気な貴様から跡形もなく吹き飛ばしたるわ、くらあすぞゴッルァア!!」


狛犬はそう咆哮すると、前足の鋭い爪の間で器用に古めかしい御札をパッと構えた。

すると、その瞬間。

その前足に握られていた一枚の御札が、怪異の放つ強大な霊力に呼応して、まるで細胞分裂でも起こすかのように不気味な音を立てて途端に無数に増えていく。

それは神社を完全に埋め尽くさんばかりの圧倒的な数となり、上空から晴道達を包囲するようにして、今にも激しく襲い掛かろうとしていた。


その恐るべき呪符の壁を目の当たりにし、咄嗟に重心を低くして御札を構えた晴道だったが、自らの想像を遥かに凌駕する怪異の物量と密度の前に、その額から一気に冷や汗が噴き出した。

「やべえ!?流石にあの数は、俺一人の防御の御札だけじゃ逆立ちしたって防ぎきれねえぞ!?」

晴道はかつてないほどの激しい焦りに襲われ、その場に棒立ちになりかける。


しかし、そんな若き術者の動揺を見逃すことなく、上空の狛犬は勝利を確信したようにさらに獰猛に叫んだ。

「これでも喰らいやがれやボッケエ!!」


狛犬が狂暴に叫んで前足を振り下ろした瞬間、宙を埋め尽くしていた無数の呪符が、まるで意思を持った無数の矢のように凄まじい轟音を立ててついに一斉に飛ばし始められた。


四方八方から容赦なく降り注ぐ破滅の光の嵐を前にして、晴道は自分の慢心が招いた最悪の結末を悟り、必死の形相で後ろの仲間達に向かって叫ぶ。

「まずい!お前ら、ここは俺が盾になるから今すぐ逃げろ!」


晴道は声を枯らして叫んだが、無情にも迫り来る呪符の速度はあまりにも速く、逃げる時間などどこにも残されておらず、時すでに遅し。

避けることも、防ぐことも間に合わず、この場にいる術者達が完全に全滅するかと思いきや……。


「まあ、御二人さん。そう声を荒らげんと、まずは落ち着きなはれ」


その絶望的な極限の状況の中で、驚くほど平坦で、一切の感情が削ぎ落とされた静かな声が耳元に届いた。

晴道が驚いて目を見張ると、先ほどまで自分の後ろで守られているだけだと思い込んでいた呪術師が、いつの間に動いたのかすら全く認識できないほどの神速の身のこなしで、静かに晴道の前に出ていたのである。


晴道が動けないでいる中、呪術師は黒いロングコートをわずかに揺らしながら、スッと無駄のない所作で、懐から一枚の真っ白な御札を取り出した。


そして……。


「『集(しゅう)』」


ただ一言、凍りつくような静けさの中で呪術師が低く呟きながら、その手にした御札を自身の右側に静かに掲げる。

すると、次の瞬間に信じられない怪現象が巻き起こった。


晴道達を確実に塵にせんと迫り狂っていた狛犬の強力な呪符の嵐が、呪術師が掲げたそのたった一枚の白い御札に向かって、まるで巨大な渦潮に巻き込まれるかのように、見る見るうちに強引に吸い込まれていく。

空間を歪めるほどの勢いで放たれた無数の攻撃は、その一枚の御札の前に吸い寄せられ、やがてすべての凶悪な攻撃を完全に吸い尽くしてしまったのだった。


凄まじい嵐が一瞬にして消え去り、静寂が戻った途端。

呪術師は間髪入れずに、左手で別の新たな呪符を懐から取り出すと、流れるような無駄のない動きで、その御札を先ほどすべての攻撃を吸収した御札の表面にピタリと張り付けた。


それから。


「『包(ほう)』」


呪術師が無表情のままでそう一言だけ言っただけで、あれほどの猛威を振るっていた無数の呪符のエネルギーは、瞬時に綺麗に畳まれるようにして、再び元の静かな一枚の御札の形に収納された。

それは何事もなかったかのように、呪術師の右手に綺麗に収まる。


あまりにも一瞬のうちに行われた神業を前にして、そこにいた晴道、才狐、綱江、そして神職と巫女の全員が、完全に息をのんで何も言えずにその場に立ち尽くしていた。


それは上空から全力の攻撃を仕掛けた当事者である狛犬も同様であり……。

「……ぬ?」


先ほどまでの威勢の良さはどこへやら、狛犬は自らの放った絶対的な一撃が、文字通り塵一つ残さず吸い取られた現実が理解できず、宙に浮いたままポカーンっとして完全に放心状態になっていた。


すると、呪術師は彼らの驚愕を余所に、さらに別の新しい御札を懐から鮮やかに取り出した。

手首を軽くスナップさせるような美しい動作で、それを神社の入り口である鳥居の方へ向かって鮮やかに飛ばす。

放たれた御札は正確に鳥居の中心へと張り付き、それと同時に、先ほど呪術師が神社に入る際にあっさりと破った、狛犬が仕掛けたものとは比較にならないほど、強固で清らかなる新たな結界が瞬時に貼られ、周囲の一般人に騒動が漏れないための完璧な人避けの結界が完成する。


これほどまでに見事過ぎて、そして鮮やか過ぎる一連の早業にして神業を、呪術師はまるで呼吸でもするかのように淡々と、そして何の大したことでもないと言わんばかりに事も無げに成し遂げてみせた。


ただ立っているだけで世界を支配するような、底知れない圧倒的な強者の姿を間近で目撃した晴道は、指先に構えていた自分の御札を震わせながら、呆然と呟く。

「……嘘だろ。この人……ただのおっさんじゃねえ……」


晴道は自らの未熟さと、目の前に立つ大先輩の計り知れない本物の実力を突きつけられ、喉を激しく鳴らしながら、力なく声を漏らす事しか出来なかった。


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###〜暴かれる無作法と、隠れ呪術師の冷徹なる洞察〜


一瞬にして、狛犬の全力の攻撃を強制終了させて、境内に静寂をもたらした呪術師。

圧倒的な霊圧の嵐が嘘のように消え去った空間のなかで、上空に浮遊する狛犬は、信じられないものを見たという風にその巨大な眼球を激しく見開いた。


「……あんさん、一体全体、何者っちゅうんじゃ……。ワシが全力を込めて放ったあの呪符の嵐を、文字通り塵一つ残さずに片手で吸い尽くしてまうなんて、ただの術者の成せる業やおへんぞ……」

狛犬が驚愕した表情になりながら、震える声で問いかける。


それに対して呪術師は、懐から出した御札を静かにコートの内側へと収め、その端正な顔立ちをぴくりとも動かさない無表情のままで、淡々と静かに告げる。

「そんな大層なもんやおへん。僕はただの、世間様から身を隠してひっそりと暮らしとる平凡な隠れ呪術師ですわ。それ以上でも、それ以下でもおへんさかい、どうぞお気になさらずに」


呪術師がさも当然のことのように言い放つと、狛犬は納得がいかないといった様子で、空中からじっと彼を見下ろす。

「隠れ呪術師やと……?その割には、それほどの強大な実力を隠し持っとる高名な術者であれば当然放たれるはずの、霊力や殺気の類が、その身体から欠片も感じられへんがな。まるで命を持たん木切れか石ころの前に立っとるようやぞ」


「それも当然の話ですわ。僕は昔から人一倍目立ちとうないタチなもんでしてねえ。誰の目にも留まらんように、自分の気配を目立たなくさせる術を自分なりに試行錯誤して身に付けたら、いつの間にかこうなっただけのことですわ。そんで……」


呪術師はそこで一度言葉を区切ると、ゆっくりと視線を地面の方へと落とした。


「こちらの騒動の元凶さんは、一体この神聖な境内で何をしはりましたんかね?まあ、そこの地面に無惨に転がっとる、少し焦げた神棚と泥だらけのドラム缶を見れば、大体の想像はつきますけどねえ」

呪術師が深いため息をつきながら、冷ややかな視線で石畳の上に尻餅をついている若いスーツ男を見る。


すると、それまで恐怖のあまり完全に思考が停止していたスーツ姿の男は、呪術師が狛犬を圧倒したのを見て、まるで地獄で蜘蛛の糸を見つけたかのように急に息を吹き返した。

男は必死になって地面を這いずり、呪術師の黒いロングコートの裾にしがみついてガタガタと震えながら叫ぶ。

「だ、助けてくれ!こ、こいつがいきなり境内の上空から飛び出してきて、僕に向かって襲って来たんや!僕はただここにいただけなのに、いきなり殺されそうになったんや!」


男が必死に被害者を装って叫ぶと、本殿の前にへたり込んでいた神職の中年男性も、男の言葉に同調するようにして慌てて声を上げた。

「そ、そうなんです、呪術師さん!私達も何が何だかさっぱり分からなくて……いきなり、この神社の境内にある狛犬が生きているかのように激しく飛び出したかと思うと、凄まじい殺気を放っていきなり彼に向かって攻撃を仕掛けてきたんです!」


神職が怯えながら弁明すると、コートの裾を掴んだスーツ男は、さらに調子に乗ったように呪術師の顔を見上げて必死に助けを乞う。

「おい、あんた!さっきの凄まじい技を見る限り、めちゃくちゃ強い霊能力者なんやろ!?だったら、この一般人を理不尽に殺そうとする諸悪の元凶のくそ犬を、さっさとその力で木っ端微塵に退治してえや!術者なら民間人を護るのが仕事やろ!?」


男が必死になって身勝手な要求を突きつけた、まさにその瞬間。

呪術師はこれ以上ないほど深い、呆れ果てたようなため息を静かに一つはいた。


その大先輩のあまりにも冷ややかな反応を前にして、神職と巫女、コートに縋りつくスーツ男、そして自分の常識をひっくり返されて呆然としていた晴道の4人は、並んで間抜けな声を上げる。

「「「「え?」」」」


4人の声が重なる中、呪術師はコートを掴むスーツ男の腕を優しく、しかし拒絶するように静かに引き剥がした。

「勘違いせんといてください。僕がさっきから『元凶』や言うて目を向けとる対象は、そちらの狛犬さんやおへん。そこに座り込んどる、おたくのことですわ。仕立ての良い、上等なスーツを着とる若い御方」


呪術師が無表情のままで言い放つと、広場は一瞬にして凍りついたような静寂に包まれる。


「そんで、おたくはこの神聖な神域において、一体何をやらかしたんです?大方、神仏への敬意もへったくれもないような、罰当たりにも手順を全部端折ったお焚き上げもどきをここで勝手にしようとしたんでしょうが。言い訳は一切聞きませんさかい、これだけの騒動を起こした責任として、まずは御自身の口からすべて正直に言うてもらいましょか」


呪術師がその鋭い洞察力で淡々と状況を言い放つと、上空で放心していた狛犬は、感心したように首を縦に振った。

「……ほんまに、あんさんは何者じゃ。一度もワシらのやり取りを見とらんはずなのに、そこまで正確に状況を見抜いとるんかい。恐ろしいお人やな」


狛犬は呪術師の実力に深く感服すると、今度はその巨大な眼球を鋭くギラつかせ、石畳の上の男に向かってびしっと言い放つ。

「おいコラ、翔太!そこまで完全に見抜かれとるんや、もうこれ以上の見苦しい誤魔化しは一切効かんぞ!きさんの汚い口から、ここで一体何をやったのか全部正直に言わんかい!」


狛犬が翔太と呼ばれたスーツの青年を激しく怒鳴りつけると、その名前を呼ばれた青年はびくっと身体を大きく震えあがらせた。


呪術師はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、静かにその青年を見下ろす。

「なるほど、翔太さんと言わはるんですな。そんで、翔太さん。あなたはこの神社の境内で、一体何をしでかさはったんです?」


呪術師が静かに、しかし威厳を持って問いただすと、翔太は縋りついていた手を完全に離し、自身の言い訳が通用しないことを悟ると、観念したように冷たい石畳の上で恐る恐る正座の姿勢になって、深くうなだれる。


そのあまりにも劇的な展開の様子を、晴道は実力を見抜くことの出来なかった悔しさと驚きをにじませながら、才狐と綱江の二人と共に、未だに強い警戒を崩さぬまま、かたずをのんで静かに見守るのだった。


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###〜暴かれる無作法と、隠れ呪術師の冷徹なる洞察〜


冷たい石畳の上で、完全に言い訳の余地を無くしたスーツ姿の青年、翔太は、観念したようにぽつりぽつりと事の真相を話し始めた。

その怯えきった告白に対し、時折、本殿の前で真っ青になって身をすくめていた神職の中年男性と巫女の女性が、当時の恐怖を思い出すように言葉を補足しながら、この場所で起きた決定的な事実を次々と告げていく。


翔太が語るには、最近になって彼自身の都合による急な引っ越しをすることになり、長年実家の高い場所に置かれていた古びた神棚が、新居のインテリアにはどうしても邪魔になったという事がすべての発端だった。

最初は手っ取り早く、自治体の粗大ごみの日にでも出して処分しようとした翔太。

しかし、その罰当たりな計画を聞いた彼の両親から「そんな神聖なものをゴミと一緒に捨てるなんて滅相もない。こういうのって、ちゃんと神社へ持って行って、お焚き上げして貰わな神様のご利益が反転してまうのとちゃう?」と猛烈に反対されて引き止められたのだという。

そのため、両親の言葉をひどく面倒に感じた翔太は、仕方がなく実家の神棚を大きな紙袋の中に乱暴に詰め込み、それを小脇に抱えて、どこか手近でお焚き上げをしてくれる都合の良い神社はないかと、京都の街中を歩き回って探していた。


そもそも神事や信仰という目に見えない世界に対して完全に疎く、敬意の欠片も持ち合わせていなかった翔太は、お焚き上げという言葉の響きだけを聞いて、「要するに神社へ持って行けば、いらなくなった木切れのゴミを代わりにその場で燃やして処分して貰える、便利な無料の焼却処理場か何かなんだろう」と、自分勝手に都合よく解釈していた。

とにかく早く手荷物を処分したい一心で、境内で火を使っていそうな近場の神社を探してみたところ、錦通りの突き当たりにあるこの小さな神社を偶然見つけたという。


するとその時、境内では丁度、火を使うお焚き上げの儀式は火の粉が周囲に飛んで非常に危ないという理由から、神主と巫女が一般の参拝客や通行人が誤って巻き込まれないよう、入り口に看板を立てかけて、周囲に厳重な人避けの結界を施した上で、古いお札などを燃やすためのお焚き上げの儀式を厳かに行っている最中だった。

普通の人間であればその結界に阻まれて境内に入ることすら叶わなかったはずだが、翔太は長年祀られていた強力な依り代である神棚をその身に抱えていたため、霊的な波長が偶然にも結界の隙間と噛み合ってしまい、何も知らぬまま嬉々として神社の中へと不躾に入り込んで来てしまったのだ。


そして、神職と巫女の言葉によれば、丁度その日のすべてのお焚き上げの儀式が殆ど終わろうとしており、ドラム缶の中の炎を安全に鎮火させようとしていた、まさにその瞬間の出来事だった。

突然背後から現れた翔太は、制止する彼らの声に耳を貸そうともせず、「おい、後で金はきっちり祓うから、これもついでに一緒に燃やしてや、頼むわ!」と傲慢に言い放った。

神職と巫女が「お待ちください!突然そのような手順を踏まない持ち込みは困ります!」と大慌てで止める間も無く、翔太は抱えていた大きな紙袋から古びた神棚を引っ張り出すと、燃え盛るドラム缶の中に勢いよく無理やり頬り込んでしまったのだった。


そうしたら、神聖な儀式のルールを完全に無視された神棚が火に触れた瞬間、それまで静かに燃えていたドラム缶が生き物のように激しく揺れ動き、お焚き上げの炎が異常な形で一瞬にして鎮火してしまった。

そして、突如として発生した突風によってドラム缶が地面へと大きな音を立てて転がり、中から激しい黒煙と共に、表面が少し焦げてしまっただけの無惨な神棚が外へと勢いよく飛び出してきた。

それと同時に、その長年自分達の家族を護り続けてきてくれた神棚をゴミのように粗末に扱われたことに激怒した、神域の守護怪異である狛犬が凄まじい怒りの形相で上空へと飛び出してきて、この命がけの大騒動へと発展した、というのが事の全貌であった。


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すべての不届きな話を聞き終えると、黒いロングコートに身を包んだ呪術師は、かける言葉もないといった様子で、これ以上ないほど深い、重いため息を静かについた。

その後に、相変わらず表情を一切変えない鉄仮面のような無表情のまま、上空の狛犬を見上げて、ぽつりと静かに言葉を零す。

「なるほど、事の顛末は実によく分かりましたわ。つまり狛犬さんは、単にそこら辺を荒らし回っとる邪悪な怪異などではなく、翔太さんのご自宅の神棚に長年大切に祀られ、ずっと家やご家族のことを陰ながら護り続けて来られた、尊い御神体そのものと言う事ですな」


呪術師が淡々と事実を告げると、先ほどまで晴道達を全滅させようとしていた狛犬は、自らの存在の意義を正確に見抜かれたことに驚き、その恐ろしい一対の眼球を丸くした。


そして……。


「ほな、狛犬さん。先ほど僕が途中で邪魔をして無理やり止めてしもた、その不届き者への裁き続きを、どうぞそのまま存分にやりなはれ」

呪術師はコートのポケットに両手を突っ込んだままの姿勢を一切崩さないまま、その場にいる全員が我が耳を疑うような、とんでもない冷徹な一言をあっさりと口にした。


呪術師が信じられない言葉を言い放った瞬間、そこにいた誰もが、激しく腰を抜かしていた翔太はもちろんのこと、本殿の前の神職も巫女も、そして呪術師を正義の味方だと信じ切っていた晴道、才狐、綱江の若き術者3人も、さらには当事者であるはずの上空の狛犬さえも、あまりの予想外の展開に一斉に声を失った。

全員が並んで「「「「「「え?」」」」」」と、間抜けな声を張り上げて完全に呆気にとられて凍りつく。


周囲が驚愕のあまり完全に静まり返る中、呪術師は周囲の動揺などどこ吹く風で、どこまでも落ち着いたトーンのまま、理路整然と淡々と翔太に向かって言葉を続ける。


「おたく、根本的なところで大きな勘違いをしてはりますけど、神社やお寺で行うお焚き上げいう神聖な儀式はね、いらなくなった家庭の燃えるごみを焼却処理するためのボランティアやおへんのですわ。長年お世話になった神仏への感謝を捧げ、その御魂を礼儀正しく天へとお還しするための、極めて厳かな儀式なんです。まあ、若いあなたがそういう正しい宗教的な知識を何一つ持っていなかったこと自体は、今の世の風潮を考えれば仕方のないことかもしれません。しかし、そやったら、ゴミのように無理矢理、火の中に放り込む前に、こちらの神職さんや専門家に、お焚き上げの手順を相談するところから始めるべきですがな。それをすべて端折り、長年自分の家を黙って護ってきてくれはった尊い御神体を、新居に邪魔やからという身勝手な理由で粗末に扱い、燃えるゴミのように火の中に叩き込むとは、そりゃ怒らはるのも無理やおへん。ここは一度、神様からきっちりとした罰を与えてもろうといた方が、これからの長い人生におけるええ薬になりますやろ」


呪術師のあまりにも筋の通った冷酷な正論を突きつけられ、翔太は顔面を恐怖で涙まみれに歪ませながら、再び呪術師の黒いコートの裾にしがみつこうとして、必死の形相で声を荒らげた。

「ええ!?ちょっと待ってくれや!なんでそんな冷たいこと言うんや!あんたさっきの攻撃を平然と止めるほどの凄い専門家なんやろ!?目の前で一般人の僕が、この化け物に無惨に殺されそうになってんのに、た、助けてくれへんの!?」


翔太が必死になって涙ながらに縋りつくが、呪術師はその青年の情けない手を無表情のまま冷たく見下ろし、少しの動揺も見せずに言葉を返す。

「おたくにとって、今ここで僕が甘やかして形だけ助けることは、本当の意味での救いにはならんのですわ。今のおたくにとって一番の助けになるんは、長年お世話になった狛犬さんに、ここでしっかりと痛いお灸をすえてもろて、自らの無作法と不敬を芯から猛省して心を入れ替える事ですがな。因果応報、自業自得っちゅう言葉の意味を、その身体でよく学びなはれ」


呪術師が一切の温情を排除して淡々と言い放つと、上空で浮遊していた狛犬は、そのあまりにも筋の通った大人の裁定に深く感銘を受けたようで、その恐ろしい顔に深い納得の色を浮かべた。

そして、全身から立ち上る神聖な神気の炎を再び爆発させ、地響きのような咆哮を境内に響かせる。

「ガハハ!いやあ、ほんまにどこまでも理にかなった、筋の通ったことを言うてくれる呪術師さんやがな!よっしゃ、翔太にとって人生の大先輩からの正式なお許しが出たんなら話は早いわ!ほんなら翔太、こちらの親切な神職さんや巫女さん、それにそこにいる若い術者の連中をこれ以上絶対に巻き込まんように、そこから一歩も動かずに大人しくなおれや!」


狛犬はそう猛々しく言い放って、前足の鋭い爪で古めかしい御札を再び高く掲げ、お仕置きのための神聖なエネルギーを練り上げ始める。


「ちょ、ま、待ってくれや!悪かった、本当に僕が全部悪かったから、お願いだから許してくれぇ!」


翔太は目の前に迫る本物の神罰の恐怖に完全に正気を失い、石畳の上で腰を抜かしたまま、手足をバタつかせて必死に慌てふためく。

しかし、そんな若い青年の情けない慌てふためきの様子を前にしても呪術師は、ただ両手をポケットに突っ込んだままの姿勢を一切変えることなく、無表情で淡々と静かにその光景を見つめるだけであった。


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###〜不届き者への厳しい視線と、犬上神社の豪快なる宮司〜


呪術師の冷徹な一言によって、完全に救いの手を失ったスーツ姿の青年、翔太。

四方八方を完全に塞がれ、目の前では神気の炎を滾らせた狛犬が恐ろしい爪を研いでいる。


極限の恐怖に追いつめられた翔太は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、蜘蛛の糸を掴むような必死の形相で、傍らで見守っていた高校生達に向かって情けない声を張り上げた。

「あ、あそこを見てくれや!ほら、そこにまだ高校生くらいの子供らがじっと観てるやん!?いくら僕が悪いことをしたからって、そんな若い子供達の前で、怪異が人間にめちゃくちゃ怖いお仕置きを執行するところを見せるわけにはいかんやろ!?そんなの教育上、絶対に良くないって!トラウマになってまうわ!」

翔太が自身の保身のためだけに、必死になって子供達の教育というお門違いな言い訳を口にする。


しかし、その見え透いた言葉を聞いた才狐は、その端正な顔立ちをぴくりとも動かすことなく、いつもの無表情のままで淡々と冷ややかに言い放った。

「いえ、僕らは神社の者達ですから、トラウマ云々の心配には及びません。後、長年自分達の家族を黙って護り続けてきてくれた尊い御神体を、新居のインテリアに邪魔やからという身勝手な理由だけで、燃えるゴミと同列に扱って処分しようとしはったんです。その歪んだ在り方そのものを、ここで神様から厳しく正して貰うのは、むしろ当然のことやと思います」


才狐が一切の容赦なく突き放すと、隣に立つ綱江もまた、翔太の身勝手な振る舞いに対して軽蔑の色を隠そうともせず、冷たいジト目を青年に向けた。

「ウチも才狐君の言う通りやと思います。流石に今の話を聞いた後では、どんなに泣きつかれたってフォローのしようがありませんよ。私らは普段から神社で神職の仕事をさせてもらってまして、神様に仕える身として、翔太さんが今日ここでやらはった一連の行為が、どれほど非礼で恐ろしい罰当たりなことか、理解してますもん。しっかりとお灸をすえられて、反省しよし」


二人の同級生が厳しく断罪するのを見て、これまでずっと腕を組んで黙り込んでいた晴道も、大きくため息をついてから力強く頷いた。

「だな。さっきは怪異が暴れてるって聞いて、てっきり悪霊の類かと思って勘違いして飛び出しちまったけどよ。事の顛末を聞いちまった以上、流石にこれは100%翔太さんが悪いぜ。神様をゴミ扱いするなんて、許される話じゃねえからな。それと、狛犬さんよう。さっきは事情も何も知らねえで、お前のことを『くそ犬』なんて呼んで、いきなり御札なんか構えて攻撃しようとしちまって、本当に悪かったな。悪気はなかったんだ、許してくれ!」

晴道はそう言うと、先ほどまでの不遜な態度を一変させ、自らの非を素直に認めて、上空の狛犬に向かってぺこりと深く頭を下げて謝罪した。


その若い術者の真っ直ぐな誠実さを目の当たりにし、上空で神気を放っていた狛犬は、満足そうにその大きな口を開けて豪快に笑った。

「ガハハ!己の非を素直に認めるとは、なかなかに見どころがあってるのう。ほんで、ようわかっとるやんけ、若いの。よし、お前がワシに放ったさっきの無礼に関しては、今の潔い謝罪に免じて綺麗に水に流してやるわ。ほな、外野もこれで納得したことやし、翔太。言い訳の時間は終わりや、大人しくそこになおって覚悟せえや!」


狛犬が前足の御札を掲げ、お仕置きの神撃を放とうとした、まさにその時。

それまで静観していた呪術師が、コートのポケットに両手を突っ込んだままの姿勢で、ふらりと二人の間に割って入った。


「あ、ちょいと予定変更です。ちょっと待って貰えませんかな。丁度ええ人が、この神社のすぐ近くを通りかかって来てくれてはるみたいやさかい。まずはそのお方に今後の具体的な相談してみてから、この翔太さんを本格的に叱るんはどうでっしゃろ?」


呪術師が無表情のままで突然そんなとんでもない提案を口にすると、上空の狛犬は拍子抜けしたようにその動きをピタリと止める。

「え……?相談って、一体誰に何を聞くっちゅうんじゃ?」


狛犬が困惑の声を上げる中、呪術師はゆっくりと鳥居の方へと歩き出した。

「ほな、そういうことやさかい、ちょいとそこで待ったって下さい」


呪術師はそう言い残すと、神社の入り口である鳥居の前まで歩いていき、先ほど自らが貼り付けた人避けの新たな結界の札を、指先で鮮やかに剥ぎ取ってコートの懐にしまい込んだ。

そして、結界を解除して神社の敷地から外に出ていくと、ほんの数十秒もしないうちに、一人の男性を伴って再び境内の奥へと戻って来る。

連れてこられたその人物は、年齢はおよそ40歳くらいに見え、髪が短く綺麗に整えられており、格式の高そうな神職の服装に身を包んだ、大柄で体格の良い男性だった。


その新しく現れた神職の男性の姿を視界に捉えた途端、才狐は驚いたように声を上げる。

「あ、犬上さん、こんにちは」


才狐が親しげに声をかけると、連れてこられたその男性は、境内の異様な惨状と、上空に浮遊する怒れる狛犬の姿を見回して、豪快な笑い声を境内に響かせた。

「おうおう、なんや、のんびり歩いとったのに、いきなり物凄く強烈な犬の気配がツンと鼻を突いたかと思うたら、それがいきなり消えて、かと思えばまた気配が出たりって忙しかったから、様子見に来てみれば……ここで何をやっとるんよ?それに才狐もおるやんけ、こんにちは。元気に修行に励んどるみたいやけど、今は実践の稽古中け?その割には物騒な気配やけどな、ガハハ!」


男性が豪快に笑い飛ばすと、呪術師は一歩前に出て、その神職の男性に向かって静かに一礼する。

「玄蓮さん、突然境内へと連れてきてしまい、誠に申し訳ない事です。ほな、ここで何が起きたのか、僕から事情をすべて話しますわ」


呪術師はそう告げると、翔太が神棚をゴミ同然に扱ってドラム缶に放り込んだこと、そしてそれに激怒した狛犬がお仕置きをしようとしていることなど、これまでに起きたすべての出来事を理路整然と、細部に至るまで完璧に話して聞かせた。


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呪術師からの詳細な話を静かに聞き終えた神職の男性は、腕を組んでしばらくフムフムと頷いていたが、やがて一度天を仰いで大きく笑い声を上げた後、呪術師の方へと向き直った。

「なるほどなあ、大体の流れはよーく分かったわ。そんで、呪術師さんが表の結界を解かはった途端、俺の鼻に結構強めの犬の気配が届いたんかいな。しっかし、神棚を燃えるゴミ扱いは流石に感心せえへんどころの騒ぎやないけど……まあ、事情が事情やし、俺で良ければうちの神社で、古くなった神棚のお焚き上げの儀式を正式に引き受けるで。それから、新しい神棚の用意に、御神体を新しい神棚に移す儀式と、自宅での正しい安置方法に関しても、そこの青年にみっちりと一から教えときますさかい」


男性がそう言って優しく笑うと、恐怖に震えていた翔太の顔に、ようやく微かな希望の光が宿った。

そして、男性は若い術者達や上空の狛犬に向けて向き直る。


「ほな、改めて自己紹介をさせてもらうで。俺は犬上玄蓮(いぬがみげんれん)、ここから離れた場所に鎮座しとる、犬神神社の宮司をやらせてもろてます。今日は朝からちょっと他の神社の手伝いとして呼ばれて仕事をこなしてたんやけど、その帰り道に、まさかこんなおもろい現場に出くわすとはなあ、がはは!」


新しく現れた犬上神社の宮司・犬上玄蓮は、光が差し込む境内の中心で、周囲の緊迫感をすべて吹き飛ばすかのように、再びガハハと豪快に笑い声を響かせた。


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###〜犬神神社の豪快なる宮司と、若き術師が仰ぎ見る真の強者〜


こうして、新しく現れた犬上神社の宮司である犬上玄蓮の仲介によって、少し焦げてしまった御神体を一度彼の神社へと正式に預かり、改めて正しく安置するための新しい神棚造りと、それに伴う厳かな引っ越しの儀式を執筆することで、その場の話が綺麗にまとまることとなった。


玄蓮は腕を組みながらガハハと豪快に笑うと、冷たい石畳の上で未だにガタガタと震え続けている青年の顔を覗き込む。

「ほな、事の方向も決まったことやし。翔太さんと言うたな、そこに転がっとる大切な御神体を元の神棚に優しく丁寧に戻して、落とさんように自分の両手で大事に抱えて持って下さいや。そのまま犬上神社へ一緒に向かいまっせ」


玄蓮が大きな手で翔太の背中をポンと叩いて優しく促すと、上空で神気の炎を揺らめかせていた狛犬は、そのギョロリとした巨大な眼球を翔太へと向けた。

そして、威厳に満ちた低い声を境内に響かせる。


「翔太、こちらの底知れん凄腕の御人と、古くからワシら犬の怪異とも縁の深い犬上神社の宮司殿の慈悲深い言葉に免じて、今回はこれで大人しくして勘弁したる。だがな、今後は二度とワシや神仏のことをゴミのように粗末に扱うなや。次やったら本当に容赦せんさかいな」

狛犬はそう言って翔太を厳しく叱りつけると、その巨体を淡い光の粒子へと変え、地面に転がっていた小さな狛犬の形をした木製の御神体の中へと、静かに吸い込まれるようにして戻って行く。


最悪の神罰を免れた翔太は、涙目で何度も何度も頭を下げた。

「わ、わかった。本当に、本当にごめんなさい。これからは絶対に粗末に扱ったりしないから……ほんまに、すまんかった」

翔太は心からの謝罪を口にしながら、泥のついた御神体と少し焦げてしまった神棚を大きな紙袋の中へと今度は両手で丁寧に丁寧に入れ直し、まるで壊れ物を扱うかのようにして胸の前に大事に抱え込んだ。


その様子を無表情のまま見守っていた呪術師は、玄蓮に向かって胸の前で静かに両の手のひらを合わせた。

「玄蓮さん、突然のトラブルに巻き込んでしもたのに、こうして快く引き受けてくれはって本当に助かりました。有難う御座います」


「いやいや、呪術師さん、こちらこそ割のええ仕事を回してくれて本当に助かりますわ。お焚き上げと新しい神棚にかかる諸々の費用はね、こちらの翔太さんに後できっちりと全額請求させてもらいますし、何も気にする必要はおへんよ。ほな、翔太さんの用事がすべて綺麗に片付いたら一言連絡しまっさかい、またいつでもうちの神社に気軽に遊びに来て下さい」

玄蓮はそう言って、翔太をチラリと見ながら悪戯っぽく豪快に笑う。


そして、玄蓮はその大柄な身体を高校生達の方へと向け、白い歯を見せて微笑みかけた。

「君らも、なかなかええ経験ができたんとちゃうけ?」


玄蓮がそう言って優しく問いかけると、才狐と綱江の二人は並んで背筋を正し、深く頭を下げながら同時に美しく頷いた。

「「はい、本当に勉強になりました」」


二人が凛とした声で返事をする中、それまでずっと自分の無力さと、無力で雑魚だと思っていた呪術師の圧倒的な実力に打ちひしがれていた晴道は、指先に構えていた御札を完全に下ろし、その大きな身体を小さく丸めるようにして激しくうなだれていた。

その目には、かつてないほどの大きな衝撃と挫折の色が色濃く滲んでいる。


「……凄すぎた。なんだよあれ、意味が分かんねえよ……。この呪術師のおっさん、なんで体中から術の力を欠片も感じねえから一般人にしか見えねえのに、あんなすげえ怪異の全力の攻撃を片手で吸い尽くすような神業が出来るんだよ……。俺、物の怪神社で誰よりも修行してきたつもりだったけど、こんな本物の化け物みたいな人に比べたら、今の実力じゃ雑魚にもなんねえじゃねえか……」

晴道は、自らの内にあった傲慢なプライドを完璧に粉砕され、己の未熟さを痛感して完全にへこみきっている。


そんな若い少年の絶望的な様子を見て、玄蓮は親しみやすい笑顔を浮かべながら、晴道の太い肩をガシガシと力強く揺らした。

「ははは!晴道っちゅうたか。なんや、そんなこの世の終わりみたいな顔をしてへこむ事あらへんがな。何を勘違いしとるか知らんけど、この御方はな、術者の世界の中でも完全にぶっ飛んでて規格外なだけや。呪術師さんと自分を比べて落ち込むなんて、それこそお門違いもええところやで」

玄蓮がそう言って大笑いしながら励ます。


しかし、晴道はその言葉を聞いてもなお、首を横に激しく振って驚愕の念を言葉に変える。

「規格外なんてもんじゃねえよ!この人の実力は、俺んとこの阿倍野の一族が全員束になって一斉に襲いかかったって、絶対に敵わねえレベルだぜ……。京都の術者は、一体どうなってやがるんだ……」


晴道が戦慄しながら呪術師を見つめていると、ふと何かに気づいたように、自らを励ましてくれている大柄な玄蓮へと視線を向けた。

「……あ、あのさ。こんな背筋が凍るほど凄い呪術師のおっさんと、普通にタメ口で笑い合いながらダチの関係でいられるって事は、もしかしてあんたも、この呪術師さんと同じくらい、凄まじい実力を持った人なのか?あんたからも、術者特有の気配が殆ど感じられねえんだけどよ」


晴道が素直な疑問を口にすると、玄蓮はフッと優しく微笑み、自身の神職の衣服の袖を軽くはためかせてみせた。

「俺か?いやいや、滅相もない。俺はただの、どこにでもおるような、ごく普通の一般的な宮司やで。小さな神社を預かっとる、しがない神職の端くれや」


玄蓮がどこまでも謙虚にそう言って誤魔化そうとした、まさにその瞬間。

隣に佇んでいた呪術師が、ボソリと静かに突っ込みを入れる。

「いやいや、何をご謙遜されておられますのや。世間様には隠してはりますけど、一目置かれていらっしゃる超一流以上の凄腕の宮司さんですがな」


呪術師が淡々とその正体を暴露すると、玄蓮は参ったなと言わんばかりに頭をかき、大声を張り上げて笑い飛ばした。

「ちょっと呪術師さん、ハードル上げんといてくださいよ!やばいレベル通り越した実力を持った呪術師さんがいてはったら、俺の持っとる術なんて、それこそただの雑魚同然やんか!」


玄蓮が、ガハハと大笑いした、その時。

翔太が大切に抱えていた紙袋の奥、神棚へと戻ったはずの御神体の内部から、低く神聖な狛犬の声が再び境内に響き渡る。

『――ふん、何を言うておるんや、この御二人は。若い術者の坊主よ、騙されるな。その犬神遣いっちゅう宮司殿の実力は、ワシの全力をもってしても遠く及ばんほどや。はっきり言うて、ワシより遥かに強いぞ。決して侮ってはならん強者や』


紙袋からの予期せぬ怪異の太鼓判を耳にして、晴道は頭を激しく傾げた。

「犬神使い……?犬神を操る術者ってことか?」


晴道が不思議そうに首をかしげると、玄蓮は自身の正体が完全にバレてしまったことを悟り、諦めたように優しく微笑んだ。

「まあな、君らがそれぞれの生まれ育った神社や家に伝わる、独自の術なり破邪の技を持ってるのと同じように、俺の血筋にもそういう犬神にまつわるちょっとした技があるっちゅう、ただそれだけのこっちゃ」


「え、何それ、めちゃくちゃ凄そうじゃねえか!宮司さん、お願いだからその犬神の術ってやつ、俺に一瞬だけでもいいから観せてくれよ!」

晴道がこれまでのへこみ具合を一瞬で忘れ、少年らしい純粋な好奇心を爆発させて目を輝かせた。


すると、その晴道の不躾な要求を遮るようにして、才狐が一歩前に出て、淡々とした静かな声音で厳しく諭す。

「晴道君、それは駄目やと思うで。実は僕もね、初めて犬上さんにお会いした時に、知りたい気持ちを抑えきれへんくて、不躾にも『術について話しを聞かせて欲しい』って同じように言うてしもたことがあるんや。でもね、僕達の扱う術や技は、人に見せて楽しませるための見世物やないし、おいそれと理由もなく人前で見せるもんやないからね。流石に今ここで、単なる好奇心だけで見せて頂くわけにはいかないと思うよ」


才狐が術者としての正しい在り方を淡々と諭すと、晴道は自らの軽率な発言を恥じるようにして、頭の後ろをポリポリとかいた。

「あ、あー……そっか。才狐の言う通りだな。術ってのは命を懸けて怪異と戦うためのもんだもんな。軽いノリで観せてくれなんて言って、本当に悪かったよ」


晴道が素直に反省して引き下がると、その若い術者達の真摯な態度を見た玄蓮は、フフッと優しく目を細めた。

「まあまあ、そんなに堅苦しく考えんでもええよ。確かに才狐の言うことも正しいけどな、せっかく興味持ってくれたんや。未来を担う若い術者の勉強を兼ねて、その熱意に免じて、術のほんの端の方、指先の一部だけなら、お安い御用やで」


玄蓮はそう言うと、自身の右手を晴道達の目の前へとスッと静かに掲げてみせた。


すると、次の瞬間……。


玄蓮が掲げたその大きな右手から、言葉では言い表せないほど濃厚で強大な、黄金色に輝く犬のような猛々しい形をした圧倒的なオーラが、ゆらゆらと陽炎のように立ち上ったのである。

その一瞬だけ解放されたオーラからは、周囲の空間そのものを圧殺して押し潰してしまいそうなほどの、凄まじい破壊力と神聖な力が秘められていることが一目で分かり、正面でそれを見た晴道は、全身の血が凍りつくようなプレッシャーを感じて、ごくりと息を呑んで唾を深く強く締め込んだ。


若者達がその威圧感に圧倒されたのを見届けると、玄蓮はすぐにその凄まじいオーラを自身の身体の内側へと綺麗に引っ込めて、何事もなかったかのようにほほ笑む。

「――とまあ、俺の家系は、昔から犬にまつわる儀式や怪異とは滅法相性がええんよ。そういうわけやさかい、今回のお焚き上げの一件に関しては、俺が責任を持って最後までしっかりと預からせてもらうで。ほな、未来の世界を担う若い衆よ、これからもしっかり修行して、美味いもんをたくさん食べや!」


玄蓮はそう言って、再びガハハと豪快に笑うと、神棚の紙袋を大事そうに抱えた翔太の背中を押す。

去り際に玄蓮は呪術師から、狛犬が放った御札攻撃を納めた護符を受け取り、鳥居の向こうへと足早に立ち去って行った。


大先輩達の底知れない実力を立て続けに見せつけられ、境内が静まり返る。

そして、呪術師は何事も無かったかのように静かに振り返った。


「ほな、騒動も無事に解決いたしましたことですし、僕らもそろそろ行きましょか」


呪術師は無表情のままでそう淡々と告げると、この神社の神職と巫女の二人に向かって、丁寧な大人の挨拶を交わしてから、静かな足取りで神社を後にした。

その圧倒的な背中を見つめながら、才狐、綱江、晴道の3人の高校生術師達も、慌ててその後を付いて行くようにして鳥居へと向かう。


最初は呪術師のことを「霊力のないただの一般人のおっさん」だと完全に舐め腐っていた晴道は、その大きな身体を少しだけ縮めながら、歩き続ける呪術師の頼もしい黒い背中を、いつの間にか言葉にできないほどの深い敬意と尊敬の眼差して、じっと見つめ直しているのだった。


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###〜白き鳥が結ぶ師弟の絆と、異能を駆る者達のバスの旅路〜


大きな騒動が解決し、清々しい神聖な空気を取り戻した神社を後にした呪術師、才狐、綱江、晴道の4人は、多くの人々が行き交う賑やかなアーケード街を抜けていく。


漬物や焼き魚の香ばしい匂いが漂う活気あふれる通りを通り抜け、大通りへと差し掛かったところで、先頭を歩いていた呪術師が、ふと足を止めて振り返った。

「才狐さん、そういえば今日の朝に妖古さんから言われはった、本来の用事はすべて無事に済んだんでしたかな?」


呪術師がそのポケットに手を突っ込んだままの姿勢で尋ねると、才狐はいつもの淡々とした静かな声音で即座に応えた。

「あ、はい。妖古さんから僕達3人が仰せつかっていた事は、稲荷神社におられる気狐さんのところに、3人で朝のご挨拶に会いに行く事だけでしたから、それは今日の早朝に終わっています」


「ほな、ちょうどキリが良いですし、妖古さんに向けて、当初の用事がすべて無事に終わった事、それから手短でええさかい、朝に手の眼さんに偶然会えた事、それと先程の神社での一連の騒動の要約を、伝令符を使ってパパッと連絡してもらうわけにはいきませんかね」


呪術師が淡々とそう提案すると、才狐は小さく頷いた。

「はい、分かりました」


才狐はそう言うと、自身の衣服の懐から真っ白な伝令符の御札と、携帯用の小さな筆を手際よく取り出した。

座卓や壁がない路上であるにもかかわらず、左手の手のひらの上で御札を綺麗に安定させると、穂先に霊力を集中させてさらさらと独特の文字を御札の表面に素早く書き込んでいく。


すべての要約を瞬時に書き終えた才狐は、その御札を人差し指と中指の間に挟んで前方へと掲げ、静かに声を掛けた。

「――行け」


才狐が短く呟いて指先から御札を放つと、その真っ白な御札は空中へと舞い上がった瞬間に眩い光を放ち、まるで生きている本物の白い鳥のような美しい形へと姿を変える。

そして、爽やかな風をその翼で力強く捉えると、京都の青空を滑るようにして北西の方角へと瞬く間に飛んで行った。


「妖古さんのことですから、こちらから送った内容に対して返って来るであろう返事は、僕の頭の中で大体の想像はついとるつもりですわ。そやから、今のうちに最寄りのバス停のところまで歩いて行きまっせ」

呪術師は相変わらずその表情をぴくりとも動かさないままでそう告げると、再び大きな背中を揺らしながらゆっくりと歩き出す。


3人の高校生術師達もその背中に静かに付いて行くと、大通りを少し進んで目的のバス停へと丁重に到着した、まさにその瞬間。

キィ、と微かな霊的な鳴き声を響かせながら、先ほど才狐が放ったばかりのあの白い鳥の形をした伝令符が、早くも天空から速度を落として帰って来る。

鳥は才狐の差し出した右手の甲の上へと音もなく綺麗に着地すると、再び一枚の静かな御札の形へと戻った。


才狐はその御札の表面に新しく浮かび上がった妖古からの返事の文字をじっと見つめ、いつもの淡々とした声音で内容を告げる。

「妖古さんからのメッセージです。僕達全員で今からすぐに御狐神社へ来るように、との事です。それから、道中で買うお茶請けの手土産についてですけど、お昼ご飯を食べた後に羅生門さんと一緒に美味しい油揚げを食べたばかりやから、今回は一切不要やそうです」


才狐が妖古の伝言をありのままに告げると、呪術師は少しだけその切れ長の視線を動かした。

「おや、羅生門さんも御狐神社で御一緒でしたか。それは随分と賑やかなことですなあ。ほな、ちょうどタイミングが良いですし、ここから路線バスで御狐神社の最寄りのバス停まで一気に行きましょか」


呪術師がこれからの移動手段を話し合っているうちに、通りの向こう側から、ちょうど4人が乗る事になる行き先が表示された路線バスが、スピードを落としながらこちらに向かって観えて来る。

すると、バスを待ち受ける短い時間のなかで、呪術師は才狐の手の中にある御札を見つめながら、静かに言葉を重ねた。


「それにしても、才狐さんはこの短期間で伝令符を完全にマスターされましたな。先ほどのような長文の内容を、一瞬で書き上げる速記術の腕前も見事なもんですわ。これは普段からの日常の些細な連絡を、出来るだけ伝令符にする事で、誰よりも地道に多くの数稽古をこなしてはる何よりの証拠です。本当に感心なほど精進してはりますな」

呪術師は相変わらず鉄仮面のような無表情で淡々としていながらも、その言葉の響きにだけは、後輩の絶え間ない努力を心から讃えるような、どこか温かな声色を滲ませて才狐を褒めた。


偉大な大先輩から不意にその努力を認められた才狐。

「――有難う御座います」

才狐はいつもの通りの鉄面皮のような無表情でありながらも、その耳の裏をほんのりと赤く染め、その全身から醸し出される気配を、どこかとても嬉しそうな雰囲気に変化させていた。


そんな才狐の珍しい様子を傍らで見ていた綱江は、目を丸くした後に、自身も負けていられないとばかりに顔を輝かせる。

「あ、才狐君が珍しく分かりやすく喜んでる。よっし、私も負けてられへんわ!私もいつか呪術師さんが認めてくれるくらい、ちゃんと綺麗な伝令符を遠くまで飛ばせるように、これからもっと必死に精進すんで!」

綱江はそう言って、グッと両拳を胸の前で力強く握りしめて見せ、術者としてのモチベーションを激しく燃え上がらせる。


すると、先ほどの大立ち回りを特等席で見て以来、彼らの扱う術の世界に完全に魅了されてしまった晴道は、羨ましそうに才狐の袖を引っ張った。

「お、おい才狐!俺もさっきからその鳥になって飛んでいく御札のやつ、めちゃくちゃ使ってみたいと思ってたんだよ!お願いだから俺にもその伝令符のやり方を教えてくれ!投げ出したりしないで、ちゃんと真面目に練習するからさ!」


晴道が自身の大きな身体を少し丸めながら熱心にお願いすると、才狐はその真っ直ぐな瞳を見つめ返し、静かに頷いた。

「それじゃあ、これからの日常の中で少しでも機会を見つけて、綱江さんと晴道君も一緒に少しずつ練習して行こか。他人に術の基本を一から教えるっていうのは、僕自身にとっても術の基礎を見直す良い稽古になるから」


才狐が淡々と、しかし快く約束を交わしてくれたことで、晴道は「おう、約束だからな!」と嬉しそうに顔をほころばせた。


そうして彼らが未来の約束を交わしているところへ、大きなブレーキ音と共に路線バスがゆっくりと目の前にやって来て停車した。

プシューと音を立てて前後の扉が開くと、4人の異能を駆る者達は順番に並んで、ゆっくりとそのバスの車内へと乗り込んで行った。


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###〜畏怖が紡ぐ大人の背中と、少年が抱く尽きせぬ疑問〜


夕暮れの心地よい風が揺れる中、路線バスは街並みを滑るように進み、目的の停留所へと静かに到着すると。

呪術師、才狐、綱江、晴道の4人は、御狐神社の最寄りのバス停で揃って下車した後、夕闇が薄く降り立ち始めた静寂な御狐神社の鳥居の前までゆっくりと歩いてやって来る。

鳥居の前に並び立つと、神域への深い敬意を込めて全員で揃ってお辞儀をしてから、その厳かな一歩を踏み出して鳥居をくぐり抜けた。


参道を真っ直ぐに進み、朱色の柱が鮮やかな本殿へと近づいていくと、その本殿の正面に続く怪談に、すでに師匠である妖古がちょこんと腰を据えて座っていた。

そのすぐ傍らでは、巨体を誇る羅生門の鬼が、彼らの姿をいち早く視界に捉えて笑みを浮かべる。


「おう、おかえり!朝から随分と色々なところを回って、賑やかな近所付き合いをしてきたみたいやないか」

羅生門の鬼がそう言って、大きな右手を豪快に挙げて満面の笑顔で4人を温かく出迎えてくれた。


その迎えに対し、先頭を行く呪術師は黒いロングコートの裾を落ち着かせながら、右手を小さく挙げていつもの淡々とした声音で挨拶を返す。

「こんにちは。まあ、時間的にはもうそろそろ、こんばんはの時間ですがねえ」


呪術師に続いて、3人の高校生術師達もその場に綺麗に整列し、背筋を正して声を揃えた。

「「「ただいま戻りました」」」


3人が礼儀正しく挨拶をすると、座り込んでいた羅生門の鬼は、自身の太い腕を組んで今日の出来事をのんびりと語り始めた。

「いやあ、俺の方はといえばな、今日は午前中に娑婆の街中でちょっとした力仕事をしてがっつり稼いどったんよ。そんで、御狐神社へ来てから妖古殿と一緒に、ちょいと遅めの昼飯を食うてたんや。そしたらな、あの浄土宗の御住職が、ちょうどこの近所の方までお寺の法事の用事があって、俺らに油揚げの土産持って顔出してくれてな。ほんで、しばらくこの本殿の前で三人で集まって、色々と楽しく談笑をしてたっちゅうわけよ」


羅生門の鬼がガハハと笑いながらそう告げると、呪術師は静かに言葉を返す。

「なるほど、そういうことでしたか。ほな、僕らが道中で遭遇した出来事、神社で狛犬さんとの荒事があったことに関しては、すべて察知されてたんでしょうな」


呪術師が淡々とそう指摘すると、階段に腰掛けていた妖古は、その美しい瞳の奥に悪戯っぽい光を宿し、いつものようにコロコロと楽しそうに笑い声を響かせた。

「まあの。何やら物騒な神気の火の粉が小さく爆ぜとるんが、ここまでハッキリと届いておったからのう。ほんで御住職殿も、あの神社のあたりにちょうど犬神神社の宮司が偶然通りかかっとる事も気配で完璧に察しておられたでな。そやから、我らがわざわざしゃしゃり出るまでもなく、現場にいる信頼できるもんに全部任せる事にしたんじゃよ。結果として、呪術師殿が機転を利かせて犬神遣いの宮司を引っ張って、あんじょういったじゃろ?何一つ心配はしておらなんだわ、カカカ!」


妖古はそう言って、見事な解決ぶりを満足そうに声を弾ませた。

そして、妖古はその賢しげな視線を愛弟子である才狐の方へと向け、優しい微笑みを浮かべる。

「ほんで、呪術師殿。才狐がさっき放った、あの伝令符の出来栄えはどうじゃった?前に見た時よりも、随分と綺麗で上達しとったじゃろ?」


妖古がどこか自慢げに尋ねると、呪術師はポケットに手を突っ込んだままの姿勢で、才狐の努力の成果を思い返すように少しだけ視線を動かした。

その表情自体は相変わらず徹底して無表情のままであったが、その声の響きにだけは、才狐の確かな成長を心から喜んでいる温かな声色を滲ませて淡々と告げる。

「ええ、ほんまに完璧ですわ。術の安定感といい、長文を一瞬で書き上げる速記の腕前と言い、かなり上達してはります。中級レベルの術者達の中でも、頭一つ抜けてる方やと思いまっせ。本当に素晴らしき精進と、修練の成果ですな」


呪術師がその確かな実力を高く評価すると、隣で聞いていた羅生門の鬼は、自分のことのように嬉しそうにその巨体を揺らして豪快に笑った。

「ガハハ!聞いたか、良かったのう、才狐!呪術師殿から、直々にそんな最上級のお墨付きを頂けるなんて、滅多にない最高の名誉やんけ!」


大先輩達から一斉に絶賛の言葉を浴びせられた才狐は、その場に真っ直ぐに呪術師を見て、そして、

「はい」

と、才狐はいつもの通りの鉄面皮のような無表情でありながらも、その大きな瞳をわずかに潤ませ、その全身から醸し出されるオーラを、物凄く嬉しそうな雰囲気へと変化させて言葉を返した。


その愛弟子の様子を見て、妖古はさらに愉快そうに細い目を三日月のように曲げる。

「カカカ!見よ、あんなに無愛想な顔をしておるくせに、心の中では飛び上がるくらいに激しく喜んどるわ。本当に素直で愛いやつじゃのう」


妖古がそう言ってからかうように笑うと、その一連のやり取りを横でじっと見ていた晴道は、どうしても才狐の感情の変化が掴めず、不思議そうに自身の頭をポリポリとかきながら首をかしげる。

「え?なあ、才狐のやつ、これで本当に喜んでんのか?俺から見たら、いつも通りの無表情でぶっきらぼうな態度にしか見えねえんだけどよ。お前ら、よくそんな微々たる変化が分かるな」


晴道が素直な疑問を口にすると、隣にいた綱江は呆れたように肩をすくめ、晴道の無神経さを笑い飛ばした。

「あんたはほんまに細かい気配の変化に疎いねえ……。才狐君、今は物凄く喜んでるやん。でも、そりゃそうやんね。あの圧倒的な実力を持った呪術師さんに、自分の努力の成果を、正面からハッキリと認めてもろて褒められるんやもん。嬉しくないわけがないやん」


綱江が、さも当然のことのようにそう言って微笑むと、晴道は未だに納得がいかないといった様子で、腕を組んで考え込み始めた。

「いや、俺にはその『喜んでる』ってのがどうしても感覚的にピンとこねえんだけど……。なあ、才狐。そもそも、その呪術師さんに褒められると、なんでそんなに、世界が変わるくらいに嬉しいもんなんだよ?妖古さんだって、お前にとって凄い師匠だろ?」


晴道が真っ直ぐな疑問を才狐に尋ねると、その横から羅生門の鬼が、優しい大人の笑顔を浮かべて言葉を挟んだ。

「そりゃあ呪術師殿は、術者の世界においては、頂点に位置するって言うても過言やない、本物の偉大な大先輩やからなあ。認められることの重みが違うんや」


「そうじゃな。それにのう、晴道。才狐にとっては、呪術師殿と御住職の二人に褒められることほど、この娑婆において嬉しい事は他にあらへんのじゃよ。それはな、師匠であるこの我にどれほど絶賛されて褒められるよりも、遥かに嬉しいに決まっとる。なんせ二人は、才狐が人間の中で初めて出会うた、心の底から尊敬する大人やからのう」


妖古がその真実をコロコロと鈴を転がすように笑いながら明かすと、晴道は大きな衝撃を受け、ハッとして才狐の顔をまじまじと見つめた。

「……そうなのか、才狐?」


晴道が確認するように問いかけると、才狐はその真っ直ぐな視線から一度も目をそらすことなく、いつもの淡々とした、しかしどこか普段よりもしっかりとした芯のある声音で静かに言葉を紡いだ。

「うん。僕は、呪術師さんと御住職さんの背中を見た時に、いつか絶対に御二人のような大人になりたいと、心からそう思ったんよ。僕にとっては『なりたい大人の姿』のお手本なんや。僕は御二人に出会って初めて、人間の歴史の中で使われてきた『畏怖』という言葉の本当の意味を、自分の肌で理解することが出来た」


才狐の言葉はどこまでも淡々としていながらも、その言葉の端々からは、確かに普段の彼からは決して感じられないような、静かに燃え盛る興奮気味にも思える熱い情熱の熱を、晴道は確かにその肌でハッキリと感じ取っていた。

そんな才狐の尋常ではない熱量に圧倒されながらも、晴道は自らの作務衣の懐にある御札をそっと触り、昼間に目撃したあの常識外れの早業にして神業を脳裏に思い浮かべた。


「……なあ。あの御住職は全く術者の気配が無かったけど、めちゃくちゃ凄い仏様のご加護を持ってて、お寺の結界が半端ねえってのは、お茶会の時に聞いてよく分かったよ。だけどさ……この呪術師さんは、一体どれだけ凄え人なんだ?俺はさっきの境内の大立ち回りの時、目の前であの怪異の呪符の嵐を片手で吸い尽くすような神業を、この目でハッキリと見せられたはずなのに……未だに、この人から、術者の気配が全くしねえせいで、頭ん中が混乱しちまって、まだ何もピンとこねえんだよ。一体何がどうなってやがるんだ……?」


晴道は、未だに自らの目の前に佇んでいる、ポケットに手を突っ込んだままの呪術師と名乗る大人をどうしても正確に把握しきれていない事に、そして術者としての自分の全ての常識が通用しない現実に対して、これまでの人生で初めて感じる、底知れない不思議な何かに激しく胸を揺さぶられ続けていた。


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###〜解き明かされる『隠れ解呪師』の深淵と、絶対制御の恐ろしさ〜


夕暮れの茜色の光が静かに差し込む御狐神社の境内で、晴道の脳裏には先ほど錦通りの神社で目撃した常識外れの光景が、何度も激しく明滅していた。


どれほど優れた術者であっても、あるいは強大な怪異であっても、超常の術を発動する瞬間には、必ずその身から霊力や妖気といった固有のエネルギーが周囲の空間へと漏れ出すものである。

それが現世の理であり、物の怪神社で厳しく叩き込まれてきた絶対的な鉄則だった。

しかし、目の前に佇む呪術師という男からは、あの狛犬が放った無数の呪符の嵐を完全に無力化するという激しい戦闘の場においてすら、術者としての力等は、ただの一片も、気配の欠片も感じる事が出来なかったのだ。


そんな晴道の、術者としての根底を揺るがされるような困惑をすべて見透かしたように、本殿の階段に腰掛けた妖古が、その美しい視線を静かに彼へと向けた。

「晴道よ。ぬしは東京の由緒正しき神社で生まれ育ち、幼い頃からその身を、常人には観えぬ世界へと置いてきたようじゃが……『隠れ呪術師』、あるいは『解呪師(かいじゅし)』という言葉の意味と、その存在を、これまでの人生で耳にしたことくらいはあるかの?」


妖古が鈴を転がすような静かなトーンで問いかけると、そのあまりにも重みのある単語を耳にした晴道は、弾かれたようにその目を大きく見開いた。

「解呪師――っ!?いや、そりゃあ、言葉くらいは聞いたことあるけどよ……!」


解呪師。

それは、現世に存在するありとあらゆる呪術の術式、その緻密な構造や霊的なエネルギーの巡らせ方のすべてを知り尽くし、極め抜いた者にしか決して辿り着くことのできない領域。

呪術を極めた者の、さらにその先にある究極の到達点であり、ある種の最高の称号とも言える存在だった。


人を呪う、あるいは何かに呪術をかけるという行為は、それ自体が術者の命や精神を削るほどの大きな代償を必要とするために極めて厄介なものである。

しかし、他人が悪意や強大な霊力を込めて編み上げたその複雑な呪いの糸口を見つけ出し、現世の理を傷つけることなく安全に解きほぐす『解呪』という行為は、呪いや術をかけることの何倍も、時には何十倍も困難を極める。

ゆえに、世界に存在するあらゆる呪いを解くことができる解呪師という存在は、必然的に、自身が解呪できる強力な呪術を、全て完璧に使いこなすことができるという、圧倒的な実力の証明でもあった。


晴道自身、この世界に足を踏み入れてからおよそ十年の歳月が流れている中で、その伝説的な存在について、おとぎ話のような噂話としてわずかだが聞いた事だけはあった。

ただ、実家の神社の祖父母や両親、あるいは周囲を取り巻く高名な神職や先輩術者達からも、事あるごとに、こう諭されてきた。


『解呪師なんて存在はな、それこそ数十年、場合によっちゃ百年に一人現れるかどうかの伝説の領域だ。まあ、俺達の生きる現世の日常のなかで、滅多にかかわる事なんてない雲の上の存在だから、気にするだけ時間の無駄だよ』

そう言われていたため、これまでは大して気にも留めていなかった遠い世界の存在。


晴道が、その過去の記憶を必死に手繰り寄せながら呆然としていると、傍らで腕を組んでいた羅生門の鬼が、その大きな身体を揺らしながら豪快な笑い声を響かせた。

「がはは!その様子やと、言葉の重みだけはなんとなく分かっとるみたいやな。そんで、妖古殿が口にした、もう一つの『隠れ呪術師』という存在についてや。これは文字通り、表の歴史の舞台や現世の権力争いの中に一切その姿を現す事が無い、文字通りの日陰の呪術師の事やでな。彼らは歴史の影に隠れとるようにして、ひっそりと生きてるさかい、現世の歴史の教科書や術者の記録に、その名前は一切残っとらん。その存在を正確に把握してるとなると……それこそ、天の神々や御仏、地獄の閻魔大王や、あるいは女鬼ちゃんくらいのもんやろうな」


「え……?」

羅生門の鬼の口から次々と飛び出す、神仏や地獄の主といった途方もない規模の単語の数々に、晴道は最早、驚く事しか出来ない状態に陥っていた。


あまりのスケールの大きさに顎が外れそうになる中、妖古はさらにその細い目を怪しげに細めて、核心を突きつけるように言葉を重ねる。

「ほんで、や。晴道、ぬしは『ただのおっさん』やと舐め腐ってたらしいやないの。その様子じゃと、流石に今は舐めてはおらんようやけどな。で、晴道が実力を測りかねておる目の前の呪術師殿に至っては……正確に言うのなら、ただの呪術師などではなく『隠れ解呪師』と呼ぶのが最も相応しいやろうな」


妖古がその言葉を境内に静かに落とした瞬間、晴道は全身の血が引いていくような感覚を覚えながら、ただただオウム返しにその言葉を呟く。

「隠れ、解呪師……」


隠れ解呪師。

その言葉の響きは、隣で聞いていた才狐と綱江にとっても同じように大きな衝撃だった。

二人もまた、これまでの行動から、呪術師が自分達とは住む世界が違う雲の上の存在だとは薄々感じてはいたが、まさかそれほどまでの人であるとは夢にも思っておらず、初めて知ったその真実の重みに、ただただ目を見開いて驚きに震えている。


若者達が完全に言葉を失う中、当の呪術師は黒いロングコートのポケットに両手を突っ込んだまま、相変わらず表情を一切崩さない無表情のままで、どこまでも淡々と静かに言葉を返した。

「そんな大層な名前で呼ばんといてください。いつも言うてます通り、僕はただの、普段はIT関連、AI関連の仕事をしとるだけの、世間様から身を隠して暮らしとる平凡な隠れ呪術師ですわ。それ以上でも、それ以下でもおへん」


「がっはっは!呪術師殿、自分で自分のことを平凡やなんて、それはいくらなんでも無理があり過ぎるで!隠れ呪術師にして解呪師っちゅう時点で、既に非凡の塊、規格外中の規格外やがな!」

羅生門の鬼はそう言って、呪術師の謙遜を豪快に笑い飛ばした。

そして、その鋭い鬼の眼光を晴道の顔へと真っ直ぐに向け、その真意を教え込むように静かに語りかける。

「晴道、お前もさっきの現場で、その目でハッキリと見たんやろ?君の実力では逆立ちしたって太刀打ちできへんような、君より遥かに強い狛犬の全力の攻撃を、あっさりと無傷で制したところを」


「あ、ああ……。確かに、目の前で見たよ……」


晴道が喉を激しく鳴らしながら掠れた声で応えると、羅生門の鬼は深く頷いた。

「それだけの、天変地異をひっくり返すような神業を、呼吸と同じように平然と使えるのにもかかわらず、その身体からは一切そんな凄まじいオーラも霊力も外に出さへん。それこそが、自身の持つあまりにも強大すぎる力を、100%制御しきれてるっちゅう何よりの証拠なんや。出すことよりも、完全に消し去ることの方が何倍も、いや、呪術師殿レベルまで達してるとなると、億倍くらいは難しいんやからな」


羅生門の鬼が語る制御の真髄。


すると、妖古は本殿の階段からゆっくりと立ち上がり、晴道の未熟な術者としての在り方を哀れむように、しかし厳しく言い放つ。

「これが、どれだけ術者の世界において凄い事か。そして、それ程までの御仁の相手をする同業の術者や、人に害をなす怪異からすりゃあ、得体も底も知れない者を相手にしているようで、どれだけ恐ろしい事か……。血気盛んな晴道には、まだその本当の恐怖がこれっぽっちもわからんようじゃの」


妖古のその言葉は、晴道のこれまでの術者としてのプライドを真っ向から否定するものだった。


晴道は拳を固く握りしめ、混乱と焦燥感から、つい感情を爆発させるように声を荒らげる。

「ど、どういう事なんだよ!わけわかんねえよどいつもこいつも!そんなに圧倒的な力を持ってて、誰よりも強いってんなら、そんな風にもったいぶって気配を消したり隠したりしてねえで、最初からその凄まじいオーラを周囲にこれでもかってくらい見せつけりゃいいじゃねえか!そしたら、その強さを一瞬で周囲に思い知らせて、有象無象の怪異からも不届きな人間からも、誰からも喧嘩を売られる事が最初から出来ねえんだし、その方がよっぽど安全で合理的じゃねえか……!」


晴道は、世間一般の言葉として「能ある鷹は爪を隠す」という諺の意味くらいは知識として知ってはいた。

だが、それにしたって、目の前の呪術師と名乗る男による爪の隠し方は、あまりにも度が過ぎて常軌を逸しており、自分の理解の範疇を遥かに超えている。

その現実に、完全に術者としての知性と理解が追いつかずに、ただただ茜色の境内のなかで立ち尽くすしかなかった。



---


###〜ひっくり返された強者の哲学と、気配を断つ絶対制御の真髄〜


完全に、自分がこれまで東京の物の怪神社で十年間必死に学び、信じ込んできた術者としての在り方や、その根底にある哲学のすべてを木っ端微塵にひっくり返されてしまった晴道。

「強ければ強いほど、その力を周囲に誇示して抑止力にすればいい。そうすれば誰も喧嘩を売ってこないし、それが一番安全で合理的だ」という彼の真っ直ぐとも言える考え方は、京都の摩訶不思議な世界を生き抜いてきた本物の怪物達の前では、あまりにも浅はかで未熟な子供の理屈に過ぎない。


自分の存在の根幹を否定されたかのような衝撃に、晴道が茜色に染まる境内のなかで青い顔をして言葉を失っていると、隣にいた綱江が、彼の肩の震えをそっと労わるようにして優しい視線を向けた。

「……晴道君。私もね、ほんのちょっと前までは、今の晴道君と全く同じようなことを考えてたから、あんたが今どれほど頭を抱えて戸惑うてるか、その気持ちはちょっと分かる気がするよ」


「え……?」

晴道がハッとして驚き、信じられないといった様子で綱江の顔を見つめた。

いつも自分を「脳筋男」と呼んで叱りつけてくる綱江が、まさか自分と同じような戸惑いを経験していたとは思わなかったのだ。


そんな若者達の様子を静かに見つめていた呪術師は、静かに言葉を語り出した。

「晴道さん。僕が普段から、こうして術者としての霊気や気配を極限まで遮断して生きている理由はね、昼間言うた通り、とにかく余計なトラブルに巻き込まれんと、目立ちとう無いというのが、何よりも大きな理由なんですわ。ですがね、それ以外にも、僕らがこの世界を生き抜くためには、どうしても気配を消さなあかん実利的な理由が幾つかありましてな」


呪術師のその低く落ち着いた声音には、不思議と人の心を惹きつける圧倒的な説得力があった。

先ほど目の前で本物の神業を見せつけられたばかりの晴道は、先ほどまでの反発心が嘘のように消え去り、その言葉の一言一言を逃さぬよう、素直にその場に佇んで聞き入り始める。


晴道が自らの言葉に対して真摯に耳を傾ける様子を確認した呪術師は、さらに言葉を続ける。

「今の僕の状態は、自身の力を体内で完全に制御し、外部へ一切漏らさないという過酷な修練を何十年もひたすら積み重ねていったら、結果として普段から気配が完全に消えてしまう領域に辿り着いた、というのが、今の僕の状態になった別の理由ですわ。やろうと思うて、こうなったわけやおへん。自然と今の形になったっちゅうんが、僕のケースです。」


そこまで話すと、呪術師は晴道が意味を咀嚼出来る間を置くために一旦言葉を区切る。

そして、晴道の様子を確認しながら、また口を開く。


「それと、また別の理由ですが、誰かが他人にかけた複雑な呪いを解きほぐす際に、それこそ髪の毛一本よりも細い霊力の微妙な力加減なり、匙加減というものが必要になってくるんです。そのために、自らの放つ力を1ミリ単位で微調整出来るようにするためには、普段から力を完全に制御しきれるレベルまでになっとかへんと、本番で繊細な解呪なんて到底出来へんのです」


「な、なるほど……。出すことよりも、消すことの延長に、その精密なコントロールがあるってことか……」

晴道は呪術師の整然とした説明を聞き、喉を激しく鳴らしながら深く何度も納得したように頷く。

実家の神社の「ただ力任せに悪霊を吹き飛ばす」という大雑把な破邪の術とは、その前提となる精密さが文字通り次元が違う。


「それから、今から言う話が、一番大事な理由になるかもしれませんな。特に、これからの世界を背負うて立つことになる、晴道さん達若い術者にとってはね」


呪術師はそこで一度言葉を区切ると、その瞳の奥にだけは、若者達の未来を真剣に案じるような静かな光を宿した。


「完全に自らの気配を遮断できるようまでに力をコントロールできるようになると、対峙した相手に対して、自分との力関係を完全に錯覚させることが出来るんですわ。さっきの狛犬さんや、朝に挨拶した手の眼さんも、僕の気配を察知出来なかったり、僕のをただの一般人やと見くびって油断してはりましたやろ?また、自分が術者であるという事実を相手に絶対に悟られんようにしておけば、悪辣な呪術を使う邪悪な術者に警戒される事無く、その解呪の現場に一般人を装って平然と潜り込んで、相手に気づかれんうちに解呪を終わらせることが出来るんです。もしもオーラを全開にして『俺はこんなに強いんだぞ』と四方八方にアピールしながら向かって行ったら、自ら居場所を丁寧に教えて、どうぞ警戒して逃げてくださいと言うてるようなものですやろ。術者の世界において、無駄に手の内を明かすことほど、愚かで危険な行為はあらへんのです」


呪術師がどこまでも淡々と、しかし術者の真髄とも言える冷徹な戦術を語ると、傍らで聞いていた羅生門の鬼は、自身の太い腕を組んだまま、晴道の顔を見てニヤニヤと豪快に笑った。

「その『相手との力関係の致命的な見誤り』についてやったら、晴道、お前さんはついこないだ、京都にやって来たばかりの頃に、その生身の身体で散々痛い眼に遭うたばかりやろ?」


「あ……」

羅生門の鬼から意地の悪い突っ込みを入れられた瞬間、晴道はハッとして、自分の顔が一気に真っ赤に染まっていくのを感じた。

京都に到着して日が浅いうちに、鬼女紅葉の圧倒的な実力と気配に全く気づけず、ただの綺麗な女性の怪異だと侮って調子に乗って喧嘩を吹っ掛けてしまい、その結果として、あっさりと無惨に返り討ちに遭って地面に転がされた時の屈辱的な記憶が、脳裏に生々しく蘇ってくる。


晴道が恥ずかしさのあまり言葉を詰まらせていると、羅生門の鬼はさらにその巨体を揺らしながら、自分達怪異の側の事情についても語って聞かせた。

「俺ら鬼の連中の場合もな、普段から娑婆の街中で暮らすにあたっては、その凄まじい妖気を完全に消し去る修行を完了しとるんや。それはな、ただ単に娑婆に生きる普通の人間を無駄に怖がらせんようにって配慮の面もあるし、それに加えて、血気盛んな術者達から街を歩くたびにやたらと敵意の視線で睨まれんようにっちゅう、面倒事を避けるための自衛の意味もあってな。まあ、お前があいつらを見つけた時は、朱雀門も紅葉も、神社の鳥居の上に堂々と二人で並んで座っとったらしいから、ああいう目立つ所におったら、そりゃあお前みたいな術者から怪しい奴やと疑われて、喧嘩を売られてもしゃあないとは思うけどのう、ガハハ!」


羅生門の鬼が過去のやらかしを思い出して豪快に大笑いすると、晴道はただただ頭をかくしかなかった。


そして。


彼らのやり取りを微笑ましく見つめていた妖古は、本殿の階段の上で静かに背筋を伸ばし、晴道に向けて慈悲深くも確固たる先達としての言葉をそっと投げかけた。

「晴道よ。今までのぬしが教わって来たように、ただパワーを全開にして周囲を威圧しておくことだけが、術者の正しい在り方やと思うとると、この底の知れぬ京都の闇においては、命がいくつあっても足りんほどのえらい目に遭うでな。今後はぬしも、己の持てる力や術者としての気配を他人に察知されんよう、体外に余計な霊力を一片も漏らさんようにする、制御の修行も真剣に始めることじゃの」

妖古が優しく微笑みながら、これからの道標を諭すように語りかける。


すると、呪術師もまた、若者達の輝かしい未来を心から応援するような、落ち着いた静かで優しい声色を滲ませて晴道に語り掛けた。

「ええ、妖古さんの仰る通りです。その『力を外部に漏らさず気配を完全に消し去る』という技をしっかりと身につけはったら、自然と自分自身の持てる術を完璧に制御したり、どんな局面でも思い通りに使いこなす真の実力が勝手に身に付いていきますさかい。僕も陰ながら、御三方のこれからの成長を応援してまっせ」


大先輩からの温かい激励の言葉を受け、晴道は心の奥底がじわりと熱くなるのを感じた。


すると、それまで黙って聞いていた才狐が一歩前に出て、晴道の顔を真っ直ぐに見つめた。

「晴道君と初めて会ったあの瞬間に、僕は一瞬で『あ、こいつ術者や』って気配を簡単に悟られてたレベルなんやから、呪術師さんや御住職さんの領域に比べたら、僕はまだまだ未熟者の極みなんや。そやから、これから一緒に鍛錬をして行こ」


才狐が不器用ながらも、友としての最大の寄り添いの言葉を淡々と告げると、その隣で綱江もまた、まるですべての不安を吹き飛ばすような、ひまわりのように眩しい笑顔を晴道へと向ける。

「そうやで、晴道君。私だって、まだまだ力の微調整なんて全然出来へん未熟者なんやからね。これからは未熟者同士、お互いに切磋琢磨して、もっともっと上の領域を目指して一緒に精進しよな。」


綱江が胸の前で小さく拳を作って微笑みかけると、晴道は自らの胸の内にあった頑ななこだわりやプライドが、完全に心地よく溶けて消えていくのを感じていた。


晴道は頭を少しだけ乱暴にかきむしり、自らの未熟さを全面的に認めるようにして、フッと爽やかな微笑みをその顔に浮かべた。

「……そうだな。才狐、綱江。今の俺にはそれしかねえよな。本当の強さってのを知っちまった以上、一から修行し直しだ!」


晴道が前を向いて力強く宣言すると、本殿の階段の前で彼らの姿を見守っていた妖古と羅生門の鬼の二人は、若い術者達がまた一つ、大きな壁を乗り越えて絆を深めたその様子を、これ以上ないほど目を細めて微笑ましそうに静かに見つめていた。

そして、その光景を静観していた呪術師は、その瞳の奥に若者達の間に新しく結ばれた尊い絆を心から祝福するような、どこまでも感慨深い大人の眼差しをそっと投げかけている。


「本当に、何とも善き縁で結ばれてはりますな。これからの彼らの未来が、実に楽しみなことです」

呪術師はぽつりと呟き、静かに夕暮れの冷たいを静かに感じるのだった。


---


###〜不遜なる少年の電撃土下座と、日陰の解呪師へ注がれる羨望の眼差し〜


互いの未熟さを認め合い、これからの過酷な修行へ向けて、より一層その絆を深く、固く深め合った3人の若き術者達。

夕暮れの境内が爽やかで前向きな空気に包まれた、まさにその次の瞬間。


それまで神妙な顔をして腕を組んでいた晴道が、何か重大な決意を固めたように、突然凄まじい勢いで呪術師の方へと真っ直ぐに向き直った。

そして、誰もが予測していなかった驚くべき行動に出る。

晴道は作務衣の膝が汚れるのも全く気にする事なく、境内の砂利の上に勢いよく両膝を叩きつけると、そのまま滑り込むようにして、地面に額を激しく擦りつける見事な土下座を敢行した。


そのあまりにも突飛で劇的な様子を間近で見た才狐は、その大きな瞳をぱちくりとさせながら、「?」という文字が頭の上に浮かびそうなほど、完全に不思議な生き物でも観るかのような冷ややかな眼になり、その場に棒立ちになる。

一方で隣にいた綱江は、あまりの急展開と晴道の極端な行動の激しさに度肝を抜かれ、口をあんぐりと開けて激しく驚くばかりであった。


晴道は砂利に額をこすりつけた体勢のまま、境内の静寂を切り裂くような大声を張り上げて頭を下げる。

「呪術師さん!今日、出会ってからずっと、知った風な口を叩いたり、おっさん呼ばわりしたり、今までの非礼と無礼の数々、本当に申し訳ありませんでした――っ!この通り、心の底から深くお詫びします!」


晴道が全力で電撃土下座をしながら猛烈に謝罪すると、その見事な頭の下がり具合を特等席で見ていた羅生門の鬼は、太ももをバンバンと叩きながら、腹の底から愉快そうに声を張り上げる。

「がっはっはっは!おいおい晴道、お前さんは紅葉の時といい今回といい、相変わらず清々しいほどに思い切りのええ、素晴らしい土下座を披露してくれるのう!観ていて実に気持ちがええわい!」


羅生門の鬼が豪快に大笑いする中、晴道は土下座の姿勢を一切崩すことなく、むしろさらに必死さをその声に滲ませて、地面に伏せたまま大先輩に向かって熱烈に懇願し始めた。

「それから……それから、もう一つ、俺の一生のお願いを聞いてください!呪術師さん、どうか、どうかこの俺を、正式な弟子にしてください!お願いします!」


「……なんともまあ」

晴道のあまりにも直球で必死な弟子入りの志願を耳にして、呪術師は両手を突っ込んだまま、少しだけその視線を地面の晴道へと落とした。


そして。


「せっかくの熱意ある弟子入りの志願ですが、その申し出はお断りします。僕は昔から弟子を取るようなことは一切せえへん性分です。それに、晴道さんにはご立派なご実家で術の基礎を叩き込んでくれはった偉大なる御師匠さんが、すでにちゃんといてはりますやろ」

どこまでも淡々とした、一切の揺らぎのない落ち着いた聲音で、あっさりとその願いを拒否する呪術師。


「そこを何とか、京都にいる間の臨時の師匠ってことで、どうかお願いします!自分の実家の術がおろそかにならない範囲で構いませんから!俺、さっきあなたが目の前で見せてくれた、あの怪異の放った無数の攻撃を一瞬で吸い尽くして収納しちまう、あの凄すぎる御札の神技を、どうしても自分の手で習得したいっす!だからお願いします!」

晴道は砂利に額を擦りつけたまま、必死になって何度も何度も頭を下げ続け、なんとかその門を開けようと食い下がる。


その若い術者の猛烈なアプローチの様子を眺めていた妖古は瞳を細め、自らの細い指先を頬に当てながらコロコロと楽しそうに笑い声を響かせた。

「カカカ!呪術師殿は才狐からも『符術の極意を教えてほしい』と熱烈に教えを請われておるからのう♪いやはや、一人前の立派な術者を目指して日々奮闘しとる若人達から大人気じゃて♪」


妖古が鈴を転がすようにコロコロと笑いながらからかうと、その横で聞いていた綱江は、呪術師の横顔を深く尊敬の念がこもった眼差しで見つめながら、力強く言葉を重ねた。

「それはもう、当然のことですよ。だって、今日一日であれだけの圧倒的な神業を目の前で見ることが出来て、その上でブレる事が無い確固たる大人の哲学をしっかり持ってはるんですもん。ほんまに、どこをどう切り取ったって格好良いし、強いし、賢いし……。私ら若い修行者からしたら、まさにこれ以上ない『憧れの理想の大人の姿』そのものです。完全に私みたいな見習い術師のお手本なんですから!」


綱江が頬を少しだけ赤くしながら熱弁を振るうと、それまで静かに聞いていた才狐もまた、瞳の奥に静かな情熱の炎を宿して、呪術師を見つめながら口を開く。

「うん、僕も綱江さんの言う通りやと思うよ。もちろん、僕の本来の師匠である妖古さんの元での修行を、これからも一瞬たりともおろそかにするつもりなんて毛頭ないけど、それでも僕かて、呪術師さんの美しすぎる符術の真髄を、いつか直々に習いたいという強い思いは、出会ったあの時からずっと、僕の中に変わらずにあるんや」

才狐が不器用ながらも、その秘めたる熱い本音を告げる。


若者達から一斉に最大級の羨望の眼差しを向けられた呪術師は、静かに言葉を零した。

「やれやれ、僕のような時代の影に隠れて生きとる日陰もんに、そこまで真っ直ぐに憧れてくれはるという事自体は、悪い気はしませんがねえ……。ですがね、僕は何もそこまで若い衆から目標にされるような、立派な者やおへん」

呪術師はどこまでも謙虚にそう言って大人の対応を崩さない。


それでもまだ諦めきれない晴道は、土下座の姿勢から少しだけ顔を上げ、すがるような目をして再び頭を下げた。

「そこをなんとか!弟子入り、本当に駄目っすか!?俺、こう見えて腕っぷしと体力にはめちゃくちゃ自信がありますから、身の回りの力仕事や雑用なら、それこそ何でも喜んで進んでやりますよ!だから!」


「何度言われても、弟子にはしません。まずは、よその技に目を奪われて浮気せんと、御自身の血筋と家系に伝わる術を、何一つ漏らさず完璧にマスターする事ですな。それが出来てへんうちに別の術に手を出したって、器が破裂して中身が全部こぼれてしまうだけです」

呪術師はそう言って、どこまでも淡々と、しかしこれ以上は絶対に引き下がらないという一線を引いて、晴道の願いを綺麗に拒否する。


そこまで完璧に筋の通った理由で断られてしまっては、さすがの晴道もこれ以上は食い下がることができず、がっくりと肩を落として砂利の上に座り込んだ。

晴道は頭を抱えながら、この世の終わりのような情けない声で落胆を口にする。

「うう……。京都に来てからの俺の人生、一体どうなってやがるんだよ……。女鬼ちゃんといい、この底知れねえ強さを持った呪術師さんといい、俺が本気で惚れ込んだ相手って、全く俺の方を振り向いてくれねえじゃねえか……。切なすぎるぜ……」


晴道が少女漫画の失恋主人公のように激しく落胆していると、そのあまりにも情けない様子を見ていた綱江は、呆れ半分、優しさ半分の苦笑いをその顔に浮かべ、座卓を片付けるような自然な調子で晴道の背中をパシッと軽く叩いた。

「ちょっと晴道君、そんなところでいつまでもメソメソと情けない声を上げて落ち込みなや。女鬼さんの事に関しては、こないだ『いつか絶対に振り向いてもらえるように、まずは自分自身を最高に格好ええ一流の男に磨き上げるんだ』って、自分の口で熱く宣言してたやんか。そやったら、呪術師さんのことだって全く同じやろ?いつか偉大な大先輩が、『符術の極意を教えてもええな』って、心の底から思ってもらえるくらいの立派な術者を、これから死に物狂いで目指せばええ話やんか」


綱江が少しだけ呆れたような苦笑いを浮かべながらも、的確に晴道のモチベーションを刺激する言葉を投げかけると、その言葉は晴道の脳へと見事に突き刺さった。

「――っ!おう、そうだよな!」


晴道は綱江の言葉によって一瞬で目の前の霧が晴れたように、その切れ長の目を再びギラギラとした野性的な光で輝かせた。

先ほどまでのメソメソとした落胆の表情を完全に吹き飛ばすと、「よし!」と気合を入れるようにして、自身の大きな身体を弾ませるようにして力強くその場に立ち上がった。

そして拳を握りしめ、呪術師に向かって堂々と宣言する。


「よし決めたぞ!呪術師さん、今はまだ、逆立ちしたって俺を弟子にする気がないってんなら、こっちにだって考えがあるっす!いつか、この阿倍野晴道の実力を認めて、自分の術を弟子にしてでも教えたいって思って貰えるくらい、これから才狐や綱江と一緒に死に物狂いで精進を重ねて、めちゃくちゃ強くなってみせるから!覚悟して待ってて下さいよ!」


晴道が前を向いて力強く未来の目標を宣言すると、それに対して呪術師は、その端正な顔立ちを鉄仮面のように無表情に保ったままであったが、その声の響きにだけは、若者のその真っ直ぐな成長の意思を優しく受け止めるような響きを滲ませて、静かに言葉を返した。

「何度言われましても、僕は誰も弟子にはしませんがねえ。ですが、そうやって未来を見据えて、日々の修行に必死に精進する事自体は、晴道さんの人生にとっても、大変宜しゅうおす。大いに励みなはれ」


呪術師がどこまでもマイペースに、しかし温かく突き放しながら応援と、本殿の階段の横で二人のやり取りをずっと楽しそうに眺めていた羅生門の鬼が、待ってましたとばかりにその太い腕を突き上げて、地響きのような豪快な笑い声を境内に響かせた。

「ガッハッハ!よう言うた!その熱い意気込みを絶対に忘れんと、過酷な修行にもしっかりと励めよ、これからの未来を担う若い衆よ!俺も陰ながら、君らの背中を応援しとるからな!」


羅生門の鬼はそう言って、自慢の牙を覗かせながら満面の笑顔を浮かべ、若き術者達の輝かしい一歩をどこまでも豪快に、そして力強く応援するのだった。


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