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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第37話前編:若き術者と偉大なる先輩術者達のほっこり飯

###〜華金の早朝に振り返るこれまでの歩みと、新天地での一歩〜


京都の高等学校に通う17歳の阿倍野晴道は、実家の「物の怪神社」から単身、この歴史ある京都の地へ武者修行の名目でやって来た高校2年生の少年。


彼の生まれ育った阿倍野家は、代々『祓術師』として怪異達と命懸けで闘い続けてきた経歴がある、武闘派の一族であった。

晴道自身も、幼い頃からその血脈に流れる強大な霊力を色濃く継承しており、実際に本物の術者である祖父母と両親が、凶悪(と当時は思っていた)な怪異を鮮やかに追い払う現場を7歳の時に目の前で目撃してから、自らも立派な術者として生きるこの道に進むことを強く心に決めた。


その決定的な目撃の瞬間から、晴道は小学生ながらに実家の神社で神職の手伝いを率先してするようになり、周囲の大人達を驚かせた。

さらに中学生になると、一族に伝わる破邪の術式や霊力のコントロールといった本格的な修業を開始し、同時に己の肉体を極限まで鍛え上げるために実戦的な空手を本格的に始め、瞬く間に同年代では敵なしと言えるほどのかなりの腕前へと成長していった。

阿倍野家の、そして物の怪神社の由緒正しき跡取り息子として、親族や周囲の術者達からも将来を非常に期待されており、高校生になってからは実戦を任せられるほどにそれなりの確かな実力も付いて来たと、現当主である厳格な父親もようやく内心で認め始めていたほどであった。


ただ、晴道には術者としての非凡な才能がある一方で、若さゆえの血気盛んさが災いして、少々乱暴者な部分が目立ってしまうところもあった。

最近では、その危うい気性を見て心配する両親が何かと口うるさくなってきて、祖父母からも、その傲慢な態度に対して重い苦言を呈する事が増えていき、少々煩わしさも感じ始めるようになっていた。

晴道にとって今回の京都への武者修行は、一人の術者として成長するための本気のものであったし、自らの将来についても至極真面目に考えていたのは間違いなかった。

一方で、その真摯な目的の裏側には、東京の実家で四六時中受けていた親元からの厳しい監視の目から離れて、誰も自分を知らない新天地で自由を謳歌するという、高校生らしい年相応の楽しみの側面もあった。


そんな大きな期待と自由への解放感を胸に、京都の地で並み居る怪異達を次々と倒して実家の父親にその輝かしい手柄を報告してやろうと企んでいた矢先、事態は最悪の形で一変する。


京都に来てから1週間程が経過したある夜、晴道は長野の戸隠から京都へ鬼仲間に会いに来ていた伝説の大妖怪にして伝説の鬼である、鬼女紅葉に対して不遜にも喧嘩を売り、圧倒的な力量差の前になす術もなく、あっさりと返り討ちにされてしまったのである。

己の圧倒的な無力さに打ちのめされ、プライドを粉々に砕かれた晴道は、そこから同じ学校に通う術者の仲間である狐宮才狐と、渡辺綱江の二人に連れられる形で、不思議な料理店である「摩訶不思議食堂」へと初めて足を運ぶことになった。

そこで、店の主である地蔵店長や看板娘のえらいこっちゃ嬢、常連の女鬼から、自らの内に潜んでいた浅ましき傲慢さや未熟な慢心をすべて正確に言い当てられて、厳しくも優しく諭され、晴道は自らのこれまでの生き方を心の底から改心して今に至るのだった。


そんな激動の経験を経て一回り人間として大きく成長した晴道は、新しく始まった瑞々しい日々のなか、華金の早朝にいつも通りパチリと目を覚ます。

まだ街が静まり返る早朝の空気の中、彼は自分の内面と肉体を厳しく律するように、京都の街並みを全速力で駆け抜けるいつものロードワークをしっかりとこなした。


マンションに戻ってから温かいシャワーを浴びて心身の汗を綺麗に流し、これからの力仕事のアルバイトや学校生活に備えて軽く朝食をとってエネルギーを充填する。

東京から京都へ単身移り住み、現在の京都での生活拠点として暮らしている、学校近く居心地の良い格安家賃のマンションの玄関を出ると、晴道は通学鞄を肩に掛け、爽やかな朝日が降り注ぐ京都の道を学校へ向かって元気に歩き出した。


---


###〜華金のダブルデート宣言と、和気藹々と歩む3人の若き術者達〜


週末を目前に控えた金曜日の放課後、校内にはどこか浮ついた開放的な雰囲気が心地よく漂っていた。

この日は午前で授業が終わるということもあって、教室のあちこちからは「今日はこのまま四条行こう!」「なあ、二条まで映画見に行かへん?」等々、年頃の高校生らしい賑やかで楽しげな話し声に花が咲いていた。

そんな周囲の喧騒をよそに、晴道は特にこの後の予定が無いので、手元のスマートフォンでバイトアプリを立ち上げて今日の分のバイトでも新しく入れようかと思案していた。


すると、そんな晴道の席の周りに「なあなあ、晴道君はこの後暇?」と、クラスの女子達が嬉しそうに声を弾ませながら一斉に群がって来る。

それを見た周囲の男子達が「くそ、相変わらず羨ましいやんけ」と、拳を握りしめながら恨めしそうにその光景を眺める。

男子達の嫉妬の視線を浴びた晴道は「悪いな、男共よ、俺が長身イケメンに生まれちまったばっかりに」と、自慢げに胸を張ってガハハと豪快に笑い飛ばすと、言われた男子達も「自分で言ってるし」とツッコミを入れながらお互いに笑い合う。

京都の学校に転校して来てからまだ日は浅かったが、その気さくな性格もあって、晴道はすっかりクラスの中に打ち解けていた。


「この後は特に予定はねえんだけどさ、できればバイトしておきたいんだよな。これから京都の街で色々と遊び回るにしても、それなりに軍資金はいるだろ?」

晴道は群がる女子達に向かって現実的な理由を語って、お誘いをやんわりと断る。


その晴道の実直な言葉を聞いて、女子達は「それはそうやけどさあ、折角の華金やのにー」と、残念そうに口々にブーブーと言い始め、不満の声を上げる。

そんなやり取りをしていると、教室の前の廊下に見知った二人組の姿が横切るのが見えたので、晴道は自分の鞄を素早く肩にかけて席を立った。


「そういう事で、また今度な!」

晴道は群がる女の子達に向かってそう言い残すと、廊下を歩いていく二人組の後を足早に追った。


---


晴道は前方を歩く2人組の背中に向かって、親しみを込めて声を張り上げた。

「才狐、綱江、御疲れ!お前ら、このまま真っ直ぐ家に帰るのか?それとも、これから二人で華金デートかよ?」


晴道がニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべながらからかうと、才狐は「御疲れ様、晴道君」と、相変わらず一ミリも表情を変えない完全な無表情のまま挨拶を返す。

一方の綱江は、晴道の突拍子もない冷やかしに対して「はいお疲れ様。ほんで、晴道君も妖古さん達と同じような事言うてるし」と、呆れたようなジト目を向けた。


予想外の人物の名前が出てきて、晴道は「妖古さんとおんなじことってなんだ?」と、不思議そうに首をかしげると。

綱江はため息を交えながら、綺麗な黒髪を軽く揺らした。


「どういうわけか、妖古さんをはじめとする怪異サイドの皆さんって、やたらと私と才狐君をデートさせたがるんよね。まあ、そりゃあ、私の本心を言うと……」

綱江はそこまで言うと、少しだけ自身の頬を林檎のように可愛らしく染めながら、隣を歩く才狐の横顔をちらりと盗み見るように視線を向ける。


その二人の甘酸っぱい空気感を察した晴道は、背中をバンと叩くような勢いで豪快に笑った。

「だったら、今からでも本当に二人でデートすりゃいいじゃねえか。そんでもって、いつか俺達でダブルデートしようぜ!」


突然の大きな提案に、綱江は目を丸くして不思議そうに首をかしげる。

「なんなんよ、ダブルデートって?」


晴道は待ってましたとばかりに、ニカッと自信満々の笑みを浮かべて自慢げに言い放った。

「決まってるだろ!俺と女鬼ちゃん、そんでお前ら二人の4人で一緒に遊びに行くんだよ!」


晴道の相変わらずの妄想混じりの発言を聞いて、綱江は即座に冷ややかなジト目に戻ってツッコミを入れた。

「そやから、何度も言うてる通り、女鬼さんはまだ晴道君の彼女ちゃうやろ。そんな勝手なこと言うてると、今度会った時に女鬼さんに全部チクったるで?」


「まだ彼女じゃねえけどさ、俺はこれから内面も男も死ぬ気で磨いて、絶対に女鬼ちゃんを振り向かせてみせるから、今に見てろよ!」

晴道はそう言って、自慢の胸を力強く張って、熱い決意を言葉にする。


こうして放課後の廊下で賑やかで和気藹々とした会話を交わしながら、3人の若き術者達は、夕暮れ時の光が差し込む学校の建物の出口へと向かって仲良く歩を進めるのであった。


---


###〜空を舞う未知なる伝令符と、才狐が宮司を務める御狐神社への招き〜


賑やかで和気藹々とした会話を交わしながら学校の敷地を抜け、3人が校門を出たそのすぐのところで、それまで隣を静かに歩いていた才狐が突然ピタリと足を止め、無言のまま静かに上空をじっと見上げた。

そのただならぬ雰囲気にいち早く気づいた綱江は、自身の歩調を緩めて首をかしげながら「才狐君、どうかしたん?」と不思議そうに尋ねる。


すると才狐は、何も言わずにスッと自身の右手を青空へと高く掲げてみせた。

その直後、遠くの空から一羽の小さな鳥がまっすぐに滑空してやって来ると、才狐が差し出した手の甲へとまるで吸い寄せられるように静かに止まると。

驚くべきことに、その鳥の身体は手の甲に触れた瞬間、淡い光に包まれてパラパラと崩れるように解け、やがて一枚の古風で美しい御札の形へと姿を変えたのである。


目の前で繰り広げられた、あまりにも鮮やかで神秘的な術式を間近で目撃し、晴道は純粋な驚きのあまり目を丸くして声を上げた。

「うお!?なんだこれ、すげえ!鳥が急に御札になっちまいやがったぞ!」


破邪の術しか知らなかった晴道が素直に驚愕する様子を見て、綱江は

「伝令符やね。晴道君の実家も大きな神社やし、こういうの普通に使えるんとちゃうん?」

と尋ねる。


しかし、晴道は自らの不明を恥じるように大きく頭を横に振った。

「いや、こんなの初めて見た。実家の物の怪神社じゃ、怪異をぶっ倒す術しか教えてもらわなかったからな」


晴道が感心しきっているのを見て、綱江は優しく微笑みながら言葉を重ねる。

「そうなん?まあ、かく言う私も、伝令符の実技の練習を始めたところなんやけどね」


そんな二人の会話を聞きながら、才狐は手元に変化した御札に込められた微かな霊力を静かに読み終えると、自らの鞄から愛用の筆を手際よく取り出し、御札の裏面にさらさらと流麗な文字で迅速に返信を書き記していく。

それを再び空へと向かって軽く放り投げると、御札は瑞々しい霊力を放ちながら瞬時に元の鳥の姿へと形を変え、西の方角へと向かってまっすぐに勢いよく飛んで行った。


才狐はその様子を平然と見送ってから、いつものように感情の起伏がない淡々とした声音で二人に内容を説明する。

「今の伝令符は妖古さんからや。『京都駅の近くにある稲荷神社の手伝いに行っておいで』やって。だから、今ちょうど3人揃ってるから、二人のことも一緒に連れて行きましょうかって返信を書いて飛ばして確認したよ。そやから、少し待ってくれる?」


「才狐って、普段は大人しいのに、こんな凄えことまでさらっとできるんだな」

晴道は一人の術者として、目の前の同級生が持つ確かな実力と洗練された術の扱いに改めて深く感心していた。


すると、3人がその場に立ち止まって待つこと数分もしないうちに、西の空から再び先ほどの鳥がもの凄い速さで帰って来て、才狐の手元で吸い込まれるように返事の御札へと戻った。

そこに新しく刻まれた文字を素早く読んだ才狐は、いつも通りの無表情のまま、晴道と綱江の二人に向き直って告げる。


「妖古さんから返事が来たよ。丁度いいから、綱江さんと晴道君も、一緒に御狐神社においでって。そやから、一旦それぞれの自宅に戻ってから、もし動きやすい作務衣があるんやったら作務衣に着替えて、それから僕のいる神社に集合しよか」

才狐からそう具体的な段取りを提案され、晴道と綱江は快く頷いた。


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こうして、3人はこれからの新しい仕事に向けて一度それぞれの自宅へと戻ることにした。

綱江と晴道はそれぞれ自室に入ると、制服を脱いで動きやすいお気に入りの作務衣へと手際よく着替えを済ませる。

綱江は勝手知ったる道を進むようにして、そのまま直接目的地である御狐神社へと向かい、晴道も作務衣に着替えてから、スマートフォンの地図アプリの画面を何度も頼りにしながら、初めて訪れる御狐神社への道を歩いていった。


やがて、晴道は目的地である静まり返った敷地へと到着し、神聖で厳かな空気が漂う立派な鳥居を緊張しながらくぐり抜けた。

すると、目の前に現れた本殿へと続く長い階段の途中に、あの狐色の長い髪を風に靡かせた天狐の妖古が優雅に腰を掛けて座っており、その傍らには既に到着して準備を終えていた才狐と綱江の二人が、お揃いの作務衣姿で礼儀正しく立っていた。


鳥居からまっすぐに歩いてくる晴道の作務衣姿を見た妖古は、艶やかな朱色の着物の裾を上品に揺らしながら、ゆっくりとその場から立ち上がった。

そして、妖古はどこまでも楽しそうな深い笑みをその美しい顔立ちに浮かべて彼を迎え入れる。


「よう来たな、晴道。ここが才狐の住処にして、普段は才狐が宮司を務めておる御狐神社じゃ。ほな、わざわざこうして集まってもらったことじゃし、我から今日の詳しい用事を皆に伝えるかの。あ、勿論のことじゃが、今日のバイト代は、稲荷神社からしっかりと出してくれるでな」


妖古はそう言って、自らの狐耳をピョコピョコと動かしながら、コロコロと鈴が鳴るような心地よい声音で愉快そうに笑った。


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###〜稲荷神社での瑞々しき奉仕と、北の鳥居に潜む黒き微笑〜


本格的な手伝いの指示を妖古からを受ける直前、宮司を務める才狐の粋な計らいによって、3人はまず本殿の裏手にある静かな社務所で、綱江と晴道がやってくる前に才狐があらかじめ用意しておいた軽めの昼食をとることとなった。

用意されていたのは竹皮に包まれた大きめの自家製おにぎりであり、中には甘辛く炒められたジューシーな肉とシャキシャキとした食感の野菜がたっぷりと握り込まれていた。


晴道はそれを大きな口で勢いよく頬張りながら、大絶賛の声を上げる。

「美味い!才狐、お前こんなに美味いおにぎり自分で作れるのかよ!」


そのあまりの美味しさに、隣で同じようにおにぎりを口に運んでいた綱江も嬉しそうに笑みをこぼした。

「本当、お肉の旨味がご飯に染みてて最高やね♪」


二人が実に美味しそうに食べる様子を眺めながら、才狐は無表情ながらもどこか嬉しそうに静かにお茶を啜る。


こうして腹ごしらえを完璧に済ませてエネルギーを満たした3人は、御狐神社を後にして最寄りの停留所からバスに乗り込み、観光客やビジネスマンで活気に溢れる京都駅のロータリーへと降り立った。

京都駅から少し歩いた場所に位置する目的地の稲荷神社へと足を踏み入れると、平日の昼下がりにもかかわらず境内は厳かな熱気に包まれており、出迎えてくれた神社のスタッフや事務員達は「妖古さんのご紹介やね、遠いところわざわざ手伝いに来てくれておおきに」と彼らを温かく迎え入れてくれた。

3人は挨拶を済ませてから、自身の作務衣の紐をきゅっと結び直すと、早速それぞれの持ち場に分かれてテキパキと仕事に取り掛かった。


まずは基本となる境内の掃除から始め、年に一度の祭礼で使われる立派な神輿の周辺を丁寧に清め、その後は国内外からやってくる多くの観光客のために流暢な道案内を行ったり、社務所の奥での細かい事務仕事等々、神社の運営に関わる全般的な業務をこなしていく。

この手伝いは、元々才狐が、妖古からの紹介でずっと仕事をさせて貰っていたという事もあり、境内の構造や業務の流れを完璧に把握している才狐が中心となって神社の仕事を難なくこなしていく。

そんな3人の見事な連携ぶりに、稲荷神社の神職や事務員、スタッフ達も深く感心して彼らのことを口々に褒めてくれた。


特に晴道は力仕事が得意と言う事もあって、他のスタッフが数人がかりで運ぶような重い資材や境内の丸太などを一人で軽々と持ち上げて運び出し、周囲を大いに驚かせた。

それだけでなく、参拝にやって来て迷子になりかけていた観光客の子供を見つけると、大きな両肩にひょいと乗せて肩車をしたりして楽しませてあげて、「おーう、景色が良いだろ?」と豪快に笑いながら境内を楽しませてあげて、子供達の人気者となって周囲から大変重宝がられた。


そんな充実した時間はあっという間に過ぎ去り、気がつけば周囲の空が綺麗な茜色から深い群青色へと染まる18時頃までみっちりと仕事を終えた後、本日分の仕事料は後日銀行振込されるという事になった。

片付けを終えた3人が社務所の前に集まると、今回の現場を統括していた年配の神職の男性が、実によく働いてくれた3人の若者達を労うように満面の笑みで見送ってくれる。


「いやあ、凄く助かったでな。3人にまた仕事頼みたいわ。ほな、気を付けてな」

神職の人は優しくそう告げて手を振ってくれた。


その温かい言葉に対して、晴道、才狐、綱江の3人も並んで深く頭を下げて元気よくお礼の声を響かせる。

「「「お世話になりました」」」


3人は声を揃えてそうお礼を言って、そのまま境内を後にして帰路につこうとしたが、せっかくここまで来たのだからと、3人は神社の最奥にある御社に御参りだけしてから神社を後にしようとしたが……。


表の賑やかな参道とは反対側に位置する、北の方にある人通りが極端に少ない寂れた方の鳥居の前に差し掛かった時、何かを察知した綱江が突然その足を止めて前方の暗がりに視線を凝らした。

朱色の古い鳥居のすぐ麓の地面に、古風な着物姿の女性らしき人が、力なく小さくしゃがんでいるのを綱江が目ざとく観つける。


「あの人、どないいたんやろ?大丈夫かな?」

綱江は人道的な優しさから放っておくことができず、心配そうな声を漏らしながら、今にもその女性の元へと駆け寄ろうと身体を動かした。


隣でその様子を見ていた晴道は、周囲の街灯の光に浮かび上がるその女性の奇妙なシルエットを見つめながら、不思議そうに首を傾げる。

「めまいでもしたのかもな。でも、なんか白い被りものしてるけど、和風の帽子ってやつか?」


晴道がそう呟いた途端、その白い被り物と着物の独特な質感、そしてその異様な佇まいを脳内で反芻した瞬間、晴道の脳裏に7歳の頃の幼き日に実家の神社で経験した、ある強烈な記憶の断片が鮮烈にフラッシュバックした。


---


それはまだ晴道が術者としての実戦を知らない子供の頃、実家の物の怪神社の境内の片隅で、全く同じように座り込んだような感じになっていた正体不明の存在を見つけ、面白がって脅かしてやろうと、足音を忍ばせて近づき、「わ!」と叫んでみた途端……。

その瞬間に、その場にいた女性は、こちらの世界のものとは思えない甲高い声でゲラゲラと不気味に笑ったかと思うと、ゆっくりと振り返った。

その顔面には眼と鼻が一切存在しておらず、ただ真っ黒なお歯黒を塗りたくった大きな口を見せて、幼い晴道を恐怖のどん底に叩き落として脅かしてきたのだった。


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過去の強烈な恐怖の記憶と術者としての直感が一気に激しい警報を鳴らし、晴道は咄嗟に警戒して肺腑の底から警告の声を張り上げた。

「綱江、離れろ!もしかしたらそいつは……!」


晴道は必死にそう叫ぶが、心優しい綱江はすでにしゃがみ込む女性のすぐ間近まで駆け寄って声をかけてしまっている。

晴道の突然の怒号を聞いた綱江は、戸惑った表情で背後の晴道の方を振り返った。


「え、晴道君?」


綱江がその綺麗な目を丸くして晴道の方を見ると、次の瞬間、事態は一変する。

それまで完全に静止していた女性が突然、夜の静寂を切り裂くような声でゲラゲラと笑いだして、間近にいる綱江の方を見ると……。


晴道の記憶の通りに、女性の顔は眼と鼻が一切無く、真っ黒なお歯黒を塗りたくった大きな口で、歓喜に震えながら「ゲラゲラゲラ!」と笑い続けて立ち上がった。


その凄まじい異形を目の当たりにし、背後にいた才狐も本物の怪異だと完全に察知し、二人の少年は綱江を守るべく、凄まじい踏み込みで地面を蹴りながら、自身の作務衣の懐にある強力な破邪の御札に手を駆けながら猛然と駆け寄る。

晴道は激しい戦闘狂としての本能の昂りと、仲間を決して傷つけさせないという強い使命感をその瞳に宿しながら、晴道は巨大のお歯黒女性の前に弾丸のような速さで立ちはだかった。


「出たなこの野郎!あの時はまだガキだったけど、今度は俺が相手してやらあ!」


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###〜北の鳥居の一触即発と、夜闇に現れし若き二人の女性術者〜


夜の静寂がしんしんと満ちていく稲荷神社の北側の古い鳥居前。

3人の高校生術師と、眼も鼻も無いのっぺらぼうのように滑らかな顔面に、真っ黒なお歯黒をべったりと塗りたくった巨大な口だけが付いている怪異は、まさに火花が散るような一触即発の危険極まりない状況を迎えていた。


あまりの至近距離で異形と対峙することになってしまった綱江は、術者の一族としての優れた危機管理能力を瞬時に発揮し、咄嗟に身構えて機敏なバックステップを繰り出すことで、怪異との間に最低限の安全な距離を鋭く取る。

その綱江の素早い退避の動きとほぼ同時に、激しい戦闘本能を剥き出しにした晴道がすかさず彼女の前に割り込み、怪異との間にそのガッシリとした身体を滑り込ませて低く鋭い構えをとった。


晴道に庇われる形となった綱江は、昨夜の摩訶不思議食堂で地蔵店長から教わったばかりの、怪異を闇雲に敵視し戦うことだけを求める心の危うさを思い出し、晴道の戦闘狂としての危険な暴走をなんとかして食い止めようと、焦燥の混じった声を張り上げる。

「ま、待って晴道君、落ち着いて!いきなり攻撃を仕掛けるのは絶対にやめとき!まずはその怪異がどういう怪異か、何を求めているのかを冷静に見極めてやな……!」


しかし、目の前の異形に対して個人的かつ深い因縁を爆発させている晴道は、全身の霊力を荒々しく昂ぶらせ、作務衣の袖を夜風に激しく羽ばたかせながら、完全に戦闘態勢を維持したままで怒号のように言い放つ。

「見極める必要なんてねえよ!俺はこいつの正体を知ってるんだ!こいつは俺がまだ7歳のガキだった頃、東京の実家で、俺の両親と祖父ちゃんと祖母ちゃんが総出になって命懸けで追い払った奴だ!まだくたばりもせず存在してやがったんだな!」


かつて東京の阿倍野家が総出となって物の怪神社の境内で退治しかけた忌まわしきお歯黒の怪異を前にして、晴道の鋭い瞳には激しい闘志の炎がこれ以上ないほどメラメラと燃え盛っていた。

すると、その晴道の激しい言葉を聞いたお歯黒の怪異は顔面の中央にある、裂けたような巨大な口をさらに歪な形へと歪めると、夜の闇をドロドロと侵食していくような陰湿な声でゲラゲラと激しく笑った。


ひとしきり首を不自然に左右へ傾げながら楽しそうに笑い声を震わせた後、そのお歯黒怪異は、何も無い顔面を晴道に向けてゲラゲラ笑いながら不気味な問いを投げかけてくる。

「ワタスと坊やは、これまでにどこかで会ったんかい?」


自分達家族がかつてあれほど必死になって追い払った執念の存在であるにもかかわらず、自らのことを全く覚えていない怪異のどこまでも呑気で人を食ったような態度に対し、晴道は額に青筋を浮かべてさらに声を荒らげた。

「トボけてんじゃねえぞ!東京の物の怪神社、つまり俺の実家で会ったろうが!完全に忘れてやがるんなら、今ここでその身体に嫌ってほど叩き込んで思い出させてやんよ!」


晴道は右手の指先に挟み込んだ強力な破邪の御札を今まさに怪異の顔面へと投げつけようと、その腕を大きく後ろへと振りかぶる。

そのあまりにも喧嘩っ早い暴挙を目の当たりにして、綱江はこれ以上の無用な衝突や殺生を避けるべく、二人の境界線の間に自らの身を挺して割って入るようにして必死になって叫んだ。

「だから、そんな風にいきなり手を出すのはあかんって!摩訶不思議食堂で地蔵店長と女鬼さんから、色々と大切なことを教えてもろたばっかりやろ!?理由も分からんと怪異を闇雲に敵視したらあかんって!お願いやから、まずは一回落ち着こ!」


昨地蔵店長から諭された「怪異を闇雲に敵視する傲慢さ」をここで再び繰り返してはならないと綱江が叫んだその直後、それまで戦況を静かに見つめていた才狐が、影のような素早さで、さらにその間へと鋭く割って入った。

才狐は自らの身体を大きな盾にするように配置し、何とかして綱江の身を怪異の不気味な妖気や晴道の激しい霊圧から物理的に守ろうと必死に庇う。


信頼する二人の同級生からの命懸けの必死な制止を受け、御札を構えたままピタリと動きを止めた晴道は、自らの内に渦巻く過去のトラウマと、術者としての義務感の間で激しく葛藤し、悔しそうに歯噛みしながら本音を漏らした。

「で、でもよう、二人とも……!俺は現に、ガキの頃にこいつから、めちゃくちゃ恐ろしい思いをさせられて、脅かされた経験があるんだ!向こうがどんな邪悪な企みを持ってるか分からねえ以上、ここで戦闘に入るのもやむなしだぜ!」

幼き日の恐怖の記憶を完全に払拭するためにも、ここで戦うことは決して間違っていないはずだと晴道が切実に主張する。


すると、対峙するお歯黒怪異は、若き術者達が身内で激しく混乱している様子が面白くてたまらないといった風に、さらにその巨大なお歯黒の口を滑稽に震わせながら嘲笑う。

「何とも血の気が多くて喧嘩っ早い坊やだねえ。その無鉄砲な戦い方は、いかにもあの神社の忌々しい血筋なんだろうねえ」


怪異から自分の一族のことまで見透かされ、小馬鹿にするようにそう笑い飛ばされたことで、晴道の我慢の限界は完全に頂点へと達した。

「笑ってられんのも今のうちだぜ!そのお歯黒の口が二度と開かねえようにしてやる!」


晴道が狂おしくそう叫び、一切の容赦なく右手の破邪の御札を怪異に向けて一閃しようとした、まさにその刹那の瞬間。

鳥居のすぐ近くの暗がりから、張り詰めた殺気と險悪な空気を一瞬にして優しく霧散させてしまうような、どこまでも穏やかで澄んだ若い女性の声が静かに響き渡った。


「何事ですか?」


その場にいる全員がそのあまりにも場違いな穏やかさに虚を突かれて動きを止めた直後、それに続けるようにして、耳に心地よい優しさを持ったもう一人の若い女性の声が彼らの耳へと届く。


「あ、3人共、お揃いの作務衣なんか着て、一体ここでどないしたん?」


張り詰めていた戦場の空気を一気に日常のそれへと引き戻すような二つの声の方を、晴道、才狐、綱江の3人は大きな驚きと共に勢いよく振り向いた。

そして、夕闇の中に佇むその声の主達の姿を視界に捉えた瞬間、晴道はあまりの衝撃に大きく息をのんだ。


そこに立っていた二人組のうちの一人の女性は、晴道が京都にやって来てすぐに、袖引き小僧に見境なく破邪の御札をぶつけてしまった時、怯えた袖引き小僧が泣きながら逃げ込んだ先の女性であり、地方誌で妖怪コーナー担当のライターを務めている間宮都子であった。


さらにその都子のすぐ隣には、ただそこに静かに佇んでいるだけで、見る者の魂を不思議と惹きつけ、あらゆる現世の穢れを優しく浄化してしまうのではないかと思わせるほどの、超絶美少女と見紛うばかりの凄まじい美貌を持った若き女性が並んでいた。

綺麗に切り揃えられた短い黒髪が夜風に美しくなびいており、その身には、歴史ある浄土宗の僧侶が纏う格調高い法衣と厳かな袈裟を気高く包んでいる。


その若き女性僧侶は、今まさに殺し合おうとしていた晴道達とお歯黒怪異の様子を見つめながら、まるで現世に舞い降りた穏やかな菩薩のような深い慈悲の笑みをその美しい顔立ちに静かに浮かべて立っていた。


---


###〜お歯黒べったりの正体と、菩薩の如き仲裁がもたらす華金の夕暮れ〜


異形の怪異と血気盛んな晴道との間に流れていた極限の緊張感を、一瞬にして和やかな空気へと塗り替えてしまった若き女性僧侶は、胸の前で静かに合掌した。

そして、見る者の心を芯から震わせるような慈愛に満ちた菩薩の笑顔を浮かべながら、お歯黒の怪異に向けて丁寧にお辞儀をする。


その聖なる輝きすら感じさせる丁寧な挨拶を受けると、それまで禍々しい妖気を放っていたお歯黒怪異は、耳元まで裂けた巨大な口をどこか嬉しげに歪めて声を弾ませた。

「おやまあ、御住職さんじゃないの。相変わらず別嬪さんだ事、ふふふ♪」


怪異は、まるで行きつけの店の馴染み客にでも会ったかのように、一転してすっかり上機嫌になって楽しそうに身体を揺らす。

そんな中、女性僧侶の隣に立っていた間宮都子は、怪異のその独特な容姿をじっと見つめていたが、ある重大な事実に思い至ったかのように、その丸い瞳をらんらんと輝かせて大きな声を上げた。


「え!?あの、もしかして、お歯黒べったりさんやないですか!?」


都子が興奮を隠しきれない様子でその名前を叫ぶと、先ほどまで戦う気満々で武器を構えていた晴道と、何とか止めようとしていた才狐と綱江の高校生術師の3人達は、完全に拍子抜けしたように同時に声を揃えた。


「「「お歯黒べったり?」」」


術者の家系に生まれながらも、その名前を初めて耳にした3人は、お互いに顔を見合わせながら一斉に不思議そうに首をかしげる。

すると都子は、自身の得意分野である妖怪博士宜しくの膨大な知識を披露するように、人差し指をピシッと立てて得意げに解説を始めた。


「そや!読んで字の如くって名前の怪異やで。基本的にはこうやって、人気のない寂れた神社の入口や鳥居の前にふらりと現れるんや」

都子が身振り手振りを交えながらさも当然のように説明する。


すると、その生態を聞いた綱江は、晴道が先ほど口にしていた過去の奇妙な因縁を思い出してポンと手を叩いた。

「ああ、だから晴道君が東京の実家の神社で会ったんやね。神社の入口に現れるっていう怪異の習性と、完全に一致してるわ」


綱江が納得の声を漏らす中、法衣に身を包んだ女性住職は、怪異に向けて再び穏やかな菩薩笑顔を浮かべながら、静かに挨拶の言葉をかけた。

「御無沙汰しております、お歯黒さん」


そのあまりにも自然で温かいお寺の住職としての挨拶に対し、お歯黒べったりは巨大な口の端をさらに吊り上げて、まるで満面の笑みを浮かべるかのように形を変える。

「御無沙汰よねえ、御住職さん。こんな時間にこんな場所にいるなんて、もしかしてどこかの法事の帰りかい?」


「はい。檀家様宅での法要の帰り道で、こちらの都子さんと偶然会いまして、お話をしながら一緒に歩いていたところだったのです」

女性住職はそう言って、隣にいる雑誌ライターの女性をやんわりと紹介するように微笑みながら説明する。


それを聞いたお歯黒べったりは、のっぺらぼうの顔面を都子の方へと向け、感心したように声を漏らした。

「おやまあ、それは御疲れ様な事で。それで、こっちの人が噂に聞く、あの妖怪コーナーの作家先生なんだねえ。今後ともどうぞ宜しくね」


怪異が律儀にそう言って頭を下げて挨拶をすると、驚くべき変化がその身体に起こった。

お歯黒べったりがフッと自身の妖力を集中させると、それまで何も無かった真っ白でのっぺりとした顔面に、見る見るうちに涼しげな眼や形の良い鼻といった顔のパーツが綺麗に浮かび上がってきたのである。

それは一瞬にして、どこにでもいるような非常に端正で綺麗な人間の女性の姿へと完全な変貌を遂げた。


そのドラマチックな変化を目の当たりにした都子は、一人の妖怪研究家としての探求心を極限まで刺激され、さらに目をキラキラと輝かせて怪異に詰め寄る。

「あ、やっぱり!のっぺらぼうさんみたいに、顔のパーツは自身の意思で出し入れ自由なんですね!」


「ふふふ、そうそう♪ワタスは時々のっぺらちゃんと一緒に『のっぺらコンビ』を組んで、現世の人間を一緒に脅かす事もあるのよ、面白いよねえ♪」

人間の美女の姿になったお歯黒べったりが、楽しそうに鈴を転がすようにして笑う。


すると、それまで蚊帳の外に置かれていた晴道が、納得がいかないといった様子で不満の声を張り上げた。

「全然笑えねえよ!やられた方は心臓が止まるかってくらい、めっちゃ驚くんだぞ!?」

かつて7歳の頃に味わった本気の恐怖を思い出し、晴道が怒髪天を突く勢いで叫ぶ。


しかし、都子はさも当然の常識であるかのように肩をすくめて晴道をなだめる。

「そうは言うても晴道君、元々お歯黒べったりさんも、のっぺらぼうさんも、人間を驚かすんが主流の在り方やし、存在意義そのものなんやから」


「なんだそりゃ!?はた迷惑な怪異だな!」

晴道は作務衣の袖を乱暴に払いながら、吐き捨てるようにして不満を口にした。


すると、綺麗な女性の姿をしたお歯黒べったりは、若き術者のそんな青臭い反発をどこか愛おしむように見つめながら、クスリと艶っぽく笑う。

「そういう性分なんだから、今さら諦めなねえ、喧嘩好きの若いの」


「別に俺は喧嘩が好きなわけじゃねえよ!さっきはいきなり目の前にあんたっていう異形が現れたから、俺のダチを守ろうとしただけだ!」

晴道はそう言って、隣に立つ才狐や綱江の姿を見つめながら、仕方のない奴だと言わんばかりに深く大きなため息をつく。


そんな若き術者と怪異との一連の掛け合いを静かに見守っていた女性住職は、すべてが平和的な解決に向かっていることを確信し、再び菩薩のような優しい笑みを浮かべて胸の前で合掌した。

「なるほど、これまでの事情が観えてきました。それでは、お互いに誤解も解けたようですし、もうこれ以上の騒動は無しということで宜しいでしょうか?」


女性住職からそう優しく諭されると、綱江は自らの構えを完全に解き、感謝の念を込めて深くお辞儀をする。

「はい、もう大丈夫です。危うく大騒ぎになるところを、お二人とも仲裁有難う御座います」


綱江に続けるようにして、それまで静かに彼女を庇っていた才狐も、自身の作務衣を整えながら無表情のまま礼儀正しく頭を下げる。

「有難う御座います」


二人の瑞々しい謝意を真っ直ぐに受け止めた女性住職は、困ったように首を少し傾げながら、どこまでも謙虚に微笑んだ。

「いえ、私は何もしておりません。もしも今回の件で仲裁と言うならば、都子さんがお歯黒さんの正体を丁寧に紹介して下さった事こそが、仲裁と言えましょうか」


女性住職がそう言って手柄を譲ると、都子は突然振られた話に慌てて両手をブンブンと横に振った。

「そんな、私はただ知ってる妖怪の名前を口にしただけで、何も……あ、そうや!あの、お歯黒べったりさん、もしよろしければ、今後の私の連載記事のために、色々と詳しく取材させてもろてもええですか?」

都子は名案を思いついたとばかりに、鞄からお気に入りの取材用メモ帳とペンを素早く取り出して怪異の前に差し出す。


その人間のライターによるあまりにもアグレッシブな行動を見て、晴道は顔を盛大に引きつらせながら複雑な表情を浮かべた。

「妖怪に直接インタビューして取材って……。京都の人間は一体どうなってんだよ……」


晴道が価値観の崩壊に頭を抱える中、取材を申し込まれたお歯黒べったりは、驚きつつもどこか嬉しそうに自らの顎に手を当てた。

「ワタスみたいな古い怪異にインタビューとか、あんたも物好きだねえ。まあ、夜の時間もたっぷりとあるし、何だか面白そうだからいいよ♪」


「やった!話が早くて助かります!ほな、今日の夕食代は私が全額持ちますから、御住職もぜひ御一緒にどうですか?お歯黒さんとの会話のフォローをしてくれたらめちゃくちゃ有難いです!最高の華金や!」

都子は自らの取材が成功したことを確信し、飛び跳ねるようにして最高の華金を喜んだ。


その熱烈な誘いに対し、格調高い法衣を纏った女性住職は、いつもの穏やかな菩薩笑顔のまま、静かに合掌してお辞儀を返す。

「では、ありがたく御一緒させて頂きますね。有難う御座います、今夜は御馳走になります」


そうして、賑やかに会話を弾ませる大人二人と怪異一体の奇妙な組み合わせは、お互いに夜の街へ繰り出す挨拶を交わしながら、楽しそうに夜の京都の街へと歩き出していった。

後に残された3人の高校生術師達は、静まり返った朱色の北の鳥居の前に、ただ呆然と取り残される形となった。


しばらくその去り行く背中を見送っていた才狐が、静かに鞄を持ち直しながら、いつもの淡々とした声音で二人に声をかける。

「一件落着したし、僕らもそろそろ帰ろか」


その才狐の言葉を聞いて、怪異と人間が共生する京都の深い懐に完全に圧倒されていた綱江と晴道の二人は、言葉にならない感情を胸に抱きながら黙って小さく頷いて、それぞれの自宅へと続く静かな帰路に就く事にした。


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###〜夜の帰路での確かな和解と、才狐からのメッセージに導かれし明日の兆し〜


北の鳥居の前で起きた奇妙な騒動が平和的に収束した後、帰りのバスに揺られて帰路に就くために、3人は鳥居を背にして再び夜の街灯が優しく灯り始めた京都駅へ向かってゆっくりと歩き始める。


夜風が心地よく火照った身体を撫でていく中、先ほどの一件で一人で殺気を放って大騒ぎしてしまった晴道は、ひどくバツが悪そうに自身の短く刈り込んだ頭をガシガシと乱暴にかいた。

歩調を少し緩め、隣を並んで歩く二人に視線を向けながら、晴道はどこか恥ずかしそうに、かつ素直な反省を込めて口を開く。


「さっきは悪かったよ。その、うちの大人達がお歯黒べったりを追い払った記憶が鮮明でさ……。だから、お前らが危ねえと思って、つい頭に血が上っちまったんだ」

幼い頃に実家の物の怪神社で植え付けられた強烈な恐怖と、当時の両親や祖父母が総出となって戦ったという重い事実が、どうしても彼を過剰な警戒へと走らせてしまっていた。


そんな晴道の不器用ながらも仲間を想う横顔を見て、綱江は小さく吹き出すようにして、どこまでも温かい笑みをその優しい表情に微笑む。

「うん、わかってるよ。それに、私らを守ろうとしてくれたんやもんね。その気持ちだけで、私はめちゃくちゃ嬉しかったよ、ありがとね」


綱江のその優しさに満ちた聖母のようなフォローの言葉に、晴道は耳の裏まで真っ赤にしながら、照れ隠しに視線をあちこちへと泳がせてぶっきらぼうに言う。

「まあ、うん……。お前らが無事なら、それでいいんだけどよ」


素直になりきれない晴道の様子を横目で見ながら、作務衣の袖に手を収めた才狐が、いつものように淡々としているが、どこか周囲を包み込むような優し気な感じの声で言葉を添えた。

「昔の強烈な印象と、綱江さんが怪異と接触したという状況があるから、致し方ないと思うよ。晴道君が術者として、瞬時に身体が動いたのは正しい判断や」


才狐なりの論理的で温厚な慰めを聞いて、晴道は自らの肩の力が完全に抜けていくのを感じ、少し照れくさそうに頭をかきながら苦笑いする。

「ありがとな。才狐にそう言ってもらえると、少し救われるぜ」


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こうして道中で心のわだかまりを綺麗に解消した3人は、京都駅のバスターミナルから目的地行きのバスに乗り込んだ。

夜の街を静かに走るバスの座席に揺られながら、車窓から見える古都の夜景を眺めつつ、一人、また一人とそれぞれ自宅の最寄り駅で下車する。


晴道はすっかり静まり返った夜の道を歩き、東京から移り住んだ現在の生活拠点であるマンションに帰りがてら、明かりの灯る近所のスーパーへと立ち寄った。

少し遅い時間ということもあって、割引シールの貼られた惣菜コーナーから、ボリュームのある唐揚げやコロッケなどの惣菜をいくつか買って帰り、静かな自室でそれを今夜の夕食にして手早く平らげていく。

食後に温かいシャワーを浴びて一日の心地よい汗と疲れを綺麗に洗い流すと、晴道は部屋の中で一番リラックスできるゆったりとした上下の服を着て、ベッドの上でゴロゴロと寛いでいた。


金曜日の夜ということもあって、心身ともに深い解放感に包まれていると、不意に静かな部屋の中に軽快なスマートフォンの通知音が響いた。

晴道は枕元に置いていたスマートフォンが鳴ってタップして画面を確認する。


明るくなった液晶画面を覗き込むと、そこには、同じ学校の術者仲間であり、先ほど別れたばかりの才狐からメッセージが届いていた。

メッセージの本文には「妖古さんが、晴道君にも京都に住まう怪異達と『ご近所付き合い』をしてみたらええって言うてはる」と書いてあった。


画面に表示されたその独特な文言をじっと見つめながら、晴道はベッドの上で寝返りを打ち、思わず苦笑混じりの独り言を言う。

「御近所付き合いって、怪異とダチになれってのか?まあ、袖引き小僧とか、羅生門の鬼とか、なんだかんだで結果的には仲良くなったけど……。京都の怪異ってのは、本当に一筋縄じゃいかねえな」


そんな晴道の困惑を見透かしたかのように、メッセージには続きがあり、「明日の早朝から、稲荷神社に行ってみると良いって、妖古さんが言うてるから、一緒に行ってみる?予定有るなら、妖古さんに僕から言うとく」と書いてある。


晴道は手帳を開くこともなく、明日のスケジュールを頭の中で思い浮かべた。

特にこれといった先々の予定はなく、今日のうちにしっかりと神社で手伝いのアルバイトは出来たので、当面の軍資金の心配もない状態だ。

そのため、妖古の言うその「御近所付き合い」という奇妙な提案に、勉強も兼ねて試しに付き合ってみることにした。


晴道は、了解のスタンプと共に「分かった、明日の早朝、よろしくな!」と、明日は一緒に行く旨をメッセージで伝えてから、スマートフォンを枕元の充電器にカチリとさして、壁のスイッチに手を伸ばして部屋の明かりを消して就寝する。

窓から差し込む静かな月明かりの中、若き術者は明日への期待を胸に、深い眠りへと落ちていくのだった。


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###〜早朝の稲荷神社での待ち合わせと、奥の院に眠る気狐への挨拶〜


夜の帳が完全に下りきっておらず、東の地平線がほんのりと白み始めたばかりの翌朝の早朝。

阿倍野晴道は、東京にいた頃から欠かすことのない日課である過酷なロードワークをこなし、早朝の静まり返った古都の街を力強く駆け抜けていく。

そして、しっかりと汗を流してマンションの自室へと戻ると、すぐに温かいシャワーを浴びて心身を心地よく覚醒させ、動きやすさを重視したお気に入りのパーカーとカーゴパンツの私服に着替えた。


それから、まだ外に太陽の姿がはっきりと昇らない薄暗い室内のなかで、手早く用意した軽い朝食を静かに済ませる。

食べ終えた食器類の手際よい片付けとゴミの処理をすべて済ませると、晴道はボディバッグを装着して家を出て、しっかりと玄関の鍵をかけて施錠した。

そして、今日の目的地であり集合場所でもある稲荷神社を目指すため、彼はまだ乗客のまばらな早朝のバスに揺られながら、活気を取り戻しつつある京都駅へと向かった。


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京都駅に到着すると、晴道は涼しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、昨日までみっちりと奉仕のアルバイトをしていた見慣れた稲荷神社へとまっすぐ歩みを進める。

神社の敷地に広がる南側の鳥居までやって来ると、そこにはすでに、お揃いの凛とした作務衣姿に身を包んだ才狐と綱江の二人が、並んで晴道の到着を待っていた。

朝日が静かに差し込む中、3人はお互いの顔を見合わせながら、まずは清々しい「おはよう」の挨拶をしっかりと済ませる。


晴道は二人の甘酸っぱい雰囲気を思い出し、ニカッと悪戯っぽい笑みを浮かべながらニヤニヤとからかい始めた。

「お前ら、せっかくの土曜日の朝なんだから、俺みたいなのが割り込まずに二人きりの方が良かったんじゃねえのか?」


直球すぎる晴道の冷やかしに対し、綱江は呆れたように眉をひそめ、冷ややかなジト目を晴道へと向けた。

「晴道君、朝一番からまたデートの話?本当に懲りひんねえ」


「だってよ、これだけお似合いの二人の間に俺が居座ってたら、せっかくのデートの邪魔になっちまうじゃねえか」


晴道がガハハと豪快に笑い飛ばすと、綱江は両手を腰に当て、自身の意見を主張するように少しだけ頬を膨らませてみせる。

「今日はデートやなくて、みんなで京都の観えない世界を正しく知るための、術者としての大切な修行の日!ほんまに、なんで妖古さん達怪異の皆さんも晴道君も、揃いも揃って私と才狐君をそんなにデートさせたがるんよ」


「まあ、建前は分かったよ。で、お前の本心はどうなんだ?」


晴道がさらに顔を近づけてニヤニヤと追及の手を緩めずに問い詰めると、綱江は一瞬だけ言葉に詰まり、顔をごまかすようにそっぽを向いた。

「……いけず」


綱江は蚊の鳴くような声でそう可愛らしく呟きながらも、恥ずかしそうに頬を赤く染め、隣に立つ才狐の横顔をちらりと盗み見るように視線を向ける。

しかし、当の才狐は相変わらず端正な顔立ちを完全に崩さず、完全な無表情のままで二人のやり取りの意味を何もわかっていない様子でただ佇んでいた。


そのあまりにも徹底したマイペースぶりに、晴道はふと何かを思い至ったように顎に手を当てる。

「そういや才狐って、学校でも神社でもずっとそんな感じで、俺はこいつが楽しそうに笑ったところを一度も見た事ねえな。今更になって気づいたぜ」


晴道が素直な疑問を口にすると、綱江は少しだけ視線を落とし、それまでのコミカルな態度から打って変わって少し真面目な顔になって声を潜めた。

「才狐君がいつも無表情なのには、ちょっと色々と言葉にはできん事情があるんよ……」


「そうなのか?まあ、これ以上立ち入った事を聞くのも野暮ってもんだな」

綱江の口調から、それが才狐にとって非常にデリケートな過去や問題に関わることなのだろうと晴道は瞬時に察し、それ以上の追究はしないことにして綺麗に話を切り上げた。


そして、晴道は自身のパーカーのポケットに両手を突っ込み、本日の本題へと意識を切り替える。

「それで、妖古さんが言ってた肝心の『ご近所付き合い』ってやつだけどよ。まさか昨日俺が揉めかけた、あのお歯黒ねえちゃんと、今からもう一度会って交流し直せって意味なのか?」


晴道が不思議そうに首をかしげると、一歩前に出た才狐が、いつもの淡々とした静かな声音でその疑問に答える。

「お歯黒べったりさんとの交流については、それはおいおい慣れてからして貰うとして、今からここでするのは、こちらにいらっしゃる偉大な妖狐にしっかり挨拶する事が目的やね。そのお方は、気狐(きこ)さんって言うんや」


才狐はそう説明すると、神聖な神域の入り口である南側の鳥居の前で一度立ち止まり、背筋を伸ばして深く丁寧にお辞儀をした。

そして、神職の作法に則り、神様の通り道である中央の中道を通らないように端の端を選んで、厳かに奥へと入って行く。

晴道と綱江の二人も、その才狐の真剣な背中に習って神妙な面持ちで一礼してから、その後ろを静かに付いて行く。


早朝の清らかな静寂が満ちる境内を進み、3人は昨日、帰路に就く前に立ち寄ってお参りをした、普段は一般の参拝客が滅多に入って来ない、神社の最奥にひっそりと佇む小さな社の前までやって来た。


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###〜奥の院の神聖なる気狐と、朝霧の境内に現れし謎の大先輩〜


清涼な朝の空気が満ちる神社の最奥へと進み、3人は昨日、帰路に就く前に立ち寄ってお参りをした、普段は一般の参拝客が滅多に入って来ない小さな社の前までやって来た。

周囲はうっそうとした木々に囲まれており、朝の光が葉の隙間から細い光の帯となって足元を照らしている。


才狐を先頭にして社の前に美しく整列した3人は、神職の厳かな作法に則り、まずは深く二礼を捧げた。

続いて静まり返った境内に小気味よい音を響かせて二回拍手を打ち、最後にもう一度深く一礼をする。

丁寧な拝礼を完璧に済ませた後、才狐はあらかじめ自らの鞄に入れて持ってきていた、狐の好物である大ぶりの油揚げが乗った平皿と、小さめのペットボトルの緑茶を、社の前にある木製の賽銭台の上に手際よく、かつ丁重に置いた。


すると、その直後。


ガタリと木製特有の微かな音を立てて小さな社の扉が内側からゆっくりと開き、その中から、まるで純白の絹糸のように美しく艶やかな毛並みを持った一匹の狐が静かに姿を現した。

ただそこに佇んでいるだけで周囲の空気が一瞬にして清められるような、不思議な神聖さを全身から醸し出している。


そのあまりにも神秘的な光景を間近で目撃し、晴道は驚きと共にその切れ長の目を大きく瞬かせた。

「あ、おい見ろよ、社の奥から本当に狐が出て来たぞ!才狐、これがさっきお前が言ってた気狐っていう妖狐なのか?」


晴道が素直な驚きをそのまま口にすると、台の上に器用に飛び乗った白い狐は、その細い目をさらに細め、人間の言葉で実になめらかな京都弁を紡ぎ出した。

「いかにもどす。お早うさんどす♪」


怪異がまるであたりまえのように、自然に人間の言葉で挨拶を返してきたことに圧倒されつつも、晴道、才狐、綱江の3人は並んで姿勢を正し、声を揃えて礼儀正しく挨拶を返す。


「「「お早う御座います」」」


3人の瑞々しい声が朝の境内に響くと、目の前にある台の上に置かれたお供え物に視線を落とした気狐は、その綺麗な鼻先をピクピクと嬉しそうに動かした。

狐の顔ながらも、まるで人間が満面の笑みを浮かべるかのようにして嬉しそうに声を弾ませる。


「いやあ、朝一番からこんなに立派な油揚げをいただけるなんて、最高どすなあ♪ありがとさんどす、才狐はん。いつもワタイに気を使ってくれて嬉しいわぁ♪」

気狐はそう言って上機嫌に鳴くと、前足で器用に油揚げを掴み、むしゃむしゃと実に美味しそうな音を立てて食べ始めた。


その様子を少し離れた場所から見つめながら、晴道は感心したように腕を組み、まじまじと観察するように眺めている。

「狐ってマジで油揚げが好きなんだな。おとぎ話の単なる迷信かと思ってたけど、こうして本物が目の前で美味そうに食うのを見てると、なんだか妙に感心しちまうぜ」


晴道がどこか楽しそうに呟く中、油揚げを実に見事な手際で口へと運んでいた気狐。

すると、今度は傍らに置かれていたペットボトルの緑茶に目を留める。

人間のように器用に前足と爪を使い、ペットボトルのキャップをパチリと小気味よく開けると、そのままボトルを持ち上げて中の御茶を喉を鳴らしながら美味しそうに飲むのだった。


ひとしきり喉を潤してふうと満足そうに息をついた気狐は、その賢しげな瞳を晴道の方へと向け、値入るようにじっと見つめた。

「それで、そちらにいる身体の大きくて元気な子が、妖古様が楽しそうに言うてはった、東京の物の怪神社から、わざわざ京都へ来たっていう術師見習いどすな」


気狐から自身のことを振られた晴道は、待ってましたとばかりにニカッと豪快な笑みを浮かべた。

自身のパーカーの胸元を力強く拳で叩きながら、自信満々に胸を張る。

「いや、見習いじゃねえし!でもまあ、よく知ってんな。そう、俺がその阿倍野晴道だ!物の怪神社で叩き込まれた破邪の力で、いずれはこの京都で誰よりも強くなって、最強の祓術師になる男だ!覚えておいてくれよ!」


晴道がこれ以上ないほど堂々と大言壮語を放つと、気狐はその威勢の良さに圧倒される風でもなく、どこか大人の余裕を感じさせるマイペースな調子でフフンと鼻を鳴らした。


「まあ、若いんやからそれくらい威勢が良い方がよろしおすな。お気張りやす」

気狐はそれだけ短く言い残すと、余韻を楽しむようにして、残っていた油揚げを再び口へと運び、むしゃむしゃと食べ始める。


あまりにもあっさりとした、どこか子供をあやすような受け流し方をされ、晴道は拍子抜けしたように肩の力を抜いて、不思議そうに首をかしげた。

「お、おう……なんだか拍子抜けするくらい軽いノリだな。えっと、才狐、もしかしてこの気狐にこうやって朝の挨拶を済ませちまえば、今日の最初のミッションはクリアってことでいいのか?」


「ミッションやないけど、まあ、ここに来て直接顔を合わせるっていう目的は達成した、と言う事ではあるね。」


才狐がいつもの淡々とした静かな声音でそう答えた、まさにその瞬間。


「あ!」

それまで静かに二人のやり取りを見守っていた綱江が、何かに気づいたように突然鋭い声を上げて、社とは全く別の方向である本殿の裏手の境内を見据えた。

綱江のその突然の発声に導かれるようにして、晴道と才狐の二人も反射的にそちらの方角へと素早く視線を走らせる。


そこには、黒いコートに黒いシャツ、黒いカーゴパンツ姿で黒一色で統一している服装をした男性が、神社の境内を静かに歩いていた。

年齢はだいたい40代半ばから後半くらいの男性であり、落ち着いた大人の男の渋みと、どこか浮世離れした独特の強い存在感を醸し出している。


その男性の姿を視界に捉えた途端、それまで鉄面皮のように感情を一切表に出さなかった才狐の眼が、驚きと共に少しだけ大きく見開かれた。

その表情自体はいつも通りの無表情のままであったが、その全身から醸し出される気配が、どこか明確に嬉しそうな気配になるのが傍らにいる晴道達にもはっきりと伝わってくるほどだった。


晴道はその男性のただならぬ雰囲気を怪訝に思いながら、目を細めて呟く。

「こんな早朝から参拝か?あの服装、観光客かな、それとも近所に住んでる地元民か?」


晴道がそう尋ねると、ペットボトルに残っていたお茶を最後の一口まで喉に流し込んだ気狐が、その細い目を細めてどこか尊ぶような口調で言った。


「観光客とちゃいます。あのお方は、あんさんにとって、大先輩も超大先輩どす。ほら、せっかくの機会なんやから、あちらに行ってちゃんと挨拶してきなはれ」

気狐はそう言うと、持っていたペットボトルを静かに置いて、お茶を一口飲むようにして彼らの背中を促した。


「え?まあ、そりゃ見た目からしてかなり年上のおっさんだから、人生の先輩っちゃ先輩なのか?一体どんな人なんだよ?」

晴道は気狐の言葉の真意を測りかね、不思議そうに首を傾げる。


すると、晴道が混乱しているのを余所に、才狐と綱江の二人は男性の正体を完全に理解しているようで、即座に姿勢を正して気狐に向かって声を揃えた。

「「それでは、善き一日を」」


二人は気狐に対してそう丁寧な別れの挨拶を告げるや否や、黒一色の服装をしたその男性の所へ駆けていくので、置いてけぼりを食らいそうになった晴道も慌ててその後を追うようにして地面を蹴った。


そして。


その男性の所まで行くと、先行していた才狐と綱江の二人は、男性の正面で行儀よく立ち止まった。

深く腰を折ってお辞儀をして、声を揃えて礼儀正しく挨拶を交わす。

「「お早う御座います」」


二人の突然の来訪に対し、黒一色の服装に身を包んだ男性は静かに歩みを止め、驚く風でもなくどこまでも静かな表情を、その渋い顔立ちに浮かべた。

コートのポケットの中から深く突っ込まれていた両手を静かに外へと出すと、仏前で祈るように綺麗に胸の前で合掌し、彼らに向かって丁寧にお辞儀をする。

「おはようさんです、才狐さん、綱江さん。ほんで……そちらさんは御友人のようですな、初めまして」


男性の低く落ち着いた、耳に心地よい声の響きを聞きながら、遅れて合流した晴道は、その独特な威圧感の無い、しかし底知れない包容力を感じさせる佇まいに圧倒されつつも、頭を下げてぺこりと挨拶をした。

「あ、ども、お早う御座います」


3人が挨拶を交わしているところへ、先ほど社で油揚げを食べ終わったばかりの白い気狐が、まるで見えない空気の波に乗るようにしてフワフワと宙を飛んでやって来た。

皆の頭上あたりで静かに滞空しながら、その細い目を三日月のように曲げて笑顔で挨拶をする。

「御対面どすなあ。おはようさんどす。」


気狐のその親しげな挨拶を受け、黒いコートの男性は再び優しく目を細め、その白い狐の身体を見つめて声をかけた。

「気狐さん、お早う御座います、今朝も朝から随分と豪勢な油揚げを貰えたみたいで、宜しゅうおすなあ」


男性が挨拶する中、晴道だけは一人、この穏やかながらも気狐から超大先輩と称される不思議なおっさんは一体誰なんだという、強い疑問を隠しきれない怪訝な顔をしていた。


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###〜底知れぬ呪術師の佇まいと、脳筋男子の不遜なる品定め〜


晴道は、十代後半の血気盛んな年頃の男が持つ特有の習性で、目の前に佇む人物の腕っぷしや肉体的な力、あるいは実戦での争いごとに強いかどうかという、無意識の品定めを瞬時に行っていた。


じっと観察してみれば、男性の体格は空手で鍛え上げられた自分に比べて二回りほど小さく、成人男性の平均値よりもやや小柄な部類に入る感じである。

さらに術者としての知覚を研ぎ澄ませてみても、その身体からは霊力や霊気といった類の、術者特有の禍々しくも鋭い力が全く感じられず、どこをどう切り取っても見るからに無力な一般人にしか思えない。


自分に勝る要素が何一つ見当たらない目の前の男性に対して、晴道の胸の内には、術者としての優位性と肉体的なアドバンテージからくる、つい勝ち誇ったような傲慢な感情がふつふつと湧き上がってしまう。

衣服に覆われたその身体の下が、どれほど筋肉質に引き締まっているのかまでは流石に判別がつかない。

しかし、単純な体格差や骨格の太さだけを比べても、自分の方が腕っぷしに関してははるかに強く、力任せにねじ伏せることなど容易であると晴道は確信を持って認識する。


また、彼が超常の術の力を一切持っていないということは、術者として厳しい修業を積んだ者が自然と身にまとうはずの独特な威圧感やオーラを、その身から毛頭出していないことからも明白であった。

肉体戦にしろ術の叩き合いにしろ、争いごと全般に関しては、完全に自分の方がはるかに上回っているという絶対的な印象を晴道は抱く。


確固たる自信を得た晴道は、少し小馬鹿にしたような視線を向けたまま、隣に立つ二人の顔を交互に見やった。

「なあ才狐、綱江。さっきから気狐の奴が超大先輩だなんて大層に持ち上げてるけどよ、このおっさんはどこの誰なんだ?」


晴道がポケットに手を突っ込んだままぶっきらぼうに尋ねると、そのあまりにも不躾な態度に驚いた綱江が、すぐさまその端整な頬をぷくっと膨らませて怒りの視線を向けた。

「ちょっと晴道君!初対面の方に向かって『このおっさん』だなんて、いくらなんでもそれは失礼やろ!もう少し言葉遣いに気をつけよし!」


綱江がたしなめるように声を荒らげたが、黒いコートに身を包んだ男性は、その端正な顔立ちをぴくりとも動かすことなく、静かな佇まいのまま、淡々と語る。


「僕はそこまで大層に名乗る程のもんやおへん。もし呼び方に困るようでしたら、僕の事は『呪術師』とでも、おっちゃんとでも、好きに呼んでくれなはれ」

男性はその表情を一枚の仮面のように無表情に保ったまま、どこまでも淡々とした落ち着いた声音で自らの存在をそう紹介した。


その突拍子もない自称を耳にした瞬間、晴道は我慢できずにその場で腹を抱えて大笑いしてしまった。

「はあ!?ぶはっ、呪術師だあ!?そいつは傑作だな!」


早朝の静かな境内に晴道の盛大な笑い声が響き渡る中、隣にいた才狐は、その笑いのツボがどこにあるのかが全く理解できないようで、不思議そうに首をかしげる。

「え?晴道君、急にそんなに大笑いして、何か面白いことでもあったん?」


「いやいや、だってそうだろう才狐!呪術師って、おい!なあおっさん、もしかしていい年をした大人のおっさんなのに、未だに脳内が中二病に侵されてんのか?」

晴道は涙目を拭いながら、ニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべて男性をからかい始めた。


その度を越した無礼な物言いに、綱江は顔を真っ赤にして今度こそプンスカと本格的に怒り出す。

「こら!なんて失礼な事言うてんのよ!いい加減にしよし、恥ずかしいわ!」


「いや、だってよ綱江、呪術師なんて大層な名前を名乗るからには、それなりの実力や霊力があるはずだろ?なのにこのおっさんからは、術者としての霊気の欠片も感じねえんだぜ?さすがに呪術師を名乗るのは無理があるだろうが」

晴道は肩をすくめ、自分の感知能力の正しさを証明するように堂々と笑い飛ばす。


その晴道の言葉を聞いた瞬間、それまで静観していた才狐と綱江は、何かを深く察し合うようにお互いの顔を静かに見つめ合わせた。

目の前の呪術師と名乗る大人の男性が、どれ程の力を隠し持っているのかを知り、晴道との如何ともしがたい圧倒的な実力差を正確に把握している二人は、晴道が今、どれほど致命的な勘違いをしているかを瞬時に理解したのである。


そして、綱江はすぐに呪術師の男性の方へと向き直り、同級生の無知を心から恥じるようにして、深く頭を下げた。

「呪術師さん、本当にすみません。この同級生の脳筋男子が、世間知らずでとんでもなく失礼な事を口にしてしまいまして……」


「若い人は、それくらい元気があった方が宜しゅうおす。それに、彼が僕を見て、そう思てくれてはると言う事は、少なくとも現在の僕が、自分自身の目的通りの佇まいになっておるという何よりの証拠です。術者としては、これ以上ない、ええフィードバックですなあ」

呪術師は眉一つ動かさず、全く気にした様子もないまま、淡々とした静かなトーンで言葉を返す。


その言葉の裏にある圧倒的な技術の高さを理解した綱江は、自らの未熟さを突きつけられたように表情を引き締めた。

「ああ、なるほど……。気配を完全に殺しきって周囲に溶け込むという、その域に達しておられるんですよね。それを見抜けず、ただの一般人にしか見えへんのやし、その領域に遠く及んでない私は、まだまだやと思い知らされます」


「僕も、晴道君と初めて会った時には、彼に一瞬で術者だと気配を悟られてたから、自分の力の隠し方がまだまだと言う事ですよね。本当に勉強になります」

才狐もまた、自身の未熟さを痛感したように視線を落として呟く。


二人の若き術者がその実力差に圧倒される中、呪術師は無表情のままであったが、その声の響きにだけは二人を包み込むような温かさを滲ませて言葉をかけた。

「そんなに自分を卑下して焦る事はおへん。お二人とも、自分の持てる力を普段からしっかり制御出来てはりますえ。自信を持ちなはれ」


すると。


「おい、さっきからお前ら三人で、わけわかんねえ事をゴチャゴチャ言ってんだ?」

完全に会話の核心から置いてけぼりにされた晴道は、釈然としない様子で不思議そうに首をかしげる。


そんな晴道の様子を見て、綱江は呆れたようにため息をつきながら彼の背中を小さく小突いた。

「ほら晴道君、呪術師さんがこうしてわざわざ名乗ってくれはったんやから、今度はあんたがちゃんと自己紹介しよし」


「名乗ってねえじゃん。呪術師ってのは本名じゃねえし、ただの一般名詞だろうがよ。まあいいや、細かいことは気にしねえ。俺は晴道、阿倍野晴道だ。宜しくな、おっさん!」

晴道はガハハと豪快に笑い飛ばしながら、自らの名前を堂々と名乗って自己紹介を済ませた。


その無遠慮な挨拶に対しても、呪術師はただ静かに胸の前で両の手のひらを合わせる。

「晴道さんですな、ご丁寧に恐れ入ります。こちらこそ、以後宜しゅうおたの申します」

呪術師は表情を一切崩さないまま、合掌して丁寧にお辞儀をする。


その底知れない大人の余裕を前にして、綱江は心から安堵したように胸をなでおろした。

「はぁ……呪術師さんが本当に心の広い優しい人で良かったわ……。ほんまに、この底抜けの脳筋男はどこに行ってもハラハラさせられるなあ……」


綱江は額を押さえながら、呆れ果てたような深い溜息を白む朝の空気の中にそっと吐き出していた。


---


###〜常連達の繋がる縁と、若き菩薩の寺へ向かう足跡〜


綱江が呆れた溜息を漏らす中、才狐はいつもの静かな視線を呪術師へと向けて尋ねる。

「呪術師さん、今日は土曜日やから、休日の早朝散歩ですか?」


才狐が淡々とした声音で問いかけると、呪術師は黒いロングコートの襟を夜風の名残に合わせるように少しだけ整えた。

その表情は相変わらず一枚の静かな仮面のように無表情のまま、静かに言葉を告げる。

「ええ、まあそんなところですわ。ほんで、これからどこかの喫茶店へ珈琲でも飲みに行こうか、御住職に朝の挨拶にでも行こうかと思うて、こうしてぶらぶらと歩いとったところです」


呪術師が淡々とこれからの予定を口にした瞬間、その「御住職」という単語に晴道が敏感に反応し、その切れ長の目を大きく見開いて身を乗り出した。

「おいおいおっさん、今『御住職』って言ったか?御住職って、まさか昨日の夕方にこの鳥居の前で会った、あのめちゃくちゃ可愛い住職さんのことか?」


晴道が鼻息を荒くして興奮気味に尋ねると、隣にいた綱江は即座に細い眉をひそめ、冷ややかな視線を晴道へと突き刺して鋭い突っ込みを入れる。

「ちょっと晴道君、あんたこないだあれほど熱烈に『俺の運命の相手は女鬼ちゃんだ』って言うて、女鬼さん一筋やなかったんかい。そやのに別の女性に目移りするなんて、本当に呆れた男やねえ」


「あ、いや、誤解するなよ綱江!俺の心が女鬼ちゃん一筋なのは今でも絶対に変わらねえよ!そうだけどさあ、可愛いものは誰が見たって可愛いじゃんか。あ、そういや都子さんも、なかなか顔はいいよな。なんていうか、ボーイッシュで快活な感じがしてさ」

晴道は頭の後ろで両手を組みながら、悪びれる様子もなくガハハと豪快に笑う。


その節操のない面食いぶりに、綱江は完全に呆れ果て、唇を不満げに尖らせながらプンプンと怒りを露わにした。

「ほんまにこの面食いは……。まあ、御住職さんが物凄く美人なんは確かやし、都子さんかてボーイッシュ美人なんはわかるけど、そんな風に他の綺麗な女性に目移りして、すぐ浮気してデレデレしてて、女鬼さんがそんな不誠実な男に振り向いてくれるわけないやろ!」


「だから浮気じゃねえし!俺はただ、客観的な事実として美人の評価をしてるだけだろ!」


晴道が必死になって顔を真っ赤にしながら反論すると、二人のやり取りを無表情のまま聞いていた呪術師が、少しだけその視線を動かした。

「なるほど、晴道さんはすでに女鬼さんと会わはまりましたか。ということは、あの摩訶不思議食堂には、もう行かはったようですな」


呪術師がそう呟くと、それまで静観していた才狐が一歩前に出て、礼儀正しく呪術師に報告を告げる。

「はい。先日、3人で摩訶不思議食堂を訪れまして、ステーキ膳を頂きました。本当に美味しかったです」


「それは宜しゅうおす。摩訶不思議食堂のステーキ膳は絶品ですからなあ。僕も普段から、あの摩訶不思議食堂の料理には大変お世話になっとります。あの店て作ってくれはる食事は、どれも本当に身体に沁みますわ」

呪術師は相変わらず眉一つ動かさない静かな佇まいのまま、懐かしむようにそう言った。


その言葉を聞いて、晴道は再び驚いたように大きな声を上げる。

「へえ!おっさんもあの摩訶不思議食堂の常連なのかよ!あ!ということはさ、まさかおっさん、あの綺麗な女鬼ちゃんの彼氏じゃねえよな?いや、もしかして、昨日一緒にいたあの可愛い住職さんの彼氏とか?一体どっちなんだよ?」


晴道がニヤニヤと下世話な勘繰りを始めると、綱江は顔を真っ赤にして彼のパーカーの袖を乱暴に引っ張りながら厳しく叱る。

「こらー!またそうやって初対面の方に対して、めちゃくちゃ失礼な事言うてるし!ええ加減にしなさい!」


「いや、構いませんえ。僕はどちらの恋人でもおへん。彼女達は大切な友人であって、僕のようなおっちゃんが、そんな大層な関係になれるようなお方々ではおへん」

呪術師は少しの動揺も見せず、どこまでも淡々とした声音で晴道の無礼な質問を綺麗に否定した。


その大人すぎる返答を聞いて、晴道は納得したように一人で腕を組み、不敵に笑う。

「まあ、そりゃそっか。よくよく考えてみたら、おっさんとじゃ、さすがに年の差があり過ぎだ。おっさんが彼氏だったら、犯罪臭がしちまうもんな。」


晴道が調子に乗ってガハハと大笑いすると、綱江は今度こそ怒りの限界に達したようで、自らの頭を抱えてプルプルと震え出した。

「あかん、聞いてたら本当に頭が痛くなってきたわ……。今すぐこの脳筋男の頭に、一発強烈な拳骨を御見舞いしたくなってきた……」


「なんだよ綱江、俺はただの事実を率直に言ったまでだろ。あ、それよりおっさん、これからあの可愛い住職さんのところへ行くんだろ?だったら俺もぜひ一緒に行きたい!連れてってくれよ!」


晴道が自身の不躾な態度を棚に上げて、今度は親しげに呪術師に同行を願い出ると、綱江は今度こそ完全に呆れ果て、深い深い溜息を漏らす。

「失礼なことを散々言うておいて、しかもその上からさらに同行させろなんて、どこまで図々しい男なんや、ほんまに……」


綱江が額を押さえる中、呪術師は晴道のその真っ直ぐで不遠慮なエネルギーを嫌がる風でもなく、ただ静かに頷いた。

「ほな、皆で行きましょか。今くらいの時間やったら、お寺の朝の御勤めである、毎日の勤行も綺麗に終わってはる頃やさかいねえ。少しばかりの手土産だけを途中で買って、そのまま向かいまっせ。ほなまた、気狐さん。お邪魔致しました。」


呪術師は表情一つ変えないまま、颯爽とした足取りで鳥居に向かって歩き出す。

そのコートをなびかせる大先輩の後ろを、才狐、綱江、そして晴道の3人の若き術者達も、慌てて後ろを付いて行く。

社の頭上に浮かんでいた白い気狐は、その小さく可愛い前足をフワフワと振るようにして、彼らの背中を見送った。


「気を付けて行ってらっしゃいなー」

気狐のはんなりとした見送りの声が、朝霧の境内に優しく響き渡る。


そして。


彼らの姿が鳥居の向こうへと完全に消え去り、静寂が再び奥の院を包み込んだ頃、気狐はフワフワと滞空しながら、その細い目を怪しげに三日月のように細めた。


「やれやれどす。本当に、妖古様が言うてはった通りの、血気盛んで面白い男の子どすなあ。術者としてどれほど腕っぷしが強かろうが、あの呪術師さんのように、その強大な力を欠片も感じさせへんと言う事が、一体どれほど恐ろしくて凄いことか……。あの坊やも、今日で身を以て思い知ったら宜しゅうおす」

気狐はそう言って、鈴を転がすようにコロコロと楽しそうに笑う。


そして、その白い身体をフワフワと浮かせながら、自らの棲処である小さな御社の奥へと、静かに戻って行くのだった。


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###〜伝令符が告げる不穏な予兆と、大先輩達の『読符』の真髄〜


朝霧がまだ薄く残る古都の街を進み、4人の異能を借る集団は一度京都駅へと向かった。

呪術師が早朝の早い時間から開いているお土産用の店舗へと立ち寄り、手土産として上品に包装された高級な羊羹を一本買う。

そして、目的の品をしっかりと携えると、4人は再び京都駅の近代的な建物を出て、静かに北の方角へと向かって並んで歩いて行く。


すると、大通りから一本入った静かな路地に差し掛かった時。


呪術師は突然足を止め、北の空を見上げながら「……なんともまあ、朝一番から騒々しいことでんな」と静かに呟くと、再び何事もなかったかのように淡々と歩き出す。

才狐達はその大先輩の意図が掴めず、少し首をかしげながらも、何かを察して黙って後ろに付いて行く。


そうしてしばらく歩き、目的の浄土宗寺院の重厚な山門まで来たところで、中から女性住職が厳かな法衣姿で、山門をくぐって外に出て来た。


ちょうど門から出てきたその美しい姿に向けて、呪術師は胸の前で綺麗に手を合わせた。

「御住職、お早う御座います。朝早くから突然押し掛けてしまいまして、誠に恐縮です」


呪術師が合掌してお辞儀をして挨拶をすると、若き女性住職もまた、いつものように穏やかな菩薩笑顔を浮かべた。

胸の前で優しく手を合わせ、彼らに向かって丁寧にお辞儀をして挨拶を返す。

「お早う御座います、呪術師さん。それに、皆さんも朝早くからお揃いで、お早う御座います」


その聖なる挨拶を受け、3人の高校生達も並んで深く頭を下げ、元気に声を揃えた。

「「「お早う御座います!」」」


全員の挨拶が済んだところで、呪術師は黒いロングコートの襟元を正し、目の前の女性住職に向けて声音を少しだけ低くする。

「さてさて、どうしたもんでしょうな。ある意味、才狐さん達にとっては、妖古さんの仰る『御近所付き合い』の絶好の機会にはなると言えばなりますが、少々物騒なタイミングになってしまいましたなあ」


呪術師がその表情を一切崩さないまま淡々と告げると、女性住職もまた、北の空を少しだけ見上げてその綺麗な眉をひそめた。

「ええ、本当に……。少々、危険を伴う事態になりそうですが、如何致しましょうか?」


女性住職が困ったようにそう言うと、ただならぬ気配を感じ取った才狐が、その大きな瞳を呪術師へと向けた。

「え?危険を伴うって、一体何があったんですか?」


才狐が不思議そうに尋ねると、呪術師は周囲の気配を警戒するように、視線を静かに動かす。

「平たく言えば、ある怪異が朝っぱらから、かなり危ないもんをあちこちに飛ばして暴れている現場に、これから僕と御住職とで直接行く事になります」

呪術師があっさりと、しかしそれが大変な大事である事を告げた。


その瞬間、その言葉を聞いて戦闘狂としての血が騒ぎ出した晴道は、待ってましたとばかりに両拳を力強く握りしめ、顔を輝かせる。

「なんだと!?怪異が朝っぱらから街中で暴れてるってのか!?だったら術者である俺達の出番じゃねえか!グズグズしてねえで早くその現場へ行こうぜ!」


晴道が鼻息を荒くして張り切り出すと、隣にいた綱江は呆れたように彼のパーカーの袖を強く引っ張った。

「ちょっと晴道君、不謹慎にワクワクして張り切るのをやめよし!呪術師さんは、ただの喧嘩やなくて『危ないもんを飛ばしてる』ってハッキリ言うてはるやん!もっと事態の深刻さを考えて警戒しいや!」


綱江がそう言って晴道を厳しくたしなめていた、まさにその時。


北の方から一本の淡い光を放つ何かが、凄まじい速度でこちらに向かって飛んで来た。

それは才狐の頭の上を生き物のようにくるくると楽しそうに飛び回り、それを見た才狐がスッと右手を上へと差し出す。

すると、その光の塊は吸い寄せられるようにして才狐の右手にピタリと収まり、瞬時に一枚の古風な御札へと変わった。


その一連の見事な変化を間近で見ていた晴道は、驚きと共にその御札を指差す。

「あ、それって昨日言ってた、霊力や妖気でメッセージを遠くまで送る伝令符ってやつか?」


晴道が興味深そうに尋ねると、才狐はその御札に込められた独自の霊的な紋様をじっと見つめる。

「うん。これは、僕の師匠である妖古さんからや」

才狐はそう言って、御札に込められた内容を頭の中で静かに読んでから、呪術師と女性住職の方を真っ直ぐに見つめた。


すると、その才狐の視線を受けた女性住職は、彼の持つ御札の文字を覗き込むこともなく、優しく微笑みながらすべてを完璧に察していた。

「妖古さんはあなた方に、私達に付いて行くようにと、そう仰っているようですね」


女性住職が穏やかにその内容を言い当てると、呪術師もまた、小さく息を吐いてすべてを察する。

「やれやれ、妖古さんのことですから、これも若い術者達にとって、これ以上ない格好の修行と言う事なんでしょうなあ」


二人のその驚異的な察しの良さを目の当たりにして、才狐は驚きのあまりその眼を丸くして見開いた。

「え……?お二人とも、僕の手の中にある御札を直接読んでいないのに、何が書いてあるか全部分かるんですか?」


才狐が素直な感嘆を漏らすと、呪術師は無表情のままであったが、その声にだけは少しだけ含みを持たせて説明する。

「これは『読譜』あるいは『読符』というやつですわ。相手の放った霊力や妖気の微妙な波形を読み取れば、書かれた文字を見ずとも、その意図が自然と伝わってくるもんです。後は、妖古さんとの関係と言いますか、仲良うさせてもろてますさかい、大体そんな意図やろうなあ、と察しがつくから、洞察も含みますかな。ほな、これ以上時間をかけるわけにもいきませんし、行きましょか。ただし、現場ではくれぐれも、僕と御住職から絶対に離れんようにしてください」


呪術師はそう静かに念を押して告げると、女性住職と並んで、物騒な気配が漂う北の方角へと颯爽と歩き出す。

その二人の頼もしい背中を見つめながら、晴道はこれからの展開を想像して身体を震わせた。


「なんだなんだ?一体これから何が始まるんだ?京都の凄い術者の戦いってやつを、ついにこの目で見られるのか!?」


晴道は胸の鼓動を激しく高鳴らせ、ワクワクと興奮しながら、才狐と綱江と並んで二人の大先輩の後を必死に付いて行くのであった。


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###〜山門の奥の凄まじき殺気と、大先輩達の底知れぬ圧倒的防壁〜


呪術師と女性住職の二人は、まるで行き先を完全に把握しているかのように、一切の迷いのない足取りで朝霧に包まれた街路を進んで行く。


やがて彼らが辿り着いたのは、歴史の深さを感じさせる風格漂うとある有名な観光寺院の前だった。

二人は山門の前で一度立ち止まると、神聖な場所への敬意を込めて綺麗にお辞儀をしてから、そのまま静かに中に入って行く。

その流れるような無駄のない動きに合わせるように、才狐、綱江、晴道の3人も続いて山門の前で丁寧にお辞儀をしてから、足早に中へと入る。


しかし、その山門をくぐり抜けて境内の敷地へと一歩足を踏み入れた、まさにその途端……。


「――っ!?」


空気が凍りつくような、凄まじい殺気がこもった異様な怪異の気配が、肌を刺すような衝撃となってビリビリと3人の身体へと伝わってきた。

その濃厚で悍ましい霊圧は、ただ事ではない異常事態が境内の奥で起きていることを明確に物語っており、若き術者達は思わずその場に身構える。


だが、そのただならぬ気配を肌で感じ取りながらも、未だ戦闘狂としての血がたぎっている晴道は、ここぞとばかりに獰猛な笑みを浮かべた。

「おいおい、朝っぱらから随分とド派手にやってくれてんじゃねえか。流石にこれだけの殺気を出してやがるんだ、言葉の話し合いじゃなくて、きっちりとドンパチやんなきゃいけねえよな」


晴道はそう言って、自らの作務衣の懐にある強力な破邪の御札へと素早く手を伸ばした。

しかし、そんな若者達の緊張を余所に、呪術師と女性住職の二人は、まるでお気に入りの公園を朝の散歩でもするかのように、驚くほど颯爽とした様子で、その凄まじい気配の元へ向かって臆することなく歩いて行く。


その無防備に見える二人の背中を見て、晴道は術者としての強い正義感と焦燥感から、咄嗟に二人の前に躍り出て先頭に立った。

全身の筋肉を緊張させ、空手の構えを緩やかに取りながら、ゆっくりと気配の奥へと近づいていく。

「おい、そこらの一般人は危ねえから俺の後ろに下がってな!あんたらみたいな霊能力を持たねえ素人は何も感じられねえだろうし、今の状況がわかんねえだろうけどよ、この奥にいる奴はマジで引くほどやべえぞ!下手に近づいたら命はねえから、大人しく俺の背中に隠れてろ!」


晴道は呪術師と女性住職を「霊気を持たない無力な一般人」だと完全に思い込んだまま、二人を守るようにさらに寺院の奥へと足を踏み入れて行った。


すると……。


その開けた境内の奥の広場で、彼らは衝撃的な光景を目の当たりにすることとなった。

そこには、髪を派手な金髪に染めて今風の派手な服装をした若い男女の観光客が、恐怖のあまり涙目でガタガタと激しく震え上がり、完全に腰を抜かして石畳の上にへたり込んでいた。

そして、その怯える男女の目の前には、人間を遥かに凌駕する2メートルを優しく超えるスキンヘッドの巨体を持ち、古びた土色の着物を身にまとった老人が、凄まじい瘴気を放ちながら両手を前に突き出して身構えていた。


その場を支配する圧倒的な怪異特有の禍々しい気配と、そのあまりにも人間離れした異様な姿形を見て、一目でそれが現世に仇なす本物の怪異であるとわかった3人の若き術師達は、息をのんで極限の警戒をしながら鋭く身構える。


先頭に立つ晴道は、腰を抜かしている一般人の男女を救うべく、鋭い怒号を境内に響かせた。

「おいやめろ、そこのデカブツ!その怯えてる人達から今すぐ離れろ!これ以上その人達に手を出そうってんなら、この阿倍野晴道が直々にお前の相手になってやるぞ!」

晴道はそう叫ぶと、指先に挟んだ破邪の御札を構え、いつでも飛びかかれるように空手の構えを深く取る。


しかし、その挑発的な言葉が引き金となり、次の瞬間……。


こちらの気配を察知した老人が、地響きを立てるような勢いで豪快にこちらへと振り向き、そして。

老人はそののっぺりとした顔を怒りに歪ませながら、激しい声を張り上げた。


「だあっとれ!このクソガキ坊主めが!」


老人はそう怒鳴り散らすと、振り向きざまの勢いのまま、前に突き出した両手の手のひらから、大きな瘴気の塊らしき赤黒いエネルギー弾を凄まじい連射速度で連続して放って来た。

空間を削り取るような音を立てて迫り来る無数の瘴気弾に対し、先頭の晴道は衝撃に目を見開いた。


「うおっ!予想以上に速えッ!?」


晴道は咄嗟に地面を強く蹴り、身体を横へと鋭く転がすことで、何とかその直撃を間一髪で避けることに成功した。

しかし、地面を転がりながら体勢を立て直した瞬間、晴道の脳裏に最悪の事態がよぎり、血の気が引いた。

自らが避けたことで、自分のすぐ後ろには、先ほど「下がってろ」と言ったばかりの、一般人である呪術師と女性住職の二人がそのまま残されていることを、完全に失念していたのである。


(しまった、あの二人が直撃を喰らっちまう――!)

晴道が絶望的な思いで「危ねえ!」と叫ぼうとした、まさにその時だった。


「まあ、そんなに朝から血気を荒らげんと、まずは落ち着いて下され」


どこまでも静かで、抑揚のない淡々とした声が響く。

見れば、後ろに立っていた呪術師は、左手はコートのポケットに突っ込んだままの姿勢を一切崩していない。

そして、眼前に迫る無数の凶悪な瘴気の塊に対し、ただ退屈そうに右手だけを前に出すと、まるでハエでも追い払うかのように軽く払ってみせた。

すると、信じられないことに、その呪術師の手が空気を裂いた瞬間、飛んできた無数の瘴気は、まるで見えない巨大な壁に衝突したかのように一瞬で軌道をねじ曲げられ、遥か上空へと跳ね飛ばされて霧散してしまった。


さらに、その呪術師の隣に佇む女性住職に至っては、身をよじることすらしていない。

ただ胸の前で静かに合掌しているだけであるのにもかかわらず、彼女に向かって飛んでいった全ての瘴気弾は、その身体に近づく事すら出来ずに、彼女の周囲に展開された目に見えない聖なる光の防壁に触れた瞬間、パチパチと音を立てて霧散して跡形もなく消えてしまった。


「…………え?」


そのあまりにも現実離れした、神業とも言える圧倒的な防御の様子を目の当たりにして、避けた晴道も、そして背後で見守っていた才狐も綱江も、言葉を出すことすらできずに、ただただ驚くばかりでその場に凍りついていた。

術者としてのオーラや霊気を一切感じさせなかった二人が、現世を揺るがすような怪異の全力の攻撃を、片手で払うか、あるいは合掌だけで完全に無力化したのである。


すると、その圧倒的な力の実力差を瞬時に察知したのか、先ほどまで狂暴に暴れていた老人は、一転してその顔面を驚愕に引きつらせた。


「あ!?ちょ、ちょっと待ってや、すまんかったがな!ワシが悪かったがな、堪忍してぇな!」

老人は慌てて両手を引っ込め、これ以上の攻撃の意思がないことを示すように、冷や汗を流しながら瘴気を放つのをピタリとやめる。


そんな怪異の劇的な態度の変化に対しても、呪術師は黒いコートの襟を軽く直しながら、何事も無かったかのように淡々と、どこまでも呑気な声音で挨拶を交わした。

「お早う御座います、手の眼さん。朝早くから随分と派手な大立ち回りをされておられますなあ」


「お早う御座います、手の眼さん。朝の清々しい境内で、一体どうなされたのですか?」

女性住職もまた、いつもの穏やかな菩薩笑顔を浮かべながら、胸の前で綺麗に合掌してお辞儀をして挨拶を交わす。


二人のそのあまりにも日常的な態度に対し、2メートルを超える巨体の老人は、すっかり恐縮した様子で、自身の大きな頭をガシガシとかきむしる。


「いやあ、相変わらずお二人とも、気配が全くおへんさかい、ワシもついつい、こいつらの増援かと勘違いしてやってしもたがな。本当にえらいすんまへんこったがな。こんなところで、もしもえらいこっちゃんが通りかかって見ておったら、あの子に『手の眼じいちゃんが不届きな事をやってしまいよった、えらいこっちゃ』って言われてまうところやがな。ほんで、改めてお早うさんやがな、呪術師はん、御住職はん」

老人はそう言って、自らの大きな頭をかきながら、二人の大先輩に向かってペコペコと丁寧にお辞儀をした。


晴道がその老人の姿を改めて凝視してみると、その老人の顔面には本来あるはずの眼が一切存在していなかった。

その代わりなのか、老人が前に差し出している両手の手のひらの中央には、それぞれギョロリとした大きな目が不気味に付いており、こちらをじっと見つめている。


その老人こそが、古くから京都に住まう、『手の眼』と呼ばれる怪異であった。


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###〜手の眼が語る事件の真相と、暴かれる不届き者の罪咎〜


目の前にそびえ立つ、両手の手のひらに不気味で巨大な眼球を宿した妖怪、手の眼。

圧倒的な実力差を見せつけられた後も、阿倍野晴道は未だ完全には警戒を解くことができず、鋭い視線を向けたまま右手の破邪の御札をいつでも投げ放てるように身構えていた。


そんな若き術者のピリピリとした様子を、手の眼は両手を器用に動かして観察していたが、やがてその大きな二つの眼球を呪術師と女性住職の二人へと向けた。

「……ところで、そこにいるやたらと血気盛んで喧嘩っ早そうな身なりの坊主は、呪術師はんと御住職はんの連れかいな?」


手の眼がどこか探るような声音で尋ねると、呪術師は左手をコートのポケットに入れたまま、晴道が指先に挟んでいる独特な紋様の御札をちらりと盗み見るように視線を向けた。

そして、相変わらずその端正な顔立ちを一切崩さない無表情のままで、晴道の素性を静かに紹介する。

「ええ、まあ。東京にある由緒正しき神社のご出身の方だそうで、そちらの才狐さんと綱江さんの、学校の御友人との事です」


「ほうでしたかいな、それはそれは大変失礼なことをしてしまいましたがな。坊主、本当にすまんこったがな、ワシも敵の急襲かと焦ってしもて、いきなり派手に瘴気弾をぶっ放してしもたがな」


巨体の怪異である手の眼は、そう言って手のひらの眼球を地面に向けるようにして、晴道に対して実に入念に頭を下げて謝罪した。

怪異の側から極めて腰の低い態度で謝られたことで、完全に戦うタイミングを失った晴道は、拍子抜けしたように目を丸くする。


晴道は、未だに信じられないといった様子で、恐る恐る尋ねた。

「お、おう……。えっと、お前、もう俺達とこれ以上闘う気はねえってことでいいのか?」


「闘う気なんて滅相もないがな。さっきはな、坊主がやたらと凶悪な殺気を向けてきよるさかい、反応してしもたがな。それに、そっちにいる金髪の若造どもが、いつの間にかワシを退治するために術師の助っ人でも呼びよったんかと思うて、防衛のために先手を打っただけなんやがな。もう、さっきのような危ないもんは二度と飛ばさんがな」

手の眼は大きなスキンヘッドの頭をガシガシと困ったようにかきながら、自らの手のひらにある眼球をパチパチと瞬かせてみせた。


「そ、そうか。まあ、そっちにその気がねえって言うなら、これ以上無理にやり合う必要もねえけどよ……」


晴道はそう言って、未だに心の奥底で強い警戒心を維持しながらも、指先に挟んでいた破邪の御札を自身のパーカーの懐へと静かにしまい込んだ。

しかし、すぐに広場の片隅でガタガタと腰を抜かしている若い男女の観光客に視線を戻すと、晴道は正義感から再びその太い眉をぐっとしかめる。


「こっちに敵意が無い事は十分にわかったよ。でもよ、闘う気がねえって言いながらも、現にその人達の事、襲ってめちゃくちゃ怖がらせてただろ?それは一体どういう訳なんだよ」


晴道が正義感から語気を強めて厳しく追及すると、それまで静かに戦況を見つめていた呪術師が一歩前に出た。

黒いロングコートの佇まいのまま、地面にへたり込む金髪の男女を冷ややかな視線で見つめ、手の眼に向かって問いかける。

「手の眼さん、一体全体、この派手な御二人さんは、何をやらかさはったんです?」


呪術師のその質問を聞いて、晴道は我が意を得たりとばかりに力強く頷いた。

「そうだ、おっさんの言う通りだ!えっと、お前はこの境内で一般人に向かって、一体何をやらかしてんだよ」


晴道がそう尋ねると、呪術師は表情を微塵も動かさない静かな調子のまま、どこまでも淡々と衝撃の事実を告げた。

「晴道さん、ここで何かをやらかしたんは、手の眼さんの方やおへん」


「え……?」


呪術師のあまりにも意外な一言に、晴道は大きな衝撃を受けてその眼を大きく見開いた。

背後で見守っていた才狐と綱江の二人も、その言葉の真意を測るようにお互いの顔を静かに見合わせる。


呆然とする若き術者達を他所に、呪術師は地面にへたり込む金髪の男女に向けて、冷徹な響きを持った声を淡々と投げかけた。

「そちらの派手な服装をされた御二人さんは、一体ここで何をやらかさはりましたんや?恐らくは、別の場所で何か重大な悪さをやらかしてしもて、この神聖な境内でも、更に同じような悪さを働こうとして、それで手の眼さんの堪念袋の緒を完全に引きちぎってしもたっちゅうところが、真相やないですかねえ」


呪術師が、まるでその場で一部始終を見ていたかのように鋭く指摘すると、手の眼は我が意を得たりとばかりに両手の手のひらを叩き合わせて大笑いした。

「ガハハ!いやあ、恐れ入ったがな!まるで実際にここでワシらのやり取りを見て来たみたいに、一言一句違わずに綺麗に言い当てはるがな、呪術師はんは!」


手の眼がそう言って愉快そうに笑うと、隣に佇む女性住職もまた、その事態の真相を完全に察したようで、いつもの穏やかな菩薩笑顔のまま、地面の男女に視線を向けた。

しかし、その美しい瞳の奥には、決して誤魔化しを許さない厳しい光が宿っている。


「やはり、呪術師さんの仰る通りでしたか。そちらの御二方、あなた方がこの神聖なお寺の境内で一体何をなさったのか、詳しく教えて頂けませんか?」

女性住職が菩薩のような慈悲深い笑顔でありながら、逃げ道を完全に塞ぐような厳しさでそう静かに問い詰める。


すると、手の眼はここぞとばかりに2メートルを超える巨体を大きく震わせ、地面の男女を威圧するように怒鳴り散らした。

「おいこら、きさんら!聞こえんのかいな!ありがたいことに、こちらの御住職はんが、わざわざ懴悔の機会を設けてくれはったんやがな!きさんらがここでやってしもた不届きな悪事を、今すぐこの場で正直にすべて白状するがな!」


手の眼が両手の手のひらにあるギョロリとした巨大な眼球を容赦なく男女の顔面へと近づけて突きつけると、恐怖の限界を迎えた金髪の女性が、狂ったような悲鳴を上げて叫んだ。

「わ、わかったから!やったことは全部話すから!だからそのキモい手のひらの眼を、こっちにそれ以上向けんといて!」


「誰がキモいがな!ワシのこのぱっちりとでかい二つの眼は、妖怪の世界では大変な魅力にあふれとる高貴な眼やろがな!なんて失礼なことを言うんやがな!」

手の眼は自慢のパーツを侮辱されたことに本気でプンスカと怒り、両手を激しく振り回して憤慨してみせる。


「ひぃぃ!?ご、ごめんなさいーっ!もう絶対にキモいだなんて言わんから!私らがここでやった事、隠さずに全部言うから堪忍して!」


金髪の女性は涙をボロボロと流しながら猛烈に謝罪し、隣で恐怖のあまり完全に白目を剥きかけて震えがっている金髪の男性と一緒に、冷たい石畳の上でこれ以上ないほど行儀よく、きっちりと正座をするのであった。


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###〜手の眼が諭す因果応報と、力を隠し持つ大先輩達の真髄〜


冷たい石畳の上でこれ以上ないほど小さくなって正座をした金髪の若い男女は、涙をボロボロと流しながら、自分達が今日この場所へと辿り着くまでにしでかしてしまった一部始終の不届きな行いを、ぽつりぽつりと震える声で白状し始めた。


二人は、街が寝静まっている時間帯まで、夜通し派手に遊びまわっていたのだという。

やがて東の空が白み始めた早朝、「肝試しや!」と言って悪ノリの延長のままに、とある近くの静かな墓地へとふらふら入り込んでしまった。

そこから彼らの悪行はエスカレートし、他の誰かが故人を想って丁寧に手向けていた、御墓に供えられていた枯れかけた花を、面白半分で無造作にバキバキとへし折っては地面に乱暴に捨て去るという暴挙に出た。


それだけに留まらず、今度は遊ぶための小遣い欲しさに、どこかの御墓に御賽銭などが隠されて置いていないか、周囲の御墓の隅々まで荒らすように探してみた。

しかし、当然ながらそんな場所に都合よく金銭が落ちているはずもなく、見当たらなかったことに苛立った男の方が、完全に八つ当たりみたいな不穏な動機で、厳かな墓石を何度も足で激しく蹴り飛ばしてからその墓地を後にしたのだという。


だが、それでも金銭への未練を断ち切れなかった二人は、さらに手軽に御賽銭を手に入れようと思いつき、早朝の早い時間から門を開けているこのお寺の境内へと意気揚々とやって来た。

そうして人目のないのを見計らい、本堂の前に置かれていた賽銭箱の中身を不当にあさろうとしたまさにその瞬間。

墓地での一連の悪行を見ていて、激怒していた怪異・手の眼が突如として現れ、恐怖に狂う二人を、この人気のない境内の奥の奥へと追い詰めていた、というのが事の真相であった。


若い男女が語った、あまりにも浅はかで倫理を欠いた一部始終を聞き届けると、呪術師はかける言葉もないといった様子で、呆れた深い深いため息をそっとつく。

そして、その隣に立つ女性住職は、人間の心の身勝手さと、亡くなった方々への敬意の無さに胸を痛めるように、とても悲しい表情になって静かに目を伏せた。


そんな大人達の沈黙とは対照的に、巨体の怪異である手の眼は、両手の手のひらにある巨大な眼球をこれ以上ないほど怒りに激しく見開いた。

周囲の空気がビリビリと震えるほどの威圧感を放ちながら、正座する二人を激しく叱りつける。

「どこまでも浅はかでアホな事しでかしよったがな、きさんらは!亡くなった先祖を敬う気持ちもへったくれもあらへんがな!これはもう、ワシの手から特大の雷を落として根性叩き直したらなあかんがな!」


手の眼が両手の手のひらの目をギラリと二人の顔面に突きつけると、金髪カップルは完全に縮み上がり、抱き合いながら悲鳴を上げた。

「「ひえぇ!?ごめんなさい、ごめんなさいぃ!」」


二人が涙目で恐怖におののく中、女性住職は静かに一歩前に進み出た。

その美しい菩薩のような顔立ちに深い憂いを帯びさせながら、優しい声色でありながらも、決して妥協を許さない仏の厳しさを持って静かに諭し始める。

「誰の目にも留まらないと思って、そんな風に墓地を勝手に荒らすだなんて、本当に悲しい事です。御墓に備えられていた花を、勝手に折って無造作に捨て去るという行為は、その御墓をご家族がどんな想いで守ってきたか、そしてその御墓に静かに眠る大切な方へを、酷く侮辱する行為ですよ。その重みを分かっておいでですか?」


「まったくやがな!御住職はんの言う通り、自分のやったことの恐ろしさを骨の髄まで反省するがええがな!」


手の眼が横からフンスと鼻を鳴らしてさらに叱りつけると、女性住職は静かに両手を胸の前で合わせた。

どこまでも清らかな響きを持った声で、金髪の男女に語りかけていく。


「この手の眼さんは、何も理由もなく人間を襲うような恐ろしい方では御座いません。手の眼さんは、古くから御墓という聖なる場所で悪さをする不届きな人や、他人の大切なお金を不当に奪おうとする強欲な行為をした人の前にこそ、その罰として現れる方なのです。つまり、あなた方は他でもない自分自身の行動によって、手の眼さんからこうして叱られるような悪い事をしてしまったという事です。まずはその因果を、しっかりと自覚して下さいまし」

女性住職はそう言って、正座する二人に向けて静かに合掌してお辞儀をする。


その神聖なやり取りを側でじっと聞いていた晴道は、不思議そうに首をかしげた。

「え?その人達を襲ってるとこしか見てなかったから、てっきり人間を襲う悪い妖怪かと思ってたけど、手の眼って、もしかして悪い奴を取り締まる良い妖怪なのか?」


晴道が素直な疑問を漏らすと、それを聞いた手の眼は、手のひらの目を晴道の方へ向け、どこか誇らしげに声を響かせた。

「坊主、ワシら怪異の世界には、人間が勝手に決めたような、ええも悪いもないがな。ただただ、因果応報の理の通りに、悪い事しよった不届きな輩のところに、ワシが現れてお仕置きをするっちゅう、それだけの話やがな」


手の眼が胸をドカンと張ると、女性住職は再び穏やかな菩薩笑顔を浮かべ、怯える若い男女を優しく見つめた。


「手の眼さんが、こうしてあなた方の前に現れて下さった事は、裏を返せば、これ以上大きな罪を犯す前に御自身の行いを深く省みて、これからの生き方の道を正すための、またとない善き機会と言えましょう。あなた方は、もし御自身の家の大切な御墓が、見ず知らずの他人に同じようにめちゃくちゃに荒らされたら、一体どのように思われますか?その残されたご家族の悲しみを、これからは自分の事として、よく考えてみてください」


女性住職から、お寺の住職としての、魂に優しく染み渡るような慈悲深い説法を受け、金髪の二人は今度こそ自らのしでかした罪の深さを芯から理解したようだった。


石畳の上に両手をしっかりとつき、深く頭を下げて涙ながらに声を絞り出す。

「……はい、本当に僕達が間違っていました。すみませんでした」

「本当に、本当にごめんなさい……」


二人が心からの涙を流して正座して頭を下げる姿を見て、手の眼は突き出していた両手をゆっくりと引き下げた。

どこか満足したようにフンスと大きな鼻を鳴らし、寛大な態度を見せる。

「幸いなことに、この寺の賽銭箱からは、まだ一円も盗んでおらんからな。今ここで言ったことをきっちり反省して、自分達が墓地でやってしもた不始末を、今からすぐに自分の手で元通りに綺麗に直すんやったら、今回は呪術師はんと御住職はんに免じて勘弁したるがな」


「はい、本当にごめんなさい……。今すぐ墓地に戻って、汚してしまったところを全部綺麗に直します。それから、そのお墓を護っているお寺の方にも、自分達の口から直接しっかりと謝ります!」

金髪の二人はそう素直に謝罪して、これからの行動をしっかりと約束する。


こうして早朝の境内に満ちていた禍々しい殺気は完全に霧散し、事件は見事に一件落着した。


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女性住職から温かく見送られ、解放された金髪の若い男女は、何度も何度も頭を下げながら、自分達が荒らしてしまった墓地へと大急ぎで片付けに向かっていった。


それを見届けた手の眼も、巨体をのんびりと揺らしながら、呪術師達の前で丁寧にお辞儀をする。

「ほな、ワシの仕事もこれで終わりやさかい、またやがな。呪術師はん、御住職はん。若い術者の3人も、善き一日を過ごすんやがな」


手の眼はそう静かに言い残すと、朝霧が薄れる境内の奥へと、まるで幻のようにふらりと姿を消して去って行く。

緊迫した戦場から一転して、いつもの清々しい朝の静寂を取り戻した寺院の中で、女性住職は胸の前で合わせていた手をそっと解いた。

そして、彼らに向けて、どこまでも優しい菩薩笑顔を見せる。


「皆様、朝早くから本当にお疲れ様で御座いました。それでは、騒動も無事に解決いたしましたことですし、これからお寺へ戻って、朝の御茶の時間と致しましょうか」


女性住職の温かい提案を聞いて、それまで終始無表情を貫いていた呪術師は、懐から京都駅で買って持ってきた高級な手土産の包みを静かに取り出してみせた。


「そうですな。ちょうどここに、皆で食べられる美味しい羊羹もありますさかい、今朝は御住職のお寺さんで色々とお世話になりまっせ」

呪術師が淡々とそう告げると、二人の大先輩は並んで、朝の光が差し込む山門に向かって颯爽と歩き出す。


その後に続くようにして、才狐と綱江の二人も自然な足取りで歩き始め、晴道も首を傾げながらその後に付いて行く。

しかし、歩き出しながらも、晴道の中の術者としての常識は完全にひっくり返ったままであった。


彼は自分の大きな手を何度も握ったり開いたりしながら、隣を歩く才狐と綱江に向けて、どうしても抑えきれない疑問をボソリと口にする。

「なあ……すげえもんを見ちまった。でもよ、どうしても納得がいかねえんだ。あの呪術師のおっさんも、あの可愛い御住職さんも、俺達術者が修業の末に身にまとうはずの霊気とか霊力とか、術の力を体中から欠片も感じねえんだぜ?なのに、なんであんな恐ろしい怪異の攻撃を、片手で払うだけだったり、合掌だけで平然と防いだり、怪異の側からペコペコ頭を下げさせるようなことが出来るんだ……?」


晴道は、京都の観えない世界が持つ底知れない深さと、目の前を歩く二人の大人が見せた強さを前にして、ただただ狐につままれたような顔で、頭を何度も傾げっぱなしだった。



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