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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第33話前編:井開都子の異界を思うほっこり飯

ザッ、ザッ、ザッ、と早朝の清冽な空気を切り裂き、力強くアスファルトを蹴る足音が京都の街に響き渡る。


井開都子いかいみやこは、京都のキャラクターデザインやグッズ等を手掛ける、そこそこの規模のキャラクタービジネス関連会社に勤める、入社2年目の若手社員だ。

今年で24歳になり、持ち前の童顔のために実年齢より若く見られがちではあるものの、最近ではすっきりと整った顔立ちの中に大人の美人度がいっそう増してきている。

ツンと短く切りそろえられたベリーショートヘアが、いかにも活発な彼女の性格を体現していた。


学生時代は陸上競技に全力を注ぎ込みながら、趣味でボクシングの練習にも熱心に汗を流しており、社会人となった今でも毎日のロードワークやストイックなトレーニングを決して欠かさない。

シュッシュッ、と鋭い風切り音を立ててシャドーボクシングを繰り出す姿は、誰もが振り返るほど明るく活動的なボーイッシュ美人そのものだった。

しかし、そんな太陽のように健康的な都子には、幼少期から周囲が自然と距離を置きたがるほどの、あまりにも特殊な経験と体質が刻まれていた。


都子は物心ついた時から、自分以外の人達には絶対に見えないはずの異形のもの達が、あまりにも鮮明に見えてしまう特異な体質の持ち主だった。


始まりは、まだ幼い木漏れ日の記憶にまで遡る。


ある日、古い我が家の中に、ひっそりと佇む着物姿のおかっぱ頭の女の子を見つけた。

都子にとってはごく普通の同い年くらいの遊び相手であり、毎日のように夢中になって仲良く遊んでいた。

楽しげな笑い声が響く部屋を覗き、両親からは一人でごっこ遊びでもしているんだろうと最初は思っていたという。


だが、その光景はどこか歪で、奇妙な違和感に満ちていた。

都子はいつも、誰もいないはずの空間に向かって無邪気に駆け寄り、満面の笑みを浮かべて語りかける。


「この子といっつも遊んでんねん!」


衣服の袖を掴むように、あるいは誰かの冷たい手をぎゅっと握りしめて並んでいるような格好で、いつも嬉しそうに話していた。

一人っ子だから、所謂エア兄弟かエア姉妹を作って遊んでいるのだろうと、その時は両親も寂しい思いをさせているのかもしれないと切なく思いながら、ただ微笑ましく見守っていた。


しかし、年を重ねるにつれて、その無邪気な境界線は残酷な現実によって書き換えられていく。


千年の歴史が息づく京都の街。

そこには普段、人間たちの眼からは完全に姿をくらませていたり、決して見えないように隠れ潜んでいる怪異達が、あまりにも当たり前に溢れかえっていた。


路地の隅、古い大木の陰、古びた社。

至る所に蠢く異形の気配を見る事が出来た為、都子はそれらを見つけるたび、ごく自然に挨拶を交わしていた。

虚空に向かって会釈をし、朗らかに声をかける都子の姿を見て、周囲の人間はたちまち怪訝な表情を浮かべる。


「誰に話してんの?」

友人や通りすがりの人々が、引きつった笑みを浮かべながら尋ねてくる。


そんな時、都子の心には微塵の疑念もなかった。

「ほら、そこにいるやん、青く燃えてる火が観えへんの?手振ってくれてるやん。」


ボウッと怪しく揺らめく怪火の尾。

周囲の人達も当然同じように見えると思っていた都子がそう言うと、状況は一変した。


当然、そんな恐ろしいものが見えない周囲の人達や同級生達は、総毛立つような気味悪さを覚え、彼女を狂人扱いした。

いつしか人々は潮が引くように距離を取っていき、小学校高学年くらいからは、あからさまな揶揄いや執拗ないじめ、残酷な迫害の対象へと発展していく。

中学に入っても、その容赦のない孤立と苦痛は終わりを告げず、いつしか周囲からは「不気味ちゃん」「妖怪ちゃん」等と言われるようになる。


誰からも声をかけられず、バイ菌扱いされる地獄のような日々。


その異常な状況に、我が子を深く愛する両親もまた、彼女の精神に何か異常をきたしているのかもしれないと激しく苦悩した。

重苦しい沈黙が支配する家庭の中、幾度も精神科の白い扉を叩き、様々な検査を受けさせた。

しかし、どれだけ精密に調べたところで精神に異常は見られず、医師たちも首を傾げるばかり。


家庭内の空気は限界まで張り詰め、すっかり心身ともに疲れ果ててしまった両親は、環境を変えるために、都子を暫くの間、京都の郊外にある祖父母の元へ預けることに決めた。


だが、これが傷ついた都子の心を救う最大の転機となる。


祖父母は、この世の目に見えぬ理を深く理解している、とても器の大きい人達だった。

ある静かな夜、縁側で星空を見上げながら、祖母が都子の小さな頭を大きな手で優しく撫でながら話してくれた。


「都子が見えるんやったら、見えるんやろなあ。見えるのに見えへんって言わんでええで。でもな、見えへん人の方が多いのがこの世なんやから、時と場合によっては、あんまり言わんほうがええかもね。自分に見えへんもんを怖がる人もおるさかい、怖がらせない優しさとして、そっとしといてあげる事も覚えておくとええかもね」


祖母は温かい緑茶を淹れながら、慈愛に満ちた眼差しで静かに頷いて、深く傷ついた小さな背中を優しくなだめてくれた。

その言葉は、都子の凍りついていた心を芯からじわりと溶かしていった。


それからは、都子の生きる世界の歩き方が少しずつ変わり始めた。

高校時代からは、街の中でどれだけ奇妙な怪異達を視認しても、決してそれを口に出して言わなくなり、すれ違いざまにこっそり挨拶するだけにとどめて、波風を立てない世渡りの知恵を身につけた。

おかげで高校大学は無難に過ごして、かつての仇名も過去の霧の彼方へと消え去っていった。


そして東京の有名国公立大学に進学して、大学卒業後は古巣の京都へ戻り、現在のキャラクタービジネス関連会社に就職し、己の繊細な感性をデザインへと昇華させながら、誰にも脅かされない平穏な日々を確かに送っていた。


---


##異界への情熱と、賑やかなキャラクター開発部


社会人となった都子は、今の会社に入社後、念願だったキャラクター開発部へと配属される。

そこには、彼女が幼い頃からずっと胸の奥に秘め続けてきた、あまりにも熱い夢があった。


かつて自分を深い孤独と苦痛の底へと追いやった原因でもある、妖怪や怪異という存在。

けれど、彼らは決して恐ろしいばかりの不気味な存在ではないのだと、現世を生きる人間たちに広く知ってもらい、もっと身近に親しんで貰おうという強い思いあり、いつしかそれは彼女の人生において必ず達成すべき最大の目標にまでなっていた。

この会社に入社したことで、一気にその目標を叶えるための輝かしい舞台が整い、都子の胸は期待と興奮で激しく躍っていた。


それに向けて、高校時代から怪異について大っぴらに口に出さなくなった時からも、彼女の胸の内に灯る情熱の炎が消えることは決してなかった。

むしろ周囲の目を盗み、水面下でずっと古今東西のあらゆる妖怪を網羅した妖怪図鑑や、特に自分が生まれ育った京都の異界についての文献や書籍を、片っ端から貪るように読み漁ってきたのだ。


神社の古書から図書館の奥深くに眠る郷土資料にいたるまで、その膨大な知識量はすさまじく、今や「妖怪博士」と言われても誰もが深く頷くレベルにまで達している。


そんな時を経て、今の職場に満を持して配属されてからというもの、都子は寝る間も惜しんで奇妙で愛らしいアイデアを練り上げ、早速新しいキャラクターを考案しては上司の元へと持っていくのだが……。


バサッと勢いよく企画書がデスクに置かれ、上司である課長が鋭い眼差しを書類へと落とす。

キリっとした黒髪メガネのボブカットが映える美人課長は、額に薄らと青筋を浮かべながら、深く、重いため息をついた。

「都子、あんたまた……一応聞くけど、この一つ目で一本足の変なキャラクターは、何よ?」


あきれ果てた様子の課長に対し、都子は微塵も怯むことなく、むしろ我が意を得たりとばかりに満面の笑みを浮かべて身を乗り出す。

「唐笠お化けですよ!有名やないですか!今でもきっと、京都の町を夜な夜なぴょんぴょん跳ねてるんとちゃいますやろか!あ、夜に探しに行きたくなってきた!」


瞳をらんらんと輝かせ、身振り手振りを交えながら熱弁を振るう都子の原案。

しかし、美人課長は容赦なくその書類を突き返した。

「ハイ却下。阿保な事言うてんと、もっと可愛らしいモフモフキャラクターを提案して来よし」


あまりにも冷酷無比な即答に、都子は不満げに唇を尖らせて猛烈に食い下がる。

「え~、可愛いやないですか、めっちゃラブリーですやん!」


「どこがやねん!一つ目で一本足で飛び跳ねる傘とかキモイっちゅうねん!」

ガツンと机を叩くような勢いで、鋭いツッコミがオフィスに響き渡る。


これは都子がこの部署に配属されてからというもの、毎日のように繰り広げられているいつものやり取りであり、周囲の従業員達もすっかり慣れっこで、作業の手を止めることなくクスクスとおかしそうに笑う。


和やかな笑い声が広がる中、都子はめげずに更なる爆弾を投下した。

「モフモフがええなら、人面犬とかどないですか?モフモフですやん!」


再び満面の笑みを浮かべ、大真面目にとんでもない怪異を推してくる部下に、課長はついに頭を抱えながら一喝。

「妖怪から離れろ!」


怒気混じりのツッコミを入れて、さっさと自分の席へ戻るように手でシッシッと指示する。

これ以上付き合っていられないとばかりに背を向ける上司を見送り、仕方なく都子はトボトボと自分の席に戻った。


デスクの椅子に腰掛け、未練がましくスケッチブックの隅を眺めながら、都子は顎に手を当てる。

「唐笠お化け、可愛いと思うのになあ。課長かてボブカット、子供の頃に一緒に遊んだワラシちゃんに、めっちゃ似てるのに」


ブツブツと小さな声で不満を呟いていたその時、都子の脳裏に電撃のような閃きが走った。

パッと顔を輝かせた彼女は、すぐさま椅子から勢いよく飛び起きると、猛然とした足取りで再び課長のデスクの所に戻っていく。

突然戻ってきた部下の気配に、課長は書類から顔を上げて怪訝そうな表情を浮かべた。


そんな上司に対し、都子はデスクに両手を突いて、キラキラとした純真無垢な目でとんでもないことを言い出す。

「課長って、昔私が一緒に遊んだワラシちゃんに似てるから、課長をモデルにしてもええですか?」


「……そのワラシってのは、なんや?」

あまりの突拍子のなさに、美人課長は完全にジト目になり、強い警戒心を露わにしながら尋ねる。


すると都子は、待ってましたと言わんばかりに輝くような笑顔を咲かせた。

「当時は知らんかったから後で調べたんですけどね、あの子は座敷童やったんですよ!私が小豆のおやつあげたら、めっちゃ喜んでましたもん!座敷童って小豆飯とか小豆もんが好きなんですよ!」


オフィス中に響き渡る都子の朗らかな声と、一切の悪気のない暴露。

次の瞬間、静寂を切り裂くように課長の鋭い一喝が響き渡った。


「誰が座敷童や!上司を妖怪扱いすんな!」


ピシャリと放たれた見事なツッコミが炸裂し、また今日も、オフィスの一角に従業員達の我慢しきれない弾けた笑い声が響き渡っていた。


---


##執拗な嘲笑と、折れない妖怪博士の情熱


結局、その日も都子が魂を込めて考案した新キャラクターが採用されることはなく、もはや何連敗しているのか本人すら数えるのをやめてしまったほどの、無慈悲な却下を喰らってしまう。


どんよりとした空気のまま迎えた昼休み、都子はせめて美味しいもので気分を変えようと、近場にあるお気に入りの喫茶店へと足を運んだ。

鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てる、ケチャップたっぷりの昔ながらの香ばしいナポリタンを全力で堪能し、すっかりお腹を満たしてから会社のデスクへと戻ってくる。


「ふぅ……。やっぱり、あの店のナポリタンは裏切らへんなぁ」


お腹がいっぱいになって一息つき、午後の仕事に向けて気持ちを切り替えようと背伸びをした、まさにその時だった。


ガチャンとオフィスの扉が開き、昼休みから戻ってきた一人の女性の姿が都子の視界に飛び込んでくる。

それは、都子にとって忘れたくとも忘れられない因縁の相手であり、小中学生時代に彼女の特殊な体質を最も激しく馬鹿にし、執拗に追い詰めていた中心人物の一人、間宮豊美だった。

運命の悪戯というべきか、豊美は偶然にも都子と同じ会社に就職し、あろうことか全く同じこの部署へと配属されてきたのである。


デスクに座る都子の姿を見つけるやいなや、豊美はこれ見よがしに意地の悪い笑みを浮かべ、ヒールをコツコツと鳴らしながら近づいて来た。

豊美はわざとらしいほどに肩を揺らし、ニヤニヤとした薄汚い笑みを浮かべて都子のデスクの端を指先で小突く。

「都子、また没喰らっとったやん。さっき課長に盛大に怒鳴られてるん聞こえてたでぇ。ほんま、あんたって子供の頃からいっこも変わらんなぁ、妖怪お化けちゃん!」


オフィス中に響き渡るような大きな声でからかう豊美の言葉に、周囲にいた同僚や先輩、他の従業員達も一斉にこちらに視線を向ける。

「ちょっと間宮さん、さすがにそれはやめときーな」

口ではそんな風に形ばかりたしなめるような言葉を口にしつつも、彼らの目には明らかな好奇の色の混じった、小馬鹿にしたようなくすくすという陰湿な笑い声が、さざ波のようにオフィスへ広がっていく。


だが、かつてその嘲笑に傷つき、涙を流していた脆弱な都子は、もうここにはいなかった。

都子は豊美の言葉の、ある一点に猛烈に引っかかり、己の引き出しにある膨大な知識の蓋をパカンと開け放った。


「あのなぁ、豊美。妖怪とお化けっていうのは、言葉の定義としてはほぼ同義として扱われがちやけど、厳密には全然違うんよ。妖怪はイコール怪異として包括される事が多いけど、怪異という大きな括りが全てイコール妖怪かって言われたら、絶対にそうやないって言う説もありそうやし。ほら、例えばやけど、鴉は文句なしに黒い生き物やけど、黒いという概念そのものはイコール鴉だけを指すもんやないやん?それと全く同じことで、そやからな……」

一度スイッチが入ってしまえば、誰にも止められない妖怪博士の熱弁が、怒涛の早口で繰り出される。


豊美は、都子のそんなオタク特有の面倒くさい反論を、うんざりしたように両手で遮った。

「あー始まった始まった、この妖怪博士の妖怪オタク!誰もそんなややこしい専門知識の講釈なんか垂れてくれって頼んでへんっちゅうねん。そういう事言うてんのとちゃうっての、ほんまにズレてんなぁ。まあ、私らからしたらおもろい見世物やから、今後も誰も使わんようなキモイ妖怪ばっかり一生懸命提案して、一生給料泥棒やっときぃな」


勝ち誇ったように鼻で笑うと、豊美は背を向けて自分の席に着き、これ以上相手にするのも馬鹿らしいとばかりに書類を広げ始める。

しかし、都子の情熱はこれっぽっちも折れてなどいなかった。


「キモくないもん!一生懸命描いたんやから!ほら、豊美も偏見を捨てて、もういっぺんよう観てみぃひん?ごっつ可愛いやろ?」


都子は席を立つと、わざわざ豊美のデスクまで行って、先ほど没になったばかりの、あの唐笠お化けの渾身のイラストを、その眼前にぐいっと突きつけた。

大きな一つ目と、コミカルな一本足の傘のキャラクター。

それを見た豊美は、本気で嫌そうな顔をして、椅子をガタッと引いて体をのけぞらせた。


「どこが可愛えねん!やっぱりごっつキモイやんか!こんなん夜の道で本物観つけたら思いっきり蹴っ飛ばしたるわ!」

ギャハハと下品に笑い声を上げながら、豊美は鬱陶しそうに手をシッシッと振って、都子を汚いものでも追い払うかのようにあしらう。


豊美のあまりに容赦のない拒絶に、都子はさすがに肩をすくめて、イラストの描かれたスケッチブックを胸に抱え込んだ。

「え~、絶対に可愛いと思うんやけどなぁ……。世間の感覚って、やっぱり違うんか。ほんなら、もっと万人がパッと見て『可愛い!』って気絶するような子をモデルにして、新しいの作らなあかんな」


ぶつぶつと独り言を呟きながら、都子はすぐに気持ちを切り替えて自分のデスクへと戻る。

そして、モチベーションをさらに高めるため、早速デスクの棚に綺麗に並べて置いてある、分厚い妖怪の専門書や京都の異界にまつわる文献の数々をごそごそと引っ張り出し、机いっぱいに広げ始めた。


そんな都子の、どこまでもマイペースで諦めを知らないオタクな後ろ姿を睨みつけながら、豊美は鼻を鳴らす。

「ほんま、頭おかしんちゃう?一生やっとき、お化けちゃん」


侮蔑の混じったくすくすという引きつった笑い声を、豊美はいつまでも静かなオフィスに響かせていた。


--

##華金のコンペティションと、哀愁のイケメン人面犬


一週間の労働から解放される喜びが街全体を包み込む、ある日の金曜日。

世間はいわゆる華金という事もあり、どこかソワソワと浮足立った空気が漂う中、都子が仕事をするオフィスでも、定時後の予定を囁き合うような独特の賑やかさが満ち満ちている。


そんな周囲の浮ついたムードをよそに、都子は今回の大きな案件である「子供用の御化粧ごっこ遊び用商品」のパッケージに向けた、犬をテーマにした企画のキャラクター製作に没頭し、なんとか無事に提出へとこぎつけていた。

くしくも、全く同じ企画の採用枠を巡って激しい火花を散らすことになったのは、あの天敵とも言える間宮豊美だ。


緊迫した空気が流れる企画会議の席上、豊美と都子は自身が全力で考案した自信作のキャラクターを、審査員である美人課長へと提出する事となる。

会議室の壁に備え付けられたホワイトボードには、二人のデザインが対比するように大きく張り出された。


豊美がデザインしたキャラクターは、最新のトレンドを巧みに取り入れた愛くるしいミニキャラであり、企画のテーマにこれでもかと沿った、文句なしに見事に可愛らしいフワフワとした白い犬だった。

これには会議室の誰もが「これは売れる」「文句なしに可愛い」と感嘆の声を漏らす。


対して、その横に並べられた都子のキャラクターは、誰もが言葉を失うほどの強烈な異彩を放っていた。

彼女はこれまでの失敗に懲りるという事を知らず、体は四足歩行の犬であるにもかかわらず、首から上の顔面だけが彫りの深い劇画調のイケメンと言う、どう見てもあの昭和の都市伝説に登場する不気味な人面犬そのものだったのだ。


どちらのキャラクターがこの子供向け商品パッケージの企画に採用されるかなど、もはや火を見るより明らかであった。


会議室に満ちる凍りついたような沈黙を破り、美人課長がゆっくりとメガネのブリッジを指先で押し上げる。

「……一応、私の精神の安定のために聞くけど……都子、このホワイトボードに鎮座している悍ましい物体は一体なんや?」

冷徹極まるジト目を都子へと向け、ため息混じりに尋ねる上司。


対する都子は、全く悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに胸を張って堂々と言い放った。

「人面犬です!」


次の瞬間……。


「見りゃわかるわ!何を自信満々に言うとんねん!」

バシィィンと書類が机を叩く凄まじい音が響き渡り、美人課長は烈火のごとく怒鳴り散らし、部下を厳しく叱りつける。


「ええか、今回のターゲット層をもう一度頭に叩き込みよし!子供用の御化粧ごっこ遊び用の大事な商品に、こんな顔だけ無駄に濃い人面犬の絵がパッケージへでかでかと印刷されてみろ、キモイっちゅうねん!子供が泣き叫んでトラウマになるわ!これは明らかに企画のレギュレーション違反やろがい!」


課長の凄まじい剣幕に、周囲の社員たちが小さく身を縮める中、都子は少しも怯まずに身を乗り出して自説を曲げない。

「でも課長、よく見てください、ごっつイケメンですやん!ただの犬やなくて、この憂いを帯びた瞳とシャープな顎のラインが最高なんです!これなら女の子だけでなく、男の子だって『こんなイケメンになれるんやったら、このお化粧セットが欲しい!』って、目を輝かせてお母さんにおねだりする事間違いなしですって!」


あまりにも斜め上すぎる都子のプレゼンテーションに、会議室の温度はさらに数度下がっていく。


その様子を特等席で眺めていた豊美は、勝利を確信した優越感に浸りながら、肩をすくめてくすくす笑う。

「まあまあ、課長、そんなに怒らんといてあげてください。一部のマニアに刺さるキモカワ路線の依頼やったら、このお化けちゃんは即戦力や思う事にしてですね。今回は都子のことはほっといて、実用的な私のデザインで話し進めましょうよ」


勝ち誇った豊美の嫌味な助け舟に、美人課長は深く頭を抱え、疲れ切った様子で首を横に振った。

「そやな。金曜のこんな大事な時間に、都子の相手をしてるだけで私の貴重な一日のカロリーの大半を消費するわ。これ以上は付き合ってられん。ほな、この企画のメインは豊美のデザインで進めるから、都子はこれのサポートに回って貰うから。ええね?」

呆れ果てた表情のまま、課長は都子を早々に戦力外として扱い、冷淡に会議を次の議題へと進めていく。


一人ホワイトボードの前に取り残された都子は、自分の芸術が理解されなかった悔しさに、ぶうっと頬を膨らませた。

「イケメンやのにー……。絶対に流行ると思ったのになぁ」


未練がましく人面犬の切れ長の瞳を見つめながら、都子は寂しげに口をとがらせた。


---


##昼下がりの足枷と、銀髪の不思議な少女


波乱に満ちた企画会議を終えてから、昼下がりのこと。

都子はいつものお気に入りの喫茶店へと足を運び、鉄板の上で香ばしく焦げたケチャップの匂いがたまらないナポリタンをペロリと平らげた。


大満足でお腹を満たし、チリンチリンとレトロなドアベルを鳴らして店を出た彼女が、午後の勤務に向けて会社に戻ろうと賑やかな通りを歩いていた、まさにその時のことだった。

少し先の路地裏の入り口付近で、何やら聞き覚えのある甲高い金切り声が聞こえてくる。


「ちょっと!なんなんこれ!しっしっ!あっち行けって言うてるやろ!」


声の主は、あの間宮豊美だった。

彼女は顔を真っ赤にして苛立ちを露わにしながら、自分の足元に向かって何度も手を激しく振り回し、必死に何かを追い払おうと躍起になっている。


一体何事が起きたのかと都子が目を凝らしてよく見ると、豊美の足元には、茶色い毛並みをした、一見すると小さな子犬のような生き物がいた。

その奇妙な生き物は、豊美がどれだけ嫌がって邪険に扱おうとも、全く怯む様子も見せずに、やたらと彼女のすねにぴったりとまとわりついている。


「あぇもう、ほんまに鬱陶しいなぁ!どきなさいよ!」

ついに我慢の限界を迎えた豊美が、ヒールを履いた右足を大きく後ろへと引き、その小さな体を力任せに蹴飛ばそうとしたのが見えた。


「危ないっ!」

動物を容赦なく痛めつけようとするその光景が目に飛び込んできた瞬間、都子の体が反射的に動いた。


学生時代に陸上競技で培った爆発的な瞬発力と、ボクシングのトレーニングで鍛え上げられた無駄のない身のこなし。

都子は凄まじい速度でアスファルトを蹴ると、間一髪のところで豊美の前に滑り込み、その振り上げられた足を俊敏に足で受け止めるようにして、蹴るのを止める。


突然目の前に割り込まれ、キックを完全に阻止された豊美は、驚きと怒りで目を釣り上げる。

「な、何すんのよ都子!」


「豊美、いくらイライラしてるからって、こんな小さな子を蹴ったりしたら可哀想やん!ほら、こっちおいで」

都子が豊美の足を優しく引き離しつつ、足元で小さく震えていた茶色い生き物に向かって優しく声をかけ、両手を広げて促してみる。


すると、その生き物はまるで都子の温かいオーラを察知したかのように、タタタッと短い足で駆け寄ってきて、今度は都子のすねに、やたらと激しくまとわりつき始めた。

ふさふさとした毛並みがズボン越しに触れる、どこか不思議な、生き物としては少し軽すぎるような奇妙な感触が都子の足首に伝わってくる。


その様子を冷ややかな目で見下ろしていた豊美は、鼻で思い切りせせら笑った。

「はん、汚い野良犬に一瞬で懐かれてるし。あんたが大好きな人面犬やなくて残念やったねぇ。ったく、お気に入りのズボンに汚い毛が付いてもうやたんか!最悪やわ!」


豊美は自分の服の裾をパッパッと大げさに払い、不機嫌極まりない表情のまま、都子を路地に残して足早に会社の方へと戻っていく。

遠ざかっていく豊美の後ろ姿を、都子は苦笑しながら見送った。


「あ、行ってもうた……」


冷たい風が通り抜ける路地裏で、都子はぽつりと呟く。


「えっと、この子どないしょうかなぁ?」


都子は困り果てた表情を浮かべながら、未だに自分のすねにぴったりと張り付いて、片時も離れようとしない茶色い生き物をジーっと見つめる。

その生き物は、クンクンと鼻を鳴らすような仕草をしながら、ただひたすらに都子の足元を往復し、すねを激しくこすりつけ続けている。


普通の犬にしては、あまりにも「すね」という特定の部位に対して執着が強すぎる目の前の存在。

都子は脳内の膨大な妖怪知識の引き出しをパタパタと目まぐるしくひっくり返し、すぐにある一つの仮説に辿り着いた。


「すねにやたらまとわりついてるって事は……もしかして、あの有名な『すねこすり』かな?でも、おかしいなぁ。あれって確か、岡山県の地方に深く伝わる伝統的な怪異のはずやし……。わざわざ新幹線にでも乗って、京都に観光旅行にでも来たんやろか?」

都子は指先であごを挟みながら、不思議そうに首をかしげる。


もしこれが本当に怪異なのだとしたら、霊能力など微塵もないはずの豊美にもはっきり見えて、蹴飛ばそうとしたり「汚い野良犬」と言ったりしているのがおかしな話だ。

現世の普通の人間にも見えているということは、これは怪異ではなく本物の犬なのだろうか、それとも人間に姿を隠していない怪異なのだろうかと、妖怪博士の都子をしても未だ断定できないという妙な感覚に包まれる。

しかし、いくら正体の掴めない珍しい生き物に出会えたからといって、今の都子は勤務中であり、昼休みが終わればすぐにオフィスへ戻らなければならない身であるため、いつまでもこうしていられない。


「あぁ、もうすぐ昼休みが終わってまう。私も会社に戻らんといかんし……どないしょ、誰かにこの子を託せたらええんやけど」

都子は腕時計の針を気にしながら、深くため息をついた。


「もし普通の犬やったら、飼い主探さんとあかんし。でも怪異やったら、そういう世界の心得のある人とか、理解ある人に託せたら一番良いんやけど……あー、一体どないしょー……」

どうすべきか名案が浮かばず、都子は頭を抱えてその場にしゃがみ込み、完全に途方に暮れ始めている都子。


その時だった。


ガサリ、と近くの路地の奥から、何かが動く微かな音が聞こえた。

それと同時に、都子は背中にチリチリとした奇妙な感覚を覚える。


誰かが、自分たちの様子をふとジーっとこちらを見つめている、そんな強い視線に気づき、都子はハッとして勢いよく振り向いた。

そして、その視線の主とバッチリと目が合う。


都子が勢いよく振り向いた先、古い京町家の陰に隠れるようにして、極めて特徴的な外見をした一人の少女が立っていた。


頭にはちょこんと黒いベレー帽を乗せ、小柄な体を包んでいるのは、珍しいズボンタイプの黒いセーラー服。

サラサラとした銀髪の長い髪が、昼下がりの薄暗い路地裏で不思議な光を放って揺れている。

その顔には、こぼれ落ちそうなくらいに大きな、汚れなきまん丸目が二つ輝いており、驚きなのか感心なのか、台形の形をした独特の口の開き方をして都子と足元の生き物を見つめている。


まるでお伽話の世界からそのまま飛び出してきたかのような、圧倒的な存在感を放つ小柄な女の子が佇みながら、じっと都子を凝視していた。


---


##謎の少女と、路地裏の小さき邂逅


都子は、そのあまりにも風変わりで、同時にどこか神聖さすら漂わせる不思議な小柄少女と目が合ったまま、完全にその場で固まっていた。

まるで時間そのものがピタリと止まってしまったかのような、奇妙な静寂が路地裏を支配する。


都子がじっと息を呑んで見つめる中、その女の子は突然、ぽかんと台形の形に開いた口から言葉を紡ぎ出した。


「えらいこっちゃ」


あまりにも唐突で、なおかつ脱力感を誘うようなその独特の呟きに、都子は拍子抜けしてしまう。


「え?」


思わず言葉を発した直後、それまで都子のすねに片時も離れず猛烈にしがみついていた茶色い犬のような生き物が、ふっと顔を上げた。

配置された障害物を避けるようにして、都子の足元から離れると、嬉しそうに短い尻尾をちぎれんばかりに振りながら、とことこと女の子の足元へ向かってまっすぐに歩み寄っていく。

女の子は嬉しそうにその場にしゃがみ込むと、駆け寄ってきたその犬の体を、小さな両手でわしゃわしゃと愛おしそうに撫で始めた。


その様子を驚きと共に見つめていた都子は、張り詰めていた緊張を少しだけ緩め、柔らかな笑顔を浮かべながら問いかけた。

「えっと、その子のご家族かな?」


すると、犬を撫でる手を止めた女の子が、弾かれたようにスクッと立ち上がり、その大きくて汚れなきまん丸目でまっすぐに都子を見据えた。


「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や」

感情の起伏が読めない独特のトーンで、突然の自己紹介を始める。


それを聞いた都子は、少しだけ目を丸くしたものの、その不思議な愛らしさに自然と表情を綻ばせていた。

「あ、そうなん?えらいこっちゃんって言うんやね。私は井開都子です。この近くの会社に勤めてるんよ。良かった、その子の事を知ってるんは確かみたいやね」


心の底からホッとしたように胸を撫で下ろす。

怪異か普通の犬かも分からず、勤務時間の迫る中で途方に暮れていただけに、目の前の少女が、この生き物を知る確かな人物であるという事実は、都子にとって何よりの救いだった。


そんな都子の言葉を聞いたえらいこっちゃ嬢は、足元で嬉しそうに丸まっている犬を指差した。

「ウチの大事な御友達。待ち合わせ場所にいいひんかったから、えらいこっちゃ」


それこそが大変な大事件だったのだと言わんばかりに、小さな両腕を上下にぶんぶんと激しく振り回して己の感情を表現する。

そして、その激しい動きをピタリと止めると、えらいこっちゃ嬢は深々と頭を下げた。


「迷子を助けてくれた真眼しんがんおねえやん、えらいやっちゃのありがとちゃん」


ペコッと小気味よい音でも聞こえそうなほど、丁寧にお辞儀をする少女。

「真眼」という、都子が生まれ持つあの特殊な体質を見抜いたかのような不思議な単語が混ざっていたものの、感謝を述べるその純粋な姿に、都子の心は温かいもので満たされていく。


「ううん、この子がすねに寄って来てくれただけで、私は何も……そっか、待ち合わせしてたんやね。会えて良かったね」

都子は目線を合わせるように屈み、優しく微笑みかけた。


すると次の瞬間、えらいこっちゃ嬢が足元の犬と一緒に、タタタッと短い歩幅で勢いよく駆け寄ってきた。

驚く都子の右手を、その小さな両手で包み込むようにして、にぎにぎと力強く握手をする。

驚きと温かさに都子が瞬きを繰り返している間に、えらいこっちゃ嬢は握った手をパッと離すと、今度は遠ざかりながら小さな手をぶんぶんと大きく振り返した。

茶色い生き物もまた、その少女の影にぴったりと寄り添うようにして、路地の奥へと楽しげに並んで去っていく。


遠ざかっていく不思議な二人組の後ろ姿を見送る都子の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

しかし、現実に引き戻されるようにしてふと腕時計の文字盤に目を落とすと、昼休みの終了時刻がすぐそこまで迫っている。


「ほな、私も会社に帰らな」

都子は小さく独り言を呟き、大きく背伸びをした。


昼下がりの路地裏で起きた、あまりにも摩訶不思議な出会いの余韻を胸にしっかりと抱きながら、彼女は活気あふれる会社へと急ぎ足で戻っていった。


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##待ち人の記憶と、路地裏の唐笠お化け


会社に戻ってからの都子は、午前中から先程の騒ぎが嘘だったかのように静かに気持ちを切り替えていた。

午後からの仕事は、企画会議で見事に採用を勝ち取った豊美のデザインのブラッシュアップ、および課長から指示された細々とした事務処理のサポートである。

華金の開放感に浮き立つ周囲の空気に流されることなく、都子は回ってきた地味なデータ入力や書類整理の仕事を、そつなく丁寧にこなしていった。


一方の豊美は、メインデザイナーとしての重圧からか、あるいは細部の修正に思いのほか手こずってしまったのか、パソコンの画面を前に何度も舌打ちを繰り返している。

キーボードを叩くカチカチという音が次第に荒々しくなり、終業時間が近づく頃には、完全に機嫌を損ねて周囲に当たり散らすような不貞腐れた雰囲気を全身から醸し出していた。


時計の針が定時を告げると同時に、二人は連れ立ってオフィスを後にした。

一歩ビルの外へ出れば、金曜日の夜独特の華やかな熱気が京都の街を優しく包み込んでいる。

これから居酒屋やバーへ繰り出すであろう会社員たちの楽しげな声が響く中、都子はいつものように寄り道もせず、真っ直ぐ自宅へ帰ることを決めていた。


対照的に、仕事の行き詰まりで溜まったストレスを爆発させたい豊美は、どこかで派手に気晴らしに飲みに行こうかとスマートフォンをいじりながら考えている。

そんな二人の歩調が、雑踏の中でなんとなく重なった。


豊美は、相変わらずマイペースな都子の横顔を盗み見ると、フンッと鼻でせせら笑う。

「あんた、せっかくの華金やのに、どこも寄らんと真っ直ぐ実家帰りかいな。ほんま、子供の頃から友達は妖怪だけってか。相変わらず寂しい奴やなぁ」


「まあ、人間の友達は全然いてへんのは確かやけどね。でも、用事がない時は出来るだけ家で待ってるようにしてるんよ」

都子は怒る風でもなく、どこか遠くを見るような穏やかな目で応じる。


そのあまりに淡々とした態度が気に食わないのか、豊美はさらに踏み込んだ言葉を投げつけた。

「待ってるって何よ。あんた、どうせ彼氏なんかおらんやろ?」


「まあ、彼氏はいてへんけど。私はね、私の大切な友達が、いつ戻ってきてくれてもええように、出来るだけいるようにしてるんや」

都子の声には、確かな温もりと、ずっと守り続けてきた大切な約束のような響きが籠もっていた。


不意に返ってきた予想外の深い言葉に、豊美は怪訝そうに眉をひそめる。

「戻って来るって、一体誰がよ?」


「私が勝手に『ワラシちゃん』って呼んでる女の子がいるんやけどね。私が昔、両親の都合で祖父母の家に引っ越した時にお別れして、それ以来ずーっと会えてへんから。そやから、あの家でいつ帰って来てもええようにって、そう思って待ってるんよ」

遠い日の記憶の引き出しをそっと開けるように、都子はどこか懐かしそうに微笑みを浮かべる。


しかし、目に見えぬロマンを解さない豊美は、呆れたように肩をすくめて小馬鹿にした笑いを漏らした。

「なんなんそれ?ワラシって変な名前。もしかして、その子もあんたの得意な妖怪とちゃうん?」


「うん、あの子は自分から正体を名乗らへんかったけど、後でいろいろ調べてな。多分、座敷童やと思う」

都子は確信に満ちた表情で、まっすぐに前を見据えた。


「ほんと、頭湧いてるんちゃう?妖怪と戯れてるとか、あんたって、ほんまにキモイな」

豊美の容赦のない罵声が響く中、二人は大通りを折れ、途中まで行き先が同じなのか、いつの間にか街灯の明かりも届かない人気のない薄暗い路地へと足を踏み入れていた。


千年の歴史が細い路地の隅々にまで沈殿している古都の裏道。

その一角に、ひっそりと佇む石の地蔵が祀られている小さな祠があった。

その祠の影、夜の帳が降りた暗がりに、一本の古びた和傘が壁に立てかけられている。

それを見た瞬間、豊美の脳裏に、昼間の会議で都子が自信満々に提示して没になったあの「唐笠お化け」の奇妙なイラストが鮮烈に蘇った。


豊美は歪んだ意趣返しを思いついたかのように、フンッと一つ激しく鼻を鳴らす。

「これ、あんたの大好きな傘のお化けかもね。ちょうどええわ」


吐き捨てるような言葉と同時に、豊美はヒールのある足を思い切り振り抜き、立てかけられていた古びた傘を目がけて渾身の力で蹴飛ばした。

バカッ、と乾いた鈍い音が路地に響き、傘が地面をごろごろと転がっていく。


「ちょっと、何してんの!人の傘かもしれんやんか!」


都子が血相を変え、慌てて声を荒らげて豊美の身勝手な行動を激しく注意した、まさにその瞬間だった。


「こんぼきゃー!」


地鳴りのような、あるいは耳を劈くような凄まじい怒鳴り声が路地の空間全体を震わせた。

あまりにも奇怪で、およそこの世の生物のものとは思えない大音量の咆哮に、都子と豊美の身体はびくっと恐怖で激しく強張る。


心臓が跳ね上がるのを感じながら、二人は声のした方へと恐る恐る視線を向けると。

そこには、到底現実とは思えない、悍ましくも圧倒的な光景が広がっていた。


まるで頭の上に真っ赤な怒りマークでも浮かび上がらせているかのように、凄まじい怒りを全身からあらわにした怪異の姿。

中央にある大きな一つ目が、血走ったギョロリとした視線で豊美たちを激しく睨みつけ、一本きりの足で器用にぴょんぴょんと力強く地面を叩いている。

その躍動感あふれる動きは、まるでリングの上で激しくステップを踏み、フットワークをきかせているプロのボクサーのようでもあった。


豊美がただの憂さ晴らしのつもりで蹴り飛ばした物体は、祠の横で静かに身体を休めていた、紛れもない本物の怪異、唐笠お化けだったのである。


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##百鬼夜行の路地裏と、現れた怪異たち


「こんぼきゃー!」


妖怪図鑑や妖怪関連の絵本に高確率で掲載されている怪異、唐笠お化けが、そこに憤怒の形相で立っていた。

唐笠お化けは、一本足でトントンとリズミカルにアスファルトを叩き、フットワークをきかせてボクサーさながらの機敏な動きを見せながら、不満を爆発させるように怒鳴り散らす。


「人間共ってのは、ほんまに毎回毎回、なんで俺どんの事を蹴り飛ばしよんねん!人間共は傘に恨みでもあるんけ!?傘と大戦争でもやらかしたなんて話は聞いた事あらへんぞ!おい、そこの女!今、思いっきりええ足刀キック叩き込みよったな!」

シュッシュッと鋭い風切り音を立ててステップを踏むその姿は、奇妙でありながらも妙な威圧感を放っている。


昼間、都子の描いたイラストを散々バカにしていた豊美は、目の前で繰り広げられるあまりにも異常な現実に、完全に思考を停止させていた。

「ちょ、な、なんなんよこれ、キモ!傘が喋った!嘘やん、なんで動いてるんよ!」

血の気が一気に引き、真っ青になってガタガタと震えあがる豊美。


そんな豊美の怯えた態度が、プライド高き怪異の火にさらに油を注ぐ結果となる。

「誰がキモいねん!不躾に蹴っておいてその言い草はなんじゃい!こんの無礼もんが!今すぐ必殺の傘キック御見舞いしたろかぼけぇ!」

唐笠お化けはさらに一つ目を血走らせ、ぴょんぴょんと力強く地面を跳ねながら、ものすごい勢いで間合いを詰めて近づいて来る。


「ひぃ!?来んといて!」


豊美が恐怖のあまり悲鳴を上げて頭を抱え込んだその瞬間、都子が素早く豊美の前に立ちはだかり、その華奢な体を庇うようにして前に出た。

ボクシングで培った鋭いステップで怪異と豊子の間に入った都子は、恐怖よりも先に、胸の奥から湧き上がる純粋な好奇心と興奮を抑えきれずに目を輝かせた。


「あの、もしかして、かの有名な唐笠お化けですか!?本物見るの初めてです!すごいやん、一本足のバランス感覚、めちゃくちゃインナーマッスル鍛えられてますね!」


そのあまりにも場違いな大興奮の歓声に、激しくステップを踏んでいた怪異の方が完全に毒気を抜かれてしまう。

「なんや、俺どんの名前は一応知っとるんか。お前、なかなか見る目があるやないけ」


唐笠お化けはピタリと動きを止め、大きな一つ目をパチクリとさせて都子を見つめた。

すると、一触即発の空気が漂う薄暗い路地裏に、今度はまた別の、どこか艶っぽい妙な気配がゆらりと立ち上る。


「なんやなんや、えらい賑やかどすなあ。お月さんも隠れるような夜道で、何をお騒ぎどす?」


静寂を破って聞こえてきたのは、おっとりとした上品な笑い声だった。

京都のはんなりとした情緒を体現したようなその声に、都子と豊美、そして唐笠お化けまでもが同時に声の方を振り向く。


そこに立っていたのは、まさに大和撫子の大和美人と言うにふさわしい圧倒的な風貌の、美しい着物を身にまとった黒髪ロングヘアの女性だった。


暗闇の中でも白く浮かび上がるような美貌の持ち主の登場に、豊美は救いの神を見つけたかのように必死の形相で駆け寄り、その衣服にすがりついた。

「あ、助けて下さい!変なキモい傘が急に襲ってくるんです!警察呼んでください!」


涙目で着物美人の袖にしがみつき、必死に助けを求める豊美の言葉を聞いて、唐笠お化けが再び一本足を踏み鳴らして激昂した。


「誰がキモい傘やっちゅうねん!被害者面すんなや!襲って来たんはオドレの方からやろうが!俺どんはただ静かに寝てただけじゃ!あかん、言い訳無用、傘キックの刑確定じゃこんぼきゃー!」

自分を侮辱し続ける豊美に対して怒り心頭の唐笠お化けは、またぴょんぴょんと威嚇するように激しく跳ね始める。


そんな大騒ぎの渦中にあっても、着物美人は少しも動じることなく、むしろ楽しげに目を細めた。

「ふふふ、まあ、そうカリカリせんと。そんで御嬢さん、ワテなんかに助け求めても、宜しゅうおすのん?後悔せえへん?」

クスクスと喉を鳴らしながら、その美貌の端々に不敵な笑みを浮かべる。


「え?」

豊美がその言葉の妙な引っかかりに驚き、呆然と声を漏らした瞬間だった。


着物美人は、すっと洗練された動作で一度広い袖を持ち上げ、己の美しい顔を完全に隠すと……。


「こういう顔でも、お好きどすか?」


衣服の擦れる衣擦れの音と共に再び袖をサラリと降ろすと、そこにはあまりにも恐ろしい光景が待っていた。

先程までの誰もが振り返るような美しい美人顔が跡形もなく消え失せ、目も、鼻も、口も、眉すらない、凹凸が全くない真っ白な顔がヌッと姿を現したのだ。


「ひえぇ!?顔が、顔が無いぃぃ!」


喉が引き裂かれるような悲鳴を上げ、豊美はペたりと地面に座り込んでしまい、あまりの恐怖に腰が抜けて指一本動かすこともできなくなる。


そんな豊美の横で、都子は恐怖で腰を抜かしている豊美を置き去りにして、その場に飛び上がらんばかりに歓喜の声を上げた。

「あ!もしかして、のっぺらぼう!?あ、のっぺらぼうって京都の怪異やったっけ、二条河原でよく見かけられるって本に書いてあったような……でも、江戸の赤坂の紀伊国坂も有名やと思ってたけど、まさか本物に出会えるなんてごっつ感激です!」

頭の中の妖怪知識をフル回転させながら、都子は驚きながらも本物の大妖怪との遭遇に深く感激し、熱い視線を注いでいる。


自分の顔を見て気絶もせず、むしろ学術的な疑問を投げかけてくる都子の反応に、のっぺらぼうは肩を震わせ、真っ白な顔のまま、おかしそうにくすくすと妖しく笑う。。

「あらあら、そっちの御嬢さんは、えらい肝が据わってはるなぁ。ワテの顔を見ても、驚かはらへんのやねえ。ふふふ、京都の夜も捨てたもんやないどすやろ?因みに、京都の二条河原ゆかりなんは大正解やけど、目撃例は全国規模どすえ♪」


その様子を見ていた唐笠お化けは、都子への警戒を完全に解いたように一つ目を細めた。

「こっちの御嬢は話がわかるし、無害みたいやのう。よっしゃ、話の通じへん、そっちの俺どんに喧嘩売ってきよった性悪御嬢は容赦なく傘キックじゃ!」

ターゲットを完全に豊美一人に絞り込み、唐笠お化けはぴょんぴょんと力強く跳ねながら、腰を抜かした豊美へと迫っていく。


「誰が性悪やねん!って、ちょ、近寄って来んといて、キモい!妖怪なんか大嫌いや!」

恐怖とプライドの間でパニックになった豊美は、涙を流しながら必死に手をぶんぶん振って、近づく怪異を拒絶しようと暴れる。


すると……。

暗い路地裏の混沌が極限に達しようとしたその時、夜の闇の奥から妙に軽薄で野太い男の声が響き渡った。


「おうおう、ものごっつ賑やかやんけ。何の大騒ぎかと思ったら、こんな暗がりに美人の姉ちゃんが二人もおるとか、やっぱり華金やからか?俺っちのイケメンフェイスに免じて、みんな仲良くせえへん?」

調子の良いニヤニヤとした笑い声が、タッタッタッと四本の足音と共にこちらへと近づいて来る。


その未知なる第三の気配に、都子たちが一斉に声の方を振り向と……。

そこに佇んでいたのは、都子にとってあまりにもタイムリーすぎる、衝撃的な姿だった。


街灯の僅かな光に照らされて歩いてきたのは、無駄に整った彫りの深い完璧なイケメン顔の首から下に、四足歩行をする犬の胴体を持った生き物。

昼間の企画会議で都子が提案し、レギュレーション違反として木っ端微塵に却下されたあの都市伝説の怪物、人面犬が、悠然と尾を振りながらこちらに近づいて来る姿があった。


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##闇夜の都市伝説と、炎を呼ぶ少女の叫び


かつて平成の初頭に日本中を震撼させ、一大ブームとなって全国津々浦々にまで瞬く間に広まった、あまりにも有名な現代の都市伝説、人面犬。

本物の怪異たちに次々と囲まれるという悪夢のような状況に、霊能力のない一般人である豊美は、最早現実を受け入れられずに金魚のように口をパクパクさせるだけで、顔を真っ青にしたまま地面にへたり込んで震えることしかできない。


対して、幼少期から怪異を見慣れている妖怪博士の都子は、恐怖などどこかへ置き去りにして、その爛々と輝く瞳を限界まで見開いた。

「え、ええ!?人面犬、ほんまもんや!都市伝説の生き証人が目の前におる!え、でも、確か東北自動車道で時速100キロ以上の猛スピードで車を追い抜くとか、山形県のごみ置き場に潜んで人間を睨みつけるとか、あの辺りの地域にいるんとちゃうん?」


身を乗り出し、興奮気味に早口で捲し立てる都子の問いかけに、人面犬はフサフサとした尾を優雅に揺らした。

人面犬は前脚を一本すっと前に出し、彫りの深い完璧な男前フェイスを月光に晒しながら、ふふんっと得意げに鼻を鳴らす。


「お、なんや御嬢ちゃん、ごっつよう知っとるやん。都市伝説の歴史にめちゃくちゃ詳しいなぁ。そや、確かにその東北とかの噂が始まりで有名やけどな、今や怪異も全国展開されて広まる時代やから、俺っちはここ京都の夜を縄張りにしとるもんや。どや、この憂いを帯びた流し目とシャープな輪郭、イケメン具合も京都の街にぴったり合うように、はんなりとローカライズされとるやろ?」

どこまでもキザな口調で、己の容姿の美しさを自慢げにアピールしてくる人面犬。


その堂々たる佇まいに、都子は我が意を得たりとばかりにポンと手を叩き、激しくはしゃぎ始めた。

「ほんまにいたし、しかも私のデザインの予想通り、ごっつイケメンや!ほら、豊美!私が昼間の企画会議で力説した通り、人面犬はパッケージに使えるレベルのイケメンっていうの、嘘やなかったやろ!?」

親友に自慢するかのように大きな声を出すが、腰を抜かしている豊美には、最早その言葉に反応する元気すら残っていなかった。


己の芸術的センスを真っ正面から肯定された人面犬は、嬉しそうに犬の顔では作れないようなニヤリとした笑みを浮かべる。

「おっ、なんや、めちゃくちゃ話のわかる御嬢ちゃんやないか。普通の人間は俺っちの顔を見るなりキモイって叫んで逃げ出すのに、この至高のイケメンを正当に理解出来るとは、御嬢ちゃんごっつポイント高いで。今度ドライブでも行かへん?」


そんな奇妙なナンパが繰り広げられた、まさにその時だった。

ゾクッ、と路地裏の空気が一瞬で張り詰め、人面犬の後ろの暗闇から、冷ややかな視線がこちらに注がれていることに気づく。


ただならぬ気配を察知した豊美と都子が、人面犬の背後に広がる深い闇の奥へと視線を向けると、そこには、街灯の薄明かりの中に静かに佇む人影があった。

サラサラとした美しい銀髪を揺らし、黒いベレー帽にズボンタイプの黒いセーラー服を着用した、あの小柄な女の子、えらいこっちゃ嬢が、微動だにせずジーっとこちらを見ていた。


緊迫したオカルトの現場であるにもかかわらず、昼間の出会いを覚えている都子は、緊張感の欠片もない調子で呑気に右手を挙げた。

「あ、えらいこっちゃん、今晩は!さっきはありがとね。こんな夜更けにどないしたん?」


その都子の言葉の響きを、パニック状態の脳内で必死に咀嚼しようとした豊美は、虚ろな目で力なく呟く。

「え、えらいこっちゃ……?ああ、そやな、お化けに囲まれて、今のこの状況は間違いなく人生最大のえらいこっちゃやで、ほんまに……。夢やったら早く覚めてぇな……」


絶望に打ちひしがれ、へたり込んだまま力なく答える豊美を、えらいこっちゃ嬢はその大きくて汚れなきまん丸目で静かに見据えた。

そして、小さな足で一歩前へ踏み出すと、えらいこっちゃ嬢は感情の読めない独特のトーンでありながらも、びしっと背筋を伸ばして言い放つ。


「真眼おねえやん、こんばんは。視野狭窄おねえやん、えらいこっちゃ」


自分たちの本質を突くような不気味な挨拶に、都子と豊美は思わず声を揃えた。

「「え?」」


二人が同時に驚き、怪訝そうに首をかしげた、その直後。


「えらいこっちゃーーー!!!」

えらいこっちゃ嬢は小さな体を大きくのけぞらせ、可愛い台形の口を限界まで大きく開けると、唐突に夜空を震わせる大音量を響かせた。


路地裏の壁に反響し、鼓膜を激しく突き刺すような、突然の凄まじい叫び声。


「え!?な、なんなん!?今度は一体何が始まるのよ!?」

あまりの急展開に、豊美は耳を塞ぎながらまた驚いて悲鳴を上げ、ガタガタと体を震わせる。

唐笠お化けも、のっぺらぼうも、人面犬も、その叫びに呼応するようにハッとして、路地の角の向こうへと鋭い視線を向ける。


その瞬間。


パチパチ、ボウッ、と闇を引き裂くような不気味な音が響き渡り、静まり返った古都の遠くの方から、何やら妖しく激しく揺らめく、赤赤とした炎の揺らめきが観え始めた。


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##異界の魔改造牛車と、摩訶不思議食堂への誘い


えらいこっちゃ嬢の地鳴りのような叫び声に呼応するように、路地の奥からボウッと妖しく不気味な炎の揺らめきが観えたかと思いきや、パチパチと火の粉を散らす不気味な音が急速に近づいてくる。

夜の帳を切り裂き、激しい熱風と共にその場へ滑り込んできたのは、到底現実のものとは思えない奇怪な乗り物だった。


ガラガラ、ゴトゴトと凄まじい音を立てて一行の前に現れたのは、なんと片方の車輪だけが赤赤と激しく燃え盛る巨大な牛車、古典的な怪異として名高い「方輪車」である。


どこからどう見ても歴史の教科書に載っていそうな、平安時代の貴族が乗るような雅で古風な牛車。

しかし、そのフロント部分にはあろうことか近代的な車の「運転席」が強引に取り付けられているという、完全に理外の魔改造を施されたハイブリッドな乗り物へと変貌を遂げていた。


唖然とする都子と、恐怖のあまり完全に腰が抜けている豊美の前で、プシューと小気味よい音を立てて運転席の窓が滑らかに開く。

そこに座っていたのは、黒いシックな着物姿に身を包み、艶やかな綺麗な長い黒髪を後ろできゅっと綺麗に束ねて、頭にちょこんとベレー帽をかぶっている、これまた目を見張るような着物美人だった。


「はーい、お待たせしましたー!」

運転席の美女がにこやかにこちらへ手を振ると、自動ドアのように牛車の客席扉がギィィと静かに開く。


それを見たえらいこっちゃ嬢は、我が家へ帰ってきたかのような気安さで、小さな足を踏み鳴らした。

「方輪車ねえちゃん、ありがとちゃんの御疲れちゃん!真眼おねえやんと、えらいこっちゃな視野狭窄おねえやん2名様!行先は「摩訶不思議食堂」!」

弾むような独特の口調で元気に叫ぶと、えらいこっちゃ嬢は器用にぴょんっと軽やかな身のこなしで牛車の中へと一番に飛び乗る。


ハンドルを握った方輪車と呼ばれた着物美人は、窓から身を乗り出すようにして、路地裏に集まったお馴染みの怪異たちへと視線を向けた。

「毎度お待たせー。のっぺらさんも唐笠さんも、人面犬さんも、こんばんはー♪今夜も京都の夜は賑やかで何よりやねぇ♪」


実になじみ深い様子でにこやかに挨拶する彼女に対し、真っ白な顔を小刻みに揺らしたのっぺらぼうが、着物の袖を上品に揺らしながら応じる。

「方輪車さん、こんばんはー。いつもながら見事な馬力どすなぁ。ほな、その迷子のお嬢さんら、宜しゅう頼んますねー」

おっとりとした笑みを浮かべるように手を振って、にこやかに挨拶を返すのっぺらぼう。


続いて、四足歩行の胴体を誇らしげに震わせた人面犬が、その自慢の彫りの深い顔を生かしてバチコンとウインクを飛ばした。

「こんばんわん、方輪車ちゃん。今日も相変わらずの別嬪さんやな。夜道のドライブ、俺っちも横に乗せてほしいくらいやわ。」


キザに鳴く人面犬を完全にスルーしつつ、一本足で器用にステップを踏んだ唐笠お化けが、その大きな一つ目をパチリと輝かせて都子たちの背中へと回り込む。

「今晩はやで、方輪車ちゃん。いつもご苦労なこっちゃ。よっしゃ、ほな御嬢ら、ぐずぐずしとらんと、さっさとその牛車に乗りや。特等席が待っとるぞ」

唐笠お化けは長い傘の体を突き出すようにして、後ろからぐいぐいと二人の背中を押し迫ってきた。


目の前で繰り広げられる百鬼夜行の光景に、都子は未知の異界への扉が開かれたことに胸を躍らせていた。

「え、乗ってええんですか?滅多にない貴重な体験やんか!ほな、お邪魔しますー!」


都子は満面の笑みを浮かべると、地面にへたり込んでいた豊美の腕をガシッと力強く掴み取った。

「豊美、ほら。いつまでも地面に座っとる場合やないよ。一緒にいこ!」


「え、ちょ、やめて!?私帰る!帰らせてぇな!」

パニック状態で涙目になりながらジタバタと抵抗する豊美だったが、陸上とボクシングで鍛え上げられた都子の強靭な腕力には到底敵わない。


都子は豊美の手を取って強引に立たせてあげると、そのまま彼女の背中をぐいぐいと力任せに押して、抵抗虚しく一緒に牛車のラグジュアリーな車内へと乗り出していった。

二人の身体が完全に中へと収まった瞬間、バタンッ!と重厚な音を立てて牛車の扉が固く閉まり、内側からはビクとも動かなくなり、完全に降りられなくなってしまう。


窓の外では、見送るように腰に手を当てた唐笠お化けが、一本足でびしっと立ち塞がりながら、車内に向かって大声を張り上げた。

「そっちのキモイキモイいいよる御嬢は、摩訶不思議食堂でええもん食って、ちゃんと己を知って来んかい!食堂の飯を食えば、その曇った眼ぇも少しはマシになるわい!」


その説教じみた怪異の激励の声を最後に、魔改造された牛車はゴォォォと激しいエンジン音を響かせ、方輪の炎をさらに盛大に燃え上がらせながら、現世の闇を突き抜けて一気に加速していく。

こうして、都子と豊美の二人は、およそ普通ではあり得ない金曜日の夜に、此岸と彼岸の境界へとひた走る摩訶不思議な牛車に乗る事となった。


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##異界のキャッシュレス


ゴォォォと重低音のエンジン音を響かせながら、闇夜を疾走する魔改造された牛車。

その豪華絢爛でありながらも不気味な車内に揺られ、豊美が冷や汗を流していると、客席の壁の隙間から、にわかには信じられないものが姿を現した。

骨が浮き出るほどに白くて長い腕が、関節を無視した奇妙な動きでニューっと音もなく伸びて来たのだ。


「ひえぇ!?う、腕え!?なんでそんなとこから生えてくんのよぉ!」

豊美は完全に腰が引けた状態で、シートの隅へと這いずるように逃げ惑い、真っ青になってガタガタと震えあがる。


恐怖に狂いそうな豊美とは対照的に、都子はその長い腕をじっと観察し、手首の辺りにぶら下がっている小さな木札に目を留めた。

そこには、達筆な墨文字で「御勘定」とはっきりと書かれた札が見える。


「御勘定って書いてあるって事は、料金を支払えばいいんですか?もしかして、これって乗車運賃の請求?」

都子は状況を冷静に分析すると、仕事用のカバンから自分の財布と携帯電話を素早く取り出す。


その様子をバックミラー越しに確認したのか、運転席の仕切りがスライドし、方輪車が滑らかな声をかけた。

「電子決済も出来まっせー♪」


パチンっと小気味よい音を立てて方輪車が指を鳴らすと、長い腕の先にある札がクルっと手品のように回転し、なんと最新のQRコードが鮮明に描かれた面が姿を現した。


あまりにも現代社会に適応しすぎている怪異の姿に、豊美の常識は完全に崩壊しかけていた。

「な、なんで妖怪とかお化けがQRコード持ってるんよ……。時代進みすぎやろ……」


豊美が絶望的な驚愕に囚われる中、都子は慣れた手つきで携帯端末をそのコードへと翳す。

すると「ピピッ毎度ありー」と車内に響いたのは、どこか気の抜けた電子音であり、都子の口座から正確に千円が支払われる。


「毎度ー。きっちりお預かりしましたわ-。ほな、本格的に出発しまっせー♪」

方輪車はにこやかに答えると、牛車の速度をさらに上げ、空間の壁を突き破るように加速していく。


流れる夜景を窓越しに眺めながら、都子は興味津々といった様子で運転席へと語りかけた。

「えっと、方輪車さんですよね?確か私の記憶やと、滋賀県辺りが主な本拠地かと思ったんですけど、やっぱり京都も守備範囲なんですか?」


妖怪博士としての知的好奇心が完全に勝っている都子の質問に、ハンドルを握る美人が楽しげに肩を揺らす。

「ふふ、よう御存じですやん。出没地としては京都も入ってるって書かれてる現世の怪異本とか、妖怪図鑑もありまっせ♪」

バックミラー越しに、茶目っ気たっぷりにウインクを飛ばしてくる方輪車。


「あ、読んだことあります!そっか、あの本に書かれてた行動範囲が正解やったんや。やっぱり現地取材に基づいたデータやったんやねぇ!」

都子は我が意を得たりとばかりに嬉しそうな笑声を上げる。


そんな二人の呑気なオタクトークを聞かされ、豊美の精神はいよいよ限界を迎えていた。

「なんでそんな楽しそうなん!?おかしいやろ!私ら、これからどこに連れて行かれるか分からんのに!これ、絶対に地獄行のバスとちゃうん!?」

溢れそうになる涙を必死に堪えながら、豊美は声を荒らげる。


「地獄やないって。さっき、えらいこっちゃんが食堂かどっかに行くって言うてたやん。覚えてへんの?」

都子が隣で優しくなだめるように言うと、それまで静かに座っていたえらいこっちゃ嬢が、待ってましたとばかりに勢いよく叫び出した。

「行先は摩訶不思議食堂!えらいこっちゃな美味料理!」

小さな両腕を頭の上でぶんぶんと激しく振り回し、その場所が素晴らしい場所なのだと全身で表現する。


「そっか、美味しいご飯が食べられるなら丁度ええやん。せっかくの華金やもんね」

都子はすっかりお腹が空いてきたことに気づき、えらいこっちゃ嬢の小さな手を両手で包み込むと、にぎにぎと握手めいたことをして絆を深め合う。


車内の片隅で、その光景を呆然と見つめていた豊美の心境に、静かな変化が訪れていた。

これまでは完全に馬鹿にし、見下していたはずのオタク同僚が、今はどうしようもなく大きく見える。


「……なんでやろう、会社やとあんなに浮いてて頼りないのに、今はこの子だけが頼りな気がする……。私が間違ってたんかな……」

豊美は涙目で自分の両膝を抱え込み、小さく身を縮める。


そんな弱気になった豊美に対し、えらいこっちゃ嬢は鋭いまん丸目を向け、人差し指をびしっと突き付けて言い放った。

「怖がりおねえやん、えらいこっちゃ」


ストレートすぎるその指摘に、豊美は震える声で精一杯の反論を試みる。

「怖がらん方がおかしいねん!こんなお化けだらけの状況で平気な顔してるあんたらの方が絶対に狂ってる!え、もしかして私がおかしいん……?」


真っ青になりながらも、それ以上は何も言えず、豊美は大人しく縮こまっていた。

魔改造された牛車は、混乱する豊美と期待に胸を膨らませる都子を乗せ、此岸の常識を置き去りにしたまま、いよいよ目的の地へと近づいていた。


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##境界の『摩訶不思議食堂』と、お地蔵様の出迎え


現世の闇を切り裂き、猛烈な勢いでひた走っていた魔改造牛車が、やがて滑らかにスピードを落として減速していき、静まり返った空間に佇む、情緒溢れる綺麗な木造建物の前でピタリと停車した。

周囲には、此岸のものとは思えない穏やかでどこか懐かしい空気がゆったりと満ち満ちている。


プシューという心地よい排気音と共に牛車の頑丈な扉が左右に開くと、待ってましたとばかりにえらいこっちゃ嬢が、その小柄な体で器用にぴょんっと軽やかに外の地面へと飛び降りた。

その頼もしい背中を見つめながら、都子もまたフットワーク軽くえらいこっちゃ嬢に続いて車外へと降り立ち、そのすぐ後ろからは、未だに恐怖と混乱が抜けない豊美が、生まれたての子鹿のように膝をガタガタと震わせながら恐る恐る地面に自身の足を乗せる。


全員が降り立ったことを確認したかのように、ガチャンと重厚な音を立てて牛車の扉が自動で閉まる。

すると、運転席の窓がすうっと開き、中から輪車がひょっこりと顔を出して、満面の笑顔を浮かべながら優しく手を振った。


「毎度ありー♪ほな、良い夕餉をー♪」

はんなりとした極上の京言葉のイントネーションでそう告げると、彼女はパッと空窓を閉め、片輪の炎を夜闇に美しく揺らめかせながら、ゴォォォと力強い音を立てて再び現世の闇の彼方へと颯爽と走り去って行くのだった。


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異界のタクシーを見送った後、取り残される形で店の前に降ろされた二人が、導かれるようにしてその綺麗な木造建物をゆっくりと見上げる。

そこには、古びてはいながらも丁寧に磨き上げられた、独特の力強い筆文字で「摩訶不思議食堂」とはっきりと書かれた立派な看板が掲げられていた。


都子がその趣のある佇まいに感嘆の吐息を漏らしている間に、えらいこっちゃ嬢は慣れた手つきで店の引き戸をガラガラと大きく開けて、店内に響き渡る声で告げた。

「真眼おねえやんと、えらいこっちゃな怖がりおねえやん二名様!」

短い人差し指で、ピシッと磨き上げられた清潔なカウンター席を器用に示してから、彼女はそのままトコトコと素早い足取りで店の奥へ消えていく。


その背中を追いかけるようにして、都子は背筋を伸ばし、大人の礼儀正しさをもって声をかけた。

「お邪魔します」


都子は躊躇うことなく朗らかな足取りで中へ入っていき、一人になることを何よりも恐れる豊美も、その衣服の裾を掴むような勢いで、それに続いて恐る恐る中に足を踏み入れる。

二人が完全に中へと収まった瞬間、背後で音を立て、まるで生き物のようにひとりでに扉が閉まり、その音に豊美はびくっと肩を大きく跳ね上げて飛び上がった。


店内は、出汁の優しい香りと、どこかお寺の境内にいるかのような不思議な安心感に包まれていた。

都子が促されるままに心地よい木製のカウンター席に腰を下ろすと、少しでも離れたくない豊美もすぐ隣にぴったりと寄り添うようにして座り、怯えた小動物のように落ち着きなく辺りをきょろきょろとし始まる。


張り詰めた静寂の中、二人がカウンターの向こうを見つめていると、不意に、調理場の奥の帳の向こうから、ぬぅっと静かに大きな人影が現れた。

その人物が穏やかな足取りでこちらへと近づいて来る姿を視界に捉えた瞬間、豊美は息を呑み、再び椅子の上で激しく身をのけぞらせた。


「ひえぇ!?」

豊美がこの日何度目か分からない悲鳴を上げたのも無理はなかった。

そこにやって来た人物の顔は、どこからどう見ても、路傍に佇むあのお地蔵さんにしか見えない、石のような質感の穏やかな顔そのものだったからだ。


しかし、そのお地蔵さんは驚く二人の前で、慈愛に満ちた柔らかな笑顔を浮かべると、胸の前でそっと両手を合わせ、深く合掌してお辞儀をして丁寧な挨拶を交わしてから、静かに口を開いた。

「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。御客様、ようこそお越しくださいました。私はこの店の店長をさせて頂いております。皆さんは地蔵店長と呼んで下さいます」

その声は、聞くだけで五臓六腑に染み渡るような、どこまでもにこやかで温かい響きを帯びていた。


その神聖でありながらも親しみやすいお姿に、妖怪博士である都子の心は完全に射抜かれ、瞳をらんらんと輝かせて勢いよく席から立ち上がった。

仕事用のカバンから自身のビジネス名刺を手早く取り出すと、綺麗な所作でそれを両手で差し出す。

「私は井開都子です。宜しくお願いします」


社会人としての基本を忘れない都子の突飛な行動に、引っ張られるようにして、豊美もまだ震えが止まらない手でカバンを漁り、なんとか自分の名刺を取り出して恐る恐る立ち上がった。

「え、えっと、間宮豊美です……。」

消え入りそうな蚊の鳴くような声で、辛うじて自己紹介をする豊美。


差し出された二枚の四角い紙片を見つめ、地蔵店長は困ったように、けれどどこまでも優しく目を細めた。

「これはこれは御丁寧に。名刺は、えらいこっちゃんが興味を示しているので、えらいこっちゃんにお渡し頂けましたら嬉しゅう御座います」


地蔵店長はにこやかに、その大きな手の平でカウンターのすぐ横のスペースをそっと指し示す。

二人がそちらに視線を向けると、そこには、いつの間にか頭の黒いベレー帽はそのままに、黒色の渋い作務衣を纏い、その上に真っ白な割烹着をしっかりと着用した姿のえらいこっちゃ嬢が、いつの間にか音もなくそこに佇んでいた。

その大きくて丸い目で、二人の持つ名刺をジーっと穴が開くほど見つめながら立っている。


「あ、はい。私の名刺で良ければどうぞ」

都子は屈託のない笑顔を浮かべながら、えらいこっちゃ嬢の手元へと自分の名刺をそっと手渡した。

豊美もまた、現在の奇妙な力関係を察したのか、都子の行動に倣って、恐る恐る自分の名刺を差し出してえらいこっちゃ嬢に渡す。


名刺を両手で受け取ったえらいこっちゃ嬢は、間宮豊美の名刺には目もくれず、都子の名刺の右隅に張り付けられた、小さな手作りの「傘のお化けのシール」に、そのまん丸な目を釘付けにした。


じっと見つめるその熱い視線に気づき、都子は嬉しそうに頭を掻きながら説明を添える。

「あ、それ?それは自分でシール作って貼ってるんよ。名刺に直接印刷したら、課長に厳しく叱られてもうてね。そやから、一枚ずつ必要に応じてシールを貼るようにしてるんよ」

会社のデスクで没になり続けているお化けへの愛を語り、都子はケラケラと朗らかに笑う。


その様子を横で見ていた豊美は、すっかり緊迫感が削がれたのか、呆れたように深くため息をついた。

「あんた、まだそんな仕込みやってたんや。ほんま、どこまでも懲りひんなあ……」


二人の掛け合いをよそに、シールを凝視していたえらいこっちゃ嬢は、急に顔をパッと輝かせ、台形の口から感嘆の声を上げた。

「えらいこっちゃ、よう出来てるシール、唐笠さんも欲しがる逸品!」


その芸術的な完成度を大絶賛すると、えらいこっちゃ嬢は都子の名刺を宝物のように大切に胸に抱え込み、タタタッと小さな足音を響かせながら、そのまま厨房の奥へと嬉しそうに戻っていく。

嵐のように去っていった少女の後ろ姿を見送りながら、豊美は信じられないといった様子で肩をすくめた。


「ええ……あんな不気味なデザイン、欲しがる人なんか現実にいるんかいな」

呆れ混じりにポツリと呟く豊美。


しかし、都子は自分のこだわりが認められたことが何よりも嬉しいようで、優しく微笑んでいた。

「えらいこっちゃんは、あの唐笠お化けの可愛さをちゃんとわかってくれるんやね」


異界の住人と完全に心が通じ合っている都子の、そのあまりにもマイペースな様子を見て、豊美はハァと大きなため息をつき、こいつはもう根っからの妖怪オタクで救いようがないと、完全に呆れ果てていた。


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##謎めく妖怪飯と、厨房に蠢く異形の料理人たち


豊美がその常軌を逸した状況にただただ呆れ果てていると、厨房の方からパタパタと小気味よい足音が近づいてきた。

戻ってきたえらいこっちゃ嬢の手には、丁寧に使い込まれた風合いの趣あるお品書きが二冊握られていた。

彼女はそのお品書きを、都子と豊美の前にそれぞれ一冊ずつ、恭しく手渡す。


二人は顔を見合わせながら、手渡された表紙をゆっくりと開いてみた。

そこには、墨文字で大きく「妖怪飯セット」とだけ書かれている。


あまりにも直球すぎる不穏な品名を目にした豊美は、たちまち顔を歪めて不快そうに眉を顰めた。

「ちょっと何よこれ、見た目は普通の和食の店やないの?妖怪飯セットって……まさか、本物の妖怪を材料にしたおぞましい御飯でも出すつもりなん!?勘弁してや、ウチは絶対に食べへんからね!」


「いやいや、豊美、それは流石に違うと思うよ。妖怪そのものを食べるんやなくて、妖怪達が大好きな食べ物を、私らに出してくれるって事なんとちゃうかな?例えば小豆飯とかね」

都子は恐怖するどころか、むしろ新たな発見に胸を高鳴らせ、その大きな眼をらんらんと輝かせる。


しかし、現世の常識に縛られた豊美には、都子の言葉が全くピンとこないようで、不思議そうに首をかしげる。

「小豆飯って、要するにお祝いの時とかに食べるあの赤飯の事?赤飯が好きな妖怪なんて、この世に本当におるん?単なる人間の食べ物やんか」


「ほら、さっき私が子供の頃に一緒に遊んでたワラシちゃんの話をしたやんか。ワラシちゃん、つまり座敷童はな、小豆飯とか小豆の入った食べ物がごっつ好きなんやで。昔、おばあちゃんが炊いてくれた赤飯も、ほっぺた落としそうなくらい美味しそうにパクパク食べてたわぁ」

都子は遠い日の愛らしい記憶を思い浮かべるように、優しく目を細めて微笑む。


二人の会話をじっと聞いていたえらいこっちゃ嬢が、我が意を得たりとばかりにパッと顔を輝かせた。

「ご飯は赤飯に決まり!猫子さん特製赤飯は、えらいこっちゃなもっちもち!」

小さな両腕を頭の上でぶんぶんと激しく振り回し、その赤飯がどれほど素晴らしい逸品であるかを全力でアピールする。


少女の熱烈な推薦を受け、都子はすっかり胃袋を刺激され、お品書きをパタンと閉じた。

「えらいこっちゃんがそこまで言うなら間違いなさそうやね!ほな、この妖怪飯セットを二人分お願いします!」


都子が満面の笑みで丁寧にお品書きを返すと、豊美も未だに半信半疑ではあったものの、この状況で一人だけ何も頼まないわけにもいかず、渋々と自分の分のお品書きをえらいこっちゃ嬢へと手渡した。


二枚のお品書きを小さな手できちんと受け取ったえらいこっちゃ嬢は、嬉しそうに声を張り上げる。

「妖怪飯セット二人前!えらいこっちゃな美味セット!」

独特のリズミカルな掛け声を店内に響かせながら、彼女は再びトコトコと素早い足取りで厨房の奥へと戻って行った。


注文を終えた都子は、カウンターの上で両手を合わせ、子供のように声を弾ませる。

「いやぁ、楽しみやねぇ。一体どんなに手が込んだ、ほっこりする料理が出てくるんやろ♪」


期待に胸を膨らませてワクワクしている同僚の姿に、豊美は深いため息を吐き出した。

「ほんま、この子は既に頭の中まで妖怪になってるんとちゃうか。完全に毒されてるわ……。それにしても、ねここって、さっきの子が言うてた料理人の名前、響きだけは妙に可愛らしい名前やね」


豊美は完全にあきれ果てながらも、どんな奴が料理を作っているのかと、手持ち無沙汰にカウンターの向こうにある厨房の様子をそっと覗き込んでみると……。

次の瞬間、豊美の動きがピタリと止まる。

彼女は信じられないものを見たように眼をぱちくりとさせ、我が目を疑ってもう一度よく見て、そのあまりの衝撃に激しく驚愕した。


そこは、およそ現世の常識からは完全に逸脱した、異形の者達の仕事場だった。


厨房には、鮮やかな紅い着物に真っ白な割烹着を綺麗に纏い、頭にはツンと二つの猫耳が突き出るタイプの特製の三角巾を付けた、黒髪で非常に穏やかな顔立ちをした女性料理人が立っていた。

よく見れば、三角巾の下から覗く耳は人間のものではなく、フサフサとした可愛らしい本物の猫耳であり、彼女は炊き立てと思われる熱々の赤飯を、しゃもじを使って大きなお茶碗に手際よくよそっている。


さらにそのすぐ近くでは、優しい桃色の着物に白い割烹着を着た、常に目を閉じているような細い目で、口元がキュートな猫口の笑顔をした兎の女性料理人が、じゅうじゅうと激しい音を立てる油の前に立ち、黄金色に輝く美味そうなフライドチキンを次々と揚げていた。

驚くべきことに、その二人の怪異の料理人たちは、フンフン♪と楽しげに鼻歌を交わしながら、実に息の合った様子で楽しそうに調理を続けているのだ。


さらにそこへ、どこからともなく頭に大きな編み笠を深く被っている、小柄な小僧らしき者がトタトタと厨房に入って来た。

その小僧は、手にしたお盆から瑞々しい真っ白な豆腐を取り出すと、猫耳の料理人へと手渡す。


「猫子さん、今日の出来立ての豆腐、持って来ましたよぉ♪」

「あら、いつもすまないことですねぇ、有難う御座いますー♪」


そんな短い会話を交わした後、小僧は満足そうにペコリと一礼し、そのまま煙のように忽然と姿を消していく。


調理場に広がるあまりにも浮世離れした百鬼夜行の光景に、豊美はガタガタと歯を鳴らした。

「な、何よこれ……ちょっと都子、あそこ見てぇな……!人が、人が一人もおらへんやんか……!お化けが、お化けたちが普通に包丁握って料理作ってる……!」


豊美が絶望的な驚愕に囚われている横で、都子は身を乗り出し、ガラス張りの展示品でも見るかのように眼を輝かせている。


「えっと、あの赤飯をよそってはる猫子さんは、猫耳の人やとわかるけど、尻尾が見えへんな。着物に隠れてるだけで、実は尾っぽが二股に分かれてる猫又なんかな?それとも化け猫さん?その隣の兎さんは、私の知識でも完全に知らへん初見の人やわぁ。京都の地元の怪異なんやろか、気になるなぁ!あ、それとさっき、わざわざ新鮮な豆腐を持って来てくれたあの子って、もしかしてあの有名な豆腐小僧やないの!?江戸の有名な怪異やから、てっきり東京の近辺にいるかと思ったら、まさかこの京都の食堂に豆腐を直接卸してはるんかな?凄すぎるやん、このお店の仕入れルート!」

豊美とは完全に視点が違う都子は、恐怖など微塵も感じていない様子で、どこまでも自身の知的好奇心をそそられて喜んでいた。


恐怖で頭がどうにかなりそうな豊美と、至上の幸福感に包まれる都子。

あまりにも対照的な二人の前に、いよいよ摩訶不思議食堂の特製料理が運ばれてこようとしていた。


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##驚異の妖怪料理セットと、蛙仙人の瑞々しい胡瓜


トコトコと厨房の方から小気味よい足音が響き、えらいこっちゃ嬢と猫耳の料理人である猫子が、大きな漆塗りのお盆をそれぞれ両手で大切そうに抱えてやって来た。

カウンターの前に立つと、お盆からふわりと湯気の立ち上る豪勢な「妖怪料理セット」が、二人の目の前へと恭しく置かれる。


猫子は、猫耳を可愛らしくぴょこぴょんと揺らしながら、まるで我が子を見守るような優しい眼差しを都子たちに向けた。

「お待たせいたしましたねぇ。出来立ての熱々ですから、どうぞごゆっくりー♪」


朗らかな笑顔を咲かせた猫子は、軽やかな足取りで再び忙しい厨房の奥へと戻って行く。

その後ろ姿に都子は「有難う御座います」とお礼を言う。

そして、目の前に並んだ色鮮やかで、どこか素朴な御膳を見つめ、都子は感極まったように拳を握りしめた。


「うわぁ、見て豊美!これ、まさにっていう内容やん!私が思い描いていた理想の御膳そのものやわ!さてと、お腹もペコペコやし、有り難く頂きます」

両手を胸の前できちんと合わせ、嬉しそうに目を閉じて合掌して頂きますをする都子。


その隣で、豊美は未だに周囲の妖怪たちへの警戒を怠らないまま、お膳とお茶碗を交互に眺めながら、おずおずと手を合わせた。

「えっと、まぁ……頂きます。って、ちょっと待ってや都子。これのどこが一体『まさに』なんよ。ウチから見たら、ただのちょっと風変わりな普通のご飯やん」

ボソボソと不満を溢らしながらも、豊美も一緒に「頂きます」をする。


二人が礼儀を尽くして『いただきます』と食に向き合う姿を聞き届けると、カウンターの横で見守っていたえらいこっちゃ嬢は、満足そうにコクりと一つ頷いて、再び厨房へとトコトコ戻って行った。


豊美は、まだ温かい湯気が昇るお膳をじっと見つめながら、黒漆の箸を取り上げた。

「それにしても、この御赤飯に、お豆腐に、お味噌汁に浮かんでる油揚げ。それと何故か洋風のフライドチキンって、メニューの組み合わせとしてちぐはぐな気がするわ。統一感がまるであらへんやん。それに、このお野菜の小鉢は、胡瓜中心なんやね。これのどこが妖怪ご飯なん?」

不思議そうに首をかしげ、豊美が最初の一太刀を入れるように箸を動かす。


都子も同じように箸を取ると、待ってましたとばかりに、その溢れんばかりの知識を披露し始めた。

「何言うてんの、豊美!このお膳の上に並んでるものはな、全部に深い意味と怪異達へのリスペクトが込められてるんよ。まずこの、もっちもちの赤飯は、さっきも話した通り座敷童の最大の大好物。そしてこの真っ白で瑞々しい豆腐は、さっきの豆腐小僧さんからの産地直送。それでこのお味噌汁に入ってる油揚げは、お稲荷さんをはじめとする狐の怪異が古来より大好きな食べ物で、この黄金色に揚がったフライドチキンは骨付き肉、つまり深山に棲む山爺の好物っていう事かな?最後にこの瑞々しい胡瓜は、豊美も絶対に子供の頃から知ってると思うけど、お水の怪異である河童の何よりも好きな食べ物やねん!」

立て板に水の如く、お膳の上の秘密を次々と解き明かしていく都子。


その熱弁が店内に響き渡った瞬間、厨房の仕切りの向こうから、ぬっと緑色の不思議な人物が穏やかに顔を出した。

それは、どこからどう見ても、現世の生き物としては大きすぎる立派な蛙の姿そのものだった。

全体が美しい新緑のような緑色の肌の蛙で、その瞳孔は横一直線になっており、すべてを見透かすような穏やかな目をした、極めて優しい顔立ちの蛙料理人である。


すると、その背後から再び現れたえらいこっちゃ嬢が、小さな胸を張って声を張り上げた。

「胡瓜は蛙仙人さんが育てた逸品、えらいこっちゃな新鮮野菜!」

自分のことのように誇らしげに、えらいこっちゃ嬢が両腕をぶんぶんと激しく振ってアピールする。


蛙仙人は、カウンター席の都子に向けて、深みのある落ち着いた声で優しく語りかけた。

「どうも、儂は蛙仙人と申します。そこの短髪の御嬢さん、確か名刺には都子さんと書いていましたな。御見事、全部大正解です。それにしても、人間の身でありながら、我々の好物をこれほど正確に言い当てるとは、よう知ってはりますなあ。感心、感心。うちの畑で丹精込めて育てたこの胡瓜はね、川に住んどる河童のみんなも『これ以上の美味いもんは現世にもおまへん』言うて、いつも喜んで食べてくれますねん」

蛙の顔に、人間の老人のような温和な微笑が浮かぶ。


「やっぱりそうなんや!本物の河童がお墨付きを与えるほどの最高級品なんやね!」


都子は歓喜の声を上げると、小鉢に美しく盛られた胡瓜を一切れ、箸で摘んでそのまま豪快に口へと運んだ。

サクッ、ポリッ、と路地裏の静寂に、これ以上ないほどに心地よい、軽快な咀嚼音が響き渡る。

都子は咀嚼するたびに口の中に広がる奇跡のような味わいに、そのまん丸な眼をいっそう輝かせた。


「凄い!美味しすぎる!生のままで瑞々しくて、何にもつけんでもどんどんいけますよ!マヨネーズもドレッシングとかも一切要らへん、素材の甘みと旨味がごっつ濃い!これが本物の河童が毎日ぼりぼり食べてる、逸品の味なんや!」


そのあまりの絶賛ぶりに生唾を飲み込んだ豊美は、半信半疑のまま、自分も恐る恐る胡瓜の一切れを箸で摘み、口の中へと恐る恐る放り込んでみた。


パリンッ。


今までに聞いたこともないような、圧倒的に瑞々しい食感が豊美の脳を直接揺さぶる。

それは、絶妙な歯ごたえと圧倒的な水分量を誇る、至高の胡瓜だった。

シャキシャキとして、噛めば噛むほどに大地の生命力を含んだ爽やかな甘みが溢れ出し、何もつけなくてもそのままで味が良くて、一度食べ始めると、つい次の箸が止まらなくなり、食が進む。


「……あ、ほんまや。何これ、信じられへん。パリンっとした最高の食感で、今までにウチが食べてきた胡瓜とは次元が違うわ。確かに、悔しいけどこれはめちゃくちゃ美味しいわ。あの蛙が育てたとか、正直まだ信じられへんけど……」


豊美は夢中で胡瓜を噛み締めながら、張り詰めていた心の棘がじんわりと溶けていくのを感じていた。

あまりの美味しさと、店内に満ちる優しい空気に包まれ、豊美の顔からはいつの間にか刺々しさが消え失せ、思わず心の底から「ほっこり」とした温かい表情を浮かべていた。


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##郷愁の赤飯と、境界の扉を開く者


美味しい胡瓜の衝撃が冷めやらぬ中、都子は続いて、純白に美しく輝く形の整った豆腐へと箸を入れた。

すっと滑らかに刃物のように箸が通り、驚くほど柔らかい手触りでありながら、それでいて決して形が崩れないしっかりとした豆腐の塊を、絶妙な手つきでつまんで口へと運ぶ。

ハフッと口に含んだ瞬間、大豆の本来の濃厚なコクと、まるで木漏れ日のような優しい甘みがじんわりと広がっていく。

都子は息を吐き出し、自然と肩の力が抜けていく安らぎを感じる。


「美味しい、これが豆腐小僧さんの豆腐……なんて優しい味なんや」

現世のトゲトゲした喧騒を忘れさせるような極上の滑らかさに、胸の奥が芯から「ほっこり」と温まる。


続いて、味噌汁にたっぷりと浮かんでいる、黄金色の油揚げを一切れ口に運んで食べてみた。

出汁を極限まで吸い込んだそれは、歯を立てた瞬間にジュワリと絶妙な食感を響かせ、醤油などの調味料を一切付けなくても十二分に美味で、ますます米飯が恋しくなるほどに食が進む。


更に、お膳の中で一際存在感を放っていた、骨付きのフライドチキンを大胆にガブリと大きく噛み締めた。

カリッ、と路地にまで響きそうなほどの小気味よい音が響き、外は驚くほどカリっと香ばしく、中は溢れんばかりの肉汁を蓄えたジューシーな肉質が弾け飛ぶ。

地鶏の旨味がこれでもかと凝縮されており、都子は今まで人生で食べてきたあらゆるフライドチキンの中で、文句なしに断トツのトップであると確信する。


隣に座る豊美もまた、最初は怪訝そうな顔をしていたものの、都子の勢いに釣られるようにして次々と料理を口に運んでいた。

「た、確かに美味しいわ、これ……。妖怪って、普段からこんなに贅沢で美味しいものが好きなんやね」


今まで抱いていた妖怪やお化けに対する恐怖の概念が、胃袋を満たす幸福感によってみるみる上書きされていき、豊美は感心しながらどんどん食が進み、どこか愛らしくすら思えてきた妖怪の好物の数々に、いつの間にか身も心も「ほっこり」とするのを感じていた。


そして、最後に二人は、お膳に鎮座する、猫子がよそってくれたあの熱々の赤飯を口へと運んだ。

もっちりとした米粒を噛み締め、その香ばしい小豆の香りが鼻腔を抜けた瞬間、都子の身体が激しく強張った。

都子は箸を持ったままカチリと静止し、信じられないものに出会ったように眼を見開く。


「これ……御祖母ちゃんの味や。昔、私の体質のことで色々あって、御祖母ちゃんが家にわざわざ励ましに来てくれた時とか、両親の元を離れて私が祖父母の家で暮らすようになった時に、寂しくないようにって何度も作ってくれた、あの特別な赤飯の味……え、なんで?御祖母ちゃんって、もしかして昔ここに直接来た事あるん?それとも、御祖母ちゃんの赤飯のレシピって、元々ここのものやったん?」

あまりの驚きと困惑に、都子はカウンターの向こうの地蔵店長を凝視しながら、震える声で言葉を紡ぐ。


豊美はお茶碗を片手に、不思議そうに首をかしげながら都子の顔を覗き込んだ。

「赤飯って、材料も作り方もどこも似たようなもんとちゃうん?あんたの気のせいやないの?」


「そんな事無いよ!豊美、これだけは絶対に違う。他の誰のレシピでもない、確かに私の知っている大好きな味やもん。懐かしい記憶が全部蘇るような味……。ふわっとしていながらしっかりともちもちで、絶妙な噛み応えがあって……。あの頃、私の横にいっつも居てくれたワラシちゃんと一緒に笑顔で並んで食べた、あの思い出の味やわ……」

都子は目元を少しだけ潤ませながら、子供時代の記憶を噛み締めるように、どこまでも愛おしそうに懐かしむ。


そんな都子の尋常ではない様子に、豊美は少しだけ気圧されながらも、優しい眼差しで自分の赤飯を見つめた。

「ふーん。まあ、細かいことはウチには分からんけど、確かにこれ、めちゃくちゃ美味しいよね。妖怪が好きなご飯が、人間にとって料理としてもこんなに美味しいもんやって事は、今夜で本当によくわかったよ」

豊美のトゲの取れた言葉に、店内の空気はいっそう穏やかなものへと変わっていく。


そうして、二人は目の前のお膳に並んだ全ての食を心の底から堪能し、一粒の米すら残すことなく美しく完食した。

都子は胸の前でそっと両手を合わせ、深くお辞儀をする。

「御馳走様でした」


その朗らかな声に導かれるようにして、何となく豊美もそれに習って、静かに両手を合わせて深く頭を下げた。

「御馳走様」


二人の感謝の言葉が店内に優しく響き渡る。


二人の様子を見届けると、どこからともなくえらいこっちゃ嬢がトコトコと近づいてきて、淹れたての温かいほうじ茶の入った湯呑みを二人の前にそっと差し置いてくれた。

「えらいこっちゃな、食後の一息」


二人は差し出されたお茶を「「有難う」」と言って受け取って両手で包み込み、ズズッと一口飲んで、至福のひとときに深くほっこりとしていると。


ガラガラガラ……。


静まり返った夜の境界に、店の引き戸が静かに開いて、新しい誰かが新しく入ってきた確かな気配が店内に滑り込んできた。

カウンターに心地よい夜風がすうっと吹き抜け、出汁の香りがふわりと揺れる。

二人はふと、その背後から聞こえてきた音の方を、何気なくゆっくりと振り向いた。


その瞬間、都子は息を吸い込んだまま硬直落し、驚きでその眼を限界まで大きく見開いた。


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##運命の引き合わせと、涙の再会


ガラガラガラと古風な引き戸が音を立てて開き、店の入り口から新たな風が吹き込んできたその瞬間、都子と豊美の二人は、そこに入ってきた人達の姿を視認して、同時にその眼を丸く見開いた。

しかし、並んで座る二人が限界まで眼を見開いたその理由は、内実においてまるで違っていた。


豊美にとっては、またしても現世の常識を遥かに凌駕する異形の存在が、立て続けに現れたことへの純粋な恐怖とパニックによるもの。

そして妖怪博士である都子にとっては、脳裏に焼き付いて離れない大切な記憶の断片が、奇跡のパズルとなって目の前で組み合わされようとしていることへの、言葉にならないほどの衝撃によるものだった。


店の暖簾をくぐって入って来たのは、実に対照的でありながらも、どこか不思議な調和を保っている三人連れだった。


先頭に立っているのは、頭部に確かな角の生えた、美しい着物姿をした圧倒的なまでの超絶美少女。


続いて、その超絶美少女としっかりと手を繋いでいる、おかっぱ頭で鮮やかな赤い着物を身にまとった、まるで最高級の日本人形さながらの可愛らしい6歳から7歳くらいに見える美少女。


そして最後に、人の形ではあるものの、その顔面に配置された二つの目が異様に大きくて印象的な、どこか温厚そうな雰囲気を漂わせた小柄な御祖父さん。

その御祖父さんは、落ち着いた小豆色の作務衣に真っ白な割烹着を綺麗に纏い、頭には和菓子屋の職人さんがよく被っているような白い調理用帽子をきちんと被っていた。


中でも一際強烈な存在感を放ち、嫌でも周囲の眼を引くのは、先頭を行く鬼の超絶美少女だ。


彼女の神秘的な顔立ちの中で輝くのは、妖しくも美しい金色の瞳。

そしてその艶やかな頭部からは、漆黒に輝く2本の鎌状の角が、左右に対をなすようにして堂々と生え出ている。

見事に手入れされた金色の長い髪は、カラフルなシュシュを使って左側に寄せられ、高めのサイドテールに可愛らしく束ねられている。


仕草や風貌の端々からは、現代のギャルという風貌が色濃く漂っているものの、その四肢を包んでいるのは、シックな黒地に鮮やかな金色の花の刺繍が見事にあつらえられた美しい着物であり、彼女はその極上の衣服を何一つ着崩すことなく完璧に着こなしている。

女子高生くらいの年頃の若い金髪の鬼の超絶美少女は、その場にいる誰もが息を呑むほどに見事な着物美人そのものだった。


そして、その鬼の美少女が指先でそっと優しく手を引いているのが、赤い着物を揺らす日本人形の如き美少女。


予期せぬ者達の登場に、二人が言葉を失って驚いていると、カウンターの横にいたえらいこっちゃ嬢が、待ってましたと言わんばかりに小さな両腕をぶんぶんと激しく振り始め、歓迎の意を表した。

「女鬼ねえちゃん、いらっしゃいの御疲れちゃん!えらいこっちゃなグッドタイミング!」

えらいこっちゃ嬢は、独特のリズムでお馴染みの挨拶を響かせる。


カウンターの奥から静かに見守っていた地蔵店長もまた、その石の質感を湛えたお顔に笑顔を浮かべ、胸の前でそっと両手を合わせると、お地蔵さん笑顔で合掌してお辞儀をして丁寧な挨拶の言葉を紡いだ。

「女鬼さん、小豆洗いさん、座敷童さん、いらっしゃいまし、お疲れ様です。皆さん、準備はすべて調うて御座います」

いつもと変わらぬ、どこまでもにこやかで温かい歓迎の響きが店内に広がる。


女鬼と呼ばれた鬼の超絶美少女は、その大きな金色の瞳をカウンターへと向け、こちらの様子を窺いながら、親しみやすさを込めて手をひらひらと振って挨拶をしながら店の奥へと歩み入って来た。

「おつー♪遠くからでも楽しそうな声が聞こえてたよー♪猫子さん達特製の妖怪セットは、綺麗に完食してくれたみたいだねー♪」


続いて、調理用帽子をちょこんと直した小豆洗いが、その大きな目を細めて人懐っこい笑顔を咲かせた。

「御疲れさんです。丁度ええ頃合いに店に着けましたな。今日も畑の恵みと儂の技で、これ以上ない最高の鯛焼きを焼き上げまして持ってきましたでな。さあさあ、温かいうちにみんなで食べまっせ」


小豆洗いは、腕に抱えていた竹編みの籠を大切そうに掲げてみせる。

そこからは、出来立ての和菓子特有の、香ばしくて甘い極上の餡子の香りがふわりと立ち上り、一瞬にして食堂の中を満たしていった。


あまりにも濃密な怪異たちの連鎖に、豊美は隣の都子の袖を涙目で激しく引っ張りながら、声を殺して身を震わせる。

「え、ちょっと……何よあの子、頭から本物の角生えてるし、その横におるんは目がごっつおっきい御祖父さんで……え、これ、どう考えても、絶対人間ちゃうよね!?完全に本物の化け物やんかぁ……!」


豊美が恐怖にガタガタと震えている横で、都子の意識は、地蔵店長が口にした「ある名前」に完全に釘付けになっていた。

幼い頃の孤独な日々、自分の味方をしてくれた祖父母の優しい笑顔、そしてあの古い家で共に過ごした大切な存在。


「……え?あの、今、地蔵店長さん。その子のことを、『座敷童』って、はっきり言わはりましたよね……?」

都子は思考が真っ白になるのを感じながら、潤んだ瞳で地蔵店長の方を思わず強く見つめ返す。


「はい。都子さんがずっとずっと、ご実家で待ち続けておられた、座敷童さんです」

震える声で確認するように尋ねる都子に対し、地蔵店長は少しも揺らぐことなく、ニコニコと優しいお地蔵さん笑顔を湛えたまま、静かに応えた。


その言葉を受け、都子は弾かれたように視線を動かし、もう一度だけ、そのおかっぱ頭の小さな女の子の姿を真っ正面から凝視した。

赤い着物の袖、真っ直ぐに切りそろえられた黒髪、そして記憶の中にあるものと一寸の狂いもない、あの愛らしい面影。

都子の胸の奥から、せき止められていた熱い感情が怒涛の勢いで溢れ出してくる。


二人の間に流れる特別な空気を察した女鬼は、繋いでいた小さな手をそっと離すと、おかっぱ頭の女の子の背中を優しく手の平でそっと押して、お姉さんのような眼差しで優しく微笑んで促した。

「ほら、座敷童ちゃん。いつも美味しいおやつを準備して待っててくれた、ずっと会いたかった真眼のお姉ちゃんだよ。行っておいで」


その優しい言葉に背中を押されるようにして、座敷童はおかっぱ頭の髪を揺らしながら、トコトコと小さな足音を響かせて小走りに都子の足元までやって来た。

そして、見上げるような姿勢から小さな両腕をいっぱいに広げると、都子の腰の辺りへと、ぎゅっと笑顔で愛おしそうに抱き着いたのだった。


小さな身体から伝わってくる、確かなぬくもりと懐かしい小豆の香り。

その瞬間、都子の目から、堰を切ったように大粒の涙がとめどなく流れ始め、彼女は両手で優しく抱き返して声をあげて泣いた。


「……ずっと、会いたかった」


隣にいた豊美は、天敵であるはずの同僚が流したあまりにも純粋な涙と、怪異と人間が心を通わせているその奇跡のような光景を目にして、驚いた顔を隠せなかった。

けれど、カウンターの向こうの地蔵店長も、猫子も、蛙仙人も、そして新しくやって来た女鬼と小豆洗いも、誰もがその涙を決して急かすことなく、ただただ温かく優しい眼差しで、二人の美しい再会の時間を静かに見守っていた。


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##涙の邂逅と、最強小豆コンビの極上鯛焼き


都子は、自分にきつくしがみつく座敷童と同じ目線まで体を調えて、その小さな身体をそっと優しく抱きしめ続けた。

腕の中に確かに感じられる、子供特有の柔らかさと温もり、そして微かに漂う懐かしい小豆の香り。

都子は溢れ出る大粒の涙を流しながらも、この上なく幸せな笑顔を見せる。


「ずっと、ずっと会いたかった……。実家から、おじいちゃんとおばあちゃんの家に引っ越す前、離れ離れになる時に、絶対にまた会おうねって約束して……。やっと、やっとその約束を叶えられたんやね、ワラシちゃん」


時を越えて果たされた約束の重みに、都子の胸は熱く震えていた。

抱きしめられた座敷童も、都子の背中に小さな手を回し、嬉しそうに顔を綻ばせる。


「うん」

満面の笑顔で応えるその返事は短くとも、二人の絆の深さを証明するには十分だった。


都子は少し身体を離し、おかっぱ頭の愛らしい顔を見つめながら、愛おしそうに笑いかける。

「本当に良かった、また会えて。あの頃のまま、何も変わらず可愛らしくて、元気な姿でいてくれて、ほんまに良かった」


座敷童は都子の涙を小さな指先でそっと拭うと、楽しげに声を弾ませた。

「女鬼ねえちゃんがな、都子ちゃんがここに来たら、会いに連れて行ってくれるって言ってくれてはってん。現世と幽世の境界にあるここやったら、お互いに会うのに一番いい場所やって教えてくれて」

小さな指で、隣に立つ金髪の鬼の超絶美少女を指し示す。


それを聞いた女鬼は、サイドテールに束ねた金髪を軽快に揺らし、パチンとウインクをしてみせた。

「娑婆の人間と異界の者が何の障りもなく交流するのに、最高だからね、この摩訶不思議食堂は。それにここなら美味しいごはんとか、特製のおやつも付いて来るし♪」

現代のギャルそのものの軽い口調でありながら、その言葉には深い慈愛が込められていた。


「そやで。何はともあれ、せっかく集まったんや。儂が腕によりをかけて仕込んだ小豆の鯛焼きを、みんなで一緒に食べよか」

小豆色の作務衣を着た小豆洗いが、人懐っこい笑顔を浮かべた。


彼は抱えていた竹編みの籠から、まだお腹の辺りがふっくらと温かい、香ばしい匂いのする鯛焼きを一つずつ全員に配って回り、ガタガタと震えながらカウンターの端で縮こまっていた豊美の前にも、その小さな手をすっと差し出す。


「あ、有難う御座います……」

豊美は完全に腰が引けた引きつった笑いを浮かべ、何とかその温かい鯛焼きを受け取る。


それと同時に、厨房の奥から猫耳をぴょこぴょくと揺らした猫子と、割烹着姿のえらいこっちゃ嬢が、淹れたての温かいお茶を持ってきてくれた。

そうして、全員がカウンター席に和気あいあいと並んで腰を下ろし、一緒に鯛焼きを食べ始めた。

サクッ、と小気味よい音が店内に響き渡る。


豊美は恐る恐る鯛焼きの端を齧り、そのあまりの美味さに驚愕して目を丸くした。

「お、美味しい……!外の皮がパリッとしてて、中の餡子が上品な甘さで、今まで食べた鯛焼きの中で断トツ一位や……。でもこれ、その、御祖父さんが作ったんよね?えっ……えっと、妖怪なん?」


手が微かに震える豊美の恐る恐るの質問に、小豆洗いは大声を上げて快活に笑い飛ばした。

「はははは!そやで、妖怪小豆洗いや。それにしても、儂みたいな小さくて人畜無害な妖怪がそんな怖いんかいな!おもろい御嬢ちゃんや」


その様子を見ていた都子は、鯛焼きを美味しそうに咀嚼しながら、豊美をなだめるように言葉を添える。

「小豆洗いさんは怖くないよ。そりゃ地域によっては『小豆洗うか人取って食うか』って言う伝承もあるけど、それは人間へのちょっとした戒めみたいなもんで、基本的にはそっとしてたら小豆洗ってはるだけやもん。それにしても小豆洗いさん、鯛焼きを作ってはるんですね」

都子は目をキラキラと輝かせ、妖怪博士としての情熱を滾らせる。


小豆洗いは、自分の本質を完璧に見抜いてくれている都子の知識量に、嬉しそうに深く頷いた。

「お、よう知っとるやん。『小豆あらうか人取って食うか』って言う文言は九州地方で聞かれる伝承やね。儂らのことをそこまで正しく理解してくれとるお嬢さんに出会えて、儂も鼻が高いわ」


「図鑑で読んだ事あるんです。あ、小豆婆さんもいてはるんですか!?」

都子は好奇心のあまり身を乗り出す。


その熱意に圧倒されつつも、小豆洗いはさらに笑みを深めた。

「ほんまによう知ってるお嬢さんやなあ。小豆婆さんとは、一緒に店やっとるんや。小豆婆さんは鯛焼きも上手に焼くけど、和菓子の中でも生菓子を主に担当してくれてるでな。今度、豆餅食べにおいない」

優しく微笑みながら、都子を誘う小豆洗い。


「やっぱり!最強小豆コンビやん!是非、食べに行かせて貰います!ワラシちゃんも一緒に行こな!」

都子が両手を叩いて大喜びすると、その横にいた座敷童も、小さな手で鯛焼きを大事そうに持ちながら満面の笑みを浮かべた。

「うん♪」


笑顔で鯛焼きを美味しそうに食べて喜ぶ座敷童の姿を見て、横に座る金髪の鬼の超絶美少女が楽しげに笑い声を上げた。

「あはは、二人ってさ、もう完全に仲良し姉妹じゃん♪」


女鬼の言葉に、食堂全体がさらに温かい笑い声で包まれていく。


怪異と人間が何の垣根もなく、楽しげに交流する温かな食堂の空間。

間宮豊美は、口の中に広がる鯛焼きのあまりの美味さを素直に認めつつも、周囲を囲む百鬼夜行の光景に、まだ恐々としていた。


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##頑なな偏見と、秘められた過去の記憶


都子の腕の中にすっぽりと収まり、幸せそうに目を細めている赤い着物の少女。

そのあまりにも無垢で愛らしい姿をすぐ横でじっと凝視していた豊美は、湯呑みを両手で握りしめたまま、困惑と恐れが入り混じった複雑な表情でぽつりと声を漏らした。


「……この可愛らしい子が、都子がさっきから言うてた座敷童なんやね。まあ、確かに可愛いのは文句なしに可愛いと思うけど……。でも、どっからどう見ても普通の、ちょっとおませな人間の女の子にしか見えへんのやけど。こんな子が本当にあの恐ろしい妖怪なん?なんか、ウチの中の常識がめちゃくちゃになって、何が何だかもう分からんようになってきたわ……」


怪異といえば恐ろしくておぞましい怪物ばかりだと思い込んでいた豊美にとって、目の前の光景はあまりにも現実離れしていた。

そんな豊美の戸惑いを受け止め、都子は座敷童の小さな頭を優しく撫でながら、慈愛に満ちた柔らかな微笑みを浮かべた。


「そう、この子が豊美にも話してたワラシちゃんや。私が昔、事情があって実家から京都の郊外にある祖父母の家に預けられるようになるまで、本当に毎日のように家の中で一緒に遊んだり、悲しい時は寄り添ってくれたりして、ずっと仲良く過ごしてたんよ」

かつての孤独な日々を支えてくれた唯一無二の親友の存在を、都子は誇らしげに語る。


豊美は、未だに座敷童が突如として異形の怪物に変貌するのではないかと怯えるように、上目遣いで都子の顔を覗き込んだ。

「一緒に遊んでたっていう事は……その、人畜無害で、人間に危害を加えたり、急に襲って噛みついたりとかは絶対にせえへんのやね?ほんまに、未来永劫、絶対襲わへん?」

念を押すように何度も尋ねる豊美。


「襲わへんよ、そんな物騒なことするわけないやんか。だって、ずっと一緒に仲良くおままごとしたりして遊んでたもん。私の大切な家族みたいな存在なんやから。今まで生きてきて、この子に嫌な事された事なんて本当に一回もないもんねぇ」

都子は座敷童と視線を合わせ、悪戯っぽく笑いかける。

座敷童もそれに応じるように、コクコクと小さなおかっぱ頭を縦に振った。


二人のやり取りをカウンターの向こう側から眺めていた女鬼は、サイドテールを揺らしながら不思議そうに首をかしげた。

「豊美さんって、妖怪イコール問答無用で人間に襲いかかってくる危険な生き物って認識なんだね。ちょっと偏見激しくない?」


「当然やん!現に私、さっきまであの薄暗い路地裏で、目が一つしかない変なキモい傘に襲われてたんやから!本気で命の危険を感じて当然やろ!」

豊美は先程の恐怖の瞬間を思い出し、恐怖をはねのけるように声を荒らげて叫ぶ。


その豊美の言葉に対して、都子は今度ばかりは擁護できないとばかりに、真面目な顔をしてピシャリと言い放った。

「あれは完全に豊美の方が悪いに決まってるやんか。何もないところで静かに休んでた唐笠お化けを、自分の八つ当たりで思いっきり蹴っ飛ばしたんやからね。理由もなく突然蹴られたら、人間だって怪異だって怒るんは当然やろ?あ……蹴るで思い出した!」

都子は何か重要なことを突如として思い出したかのように、ポンと手を叩いて唐突に声を大きくした。


「な、何よ、いきなり大声出して……心臓に悪いわぁ」

豊美はびくっとして肩をすくめ、不満げに都子を見つめ返す。


都子はカウンターの上で豊美の方へと向き直ると、厳しい眼差しを投げかけた。

「昼間、あの小さな茶色い犬を思いっきり蹴ろうとしたやろ?いくら自分がイライラしてたからって、あんな無抵抗な動物を蹴ったりしたら絶対にあかんで!」

毅然とした態度で、悪いことをした同僚を諭すように厳しく叱る。


「だって……あの時は、折角デザイン採用されたってのに、その後の仕事が上手くいかんでイライラしてたし、それにあの犬、やたらとウチのすねにまとわりついてきて、歩きにくくて邪魔やったんやもん。毛並みの色も、なんかどんよりとして汚かったし……」

豊美はバツが悪そうに視線を泳がせながら、子供のようにぶうっと不満げに口をとがらせる。


「色なんて関係ないやん!あれはな、えらいこっちゃんのところの大事な子やったんやで!もしあの時、私が止めへんで豊美のヒールが当たって大ケガでもさせてたら、一体どうするつもりやったんよ!」

都子は一歩も引かずに、豊美の身勝手な言い訳を厳しく叱り飛ばす。


すると、それまで大人しくお茶を飲んでいたえらいこっちゃ嬢が、湯呑みを机にトンと置いて、その大きくて汚れなきまん丸目で豊美をびしっと見据えた。

「ウチの大事なお友達を、邪険に蹴ろうとしてしまいよった。あの時、真眼おねえやんがフットワークで止めへんかったら、ほんまにえらいこっちゃ」


感情の起伏こそ少ないものの、その言葉には確かな重みがあり、豊美の胸に深く突き刺さる。

怪異だけでなく、目の前の小柄な少女にまで完全に包囲された形となった豊美は、流石に自分の仕でかした事の重大さと身勝手さを自覚したのか、みるみる顔を赤くして小さく身を縮めた。


「……わ、悪かったって。本当にごめん。ウチが全面的に悪かったです。えらいこっちゃんの大事な犬を、自分の都合で蹴ろうとしてしまって、本当にすみませんでした」

豊美はカウンターに届きそうなほど、神妙な面持ちで深く頭を下げた。


「分かってくれたならええよ。でも、もう二度とあんな危ないことはやったらあかんで」

都子は豊美が素直に謝罪したのを見て、いつもの朗らかな表情へと戻り、優しく声をかける。

「あ、それであの子のことなんやけど……えらいこっちゃんと仲良しのあの茶色い子って、私の知識が確かなら、もしかしてやけど『すねこすり』とちゃう?」


都子の推測を聞いたえらいこっちゃ嬢は、嬉しそうにパッと顔を輝かせた。

「えらいやっちゃな真眼おねえやん、大正解!」

まるでお祭りの太鼓を叩くかのように、小さな両腕を上下にぶんぶんと激しく振って都子の深い知識を称賛する。


「何よ、すねこすりって?親に迷惑かける『すねかじり』の言い間違い?」

豊美は頭を下げた姿勢から顔を上げ、聞いたこともない不気味な名前に不思議そうに首をかしげる。


都子は残っていた鯛焼きの最後のひと口を美味しそうに口へ放り込むと、温かいほうじ茶をごくりと飲んで一息ついた。

「『すねこすり』っていうのはな、人間の足元にまとわりついて、歩きにくくさせるっていう、いたずら好きの可愛い怪異や。確か、古くからの伝承では岡山県に深く伝わるって聞いたことがあったけど、へぇ、京都の街にも実際にいるんやねぇ」

都子はまた一つ、自分の妖怪知識が現実のものとして証明されたことに深く満足していた。


すると、隣でサイドテールをいじっていたギャルの鬼、女鬼が、なるほどねといった様子で会話に入ってくる。

「あの子ね、実は岡山から、わざわざ人面犬さんに会うために、はるばる京都まで遊びに来てたんだけど、途中で迷子になっちゃってさ。それでパニックになって、たまたま通りかかった豊美さんと都子さんのすねに、助けを求めるみたいに近づいちゃったんだよね。でも今は、とある犬にまつわる由緒正しい神社にちゃんと泊めてもらってるから、もうどこかへ行っちゃう心配はないし、安心していいよ。めっちゃ信頼出来る神社だし♪」

女鬼は白い歯を見せて、親指をグッと立てながら快活に笑った。


「そっか、それは良かった、無事で何よりや。あの人面犬さんの大切なお友達やったんやね。岡山からそんなに遠路はるばる京都まで旅をしてくるなんて、本当の本当にお疲れ様やねぇ」

都子は迷子の怪異が無事に保護されたことを知り、心の底から安心したように朗らかに笑う。


しかし、その説明の中に再び登場した、あの衝撃的な怪物の名前に、豊美の背筋が再び凍りついた。

「人面犬って……ちょっと待ってや、さっきあの路地裏で、傘のお化けと、顔が真っ平らな着物のお化けと一緒にニヤニヤしながらおった、あの首から下がどう見てもキモい犬の事!?」

豊美は昼間の強烈なビジュアルを思い出し、再び声を大にして叫ぶ。


その豊美の直球すぎる罵倒を聞いた女鬼は、呆れた顔をして、豊美の口を人差し指で可愛らしく塞ぐような仕草をした。

「うわー……豊美さん、それ絶対、本人の前で言っちゃ駄目だかんね?人面犬さんって見た目はああだけど、中身はめちゃくちゃ繊細なガラスのハートの持ち主なんだから。そんなこと言われたら一発でメンタル崩壊してへこんじゃうし。それにさぁ、人面犬さんって、顔は普通にアイドル系っていうかさー、結構なイケメンじゃね?」

大真面目な顔で、不思議そうに首をかしげる女鬼。


「どこがよ!どれだけ顔が整っていようが、犬の体に人間の男の顔がそのまま直に生えてるとか、存在自体が意味不明やん!どこからどう見てもキモいわ!」

豊美は自身の美的感覚を総動員して、全力で拒絶の叫びを上げる。


そんな豊美の、一貫して怪異を拒絶し、病的なまでに嫌悪し続ける頑なな態度を見つめていた女鬼は、その金色の瞳の奥に少しだけ真面目な光を宿し、静かに問いかけた。

「ねえ、豊美さんって、さっきから聞いてるとさー、怪異の類をめちゃくちゃ嫌ってるみたいだけど。もしかして昔、怪異と凄く嫌な思い出とかなんかあったん?」


その女鬼の唐突な一言に、都子はハッとして豊美の横顔を見つめた。

言われてみれば、豊美は幼少期の小中学生時代から、自分の「見えないものが見える」という体質に対して、周囲の誰よりも人一倍、烈火のごとき激しさで当たりが強かったことを都子は鮮明に思い出す。

あれは単なるいじめや揶揄いではなく、もっと根深い、怪異そのものに対する強い恐怖や嫌悪の裏返しだったのではないか。


豊美がこれほどまでに妖怪を拒絶するのは、彼女の過去に、怪異にまつわる何か決定的に嫌な思い出や、忘れられないトラウマがあるからかもしれない。

都子は温かい湯呑みを握りしめながら、静かに隣の同僚の横顔を見つめ、彼女の心の奥底にあるかもしれない闇に、静かに思いを馳せていた。


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##過去の因縁と、冥府に刻まれた記録


女鬼の唐突でありながら核心を突いた問いかけに、それまで鯛焼きの美味しさに少しだけ表情を緩めていた豊美の身体が、一瞬で強張った。

豊美は持っていた湯呑みをがたがたと震わせ、防衛本能を剥き出しにするようにして、ぶうっと唇を突き出す。

「……こっちにはこっちの事情があんねん!よその人には関係あらへんやろ、ほっといて!」


必死に心の扉を閉ざそうとする豊美に対し、都子は静かに身を寄せ、その曇りのない瞳で隣の同僚を見つめた。

「なあ、豊美。一体何があったかは教えてくれへんの?もしかしたら、豊美の心の中に何かの深いトラウマがあるとして、それを話してくれたら、私でも何か力になれるかもしれへんやん?この体質やし、何とか解決できるかもしれへんやろ?」


都子の真っ直ぐな言葉は、逆に豊美の頑なな心を閉ざさせる。


「教えへん!」

豊美は子供のようにプイッとそっぽを向くと、それ以上は何も言わせないという固い意思を示すようにして、強く腕を組んで拒絶した。


その様子を、サイドテールを指先で弄りながら眺めていた女鬼は、金色の瞳を少しだけ細めて、凍りつくように鋭い言葉を静かに突き刺した。

「トラウマ植え付けられたのは事実としてもさー、それが都子さんを一方的に迫害したりいじめたりする理由にはならないよね?」


その想定外の角度からの指摘に、豊美は激しく驚いて、咄嗟に女鬼の方へと視線を向けた。

女鬼は、ギャル特有の軽いノリを削ぎ落とした真剣な声で語りかける。


「あーしの口からは、何が豊美さんのトラウマになったかは絶対に言わないけどさ。どんな辛い出来事を過去に体験してたとしても、それが都子さんが怪異と仲良しなのを理不尽に咎めたり、寄ってたかって迫害したりする理由にはならないって事、大人になった今の豊美さんなら、ちゃんと頭でわかると思うけど、どうなん?」


逃げ場をなくすような女鬼の更なる問いかけ。


「それは……」

豊美は反論の言葉を見つけられず、ただただ口ごもるしかなかった。

彼女の脳裏に、かつて都子へと浴びせかけた数々の辛辣な言葉が、罪悪感と共に去来する。


「ま、二人の事は2人で解決すべき事だけどさ。助け舟を出して欲しいってんなら、あーしはちょっと助け船を出すって感じで、こうやって口挟むくらいはするけど、二人の関係にあーしから直接何かをして解決してあげる、なんてお節介はしないよ」

女鬼はどこか見守るような優しい眼差しで眼を細めた。


都子は、ずっと胸の奥にくすぶっていた過去の疑問を、今こそ解き明かそうと静かに口を開いた。

「なあ、豊美って子供の頃、周囲の誰よりも人一倍、私に対して当たりが強かったよね?あの時、まだ幼かった私が『何でみんなには観えへんの?』って、青い鬼火が観えたりするのが当たり前やと勝手に決めつけて、観えへんみんなの方がおかしいって決めつけてたんが、そんなに許せへんかったん?私がみんなをおかしいって勝手に決めつけたから、あんなに怒ったん?」


都子の純粋な問いかけは、豊美の心の奥の防壁を僅かに揺らす。


しばらくの沈黙の後、豊美は絞り出すような声で本音を溢らした。

「……まあ、それも全く無くはないけど。でも、それだけやない。ありもしいひん不気味な妖怪がそこに本当におるって、嘘ついて周りを、ウチを怖がらせる都子の存在が、ただただ気に入らんかってん」


「そっか……。あれはほんまに見えてたし嘘やないって、今の豊美ならわかってくれるとは思うけど……あれってみんなを、そして豊美を本気で怖がらせてしもてたんやね……本当にごめん」

都子は自分が無自覚に他者を恐怖させていた事実を受け止め、神妙な面持ちで深く頭を下げた。


すれ違う二人の告白を聞いていた女鬼は「なるほどねー」と小さく顎を引いた。

「まだ精神的に未成熟な子供達にありがちなすれ違いって言うか、認識違いからくる、よくあるいさかいって感じ?お互いに悪気があったわけじゃないよね」


けれど、女鬼の追及はそこで終わらなかった。

彼女は金色の瞳に悪戯っぽい光を灯すと、豊美の顔をじっと覗き込む。

「でもさ、本当にそんだけ?豊美さんが都子さんをそこまで人一倍毛嫌いしてた本当の理由って、本当にその子供のすれ違いだけなのかな?」


「それは……」

豊美はまたしても言葉に詰まり、胸の奥の最も深い痛みに触れられたかのように激しく動揺する。


「さっきも言ったけど、あーしからは絶対に言わないし、無理に言えって強制もしない。でもさ、なんで都子さんが豊美さんからそんなに当たりが強かったのか、都子さんはその本当の理由を知る権利があると、あーしは思うわけよ。それに、豊美さんにとっても、過去のトラウマをトラウマのまま一生引きずって怯えて暮らすのって、そのトラウマを植え付けた張本人の奴に対して、めちゃくちゃ悔しいと思わん?」

女鬼は、豊美の心を救い上げるかのように、どこまでも優しく微笑んだ。


その全てを見透かしたような言葉に、豊美は耐えきれなくなって声を震わせ、怪訝そうに眉を顰めた。

「女鬼ちゃんは、さっきから何を言うてるん……?まるでウチのトラウマの正体を最初から全部知ってるみたいな風に言うけど、一体何を知ってんのよ?」


豊美の必死の問いかけに、女鬼はフッと吐息を漏らすようにして、こともなげに言い放つ。


「んー、豊美さんが生まれてから今この瞬間までの事、ぜーんぶかな。『こっち側』の世界にはさ、その人が歩んできた一生が、寸分の狂いなく克明に記録されるからね。そういう、人間の常識を超えた存在が本当に現実としてここにあるってのは、今の周りの状況を観れば、嫌でも理解出来ると思うけど、どうよ?」


女鬼のその言葉は、豊美の心に絶対的な事実として重く突き刺さった。

この摩訶不思議食堂に来る前に出会った数々の恐ろしい怪異達。

そして今、目の前で美味そうに鯛焼きを食べている金髪の鬼の超絶美少女や、優しく微笑む小豆洗いに、都子を嬉しそうに見つめる座敷童。


それらの人知を超えた存在が、厳然と実在しているという目の前の現実を観れば、女鬼の言っている事は決して嘘でもはったりでもなく、紛れもない真実なのだと、豊美は背筋を凍らせながら悟るしかなかった。


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##秘められたトラウマと、溶けゆくわだかまり


女鬼から告げられた絶対的な冥府の事実に、間宮豊美はしばらくの間、深い沈黙へと沈み込んでいた。


異界の住人たちが優しく見守る静かな店内で、彼女は握りしめた湯呑みを見つめたまま、ぽつりぽつりと重い口を開き始める。

押し殺していた記憶の蓋を抉り開けるかのように、その声は微かに震えていた。


「……小学生になったくらいの頃、2歳上の兄と、その友達が家に遊びに来て、一緒に映画を見たんやけど」

豊美の脳裏に、幼い日の薄暗いリビングの光景がまざまざと蘇る。


「それが、めちゃくちゃ怖いホラー映画で、見ただけで鳥肌が立つようなおぞましい妖怪が出てきて、次々に人を襲って……。最初はな、面白くて笑える楽しい映画やからって、あいつらにだまし討ちを喰らわされたんよ。途中から怖くなって嫌がったけど、無理矢理見せられて……。怖がって泣きそうになってる私の顔を見て楽しむのが目的やったんよ、あいつらは。そんで、ついに私がギャン泣きしたら、大笑いしやがってん。ほんまに最低な奴らやった」

悔しさと恐怖が入り混じった激しい感情が、豊美の言葉に乗り、静まり返った食堂の空気を震わせる。


「それで……次の週に、また同じような気味の悪い映画を無理矢理見せられて。その夜のことなんやけど、夜中に急にトイレに行きたくなって、布団から出て自分の部屋を出ようとしたら、鍵なんてかかってへんはずやのに、何故かドアがびくとも動かんくて。あの映画の残像が頭にあって、めちゃ怖くなって、半泣きになりながら何とかドアを開けようとしてガチャガチャやって……。それでやっと、ガチャンってドアが開いたと思ったら……」


豊美は恐怖のあまり自身の肩を抱きしめ、声を震わせた。

「目の前に、その映画で見た妖怪が、物凄いどアップでおってん」


その詳細な状況を聞いていた食堂の全員が、それが本物の怪異などではなく、妹を驚かせるために仕組まれた悪質な2歳上の兄の悪戯だと即座に悟った。

部屋のドアが開かないように外から細工をして、開いた瞬間に妖怪のマスクか何かを被って待ち受けていたのだろう。


豊美は思い出すだけでも恥ずかしいのか、顔を真っ赤にして唇を強くかみしめた。

「そんで、あまりの恐怖と突然の驚きで、頭が真っ白になって、その……情けない話やけど、その場で粗相してもうて、ギャン泣きしてん。結局、全部お兄ちゃんの悪質な仕業やったんや。その後に両親が気づいて、お兄ちゃんをこっぴどく叱ってくれて、一応は口先だけは謝りよったけど……。それからというもの、ことあるごとに妖怪の話を持ち出したり、そん時の私の粗相の話を引き合いに出してニヤニヤ笑いながら揶揄いやがって……。思い出すだけでも本当に腹が立つわ!」


幼い頃に深く傷つけられた乙女の羞恥心と、誰にも言えなかった孤独なトラウマ。

豊美が不自然なほどに妖怪やお化けを嫌悪し、それを愛する都子を攻撃していた本当の理由が、今ここに明かされた。


すると。

重苦しい沈黙が広がるカウンター席で、それをじっと聞いていた都子が、うつむいたまま拳を震わせた。


「……せん」

地を這うような、小さな低い声がその口から漏れ出す。


豊美は涙を拭いながら、不思議そうに隣の横顔を覗き込んだ。

「え?」


「赦せん!絶対に赦せん!素晴らしい妖怪の存在を、大切な妹にトラウマを植え付けるための道具にしよった事も、何より、まだ幼くて純真やった少女時代の豊美を、面白半分で怖がらせて一生モンのトラウマを植え付けよった事も、私は絶対に赦せん!」


ドンッ!とカウンターを激しく叩き、都子は怒髪天を衝く勢いで憤慨して立ち上がると、その両手を固く握りしめて怒りを爆発させた。

まさか、自分をいじめていた張本人のために、都子がこれほどまでに激しい怒りを露わにするとは思ってもみなかった豊美は、呆然と目を丸くする。


そんな都子の凄まじい大激怒の勢いに呼応するように、カウンターの横ではえらいこっちゃ嬢がそのまん丸目をひん剥いた。

「えらいこっちゃー!」

大変な大事件が勃発したと言わんばかりに、小さな両腕を上下にぶんぶんと激しく振り回して都子の怒りに同調する。


その二人のコミカルでありながらも熱い様子を見て女鬼は、深くため息を吐き出しながら肩をすくめた。

「そりゃ、お兄ちゃんが悪いね、うん。豊美さんの兄貴のやった事は、人間としても男としても100%悪いわ。それについては、あーしたちの帳簿にバッチリと悪業としてカウントしてあるし、そこんとこはしっかりと『こっち側』の記録には残されてっから。死んだら閻魔様に大目玉喰らうの確定だし」


女鬼はどこか呆れたように首を振る。


「勿論、だからと言って、豊美さんがその腹いせに都子さんを一方的に迫害したり、いじめていいっていう理由にはならないよ。でも都子さんは、なんで自分に対してあんなに辺りが強かったのか、その原因がようやく分かったのは、大きな前進だと言えるんじゃないかな。それを知った上で、これからお互いがどういう関係を結び直すか、それはもう、大人になった二人でじっくり話し合いなよ」

女鬼は金色の瞳を優しく細め、二人の未来を祝福するように優しく微笑んだ。


都子は大きく鼻を鳴らすと、ベリーショートの髪を揺らし、ボクサーのファイティングポーズを構えてみせた。

「そやで!トラウマの原因が分かったなら、話は簡単や!とりあえず現世に帰ったら、豊美のお兄さんを速攻で呼び出して、かつて大切な乙女の純真を傷つけて、最悪な羞恥心を植え付けよった事の償いをきっちりとさせよう!私も妖怪と仲良くさせてもろてるプライドにかけて、全面的に豊美に協力するから!妖怪パワーを舐めんなよって感じの、本物の恐怖を叩き込んだるわ!」

正義感に燃える都子の、あまりにも突飛で心強い復讐の宣言。


その怒涛の勢いに圧倒されていた豊美は、張り詰めていた心の緊張が一気に解けたのか、プッと吹き出すようにして思わず笑ってしまった。

「ふふっ……あはは!何やのそれ、あんたは別に妖怪ちゃうやろ!なんであんたが一番張り切って妖怪代表みたいになってんのよ!」


豊美は見事なツッコミを入れ、これまで見せたことのないような、年相応の晴れやかな笑顔を咲かせた。

そして、その笑顔のまま、豊美は静かに都子の方へと向き直る。


「……都子、今まで、本当にごめん。ほんまは心のどこかで、ずっとわかってたんや。都子にどれだけ八つ当たりして意地悪しても、ウチの過去の恐怖も恥ずかしい記憶も、何一つ変わりはせえへんって。でもな、あの事件の時からお化けとか妖怪がほんまに心の底から嫌いに、怖くなってしもて……。そやから、都子が楽しそうに妖怪の話をしてるのを見るだけで、あの時の恐怖がフラッシュバックして、幼稚な意地悪をしてしもてたんや。ほんまに、ひどいことして、ごめんなあ……」


豊美はこれまでの自分の全ての過ちを認めるように、神妙な面持ちで深々と頭を下げた。

都子はそんな豊美の震える肩を優しく叩き、包み込むような温かい声で応じた。


「うん、理由がちゃんとわかったし、こうして自分の悪かったところを反省して、真っ直ぐ頭を下げてくれたんやもん。これからはもう、普通の同僚や。あとは、豊美を苦しめたお兄さんをとっちめさえすれば、これで全部円満解決やね!」

都子は不敵な笑みを浮かべ、拳をグッと握る。


それを見た豊美は、顔を上げてクスッと楽しげに笑った。

「あはは、お兄ちゃんを突っつくんは、もう確定ルートなんやね。恐ろしいわぁ」


二人の間に漂っていたあの冷ややかで険悪な空気は、この摩訶不思議食堂の美味しい料理と、温かい怪異たちの見守りによって、完全に霧散していった。

こうして、長年の二人の間にあった深いわだかまりは綺麗に溶けていき、過去を乗り越えた二人は、ここから新しい関係を築くための心の準備が、とても美しく調うようになったのである。


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##己を縛る我執と、地蔵店長の慈悲なる智慧


大人になった今の二人が、かつてのすれ違いの真実を知ったことで、長年こじれにこじれていた頑なな関係はついに氷解し、ようやくお互いの心を本当の意味で修復させ、ここから新たな信頼の絆を紡ぎ合うこととなった都子と豊美。


カウンターに置かれた湯呑みから立ち上るお茶の温かい湯気を見つめながら、都子はしみじみとした様子でこれまでの己の歩みを静かに振り返る。

「よくよく考えてみたら、私も悪かったんよね。おばあちゃんに優しく諭して貰う前の幼い頃の私は、怪異のみんなを観えへん周囲の人達の方が絶対におかしいんやって勝手に決めつけて、自分の基準を押し付けてた。相手の立場をこれっぽっちも考えてへんかったし、今思えば私にだって深く反省すべき事はたくさんあったよね」


隣に座る豊美も、手元の温かい鯛焼きを愛おしそうに見つめながら、その静かな言葉にそっと自身の想いを重ね合わせた。

「私は私で、子供の頃に植え付けられた恐怖のせいで、自分に見えへんものが平気で見える都子の方が絶対におかしいんやって頑なに決めつけて、ずっと酷い言葉をぶつけてた。でもな、こうやって現実に妖怪のみんなを目の前で見て、こうして一緒に美味しい鯛焼きを食べてたら、何が普通で何が特別なんか、どっちの見方が本当に正しいのか、もうウチには全然わからへんな」


二人の切実な告白が、食堂の温かい空気に優しく溶けていく。


その瞬間、それまで楽しげに話をしていた女鬼と、作務衣に割烹着姿のえらいこっちゃ嬢、静かに佇んでいた小豆洗いの三人が、示し合わせたかのように同時に動きを止め、スッとカウンターの中央に静かに佇む地蔵店長の方を厳かな表情で見上げた。

その視線の動きに導かれるようにして、都子と豊美の二人もまた、ゆっくりと地蔵店長を見上げる。


二人の真っ直ぐな視線をその慈愛に満ちた瞳で受け止め、地蔵店長はお地蔵さん笑顔のままで、胸の前でそっと大きな両手を合わせ、深く合掌してお辞儀をする。

そうして、その場にお寺の鐘の音が優しく心に響き渡るかのような、圧倒的な静寂と荘厳な気配が満ち満ちていく中、地蔵店長はどこまでもにこやかで穏やかな、けれど芯の通った声で静かに説き始めた。


「人は時として、自身が観えている事象が、他者も全く同じように観えて当然であるとして、同じように観えない他者を悪と決めつけたり、おかしいと決めつけたり、間違っていると決めつける事が御座います。自分自身の目に見えている世界こそが世界の全てであると過信し、異なる景色を見ている者を理不尽に排除しようとする。複雑な娑婆世界にいては、そのような悲しい衝突は日常茶飯事であり、多々御座いましょう」


地蔵店長は、すべてを包み込むような温和な笑顔のまま、さらに言葉を深く紡いでいく。


「そもそもとして、人間という尊い存在にはそれぞれ大きな個体差があり、生まれ持った視力も違えば、網膜が色を認識する力も一人一人違う事があり、その捉え方もまさに千差万別。ゆえに、同じ場所に立っていたとしても、目の前の全く同じ事象を、全員が何から何まで全く同じく見えるという事はないというのが、我々の世界の視点で御座います」


地蔵店長の深いお諭しを聞きながら、都子は深く納得したように頷いた。

「確かに、その通りですよね。例えばですけど、視力2.0の人が裸眼で見ている世界と、視力0.01の人が眼鏡も何もつけずに見ている世界とでは、物の見え方そのものが根本から全く違いますよね。片方にとっては裸眼ではっきり見える美しい景色でも、もう片方にとっては輪郭すらあやふやなぼやける世界。そういった決定的な違いが最初からあるわけやし、どちらの眼が捉えた世界も、その人にとっては紛れもない現実なわけですから」


都子の適切な例え話に、地蔵店長は優しく目を細めた。

「左様で御座います。個体差によって見え方が根本から違います。時として人間は、そのようなあまりにも当たり前で基本的な事さえ、感情の波に呑まれて忘れてしまう事があるものです。それは人のさがというもので御座いましょう」


そして、地蔵店長は合わせた両手に僅かに力を込め、この世界の心理を解き明かすように、さらに深く仏の教えを静かに説く。


「更には、『自分と同じように観えない人は間違っている』と言うのは、それこそ自分自身が正しいと疑う事なく、自身の傲慢さが観えていない在り方です。仏様の教えから観ますと、それは己の視方や正しさへの執着『我執がしゅう』であり、物事を正しく観えない状態、即ち『無明むみょう』で御座います」


食堂に満ちる、厳かでありながらも、どこか救いのある仏教の智慧。

地蔵店長は、カウンターの前に並んで座る二人の若者の顔を交互に見つめ、優しくも厳しく諭す。


「以前の都子さんが『怪異が観えない方がおかしい』と決めつけた事も、豊美さんが以前そうだったように『観える方がおかしい』と決めつけたも、無明なる在り方と言えましょう。どちらかが絶対的に正しく、どちらかが絶対的に間違っていたわけでは決してないのです」


その言葉は、二人の胸の奥底に溜まっていた過去の罪悪感や葛藤を、温かく包み込んで消し去っていく。

地蔵店長は、再びその石の質感を湛えた穏やかな顔全体に、いっそう深いお地蔵さん笑顔を浮かべた。


「今、御二人は御自身の観方について、改めて顧みられて、気付く事が出来ました。気づきは智慧の第一歩で御座います。ここから、智慧の道を歩まれる事が、御二方の人生においても宜しい事かと存じます」


地蔵店長はにこやかに、お地蔵さん笑顔で合掌して深々とお辞儀をする。

そのあまりにも慈悲深く、広大無辺な仏の教えと言葉の響きは、都子と豊美の傷ついた心にしみ込んでいくのであった。


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##祖母が伝えた優しい智慧と、二人分の温かい御茶碗


都子と豊美の二人は、普段の生活ではおよそ馴染みがないはずの仏教の奥深い智慧、そして仏の慈悲深き教えを、地蔵店長からどこまでも優しく、分かり易く説かれる事で、まるで乾いた砂が水を吸い上げるかのように、それが己の身体へとじわりとしみ込んでいくのを確かに感じていた。


我執を捨て、世界のありのままを受け入れるという心の平穏。


張り詰めていた路地裏での緊張が嘘のように消え去り、二人が静かにほうじ茶を口に含んでいると、カウンターの向こうで地蔵店長がその石の質感を湛えた顔全体に、実になだらかな優しい微笑みを浮かべた。

「目に映る事象の観方や、他者の観方を尊重する素晴らしい教えと致しまして、都子さんの御祖母様の教えは、とても素晴らしいと思いますよ」


思いがけないお地蔵様からの言葉に、都子は湯呑みを持ち上げたまま、不思議そうに首をかしげる。

「え、私の御祖母ちゃんですか?」


「はい。先程、都子さんはかつて孤独だった頃に、御祖母様に優しく諭して頂いたと、大切そうに話して下さいましたね。それはどのような教えであったのか、これからの智慧の道への標べとして、改めて私どもにご教授頂けませんか?」

地蔵店長は胸の前でそっと合掌を解き、穏やかな笑顔で都子の言葉を促した。


都子は、自分の生まれ持ったこの特殊な体質のこと、そして周囲の人間には見えないはずの怪異がはっきりと観えること、それらを周囲に話した結果として、酷い揶揄いや容赦のないいじめの理由にされて深く傷ついていたことを、かつて祖母に勇気を出して打ち明けた時のことを思い出す。

あの時、祖母がかけてくれた言葉こそが、今の都子の生涯の教えとして、胸の奥で最も大切にしている生き方の指針そのものだった。


都子は懐かしい縁側の風景を思い浮かべながら、誇らしげに語り始める。

「あの時、御祖母ちゃんは私の頭を優しく撫でながら、『都子が見えるんやったら、見えるんやろなあ。見えるのに見えへんって言わんでええで。でもな、見えへん人の方が多いのがこの世なんやから、あんまり言わんほうがええかもね』って、本当に優しく言ってくれました」


そこまで語ると、都子の顔には、自分の存在そのものを肯定してもらえた当時の救われたような笑みが自然と溢れ出していた。

「だから、それからは街の中で奇妙な怪異を見かけても、周囲の人に言いふらす事はせずに、でも怪異への挨拶はちゃんとするっていう生き方になりました。目の前にいる怪異たちの存在を決して無視せず、かといって、見えへん他の人にわざわざ言いふらして怖がらせたり迷惑をかけないように。そういう、お互いが傷つかない絶妙な生き方を、御祖母ちゃんが私に教えてくれたんです」


都子の真っ直ぐな言葉を静かに聞き届けると、地蔵店長は深く、深く得心したように首を縦に振った。

「とても善き教えだと思います。世間に合わせて、最初から観なかった事にするというのは、他ならぬ御自身に嘘をつく事であり、何より目の前にある確かな存在を頭ごなしに否定する、非礼なる在り方ですからね。かといって、自分が観えている物が観えない人達を頭ごなしに否定せず、観えないなら観えないままそっとしておく。観えるならば、こうして理解ある者同士で温かく共有する。そういった、どちらの立場にも寄り添った付き合い方は、周囲の和を乱さず、己にも嘘もつかず、実に見事で絶妙な塩梅であり、優しき配慮であると、私には思えます」


地蔵店長はお地蔵さん笑顔のまま、都子の祖母の智慧を讃える。

世界で一番大好きな祖母のことを、この不思議な食堂の素晴らしい店長から、これ以上ないほどに褒められた気がして、都子は胸の辺りがじんわりと温かくなり、嬉しさが込み上げて自然と笑みがこぼれていく。


そんな都子の幸せそうな横顔を見ていた豊美は、少しだけ羨ましそうに唇を尖らせながら、クスッと自嘲気味に笑った。

「都子にはそんなにいい御祖母ちゃんがいるやんか。私もさぁ、あんな妹を妖怪で怖がらせて喜ぶような馬鹿兄貴やなくて、そんな素敵な御祖母ちゃんの下で育ててもらいたかったわ」


「あはは。うん、本当に自慢の大好きな御祖母ちゃんや。私が実家にいる頃から、何かと私を心配してくれて、ちょくちょくと家に遊びに来てくれてな、寂しかった私とたくさん遊んでくれて、その時に人生のいろんな大事な事を優しく教えてもろたんよ。あれが所謂、世間でいう『おばあちゃんの知恵袋』って言うんかなぁ」

都子は座敷童を愛おしそうに抱き寄せながら、目を細める。


すると、カウンターの奥で地蔵店長が静かに語りかけた。

「現世の激しい荒波を立派に生き抜いて来られて、長年にわたる経験の中で磨き上げられた、本物の智慧をお持ちの方であると御見受け致します。子供の頃から、都子さんがその清らかな智慧に触れて真っ直ぐに育って来られたからこそ、座敷童さんも都子さんのところに、安心してやって来られたのでありましょうね」


「え?」

地蔵店長の不思議な言葉に、都子は驚いて腕の中の座敷童を見下ろした。

おかっぱ頭の小さな少女は、大きな目をくりくりと輝かせながら、都子を見上げてにっこりと可愛らしく微笑み返してくる。


その二人の様子を見ていた女鬼が、サイドテールを指先で弾きながら、優しい笑顔で会話に加わってきた。

「妖怪の知識が豊富な都子さんなら、座敷童ちゃんとの縁を大切にして接すると、その家にものすごい幸福をもたらすって言う伝承があるのは当然知ってるよね。でも、子供の頃の都子さんは、そんな大人の下世話な打算とか利益なんて何も知らないのに、ただただ純粋に、お友達として打算無しで座敷童ちゃんと仲良く遊んでくれたじゃん。一緒に大好きな小豆ご飯や御赤飯を食べたりってね。座敷童ちゃんもあの頃、都子ちゃんと一緒に過ごせて凄く嬉しいって、あーしたちにもずっと楽しそうに話してくれてたんだよ。それにね、その時に都子さんの御祖母さんは、座敷童ちゃんの姿自体は完全には見えていなかったみたいだけど、都子さんを通じて、そこに誰かがちゃんといるんだって存在を認めてくれる、めちゃくちゃ良い御祖母ちゃんだって事も、座敷童ちゃんから聞いてたし」


女鬼のその言葉を聞いた瞬間、都子の脳裏に、幼い日のある鮮烈な記憶が鮮やかに蘇ってきた。


それは、両親が仕事で夜までいなかったために、御祖母ちゃんが家に来てくれた、ある日の夕暮れのこと。

都子は「ワラシちゃんの分も頂戴!」と、御祖母ちゃんにお願いして、わざわざ二人分の小豆ご飯を茶碗によそってもらったのだ。

御祖母ちゃんからは都子一人しか見えていないはずなのに、御祖母ちゃんは嫌な顔一つせず、笑顔で二人分の御茶碗を食卓に並べてくれた。


そして、食事が終わって、都子一人しかいないはずの席で、きちんと二人分の御茶碗が綺麗に空になっているのを見て、おばあちゃんは優しく目を細めたのだ。


『御粗末様でした。二人共、よう残さんと、綺麗に仲良く食べたね。えらいえらい。』


そう言って、頭を優しく撫でて褒めてくれた、あの温かい御祖母ちゃんの笑顔と声。

大切な思い出が胸の奥から一気に溢れ出し、都子の目からは、堪えきれないほどの感動の涙がぽろぽろと零れ落ちてくる。


都子が涙を拭う中、女鬼はさらに優しい口調で、この奇跡のような再会の意味を説き明かしていく。

「一般的には、座敷童が出て行った家はすべての運に見放されて、その反動で一気に酷い不幸に見舞われるとも言われてるんだけどさ。都子さんと家族のみんなが、その後も現世で何事もなく平穏に暮らせてるって事から見ても、座敷童ちゃんは都子さんのとこの家を離れはしたけれど、都子さんたちのことを見放さずに、ずっと繋がっていてくれたんだって事がよくわかるよね。そして、その強い想いがあったからこそ、こうして娑婆と幽世の境界にあるこの食堂で、運命の再会ができたんだよ」


「そっか……そういうことやったんやね。ワラシちゃん、私の家を見放さずに、ずっと私の事、見守って待っててくれたんやね。ほんまに、そんなに長い間、寂しい思いをさせて待たせてしもてごめんなあ」

都子は涙を拭いながら、愛おしさを込めて座敷童の小さなおかっぱ頭を優しく、何度も撫でる。


撫でられた座敷童は、都子の服の裾をぎゅっと握りしめながら、鈴の転がるような声で可愛らしく笑った。

「ううん、寂しくなかったよ。都子ちゃんが、ウチの事をずーっと忘れへんかったから、ウチら絶対にまた会えるって、最初からちゃんと知ってたもん」


「そっか。私は会社に入ってからもな、いつかワラシちゃんと再会する事を人生の最大の目標にして、へこたれそうになってもずっと走り続けてたんよ。会えて本当に良かった」

都子は涙の跡を輝かせながら、最高の笑顔を見せるのだった。


カウンターの端で、その人間と怪異の垣根を越えた、あまりにも美しく温かい再会の様子をじっと見つめていた間宮豊美。

彼女の胸の奥にあった、かつての「お化けは人間を恐怖に陥れるだけの悍ましいもの」という極端な偏見は、今夜の出来事を経て、完全に崩れ去っていく。

人間と怪異の関係について、必ずしも敵対し、恐れ合うだけのものではないのだと、目の前で寄り添い合う二人のあまりにも純粋な姿を見て、豊美は心の底から静かに感じ入るようになっていた。


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##異界の御布施と、繋がり始める未来


温かいほうじ茶の香ばしい余韻が、二人の喉を優しく潤していく。


ずっと会いたかった大切な座敷童との奇跡的な再会を果たし、心の底から救われた都子。

そして、これまでの頑なな考え方や狭かった事象の観方を、綺麗に改める事になった豊美。

二人は互いの顔を見合わせ、晴れやかな笑みを交わしながら、最後の一滴まで美味しいお茶をゆっくりと飲み干した。


「美味しかった。ほな、そろそろお勘定をお願いします」

都子は仕事用のカバンを肩にかけ、すっきりと席を立つ。


現世の居酒屋であれば伝票を手にするところだが、ここは此岸と彼岸の境界にある奇妙な食堂だ。

都子の言葉を静かに受け止め、カウンターの向こうの地蔵店長は、その石の質感を湛えた穏やかなお顔全体に深いお地蔵さん笑顔を浮かべた。

胸の前でそっと大きな両手を合わせ、丁寧にお辞儀をする。


「当店には決まった価格のメニューというものはなく、すべて御布施形式にしております。お客様がこの場所で得られた満ち足りたお気持ちを、そのままお包みいただければ幸いで御座います」


「なるほど、御布施なんですね。それじゃあ……」


都子が納得したように頷き、カバンから革の財布を取り出そうとした、まさにその時だった。

隣にいた豊美が、都子の手元をそっと制するようにして、自分のカバンから素早くスマートフォンを取り出した。


「都子、ここは私が出すで。今まであんたに散々酷いこと言うて、意地悪してきたお詫びも兼ねて、ウチに払わせて。お願い」

これまでの険の取れた、心からの誠実な言葉。


都子は少しだけ驚いて目を丸くしたものの、その豊美の真っ直ぐな謝罪の気持ちを嬉しそうに受け止め、優しく微笑んで手を合わせる。

「ええの?ほな、お言葉に甘えて。豊美、有難う、御馳走様です」


二人の美しい和解の光景を見届けると、カウンターの端からタタタッと小気味よい足音が響いてきた。

割烹着姿のえらいこっちゃ嬢が、レジの奥から最新のQRコードが鮮明に印字された特製の木製プレートを両手でしっかりと抱えて持って来て、豊美の目の前へとスッと差し出す。


あまりにもスムーズで現代的な対応に、豊美は思わずクスッと声を立てて笑ってしまった。

「ふふ、この食堂もやっぱりQRコード持ってるんやね。さっきの魔改造された牛車も電子決済出来るし、妖怪の世界って結構電子化進んでるん?なんだかごっつ親近感湧くわぁ」


豊美は慣れた手つきで笑顔のままスマートフォンをプレートにかざす。

画面には瞬時に金額の入力欄が出現し、彼女は一瞬の躊躇いも迷いもなく、画面のテンキーを叩いて2万円という大金を打ち込んだ。

驚いて覗き込む都子の視線に気づき、豊美は誇らしげに胸を張る。


「今までのお詫びと、これからの私らの新しいスタート。何より、今夜ここで自分自身の傲慢さに気づかせてもろて、本当に大切な事を教えてもろた事への、心からの御布施としてね。現世の法事でも、確かこれくらいは包むもんね」


ピッ、と静まり返った店内に、なんとも軽快で「毎度ありー」と馴染み深い電子音が鳴り響く。

決済完了の文字を確認したえらいこっちゃ嬢は、そのまん丸目をいっそう大きく輝かせ、小さな両腕を頭の上でぶんぶんと激しく振り回して喜びを爆発させた。


「毎度ありのありがとちゃん!蛙仙人さんの胡瓜が山ほど買える程、えらいこっちゃな大金!」


少女は大切そうに木製プレートを胸に抱え込むと、ホクホクとした様子でレジの方へ向かって小走りに駆けていく。

その微笑ましい後ろ姿を見送ってから、都子は再び視線を下ろし、足元にぴったりと寄り添うおかっぱ頭の少女を見つめた。


都子はその場にそっとしゃがみ込み、小さな座敷童の身体を、最後にもう一度だけ愛おしそうに強く抱きしめる。

「ほな、またね、ワラシちゃん。今夜で場所も行き方もちゃんと分かったし、私、絶対にまた会いに来るから。現世の仕事も、ワラシちゃんのキャラクターを大ヒットさせるまで諦めずに頑張るわ」

身体を離し、都子は自分の右手をすっと差し出す。


「うん、またね。都子ちゃん。ウチ、ここでずっと、美味しい小豆のおやつ準備して待ってるから」

座敷童は満面の笑顔を浮かべて小さな右手を伸ばし、都子の手とぎゅっと握手を交わしてにっこり笑う。


名残惜しさはあるものの、二人の絆が未来へと確かに繋がったことを確信し、都子と豊美はゆっくりと出口へ向かって歩いて行く。

座敷童は小さな身体を揺らしながら、二人の背中に向かって大きく何度も手を振る。

その横では、金髪のサイドテールを揺らした女鬼も、大きなお盆を持った小豆洗いも、みんな温かい笑顔を浮かべて優しく手を振っていた。


都子と豊美の二人は、重厚な扉の手前で最後にもう一度だけ振り返り、お世話になった異界の住人たちに向けて深く丁寧にお辞儀をしてから、夜の情緒あふれる店を静かに後にした。


ガラガラガラ、と引き戸が閉まる心地よい音の向こうから、店長の深く温かい声が二人を見送るように響く。

「御来店、誠に有難う御座います。道中、どうぞお気をつけて」

地蔵店長はお地蔵さん笑顔のままで、胸の前で深く合掌してお辞儀をして、二人の歩むこれからの人生の旅路を静かに見送るのだった。


そして……。


二人の気配が店の外へと完全に消え去り、再び静寂を取り戻した摩訶不思議食堂のカウンター席。

それまで楽しげに手を振っていた女鬼が、ふっとその美しい金色の瞳に悪戯っぽい光を灯した。


「さてと。そんじゃ、仕上げに連絡入れとかなきゃね♪」


現代のギャルそのものの軽い口調で呟くと、彼女は黒い着物の懐からお気に入りのスマートフォンをスッと取り出し、長い指の先で画面を器用にタップして、何やら現世の誰かに向けて秘められた連絡を取り始めるのであった。


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##帰路の魔改造牛車と、デザイナーの現実


『摩訶不思議食堂』の温かみのある木造の引き戸をガラガラと開けて外へ出ると、夜のひんやりとした空気が都子と豊美の火照った肌を優しく撫でる。


境界の妖しい闇が広がる店の前には、パチパチ、ボウッ、と片方の車輪から激しい炎を噴き上げながら、あの魔改造された雅な牛車がタイミングを見計らったかのように静かに待機してくれていた。

現世のタクシーさながらの完璧なホスピタリティに感心しながら二人が牛車へと近づくと、プシューという小気味よい排気音と共に重厚な客室扉が滑らかに開き、二人は誘われるようにして再びその豪奢な車内へと足を踏み入れていく。


二人がふかふかのシートに腰を下ろした次の瞬間、客席の壁の隙間から、やはりあの白くて長い不気味な腕が関節を無視した動きでニューっと音もなく伸びてきた。

手首の辺りにぶら下がった「御勘定」と書かれた札の、最新のQRコードが印刷された面をびしっと示してくる。


「うわ、これはやっぱり、まだ慣れへんなあ……」

豊美は恐怖心が薄れたとはいえ、目の前に迫る怪異のダイレクトな動きに思わずゾクッと身震いをして身を引いた。


「あはは。ほな、交通費は私が持つね。豊美にはさっき、お店でごっつ素晴らしい御布施を払ってもうたし」

都子は携帯端末をそのコードへと迷いなく翳す。

ピピッ、と車内に「毎度ありー」と言う気の抜けた電子音が鳴り響くと、白い腕は満足したようにニューっと滑らかな動きで壁の奥へと引っ込んで行った。


「毎度ー。きっちりお預かりしましたわー。ほな、現世への帰り道を安全運転で走りまっせー♪」

運転席の窓から方輪車の軽やかな声が聞こえたかと思うと、牛車はゴォォォと力強いエンジン音を響かせ、異界の闇を突き抜けて一気に発進した。


ガタゴトと心地よい揺れに身を任せながら、豊美は窓の外を流れる妖しい景色を眺めてフッと息を漏らす。

「ほんま、信じられへんくらい不思議な体験やったわ。でも、地蔵店長は優しいし、ご飯はめちゃくちゃ美味しいし、小豆洗いさんの鯛焼きも人生最高に美味しいし、おもろい人らにもたくさん出会えたし……いや、よく考えたら人ではないよね」

豊美は自分の口から出た言葉の矛盾に気づき、おかしそうにケラケラと笑う。


「ふふ、月曜日になったら、さっそく課長にこの感動を報告せなあかんね。唐笠お化けは、ちゃんと一本足のバランスが絶妙で、京都のイントネーションで喋るんも可愛かったし、人面犬は私のイラスト通りに無駄にごっつイケメンやったって、胸を張って教えてあげないと!」


都子が我が意を得たりとばかりに頬を緩めて笑うと、豊美のデザイナーとしての鋭い視線がピシャリとそれを遮った。


「いや、それは絶対にやめとき。あんたが提案する妖怪キャラは、キモいのは相変わらず変わらんからね」

豊美はすっかり現世の有能なデザイナーの顔に戻り、容赦のない現実を突きつける。


「ええ!?なんでよ!今夜で本物の怪異の素晴らしさを、ちゃんと理解してくれたんとちゃうん!?」

都子は納得がいかないといった様子で、不満げにぷくーっと両頬を大きく膨らませた。


「それはそれ、これはこれや!職務としてのデザインは全くの別物!課長からも何度も耳にタコができるくらい言われてるやろ!特に今回の案件について!子供用向けの商品に、あんたが描く妙にリアルで生々しい妖怪のキャラクターなんか採用出来るわけないやんか!そんなもんパッケージにしたら、お店で子供がギャン泣きして大騒ぎになるわ!」

豊美の至極真っ当な正論のコンビネーションパンチが飛ぶ。


「ぶー!」

都子は返す言葉もなく、ただただ口をとがらせてシートに深く寄りかかる。


「いつか会社に、妖怪関連の特撮とか妖怪アニメのキャラクターデザインの依頼でも舞い込んできたら、そん時は自信満々に立候補しとき。でもな、普段の仕事の上では、その溢れんばかりの妖怪色はぐっと控えめにしや。そやないと、あんたの魂がこもったデザインは、一生会社で採用されへんで」

豊美は呆れたような溜息をハァと吐き出しつつも、その言葉には都子の才能を認めているからこその、確かな愛の鞭が含まれていた。


「私はあれが最高に可愛いと思うんやけどなー。時代が私に追いついてへんだけやわ、きっと」

都子はまだ未練があるように、ぶつくさと独り言を呟いている。


「あんたのその独特すぎる美的センスで、ようこの大手の会社に一発で採用されたもんやな……本当に謎やわ」

豊美は都子のどこまでもマイペースでブレないオタク気質に呆れ果てながらも、なんだかそのやり取りがたまらなくおかしくて、クスッと楽しそうに笑った。

かつてのトゲトゲした空気は消え去り、車内には心地よい同期の絆が満ちていく。


その楽しげな二人の会話をバックミラー越しに静かに見守りながら、ハンドルを握る方輪車は、夜の京都の街へと向かって優しく微笑んでいた。


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##誓いの拳と、祖母の紡ぐ温かな真実


現世と異界の狭間を、片輪の炎を激しくボウボウと燃え上がらせながら爆走していた魔改造牛車が、ようやくその速度を滑らかに落として減速していく。

ガラガラ、ゴトゴトと重厚な音を響かせながら、車体はやがて、ついさっき都子と豊美がえらいこっちゃ嬢や唐笠お化け達と衝撃的な出会いを果たした、あの静まり返った人気のない薄暗い路地裏へと正確に戻って来た。


プシューという心地よい排気音と共に牛車の客室扉が左右に滑らかに開くと、車内のラグジュアリーな空気から解き放たれるようにして、二人は慣れ親しんだ現世の地面へとゆっくりと降り立つ。

二人の身体が完全に外へ出たのを見届けると、プシューと再び音を立てて自動で扉が固く閉まり、運転席のガラス窓がすうっと大きく開いて、中からあの艶やかな方輪車がにこやかに顔を覗かせた。


「毎度ありー。お二人とも、無事にお悩みが解決したようで何よりどすなぁ。ほな、これからも息災で、善き日々をー♪」


はんなりとした極上の笑顔で手を振ると、彼女はパッと空窓を閉め、ゴォォォと凄まじい爆音を響かせながら、夜の帳の向こうへと颯爽と走り去って行く。


異界の乗り物を見送った後、路地裏にはいつもの週末の静けさが静かに戻ってきた。

豊美はカバンを肩にかけ直し、少し照れくさそうに笑いながら、隣に立つ都子の顔を見つめた。

「ほんま、とんでもない華金の夜やったわ。それじゃあ、私はこっちの方向やから、ほな、また月曜日に会社でね。企画のブラッシュアップ、また一緒に頑張ろ」


「うん、また月曜日にね。あ、そや!豊美のお兄さん、近いうちにどっかのお店に呼び出せる?私、一言説教したらな、どうしても気が済まへんのよ!」

都子は豊美の言葉に元気よく応じた直後、思い出したかのように激しくフンスと鼻を鳴らすと、その場で腰を落として鋭いファイティングポーズを構えた。

シュッ、シュッ、と鋭い風切り音を響かせながら、夜の空気に向かってキレのあるワンツーのシャドーボクシングを披露し、並々ならぬ怒りを露わにする。


「ちょっと都子、説教って、まさかその鍛え上げた拳でダイレクトに物理的な説教をするんかいな。あんた、怒り方が完全に肉体言語のそれやんか。まあでも、あの摩訶不思議食堂で当時の状況をみんなでじっくり話してさ、私も昔のことを鮮明に思い出したら、なんだか急にフツフツと腹が立ってムカって頭にきたから、今更やけど、ちょっとお兄ちゃんにガツンと文句を言ってやろう思ったのんは事実やしなぁ。あいつの悪戯のせいで、私がどれだけ長いことお化け恐怖症で苦しんだか、きっちり思い知らせたらんと気が済まへんわ。ほな、土曜か日曜にでも、ごっつ高い御飯をたらふく奢って貰う名目で、上手いこと呼び出してみるわ。そん時はあんたのその妖怪パワーパンチ、期待してるで」


豊美は都子の頼もしいパンチの軌跡を見つめながら、悪戯っぽく笑い、二人はそれぞれの帰路につくために笑顔で別れるのだった。


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夜道を歩いて我が家へと帰り着くと、都子はカバンを置いてすぐに浴室へと向かい、温かいシャワーを浴びて一日の疲れと現世の汚れを綺麗に洗い流した。

ドライヤーの音を響かせてベリーショートの髪をさっぱりと乾かしてから、引き出しから取り出した、いつも寝巻にしているお気に入りの大きめのTシャツと楽ちんな短パンの姿に着替える。


冷蔵庫から冷たいアイス珈琲を取り出してグラスに注ぎ、それを一口飲んでふぅと深く一息ついてから、都子はベッドの上に腰をかけ、スマートフォンを手にしてお気に入りの連絡先を表示させた。

画面をタップして発信すると、プルルル、プルルルと静かな部屋に呼び出し音が規則正しく鳴り響く。


しばらくして、ガチャリと電話がつながると、受話器の向こうから、都子が世界で一番大好きな祖母の、どこまでも耳に心地よい優しい声が優しく話しかけてきた。

「こんばんは、都子。こんな夜更けに急に電話してくるなんて、一体どないしたん?元気にしとるかね?」


「御祖母ちゃん、今晩は。急に遅い時間に電話してごめんね。あのな、御祖母ちゃんにちょっと聞きたいことがあってん。おばあちゃんは今でも覚えてる?昔、私が家でずっと一緒に遊んでたワラシちゃんの事」

都子はグラスを包む手に少しだけ力を込め、懐かしい記憶の扉を叩くようにして静かに尋ねる。


受話器の向こうの御祖母ちゃんは、都子の突飛な質問に少しだけ驚いたように息を吹き出したが、すぐに思い当たったように温かい声を返してくれた。

「ああ、ワラシちゃんかいな。懐かしい名前やねえ。都子がいつも『この子はな、御祖母ちゃんの作った小豆ご飯と御赤飯が世界で一番大好きなんやで』って言って、嬉しそうに教えてくれた子やね。突然どうしたんよ、昔の思い出話なんて珍しいねぇ」


「それがな、さっき、会社の同僚と一緒にちょっと不思議なところに晩御飯を食べに行ったんやけど、その行った先の食堂で、なんとワラシちゃんと奇跡的に再会できてん。ワラシちゃんはな、あの頃に御祖母ちゃんが作ってくれた、あの美味しくて温かい小豆ご飯の事、今でもしっかりと覚えてたよ。御祖母ちゃんに会いたがってたわ」

都子は嬉しさを噛み締めるように、弾むような声で笑う。


「そうか、それは本当に良かったやん。都子がずっとあの家で『いつ帰ってきてもええように』って、律儀に忘れんと待ち続けてたのが、ようやくそのお友達に伝わったんやねぇ。おばあちゃんも自分の料理を覚えていてもらえて、なんだか誇らしいわぁ」

御祖母ちゃんは受話器の向こうで、我が事のように優しく応える。


都子はアイス珈琲の氷をカランと鳴らし、胸の中にずっと仕舞い込んでいた、幼い頃の小さな不安を、今こそ確かめるように恐る恐る尋ねた。

「……なあ、御祖母ちゃん。あの子供の頃の私のこと、御祖母ちゃんはどこか頭がおかしい子やなぁとか、少しは思わへんかった?周りのみんなには誰も見えてへんくて、そこには私一人しかおらんかったはずなのに、頑なに二人分の小豆ご飯をせがんだり、誰もいない空間に向かって楽しそうに話しかけたり、色々と奇妙なことをやってたやん。本当は、不気味やなぁって思ってたんちゃう?」


張り詰めた都子の問いかけに対し、御祖母ちゃんは一瞬の躊躇いもなく、包み込むような穏やかな声でケラケラと優しく笑った。


「おかしい事なんて、何一つとしてあらへんよ。あのな、都子。おばあちゃんはね、当時から既に眼鏡がないと目の前の視界が全部ぼやけてしまうくらい、年齢のせいで視力がすっかり弱まってしもてたからね。だから、おばあちゃんの古い目には、都子の横にわずかにゆらゆらとした、小さくて温かい何かが佇んでいるのが観えていただけやったんよ。でもね、都子には確かにそこにいる、大切で大好きな御友達の姿がはっきりと見えているんやって、眼がごっつええ都子には、嘘偽りなくちゃんと観えてるんだって事を、御祖母ちゃんは最初からちゃんと知ってたからね。だから、都子の言葉を一度だって疑ったことはないよ」


おばあちゃんの口から語られた、あまりにも慈悲深く温かい、当時の真実。

そのあまりにも優しい肯定の言葉を受け、都子の胸の奥から熱いものが一気に込み上げ、視界が涙でぶわっと激しく滲んで思わず泣きそうになってしまう。


「……そっか。私の見ている世界を、最初から全部信じてくれてたんやね。御祖母ちゃん、有難う。私の特別な御祖母ちゃんでいてくれて、本当に有難う」


震える声で精一杯の感謝を伝える都子に対し、おばあちゃんは照れくさそうに、けれど深く愛おしそうに言葉を紡いだ。


「どしたん急に、改まってそんなこと言ってからに。都子こそ、私の可愛い自慢の孫でいてくれて、本当に有難うなあ。また近いうちにそっちに寄せて貰うし、都子も仕事が休みの時には、たまにはこっちの田舎においない。いつでも歓迎するよ」

おばあちゃんの穏やかな声が、都子の傷ついた過去の心を完全に救い上げていく。


「うん、絶対に行く!今夜の不思議な食堂での出来事とか、豊美との和解のこととか、おばあちゃんへの土産話が山ほどたくさんあるからね。近いうちに絶対にまとまった休みを作って、最高の土産話と、御祖母ちゃんが大好きな美味しい和菓子の御土産をたくさん持って、そっちの家に遊びに行くから。楽しみにしててね!」


都子は目元の涙を袖で拭い、最高の笑顔を浮かべながら応じた。

そうして、お互いに心の底から温かい「お休み」の言葉を優しく伝え合ってから、都子はそっとスマートフォンの通話終了ボタンを押して電話を切った。


画面が暗くなったスマートフォンを胸に抱きしめ、都子は夜の静寂の中で静かに微笑む。

自分の大切なあの子供時代の思い出は、決して自分一人の妄想でも幻覚でもなく、座敷童はおぼろげながらも確かに祖母の目にも映っており、祖母もまた、都子の横にいた大切な友達の存在を、一人の尊い存在として大切に思ってくれていた。


その厳然たる事実に、そして祖母がくれたあまりにも広大で優しい智慧に、都子は改めて心からの深い感謝を捧げながら、今夜はこれまでにないほど深く、穏やかな幸福感に包まれて眠りにつくのであった。


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