第32話前半:少年少女と怪異暮らしとほっこり飯
##放課後の誘惑と、華やぐ教室の噂
キーンコーンカーンコーン。
爽やかな風が吹き抜ける京都市内の高校に、午前中の授業の終わりを告げる軽快なチャイムの音が響き渡る。
金曜日の今日は、全校生徒にとって待ちに待った華金であり、午後からは一切の授業が組まれずに、次の日の起床時間を気にせず遅くまで遊べる事もあって、解放感に満ちた半ドンの日であった。
教室中が週末の予定に胸を躍らせる喧騒に包まれる中、周囲の浮き足立った空気とは完全に隔絶された静寂を纏いながら、狐宮才狐は机の上の教科書を静かに閉じ始めた。
彼は17歳という若さでありながら、夜の闇に紛れて現世と幽世を繋ぐ御狐神社の宮司を務めており、人知れず大天狐・妖古から狐術や狐法仙術を叩き込まれている本物の呪術師。
かつて12歳の頃、学校で壮絶ないじめと言う名の暴力と、両親からの度重なる叱責と言う地獄の中にいた彼は、その絶望の淵で師匠である妖古と衝撃的な運命の出会いを果たした。
その際、彼は術の力を手に入れるための過酷な代償として、自らの「心」と「肉親との縁」のすべてを師匠に差し出して呪術師となったのである。
それゆえに彼は、喜怒哀楽の感情のすべてを失っており、その端正な顔立ちが笑顔に緩むことも、怒りに歪むことも決してなく、常に氷のように冷徹な無表情を貫いていた。
しかし、その感情の欠落が生み出すミステリアスな雰囲気と、容姿端麗でどこか中性的な美しさを湛えた顔立ち、そして歩くたびにさらりと揺れる艶やかな黒髪は、本人の預かり知らぬところで女子生徒達の心を激しく揺さぶっており、学校内では秘かに絶大な人気を誇っていた。
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机の上の筆記用具をカチャカチャと筆箱に納め、そのまま真っ直ぐ自宅へ帰ろうとする才狐の姿を、すぐ隣の席からちらりと盗み見るような視線。
それはクラスメイトであり、京都の路地裏にひっそりと佇む小さな神社の娘として巫女を務める傍ら、自らも呪術を学んでいる17歳の女子高生、渡辺綱江であった。
彼女は、かつて京都で大鬼の腕を切り落としたとされる伝説の武将・渡辺綱の直系というわけではなかったが、その偉大な武士にあやかって名付けられたという経緯を持っていた。
長く美しい黒髪を高い位置でポニーテールに結い上げ、歩くたびにそれが軽快に揺れる様子は、まさに古風な大和撫子を体現したかのような風貌の美少女。
術師としてはまだまだ未熟で発展途上の段階にある少女呪術師ではあったが、その生真面目すぎる性格ゆえに、つい最近起きた数々の怪異絡みの騒動を通じて、才狐とは少しだけ心の距離を縮めたばかりの特別な関係でもあった。
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「……あの、才狐君。今日の午後からはもう授業ないけど、これから真っ直ぐ家に帰るん?」
綱江は、極めて自然な会話を装いながらも、どこか緊張で声を上擦らせながら隣の席の少年に問いかけた。
才狐は、彼女の方へゆっくりと視線を向けたが、その瞳には何の感情の揺らぎも宿っておらず、相変わらずの無表情のまま、淡々とした静かな声で言葉を返す。
「うん。今日は特に寄り道する予定もないし、帰ってからすぐに昼食を済ませて、その後に呪術の鍛錬をして過ごすだけやね。いつも通りの日常やから」
「ふーん、そっか……。まあ、私も似たようなもんやねんけど……」
綱江は、人差し指でポニーテールの毛先をくるくると弄びながら、意を決したように少しだけ声を張り上げた。
「……なあ、その、せっかくの金曜日やし、もし良かったら、昼食だけでもどこかで一緒に食べへん?」
その瞬間、教室の片隅からダダダッ!と激しい足音が響き、いつも文芸部で行動を共にしている賑やかな三人娘が一斉に姿を現した。
彼女達は、まるで獲物を見つけた猛獣のようなニヤニヤとした笑みを浮かべ、二人の机のすぐ側まで一気に距離を詰めてくる。
「「「おやおや〜?これって、もしかしてもしかすると、デートのお誘いですかーっ?」」」
「そ、そんなんやないもん!あんたたち、変な勘違いして大騒ぎせんといて!」
綱江は一瞬にして顔面を林檎のように真っ赤に染め上げ、座席からガタッ!と勢いよく立ち上がりながら全力で否定する。
「これはデートとかそういう浮ついた話やなくて、同じ京都の街を護る同業者としてやな、色々と緊迫した情報交換とか、今後の動向についての話し合いとかがあるんや!だから、断じて不純な動機やないもん!」
必死に手を振りながら弁明する綱江の様子を、才狐はただ事務的な視線で見つめ、一切の抑揚のない声で冷静に問いかけてきた。
「情報交換?綱江さんの実家の神社の方で、何か新しい怪異の予兆とか不穏な出来事でもあったん?そやったら、御狐神社に場所を移して、そこでゆっくり話を聞こか。丁度、妖古さんもお昼の時間には一旦、神社の方に帰って来るって言ってはったし、師匠の智慧も借りられると思う」
才狐のあまりにも真面目で直球な提案に、綱江は一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くした。
「え!?あ……う、うん、そやね。妖古さんがいらっしゃるなら、そっちの方が確実に有難いし……。ほな、今日はお言葉に甘えて、お邪魔させて貰います……」
予想外の展開に戸惑いつつも、綱江は小さく頷き、机の上の鞄をバサッと掴み上げると、才狐の後に続くようにして早足で教室を連れ立って出て行く。
そんな二人の並んで歩く後ろ姿を、教室内で見送っていた文芸部の三人娘は、さらに瞳を爛々と輝かせながら、お互いの顔を見合わせて盛大にニヤニヤとし始めた。
「「「ちょっとちょっと、これは……今日は華の金曜日やし、お昼からそのまま夜まで一緒に過ごして、朝帰りの予感すら漂ってきたんちゃうのーっ!?」」」
そんな騒がしい青春の一ページの声を背中で聞きながら、少年と少女は、新しい縁の物語が待つ神社へと向かって、力強く一歩を踏み出して行った。
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##蛙仙人の瑞々しい御裾分けと、急転直下の姫路紀行
木々が陽光に映える御狐神社の境内に、才狐と綱江の二人は静かに足を踏み入れた。
並んで歩きながらも、二人は示し合わせたように鳥居の手前で足を止め、神域への敬意を込めて深く一礼を捧げる。
神の通り道である真ん中――「正中」を決して踏まないよう、厳かに端を通り抜けた二人は、参拝用の本殿ルートから逸れて、別の出口から一度境内を出ると、隣接する宮司用の木造の自宅へと向かった。
「お待たせ。大したものは用意できひんし、昨日の残りもんを温め直すだけになるけど、昼食はあるから。上がって」
才狐がポケットから鍵を取り出して玄関の扉をカチャリと開けると、いつも通りの静かな声で綱江を迎え入れた。
「あ、うん、有難う。こちらこそ、学校が終わってすぐに突然お邪魔してしもて、その上にお昼ご飯まで御馳走になってしまうなんて、何だか本当にごめんね。……ほな、お邪魔します」
綱江は少しだけ緊張で肩をすくめながらも、嬉しそうに微笑んで靴を脱ぎ、才狐の後に続いて静かに廊下を上がっていった。
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二人は手際よく台所へと向かい、大きな冷蔵庫を開けて手分けしながら昼食の準備を始めた。
才狐が手際よく昨夜の残りの惣菜をレンジで温め、綱江が炊飯器からふっくらとした白米を茶碗に盛り付けるという共同作業は、驚くほど自然に息が合っていた。
お盆に乗せられた簡素ながらも温かい料理が食卓に並ぶと、二人は姿勢を正し、神職の家系に生まれた者同士として、声を揃えて神社の食前の祝詞を厳かに唱え上げた。
静寂な部屋に二人の清らかな声が響き渡り、最後に「頂きます」と綺麗に手を合わせてから、箸を動かし始める。
「美味しい……!残りものって言うてたけど、味がしっかり染みてて最高やよ」
「そう言ってもらえると、作った甲斐があったよ」
食事中の会話は決して多くはなかったが、穏やかな時間が流れ、二人は綺麗に料理を平らげた。
食後、どちらからともなく立ち上がると、協力して食器を洗い、シンクを片付けてから、才狐が丁寧に淹れた温かい緑茶をすすって一息つく。
ほっと心が解れたところで、才狐は瞳を綱江へと向け、先ほど教室で彼女が口にしていた「情報交換」についての本題を切り出そうとした。
しかし、彼が言葉を発するよりも早く、玄関の方から扉が開く明快な音が建物内に響き渡った。
「あ、妖古さんが帰って来はったみたいやね。行こう」
才狐の言葉に頷き、二人は弾かれるように席を立って、連れ立つように玄関まで出迎えに向かう。
三和土の前に二人並んで背筋を伸ばし、新婚の夫婦さながらに待つその姿を見た妖古は、目を見開いた後に、すぐに顔をほころばせてニヤニヤと笑い始めた。
「ただいま帰ったぞ、才狐……おお、おやおや、綱江もよう来たのう!二人揃ってお出迎えとは、実に見栄えが良くて眼福じゃて」
妖古は鈴を転がすようにコロコロと愉快そうに笑いながら、草履を脱いで軽やかに廊下へと上がってきた。
「お帰りなさい、師匠」
「妖古さん、お邪魔しています。突然お邪魔した上に、狐宮君にお昼ご飯まで御馳走になりました」
綱江が丁寧にお辞儀をして挨拶をすると、妖古はその手のひらで、綱江の黒髪のポニーテールを優しく撫で回す。
「そうかそうか。ぬしらは今が一番の育ちざかりじゃからの。遠慮せんと、我が家の米をよう食べよし」
「あ、有難う御座います……っ」
頭を撫でられて少し気恥ずかしそうに身を縮める綱江の姿を、才狐は淡々と見つめていた。
すると、妖古は何かを思いついたように、悪戯っぽい光をその瞳に宿して綱江を見つめた。
「あ、そうじゃ。才狐はこの後の時間は特に用事は無いはずじゃったが、綱江はこれから、何か神社の方でお仕事とか用事なんかはあるんかえ?もし巫女の仕事が詰まっとるというなら、才狐に送らせるでの」
「いえ、今日はこの後、特に実家の方でも用事はありません。今日は完全に自由ですけれど……」
綱江が不思議そうに答えると、妖古は待ってましたと言わんばかりに手をポンッと叩いた。
「おお、それなら丁度ええわい!ぬしら二人で、ちょいと兵庫まで行って、儂の代わりにおつかいに行って来よし。ちょっと遠出じゃが、姫路城の辺りまで行ってもらうでな」
妖古はそう言うと、抱えていた大きな風呂敷包みを、座卓の上でサラサラと解き始めた。
中から現れたのは、朝露を吸って今まさに収穫されたかのような、瑞々しく立派な胡瓜の山。
妖古はその中から数本だけを自分たちが食べる分だけ器用に抜き取って台所へ分けると、残りの大半が入った風呂敷包みを再び手際よく結び直し、才狐の胸元へと手渡した。
「さっきな、ちょいと現世と幽世の狭間に行って、ダークエルフちゃんや女鬼ちゃんに挨拶に行った帰り道のことじゃ。蛙仙人の自慢の畑に立ち寄ったら、この素晴らしい胡瓜の御裾分けを沢山持たせてもろたんよ。それを姫路にいる儂の古い知り合いの怪異に届けてほしいんじゃ。ほな、姫路城まで行って来よし。ちょうどええ、これは『御近所付き合い』の一環であり、外の世界を見るための修行でもあると思えばええし……ついでにぬしらの華金デートになるじゃろて。折角の遠出じゃ、学生服のままでは味気ないからの、動きやすい格好に着替えてから行きよし。カカカッ!」
妖古は楽しそうに身を揺らしながら、コロコロと豪快に笑う。
「で、デートって……。そんなんやないです!」
綱江は再び「デート」という単語に激しく反応し、頬をパッと赤く染めて俯いてしまった。
一方の才狐は、預かった風呂敷包みの重さを確かめながらで頭を下げる。
「畏まりました。では、早速行って参ります」
才狐は事務的とも言える素早さで自室へと戻ると、制服を脱ぎ捨て、手早く爽やかなシャツに上着を羽織り、機能性の高い頑丈なカーゴパンツへと着替えて出かける準備を整えた。
そうして二人は妖古に見送られながら、賑やかな笑い声の残る御狐神社を後にした。
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遠出をするにあたり、二人は一旦、バスと徒歩を乗り継いで綱江の自宅である神社へと立ち寄った。
綱江もまた、才狐を玄関で待たせる中で急いで自室へと向かい、動きやすく身慣れた紺色の作務衣に着替えて戻ってくる。
「お待たせ!遠出するなら、これが一番落ち着くんよ」
「うん、よく似合ってる。じゃあ、行こうか」
よく似合ってると言われて、少し頬を染める綱江。
そうして、お互いに私服姿となった少年と少女は、並んで歩きながら、兵庫への玄関口となる賑やかな京都駅へ向かうバスに乗るために、バス停まで力強く歩みを進めていった。
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##白鷺城の険しき気配、十二単を纏う絶世の美女
バスに揺られて京都駅へ到着し、そこから姫路行のバスに乗り込んだ二人。
京都駅から姫路駅へと向かう電車の中、車内は週末の小旅行を楽しむ人々や帰路につく乗客で適度に賑わっていた。
窓の外には、古都の街並みから次第に緑豊かな地方の景色へと移り変わる、穏やかな風景が流れていく。
作務衣姿の綱江と、私服に着替えた才狐は、並んで座席に腰掛けながら、電車の心地よい微振動に身を委ねていた。
沈黙がしばらく続いた後、才狐がいつもの感情の起伏が全く見当たらない無表情の瞳を綱江へと向け、静かに問いかけてきた。
「それで、学校を出る時に綱江さんが言うてた、情報交換の話やけど……。実家の方で何かあったん?妖古さんにおつかいを頼まれてバタバタと出てきてしもたから、まだちゃんと聞けてへんかったね」
「え?あ……あ、ああ、ええと……」
突然核心を突かれた綱江は、思わず小さく飛び上がらんばかりに動揺し、視線を泳がせながら口ごもってしまった。
怪異という存在について、もっと深く正しい知識を得たい、彼らの真の姿を見定める眼を養いたいという気持ち自体は、彼女の嘘偽りのない本心ではあった。
しかし、今回の「情報交換」という名目は、元を正せば金曜日の放課後に才狐を食事に誘い出すための、いわば口実めいた事柄に過ぎない。
(どうしよう……。まさか、そんなに真面目に食い下がられるとは思ってへんかったわ。ほんまに単なるお誘いの口実やったなんて、こんに真剣な才狐君に口が裂けても言えるわけないやんか……!)
綱江は内心で激しく頭を抱え、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、何とか言葉を絞り出した。
「その……何て言うか、ほら!こないだ、摩訶不思議食堂で女鬼さんや地蔵店長さんから素晴らしいお話を聞いたやろ?だから私、もっと色んな怪異の事を知りたいなーって改めて思ったりして……。それで、才狐君が普段どんな風に怪異と接してるんか、そういう深い話がしたかったんよ」
必死に取り繕うように早口でまくしたてる綱江の様子を、才狐は疑う風もなく、ただ淡々と受け止めた。
「そっか。それについては、僕もまだまだ知らん事だらけやし、師匠の足元にも及ばへん未熟者やからね。こうして教科書や文献を読むだけやなくて、実際に色んな怪異の元へ会いに行って、自分たちの眼で確かめるしか方法はないかもしれへんね。今回の姫路へのおつかいも、丁度ええ機会になると思うよ」
「う、うん、そやね。才狐君の言う通りやと思うわ。……あはは」
才狐のどこまでも真っ直ぐで事務的な返答に、綱江は内心で大きな安堵の息を吐きつつも、どこか自分の不純な動機が気恥ずかしくなり、複雑な苦笑いを浮かべて窓の外へと視線を戻すしかなかった。
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やがて電車は目的地の姫路駅へと到着し、ホームへと滑り込む。
駅の改札を出た二人は、駅前からまっすぐ北へと伸びる広大な大手前通りを歩き、その突き当たりに威風堂々とそびえ立つ、世界遺産・姫路城を目指して歩みを進めた。
白鷺が羽を広げたような白亜の大天守が、青空を背景に美しく輝く姿が見えてきたその時、周囲の和やかな観光地の空気がピキィン……とガラスが割れるかのように一瞬で凍りついた。
突然、どこからともなく、大気を激しく震わせるほどの険しく禍々しい気配が、城の方向から真っ直ぐに立ち上ってきたのである。
「っ!?――綱江さん、この気配……!」
「うん、尋常やない力……もの凄く強力な怪異の気配やわ!」
才狐と綱江は、それまでの穏やかな道中モードから一瞬で呪術師の顔へと戻り、咄嗟に身体を低くして身構えながら、その禍々しい気配が発生している方向を鋭い眼光で凝視する。
二人は周囲の一般の観光客達が何事も起きていないように暢気に歩いているのを確認し、この異変が霊感を持つ者にしか感知できない特殊な結界、あるいは局所的な暴発であることを察知した。
妖古からあらかじめ手渡されていた入場料を窓口で素早く支払い、手形を受け取ると、二人は一般の参拝ルートの雑踏を巧みに潜り抜けながら城の内部へと急ぎ足で入っていく。
気配の源泉を辿っていくと、それは城の北側エリアにある、生い茂る木々に遮られて一般の観光客が滅多に立ち入らなそうな、ひっそりとした人通りの少ない敷地へと繋がっていた。
一歩、また一歩と近づいていくにつれて、肌を刺すようなビリビリとした霊圧がどんどんと強まっていき、空気そのものが重くねじ曲がっていくような錯覚さえ覚える。
ゴゴゴゴゴ……と地鳴りのようなプレッシャーが五感を圧迫する中、二人は息を殺し、生い茂る木々の隙間から、恐る恐るその中心の様子を覗き見に行くと……。
そこに広がっていたのは、現実の光景とは到底思えない、圧倒的な威厳と恐怖が同居する異様な空間であった。
絢爛豪華な十二単を完璧かつ華麗に着こなし、まるで平安の絵巻物からそのまま抜け出してきたかのような、この世のものとは思えない絶世の美女がそこに立ち尽くしている。
しかし、そのあまりにも美しい顔立ちは、今や鬼の形相と言わんばかりに凄まじい怒りに満ち溢れており、その額や白いこめかみにはピキピキと何本もの青筋が恐ろしく浮き上がっていた。
その美女の足元には、今時のカジュアルな服装をした、カップルと思われる若い人間の男女が泥だらけになって地面にへたり込み、情けなく正座をさせられた状態で、ガタガタと歯を鳴らして震え上がっている。
絶世の和装美女は、右手にした美しい扇をパンッ!と左の掌に激しく叩きつけ、氷点下よりも冷たい眼差しで哀れな男女を見下ろしながら、腹の底に響くような声で一喝した。
「それで?この私に向かって、今なんと言おうとしたんじゃ?もっぺん私の目の前で、その汚い口を開いて言ってみんか!このど阿呆どもがっ!」
ドォォォン!!
彼女が言葉を放った瞬間、霊感が全く無い一般の人間であっても肉眼でハッキリと視認できるほど濃厚な、紫黒色の凄まじい妖気が、炎のように揺らめきながら天空に向かって爆発的に立ち上った。
「ひえぇぇっ!?ご、ごめんなさい、ごめんなさいぃぃっ!」
若い男女は、その圧倒的な霊圧の嵐に直撃されたかの如く、完全に腰を抜かした状態で、まるで小さな虫のようにビクビクと身を縮めて涙を流しながら許しを請うている。
その光景を影から目撃した才狐と綱江の全身に、冷たい戦慄が走る。
一目しただけで本能が理解してしまう――目の前にいる十二単の怪異は、自分たちのような発展途上の術師が束になってかかったとしても、それこそ瞬く間に消し飛ばされる、絶対に太刀打ちできない格上の大怪異であるということを。
しかし、ここで恐怖に負けて逃げ出せば、あの一般人の男女の命は間違いなく幽世の闇へと消え去ってしまうだろう。
(……やるしかない。ここで退いたら、私は何のために自分の身体に傷を刻んで、術師になる覚悟を決めたんや!)
(これだけの規模の怪異……僕らでは到底敵わへん。でも、何とかしてあの人間たちを救い出して、場を収めないとあかん……!)
少年と少女は、圧倒的な実力差に冷や汗を流しながらも、それぞれの武器と術式に意識を集中させ、最悪の事態を防ぐために動く決意を固めていた。
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##白鷺城の女主人と、黒衣の呪術師と女性住職
ゾクッ。
皮膚を直接刺すような、おぞましいほどの絶対的な霊圧が、人通りの途絶えた城の北側敷地に吹き荒れている。
身動き一つ取れないほどのプレッシャーの中、才狐と綱江が懐の呪符へ必死に手をかけようとしたその瞬間、十二単を纏った絶世の美女は、一切の予兆なく首を動かした。
その冷徹極まりない眼差しが、二人が身を隠している木々の隙間へと正確に向けられ、手にした扇子がバサッと鋭い音を立てて差し向けられる。
「そこの若造共、後で相手したるから大人しくそこで待っとれ。……ん?待てよ、この独特な気配は……。まったく、あの御狐様、おつかいをよこすんやったら、あらかじめ一言くらい私に知らせてくれたらええのにのう」
大怪異と思しき美女は、向けた扇子の先を僅かに下げると、先ほどまでの世界を滅ぼさんばかりの狂気から一転して、呆れたように深いため息を吐き出す。
自分たちの気配どころか、妖古からの使いであることまで一瞬で見破られていた事実に、二人は更なる緊迫感に身を硬くするしかなかった。
そんな一触即発の空気が現場を支配し、へたり込んだ若い男女が涙を流し続ける中、突如として別の方向から、足音もなく近づいてくる影があった。
「ほな、これ以上はほっといて宜しゅうおすか?」
低く、しかし驚くほどよく通る落ち着いた男性の声が、静まり返った敷地に響き渡った。
「本当に、昼間から穏やかではありませんね。お城の神聖な空気のなかで、一体何が始まったのかと思いました」
続いて、鈴の音のように清らかで、聞く者の心を芯から落ち着かせるような若い女性の声が、重苦しい妖気を和らげるようにして重なった。
声の主である二人の男女は、常人なら近づくことさえ拒絶するような刑部姫の凄まじい霊圧の嵐を、まるで春のそよ風でも受けるかのように完全に無視して、颯爽と姿を現した。
彼らは何一つ躊躇することなく、鬼の形相をした十二単の美女の元へと真っ直ぐに歩み寄っていき、その目の前でごく自然に足を止める。
「あ、危ないですよ!早くその人から離れて!」
そのあまりにも無防備で恐れを知らない自殺行為に、物陰で見守っていた綱江は、思わず自身の恐怖を忘れて声を大にして叫んでいた。
しかし、その綱江の警告とは裏腹に、隣にいた才狐のな瞳が、不意に僅かな驚きを孕んで見開かれた。
「あ。」
才狐の口から、感情の起伏こそないものの、明確な認識を示す小さな声が漏れ出す。
颯爽と現れた人物は、才狐が尊敬してやまない、憧れの念を抱くようになった二人の大人達であった。
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突然の乱入者たちを前にして、絶世の美女、刑部姫は先ほどまでの凶悪なオーラを嘘のように収めると、大きなため息を吐きながら肩の力を抜いた。
「……相変わらず、それだけの凄まじい術力を身に宿しながら、完全に気配を消してウチの背後に立つんは、毎度のことながら心臓に悪いから本当に驚くでな。呪術師殿、それに御住職殿。今日は二人揃って、こちらの姫路の方でお仕事じゃったんかえ?」
彼女の言葉から立ち上る怒りの気配は完全に霧散し、その場を支配していた恐ろしいプレッシャーも、見る間に普段の観光地のそれへと戻っていく。
刑部姫から「呪術師」と呼ばれた男性は、40代半ばから後半くらいの年齢に見える、服の上からでもシャープでありながら非常に引き締まった体躯の持ち主である事がわかる姿をしている。
彼は上質な黒いコートを羽織り、その下には仕立ての良い黒いシャツ、そして機能性の高そうな黒いカーゴパンツを穿いており、全身の衣服をすべて深い黒一色で統一しているという、異様な凄みを纏った服装をしていた。
その佇まいは、現世の闇を一人で背負って生きているかのような、独特の渋みと威厳を感じさせる。
一方、その隣に並び立って「御住職」と呼ばれた女性は、見る者の魂を瞬時に吸い寄せ、すべての罪障をその場で浄化してしまうのではないかと思わせるほどの、超絶美少女と言う顔立ちの神聖な美貌の持ち主。
横は耳の辺り、そして後ろは肩より少し高い位置できれいに切り揃えられた短い黒髪は朝露のように瑞々しく、浄土宗の由緒正しき僧侶が身に纏う、非常に格調高い仕立ての法衣と五条袈裟に身を包んだ若き女性住職であった。
女性住職は、へたり込んでいるカップルに、一度だけ憐れみの視線を向けた後、刑部姫に向かって、まるで本物の菩薩がそこに顕現したかのような慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、胸の前で綺麗に合掌してお辞儀をする。
「こんにちは、刑部姫さん。本日も吸い込まれるように本当にお美しゅう御座いますね。私は本日の午前中、こちらのすぐ近くにある檀家様のご自宅で、法事の御手伝いをさせて頂いておりました」
呪術師も、ふっと口元を緩め、関西訛りのある親しみやすい、しかしどこか底の知れない声で言葉を続けた。
「こんにちは、刑部姫さん。今日も相変わらず、都のどんな女子より別嬪さんですな。僕も今日の午前中だけ、表側の仕事でこっちの企業までちょいと顔を出してましてな。用事が終わって駅へ向かう途中で、こちらの御住職と本当にばったりお会いしましてね。せっかく姫路まで来たんやから、昼食を済ませた後に、久々に刑部姫さんたちの顔でも見に挨拶に伺おう思うたら……。一体今度は、その不届き者達に何を言われはりましたんや?」
呪術師がそう言って足元のカップルを指差すと、十二単の美女、刑部姫は先ほどまでの鬼のような恐ろしい表情から一転して、まるで小さな子供のように両頬をぷくーっと可愛らしく膨らませた。
「それがな、呪術師殿、御住職殿!ちょっと聞いてくれるかえ!?こやつらときたらなあ、私がここで静かに風景を眺めとったら、いきなりこの最高級の西陣織の十二単を指差して、『うわ、めっちゃリアルなコスプレやん、ウケる!一緒に写真撮ってインスタに上げよ!』とか言って、私の同意も得ずに勝手にスマートフォンを向けてきおったんじゃ!無礼にも程があるわ!」
さっきの狂気的な大妖怪の姿はどこへやら、今の彼女は完全に、ただ理不尽に怒っている美しい人間の女性そのもののノリで、身振りを手振りを交えながら可愛らしく愚痴をこぼし始めた。
そのあまりにも劇的で、天と地ほどに落差のある状況の変化を目の当たりにした二人の少年少女呪術師は、呪符を構えようとしたポーズのまま完全に固まっていた。
綱江は大きく口を開けたまま開いた口が塞がらず、才狐もまた、言葉を失ったまま、目の前で繰り広げられる大怪異と卓越した術者達の、あまりにも世間話じみたやり取りを、ただ啞然として見つめることしか出来なかった。
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##口は災いの門、そして白鷺城のどや顔
呪術師は、刑部姫から放たれたあまりにも現代的で世俗的な怒りの理由を聞くと、やれやれと言いたげに頭を振って深い溜息を一つ吐き出した。
その隣で法衣を纏った女性住職も、ふわりと眉を下げて「あらまあ……」と、深く悲しむような慈悲に満ちた顔つきになる。
しかし、大妖怪の怒りの導火線はこれだけでは収まっていなかったようで、刑部姫は手にした扇子をパタパタと激しく動かしながら、さらにプンスカと頬を膨らませて怒りをぶちまけた。
「そんでな、呪術師殿、御住職殿!こやつらときたら、私の姿を見るなりさらに酷い言葉を重ねてきおったんじゃ!まずそこのおなごの方がな、『うわ、ブスが着物来て調子乗ってイタいんだけど』とか、のたまいよった!挙げ句の果てには、そこの男の方まで調子に乗って『お前が一番美人や、こいつ?どう見てもブスに決まってるやん、並べるのもおがましいわ』とかぬかしよったんじゃぞ!到底許せるわけがなかろうが!もしここにえらいこっちゃんがおったらな、間違いなく目を丸くして『やってしまいよった、えらいこっちゃ!』って言うとるところじゃ!」
十二単の袖を激しく翻しながら、自身の美貌への侮辱に対する怒りを爆発させる刑部姫の剣幕は、ある意味で非常に人間味に溢れていた。
話の全貌を聞いた呪術師は、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、呆れたように苦笑いを浮かべる。
「……そらあきまへんな、完全にその若造どもの自業自得、100%あっちに非がありますわ。ほな、僕らは一切邪魔しませんさかい、刑部姫さんが直々に、その不届き者どもの頭を一発ずつ力一杯しばいときなはれ」
呪術師はそう言って、完全にこれ以上の介入を拒むように一歩後ろへと下がり、腕を組んでのんびりと傍観を決め込む姿勢を取った。
「え!?そんな、嘘やろ、助けてくれるんちゃうん……っ!?」
目の前の黒衣の男性が救いの手を差し伸べるどころか、怪異に対して折檻を推奨したことに、正座していたカップルは顔面を蒼白にさせてぞっと震え上がった。
今度こそ本当にこの世から消されるのではないかと怯え、ガタガタと歯の根を鳴らす若い男女に向けて、女性住職はそっと歩み寄り、菩薩のような慈愛に満ちた笑顔を浮かべながら胸の前で静かに合掌してお辞儀をした。
「御二方、古くから『口は災いの門』と申します。己の不満や驕りから他者を深く傷つけるような言葉の刃を安易に紡げば、それは因果の巡りによって、いずれ御自身の身を無惨に引き裂く鋭き業火となって返ってきますよ。今まさに御自身の為さった無礼な行いを静かに顧みて、目の前の彼女に対して為すべき事を為し、誠実さを示す時で御座います」
その鈴の音のように清らかな、しかし魂の奥底まで優しく諭すような美しい声の響きは、カップルの凍りついた心を激しく揺さぶった。
自分たちがどれほど愚かで理不尽な暴言を口にしていたのかを本能で悟った二人は、張り詰めた霊圧の中で、地面に激しく擦りつけるようにしてゴンッと音を立てて土下座をする。
「「も、申し訳ありませんでした!本当に、本当に俺(私)たちが悪かったです、ごめんなさいぃぃっ!」」
必死になって頭を地面に押し付け、涙ながらに許しを請うその哀れな姿を見下ろし、刑部姫は一つ大きな溜息を吐き出すと、手にした扇子の先をカップルの頭上に向けてピシッと親切に言い放つ。
「まったく……。こちらの高徳な御二人に免じて、今回はこれ以上の折檻は無しにして勘弁したろう。そやけどな、次にこの姫路城に遊びに来た時は、私の姿を見かけたらちゃんと、お美しゅう御座いますって心の底から褒め称えろよ!」
「……何それ、結局のところ、ただの承認欲求の塊やん……」
大妖怪としての寛大な慈悲を示され、命拾いをしたことにカップルが安堵したその瞬間、へたり込んでいた彼女の方が、恐怖が薄れたせいか、つい無意識のうちに、ぼそっと小さな声で呟いてしまった。
「――聞こえとるぞ!舐めるなよ、この小娘が!」
刑部姫の額に再びピキッと激しい青筋が浮き上がり、彼女は扇子を振り回して烈火のごとく怒り出しす。
「チヤホヤしてもろて何が悪いか!誰だって褒められたら嬉しいじゃろが!どうせ貴様かて、毎日毎日SNSでイケとる自分を必死にアピールして、見ず知らずの他人に『いいね』をせがんどるじゃろが!現代の人間の若造共に、この純粋な自己顕示欲を笑われる筋合いなど断じてないわ!」
図星を突かれたのか、彼女の方は一瞬で言葉を詰まらせ、カップルは再び慌てて地面に頭を擦りつけた。
「ひえぇっ!?ごめんなさい!本当にごめんなさい!」
その泥仕合のような微笑ましい口論を見つめながら、女性住職はふふっと上品に微笑み、再び優しい眼差しでカップルへと問いかけた。
「私は、刑部姫さんは本当に目の覚めるようにお美しいお方だと、心より観じておりますよ。あなた方は、本当の心では、彼女の御着物やその佇まいをどのように思われましたか?」
住職のその菩薩のような助け舟の言葉にしがみつくように、カップルの男女は声を限りに大声で叫ぶ。
「「めっちゃ美人です!今まで見た誰よりも綺麗です!着物も、西陣織も、もの凄く綺麗で似合ってます!」」
「……ふん。まぁ、わかりゃええんじゃ、わかりゃ。ほな、もうお前たちに用は無いわ、さっさと大人しく観光しとるか、自分の街へ帰っとれ」
その真っ直ぐな称賛の言葉を耳にした刑部姫は、一瞬にして機嫌を良くし、手にした扇子を胸元でバサッと閉じると、これ以上ないほど誇らしげに胸を張って、完璧なドヤ顔を決めて見せた。
その大妖怪の解放の言葉を聞くや否や、腰を抜かしかけていたカップルは、泥だらけの服のまま「すみませんでしたー!」と叫んで立ち上がり、一目散にクモの子を散らすような勢いで、逃げるようにその場から走り去って行った。
後に残されたのは、先ほどまでの圧倒的な妖気の嵐が嘘のように、静かで穏やかな初夏の城跡の静けさだけであった。
一部始終を木陰からずっと見せつけられていた才狐と綱江は、呪符を構えようとした中途半端な姿勢のまま、ただその場に立ち尽くしていた。
才狐は、無表情を保ちながらも、その瞳の奥で、目の前の二人の大人に対して、改めて深い敬意を抱く。
(……ほんまに、凄い人達や。あれだけの巨大な霊圧を持つ大怪異を前にして、術一つ、呪符一つ使うことすらなく、ただ言葉と対話の力だけで完全に場を納めてしまうなんて……。やっぱり、僕なんかでは足元にも及ばへん本物の高徳な人達や)
かつて目の前で何度も人と怪異の諍いをおさめた女性住職と、その隣にいる謎の渋い呪術師の底知れない手腕に、才狐は内心で静かに感嘆の息を漏らしていた。
一方の綱江は、あまりにも規格外な大人術師たちの格の違いと、大怪異であるはずの刑部姫の、あまりにも人間臭いキャラクターの落差に完全に脳の処理が追いつかず、ただただ大きな眼を見開いたまま、啞然としてその場にフリーズするしかなかった。
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##白鷺城の女主人と、呪術師
木陰で完全にフリーズしていた才狐と綱江の元へ、黒一色の衣服を纏った呪術師と、短い黒髪の女性住職が、二人の存在を優しく見守るようにゆっくりと歩み寄ってきた。
女性住職は、その歩みさえも清らかな蓮の花が咲くかのような静けさで、才狐と綱江の目の前でピタリと足を止める。
「こんにちは、才狐さん。そちらの可愛らしい御嬢さんと一緒に、刑部姫さんへ会いに来られたのですか?御嬢さん、初めまして。私は京都の地で、浄土宗寺院の住職を務めさせて頂いております」
住職は、見る者の心を芯から洗うような完璧な菩薩笑顔を浮かべ、胸の前で綺麗に合掌して丁寧にお儀式さながらのお辞儀をしながら挨拶をした。
続いて、コートのポケットからゆっくりと手を抜いた呪術師も、その鋭い眼光を優しく緩めて二人を見つめた。
「才狐さん、こんにちは。元気そうで何よりです。ほんで、そちらの御嬢さん、初めまして。どうやら僕らと同じ『こっち側』の方で、才狐さんの同業の繋がりがあるようですな。僕は仰々しい名前を名乗るほどのもんでもありませんよって、僕の事はただ『呪術師』とでも呼んでくれなはれ」
大人の余裕を感じさせる二人の挨拶に対し、才狐は小さく頭を下げ、綱江を紹介した。
「こんにちは。こちらは僕のクラスメイトで、渡辺綱江さんです」
紹介された綱江は、あまりの緊張で少しだけ背筋をピンと伸ばしながらも、神社の娘として恥じない完璧な所作で深くお辞儀をする。
「初めまして。渡辺綱江です。実家は小さな神社でして、そこで巫女の仕事をしてます。宜しくお願いします」
彼女の生真面目な挨拶が響いたその時、背後から西陣織の衣がサワサワ……と擦れる絢爛な音が聞こえてきた。
「待たせたのう、若い術師カップルよ。一瞬だけとはいえ、おぬしらに恐ろしい戦意を向けてしもて済まなんだ、ごめんなあ」
手にした扇子をパッと優雅に広げ、刑部姫がにこやかな満面の笑みを浮かべながら、二人の方へと軽やかな足取りで近づいてきた。
「いえ、こちらこそ、突然お邪魔してすみません。僕は妖古さんの弟子で、狐宮才狐と申します。これ、妖古さんから届けるように言われて、お持ちしました」
才狐は、彼女から放たれる大怪異としての圧倒的な圧を感じ取りながらも、懐の風呂敷包みを両手で丁寧に差し出した。
「おお、有難うな。そうか、おぬしが妖古殿が事あるごとに自慢しとった、噂の弟子じゃったか。通りで、妖古殿の神聖な気配を微かに宿しとったわけじゃな」
刑部姫は嬉しそうに目を細めると、才狐から風呂敷包みを恭しく受け取り、その場でサラサラと結び目を解いて広げた。
中から朝露を湛えた瑞々しい胡瓜が顔を出すと、彼女はその中から手際よく2本だけを抜き取り、残りの胡瓜を丁寧に包み直して再び才狐へと返した。
「ふふふふ、蛙仙人殿の胡瓜、これ美味いんよなあ。ウチは大好物なんじゃ。有難うなあ」
刑部姫は「ほっこり」とした温かい笑顔になると、西陣織の袖で口元を上品に隠しながら、手にした胡瓜をシャキッ、ポリッと非常に美しい所作で上品に齧り始めた。
その大怪異らしからぬ素朴で、それでいて絵巻物のお姫様のように洗練された綺麗な食べ方に、綱江は思わず感嘆の声を漏らした。
「食べ方も綺麗で上品ですね。凄く素敵です」
綱江の素直な称賛の言葉を耳にした刑部姫は、一瞬にして機嫌を極上へと跳ね上げ、扇子を顔に当てて嬉しそうにドヤ顔をした。
「お、綱江と言うたか、おぬし。ふふふふ、そうじゃろそうじゃろ、もっと褒めてええんじゃぞ♪」
刑部姫は満足げに胡瓜をポリポリと齧りながら、才狐の方へと視線を戻す。
「ほんに有難うなあ、京都からわざわざ。ほな、残りの胡瓜は、お菊井戸に持って行ってやってくれんかな?場所はそちらの御二人が知ってるから、連れて行って貰いなさい」
大妖怪からの新しいおつかいの要請に対し、呪術師がコートのポケットに再び手を収めながら口を開く。
「ほな、案内しましょか。刑部姫さんは、この後も写真撮影に応じたり、観光客見物を楽しまはるんですかな」
呪術師が淡々と尋ねると、刑部姫は再びどや顔で胸を張った。
「そうするつもりじゃ。ふふふふ、私の事を、やれ貴族とか、刑部姫のコスプレや思うて記念撮影せがまれたりするのが面白くてなあ。私が刑部姫本人やのに、コスプレ文化が浸透しとるおかげで気づかへんもんやね。京都やと着物レンタルがもっと盛んやから、女鬼ちゃんが歩いてても、角カチューシャ付けた観光客にしか見えんじゃろね」
刑部姫がカラカラと愉快そうに笑うと、女性住職も京都の住人として深く同意するように優しく微笑む。
「確かに、京都は着物レンタルの御店が沢山ありますし、妖怪変化の衣装に身を包む方もいらっしゃいますからね。海外からの観光客の方々も、皆さん思い思いの格好で楽しまれていますから、多少の異形や怪異の方々であっても、街の風景に溶け込まれます」
「そうじゃろうなあ。さてさて、では私は観光客の相手をして人間で楽しんでくるから。ふふふ、さっきの馬鹿共は例外的で、大抵は褒めてくれるんじゃ。ほんなら、才狐と綱江も、デート楽しむが宜しかろう。若い二人に幸あれじゃな」
刑部姫はそう言って扇子を華麗に翻すと、陽光の中に溶け込むような優雅な足取りで、観光客の集まる表舞台へと去っていった。
後に残された綱江は、その背中を見送りながら、またしても飛び出した単語に顔を真っ赤に染めて呟く。
「……デートって。本当に、御狐神社の妖古さんといい、こちらの刑部姫さんといい、なんでそういう眼でみるんよ。ただのおつかいやのに……」
文句を口にしながらも、綱江は隣に立つ才狐の、全く感情の読めない端正な顔をちらりと盗み見た。
その瞬間、彼女の胸の奥で、トクトクと甘酸っぱい高鳴りが響き、不思議と嫌な気持ちにはなれない、どこか「まんざらでもなさそう」な温かい感情が、じわじわと広がっていくのを自覚していた。
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##播州皿屋敷の井戸底と、昼下がりのポリポリ
大怪異である刑部姫の華麗なドヤ顔を見送った後、才狐と綱江の二人は、呪術師と若き女性住職の先導により、お城の敷地内を静かに移動していく。
陽光が白亜の天守閣を眩しく照らし出す中、目指す場所は歴史の教科書や怪談の怪異譚でもあまりに有名な、あの「お菊井戸」と呼ばれる場所。
周囲には、熱心に写真を撮影したり、ガイドの説明に耳を傾けたりしている一般の観光客の姿が、それなりにちらほらと見受けられる。
四人は騒ぎ立てることなく、怪異を刺激しないように気配を消しながら、その歴史的な井戸の周囲で静かに時を待った。
やがて、運良く観光客の波が途切れ、周囲から完全に人の気配が引いた絶妙なタイミングが訪れると。
その瞬間、呪術師がコートの懐から、複雑な呪詛の紋様が描かれた一枚の古びた札をシュッと鮮やかな手つきで取り出した。
そして。
「『伝』」
彼は遮るもののない井戸の暗闇の底に向かって、低く鋭い声で呪文を唱えながら札を放った。
フワリと宙を舞った伝令符は、意思を持っているかのように井戸の奥底へと吸い込まれ、それから一秒と経たないうちに、再びシュバッという風切り音を立てて呪術師の元へと瞬時に戻って来る。
呪術師がその札を流れるような動作で空中で回収し、再びコートの懐へと滑り込ませると同時に、しんと静まり返っていた井戸の底から、何かが這い上がってくるような気配が立ち上った。
スウッ……と、井戸の石組みの隙間から、まるで煙が実体を結ぶかのように、顔だけをひょっこりと外に出す一人の女性の姿がそこに現れた。
髪は艶やかな黒髪で、怪談に語られるようなおどろおどろしさは微塵もなく、どこか親しみやすさを感じさせる着物姿でありながら現代的な風貌の女性の顔がある。
彼女は周囲に人間の観光客がいないかを素早くキョロキョロと確認すると、井戸の縁に顎を乗せるような姿勢のまま、小声で気さくに話しかけてきた。
「どもども、呪術師さん、お久しぶりです、御無沙汰してます。あ、そちらの御住職さんも、こんにちは。いやあ、今はまだ真昼間なんで、幽霊としてはこんな中途半端な格好での登場ですみませんねえ」
呪術師は、親しい友人に接するような気軽さで、お菊さんと呼ばれたその女性の怪異に向かって、小さく頭を下げた。
「こちらこそ、突然の訪問で驚かせてしもてすみませんな、お菊さん。相変わらずお元気そうで何よりです。幽霊にお元気そうと言うのも、妙な話ですがね」
お菊さんは、井戸の影から顔を綻ばせ、くすくすと楽しげに笑い声を漏らした。
「いえいえ、気にしないでください。さっき、刑部姫様から『今からそっちに妖古殿の使いが向かうから、よろしく頼むな』って、念話でばっちり連絡を貰うてましたから。ふふ、それにしても、わざわざ人が綺麗に引いたタイミングを、こうして伝令符で正確に伝えて下さるなんて、呪術師さんは相変わらず、ええ仕事をしてくれますねえ」
その和やかなやり取りを微笑ましげに見つめていた女性住職が、一歩前へと歩み出た。
「御無沙汰しております、お菊さん。相変わらずお健やかなご様子で安心いたしました。では、才狐さん、綱江さん。蛙仙人さんからの瑞々しい御土産の胡瓜を、お菊さんにお渡し下さいまし」
女性住職は、見る者の心を芯から温める菩薩笑顔を浮かべ、胸の前で綺麗に合掌しながら、二人の若い術師へとしなやかに促した。
才狐は静かに頷くと、抱えていた風呂敷包みの結び目を解き、中から朝露の残る立派な胡瓜を取り出す。
「初めまして、狐宮才狐です。京都の御狐神社で、天狐の妖古さんの弟子をやっています。これ、師匠からの預かりものです」
才狐は、生真面目な手つきで残りの胡瓜をすべてお菊さんへと差し出した。
隣に立つ綱江も、緊張を解して丁寧にお辞儀をする。
「初めまして、渡辺綱江です。実家は小さな神社をしてまして、才狐君のクラスメイトです。本日はお騒がせしてすみません」
「どもども、二人とも初めまして。丁寧に挨拶してくれて有難う。私は怪談で有名な、播州皿屋敷のお菊です。現代でもお菊さんと呼ばれてて、娑婆の世界でもそれなりに有名やから、知ってくれてたら嬉しいな……うわぁ、この胡瓜、めちゃくちゃ立派で美味しそう!有難う御座います♪」
お菊さんは嬉しそうに目を輝かせると、井戸の中から白い手を伸ばし、才狐が差し出した胡瓜をそっと、壊れ物を扱うように受け取った。
「こんなに沢山の素敵な御土産を頂けるなんて、本当に有難う御座います。それにしても、そっかぁ、君があの妖古さんの、今現世で噂になってる新しい御弟子さんでしたか。通りで、ただの人間とは思えんくらい、洗練された綺麗な術の気配を纏ってるわけですね」
お菊さんは感心したように何度も頷くと、我慢できなくなったのか、手にした胡瓜をその場でポリッ、ポリポリ……と軽快な音を立てて美味しそうに食べ始めた。
その瑞々しい咀嚼音が、静かな井戸の周囲に心地よく響き渡る。
「ふふ、やっぱり蛙仙人さんの野菜は格別ですねえ。……あ、そうそう、私の本来の幽霊としての活動時間は、主に太陽が沈んだ夜ですからねえ。もし今度、二人が夜の時間にここに遊びに来てくれたら、あの有名な、お皿を一枚、二枚って数えるやつ、本気で迫力満点にやりますよ。ではでは、若い二人でこれからのデートを全力で楽しんでらっしゃい。妖古さんにも、お菊がよろしく言うてたとお伝えくださいね」
お菊さんは胡瓜を齧りながら、親戚のお姉さんのようなノリで、ニヤニヤとからかうような笑みを浮かべた。
「畏まりました。師匠には、必ず伝えておきます」
才狐は、そのからかいに対しても全く表情を動かさず、どこまでも生真面目に短く答えた。
一方の綱江は、またしても「デート」という単語が飛び出したことに、顔を僅かに火照らせながら、何となくペコリと頭を下げてお礼を言う。
「あ、有難う、御座います……。お皿を数えるお話、今度ぜひ聞いてみたいです」
お菊さんが満足げに井戸の底へとゆっくり沈んでいくのを見届けた後、呪術師がコートの襟を少しだけ正しながら、二人の若者へと向き直った。
「ほな、おつかいの任務もこれにて無事に完了したことですし、僕らもそろそろ京都へ帰りましょか。今から新快速か新幹線に飛び乗って京都に帰ったら、丁度夕方過ぎくらいの、ええ時間帯にはなりますかな」
呪術師はそう言うと、長居は無用とばかりに、大人の渋みを漂わせながら颯爽と駅の方角へと歩き出す。
女性住職もまた、法衣の袖を美しく翻しながら、二人に優しく微笑みかけた。
「それでは、参りましょうか。お菊さんの元気な顔も見られましたし、本当に素晴らしい功徳のひとときで御座いました」
少年と少女は、頼もしい二人の大人の背中に続くようにして、お菊さんと別れを告げ、夕暮れの気配が近づく姫路駅へ向けて、賑やかな街並みを再び歩み始めた。
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##揺れる車内の術理、そして目指すべき背中
ガタゴトと心地よい駆動音を響かせながら、4人を乗せた新快速電車は姫路駅から京都駅を目指して走っていた。
窓の外には夕刻が近づく穏やかな風景が流れており、車内には適度な喧騒と旅の疲れを癒やすような独特の空気が漂っている。
綱江はシートに深く腰掛けながらも、先ほどお菊井戸で目撃した、あの鮮やかな一幕がどうしても頭から離れず、意を決したように目の前の大人へと視線を向けた。
「あの、お菊さんのところで、呪術師さんはもの凄い早業と言いますか、御札を流れるように井戸の底へ飛ばしてはるのを観ました。あれは一体、どういう術なんですか?」
尋ねられた呪術師は、コートのポケットに両手を納めたまま、電車の揺れに身を任せて淡々と語り始める。
「ああ、あれは伝令符っちゅうもんです。直接会うのが難しい怪異の皆さんや、現世の裏側で動いとる『こっち側』の同業者との、ちょっとした連絡手段として古くから使うてます。文字を乗せて飛ばす、いわば術式の手紙みたいなもんですな」
呪術師の澱みのない解説を聞き、綱江はなるほど、と感心しながら、今度は隣に座る少年の横顔を覗き込んだ。
「伝令符……才狐君も、そういうのって使えるん?」
才狐は窓の外に視線を綱江に向けて、静かに言葉を返す。
「うん、僕も使えるよ。言うても、本当に最近になってから、妖古さんにようやく教えてもろたばっかりの基礎的なやつだけやけどね」
少年の口から当然のように肯定の言葉が返ってきたことで、綱江は少しだけ寂しそうな、置いていかれたような表情を浮かべて自身の膝を見つめた。
「そうなんや……。私、そんな便利な御札の使い方は、これまで一度も教わった事無かったわ」
「そうなん?渡辺さんは実家の御祖父さんと御祖母さんから、その手の術は教えて貰わへんかった?」
才狐が不思議そうに問いかけると、綱江は自嘲気味に微笑む。
「うん。うちの神社はな、昔から対怪異用の方法と言うか、現れた異形を容赦なく退治するための攻撃的な技ばっかりを厳格に教わってきたから。連絡を取るなんて発想、そもそも無かったんよ」
その言葉を聞いた女性住職は、法衣の袖を綺麗に重ね合わせ、見る者の魂を浄化するかのような菩薩笑顔を浮かべながら優しく言い当てた。
「それで、今も綱江さんが懐に大切にしまっていらっしゃる御札の数々も、すべてが攻撃的な術式のもので統一されているのですね」
「え!?わ、私が持ってる御札の中身、一度も見たわけでもないのにわかるんですか?」
綱江は驚きのあまり大きく眼を見開き、思わず自身の胸元を両手で隠すようにして身構える。
女性住職は、ふふっと上品に微笑み、その澄んだ瞳で綱江を包み込むように応えた。
「ええ。お名前が持つ力強い響きと、お身体から自然と立ち上っている苛烈な術力の気配を感じ取れば、自ずとそうではないかと思うておりました。とても真っ直ぐで、お強い気配です」
そんな二人のやり取りを見守っていた呪術師が、諭すような口調で淡々と実戦的なアドバイスを付け加える。
「伝統あるお家の技のようですな。今は御自身のところの技に専念して、地力をしっかりと養い修行する時期やとは思います。ですがな、大掛かりな目移りは感心しませんが、伝令符や初歩的な御札の技くらいなら、己の術式を細かくコントロールする訓練の一環として、一つ二つなら今から勉強しておいても、損は無いかもしれません。もし気になるようでしたら、京都に戻ってから、綱江さんの師匠となる方に一度相談してみたら宜しゅうおす」
「はい。本当に有難う御座います。家に戻ったら、お祖父ちゃんたちに聞いてみます」
呪術師の親身な言葉に、綱江は深く納得したように丁寧に頭を下げた。
そして綱江は才狐の方へと微かに身を寄せ、声を潜めて尋ねる。
「なあ、才狐君。この呪術師さんと御住職さんって……実は、とんでもなく凄い人達なん?」
才狐はその問いに対しても相変わらずの無表情を貫だったが、その瞳の奥には、いつもとは明らかに違う、静かだが熱い憧憬の光が灯っているように見えた。
「うん。僕が今まで出逢った人たちの中で、最も尊敬してて、いつかこんな大人になりたいって、心から目指してる人達や」
いつも淡々としている才狐が、明確に「尊敬」という言葉を口にしたことに、綱江の胸はドクンと小さく高鳴った。
「才狐君が、そこまで言って尊敬する程の人達……」
綱江はそう呟き、目の前で穏やかに座る大人の二人を交互に見つめる。
先ほどの姫路城で、あの巨大な霊圧を持つ刑部姫を、術一つ使わずに、言葉だけで完璧に御してみせた光景。
あの時、肌で感じていた「とんでもなく凄まじい人達ではないか」という強い直感は、才狐の言葉によって、今や揺るぎない確信へと変わりつつあった。
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##烏丸口の偶然、そして大鬼の土産
夕刻の赤い光が京都駅の近代的なガラス天井を染め上げる頃、長距離の移動を終えた4人を乗せた電車は無事にホームへと滑り込んだ。
改札を抜け、これからの足休めも兼ねて、一旦は女性住職が管理する寺院へ立ち寄ることに決めた一行は、賑わう烏丸口の大階段を降りて駅の外へと出る。
家路を急ぐ通勤客や観光客の波が交差するバスターミナルの喧騒の中、前方の雑踏から頭一つ分、いや、二つ分以上は突き抜けた体躯を持つ、驚くほどの大男が悠然と通りかかるのが見えた。
そのあまりにも見慣れた巨躯と豪快な気配にいち早く気づいた呪術師が、口元を緩めて声をかける。
「これはこれは、羅生門さん。今日も今日とて精が出ますな、御疲れさんです」
その声に反応して、法衣を纏った女性住職もまた、吸い込まれるような清らかな菩薩笑顔を浮かべ、胸の前で綺麗に合掌した。
「御疲れ様です、羅生門さん。このような場所でお会いするとは、奇遇で御座いますね」
大人の二人に続くようにして、後ろに並んでいた才狐と綱江の二人の若い術師も、それぞれの距離感から声を揃えた。
「「こんにちは」」
呼びかけられた大男――人間の姿に化けて現世に紛れ込んでいる羅生門の鬼は、4人の姿を視界に捉えると、大きな手を挙げて腹の底から響くような声で笑った。
「おお!こんにちは……いや、空の色を見るに、もう今晩は、になる時間帯やな!なんや、呪術師殿に御住職、それに才狐と綱江まで一緒におるやんけ。今日は妙に珍しい組み合わせで動いとるんやな」
羅生門の鬼はガハハと豪快に笑いながら、周囲の人間を驚かせないような絶妙な足取りで、親しげに4人の元へと近づいて来た。
女性住職は法衣の袖をそっと整えながら、今日一日の旅路の報告を優しく口にする。
「ええ、実は本日、才狐さんと綱江さんは、妖古さんの御使いで姫路城まで行かれましてね。あちらで刑部姫さんと、お菊さんに、無事にご挨拶をされてきたところなのですのよ」
「おお、あの白鷺城の別嬪さん達にわざわざ会いに行ったんか!それで才狐と綱江は、刑部姫に会うたら、ちゃんとあのプライドの高いお姫様を褒めたったか?あの子……いや、あの子なんて言うたら『子供扱いしなさんな!』って烈火のごとく怒られるかもわからんな。まあ、何はともあれ、刑部姫はな、見た目や着物を褒めたらごっつ喜びよる単純なところがあるでな。現世のどっかの妖怪辞典やと、その自己顕示欲の強さを『弱点』扱いまでしとるくらいやからなあ!」
羅生門の鬼は往年の知り合いを思い浮かべるように、顎を撫でながら再び豪快に笑い声を響かせる。
その言葉を聞いた綱江は、先ほどのお城の裏手での泥仕合を思い出し、深く納得したように頷いた。
「ああ、やっぱりそうやったんですね。それで、私らが少し褒め言葉を口にしたら、一瞬で上機嫌になって、ドヤ顔をなさってたんですね」
「そやろ、あいつはめっちゃくちゃ分かりやすい性格やからな、褒められたらそれだけで大満足するんや。逆に、ちゃんと大妖怪として敬わへん失礼な奴には、底無しに手厳しいぞ」
羅生門の鬼が楽しそうに語るのを見つめながら、才狐は先ほどの事実を冷静に告げた。
「一般人のカップルから『結局のところ、ただの承認欲求の塊やん』ってぼそっと呟かれた時は、額に青筋立てて滅茶苦茶怒ってはりました」
「がっははは!案の定、容赦なく図星を突かれとるやんけ、あの姫さんは!まあ、現代風の言葉で言うたら、確かにそうなってまうわなあ!」
大鬼はこれ以上ないほど愉快そうに大きな身体を揺らし、バツの悪そうな刑部姫の顔を想像して大笑いした。
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ひとしきり笑うと、羅生門の鬼は4人の荷物に視線を落とし、小腹の空き具合を察するように問いかけてきた。
「ほんで、これからみんなでどこぞへ晩飯でも食いに行くんけ?まだお天道様が落ちきってへんし、晩飯をがっつくには少しばかり早い時間帯やけどな」
「ええ。それについては、まずは私の住まう寺院へ一度戻りまして、脚休めを兼ねて、皆さまで温かい御茶の時間にしようかと話しておりました」
女性住職が上品に微笑みながらこれからの予定を説明すると、羅生門の鬼の目が、まるで宝物を見つけたかのようにキラリと輝く。
「おお、そりゃあ願ってもない、最高の提案やんけ!ほれ、俺も今日も今日とて人間のフリしてな、いつもの力仕事の現場に紛れ込んで派手に仕事して、きっちり日給をもろたんや。その帰りに、美味そうな羊羹を一本買うて来たんよ。もし良かったら、俺もその御茶の時間に一緒させてもろてええかいな?」
羅生門の鬼はそう言って、有名和菓子店のロゴが染め抜かれた立派な紙袋を、誇らしげに空へと掲げて見せた。
その大鬼の可愛らしい土産の提示に対し、呪術師はふっと表情を和らげ、胸の前で軽く合掌する。
「そりゃあ実に有難い事ですな。疲れた身体には、上質な餡子の甘みが一番の薬になりますわ」
「ええ、羅生門さんが御一緒して頂けましたら、お席もより一層賑やかになってとても嬉しゅう御座います。お心遣い、本当に有難う御座います」
女性住職もまた、完璧な菩薩笑顔を浮かべて合掌し、丁寧にお辞儀をして大鬼の同行を大いに歓迎した。
才狐と綱江の二人の若者も「「宜しくお願いします」」と元気よく快諾し、にわかに賑やかさを増した一行は、4人から5人になって、夕暮れの穏やかな空気が満ちる女性住職の寺院を目指し、京都の街を並んで歩き始めた。
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##大鬼の和洋菓子談義と、不意に突かれる二人の距離
賑やかな烏丸口の雑踏を通り抜け、京都の路地裏にひっそりと佇む女性住職の寺院へとやって来た5人は、まず背筋を伸ばして本堂へと向かった。
夕暮れの厳かな空気が満ちる本堂の前にて、5人は静かに手を合わせ、日々の平穏への感謝を込めて丁寧にお参りを済ませる。
その後、母屋の落ち着いた和室へと移動すると、女性住職と綱江の二人が手際よく台所に立ち、人数分の温かいお茶の準備を始めた。
茶碗に注がれた美しい緑色のお茶と、羅生門の鬼が誇らしげに持参した上等な抹茶羊羹が座卓の上にずらりと並ぶ。
5人はそれぞれの席に端正な姿勢で着席すると、胸の前で綺麗に手を合わせ、浄土宗に深く伝わる食前の言葉を声を揃えて厳かに称え始めた。
静寂な部屋に響く清らかな唱和の後に、さらに心を込めて「南無阿弥陀仏」と十回の念仏を唱え終え、最後に全員で「頂きます」をして、待ちに待った和やかなお茶の時間が始まった。
羅生門の鬼は、自分の大きな掌に対して随分と小さく見える羊羹を器用に箸で摘み、口へと運ぶと、満足げに目を細める。
「やっぱ娑婆の上等な抹茶羊羹は格別に美味いなあ。噛むほどに、濃厚な抹茶の香りが鼻に抜けてたまらんわ。これな、もし雲外鏡がここに居合わせとったら、『美味いのう、美味いのう』とか涎を垂らしながら、一本丸ごとを秒でペロっと丸呑みしよるで」
巨体を揺らして豪快に笑う大鬼の姿は、とてもかつて都を震撼させた恐怖の象徴とは思えないほどに無邪気であった。
その隣で、呪術師も上品に切り分けられた羊羹を一切れ口にし、ふっと張り詰めたオーラを和らげた。
「確かに、この深く渋い御茶に、優しくて濃厚な甘みがよう合いますな。羅生門さん、素晴らしいお土産を本当に有難う御座います」
呪術師は無表情でありながらも、その声の響きや佇まいにはどこか柔らかな、心から休息を楽しんでいるような優しい気配が滲み出ている。
そんな大人たちのやり取りを見つめていた才狐が、湯呑みを机に置きながら、淡々としたトーンで記憶を掘り起こした。
「そう言えば羅生門さん、この前、僕が呪術師さんと御住職さんに案内してもろて、貴船神社のさらに険しい奥地までお邪魔した時は、境内の木陰で美味しそうにシュークリームを食べていらっしゃいましたよね」
少年のその突然の暴露に、羅生門の鬼は待ってましたと言わんばかりに、牙を覗かせて満面の笑みを浮かべる。
「おう、あん時はほんまに有難うなあ!絶妙なタイミングでのシュークリームの差し入れ、マジで身体に染みたわ!蛸薬師通にある、あのお洒落な喫茶店の洋菓子は、生地がサクサクでクリームがトロトロで、マジで美味いでな。俺の隠れたお気に入りなんや」
そのあまりにも現世に馴染みすぎている大鬼の生態を聞かされ、綱江は持っていた茶碗を落としそうになるほど驚き、眼を丸くした。
「……ちょっと待って、羅生門さん。現代社会の生活に溶け込み過ぎですやん!昼間は人間達に紛れて汗水垂らして日雇いの力仕事をこなして、仕事終わりには和菓子も洋菓子も楽しんで……。え?というか、羅生門の鬼さんって、シュークリームがそんなに好きなんですか?」
信じられないものを見るような綱江のつっ込みに対し、羅生門の鬼は太い腕を組んで、堂々と胸を張った。
「おう、ごっつ好きやで!鬼やからって、生肉とか酒ばっかり飲んだり食うとると思うたら大間違いや。ほんでな、その店の抹茶ムースもこれまた、ごっつ濃厚で美味いんやで。今度な、才狐と二人で放課後にデートでそこに行った時に食ってみたらええわ。絶対に女の子なら喜ぶ味やからな」
大鬼が悪戯っぽくケラケラと笑いながら提案すると、綱江の顔は一瞬にして沸騰したかのようにパッと赤く染まった。
「で、デートって……!なんで妖古さんも、刑部姫さんも、そして羅生門の鬼さんまで、みんな揃いも揃って私と才狐君をデートさせたがるんですか!?今日のかて、ただのおつかいと同業者としての情報交換ですってば!」
ポニーテールを激しく揺らしながら大慌てで否定する綱江の様子を、羅生門の鬼は不思議そうに片眉を上げて見つめる。
「なんや、お前ら。傍から観とったらこんなにお似合いやのに、もう付き合ってるんとちゃうんけ?」
「まだそういう特別な仲やありませんよ!ほんまに変なからかい方はやめてください!」
顔を真っ赤にして座布団の上でジタバタと慌てる綱江に対し、羅生門の鬼はそれ以上追及することなく、ただ温かい眼差しを向けた。
「そうなんけ?――まあ、俺らみたいな長い時間を生きてきた怪異の眼から観たら、二人の術の気配の混ざり具合も含めて、もの凄くええ感じの雰囲気に視えるんやけどなあ、ガハハ!」
夕暮れの和室に大鬼の豪快な笑い声が響き渡り、綱江の恋の蕾は、外野の温かいからかいによって、またしてもその色を僅かに濃くしていくのであった。
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##夜の神域のフットワーク、そして参道を塞ぐ大顔
楽しいお茶の時間もやがて終わりを告げ、和室の格子の向こう側にはすっかり帳が下りて、深い夜の闇が京都の街を静かに包み込んでいた。
名残惜しさはあったものの、すっかり日が沈んだ事もあり、5人はこれにて解散する運びとなった。
女性住職に見送られながら、古い木造の山門まで一同がやって来たその時、呪術師と女性住職の二人が、申し合わせたようにふと同時にどこか遠くの夜空を見上げる。
その二人の術師としての鋭い視線の先を追うように、羅生門の鬼もまた、夜風に鼻を鳴らしながらニヤニヤと不敵な笑みを浮かべた。
「おうおう、今夜も随分と元気やのう。あいつら、また現世の若造相手に派手にやっとるわ」
大人の術師達と大鬼の間にだけ通じるそのただならぬ雰囲気に、静かに問いかける。
「あの、どうかされたんですか?」
羅生門の鬼は、自分のごつい首をバキバキと鳴らしながら、呪術師と女性住職に向けて親指を突き出してみせた。
「なあ、呪術師殿に御住職。これ、丁度ええやんけ。才狐と綱江の『御近所付き合い』の一環にしたったらどや?本物の怪異がキレとる現場を特等席で見せてやるんや」
その大鬼の突飛な提案に対し、女性住職は驚く風もなく、法衣の裾を優雅に翻しながらにこやかに歩き出した。
「そうですね。では、参りましょうか」
「まあ、机の上で古文書を睨んどるより、実際の現場を観て肌で学ぶんも、術師としては大事な事やとは思いますからなあ」
呪術師もコートの襟を正しながら、住職の隣に並んで颯爽と夜の街へと歩き出す。
何が起きているのかよくわからないまま、二人の少年少女呪術師は、ただ大人の背中に付いて行くしかなかった。
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静まり返った京都の夜道を歩いて行くうちに、段々と才狐と綱江の鋭い五感にも、はっきりと感じ取れるほどに不穏な空気が満ち始め、肌がビリビリと粟立ち始めた。
不気味な霊圧が、夜の湿った空気をジトジトと重くねじ曲げていく。
二人は咄嗟に懐の呪符へ意識を向けて身構えつつも、二人の大人達の確かな足取りに必死に付いて行く。
その背後、最後尾からは、羅生門の鬼が何食わぬ顔で、どっしりとしながらも足音を忍ばせて付いて来ており、それが奇妙な安心感を与えていた。
やがて一行は、鬱蒼とした木々に囲まれた、街外れにひっそりと佇む無人神社らしき敷地へとやって来た。
鳥居を潜ろうとしたその瞬間、あまりの異様な光景に、才狐と綱江の二人は思わず「あ。」と驚きの声を上げて、その場に激しく身構える。
そこには、常軌を逸した怪異の空間が広がっていた。
神聖な鳥居を完全に塞ぐようにして、参道一杯に長い髪を不気味に振り乱した、とても大きな顔らしきものが、現世の者達の行く手を阻むようにしてどっしりと通せんぼしている。
そのおぞましい大顔の奥の境内からは、情けない悲鳴が絶え間なく響いていた。
目を凝らすと、そこには才狐と綱江と同い年くらいに見える、男子二人、女子一人の人間の若者達がいた。
全員が派手な金髪に、お揃いの派手なスカジャンを着込んでいたが、今はその虚勢も完全に剥ぎ取られ、あまりの恐怖に腰を抜かして尻餅をついている。
さらにその若者たちの奥では、一本足の唐笠お化けが、シュッシュッとボクサーさながらの素早い音を立ててキレのあるフットワークをきかせていた。
その和紙の胴体には、真っ赤に燃え上がるような怒りマークを幾つも浮かび上がらせており、今にもその一本足で若者たちを蹴り飛ばさんばかりの勢いで、猛烈に威嚇していた。
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##実戦の見取り稽古と、暗がりの大鬼
才狐と綱江、二人の若い術師が、同時に鋭く身構えた。
そのあまりにも完璧な戦闘態勢への移行を敏感に察知したのか、それまで境内の若者たちへ向けられていた巨大な顔が、不気味にくるりと方向を変えてこちらを激しく睨みつけてきた。
「何者じゃあ!新手のクソガキかあ!」
顔の怪異は長い髪を逆立たせると、裂けるような大口を開け、禍々しい妖気のエネルギーらしきものを連発で次々とこちらへ向けて飛ばしてきた。
ドス黒い弾道が夜の参道を一直線に突き抜けてくる。
しかし、その圧倒的な弾幕を前にしても、先頭を行く二人の大人達の足取りが乱れることは一切なかった。
呪術師は、向かってくる妖気の塊を見つめながら、退屈そうに口元を歪める。
「おやおや、挨拶代わりに先手必勝ですかいな。手厳しいことですなあ」
呪術師はそう呟くと、飛んできたエネルギーの塊を、事も無げに左手一本で軽く横へ払った。
それだけで、大気を揺るぎ合わせていた禍々しい術力の弾頭は、まるでただの煙のように一瞬で霧散して消え去ってしまう。
さらに、その隣を歩く女性住職に至っては、身を護るための防御の術式を動かすことさえしなかった。
彼女はただ胸の前で静かに合掌し、どこまでも穏やかな菩薩笑顔を浮かべて歩みを進めているだけである。
それなのに、顔の怪異が必死に放ったはずのエネルギーの数々は、彼女のわずか1メートル手前に達した瞬間に、目に見えない清らかな障壁に触れたかのように、すべて完全に霧散して綺麗に消えてなくなってしまった。
その常軌を逸した実力差の防壁を目の当たりにし、顔だけの怪異は、信じられないものを見るように大きな眼をさらに剥き出しにする。
「な、なんじゃあ!?このクソガキ共、スマートフォンをこっそり操作して、裏で仲間を呼びよったな!それも面倒な専門家を直々に呼んできよったか!上等じゃー!まとめて地獄へ引きずり込んだるわ!」
顔の怪異は怒り狂ったように叫び、さらに口から激しいエネルギーの弾幕をどんどん飛ばしてきた。
だが、呪術師は右手を上質なコートのポケットに突っこんだまま、やはり左手一本の最小限の動作ですべてを軽やかに払いのけ、霧散させながら確実に間合いを詰めて近づいて行く。
「そんなに声を荒らげずに、まずは落ち着いて御話頂けませんか?夜の神域が壊れてしまいます」
女性住職もまた、合掌して微笑みながら優しく近づいていき、彼女に向けて飛んで来る凶悪な攻撃は、その清らかなオーラによって触れることすら叶わず、すべて消えてなくなる。
大人たちの絶対的な強さを前にして、顔の怪異が「な、なんやと!?わいの攻撃が一切合切効かんやと!?」と、恐怖で顔を痙攣させたその時、境内の奥から切羽詰まった一本足の音が響いた。
「ちょ、ちょっと待て!おとろし、やめとけ!頼むからその攻撃を今すぐ止めんかいな!その物凄いお方々と、その後ろにちょこんと立ちおる若い子らは、みんな俺どんの知り合いで、大切な連れやがな!」
境内の奥でキレのあるフットワークを刻んでいた唐笠お化けが、胴体の怒りマークを霧散させながら、大慌てで一本足で跳ねながら制止してきた。
「おとろし」と呼ばれた大きな顔の怪異は、その言葉を聞いた瞬間に攻撃をピタリと止め、大口を開けたまま「え、そうなん?」ときょとんッとした表情を浮かべた。
周囲に張り詰めていた凶悪な力が霧散していく中、呪術師はいつも通りの淡々と、おとろしの目の前で立ち止まって尋ねる。
「とりあえず、お話が通じるようで安心しましたで。僕らも夜の散歩の途中なだけやさかい、中に入れてもろても宜しゅうおすか?」
「お、おう……唐笠の連れやと言うなら、わいとしても無礼な真似はできひんでな。……ええと、それじゃあ、この神社で悪さをしおったクソガキ共は、お前らの知っとる奴らとちゃうんか?」
おとろしは、鳥居の奥で完全に怯えて固まっている3人の派手な若者達を一瞥しながら尋ねてきた。
呪術師は、涙目で腰を抜かしている金髪の若者たちを一瞬だけ冷ややかに見つめると、すぐに視線を外して答える。
「……いえ、全く知らん子らですな。僕らの連れではあらしまへんなあ」
「さよか。それなら話は早いでな。ほな、おとろし、そのお人らはそのまま境内に通してええぞ」
唐笠お化けが和紙の身体をパタパタと揺らして言うと、おとろしは「合点承知じゃ」と、もぞもぞと大きな髪を蠢かせながら、参道を塞いでいた巨顔を退けて道を開け始めた。
「親切に有難う御座います。それでは、夜分遅くに失礼致しますね」
女性住職は菩薩笑顔のまま丁寧に一礼すると、おとろしの横を通り抜けて神社の中へと静かに入っていき、才狐と綱江の二人の若い術師も、その圧倒的な大人達の背中に引かれるようにして続いて行った。
すると、最後に境内へ入ろうとした呪術師が、ふと足を止め、誰もいないはずの暗がりへと振り返った。
「……全て羅生門さんの思惑通りやとは思いますがいな。やっぱり最初から先頭を歩いてくれはったら、こんな無駄な小競り合いをせずに良かったんやないですか?おかげであの『元凶』らしき若い人ら、恐怖のあまり完全に腰抜かして震えてはりますがな」
呪術師が呆れたような声で、夜の暗がりに向かって声をかけた。
すると……。
「がっはははは!いやあ、すまんすまん!」
次の瞬間、神社の木々を激しく揺らすほどの豪快な大笑いが夜空に響き渡り、それまで気配を完全に消して隠れていた、筋肉質な巨体がひょっこりと姿を現した。
「あ、羅生門さん!いつの間にか姿が見えないと思ったら、そんなところに隠れてはったんですか!」
綱江は大きく目を丸くし、驚きの声を上げる。
羅生門の鬼は、頭の後ろで太い腕を組みながら、楽しそうに境内へと歩み寄ってきた。
「ほら、若い術師二人に、怒り狂う怪異を前にした本物の実戦っちゅうやつを、間近で見せて教えたろう思てな。俺が最初から先頭を堂々と歩いとったら、俺の霊圧を察知して、おとろしも唐笠も絶対に攻めてこんかったやろ?荒れ狂う怪異相手に、どうやって術を使わずに場を収めるか、これ以上の生きた見取り稽古は無い思うてな、ちょっとばかし姿消してみたんよ。大成功やのう!」
大鬼が豪快に大笑いしながら胸を張ったその瞬間、道を譲っていたおとろしと、奥にいた唐笠お化けの二体が、同時にその巨体を見上げて激しく目を見張った。
「「ちょ、羅生門の兄貴ぃぃっ!?なんで兄貴までいてはるんじゃ!?」」
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##神域の不届き者、そして大人の傍観
夜の帳が完全に下りた静寂の境内に、奇妙な顔ぶれが集まっていた。
新しくやって来た4人の人間と、悠然と佇む羅生門の鬼。
そして、未だに怒りの残滓を纏う、おとろしと唐笠お化け。
その視線の先では、お揃いの派手なスカジャンを着た男子二人に女子一人の悪ガキトリオが、完全に腰を抜かして泥だらけの尻餅をついたままガタガタと震えている。
女性住職は境内の外周をそっと見渡すと、柔らかな夜風に法衣の袖を揺らしながら微笑んだ。
「おとろしさんが張られたと思しきこの素晴らしい結界は、ひとまずこのままにして頂きましょうか。丁度良い人避けになりますから、じっくりとお話を伺うには好都合で御座います」
その菩薩のような笑みが、かえって若者たちには逃げ場のない檻のように感じられ、更なる恐怖を煽っていく。
呪術師は、コートのポケットに手を突っ込んだまま歩を進め、境内の奥に目を向けた。
「ほんで、この御三方の若者は、一体ここで何をしはったんです?見たところ、暴走チームの仲間同士っちゅうところでっしゃろな」
呪術師の冷ややかな視線の先、暗がりの境内の片隅には、無造作に乗り捨てられた2台のバイクが夜の光を鈍く反射していた。
それを見た才狐は、淡々と小さな疑問を口にした。
「神社の境内に、直接バイクで乗り込まはったんやね。こないだも、僕のところの御狐神社と藁の神社に、同じようにバイクで乗り込まれた事があったけど、今はそういうのが流行ってるんかな?」
少年の純粋ゆえに辛辣な問いかけに、隣の綱江がすぐさま顔を顰めて憤慨した。
「流行りだなんてとんでもないわ!神聖な境内に二輪で乗り込んで土足で踏み荒らすなんて、罰当たりにも程があるやんか。観光神社で駐車場誘導とか、そういう正式な方式を取ってるところやったらまだしも、ここは鳥居のすぐ横に看板が立ててあるやん。自転車も含めた二輪は絶対に乗り込んだらあかんって、あんなに大きく書いてあるのに」
綱江は綺麗な手の平で、そっと看板の方向を指し示して怒りを滲ませる。
すると、一本足で立っていた唐笠お化けが、和紙の身体をバタバタと激しく羽ばたかせながら、再び怒りを再燃させた。
「それも俺どんとおとろしが今夜ブチギレた大きな原因の一つやねん!ほんでな、もっと酷い話を聞いてくれや!俺が昼間の疲れを癒やすために御社に静かに立てかかって寝とったらやな、この真ん中におるクソガキ娘が俺どんの姿を見るなり、『これ、ちぎって焚火の燃料にしよーや』とか罰当たりな事をぬかして、本気で俺どんの身体をちぎろうとしよってん!驚いて飛び起きて、そこから大ブッチギレや!」
唐笠お化けはシュッシュッとボクサーさながらに一本足で器用にフットワークを踏み、怒りのステップを刻んだ。
さらに巨顔のおとろしも、顔面を真っ赤に染め上げて地鳴りのような声で言葉を重ねる。
「唐笠の身体をちぎろうとしたんも万死に値するし、何より、こいつら境内で食い散らかした菓子の袋をそこら中に散らかしよってな!おまけに大人の真似事して煙草を吸って灰を撒き散らした思うたら、あろうことか神聖な参道の石畳にこすりつけて消しよったんじゃ!挙句の果てには、最終的には諦めよったけど、賽銭箱を無理やりこじ開けて盗もうとして、無理やとわかったら守護の柵を思いっきり蹴り飛ばしよった!あかん、自分で話しといて思い出しただけでまた腹立って来た、絶対に勘弁ならんわ!」
おとろしの長い髪が怒気で逆立ち、再び禍々しい妖気が周囲に漂い始める。
その一部始終を後ろで聞いていた羅生門の鬼は、豪快に首を振ってガハハと大笑いした。
「がっははは!そりゃあお前、怪異でなくとも、それだけ無礼を働かれたら怒るのが当たり前やがな!むしろ今までよく五体満足で生きてられたもんやのう、この悪ガキどもは」
怪異たちの正当な怒りを聞き届けた呪術師は、ふうと息を吐くと、コートのポケットから両手を抜いて腕を組み、のんびりと傍観を決め込む姿勢を取った。
「……事情は、よぉ分かりました。ほな、唐笠さんは気が済むまで、その自慢の足技で若造共を蹴り飛ばして、その子らが転がったところを、おとろしさんはその大きな顔面で上からじっくり乗っかって押し潰したらよろしゅうおす。僕は一切、手出しも口出しもしませんさかい」
大人の冷酷な宣告を耳にした瞬間、金髪の単発男子は顔面を真っ青にさせて絶叫した。
「え!?た、助けてくれへんの!?あんたら、妖怪退治の専門家ちゃうん!?嘘やろ、見殺しにする気かよ!」
呪術師は情けなく叫ぶ少年を冷ややかな瞳で見下ろし、深く大きなため息をつく。
「自分らの都合のええ時だけ助けを求める前に、『罰当たり』っちゅう言葉の意味を、その身を以て勉強しなはれ。もしかして、罰っちゅう概念を知らんのですか?これが世間で言うところの『最近の若いもんは』と言う現象なんですかね。親からも祖父母からも、人としてやってええ事と悪い事の区別すら教わらん時代になったんですかねえ」
すると、呪術師の言葉に同意するように、羅生門の鬼も、意地悪く牙を剥き出しにして笑う。
「ええやんけ、若いうちから身を以て本物の『罰』っちゅうやつを当てて貰えるなんて、そうそう経験できひんぞ。ほな、悪ガキ共、自分らのやらかした不始末の分、ここでしっかりとお仕置きされとけや!」
大人たちのあまりにも冷徹な対応に対し、才狐が見つめるすぐ横で、綱江だけが驚愕のあまり眼を丸くして声を上げた。
「え!?呪術師さん、羅生門さん!本当に助けへんのですか!?いくら相手が悪い言うても、怪異にそのまま引き渡したら、この人らの命が……!」
綱江が慌てて割って入ろうとするが、その制止の声を掻き消すようにして、3人のスカジャン悪ガキトリオは地面に涙と鼻水を撒き散らしながら、全力で声を揃えて懇願した。
「「「た、助けて下さいーっ!本当にごめんなさい、もう二度と神社の敷地には近づきませんから、助けて下さいぃぃっ!」」」
夜の静かな無人神社に、不届き者たちの情けない悲鳴が木霊した。
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##菩薩の説戒と、鳥居の上の青筋
呪術師から無慈悲な折檻の許可が下りると、待ってましたとばかりに、唐笠お化けがシュッシュッとさらに鋭いフットワークを踏み始め、その一本足に力を溜め込んだ。
同時に、大きな顔の怪異であるおとろしが、長い髪を夜風に大きくうねらせながら、巨躯を跳ね上げて鳥居の上にあがろうと動き出す。
いよいよ絶対絶命の制裁が下されようとしたその瞬間、これまで静かに佇んでいた女性住職が、その場の重苦しい空気を一瞬で清めるかのような美しい声で制止をかけた。
「おとろしさん、唐笠さん、どうか少しだけお待ちください。まずは、この若き皆さんが御自身の犯した罪をしっかりと理解し、心から真に反省した上で、これから為すべきことをして頂くというのは如何でしょうか?」
女性住職は、見る者の心を包み込むような完璧な菩薩笑顔を浮かべ、胸の前で綺麗に合掌しながら二体の怪異へと優しく提案した。
そのあまりに清らかな提案に毒気を抜かれたのか、おとろしはドスンと音を立てて鳥居の上に着地すると、大きな顔を傾げて困ったように溜息を吐き出す。
「そうは言うてもな、尼さん。口で優しく言うて分かるようなタマかいのう、神社を荒らすようなこの悪ガキ共は。痛い目を見せんと、また同じことを繰り返すのがオチじゃて」
すると、腕を組んで成り行きを見守っていた羅生門の鬼が、牙を覗かせて楽しげに笑い声を上げた。
「まあまあ、おとろし。御住職がわざわざこうして間に入ってくれはったんや。御住職の説法は、とても有り難い教えで、ものごっつ効果覿面なんやから、ワンチャン有難いお説教を一回やってみてもろてもええんちゃうけ?それでも駄目なら、そん時は俺がまとめてしばき倒したるわ。ま、そんな事にはならんやろうけどな」
大鬼の心広い言葉に、女性住職は深く感じ入ったように頭を下げる。
「羅生門さん、温かいお気遣いを誠に有難う御座います」
住職は菩薩笑顔のまま合掌してお辞儀をすると、ゆっくりと泥まみれで震えている3人の悪ガキ達の方へと向き直った。
和室でのお茶会の時の穏やかさとは一転し、その澄んだ瞳には仏の教えを伝える住職としての厳格な光が宿っている。
「良いですか、皆さん。物事には、人として守らねばならぬ大切な道理があります。まずは定められたルールを遵守すること、そして、そもそも神聖な場所を散らかさないこと、そして他者の物や歴史ある物を粗末に扱わないことです。あなた方は、今夜この境内において、そのどれもを無惨に破ってしまったのですよ」
彼女の優しい笑顔から紡がれる言葉は、刃物のように鋭く若者たちの胸へと突き刺さり、厳しくその罪を諭していく。
「あちらの鳥居の上にいらっしゃるおとろしさんが、あなた方をこれほどまでに恐ろしい姿で叱って下さったのは、あなた方が現世の法律だけでなく、目に見えぬ世界の大きな罪を犯してしまったことに気づかさせて下さるための優しさなのです。本来ならば、自らの非を深く反省すべき事であり、迷えるあなた方を導いてくれたおとろしさんに、心から感謝する事なのですよ?」
女性住職は慈愛に満ちた笑顔のまま、若者たちの凝り固まった心を解きほぐすように優しく教えていく。
しかし、その高度な教えがまだ理解しきれないのか、地面に座り込んでいたスカジャン娘が、おとろしの姿を恐る恐る見上げながらぼそっと呟いた。
「……え?感謝って言われても、あんなん、でかいロン毛のキモい顔したお化けやん……」
その言葉が、大妖怪の繊細なプライドを直撃した。
「誰がでかいロン毛のキモイ顔じゃあ!悪いのはお前らじゃろが!黙ってお坊さんのありがたい話を真面目に聞いとけ!」
おとろしは真っ赤になってプンスカと怒り狂い、感情を爆発させながら鳥居の上で何度もドタバタと激しく跳ね回った。
そのあまりの迫力に、若者達は「ひえっ」と頭を抱えて再び縮こまる。
女性住職は、おとろしの怒りを優しく宥めるように一度視線を送ってから、再び3人の足元を掌でそっと指し示す。
「おとろしさんという怪異は、古くから神社という神聖な場所において、不心得者や悪質な悪戯をする者を見つけると、突然鳥居の上から落ちて来られて、その姿をもって警告を発して下さる方なのです。つまりそれは、あなた方が今夜、ここで明確な悪さを働いたという何よりの証明でもあります。おとろしさんがこうして目の前に来て下さったことで、あなた方は自らが悪さをしたという事実を、深く自覚しなくてはなりません。宜しいですか?」
住職の視線の先には、無残に破り捨てられ、風に不気味に揺れているスナック菓子の空き包み紙や、散らばった吸い殻が転がっていた。
静寂を取り戻した境内で、女性住職は遮るもののない真っ直ぐな瞳で彼らを見つめる。
「何故、このような悲しい事をわざわざなさったのですか?その動機をお聞かせください」
住職の圧倒的な包容力に満ちた問いかけに、金髪で長い髪の男の子が、自らのスカジャンの袖をぎゅっと握りしめながら、消え入りそうな声でぽつりと言葉を漏らした。
「……それは、ここの神社の管理をしてるおっちゃんが、いっつもうるさくて目障りやったから……」
続いて、その隣にいた金髪の短い髪の男の子も、地面の泥を睨みつけるようにして、むかついた記憶を吐き出すように語りだした。
「そうや、いっつも俺らがここに集まるたびに、もの凄い剣幕で怒鳴って来よって、マジでむかついたから。そんで、そのおっちゃんが今週は遠くの方へ出張に行っとるらしくて、留守でおらん間に、日頃の仕返しをしてやろう思うて乗り込んだんや……」
若者達のあまりにも幼稚で独りよがりな報復の理由を聞き、女性住職は怒ることもなく、ただ静かに問いを重ねる。
「こちらの神社を日々護られている宮司なる方は、あなた方が集まるたびに、具体的にどのように仰って注意されているのですか?」
今度はスカジャン娘が、バツの悪そうな顔をして自身の膝を抱え込みながら、小さな声で言葉を紡いだ。
「……バイクの排気音が近所迷惑でうるさいとか、夜更かしせんと、はよ家に帰って勉強せえとか。あと、神社にバイクで来るなら、御参りするのは歓迎するけど、ちゃんとエンジンを切ってバイクから降りて駐車スペースにとめてから境内に入れとか……色々、細かいことばっかり怒ってくるんよ」
その内容を聞いた瞬間、隣で聞いていた綱江は呆れたように大きなため息を吐きそうになったが、女性住職はどこまでも穏やかな表情のまま、優しく微笑みかけて彼らを包み込んだ。
「それは、あなた方を憎んで怒鳴っているのではなく、この社会で生きるための在り方や、人として他者と共生するための大切なルールを、親代わりとなって一生懸命に教えて下さっているのだと思いますよ」
住職は合掌した手を胸の前に保ちながら、彼らの心の奥底にある恩義の存在を優しく揺り動かしていく。
「あなた方が今日、こうしておとろしさんや唐笠さんの姿を見て、魂の底から驚かれているということは、今回が初めての遭遇ということですね。つまりは、それまでの間、あなた方がどれほどここで無礼を働こうとも、宮司の方があなた方に大切な事を教えて下さり、同時に裏で必死に怪異たちを宥め、あなた方の事を、その身を挺してお守りくださっていた事に他なりません。その大きな恩を、お留守の間に仇で返すだなんて……本当に、とても悲しい事で御座います」
女性住職は本当に胸を痛めたような切ない悲しい顔を浮かべ、深く合掌したまま、若者たちに向けて静かにお辞儀をした。
その大人の僧侶の慈悲深い姿を目の当たりにし、3人の悪ガキたちの胸の中には、今までに感じたことのないほどの激しい罪悪感と恥ずかしさが一気に込み上げてきた。
自分たちがどれほど愚かで、どれほど守られていたのかを、ようやく理解し始める。
女性住職は、彼らの心に芽生えた小さな反省の光を見逃さず、最後に菩薩笑顔を浮かべて、美しく合掌しながら救いの提案を差し伸べた。
「良いですか、皆さん。今から私と一緒にこの境内を綺麗に掃除しましょう。そして、あなた方の身勝手な行いを受け止めてくださった唐笠さんとおとろしさんにも、そして宮司の方が戻って来られたら、人としてなすべき事を為し、誠意をもって謝罪なさっては如何でありましょうか?」
その温かい慈悲の言葉に、若者たちの目からはポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
3人は泥だらけの地面からゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げて、声を揃えて心からの謝罪を口にした。
「「「……はい、本当にすみませんでした。俺ら(アタシら)が全面的に間違ってました。……ちゃんと掃除します。」」」
夜の神社の境内に、若者たちの真実の反省の声が真っ直ぐに響き渡り、怪異達の怒りの気配は、今や完全に夜風へと溶けて消え去ろうとしていた。
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##宵闇の改心と、バス窓に映る未来
女性住職の、温かくも力強い教えに涙を流した3人の悪ガキたちは、差し出された箒や塵取りを手に取ると、泥だらけの手で懸命に境内の片付けを始めた。
その姿を見守っていた才狐や綱江、そして呪術師たちも自然と手を貸し、全員で協力して散らばったゴミを拾い集めていく。
大人たちの無駄のない動きと怪異たちの見守りによって、それまで荒れ果てていた境内のゴミや煙草の吸い殻はみるみるうちに回収され、ほんの短時間のうちに元通りの清らかな空気へと戻っていった。
大掃除が一段落し、見違えるほど綺麗になった参道を見下ろしながら、鳥居の上にいたおとろしは髪を整え、静かに釘をさす。
「ふぅ、これでようやく神社の神さんも一息つけるわ。今後はな、わいが天井や鳥居からいきなり落っこちて来るような事が二度と無いように、この神社は勿論のこと、どこに行っても絶対に悪さすんなよ」
その言葉には、大怪異としての威厳の中に、若者たちの行く末を案じるような確かな親心が籠もっていた。
隣で腕組みをしていた唐笠お化けも、和紙の身体をカサリと鳴らし、一本足で器用に立ちながら優しく諭す。
「それとな、物は大事にせえよ。俺どんみたいな付喪神はな、人間が物を粗末に扱ったり、簡単に捨てたり壊したりするんが一番悲しいんや。物にも心があると思って、これからは何でも大切に使いよし」
若者たちはその言葉を胸に刻み込むように、何度も深く、神妙に頷いた。
その様子を満足げに眺めていた羅生門の鬼は、巨体を揺らして前に進み出ると、スカジャンを着た若者達の前に大きな手のひらをスッと差し出した。
「ついでに俺からも一つ言うとくとな、未成年なんやから煙草はやめとけ。お前らはまだ高校生やろが。今の日本のルールやと、その年での煙草は絶対に厳禁であかんのやろ?娑婆で長く上手に生きるつもりなら、現世の法はちゃんと守らんとな。それに、煙草ばっかり吸うとったら、体育の授業で走れんようになんぞ。マラソン大会とかの行事が回ってきた時、人一倍しんどい思いをするんは自分らやからな。そら、その有害なやつは俺が全部貰っとくから、ここに出しや」
大鬼のあまりにも現実的で健康を気遣うようなお説教を受け、3人の悪ガキたちは驚きつつも、どこか心に沁みたような表情を浮かべた。
「……はい」
彼らは素直にポケットを探り、持っていた煙草の箱やライターのすべてを、羅生門の鬼の大きな手のひらの上へと丁寧に手渡していく。
すべての不届き品を回収した羅生門の鬼は、それをポケットに仕舞い込みながら、これ以上ないほど優しく微笑みかけた。
「おう、素直でええこっちゃ。その素直さと、今日この場所で深く反省した経験をこれからの人生に生かして、善き道を歩いて行けよ。急がんでええから、自分らのペースで一歩ずつな」
その温かい言葉の餞別を受け取り、若者たちは涙を拭って最後にもう一度深く頭を下げた。
そうして彼らは、静まり返った境内の片隅から2台のオートバイを神社の外まで丁寧に手で押していき、神域から完全に外に出てからようやくエンジンを始動させ、夜の街へと静かに帰って行った。
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若者たちの乗ったバイクの排気音が遠ざかり、再び静寂を取り戻した神社の中で、羅生門の鬼は呪術師と女性住職の二人を振り返る。
「いやはや、いつもながら本当に御見事なコンビネーションやな、呪術師殿と御住職は。俺が拳を振るうまでもなく、完璧に場が収まってしもうたわ。ほな、唐笠、おとろし、俺もそろそろ引き上げるから、またな」
大鬼は爽やかに笑うと、才狐と綱江にも視線を送り、神社を後にした。
「ほな、僕らもお邪魔しましたえ。夜分遅くに騒がしくしてしもて堪忍しとくれやす」
呪術師もコートのポケットに手を戻し、淡々とした口調で挨拶をして鳥居へと歩き出す。
「本当にお世話になりました。お二方とも、今夜は暖かくしてゆっくりお休みくださいね。それでは、また」
女性住職も菩薩笑顔を崩さぬまま綺麗に合掌してお辞儀をし、呪術師の後に続いて境内を出ていく。
その頼もしい背中を追うようにして、才狐と綱江の二人の若い術師も言葉を揃えた。
「「それでは、また失礼します」」
「ほな、またなー!才狐と綱江も、帰ったらちゃんと晩飯食えよー!」
唐笠お化けは一本足で跳ねながら、嬉しそうに大きく手を振って見送ってくれた。
「じゃあな、術師陣!羅生門の兄貴も、今回は色々とお世話かけましたでー!」
おとろしもまた、鳥居の上から大きな顔を揺らしながら、遠ざかる巨体に向けて大声で感謝の挨拶を響かせる。
「おう!」
暗闇の夜道から、羅生門の鬼が笑顔で大きく手を振り返す声が聞こえ、怪異達の賑やかな夜の階事件は幕を閉じた。
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神社を離れた後、豪快に歩く羅生門の鬼とは大通りに出たところですぐに別れの挨拶を交わし、一行は再び4人の術師へと戻った。
夜の静けさが満ちる京都の街路灯の下、呪術師と女性住職の二人は、長旅と実戦の興奮で少し疲れた様子を見せる才狐と綱江の二人を、最寄りのバス停まで優しく付き添うようにして送ってくれた。
しばらくベンチの横で雑談を交わしていると、夜の暗闇を引き裂くようにして、二人が乗るべき自宅方面行きの路線バスがプシューと大きな排気音を立てて停留所へと滑り込んで来る。
「呪術師さん、御住職さん、今日は兵庫へのおつかいから、先ほどの神社の件まで、本当に色々と有難う御座いました。凄く勉強になりました!」
「……有難う御座いました。また、色々と教えてください」
綱江は深く頭を下げ、才狐も最大のお礼をしてから別れを告げて頭を下げる。
大人の二人はそんな若者たちの成長を愛おしむように微笑み、バスの扉が開く中で優しく手を振り返してくれた。
二人は車内へと足早に乗り込み、窓際の座席へと並んで腰掛ける。
ガタゴトと音を立てて動き出したバスの窓から、綱江は小さく手を振り続け、才狐もその静かな瞳で、見送ってくれる偉大な先輩達をじっと見つめていた。
金曜日の長い一日の終わり、夜の京都を走るバスに揺られながら、少年と少女は自らの歩むべき呪術師としての未来へ向けて、静かに帰路についていくのであった。
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##夜の車内の誓いと、不意に揺れる心
ガタゴトと小気味よい音を立てて、夜の京都を走るバスの車内は、街路灯の光が規則正しく窓を過っていく。
綱江は座席に深く身を預けながら、手元でスマートフォンの画面を素早くタップする。
『遅くなったけど、今バスに乗って自宅へ向かっています』
両親へと手短なメッセージを送信し、無事に既読がついたのを見届けてから、彼女は端末を愛用の袈裟懸けバッグの奥へとそっと仕舞い込んだ。
バッグのチャックを閉める指先が、ほんの少しだけ高揚で震えている。
彼女の頭の中は、学校の終わりから始まった、兵庫への大掛かりなお使いと、先ほど無人神社で目撃した、あの凄まじい騒動の記憶で完全に満杯になっていた。
白鷺城の裏手で対峙した、あの圧倒的な霊圧を誇る大怪異・刑部姫の凄まじい威圧。
お菊井戸の底から這い上がってきた、あの有名な播州皿屋敷のお菊さんへと、あっさりと術の手紙を届けてみせたあの早業。
そして何より、夜の神域を汚した不届き者たちにブチギレて襲いかかってきた、あの巨大な顔の怪異・おとろしによる激しい怒りの波状攻撃。
常人なら見ただけで卒倒するような異形の狂気に対し、あの二人の達人は、まるで日常の些事であるかのように余裕の佇まいを崩さず、そのすべてを実にあっさりと解決してしまったのだ。
そればかりか、かつて平安の昔に都の夜を恐怖で支配し、大暴れしていたという伝説の存在である羅生門の鬼。
その大鬼ですら一目置いて、背中を預けて楽しげに笑い合っている二人の大人達の姿。
「……凄かった」
思い返すたびに胸の奥が熱くなり、綱江は窓の外の闇を見つめながら、ぽつりと声を漏らした。
その彼女の呟きに呼応するように、隣に座る少年が、いつも通りの静かなトーンで言葉を返す。
「ほんまに凄かった」
才狐のその声には何の感情の起伏も宿っていなかったが、その一言には、彼自身が抱く最大級の賛辞がしっかりと籠められていた。
「凄かったよね。特に、おとろしさんのあの激しいエネルギーの波状攻撃。あんなん普通やないよ。もし私があの場に一人で立ってたら、あんな猛攻は絶対に一人じゃ防ぎきれへんもん」
綱江が当時の戦慄を思い出すように自身の右腕を少しだけ抱きしめると、才狐は窓から視線をこちらへと移し、淡々と、しかし極めて冷静な自己分析を口にした。
「僕もや。僕の今の術力やったら、最初の一撃だけは何とか防げても、その後に続く連続の猛攻までは絶対に防ぎきれへんかった。それを、強力な術式や呪符をわざわざ使うことすら無く、呪術師さんは左手一本の素手で、御住職さんに至っては完全に何もせんと合掌してるだけで無効化してしまうんやから、いっつも驚かされてるよ」
才狐の口から漏れ出たその「いっつも」という言葉の響きに、綱江は座席の上で思わず勢いよく身体を跳ね上げ、大きく眼を見開く。
「え!?才狐君、もしかして、いっつもこんな規格外なことばかりしてるん!?」
驚きを隠せない様子の綱江に対し、才狐はやはりピクリとも表情を崩さないまま、細部を修正するように淡々と話した。
「いっつもって言うても、あの人達にお会いしたのはまだ数回やけどね。あの人達に会うたびに毎回、僕の常識を遥かに超えた手腕を見せられて驚かされてる、って言うのが正確かな。流石に毎日、こんな派手な事件に巻き込まれてるわけやないから」
「そ、そっか……毎日やないんやね。まあ、何にせよ、本当に凄かったわ。私なんて、ずっと実家の神社で厳しい修行を重ねてきたつもりやったけど、あの人達の領域には、まだまだ足元にも及ばへんなって、今日一日で改めて痛感させられたよ」
綱江は自身の未熟さを素直に認め、少しだけ悔しそうに、けれど前を向くように深く息を吐き出す。
すると、才狐はその感情の読めない真顔のまま、綱江の瞳を真っ直ぐに見つめ返して言葉を紡いだ。
「僕もや。お互い、もっともっと精進せんとね」
少年のその吸い込まれそうなほどに真っ直ぐで綺麗な瞳に、至近距離から至極真面目に見つめられた瞬間、綱江の胸の奥がドクン、と大きな音を立てて激しく脈打つ。
「――っ」
突然湧き上がった自覚のないドキッとする胸の高鳴りに襲われ、彼女は恥ずかしさと動揺を誤魔化すように、う、うんと吃りながら、とっさにふいっと顔を反対側の窓ガラスの方へと逸らしてしまう。
「う、うん、そやね。お互いにしっかりやっていこね……」
あまりにも急に視線を外した綱江の不可解な行動を、才狐は不思議そうに瞬きを一つして見つめるだけだった。
「……術の道は、本当に果てしないね。でも、焦っても仕方ないし、一歩一歩、着実に地に足つけて歩んでいかんとね」
綱江は、自分の急激な顔の火照りを冷たい窓ガラスの感触で誤魔化すようにして、まるで自らに言い聞かせるように小さく呟く。
「うん」
その少女の隠された動揺を秘めた深い言葉に対し、才狐はいつもの通り、生真面目で嘘のない声で静かに応じた。
ガタゴトと揺れる夜のバスの車内、互いの未熟さを知った二人の若い術師は、並んで座りながら、それぞれの胸に新しき精進の誓いを深く刻み込んでいくのであった。
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##団らんの揚げ出汁豆腐、と不意に過る少年の瞳
夜の静寂が満ちる京都の街を進むバスが、プシューと大きな排気音を立てて、綱江の降りる最寄りの停留所へと滑り込んで停車する。
少女は座席から立ち上がると、お互いに短い別れの言葉を告げ、才狐を車内に残したまま綱江はバスを降りた。
停留所から夜道を一人、徒歩で自宅へと向かい、我が家の玄関の扉を静かに開けた。
彼女は「ふぅ」と安堵の息を吐きながら、脱いだ靴を玄関の隅へと綺麗に揃えてから、トントンと小気味よい足取りで廊下を上がって家に上がって行く。
すると、廊下の奥にある台所から、温かい料理の匂いと共に母親がひょっこりと顔を覗かせた。
「お帰り、綱江。ずいぶんと遅かったやんか」
母親はそう言うと、何かすべてを見透かしているかのような意地悪くも温かい笑みを浮かべ、両目を細めてニヤニヤとし始めた。
綱江のその整った美貌は母親譲りであり、母親自身も近所で評判になるほどの非常に若々しい美人。
耳のあたりできれいに切り揃えられたショートカットのサラサラな黒髪が実に見事で、普段はバリバリと仕事をこなすキャリアウーマンとしても周囲から一目置かれる存在であった。
「ただいま……。なんなん、帰ってくるなりその怪しい顔は」
綱江は母親のあからさまな態度に対し、唇を尖らせながらジト目を向ける。
「別に~?何も言うてへんやんか。ほら、丁度晩御飯が出来たところやから、はよ手を洗ってうがいしてきといで」
母親は楽しそうにクスクスと笑いながら、再び台所の奥へと引っ込んでいった。
綱江はどこか釈然としない気持ちを抱えながらも、洗面所でガラガラと丁寧にうがいをし、冷たい水で手を洗ってから台所へとやって来る。
食卓には、厳格ながらも優しい顔立ちをした父親が既にどっしりと座っており、娘の姿を見て小さく目を細めた。
「お父さん、ただいま」
「おう、お帰り。お疲れさんやったな」
短い挨拶を交わして綱江が自席に着くと、家族3人で綺麗に手を合わせ、声を揃えて「頂きます」をして待望の食事が始まる。
今夜のメニューは、ふっくらと炊き上げられた素朴な麦飯に、お出汁がジュワッと染み込んだ出来立ての揚げ出汁豆腐、そして香ばしい味噌汁という、まさに神職の家系にふさわしい典型的な和食であった。
「美味しい……!今日は外でたくさん動いたから、お出汁の優しさが五臓六腑に染み渡るわ」
「そうか、そりゃあ良かった。しっかり食べよし」
昼間の怪異達との激しい応酬を忘れさせるような、非常に温かい家族団らんの時間が流れ、綱江は器をカチャカチャと鳴らしながら美味しく料理を平らげていく。
そうして食事が終わると、綱江は自ら立ち上がってシンクで手際よく洗い物を済ませ、その後はリビングのテーブルを囲んで食後の穏やかなティータイムへと移った。
淹れたての珈琲を静かにすすりながら、母親は再びその瞳に悪戯っぽい光を宿してニヤニヤと笑いかける。
「それにしても綱江。折角の華金に、わざわざ遠くの姫路城までデートしに行ったんやから、向こうで美味しい晩御飯でも一緒に食べて帰って来たら良かったのにねえ」
「だから、デートちゃうし!なんで御狐神社の怪異のみんなも、クラスの子らも、お父さんもお母さんも、みんな揃いも揃って才狐君と私をデートさせたがるんよ!?」
綱江は珈琲を吹き出しそうになりながら、顔を一瞬にして真っ赤に染め上げて抗議の声を上げる。
そんな娘の必死な弁明をどこ吹く風と受け流し、母親はさらにニヤニヤとした笑みを深くした。
「だってねえ、お父さん。今まで、やれ神社のお手伝いやとか、鬼退治の技の修行やとか、そんな男勝りなことばっかり言うてた我が子が、やっと年頃の可愛い乙女になって、男の子の名前を口にするようになったんやもん。親としては冷やかしたくもなるわよ」
その言葉を聞いていた父親も、珈琲カップを静かに置きながら、大真面目な顔をして口元を緩めて笑った。
「その狐宮才狐君って子、お父さんも一度しっかりと話がしてみたい。今度、こちらの家と神社の方にでも連れておいで」
「……そんな簡単に言うけどなあ……まあ、そのうちね」
両親からのあまりにも容赦のない集中砲火を受け、綱江は反論する気力も奪われたように、ぷくーっと両頬を大きく膨らませて俯いてしまう。
しかし、母親の恋愛遍歴への興味はこれだけでは収まらなかった。
「ほんでほんで?綱江は、その才狐君の事、具体的にどこに惚れたん?男らしいところ?それとも顔?」
「それ、お父さんも気になるな。そんで、その才狐君という彼氏は、うちの綱江のどこに惚れたんや?」
父親まで一緒になって身を乗り出し、興味津々といった様子で娘の顔を覗き込んできた。
「そやから、まだ彼氏彼女の特別な仲やないって言うてるやんか!本当にただの、一緒に学ぶクラスメイトやし!」
綱江はさらに顔を真っ赤にして頬を膨らませ、座布団の上で地団駄を踏むようにして全力で否定してみせた。
そうして両親から散々にせっつかれ、賑やかな笑い声に包まれながらも、綱江の胸の奥には、先ほどバスの車内で至近距離から見つめ合ってきたあの瞬間の光景が、鮮明に蘇っていた。
(……クラスメイト、とは言うたものの。実際のところ、才狐君は私のことを……一体、どう思ってるんやろ?)
いつも感情を表に出さず、氷のように冷徹な無表情を貫いている風体。
けれど、時折見せる術師としてのどこまでも真っ直ぐで綺麗な瞳。
あの底の知れない少年が、自分という存在をどのように認識し、どのような眼で見つめているのか。
両親のからかいの言葉の裏側で、綱江は自らの胸の奥がトクトクと甘酸っぱく疼くのを感じながら、まだ見ぬ彼の本心が、どうしようもなく気になって仕方がなくなっていくのであった。
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##静寂の御狐神社、そして大天狐の労い
一方、綱江を乗せたバスを見送った後、夜の静寂が深く満ちる御狐神社へと戻って来た才狐は、厳かな空気を纏う鳥居の前でピタリと足を止めた。
幽世との境界たる鳥居に向かって、まずは深く一礼を捧げ、神域への敬意を示す。
それから神の通り道である正中を避け、静かに参道を歩いて本殿の前へと進み出ると、端正な所作で二礼に拍手一礼を厳かに執り行った。
夜の境内に清らかな破魔の音が響き渡り、神職としての挨拶を済ませた才狐は、そのまま境内に隣接する宮司用の自宅の建物へと足を進めた。
ガラガラと静かに玄関の引き戸を開けて中に入ると、洗面所で丁寧に手を洗い、ガラガラと喉を鳴らしてうがいをしてから、静まり返った台所へと向かう。
しかし、いつもなら温かい気配で迎えてくれるはずの妖古は、まだ自宅には帰って来ていなかった。
才狐が台所のテーブルに目を向けると、そこには一枚の白い紙切れがぽつんと置かれている。
近寄って手にとってみると、そこには『晩飯は他のもんと会食してるから、一人で食いよし』と、いかにも自由奔放な大天狐らしい、流麗で力強い筆跡で書き置きが残されていた。
才狐はそれを見ても特に寂しさを覚える風もなく、冷蔵庫から手早く用意できる簡素な夕食を静かに準備し、一人で黙々と箸を動かして平らげる。
食後の器をカチャカチャと手際よく洗って片付けると、浴室へと向かい、一日の旅路の疲れを洗い流すようにザァザァと温かいシャワーを浴びてから、すっきりとした心地で自室へと戻った。
部屋の電気を点け、机に向かって教科書とノートを広げると、夜の静けさの中でしばらくの間、集中して静かに学校の勉強を進めていく。
しばらくの間、静かにペンを動かす音だけが部屋に響いていたが、突如として玄関の方からガラガラと激しく引き戸が開く音が建物内に木霊した。
才狐はペンを置いて椅子から立ち上がると、師匠の帰宅を察して、すぐに廊下を通って玄関へと出迎えに向かう。
そこには、夜の会食を大いに楽しんできたのであろう、非常に御機嫌な笑顔を浮かべた妖古が、上質な着物の袖を翻しながら家に上がって来たところであった。
「お帰りなさい」
才狐はその場できちんと背筋を伸ばし、丁寧にお辞儀をして迎える。
「おう、戻ったぞ、ただいまじゃ。ほんで、兵庫までのおつかい、本当に御苦労さんじゃったのう」
妖古は愛おしそうに細めた瞳に温かい光を宿して微笑むと、上がってきてすぐに才狐のさらりとした黒髪を、その手のひらで優しく撫で回した。
「はい、無事に刑部姫さんと、お菊さんに胡瓜を届けました。その際は、呪術師さんと御住職さんに御手伝い頂きました。途中で不届きな人が神社を荒らすというトラブルもありました。それと、御住職のお寺で、温かいお茶と羅生門さんの羊羹も御馳走になりました」
才狐は頭を撫でられるがままになりながら、今日一日の旅路の報告を、いつも通りの抑揚のない無表情のまま淡々と妖古へと伝える。
「ふふふ、そのようじゃの。先ほどな、律義に呪術師殿から事細かに状況が書かれた伝令符をもろてな、大体の流れは把握しておるわい。どうじゃ、今日もあの御仁らの戦わずして場を収める在り方を間近で見て、ええ見取り稽古が出来たじゃろ」
妖古はすべてを見通しているかのように、鈴を転がすような声でコロコロと愉快そうに笑う。
「はい。呪術師さんも御住職さんも、術を一切使うことなく、言葉と佇まいだけで、大怪異を宥めて不届き者を諭していらっしゃり、綱江さんも僕も、あの人達の凄さに驚きの連続でした」
才狐が感情の読めない瞳のまま生真面目に報告を終えると、妖古はさらに満足そうにその口元を大きく広げて笑った。
「カカカッ!術の基本が攻撃一辺倒やった綱江にとっては、あの二人の戦わずして全てを円満に収める高度な術理と在り方は、少々刺激が強すぎたじゃろな。まあ、毛色の違う本物の達人の技を肌で感じるのも、これから己を養う良い勉強や思うとけばええわい。ほな、もう夜も随分と遅いから、今夜はしっかり寝よし。明日は土曜日で学校は休みじゃろうが、無駄な夜更かしは感心せんからのう」
妖古はそう言って優しく才狐の肩を叩くと、満足そうに身を翻し、自分が使っている奥の部屋へと引っ込んで行った。
「はい、おやすみなさい」
才狐は静かにその背中を見送ってから自室へと戻り、机の前で気持ちを切り替え、もう少しだけ勉強の続きをこなしてから、この日は静かに就寝した。




