第31話後編:渡辺綱江のクラスメイトと食べるほっこり飯
## 誠意の御土産と御狐神社の朝
爽やかな朝風が、御狐神社の木々を優しく揺らしている。
土曜日という世間の休日であっても、才狐の身に刻まれた規律が変わることはない。
まだ街が眠りの中に微睡んでいる早朝、彼は静かに起床し、身の回りを整えると同時に竹箒を手に取った。
サッ、サッ、という乾いた音が境内に響き、石畳の上に散った僅かな落葉が一点に集められていく。
掃除を終えた後は、冷たい水で手を清め、神域を護るための日課である儀式と祈祷を滞りなく済ませる。
それが終わってようやく、彼は自分たちのための朝食の準備に取り掛かるため、台所へと向かった。
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キッチンでは、パチパチという軽快な音が響き、目玉焼きの香ばしい味が漂い始める。
昨日、ダークエルフから譲り受けたあのパンがあるため、今朝は彩り豊かな生野菜のサラダと目玉焼きを用意するだけで、食卓は驚くほど華やいだ。
「あんなに忙しい中で、僕の朝食のことまで気にかけてくれはるなんて。本当に、感謝せんと」
才狐が心の中で改めてダークエルフの気遣いに頭を下げていると、寝起きの少し崩れた着物を纏った妖古が、鼻をヒクヒクさせながら台所へ姿を現した。
「妖古さん、お早う御座います」
「お早うさん。……ほう、今朝は一段とええ香りがしとるの。朝から食欲をそそるわい」
妖古は御機嫌な笑顔を見せ、食卓の椅子にどっかりと腰を下ろした。
二人はいつものように姿勢を正し、食前の言葉を静かに唱えてから、声を揃えて「頂きます」と手を合わせた。
ダークエルフから贈られたパンは、一晩経っても驚くほどしっとりと柔らかく、サラダのシャキシャキとした食感が眠っていた身体を心地よく覚醒させていく。
朝食を綺麗に平らげ、手際よく片付けを終えた才狐は、食後のお茶を淹れて妖古の前へと差し出した。
ズズッ、と妖古が安らぎの溜息と共に茶を啜ったその時、才狐のポケットの中でスマートフォンが短く震えた。
「なんじゃ、朝から。他所の神社から、またややこしい助っ人の要請でも来たんか? 何はともあれ、確認しよし」
「はい……あ」
妖古に促されるまま画面を確認した才狐の手が止まる。
そこには、昨夜連絡先を交換したばかりの、渡辺綱江からのメッセージが表示されていた。
「渡辺さん……。クラスメイトの、女の子からです」
「渡辺? ほう……昨日一緒に飯を食うておった時に、羅生門殿が言うてたあの『御転婆娘』のことか」
妖古は茶柱を期待するように湯呑みを覗き込みながら、ニヤニヤと楽しげに目を細めた。
「はい、その子です。……それと、もう彼女は御転婆やなくなりました」
才狐は無表情のまま、一切の躊躇なく即答した。
そのあまりに真面目な擁護に、妖古は「ほうかほうか。そりゃあ結構なこっちゃ」と愉快そうに喉を鳴らす。
「ほんで、そのお嬢ちゃんが、朝から何用じゃて?」
「昨日、気狐さんと唐笠さんに対しての非礼をお詫びしたいから、場を取り持ってくれないか、という要請です。彼女なりに一晩考えて、誠意を見せたいのだと思います」
才狐が淡々と報告すると、妖古は「ほうほう」と感心したように何度か頷いた。
「それは律儀なこっちゃ。己の過ちを認め、頭を下げに来るというのは、口で言うほど容易いことやないからの。よっしゃ、気に入ったわい。ほな、気狐も唐笠も、羅生門殿もこの神社に呼んだるさかい、ぬしはそのお嬢ちゃんに、この神社の場所を教えたりや」
妖古はそう言うと、コロコロと上機嫌な声を上げて笑った。
「それとな、才狐。手ぶらで来させるのもなんじゃから、土産のアドバイスもしたりよし。気狐には、ええところの油揚げ。唐笠には、小豆の味がしっかりした和菓子。それと、竹串に刺さった花見団子なんかがあれば最高じゃな。羅生門殿は大福がええかいのう。あやつら、甘いもんには目がないからの。我も、一体どんな風に変わったお嬢ちゃんなんか、直接観てみたいから楽しみじゃて。カカカッ!」
豪快な笑い声が広間に響き渡る。
才狐はすぐに綱江へ返信し、地図データと共に御狐神社の場所と、妖古から提案された土産の品々を伝えた。
すると、待機していた事がわかる速度で「今すぐ行きます、有難う!」という、彼女の意気込みが伝わってくるような返信が届いた。
「すぐに向かうそうです」
「よっしゃ。ほな、我も少し支度を整えて待つとしようかの」
才狐は静かに頷き、新しく茶葉を入れ替える準備を始めた。
間もなくこの静かな境内に訪れるであろう、かつての「御転婆娘」と怪異たちの再会。
その仲介役として、才狐は温かいお茶を用意しながら、静かにその時を待つことにした。
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## 境内に集う縁、和解の始まり
朝霧が晴れ、陽光が朱塗りの柱を鮮やかに照らし出す頃。
才狐は身を清め、神職としての正装である宮司の装束へと着替えた。
浅葱色の袴が風を孕んで小さく音を立て、凛とした空気を纏いながら本殿へと向かう。
そこには既に師匠である妖古が、本殿へ続く石段の中ほどに腰を下ろしており、頬杖を突きながら穏やかな笑みを浮かべていた。
まるでこれから始まる一幕を、特等席で見守る観客のような余裕に満ちた佇まいである。
そこへ、静かな境内に突如としてゴォォっという地鳴りのような音が響き、方輪車の牛車が滑るように現れた。
車輪の炎を巧みに制御しながら、慣れた様子で停車すると、運転席の窓がスッと開く。
「お早うさんどすー。皆さんはよから精が出ますなぁ♪」
窓越しに方輪車が笑顔で手を振ると同時に、客席の扉が重厚な音を立てて開いた。
中からは、陽光に透けるような白い尾を揺らした気狐が、ふよふよと宙を舞うように降り立ち、「おはようさんどすー」と挨拶して、そのまま妖古の元へと近づいていく。
続いて、一本足の唐笠お化けが、ぴょんっと器用な跳躍で下車した。
「お早うさんやで。今日はなんや、面白いことが始まるんやって?」
唐笠お化けが楽しげに言葉を発すると、方輪車は満足げに頷いた。
「お早う御座いますー。ほな、皆さんしっかりお話しなはれやー♪」
方輪車は朗らかに笑い、再び炎の軌跡を引いて颯爽と去っていく。
才狐はその背中に向けて「有難う御座います」と丁寧にお辞儀をして見送った。
すると。
「おう、揃うとるやんけ。お早うさん」
地響きのような、太くいかつい声が境内に轟いた。
鳥居を潜って現れたのは、軽く二メートルを超える筋骨隆々の巨漢、羅生門の鬼である。
昨夜と同じラフな格好で、朝の光を浴びたその姿は、歩くたびに大気が震えるほどの威圧感と、それを包み込む豪快な覇気に満ちていた。
才狐は歩み寄り、深く頭を下げる。
「お早う御座います、羅生門さん。昨日は突然のことで、仲裁までして頂きまして、本当に有難う御座いました」
「おう、お早うさん。礼なんてええよ。俺が勝手に野次馬根性出して首突っ込んだだけやからな、気にせんでええで」
羅生門の鬼はガハハと笑いながら、丸太のような腕を腰に当てた。
その時、境内の空気が凛と張り詰めた。
参道の向こうから、しっかりとした、迷いのない足取りで一人の美少女が近づいてくる。
ポニーテールを高く結い、揺らしながら歩くその姿は、昨日の女子高生としての制服姿ではなく、落ち着いた紺色の作務衣に身を包んでいた。
その腕には、大切そうに抱えられた大きな風呂敷包みがある。
渡辺綱江は、鳥居の前で一度立ち止まり、深く一礼をしてから足を踏み入れた。
彼女は神社の娘としての作法を完璧に守り、神の通り道である「正中」を決して踏むことなく、静かに、しかし力強く、本殿の前に集まる一同の元へと歩み寄ってきた。
皆の視線が集中する中、綱江は立ち止まり、背筋を伸ばして丁寧なお辞儀をした。
「お早う、渡辺さん。案内通りに来てくれて、有難う」
才狐がまず、友人として穏やかに挨拶を交わす。
「お早う、狐宮君。昨日はお世話になりました。そして、この場を用意してくれて有難う御座います。皆さん。お早う御座います」
綱江は緊張の面持ちを隠せなかったが、その瞳には逃げないという強い覚悟が宿っていた。
その真摯な様子を見て、妖古が石段から立ち上がり、優しく微笑んだ。
「お早うさん、よう来たのう。鬼切神社の娘っ子よ。待っておったぞ」
「お早うさん、昨日ぶりやな。殊勝な心がけやないか」
羅生門の鬼も、牙の覗く口元を緩めて彼女を迎える。
「お早うさんどす」
気狐がふわりと彼女の周りを一周し、唐笠お化けも「お早うさん」と、竹の骨を鳴らして短く返した。
こうして、御狐神社の朝日を浴びながら、昨日まで一触即発だった人間と怪異が、一つの目的のために顔を揃えた。
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## 響き合う誠意、そして「名前」を呼ぶ時
五月の柔らかな朝陽が、朱塗りの鳥居を鮮やかに照らし、御狐神社の境内に凛とした静寂を運んでいる。
その中心で、紺色の作務衣に身を包んだ渡辺綱江は、深く、誰の目にも明らかなほど真摯に腰を折り曲げた。
ふよふよと空中に浮かび、物珍しそうに彼女を見下ろす気狐と、一本足で器用に立ち、竹の骨をカサカサと鳴らす唐笠お化け。
二体の怪異の正面で、彼女は震える声を絞り出し、己の魂を剥き出しにするような言葉を紡いだ。
「御二方に対して、一方的に敵意を向け、大変無礼な事をしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。昨日の私は、自分の事しか考えていなくて、皆さんの事情も知ろうとせずに……。本当に、失礼致しました、ごめんなさい」
綱江の謝罪は、単なる形だけのものではなかった。
その深く垂れられた頭は、代々続く名門の誇りや、凝り固まった正義感を一度すべて捨て去った証でもあった。
静まり返った境内に、彼女の荒い呼吸の音と、木々の葉が擦れる音だけが響き、重苦しくも清々しい沈黙が支配する。
しばしの時を経て、気狐が「ふぅ」と小さく長い溜息をつき、その白い尾を揺らした。
「いきなり御札貼られた時は、ほんまに激しい電気が走ったかと思うて驚いたけど、こうして改めて向き合ってみると、本気で反省してはるみたいどすね。あんたのその真っ直ぐな瞳を見てると、確信しましたえ。そやから、ワタイもこれ以上意地を張らんときますえ」
気狐の言葉には棘が消え、どこか安堵したような、柔らか響きが混じっていた。
その横で、唐笠お化けもまた、腕組みをしながら一つ大きくぴょんっと飛び跳ねて、得心のいったように頷く。
「まあ、俺どんの件については、元々あの三人娘が、俺どんでサッカーみたいな真似をしよった事に端を発しよるさかいな。そりゃあ、怪異と言えど下手すりゃ怪我もしよるし、俺どんも堪忍袋の緒が切れたっちゅうもんや。ほんで、御嬢ちゃんがその現場に出くわして、正義感に燃えて自分の家の神社に匿って庇ったっちゅう話やろ。俺どんも頭に血ぃ上っとったし、それを止めよう思うて応戦したっちゅう事情も、今となってはわからんでもないわな」
怪異たちの寛大な言葉に、綱江は顔を上げることさえ躊躇われるほどの自責の念に駆られ、さらに深く頭を下げた。
「それでも、その……本当に申し訳なくて。事情も聞かんとやる気満々で、あんな無茶苦茶な事をしてしもて、神社までの道中は御札もバンバン投げ散らかしたし、自分の浅はかさが本当に恥ずかしいです。本当に、本当にすみませんでした」
綱江の再度の謝罪に対し、唐笠お化けは目玉を優しく細め、骨身を震わせてカラカラと笑った。
「あの三人娘も、御嬢ちゃんのように自分の過ちを認めて、ちゃんと反省しよったら、今回の事は俺どんもこれ以上蒸し返さずに水に流すでな。あんたのその誠意に免じて、もう遺恨は無しや」
気狐もまた、宙を舞いながら彼女の周りを優しく一周した。
「ワタイも、別に喧嘩したいわけやありまへんからねえ。昨日の敵は今日の友、っちゅうことで、ほな、これにて仲直りどす。もう顔を上げよし」
その温かな赦しの言葉に、綱江は潤んだ瞳を拭い、ようやく小さく微笑むことができた。
「……有難う御座います。本当に、有難う御座います。それで、こちらはお詫びの品です。狐宮君から教えてもろて、皆さんが好きそうなものを精一杯用意させて貰いました」
彼女は大切に抱えていた風呂敷包みを解き、隣に立つ才狐へと、壊れ物を扱うように丁重に手渡した。
「有難う。僕は妖古さんに智慧を貸して貰って、それをそのまま渡辺さんに伝えただけやねんけどね」
才狐は淡々と、しかしどこか誇らしげな様子で包みを受け取り、石段に座る妖古の前へと差し出した。
「上等な土産、おおきにな、御嬢ちゃん。そうや、これからは綱江と呼ばせて貰うでな。そやから、綱江よ。才狐の事も、これからは遠慮せんと名前で呼んでやりよし。そっちの方が距離も縮まるっちゅうもんじゃ」
妖古は鈴を転がすようにコロコロと愉快そうに笑いながら、才狐の方へと視線を向けた。
「それと、才狐よ。渡辺言うたら、あの有名な綱もやし、今の日本には渡辺姓は仰山いてるやろ。そやから綱江の事は名前で呼びよし。そやないと、どこの渡辺さんか、ようわからんからのう。カカカッ!」
豪快な笑い声を境内に響かせながら、妖古は慣れた手つきで風呂敷包みを開いた。
中には、香ばしい匂いを放つ特大の油揚げと厚揚げ、そして真っ白で粉を吹いた大福がぎっしりと並び、その横には淡い三色のコントラストが美しい花見団子が幾つも顔を出していた。
「ええとこの油揚げどす! ええチョイスしてはりますなあ、綱江はん! ほな、遠慮なく頂きますー♪ 妖古様が、ええ朝御飯に当たれるって仰ってた通りどすー♪」
気狐は歓喜の声を上げ、大好物の油揚げをむしゃむしゃと、耳をぴくぴくと動かしながら幸せそうに食べ始めた。
「おお、わかっとるやんけ、柏餅と花見団子! ここの店のやつは、皮がもっちりして餡が最高に美味いんや!」
唐笠お化けも負けじと大福を一つ丸ごと口に運び、満足げに竹の骨を鳴らして歓喜を表現する。
羅生門の鬼も、その巨大な手で繊細な大福をそっと摘み上げ、豪快に笑った。
「ええ大福やんけ。有難うなあ、綱江。俺もお呼ばれするで。甘いもんは朝の活力になるからな、ガハハ!」
「カカカッ! この厚揚げ、噛むたびに出汁が溢れるようで最高じゃの♪」
妖古も上品に厚揚げを楽しみ、境内に幸せな咀嚼音と、和やかな笑い声が響き渡る。
昨日までの殺伐とした空気はどこへやら、そこには種族を超えた奇妙で温かな「宴」の風景があった。
「有難う、渡辺さん。皆さん、本当に大喜びや。それで、僕もこれからは、綱江さんって呼んでええかな?」
才狐が、相変わらずの無表情ながらも、どこか期待を込めたような静かなトーンで問いかけた。
初めて下の名前で呼ばれた綱江は、心臓が跳ね上がるような衝撃を感じ、思わず視線を泳がせた。
「……っ。……うん、私も、その、才狐君って、呼ぶから。よろしくね」
綱江の頬は、三色の花見団子の桃色よりもさらに赤く染まり、伏せ目がちに応えるその姿からは、昨日までの気負いは完全に消え去っていた。
その甘酸っぱくも初々しいやり取りを、四体の怪異達は決して見逃さなかった。
油揚げを頬張る気狐も、団子を口にした唐笠お化けも、大福を飲み込んだ羅生門の鬼も、そして厚揚げを愛でる妖古も。
彼らは「おやおや~?」「ええ雰囲気やないか」「青春じゃのう」と、口々にニヤニヤとした笑みを浮かべ、それぞれの大好物を味わいながら、二人を温かく、そして少しだけ意地悪く見守っていた。
朝の清々しい光に包まれた御狐神社に、和解の喜びと、少年少女の新たな一歩を祝福する賑やかな空気が満ち溢れていった。
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## 豪傑の告白と、美しき鬼の素顔
才狐に名前を呼ばれ、心臓の鼓動が耳元まで響くような高鳴りを感じていた綱江は、火照った頬を隠すように、あわててその場にどっしりと鎮座する巨躯、羅生門の鬼へと向き直った。
視線を逸らす口実を探しながらも、彼女の胸の奥には、昨日から抱き続けていた純粋な疑問が渦巻いていた。
それは、代々「鬼切」の宿命を背負い、彼らのような存在を討つことを正義としてきた渡辺の家の者として、どうしても確かめておかねばならないことだった。
「あの、羅生門さん。一つ、聞いてもええでしょうか……。鬼の方々にとって、私や私の実家の神社は、本来なら不倶戴天の天敵のはずやと思うんです。それやのに、なんで昨日は私を助けてくれはったんですか? その……客観的に見ても、あの場では怪異である唐笠さんに加勢して、私を追い詰める方が、理に適ってたと思うんですけれど」
綱江は、自らの血筋が彼らに対して行ってきた歴史的な仕打ちを思い返し、申し訳なさと困惑が入り混じった複雑な表情で問いかけた。
その問いを聞いた羅生門の鬼は、岩を削り出すような太い指で大福を摘んだまま、天を仰いでガハハと豪快に笑った。
「別に天敵やなんて、俺はこれっぽっちも思うとらんよ。まあ、確かにそっちさんの家が、対鬼用のエグい呪術を連綿と伝えてるって意味じゃ、俺ら鬼の類からすれば相性は最悪かもしれんけどな。そやけど、それが殺し合う理由にはならへんやろ」
「そうなんですか……? でも、私はその……直系ではないにせよ渡辺の姓を持つ者ですし。そもそも、羅生門さんほどの大鬼は、人間そのものを恨んでいてもおかしくないと思っていました。今では才狐君と仲良くされてますけど、私が古い文献で読んだ限りでは、平安の昔、羅生門さんの腕は……」
綱江は言葉を濁したが、その視線は羅生門の鬼の逞しい右腕へと向けられていた。
名将・渡辺綱が、京都で羅生門の鬼の腕を斬り落としたという伝説。
それは彼女にとって、幼い頃から英雄譚として聞かされてきた話であり、同時に相手にとっては消えない屈辱の象徴であるはずだった。
羅生門の鬼は、自分の右腕をグッ、と握り込み、盛り上がる筋肉を見せつけるようにしてあっけらかんと笑い飛ばした。
「恨んでなんかおらんよ、そんな昔のこと。そりゃあな、当時は大事な腕を一本ごっそり持ってかれた訳やから、『うわ、やりよったなこいつ!』って、鼻息荒くしたこともあったで。今度会ったら、あの綱の野郎、絶対にしばき倒したるって、そればっかり考えてた時期もあったわなあ。……けど、今となってはな、『あいつ、なかなかやりよるやんけ。ええ度胸しとるわ』くらいにしか思うとらん。むしろ、あの時代を全力で駆け抜けたライバルみたいなもんや」
「そんな壮絶なことがあったのに……。赦せるものなんですか?」
綱江は、想像を絶する度量の広さに、ただただ眼を見開いて驚くしかなかった。
「持ってかれた腕は、その後しっかり化けて取り返して、この通り元通りやからな。それに、冷静に振り返ってみれば、あの時代の俺ら鬼の連中が、ちょっと調子に乗り過ぎて暴れ回っとったんが、そもそもの原因や。人間からすれば、平穏を乱す迷惑な存在やったやろうしな。そりゃあ、鬼に対してものごっつ強い源氏の武者とか、安倍晴明みたいな化け物じみた陰陽師が出てきよって、派手な喧嘩になるんもしゃーないわ。どっちが善でどっちが悪かって話やなくて……あ、いや、あれは俺の方が悪かったか。まあなんにせよ、単なる生存競争みたいなもんやったんやろうなあ。そやからむしろ、俺の方から勝手に襲っといて、そやのに俺が赦す赦さんを決めるっちゅうのも、人間側からすりゃ傲慢やと思うやろ?むしろあの時の件に関しては、赦す赦さんは人間側が決める事ちゃうかいな」
羅生門の鬼は思い出に浸るような、どこか穏やかな顔で語る。
すると、妖古が厚揚げを咀嚼して飲み込むと。
「ほんまになあ。あの時代、暴れまわっとったんは羅生門殿だけやなかったからのう。酒呑殿にしろ、茨木殿にしろ、どいつもこいつも血の気が多すぎて、都の夜を賑やかしとったわ。ほんま、なんであんなに無茶苦茶な事ばっかりしよったんじゃろな?」
妖古はそう言って、懐かしそうにコロコロと鈴を転がすように笑う。
「いや、それが今となっては、なんであんなに調子に乗ってしもてたんか、自分でもサッパリわからん。若気の至りっちゅうやつかなあ。ただ、今の俺が一つだけハッキリ言えるんは……もう二度と、あんな馬鹿げた大暴れはやらんって事や」
羅生門の鬼が、静かな決意を込めて言葉を紡ぐ。
「それは……やはり、長い時間をかけて人間と和解されたからですか? それとも、平和の尊さに気づかれたから……?」
綱江が物語の結末を期待するように尋ねると、羅生門の鬼は一瞬だけ表情を引き攣らせ、顔を背けるようにしてボソッと言った。
「いや、まあ、それもなくはないけどな……一番の理由は、女鬼ちゃんが怖いからや。あの子を本気で怒らせたら、腕どころか魂ごと消し飛ばされかねんからな。クワバラ、クワバラ」
羅生門の鬼は、その巨体に似合わず、心底恐ろしいものを思い出したかのように身震いして笑った。
「え……?」
綱江は、思わず素っ頓狂な声を上げて固まった。
昨日、摩訶不思議食堂で自分の悩みに寄り添い、優しく進むべき道を諭して導いてくれた、あの美少女な鬼ギャル。
明るくて、親しみやすくて、綱江の事をどこか放っておけないと優しく話してくれた「綺麗なお姉さん」だった彼女が、あの伝説の大鬼である羅生門の鬼を、ここまで震え上がらせるほど「怖い」存在……?
綱江は、記憶の中のキラキラした女鬼の笑顔と、今語られた「恐怖の対象」としての姿がどうしても結びつかず、混乱したまま首をかしげるしかなかった。
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## 伝説の裏側、そして最強の「シゴデキ」ギャル
爽やかな朝の陽光が、境内の新緑を鮮やかに透かしている。
和解の印として綱江が持参した油揚げや大福を囲みながら、かつて「敵」として刃を向け合った人間と怪異が、今は同じお茶の香りを共有していた。
綱江は、大福を美味しそうに頬張る羅生門の鬼の巨大な姿を見つめながら、昨夜から抱いていた疑問を口にした。
「あの、女鬼さんって、私には凄く優しい方にしか見えませんでした。昨日は確かに、自分でも薄々気づいていた痛いところをズバッと突かれましたけど、でも、そのおかげでこうして皆さんと仲直りするきっかけを頂けたんですから。あんなに親身になって導いてくれる人が、そんなに怖いなんて信じられへんのですけど」
綱江は、昨夜の食堂での出来事を反芻しながら、素直な心境を吐露した。
彼女にとって、金髪の鬼ギャルは、迷える自分を正しい道へと誘ってくれた「恩人」ならぬ、言うなれば「恩鬼」であり、憧れのお姉さんのような存在だったからだ。
「……そうやで、女鬼ちゃんはな、ごっつ優しくて、めっちゃええ子や。それに、何でもテキパキこなすし、めっちゃ仕事が出来る、所謂『シゴデキ』な子やで。あんなに頼りになる子は、現世と幽世広しと言えども他におらんやろ。……でもな、怒ったら、マジで、めっちゃくちゃ怖いんや。あん時は俺、本能的に『あ、これ死んだな』って、マジでヤバイって思うたもんなあ」
羅生門の鬼は、当時の戦慄を思い出したのか、ごつい指先でポリポリと頭をかき、困ったように笑った。
「一体、何があったんですか?」
綱江が身を乗り出すようにして尋ねると、その場にいた気狐や唐笠お化けまでもが、ゴクリと唾を呑んで興味津々に耳を傾ける。
「源氏のとこの綱に腕を持ってかれてな、そっから命懸けで取り返してから『よし、これでリベンジや!いっちょ2回戦おっぱじめたろうか!』って血気盛んに思っとった時なんよ。そしたら、女鬼ちゃんがどこからともなく俺んとこにやって来てなあ……」
羅生門の鬼は、苦い思い出を噛み締めるように顔を顰める。
「『羅生門さん、やり過ぎ。そんなに元気が有り余ってんならさー、あーしの山積みになっちゃった事務仕事、文句言わずに手伝ってくれるよね?なんで山積みなんか、わかってるよね?』……って、めっちゃくちゃ可愛い、弾けるような笑顔で言われたんや。でもな、額にはめっちゃくちゃ青筋が立っとって、あの綺麗な金色の眼が、奥の方でギラリと冷たく光っとってん。その顔を見た途端、全身の毛が逆立ってな。『あ、これ、俺がここで断ったら、秒で消される』って、魂の底から本気でビビってもうたんよ」
ガハハと豪快に笑い飛ばしてはいるが、その瞳には当時の恐怖が僅かに滲んでいた。
「カカカッ!あの温厚な女鬼ちゃんをそこまで怒らせるとか、よっぽどの事やがな。 羅生門殿も、当時は相当な暴れん坊じゃったからのう」
妖古は、当時の羅生門の鬼の狼狽ぶりを思い出し、喉を鳴らしてコロコロと愉快そうに笑った。
「いや、笑い事やないって、ほんまに。あの顔で至近距離まで迫られてみ? もしあの時『嫌や』なんて断ってたら、多分ひっぱたかれただけで、俺の肉体は消滅して、形も残ってなかったやろうな。あの子の拳は、次元を割るからなあ」
「女鬼さんって……そんなに、そこまでお強いんですか?」
綱江は、華奢にしか見えなかった女鬼の姿を思い浮かべ、驚きを隠せない。
「強いなんてもんやないで。俺と妖古殿が、死ぬ気でタッグを組んで本気でかかったとしても、多分3秒も持たんと沈められるぞ。えらいこっちゃんは女鬼ちゃんの事を『閻魔大王も地獄極楽のお偉いさん達も、みんな揃って頭が上がらん、細マッチョで喧嘩の強さも地獄極楽一の超エリート鬼で、超絶シゴデキな鬼のギャル美少女』って言うてるけど……ほんま、これでも物足りんくらいの評価やな。あの子は、理そのものや」
羅生門の鬼は、大福の粉を払いながら、畏怖を込めて断言した。
「そんだけ凄い子やって、誰もが骨身に染みてわかっとるはずやのに、あの時代の鬼達は、ほんまに分別なく暴れてはったもんじゃのう。ほんで、あんまりにもやり過ぎて、最終的に女鬼ちゃんが直々に『いい加減にしなよー?』って注意しに行って、それでやっと世の中が落ち着いて。我は遠くから高みの見物をして『あ~あ、何してはるんや。怒られるに決まっとるやん』って、腹抱えて笑うとったよ」
妖古は当時の「鬼の討伐」の裏側を、まるで近所の子供の喧嘩を見守る大人のような口調で語った。
「いや、今となっては面目ないし、情けない話やで。俺らが無意味に暴れたせいで、女鬼ちゃんの仕事を無駄に増やしてしもたからな。こっぴどく御叱り喰らうんは、自業自得でしかなかったわ。そやから、暫くは大人しゅう、反省の意を込めて山のような事務仕事を手伝ったよ、俺。筆持つんも一苦労やったけどな!」
羅生門の鬼は、巨体を揺らして豪快に笑った。
平安の昔に都を震撼させたという、あの恐怖の伝説。
歴史の裏側で繰り広げられていたのは、人間が記録した壮絶な「討伐劇」などではなく、まるで娑婆の企業社会や、学校のやんちゃな子が派手にやらかして、上司や先生に正座で叱られるような、そんな身近で、それでいて凄まじいスケールの、あまりに人間臭い「お説教」の光景だったのだ。
それを懐かしそうに語る怪異たちの姿を見て、綱江は開いた口が塞がらず、ただただ仰天するしかなかった。
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## 綴られぬ歴史と、若人への餞別
朝日が石畳を白く染め、境内の静寂を塗り替えていく。
小豆の甘みと油揚げの香ばしさが漂う和やかな空気の中で、才狐は自分の前に置かれた湯呑みをじっと見つめていた。
「……そんな事があったんですね。歴史の教科書には絶対に乗ってへん、教科書をただ読むだけやと、どれだけ想像力を働かせても知る事が出来ひん歴史が、こうして今も息づいてるんや」
才狐の言葉には、事実を淡々と受け止める彼らしい冷静さと、その奥に潜む知的好奇心が静かに混ざり合っていた。
綱江もまた、手に持った花見団子を一口咀嚼し、深く感じ入ったように何度も頷いた。
「ほんまに……。部屋に閉じこもって、机にかじりついて古文書や教科書と睨めっこしてるだけやと、一生知る事がない世界やね。昨日までの私がどれだけ狭い世界で生きてたか、今になって思い知らされるわ」
彼女の瞳からは、かつての刺々しさが消え、代わりに未知の世界に対する畏敬と、新しく開かれた視野に対する喜びが滲み出ている。
そんな若者二人の様子を、羅生門の鬼は酒でも飲むかのように豪快にお茶を飲み干し、口元を拭ってから優しく微笑んだ。
「そやからこそ、色々な世界を観に行ってみいや、若いの。机の上の知識も大事やが、自分の足で歩いて、自分の眼で確かめた事が本当の『力』になる。そうすりゃ、君らの可能性も無限に広がっていくさかいな」
その言葉には、平安から現代までを生き抜いてきた大鬼ならではの、重みと説得力が宿っていた。
「自分だけが知っとる世界に閉じこもっとると、何が正しくて何が間違いか、そんな大事な事にさえ気づけんようになってしまうでの」
妖古は厚揚げを一口食べ終え、慈しむような眼差しで才狐の横顔を眺める。
「もっとも、儂はこの5年もの間、才狐をこの境内に引きこもり気味にしてしもうとったからな。そこは儂の反省点やと思うとるよ。もう少し外の風を吸わせてやるべきじゃった」
師匠としての自省を口にする妖古の言葉は、朝露のように澄んでいて温かかった。
「僕が望んだ事ですから。お蔭様で、こうして術も身につきましたし。後悔なんて、一度もした事ありません」
才狐はいつもの無表情のまま即答したが、その声には師匠に対する絶対的な信頼と感謝が籠もっていた。
「まあ、確かにぬし自身が望んで籠った事ではあったけどな。それでも、色々な事情があったとはいえ、もっと早うにこうして、御近所付き合いや友達付き合いをしても良かったかもしれんと、思う事もあるでな」
妖古は優しく微笑み、才狐の肩を軽く叩いた。
羅生門の鬼は、巨体を揺らしてガハハと笑い声を境内に響かせた。
「過ぎた事はしゃーないがな! 終わったことを悔やむより、これからどうするかや。才狐も綱江も、まだ青い春真っ盛りの高校生やないか。これから、これからや! しっかり学んで、しっかり転んで、そのたびに泥臭く起き上がってを繰り返して、中身の詰まった大きい大人になりゃええ!」
その励ましは、鋼のような強さと、春の陽だまりのような優しさを同時に湛えていた。
「左様どす。今のうちに、仰山失敗して、仰山世界を見て回ったら宜しゅうおす。怪異も人間も、案外似たようなもんやと気づくこともあるやもしれまへんよ」
気狐は満足げに油揚げを平らげ、空中で優雅に尾を揺らして笑う。
唐笠お化けもまた、竹の骨をカサリと鳴らし、器用に跳ねて言葉を添えた。
「全速力で走って、思いっきり転んで失敗出来るんは、若いもんだけの特権やでな。俺どんみたいな古い付喪神から見れば、その青臭さこそが何より眩しいもんや」
怪異たちの温かい、そして力強い言葉の数々に、才狐と綱江は顔を見合わせた。
二人は申し合わせたように背筋を正し、本殿の前に集まった賑やかで慈悲深い異形たちに向けて、深く、丁寧に頭を下げた。
「有難う御座います。……精進します」
「はい! 私も、もっと自分を磨いていきたいと思います。本当に、有難う御座います!」
朝の御狐神社。
かつては「敵」と呼んだ存在たちからの餞別のような言葉を受け取り、眩しい笑顔を見せる綱江。
こうして二人の若者は、新しい世界へと足を踏み出す勇気を、その胸に深く刻み込んでいた。
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## 刻まれた覚醒の代償と、怪異たちの優しき眼差し
綱江は深く頭を下げた姿勢からゆっくりと上体を起こし、集まった怪異たちの顔を一人ずつ見つめながら、凛とした声で自身の決意を告げた。
「皆さん、本当に、色々と有難う御座います。私の非礼に対し、このように仇を恩で返して頂く事になりまして、感謝の言葉もありません。家に帰ったら、お祖父ちゃんやお婆ちゃんとも、これからの呪術師としての在り方について、きちんと話をしてみます。昨日、女鬼さんにも、ただ古い伝統に縋るだけやなくて、時代にあわせてアップデートすべきところは、しっかりとアップデートしていく事が何より大切なんやと教えて貰いましたから」
その言葉には、頑なだった宿命の殻を自らの意志で打ち破った、新世代の術者としての確かな覚悟が満ち溢れていた。
それを聞いた羅生門の鬼は、牙を覗かせながら嬉しそうに口元を歪め、自身の大きな手のひらをごそごそと動かす。
「おう、そりゃあ素晴らしい心がけやんけ! アップデートっちゅうのは本当に大事やからな。現に、俺ら怪異の類かて、人間たちの文明の進化をただ指を咥えて見てたわけやない。時代にあわせた適応っちゅうやつを、ちゃんと裏でコツコツとやってきとるからな。ほれ、見てみいや」
そう言って巨漢の大鬼が誇らしげに差し出してきたのは、最新型のスマートフォンであった。
その無骨な指先が器用に画面をタップする様子は、あまりにも現世に馴染みすぎていて、綱江は思わず目を丸くする。
妖古は温かいお茶を喉に流し込みながら、喉を鳴らしてコロコロと愉快そうに笑い声を響かせた。
「カカカッ! 綱江も才狐も、昨日、方輪車ちゃんの牛車に乗って摩訶不思議食堂へ行って、最先端の決済システムをその身で体験したばかりじゃろ。我らがただ古びた山奥で燻っておるわけではなく、現世の流行りにあわせて適応しとる事は、あの電子音を聞けば一発でわかるんとちゃうかいな」
「ふふ、確かにそうですね。皆さん、驚くほど自然にQRコードを使いこなしてはりますもんね。私の想像していた怪異の世界とは、本当に大違いです」
綱江は張り詰めていた肩の力を完全に抜き、心からの笑顔を浮かべて返した。
才狐も湯呑みを静かに置き、いつも通りの淡々としたトーンながらも、どこか誇らしげに言葉を添える。
「妖古さんは、電子機器の操作も普通に使いこなしてはりますもんね。僕が教えるまでもなく、今では僕より現世のアプリに詳しそうなくらいです」
「おいおい、師匠をそないに褒めんでええんじゃて」
妖古が照れ隠しするように目を細めると、大福を貪っていた唐笠お化けが、竹の骨をカサカサと鳴らしながら、一本足で器用に跳ねて語りかけてきた。
「古き良き伝統や、自分たちの根幹にある魂を守るんも当然大事やけどな。その芯の部分を護りながら、変えてもええ部分、あるいは時代のために変えなあかん部分は柔軟に変えながら、進化していきゃええがな。まあ、俺どんはこの職人技の詰まった和紙と竹の素材を、どこまでも貫くつもりやけどな! これが俺どんのアイデンティティや!」
唐笠お化けが布をパタパタと羽ばたかせて笑うと、気狐もまた、白い尾を優雅に揺らしながら、コンコンと狐らしい可愛い鳴き声を真似て笑った。
「変わらん良さもあれば、変わる良さもあるっちゅう事どすなあ。時代の波に上手に乗るんも、これまた智慧っちゅうもんどす」
「はい。本当に、勉強になります」
綱江は優しく微笑み、深く頷いた。
こうして、かつては恐怖と討伐の対象でしかなかった怪異たちと、綱江は心の底から真に和解し、京都の夜と昼を生きる彼らの輪の中へ、自然と打ち解けていった。
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満足げに厚揚げを食べ終えた妖古は、悪戯っぽい光をその瞳に宿し、才狐と綱江の顔を交互に見つめた。
「ほな、和解の宴も一段落したところで、才狐よ。ぬしがこれから、綱江を送ってやりよし。なんやったら、そのまま二人で現世の街に繰り出して、デートでもしてこりゃええがな。カカカッ!」
「おう、そりゃあ最高にええやんけ! 才狐も綱江も、並んで歩けばイケメンと美少女で、誰が見てもお似合いの二人やからなあ。若いもんはそれくらい元気に青春を謳歌せなあかんで!」
羅生門の鬼も、太い太ももをパンッと豪快に叩きながら、腹の底から笑った。
「そ、そんなっ!? 滅相もないです! 私らは、まだそんな特別な仲やありませんから!」
綱江は一瞬にして顔を真っ赤に染め、両手をぶんぶんと激しく振って全力で否定した。
しかし、その必死な態度が、逆に年長者達のサディスティックな好奇心を刺激してしまう。
「ほうほう、『まだ』っちゅう事は、これから時間をかけてゆっくりと、そういう仲に進展していきよるかもしれんっちゅうことかのう。若者の『まだ』ほど、信用ならん言葉は無いのう」
妖古はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべた後、優しく微笑みながら言葉を重ねた。
「才狐は、本当にええ男じゃよ。きっとぬしの……綱江のその身に刻んだ代償のことも、これからの覚悟の証として、まるごと肯定してくれよるじゃろうて」
妖古のその優しくも核心を突いた微笑みを向けられた瞬間、綱江は息を呑んだ。
「っ!? ――あ」
思わず身体を大きく震わせ、その場で石のようにこわばる。
妖古は、彼女の動揺を包み込むように、どこまでも穏やかな声で続けた。
「その作務衣の下に着とる、長袖のインナー越しであってもな。儂や羅生門殿のような古い大怪異の眼には、よう視えとるでの。おそらく昨夜、摩訶不思議食堂で女鬼ちゃんにも、ばっちり観えとったじゃろうけどな。あの子は優しいギャルじゃから女心を慮って、あえてその場では触れんといてくれたんじゃろう。綱江の『それ』は、術師の過酷な道に、その足で踏み入れる覚悟を決めたもんの宿命じゃ。何も恥じることはない、胸を張りよし」
その言葉は、彼女の秘密を暴くためのものではなく、その傷の重みを知る者からの、最大の敬意であった。
羅生門の鬼も、綱江の緊張を和らげるように、大きな手を振ってあっけらかんと言葉を添えた。
「おう、安心せい、綱江! 俺に見えとるのは、その傷がどうしようもなく周囲に宿しとる、術力の気配の光だけやからな! 決して服が透けて中身が見えとるわけやないからな! ――って、おい、こんな事をご時世に大声で言うたら、現世の法律でセクハラっちゅうやつで訴えられるかもしれんか、ガハハ!」
「これ、羅生門殿。綱江に対してそんなデリカシーの無い事言わはったって、今度女鬼ちゃんにばっちりチクったろ。今からメッセージでも送ってみようかのう」
妖古がスマートフォンを掲げてカカカと笑うと、羅生門の鬼は途端に顔を青くした。
「ちょ、勘弁してえや、ほんま、やめてんか! あの子に知られたら、今度こそ俺の存在が抹消されてまうわ!」
二人の大怪異が豪快に笑い合う声が、境内に響き渡る。
その賑やかな笑い声の傍らで、綱江はそっと、自分の右腕へと手を伸ばした。
作務衣の袖の上から、服の下にある、かつて術師なる事、そして跡を継ぐ事を決めた時、代償としてその身に刻まれた、右腕の深い刃の傷の上を強く掴みしめる。
ギュッと布地が擦れる音が、彼女の耳にだけ届く。
そして同時に、彼女は己の背中に刻まれた、もう一つの大きな刃の傷の痛みを、静かに思い出していた。
それは、彼女が「鬼切の末裔」として、自分の人生を呪術の道へと捧げると決めた日に、文字通り血の滲むような過酷な儀式の末に背負った、消えない覚悟の烙印であった。
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## 刻まれた覚悟と、秘められた代償
作務衣の上から自らの右腕を愛おしむように、そして己に言い聞かせるように強く掴んだ綱江は、少しだけ視線を落として、過去の記憶をなぞるようにぽつりと言葉を零した。
「……中学の時の修学旅行とか、高校に入ってからの学校の学習合宿とか……。お風呂の時、どうしても同級生の女の子達に見られてしまう事があったんです。その時は、いつも『刃で傷がついてしまう事があって、その時の大怪我の跡なんよ』って、笑って誤魔化すようにしてたんやけど。やっぱり、本物のわかる方々には、一目で何のための傷か、わかってしまうんですね」
その言葉には、普通の女の子としての生活を守るために積み重ねてきた、彼女なりの苦労が滲み出ていた。
妖古は湯呑みをそっと本殿の階段に置き、まるで我が子の成長を愛おしむような、どこまでも慈悲深い笑顔を向ける。
「術者の道を歩むと決めた者、あるいは異能を縦横無尽に駆る者となる際に、最初に己の一部を代償として差し出し、逆凪対策をやるという儀式は、この世界を生きる術師であれば必ず通らねばならぬ道やからの。まだ肌も綺麗な女子の柔肌には、あまりにも過酷で、あまりにも重い代償じゃろうて。よう耐え抜いて、今日までその誇りを護ってきたものじゃな」
妖古のその言葉が呼び水となり、綱江の脳裏には、自らが呪術師としての第一歩を踏み出した、あの12歳の日の光景が鮮烈に蘇ってきた。
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当時、12歳だった綱江が、代々受け継がれてきた渡辺の家の宿命を継ぐと宣言した時、周囲の大人達の反応は冷ややかなものだった。
何よりも、術をその身に宿すために、身体に消えない傷を刻むという「過酷な代償」を支払わなければならないため、祖父母からは固く反対された。
「綱江の名前は、綱江を守る為にと言う意味を込めたんであって、闘わせるためやないんよ。先人の御加護がありますようにという願いを込めたんや。そりゃ家を継いでくれるんは嬉しいがな、これからの時代、女の子がそんな血生臭い道を歩む必要はない。教義とか伝承していく教えだけを受け継いでくれたらええんやで」と、祖父母は丁寧に諭してくれた。
さらに、宗教や呪術、目に見えない異能の類にほとんど興味の薄い両親からは、大切な我が子の身体を傷つけるなど言語道断だと激しく反対された。
それでも、自分の心の中に宿る「家の教えを受け継いで家を護りたい」「人を護りたい」という炎を消すことができなかった綱江は、家に代々伝わり、普段は厳重に保管されている御神刀としての短刀を自らの手で持ち出した。
正式な儀式を待たず、制止しようとする大人達の目の前で、剥き出しにした自分の右腕にその刃を本気で切りつけようとし、自らの退かぬ覚悟を示した。
少女の尋常ならざる気迫と眼差しに圧倒され、ここで無理矢理止めれば、本当に自らを傷つけかねないし、何度でも繰り返すだろうと察した大人達が、ようやく重い腰を上げ、首を縦に振って儀式を執り行うことを許してくれた。
そうして、あの薄暗い祭壇の前で、冷たい短刀の刃が自らの右腕と背中に深く刻み込まれた瞬間の、燃えるような痛みと、呪術師として生きるスタートを切ったあの日の熱い誓い。
今でもその傷に触れるたび、当時の記憶が昨日のことのように鮮明に蘇るのだった。
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そんな彼女の、言葉にせずとも伝ってくる、切なげで、しかし強固な過去の気配を、集まった四体の怪異達はどこまでも優しく、包み込むような眼差しで見つめている。
羅生門の鬼も、気狐も、唐笠お化けも、妖古も、彼女が背負ってきたものの重さを深く理解していた。
衣が擦れる音が聞こえそうなほどの静寂の中、才狐だけはいつもと変わらぬ無表情で、じっと綱江の様子を見つめている。
綱江はふと、隣に座る少年の横顔に視線を移し、自らの傷から手を離して問いかけた。
「才狐君も、私と同じ呪術師やんな……っていうことは、やっぱり才狐君も、その道を歩むために、何かしらの代償は差し出し済みってことやんね?」
その問いに対し、才狐は表情一つ変えず、瞬きを一つだけして静かに言葉を返した。
「うん」
ただそれだけを、短く応える。
その肯定の言葉を聞いた瞬間、綱江の胸の奥で、大きな好奇心と疑問が持ち上がった。
才狐君が差し出した代償は、一体何なのだろう。
自分のように、身体に刻まれた傷なのだろうか、それとも、もっと違う形のものなのだろうか。
「才狐君が差し出した代償……」
思わず、その先を言葉にして尋ねそうになった。
しかし、綱江は言葉を口にする直前で、咄嗟にそれを飲み込んで踏みとどまる。
代償とは、術者にとって自らの命の根幹に関わる、極めてデリケートで大事な秘密。
自分から自発的に話してくれるならともかく、いくら連絡先を交換した仲だからといって、むやみやたらと他人が踏み込んで尋ねるような事ではないと、彼女の直感が強く告げる。
そんな綱江の、喉元で言葉を飲み込んだ一連の様子を見て、妖古はすべてを見透かしたようにフフッと優しく微笑んだ。
「なんじゃ、随分と聞きたそうな顔をしとるようじゃのう、綱江よ。この才狐の事じゃ、ぬしから真っ直ぐに聞かれれば、取り繕うこともせず淡々と答えてくれるじゃろうが……。ふふ、本当にデリケートな部分に対するデリケシーがあるんじゃな、綱江は。そういう優しさは、大変好ましいものじゃて。まあ、恐らくは、わざわざ口に出して聞かずとも、薄々と何が代償なんかは、もう気づいておるかもしれんがのう」
妖古のその言葉に導かれるように、綱江は改めて、才狐の無機質な横顔をじっと見つめた。
才狐と出会ってから、まだそこまで長い時間を一緒に過ごしたわけではない。
けれど、彼女は気づいていた。
才狐は、出会ったあの瞬間から今まで、一度も笑ったことがない。
それどころか、ピンチの時も、美味しいものを食べた時も、怪異たちに囲まれている今この瞬間でさえ、ピクリとも表情が崩れない。
喜ぶことも、怒ることも、哀しむことも、楽しむことも、彼の顔からその感情が読み取れたことは一度としてなかった。
いつも淡々としていて、まるで精巧に作られた人形のように静かな少年。
(……もしかして、才狐君は……笑顔や、喜怒哀楽といった、人間としての内なる感情の表出そのものを、代償として差し出したんやろか……)
そう思い至った瞬間、綱江の胸が締め付けられるように痛んだ。
もしそれが事実なら、それを本人の口から引き出すのはあまりにも不躾であり、残酷なことのように思える。
綱江は、その推測を誰にも明かさず、ただ自分の胸の奥底に深く秘めておくことにして、そっと口をつぐんだ。
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## 世代を超える対話と、新しき風の足音
朝の柔らかな陽光が、境内の隅々まで照らし出していく。
もっちりとした大福や香ばしい油揚げを囲んだ賑やかな宴も、やがて穏やかな終わりの時間を迎えた。
綱江は立ち上がり、自らの頑なだった心を全否定することなく、真摯に導いてくれた四体の怪異たちへと、改めて向き直った。
その表情には、神社の跡取りとしての気負いは無く、一人の人間としての深い敬意が満ち溢れている。
「本当に、色々と有難う御座いました。皆さんから頂いたお言葉と優しさを、生涯忘れません」
紺色の作務衣の裾を端正に整え、彼女は4体の怪異たちに対して、腰を深く折り曲げて丁寧に挨拶をした。
それを見送る羅生門の鬼や妖古たちの顔には、一人の若き術師の誕生を祝福するような、どこまでも温かい微笑みが浮かんでいた。
綱江がゆっくりと鳥居を潜って御狐神社を後にすると、才狐もまた、静かな足取りでその隣へと並んだ。
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最寄りのバス停へと続く一本道は、爽やかな風が吹き抜けて、木漏れ日が二人を斑に染めていく。
言葉数は少なかったが、二人の間に流れる空気は、昨日までのぎこちなさが嘘のように、驚くほど自然で穏やかなものへと変わっていた。
やがて、遠くからエンジン音を響かせて、目的の路線バスが停留所へと滑り込んでくる。
プシューという排気音と共に前扉が開くと、綱江はステップに足をかける直前で、一度振り返って才狐の無機質な瞳を真っ直ぐに見つめた。
「狐宮君、今日はここまで送ってくれて、本当に有難う。……ほな、週明けに学校でね」
少しだけ照れくさそうに、けれど心からの親愛を込めて手を振る彼女に対し、才狐はいつも通り表情を崩さなかったが、その声には確かな温もりが籠もっていた。
「うん。僕の方こそ有難う。ほな、また学校で」
二人は短い別れの挨拶を交わし、綱江はバスの車内へと乗り込んでいく。
ガタゴトと音を立てて走り去っていくバスの窓から、綱江が小さく手を振り、才狐はそれが見えなくなるまで、淡々と、しかし静かに見送り続けていた。
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実家の神社へと戻った綱江は、すぐに着替えて、その日の午後は祖父母と共に助勤としての仕事を精力的にこなした。
お札やお守りの授与、境内の清掃、そして参拝客への丁寧な対応。
これまで何度もやってきたはずの巫女としての仕事だったが、今の彼女の目には、境内の静寂や自然の営みが、昨日までとは全く異なる深い意味を持って映り込んでいた。
テキパキと働く孫娘の姿を見て、祖父母もどこか頼もしげな視線を交わし合っている。
すべての仕事を終えて夜を迎えた頃、綱江は「今日のうちに、どうしても話しておきたい大事なことがある」と切り出し、この日も祖父母の家に寝泊まりする許可を正式に得た。
夕食の片付けを終えた後、母屋の奥にある静かな和室にて、長方形の座卓を挟んで三人が対面する形で座る。
部屋の隅に置かれた古い柱時計が、チクタクと規則正しい音を立てる中で、綱江は膝の上で拳を固く握りしめ、ゆっくりと話を始めた。
「御祖父ちゃん、御婆ちゃん。実は昨日と今日、私は、その……人間を害するものとばかり思っていた、怪異の方々と、親睦を深めました」
そのあまりにも唐突で、渡辺の家にとっては禁忌とも言える告白に、祖父母は一瞬だけ驚愕に目を見開いたが、綱江のそのあまりに真剣な眼差しに圧され、何も言わずに黙って話の続きを聞く姿勢を取ってくれた。
綱江は、自分の心の中に起きた激しい葛藤と、そのすべてを洗いざらい正直に打ち明けていく。
稲荷神社で気狐と呼ばれる可愛らしい怪異に、事情も聞かずに問答無用で御札を貼り付けてしまって激しく喧嘩になったこと。
そして、かつて祖父がその剛力をもって退散させたという唐笠お化けと偶然遭遇し、戦いを挑んでしまったこと。
さらに、その一触即発の危機的な現場へと、圧倒的な霊圧を持つ羅生門の鬼が突然仲裁に入って、命を救ってくれたこと。
その騒動のどれもに、同じクラスメイトの男の子である才狐が深く関わって、自分の未熟さを何度も助けてくれたこと。
幽世の境界にある不思議な食堂へと連れて行かれ、そこで出逢った鬼の美少女と、種族の垣根を超えて心を通わせ仲良くなったこと。
そして何より、その店の店長であるお地蔵さんから、自利利他円満という尊い仏様の教えを頂いたこと。
彼女は言葉を尽くし、自分が体験した現世の裏側の真実を、一滴の嘘偽りもなくすべて話し終えた。
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語り終えた綱江は、ふうと大きく息を吐き出し、祖父母の顔を真っ直ぐに見据えた。
「そんでな、今日はその御狐神社へ行って、自分がこれまで無礼な事をしてしもた事をきちんと目を見て謝ったら、皆さん笑顔で赦してくれはったんよ。お詫びのお土産も、本当に喜んで食べてくれはって……。そやから私、ずっと御祖父ちゃんと御婆ちゃんから大切に教わって来た調伏の技と、怪異達についての話は、今でも大事やとは思うけど、ただ力でねじ伏せるだけのやり方に固執せんと、今の時代にあわせてアップデートせなあかんと思うねん」
毅然とした態度で、自らの思想の転換を宣言する孫娘の姿に、和室にはしばらくの間、深い沈黙が流れる。
やがて、白髪の祖父が深くため息をつきながら、しみじみとした口調で問いかけた。
「そんな大層な事が、お前の身に起きておったとはな……。ほんで、綱江は無事なんやな? その怪異らに、恐ろしい目に遭わされたり、身体に酷いことなんかはされてへんか?」
祖父の第一声は、歴史の尊厳でも呪術のプライドでもなく、ただひたすらに最愛の孫娘の身を案じる、優しい肉親の言葉であった。
「私は平気や。みんな、本当に優しくて、理性的で、私の方がよっぽど乱暴者やったくらいやから」
綱江が苦笑いを浮かべて答えると、祖父は張り詰めていた肩の力を抜き、安堵したように頭をぽりぽりと掻いた。
「そんなら良かった。ほんまに、お前に何かあったら御先祖様にも顔向けできんからな。危ない事だけはせんときや」
「うん、分かってる。そんでな……以前に御祖父ちゃんが力づくで退散させたあの唐笠お化け……唐笠さんはな、人間を襲おうとしたわけやなくて、ゴミ収集車の中に蹴り飛ばされて、大切な身体を汚された事に本気で怒らはっただけやって言うてたで。怪異にも、ちゃんと傷つく心があるんや。今度もし街で見つけたら、御祖父ちゃんもちゃんと謝って、仲直りしてな」
綱江が少しだけ悪戯っぽく、しかし真剣なトーンで諭すように言うと、祖父は「うーん……」と唸り声を上げ、腕組みをしたままバツの悪そうな顔で視線を泳がせた。
長年培ってきた「怪異=悪」という絶対的な数式が、孫娘の言葉によって小気味よく解体されていく。
その様子を隣で見つめていた祖母が、口元を袖で隠しながら、ふふっと鈴を転がすような声で上品に微笑んだ。
「ふふ、あなた。これではどちらが年長者か分かりませんねえ、完全に綱江の方が大人やん。確かに、うちの神社は代々、鬼を中心とした怪異の調伏や殲滅についてばかりを厳格に伝えられてきましたけれど、外からの新しい視点でその在り方を見直すということは、ついぞしてきませんでしたからねえ。これを良い機会にして、うちの古い教えを一度見直してみるのも、この神社に新しい善き風を吹かせる素晴らしい御縁かもしれませんよ」
祖母のその優しく、かつ理にかなった賛同の言葉に、綱江の胸に温かい灯がともる。
「有難う、御婆ちゃん。分かってくれて、本当に嬉しい」
綱江は嬉しそうに微笑み、祖母に向けて丁寧に頭を下げた。
祖父はしばらくの間、自分の大きな掌を見つめていたが、やがて観念したように柔らかな笑みを浮かべ、孫娘の顔を見つめた。
「そやなあ。これからは綱江の時代なんやからな。儂らの古い常識を押し付けるだけやなく、今の時代を生きる怪異とは一体何たるかを、儂らも一度正面から見直さんといかんかも知れんなあ」
その言葉は、過去の因習に縛られていた老術師が、孫娘の成長を認め、共に新しい時代へ歩み出すことを決意した、確かな誓いの響きを持っていた。
「うん!」
綱江は満面の笑みを浮かべ、新しく開かれた自らの未来と、この京都の街で共に生きる怪異たちの姿を思い描きながら、どこまでも晴れやかに頷いた。
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## 動き出す日常と、無自覚な恋の蕾
祖父母との話を終えて、温かな理解の風によって綺麗に解き放たれた和室の夜。
話すべきことのすべてを包み隠さず打ち明け終えた綱江の胸中には、今までにないほどの晴れやかな気持ちと、自然な笑顔が満ち溢れていた。
宿命という名の重い鎖から解放された彼女にとって、世界の景色は昨日までとは決定的に異なり、どこまでも優しく輝いて視えるようになっていた。
明くる日の日曜日も、彼女は神社の跡取りとして朝から巫女の仕事を凛とした姿でこなしつつ、空いた時間には呪術の基礎的な修行や、学校の膨大な勉学に熱心に励んだ。
夕方には、必要な学びと決意を胸に抱いて、普段両親と共に暮らしている賑やかな自宅へと帰り、心地よい緊張感の中で新しい一週間の始まりである月曜日を迎えることとなった。
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月曜日の朝、まだ他の生徒達の影も疎らな時間帯に、綱江はいつものように一番乗りで静かな教室へと到着した。
窓から差し込む爽やかな朝の光を浴びながら、彼女がいつも通りにその日の授業の予習を熱心に始めると、それから間もなくして前扉がガラリと静かに開き、才狐が登校して来た。
「お早う、綱江さん」
才狐はいつもと変わらない端正な、しかし全く感情の読めない無表情のまま、真っ直ぐに彼女の席へと歩み寄って挨拶を交わす。
「お早う、才狐君! 今週もよろしくね」
綱江もまた、心の底からの明るい笑顔を彼に返し、昨日までとは違う自然な響きでその名前を呼んだ。
二人は申し合わせたようにそれぞれの教科書を机に広げ、静寂が満ちる教室内で、並んで仲良く朝の予習を進め始める。
やがてチャイムの音がキーンコーンカーンコーンと校舎に響き渡り、いつもと変わらない賑やかな一週間の授業が幕を開けた。
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午前中の授業がすべて終了し、待ちに待った昼休みの時間が訪れると、綱江は自らの正義感に基づいた御説教も兼ねて、足早に文芸部の部室へと向かった。
部室の扉をバタンと開けて中に入ると、そこには既に机を囲んでお弁当や総菜パンを広げていた文芸部三人娘が待っており、綱江もその輪に加わって一緒に昼食を摂り始める。
「みんな、もう絶対に、面白半分で変な呪いの儀式を試そうとしたり、道にあるものを粗末に扱ったりしたらあかんで。怪異にも、ちゃんと守るべきルールや傷つく心があるんやからね」
綱江が箸を置いて真剣な表情で注意すると、いつもは暢気な三人娘の表情が同時に引き締まる。
「うん、本当にごめん。私らが浅はかやったわ……。そんで、危険を顧みずに助けてくれて、本当に有難う」
三人共、一斉にお弁当の前でペコリと深く頭を下げ、心からの感謝を述べてきた。
「ふふ、ほんまに怖い思いをしたから、今回は本気で反省してるみたいやね。それなら私も、もうこれ以上は叱らへんよ」
綱江が優しく微笑むと、三人娘は張り詰めていた息を同時に吐き出し、当時の恐怖を思い出したように体を震わせた。
金髪の女の子が、持っていたおにぎりを震わせながら声を大にして言った。
「そりゃあ反省もするってば! あんなに大きな古い唐笠が、意思を持ってこっちにキックしてくんにゃもん、ほんまに夢に見るくらい怖かったわ!」
すると、その隣に座る黒髪の女の子も、お弁当の玉子焼きを突きながら不満げに頬を膨らませる。
「でもさ、ちょっと聞いてえや、綱江ちゃん! 家に帰ってからお母さんにその恐怖を必死に訴えたらさ、『アホな事言わんとき。ただの傘が勝手に動いて蹴って来るわけないやん。それって流行りのラノベの話か?』って、全く相手にしてくれへんねんで!?」
「あはは、まあ、霊感のない普通の人からすれば、そういう反応になるんが当然やんなあ」
綱江は楽しげに声を立てて笑い、怪異たちの存在がどれほど現世の常識からかけ離れているかを改めて実感する。
その時、お茶を飲んでいた茶髪の女の子が、目をキラキラと輝かせながら身を乗り出してきた。
「ほんまにあの時は生きた心地がせんかったわぁ……。でもさ、あの修羅場に現れた綱江ちゃん、御札を構えてめっちゃ格好良かったし、一緒に来てくれた才狐君も、無表情やけど本気でイケてたわあ。アタシ、これを機に才狐君に本気でアタックしてみよかな? 守ってくれたお礼にデートに誘うとかさ!」
「ちょ、それは、あかんって!? 待って!」
その言葉を聞いた瞬間、綱江は自分でも驚くほどの勢いで立ち上がり、慌ててそれを阻止しようと言葉を荒らげた。
激しい拒絶の反応を示した綱江に対し、文芸部の三人娘は「ん?」と一斉に動きを止め、怪訝そうな視線を彼女へと向ける。
「な、何よ……?」
綱江は急に恥ずかしさが込み上げ、目を丸くして座り直した。
部室の中に、妙にニヤニヤとした、品定めをするような沈黙が流れる。
黒髪の女の子が、顎を指先で突きながら意地悪く目を細めた。
「……なあ、綱江ちゃん。もしかして、私らの知らんとこで、才狐君となんか特別なことあった?」
「な、なんなんそのニヤついた顔は!? なんもないよ、ほんまに! その……ただ、週末に才狐君の神社へ、こないだのことについて、ちゃんとお詫びと挨拶をしに行っただけやもん!」
綱江は必死に弁明しようとしたが、その頬は自覚のない熱によって少しずつ赤く染まっていく。
その瞬間、部室の天井を突き破らんばかりの勢いで、三人娘の声が完璧に重なった。
「「「才狐君やて!? 綱江ちゃん、ずっと苗字呼びやったのに、今、自然に名前で呼んだ! これは絶対に、私らの知らん間にものごっつ進展してる!!それに挨拶やって挨拶、御両親に挨拶しに行ったんや!!!」」」
三人娘はまるで世紀の大発見をしたかのように、眼を爛々と輝かせて座卓を激しく叩いた。
「だから、なんなんっ!? 本当にそんなんやないってば!」
綱江は顔面を真っ赤に染め上げ、必死に自分の言葉を否定しようと両手で顔を覆う。
しかし、自らの口から自然と零れ落ちたその「名前」の響きと、胸の奥でトクトクと脈打つ高鳴りは、紛れもない真実だった。
才狐に対して、いつの間にか抱き始めていた特別で、名前のつかない甘酸っぱい感情。
その恋の蕾の存在に、周りの誰もが気づいているというのに、本人である綱江と、いつも淡々としている才狐という当事者の二人だけが、未だに全く気が付いていなかった。




