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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第31話前編:渡辺綱江のクラスメイトと食べるほっこり飯

サッ、サッ、と竹箒が静まり返った境内を穿つ小気味よい音が、まだ明けきらぬ薄明の空へと吸い込まれていく。


17歳の高校2年生で、現在は京都の高等学校に通い、それ以外の時間は師匠である妖古の元で修行を続けている少年呪術師にして、御狐神社の若き宮司、狐宮才狐の一日は、この厳かな朝の儀式から始まる。

誰もいない静謐な空気の中、才狐は毎朝のルーティンに、朝飯前の修行として境内を掃き清め本殿の掃除を丁寧に行っていった。


一通りの清掃が終わり、塵一つなくなった社殿に一礼すると、才狐は手早く朝食の準備にかかるため、宮司として自身が住まう自宅の台所へと向かう。

トントンと小気味よく包丁を響かせ、まずは朝用の油揚げを調理し終える。

じっくりと甘辛い出汁が染み込んでいく様子を確認してから、トースターに食パンを差し入れる。

カチン、とタイマーを回す音が響き、やがてチーンと香ばしい匂いと共にパンを焼き上げてから、手際よく彩り豊かなサラダを作り終えた。


ちょうどすべての料理が机に並んだその時、パタパタと廊下から軽やかな足音が聞こえてくる。

赤い着物を艶やかに靡かせながら、頭の上の大きな耳をピコピコと可愛らしく動かして、師匠である天狐の妖古がやって来た。


才狐は呪術師になるため、術を使う際に返って来る反動の対策に支払った代償として、自らの心と両親との縁を差し出している為、心を失っている事からいつも無表情であり、この日も変わらぬ無表情で師匠を台所で迎えた。

「お早う御座います、妖古さん」


才狐が淡々と、しかし礼節を保った声で出迎えると、妖古は並んだ料理を見て細い目をさらに細めた。

「お早うさん、今日もええ香りがしておるのう。ぬしの作る飯は、いつも本当に美味そうじゃて♪」


妖古は非常に上機嫌に微笑み、嬉しそうに手を合わせる。

こうして、二人は合掌して食前の祝詞をあげてから朝食を食べて始めた。


---


やがて優しき師匠と一緒に穏やかな朝食を終えてから、才狐は手早く身支度を整えて、学校へ向かう準備を始めた。

学生服に袖を通し、カバンを肩にかけた才狐は、玄関でお辞儀をする。

「行って来ます」


「ほな、気を付けて行って来よし。我はちょいと散歩がてら、久々に百貨店でも行って来るかの。なんや、物産展のチラシが入っとってな、揚げ物出しとるみたいじゃて。ええ厚揚げか油揚げかあったら、ぬしの分も買うてくるでな、それを今日の夕餉にするとしようか」

妖古は嬉しそうに広報誌を揺らしながら、愛弟子を見送るために艶っぽく笑う。


「有難う御座います。それでは、行って来ます」

才狐は無表情なままそう言い残すと、パタンと扉の鍵を閉めて学校へ行くために歩き出した。


---


爽やかな風が、京都の古い街並みを吹き抜けていく。

才狐は、少し前まで妖古の計らいで、古巣であった神奈川の高校に少しだけ通っていたが、今は京都に戻って、偏差値が高い京都の国公立高等学校である古都高等学校に編入したばかりであった。

周囲の生徒たちの学力も高く、落ち着いた校風のその学校は、今の才狐にとっても居心地が良い場所として過ごしている。


カツ、カツ、と規則正しい足音を響かせながら、才狐は30分ほどかけて徒歩で学校へ向かい、まだ運動部が朝練の途中である時間、かなり早めの時間に学校に到着する。

グラウンドからは「ファイトー!」という元気な掛け声や、ザザッと土を捕らえる音が響いていた。


静まり返った校舎に入り、2年生の教室に行くと、いつも一番乗りで教室にいるクラスメイトの女子が、最前列に座って静かに自習していた。


彼女の名前は渡辺綱江。

神社の娘であり、どこか凛とした佇まいを崩さない少女である。


ガラガラと引き戸を開けて教室に入ると才狐は、彼女の前の席を通りすがりざまに声をかけた。

「おはよう」


「お早う」

渡辺綱江はペンを止め、才狐の無表情な顔を見つめて、短く挨拶を返してくれる。


才狐は静かに自分の席である彼女の隣の席に座り、カバンから参考書を取り出すと、何も言わずに黙って自習を始める。

窓から差し込む朝の光が、二人の机を静かに照らし出していた。


---


###少女呪術師の横顔と、静かなる日常


渡辺綱江。

それが、才狐の隣の席で静かにシャーペンを走らせている少女の名前であった。

身長160㎝、艶やかな黒髪を高い位置で一つに結んだポニーテールが実によく似合う、大和撫子という言葉をそのまま形にしたような風貌の美少女である。


彼女の実家は、古くから京都の地で「鬼を調伏する力」を持つ特殊な呪術を代々継承してきた、知る人ぞ知る由緒正しき神社であった。

綱江はその力を色濃く受け継いでおり、現在は彼女の祖父母が神社を護っており、祖父が宮司として厳かに神事を執り行っている。

しかし、綱江の両親はそういった家系の特殊な事柄には全く興味を示さず、大企業に勤めて経験を積んだ後に独立し、現在は小規模ながらも非常に手堅く会社を経営して大きな成功を収めていた。


そんな両親の背中を見つつも、綱江自身は幼少期から極めて純粋な祖父母っ子、おじいちゃん子であり、同時におばあちゃん子でもあった。

それゆえに、神社を継ごうとしない両親の代わりに、自分が大好きな祖父母の跡を継ぎ、大切な神社を未来へ護っていくのだと固く心に決めていた。


彼女がその決意を胸に、宮司になるための厳しい修行を本格的に始めたのは、中学校に上がったばかりの12歳の時であった。

それから数年が経った現在、彼女はまだまだ発展途上の少女呪術師であり、自らの未熟さを埋めるために日々鍛錬を重ねる、極めて生真面目な性格の持ち主だった。


その実直で強い責任感ゆえに、クラス内では何かと学級委員長などの大役に推薦されることも多かった。

だが、本人は決まって申し訳なさそうな顔を浮かべながら、周囲の期待をやんわりと断り続けている。


「私は神社の仕事とか、宮司になるための修行とか色々やらなあかん事があるから、悪いけど、そういうのも部活も出来ひんねん、ごめんな」

京都の柔らかなイントネーションでそう告げる彼女は、実際に部活動にも一切所属していなかった。


だが、部活に所属していないからといって、彼女の身体能力が劣っているわけでは決してない。

それどころか、綱江はまさにスポーツ万能という言葉が相応しい超人的な運動神経を秘めていた。

体育の授業で行われる剣道の時間などでは、並み居る強豪の剣道部員達でさえも、綱江の鋭い踏み込みと竹刀捌きには全く敵わず、あっさりと一本を取られてしまうほどであった。

そのため、1年生の頃からありとあらゆる運動部の主将や顧問から熱烈なスカウトを受け続けてきたが、彼女はその全てを笑顔で断り通してきた。


容姿端麗、スポーツ万能、頭脳明晰、そして誰に対しても分け隔てなく接する性格の良さ。

これだけの要素が揃っていれば、当然のように周囲が放っておくはずもなく、男子生徒達からは絶大な人気を誇るモテモテの存在であり、女子生徒たちからも一目置かれる憧れの的となっていた。


そんな注目の的である渡辺綱江に対し、才狐だけは全く異なる反応を示していた。

男子たちが彼女の容姿や才能に色めき立つ中、才狐の胸にあるのは「同業者としての特殊な気」に対する僅かな興味だけであり、それ以外の一般的な関心は一切示さなかった。

才狐は、このクラスに編入して入って来た初日の瞬間に、彼女の身体の奥底から静かに放たれている張り詰めた「気」を敏感に察知していた。

そのあまりに洗練された霊気の流れから、才狐は彼女が恐らく自分と同じ、異界や呪術に関わる同業者なのだろうと何となく感じ取っていたのである。


そしてそれは、綱江の側にとっても同様であった。

綱江もまた、才狐という少年がクラスにやって来た初日から、彼が纏う同業特有の何か特別な、しかしどこか底の知れない奇妙な気配を感じ取ってはいた。


だが、才狐は彼女に対して必要以上に距離を詰めてくることは決してなく、常に一定の礼節を持った静かな態度を崩さない。

綱江は、その絶妙で不可侵な距離感に対し、言葉には出さずとも互いにとって非常に心地よいものであると感じていた。

だからこそ、こうして朝早くの教室で二人きりというシチュエーションになっても、気まずさを覚えることもなく、互いの領域を守りながら黙々と自習に没頭することが出来るのであった。


ガラガラ、ガタガタ、と時間の経過と共に教室の引き戸が開く回数が増えていく。

「おはよー!」「うっす、朝練マジできつかったわ!」


やがて、朝練を終えて額に汗を浮かべた元気な運動部たちの賑やかな声が教室内に響き渡り、他のクラスメイトたちも次々と登校してくる。

静まり返っていた空間は、あっという間にいつもの高校生らしいワイワイガヤガヤとした活気溢れる騒がしさに包まれていった。

そんな喧騒の中でも、才狐と綱江はそれぞれの机に向かい、自らの課題を静かにこなし続けている。


キーンコーンカーンコーン。


やがて、朝の爽やかな光が差し込む教室に、1限目の開始を告げる清々しいチャイムの音が鳴り響いた。

生徒たちがそれぞれの席へと着き、教科書を開く音がサラサラと重なっていく。

こうして、この日も才狐と綱江を乗せた、いつも通りの穏やかで平穏な学校生活が静かに進んでいくのであった。


---


##夕暮れの警告と、秘められし同業の気配


高校生たちの溢れんばかりの活気に満ちていた時間もあっという間に過ぎ去り、昼休みが終わって、午前までで授業が終わるこの学校としては珍しく、この日は5時間目まであり、それも終わってから帰宅する時間となった。

キーンコーンカーンコーン、と放課後の訪れを告げるチャイムが校舎全体に優しく鳴り響く。


教室内の生徒たちが一斉にガタガタと机を鳴らして帰り支度を始める中、才狐も綱江も、互いに干渉することなくさっさと帰ろうとしていた。

カバンに必要な教科書を詰め込み、慣れた動作で制服の形を整える。


教室から廊下に出ると、そこは部活動へ向かう生徒や家路を急ぐ生徒たちでごった返していた。

その喧騒の真ん中で、文芸部の女子生徒3人が部室へ向かう途中で足を止め、何やらひそひそと楽しげに身を寄せ合っていた。


「なあなあ、昨日こんな本見つけてん」

そのうちの一人、短い茶髪の子が、周囲を見回しながらニヤニヤとして自身のカバンから一冊の古びた書籍を取り出す。

そこには「日本の怪談」という、どこかおどろおどろしいフォントで印刷されたタイトルの本があった。


「ほんでな、付箋はっといたんやけど……ほら、これこれ!この本に載っとるこっくりさんは正確に書いてあるらしいで?部室で一回やってみいひん?」

短い茶髪の子が怪しげな声を弾ませると、隣にいた黒髪ボブの子は、少し身を竦めながらも瞳を輝かせる。

「え~、それって本当に呪われるんちゃうん?でもちょっと怖そうやけど……なんや、心躍るなあ。めっちゃ乗り気やわ、うち」


クスクスと笑いながら本を覗き込む彼女たちの前に、一筋の強い意志を持った影が立ちはだかった。


「やめとき!素人がそういう事したらあかん!」

凛とした、しかし明確な拒絶の意を孕んだ声が廊下に響き渡る。

楽しげに盛り上がっていた文芸部の面々が驚いて顔を上げると、そこには真剣な表情を浮かべた綱江が腕を組んで立っていた。


「うわ、綱江!?いや、冗談やって、本気でやるわけないやん」

金髪ポニーテールの子が、綱江の放つ圧倒的な正論に気圧されて、慌てて両手を振りながら弁解する。


そのやり取りを少し離れた場所から見ていた才狐は、静かに彼女たちの元へと歩み寄った。


「渡辺さんの言う通りやで。こっくりさんを素人がやると、本当に危ないで。やめとき」

才狐は一切の抑揚を排した無表情で、淡々と、しかし拒絶を許さない冷徹な響きを含んだ声で女子生徒たちを諭した。


「あ、うん。わかった……。もうやめとくわ……」

普段は物静かで滅多に他人に話しかけない才狐から、至近距離で真っ直ぐに見つめられた3人の女生徒は、あまりの気迫に圧倒され、ちょっと顔を赤くしてさっさと部室へ行くために足を早めた。


パタパタと廊下を駆けていく彼女たちの間から、小さくひそひそ話が漏れて聞こえてくる。

「やばい、才狐君に声かけられた!」「なんなんあのクールさ、無表情やけど、やっぱめっちゃイケメンやなあ。彼女とかおるんかなあ?」

そんな色めき立つ少女たちの噂話など耳に入っていないかのように、才狐は特に関心も無く、ただ静かに綱江へと視線を戻した。


「ほな、僕は帰るから。渡辺さん、優しいんやね、ちゃんと止めてあげるなんて」

才狐がカバンの紐を直しながら淡々と告げると、綱江は小さく肩をすくめて苦笑いを浮かべた。

「そんなんやないよ、ほんまに危ないし。これでも私、神社の娘やし、一応は専門家やからね。霊の通り道を遊び半分で作ったらどうなるかくらい分かっとる。……それに、それを言うたら狐宮君もやん。狐宮君も、そういう怪異の事に詳しいん?」


綱江は、才狐の無機質な瞳の奥にあるはずの「深淵」を覗き込もうとするかのように、小首をかしげて尋ねる。

その問いに対し、才狐はゆっくりと振り返った。


「まあ、人並みには」

才狐はそれだけを短い言葉に残すと、それ以上の追及を避けるように、また前を向いて歩きだす。


「ふふ、人並みって……普通の人は、こっくりさんの危険性とか、そんな詳しないで」

綱江は、相変わらず底の知れないクラスメイトの後ろ姿を見送る。


「ほな、また明日」

綱江の柔らかな見送りが、涼しい廊下に静かに溶けていく。


そして学校の建物を出て、重い校門を抜ける足音が響き、長い西日が二人の影を長く引き延ばしていた。

こうして、才狐と綱江は、互いに異なる呪術の系譜を背負いながらも、それぞれの帰るべき場所へ帰って行った。


---


###厚揚げの夕餉と、異界の書物への疑念


学校から戻り、まだ夕方になる前の高い西日が境内に差し込む時間帯に帰宅した才狐は、鞄を置くとすぐに学生服を脱ぎ捨てた。

一旦制服から吸汗性の高い運動服に着替えて、すぐさま外へと飛び出し、日課であるロードワークを開始する。

ザッ、ザッ、と一定のリズムでアスファルトを蹴り、静かな路地を駆け抜けていく。

失った心の代わりに肉体を極限まで鍛え上げることは、術の反動に耐えるための絶対的な義務であった。


30分ほどの疾走を終えて呼吸一つ乱さずに帰宅すると、今度は庭に出て自重による過酷な筋力鍛錬を行い、筋肉を限界まで追い込んでいく。

それが終わると息を整える間もなく、今度は妖古が直々に用意した、体術訓練用の頑強な式神を数体呼び出した。


「フッ……ハッ!」

短い呼気と共に、才狐の鋭い突きと蹴りが式神の強固な身体へと叩き込まれる。

バシッ、ドカッ、と肉体と紙片が激しくぶつかり合う鈍い音が境内に響き渡り、才狐は一切の妥協を許さぬ身のこなしで縦横無尽に立ち回り、式神相手に容赦のない稽古をつけた。


一通り激しい汗を流した後、周囲に夕闇が降りて夜の帳が静かに広がり始める。

才狐は素早くシャワーを浴びて汗を流すと、夕食の準備に取り掛かるために薄暗い台所へと向かった。

トントンと包丁で出汁用の昆布を刻み、鍋に火をかけたちょうどその時、玄関の引き戸がガラガラと小気味よい音を立てて開き、タイミング良く妖古が大きな買い出し袋をぶら下げて帰って来た。


「おぅおぅ、戻ったぞ。カカカ、今日は百貨店の物産展でな、実に見事な上等な厚揚げが安う手に入ってのう!ほれ、見てみよし、このふっくらとしたきつね色の肌を。今夜はこれをメインに据えるさかい、もう一品くらい美味い小鉢を付けておくれ」

妖古は赤い着物の袖を揺らしながら、子供のように無邪気な笑みを浮かべて、大ぶりの厚揚げが包まれた袋を才狐に手渡した。


「お帰りなさい。立派な厚揚げですね。では、これに合わせるように南瓜の煮物に味噌汁と御飯を付け加えます」

才狐は手際よく南瓜を一口大に切り分け、醤油と味醂の甘辛い出汁を張った鍋に入れて火にかけた。

コトコトと静かに鍋が鳴り、台所の中に南瓜の甘い香りと出汁の芳醇な匂いが満ちていく。


その様子を、妖古は嬉しそうに目を細めて眺めていた。

「ふふ、ぬしは料理上手になっていくのう。これだけ手際が良うて美味い飯が作れるとなれば、将来、ぬしの嫁になる女子おなごは間違いなく幸せもんじゃわい」


「僕は、そんな将来のことまで考えたことはありません」

才狐は無表情のまま淡々と答え、炊きたての御飯を茶碗に余すことなく盛り付けた。


こうして才狐は、出来上がったばかりの温かな料理を丁寧に食卓に並べていく。

主座に妖古が座り、その隣に才狐が腰を下ろすと、二人は胸の前で静かに手を合わせた。

神道の厳かな食前の祝詞を二人の声を重ねて一緒に称えてから、深く一礼する。


「頂きます」


箸を取り、まずは出汁のよく染みた南瓜の煮物を一口運んでから、才狐はふと思い出したように口を開いた。


「妖古さん、少し伺いたいのですが……『日本の怪談』と言う書籍に書かれている、こっくりさんの記述というものは、専門家から見て正確なものなのですか?今日、学校の放課後に、クラスの女子生徒達がそんな本を持ち出して興味深そうに話をしていました」

才狐の声は平坦であったが、その瞳には術理に対する純粋な疑問が宿っていた。


妖古は厚揚げを器用に箸で小さく割り、口へ運びながら、ふむ、と美しい眉を寄せた。

「『日本の怪談』とな。なんや、我が知る限りでは聞いた事も読んだ事もあらへん本じゃのう。しかしまあ、娑婆の人間が適当に書き連ねた本なんざ、大体は肝心なところがどっか間違うとったりするもんじゃ。そもそも、きちんと術を使えるもんから正しい手順を継承してるもんが、大体において正しいという世界じゃからな。それに、本というのは第何版かによって記述も微妙に違う事はあるじゃろうし、一度その本を我に直接見せて貰わん事には、何とも言えんのう」


「そうですか。学校の女子生徒達がかなり強い興味を示していましたから。今回は、同じクラスにいる神社の娘さんが危ないと気づいて、すぐに止めてくれましたけど……あの様子やと、また隠れてやろうとするかもしれません。一度、その本を彼女たちから借りて内容を確かめてみます」


才狐の言葉に、妖古は南瓜を美味しそうに咀嚼しながら、満足げに優しく微笑んだ。


「そうじゃのう、そうした方が良さそうじゃろな。多感な人間の子供にとっては、そういった禁忌ほど興味が沸くお年頃じゃろうが、怪異に魅入られて面倒な事はさせん事に越した事はないからのう。ぬしが事前に芽を摘んでおくのは、宮司としても正しい在り方じゃて」


「はい」

才狐は短く頷くと、お椀を手に取り、熱い味噌汁を静かに口にした。

出汁の温かさが喉を通り、無機質な才狐の胸の奥に、今夜も小さな「ほっこり」とした安らぎがじんわりと広がっていくのであった。


---


##一本足の記憶と、少女呪術師の正義


一方、才狐が御狐神社で修行に励んでいた頃。

渡辺綱江もまた、下校後すぐに祖父母が守る神社へと足を運び、放課後の過酷な修行に身を投じていた。

古から伝わる鬼調伏の歩法、印の結び、そして淀みのない祝詞の奏上。

仕上げに夕暮れの街を駆け抜けるロードワークを終えてから、修行の汗を清々しく流した彼女は、神社のすぐ近くにある両親と暮らす自宅へと戻っていった。


台所に立つ綱江の手際は、修行で鍛えた集中力ゆえに鮮やかだ。

今夜の献立は、味がよく染みた「肉じゃが」。

鍋から立ち上る甘辛い湯気が、どこか緊張感のあった家の中を家庭の温かさで満たしていく。

煮物が完成した頃、ちょうど仕事から戻った両親を迎え、家族三人の夕食が始まった。


綱江の両親は、神社の跡継ぎとしての教育には興味がなく、実業家として現実的な成功を収めた人々だ。

しかし、食事の前に「頂きます」をすること、そして感謝の心を持つことの重要性は、幼い頃から祖父母に懐いていた綱江の影響もあり、今では家族揃って食前の祝詞を称えることが日課となっていた。


「かしこみ、かしこみ、申す……」

静かな祈りの後、三人は温かな食事を口にする。


---


そして、食後のティータイム。


父親が湯呑みを置き、ふと思い出したように綱江に尋ねた。

「綱江、今週末も御祖父ちゃんの手伝いで巫女のバイトに行くんか?」


「バイトやないってば!大事な修行と仕事やもん!」

綱江は、心外だと言わんばかりに頬をぷっくりと膨らませた。


「まあ、バイト代はちゃんともろてるしええけど、あんましオカルトにのめり込み過ぎるんはちょっとなあ。女の子なんやし」

母親がクスクスと笑いながら茶菓子を差し出す。


「そやから、バイトやないってば!それにオカルトちゃうもん!私、ちゃんと霊とかお化けとか視えるんやから。今日かて、学校で……」


「お父さんらは見えへんさかいなあ。なんやったっけ、傘のお化けやったか。綱江が高校生になったばっかりの時に、初めて現場見せてもろたとか言うて、興奮して帰ってきたことがあったなあ」


父親の言葉に、綱江の瞳がパッと輝いた。


「そやで!一本足でぴょんぴょん跳ねる、一つ目の傘の怪異や!あれを御祖父ちゃんが『喝!』って一喝して退治したんや。あの背中、ほんまに格好良かったんやもん!」


母親は微笑ましく娘を見つめ、優しく嗜める。

「ふふ、高校生言うても、まだまだ子供やね。まあ、あんまり危ないことせんといてくれたらええよ。お母さんらは、綱江が無事でいてくれたらそれが一番やさかい」


---


談笑を終えて自室へと戻った綱江は、学校の予習を早々に済ませると、分厚い呪術の座学書を開いた。

彼女の脳裏には、今でもあの時の光景が鮮烈に焼き付いている。


高校に入学してすぐの頃、祖父のもとに「古い傘の怪異が夜道に出て、地域の人を不気味に怖がらせている」という依頼が舞い込んだ。


「もう高校生なんやから、実戦経験を積ませて!」

無理を言って連れて行ってもらった現場で、彼女は初めて「異界のモノ」が調伏される瞬間を目撃したのだ。


闇夜に浮かぶ一本足の傘。

それは不気味で、しかし怒り顔になっていたその怪異は、見るからに確かに「害」をなす異形であった。

それを一寸の迷いもなく退散させた祖父と数人の呪術師達の姿。


(いつか私かて、御祖父ちゃんみたいになって、妖怪とか怪異を退治して、人を守る呪術師になるんや)


その体験と、祖父母から受けてきた「不浄なるものは祓うべし」という教え。

それが綱江にとっての正義の柱であった。

彼女にとって怪異や妖怪の類は、人間を脅かす不確かな存在であり、断じて許容すべきではない「調伏の対象」なのだ。


窓の外では、静かな京都の夜が広がっている。

表の顔は清廉な女子高生、しかし闇夜に入れば邪悪を討つ卓越した呪術師を目指す者。


綱江は自身の決意を新たにするように、古びた頁をめくり、熱心に勉強を続けていた。

学校では隣の席に座る、あの底の知れない少年――才狐が、怪異たちと鍋を囲んで笑い合うような世界があるとは、夢にも思わずに。


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##華金の誘いと、重なる懸念


金曜日の朝。

いつものように静謐な境内の掃き清めと本殿の掃除を終え、心身を整えた才狐が学校へ向かおうとしたその時である。

縁側に腰掛け、朝の柔らかな光を浴びていた師匠の妖古が、朱色の扇で口元を隠しながら鈴を転がすような声で笑った。


「カカカッ、今日は世に言う『華金』じゃ。学校の子らとどっか遊びに行って来たらええがな。心を失うておっても、青春というもんは一度きりじゃ。今のうちに経験しときよし」


「すぐに帰宅して修行に励む方が、僕にとっては有意義ではありませんか?」

才狐は一切の迷いなく、無表情なまま正論を返す。

効率と術理を重んじる彼にとって、目的のない遊興は理解の範疇外であった。


「青春もまた一つの修行じゃと思えばええ。ああ、それと、時間があったらでええさかい、今日は稲荷神社のいつもの御社に、気狐が夕方前に入って、ゆっくりしとる言うておってのう。油揚げでも差し入れしたったら喜びよるでな。ついでに寄ってきよし」

妖古はピコピコと耳を動かし、楽しげに愛弟子の反応を伺っている。


「畏まりました。差し入れの件も承りました。それでは、行って来ます」

才狐は短く一礼すると、変わらぬ足取りで御狐神社を後にした。


---


学校に到着すると、そこにはいつものように一番乗りの綱江が最前列に座っていた。

静まり返った教室に、二人の「お早う」という短くも礼節ある挨拶だけが重なり、やがてペンが紙を滑る乾いた音だけが支配する。


それから一限目から四限目までの授業は滞りなく進み、この日は午後からの授業がない日であった。

校内には開放感が漂い、足早に家路を急ぐ者、部活動の準備に活気づく者とでざわつき始める。


才狐は学食の喧騒の中で軽く月見うどんを啜り、腹を満たすと、昨日の放課後から気になっていた場所――文芸部の部室へ向かうことにした。

あの怪しげな書籍「日本の怪談」が、どうしても看過できなかったのだ。


そして文芸部の部室へ向かう途中、廊下の角を曲がったところで、同じく学食で軽く食事を終えていた綱江とばったり遭遇した。

「御疲れ様、渡辺さん」


「うん、御疲れ様。狐宮君、これから帰るん?」

綱江はポニーテールを揺らし、少し意外そうな顔で足を止めた。


「今日はちょっと、京都駅の辺りに用事があって行くんやけど……その前に、文芸部に顔を出すつもりや。昨日言っていたあの本が気になってな、少し借りようかと思うて」


「えっ?」

綱江が驚いたように目を丸くし、半歩身を引いて才狐を警戒するような視線で見つめる。

「……まさか、狐宮君までこっくりさんをやるつもりやないよね?」


「まさか。もしもあの子らが、僕らのいないところでまた勝手な真似をしようとしていたら、釘を刺すつもりやっただけや。それに、本に何が書いてあるか、その術理を確認しておきたいだけやから」


才狐の淡々とした説明を聞き、綱江はふっと肩の力を抜いて表情を和らげた。


「そっか。まあ、そうやんな。狐宮君かて、昨日あんなに厳しく止めてたんやから。実は私も、同じこと考えててん。あの子ら、危なっかしいし、放っておけへんから」

綱江は自分のカバンを少し抱え直すと、才狐の隣に並んだ。


「ほな、目的地は一緒や。一緒に行こか」


そう言って、二人は並んで文芸部の部室へと歩き始めた。

窓から差し込む午後の光が、静かな廊下を黄金色に染め上げている。


同業者としての奇妙な距離感と、生徒たちの安全を案じる共通の使命感。

言葉数は少なくとも、その足並みは不思議なほどに揃っていた。


---


##文芸部の喧騒と、契約の「対価」


午後の光が差し込む静かな廊下を、二人の足音が等間隔に刻んでいく。

隣を歩く才狐の、一切の無駄を省いた歩法を横目で追いながら、綱江がふと思い立ったように口を開いた。


「なあ、さっき『術理』って言うてたけど……もしかして狐宮君も、その筋の人?ほら、編入してきた初日の自己紹介で、神社に住んでるって言うてたし、昨日も詳しそうやったから」


綱江の問いに、才狐は視線を前に向けたまま、淡々と事実を告げる。


「うん。僕も御狐神社の宮司をやらせてもろてるから。怪異の理には興味があるし、放っておくわけにもいかんしな」


「そっか。ふふ、御揃いやね。もっとも、私はまだまだ祖父母の元で修行中の身で、周りからは巫女さんのバイトにしか観られてへんけどね」

綱江は自嘲気味に笑ったが、その瞳には才狐への確かな親近感が宿っている。

同じ重荷を背負い、同じ視界を持つ者がすぐ隣にいたという事実は、孤独な修行を続ける彼女にとって小さな救いでもあった。


「そう」

才狐は短くそれだけを返すと、目的の場所――文芸部の部室の前にやって来て、軽くドアをノックした。


「どうぞー」

内側から緊張感のない声が聞こえ、二人が中に入ると、そこには昼食を食べ終えて思い思いに寛いでいる女子生徒三人の姿があった。


「あれ、先輩も後輩もいてはらへんの?他の部員は?」

綱江が意外そうに部屋を見回すが、短い茶髪の子が薄いポテト菓子を片手にニヤリと笑う。

「そんなんおらへんよー。元々、うちらが楽しく青春送るために勝手に作ったサークルみたいなもんやからね。誰も使わへんこの空き部屋を部室代わりにしてもええって、担任の先生にも許可取ってるし」


「自由奔放って言うか……なんや、管理がガバガバやなあ」

綱江は呆れたように溜息をついたが、彼女たちの目は既に才狐へと釘付けになっていた。


「あ、狐宮君も入る?ウチらの部、イケメンは大歓迎やで!」

黒髪ボブの子が、身を乗り出してニヤニヤと才狐を誘う。


「遠慮しとく。ほんで……昨日見せていた『日本の怪談』って本、貸してくれへんか?内容を読んでみたいんや」


才狐が用件を切り出すと、金髪ポニーテールの子が「え、ほんまに?」と瞳を輝かせて近づいてきた。

「ふふ、それなら仮入部からしてもらおっかなー?イケメン部員第一号!」


「あんたらの青春に、勝手に他人を巻き込まんといてあげえや……」

綱江の冷ややかなツッコミも、彼女たちの耳には届かない。


「なあなあ、二人は付き合ってるん?もし付き合ってへんのやったら、ウチ、才狐君のこと本気で狙おっかなー」

黒髪ボブの子が茶化すように尋ねると、綱江はジト目を向けて即座に否定した。

「付き合うてはおらんよ。それに、あんまり狐宮君を困らせんとき」


「あの……それで、本を借りたいんやけど?」

外野の喧騒を完全に無視し、才狐が再び「目的」を口にする。


その一切動じない態度に毒気を抜かれたのか、茶髪の子が「あー、はいはい」と苦笑しながら、鞄からあの本を取り出した。

「これやね。ふふ、読んでみてほんまにこっくりさんが来たら教えてや?」


「有難う。返却は週明けでもええかな?」

「ええよ。あ、その代わり……レンタル料金として、今度ウチとデートしてくれる?」


ニヤニヤと笑いながらふっかけた「対価」に対し、才狐は少しの間を置いて、極めて真面目な顔で答えた。

「有難う。デートというものがどういうものか、僕にはようわからんけど。この本を借りる対価として必要なら、承知した」


「ちょ、ちょっと狐宮君!?真面目に受け取らんでええから!」


綱江が慌てて割って入るが、才狐にとっては「契約の履行」以外の何物でもなかった。

そのあまりの無機質な誠実さに、茶髪の子の方が「えっ、あ、冗談やのに……」と逆に顔を赤くして固まってしまう。


「もう、この子らはほんまに……」

綱江が頭を押さえて嘆息する中、才狐は手に入れた『日本の怪談』を手に取り、その表紙をじっと見つめた。

どこか不自然な気配を纏うその一冊を、彼は鞄の奥へと大切にしまい込む。


窓の外では金曜日の午後の陽光が踊り、女子生徒たちの賑やかな笑い声が部室に響いている。

そんなありふれた「青春」の光景の中で、才狐の胸の内だけは、これから対峙するであろう未知の術理への警戒で、静かに研ぎ澄まされていた。


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##稲荷神社の献上品と、神使の影


文芸部の部室を後にした才狐の背中を追いながら、綱江の胸中には微かなざわめきが広がっていた。

同じ「神社の子」だという才狐が、一体どのような神社に住んでいるのかという純粋な好奇心。

そしてそれ以上に、あの不穏な気配を纏った本を彼が一人で持ち帰ったことへの、消えない懸念があった。


(……まさかとは思うけど、一人でこっくりさんなんて試さへんよね。気になるし、ちょっと様子見させてもらお)

そう自分に言い訳をして、綱江は才狐に同行することを決めた。


二人は校門を出て、京都市営バスに揺られること数十分。

人混みに紛れ、観光客と地元客が入り乱れる巨大なターミナル、京都駅へと降り立った。


「この近くに狐宮君の住んでる神社があるん?学校からここまでバスで通ってたんやね」

ふと疑問を口にする綱江に、才狐は人混みを無表情ですり抜けながら答えた。

「僕が住まわせてもろてる神社は、この近所やないよ。今日はちょっと、こっちに用事があったから寄っただけや」


才狐は迷いのない足取りで京都駅を八条口(南口)から出て、駅直結の大型ショッピングモールへと入っていく。

一階の食品売り場で、彼は迷うことなく厚みのある立派な油揚げを数袋買い求めた。

それを持って再び外へ出ると、今度は駅から少し離れた場所にある、古びた稲荷神社へと足を踏み入れる。


境内を進み、観光客の姿が消え、木々が深く生い茂る奥まった場所。

そこには、人が滅多に立ち入らないような静かな御社がひっそりと鎮座していた。

才狐は綱江が見守る中、油揚げの入った袋を供物台に置くと、慣れた所作で二礼二拍一礼を行う。

静寂の中に拍手の音が鋭く響き、風が木の葉を揺らした。


「……まだ、こっちには、いてはらへんか。ほな、僕は帰ります」

才狐は誰に言うでもなく呟くと、御社に向かって丁寧にお辞儀をして挨拶し、そのまま踵を返した。


「御参りに来たんやね。随分と熱心やんか」

「うん、そんなとこ。じゃあ、僕はこれから帰るね。渡辺さんも気を付けて」


「ほな、私は折角ここまで来たから、本屋に寄ってから夕飯の買出ししてから帰るわ。ほな、また来週ね」

綱江がそう言い、二人はここで別れる事になった。


こうして、才狐は京都駅へと戻っていき、綱江は明るい笑顔で彼を見送った。


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才狐と別れた後、綱江は一人でショッピングモール内の大型書店へと立ち寄った。

参考書や専門書を探したが、あいにく目ぼしい新刊は見当たらず、そのまま一階の食料品売り場へとエスカレーターを下りる。

しかし、主婦の目線を持つ彼女にとって、駅前のモールの価格設定は少々高めに感じられた。


(やっぱり、近所のスーパーで買う方が安いわ。買い物は地元に戻ってからにしよ)

そう決めてショッピングモールを後にしたが、先ほど神社を出た時から感じていた「妙な胸騒ぎ」だけが、どうしても消えてくれない。


(……さっきの御社、やっぱり何か気にかかるわ。狐宮君は『まだいてはらへん』って言うてたけど)


綱江は引き寄せられるように、再び先ほどの稲荷神社へと足を踏み入れた。

西日が長く伸び、境内の影が濃くなっている。

先ほど二人で訪れた、あのひっそりとした御社の前まで戻ってくると――。


「……っ!?」


綱江の眼が、驚愕に大きく見開かれた。

そこには、才狐が供えたばかりの油揚げの袋を無造作に破り、中の油揚げを、実にご機嫌な様子でむしゃむしゃと頬張っている、狐の怪異の姿があった。


白い毛並みに、霊力を帯びた金色の瞳。

それは間違いなく、現世の動物ではない。


綱江の脳裏に、かつて祖父が退治したあの傘の怪異の記憶が鮮烈に蘇る。

人間を惑わし、供物を食い荒らす異形のモノ。

神聖な境内を我が物顔で汚すその姿は、修行を積んできた彼女にとって、決して看過できるものではなかった。


「……見つけた」


綱江の声音から温度が消える。

彼女は流れるような動作でカバンを傍らに置き、制服のブレザーの裾を払うと、右手を懐の呪符へと滑らせた。

ポニーテールが微かな殺気に揺れる。

相手は油揚げに夢中で、まだこちらに気づいていない。


(不浄なるものは、祓うべし。……おじいちゃん、見てて。私が今、この怪異を調伏してみせるから!)


少女呪術師、渡辺綱江。

彼女は鋭い眼光を狐の怪異へと固定し、瞬時に戦闘態勢を取って、深く、静かに身構えた。


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##激突の稲荷境内と、困惑の仲裁者


京都駅の巨大なバスターミナルへ向かい、人混みを無表情に縫っていた才狐は、ふと背筋を走る奇妙な「気」の揺らぎを感じ取った。

才狐は足を止めると、周囲の目を避けるようにして咄嗟に人気のない柱の陰へと身を隠し、静かに右手を掲げた。


すると、空から一枚の紙の鳥がひらひらと舞い降り、才狐の指先に止まった。

伝令符である。


術を解くと御札の形になり、そこから師匠である妖古の、鈴を転がすような茶目っ気たっぷりの声が響くような錯覚を覚える。

『気狐のとこに行ったついでに、パンを買うといでや。ぬしの明日の朝飯がのうなっとるでな。ほんで、我は今日は羅城門殿ら数名と晩飯食いに行っとるさかい、晩飯は一人で食うべし』

師匠からの、文字通りの「おつかい」であった。

才狐は一切の不満も見せず、「畏まりました。パンを買って帰ります」と一言だけ書き足した返信の鳥を空へと放ち、今来た道をショッピングモールの方へと引き返した。


だが、モールの入り口が近づくにつれ、唐突に感じた霊気の乱れが激しさを増していく。

場所は、つい数分前に立ち寄った、あの小さな稲荷神社の御社だ。


「何事や……?」

嫌な予感を覚えた才狐が、裏手の木々を抜けて御社の前まで駆け戻ると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。


「ワタイが気分良く食事中やったのに、いきなり何してくれとるんどす!折角、綺麗に調うとる毛並みが焦げてしまいますやろが、このお転婆娘!」


逆立った毛を震わせ、額に怒りマークが浮かび上がらんばかりの勢いで憤慨しているのは、気狐であった。

その美しい首筋には、術者の霊力が籠もった御札が貼り付けられており、そこから発せられる紫色の電光がビリビリと気狐の身体を苛んでいる。


「問答無用!この妖怪狐、私が成敗したるわ!」


その対面で、新たな御札を指に挟み、凛としたポニーテールを揺らして身構えていたのは、先ほど笑顔で別れたはずの渡辺綱江であった。

彼女の瞳には一切の容赦はなく、ただ「害をなす怪異を討つ」という、揺るぎない正義の光が宿っている。


「……ちょっと、何してんの?」

才狐がその一触即発の間に割り込むようにして現れた。


「狐宮君!?あかん、危ないで、そいつから離れ!こっちにおいで!」

才狐の姿を認めた瞬間、綱江の顔に焦燥の色が走った。彼女は才狐を「化け狐に魅入られた哀れな一般人」と誤認したのか、必死の形相で怒鳴り散らす。

「白昼堂々、人をたぶらかすなんて、この極悪化け狐!狐宮君を放しなさい!」


「誰がたぶらかしたっちゅうんどすか!ワタイはただ、才狐はんから頂いた油揚げを頂いとっただけどすえ!」

気狐は空中に浮いたまま威嚇して、綱江は今にも次の攻撃を仕掛けようと呪を唱え始めている。


「……なんで喧嘩してるんよ」

才狐は、激しい電光を放つ御札を気にする様子もなく、二者のちょうど中間に立ち尽くした。


怒りに震える神使の狐と、自らの正義を疑わない少女呪術師。

才狐は、境内で火花を散らす両者を見比べながら、感情の欠落した頭で、どうしたものかと静かに思案を巡らせていた。


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##「調律」への一歩と、和へ導くための静止


気狐は逆立った尾を激しく振りながら、信じられないものを見るような目で才狐を凝視した。


「この御転婆娘……まさか才狐はんの彼女さんどすか!?こんな物騒な殺生を厭わん娘が、才狐はんの連れ合いやなんてワタイは信じまへんえ!」

気狐の叫びは、静かな境内に悲鳴のように響き渡る。


その問いに対し、才狐は眉一つ動かさず、至極平坦な声で事実を訂正した。

「いや、ちゃうよ。彼女やない。僕が通ってる高校のクラスメイトや」


「そうどすか!ほな、ちょっと聞いておくれやす!この御転婆娘ときたら、なんや神社に入って来よった時から只者やない力は感じてましたけど、ワタイが食事中に、無防備な背中から近寄って来よったんですわ!最初は、ただの御参りに来た礼儀正しい子かと思うて、ワタイも油断してましたけど……不意打ちでいきなりビリビリ御札貼りつけよってからに!えらいこっちゃどすえ、ほんまにー!」


プンスカと鼻息を荒くし、憤慨のあまり空中を激しく上下する気狐。

対する綱江は、その言い分を「化け狐の戯言」と断じ、一切の耳を貸そうとはしない。


「黙れ化け狐!どうせ狐宮君を操って、自分に貢がせたんやろ!私はそんな化かし、絶対に見逃さへん!喰らえ!」


綱江は鋭い呪文を唱え、二枚の御札を同時に放った。

光の尾を引いて飛来する術式に対し、才狐と気狐は最小限の動きでそれを回避する。


「あ、ご、ごめん狐宮君!ちょっと化け狐!狐宮君から離れえや!」


「ちょっと、危ないやん。とりあえず、双方とも落ち着いてや」

才狐がなだめるように割って入るが、綱江は逆に焦燥の色を深めて叫んだ。

「狐宮君、ほんまに危ないから!ほら、狐宮君までその化け物に巻き込まれる!こっちにおいで、私の後ろに隠れとき!」


彼女の瞳にあるのは、濁りのない「正義」だ。

それゆえに、才狐が自分より優れた術者である可能性など、微塵も疑っていない。


その頑なな態度に、気狐のプライドが爆発した。

「かーっ!何をヒロイン気取っとるんどすか、この娘は!守られるんは、あんたの方どっしゃろ!才狐はんの実力はな、あんたの何枚も上なんや!釈迦に説法、仏様に加護どすえ!」


「……え?」


気狐の言葉に、綱江が虚を突かれたように目を丸くした、その瞬間。


「あかん、もう勘弁なりまへん!いっぺん、その減らず口を塞いで、痛い目見せな気が済みまへんわ!」


逆鱗に触れた気狐が、全身から眩いばかりの金色の霊気を放ち、攻撃の構えを見せた。

その圧に、綱江が思わずたじろぐ。


「そやから、双方とも落ち着いてえや」

才狐は、爆発寸前の霊気の渦の真ん中で、静かに声を張った。

「気狐さん、あんまり暴れたら、後で妖古さんにこっぴどく叱られますよ。ええんですか?」


「……だって~……ワタイ、何も悪いことしてへんのに~!」

妖古の名を出され、気狐は一瞬怯んだものの、未だに不満げな様子を隠さない。


才狐は、ふと空を見上げた。

姿は見せずとも、師匠である妖古は、この状況を全て把握しているに違いない。


(……多分、妖古さんはお気づきや。でも、助けには来はらへん。……ああ、そうか。僕にこの場を解決しろと言うことか。これも、一つの『修行』やと)


ふと、才狐の脳裏に、先日目撃した二人の背中が鮮烈に蘇る。

圧倒的な解呪の力を持ちながら、一度も術を使うことなく言葉と筋道だけで場を収めた、あの呪術師。

そして、菩薩のような慈悲深い微笑みで、荒れ狂う土地神の怒りを優しく諭した、あの女性住職。


彼らは、他を圧倒する力を持っていながらも、その力を誇示することはしなかった。

彼らがなした事は「制圧」ではなく、世界の歪みを正し、平穏を取り戻す「調律」であったはずだ。


(……僕も、あのお二人のように。力任せではなく、この歪んだ場を調えたい)


才狐の無機質な瞳の中に、静かで確固たる決意の火が灯った。

彼は、震える手で次の御札を構える綱江と、牙を剥き出しにする気狐の間へ、一歩、迷いなく踏み出した。


感情は無い。

だが、憧れはある。

才狐は、少年呪術師としての自分なりの「答え」を導き出すため、穏やかに、しかし凛とした佇まいで動き出した。


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##相容れぬ正義と沈黙


一触即発の殺伐とした空気が、稲荷神社の境内に重く立ち込めている。

鋭い呪力を持った御札を構える綱江と、金色の霊気を逆立てる気狐。


その爆発寸前の「動」の真ん中で、才狐は「静」を保ったまま一歩前へ踏み出した。


彼はゆっくりと、しかし確かな意志を込めて、綱江に向かって深く頭を下げた。

「渡辺さん。こちらの気狐さんは、僕の大切な同胞と言うか、友達やねん。僕は御狐神社で修行中の身で、普段から色々とお世話になっている方なんや。そやから、どうか、その御札をしまってくれへんかな」


一切の抑揚を排した無機質な声。

けれど、才狐が冗談や嘘を口にするような人物ではないことを、この短い期間の学校生活で綱江は痛いほど知っていた。


「……友達?」

綱江は驚きに目を見開き、才狐と気狐を交互に見つめる。才狐の真剣な――といっても無表情ではあるが――その佇まいに押され、彼女は「くっ……」と唇を噛みながら、渋々と指先の御札を懐に収めた。


「……事情は大体わかったよ。気狐さんはここで油揚げを食べていただけなのに、渡辺さんがいきなり襲い掛かった、ということで間違いないかな?」


「そうどす!ほんま、えらいこっちゃな御転婆娘どすな!ワタイの綺麗な毛並みが焦げたら、どないしてくれるつもりやったんどすか!」

気狐は空中に浮いたまま、プンスカと鼻息を荒くして憤慨を露わにする。


対する綱江は、その抗議に怯むどころか、毅然とした態度で言い放った。

「だって、退治せなあかんやん!」


その一点の曇りもない断言に、才狐は不思議そうに首をかしげる。

「え?……なんで?」


「なんでって……そいつ、妖怪やんか!怪異やもん、見つけたら退治せな!」


「……なんで怪異やったら、退治せなあかんの?」

才狐は、煽るわけでも皮肉を言うわけでもなく、心の底から理由がわからないという顔をして問いかけた。


「だって、そういうもんやん!昔からそう決まってるもんやし、危ないし、悪いことするに決まってるやん!」

綱江は必死に正論を積み上げようとするが、才狐の静かな眼差しに、逆に焦りを募らせていく。


「狐宮君、なんでそんなんと友達なん?……もしかして、既に乗っ取られてるん?そうや、絶対そうやわ!狐に化かされて、貢がされてるんやわ!狐宮君、危ないから今すぐうちの神社においで!私の御祖父ちゃんと御婆ちゃんは専門家やから、何とかしてもらえるように頼んでみるし、私も手伝うから!」


綱江は才狐の腕を掴まんばかりの勢いで身を乗り出す。

彼女の中では、人間が怪異と対等に交流するなど、あってはならない「異常事態」なのだ。


「いや、僕は誰にも乗っ取られてへんよ」

「じゃあ、なんでそんなこと言うん!?化け狐に貢いでるなんて、絶対におかしいやん!さっき油揚げを買ってたのも、そいつに貢がされてるんとちゃうん?」


「ちゃうよ」

才狐は淡々と、誤解を解きほぐすように言葉を継いだ。

「確かに、神様への御供えという意味で、貢物でもある。けれど、あくまで油揚げは僕からの『お供え物』なんや。僕がしたくてしていることで、強制されたわけやない。僕と気狐さんの仲は良好やで。渡辺さんの言いたいことは、今ので大体わかった。渡辺さんと僕とでは、怪異に対する価値観や考え方が、根っこのところから色々と違うみたいや」


才狐は、そこで一度言葉を切ると、再び綱江に対して静かに頭を下げた。

「その違いは、時間をかけて理解していけばええから。ただ、ここでは一旦、喧嘩腰はやめてくれへんかな?お願いします」


「…………」

綱江は、下げられた才狐の頭をじっと見つめ、長く沈黙した。


彼女の中にあったのは、祖父母から教わった「不浄を祓う」という絶対的な正義。

けれど、目の前の少年が放つ、誠実でいてどこか寂しげな「和」の気配が、彼女の頑なな心を微かに揺さぶっていた。


「……狐宮君がそこまで言うなら、こいつは……今回は、勘弁しとく」

綱江はポニーテールをバサリと揺らし、顔を背けるようにしてそう告げた。


「勘弁したるんはワタイの方どすえ!才狐はんに免じて、ワタイも一旦矛は納めといたりますわ!」

気狐も負けじと、空中で腕組みをしてフンと鼻を鳴らす。

プンスカと怒り冷めやらぬ様子ではあったが、才狐の顔を立てて、それ以上の攻撃は控えることにしたようだ。


「……ほな、また来週、学校で。じゃあね、狐宮君」

綱江はどこか釈然としない表情を浮かべたまま、早足で神社から出てバス停の方へと向かっていった。


彼女の背中が完全に消えるまで見送ってから、才狐は深く、長いため息を吐き出した。

「……フゥー……」


どっと全身の力が抜けていくような感覚。

術を使って物理的に制圧するよりも、言葉を尽くして互いの正義を調律する方が、遥かに精神を消耗する。


「やれやれ、何とかなった、かな……」

逢魔が時が迫る境内で、才狐は自らの震える指先をそっと見つめた。


憧れた大人たちのような、完璧な解決には程遠いかもしれない。

それでも、血を流さず、誰かを傷つけることもなく場を収めたという事実は、修行中の才狐にとって、確かな一歩としてその胸に刻まれていた。


気狐はそんな才狐の様子を察したのか、そっと彼に寄り添い、まだ袋に残っていた油揚げを一枚、「ほれ、お疲れさんどす」と言わんばかりに差し出すのであった。


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##欠落した秘儀と、北から迫る「怒り」


騒がしかった境内に、再び夕暮れを迎えようとしている神社の静寂が戻ってくる。

才狐は、気狐が差し出してくれた油揚げをありがたく受け取ると半分に分け、共に並んで咀嚼しながら、隣の神使に向かって深々と頭を下げた。

感情を失っているとはいえ、クラスメイトから不当な攻撃を受けたこと、そしてそれを止めるのが遅れたことへの、彼なりの誠意であった。


「才狐はんが、そんなに気に病むことはありまへんえ。まあ、あの御転婆娘の事情も、わからんでもありまへんしなあ。あの子はあの子で、きっと小さい頃から『怪異は悪いものや』と、厳しゅう教えて来られたんどっしゃろなあ。育った環境が違えば、正義の形も変わるもんどす」

気狐は、まだ少し逆立っていた毛並みを器用に整えながら、遠くへ消えた少女の背中を追うように溜息をついた。


「僕からも、もう一度彼女と話をしてみます。彼女なりの正義があるのは分かりましたが、だからといって無闇に他者を傷つけて良いわけではないですから。……それで、御札の影響は大丈夫なんですか?」

才狐が心配そうに視線を向けると、気狐は金色の瞳を細めて「ふふん」と鼻を鳴らした。


「ビリビリしよったけど、まあ、心配あらしまへん。あの実力やと、そこらの野狐やこと喧嘩したら勝てますやろけどね。呪術師としては、やっと中級にいけるかなあ、っちゅうところどっしゃろ。正直なところを言わせてもらえば、呪術師としての格は、才狐はんの方が確実に上どすなあ」

気狐は感心したように頷き、再び深い溜息を漏らす。


「ジャンルは、少し違うみたいですけどね」

「実際に術を食ろうてみた感じ、そのようどすねえ。あの娘は『討つ』専門ちゅうか、荒々しいっちゅうか。才狐はんは『調える』事も覚えてくれてはりますさかい。まあ、何にせよ、才狐はんが来てくれて助かりましたわ。おおきになあ」


「いえ、僕は何も……。きちんと話をして、彼女には気狐さんへの心からの謝罪をした上で、仲直りするように僕からも改めて言うておきます。お騒がせしました。本当に、あれ以上の喧嘩にならんで良かったです」

才狐は安堵の息を吐くと、思い出したように鞄からあの一冊を取り出した。

「気狐さんがいらっしゃったら、是非聞こうと思ってたことがありまして。これなんですが……」


才狐が差し出したのは、文芸部の女子生徒から借りた『日本の怪談』である。

その「こっくりさん」の項目を開いて見せると、気狐は一読した瞬間に、その美しい眉を不快そうに顰めた。


「……こりゃ、あきまへんなあ。概要しか書いてへんっちゅうレベルどすがな。肝心のお帰り頂くための儀式も、使うた後の道具はどうするかとか、そういった禁忌に関わることがなんも書いてへん。これは宜しゅうありませんえ。本の内容が間違うとるか、大事なところを端折り過ぎとるか……。娑婆で売られとる本の、悪い典型どす。これでは、招くだけ招いて、後は野となれ山となれと言うとるようなもんどすえ」


気狐の言葉に、才狐はやはり、と納得したように頷いた。

「そうですか。有難う御座います。……それじゃあ、この本の持ち主に返す時に、その危険性をきちんと伝えておきますね。それでは、また来ます」

「はいよ。妖古様にも、宜しゅう伝えておくれやす」


才狐は本を大切に鞄にしまい込み、夕闇が本格的に降り始めた神社を後にした。


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こうして、才狐は気狐と別れてからショッピングモールへと戻り、妖古に頼まれていた明日の朝食用のパンを買い求める。


レジ袋を下げてモールの出口に向かおうとした際、才狐の脳裏に、数日前の妖古の言葉が蘇った。

『来客用の茶菓子がのうなっとるから、時間ある時でええから買うときよし。まあ、殆ど来客なんぞなかろうがの、突発的な来客かてあるかもしれんじゃろ』


せっかく外出したのだ、この機会を逃す手はない。

才狐は学校方面行きのバスに乗り込み、揺られること数十分。

古都高等学校の近くにある、京都でも名の知れた和菓子の老舗本店へと向かうため、バス停を降りた。


風は穏やかで、街灯が灯り始めた街は、平和そのものに見えた。


だが、和菓子屋の暖簾を潜ろうとした、その瞬間――。

才狐の全身の産毛が逆立つような、凄まじい衝撃が精神を突き抜けた。


「……っ!?」


北の方角。

そこから、形を成した「絶望」と「怒り」が混ざり合ったような、おぞましい霊気の波動が微かに、しかし確かな重圧を伴って流れてくる。

ただの怨霊や怪異の類ではない。

何かが、決定的に「壊れた」かのような、剥き出しの敵意。


才狐は和菓子屋へ向けていた足を止め、弾かれたようにその波動の源流へと視線を向けた。

無表情だった少年の顔に、緊迫の火が灯る。


(……あっちや。放っておけば、取り返しのつかんことになる気がする!)


才狐はパンの入ったレジ袋を握り直し、夕闇を切り裂くようにして北の方角へと走り出した。

平和な学校生活の裏側で、何かが今、最悪の産声を上げようとしていた。


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##北の社と、跳ねる一本足の執念


「……あっちや」

才狐はレジ袋を固く握り直し、夕闇が濃くなり始めた路地を北へと疾走した。


先程まで感じていた穏やかな夕餉の予感は霧散し、代わりに鼻を突くのは、焦燥と激しい霊力の衝突による「焦げた」ような臭気。

数分後、視界に飛び込んできたのは、住宅街の合間に無理やり押し込められたように鎮座する、古びた赤の鳥居。

京都の街角には珍しくもない、ひっそりと佇む神社だった。


鳥居を潜り、石畳の参道へと足を踏み入れた瞬間、才狐は「それ」を見た。


「ひ、ひぇぇぇ……っ!」

「助けて、誰か……っ!」

本殿を背に、腰を抜かして震えているのは文芸部の女子生徒三人。


その三人を庇うようにして、一歩前に立ち塞がっているのは渡辺綱江だった。

彼女の顔は劣勢と感じていることが明らかにわかるようで紙のように真っ白だったが、その瞳だけは先程の比ではないほど険しく、果敢に敵を睨み据えている。


そして、鳥居を背にして彼女たちの退路を完全に断っている「影」が、ぴょうぴょうんと、軽快極まるフットワークで石畳の上を跳ねていた。


それは、一本の足に一つ目、そして裂けた口から長い舌を突き出した、古びた唐傘。

唐笠お化け――古来より語り継がれる傘の怪異が、そこにいた。


「……あの、一体何があったんですか?」

才狐は意を決して鳥居の真下まで歩み寄り、場に不釣り合いなほど冷静な声で尋ねた。


「え、狐宮君!?な、何してんの……危ないから逃げ!ここは私が何とかするから、早く!」


綱江が悲鳴に近い声を上げる。

だが、その声に反応したのは怪異の方だった。


「なんじゃい、坊主。こいつの彼氏け?」

唐笠お化けはぴょんと空中で一回転し、才狐の方を振り返った。

その動きはまるでボクサーのシャドーボクシングのように鋭い。


「邪魔するんなら、お前から先に『傘キック』喰らわしたろか?ああん?」

シュッシュッ、と空気を切り裂く音が響く。


その隙を、綱江は見逃さなかった。


「はぁっ!」

綱江は渾身の力を込め、隙を見せた傘の背中に向かって新たな御札を叩きつけた。


バシィィィッ!

激しい破裂音と共に火花が散り、傘の表面が黒く焦げたような衝撃が走る。


「やった……!」


綱江が勝利を確信したような声を漏らした、その瞬間だった。


「――っっ痛てぇぇぇ!!このクソガキ、やりよったなボケが!!」

唐笠お化けは退治されるどころか、さらに凄まじい怒気を纏って向き直った。


「お前んとこのジジイといい、なんでお前ら一族はそんなに好戦的で喧嘩売りまくりよんねん!俺どんは妖怪やけどなあ、仏の顔も三度までやぞ!しゃーきあげんぞ(ボコボコにすんぞ)ワレェ!!」

怪異の叫び声に、背後の三人は「ひぇっ!?」と涙目で抱き合った。


「大丈夫やから!私が絶対に退治したる!」

綱江は震える手で次の御札を構え直すが、その霊力は先程よりも明らかに乱れている。


「その程度で俺どんに勝てるわけないやろが!身の程を弁えろや、アホたん!」

唐笠お化けは再びシュッシュッとリズムを取り、一本足で目にも止まらぬステップを刻み始めた。

その姿は、格闘技のような動作へ昇華させたかのような異様な迫力がある。


「まずい……。これ以上は、どちらも止まらなくなる」

才狐は直感した。


私怨のような何か執念を持っていそうな怪異と、「怪異は討つべきもの」と信じて疑わない少女。

このままでは、取り返しのつかない傷が両者に刻まれる。


才狐は弾丸のような速度で石畳を蹴った。

そして、激突寸前の二者の間に、割り込むようにして素早く滑り込む。


「――そこまでにしてください」

少年の無機質な声が、殺気に満ちた境内に静かに響き渡った。


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##傘の怨念と、静かなる「理」の天秤


唐笠お化けは、一つ目を見開いて才狐を凝視した。


「おうおう、彼氏のお出ましってか、ヒーローやのうワレ……って、なんやこの感じ、お前も呪術師かいな。しかも……その御転婆娘とは、なんか雰囲気ちゃうやんけ。まあええわ、何にせよ、ほんまにお前らはあの時といい、徒党組んでようやるわ!」

呆れたような溜息を吐きながら、一本足で器用に重心を揺らしてシャドーボクシングのようなステップを刻む。


才狐はその殺気立たない様子に、静かに問いを重ねた。

「……あの時って、一体何があったんですか?」


才狐の冷静な声に、唐笠お化けは竹の骨を軋ませながら、忌々しそうに語り出した。

「去年くらいやったか、こいつんとこのじじいの連れ共やったか。この近くの祭り、赤い綺麗な傘を使う祭り知っとるか?それを見物に来るんが俺どんの現代での恒例行事や。ほんでな、それが終わると暫く京都堪能しよるんやけど……祠とか神社とかで寛いでたら、まあ、人間共はなあ……」


「つまり、こちら側が、あなたになんかやってしもうたんですね?」


才狐の推察に、唐笠お化けはバサバサと傘の布を震わせて憤慨した。

「なんやお前、話わかる奴け?そやそや、えらいこっちゃんが言うとこの『やってしまいよった』をやってしまいよってん!汚い傘とか言うて蹴ったりなあ!ほんで、こいつのじじの連れ、老人会っちゅうんけ?ゴミ収集に出そうとしよったんよ!あんなんに挟まったら、俺かて痛いっちゅうねん!」

ドカドカと一本足で石畳を叩き、地団太を踏む怪異。


そのあまりに切実な訴えに、背後の綱江が震えながら叫んだ。

「だ、だって、あんたが悪さするんがあかんのやろ!?」


「何もしとらんがな!むしろ悪さしとんのはお前らじゃボケ!人が横たわって寛いどったら、蹴っ飛ばしたりゴミ箱捨てたり!せめて傘立てに立てろや!そんで挙句にはゴミ収集車に投げ入れるとか、流石に頭来てなあ!暴れ出したら、こいつんとこのじじいとお仲間が徒党組んで、やれ調伏じゃーとかぬかしよってからに!流石に俺どんも多勢に無勢で立ち去った次第っちゅう話じゃ!」


「……それは、確かに、人間側が酷いと思います。申し訳ありません」

才狐は、怒るのは無理もないと理解し、その場で深く頭を下げた。


「なんや、彼氏の方はまともやな」


「僕は彼女達の誰の彼氏でもありません。それで、今回は何故、そんなに怒らはったんですか?」


才狐が淡々と尋ねると、唐笠お化けは裂けた口から長い舌をペロリと出し、本殿の前で震える女子生徒達を指した。

「おい、そこの三馬鹿娘!自分の口から説明せい!俺どんが街の祠にたてかかって寝とったら、汚い傘とか言うて蹴り飛ばして遊びながら帰ってた事、説明しろや!」


「……自分で全部言ってるやないですか」


才狐が冷静な真顔で突っ込むと、怪異は「まあ、そういうこっちゃ」と鼻を鳴らした。


「そやから、お灸据えたろう思うて叱ったったら、そこの御転婆娘がなあ……」

才狐は、真っ青になって震える文芸部の三人と、未だに戦意を削がない綱江を見比べた。


どうやら事の本質は、単純な「怪異の襲撃」などではない。

かつて人間側に手酷い扱いを受けた怪異が、今日もまた同じように無自覚な悪意に晒され、それが積もりに積もって、ついに堪忍袋の緒が切れただけなのだ。


才狐は、この和の乱れをどう「調律」すべきか、夕闇の境内で静かに状況を察し、思考を巡らせた。


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##羅生門の鬼と、傘の言い分


「とにかく、蹴られた分はきっちり蹴り返したるさかい、そこに並ばんかい!出来損ないの呪術師の御転婆は、きっつい蹴り喰らわしたらあ!」

唐笠お化けは、裂けた口を大きく開け、長い舌を震わせながら叫んだ。

一本足で器用にぴょんぴょんと跳ねるそのフットワークは、怒りの昂ぶりと共にますます鋭さを増していく。


「誰が出来損ないや!私はいっつも御祖父ちゃんに褒められてんもん!」

綱江は頬を真っ赤に染め、震える手で御札を構え直しながら必死に反論する。

彼女にとって、幼い頃から積み上げてきた修行と、大好きな祖父からの承認は唯一無二の誇りであった。


「妖怪即しばくっちゅうアホな脳みそは出来損ないじゃボッケエ!」

唐笠お化けは目玉をひん剥いて怒鳴りつける。

その背後では、文芸部の3人が互いに抱き合い、腰を抜かしたまま「ひぃっ……」と声を漏らして泣きじゃくっていた。


「とにかく、一旦双方落ち着きましょう。……そうや、ここにパンがありますし、これで手を打って頂くわけにはいきませんか?」

才狐は殺気立つ両者の間に割って入り、レジ袋の中から先程買ったばかりの香ばしい惣菜パンを差し出した。


無機質な少年の差し出した平和の提案に、唐笠お化けは一瞬動きを止める。

「パンやは嫌いやないけど、そんなんで買収されるわけないやろがい!俺どんのプライドをなんと心得とるんじゃ!」


怪異が再び足を踏み鳴らし、境内の空気が張り詰めたその瞬間。

背後の鳥居の方から地響きのような低い声が響き渡った。


「じゃあ、今日は俺持ちでええから、一緒に飯食いに行こうや。それで未熟もんを堪念したれ」


太く、そして圧倒的な質量を感じさせるその声に、境内にいた全員の視線が吸い寄せられる。

才狐もまた、聞き覚えのあるその力強い気配に、小さく息を吐いた。


そこには、軽く2メートルは超えるであろう、鋼のように筋骨隆々の体躯を持ったいかつい男性が立っていた。

シャツと上着にカーゴパンツというラフな格好だが、その背後から滲み出る威圧感は、並の怪異など一睨みで霧散させるほどのものである。


「羅生門さん、今晩は」

才狐が丁寧ながらも淡々と挨拶を交わす。


「おう、なんや知っとる気配が複数あると思ったら、やっぱり才狐と唐笠か。ほんで、唐笠は何で可愛らしい女子高生達を脅しとんねん?」

羅生門の鬼は豪快に笑いながら、大きな足音を立てて歩み寄ってきた。


「羅生門の兄貴!おばんです。聞いて下さいや、こいつらはねえ……」

唐笠お化けは、先程までの凶悪な面構えを一変させ、縋り付くような呆れた表情を作った。


しかし、羅生門の鬼はその大きな手で怪異の言い分を遮るように笑う。

「大方、そこらで寝転がってたら、その子らに悪さでもされたんちゃうけ?そやから、あんまり道端で転がってんなよっていつも言うてるやんけ。現代の京都は美化意識の高い政令指定都市なんやからな。不法投棄と間違われても文句は言えへんぞ」


「それはそれ、これはこれですがな!そもそもとして、物を大切にせんといかんっちゅうとんのや!最近の人間共は、ビニール傘があるから言うて、すぐ使い捨ててゴミ箱行にしよるし!付喪神信仰はどこへ行ってしもたんや、悲しいわ!」

唐笠お化けは再び憤慨し、竹の骨をバサバサと鳴らして抗議した。


「まあ、言わんとしてることはわかるし、お前の言い分は正論やがな。言いたい事は山ほどあるやろうけど、ここは俺に免じて赦したってや」


羅生門の鬼はそう言うと、大きな手のひらで唐笠お化けの頭の部分を、まるで子供をあやすように優しく撫でた。

その無骨な優しさに触れ、怪異の逆立っていた気配がみるみるうちに鎮まっていく。


「……まあ、羅生門の兄貴がそこまで言うんやったら、今回はこれくらいにしといたりますわ」

唐笠お化けは渋々と了承し、長い舌を収めて大人しくなった。


こうして羅生門の鬼の介入により、夕闇に包まれた小さな神社に、ようやく平穏な空気が戻り始めた。


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##強者の残照と、少女が知った深淵


静まり返った境内の空気に、羅生門の鬼が放つ圧倒的な「圧」が満ちていく。


その巨大な姿を見上げながら、才狐はいつもの無機質な声で、しかし深い敬意を込めて言葉を紡いだ。

「羅生門さん、一触即発のところを仲裁して下さいまして、本当に有難う御座います。あの、今夜は妖古さんと、どこかのお店で会食をされる予定やと伺っていましたが、お時間は大丈夫なんですか?」


才狐の問いかけに、羅生門の鬼はガハハと雷鳴のような声で豪快に笑い飛ばし、丸太のように太い腕を腰に当てた。

「おう、これからそっちの神社に妖古殿を迎えに行こう思て、この近くを通りかかったんよ。そしたら、なんやこの辺りでピリピリと喧嘩しとる不穏な妖気があったからな、野次馬根性で様子見に来たんや。ほんなら、才狐と唐笠、それにそっちの威勢のええ御嬢ちゃんらがおったっちゅう話や。なんや、色々と邪魔したのう」


「いえ、羅生門さんが来て下さらなければ、僕の手に負えない騒ぎになっていたかもしれません。お蔭様で助かりました」


才狐は丁寧にお辞儀をしたが、その隣で綱江は未だに衝撃から立ち直れずにいた。

綱江は、この場をたった一言で平定してしまった巨漢を、まるで伝説の英雄でも見るような眩い眼差しで見つめている。


彼女は震える膝を必死に押さえつけ、命の恩人であろう男性に向かって深く、折り目正しく頭を下げた。

「あの……有難う御座います。危ないところを助けて頂いたみたいで、感謝の言葉もありません。私は渡辺綱江と申します」


「まあ、俺はちょっと言葉で諭しただけや。気にするな」

羅生門の鬼は事も無げに言うが、綱江の胸の中では、彼が放つ底知れないオーラに対する好奇心と期待が、風船のように膨らんでいった。


自分よりも格上であるはずの唐笠お化けを、まるで悪戯をした子供を叱るように手懐けてしまった実力。

そんなことが出来るのは、自分たちが目指すべき道の頂点に立つ者以外に考えられなかった。


「あの……失礼ですが、あなたはやはり、どこかの高名な呪術師の方なのですか?それとも、大きな神社を束ねる宮司さんや、歴史ある家系の陰陽師等、そういった特別な御方なのですか?」


期待に胸を膨らませ、救世主の正体を暴こうと前のめりになる綱江。

それに対し、羅生門の鬼は僅かに表情を曇らせ、どこか憐れむような、それでいて試すような微かな笑みを浮かべた。


「いや、俺はなあ……。まあ、変な誤解をされたままなのも寝覚めが悪いし。今のうちに、はっきりと言うといたる方がお互いのためか」


その瞬間、羅生門の鬼の周囲の空気が、ズズズと地鳴りのような重低音を響かせながら凝縮し、密度を増していった。

綱江は、次の瞬間に目にした光景に、呼吸をすることさえ忘れて絶句した。


羅生門の鬼の両額から、肉を突き破り、骨を軋ませるような音を立てて、鋭く禍々しい漆黒の角が二本、天を突くようにして突き出してくる。

それは、どれほど強力な呪具を用いても決して再現できない、生命そのものが放つ圧倒的な「魔」の輝き、そして見まごうこと無き「鬼」そのものであった。


「――っ!あ、あぁ……!」

綱江の目が見開かれ、瞳孔が恐怖に収縮する。


反射的に腰の御札を掴もうとしたが、身体が金縛りにあったように硬直して動かない。

目の前の存在が放つのは、これまでの人生で一度も経験したことのない、本物の暴力と、魂さえも飲み干すような底知れない深淵の闇であった。

足がすくみ、牙を剥いた捕食者を前にした小動物のように、彼女はその場に崩れ落ちそうになるのを辛うじて耐える。


「怖がらんでええがな、とって食うたりせんから。まあ、一瞬で君と俺との実力差がわかるくらいには、ちゃんと修行しとるみたいやの。相手の方が実力は上っちゅう事がちゃんとわかるんも強さやで。それは褒めとくでな」


羅生門の鬼は豪快に笑うと、瞬時にその恐るべき角を、幻影であったかのように霧散させて引っ込めた。

だが、その後に向けられた視線は、鋭い刃のように綱江の未熟な精神を貫いた。


羅生門の鬼は急に真面目な、年長者としての厳しい顔つきになり、釘を刺すように綱江を見据える。

「御嬢ちゃん、これは俺からのお節介な忠告や。もし模擬戦がしたいんやったら、俺がいつでもいくらでも相手になったるから、まずは自分を磨け、身も心もや。ええな?それと、怪異と見たら、その背景も力も知らずに見境なく喧嘩売るんは、もうやめとけ。それは勇気やなくて、ただの無謀や。死に急ぐ必要はあらへんで」


「……はい」

綱江は、乾いた喉からようやくそれだけの言葉を絞り出すのが精いっぱいであった。

圧倒的な格の差を魂に刻み込まれ、か細い声で答える彼女のプライドは、今、静かに粉々に砕け散っていた。


「よっしゃ、ええ返事や。素直なんは伸びる証拠やからな。ほな、俺は唐笠連れて妖古殿のとこ行って、その足で飯食いに行くから。またな、元気な御嬢ちゃん達。ほんで才狐、気いつけて帰りや」

羅生門の鬼は表情を和らげると、大きく手を振り、未だに不満げにブツブツと文句を並べている唐笠お化けの背中を叩きながら、闇夜に溶けるようにして去って行く。


「はい。妖古さんもお待ちかねだと思います。本当に、有難う御座いました」

才狐は去り行く巨漢の背中に向かって深く頭を下げ、その大きな気配が街の喧騒に完全に消えるまで見送った。


住宅街の合間にひっそりと佇む小さな神社には、再び取り残された高校生五人と、痛いほどの静寂だけが戻ってきた。

恐怖と安堵が入り混じり、抱き合って泣きじゃくる文芸部の三人の少女たちの声だけが、夜の帳に寂しく響いている。

自分の無力さと、世界の広さを突きつけられた綱江は、折れたばかりの木の枝のように、その場に力なく立ち尽くしていた。


境内の隅から吹き抜ける夕刻の風が、冷や汗に濡れた彼女たちの肌を、容赦なく冷たく撫でて通り過ぎていった。


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##宵闇に現れた銀髪の少女と、えらいこっちゃな叫び


静まり返った境内の石畳の上で、才狐は手元に残ったレジ袋を静かに持ち直した。

ここが綱江の祖父母が守り、彼女が継ごうとしている大切な場所であることを改めて認識し、彼は震えが止まらない文芸部の女子生徒三人の前に歩み寄った。


「……今回のことは、災難やったね。でも、さっきの唐笠さんの言い分は、ごもっともやと僕は思うんや」

才狐の無機質な声が、夜の静寂に染み渡る。

「古い物には魂が宿る。付喪神という言葉があるように、粗末に扱えば彼らだって傷つくし、怒りもする。道端にあるものを汚いと言って蹴飛ばしたり、ゴミのように扱うのは、もうやめとき。それは、自分たちの安全を自分で捨てているのと同じことやから」


才狐はさらに、鞄から例の『日本の怪談』を取り出し、月明かりの下でその表紙を指し示した。

「それと、この本やけど……その筋に詳しい方に確認したら、儀式の記述が大幅に端折られていたり、間違った手順が書かれていることがわかった。素人が安易に手を出すには、あまりに欠陥が多い。返却する時に持ち主である君らにも伝えておくけれど、二度とこれを使って怪異を呼び出そうとはせんといて。わかった?」


才狐の淡々とした、しかし有無を言わせぬ説得力に、女子生徒たちは何度も何度も小さく頷いた。


「……はい。ごめんなさい、本当に助けてくれてありがとう。……失礼します!」

三人は縋るような感謝の言葉を残し、蜘蛛の子を散らすようにして足早に鳥居を潜って帰って行った。


そして境内には、才狐と綱江の二人だけが取り残された。

月は雲に隠れ、街灯の届かない本殿の陰は、先程の羅生門の鬼の残照を宿しているかのように深く沈んでいる。


「……動けへんかった」

綱江が、絞り出すような低い声で呟いた。

彼女は拳を白くなるまで握りしめ、地面を見つめたまま悔しさに肩を震わせている。


「退治せなあかん鬼が、目の前にいたのに。……それどころか、あんな怪物に助けられて。傘のお化け一つ、私は……私一人の力では、敵わへんかった……」


歯ぎしりの音が、静かな境内に痛々しく響く。

幼い頃から積み上げてきた自分の正義と、祖父母に褒められてきた誇りが、あまりにもあっさりと打ち砕かれた衝撃は計り知れない。


「あの、その事で話があるんやけど……」


才狐が、彼女の頑なな心を解きほぐそうと言葉を紡ごうとした、その瞬間……。

不意に、才狐の首筋に冷やりとした視線が突き刺さった。


(……誰かいる)


才狐は反射的に、誰もいないはずの鳥居の方へと鋭い視線を向けた。

綱江もまた、彼の異変を察知して、涙の滲んだ瞳でその視線の先を追う。


そこには、先程までは影も形もなかったはずなのに、いつの間にか一人の小柄な女の子がポツンと立っていた。


その女の子は、黒いベレー帽を深めに被り、ズボンタイプの黒いセーラー服を凛々しく着こなしている。

長く輝く銀髪が夜風に揺れ、吸い込まれるようなまん丸の瞳が、二人をじっと見つめていた。

その口元は、独特な台形の形に開いており、どこか超然とした雰囲気を纏っている。


「あ」

才狐が、その意外な来訪者に小さく声を上げた。


すると……。


「えらいこっちゃ」

女の子は、表情を変えずにポツリとその一言を放った。


「え……?誰、この子」

突然の闖入者に、綱江は困惑の声を上げる。


「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や。才狐あんちゃんの御友達。」

少女は淀みのない口調で自己紹介を済ませると、台形の口をそのままに才狐へと視線を送った。


「え、そうなん?狐宮君の……お友達?」


「うん。……こんばんは、えらいこっちゃん。どうしたん?この神社に参拝に来はったん?」


才狐が不思議そうに挨拶を返すと、えらいこっちゃ嬢は小さく頷いた。

「こんばんはの御疲れちゃん。えらいこっちゃな大仕事、才狐あんちゃんは大活躍……でもな」


えらいこっちゃ嬢は、すい、と小さな指を綱江の方へと向けた。

「そっちのおねえやんは、えらいこっちゃな喧嘩っ早さ。えらいこっちゃな御転婆おねえやん」


びしり、と。

彼女の放った言葉は、先程の羅生門の鬼の忠告以上に、綱江の胸に真っ直ぐに突き刺さった。


「え……?私のこと?」


綱江が呆気に取られていると、銀髪の少女は大きく息を吸い込んだ。

そして。


「えらいこっちゃーーーーーー!!!」


夜の静寂を切り裂くような、凄まじい声量の叫びが境内に轟いた。

それは単なる悲鳴ではなく、世界の不条理や目の前の混乱の全てを凝縮したような、魂の咆哮。


突然の出来事に、綱江は言葉を失って立ち尽くし、才狐はただ静かに、夜空に消えていくその叫びの余韻を聞いていた。


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##炎を纏う魔改造牛車と、非日常への御案内


えらいこっちゃ嬢の、鼓膜を震わせるような凄まじい叫び声が夜の境内に響き渡ると、どこからともなくゴォォォ……という不気味な地鳴りと、何かが激しく燃え盛る音が近づいてきた。


夕闇を引き裂くようにして現れたそれは、一見すると日本史の教科書に載っていそうな優雅な平安の牛車。

しかし、その姿はあまりにも異様だった。


片方の車輪だけが猛烈な勢いで赤々と燃え盛り、車体には不釣り合いな運転席が設置されている。

古風な木造建築と現代的な機械が無理やり融合したような、明らかにこの世の乗り物ではないという風貌の「魔改造牛車」が、石畳の上を滑るようにしてやって来た。


キィィ……と、火の粉を散らしながら三人の前で停車すると、運転席の窓がスッと開く。

そこには、黒い着物を艶やかに着こなし、綺麗な長い黒髪を後ろで一つに束ねてベレー帽をかぶっている着物美人が、優雅に微笑みながら手を振っていた。


方輪車かたわぐるまねえちゃん、御迎えありがとちゃん!才狐あんちゃんと、えらいこっちゃな御転婆おねえやん二名様!行き先は『摩訶不思議食堂』!」

えらいこっちゃ嬢が元気に告げると、重厚な牛車の扉が開き、彼女はぴょんっと軽やかな動作で中に飛び乗った。


「お待っとさんですー。ふふ、そちらの御嬢さん。いきなり殴りかかったり、御札を貼ったりせんといておくれやすー♪」

方輪車ははんなりとした京言葉で微笑み、警戒を解かない綱江に優しく手を振った。


「な、なんなん、これ……。牛車が燃えてるし、なんで人が……いや、人やないよね、これ……」

綱江は腰が抜けたような状態で、目の前の超常現象にただただ圧倒されている。


「えっと、こちらは方輪車さんと言う怪異や。とても親切な方やから、そんなに身構えんでも大丈夫やで。ほら、一緒に行こか」

才狐は無表情ながらも、震える綱江の手を優しく引き、促すようにして二人で車内へと乗り込んだ。


二人が乗り込んだ後、バタンと扉が閉まると、車内の壁から「御勘定」と墨書きされた札を掲げた、白くて細長い腕がニューっと不気味に伸びてきた。


「ちょ、なにこれ!?幽霊の手!?」

綱江は咄嗟に身構え、懐の御札に手をかけようとする。


「大丈夫、これは御勘定を受け取るための腕やから」

才狐は慣れた手つきでスマートフォンを取り出し、掲げられた札を裏返した。

そこには意外にも最新のQRコードが貼り付けられている。


画面をかざすと、「チャリーン。毎度ありー」という軽快な電子音が車内に鳴り響き、運賃の1000円が即座に支払われた。

才狐がさらに、買ってきた惣菜パンをその手にそっと乗せると、白い腕は満足げにニューっと壁の奥へ引っ込んでいった。


「毎度ー。ほな、出発しまっせー♪」

方輪車の陽気な声と共に、牛車は一気に加速した。

車輪の炎が夜道を赤く照らし、物理法則を無視したような滑らかな加速に、綱江は座席の縁を必死に掴む。


「あの、狐宮君……。君、随分と慣れてるみたいやけど。……いっつも、こんな事してんの?怪異をタクシー代わりに使うなんて、正気やないわ」

綱江は青ざめた顔で、未だに信じられないものを見るような目を才狐に向けた。


「いっつもっていうわけやないけど。最近は、目的地が同じなら乗せてもらう機会もあるかな。歩くより早いし」

才狐は揺れる車内でも姿勢を崩さず、淡々と無表情で答えた。


「四六時中、えらいこっちゃな戦闘態勢。そんなんじゃ、美味しい御飯も味がせえへん、えらいこっちゃな勿体なさ」

えらいこっちゃ嬢が、座席で短い足をぶらぶらさせながら、核心を突くようにびしっと指摘した。


「だ、だって、そりゃそうなるやん。妖怪がいて、燃える車に乗せられて……。警戒せえへん方がおかしいやろ!」

綱江は必死に反論したが、才狐のあまりに平然とした横顔と、銀髪の少女のどこか突き抜けた態度を前に、どうしても自分一人が空回りしているような奇妙な感覚に陥る。


彼女は固く拳を握りしめたまま、どうしても警戒を解くことができず、ただ流れていく夜の景色を凝視し続けていた。


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##地蔵店長の微笑みと、異界の暖簾


激しく燃え盛っていた方輪車の車輪が、その勢いを緩めるように火花を小さく散らし始める。

牛車はやがて滑らかに減速して、街の喧騒から切り離されたような、しっとりと落ち着いた木造の綺麗な建物の前で静かに停車した。

完全停車してから客席の扉が開くと、えらいこっちゃ嬢が待ってましたと言わんばかりにぴょんっと勢いよく外へ飛び降りる。


才狐もそれに続き、未だに事態を飲み込めずに固まっている綱江の手をそっと取り、エスコートするようにして優しく地面へと降ろしてあげた。

二人の足がしっかりと地に着いたのを確認すると、バタンと客席の扉が閉まる。


「毎度ありー。ふふ、ほな二人とも、ゆっくりデート楽しんで下さいやー♪」

方輪車は運転席から悪戯っぽく微笑みながら手を振り、再びゴォォォ、と炎の音を響かせながら闇夜の向こうへと去っていった。


「デートって……。ちょっと、変な誤解されたままやんか」

綱江は頬を僅かに朱に染め、困ったような溜息を吐きながら、隣に立つ才狐の横顔をちらりと盗み見る。

月明かりに照らされた彼の横顔は、一切の感情が削ぎ落とされているとはいえ、端正に整えられた顔立ちをしているのは確かであると、と内心で認めざるを得なかった。


しかし、すぐに彼女は目前にそびえる建物の威容に視線を奪われることとなった。

そこには、温かみのある木製の看板に、達筆な文字で「摩訶不思議食堂」と誇らしげに掲げられている。


「ただいまー!才狐あんちゃんと、えらいこっちゃな御転婆おねえやん二名様、御案内!」

えらいこっちゃ嬢は威勢よくそう叫ぶと、ガラガラ、と小気味よい音を立てて店の扉を開けて中へ入っていき、そのまま奥の厨房の方へと消えていく。


才狐もまた、立ち尽くす綱江に中へ入るよう手招きをして促し、彼女が足を踏み入れたのを見届けてから静かに扉を閉めた。

店内には、出汁の芳醇な香りと、炊きたてのご飯の甘い匂いがふんわりと漂い、張り詰めていた綱江の神経を優しく解きほぐしていく。


才狐は慣れた様子でカウンター席へ向かい、二人は自然と並んで腰を下ろした。

右側に才狐、そのすぐ左側に少し緊張した面持ちの綱江が座ると、カウンターの奥の暗がりから、ぬぅっ、と何かが静かに姿を現した。


それは、どこからどう見ても、路傍に佇んでいるはずのお地蔵さんの形をしていた。

しかし、石造りの冷たさなどは微塵も感じさせず、そこには慈愛に満ちた柔和なお地蔵さん特有の笑顔が浮かんでいる。


その存在がゆったりと合掌してお辞儀をするのを見て、才狐がスッと椅子から立ち上がった。

綱江もそれに習うようにして慌てて立ち上がり、これまでに経験したことのない神聖な気配に圧倒されながら、丁寧にお辞儀を返す。


お地蔵さんは、福々しい耳を揺らしながら、穏やかな声で話し始めた。

「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。才狐さん、そして御新規様、いらっしゃいまし。私はこの店の店長をさせて頂いております。皆さんは地蔵店長と呼んで下さいます」

地蔵店長は再び合掌してお辞儀をすると、まるで全てを見通しているかのような、温かな笑顔で挨拶をくれた。


「地蔵店長、お世話になります」

才狐が敬意を込めて短く挨拶を交わす。


「……私は狐宮君のクラスメイトで、渡辺綱江と申します。不躾にお邪魔してしまいましたが、お世話になります」

綱江は、相手が人間でないことは百も承知であったが、その圧倒的な慈悲のオーラを前にして、自然と最敬礼の姿勢を取っていた。


「綱江さんとおっしゃるのですね。ようこそお越し下さいました。不躾だなんてとんでもない事で御座います、今日という善き日に御縁を頂けたことを感謝致します。どうぞ、肩の力を抜いてお寛ぎ頂けましたら嬉しゅう御座います」


地蔵店長は満面の笑みで彼女を迎え入れ、その場にいるだけで心が洗われるような静謐な時間が、食堂の中にゆっくりと流れ始めた。


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##台所の妖精たちと、小豆の誘惑


挨拶が済むと、どこからともなく、ベレー帽を被っていた姿はそのままに、黒の作務衣の上に真っ白な割烹着を身に纏ったえらいこっちゃ嬢が、小走りにやって来た。

彼女は流れるような所作で、古風な和紙に丁寧に記された御品書きを二人に手渡す。


綱江がおずおずとそれを受け取って開いてみると、そこには「小豆膳」という心惹かれる文字が力強く書かれていた。

その内容は「小豆飯・南瓜のいとこ煮・あずきとひき肉の茶巾」という、小豆を主役にした情緒溢れる献立であった。


「私、小豆料理とか小豆の和菓子、ほんまに大好きやねん。自分でもこの小豆膳のメニューで、小豆ご飯と煮物を作った事はあるけど……本格的な和食の御店の小豆料理かあ……食べてみたい」

先程までの張り詰めていた表情が嘘のように、綱江の頬がふわりと緩んだ。


「ほな、えらいこっちゃん。小豆膳二人分お願いな」

才狐は綱江の反応を確認してから、御品書きをえらいこっちゃ嬢へと返した。


二人から御品書きを受け取ったえらいこっちゃ嬢は、満足げに鼻を鳴らす。

「えらいこっちゃな絶品小豆膳二人前!猫子さんの土鍋焚き小豆飯、凜華さんの南瓜のいとこ煮、ラビさんのあずきとひき肉の茶巾、えらいこっちゃな美味コンビネーション!」

彼女は元気にそう言い残すと、パタパタと小気味よい足音を立てて厨房の奥へと入っていった。


「皆さんの料理は、ほんまに絶品やからね。楽しみにしておくとええよ」

才狐の言葉は相変わらず無表情ではあったが、その響きはどこか誇らしげで、綱江には彼が心からこの場所を気に入っているように聞こえた。


「ねここさんとか言うてたけど、料理人の名前なんやろね。どんな人が作ってはるんやろ」

綱江は好奇心に抗えず、カウンター越しに首を長くして厨房の様子を覗き込んでみた。

しかし、そこで彼女が目にしたのは、日常の常識を遥かに超越した、驚天動地の光景であった。


厨房の最前線、紅い着物に真っ白な割烹着を羽織り、ピンと立った猫耳が出るように工夫された三角巾を付けた女性がいた。

黒髪で穏やかな顔立ちをしている彼女の名は猫子。

その可愛らしい猫耳を時折ぴくぴくと動かしながら、土鍋の蓋から漏れる蒸気の色と音に全神経を集中させ、絶妙な火加減で小豆飯を炊き上げている。


そのすぐ隣では、鮮やかな緑の着物に割烹着を纏った、瑞々しい緑色の肌を持つ女性料理人が腕を振るっていた。

茶色い髪を三角巾でまとめ、大きく尖った耳が特徴的な彼女はゴブリンの凜華である。

凜華は大きな菜箸を使い、コトコトと鳴る鍋の中で南瓜が煮崩れないよう、細心の注意を払って味を染み込ませていた。


さらに厨房の別の区画では、桃色の着物に割烹着を着た、常に閉じているような細い目と猫口笑顔が印象的な兎の女性、ラビが調理を進めていた。

彼女は半分に切った油揚げの中に、丁寧に粗熱を取った鶏ひき肉と玉ねぎの炒めものを詰め込み、フライパンの上で香ばしく揚げるように焼き上げていく。


「な、なんなん、これ……。怪異の料理人やんか……。しかも、みんな当たり前みたいに調理してはる……」

あまりに現実離れした「異形の料理人たち」の共演に、綱江は言葉を失って震える。


「皆さん可愛い姿してはって、料理も上手で、本当に凄いって思うよ。外見だけで判断するのは、もったいないことやからね」

才狐は淡々とした口調で、混乱する綱江を優しく諭すように言葉を添えた。


「そりゃまあ、確かに、凄いとは思うけど……色んな意味で。私の知ってる料理人の概念が、今、根底から崩れていってるわ……」

綱江はそう呟きながらも、厨房から漂ってくる抗い難いほど芳醇で香ばしい匂いに、胃の腑を直接掴まれるような感覚を覚えていた。


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##聖域の小豆膳と、溶けゆく頑なな心


厨房の奥から、湯気と共に芳醇な香りが漂い、料理人たちの熟練の技が形を成した。

猫子が綱江の前に、朱塗りの美しいお盆を音を立てず丁寧に置いてくれる。

続いて凜華が才狐の前に、同じく一分の隙もない動作でお盆を置く。


「「ごゆっくりー♪」」

猫耳をぴこりと揺らした猫子と、優しく微笑む緑の肌の凜華。

二人の料理人は、自分たちが作った料理への自信と客への慈愛をその笑顔に乗せ、静かに厨房へと戻っていった。


お盆の上には、目にも鮮やかな「小豆膳」が整然と並んでいた。

左にはふっくらと炊き上がった小豆飯、右には深みのある色合いの小豆汁。

そして中央には、黄金色の南瓜がいとこ煮として鎮座し、その横には狐色に揚がったあずきとひき肉の茶巾が添えられている。


「僕らは神社の人やから、まずは静座からやね」

才狐が座り直して静かに告げると、自然と背筋を伸ばした二人の声が重なる。


「静座、一拝一拍手」

幼い頃から厳格な作法を叩き込まれてきた綱江は、才狐の呼吸に合わせ、淀みなく一拝一拍手を行った。

静まり返った食堂に、乾いた柏手の音が一つ、清々しく響き渡る。


「たなつもの、百の木草も、天照す、日の大神の、めぐみえてこそ」


古来より伝わる食前の言葉を、二人は心を込めて唱え上げた。

最後に「頂きます」と、生命の恵みへの感謝を込めた祝詞を口にして、ようやく二人は箸を手に取った。


綱江は期待と緊張が入り混じる中、まずは南瓜のいとこ煮に箸を伸ばした。

南瓜の一片を口に運んだ瞬間、彼女の瞳は驚きに大きく見開かれた。

硬すぎず、それでいて形を失わない絶妙な歯ごたえの南瓜から、凝縮された甘みがじゅわりと溢れ出す。

そこに軟らかく煮込まれた小豆の滋味深い味わいが重なり、味付けの塩梅もまた、素材の持ち味を最大限に引き出す神業のような絶妙さであった。


「……美味しい。私、自分でも作るけど、ここまで美味しくは出来ひん。凄い、プロの味って、こんなに優しくて、こんなに美味しいんやね」

綱江は思わず「ほっこり」とした溜息を漏らし、自然と柔らかな笑顔を浮かべた。


続いて、揚げたての香ばしい匂いを放つ、あずきとひき肉の茶巾を口にする。

サクッ、と小気味よい音が響き、パリッと香ばしい油揚げの風味が口いっぱいに広がった。

中からは、丁寧に下ごしらえされた鶏ひき肉と玉ねぎの旨みが、小豆の食感と共に溢れ出してくる。

素材の味が驚くほど見事に引き出されており、またしても彼女の心は「ほっこり」と温かさに包まれ、顔がほころんでいく。


「これは作った事なかったけど、私も家で挑戦してみたいって思った。これは御箸が止まらへんね」

綱江は夢中になって食べ進め、次の一口が待ち遠しくてたまらないという様子で食を進めていく。


さらに小豆飯を一口頬張れば、それは単なる主食の域を超え、御飯だけで一つの世界が完成されているとさえ思わせる極上の逸品であった。

土鍋で炊かれた一粒一粒が立ち、小豆の香りが鼻を抜ける至福の味わい。

添えられた小豆汁もまた、五臓六腑に染み渡るような深いコクと優しさに満ちていた。


「朝食にこの小豆飯と小豆汁を出されたら、私、朝から何杯もおかわりしてしまいそう」

綱江は大好きな小豆料理の数々を心ゆくまで堪能していった。


いつしか彼女の頭からは、これが自分が打ち倒すべきだと頑なに信じていた「怪異」の手による料理であるという事実は消え去っていた。

ただただ、目の前の料理に込められた慈愛と技術に打たれ、張り詰めていた心も、こわばっていた笑顔も、陽だまりのような「ほっこり」とした幸福感の中に溶けていった。


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##小豆洗いの真髄と、宵闇の来訪者


一粒の米、一筋の小豆さえも無駄にすることなく、二人は静謐な空気の中で箸を進めていった。

神職の家系に育った者同士、その所作は流れるように美しく、最後には器が洗われたかのように磨き上げられた状態で、小豆膳のすべてが胃の腑へと収まった。


才狐が背筋を正し、「端座、一拝一拍手」と静かに合図を送る。

二人の柏手が一点の曇りもなく重なり、乾いた音が食堂の木造りの壁に心地よく反響した。

才狐が「朝よいに」と厳かに詠い始めると、二人の澄んだ声が再び重なり合い、食後の祈りが捧げられる。


「朝よひに、物くふごとに、豊受の、神のめぐみを、思へ世の人」


豊受の大神への感謝を込めた祝詞を唱え終えると、「御馳走様でした」という一言で、至福の食事の時間は一度締めくくられた。


すると、待機していたえらいこっちゃ嬢が、小柄な体躯からは想像もつかないほど器用な手つきで二人のお皿を下げ、音もなく厨房へと運んでいった。

「「有難う」」と二人が声を揃えてお礼を言うと、彼女は再びパタパタと戻ってきて、新しい御品書きを二人の前に広げて見せた。

そこには「デザート:小豆洗い特性鯛焼き」という、なんとも興味をそそる一文が記されていた。


「小豆洗いって……あの、川のほとりでショキショキ音を立てるっていう、あの小豆洗いのこと?」

綱江は不思議そうに首をかしげ、その愛らしい目を丸くした。


「恐らく、渡辺さんが想像してはる通りの御仁やと思うよ。僕はたまに、錦通りで御見かけすることがあるけど」

才狐が何気なく、茶を啜るような淡々とした口調で語る。


「え!?錦通りに小豆洗いがいてるん!?私、何度も買い物で行ってるけど、一度も見たことないで!?」

綱江は身を乗り出して驚愕の声を上げた。


「まあ、現世に仕入れに来てはる時は、人間の姿になってはるからね。馴染みすぎていて、普通の人には見分けがつかへんのやと思うよ」


「ああ、そうなんや……化けてはるんやね。えっと、妖怪の鯛焼きって……でも、さっきの料理があれだけ凄く美味しかったから、これも食べてみたいわ」

綱江は、怪異という存在への恐怖よりも、純粋な食への好奇心が勝り始めている自分に気づき、頬を緩ませた。


才狐が「ほな、えらいこっちゃん、二人分お願いね」と御品書きを返すと、えらいこっちゃ嬢は満足げに頷いて厨房へと戻っていった。

それから間もなく、香ばしい、甘く芳醇な香りが漂い始めた。

えらいこっちゃ嬢が厨房から、焼き立ての鯛焼きと、深い緑色をした熱い緑茶を御盆に乗せて持って来て、丁寧に、一滴の茶もこぼさぬよう音を立てずに置いてくれた。


「「有難う」」

二人が声を揃えて礼を言い、綱江は恐る恐る、まだ熱を帯びた鯛焼きを手に取る。


一口、その生地を齧った瞬間、彼女の顔は劇的に「ほっこり」とした幸福感に包まれた。

「なにこれ……!こんな美味しい鯛焼き食べたん、初めてや!私、小豆を使った和菓子には結構うるさい方なんやけど、これは間違いなく、今まで食べた中で一番やで!餡の炊き加減が神懸かってるわ!」


パリッとした表面の香ばしさと、中のもっちりとした食感。そして何より、小豆の風味を極限まで引き出した餡の深み。


「緑茶にも合うし、最高やん……!あかん、これ通い詰めて太ったらどうしよ。狐宮君、責任取ってよ」

綱江は「ほっこり」が止まらず、幸せそうに目を細めて鯛焼きを頬張る。


「ほんと、美味しいね。小豆洗いさんの技は、伊達やない」

才狐もまた、無表情ではありながらも、その声には微かな「ほっこり」とした安らぎが混じっていた。

熱い緑茶を喉に流し込み、二人は静かにデザートの余韻を堪能していた。


そんな、温かな湯気に包まれた平和なひとときの中。


ガラガラッ……。


静まり返っていた食堂の扉が開き、夜の冷たい空気が店内に一筋流れ込んできた。

新たな客の訪れを告げるその音に、才狐と綱江は同時に、入口の方へと視線を向けた。


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##宵闇の女鬼と、解けゆく調伏の鎖


静寂を破るようにして開いた扉の向こうから、夜の冷気と共に、この世の美という美を一点に結集させたかのような存在がしめやかに入店してきた。

その姿を目にした瞬間、店内の空気が一変する。


金色の双眸は、闇の中でも自ら光を放つかのように鮮やかに輝いている。

頭部の左右からは、漆黒に塗りつぶされた二本の鎌状の角が、美しく、しかし禍々しい曲線を描いて生え出していた。

長く艶やかな金髪はシュシュで左側にサイドテールとして束ねられ、現代のギャルを思わせる軽やかな風貌をしているが、身に纏っているのは黒地に金色の花刺繍が豪華にあつらえられた、息を呑むほどに美しい着物であった。

その着こなしは完璧であり、一挙手一投足に、長い年月を経て培われたであろう優雅さと気品が溢れ出している。


女鬼じょきねえちゃん、いらっしゃいの御疲れちゃん!えらいこっちゃなグッドタイミング!」

えらいこっちゃ嬢は、台形の口を元気いっぱいに開け、両腕をプロペラのようにぶんぶんと振り回して彼女を歓迎した。


地蔵店長もまた、柔和な微笑みを絶やすことなく、静かに合掌して深く頭を下げる。

「いらっしゃいまし。御疲れ様です、女鬼さん。ちょうど今し方、お二人が小豆洗いさんの鯛焼きを召し上がったところで御座います」


「今晩はの、おつー♪」

女鬼と呼ばれた金髪の美少女は、眩いばかりの笑顔を振りまきながら、鈴を転がすような声で挨拶を返した。


「羅生門さんから連絡貰ったよー♪デザートも食べ終わったみたいだし、まさにグッドタイミングだねー♪」

彼女は、モデルのような洗練された所作で、滑らかに店の奥へと歩みを進めてくる。


だが、その優雅な歩みとは対照的に、綱江の全身には凄まじい戦慄が駆け巡っていた。


二本の美しい角を目にした瞬間、彼女の脳裏には「鬼を調伏せよ」という先祖代々の教えが雷鳴のように響き渡る。

綱江は反射的に目を見開き、奥歯を噛み締めながら、椅子から飛び退かんばかりに身を構えた。


(鬼……!羅生門の鬼に続いて、今度はこんなところで……!)


しかし、どれほど鋭い感覚を研ぎ澄ませても、目の前の女鬼からは先程の羅生門のような圧倒的な威圧感も、物理的な力で押し潰すような霊圧も感じ取ることが出来なかった。

もし、あの象徴的な角が無ければ、目の前にいるのはただの、少し派手で飛び切り美しい人間の少女にしか見えない。

怪異であるという事実が、外見の記号以外からは一切読み取れないという異常なまでの「調和」に、綱江は隠し切れない驚愕と混乱に陥っていた。


「あはは♪羅生門さんが言った通りじゃん♪」

女鬼は、綱江の殺気立った様子など全く意に介さない様子で、軽やかに笑った。


「食べた後ですぐに暴れると、お腹痛くなっちゃうからね。せっかくの美味しいご飯が台無しになっちゃうから、大人しく座ってなよ♪」

彼女は、戸惑う綱江に向かって悪戯っぽくウインクをしてみせると、一切の躊躇なく距離を詰めてくる。


「渡辺さん、落ち着いて。大丈夫やから」

才狐が、横から静かに、しかし有無を言わせぬ落ち着いたトーンで彼女をなだめた。


そのあまりに平然とした才狐の態度に、綱江は毒気を抜かれたように肩の力を抜き、小さく吐息を漏らす。


「……うん」

彼女は震える膝を抑えるようにして、ぎこちない動作で座り直す。


女鬼は、事も無げに綱江のすぐ隣の席へと腰を下ろした。

至近距離から漂うのは、古風な香の匂いと、現代的な香水の香りが絶妙に混ざり合ったような、不思議と心を落ち着かせる香りであった。


「あーしを退治しちゃう対象かどうかはさ、あーしと話してからでも遅くないんじゃね?」

女鬼は柔らかな笑みを浮かべ、鏡のような金色の瞳でじっと綱江を見つめた。


「あーしは女鬼。読んで字の如く、女の鬼と書いて『じょき』って読むんよ。過去にはジョッキとか言ってた人もいたんだけど、流石にそれは無いわーって感じだよね♪ま、そんなわけで、よろー♪」

彼女は再び陽気にウインクをし、親愛の情を隠そうともせずに挨拶を差し出した。


「…………渡辺綱江です。狐宮君の、クラスメイトです。宜しく、お願いします……」

未だに緊張の面持ちを崩せないものの、綱江は神社の娘としての礼節を思い出し、か細い声で、しかし丁寧にお辞儀を返す。


退治すべき宿敵と食卓を共にするという、これまでの彼女の常識ではあり得なかった奇妙な一夜が、静かに深まっていくのであった。


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##黄金の瞳の問いかけと、揺らぐ宿命の刃


カウンター越しに漂う出汁の香りと、先程まで食べていた鯛焼きの甘い残り香が、店内の柔らかな灯りと混ざり合う。

その温かな空間に不釣り合いなほど鋭い二本の鎌状の角を揺らしながら、女鬼は美しい指先で顎を支え、綱江の顔を覗き込んだ。

金色の瞳には悪意など微塵もなく、ただ湖面のように静かで、どこか深遠な知性を湛えている。


「あは♪やっぱ綱江ちゃんってさー、特に鬼って存在は、理由とか関係なく全部ぶった斬っちゃう感じ?その鍛え上げた腕で、あーしらの首をポンポン飛ばすのが、綱江ちゃんの『正義』ってやつなのかな?」

女鬼の言葉は羽毛のように軽やかだったが、その問いに含まれた重みは、綱江の心に鋭い楔を打ち込んだ。


綱江は逃げるように視線を落とし、膝の上で固く握りしめた拳を見つめる。

「……だって、鬼は退治せなあかん存在やし。歴史的に観ても、私ら術師達の世界では、鬼は倒さな人間に危害が及ぶ恐ろしいものやって教わってきた。放っておけば、誰かが傷つく。それが、私の知ってる世界の理やもん」

絞り出すような綱江の声は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。


「そっかー。そりゃ悲しいねえ。まさに『鬼特攻娘』として、英才教育受けちゃってるじゃん。ま、綱江ちゃんは鬼だけじゃなくって、怪異を見つけたら片っ端からブッコミ決めちゃってるみたいだけどさ。あーしから見れば、ちょっと危なっかしくて見てらんないかな」

女鬼はフフッと、鈴を転がすような声で苦笑いを漏らす。


その余裕に満ちた仕草が、逆に綱江の意地を燃え上がらせた。

「だって、御祖父ちゃんも御婆ちゃんも、ずっとそう言うてたもん!怪異は人間にとって本質的に危険な存在やから、見つけ次第退治せなあかんって!私はそのために、血が滲むような思いで術の腕を磨いてきたんやから!それを……そんな風に言わんといて!」


感情が昂ぶり、綱江の瞳に涙が滲む。

自分がこれまで信じてきた努力の全てを、目の前の「敵」に否定されることが、何よりも辛かった。


「うん、確かに。綱江ちゃんが凄く努力してるのは、あーしにも伝わってくるよ。あの唐笠さんが御札ぶつけられて、本気で痛いって怒るくらいには鋭い術だったらしいからね。唐笠さんって、ああ見えて結構プライド高いから、『あんな小娘の札なんかに効かされてもうたやんけ!』ってプリプリしちゃってたって羅生門さんが言ってたくらいだし、本気で凹んでるらしいよ?」

女鬼はどこか慈しむような表情で、綱江の研鑽を否定せず、むしろ一つの成果として認めてみせた。


その意外な言葉に、綱江は毒気を抜かれたように視線を泳がせる。

「……あの羅生門の鬼がどうとか言ってたけど、あんたはアイツと知り合いなん?あの圧倒的な力を持った鬼と……」


「うん、大事な友達。羅生門さんも、唐笠さんも……それから、そっちにいる才狐君もね」


女鬼は隣で静かにお茶を啜っている少年に、眩いばかりの微笑みを向ける。

そして、女鬼は座り直し、綱江の正面からその金色の瞳を真っ直ぐにぶつけてきた。


「そんでさ……。綱江ちゃんは、あーしとは仲良くしてくれないの?」


「え……?」

綱江の口から、呆然とした驚きの声が漏れる。


「退治」するか「される」か。

その殺伐とした二択しか持たなかった彼女の人生に、唐突に投げ込まれた「親愛」という選択肢。

それはあまりに突拍子もなく、それでいて拒絶しがたい優しさを孕んでいた。


「才狐君が、わざわざここに連れて来てくれた彼女なんだから、あーしとしては是非仲良くしたいんだけどね。あ、そっか、まだ彼女じゃないんだっけ?でも、ここに一緒に来てくれるって事は、才狐君が特別に思ってるのは間違いないじゃん♪」

女鬼はケラケラと陽気に笑い、緊張で強張った綱江の肩を軽く叩くような仕草を見せる。


「僕としては、二人には仲良くして欲しいって思うてる。そして、女鬼さんだけではなく、怪異の皆さんとも。少なくとも、この摩訶不思議食堂の中では、喧嘩はせんといて欲しい」

才狐は湯呑みを静かに置き、感情の読めない無機質な瞳で二人を見つめた。

その言葉は淡々としていたが、彼がこの食堂で繋がった縁を大切にしたいという、確かな意志が感じられた。


「私は……。そんなん、急に言われても……」

綱江は戸惑い、言葉を失って口ごもった。


目の前にいるのは、角を持つ強大な鬼。

本来なら、迷わず呪符を投じるべき宿敵。


けれど、この店を満たす温かな空気と、隣に座る美しき鬼が放つ抗いがたい親愛の情が、彼女の心に築かれた、頑なな鉄の門をゆっくりと押し開けようとしていた。


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##渡辺の宿命と、金色の瞳に見透かされる秘め事


カウンターに漂う出汁の香りが、どこか異界の静寂を運んでくる。

女鬼は、手入れの行き届いた長い爪でトントンと机を叩きながら、首を傾けて綱江をじっと見つめた。

その瞳は、彼女の心の奥底に眠る「呪縛」を暴き出そうとしているかのようだった。


「ねえ、綱江ちゃん。小さい頃から調伏の歴史『だけ』を、耳にタコができるくらい聞かされてきたみたいだけどさ……。その他の話って、なんも聞かせてもらったりしたこと無いの?怪異達がどんな風に笑って、どんな風に今日を過ごしてるか……そんな、あーしらの『日常』を垣間見たこと、一度も無いのかな?」


問いかけられた綱江は、虚を突かれたように瞬きを繰り返した。

これまでの人生で、そんな問いを投げかけられたことは一度もなかったからだ。


「え……?そんなん、あらへんかった。実際に怪異と刃を交えるところなんて、高校生になって……あの、さっきの傘のお化けを御祖父ちゃんたちが退散させた時が初めてやったから。私にとって、あんたたちは『知るべき相手』やなくて、『祓うべき対象』やったんよ」


綱江は、自分を律するように背筋を伸ばし、己の存在意義を確かめるように力強く言葉を紡ぐ。


「それに、私は現代で鬼を退治するっていう、大事な役目を担ってるんや。私に『綱江』っていう古風な名前を付けてくれたのも、歴史としては血縁ではないし直系でもないけど、偉大なる先人にあやかる形で誇りを継いで、鬼や怪異達から護られるようにっていう、家族の、御祖父ちゃんの願いが込められてるんやで」


その言葉を聞いた女鬼は、意外そうにするどころか、「あはは♪」と鈴を転がすような声で愉快そうに笑った。

「なるほどねー。名前からしてそんなとこだろうなーとは、あーしも思ってたけどさ。綱江ちゃんってば、まさに鬼特攻バリバリ。名前が体を表し過ぎてて、逆に清々しいくらいだよ」


「え……?女鬼……さんって、私の名前の由来、知ってるん?」

綱江は驚愕に目を見開いた。

自分の名前が、平安時代の名将であり「鬼殺し」として名高い渡辺綱わたなべのつなに由来していることなど、同じ道を歩む者か、よほどの歴史好きでなければ気づかないはずだったからだ。


「そりゃあねー。あーしら鬼からすれば、その名字と名前を聞けば一瞬で『あー、なるほどねー』ってなるよ。特に、さっき綱江ちゃんが会った羅生門さんは、一発でピンときたはずだし。後は、そうだねー……橋姫さんあたりも、『あやつの後継者のつもりじゃろうかなあ』なんて、皮肉の一つも言ってそうだしさ」

女鬼は楽しげに語りながら、優雅で美しい所作でお茶を一口啜った。


「渡辺綱さんには、あーしらみたいなモノホンの鬼、特にさっき言った二人の鬼には、えげつないほど縁もゆかりもあるからね。あ、今の、二人ってところは『二鬼』って言い直さないとダメかな?綱江ちゃんとしたら、あんな化け物と人間を一緒にするなーって怒っちゃう?」

女鬼は、試すように優しく微笑んで見せた。


綱江は、完全にペースを乱されていた。

目の前の美少女が語る「羅生門」や「橋姫」という名は、彼女が幼い頃から恐ろしい伝承として聞かされてきた存在だ。

それがまるで、放課後の友だちの話でもするように身近に語られることに、猛烈な違和感を覚えていた。


「……よく知ってるやん。ようわかったね、私の名前の由来なんて」


「有名だからねー、源氏と鬼のやり取りって。それに現代の娑婆だと、ゲームの題材にもよく使われてるらしいじゃん?まさにジャパニーズファンタジーの王道!みたいな感じでさ。だから、学校の友だちの中でも、誰もあえて言わないだけで、実は気づいてる子も案外いるんじゃね?」

女鬼はケラケラと笑い、現代の流行を語る女子高生のような軽やかさを見せる。


「私、ゲームなんてせえへんから、そんなんわからんよ……」

綱江が呆れたように、しかし少しだけ毒気を抜かれた顔で返すと、女鬼はさらに身を乗り出した。

「あはは、そりゃそっか!綱江ちゃんも才狐君も、毎日勉強三昧修行三昧で、ゲームなんて興味なさそうだもんね。ま、あーしだって知識として知ってるだけで、実際にコントローラー持ったことなんて無いんだけどさ!」


「……どんだけ現世のことに詳しいんよ。あんた、現世のこと知り過ぎやん」


綱江が思わず、皮肉混じりの突っ込みを入れる。

すると、女鬼は金色の瞳を輝かせ、「あはは、今の良い突っ込みじゃん♪」と心から楽しそうに笑った。


圧倒的な強者としての恐怖、歴史の重み、そして現代的な軽薄さ――。

それら全てを兼ね備えた、得体の知れない、けれどどうしても心の底から憎みきれない美少女の鬼。

その奔放な振る舞いに、綱江は自分が築き上げてきた堅固な壁が、じわじわと、しかし確実に翻弄され、削られていくのを感じずにはいられなかった。


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##歪み始めた正義の天秤と、金色の眼差し


暖かな灯りに満ちた摩訶不思議食堂のカウンターで、綱江は目の前の湯呑みを見つめたまま、鼻を鳴らした。

隣に座る絶世の美貌を持つ鬼、女鬼が放つ、抗いがたい親愛の情。


それを振り払うように、彼女は冷ややかな声を絞り出す。

「ふん……どうせ女鬼さんは、羅生門の鬼達を庇いたいだけなんやろ?怪異の領域を人間が脅かしたから、仕方なく反撃しただけやとか……。そうやって人間側が悪かったっていう、お決まりのパターンで丸め込もうとしてるんとちゃうん?」

綱江の言葉には、代々「鬼を討つ」という宿命を背負わされてきた者の、意地と不信感が凝縮されていた。


だが、女鬼はその言葉を、鈴を転がすような笑い声で受け流す。

「まさか。そんな綺麗事で片付けようなんて、あーしは思ってないよ。渡辺綱さんをはじめとした源氏の武者達、それに安倍晴明さんとか、あの辺のガチで鬼を退けた人達の話、あるじゃん?あれさ、羅生門さんの件に関しては、完全に鬼サイドが悪いよ、うん。あれは流石に羅生門さん達がやり過ぎ。そりゃあ鬼特攻集団が編成されたりもするし、当時の人間も怒って腕を切り落としちゃうって。自業自得ってやつだねー」


ケラケラと、まるでお気に入りのドラマの失敗談でも語るかのように、同胞の凄惨な敗北を飄々と語る女鬼。


「え……?」

綱江は絶句した。


自らの同族が腕を斬り落とされるという、怪異の歴史においては屈辱以外の何物でもない壮絶な出来事を、この鬼の少女は「当然の報い」だと言い切ったのだ。

その予想だにしない客観性と、あまりの執着のなさに、綱江は言葉を失って金色の瞳を見つめ返すことしかできない。


女鬼は優雅な所作でお茶を一口啜ると、どこか遠い目をして言葉を継ぐ。

「平安の頃ってさー、なんでみんな、あんなに暴れちゃったんだろうねー、やってた事が全然『平安』じゃねえし。ほら、あの時代って、鬼が派手にやらかした話に事欠かないじゃん?酒呑しゅてんさんの伝説とか、枚挙にいとまがないっていうか。綱江ちゃんも今度、羅生門さんに会ったら直接聞いてみなよ。『あの時、なんであんなことしたんですかー?』ってさ♪」


「え……!?いや、そんなん恐ろしくて聞けるわけないやん!何されるかわからへんし、一捻りで消されてまうわ!」

綱江は、先程の羅生門の鬼が放った、天をも裂くような霊圧を思い出して身震いした。


だが、女鬼は意に介さず、ウインクをして見せた。

「そんなに警戒すること無いってば。あーしの友達だよ?案外、ガハハって笑いながら、当時の恥ずかしい失敗談として教えてくれると思うよ♪」


「ええー……。信じられへん……」

綱江は、自分の知る「鬼」のイメージが、この少女によって次々と塗り替えられていくことに激しい困惑を覚える。

恐怖の対象であったはずの存在が、あまりにも人間臭く、そして理性的に振る舞う現実に、思考が追いつかない。


そんな綱江の揺らぎを見透かすように、女鬼はふっと真面目な顔になり、その金色の瞳を真っ直ぐにぶつけてきた。

「そんで、当時は鬼サイドが暴れちゃったから、そりゃあ、やり返されたのはしゃーないとして。現代の鬼たちって、今の綱江ちゃんから見てどう思う?鬼もそうだし、今日出会った他の怪異達を見て、何を感じた?やっぱ、あーしらは理屈抜きで、絶対的な『殲滅対象』にしか見えないのかな?」


「それ、は……」

綱江は言葉を詰まらせた。


口を突いて出そうになった「退治すべき敵」という言葉が、重く喉に引っかかった。

今日一日に起きた出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。


直接対峙した、唐笠お化け。

確かにあれは凄まじい妖気を放ち、自分たちを脅かした。

けれど、その怒りの端緒は、文芸部の友人達が何の気なしに彼を蹴飛ばし、ゴミのように扱ったことにあった。

彼の言い分は「物を大切にしてほしい」という、至極全うな付喪神としての悲鳴だったのだ。


そして、あの稲荷神社の気狐。

「化け狐」と決めつけ、自分の方から問答無用で不意打ちの御札を貼り付けた。

しかし、相手がただ食事を楽しんでいただけだということも知らず、話し合う余地さえ与えずに攻撃を仕掛けたのは、自分の方だった。

気狐が怒って反撃しようとしたのは、正当な自衛でしかなかったのではないか。


(私は……今まで何を見てきたんやろ)


『あーしを退治しちゃうかどうかはさ、あーしと話してからでも遅くないんじゃね?』

女鬼の先程の言葉が、耳の奥でリフレインする。


一方的な憎悪と、教え込まれた選別。

それが絶対の正義だと信じて疑わなかった綱江の価値観。

だが、温かく微笑む鬼と、彼らと何の敵意も無く接している才狐の姿が、その鋼のような固定観念を、少しずつ、しかし確実に溶かしていく。


綱江は、自分の掌を見つめた。

そこには、怪異を討つために磨き抜かれた術の跡がある。


けれど、今この場所で、自分を包み込んでいるのは、敵意ではなく、安らぎと、抗いがたい「ほっこり」とした縁だった。

宿命と現実の狭間で、綱江の心は激しく波立ち、今まさに大きな転換の時を迎えようとしている。


これから彼女が歩む道は、昨日まで見ていた景色とは、決定的に異なるものになろうとしていた。


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##力の在り処と、少女を撃ち抜く問い


摩訶不思議食堂のカウンター、小豆の優しい甘みが舌に残る静寂の中で、綱江は自らの内面へと深く沈み込んでいた。

これまで疑うことさえしなかった価値観、身体に深く根付いたはずの「正義」という名の刃が、今、激しい濁流に揉まれるようにしてぐるぐると廻っている。


いつか自分も、あの厳格で誰からも慕われる祖父のように、人々に仇なす怪異を鮮やかに追い払いたい。

そして周囲の人々から「よくやってくれた」「流石は渡辺さんとこの孫娘だ」と称賛されるような存在になりたい。

そうなることで、伝統ある神社の家名は守られ、未来は安泰になるのだと、一寸の疑いもなく信じ続けてきた。


けれど、今日の出来事を通じ、彼女は自分の心の奥底に潜んでいた、もう一つの剥き出しの欲望に気づいてしまった。

それは、これまで血の滲むような修行で磨き上げてきたこの「腕」を試したい、強大な怪異を相手に自分の技がどこまで通用するのか証明したいという、傲慢にも似た渇望だった。

他者を守るためという大義名分は、いつの間にか、自己の力量を誇示するための手段へと変質していたのではないか。


「……打ち倒すためやなかったら、この技は……一体、何のためにあるん?」

押し殺したような綱江の呟きは、誰に聞かせるでもなく、自らの魂に問いかけるような響きを帯びていた。


その問いに対し、隣で熱い緑茶を啜っていた才狐は、不思議そうに首をかしげた。

「その場の混乱を納めて、出来るだけ元通りの平穏に戻すためちゃうの?」


「え……?」

あまりに簡潔で、しかし本質を射抜いたその言葉に、綱江は眼を見開いて才狐の無機質な横顔を見つめた。


「僕は、これまで色んな術を使う人達や怪異を見てきたけど、術っていうのはそういう風に使うもんやと思うようになったし、師匠からも、むやみやたらと力を使わんように教えられてきたから、そんな風に思うてるよ。師匠に指示されて術を使ったら、その結果は全部事細かに報告してるし。それが、僕にとっては当然のことやから」


才狐は淡々と、さも呼吸をするのと同じくらい当たり前のことであるかのように語る。

そこには、技を試したいという功名心も、他者より優位に立ちたいという虚栄心も存在しなかった。


ただ、役割を全うし、日常を守る。

その一点のみが、彼の行動原理であった。


「それぞれの御師匠さんの思想とか教育方針の違いが、もろに出ちゃってる感じだねー」

女鬼は、綱江と才狐の間に流れる温度差を愉しむように、優しく、しかしどこか悪戯っぽく微笑む。


「そういえば……さっきの狐が言うてたね。狐宮君の方が使い手や、みたいな言い方してたし……」

綱江は、昼間の稲荷神社での一件を思い出し、己の未熟さを噛み締めるように言う。


「どやろね。その時々の状況とか、使う術と相手との相性にもよるし、一概にどちらが上かなんて言えへんのとちゃうかな」

才狐は謙遜するでもなく、ただ客観的な事実を述べるに留める。


「でも狐宮君は、あの羅生門の鬼とか、唐笠の怪異を前にしても一歩もひるまへんかった。それは、確かな『強さ』やと思う。……私は、動けへんかったもん。恐怖で足がすくんで、技を出すどころか、構えることさえままならんかった……」


自嘲気味に吐き捨てた綱江に、女鬼がクスッと鈴を転がすように笑いかけた。

「あはは♪綱江ちゃんの方が、バトル漫画の主人公っぽくて可愛いじゃん。熱血で、真っ直ぐで、挫折して強くなる!みたいな」


「そ、そんなんやないもん。そもそも私、修行ばかりで漫画なんてほとんど読まへんから、何のことかようわからん」

図星を突かれたような気恥ずかしさに、綱江は子供のように頬を膨らませた。


「そりゃそっか。綱江ちゃんも才狐君も、漫画読むくらいなら古文書を紐解いて、古い術理の研究をしてる感じだもんね」


女鬼は優しく微笑みながら、少しだけトーンを落とした。


「確かに、強さを求めるのは悪いことじゃないよ。強くなりたいって思う気持ちや、納得のいくまで自分を高めるのは、育った環境によっちゃ生存本能に近いし。それに、技を磨いて行くにつれて、自分の実力がどこまで通用するのか試したい、腕を振るいたいって思うのは、純粋な向上心の表れでもあるんだから。あーしだって、そういう熱い気持ちを無碍にしたりはしないよ。……でもね」


女鬼はそこで一旦言葉を切り、金色の瞳に鋭い光を宿らせた。


「それって……一体、誰の、なんのための力だろうね?人間と怪異が泥沼の戦争をおっぱじめるための、引き金としての力なの?それとも、ただ美味しそうにご飯を食べてるだけの、人間に無害な怪異を後ろから不意打ちでしばき倒して、それで勝った気になって悦に浸るための、薄っぺらなプライドを満たすためのもんなん?」

女鬼の問いは、静かな食堂の中に、凍てつくような緊張感を伴って響き渡った。


綱江は、眼を大きく見開いたまま、返す言葉も見つからず絶句してしまう。

自らの正義の根幹を揺るがすようなその鋭い問いかけに、彼女の魂は激しく震え、本当の力の意味を求めて彷徨い始めていた。


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##宿命の殻を破る咆哮と、静かなる覚醒


摩訶不思議食堂を包む、出汁の芳醇な香りと鯛焼きの甘い残り香。

その温かな空気の中に、女鬼が放った冷徹なまでの本質的な問いが、重く、鋭く突き刺さる。


綱江は、喉元まで出かかっていた反論の言葉を飲み込み、ただ金色の瞳を見つめたまま絶句していた。

脳裏には、自分が「正しい」と信じて疑わなかったこれまでの日々が、砂の城のように脆く崩れていく音が響いていく。


女鬼はカウンターに置いた湯呑みを指先で弄びながら、逃げ場を塞ぐようにさらに声を重ねる。

「技を覚えたら、誰だってそれを試したくなるし、自分の力がどれだけ通用するのか確かめたくなる。その気持ち自体は自然なものなんだから、あーしも否定しないよ。でもさ、今の綱江ちゃんの目に宿る光……それって、誰かを守るための純粋な光なのかな?結局のところ、自分がどれだけ優れた術者かってことを周囲に見せつけるための、所謂『俺つえー』をやりたいだけだったりしない?」


「それは……その……」

綱江は口ごもり、視線を泳がせる。


図星だった。

心の奥底、自分でも気づかない振りをしていた傲慢な渇望。

強大な怪異をねじ伏せ、周囲から喝采を浴び、自分がこの世界の主役であるかのように錯覚したいという稚拙な欲求。

それを鏡のように突きつけられ、綱江の顔は羞恥と混乱で赤く染まっていく。


女鬼はそんな彼女の揺らぎを慈しむように見つめながら、問いの矛先をさらに深くへと向けていく。

「綱江ちゃんが必死に技を磨くのは、代々続く、大切な家としての神社を護るためだってのはわかってる。あーしだって、その責任感は立派だと思うよ。でもさ、その『護り方』って、今のこの時代になってもなお、出会った怪異を片っ端から倒しまくるっていうやり方が絶対的に正しくて、力任せのままで突っ走るつもりなのかな?」


「そんな事、急に言われても……。だって、私はそう教わってきたし、みんなそうなんちゃうん?呪術師っていうのは、負の存在を祓って平穏をもたらす、そうあるべきなんじゃないの?そうしな、誰も守られへんやん!」

綱江は絞り出すような声で問い返した。

それが、彼女が生まれてから今日この瞬間まで、血肉として受け入れてきた唯一の正義だった。


「そうであるべきかどうかなんて、あーしが決めることじゃない。綱江ちゃん自身が、これから自分の頭で考えなきゃいけないことだよ。それこそ、今まで当たり前だと思ってた根っこの部分から、自分に対して問いを立ててさ」


女鬼はそこで言葉を切り、静かに、しかし力強く続けた。


「あーしが聞きたいのはね、綱江ちゃんは、今まで一度でも自分が教えられてきた事を、根本から問うた事はあるのかってこと。本当に、その教えは絶対なのか。何故この厳しい教えが、何百年も連綿と受け継がれてきたのか。そして……その教えは、この多様な現代においても、一文字も変えずに守り続けるべきものなのか。それとも、時代にあわせてアップデートすべきなのか。そういうことを、自分の魂に聞いたことはある?」


綱江の心に、激しい落雷が落ちたかのような衝撃が走った。

今まで一度も、自分自身の思想や正義、その在り方を、他人の言葉を借りずに自分自身に問うたことがなかったことを、彼女は今、痛烈に、そして残酷なまでに突きつけられたのだ。


祖父母から授かった技は、あくまで彼らの「正義」を体現するための道具に過ぎなかった。

しかしそれは、ただその伝統という名のレールを、目隠しをされたまま走り続けていただけの人形ではなかったか。

その空虚さに、綱江は戦慄を覚えずにはいられなかった。


女鬼は、ふっと表情を和らげ、隣で震える少女を優しく見つめた。

「しんどいと思うよ。だってさ、今まで自分を支えてきた根幹を揺らすって、それまで信じてきた自分を一度ぶっ壊すようなもんだもん。でもね、あーしは思うんだよね。その痛みを感じて、それでも逃げずに自分で真を探し始め、それを続ける事。それこそが、本当の意味での『成長』ってことなんじゃないかなって」

女鬼の微笑みは、冬の寒さに耐える蕾を、春の陽光が優しく包み込むかのような温かさに満ちていた。


綱江にとって、この金髪の鬼の美少女が放った言葉の数々は、これまでの人生で最も衝撃的な劇薬であった。

生まれて初めて、祖父母から耳にタコができるほど聞かされてきた「怪異は退治すべきもの、忌むべき、忌避すべき悪」という絶対的な概念。

その強固な鋼の壁が、この摩訶不思議な食堂の静寂の中で、音を立てて崩れ去っていく。


彼女の眼から、一粒の涙が頬を伝って零れ落ちた。

それは、宿命という名の檻から抜け出し、自分自身の足で歩き出すための、決意の産声であった。


カウンターの奥で、地蔵店長が静かに合掌し、一人の少女の魂の脱皮を、慈悲深い微笑みで見守っている。

窓の外、夜は更けていくが、綱江の心の中に灯った小さな問いの火は、消えることなく静かに燃え続けていた。


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##名聞利養の罠と、慈悲の道標


静まり返った摩訶不思議食堂の店内に、ぽつりと、綱江の頬を伝った一筋の涙が床に落ちる。

それは、代々受け継いできた宿命という名の重圧と、その裏側に隠していた未熟な功名心が、温かな湯気の中で溶け出した証であった。


女鬼とえらいこっちゃ嬢は、言葉を失って震える少女の姿を優しく見守り、やがて示し合わせたようにカウンターの奥に佇む地蔵店長を見上げた。

綱江と才狐もまた、導かれるようにその視線を追い、静かに手を合わせる地蔵店長を仰ぎ見る。

地蔵店長は、どこまでも慈愛に満ちた優しいお地蔵さん笑顔を浮かべ、ゆったりと合掌してお辞儀をした。


「気付きは智慧の第一歩。そして今、綱江さんは御自身に気づいて、確かな一歩を踏み出す準備が調うたと存じます」

その穏やかな、それでいて魂の奥深くまで響くような声が、綱江の乾いた心に染み込んでいく。


「綱江さんがこれまで教わって来られた、力づくでの調伏。確かに、時にはその剛力をもって異形を押さえつけ、災いを止めねばならぬ事も御座いましょう。この現世において、そういった力や技を要する場面があることは、否定できるものでは御座いません」


地蔵店長は一度言葉を切り、その柔和な笑顔のまま、背筋が凍るような真理を静かに告げた。


「しかし、全てが全て、力のぶつかり合いに終始していては、それこそ、争いが止むことなく、いつしか双方が全滅するまで終わらない地獄と化しましょう。力は更なる力を呼び、憎しみは更なる憎しみを育む。それは終わりのない螺旋なのです」


「……はい」

綱江は、反論する気力も、その必要性も感じなかった。

ただ、地蔵店長の言葉を一つ残らず受け止めようと、素直に頷く。


「肝要は、もしも力を使う場面と縁結ばれた時、それはどのような縁、どのような心の持ちようで力を使うのか。そしてその力を振るう事によって、どのような果に導こうとしているのか。常にそれを己に問い、道を外れぬように為す事で御座います」


綱江と才狐は、一言も発さずにその教えに耳を傾けていた。

地蔵店長は、綱江の瞳をじっと見つめ、優しくも厳しくその内面を解き明かしていく。


「綱江さんは先程、あわよくば技を試したい、そしてそれによって名声を得たいという気持ちがあったことを、正直に話して下さいましたね。これは『名聞利養みょうもんりよう』と言う、誰かに認められたい、褒められたいという執着の一種であると、仏様は教えて下さいます。『名聞』は評判や名声、『利養』は自分の利益。今までの綱江さんは、それらを欲する煩悩を、知らず知らずのうちに心の中に持ち続けていらっしゃったのでありましょう」


お地蔵さんの笑顔は変わらない。

だが、その言葉は鋭い刃となって、綱江の隠していた慢心を切り裂いていく。


「そして何より恐ろしいのは、技を試して手柄を立てたい、あるいは評判を良くしたいという利益の為に、いつしか自身でも気づかぬうちに、争いやトラブルが起こる事を心のどこかで望み始めてしまう事で御座います。平和を願うはずの術者が、手柄欲しさに騒動を待ち望む。そうなれば、いつしか御自身が争いの中心となってしまい、心安らぐことがない、まさに修羅の道を突き進む危険も御座います」


「煩悩、ですか……。私は、そんなものにまみれて……。心のどこかで、誰かが困るようなトラブルが起こればええのに、なんて思ってたんやな。そんなん、実際に災いに見舞われる人は、どれだけしんどい事か分かってるはずやのに……」

綱江は自分の心の醜さに触れ、胸をかきむしられるような痛みに顔を歪めた。


「お祖父様やお祖母様に認められたいという想い自体は、とても尊いものです。けれど、その『名聞』を求める心が強すぎるあまり、目の前の怪異がなぜ泣いているのか、あるいは何故それほどまでに怒っているのか。そして、なぜ彼らがそこにいなければならなかったのかという『真実』が視えなくなってしまっていませんか?我執によって、その清らかな眼が曇っていたのではありませんかねえ」


地蔵店長の言葉に、綱江は今日の出来事を反芻した。


あの唐笠お化けが、どれほどの悲しみと怒りを持ってそこにいたのか。

その理由を知ろうともせず、ただ「怪異だから」という理由だけで御札を投げつけていた自分の独善。

傷ついた自尊心を癒やすために他者を攻撃していた己の姿を思い出し、さらなる痛みが彼女を襲う。


「我執、そして煩悩に気づいた今こそ、ここから善き道を歩む一歩を踏み出す時で御座います。先程、女鬼さんが仰った通り、この事につきましては、綱江さん御自身が考え、時にはあがいたり、もがき苦しみながらも、自ら気付いてゆかねばなりません。ゆえに、私からそのものずばりの答えを差し上げる事は出来ません」


地蔵店長は、そこでふわりと表情を和らげ、温かな光を放つような慈悲の笑みを深めた。


「されど、暗闇を歩む灯となる『道標』でしたら、お伝えする事が出来ます。こうして今夜、摩訶不思議食堂で出会えた尊い御縁に感謝申し上げ、その道標を、綱江さんにお持ち頂くと致しましょうか」


地蔵店長は静かに合掌し、一人の少女の救済のために、新たなる「理」を説き明かそうとゆっくりと口を開いた。


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##自利利他の円満と、解き放たれた少女の心


地蔵店長は、カウンターの向こう側でゆっくりと、慈しむような眼差しを綱江と才狐の二人に注いだ。

その石造りのはずの体躯からは、冬の陽だまりのような柔らかな温もりが放たれ、張り詰めた店内の空気を優しく包み込んでいく。


「綱江さんはこれまで、『自分の力を試したい、誰かに認められたい』という我執にとらわれ、言うなれば己の利益のみを追求する『自利じり』が先行した心の在りようであったと言えましょう」


お地蔵さんの柔和な笑顔は崩れないが、その言葉は綱江の魂の輪郭をなぞるように、的確に核心を突いていた。


「勿論、自身の利を求めること、向上心を持つこと自体は自然な営みですし、それ自体が悪であるとは断じられません。また、現世において悪さを働く怪異に対し、勇敢に立ち向かい、力で抑え込むことによって、多くの他者が救われるという場面も確かに御座いましょう。力とは、使い道によって薬にも毒にもなるものです」


「……力を持つことは、それ自体は悪いことじゃないんですよね?」

綱江は縋るような思いで、しかし自分の過ちを認めた上で、震える声で確かめる。


「左様で御座います。ただ、綱江さんの場合は、結果として他者が救われることはあっても、いつしか『力を使うことそれ自体』が目的化してしまう怖さが御座いました。しかし、今日この場所で、その危うさに御自身で気づけたこと。それは、これまでの数千時間の修行にも勝る、大きな一歩と言えます」

地蔵店長は、合掌した手を解かぬまま、次なる教えを静かに説いた。


「肝要は、自利だけにとらわれぬこと。他者をも利する心を持ち、その上で全てが円満に収まること……そこを目指しては如何でしょうか。これを『自利利他円満じりりたえんまん』と、仏様は教えて下さいます。己が満たされ、相手もまた救われる。その調和こそが、真の力の在り方なので御座いますよ」

その言葉が、凍てついた綱江の心に温かな出汁のように染み渡っていく。


すると、隣で頬杖をついていた女鬼が、金色の瞳を細めて優しく微笑み、言葉を添えた。

「二人共、神社の子だし、歩む道や大切にしている教えはそれぞれ違うだろうけどさ。だからこそ、こうして今、地蔵店長が教えてくれる仏法や、あーしっていう鬼が話したみたいな、全く違う価値体系の教えを授かるっていうのも、すっごく大事なことなんだよ。そうしないと、頭も心もどんどん凝り固まっちゃって、『自分が絶対的に正しいんだ』『自分が教わって来た事こそが唯一の真実だーっ!』なんて事になって、客観的な視点が持てなくなっちゃって、定点観測さえも出来なくなっちゃうからね」

女鬼の軽やかな、それでいて遥かなる年長者としての重みを含んだ助言に、才狐も黙って深く頷いた。


「今、女鬼さんが教えて下さった通りです。綱江さんは『神社の教えを守っている自己』という存在を大切にしつつ、時には別の視点から、御自身の信じる道を眺めてみること。自身の持つ価値体系とは全く別の視座から、目の前の物事を見つめ直すこと。そうすることによって、思考も心も固着せず、しなやかに歩んで行けるもので御座いましょう」


地蔵店長の導きに、綱江は深く、深く自分を顧みた。


今まで、祖父母の教えこそがこの世の絶対的な正義であり、それに疑いを持つことさえ罪だと思い込んできた。

だが、その一途な忠誠心が、いつしか自分自身を頑なに縛り上げる重い鎖となっていたことに、彼女はようやく気づいたのだ。


他の考え方を受け入れようともせず、ただ「敵」を打つことだけを考えていた自分の視野がいかに狭窄なものであったか。

溢れ出していた涙は止まり、代わりに彼女の胸の中には、清涼な風が吹き抜けたような感覚が広がっていった。


「今、御自身を静かに顧みられているならば、それこそが新たなる視点で御自身を見つめ直せているという証拠です。この摩訶不思議な夜の体験を大切に、これからは物事を一つの面だけでなく、複数面から観るようにして行かれると、道は自ずと拓けるかと存じます」

地蔵店長はそう諭すと、満足げなお地蔵さん笑顔を向け、丁寧に合掌してお辞儀をした。


「……はい」

綱江は短く、しかし一点の曇りもない声で返事をした。


彼女の表情からは、先程までの殺気や焦燥、そして重苦しい後悔の影は綺麗に消え去っていた。

まるで長年憑いていた憑き物が落ちたかのような、驚くほど晴れやかで、澄み切った顔。


彼女の眼には、これまで「不浄なもの」としてしか映らなかった怪異達の景色が、今はただ、温かく愛おしい、一期一会の縁の結晶として輝いて視えていた。


才狐は、その横顔を静かに見つめ、僅かに口角を上げたように見えた。

二人の前には、空になった鯛焼きの皿と、温かな湯気を立てるお茶が残されている。


摩訶不思議食堂の夜は、一人の少女の魂に、消えることのない慈悲の灯をともして更けていくのであった。


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##結びの縁と、新たな旅立ち


綱江は手元のハンカチでそっと涙を拭い、潤んだ瞳の奥に確かな光を宿してしっかりと前を向いた。

その隣では、いつの間にか女鬼が立ち上がり、空いた椅子の上にえらいこっちゃ嬢がぴょんっと軽やかな動作で飛び乗っていた。

銀髪を揺らした少女は、小さな手を伸ばして、綱江の頭をよしよしと優しく撫でる。

「やっと自分自身の御転婆を顧みよった。えらいやっちゃな誇らしいおねえやん」


えらいこっちゃ嬢のどこか超然とした、それでいて温かい言葉に、綱江は思わずふふっと声を漏らして笑った。


「ふふ、有難う。御転婆か……確かにそうやね。怪異と見れば後先考えずに突進かまして、ほんまに御転婆やったわ、私」

自嘲気味ながらも、その声は驚くほど軽やかで、憑き物が落ちたような清々しさに満ちている。

そんな二人の微笑ましい様子を、女鬼と地蔵店長は、慈雨のような優しい眼差しで見守っていた。


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綱江がゆっくりと椅子から立ち上がると、それに合わせるように才狐も静かに腰を上げた。

二人は申し合わせたように、カウンターの向こう側に佇む地蔵店長へ向けて、心からの感謝を込めて丁寧にお辞儀をする。


「本当に有難う御座いました。もし今日、ここに来いひんかったら、私はずっと、自分を顧みることも、間違った正義を疑うこともありませんでした」

綱江の言葉には、迷いを断ち切った者特有の芯の強さが宿っている。


「僕も、師匠の教えとはまた違う、大切なことを学ばせて頂きました。有難う御座います」

才狐もまた、無機質な中にもどこか温かみを感じさせる声で礼を述べた。


女鬼は、そんな若者二人の姿に目を細め、眩いばかりの微笑みを向けた。

「ん、いい顔してるじゃん、綱江ちゃん。才狐君にとっても、いい学びになったんなら、あーしも嬉しいし。青春を謳歌しながら、しっかり学びたまえ、若人よってね♪」

金髪のサイドテールを揺らし、陽気にウインクをして見せる女鬼。


「「はい。」」

二人の返事が、夜の食堂に小気味よく重なった。


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「それじゃあ、御勘定をお願いします。……狐宮君、今日は私に持たせてな?」

綱江はそう言って、慣れた手つきでお財布携帯を取り出した。


「そんなん、悪いよ。僕も自分の分くらいは……」

才狐が慌ててスマートフォンを取り出そうとするが、綱江はそれを制するように、柔らかな笑顔で彼を見つめた。

「狐宮君は、私の命の恩人やもん。だからお願い、私の気が済むようにさせて。な?」


真っ直ぐな瞳で見つめられ、才狐はわずかに困ったような顔をしたが、やがて静かに頷いた。

「それじゃあ、御馳走様です。有難う、渡辺さん」


「当店は御布施形式にしております。御自身の心のままに、納めて頂ければ幸いです」

地蔵店長が合掌してお辞儀をすると、えらいこっちゃ嬢が「御勘定」と書かれた、最新のQRコードが掲載されているプレートをうやうやしく持ってきた。


「ほな、これでお願いします」

綱江が携帯端末を翳すと、画面に金額入力欄が表示される。

彼女は迷うことなく、指先で「10000」と打ち込んだ。


「毎度ありー!」

軽快な電子音が店内に鳴り響き、一万円の決済が完了する。


「毎度ありのありがとちゃん!えらいこっちゃな大金!えらいこっちゃなびっくりちゃん!」

えらいこっちゃ嬢が目を丸くし、短い両腕をプロペラのようにぶんぶんと振って喜ぶ。


「これでも巫女の仕事で、お給料はきっちりと頂いてるからね。それに……この金額では測れへんくらい、大切な教えを頂いたから。全然、高くないって感じてるよ」

綱江は誇らしげに微笑み、才狐と並んで出口の方へと歩き出した。


二人は扉の前で立ち止まり、最後にもう一度だけ振り返ってお礼を言い、深く頭を下げた。


「ほな、また来ます。皆さんも、御狐神社にまた遊びに来て下さい。お待ちしています」

才狐の言葉に、厨房から猫子や凜華、ラビたちも顔を出し、名残惜しそうに手を振った。


「御来店、誠に有難う御座います。またの御縁を、心よりお待ちしております」

二人の背中に向けて、地蔵店長はどこまでも暖かなお地蔵さん笑顔で、静かに合掌してお辞儀をした。


ガラガラ、と扉が閉まる音と共に、現世と異界を繋ぐ一時の宴は静かに幕を閉じたが、外に出た二人の頭上には、洗われたような美しい夜星が輝いていた。


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###炎の車輪が照らす本音と二人の誓い、共に養う真実の眼


摩訶不思議食堂の暖簾を潜り、夜の冷気に身を包まれると、目の前には先程の異形な乗り物が、静かに、しかし圧倒的な存在感を放って停車していた。

方輪車は、片方の車輪からゴォォォっと静かな炎を揺らめかせ、主人の帰りを待つ忠実な従者のようにそこに佇んでいる。


二人が近づくと、プシューっという、どこか機械的な蒸気音と共に客席の重厚な扉が滑るように開いた。

才狐は自然な、それでいて洗練された動作で綱江を先にエスコートして乗せてあげてから、自らも中へと滑り込み、彼女と向かい合う形で座席に腰を下ろした。


扉が静かに閉まると同時に、またしても車内の影から白くて長い腕がニューっと不気味に、しかしどこか律儀な所作で伸びてくる。

才狐が迷いなくスマートフォンを翳すと、「チャリーン。毎度ありー」という軽快な電子音が、車内の幻想的な静寂を心地よく突き破った。

支払いを終えたことを確認すると、その腕は満足げに、闇の奥へと吸い込まれるように引っ込んで行く。


「毎度ー。ほな、お二人さんを現世まで送り届けまっせー。安全運転でいきまひょ」

運転席に座る方輪車の艶やかで朗らかな声が響き、牛車は滑らかに、しかし力強く発進した。

車輪の炎が夜道を赤々と照らし、流れる景色が幽世かくりよの色彩を帯びて背後へと消えていく。


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揺れる車内、綱江は何となく、自身の内側から溢れ出た言葉をぽつりと零した。

「猪突猛進、御転婆娘、か……。あーあ、ほんまにその通りやね。私、自分が何を目指してるんか、分かってるつもりで全然分かってへんかったわ」


その自嘲気味な呟きに対し、隣で揺れる才狐が、いつもの無機質な、それでいてどこか柔らかな響きを湛えた声で言葉を返した。

「……渡辺さん。僕はさっき、あんなに偉そうな事を言うてしもたけど。……実は、今の僕の考え方や思想になったのは、本当につい最近のことなんや」


「え?」

綱江は驚きに眼を丸くし、向かいに座る少年の端正な横顔を見つめた。


「僕も、師匠に教わってはいたものの、心のどこかで渡辺さんと同じように『怪異は一律に討伐すべき対象である』という強い先入観があった。怪異と遭遇すれば、対話よりも先に、つい身体が戦闘態勢に入って身構えてたんやで。相手が何を考えているかより、どうやって無力化するかばかりを考えていた時期があった」


「そうなん?狐宮君って、出会った時からいっつも冷静やし、全然好戦的には観えへんかったけど……。最初から、あの地蔵店長さんみたいな考え方やと思ってたわ」


「好戦的なわけやないけど、攻めて来るって思ったら、即座に攻撃態勢に入るっていう、余裕のなさが僕にもあった。ついこないだも、それで取り返しのつかんようになりかねへん事になりかねない、凄く失礼な事をしてしもたんや」


才狐は淡々と、しかし深い自戒を込めたトーンで話を続けた。

「……渡辺さんは、口裂けさん……口裂け女って、知ってる?」


「口裂け女って、あの都市伝説の!?ほんまに実在するん!?……いや、こうして炎の牛車に揺られてるんやし、そりゃあ、そうやんね。驚く方がおかしいか」

綱江は一瞬身を乗り出したが、すぐに自分の置かれた非日常を思い出し、複雑な表情で座り直した。


「口裂けさんと初めて出会った時、僕は彼女が抱えている悲しみや事情を見ようともせず、ただの危険な怪異だと決めつけて、咄嗟に身構えて懐の御札に手をかけてしまったんや。幸い、その時は僕を案内してくれた凄い僧侶の方……お寺の御住職さんが、僕を口裂けさんに紹介して下さって、仲を取り持ってくれはったから、事なきを得たんやけど。もし一人やったら、僕は彼女を傷つけてしもうた上で返り討ちにあって、本当の姿を見ることさえ出来へんかったやろうね」

才狐の言葉は、静かに綱江の胸の奥底に落ち、波紋を広げた。


「あんな偉そうな事を言うといて、僕かてまだまだなんよ。つい警戒してしもて、きちんと『真』を見定める力は備わってない。そやから……これから、一緒にそういう眼を養っていければいいよね。一人では見落としてしまうことも、二人なら気づけるかもしれへん」

才狐の無機質な瞳に、月明かりとは違う、微かな、けれど確かな信頼の光が宿っていた。


「……うん、ほんまに。お互い、まだまだこれからやね。もっともっと色んな事を勉強して、色んな存在を知って……。これからいっぱい失敗もするやろうけど、そこから一緒に成長していかなね」

綱江は、今日一番の、心からの晴れやかな笑顔を彼に向ける。

その笑顔は、宿命に縛られていた少女が、初めて自分の意志で明日を選び取った証のように輝いていた。


そんな二人の様子を、方輪車はバックミラー越しに微笑ましく、姉のような慈愛を込めてちらりと一瞥した。

「ふふ、ええ雰囲気ですやん♪」


彼女は小さく独り言を漏らすと、安全運転で、夜の現世と幽世の淡い境界線から、家々の灯りが宝石のように煌めく京都の町へと向かって、力強く車を走らせていた。


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##宵闇の誓い、そして朝を待つ静寂


方輪車の魔改造牛車は、車輪の片方からパチパチと火花を散らしながら、夜の京都を滑るように進んでいく。

やがて速度を落とし、綱江の家である古い神社の鳥居前で、重厚な木音を立てて停車した。


二人が牛車から降り立ち、夜の冷たい空気が肌を撫でると、運転席の窓がスッと下ろされた。

「毎度ありー。ふふ、今日はお疲れさんやったね。……ほな、二人とも、せいぜい青春しなはれやー♪」


方輪車は、艶やかな黒髪を揺らして眩い笑顔を向け、真っ白な手でひらひらと軽やかに手を振った。

その瞳には、宿命に縛られていた少女が少しだけ自由になったことへの、姉のような祝福が込められているようだった。


「……有難う御座いました。夜分に遅くまで、本当に助かりました」

才狐が深く一礼し、それに合わせて綱江も「有難う御座いました!」と、これまでにないほど晴れやかな声で頭を下げた。


方輪車は満足げに頷くと、窓を閉めて再び牛車を発進させた。

車輪の炎が夜道の闇を赤々と照らし、幽世の残り香を振りまきながら、颯爽と街の向こうへと去っていく。

その幻想的な光景が見えなくなるまで、二人は静かにそれを見送っていた。


「ふふ、ほんま……。怪異って、怖いだけの存在やと思ってたけど、素敵な方が多いんやね。今日は朝から晩まで、私にとっては天地がひっくり返るような、新発見の連続やったわ」


綱江は夜空に浮かぶ三日月を見上げ、慈しむように微笑む。

その横顔には、今日一日の経験が確かな「智慧」として刻まれているのが見て取れた。


彼女はふと思い出したように、けれどどこか意を決したような仕草で、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。

「あ、そや。才狐君……もし良かったら、連絡先交換してくれへん?」


不意の提案に、才狐が無機質な瞳を僅かに揺らす。

綱江は少し照れたように視線を泳がせながらも、真っ直ぐに言葉を続けた。


「色々と聞きたい事もあるし、これから教えて欲しい事もいっぱい出て来るやろうから。それに、今日みたいに……一緒に何かを学べる機会が、またあったらええなって思うて。ええかな?」


「うん、もちろん。僕にとっても、渡辺さんと話せることが増えるのは、勉強にもなるから」


才狐がスマートフォンを取り出すと、二人の端末が静かな夜の中で触れ合い、短く電子音が響く。

デジタルの海に、新しく、そして確かな「縁」が結ばれた瞬間だった。


「有難う。ほな、今日はこっちの御祖父ちゃんとこで休ませて貰うわ。狐宮君も、道中気を付けて帰ってな。お休み」

「うん、有難う。ほな、また週明け、学校でね」


才狐は綱江の穏やかな顔を見届け、彼女が境内の奥へと消えていくまで見送ってから、静かに踵を返して御狐神社への帰路についた。


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独りで歩く夜道。才狐はふと、方輪車への運賃と一緒に、買ったばかりの惣菜パンを全て渡してしまったことを思い出した。


(……明日の朝食、冷蔵庫にあった野菜だけで済ませればええかな。)

空っぽになったレジ袋を丸めながら、そんなことを淡々と考える。

しかし、その足取りはいつになく軽かった。



御狐神社の境内に辿り着くと、あたりはしんと静まり返っていた。

深夜の空気は冷たく、本殿の屋根に反射する月光が、神域の美しさを際立たせている。


才狐は自宅の建物に入ると、手早くシャワーを浴びて、今日一日の喧騒を洗い流した。

濡れた髪を乾かし、身を清めるための簡素な「お清め」の所作を済ませると、彼は吸い寄せられるように本殿へと向かった。


静寂の中、二拝二拍手一拝。

今日、綱江と共に学んだこと、そして得難い縁を結べたことを、御狐の神へ深く、深く感謝する。


自室に戻り、机に向かう。学校の宿題と、師匠から課された呪術の学習。

青白いデスクライトが、積み上げられた古文書とノートを照らし出す。


その時、机の上でスマートフォンが短く震えた。

通知を確認すると、そこには綱江からのメッセージが届いていた。


『今日はほんまに有難う。色々迷惑かけたけど、狐宮君のおかげで救われたわ。お休み』


才狐の指先が止まる。彼は無表情なまま、けれどどこか慈しむように一文字ずつ入力を進める。

『こちらこそ、有難う。僕も学びが多かった。お休み』


送信ボタンを押し、端末を置くと、彼は再び静寂の中での研鑽に戻る。

文字を追う彼の内側には、さっきまでの夜道の冷たさはもう残っていなかった。


---


カチャ、と玄関のドアが開く柔らかな音が建物内に響いた。


才狐がペンを置き、部屋を出て出迎えると、そこには少しだけ夜の風と、微かなお酒の匂いを纏った妖古が立っていた。

足取りは確かで、その瞳は素面の時と変わらぬ鋭さと慈悲を湛えている。


「お帰りなさい。飲んで来はったんですね」


「ただいま、帰ったでの。まあ、我も羅生門殿も、他の連中も、いつも通りの量だけじゃったけどな。ほんで、ほれ。ぬしに土産じゃ」

妖古はコロコロと上機嫌に笑いながら、手のひらに乗せた小さな紙袋を才狐に差し出す。

「ぬし、方輪車ちゃんにパンを差し入れしたんじゃろ?ちゃんと報告もろたでな。あやつ、えらい喜んどったぞ。そやから、これはぬしの明日の朝飯じゃて」


「え?報告って、そんなところまで」


驚く才狐に、妖古は満足げに鼻を鳴らした。


「ほんで、我の朝飯は、この豆腐パンじゃ。ダークエルフちゃんがな、ぬしがそうやってパンを誰ぞにやってしまう事を見越して、わざわざ用意してくれてたんよ。『才狐君は優しいから、きっと自分のパンは方輪車ちゃんに差し入れするだろうからね』ってな」


「そうでしたか。有難う御座います。ダークエルフさんには、今度ちゃんとお礼を言わないといけませんね」

才狐が紙袋を受け取ると、中から焼きたてのパンの、香ばしくも優しい香りがふわりと立ち上った。


「うむ。今度会うた時に、しっかり御礼を言いよし。ほんで、怪異の好意は素直に受けるのが一番の供養じゃ。ほな、我はもう寝るでな。ぬしも、あんまし根詰めんと、キリの良いところで、はよ寝えや。」

妖古は優しく微笑み、才狐の肩を軽く叩くと、優雅な足取りで奥の寝所へと去っていった。


「はい。お休みなさい」

才狐は師匠の背中を見送り、自室へと戻った。


手元の紙袋の中には、自分を案じてくれた怪異たちの温もりが詰まっている。

パンを台所に収納すると、彼は再び椅子に座り、残りの勉強を丁寧に片付けると、深々と溜息を吐いて伸びをした。


異界と現世。

人と怪異。

その狭間で揺れ動きながらも、確かに自分の居場所があることを噛み締め、才狐は静かに明かりを消して、穏やかな眠りの中へと落ちていった。


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