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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第30話:少年呪術師の京都妖怪紀行とほっこり飯

##寂静の社と黄金の食卓


京都の夜は、深い。

千年の歴史が幾重にも積み重なったその闇は、現世の街灯りさえも飲み込み、時に人ならざる者の気配を色濃く漂わせる。

北の方にある静かな住宅街のを抜けて、更に奥にひっそりと佇む「御狐神社」もまた、その闇に抱かれた聖域の一つであった。


境内の奥に隣接する古い木造家屋。

そこから漏れ出す微かな明かりと、香ばしい醤油の香りが、この場所が単なる社ではないことを物語っている。


食卓の上には、こんがりと黄金色に焼き上げられた大ぶりの厚揚げが並んでいた。

表面はカリッと香ばしく、中は豆の旨味が凝縮された熱々の豆腐。

たっぷりの刻みネギとおろし生姜、そして出汁醤油。

シンプルながらも、それこそが「狐」を冠するこの家には相応しい御馳走であった。


狐宮才狐、17歳。

中性的で整った顔立ちをしたその少年は、淡々と箸を運び、最後の一切れを口に運んだ。

かつて宮田才狐という名で不遇の淵にいた面影は、今の彼には微塵も残っていない。

12歳のあの日、この神社の木に縛り付けられ、絶望の中で自らの心と、毒親である両親との縁を「対価」として差し出した時から、彼は人間としての感情を切り捨てたのだ。


それから、師である妖古ようこのもとで過ごした五年。

才狐は、並の怪異であれば容易く伏せさせるほどの卓越した呪術師へと成長を遂げ、今や次世代を担う「解呪師」としてのポテンシャルを秘めた、類稀なる異能の少年となっていた。


「ふぅ……。今日の厚揚げも絶品やったのう。ぬし、焼き加減も上手くなって、ええ旦那になるでな。カカカッ!」


向かいに座る妖古が、満足げに目を細めてコロコロと笑い声を上げた。

千年の時を生きる天狐でありながら、今は艶やかな着物を纏った絶世の美女の姿を模している。

しかし、その背後には複数の尾が揺らめいているかのような、圧倒的な霊威が渦巻いていた。


夕飯の片付けを終え、急須から注がれた熱い茶の香りが漂う時間。

妖古は茶柱を眺めてから、茶目っ気たっぷりの瞳で才狐を覗き込んだ。

「どや、学校でええ感じの女子はおらんか?ぬしの顔は誠にイケメンに整うておるからのう。恋仲になりよる女子がおったら、遠慮なく我に紹介したらええんよ?」


才狐は湯呑みを口に運ぼうとした手を止めることなく、感情の平板な声で答えた。

「そんな相手はいません。」


その瞳には、17歳の少年が持つべき多感さも、異性への興味も、一切の色彩が欠落している。

ただ冷徹に、そこにある事実だけを言葉にする。

それが今の「狐宮才狐」という呪術師の在り方であった。


「まあ、そうじゃろな。女子がキャーキャー勝手に騒ぎよるやろうが、ぬしはあの日、心を捨てたんじゃから。恋心も当然、あらへんからのう。カカカッ!」

妖古は面白そうに喉を鳴らし、コロコロと鈴を転がすような声で笑い続ける。


心を捨て、家族を捨て、術を磨くことのみに存在意義を見出した少年。

そして、その魂の渇きを極上の食事と狐術で埋め続ける、美しき大妖怪。


月明かりの下、京都の闇に溶け込むようなこの奇妙な食卓は、今夜も静かに更けていく。

しかし、この平穏な日常の裏側で、京都の古き街に怪異達が活動している事等、才狐の鋭敏な呪覚とは言えど気付いてはいなかった。


---


##宵闇の使いと導きの伝令符


茶柱がゆらりと揺れる湯呑みを眺めながら、妖古は幾重もの尾を幻視させるような艶然たる微笑を浮かべた。

「ぬしもここに来て5年か。修行に明け暮れ、我が画策し、ぬしにやらせた復讐劇も一段落した事やし、そろそろ他の事にも目を向けさせたり、御近所付き合いもさせていく頃合いかもしれんの。」


その言葉は、単なる隠居した怪異の独り言ではない。

千年の時を統べる天狐が、愛弟子の次なるステージを見据えた確信に満ちた宣告であった。


才狐は伏せていた視線を僅かに上げ、感情の消えた瞳で師を見つめる。

「では、符術を教えて頂けるんでしょうか?」


それは、心を失ったはずの彼が見せた、極めて稀な「興味」の断片であった。

この地で出会い、その実力と在り方に魂を揺さぶられた、ある高位な呪術師への憧憬。

その者が操る、紙片に呪を込め万象を御する符術に、才狐は人知れず無いはずの心を奪われていたのである。


「カカカ、ぬし、余程あの呪術師殿に心酔しておるようじゃのう。我との関係以外に興味を示さんかったのが少々懸念材料やったが、良い変化の兆しじゃわい。」

妖古は少年の僅かな変化を愛おしむようにコロコロと笑う。


「呪術師さんの事は、とても尊敬しています。」

淡々と、しかし一点の曇りもなく告げる才狐。


「尊敬出来る大人がおる事は、ええこっちゃ……む?」

不意に、妖古の黄金の瞳が台所の棚へと向けられた。


「なんじゃ、明日の朝飯が無いようじゃのう。パンが1斤も無いやないか。」


「妖古さん用の、朝の油揚げは冷蔵庫にあります。」


「ぬしの朝飯が無いではないか。育ち盛りの若人が、朝飯を抜くのは感心せんのう……そうじゃ!」


才狐の冷静な指摘に、妖古は扇子で自身の膝をパチンと叩いた。

ピンッ!と、人には見えぬ狐の耳が動いたかのような気配。


妖古の悪戯っぽい瞳が輝きを増した。

「ぬし、デザートも買ってええから、明日の朝飯のパンも買って来よし。これは師匠からの直々の課題じゃ。」


「今からですか?まあ、まだ19時をまわったくらいの時間ですから、店は開いてるでしょうけれど。」

才狐は夜の外出に特段の抵抗も示さず、静かに立ち上がろうとした。


しかし、大妖怪の目論見はそれだけでは終わらない。

「ほんで、ただ行くだけやとつまらんからのう。これは修行の一環じゃ。さっき我が言うた近所付き合いの修行もかねて、御住職殿の寺まで挨拶に行ってみよし。あそこの御住職殿なら、茶の一杯でも出してくれるじゃろ。」


「夜に突然お邪魔したらご迷惑だと思います。」

正論を吐く弟子に対し、妖古は長い煙管を取り出し、紫煙を燻らせながら微笑んだ。

「そやから、御近所付き合いじゃて。ほれ、こないだ教えた伝令符使うてみ。ほんで、返事を読んでから、行ってもええかどうか、自分で判断すりゃええ。呪術師たるもの、礼儀もまた修行の内じゃ。」

妖古の言葉には、抗いがたい威厳と、弟子を育てる親心が混ざり合っている。


「畏まりました。」

才狐は短く答え、懐から清浄な霊気を纏った符紙を取り出した。


少年の指先が、流麗な動作で言を紡ぎ始める。

夜の静寂を切り裂くように、一枚の紙片が白銀の光を帯びて空中に浮いた。

それは、言葉を運び、意思を繋ぐ宵闇の使い。

才狐は無機質な瞳の奥で、これから向かうべき寺院の風景を思い描き、伝令符を解き放つ準備を整えるのであった。


---


##宵闇の飛鳥と「別格」の道標


才狐が指先で印を結ぶと、白銀の光を放つ伝令符はパタパタと翼を広げ、一羽の鳥の形へと姿を変えた。


「……行け」

静かな命を受け、紙の鳥は夜の帳を切り裂き、南の空へと一直線に飛び去っていく。

それを見送る才狐の背後では、妖古が愉しげに複数の尾を揺らす気配があった。


それから5分も経たぬうちに、夜風を切る音と共に白銀の光が戻ってきた。

才狐の手のひらに降り立った鳥は、再び一枚の符紙へと戻り、そこには流麗な墨文字が浮かび上がる。


『素晴らしき伝令符にてご連絡有難う御座います。お茶を御用意させて頂いてお待ちしております。道中お気をつけて。』


文字から溢れ出す清浄な霊気に、才狐は珍しく眼を見開いた。

これほどまでに洗練され、かつ温かみのある気配を文字に込められる術者が、この京都にいる。


「返事はなんじゃて?ま、大体わかるがの。」

妖古は少年の驚きを見逃さず、コロコロと喉を鳴らした。


「お茶を用意して待って下さるそうです。それと……僕の伝令符を、褒めて下さいました。」


「カカカ、良かったのう。御住職殿も、あの呪術師殿と肩を並べる御方じゃからな。解呪師の中で知られざる別格が呪術師殿なら、仏教界の知られざる別格が、あの御住職殿じゃて。」

妖古は煙管をくゆらせ、紫煙の中に古き友の顔を思い浮かべるように目を細めた。


「あの二人は、お互いがお互いを尊敬し合うとる仲でな。実力は前にも言うた通り、我など比べ物にならんほど強い。今後は機会を見つけて、色々教えを乞うてみればええ。弟子入りは断られるやろうが、知識を伝授してはくれるじゃろうて。何せ、あの御二人は術に関しては、最早生き字引じゃからのう。」


その言葉に、才狐の胸の奥で、失ったはずの感情の代わりに「知識への渇望」が小さな火を灯した。


「ほな、行って来よし。深夜になっても、なんなら朝になってもええからの。今のぬしやったら、大抵のトラブルは自力で切り抜けられるじゃろて。カカカッ!」


「トラブルに見舞われる前提なんですか?」

才狐が首をかしげると、妖古は扇子で唇を隠し、妖艶に笑った。

「例えばの話じゃよ、例えばの。魔都・京都の夜道は、時においたが過ぎるモノが徘徊しよるからの。ほれ、財布を忘れるでないぞ。お財布携帯はあるじゃろうが、いざという時に現物はあった方が安心じゃからな。」


才狐は無言で頷くと、居間の隅に置いてあった上着を手に取った。

白いシャツの上に黒いジャケットを羽織り、動きやすいカーゴパンツを着用する。

その姿は、一見すれば都会の洗練された高校生にしか見えない。

しかし、その懐には洗練された呪符が、静かに牙を研いで潜んでいる。


「行ってきます。」

「ほな、気ぃつけてな。ええ土産話、期待しとるよ。」


妖古の送り出す声を背に、才狐は御狐神社の鳥居を潜った。

カツン、カツン……と、夜の石畳に少年の足音が響く。


南へ。

千年の都が隠し持つ「別格」の智慧を求め、少年呪術師の京都妖怪紀行が、今ここから静かに幕を開けた。


---


##菩薩の微笑と夜を往く者たち


最寄りのバス停から南行のバスに揺られ、才狐は夜の京都駅周辺へと辿り着いた。


近代的な京都駅ビルの灯りを背に、懐から取り出した伝令符を空中に浮かべる。

白銀の光を放つ符紙は、磁石に吸い寄せられるように複雑に入り組んだ路地の奥を指し示した。

千年の都の路地裏は、一歩踏み込むごとに現代の喧騒が遠のき、古い石畳と板塀が織りなす静寂が濃くなっていく。


やがて、その迷路のような道の先に、凛とした空気を纏う浄土宗の寺院が姿を現した。


才狐が山門の前で立ち止まり、丁寧にお辞儀をしてから境内へ足を踏み入れる。

すると、まるで彼の到着を秒単位で測っていたかのような絶妙なタイミングで、玄関の引き戸が静かに開いた。

そこに立っていたのは、一人の女性僧侶であった。


見る者の魂を根こそぎ吸い寄せ、そのまま浄化の彼方へ連れ去ってしまうのではないか、そう思わせるほどの、超絶的な美貌。

綺麗に切り揃えられた短い黒髪が、夜の闇に艶やかに映える。

彼女が纏っているのは、浄土宗の僧侶としての格調高い法衣と、緻密な刺繍が施された袈裟。


菩薩の如き慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、彼女は静かに合掌してお辞儀をした。

「今晩は。ようこそお参り下さいました」


心を失い、感情の起伏が消えたはずの才狐であったが、目の前の女性の立ち姿には、ただただ「美しい」という思考が脳裏をよぎった。

それは欲望ではなく、完璧に調律された芸術品を目の当たりにした時の、純粋な感嘆に近い。


「今晩は。突然の訪問ですみません。お邪魔致します」

才狐もまた合掌を返し、促されるままに建物の中へと足を踏み入れた。


案内された本堂で、御本尊に向かって深く一礼し、静かに手を合わせる。

黄金に輝く仏像の御前で、才狐の纏う刺々しい呪力は、凪いだ水面のように穏やかに収まっていくのを感じた。


お参りを終えた後、才狐は客室へと導かれた。

女性住職は淀みのない所作で茶を淹れ、才狐の前にそっと差し出した。


一口、茶を啜る。

熱い液体が喉を通り、胃に落ちる頃には、夜道の緊張はすっかり解け、ホッと一息つくことができた。


「実は、明日の朝食を買うため、おつかいにやって来たのですが……師匠である妖古さんから、御近所付き合いの修行もして来いと言われまして。正直なところ、御狐神社からこちらの寺院までは、御近所と呼ぶには些か距離があるとは思うのですが……。あの方のことですから、きっと何かの意図があるのだと思います」


才狐が淡々と、無機質な声で事情を説明すると、女性住職は「ふふ」と柔らかな鈴の音のような声で笑った。


「恐らく、そうだろうとは思います。妖古さんは常に、物事の理を見通しておられますから」

彼女は菩薩のような笑顔を絶やさぬまま、静かに続けた。

「では、夜に活動される方々のところへ、ご案内致しましょうか」


「夜に活動されている方、ですか?」

才狐が首をかしげると、住職は窓の外に広がる深い闇に目を向けた。


「左様で御座います。逢魔が時という言葉を聞かれた事があるかと思いますが、その時刻を過ぎ、人の眼が届かなくなった頃から、活動を開始される方々もいらっしゃいます。妖古さんは、そういった方々へ挨拶をしてみてはどうだろうかと、お考えなのではなかろうかと存じます。それが才狐さんにとって、何よりの修行になると見越してのことでしょう」


「……なるほど。夜の住人たちですか」


「では、お茶も飲み終えた事ですし、参りましょうか」

住職は軽やかに立ち上がった。


「はい。お茶、有難う御座います。……お邪魔しました」

才狐もお辞儀をして立ち上がり、先に玄関へと向かった。


玄関先で待っていると、法衣姿の女性住職が、何やら風呂敷に包まれた大きな包みを手にやって来た。

「お待たせ致しました。……夜道は少し冷えますから、気を引き締めて参りましょう」


美しき僧侶と、感情を失った少年呪術師。

奇妙な二人連れは、すっかり日が暮れ、異界の気配が混じり始めた夜の京都へと、静かに繰り出していった。

月明かりの下、住職の持つ風呂敷包みが、時折かすかな音を立てて揺れていた。


---


##都市伝説の邂逅とべっこう飴の絆


女性住職の背中を追うようにして、才狐は夜の京都の深淵へと足を踏み入れていた。

大通りを一本外れるごとに、街灯の明かりは心細いものとなり、湿り気を帯びた空気には異界の残滓が混じり始める。

やがて二人が入り込んだのは、地図にも載っていないような、人気ひとけが完全に途絶えた不気味な路地であった。


その境界線を越えた途端、才狐の首筋に冷たい「気配」が走った。


「……っ!」

才狐は反射的に重心を落とし、懐の符に指をかける。


すると、静寂を切り裂くように、どこか物悲しく、それでいてゾッとするほど艶やかな若い女性の声が響いた。

「……私、綺麗?」


見れば、古びた街灯の下。

長身で、艶のある黒く長い髪をなびかせた、トレンチコート姿の女性が立っていた。

顔の下半分を大きなマスクで覆い、こちらをじっと見つめている。

放たれる霊圧は尋常ではない。


才狐が即座に構えを取ったその時、女性住職がふわりと前に出た。

「今晩は」


女性住職は、戦場にでもいるかのような才狐の殺気をどこ吹く風と受け流し、菩薩のような慈愛に満ちた笑顔で合掌した。

彼女は大切そうに抱えていた風呂敷包みを解き、中から一本の飴を取り出す。


「べっこう飴をお持ち致しました。棒が付いているタイプですから、食べやすいかと思いますよ」


住職が淀みのない動作で近づき、飴を差し出す。

すると、張り詰めていた空気が一気に弛緩した。


「おや、御住職ちゃんじゃない。相変わらず気配が全く読めなかったから、通りかかった人間にやってる反応しちゃったわよ。あ、べっこう飴、有難うね」


長身の女性は、気さくな口調で飴を受け取ると、ゆっくりとマスクを外すと。

そこには、およそ人間では到達し得ないほどの大きさ、耳元まで大きく裂けた口が、愉快そうに弧を描いていた。


都市伝説、口裂け女。

しかしその表情には、怪異特有の凶暴性はなく、どこか親しみやすい「隣人」の余裕が漂っていた。


「そろそろ二口ふたくちさんも、東京からお帰りになる頃だと伺っていましたから。口裂けさんの所にも寄られるかと思いまして、立ち寄らせて頂きました」


「そうなのよね。あの子、『おもろい二枚舌の両舌ちゃんがいるから、ちょっと見て来るさかい』とか言って、突然東京に行っちゃってねえ。それで、今日は可愛い子連れてるじゃないのよ」

口裂け女の視線が、才狐に向けられる。


「はい。御二人は初対面ですよね。こちらは、妖古さんの御弟子さんで、狐宮才狐さんです。才狐さん、こちらは口裂けさんです」

女性住職が、二人の仲を取り持つ。


「初めまして。才狐君って呼んでいいかい?私は口裂け女よ。そっかー、君が妖古さんの御弟子さんだったのね。ふふ、イケメンじゃないの」

彼女は裂けた口をさらに広げて笑い、受け取ったべっこう飴を実においしそうに口に含んだ。

棒付きの飴を頬張るその姿は、先程までの恐怖の対象とは程遠く、どこか愛嬌すら感じさせる。


才狐は驚きを表情に出さぬよう務めながら、深くお辞儀をした。

「初めまして、狐宮才狐です。紹介頂きました通り、妖古さんの弟子です。突然の非礼、失礼致しました」


「いいのよ、私みたいな怪異を初めて観ると、大体そういう反応になっちゃうもんよ。それに、若い子が元気なのは結構なことだわ。修行、頑張ってね」


夜の京都、怪異と僧侶、そして少年。

伝説の中にだけいたはずの存在が、べっこう飴を媒介に「御近所さん」として溶け込んでいく。


才狐は、妖古が言っていた「御近所付き合いの修行」の真意を、肌で感じ始めていた。


---


##二つの口と阿闍梨餅の帰還


口裂け女との奇妙な挨拶を終えたばかりの才狐だったが、再びその鋭敏な呪覚が、背後から近づく新たな「異形」の気配を捉えた。

今度は先程の刺すような殺気とは異なり、どこか軽やかで、それでいて底の知れない奔放な霊気。

才狐が反射的に身構えようとしたその瞬間、夜の静寂を弾くような明るい女性の声が路地に響き渡った。


「ただいまー!口裂けちゃん、元気しとるー?って、あれ。御住職ちゃんもいてはるやん。それに、めっちゃ可愛い顔したイケメン君がおるし。口裂けちゃんの、今日の脅かすターゲットの子?」

にこやかに、鼻歌でも歌い出しそうな足取りで近づいてきたのは、一人の美しい女性だった。


「あら、噂をすれば。意外と早く帰ってきたわね。お帰り、二口ふたくちちゃん」

口裂け女は裂けた口を緩ませ、旧友を迎える柔和な、しかし人間離れした笑顔を作った。


「二口さん、今晩は。御無沙汰しております。丁度よう御座いました。こちら、阿闍梨餅あじゃりもちで御座います」

女性住職は菩薩の笑顔を絶やさぬまま、風呂敷包みの中から大切そうに阿闍梨餅を二個取り出し、新着の怪異へと手渡した。


「やったぁ、阿闍梨餅ー!有難うさんですー!これ、私も大好きなんよね。東京のバナナの形と味のする御菓子も好きやけど、やっぱ京都に帰ってきたら、これを食べんと落ち着かへんわぁ」


二口と呼ばれた女性は、受け取った包みを愛おしそうに眺めると、不意に、後頭部で綺麗にまとめられていたお団子髪のピンを解いた。

すると、さらりと流れた黒髪が、まるで意志を持つ生き物の如く、「手」のように蠢き始める。

髪が手際よく二個ある阿闍梨餅のうち一つを掴み、紙の包みを器用に破ったかと思えば、そのまま後頭部へと運び込んだ。

モグモグと、彼女の後頭部のあたりから生々しい咀嚼音が聞こえ始める。


「才狐さん、こちらは二口さんです。二口女と言う、二つの口を持つ方です。二口さん、こちらは妖古さんの御弟子さんで、狐宮才狐さんです」

女性住職は、そのおぞましくも神秘的な光景を日常の一部として受け流し、静かに紹介を添えた。


「狐宮才狐です。宜しくお願いします」

才狐は無機質な瞳でその奇妙な食事風景を観察しながらも、丁寧にお辞儀をした。


「初めまして、私は二口女です。娑婆で人間に紛れてる時は、二口二子ふたくちにこっちゅう通り名でやってます。以後お見知り置きをー。ほな、こっちの口でも頂きますー」

二子と名乗った女性はニコニコと愛嬌のある笑顔を浮かべ、今度は前にある本来の口で、もう一つの阿闍梨餅を美味しそうに頬張り始めた。


「あはは、一晩で二人の女怪異と挨拶するなんて、才狐君にとっては貴重な体験ね。それじゃあ、妖古さんに宜しくね」

口裂け女は裂けた口を動かして愉快そうに笑うと、才狐に向かって妖艶にウインクをし、しなやかな手を振った。


「はい、有難う御座います。今後とも、宜しくお願いします」

才狐は再度お辞儀をし、立ち去る彼女たちの気配が路地の奥へ消えていくのを見送った。


「さて、才狐さん。次の目的地へ参りましょうか。夜の京都は、まだまだ賑やかですから」

女性住職の穏やかな声に促され、才狐は再び歩き出す。


有名な都市伝説である口裂け女、そして東京帰りの二口女。

妖古が言っていた「御近所付き合い」の輪は、才狐が想像していたよりも遥かに広く、そして深く、この千年の都に根を張っているようだった。

才狐と女性住職は、さらなる怪異が潜む夜の闇へと、迷いなく踏み込んでいった。


---


##狐の社と闖入者たちの悲鳴


夜の帳が完全に下りた京都駅周辺は、近代的なビルの明かりと古都の闇が奇妙に混ざり合う。

才狐は大型ショッピングモールの中にあるベーカリーへと足を運び、師匠から命じられた朝食用のパンを1斤購入した。

その横で女性住職は、惣菜売り場からパック詰めの油揚げと、冷えた烏龍茶を手に取る。

レジで会計を済ませた二人は、煌びやかな駅前を離れ、そこから程近い場所にある稲荷神社へと向かった。


観光客の姿も消えた夜の境内は、静謐というよりは、どこか肌を刺すような霊気が漂っている。

女性住職に導かれるまま、才狐は人目につかない奥まった場所にある小さな御社へと辿り着いた。

古びた木造の社を前に、二人は呼吸を合わせるようにして二礼二拍手一礼を捧げる。


パンの袋を提げた才狐が深く頭を下げ、顔を上げたその時であった。


ギィィ……と、蝶番が軋む音と共に社の扉が内側から開く。

そこからひょっこりと顔を出したのは、透き通るような白い毛並みを持った、可愛らしい狐の怪異であった。


「気狐さん、今晩は。揚げたてではありませんが、御納め下さいまし」

女性住職は菩薩のような笑顔で合掌し、先程買い求めたばかりの油揚げと烏龍茶を差し出した。


「今晩は御住職はん、油揚げも有難さんどす!才狐はんも、よう来てくれはりましたねえ。夜にここまで来はるんは珍しいけど、妖古様から、なんかおつかいどっしゃろか?」

気狐と呼ばれた狐の怪異は、嬉しそうに目を細めると、受け取った油揚げをむしゃむしゃと食べ始めた。


「今晩は。この時間に、こちらの御住職の所へ行って、御近所付き合いをしてくるようにと、妖古さんから言われたんです。それで、さっきそこのショッピングモールで朝御飯のパンを買うてきたところです」

才狐が淡々とパンの袋を見せると、気狐は上機嫌に尻尾を揺らした。


「さいでしたか。ふふ、京都の夜、『こっち側』の御近所付き合いは賑やかどすえ。娑婆の人間からしたら『あっち側』の話やけど、こうして繋がっとるんは大事なことどす」

気狐は油揚げを頬張りながら、慈しむような視線を才狐に向ける。


「はあ、晩御飯を食べ損ねたから、ほんに有難う御座います、御住職はん」

満足げにパックを空にした気狐は、丁寧に合掌してお辞儀をすると、烏龍茶のキャップを開けて喉を鳴らした。


「ふい~、御馳走さんでした……ん?」

不意に、気狐の耳がピクリと動き、空気を探るような仕草を見せた。


それとほぼ同時に、才狐の鋭敏な呪覚が、背後から猛烈な勢いで近づいてくる「異質な気配」を察知した。

才狐は反射的に重心を落とし、懐の符に手をかけて身構える。


「おやおや。こちらに向かっていらっしゃいますね」

女性住職は動じることなく菩薩の笑顔を湛えたまま、静かに合掌を続けていた。


すると……


「た、助けてー!」「あ、神社や!ここに入れば助かるかも!」


静寂を切り裂くような、複数の若い悲鳴が鳥居の向こうから響いてきた。

それから数秒もしないうちに、神社の聖域を土足で踏みにじるような無作法な足音が近づいてくる。

現れたのは、中学生くらいに見える4人組であった。


先頭を走る金髪の男子と、それに続く茶髪の男子。さらに、派手なメイクの金髪の女子と、肩を震わせる黒髪ボブの女子。

いかにも夜の街でヤンチャをしていそうな風貌の少年少女たちが、何かに追い詰められたかのように、顔を真っ青にして境内へ駆け込んできた。


「はぁ、はぁ……っ!な、なんなんよ、アレ……!」

「見ないで!こっち来んといてよぉ!」


取り乱した様子の彼らは、社の前に立つ才狐たちの存在にさえ気づかぬほど、極限の恐怖に支配されていた。

暗闇に包まれた神社の奥、逃げ込んできた彼らの背後から、さらに重苦しく、悍ましい霊気がじわりと這い寄ってくるのを、才狐は冷徹な眼差しで捉えていた。


---


##菩薩の絶対領域と青き獣の咆哮


何かに取り憑かれたように必死の形相で境内を走る、無作法な4人の中学生。

その乱れた足取りが災いしたのか、最後尾を走っていた黒髪ボブの女子生徒が、参道の段差に足を取られて派手に転倒してしまった。


「あ……っ!?」

痛みに顔を歪める彼女の背後から、夜の闇を裂いて青い怪火のような光が殺到する。

それは大小様々な動物の形をした実体のない「何か」の群れであり、その数はおよそ二十。


「喰らえボケエ!」


群れの中でも一際巨大な、青い大型犬の形をした塊が、濁った意志を込めた咆哮と共に、青い霊エネルギーの弾丸を少女へ向けて放った。

悲鳴を上げ、反射的に身をすくめる黒髪の少女。


次の瞬間、才狐は自身の呪覚が全く反応しなかったことに、戦慄すら覚えた。

ほんの刹那、瞬きにも満たない時間の合間に、いつの間にそこに移動したのか。

少女と青い弾丸の間に、法衣を纏った女性住職が、菩薩のような穏やかな微笑みを浮かべてスッと合掌して立っていた。


「危ない……っ!」

才狐は咄嗟に弾き返すための術を練ろうとしたが、自身の脳が認識した時には、既に攻撃は着弾する距離に達していた。

絶対に間に合わない――そう確信した次の瞬間、信じられない光景が才狐の瞳に映し出される。


迫りくる青い塊は、女性住職の身体に届くどころか、その周囲数センチの空間に触れた瞬間、春の雪が陽光に溶けるかのように、音もなく霧散して消え去ったのである。

残りの二十ほどの動物の形をした影たちも、次々と霊的な弾丸を飛ばすが、その全てが彼女に届く遥か手前で、まるで最初から存在しなかったかのように跡形もなく霧散していく。


絶対的な守護、あるいはあらゆる敵意を無効化する聖域。

ただそこに立っているだけで全ての攻撃を無に帰す、女性住職の計り知れない実力に、才狐は息を呑み、その場に釘付けになった。


呆然と腰を抜かす4人の中学生たちと、動揺を隠せない青き影の群れ。

その静寂の中、女性住職はスッと合掌したまま、静かにお辞儀をした。


「何か御事情がおありのようですが、一先ず鉾を納めては頂けないでしょうか?」

その声はどこまでも優しく、しかし抗いがたい重みを持って境内に響き渡る。


「ちょいちょい、あんさんらねえ。ここは狐の領域どすえ。荒さんといて貰えますやろかねえ」

気狐も呆れたような溜息をつきながら、女性住職に並ぶようにふよふよと空中に浮かび、牽制の霊気を放つ。


才狐もその横に並び、いつでも術を発動できるよう印を結び構える。

しかし女性住職は「有難う御座います、大丈夫ですから。」と言ってスッと美しき手を挙げ、戦意を露わにする才狐を優しく制した。


彼女はそのままゆっくりと腰を落とし、転倒した黒髪ボブの少女へと視線を合わせる。

「膝をすりむいていらっしゃいますね。消毒して絆創膏を貼りましょう」


死の恐怖から救われた安堵感か、少女は涙目で住職を見上げた。

「は、はい……。有難う、御座います……。あ、あの、助けて下さい……!」

震える声で助けを求める少女。


女性住職は菩薩の笑顔のまま、再び立ち上がると、群れの中で一番大きな、青く揺らめく獣の影に向かって深々と合掌してお辞儀をした。


「まずは、双方の御話を伺いましょうか」


その一言が、荒れ狂っていた境内の空気を見事に鎮めてしまった。

夜の稲荷神社に集まった、逃げる人間、追う怪異、そしてそれらを調停しようとする「別格」の僧侶。

混沌とした状況の中で、女性住職の持つ風呂敷包みが、月光を受けて淡く輝いていた。


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##青き獣の沈黙と供物の靴底


一触即発とも思える緊迫した稲荷神社の境内。

しかし、そこに立つだけで絶対的な聖なる世界に変えてしまった女性住職の威徳に、宙を舞い、牙を剥いていた二十もの霊体達は、一瞬で敵わないと本能的に悟ったのか、ぴたりと動きを止め、大人しく滞空し始める。

その圧倒的な「静」の力に、才狐は自身の未熟さを改めて突きつけられたような衝撃を覚え、ただその背中を見つめるしかなかった。


「ここは天狐であられる妖古様もいらっしゃる神社どす!ここで喧嘩なんてしようもんなら、あのお方も黙ってはいてはりませんえ!」

気狐が、その愛らしい姿に似合わぬ鋭い声でびしっと言い放つと、青い霊体たちの揺らめきが僅かに萎縮したように見えた。


女性住職は、ようやく立ち上がった黒髪ボブの少女の背に優しく手を添え、他の3人の中学生たちの元へと静かに誘導する。

それから、再び一番大きな犬の霊体と向き合い、その菩薩のような微笑みを崩さぬまま、静かに合掌した。


「あんさんが代表どすか?」

気狐が尋ねると、巨大な青い犬の霊体は、低く唸るような、しかし先程までの凶暴性を削ぎ落とした声で答えた。

「別に代表やないけどな。まあ、一番ごついし、一番年季も入っとるし、一番ごっついもん飛ばせるさかい、そう思てくれてええかいな。」


「左様でしたか。私はここから少し歩いた所にある、浄土宗寺院の住職を務めさせて頂いております。」

女性住職が丁寧にお辞儀をすると、犬の霊体は、その実体のない目を細め、彼女を品定めするように見据えた。

「……あんさん、ただの坊さんやありませんな。そっちの若いのは、修行中の術師やとすぐにわかる。やけどな、あんさんからは、そういった気配が全くあらしまへん。何もんですねん?」


犬の霊体の問いは、才狐の疑問そのものでもあった。

強力な術者は、多かれ少なかれ、その霊的な波動が周囲に漏れ出るものだが、この女性住職にはそれが一切ない。

くうであるかのように澄み渡り、それでいて無限の包容力を感じさせる。


「私はただの、煩悩具足なる凡夫であり、御仏の元で修行中の身に御座います。」

女性住職が菩薩の笑顔で応えると、犬の霊体は呆れたように首を振った。

「ただの凡夫が、これだけの事が出来ますかいな!いや、かなわんわ。あんさんのその底知れなさに免じて、一旦矛を納めて話しましょうや。」


霊体たちの戦意が霧散し、境内の温度が僅かに上がる。


「有難う御座います。」

女性住職は感謝を込めて再び合掌した。


そして……。


「原因は、御墓を荒らされた事に激怒された、と言ったところでしょうか。」


彼女が何気なく放ったその言葉に、犬の霊体は大きく目を見開いた。

「……その綺麗な眼で見ただけで、過去視まで出来はるんですかいな。」


「いえいえ、そんな大層な事では御座いません。そちらの皆さんの靴底に、ドッグフードや食べ物、恐らくお供え物だと思われる証拠が挟まっていますから。」


女性住職の視線に促され、才狐が中学生たちの足元を見れば、確かに無作法に踏み躙られた供物の残骸がこびりついている。

そのあまりに世俗的で、かつ罰当たりな真実に、気狐は文字通り「くそでか溜息」を深く吐き出した。


「ほな……そこの4人!ちょいとこっち来よし!」

気狐がビシッと指を差して言い放つと、腰を抜かしていた4人はびくっとして、互いの服を掴み合いながら、恐る恐る気狐の目の前までやって来た。


「御墓荒らすとか、なんちゅう罰当たりな事してるんどす!?そこに並びよし!いっぺん、さっきの青いやつを本気で喰らったらよろしゅおす!」


気狐の容赦ない叱りつけに、4人は「ええ!?」「そんな!」と驚き、ガタガタと震え上がった。


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##菩薩の説法と不殺の威徳


静まり返った稲荷神社の境内に、ただならぬ緊張感が漂っていた。

青白く燃え上がる二十もの動物霊たちの殺気と、泣きべそをかいてガタガタと震える四人の中学生たち。


狐宮才狐は、その異様な光景を無機質な瞳でじっと見つめていた。

彼は、己の内に渦巻く呪力を練りながら、逃げ場のない彼らに対して、氷のように冷徹な、しかし淀みのない声を投げかける。

「君らは、ほんまに御墓を荒らしたん?もしそうなら、なんでそんな事をしたん?」


才狐の問いに、金髪の男子生徒が、震える唇を噛み締めながら顔を上げた。


しかし、その横で浮遊する気狐が、威嚇するようにその尾を逆立てて一喝する。

「ほら、ちゃんと正直に、自分らの口から言いよし!嘘ついたら舌引っこ抜かれるんどすえ!ここのお稲荷さんは、嘘つきには容赦せえへんさかいな!」


その鋭い言葉の弾丸に、中学生たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。


「……肝試し、してただけやし……」

ようやく金髪の男子が、消え入るような声で本音を漏らす。


「根性試しで……それで、暗くて足元がよう観えへんかったから、なんか踏んづけてしもたけど……まあ、ええかなって……」

金髪の女子が、自らの行いを正当化しようとするかのように、しかし震えを隠せずに言葉を継いだ。


その「まあ、ええかな」という無責任な響きが、青い犬の霊体の逆鱗に触れた。


「ええ事ないわ、このアホガキ共がぁ!」

空間を震わせるほどの怒号が響き渡り、霊体が大きく膨れ上がる。


「ひぇっ!?」「ごめんなさい!ごめんなさいっ!」

凄まじい霊圧に圧され、女子生徒二人はその場に泣き崩れた。



その喧騒を切り裂くように、一筋の清浄な気配が場を支配した。

菩薩のような穏やかな笑みを湛えたまま、女性住職がスッと四人の前に立ち、静かに合掌してお辞儀をした。

彼女がそこに立つだけで、荒れ狂っていた霊体たちの怒りの波動が、まるで凪いだ水面のように収まっていく。


女性住職は、泣きじゃくる少年少女たちを、慈しむような、しかし逃げ場のない澄んだ瞳で見つめた。

「あなた方は、もしも踏みつけられた食べ物を差し出されたり、今から食べようとした食べ物を踏みつけられたりしたら、どのように思われるでしょうか?」


突然の問いかけに、四人の中学生は何も言えず、ただ呆然と彼女を見上げるしかなかった。

女性住職の声は、夜の風のように優しく、しかし確固たる真理を孕んで彼らの心に浸透していく。


「あなた方がなさった事は、そのような事なのです。そして、それは人の御墓であっても、動物の御墓であっても、決してあってはならぬ事で御座います。恐らくは、動物の御墓だから良いだろうという、浅はかな油断があったのでしょう。その心の隙が、動物墓地での肝試しという無作法を呼び、大切なお供え物を踏み荒らしてしまわれたので御座いましょう」


その静かなる看破に、金髪の男子も女子も、ぐうの音も出ずに力なく項垂れた。

「はい……」

絞り出すような返事が、重い沈黙の中に溶ける。


「お供え物は、亡くなった魂への手向けであると同時に、ご家族がこちらの皆さんを思い、心を込めて御用意された大切な御供物で御座います」


女性住職は菩薩の笑顔を崩さぬまま、一歩一歩、彼らの魂を諭すように言葉を積み上げていく。


「それを踏みにじるという事は、ここにいる皆さんの誇りを傷つける侮辱である事は勿論の事、遺されたご家族の切なる思いさえも、土足で踏みにじる事に他なりません。形あるものを無碍にして壊す事は勿論、その裏にある『心』を蔑ろにする事こそが、何より罪深き行いなのですよ」


その厳しくも温かい言葉は、暴力的な恐怖ではなく、自らの内に眠る良心を呼び覚ますための鋭い光であった。


「……はい、ごめんなさい……本当に、すみませんでした……」

中学生たちは、今度は恐怖からではなく、自らの愚かさを悔いるように深く頭を下げ、涙を流した。


「言葉だけではなく、心からの反省を踏まえた上で、行為として表す事が肝要です。もう遅い時間ではありますが、今からこちらの皆さんの墓地へ行って、共に御参り致しましょう。誠心誠意の祈りこそが、荒れた場を清める唯一の道で御座います」

そう言って、彼女は再び美しく合掌した。


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女性住職は、代表格である青い犬の霊体に向き直り、その絶対的な実力を感じさせない謙虚な所作で問いかけた。

「私が導師を務めさせて頂くという事で、宜しいでしょうか?」


巨大な犬の霊体は、彼女の放つ底知れない慈悲の光に、もはや抗う術を失っていた。


「……御住職に免じて、今回はそれで勘弁したりますわ。悪ガキ共、しっかりと今の話を心に刻み込んで、しっかりお参りせえよ。二度と、あんな真似はするな」

犬の霊体の声には、先程までの凶暴な殺気は消え失せ、どこか厳格な番人のような響きが戻っていた。


「はい、本当にすみませんでした……!」

少年たちは泣きながら、何度も何度も頭を下げ続けた。


この光景を見て、才狐は思う。

腕に覚えのある呪術師や、血気盛んな術者であれば、間違いなく符を飛ばし、派手なドンパチでこの場の怪異をねじ伏せていた局面だろう。


しかし、目の前の僧侶は違う。

彼女はただの一つも「術」を行使することなく、あらゆる攻撃を無効化し、ただ言葉を尽くすだけで荒ぶる魂を鎮め、解決へと導いた。

それは、力による屈服ではなく、存在そのものによる「調和」の完成だった。


妖古から「別格」と評されるその実力。

感情を失ったはずの才狐の胸の奥に、かつて師匠と出会った時のような、そして呪術師と言う初めて尊敬する大人と出会った時と同じ、計り知れない畏怖の念が静かに刻み込まれていった。


女性住職は、優しく黒髪ボブの少女の肩を抱き、闇の深い動物墓地へと導き始める。

彼女の持つ風呂敷包みが、月光を受けて淡く輝く。

その光景は、まるであらゆる迷える魂を救済する、一幅の曼荼羅のように才狐の瞳に映っていた。


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##贖罪の祈りと不殺の光


稲荷神社の境内に、深い静寂が戻ろうとしていた。

女性住職の慈悲深き説法と、眼前に現れた異形の怪異たちによる峻烈な叱責を浴びた4人の中学生たちは、自らの浅はかな行為を、今や魂の底から悔いていた。


「ほな、今夜はワタイがここの守をしとるさかい、安心してお行きやす。あ、今度ここに来た時は、油揚げをお供えしてくれたら、ワタイはとっても嬉しゅうおすよ」

気狐は社の屋根の上でふさふさの尻尾を揺らし、悪戯っぽく笑いながら彼らを見送った。


一行は急ぎ足で稲荷神社を後にし、閉店時間が迫る近隣のショッピングモールへと駆け込んだ。

中学生たちは、自らの小遣いを出し合い、心を込めてドッグフードやキャットフード、そして新鮮な水などを次々とカゴに入れていく。

それらは単なる物ではなく、彼らが踏みにじった「心」への代償であり、再生への一歩であった。


買い出しを終え、一行は重い足取りながらも逃げることなく、再びあの事件の現場となった動物霊園へと戻って来ると。

夜の霊園は、静まり返った管理事務所に明かりが灯っていた。


女性住職はまず管理者の元を訪れ、深く頭を下げて事の次第を丁寧に説明した。

「夜分に失礼致します。こちらの若者達が、過ちを悔い、清掃と供養のために参りました」


女性住職の菩薩のような佇まいに打たれたのか、管理者は驚きつつも入園を許可した。

また、女性住職は、御供え物を味わって欲しいというご家族の気持ちも大切ではあるが、このような事があったり、鴉や猫等が食べ荒らしてしまう事もあるから、御参りが終わった後は御参りに来たご家族に持って帰って貰うように徹底することを提案する。

墓地には、お供え物は持ち帰るよう注意書きの看板を、ところどころに設置しているものの、忘れてしまう家族もいるようで、今後は徹底して声掛けもしていくという話に落ち着いた。


そして、4人の中学生たちは管理者の前で深々と頭を下げ、震える声で誠心誠意の謝罪を口にする。


それから、彼らは夜の霊園の冷たい空気の中、自らの靴で汚してしまった墓地を、震える手で丁寧に掃除し始めた。

こびりついた供物の残骸を取り除き、冷たい水で石を清める。

掃除を終えた後、彼らは買ってきたばかりのドッグフードや水を一つ一つの墓前に丁寧に供えた。


女性住職が傍らで静かに合掌し、低く澄んだ声で念仏を称え始めると、夜の静寂の中に荘厳な響きが広がっていく。

中学生たちはその声に導かれるように、これまで経験したこともないほど真剣な面持ちで、一心不乱に祈りを捧げ続けた。


やがて、祈願の終わりを告げるように住職の声が止んで、鴉や野良猫達に食べ荒らされないように、御供えした物を自分達の手で回収する。


そこへ、再びあの青い巨大な犬の霊体が姿を現した。

「……悪ガキ共、しっかりと稲荷神社での話を心に刻み込んで、二度とあんな真似はすんな。次にやりよったら、今度こそ承知せんぞ」


最後の重い叱り声が響き渡ると、二十もの動物の霊体たちは、満足げな吐息を漏らすようにして次々と墓所の中へと消えていった。

憑き物が落ちたような表情になった中学生たちは、最後に改めて女性住職と才狐に向き直り、「有難うございました。本当に、すみませんでした」と涙ながらに礼を言い、それぞれの帰路についた。


中学生たちを見送った後、女性住職と才狐は、彼女の寺院へ向かって夜の京都を歩き出した。


「今夜はすっかり遅くなりましたね。本日のバスの運行が終わる前に、御狐神社へ戻られると宜しいかと思います」

女性住職は、月明かりをその身に纏うように歩きながら、菩薩のような柔和な笑みを才狐に向けた。


「……はい」

才狐は短く応じ、神社の近くまで繋がる系統のバスが停まる停留所へと歩みを進めた。


街灯の下、二人は足を止める。

才狐は、ずっと喉に引っかかっていた、しかし呪術師としてどうしても聞きたかった問いを口にした。


「あの……御住職さん。……あなたは、一体どんな術や技を使わはったんですか?」


無表情な才狐の瞳に、隠しきれない探求心が滲む。

強力な霊体の群れを、符術も印も使わずに一瞬で無力化したあの「聖域」。


女性住職は、夜風に揺れる袈裟をそっと押さえ、合掌してお辞儀をしながら答えた。

「私は何も、術を使ってはおりませんよ。ただただ、阿弥陀様にお育て頂き、御救い頂いているので御座います。私はその中に、身を置かせて頂いているだけに過ぎません」

菩薩笑顔のまま放たれたその言葉は、呪術のことわりで生きる才狐には、あまりに深遠で、あまりに測り難いものであった。


才狐は他にも聞きたいことが山ほどあったが、丁度その時、暗闇の向こうからヘッドライトの光が近づき、大型のバスが音を立てて停留所に滑り込んできた。


「それでは、お休みなさいまし。道中お気をつけて」

女性住職は再び美しく合掌してお辞儀をすると、それ以上の言葉を待つことなく、夜の闇の中へ颯爽と歩き去っていった。

その後ろ姿は、まるで夜霧に溶ける幻のように、しかし確かな聖性を残して消えていった。


ガランとしたバスの車内。

才狐は一番後ろの席に深く腰掛け、膝の上に置いた1斤のパンが入った袋を静かに見つめた。


ただの、明日の朝食。

妖古に命じられた、何でもないおつかい。

しかし、この数時間の間に彼が体験した出来事は、冷徹な呪術師としての知識を遥かに超越していた。


かつて畏怖を抱いたあの呪術師。

そして今夜目の当たりにした、底知れぬ美しき女性住職。


感情を捨て、心を失ったはずの自分の中に、温かな何かが澱のように沈殿していく。

それは、摩訶不思議なぬくもり。

才狐は、窓の外を流れる京都の夜景を眺めながら、自分の中に新しく芽生えた「縁」という名の重みを、心地よく感じ始めていた。


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##導きの星と調律の背中


月光が銀の糸となって降り注ぎ、朱塗りの鳥居を冷たく照らし出している。

夜の静寂が支配する御狐神社の境内へ、狐宮才狐は音もなく足を踏み入れた。

その歩みは規則正しく、一見すれば冷静そのものであったが、その胸中には未だに、今夜目の当たりにした「聖域」の残響が激しく渦巻いている。


かつてその圧倒的な術理に魂を貫かれた、高位の解呪師である呪術師。

そして今夜、印一つ結ぶことなく、あらゆる霊的な攻撃を霧散させ、ただ慈悲の言葉のみで荒ぶる魂を鎮めてみせた女性住職。


自らも五年という月日を呪術の修行に捧げ、並の怪異など一瞥で伏せさせる実力を手に入れた自負があったが、二人の大人が見せた「ことわり」の深淵は、才狐にとって想像を絶するほどに高く、遠い。

自分では到底到達し得ない高みに立つ真の実力者たちの存在を反芻しながら、才狐は神社の奥へと歩みを進めた。


参道を抜けた先、拝殿の影に揺らめく灯火を見つけ、才狐は足を止めた。

そこには、夜風に衣を遊ばせながら、全てを見通すような黄金の瞳で自分を眺めている師、妖古の姿があった。


「ただいま戻りました。遅くなりました事、申し訳ありません。」

才狐は真っ直ぐに妖古を見つめ、深く、丁寧に頭を下げた。

無表情なその顔に疲労の色はないが、その瞳の奥には、今夜得た膨大な経験を咀嚼しようともがく青い光が宿っている。


「カカカッ、深夜になっても、なんやったら朝になってもええって言うたんじゃから、むしろ早いほうじゃがのう。そんで、おつかいの方はどないやった?明日の朝飯は、無事に買えたみたいで何よりじゃて。」

妖古は数本の尾が幻影のように揺らめく圧倒的な気配を纏いながらも、その微笑みはどこまでも慈愛に満ちていた。


「はい。1斤、買って来ました。」

才狐は手に提げたパンの袋を掲げて見せた。

夜の京都の怪異たちと渡り合い、菩薩の如き僧侶と共に死線を潜り抜けた少年が、最後に持ち帰ったのが一袋の食パンであるという事実に、どこか言いようのない奇妙な安堵感が漂う。


「ほな、茶でも飲むかいのう。気狐からの通信で、ぬしがええ体験をしたことは既に聞いとる。それに、よほど気を張っとったやろうから、まずはほっこり寛がんとな。」

妖古は満足げに頷くと、才狐を促すように自宅の建物へとゆっくりと歩き始めた。


「はい。」

短く返事をして、才狐はその背を追った。


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畳の香りが微かに漂う廊下を、主従は並んで歩いていく。

静かな夜の空気に、才狐の淡々とした報告が溶け込んでいった。

「今夜、口裂け女さんと、二口女さんと挨拶をしました。どちらも、妖古さんの御知り合いのようでした。」


「そうみたいじゃの。御住職からも先程、あの二人と無事に挨拶を済ませたという報告をもろたでな。カカカッ、これから先、京都の怪異達とも深く関わる事もあるじゃろ。顔を繋いでおくに越したことはないさかいな。」

妖古は愛弟子のまだ幼さを残す頭にそっと手を置き、その柔らかな髪を優しく撫でた。

その手の温もりが、冷え切っていた才狐の芯を、不思議なほど優しく解きほぐしていく。


「妖古さんの仰る『御近所付き合い』というのは、今夜のような事を指していたのですか?」

才狐の問いに、妖古は居間の障子を開け、遠い夜空を見上げるように目を細めた。

「まあ、そうじゃな。今夜のはその一環じゃ。京都に五年もおったのに、ぬしは引きこもり気味で修行三昧やったからなあ。復讐劇というやるべき事もひと段落しよったし、そろそろぬしを社交デビューさせる時期かと思うた次第よ。」


「……あやかしというのは、これほどまでに社交的なものなのですね。」


才狐の、感情を捨てたはずの心に芽生えた素朴な疑問に、妖古は煙管を取り出し、紫煙を一つ、ゆったりと燻らせて笑った。


「そやなあ。人間サイドの中には、我らみたいな怪異サイドのもんを無理に調伏しようとしたり、戦争でもおっぱじめるような勢いの血気盛んな連中もおる。怪異の中にも、そういう血の気の多い奴がおるんも確かじゃよ。そやけどな、大抵は互いに折り合いをつけ、平和的に共存の道を探る異能者と怪異が多くて、今の京都は上手い事やっとるというのが現状じゃな。奪い合うよりも、分け合う方が賢いと知っとる連中ばかりじゃて。」


妖古は煙管をくるりと回し、その瞳に真剣な輝きを宿して言葉を継いだ。


「ほんでな、才狐。これもひとえに、時代が進むにつれて、あの呪術師殿や、ぬしを案内してくれた御住職と言った、類まれな御仁らが現れた御蔭さんに他ならん。彼らのような御仁らが、光と影の境界線に立って『調律師』として動いてくれとるからこそ、この街の危うい均衡は保たれとるんじゃ。」


妖古の語る言葉の重みが、才狐の胸に深く沈殿していく。


「ぬしは、ああいう大人を手本にすりゃあええじゃろ。もっとも、あの御仁ら、特にあの呪術師殿やったら『僕みたいな日陰もんは目指さん方が宜しゅうおす』なんて、表情崩さんままに困ったような声で返してきはりそうじゃがのう。カカカッ!」

妖古の愉快そうな笑い声が、夜の帳を揺らす。


「はい。」

才狐は、迷いなく、真っ直ぐに頷いた。


今夜、術を一切行使することなく、ただその存在だけで荒ぶる魂を調和へと導いた女性住職の神々しき姿。

そして、峻烈なる術の極地を身に着け、怪異の理さえも書き換えてみせた、あの呪術師。

心を失い、虚無の中に生きていたはずの狐宮才狐の内に、今、消えることのない確かな「道標」が刻まれた。


自分もいつか、彼らのような強さと慈悲を併せ持つ「調律師」として、この世界の歪みを静かに整える存在になりたい。

才狐は改めて、あの呪術師と女性住職を、自分が生涯をかけて目指すべき、そして心から尊敬する二人であると強く、深く認識する。


少年の無機質な瞳の奥には、京都の深い闇の中でも決して見失うことのない、新しい憧憬という名の光が宿っていた。


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##朝凪の社と流転の予感


昨夜の喧騒と静謐が入り混じった不思議な体験を終え、狐宮才狐は心地よい疲労感と共に深い眠りについていた。


そして、翌朝。


その意識は日の出を告げる前の微かな光を敏感に捉え、時計のアラームが鳴るよりも早く、いつものように覚醒へと導かれる。

彼は静かに起き上がると、冷たい水で顔を洗い、歯を磨いて身支度を整えた。

それから、朝食前の修行として、まだ夜露が残る境内の掃除を開始する。

竹箒が石畳を撫でる乾いた音が、朝の澄んだ空気に凛と響き渡った。


本殿の隅々まで掃き清め、神聖な気を調えた後、才狐は台所へと向かい、師である妖古のための朝食を用意し始める。

手際よく油揚げを焼き、豆腐を切り分け、新鮮な野菜を盛り付けたサラダを準備する。

自身の分としては、昨夜購入したばかりの1斤のパンを厚めに切り、香ばしく焼き上げてから、彩り豊かな野菜を添えた。

準備が整った頃、奥から「お早うさん、今日も朝から精が出るのう」という艶やかな声と共に、妖古がひょっこりと姿を現した。


「お早う御座います。」

才狐は短く挨拶を交わし、神社の食前の言葉を共に唱えてから、静かに箸を進める。

焼きたてのパンの小麦の香りが、無機質になりがちな彼の朝に微かな彩りを与えていた。


簡素ながらも滋味深い朝食を終えた後、才狐は今日が土曜日であることに思い至り、妖古の元で呪術の研鑽に励もうと考えていた。

しかし、そんな彼の思考を先読みしたかのように、妖古が茶柱の立った湯呑みを置きながら、悪戯っぽく微笑んだ。

「今日の修行は、昨晩の続きとしようかの。まずは稲荷神社まで行って、気狐に油揚げを朝飯に食わして来よし。昨日の騒動を円満に解決してくれた労いも兼ねてな。」


「畏まりました。」

才狐は迷うことなく頷き、即座に行動を開始する。


彼は冷蔵庫から気狐のために取り分けておいた大ぶりの油揚げを風呂敷に包み、烏龍茶のペットボトルと共に丁寧にまとめた。

白いTシャツの上に上着を羽織り、機能性に優れたカーゴパンツを履きこなす。


出かける準備を整えた才狐に対し、妖古は縁側に腰を下ろし、コロコロと鈴を転がすような声で笑いながら言葉を添えた。

「ほな、行って来よし。ほんでな、今日はそのまま、流れに身を任せてみるとよかろう。おもろい体験が出来るかもしれんからのう。その体験もまた、立派な修行の一環じゃ。カカカッ!」


「はあ……わかりました。行ってきます。」

才狐は師匠の真意を計りかねながらも、その言葉を重く受け止め、御狐神社の鳥居を潜った。


早朝の澄み切った空気を切り裂くように走るバスに揺られ、才狐は再び京都駅近くの喧騒へと降り立つ。

日中の混雑が嘘のように静かな駅前を通り抜け、足早に稲荷神社へと向かう。

鳥居を潜ると、朝陽が朱塗りの柱に反射し、境内は清々しい霊気に満ち溢れていた。


才狐は人目のつかない奥まった場所にある、あの小さな御社へと辿り着く。

周囲に誰の気配もないことを確認してから、彼は昨日と同じように二礼二拍手一礼の作法を捧げた。

柏手の音がパァンと高く響き、静寂の中に溶けていく。


すると、ガタッと社の扉が開いたかと思うと、大きな欠伸を一つしながら、真っ白な毛並みの狐――気狐がひょっこりと顔を出した。

気狐はパッと小さく前足を挙げて、御機嫌な様子で挨拶を投げてきた。

「お早うさんどす、才狐はん!こんな朝早うから、どないしはったんです?」


「お早う御座います。昨日の一件を解決して下さった事への感謝を込めて、朝食をお持ち致しました。」

才狐は風呂敷包みを解き、まだしっとりとした油揚げのパックと、冷えた烏龍茶のペットボトルを差し出した。


「これはこれは、おおきにどす!妖古様にも御礼言うておいておくれやす。ほな、遠慮なく頂きますー♪」


気狐は瞳を輝かせ、上機嫌で油揚げをむしゃむしゃと頬張り始めた。

その食べっぷりの良さに、才狐は微かな満足感を覚える。


食後のお茶を飲み終わるまで待つのも野暮だろうと考えた才狐は、「それでは、また。失礼致します。」と言い残し、その場を立ち去ろうとした。

しかし、ペットボトルのキャップを開けて烏龍茶を一口飲んだ気狐が、ふと思い出したかのように声をかけてきた。

「あ、ちょいと待っとくれやす!もうちょい待ってはったら、宜しゅうおすえ。」


その言葉を聞いた瞬間、才狐の脳裏に、出発前の妖古の言葉が鮮やかに蘇った。

『流れに身を任せてみるとよかろう』

師匠が予見していた「おもろい体験」の入り口は、どうやらここにあるらしい。


才狐は立ち止まり、無表情な瞳のまま静かに気狐を振り返った。

きっと、何か断りきれないような用事を頼まれるか、あるいは新たな「縁」がこちらに向かっているのだろうか。


彼は自身の呪力を穏やかに保ちながら、これから訪れるであろう未知の展開を、ただ静かに待つことにした。


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##朝露の邂逅と調律師の背中


気狐に言われて足を止めた才狐の視界に、朝の柔らかな光を背負った一人の人影が、音もなく静かに滑り込んでくる。

それは、あの千年以上の時を生きる天狐・妖古が「調律師」とまで称え、感情を捨てたはずの才狐が生まれて初めて、魂の底からの敬意と憧憬を抱くようになった、あの呪術師であった。


呪術師は、既に才狐がこの神社の境内にいることを察していたのであろうか。

一切の躊躇いもなく、砂利を鳴らす心地よい音と共に、真っ直ぐに才狐の方へと歩み寄ってくる。


才狐の目の前まで来ると、呪術師は、一切の感情を感じさせない無表情のまま、静かに告げた。

「お早うさんです、才狐さん、気狐さん」


そう静かに告げると、彼は神前へと向き直り、指先一つまで洗練された動作で二礼に拍手一礼を捧げた。

その祈りの所作には、周囲の空気を瞬時に清浄へと書き換えてしまうような、圧倒的な調和が宿っている。


「お早う御座います、呪術師さん」

才狐は居住まいを正し、深く丁寧にお辞儀をして挨拶を返した。

感情を捨てた無機質な少年の声が、朝の静寂に僅かな波紋を作る。


「お早うさんどす、ほんで、御馳走さんどした♪」

気狐は最後の一口を飲み込み、満足そうに合掌してお辞儀をしてから、烏龍茶を一口啜って喉を鳴らした。


「ゴクッ……ふい~、生き返りますわ。……才狐はん、実はね、最近この辺りでこっくりさん騒動があったんどす。呪術師はんは、それを鮮やかに解決してくれはりましてなあ。そん時に知ったんどすが、呪術師はんは土日とかの休みになると、決まって早朝にこの辺りを散歩してはりますんよ」


師である妖古が、なぜこの時間に、この場所へ行くように命じたのか。

油揚げの余韻に浸りながらほっこりと語る気狐の言葉を聞き、才狐はすとんと腑に落ちる感覚を覚えた。


『カカカッ!おもろい体験が出来るかもしれんからのう』


脳裏に響く師匠の愉しげな笑い声と共に、その深い意図を理解した才狐は、胸の奥で微かな温もりが広がるのを感じていた。


「ふふふ、才狐はんは、呪術師はんに大層興味津々やって、妖古様から教えてもろてましたからねえ。」

気狐は鈴を転がすような声で笑い、尻尾を満足げに一振りした。


「ほな、ワタイはこの後、他の狐の神社に顔出して来まっさかい、御二人も休日を楽しんでおくれやすー♪」

そう言い残すと、気狐は重力から解き放たれたようにふよふよと浮き上がり、鮮やかな尾をたなびかせながら、神社の外に向かって軽やかに飛んで行った。


「「行ってらっしゃい」」


呪術師と才狐は、その小さくなっていく背中を同時に見送った。

二人の間に、朝凪のような静かな時間が流れる。


才狐は意を決したように、隣に立つ大人の横顔を見上げた。

「あの、御一緒しても宜しいでしょうか?」

その問いは、かつての彼であれば決して口にしなかったであろう、他者への純粋な歩み寄りであった。


呪術師は少年の無垢な、しかし切実な眼差しを受け止め、平坦で抑揚のない声音で答えた。

「宜しゅうおす。まあ、僕について来はったところで、大層なことはあらしませんでしょうがね」


無機質なほどに冷静な呪術師に、才狐は静かに頷いた。

二人は並んで本殿へと向かい、静寂の中に響く柏手の音と共に祈りを捧げてから、清々しい空気の稲荷神社を後にした。


一歩前を行く呪術師の、凛とした背中。

才狐はその僅か後ろを、一歩ずつ踏みみしめるように付いて行った。


五年前、全てを捨てて「無」となったはずの少年の瞳。

そこには今、尊敬する大人の背中を追い、その一挙手一投足から何かを掴み取ろうとする、摩訶不思議な「期待」の光が宿っていた。


千年の都、京都の早朝。

少年呪術師と、調律師で解呪師としての力を持ち「呪術師」と名乗る達人。

不思議な二人の並走が今、静かに始まった。


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##調律師たちの会合と、静かなる期待


「今の時間やったら、御住職も朝の御用は全て終わってはる頃でっしゃろな。ほな、挨拶に行ってみましょか」

呪術師は、淡々と、しかし澱みのない足取りで路地を曲がった。

その背中には一切の迷いがなく、ただ朝の静謐な空気を切り裂くようにして進んでいく。


「はい」

才狐は短く応じ、その後ろを付いて歩く。


京都の古い町並みが、朝陽に照らされて少しずつ色を取り戻していく中、二人はひっそりと佇む浄土宗寺院へと辿り着いた。

山門の前で立ち止まり、深く一礼をしてから境内へと足を踏み入れる。

すると、まるで二人の到着を予見していたかのように、玄関の引き戸が静かに開いた。


そこに現れたのは、昨夜、圧倒的な慈悲の光で場を鎮めた女性住職であった。

彼女は菩薩のような穏やかな笑顔を湛え、胸の前で静かに合掌してお辞儀をする。


「お早う御座います。ようこそお参り下さいました」

その鈴を転がすような清涼な声が、朝の境内に響き渡る。


「「お早う御座います」」

才狐と呪術師もまた、彼女に合わせて合掌し、深く頭を下げた。


三人は本堂へと入り、御本尊の前に並んで座した。

呪術師と才狐の低く響く呪術的な霊気と、女性住職の透明で底知れない慈悲の気が、お経の調べと共に堂内に共鳴していく。

念仏を唱え終えた後、案内された客間には、淹れたての茶の香りが穏やかに満ちていた。


才狐は居住まいを正すと、昨日受けた恩義を思い出し、改めて深く頭を下げる。

「昨夜は有難う御座います。貴重な体験をさせて頂きました」


その言葉に、女性住職はふんわりと微笑みを深めた。

「口裂けさんと二口さんと、それに気狐さんとも顔合わせして頂く御縁が出来まして、何よりで御座います。夜の京都の住人達は、とても温かい方々ですよ」


呪術師は湯呑みを手に取り、立ち上る湯気を無表情で見つめながら口を開いた。

「二口さんは、今日は土産話をして回ってはりそうですな。あの御仁は、お喋りが好きでいらっしゃいますから」

お茶を一口飲み、喉を鳴らす動作さえも、呪術師は極めて淡々と、無機質に行う。


「……呪術師さんも、口裂けさんや二口さんを御存じなんですか?」

才狐の問いに、呪術師は表情を変えぬまま頷いた。

「ええ。仲良うさせてもろてます」

その一言だけで、彼がこの街の「境界」でどれほど長い時間を過ごしてきたかが窺えた。


才狐は自分自身の未熟さを噛み締めるように、ぽつりと呟いた。

「僕は、京都に来てから5年、外の事を全然知らへんと、妖古さんに言われました。それで、昨晩から御近所付き合いをして来るように言われたんです。……自分がどれほど狭い世界にいたのか、痛感しています」


修行第一で駆け抜けてきた少年の告白に、女性住職は包み込むような優しさで応じる。

「無理もない事かと思います。才狐さんは、それだけ真っ直ぐに術と向き合ってこられたのですから。これからは少しずつ、世界の広さを知っていけば宜しいかと存じます」


すると、それまで黙ってお茶を啜っていた呪術師が、ふと顔を上げた。

「ほな、今日は色々と案内させて貰いましょか。連れまわしてしまう事になりますがね」


その申し出に、女性住職も楽しげに目を細めた。

「それでは、私も御供させて頂きます。丁度、御仏のお導きを感じておりましたところですので」


「はい、有難う御座います。是非宜しくお願いします」

才狐は立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。


才狐本人は、自身の顔が無機質なままであるため気づいていなかったが、もしここに師である妖古がいたならば、弟子の様子を見て「カカカッ!こやつに心が失われておらなんだら、今頃は飛び上がって喜ぶシチュエーションじゃのう」と、愉快そうに笑っていたに違いない。


尊敬して止まない二人の実力者に囲まれ、未知の京都へと繰り出す。

少年呪術師の休日修行は、予想もしなかった贅沢な顔触れと共に、今ここから真の始まりを迎えようとしていた。


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##猫の曲がりと紅き怪異の抱擁


女性住職は、最初の目的地への供え物として、手早く厨房へと向かった。

炊き立ての米の香りが立ち込める中、彼女は慣れた手つきで鰹節をたっぷりと混ぜ込み、小ぶりで形の整ったおむすびを握り上げる。

瑞々しい緑の笹の葉で優しく包み込み、それを丁寧に風呂敷へと収めると、三人は静かに浄土宗寺院を後にした。


最初の目的地は、教王護国寺――「東寺」の名で広く知られる、京都の象徴的な寺院である。

かつて弘法大師空海が密教の真髄を注ぎ込んだこの聖域には、今もなお凛とした霊気が渦巻いている。


境内にある「猫の曲がり」と呼ばれる場所に差し掛かった時、前を行く呪術師が足を止め、無機質な視線を虚空へ向けた。

「中にいてはるようですな」


三人は山門の前で一度足を止め、深い一礼を捧げてから境内へと足を踏み入れた。


まずは金堂へと向かい、静寂の中に鎮座する薬師如来へと合掌する。

呪術師と才狐の放つ研ぎ澄まされた呪力と、女性住職の深淵なる慈悲が、黄金の仏像の前で静かに共鳴した。

儀礼を滞りなく終えた三人は、駐車場の喧騒を通り抜け、北側へと抜ける出口付近へと歩を進める。

そこには、周囲の景色から浮き上がるような、鮮烈な「紅」が待っていた。


紅い着物を艶やかに着こなし、黒髪のショートボブを揺らす一人の女性。

釣り目で、どこか野性味を感じさせる猫のような瞳を持ったその美貌が、こちらを見て手をひらひらと振った。


「猫又さん、お早うさんです」

呪術師が淡々と、しかし確かな敬意を込めて挨拶を交わす。


「お早う御座います、猫又さん」

女性住職もまた、菩薩の如き笑顔で静かに合掌した。


「お早うさん、呪術師はんに、御住職はん。ほんで、そっちの子が、噂の妖古さんとこの弟子君やね」

猫又と呼ばれた女性は、鈴を転がすような声で笑い、興味深そうに才狐を覗き込んだ。


「初めまして、狐宮才狐と申します。……猫又さんと言う事は、やはり……」

才狐は丁寧にお辞儀をしながらも、その正体を悟り、僅かに眼を細める。


「そや。流石に、ウチらの世界に来て5年もおったら、猫又くらいは知っとるようやね。ふふ、こうして会うんは初めてやな、宜しゅう」

猫又は満足げに目を細め、親愛の情を込めて微笑んだ。


「こちらこそ、宜しくお願いします。……あの、僕は噂になってるんですか?」

無表情ながらも、才狐の胸中には複雑な想いが去来していた。


「そりゃあな。ウチも猫やから気まぐれの代表格みたいやけど、妖古さんも相当な気まぐれな御方やし。その妖古さんが、わざわざ人間の弟子を引き取らはった、しかもあんな復讐の果てに、手放さずに宮司までさせてはるっちゅうんやから。そら妖古さんを知るもんからしたら、あんたは最大の興味の対象やもん」

猫又の言葉に、才狐は自身の存在が「こっち側」の住人たちにとってどれほどの衝撃であったかを思い知らされる。


「猫又さん、朝食になるかと思いまして、おむすびをお持ち致しました」

女性住職が柔らかな声で割って入り、風呂敷包みから笹に包まれたおむすびを差し出した。


「おお、御住職はんの手作りおむすび!しかも、おかかやん、ウチの大好物~♪おおきになあ、ありがとさん♪」

その瞬間、猫又の表情がパッと華やいだ。


喜びを抑えきれないかのように、彼女の頭から三角形の尖った耳が、そして着物の裾からは二股に分かれた長い尻尾がぴょこんと飛び出す。

ピコピコとそれらを可愛らしく弾ませながら、彼女は椅子代わりに近くの岩に腰を下ろした。


笹の葉を丁寧に剥き、現れたおむすびを猫又は一口運ぶ。

「ん~、美味しい♪」


大好物を口にした彼女は、満面の御機嫌笑顔を浮かべた。

その食べ方は、野生の荒々しさを微塵も感じさせないほどに上品で、それでいて心底幸せそうである。


朝陽に照らされながらおむすびを頬張る猫又の姿は、恐るべき大怪異でありながら、どこか無邪気な少女のような愛らしさを湛えていた。

才狐は、呪術師や女性住職という「別格」の大人たちが、こうした怪異たちと対等に、そして温かく接している光景を、静かな驚きと共に心に刻んでいた。


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##紅の残り香と豆餅の助言


「ぷはぁ、生き返るわぁ。おおきになぁ♪」

猫又は呪術師から手渡されたお茶のペットボトルを器用に開け、渇いた喉を潤すと、満足げな吐息を漏らした。

ゴクン、ゴクンという生々しい嚥下音さえ、この美しい大怪異が発するとどこか優雅な調べのように聞こえるから不思議である。


彼女は丁寧に笹の葉をまとめると、紅い着物の膝を軽く叩き、まるで幼馴染に話しかけるような親しみやすさで世間話を始めた。

「ほんでなぁ、こないだは、えらいこっちゃんに猫を助けてもろて、阿保な中坊共に雷落したったんや。最近の若いのは、猫をいじめたらどうなるか、ちーとも分かってへんから困ったもんやわ。えらいこっちゃんも、相変わらずあの調子でドタバタしとったけど、おかげでウチの眷属も助かったし、感謝しとるんよ」

ケラケラと愉快そうに笑う彼女の背後で、二股に分かれた尻尾が機嫌良さそうに空を薙いでいた。


ひとしきり近況を語り終えると、猫又は名残惜しそうに空になったペットボトルを眺め、三人に視線を戻した。

「有難うなぁ。ええ朝御飯やったで。ほんで、あんさんらは、これからどこに行かはるん?まだまだお散歩は続くんやろ?」


猫目の瞳を細めて問う彼女に対し、呪術師は一切の感情を排した無機質な、しかし確かな礼節を保った声で答えた。

雲外鏡うんがいきょうさんとこに、挨拶に行こうかと思てます。あちらにも、暫く顔を出せておりませんでしたからな」


「ああ、鏡はんとこかいな。あの偏屈なおっちゃん鏡、鏡磨きに精を出しすぎて、世間から置いてけぼりになっとらんか心配やわ」

猫又は顎に手をやり、何かを思い出すように視線を彷徨わせた。

「ほな、お土産は豆餅か……いや、最近になって『美味い豆餅食べたんやのう』とか言うてた気がするし、ここは趣向を変えて柏餅にしてあげたらどないやろか?季節もんやし、餡子の甘さが体に染みる言うて喜ぶと思うで」


「柏餅、ですか。それは良いですね。では、いつもの和菓子屋さんで、出来立ての柏餅と香り高い緑茶を購入してから、向かうと致します。猫又さん、貴重な助言を有難う御座います」

傍らで菩薩の笑顔を湛えていた女性住職が、ふわりと柔らかな空気を纏って合掌した。


「ほな、有難う御座います。助かりましたわ」

呪術師も住職に合わせて、静かにお辞儀を交わす。


才狐もまた、今まで聞いたこともない「怪異同士の繋がり」を目の当たりにし、無表情ながらもその瞳に知的好奇心の光を宿して深く頭を下げた。

「色々と有難う御座います。興味深い話を聞けました。……怪異と人間が、これほど密接に関わっているとは思いませんでした」


「ふふ、えらいこっちゃんとのドタバタ話中心やったけどね、おもろかったら何よりや。修行ばっかりやと頭が固なるさかい、たまには肩の力抜きよし。ほな、近くまで来たら、またおいない。いつでも歓迎するで」

猫又は紅い袖を翻し、慈しむような微笑みで一行を送り出した。


こうして異能を駆る三人の人間は、東寺の重厚な空気を感じさせる北の出口へと向かって歩き出した。

カツン、カツンと石畳を叩く規則正しい足音が、朝の澄み渡る境内に心地よく響き渡る。


才狐は、一歩前を行く呪術師の揺るぎない背中と、隣を歩く女性住職の穏やかな気配を感じながら、自身の内側で何かが少しずつ変わっていくのを感じていた。

ただ調伏し、伏せさせるだけの対象だった「怪異」という存在が、おむすび一つ、餅一つで心を通わせる「隣人」としての輪郭を持ち始める。


朝陽に照らされた京都の街並みは、昨夜よりも少しだけ鮮やかに、そして深淵なる物語を秘めているかのように才狐の瞳に映っていた。


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##鏡の結界と紫の古老


七条にある古びた、しかし凛とした佇まいの一軒の和菓子屋。

三人はそこの暖簾を潜り、季節の香りが満ちる店内でイートインの席についた。

運ばれてきたのは、瑞々しい柏の葉に包まれた、出来立ての柏餅。

才狐は無表情ながらも、そのもちもちとした生地と上品な餡の甘みを、呪術師と女性住職と共に静かに堪能した。


一時の休息を終えた後、彼らは雲外鏡うんがいきょうへの土産として、柏餅を二つと冷えた緑茶を買い求め、丁寧に風呂敷へと収めた。

再び歩き出した一行が向かったのは、地図にも記されていない、鏡を祀る小さな神社であった。


本殿の華やかさからは遠く離れた、木々が鬱蒼と茂る奥まった場所。

人の気配が完全に途絶えたその御社の前で、三人は並んで立ち止まり、二礼二拍手一礼の作法を執り行った。

柏手の音が吸い込まれるような静寂の中、呪術師が静かに一歩前へと踏み出し、指先で複雑な印を組む。


「……『かい』」


その凛とした声が響いた瞬間、張り詰めていた空気が物理的に震え、透明な膜が弾けるような霊的気配が周囲に広がった。

直後、固く閉ざされていた御社の扉がギィ……と古びた音を立てて開き、その中から「のそのそ」と奇妙な何かが姿を現した。


それは、深い紫色の縁取りがなされた大きな鏡に、細い手足が生えた不思議な怪異であった。

鏡面には、墨で書かれたような目と鼻が浮かび上がっており、それらが歪んで柔らかな笑顔の形を作る。


「お早うさんやのう。今日は珍しく御揃いなんやのう」

雲外鏡の声は、古い蔵の中から響いてくるような、どこか懐かしく重厚な響きを持っていた。


「お早う御座います、雲外鏡さん」

女性住職は、朝の光を反射させるような菩薩笑顔を湛え、胸の前で美しく合掌してお辞儀をした。


「お早うさんです」

呪術師もまた、一切の感情を排した無機質な、しかし確かな礼節を込めた声で合掌し、深く頭を下げた。


「お早う御座います、初めまして。狐宮才狐です」

才狐が自身の名を名乗り、丁寧にお辞儀をすると、雲外鏡の鏡面がキラリと光を反射させた。


「おお、君が噂の、妖古さんの御弟子さんかいのう。えらいイケメンやのう。ワイは雲の外の鏡と書いて、雲外鏡うんがいきょうやのう。以後、お見知り置きをやのう」

鏡の中に浮かぶ目が、興味深げに才狐を上下に観察する。

その視線には、大怪異特有の鋭さと、年長者としての温和な好奇心が混ざり合っていた。


「自己紹介も済まれたところで、これは御土産です。朝食代わりに召しあがって下さいまし」

女性住職が柔らかな動作で風呂敷包みを解き、笹の香りが微かに残る柏餅と、緑茶のペットボトルを差し出した。


「これはこれは、有難うさんやのう……おお、柏餅やのう!あの和菓子屋の柏餅は絶品やのう。皮の弾力と言い、餡の炊き加減と言い、最高やさかいのう」

雲外鏡は細い手で器用に餅を受け取ると、大きな口(のような隙間)を開けて、むしゃむしゃと美味しそうに食べ始めた。


その様子をじっと眺めていた才狐は、ふと素朴な疑問を口にする。

「……怪異の皆さんって、意外と和菓子が好きなんですね」

昨日から出会う怪異たちが、皆一様に人間と同じものを楽しみ、喜ぶ姿が才狐には新鮮に映っていた。


「和菓子好きな怪異は多いやろうのう。この、絶妙な甘さの漉し餡がたまらんのう。そうや、小豆洗いはんとこの鯛焼きも、絶品小豆やさかいのう。少年も一度、食べに行かはったらええかいのう」

雲外鏡はそう言って愉快そうに笑い、緑茶を「ごくり」と豪快に飲み干した。


朝の静かな神社で、鏡の怪異が柏餅を頬張り、人間と語らう。

才狐は、京都という街の深淵に流れる、こうした穏やかな「調和」のひと時を、静かにその胸へと刻み込んでいくのであった。


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##錦の賑わいと小豆を研ぐ老


「御馳走さんやのう、有難うやのう。ほな、これからイケメン君を連れて怪異紀行、妖怪紀行っちゅう事かいのう」

雲外鏡の鏡面に浮かぶ目と鼻が、満足げに細められる。

呪術師は何も言わず、雲外鏡が飲み干して空いた緑茶のペットボトルを回収する。


「はい。日中でも会える方々に、ご挨拶して回ろうかと思います」

女性住職が菩薩の如き笑顔で頷く。


「そやったら、貴船神社で橋姫はんが、巫女さん姿で紛れこんではるやろうからのう。そや、丁度昨日、羅生門はんと飲んでたんやけど、あの方も橋姫はんに会いに行くて言うてはったのう。途中で錦に行ったら、小豆洗いはんにも会えるかもしれんのう」

雲外鏡は鏡の奥から響くような声で豪快に笑い、有益な情報を授けてくれた。


「それは有難い情報ですな、助かります。ほな、一先ず錦通り目指してみましょか」

呪術師の言葉に、才狐も静かに居住まいを正した。


「「有難う御座います。それでは」」

女性住職と才狐が丁寧に合掌してお辞儀をすると、雲外鏡は「ほな、気いつけてのう」と、細い手足をひらひらと振って彼らを見送った。


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三人は鏡の神社を後にし、初夏の風が吹き抜ける京都の街へと戻った。

早朝の静寂から一転、街は少しずつ活気を帯び始めている。

バスに揺られて四条通までやって来た一行は、人混みを縫うようにして錦通りへと足を踏み入れた。


「京の台所」と称される錦市場。

アーケードの下には、色鮮やかな食材や乾物の香りが立ち込め、観光客や地元の買い物客の活気で満ち溢れている。

その喧騒の中、乾物や豆類を扱う一軒の店の前で、穏やかな表情をした老人が足を止めていた。


「小豆洗いさん、こんにちは」

女性住職が、周囲の熱気に溶け込むような柔らかな声で合掌した。


「こんにちは。今日は黒豆の仕入れでしたか」

呪術師もまた、相変わらず抑揚のない淡々とした口調で挨拶を交わす。


「こんにちは。先日はお世話になりました」

才狐が深くお辞儀をすると、老人の姿に化けていた小豆洗いは、驚いたように顔を上げ、すぐに柔和な笑みを浮かべた。


「おお、御住職さんに呪術師さん。それに、こないだ一緒にすき焼きつついた才狐君やったかいな、こんにちは。元気そうで何よりやわ」

小豆洗いは、手に取っていた豆の袋を愛おしそうに眺めながら言葉を継ぐ。


「豆餅用に、ええ黒豆が無いか見に来たんよ。せっかく仕入れるなら、やっぱり丹波の黒豆が一番やさかいな。見てみ、この艶。これは、ええ豆餅が出来まっせ」

上機嫌に語るその姿は、長年豆と向き合ってきた職人のそれであり、一見すれば人ならざる怪異であるとは誰も思うまい。


才狐は、その光景を無機質な瞳で見つめていた。

昨夜出会った二口女や口裂け女、そして今朝出会った猫又や雲外鏡。

彼らが和菓子を心底美味しそうに頬張る姿。

そして今、目の前でその和菓子の「命」とも言える小豆を、一切の妥協なく選び抜こうとする妖怪の姿。


(和菓子を美味しそうに食べる怪異もいれば、それを専門に作る職人の妖怪もいるんやな……)


修行に明け暮れていた5年間、妖古から、怪異はむやみやたらと敵視する対象ではないと教えられていたとはいえ、未だ才狐にとって怪異とは「討つべき対象」か「使役すべきもの」と言う印象が強かった。

しかし、この京都の空の下では、彼らは互いに役割を持ち、人間と共にこの街の文化や味を支え合って生きている。


失ったはずの心の中に、そんな彼らの「社会」の広がりが、静かな驚きを伴って浸透していくのを才狐は感じていた。


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##貴船の翠鳴と異形なる茶会


小豆洗いと別れた後、錦市場の喧騒を離れた路地裏で、呪術師は懐から一枚の符を取り出した。

指先を滑らせるだけで、無機質な紙片は命を吹き込まれた白銀の鳥へと変貌し、青空へと音もなく飛び立っていく。

それはまさに、一切の無駄を削ぎ落とした「術の極致」であった。


数分後、戻ってきた飛鳥を指先で受け止めた呪術師は、浮き出た墨文字を平坦な眼差しでなぞり、再び懐へと収める。


「向こうでは今し方、えらいこっちゃんが来はったみたいです。ほんで、これから昼食やと言うてはりまして、僕らの昼食後に来はったらええと言うてくれはりました。ほな、僕らも昼食にするとして、そこの喫茶店に入りましょか。御土産も欲しいと言われましたんでね」

感情を排した抑揚のない声だったが、その言葉に従い、一行は歩き出す。


才狐は呪術師の背中を見つめ、ただ伝令符を飛ばすという基礎的な技法一つとっても、そこにある洗練された魔力の循環を必死に読み取ろうとしていた。

女性住職と呪術師は、そんな少年のひたむきな視線を背中に受け、師匠が弟子を慈しむような、静かな温もりを湛えた沈黙で応える。


一行が辿り着いたのは、蛸薬師通りにひっそりと佇む、レンガ造りのレトロな喫茶店であった。

カランコロンと古びたドアベルの音が響き、店内には香ばしい珈琲の香りと、どこか懐かしいケチャップの匂いが満ちている。


注文したのは、この店の看板メニューであるミニサラダと珈琲がセットになったナポリタン。

湯気を立てる皿が運ばれてくると、三人は店員へ丁寧にお礼を述べ、胸の前で静かに掌を合わせた。


「われここに食をうくつつしみて、天地の恵みを思いその労を謝し奉る」


女性住職の清らかな声に合わせ、才狐も心の中で浄土宗の食前の言葉を唱える。

続いて十回の念仏を静かに称え、感謝と共にフォークを手にした。


呪術師と女性住職の食事風景は、一幅の絵画のように美しかった。

ナポリタンという、ともすればソースが跳ね、音を立てやすい料理でありながら、二人は背筋をピンと伸ばしたまま、一切の物音を立てずに優雅に咀嚼していく。

才狐もその気品に圧倒されながら、ソース一滴すら飛ばさぬよう、全神経を集中させて丁寧に食事を進めた。


「われここに食を終わりて、こころゆたかに、力身に満つ。おのがつとめにいそしみ、誓ってご恩にむくい奉らん」


食後、再び静謐な祈りの時間が流れる。

十回の念仏の後、「御馳走様でした」と声を揃え、食事を締めくくった。


「御布施させて貰いますえ」

呪術師は無機質な表情のまま、スマートに三人分の会計を済ませる。

その立ち振る舞いには、世俗の支払いさえも修行の一環とするような凛とした潔さが漂っていた。


女性住職と才狐は「「有難う御座います、御馳走様です」」と、丁寧に合掌してお礼を伝え、呪術師が会計中に、女性住職は御土産用の洋菓子が並ぶカウンターでシュークリームを購入し、御土産として用意された箱入りのシュークリーム六人分を大切に抱え、店を後にした。


三人は四条から地下鉄に乗り込み、北大路でバスに乗り換える。

揺られることしばし、三人の前には緑の深淵を湛えた水の神域、貴船神社が姿を現した。

川のせせらぎが冷気を運び、辺りは街中の熱気が嘘のような清冽な空気に支配されている。

朱塗りの鳥居の前で三人は深く一礼し、石段を登って本殿での参拝を滞りなく済ませた。


そこから、呪術師と女性住職は一般の参拝客が足を踏み入れぬ、木々が鬱蒼と生い茂る森の奥へと迷いなく突き進む。

才狐も二人の気配を追い、生い茂るシダや苔むした岩を抜けていく。


やがて辿り着いたのは、人の眼を拒むように結界が張られた、静寂が支配する小さな広場であった。

そこには、三人の到着を待ち侘びる、京都の闇を象徴する異形たちが立ち並んでいる。


まず目を引くのは、二メートルを優に超える、巨岩を思わせる筋肉を誇る男性であった。

いかつい風貌に整った髭を蓄えた男前な彼は、今はその象徴たる二本の角を巧みに隠し、赤いTシャツに黒い上着、青いズボンという現代的な装いで泰然と立っている。

この御男こそ、かつて平安の都を震え上がらせた鬼、羅生門の鬼である。


その隣には、長く艶やかな黒髪を春風に靡かせ、清らかな巫女装束を纏った絶世の美女が佇んでいる。

その慈愛に満ちた瞳の持ち主は、かつて鉄輪の伝説で語られ、ついには鬼となって蔑まれ恐れられた悲劇の怪異、橋姫であった。


そして、その二人の前で、誰よりも元気に両腕をぶんぶんと振り回している小柄な影があった。

黒いベレー帽を被り、ズボンタイプの黒いセーラー服。

銀色の長い髪を揺らし、まん丸な瞳を見開いて、台形の形をした独特の口元を綻ばせている。


「こんにちはの御疲れちゃん!えらいこっちゃな食後の御茶会!」


えらいこっちゃ嬢が、ぴょんぴょんと跳ねながら全身で喜びを表現する。

ブンッ、ブンッ!と腕を振る風切り音さえ聞こえてきそうなその天真爛漫な姿が、厳かな神域の空気を一瞬で華やかな「日常」へと塗り替えていった。


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##貴船の翠鳴と異形なる茶会:言霊の余韻


「こんにちは。御無沙汰してます。御土産は御住職が買うてくれはりました」

呪術師もまた、一切の感情を排した無機質な声音で挨拶する。


「こんにちは。御無沙汰しております。こちらは御土産のシュークリームです」

女性住職は、貴船の深い緑を背負いながら、菩薩のような柔和な笑顔で静かに合掌し、手に提げていた箱を羅生門の鬼へと差し出す。


「おう、こんにちはやで!ほんで、有難うなあ!これやこれ、あの店の洋菓子はどれも絶品でなあ。抹茶ムースが最高に美味いんは勿論やけど、このシュークリームも、まろやかなカスタードクリームと相性抜群な皮の香ばしさがたまらんのや!」

二メートルを超える巨躯を揺らし、羅生門の鬼は相好を崩して上機嫌に笑った。


「こんにちは。ふふ、洋菓子を手軽に食べられる時代になって、本当に宜しい事じゃなあ」

橋姫は艶やかな黒髪を揺らし、かつての凄惨な伝説を感じさせない淑やかな仕草で微笑む。


「ありがとちゃん!えらいこっちゃな絶品シュークリーム!」

えらいこっちゃ嬢は、まん丸な目を見開き、台形の口を精一杯開けて、全身で喜びを表現するように両腕をぶんぶんと振り回した。


才狐は一歩前へ出ると、礼節を保ちながら丁寧にお辞儀をした。

「こんにちは、橋姫さん、えらいこっちゃん。そして、初めまして。羅生門の鬼さんですよね?」


「おう、初めましてやな。俺の事は、羅生門とでもなんとでも呼んでくれ。ほんで、君があの、妖古殿んとこの弟子、才狐か。宜しゅうな。それにしても、噂通りのイケメンやのう。こりゃあ、学校の女子共が放っておかんやろなあ、がははは!」

羅生門は豪快に笑い飛ばし、才狐の肩を軽く叩こうとして、そのあまりの体格差に苦笑いして手を止めた。


「宜しくお願いします。」

才狐は無表情ながらも、羅生門の放つ圧倒的な「陽」の霊気に気圧され、僅かに視線を彷徨わせる。


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木漏れ日が揺れる貴船の結界内、奇妙な顔ぶれが円座を組む。


「頂きます」

全員で声を揃え、箱から取り出されたばかりの、まだ冷たく香ばしいシュークリームを手に取った。

サクッという心地よい音と共に、濃厚なカスタードが溢れ出す。


「妖怪や怪異と呼ばれている方々は、洋菓子も和菓子も好きなんですね。さっきも、雲外鏡さんが柏餅を美味しそうに食べてはりました」

才狐は、自らの分を一口運び、その甘さに安らぎを感じながらぽつりと呟いた。


「そやなあ。俺はどっちも好きやけど、雲外鏡は基本は和菓子派やろな。……あれ、でもあの鏡、昨日一緒に飲んでた時『レトロ喫茶のブランデーケーキは絶品やのう』とか言うとったから、案外どっちもいける口なんちゃうやろか?」

羅生門は大きな手で器用にシュークリームを掴み、首をかしげながら答える。


「ブランデーケーキですか?もしかしたら、私の知っているお店かもしれませんね。確か、喜乃さんが東京に戻られる前に、呪術師さんと一緒にお呼び頂いた、あの喫茶店のケーキのことでしょう」

女性住職が、懐かしむように目を細めて微笑んだ。


「ああ、あの店ですか。ブランデーケーキ言うたら、確かにその店が一番に思い出されますさかい。それにしても、喜乃さん……式宮喜乃さんですか、言霊師の。今は東京に戻らはってから、書道教室を再開しはったみたいですな」

呪術師は、相変わらず抑揚のない声で、しかしどこか親愛の情を込めてその名を呼んだ。


「言霊師、ですか?」

言霊ことだま」という言葉に、才狐の瞳が僅かに鋭く光った。


「ええ。言葉に霊力を乗せて、その言葉をそのまま事象として顕現させる呪術の使い手です。喜乃さんは言霊師としても、解呪師としても、その腕は超一流でっせ。言葉一つで結界を編み、言葉一つで呪いを断つ事も飛ばす事も出来はります。あのお方の『声』は、もはや一つの真理と言っても過言やありません」

呪術師の解説を聞き、才狐は無表情を貫きながらも、その体は僅かに呪術師の方へと前のめりになっていた。


「ふふふ、才狐さん、興味津々の御様子じゃ。妖古さんが言うてはった通りじゃな」

橋姫は、その様子を温かな眼差しで見守りながら、楽しげに笑った。


「興味津々は、えらいこっちゃな成長ブースト!」

えらいこっちゃ嬢も、才狐の熱意を歓迎するように再び腕をぶんぶんと振る。


「がははは!そやなあ、呪術に対してそれだけしっかりとした興味を持っとるってことは、自習もようしとるやろ。ええこっちゃ!自由奔放な師匠に似ず、真面目なんやな」

羅生門は再び豪快に笑い、才狐の熱心な姿勢を称賛した。


「はい、非常に興味があります。……言葉がそのまま形になる。それは、僕の知る術式とは全く異なるアプローチです。もっと、詳しく知りたいです」


才狐の声は平坦だったが、その瞳の奥には、未知の領域に対する抑えきれない渇望が渦巻いていた。

感情を捨てたはずの少年が、術への純粋な好奇心によって、少しずつその硬い殻を震わせている。


その様子を、数多の時を生きてきた怪異たちと、京都の闇を支える大人たちが、まるで芽吹いたばかりの苗を見守るかのような、穏やかで温かな眼差しで包み込んでいた。

貴船に流れる冷涼な空気さえも、その一瞬だけは、春の陽だまりのような優しさに満ちていた。


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##貴船の別れと炎輪の疾走


貴船の深い緑に包まれた清冽な結界の中で、人と怪異による密やかな御茶会は穏やかに幕を閉じようとしていた。


羅生門の鬼は、最後の一つとなったシュークリームを名残惜しそうに口へ運ぶと、満足げな吐息と共に空を仰いだ。

「シュークリーム、有難うなあ。今日はこの後、俺はもう暫くは橋姫と貴船の様子を見物するつもりやけど、おたくらは妖怪紀行、続けるんか?」


「ええ。才狐さんに、京都にいらっしゃる皆さんと、御縁を結んで頂こうかと思いまして」

女性住職は、木漏れ日に目を細めながら菩薩の如き笑顔で答えた。


「ふふ、妖古殿も何かと動いてはる御方じゃから、御二人にお任せするのも頷けるというものじゃ。ほな、道中気を付けてな」

橋姫もまた、黒髪を風に靡かせながら慈しむような微笑みで一行を送り出す。


すると。

「えらいこっちゃな妖怪紀行、ウチも付いてくで!」

それまで腕をぶんぶん振っていたえらいこっちゃ嬢が、意気揚々と異能を駆る者たちの仲間に加わった。


---


こうして一行は、銀髪を揺らす少女を新たな仲間に加え、貴船の山を降りて嵐電の駅へと向かった。

ガタン、ゴトンと規則正しいリズムで揺れる嵐電に乗り込み、南へと向かう車内。


のどかな昼下がりの風景が窓の外を流れていく中、異変は唐突に訪れた。


西側の窓の先をじっと見つめていた呪術師が、無機質な瞳を僅かに細め、抑揚のない声で呟く。

「……なんとまあ」


「あらまあ」

隣にいた女性住職も、いつもの穏やかな笑顔を崩し、眉を寄せる。


「えらいこっちゃー」

えらいこっちゃ嬢に至っては、既に窓に張り付くようにして外の異様な気配を感知していた。


才狐もまた、霊的な揺らぎをわずかに感じ取った感じがしたものの、それが何であるかを正確に掴むには至っていない。

しかし、大人の二人が見せる尋常ならざる反応から、ただ事ではない事態が起きていることだけは察していた。


「……この感じ、何かあったんでしょうか?」

才狐の問いに、呪術師は視線を外さぬまま、氷のように冷たく、それでいてどこか呆れたような声を返す。

「えらいこっちゃな事をしでかしたもんが、おるようですなあ。次の駅で降りまっせ」


電車が駅に滑り込むと同時に、呪術師と女性住職、そしてえらいこっちゃ嬢は、迷いのない足取りで駅の外へと歩き出した。

才狐もまた、自身の呪力を静かに練りながら、警戒を緩めることなくその後ろを追う。


人気のない路地裏に差し掛かった時、呪術師がえらいこっちゃ嬢へと視線を向けた。

「えらいこっちゃん、あっちまでショートカット、お願いできますやろか?」


「えらいこっちゃなトラブル発生!任しとき!」

えらいこっちゃ嬢が指をパチンと鳴らした瞬間、前方の空間が陽炎のように揺らめいた。


三人が躊躇いもなくその揺らぎの中へ吸い込まれていくのを見て、才狐もまた、意を決してその摩訶不思議な空間へと飛び込んだ。

そこは、紛れもなく京都の街並みでありながら、同時にこの世の理から切り離されたような、霊的な異空間であった。


呪術師と女性住職は、歩みを止めることなく懐から御札を取り出し、虚空へと放り投げる。

ひらひらと舞った御札は、瞬時に霊的な質量を伴うボードへと変化し、二人は流れるような動作でその上に乗り、空へと浮かび上がった。


そして……。


「えらいこっちゃーーー!!!」


えらいこっちゃ嬢が全力で叫ぶと、どこからともなく、片方の車輪だけが激しく燃え盛る巨大な牛車が、炎の尾を引いて現れた。

猛烈な勢いで停車した牛車の運転席から、黒い着物を艶やかに着こなし、長い黒髪を後ろで束ねて黒いベレー帽を被った美人が、御機嫌な笑顔で顔を出した。


方輪車かたわぐるまねえちゃん、ありがとちゃんの御疲れちゃん!えらいこっちゃな一大事!」

えらいこっちゃ嬢の声に合わせ、牛車の客席の扉が独りでに開く。


「はいよー。ほな、出発しまっせー。下鴨の辺りより、ちょい南へ向かいますー」

方輪車は快活な声で答え、えらいこっちゃ嬢と、彼女に促された才狐も乗ったのを確認した。


「方輪車さん、運賃の請求は『元凶』にしてもろたら宜しゅうおす。ほな、行きましょか」

呪術師が浮遊するボードの上で淡々と告げると、女性住職と共に先行する形で一気に加速していく。


客席の扉が閉まると同時に、牛車は地面を蹴る音もなく、炎を爆ぜさせて夜の闇を先取りするように猛然と発進する。

才狐は、窓の外を流れる異界の景色と、かつてない事態へと向かう「大人」たちの背中を見つめながら、これから対峙するであろう巨大な異変に、静かに身を固めるのであった。


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##破壊された祠と巨犬の怒号


現世うつしよ幽世かくりよの狭間。

その境界にある摩訶不思議な異空間を、火の粉を散らして疾走していた片輪車は、目的の座標を捉えたかのように急激に速度を落としていった。


「えらいこっちゃな現場到着!」


えらいこっちゃ嬢が元気よく牛車から飛び降り、小気味よい音を立てて「パチン」と指を鳴らす。

その瞬間に再び目の前の景色が陽炎のように揺らぎ、方輪車に見送られながら四人はその歪みの中へと足を踏み入れた。


一歩外へ踏み出せば、そこには下鴨の喧騒から隔絶された、冷たく刺すような霊気が立ち込める異様な空間が広がっていた。

目の前に広がるのは、これから工事が始まるのであろう、三方を高いシートで囲まれた広い空き地がある。


その片隅、本来ならば守られるべき場所には、寂れた小さな祠が無残にもひっくり返り、冷たい地面に転がっていた。

さらに、そこから飛び出たのであろう犬の形をした古い石像が、無慈悲に転がっている。

敷地の奥では、黒いスーツを着た二人の男性が、腰を抜かしたまま真っ青な顔で尻餅をつき、歯の根も合わない様子で震えていた。


その二人の前に立ちはだかり、逃げ道を塞ぐようにして、とてつもなく巨大な影が揺らめいている。

それは体長三メートルはあろうかという、獰猛な大型犬の形をした怪異であった。

剥き出しにされた牙からは禍々しい瘴気が漏れ出し、その双眸は怒りと悲しみで赤く燃え盛っている。


呪術師も、女性住職も、そしてえらいこっちゃ嬢も、この惨状を一目見ただけで全ての事情を察したようであった。

才狐もまた、無残な祠と震える人間たちの姿から、自分勝手な開発が何を引き起こしたのかを、鋭い呪覚で感じ取っていく。


呪術師と女性住職は、躊躇うことなく並んで颯爽と歩き出し、えらいこっちゃ嬢も当然のようにその後ろを付いていく。

才狐もまた、不測の事態に備えていつでも術を発動できるよう、神経を研ぎ澄ませて身構えながら続いた。


しかし、その警戒心が刺激となったのか、犬の怪異が激しく首を振ってこちらを振り向くと……。


「グルアアアッ!」

地を揺らすような咆哮と共に、怪異の口から霊的なエネルギーの塊が、弾丸のような速さで一行へと放たれた。


だが、隣を歩く女性住職は眉一つ動かさなかった。

彼女が静かにその白く細く見える手を合わせ、胸の前で合掌をした、ただそれだけ、そしてその瞬間。

彼女の周囲から、目に見えぬほど清浄で絶対的な「聖域」が瞬時に広がり、殺到したはずの攻撃は彼女に触れることさえ叶わず、春の雪が陽光に溶けるかのように、次々と霧散していった。


攻撃を無効化された犬の怪異は、さらに怒りを燃え上がらせて巨躯を沈める。

「誰か知らんが邪魔するんやったら噛みついたんぞゴラア!」

言葉にならぬ執念を咆哮に変え、怪異は三メートルの巨体で猛然と突進してきた。


その凄まじい霊圧に、才狐はこの騒動が空き地の中だけで収まらない最悪の事態を察知した。

瞬時に身を守る術式を脳内で構築しようとするが、あまりの速度に、自身の反応が間に合わないことを直感し、身体を硬くする。


しかし、その絶望的なタイミングを嘲笑うかのように、呪術師の抑揚のない声が響いた。

「まあ、落ち着きなはれ。」


呪術師は、いつの間に取り出したのか、指先に挟んだ一枚の護符を、噛みつこうと迫った犬の下顎へと、まるで吸い込まれるような動作で貼り付ける。

その刹那、狂暴な勢いで迫っていた巨体は、物理的な法則を無視してぴたりと動きを止め、口を開けたまま彫像のように停止した。


呪術師は、そのまま何事もなかったかのように犬の下顎を掴むと、三メートルの巨体を軽々と引きずりながら、空き地の中央へと移動させていく。

その圧倒的な動作に、腰を抜かしていたスーツの男たちは呆然と口を開けることしかできなかった。


「宜しければ、御話を聞かせて頂けませんか?」


女性住職は、停止した犬の怪異の前に立ち、菩薩のような慈愛に満ちた笑顔で合掌した。

そして、恐れる様子も一切見せず、優しく、慈しむように怪異の大きな顔を撫でる。

それを見届けた呪術師は、淡々と護符を剥がすと、再び懐へとしまい込んだ。


拘束が解け、自由になった犬の怪異だったが、もはや先程のような狂暴な殺気は消え失せていた。

自分がどれだけ足掻こうとも、この二人には決して敵わないという絶対的な実力差を、その本能で察したのだろう。

表情こそ険しいままであったが、その場に静かに伏せ、先程までの暴走が嘘のように大人しくなっていた。


並の呪術師や専門家であれば、対峙した瞬間に食いちぎられていたであろう、死を覚悟するような絶体絶命の局面。

それを、軽く手を払う程度の動作すら必要とせず、ただ静かに場を支配して鎮めた二人の後ろ姿を、才狐はただただ呆然として見つめ続けていた。


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##禁忌の足跡と調律師の宣告


静まり返った空き地の中で、三メートルを超す巨躯を横たえた犬の怪異が、深く、重い溜息を吐き出した。

その吐息は冷たい霧となって地面を這い、周囲の霊的な温度をさらに数度下げたかのようだった。


「……ふん。あんさんらの実力やったら、何があったかくらい、一目でわかるやろ」

怪異の言葉は、鋭い牙の隙間から漏れ出す地鳴りのように響く。

それは諦めにも似た、しかし消えることのない深い憤怒を孕んでいた。


呪術師は無機質な瞳で、未だ地面に這いつくばっている二人の男性を一瞥した。

「まあ、立たはったらどないです?汚れまっせ」


その抑揚のない、しかし拒絶を許さない声に促され、スーツ姿の二人はようやく膝を震わせながら立ち上がった。

一人は白髪が混じり、恰幅の良い、どこか権威を感じさせる男性。

もう一人は、痩せ型で神経質そうな眼鏡をかけた男性であった。


「……複数の方の足跡が御座いますね。あなた達以外の方々は、もう帰られたのですか?」

女性住職が地面に残された乱れた足跡を見つめ、困ったように首を傾げて尋ねる。


「え、ええ。業者さん達は……化け物が出たとたん、腰を抜かして逃げ帰ってしまいまして……あ、私はこういう者です」

白髪の男性は、震える手で懐から一枚の名刺を差し出した。

そこには、京都を拠点とする中堅製造業の社長の名が記されている。


「……ここに、我が社の新工場を建てる計画なんですよ」

痩せ型で眼鏡の男性が、掠れた声で補足するように言葉を継いだ。

「今日はその下見と言うか……実際に工事を行う業者と現場を見て、打ち合わせをしていたんです。配置とか、工期の確認とか、色々とですね」


それを聞いた呪術師は、ふらりと空き地の中心、ちょうど土地の「核」となる位置へと移動した。

彼は無言で足元の土を見つめ、ただ一つ、深く重い溜息を吐く。

女性住職はその様子を見て、悲しげに眉を寄せた。


「えらいこっちゃー……」

えらいこっちゃ嬢もまた、呆れたように溜息を漏らすと、無惨に転がっていた祠の傍へ行き、放り出された犬の形をした石像をそっと両手で拾い上げ、大事そうに胸に抱いた。

「やってしまいよった、えらいこっちゃ……。これは取り返しがつかへん」


「ほんま、えらいこっちゃやで!ようわからんごつい犬に突然襲われたんやから。損害賠償もんですよ!」


社長が恐怖の裏返しのように語気を強めたが、呪術師は冷徹な眼差しを彼に向けた。


「……えらいこっちゃなんは、おたくらですがな」


「「え?」」

スーツの二人が同時に声を上げ、呆然と呪術師を見つめる。


呪術師は、無造作に踏み荒らされた地面と、えらいこっちゃ嬢が抱きかかえている石像の残骸を指し示した。

「『地鎮祭じちんさい』と『遷座祭せんざさい』、してはらへんのでしょう。しかもあろうことか、邪魔やから言うて祠を蹴飛ばして、御神体をほっぽり出さはった……こんなところでっしゃろなあ」


その言葉を聞いた才狐の背中に、冷たいものが走った。

神職として妖古の元で修行を積んでいる才狐は、土地を鎮める「地鎮祭」や、神を一時的に別の場所へ移す「遷座祭」の大切さは、しっかりと教え込まれてきた。


土地には、人知を超えた先住者がいる。

それへの礼節を欠き、力ずくで排除しようとする行為が、どれほど致命的な不敬であるか。

才狐は、目の前のスーツ男たちが犯した、取り返しのつかない過ちの重さを即座に理解した。


地鎮祭じちんさいとは、土地の神(大地主神)に敬意を払い、土地を利用する許しを得ると共に、工事の安全を祈る儀式。

遷座祭せんざさいとは、元からあった祠や社を動かす際、神様に一時的に退いていただき、新しい安住の地へお迎えする儀式。

これらを無視し、物理的な暴力(蹴飛ばす、投棄する)で解決しようとするのは、土地の神やからすれば宣戦布告に他ならない。


沈黙が支配する空き地の中で、呪術師は無機質な、それでいてゾッとするほど淡々とした声で言い放った。

「ほな、土地神さん。遠慮なく噛みつきなはれ」


呪術師の放った一言は、理を欠いた人間に対する「霊的な執行」とも取れる、過酷な宣告であった。


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##土地神の咆哮と、ことわりの調律


「え、えぇ!?ちょっと待ってください、助けてくれはるんやないんですか!?」


あまりに冷徹な宣告を突きつけられた社長が、裏返った声を上げて呪術師に縋りつこうとする。

しかし、呪術師はその無機質な瞳を微動だにさせず、淡々と、しかし逃げ場のない正論を口にした。


「土地神様に喧嘩売らはったんは、おたくらでしょうに。噛みつかれるんが嫌やったら、今からでも『地鎮祭』と『遷座祭』を、しっかりやりなはれ。そしたら、噛みつくだけで勘弁してくれはって、命までは取らんで済ませてくれはるかもしれませんで。幸い、こちらに宮司をなさってる方もいらっしゃる事やさかい、丁度ええでしょう。相談してみはったらどないです?」

そして呪術師の視線が、静かに才狐へと向けられる。


「えっと、こちらのお坊さんがやってくれはるんですか?」

社長が縋るような目で隣の女性住職を見たが、呪術師は首を振った。

「ちゃいます。僕が言うてる宮司は、そちらの少年の事です。腕のいい宮司でっせ」


才狐は一歩前へ出ると、感情を排した無機質な、しかし淀みのない声で丁寧にお辞儀をした。

「僕は御狐神社の宮司をさせてもろてます、狐宮才狐と申します」


すると、それまで殺気を放っていた三メートルの巨大な犬――土地神が、鼻を鳴らして不満げに唸った。

「……ふん。狐の神社の子かいな。確かに、なんや凄い御方に教わっとる雰囲気を感じるでな。だた、この坊やを悪く言うわけやあらへんけど、どうせなら犬の神社のもんにしてくれや。狐と犬じゃ、折り合いがつかん事もあるさかいな」


「才狐さんは腕のいい宮司やけど、確かに、その方がすんなりいきますやろなあ。ほな、最適な方を紹介しますさかい、そちらに相談しはったら宜しゅうおす」


呪術師の提案に、社長は一瞬安堵したような顔を見せた。

しかし、すぐに帳簿を計算するような、卑しい計算が顔を覗かせる。

「……いや、しかし。そんな、わざわざそんな非科学的な事をお願いして、無駄な出費なんか出来るかいな!予算も決まっとるんや!」


「なんやとゴラアア!誰が無駄じゃワレエ!!」

土地神がカッと口を大きく開き、雷鳴のような咆哮を上げた。


「ひえぇ!?」

「ご、ごめんなさい!!」

社長と痩せ型の男は、あまりの霊圧に再び腰を抜かし、地面に縮こまって震え上がる。


「別に新しい工場建てるんは好きにやったらええんじゃ!工事そのものにケチをつけとるわけやあらへん!何があかんかって、取るべき手続きをケチって端折るなっちゅうとんねん!しかも祠を蹴飛ばすとか何考えてんねん!土地神っちゅうんはなあ、その土地を守り続けるっちゅう大事な役割を担って、今日に至るまでそこに居るんじゃ!それを無碍にするっちゅうことは、この土地の歴史も、理も、先人が紡いでくれた御縁も、全部ゴミみたいに扱うっちゅうことやぞボッケエェ!!」


吠え立てる土地神の怒りは、単なる暴力ではなく、踏みにじられた誇りそのものだった。

呪術師も女性住職も、そしてえらいこっちゃ嬢も才狐も、その咆哮を静かに、そして真っ直ぐに見つめている。


土地神の正論の前に、社長はもはや言い返す言葉を失っていた。

「わ、わかった……わかったから……。ちゃんと、ちゃんとした神社に依頼するから……!」


社長が必死に言葉を紡ぐと、土地神は一つ大きく鼻息を吐き、巨体をゆっくりと沈めた。

「……ったく、しゃーないな。ほな、その祠も御神体もリフォームして、ちゃんと元の場所に安置せいよ。もしくは、しっかりとした引っ越し場所に安置せい。ここに居る人らに免じて、今回はそれで勘弁したる。今度やらかしたら、次は骨ごと噛み砕くさかいな」


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###ことわりの静寂


「ほな、紹介先へ向かいますから、車出して下さい」

呪術師が、空き地に乗り上げている六人乗りの大型車を一瞥した。


「それまでは、どうか穏便にして頂けましたら、嬉しゅう御座います」

女性住職が土地神に向かって、菩薩のような慈愛に満ちた笑顔で合掌する。


土地神は、ぶるぶると身震いをすると、心底居心地が悪そうに目を逸らした。

「……いや、あんたがおったら、こっちの攻撃は全部無効化されてまいますやろ。そんな顔で見んといてんか」


一連のやり取りを目の当たりにして、才狐の胸の内には心を失っているはずなのに、今までにない強烈な知的好奇心と畏怖が渦巻いていた。


師匠や大妖怪でさえ畏怖の念を抱く程の超一流の「解呪師かいじゅし」でありながら、彼は今回、解呪の術式を一つも使わなかった。

暴力的な力で怪異をねじ伏せるのではなく、ことわりを説き、護符一枚で場の流れを支配し、最後には加害者である人間に「筋を通させる」ことで解決へと導いた。


女性住職にいたっては、印を結ぶことすらしない。

ただそこに立ち、合掌するだけで、三メートルもの怪異が放つ瘴気や咆哮を完全に無力化し、聖域へと変えてしまう。


(解呪の術を使わずに場を納める解呪師……。そして、存在そのものが聖域になる僧侶……)


才狐は、感情を失ったはずの自分が、これほどまでに他者に惹きつけられていることに驚いていた。

単なる「力」の強さではない。

彼らが見せているのは、この京都という街で人間と怪異が共存するための、圧倒的な実力と、高度に洗練された「調律」の姿だった。


才狐は、一歩前を行く呪術師の背中と、隣を歩く女性住職の穏やかな気配を見つめながら、これから向かう「紹介先」での出来事に、俄然興味を惹かれていた。

この二人についていけば、自分の知らない「世界の真実」が、さらに見えてくるはずだ――。

そんな無意識の期待を胸に、才狐は圧倒的な実力者である大人達を見つめていた。


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##犬神の社と調律師の円卓


凄まじい威圧感を放っていた土地神の監視の下、社長と痩せ型の男は、震える手で泥にまみれた祠を抱え上げた。

無惨に放り出されていた石の御神体を丁重に安置し直し、崩れた土台を何とか整える。

その一挙手一投足を、三メートルを超える巨犬の怪異が、不服そうに、しかし約束通り牙を収めて見守っていた。


ようやく応急処置を終えた二人が、泥だらけのスーツを惨めそうに払いながら戻ってくると、一行は駐車場に停められていた6人乗りの大型車へと乗り込むことになった。


呪術師は車に乗り込む前に、指先に挟んだ一枚の伝令符を空へと放った。

白銀の輝きを放つ符は、日の光に溶けるように消えたかと思うと、3分もしないうちに再び主の元へと舞い戻ってくる。

その返信を無機質な眼差しで一読した呪術師は、短く頷いて伝令符を懐にしまい、運転席の社長へ静かに行き先を告げた。


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呪術師の道案内を頼りに進むことしばし。

車はやがて、鬱蒼とした木々に囲まれ、静謐な霊気が漂う犬神神社の駐車場へと滑り込んだ。


車を降り、威厳ある鳥居へと向かって歩き出す一行を待っていたのは、清廉な空気を纏った一人の巫女であった。

犬神神社の巫女、犬上桜子いぬがみおうこは、一行の姿を認めると、深く丁寧にお辞儀をして出迎えた。

「ようこそお参り下さいました」


「突然の事で申し訳ありませんな。お世話になります」

呪術師が淡々と、しかし礼節を保ってお辞儀を返す。


「お世話になります。宜しくお願い申し上げます」

女性住職もまた、いつもの菩薩の如き笑顔で合掌し、静かに頭を下げた。


桜子は「お待ちしておりました。では、どうぞこちらへ」と促し、一行を社務所の奥にある格式高い客室へと案内する。

重厚な木造の扉が開かれ、案内された室内には、既に神職の正装に身を包んだ宮司、犬上玄蓮いぬがみげんれんが待ち構えていた。

玄蓮はソファーから静かに立ち上がると、柔らかな、しかし芯の通った眼差しで一行を迎え入れた。


「こんにちは、お邪魔します。突然の依頼、御手間かけますなあ」

「突然の訪問を快諾して頂きまして、誠に有難う御座います」

呪術師と住職の言葉に対し、玄蓮は親しみを感じさせる笑顔を浮かべて応じた。


「こちらこそ、仕事を持って来てもろて、むしろこっちがお世話になりますよって。有難う御座います」

その言葉には、同業者としての信頼と、京都の怪異問題を共に担う者としての連帯感が滲んでいた。


そうして、玄蓮は流れるような所作で着席を促した。


上座に、泥汚れも乾かぬまま小さくなっている、客人で依頼主である社長と痩せ型の男が腰を下ろす。

その隣には、女性住職と呪術師が落ち着いて座る。

対面する形で、犬上玄蓮と犬上桜子が並んで座っている。

えらいこっちゃ嬢と才狐は、この重大な交渉の行く末を片時も見逃すまいと、静かに着席した。


室内を支配するのは、張り詰めた緊張感と、それを包み込むような玄蓮の穏やかな霊気。

玄蓮は全員の顔をゆっくりと見渡すと、重厚な沈黙を破り、静かに、しかし断固とした響きを持って宣言した。


「ほな、話を聞きましょか」


玄蓮からのその一言が、不敬を働いた人間たちへの「裁き」と「救済」を巡る、本格的な調律の始まりを告げる。

才狐は、大人たちの間で交わされるこの「ことわり」のやり取りを、固唾を飲んで見守っていた。


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##静かなる茶の時間と犬神の託宣、突如の再訪と白き腕の「御勘定」


犬神神社の客室に流れていた張り詰めた緊張感は、一連の騒動についての詳しい話から始まり、玄蓮と桜子による「地鎮祭」および「遷座祭」の具体的な費用の提示、そして今後の儀礼スケジュールの確定をもって、ようやく沈静化の兆しを見せた。

土地神の怒りを買った代償が、現実的な「数字」として突きつけられたことで、ようやく事の重大さを理解したのか、社長と痩せ型の男は幾度も頭を下げ、丁寧すぎるほどにお礼を述べて会社へと引き上げていった。


嵐が去った後の客室には、桜子が淹れてくれた煎茶の清々しい香りが漂っていた。

残された6人の異能を駆る者たちは、ようやく肩の力を抜き、温かい湯呑みを手に取ってほっこりと一息つく。


玄蓮は茶柱の立った湯呑みを眺めながら、一つ深く溜息を吐き出した。

「まさか土地神さんを蹴り倒しよる罰当たりがおるとはなあ。あの社長さん、昭和の生まれやろうに。まだ罰当たりとか、お天道様が観てるとか、その辺の価値観は血肉になっとる世代やと思てたんやけど、人それぞれっちゅうことか」


「大事に至る前に、皆さんが場を納めて下さいまして、本当に事なきを得ました」

桜子が玄蓮の言葉を継ぎ、安堵の表情を浮かべる。

「京都にも、こうして犬にまつわる祠や御社は点在しておりますが、管理が行き届かなくなっている場所も少なくありません。定期的な見回りが必要になりそうですね」


「本来は、祠とか御社の管理者が近所におるはずなんやけど。まあ、継承が上手いこと行ってへんところもありそうやしな。俺も出張とか他の神社を手伝いに行ったりする際は、今まで以上に気ぃつけて見るようにしとこか」

玄蓮はそう言って、どこか遠くを見つめるように視線を彷徨わせた後、隣に座る呪術師へと向き直った。

「それにしても、相変わらず流石の腕前ですやん。話を聞く限り、俺でもちょっと面倒やと思うレベルの騒動やっちゅうのに、それを手ぇも汚さんとあっさり解決しはるとは」


「僕らは、ただ通りすがっただけです」

呪術師は一切の感情を排した無機質な声音で答え、静かに茶を一口啜る。


「ハハッ、通りすがりで土地神様をあっさり止めはるとか、相変わらず底が知れませんなあ」


玄蓮の快活な笑い声が響く中、才狐は一人、湯呑みの中の緑色を見つめていた。

(……本当に、凄かった)


解呪の術式を一つも使わずに場を支配した呪術師。

ただそこに居るだけで、あらゆる攻撃を霧散させた女性住職。

自らも修行を積んできた自負はあったが、彼らが見せたのは「力」ではなく、世界の理そのものを扱う「格」の違いであった。


「……本当に、凄かったという印象です。僕は何も出来ませんでした」

無表情なまま漏れた才狐の言葉は、自己卑下ではなく、絶対的な強者への偽らざる畏怖であった。


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すると……。


その静謐な時間を切り裂くように、ドタドタと慌ただしい足音が廊下に響き渡った。

「た、助けてください!腕が!腕がぁぁ!!」


帰ったはずの社長と痩せ型の男が、顔面を蒼白にして客室へ転がり込んできた。

「白い腕が、いきなりどっかからニューって伸びて来ました!あの犬の御神体、まだ怒ってるっちゅうことですよね!?車に乗ろうとしたら、窓から手が出てきて離してくれへんのです!」


錯乱状態で叫ぶ社長をよそに、呪術師は茶碗を置き、淡々と尋ねた。

「……それ、『御勘定』という木の札がぶら下げってませんでした?」


「「え?」」

スーツの二人が同時に動きを止め、目を丸くする。


「それなら心配あらしまへん。御勘定したら、引っ込んで行きますさかい。今の時代、電子決済もできますから、お財布携帯の画面見せて『これでお願いします』言うてみなはれ。後、茶菓子を手に乗せたら喜んでくれまっせ。その腕の主、甘いもんには目がありませんのでね」


呪術師の無情で淡々とした教えに、二人は狐につままれたような顔をしたが、背に腹は代えられない。


「は、はあ……確か、会社で食べようと思って、従業員用に買ってた饅頭がありましたから、それを乗せてみます!」

痩せ型の男がそう叫ぶなり、二人は再び脱兎のごとく駐車場へと駆け戻っていった。


その様子を眺めていたえらいこっちゃ嬢が、ようやく事の真相を察して、両腕をぶんぶんと景気よく振り回した。

「えらいこっちゃー!これで方輪車ねえちゃんの運賃もばっちり!えらいこっちゃなお支払い完了!」


神社の境内に、再び静かな、しかしどこか可笑しな空気が流れ始める。

才狐は、怪異の「運賃」というあまりに世俗的な事象に、失ったはずの心が微かに揺れ、この摩訶不思議な日常の断片を静かに記憶に刻み込むのであった。


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##境界線の日常と、犬神の系譜


どたばたと嵐のように去って行ったかと思えば、また転がり込むように戻って来て、「腕が引っ込んで行きました、有難う御座います!」とだけ叫び残し、今度こそ脱兎のごとく駐車場へ走り去って行った社長と痩せ型の男。

遠ざかる車のエンジン音を背後に、客室には再び穏やかな、それでいてどこか呆れたような沈黙が流れた。


「騒がしい連中やなあ。立派に会社経営しとるわりには、イレギュラーな事態に弱すぎるんやないけ?」

玄蓮は愉快そうに肩を揺らして笑い、冷めかけた茶を啜る。


「普段は関わることが無い世界と、あのような形で唐突に交わってしまったのですから、驚かれるのも無理は御座いません」

女性住職は、去って行った者たちの動揺を慈しむように、菩薩の笑顔を湛えて優しく微笑んだ。


衆生しゅじょうにとっては、えらいこっちゃな非日常。当たり前の景色がひっくり返るんは、えらいこっちゃな恐怖体験」

えらいこっちゃ嬢は、特徴的な台形の口の形を崩さぬまま、淡々と、しかし真理を突いた言葉を言い放つ。


「その辺の感覚や感性が、僕らと一般の方々とで全く違うのは、仕方のない事ではありますがな。あるいは僕自身の感性が、とうの昔におかしくなっているだけかもしれませんがね」

呪術師は、無機質な抑揚のまま自嘲気味に言うと、静かに茶を一口飲み下した。


才狐は、そのやり取りをじっと見つめながら、自身の内側に芽生えた気付きを反芻していた。

(そうか。僕は妖古さんとずっと過ごしてきたから、段々とそれが日常で普通になっていたけれど、この景色は決して『普通』のことやないんや……)


怪異が怒り、霊的な腕が支払いを求め、それを当たり前のように処理する大人達。

その境界線の内側に身を置いている自覚はあったが、外側の人間が見せる剥き出しの恐怖に触れ、改めて自分が立っている場所の特異さを理解した。


「私も十年の間、師匠の下で修行を重ねて、いつの間にか、これが日常になりました。ですから、世間とどこかズレているということを、ついつい忘れてしまう事がありますね」

桜子もまた、かつての自分を懐かしむように目を細め、才狐へ向けて優しく微笑みかける。


「そういや君は、あの妖古さんとこの弟子やったな。あの騒がしい連中のせいでバタバタしよったけど、宜しゅうな。あの社長らがおった時に名乗りはしたけど、改めまして、俺は犬上玄蓮いぬがみげんれん。お互い、動物に関連する神社を護る宮司同士、仲ようしようや、才狐」

玄蓮は、屈託のない笑顔で才狐に右手を差し出すような親しみやすさを見せた。


続いて、桜子もスッとお辞儀をする。

「宜しくお願いしますね」


桜子の柔らかな声に、才狐はスッと背筋を伸ばして立ち上がると、深々とお辞儀をした。

「はい。こちらこそ、宜しくお願いします」


「最初の出会いが、こんなごたごたに巻き込まれてってのが、なんとも奇妙な御縁やのう。まあでも、祈祷に関する依頼の話し合いってのが、どういうもんかも見れたし、実務的な話や仕事についての現場を見学出来たんやさかい、君にとってはええ体験やったやろ?」


玄蓮の問いに、才狐は正直な気持ちを言葉にする。

「はい。凄く勉強させて頂きました。今後、僕が直接ご依頼を頂く時の雰囲気や流れを学ぶことが出来て、とても有意義でした」


才狐の淀みのない返答に、玄蓮は満足げに頷いた。

「そりゃ良かったで。それにしても、あの御狐神社に宮司がやって来たってのは、風の噂で聞いてはいたけど……そっか、君やったか。妖古さんのことは、時々京都の町をフラフラと楽しんではるのを、遠目に『あ、いてはるなあ』くらいの認識やったけど、改めてちゃんと挨拶にいかなあかんな」


「私の件がありましたから、師匠はそっちに集中して下さっていましたし、その他諸々の出来事で、暫くはそれどころではありませんでしたからね」

桜子が添えた言葉に、玄蓮も苦笑いを浮かべて同意する。

「まあな。それも一段落したし、これからはちょくちょくと『こっち側』の御近所付き合いも、しっかり再開していかなあかんな」


ひとしきり笑い合い、茶の香りが部屋に満ちる中、才狐の胸の奥にある「純粋な問い」が静かに持ち上がった。


卓越した解呪師でありながら術を使わずに場をおさめる呪術師、そして存在が聖域であり菩薩の笑みを浮かべるだけで静かに和をもたらす女性住職。

ならば、目の前に座る、この犬神を祀る宮司と巫女は、一体どのような「力」を振るうのだろうか。


才狐は無表情な瞳を玄蓮と桜子に向け、ずっと気になっていたことを尋ねた。

「あの……一つ伺っても宜しいでしょうか。玄蓮さんと桜子さんは、どのような術を使われるのですか?」


その問いは、術の深淵を目指す修行者としての、混じりけのない渇望であった。


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##犬神の光芒と、謙虚なる「怪物」たち


心を失いながらも、妖古の傍らで異界の技を研ぎ続けてきた才狐にとって、その探求心はもはや生存本能に近いものとなっていた。

目の前の大人が見せる底知れない実力、その源泉がどこにあるのか。


才狐は、呪術師がみだりに技を教えたり、ひけらかしたりすることを良しとしない世界の掟を百も承知の上で、静かに頭を下げた。

「呪術師や術を扱う方が、技をひけらかしたり、むやみに教えたりしない事は百も承知しております。それでも、どうしても気になってしまって。失礼を承知で伺わせてください」


玄蓮は、少年の濁りのない、しかし執拗なまでの知的好奇心に触れ、困ったように苦笑いを浮かべた。

「なるほどなあ。尽きぬ探求心と知的好奇心、知識欲には抗えんっちゅうことか。それでも、その辺の礼節をちゃんとわかってるっちゅう事は、流石は天狐であられる妖古さんの教育の賜物やな」


玄蓮は茶を飲み干し、少しだけ表情を改める。

「俺や桜子と出会ってから、何となく俺らに宿る『何か』を感じ取ってはいたと思うけど、わかり易く言うと、俺らが使うんは犬に関する呪術や邪術全般や。『犬神遣い』なんて言葉、知識としては聞いた事あるんちゃうけ?」


「はい。妖古さんから文献を読ませてもろた事はあります」

才狐は淡々と答える。


「流石やな。今ここでバシッと派手なもんを見せたげる事は出来んけど……ほら、才狐やったら見えるやろ?」

玄蓮が右手をスッと上げると、その指先から肘にかけて、陽炎のようにゆらゆらと揺らめく蒼白い光の筋が浮かび上がった。

それは生命力そのものが獣の形を成そうとしているかのような、獰猛で鋭い気配を放っている。


「これが、犬神遣い……」

才狐の無機質な瞳が、その光を逃さぬよう、大きく見開かれた。


「君なら使う事が出来るであろう『狐憑き』の要領で、相手の中に犬神をぶち込んで暴れさせる技もあるし、その辺はそっちの呪術にも共通するとこやろな」

玄蓮は光を霧散させ、優しく微笑む。


「私はこれをこの地で10年修行しておりますが、まだまだ修行中の身です。お互い、師の元で技を磨く者同士、今後とも仲良くして頂ければ嬉しいと思います、才狐君」

桜子が隣で謙虚に微笑んだが、玄蓮はすかさず茶々を入れた。

「桜子は7年で上級まで全部マスターして一人前になっとるし、10年経った今では皆伝の証を持っとるがな。まあ、人間一生勉強やって言うし、修行は一生続くと言えば続くから、そういう姿勢も大事や」


「10年……」

才狐はその月日の重さを噛み締めるように呟いた。

今の自分にとって、それは果てしなく遠い星のような到達点に思えた。


「呪術師さんと御住職に出会うて、もしかしたら『自分は足元にも及ばん』って思うて自分を卑下しとるかもしれんけど、この御二人と比べたら、伝説級の大妖怪でも雑魚扱いされてまうレベルで別格やからな。御二人は別格も超別格や思うて、憧れにとどめとくくらいが丁度ええで」

玄蓮の豪快な笑い声が客間に響く。


「私は一僧侶に過ぎず、煩悩具足なる凡夫なる身で御座います」

女性住職は、一点の曇りもない菩薩の笑顔で静かに合掌した。


「御住職最強説には同意しますが、僕はただの通りすがりの、極めて平凡な呪術師です」

呪術師もまた、相変わらず抑揚のない声で、淡々と自身の「平凡さ」を主張する。


「ちょっとちょっと!未来ある若いもんの前で、平凡のハードルを上げんといたって下さいよ!」

玄蓮が愉快そうに大笑いし、その言葉にえらいこっちゃ嬢も激しく同意した。

「女鬼ねえちゃんも大絶賛な、えらいこっちゃな二強!間違いない!」


才狐は、茶碗を持つ手に僅かな熱を感じながら、改めて自分の置かれた状況を理解した。

謙虚に笑いながら世界を書き換えてしまうような、とんでもない大人たちに囲まれている。


失ったはずの心の中に、その「異常な日常」を誇らしく思うような、不思議な充足感が静かに満ちていくのを、才狐は感じていた。


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## 黄昏の帰還と、胸に宿る熱


「ほな、地鎮祭と遷座祭の準備しよか」

玄蓮が気合を入れるようにそう言うと、桜子も「はい」と短く、しかし力強く同意した。


土地の神と人間の間に生じた不協和音を正し、再び平穏な日常を取り戻すための儀式。

それは京都の闇を支える彼ら師弟にとって、最も重要で、最も誇り高い仕事の一つである。


こうして、呪術師と女性住職、えらいこっちゃ嬢と才狐は、現連と桜子に丁重な挨拶をしてから犬上神社の駐車場までやって来た。

辺りがすっかり夕闇の姿に変わり、空の端から藍色が濃く溶け出し始めた頃。


街の灯りがポツポツと瞬き出す中、呪術師が不意に足を止めて才狐を振り返った。

「才狐さん、妖古さんに夕飯はどないしはるか、伝令符飛ばしてみてもろて宜しゅうおすか?」


「え? ……あ、はい」

突然の「実技」の指示に才狐は微かに驚きながらも、迷いなく懐から伝令用の御札を取り出した。

筆をさらさらと滑らせ、霊力を込めて言われた通りの内容をしたためていく。


才狐の手を離れた御札は、銀色の光を纏う鳥の形へと姿を変え、宵闇の空を裂いて御狐神社の方角へと一直線に飛んで行った。

それから間もなく、再び舞い戻ってきた銀の鳥が才狐の掌にふわりと舞い降り、静かに元の御札の姿へと戻る。


「……妖古さんは、『摩訶不思議食堂においない』だそうです」

報告を口にする才狐に対し、呪術師は相変わらず無表情ではあったが、その声音には確かな温もりが宿っていた。

「有難う御座います。伝令符、もう完璧に使いこなせるようにならはりましたね、見事なもんです」


その、静かで優しい褒る言葉。

それを聞いた瞬間、才狐は自分の胸の奥で、何かがじんわりと熱くなるのを感じた。

感情を捨て、冷え切っていたはずの器の中に、説明のつかない確かな「熱」が灯っていく。


すると、空気を切り裂くように、えらいこっちゃ嬢が大きく息を吸い込んだ。

「えらいこっちゃーーー!!!」


夜の静寂を震わせる元気な大声を張り上げた、次の瞬間。

空間の彼方から車輪が爆ぜるような音が響き、一筋の炎と共に方輪車が滑り込んできて、一行の前に停車した。


そして、「ガラガラッ!」という豪快な停止音と共に、運転席の窓が開く。

そこから方輪車がいつものように笑顔で手を振ると、牛車の客席の扉が独りでに開いた。


「毎度ー。ふふ、あの社長さん達から、しっかり運賃とおやつを頂きましたえー♪」

方輪車は、あのお饅頭の甘い香りさえ漂わせそうなほどに上機嫌である。


「方輪車ねえちゃん、御迎えありがとちゃん! えらいこっちゃな夕食会!」

えらいこっちゃ嬢はぴょんっと軽やかに乗り込み、才狐もその後に続く。


牛車の扉がバタンと閉まると、外ではいつの間にか、呪術師と女性住職が御札ボードに悠然と乗っていた。

そして、「パチン!」とえらいこっちゃ嬢が指を鳴らす。

すると、目の前の空間が陽炎のようにゆらゆらと揺らぎ、一行はその「狭間」の中へと吸い込まれて行った。


まるでそれが日常の動作であるかのように、当たり前の姿を見せる大先輩たち。

それでいて、一度人間と怪異の和が乱れれば、颯爽と現れて見事に調律してみせる卓越した腕前。


これだけの圧倒的な力を持ちながら、決して力づくで押さえつけたりはしない。

どちらか一方に加担することもなく、あくまで世界の「ことわり」を調えるのみ。


才狐は、流れる異界の景色を見つめながら、その背中に強く、深く誓っていた。

いつか自分も、彼らのような大人になりたい。

正しく世界を見つめ、静かに、しかし確かな「熱」を持って理を調える、真の調律師になりたいと。


宵闇を抜ける牛車の揺れの中で、その決意は才狐の魂に、消えることのない道標として刻み込まれていた。


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## 摩訶不思議食堂の団欒と、黄金の鬼


方輪車の牛車が夜の闇を滑るように進み、辿り着いたのは下鴨の片隅にひっそりと明かりを灯す「摩訶不思議食堂」の店の前。


呪術師と女性住職は、軽やかな動作で御札ボードを元の形へと戻して懐に収め、才狐とえらいこっちゃ嬢もまた、方輪車の牛車から降りる。

駐車場に牛車を停めた方輪車も合流し、一行が揃って食堂の暖簾を潜った。


「えらいこっちゃな夕食会! ただいまの御疲れちゃん!」


えらいこっちゃ嬢が勢いよく扉を開けると、そこには既に多くの怪異たちがひしめき合い、立ち上る白い湯気の向こうで大きな鍋を囲んで待ち構えていた。

出汁の香ばしい匂いと賑やかな笑い声が、才狐の冷えた体を優しく包み込む。


奥へと進む才狐の視界に、師である妖古の隣で一際鮮やかに輝く人影が飛び込んできた。

「おつー♪ 今日も色々大活躍って感じだったじゃん♪ マジでリスペクトだし♪」

そう言って屈託のない笑顔で迎えてくれたのは、陽気なエネルギーを全身から放つ超絶美少女のギャルな鬼、女鬼であった。


金色の瞳をキラキラと輝かせ、頭部からは黒く鋭い二本の鎌状の角が左右に突き出している。

金色の長い髪をシュシュで左側にサイドテールとして束ねた彼女は、現代のギャルそのものといった風貌をしていたが、その身に纏うのは黒地に金色の花刺繍が細やかにあしらわれた、見事な着物。

その完璧な着こなしと圧倒的な美貌は、まさに異界の華と呼ぶに相応しい。


「御疲れさんじゃったな、才狐。ほんで、呪術師殿、御住職殿、えらいこっちゃん、有難うなあ。才狐にとっても、今日は本当にええ体験が出来たみたいじゃのう」

妖古は愛弟子の顔を慈しむように見つめ、優しく微笑んだ。

その穏やかな空気の中に、全てを見通しているような師としての深みが感じられる。


女鬼の隣に座るのは、青い作務衣を端正に着こなした、見まごうことなきお地蔵さん――地蔵店長であった。

「お帰りなさいまし、御疲れ様です。今夜は豆腐小僧さんに、最高級の鍋用豆腐と胡麻豆腐をお持ち頂きましてね。蛙仙人さんも、今朝採れたばかりの瑞々しい野菜を沢山持ち寄って下さいました」

地蔵店長は穏やかな笑顔を湛え、卓上に並んだ一級品の食材たちを紹介していく。


「おう、御疲れさんやで! あの後、貴船からこっちに来る前に、ええ鶏肉があったさかい仰山買うてきたんよ。そやから今日は豆腐小僧の豆腐入りで、蛙仙人さんの新鮮野菜盛りだくさんな、最高に豪華な鳥豆腐野菜鍋や! がははは!」

近くの席に座っていた羅生門の鬼が、豪快に笑いながら胸を叩く。


「ただいまの御疲れちゃん! えらいこっちゃな大事件も一発解決! 仕事終わりの豪華鍋、ありがとちゃん!」

えらいこっちゃ嬢は両腕をぶんぶんと景気よく振り回すと、満足げに地蔵店長の隣へと腰を下ろした。


呪術師と女性住職、そして才狐もそれぞれに挨拶を済ませ、才狐はいつものように妖古の隣の席へと落ち着く。

全員が着席し、賑やかな食堂が一瞬の静寂に包まれた時、地蔵店長がスッと立ち上がった。

彼は慈悲深いお地蔵さんの笑顔を浮かべ、胸の前で静かに掌を合わせる。


「われここに食をうく、つつしみて天地の恵みと人々の労を謝し奉る」

全員の唱和が重なり、力強い「頂きます」の声が店内に響き渡った。


煮え立つ鍋の中から、ふっくらとした豆腐と、旨味の染み込んだ鶏肉が器に盛られていく。

才狐は、女鬼の弾けるような笑い声や、羅生門の鬼の豪快な話し声を聞きながら、温かな湯気を吸い込んだ。

昼間の殺伐とした空地での出来事が嘘のように、ここでは人間も怪異も、ただ一つの「美味しい」を共有している。


才狐の隣で、妖古が満足げに目を細める。

今日という一日の終わりに、摩訶不思議食堂で頂くこの「ほっこり飯」は、現世と現世の中に身を置く彼らにとって、何物にも代えがたい魂の休息であった。


少年呪術師の心には、呪術師からもらった褒め言葉の熱がまだ僅かに残っており、それが温かな鍋の熱と混ざり合って、深い安らぎへと変わっていくのを静かに感じていた。


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## 黄金の宴と、種族を超えた絆


ぐつぐつと快い音を立てて煮え立つ大鍋を囲み、摩訶不思議食堂の夜はさらなる熱気に包まれていく。

今宵は厨房に立つ怪異たちも、自慢の腕を振るった後は客席に混じり、共に同じ釜の飯を楽しむ宴であった。


揚げ物担当の兎料理人・ラビは、桃色の着物に白い割烹着を揺らし、細い目をさらに細めて猫口の笑顔を弾けさせている。

丼物や汁物を担当する犬の料理人・わんぞうは、青い作務衣姿で垂れ耳を揺らしながら、満足げに喉を鳴らしていた。

紅い着物に猫耳を覗かせた三角巾が可愛らしい猫料理人・猫子ねここも、緑の肌を上気させたゴブリンの凜華りんかも、そして瑞々しい野菜を持ち寄った蛙仙人も、皆一様に黄金色の出汁が香る鍋を囲んでワイワイと賑やかに笑い合っている。


そこには、凄腕パン屋であるダークエルフの姿もあった。

褐色の肌に青い瞳、そして三つ編みにした白い長髪が美しい彼女は、真っ白なコックコートとは違い、普段着であるタートルネックのシャツにカーゴパンツを完璧に着こなし、異彩を放つ美貌で微笑んでいる。


「カカカッ! 才狐は昨日、娑婆のパンを1斤買うて来たけど、今度はダークエルフちゃんとこのパン屋まで、おつかいさせてみようかのう」

妖古が楽しげに肩を揺らし、愛弟子を弄るようにして豪快に笑った。


「ふふ、朝食用なら、冷めても美味しい食パンを用意しておくさね♪」

ダークエルフは不敵にウインクを飛ばすと、長ネギを豪快にシャキシャキと頬張る。


「ダークエルフちゃんのパンってさ、どれもマジで美味しいよねー♪ こないだ食べた珈琲餡パン、あれはマジでいけてるし♪」

金髪サイドテールの女鬼がギャル全開の笑顔で賛辞を送れば、えらいこっちゃ嬢も負けじと声を上げた。


「ダークエルフ姉ちゃんのクリームパンも、えらいこっちゃな逸品! ほっぺた落ちるレベルで、えらいこっちゃな名物!」

ハフハフ、アツアツと、えらいこっちゃ嬢は熱い豆腐を口に放り込み、幸せそうに咀嚼する。


「私もダークエルフさんの御店で時々パンを買わせて頂いて、野菜サンドにして美味しく頂いております。香りが本当に素晴らしいのですよ」

女性住職は、出汁の染みた人参を上品に口へ運び、菩薩の如き笑顔でダークエルフへ語りかけた。


「僕も久々に、ダークエルフさんのところの総菜パンを食べたくなってきました。近いうちに、また寄らせて貰いますえ」

呪術師は、相変わらず抑揚のない声音ながらも、箸に取った椎茸を慈しむように見つめてから静かに口にした。


「ハフハフ! 鶏肉、ごっつ美味いのう。やっぱり地鶏は最高やのう。羅生門の鬼はんに感謝やのう!」

近くに座っていた紫の鏡・雲外鏡が、鏡面に浮かべた目を細め、羅生門の鬼が仕入れた極上の鶏肉を嬉しそうにモグモグと噛み締める。


「がははは! 気に入ってくれたか! いうてくれたら、なんぼでも新鮮なやつを仕入れて来るで!」

羅生門の鬼が、丸太のような腕で自身の胸を叩き、豪快な笑い声を店内に響き渡らせた。


「ふふ、この胡麻豆腐も絶品じゃて。香りが鼻を抜ける瞬間がたまらんのう」

巫女装束の絶世の美女・橋姫が、とろけるような胡麻豆腐を美味しそうに口に運ぶ。

その様子を、豆腐小僧が「えへへ」と嬉しそうに眺めながら、自分もまた豆腐を頬張っていた。


「この胡瓜の漬物、熱々の鍋料理のアクセントに最高やでな。ほんに、蛙仙人さんの漬ける野菜の漬物は絶品やで」

河童が皿に乗った漬物を、ポリポリ、コリコリと小気味よい音を立てて楽しみ、その姿を地蔵店長が穏やかな笑顔で鍋の具材を楽しみながら、ただ静かに見守っている。


食卓を囲む人間と怪異。

そこには、立場も種族も、現世も幽世も超えた、圧倒的な「調和」があった。


「ほれ、ぬしも遠慮せんとしっかり肉食べよし。若い男子はしっかり食うとくもんじゃてな」

妖古が細い指先で鍋の鶏肉を才狐の器へと移し、愉しげに微笑みかける。


「はい。頂きます」

才狐は短く頷くと、器の中の鶏肉を箸で取り、ゆっくりと口に運んだ。

鶏の旨味と、怪異たちが持ち寄った野菜の甘み、そして地蔵店長が丁寧に引いた出汁の深みが、五臓六腑に染み渡っていく。


感情を捨て、心を持たないはずの少年。

しかし、この賑やかで、優しく、そしてどこまでも平穏な「和」の空気の中に身を置いていると、胸の奥がじんわりと解けていくような感覚があった。


才狐は、自らの瞳が、今までにない穏やかな光を宿していることに気づかない。

ただ、目の前の鍋から立ち上る湯気の向こうで、笑い合う仲間たちの姿を眺めながら、確かに「ほっこり」とした温もりを噛み締めていた。


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## 聖域の術理と、師のぬくもり


黄金色の出汁が染みた鶏肉や豆腐、そして瑞々しい野菜の旨味が凝縮された鍋は、最後の一粒まで愛おしむような雑炊となって、皆の胃袋へと消えていく。

食後の穏やかな時間が訪れ、地蔵店長や摩訶不思議食堂の厨房を預かる料理人達が淹れてくれた香ばしいほうじ茶が、それぞれの湯呑みから白く柔らかな湯気を立ち昇らせている。


賑やかだった宴の余韻が心地よく漂う中、妖古は細めた瞳で、隣に座る愛弟子の横顔を覗き込んだ。

「……ほんで、才狐。お主、何か聞きたいことがありそうじゃのう。その澄ました顔の裏で、知恵熱が出そうなくらい考え込んでおるのが伝わってくるわい」


妖古に見透かされ、才狐は小さく肩を揺らした。

彼は湯呑みを置き、座り直して対面に座る女性住職へと真っ直ぐな視線を向ける。


「はい。……その、御住職さんの術理が、どうしても理解できなくて。昨日と今日、目の前で何度も拝見しましたが、御住職さんは何の術式も発動させていないはずなんです。それなのに、あの巨大な土地神の放った瘴気も邪気も、あるいは相手の直接的な攻撃さえ、御住職さんに触れる寸前ですべて霧散してしまいました。……何が起きているのか、今の僕の知識では全く理解が追いつきませんでした」

無表情なその声には、未知の領域に対する焦燥と、純粋なまでの探求心が滲んでいた。


女性住職は、才狐の真剣な眼差しを真正面から受け止めると、慈愛に満ちた菩薩の笑顔を深めた。

「ふふ、そんなに難しいことでは御座いませんよ。私はただ、御仏にお守り頂いているだけの、拙い身で御座いますから」


「……仏道を極めれば、その加護によってあらゆる術を無効化できる、ということでしょうか?」

才狐が思わず身を乗り出す。

その前のめりな姿勢は、彼がどれほど今日の一件に衝撃を受けたかを物語っていた。


「いえいえ、私はまだまだ修行中の身で御座います。道を極めるなど、果てしなく遠い先の話。ただ、そうですね。御仏にお守り頂いているということはもちろんですが、宗教的な『性質の違い』と言いましょうか。我らと呪術の方々では、世界の視え方が少々異なるのかもしれません」


「性質の違い……?」


才狐が呟くように繰り返すと、横から女鬼がサイドテールを揺らしながら軽快に説明する。

「御住職さんや呪術師さんは別格中の別格だとして、『こっち側』の一般論として分かりやすく言えばさ、一定以上の高位のお坊さんになると、怪異や術師が編む『術』そのものが、物理的にも霊的にも届かなくなっちゃうんだよねー。ま、呪術師さんレベルのバケモノ級になれば、力技で無理やりこじ開けて届かせることもできるんだろうけど、普通は無理ゲーって感じ」


「届かない……。それは、どういうことですか?」


興味が尽きない才狐の問いに、今度は呪術師が静かに応えた。

「僕の全霊を込めた術でさえ、御住職に届くことはありません。才狐さん、御住職は術の世界においては、文字通り『無敵』なんです。どんな大呪術も、理不尽な呪いの類も、彼女の衣の端に触れることさえ叶いません」


呪術師は、淡々と、しかし確信に満ちた声で言葉を続ける。

「『幽霊の、正体見たり、枯れ尾花』という句を御存じですやろか?宗派にもよりますし、その伝え方に違えはあれど、仏教には超常現象や怪異を、そのままの姿で看破する教えがあります。物事の真を見定める……つまり『観察かんざつ』ですな。物事の心理や道理、その正体を冷徹に見定めるということです」


呪術師は、湯呑みを見つめたまま、その奥深い術理を解き明かしていく。

「そやから、御仏の加護に加え、御住職が術を見はった時は勿論、その聖域に入って来た瞬間、その術を構成する理が彼女の存在そのものによって、自然と解体されてしまうんです。御住職に至っては、最早その存在そのものが歩く『聖域』やさかい、近づいた瞬間に、敵意も術式も正体を暴かれ、霧散してまう。そやから、一切届くことがないんです。矛が刺さる前に、矛そのものが砂に還るようなものですわ」


「カカカッ! 左様。前に我は女鬼ちゃんの足元にも及ばんし、呪術師殿と御住職にも絶対に敵わんと言うたのを覚えておるか?」

妖古が愉快そうに笑い、自らの長い尾を揺らした。

「我がどうあがこうが、我のやることは全部、御住職の前では『無』に帰してしまう。術を消された後に、本物の法力で絡め取られたら一巻の終わりじゃてな。天狐の我とて、手も足も出んわい」


「御住職御自身は、攻撃的な呪術の類は一切使わはりませんが、こと防御に関しては、この世の誰一人として、いや、伝説級の怪異でさえも突破はできんでしょうな。そやから、一緒に仕事をさせていただく際は、僕はこれ以上ないほど安心して、背中を預けさせてもろてます。世界で一番安全な場所は、御住職の傍やさかい」

呪術師の声には、同じ高みを目指す者としての、絶対的な信頼が宿っていた。


「まあ、呪術師さん。私がおらずとも、貴方ならばどのような騒動も、お一人で完璧な調和へと導かれると思うております。私の出る幕など、本来は御座いませんのに」

女性住職が菩薩の笑顔で合掌し、呪術師へと頭を下げる。


「御謙遜を。それはそっくりそのまま、僕からお返しさせて頂きます」

呪術師もまた、静かに手を合わせた。


「えらいこっちゃな二強! えらいこっちゃな最強タッグ!」

えらいこっちゃ嬢が、美味しいお茶を飲み干して満足げに声を上げる。


地蔵店長、女鬼、そして妖古、食堂の主や常連達も、その信頼に満ちたやり取りを、暖炉の火を見守るような温かな微笑みで眺めていた。


才狐は、その会話の一つひとつを漏らさぬよう胸に刻み込んでいく。

妖古から多くを教わり、自らも精進してきた自負はあった。

けれど、今日一日の旅路で出会った大人達は、自分の想像を遥かに超える深淵に立っていた。

自分はまだ、世界の端っこをなぞっているに過ぎない。


(もっと修行せんと。……もっと、この人達のような高みへ行きたいし……いや、行かなあかんのや)

無表情なその瞳の奥で、決意の炎が小さく、しかし激しく燃え上がる。


そのわずかな肩の震えを察したのだろう。

妖古が、温かな手で、才狐の頭を優しく撫でた。


「……ゆっくりでええんじゃよ。才狐」

妖古の声は、夜の静寂に溶け込むほどに優しく、慈愛に満ちていた。

「焦らず、ゆっくりとな。ぬしはぬしの早さで、この広い世界を歩いていけばええ。我はずっと、ここにおるからのう」


愛弟子を温かく見守る師匠の言葉。

才狐は、自分の頭に乗せられた手のひらのぬくもりを、じっと噛み締めていた。

感情を捨てたはずの胸の奥に、言葉にできない安らぎが広がっていく。


「はい。」

才狐は短く応えた。

その声は少しだけ、確かな温かさを帯びていた。


京都と異界の夜は更けていく。

摩訶不思議食堂の灯りは、修行の合間に訪れた少年の心を、今夜も優しく「ほっこり」と包み込んでいた。


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**第30話「少年呪術師の京都妖怪紀行とほっこり飯」 完**

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