第29話後編:重口両子の両舌とほっこり飯
##贖罪の朝と再会の本屋
昨夜の「摩訶不思議食堂」での出来事は、夢ではなかった。
土曜日の朝、眩しい陽光に目を覚ました両子は、自身の舌がたった一枚であることを確認し、深く、静かな溜息を吐いた。
今日は会社も休み。
本来なら、昼過ぎまで寝てから、適当な嘘で友人を誘い出し、贅沢なランチを奢らせるような一日を過ごしていただろう。
しかし、今の両子の心には、昨夜授かった「愛語」という言葉が、消えない灯火のように熱く宿っていた。
彼女は一人で出掛ける準備を整え、浄化されたような足取りで自宅を出発した。
昼食はショッピングモールで適当に済ませよう。
そう決めてビルの中へ足を踏み入れると、雑多な喧騒の中で一軒の大型書店が目にとまった。
吸い込まれるように店内へ入った両子は、いつもの習慣で華やかな女性誌のコーナーへ向かおうとして、ふと足を止めた。
(……アタシ、何を探してるのかしら)
着飾るための美容情報や、誰かを出し抜くための処世術が書かれた本には、もう興味が持てなかった。
ふと新刊コーナーの隅に、一冊の仏教関連の本が並んでいるのが目に入る。
これまでの人生で一度も足を踏み入れたことのない、静かな仏教コーナーの棚。
両子はその一角へとおずおずと歩み寄り、一冊の本の背表紙に指をかけた。
「仏教の言葉」
何気なく手に取り、そのページをパラパラと捲った瞬間、両子の瞳が大きく見開かれた。
そこには、流麗な文字で「和顔愛語」と記されていた。
――和やかな笑顔と思いやりのある言葉で人に接すること。
「和顔、愛語……。地蔵店長が言っていたことと同じ……」
その言葉を読んだ瞬間、両子の中にあった迷いは霧散した。
彼女は迷うことなくその本を握りしめ、レジへと向かった。
トタトタと、硬いタイルの上を歩く自分の足音が、昨夜の牛車の揺れを思い出させる。
しかし、レジに到着した瞬間、両子の心臓は跳ね上がった。
そこには、一人の女性が背を向けて並んでいる。
小柄で、どこか凛とした佇まい。
手元のカゴには、一冊の料理本が入っている。
「美喜、ちゃん……?」
両子が思わず声を漏らすと、その女性は肩をびくりと震わせ、ゆっくりと振り返った。
「!?……両子さん。お早う御座います」
目の前にいた女性は、美喜だった。
美喜は一瞬だけ驚きに目を見開いたが、すぐに表情を強張らせ、深々と会釈をすると、すぐに顔を背けて前を向いてしまった。
冷たい拒絶。
かつての自分なら「可愛くない後輩ね」と毒づいていたであろうその態度が、今は刃となって両子の胸を深く抉った。
(これは、アタシが招いた報い。逃げちゃダメ……。今こそ、一枚の舌で話さなきゃ)
両子は逃げ出したい衝動を抑え込み、美喜のすぐ後ろに並んだ。
レジのバーコードリーダーが鳴らす「ピッ、ピッ」という乾いた音が、やけに大きく響く。
美喜の背中からは、隠しきれない警戒心と拒絶のオーラが漂っていた。
「あの、美喜ちゃん。……話したいことがあるんだけど、この後、少しだけ時間あるかな?」
両子は震える声を必死に整え、絞り出すように尋ねた。
美喜は一瞬、会計の手を止めそうになったが、前を向いたまま、冷たく、淡々とした声で問い返した。
「……話したいことって、何ですか?」
「その……あの時のこと、ちゃんと謝りたいの。身勝手なのは分かってる。でも、お願い。一度だけでいいから」
両子は美喜の背中に向かって、深く、深く頭を下げた。
周囲の視線など、もう気にならなかった。
美喜はしばらく沈黙を守っていたが、店員からお釣りを受け取ると、低く短い声で答えた。
「……よく行く喫茶店があります。そこでなら、少しだけ」
「……有難う。本当に有難う」
やがて会計を終えた二人は、一言も交わさぬまま書店の外へと歩き出した。
美喜の歩幅は速く、両子は必死にその後を追う。
ショッピングモールの華やかな喧騒の中で、二人を包む空気だけが、刺すような緊張感に満ちていた。
重口両子の「愛語」への最初の一歩。
それは、かつて自分が踏みにじった絆の跡を、血を流しながら辿り直す険しい道のりの始まりであった。
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##氷解の予兆と一枚の舌の告白
ショッピングモールの喧騒を離れ、静かな路地裏に佇む喫茶店へと二人は足を踏み入れた。
琥珀色の木材が落ち着いた雰囲気を醸し出す店内で、運ばれてきた二つのアイス珈琲が、カランと氷の音を立てる。
グラスの表面には瞬く間に結露が浮き、両子の指先に冷たい感覚を伝えた。
「ここに喫茶店がある事は知ってたけど、入った事なかったな。」
少しでも場を和ませようとした両子の言葉は、重苦しい沈黙の中に虚しく消えた。
美喜は何も答えず、ただストローで一口だけ珈琲を啜り、視線を落としたままだ。
両子は大きく息を吸い込み、意を決してその場に深く、折れそうなほど腰を折って頭を下げた。
「美喜ちゃん、大学での事、本当にごめんなさい。本当に、申し訳ありませんでした。」
テーブルを凝視する両子の視界に、美喜が握りしめた拳が微かに震えるのが映った。
「……今更ですよ。」
美喜から吐き出されたその言葉は、冷え切ったナイフのように鋭く両子の胸を突き刺す。
「今更だけど、けじめをつけるべきだと思ったの。だから、本当にごめん。……これからかつてのサークルメンバー全員にも、アタシがしでかした事を全部話すって約束する。美喜ちゃんが居場所を失った……ううん、居場所を奪ったのはアタシが元凶だって、その真実を全員に伝えるから。」
両子は頭を下げたまま、必死に言葉を紡ぎ続けた。
沈黙が流れる中、美喜がポツリと、しかし重い問いを投げかけてきた。
「……なんで、あんなことしたんですか?」
両子はゆっくりと顔を上げ、濁りのない瞳で美喜を見つめた。
そこに、かつての自分を守るための二枚舌は存在しなかった。
「美喜ちゃんがチヤホヤされ始めたのが、堪らなく嫌だった。それに、ダンスの実力では美喜ちゃんに到底かなわなかった事、それによって大会のレギュラーから外されてサブに回った事……。全部、アタシの醜い嫉妬だったの。美喜ちゃんを引きずり下ろすことでしか、自分のプライドを保てなかったのよ。」
洗いざらい、自身の心に巣食っていたどす黒い感情を吐露する。
一人の人間として、これほどまでに無様で汚い本音を晒すのは、死ぬほど恥ずかしく惨めだった。
けれど、そうしなければ「一枚の舌」で語ることはできないのだ。
「……なんで、今になってそんなことを。」
美喜の瞳に、困惑の色が混じる。
「アタシがやった事、アタシが美喜ちゃんを、そしてサークルのみんなをいかに傷つけたか……その愚かさに、昨日、ようやく気付かされることがあって。だから、一生後悔して生きる前に、せめてけじめをつけなきゃいけないと思ったの。本当に、すみませんでした。」
謝罪を繰り返す両子の声には、真実という重みが宿っていた。
しばしの沈黙。
店の奥でミルが豆を挽く音だけが響く。
やがて、美喜が静かに口を開いた。
「正直、意外でした。また『美喜ちゃんの為を思ってやった』とか、そういう保身に走るような言い訳を聞かされると思ってたから。」
「……昨日までのアタシだったら、間違いなくそうしてたと思う。でも、それじゃいけないって思ったのよ。ここで変わらず、逃げ続ける人間のままではいけないって、心の底から思うようになったから。」
「口先だけなら、なんとでも言えますよ。」
美喜の言葉は依然として厳しかったが、そこには確かな変化の兆しがあった。
「そうだよね。昨日、全く同じことを言われたわ。だからこそ、口先だけじゃない、これからの行動で示していくって約束する。」
両子の力強い宣言に、美喜は真っ直ぐにその瞳を見据えた。
「……ちゃんとやってるかどうか、見てますから。」
「うん。言葉だけじゃない、ちゃんと行動も伴ってるって、美喜ちゃんに認めて貰えるように、一歩ずつ生きていくよ。」
アイス珈琲の氷が溶け、グラスの中が透明に近づいていく。
二人の間にあった氷壁もまた、両子が紡いだ真実の言葉――「愛語」の温もりによって、僅かに、しかし確実に溶け始めていた。
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##断絶の告白と不信の残響
美喜と別れた後、両子は最後にもう一度、彼女の背中に向かって深く頭を下げた。
帰宅した両子は、外界の喧騒を遮断するように自宅に籠もり、書店で購入した「仏教の言葉」を、一文字ずつ噛み締めるように読み進めた。
ページを捲るたびに、これまでの自分の行いがいかに「十悪」に染まっていたかを突きつけられ、胸が締め付けられる。
しかし彼女は、その痛みから逃げなかった。
「不両舌。不妄語。不綺語。不悪口……」
かつての自分が武器としていた言葉の数々が、実は自分自身を「不信の地獄」へと幽閉する壁であったことを、彼女は本を通して静かに、深く学んでいった。
日曜日の夜が明け、月曜日の朝がやってきた。
出社後、両子はこの日、長谷川健一は朝から営業で1日中外回りの予定と知り、健一への謝罪はこの日は出来ない事から、まずは美穂への謝罪を決意する。
両子は朝のうちに藤本美穂に声をかけ、昼休みに2人でランチに行きたいと約束を取り付けた。
美穂は突然の誘いに少し驚いた表情を見せたが、両子の纏う空気が以前とは決定的に違うことを察したのか、静かに了承してくれた。
そして、約束の昼休み。
オフィス街の喧騒から少し離れた、美穂が馴染みにしている落ち着いたカフェへとやってきた。
美穂がいつも注文しているという、瑞々しいレタスと厚切りのハムが挟まったサンドイッチセットを前に、最初は仕事の進捗など、当たり障りのない会話が交わされる。
しかし、両子の心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。
やがて食後の珈琲が運ばれ、白い陶器から芳醇な苦味を湛えた香りが立ち上る。
その湯気の向こう側で、両子は意を決して、カップを置いた。
「それで、美穂さん……アタシ、美穂さんと健一さんに、どうしても謝らなければいけないことがあるの」
両子は美穂の瞳を真っ直ぐに見据えた後、テーブルに頭がつくほど深く腰を折った。
「本当に、ごめんなさい。……二人の仲を引き裂いたのは、アタシです。健一さんの弱みにつけ込み、外堀を埋めるように嘘の噂を流しました。健一さんが美穂さんと不仲になるように、言葉巧みに誘導したんです。本当に、申し訳ありませんでした」
沈黙が、重苦しく二人の間を支配する。
カフェのBGMさえ遠くへ消え去ったような静寂の中、美穂は静かに珈琲を一口啜り、落ち着いた声で答えた。
「……知ってたわ。確証はなかったけれど、予感はあったの」
「えっ……?気付いて、いたの?」
両子が驚きに顔を上げると、美穂はどこか寂しげな、それでいてどこか悟り切ったような苦笑いを浮かべていた。
「うん。時々、健一さんに何か熱心に話している貴方の姿を見たことがあったからね。それに、両子さんが私に『健一さんが貴方のことをこう言ってたわよ』って聞かせるようになってから暫くして、薄々そうじゃないかって思い始めていたのよ。そっか。やっぱり、私の勘は当たっていたのね。本当は、外れて欲しかったけれど」
「……本当に、本当にすみませんでした」
両子は再度、絞り出すような声で頭を下げた。
自分の狡猾な立ち回りは、実は美穂のような澄んだ瞳を持つ人間には透けて見えていたのだ。
その事実が、両子の「二枚舌」の無意味さを改めて浮き彫りにする。
「まあ、一緒に暮らしていると、お互いに不出来なところが目に付くのはよくある話。それはお互い様だと思っていたわ。ただ……」
美穂は視線を窓の外、流れる雲へと向けた。
「別の女性の言うことに、これほどあっさりと靡いてしまう健一さんとは、きっとこの先も上手くいかないだろうな、相性は良くないだろうな、と思っていたの。だから、実は私から別れ話を切り出すつもりだった。彼に『別れよう』と言われた時も、遅かれ早かれこうなるだろうと思っていたから、それほど気にはならなかったわ」
美穂の潔い言葉は、両子の罪を許すものではなく、むしろ彼女の工作がいかに「浅はか」であったかを物語っていた。
「アタシは、そのことを……美穂さんが自分から去っていったことを『冷たい女だ』って周りが思うような言葉を並べて、周囲に吹き込んだわ。二人が別れた後も、絶対に寄りが戻らないようにするために。……周りを巻き込んで、美穂さんの名誉まで傷つけた。本当に、本当に愚かなことをしたと後悔しています。申し訳ありませんでした」
両子は涙を堪えながら、自らの醜悪な二枚舌の結末を、包み隠さず告白した。
一枚の舌で語る謝罪は、これまで吐いてきたどんな甘い言葉よりも重く、苦い味がした。
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##不信の氷解と二枚の舌への決別
重苦しい沈黙が卓上を支配する中、店内に流れる穏やかなジャズの旋律だけが、両子の耳に痛いほど響いていた。
美穂は冷めた珈琲を見つめていたが、やがてフッと、毒気の抜けたような笑みを漏らした。
「正直、驚いてるわ。まさか、両子さんの方からそんなことを打ち明けて来るとは思わなかったから。……本当はね、両子さんとは、もう深い関係を築くのはやめて、最低限の仕事の関係だけにとどめようと思っていたところだったのよ」
「……当然よね。二人の仲を引き裂いて、美穂さんも健一さんも、アタシがボロボロに傷つけたんだから。……言い訳のしようもないわ」
「それに、今までの貴方の立ち回りは、組織を破綻させる鍵になるからね。不信感を煽る人が一人いるだけで、チームは簡単に壊れる。それはプロとして見過ごせなかったわ」
美穂の淡々とした、しかし理知的な指摘が、両子の胸に深く突き刺さる。
「……返す言葉もありません。本当に、その通りです」
「でも、だからこそ、今日こうしてランチに誘われて、自分から頭を下げられたことには驚いているわ。まるで、中身が別人になったみたいね」
美穂の言葉に、両子はふと、あの不思議な食堂での光景を思い出した。
「気付かせてくれた人がいたんだ。……いや、人じゃなかったかな。そう、あの二子ちゃんも……」
「二子ちゃん?彼女に何か言われたの?」
不思議そうに首をかしげる美穂に、両子は苦笑交じりに真実を告げた。
「同類だって言われたのよ。舌が二つくっついてるって。あの子は口が二つくっついてるけど、確かにアタシは二枚舌で和を乱した挙句、人を傷つけてきたから。まさに『二枚舌女』だったわ」
「確かに、二枚舌というのは、その通りね。今はその事を反省しているみたいだけど。……でも、なんで二子ちゃんが同類なのよ?あの子、裏表がなくて、いつもニコニコしてるじゃない」
「あー……物理的に、口が二つあるからなのよ、あの子」
両子の突拍子もない返答に、美穂はますます困惑の色を深める。
「食いしん坊ってこと?それとも比喩?」
「えっと、見せてもらえばわかるわ。あの後ろのお団子みたいに結ってる髪の中には、毒舌を吐きまくる『口』がついているんだから」
「何よそれ、妖怪じゃない。ふふ、貴方、お疲れなんじゃないの?」
美穂が声を立てて笑う。
その明るい響きに、両子は少しだけ救われたような心地になった。
「本当に妖怪なんだってば!これは嘘じゃないから!本当に、後頭部に口があるのよ!」
「それじゃあ、ハロウィンの仮装か何かだったんじゃない?特殊メイクのクオリティが高かったのね。」
「そ、そうなのかなあ……。でも、あの時は本物にしか見えなかったんだけど」
両子は曖昧に呟きながら、改めて美穂の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「とにかく、本当にすみませんでした。……それと、美穂さんが私に直接、何も指摘してくれなかったのは……もう、私との縁を切るつもりでいたから、なの?」
「うん。これで縁が切れたら、それまでの縁だったって思うようにしてたの。エネルギーを削ってまで、貴方を更生させようとは思わなかった。ごめんなさいね、冷たくて」
美穂のその静かな肯定を聞いた瞬間、両子の背筋にゾクッと寒気が走った。
それはまさに、女鬼が語っていた「気づいていながら黙っている人」の恐怖そのものだった。
指摘されないということは、自分は気づかぬまま悪の道を走り続け、いつの間にか誰からも見向きもされない孤独な場所へ辿り着くということ。
愛想を尽かされ、黙って背を向けられることの残酷さを、両子はこの時、身を以て理解し、改めて猛省した。
「……アタシ、本当に馬鹿だった。口先だけじゃなくて、本当に心と言葉を入れ替えて、これからは正しく生きると約束します。本当に、申し訳ありませんでした」
両子は、店内の誰に見られても構わないという覚悟で、再度深く頭を下げた。
美穂はしばらくその姿を見つめていたが、やがて優しく微笑み、小さく頷いた。
「うん、確かに受け取ったわ。健一さんには、私からも話しておく。もう二度と、同じ過ちを犯さないように、お互いに気を引き締めようね」
「……はい」
両子は、重く、しかしどこか晴れやかな気持ちで、その言葉を噛み締めた。
二枚あったはずの舌が、今、確かな一枚の「言葉」となって、新しい縁を紡ぎ始めていた。
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##響き合う真実と二つの口の福音
美穂との和解を果たし、胸の内にあった重い霧が晴れたような心地で会社に戻った両子。
二人の間に流れる空気は、これまでのような偽りの調和ではなく、互いの未熟さを認め合った上での静かな信頼へと変わりつつあった。
午後の業務に戻るべく社食の前を通りかかると、そこはいつも以上の活気と賑わいに包まれていた。
美喜が所属する移動パン屋の出店が、社員たちの間で大きな評判を呼んでいるのだろう。
焼きたてのパンの芳醇な香りに誘われるように、両子と美穂が少しだけ顔を出してみると。
「「あ!」」
二人の声が重なり、驚きに目を見開いた。
そこには、美喜の隣で凛とした和服に真っ白な割烹着を見事に着こなし、ニコニコと上機嫌でパンを売りさばく女性の姿があった。
黒髪を美しく結い上げ、天真爛漫な笑顔を振り撒くその女性こそ、先程まで二人の話題の主であった「二口二子」その人、いや、その妖怪。
この会社では総務部として活動しているが、その正体は後頭部にもう一つの口を持つ怪異、二口女であった。
「二子ちゃん、今日は別部署に行ってるって聞いてたけど、こんなところにいたの?」
美穂が不思議そうに、しかし親しみを持って声をかける。
「あ、御二人さん、お帰りやす。ふふ、なんやええ雰囲気やないですか。仲直りしはったみたいで、ウチも嬉しいわぁ。そうですよ、今日は助っ人でお手伝い。今日の売れ筋は、この『ふんわりぎゅう詰め卵サンド』。おひとつ、如何どすか?」
二子はニコニコと、いかにも商売上手な口調でサンドイッチを差し出してきた。
「いや、アタシ達は今さっきサンドイッチを食べて来たばっかりだから」
両子が苦笑いして断ると、二子はオーバーに肩をすくめてみせる。
「あらまあ、残念。ほな、明日の朝ごはん用にでもどないです?」
「……いや、流石にサンドイッチを立て続けにっていうのは、ちょっとねえ」
「あ~あ、振られてしもた。両子さんはいけずやわぁ。ほな両子さん、傷心のウチに、後で美味しい珈琲でも御馳走して下さいな」
二子が茶目っ気たっぷりにウインクをすると、両子はその底抜けの明るさに毒気を抜かれたように笑った。
「何よそれ、強引ね。……まあ、いいわ。二子ちゃんには、色々とお世話になったものね。じゃあ、今夜にでも行きましょう」
「やったぁ!お約束ですよ」
二子の隣で懸命に袋詰めをする美喜を、両子は改めてちらりと見やる。
「美喜ちゃんも、お疲れ様」
「お疲れ様です。有難うございます」
美喜が僅かに視線を上げ、小さく、しかし確かな声で返してくれた。
その一言が、両子にとってはどんな賞賛よりも心に染み渡った。
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仕事を終えた夕暮れ時。
両子は総務部から戻ってきた二子を連れて、行きつけのクリームスープパスタとツナサラダの店へとやってきた。
「はふっ……あらまあ、ほんまに美味しいですやん!このクリームの濃厚さ、堪りませんわぁ」
二子は運ばれてきたパスタを、本当に美味しそうに口いっぱいに頬張っている。
その飾り気のない姿を眺めながら、両子はふとした疑問を口にした。
「ねえ、二子ちゃんの後ろの口って、実際に食べる事ってあるの?それで、どっちが本体の口なのかしら」
二子はパスタを飲み込むと、悪戯っぽく微笑んだ。
「ふふ、どっちも本体ですよ。後ろの口がいつも毒舌っぽく喋るのは、その方がおもろいやろなと思ってキャラ作りしてるだけです。後ろの口でも、ちゃんと食事はできますえ。試しに今度、お饅頭でも後ろから食べさせてみて下さい。喜んでパクッといきますさかい。あ、ちなみにウチ、時々腹話術の仕事もやってるんです。一人二役、お手の物ですから」
「腹話術ねぇ……確かに、二口女にとっては天職かもしれないわね」
二人の笑い声が、温かな湯気の中に溶けていく。
しかし、両子はふと真面目な顔になり、独り言のように呟いた。
「皮肉な話よね。本物の二口女……物理的に口が二つくっついている二子ちゃんは、こんなに裏表がなくて真っ直ぐなのに。アタシは人間で口は一つしかないのに、二枚舌で裏も表も毒々しく汚れ切っていた。どっちが化け物かわからないわね」
自嘲気味に笑う両子の手を、二子はそっと握った。
「それに気づいて、ちゃんと仲直りして歩き出さはったんやから。善き道の歩き始めとしては、ええ感じやと思いますよ、両子さん」
「……有難う」
両子は、心からの感謝を込めて、素直に頭を下げた。
彼女の舌は今、たった一枚の、嘘のない感謝を伝えるためのものとして、確かに機能していた。
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##口中の斧と浄化の涙
食後の珈琲が運ばれ、芳醇な香りが二人の間を穏やかに満たしていく。
パスタの濃厚な余韻を洗い流すような苦味を楽しみながら、二子は不意に、いたずらっぽく目を細めて核心を突いた。
「そんで、両子さんは健一さんの事、もう好きやないんですか?私、てっきり今日あたり、頃合いを見計らって告白でもしはるんやと思うてましたんやけど」
その問いに、両子は自嘲気味な笑みを浮かべ、静かに首を振った。
「……アタシに、そんな資格はもう無いわよ。それに、健一さんだってアタシみたいな女は嫌でしょ。散々かき乱して、嘘を吐いてきたんだから。自業自得よ」
「それは確かに、そうですねえ。今の両子さんやったらまだしも、前の両子さんやったら、健一さんもドン引きやったやろね」
二子がニコニコと屈託のない笑顔で同意すると、両子は思わず苦笑した。
「はっきり言うわね。まあ、返す言葉も無いけれど」
「ふふ、傷つかはりました?でも、これくらい言わんとね」
「別に傷ついてはいないわよ。図星を突かれたとは思ったけどね。自分のしでかした事の大きさを、今はちゃんと噛み締めてるだけ」
両子の言葉に、二子は珈琲カップを置き、少しだけ真剣な眼差しを向けた。
「そうですか。まあ、その様子やと、傷だらけの御自身に全く気付いてはらへんかったんやろなあって思いますけどね。そやからこそ、改心する前の生き方で、ずーっとやってこれたんでしょうし」
「え……?」
両子の胸が、ドクンと音を立てて跳ねた。
自分が自分を傷つけていた?
その困惑を見透かしたように、二子は静かな口調で、ある「教え」を語り始めた。
「知ってますか、こんな言葉を。『人は生まれた時、口の中に斧が生じている。愚者は悪口を語って、その斧によって自らを断つ』。これは、スッタニパータって言う仏教の御経にある言葉なんです。ふふ、怪異が仏様の教えを伝えるなんて、おもろいですよね」
二子は軽やかに笑うが、その言葉の内容は両子の魂を鋭く射抜いた。
「……口の中に、斧?」
「要するに、人間っていう生き物は、生まれながらにして悪口を言うてしまう本性……そんな斧を持ってるんです。そして、その斧を振るって人を傷つけて、縁もばっさりと切ってしまう。でもね、本当に恐ろしいのは、斧を振り回してるその人自身も、その斧の刃で自分自身の魂を切りつけてるっていう事なんです」
両子は、今言われた言葉を頭の中で何度も反芻した。
地蔵店長が説いた「不信の地獄」という言葉が、二子の語る「斧」のイメージと重なり、一つの真実として結びついていく。
「……そっか。アタシは、周りを傷つけながら、同時に自分自身をメッタ切りにしてたんだ。人を信じられず、嘘を塗り重ねて、自分を孤立する形で孤独に追い込んで……アタシは加害者でありながら、アタシ自身が一番の被害者だったのかもしれないわね。だからと言って、自業自得だから被害者面なんて出来ないけど」
「今までの両子さんは、他人様の縁をばっさばっさ切りまくって、自然と縁も切りまくってたっていう事です。今回は寸でのところで、美喜さんと美穂さんとの御縁は完全に切れることなく済みましたけどね。はっきり言って、これは奇跡ですよ。普通なら、もう二度と口も聞いてくれへんのが当たり前なんですから」
二子の言葉には、厳しい現実が込められていた。
「そうよね……肝に銘じるわ。あの二人に愛想をつかされて、完全に縁切りされても文句は言えない。あの日、あの食堂に行かなければ、アタシは今頃、自分の斧で自分を切り刻んで、本当の孤独の中にいたはずだもの」
両子は窓の外に広がる夜景を見つめた。
きらめく街の光は、これまでの不信に満ちた瞳では「虚飾」にしか見えなかったが、今はどこか温かく、尊いものに感じられる。
「これに懲りたら、地蔵店長さんや女鬼ちゃん、えらいこっちゃん達から教わった事を踏まえて、しっかりと実践し続けはる事です。舌は一枚だけで宜しゅうおす。愛語、忘れんときなはれや」
二子はニコニコと笑いながら、最後の一口の珈琲を飲み干した。
「仰る通りで御座います。……ふふ、妖怪に御説教食らうなんて、本当に貴重な体験だわ。でも……有難う、二子ちゃん」
両子の顔から、かつての刺々しい険が完全に消え去っていた。
それは、まるで長年憑いていた憑き物が落ちたような、清々しく穏やかな笑顔だった。
その頬を一筋の温かい涙が伝う。
それは悲しみの涙ではなく、自分の愚かさを認め、慈悲に触れた者だけが流せる、浄化の涙であった。
両子の歩む「善き道」は、まだ始まったばかり。
二口女である二子は、その涙を揶揄うこともなく、ただ優しく善き道を歩き始めた両子の姿を見守り続けていた。
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##結び:一枚の舌が綴る、真実への歩み
店を出る際、両子は二子の分も合わせた食事代をスマートに支払った。
「御馳走様ですー!ほんま、お腹も心もいっぱいやわぁ」
二子は満足げに、いつもの天真爛漫な笑顔でお礼を言い、夜の街角で軽やかに手を振って別れた。
一人になった帰り道、両子の胸中には、濁流のように様々な思いが交錯していた。
幼い頃から、自分を優位な立場に置くために呼吸をするように使いこなしてきた二枚舌。
その場を凌ぎ、誰かを踏み台にし、安全圏から高みの見物を決め込む立ち振る舞い。
それは「要領の良さ」などではなく、単なる傲慢であり、数多の尊い縁を自らの手でぶち壊し続ける破壊行為でしかなかった。
大学時代のダンスサークルで美喜に負わせた決定的な傷、そして社会人になってから美穂と健一の仲を引き裂いた、取り返しのつかない大罪。
(もし……二子ちゃんと出会っていなかったら。あの摩訶不思議食堂に辿り着けていなかったら……)
そう考えただけで、両子の背筋には氷のような寒気が走った。
怪異たちの介入がなく、仏の教えに出会うこともなかった自分は、今頃どうなっていただろうか。
きっと美喜からも美穂からも完全に絶縁され、職場では「大人の対応」という名の最低限の壁を作られ、それ以上の発展など望めない干涸らびた人間関係の中にいたはずだ。
それどころか、いずれはその狡猾さや毒々しい汚さが見破られ、誰からも信じられなくなり完全に孤立してしまい、孤独の深淵に落ちるのは時間の問題だったに違いない。
そして何より、二子が語った「口中の斧」の言葉が、両子の魂を激しく揺さぶっていた。
自分は他人を切り刻んでいるつもりで、その実、一生自分自身を切り刻み、魂を削り続けていたのだ。
これだけの悪業を積んできた自分を、今、奇跡的に繋ぎ止めてくれている数々の縁。
縁を断ち切り続けてきた自分が、最後にはその「縁」によって救われたという皮肉と慈悲に、両子は改めて激しい後悔の念に包まれた。
「サークルの皆とも、もう何年も疎遠になっちゃったけど……。連絡がつくメンバーには、ちゃんとアタシから真実を話さないとね。美喜ちゃんがあんなふうに悪く思われて追い出されたのは、全部アタシに責任があるんだから。今更だと言われても、責任を持って全てを正していかなきゃ……」
夜風に消えてしまいそうな小さな呟きだったが、そこにはかつての「二枚舌」にはなかった、芯の通った重みが宿っていた。
失った信頼はすぐには戻らない。
謝罪を受け入れてもらえる保証もない。
それでも、一枚の舌で真実を語り続けることこそが、自分に課された唯一の贖罪なのだ。
「明日の会社帰り、本屋に寄らなきゃ。スッタニパータだったっけ、二子ちゃんが言ってた仏教の話。大きな本屋に行けば、見つかるかな」
両子は夜道を踏みしめながら、自分自身の足元を確かめるように歩き続けた。
かつては他人の足を掬うことばかり考えていたその足は、今、善き道へと向かうための確かな一歩を刻んでいる。
夜空を見上げれば、月が静かに彼女を照らしていた。
それは、摩訶不思議食堂の地蔵店長が見せてくれた、慈愛に満ちた微笑みによく似ていた。




