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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第29話前編:重口両子の両舌とほっこり飯

##~微笑の仮面と、綻びゆく信頼の糸~


東京都心、摩天楼が林立する新宿のオフィス街。

その一角に居を構える超高層ビルの25階に、重口両子しげぐちりょうこが勤務する大企業の総務部はある。


コツ、コツ、コツ……。

大理石の床に小気味よいヒールの音を響かせ、両子は資料を胸に抱えて颯爽と歩く。


私服勤務が許可されたこの職場において、彼女が選ぶのは常に清潔感のある、それでいてどこか洗練されたパンツスタイルであった。

肩甲骨まで美しく切り揃えられた黒髪が、歩調に合わせてしなやかに靡く。

そこそこ整った顔立ちに、常に絶やさない柔和な微笑み。

それは、彼女が「敵を作らない」ために長年磨き上げてきた、完璧なまでの社会人としての擬態であった。


両子は幼い頃から、驚くほどに世渡りの要領が良かった。

彼女の本質は、対立する二つの勢力の間に立ち、双方に全く異なる情報を吹き込む「二枚舌にまいじた」の体現者である。

しかし、彼女が真に恐ろしいのは、その行為を「悪意」ではなく「生存戦略」として無自覚に行っている点に尽きた。


例えば、子供時代の遊び場で、彼女は一人の少女に囁く。

「誰かがあんたの悪口を言ってたわよ?気をつけたほうがいいよ」


そして間を置かず、その悪口を言ったとされる人物の元へ駆け寄り、さも心配そうな顔を作って告げる。

「あの子、あんたのこんな嫌なところを吹聴してた。私は違うって庇っておいたけど……」


まだ純粋だった子供たちは、両子の言葉を疑いもしなかった。

やがて生じる激しい仲違い。

両子は常に「真実を教えてくれた恩人」としての地位を確立し、いざこざの火種を撒いた張本人として責められることは一度として無かった。


大学生になり、就職活動という人生の岐路に立った際も、その「喋り」の研磨は止まらなかった。

自分を最大限に輝かせ、相対的に周囲を貶める話術。

グループディスカッションでは、他者の些細な失言を巧妙に拾い上げ、それをフォローする振りをしながら決定的な失点へと誘導する。

「あっちで言ったことと、こっちで言ったことが違う」という事実に誰かが気づきそうになれば、それすらも「情報の行き違いがあったみたい。怖いよね」と、第三者のせいにすり替えた。


そうして彼女は、誰もが羨む大手企業の総務部の内定を、涼しい顔で勝ち取ったのである。


社会人となって25歳を迎えた現在。

両子は、流石に仕事は相応にこなさなければならないという最低限の規律は守っていた。


目立たず、しかし不足なく。

カチャカチャ、カチャカチャ……。

キーボードを叩く指先は迷いなく、彼女は事務処理を淡々と遂行する。


時折、学生時代からの癖で「誰々さんがあなたのミスを上司に報告していた」といった不和の種を蒔くことはあったが、巧妙な言葉選びと立ち振る舞いにより、決定的なトラブルに発展したことはない。

彼女の世界は、自分が操る言葉の糸によって、平穏という名の欺瞞で満たされていた。


敵を作らず、誰からも「良い人」だと思われながら、周囲に小さな亀裂を走らせる快感。

それを自覚することなく、重口両子は今日も東京の空の下、優雅に、そして狡猾に日常を謳歌していた。

自分が吐き出してきた言葉という名の毒が、いつか自分自身の喉を焼くことになるとは、夢にも思わずに。


---


##~邂逅の残り香と、奪われた初恋の視線~


東京都心の喧騒を眼下に見下ろすオフィスビルの総務部。

そこは、人の出入りや異動が激しくなる季節特有の、どこか浮足立った空気に包まれていた。

そんな中、本社の廊下を渡って総務部のオフィスまでやって来た一人の男の姿に、フロアの視線が吸い寄せられる。


「……ッ!」

デスクで資料を整理していた両子の指先が、微かに止まった。


視界に飛び込んできたのは、端正な顔立ちにすらりとした高い背、そして自信に満ちたオーラを纏った男性――地方から本社営業部へ異動してきたばかりの、長谷川健一であった。

彼は社内でも注目の的であり、高い営業成績を叩き出す精鋭として、その名は瞬く間に広まっていた。


両子の胸が、かつてないほど激しく波打つ。

一目惚れだった。

彼女はすぐさま「完璧な自分」を演出するために表情を整え、靡く髪を軽く指で梳くと、彼をサポートしようと率先して席を立とうとした。


しかし……。


健一の視線は、両子を通り過ぎ、その隣のデスクに座る同僚へと注がれた。

「あれ?……美穂ちゃん?」


その声に、キーボードを叩いていた藤本美穂の手が止まる。

カタッ……。

美穂が顔を上げ、驚きに目を見開いた。

「長谷川さん?……大学で2つ上の先輩だった、あの長谷川健一さんですか?」


「そうそう!君、本社にいたんだ!奇遇だなあ」

健一の顔が、太陽のような輝きを帯びた笑顔に変わる。

両子が入り込む隙など微塵もない、親密で温かな空気が二人の間を瞬時に支配した。


健一は美穂のデスクに一歩詰め寄り、弾んだ声で話し続けた。

「俺は本社で研修を受けた後、2年はこっちにいたんだけど、その後で京都に配属されてね。それで、今回の異動でようやく戻って来たんだよ!」


「それじゃあ、私が入社すると同時に、入れ違いで京都へ異動されたんですね。先輩とお会いするのは大学卒業以来だから、5年ぶりでしょうか?」

美穂もまた、再会の喜びに頬を綻ばせる。


「もうそんなに経つのか。時の流れは速いもんだなあ」

健一は眩しそうに美穂を見つめていたが、ふと思い出したように手に持っていた書類を差し出した。

「あ、そうだ。この書類の事で聞きたかったんだよ。総務に持って行けって課長から言われてさ」


差し出された紙面を覗き込んだ美穂は、小さく苦笑いを漏らす。

「ふふ、ああ。これは経理行ですよ。皆さん、よく間違えてこっちに持ってきちゃうんです。長谷川さんも、まだ本社のルールに慣れてないんですね」


「そうなの?いやあ、恥ずかしいな。じゃあ早速、経理に行ってくるよ。美穂ちゃん、有難う」


健一は照れくさそうに頭をかき、踵を返して総務部を出ようとした。

だが、彼は何かに気づいたように立ち止まり、再び美穂の方を振り返った。


「あ、そうだ。折角再会出来た事なんだから、近いうちに一緒に食事とか飲みに行くとか、どうかな?積もる話もあるし。支社でのおもろいはなしもあるで?」

その口調に、数年間の京都暮らしで染み付いたのであろう、独特の柔らかな響きが混じる。


「ふふ、京都での口調が出てますよ。わかりました、それじゃあ近いうちに」

美穂の弾んだ笑い声が、静かなオフィスに響き渡った。


健一は満足げに手を振り、颯爽と総務部を後にしていく。


カチャカチャ、カチャカチャ……

美穂は何事もなかったかのように、再び軽やかにキーボードを叩き始めた。


その隣で、両子は凍りついたように立ち尽くしていた。


一目惚れした男と、自分と同じ地位にいるはずの同僚。

二人の間にある月日の重みと、自分の介在する余地のない絆を見せつけられた両子の心。


平穏を装う仮面の下で、黒く渦巻く感情が、静かに、しかし確実に鎌首をもたげ始めていた。

両子は、ただ黙って、美穂の背中を、そして彼が去っていった扉を見つめ続けることしか出来ずにいた。


---


##~交差する恋情と、静かに浸食する二枚舌~


藤本美穂という女性は、まさに総務部の鑑と呼ぶに相応しい存在だった。

私生活をひけらかすことなく、常に凛とした佇まいでデスクに向かい、その指先が奏でるキーボードの音は正確無比で、淀みがない。

上司からの信頼は岩盤のように厚く、たとえ稀にミスを犯したとしても、彼女は即座に「申し訳ありません、私の確認不足です」と潔く非を認め、自ら改善策を提示して挽回してみせる。


周囲からは、いずれ総務の係長、そして課長へと昇進し、この部署を背負って立つ存在になると目されていた。

重口両子は、当初そんな彼女を「少し仕事ができる同世代」程度にしか見ておらず、敵視することも、ましてや嫉妬の対象にすることさえなかった。


しかし、あの長谷川健一という光が射し込んだ瞬間、両子の世界は一変する。

本社に異動して間もなく、健一の方から美穂に告白し、二人が交際を始めたというニュースは、瞬く間にオフィスの隅々まで伝播した。


「あの長谷川さんと藤本さんが?お似合いじゃない!」

「美男美女だし、二人とも仕事ができるから公私混同もしなさそうよね」

社内は祝福の嵐に包まれ、美穂の人柄も相まって、嫉妬を口にする者など一人もいなかった。


だが、その輪の影で、両子だけは一目惚れした男を諦めきれず、腹の底で煮え繰り返るような熱い嫉妬を飼い慣らしていた。

彼女の目は、無意識のうちに美穂の「完璧」の裏にある、些細な綻びを探し始めるようになっていった。


そんなある日の昼下がり、給湯室で絶好の機会が訪れた。

美穂がお茶を用意しようと茶葉を準備していた矢先、急ぎの用件で上司に呼び出され、彼女は慌ててその場を離れたのである。


「……ッ、見つけた」

無人の給湯室に残された、蓋の開いたままの茶葉の缶と、使いかけの急須。

それを見つけた両子の唇が、歪に吊り上がる。


両子は美穂が戻ってくるのを待ち伏せし、周囲に他の同僚がいることを確認してから、さも親切を装った柔らかな、しかし鋭い声で呼び止めた。

「美穂さん、ちょっといいかな?給湯室、急須とか茶葉がそのままになってたみたいよ。忙しいのは分かるけど、みんなが使う場所だから、後片付けはちゃんとしてくれないと困るな」


その言葉に、美穂は「あ!ごめんなさい、片付けさせちゃったよね!課長に急に呼ばれちゃって、ついそのままにしてしまったわ。本当に申し訳ありません。以後、絶対に気を付けるね」と、申し訳なさそうに眉を下げ、深々と頭を下げる。

両子は「いいのよ。次は気を付けてよね、私が片付けておいたから」と友好的に微笑んで見せたが、その足は既に次の獲物を求めて動き出していた。


「ねえ、今の見た?最近、ちょっと美穂さんってだらしなくなってないかな。こないだも給湯室で使ったものをほったらかしにしてたし、なんだか心配になっちゃって」

両子は給湯室から戻るなり、親しい同僚たちのデスクを回り、心配を装った毒を丁寧に振りまき始めた。

「もしかして、健一さんと付き合い出して、ちょっと気が緩んでるのかもね。浮かれて仕事に集中できてないんじゃないかって、見ていてヒヤヒヤするのよ。彼女、完璧主義だったから、その反動が来てるのかな」


「ええっ、あの藤本さんが?意外だね。でも、確かに恋愛に夢中になると周りが見えなくなる人っているよね」

同僚たちの心に、両子の二枚舌が小さな不信の種を植え付けてゆく。


美穂はその後も、指摘されるたびに「申し訳ありませんでした」「ごめん、助かったわ」と素直に反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないよう自らを律していた。

そんな美穂に対し、両子は常に「もう、気を付けてよね。まあ、私がフォローしてあげるから」と姉御肌のような寛容な態度を崩さない。

だが、その微笑みの仮面の下では、人の不幸を待ち望むどす黒い渦が、今か今かと牙を剥く瞬間を伺っていた。


「もっと、もっと大きなミスをしてよ。取り返しのつかないような、みんなが失望するような致命的なポカを。そうすれば、あの人の隣に相応しいのは私だって、健一さんも気づいてくれるはずだから……」


両子の内側で渦巻く悪意は、もはや彼女自身にも制御できないほど、昏く深い闇へと変質し始めていた。


---


##~綻びの種と、無垢なる暴露~


東京都心のオフィス街に、午後の柔らかな日差しが差し込む社員食堂。

賑わう人混みの中、両子の足が不意に止まったのは、出口付近で見かけた「あの二人」の親密な空気のせいだった。


「健一さん、今朝、ゴミを出す場所を間違えてたわよ?別の曜日のネットのところに置こうとしてたでしょ」

美穂が少し呆れたような、それでいて深い慈しみを湛えた「苦笑」を健一に向ける。

「え、嘘、そうだっけ?ごめん、まだルールに慣れてなくて……。明日からは気を付けるからさ、赦して」

健一が頭をかきながら、屈託のない笑顔で美穂に応える。


その、あまりにも当たり前のように交わされる「家庭」の会話。


「……ッ!」

両子の心臓を、鋭い針で刺されたような衝撃が貫いた。

今の言葉で、二人が既に同じ屋根の下で、生活の全てを共有している――「同棲」という、後戻りできない領域に踏み込んでいることが明白になったからである。


それからというもの、両子の日常は二人の「あら」を探すための偵察へと変貌した。

完璧で隙がないはずの美穂が、時折、健一に対して私生活上の些細な不備を、恋人同士の甘えを含ませて指摘している場面。

それを目撃するたび、両子の内側ではどす黒い情念が鎌首をもたげ、冷徹な計算が脳内を駆け巡る。


そんなある日、昼下がりの休憩スペースで、運命は両子に絶好の機会を与えた。

「お疲れ様。美穂さん、ちょっといいかな?」

両子は極上の、誰の警戒も解いてしまうような柔らかな微笑を浮かべて、隣の席を確保した。

「あ、両子さん。お疲れ様」


「ねえ、美穂さんって健一さんと一緒に住んでるのよね?噂で聞いたんだけど、本当だったんだ」

「うん。まあ、そうなの。照れくさいんだけどね」

美穂は少し頬を染めながら、しかし隠しきれない幸福をその瞳に宿して頷いた。


両子は待ってましたとばかりに、共感と心配を絶妙に混ぜ合わせた「探り」の言葉を滑り込ませる。

「それで、時々だけど、美穂さんが健一さんに何か注意してるところを見かけるけど……健一さんって、実は結構だらしなかったりするの?ほら、外であんなにしっかり出来てる人が、私生活では抜けてることってよく聞くから、大変なんじゃないかなって思って」


美穂はふふっと小さく吹き出した。

「どうかなぁ。ちょくちょく抜けちゃってるところはあるけど、そのたびに注意はして、直すようにはしてくれてるわ。まあ、時々それを忘れて、またやらかしちゃうことがあるけど……。でも、それは私も同じだから、あんまり強くは文句言えないわね」


「ふーん。例えば、靴下脱ぎっぱなしにするとか?」

両子が揶揄うように笑うと、美穂は楽しげに首を振った。

「それはないかな。あ、お皿を洗ってくれることはあるんだけど、その時に洗剤を使い過ぎだって、その場で注意したことはあるかな。だってお皿が泡だらけで、流すのも大変だし、もったいないでしょ?」


「あはは!でも、沢山使った方が油汚れって落ちやすくない?だから健一さんは悪くないと思う、うん。きっと良かれと思ってやってくれてるのよ!因みに、アタシも沢山使うタイプよ。」

両子は明るく笑い飛ばしたが、その瞳の奥には冷徹なハンターの光が宿っていた。


「えー、そうかなぁ。そうかもしれないけど、限度ってものがあるでしょ」

二人は楽しげに笑い合った。


だが、美穂の耳に届いているのは「仲の良い同僚との無害な恋バナ」であり、両子の内側で蠢いているのは「獲物の喉元を食い破るための猛毒の調合」であった。


洗剤の使いすぎ、ゴミ出しの間違い、日常に転がる些細な「不備」。

美穂にとっては愛おしい恋人の欠片でしかないそれらが、両子の二枚舌を通せば、いかに「執拗で口うるさい女の支配」へと歪められるか。

両子は、美穂から聞き出した情報の断片を、健一の自尊心をズタズタに引き裂くための凶器へと変えるべく、その狡猾なシナリオを笑顔の裏側で完璧に練り上げていた。


微笑み合う二人の間に漂う、静かな、しかし確実な破滅の予感。

両子は、美穂が差し出した情報の「甘い蜜」を、一滴も零さぬよう魂の奥底へ溜め込んでいた。



---


##~甘い囁きと、毒を孕んだ懸念~


午後の日差しが西に傾き、オフィスビルの廊下には長い影が伸び始めていた。

仕事の合間の短い休憩時間、両子は渇きを覚えた喉を潤すべく、給湯室横の自動販売機コーナーへと足を運ぶ。


ガチャン、ゴトン……。

静かな空間に響く鈍い音。そこには、一人で缶珈琲を買っていた長谷川健一の背中があった。

両子の心臓が、微かに跳ねる。


彼女は、獲物を見つけた狩人のような鋭い光を瞬時に微笑みの仮面で隠すと、弾んだ声で声をかけた。

「あ、健一さん、お疲れ様です」


「お疲れ様です」

健一が振り返り、爽やかな笑みを返す。

その屈託のなさに、両子の内側で歪んだ独占欲が疼いた。


「もう、そんなにかしこまらないで下さいよ。アタシは美穂さんと同い年なんだし、健一さんの方が年上なんですから。敬語なんて抜きでいいですよ」

両子は茶目っ気たっぷりに笑い、距離を詰める。


「そう?えっと……重口さん、だよね。総務部の。顔を出したときに見かけてたから」

健一が記憶を辿るように言うと、両子は「両子でいいですよ」と畳み掛けた。

「私も、長谷川さんってこの会社には何人もいるから、健一さんって呼んでいいですか?実は総務部でも、みんな『健一さん』って呼んで認識してるんですよ」


「それもそうか。こういう時、珍しい苗字って得なのかもしれないね」

健一は可笑しそうに肩を揺らした。


会話が弾み始めた絶好のタイミングで、両子は本題へと鎌をかける。

「あ、そうだ。健一さんって、美穂さんと同居……同棲されてるんですよね?よく、美穂さんから惚気話を聞いてるから」


「うん。なんだ、美穂ちゃんって意外と惚気話とか恋バナとかしてるんだね。ちょっと照れるなあ」

嬉しそうに目尻を下げる健一。


だが、両子はその「幸福」を濁らせるための毒を、慎重に、しかし確実に滑り込ませた。

「えっと……、それもあるんだけど……最近多いのが、その、……ちょっと、言いにくいんだけど……」

両子はわざとらしく視線を泳がせ、言葉を濁した。


健一の表情に、僅かな不安がよぎる。

「え、何?何かあったの?」


「その……、健一さんの『愚痴』というか。ゴミ出しのやり方が不備だとか、洗い物で資源を無駄にしてるとか。そんな話をですね、彼女、時々零してるんですよ」

両子の声は、さも友人を心配する親切心に満ちていた。


「ああ、やっぱりか。美穂ちゃんからもよく注意されてるんだ。俺、京都への単身赴任で生活力はついたと思ったんだけどなあ。それまでが実家暮らしで人任せにしちゃってた癖が抜けてないのか、細かいところでやらかしちゃうんだよね」

健一は苦笑いを浮かべ、自嘲気味に呟いた。


両子はその「自覚」を逆手に取り、さらに揺さぶりをかける。

「そう、ですか。美穂さんは別に、悪く言ってるわけじゃないとは思うんだけど……。でも、ほら。美穂さんって、すごく几帳面で真面目じゃないですか。やっぱり、そういう『小さなだらしなさ』が、彼女にとっては気になって仕方ないみたいですよ?」


「そうだよね。彼女は本当にしっかり者で、生活力もある良い子だから。俺も甘えてばかりいないで、頼り切らないようにしないとなあ」

健一は反省するように頭をかいた。


「ふふ、頑張って下さい。でも……」

両子はそこで一度言葉を切り、健一の目を見据えて毒の最後の一滴を垂らした。

「毎日毎日、あんまりガミガミ言われると、流石に健一さんも嫌だと思いませんか?男の人って、家ではゆっくりしたいものですし」


健一は一瞬、言葉を失った。

「……いや、ガミガミと言われてるとまでは感じてはいないよ。ただ……」

彼は少し言い淀んだ後、冗談めかした口調で本音を漏らした。

「……ちょっと、細かいかなって思うところは、無きにしも非ず、かな」


その時、入り口から健一の上司が声を張り上げた。

「長谷川ー!そろそろ午後の外回り行くぞー!」


「はい、今行きます!……じゃあ、俺、行くから。またね」

健一は足早に去っていく。


その後ろ姿を見送りながら、両子の微笑みは獲物を追い詰めた猛獣のような邪悪な歪みへと変わった。

「……『ちょっと細かい』とは、思ってるんだ。ふーん……」


両子は、健一が漏らした小さな「不満」という名の綻びを、指先で弄ぶように噛み締めた。

その綻びを広げ、信頼の糸を一本ずつ断ち切る方法は、既に彼女の脳内で完璧に描き出されている。


ニヤリ。

両子は満足げな鼻鳴らしを一つ残すと、自動販売機の前から軽やかな足取りで立ち去っていった。


---

##~微笑の闖入者と、二枚舌の誘引~


東京都心のオフィスに漂う空気は、ここ数週間で目に見えて変質していた。

両子は、かつてないほどの高揚感を胸の奥で飼い慣らしながら、淡々と業務をこなす振りを続けている。

彼女が仕掛けたのは、嘘で塗り固めた虚構ではなく、本人の口から出た「微かな本音」を、悪意という名の拡大鏡で覗かせ、周囲に触れ回るという極めて質の悪い手法であった。


「健一さんと自動販売機で偶然一緒になったんだけど、美穂さんの細かさにちょっと参ってるみたいで、ぼやいてたのよね」


休憩スペースで、あるいは給湯室で、両子はさも同情を装いながら、同僚や後輩たちに毒を流し込む。

語られる内容は事実を元にしているがゆえに、たとえ本人の耳に入ったとしても否定しきれず、それが却って二人の間に「言いたいことが言えない」という沈黙の壁を築き上げていった。


表向きは、美穂も健一もプロとして滞りなく仕事をこなしている。

しかし、かつては周囲が羨むほど睦まじく連れ立っていた社員食堂でのランチは目に見えて減り、デスクで向かい合う二人の間には、澱のような沈黙が溜まり始めていた。


美穂は決して愚痴を口にせず、ただ静かに、凛として自らを律し続けている。

一方で、その完璧主義に包囲された健一は、徐々に同僚や先輩に対し「美穂ちゃんと一緒にいると、時々しんどくなることがあるんだ」と弱音を零し始めるようになった。

その噂を聞きつけるたび、両子はデスクの下で指先を絡ませ、勝利を確信するほほえみを仮面の下で深めていた。


---


そんなある日、嵐の前の静けさを切り裂くように、一人の派遣社員が総務部に配属された。

二口二子ふたくちにこと申します。二子とでも、二子ちゃんでも、ニコニコちゃんとでも、お好きなように呼んだって下さい」


黒いパンツスーツを隙なく着こなし、艶やかな黒髪を後頭部で端正な団子状に結ったその女性は、まさに大和美人と呼ぶに相応しい風貌をしていた。

京都出身だという彼女は、その名の通り常に絶やさぬ柔和な笑みを浮かべ、おっとりとした京言葉の響きを纏っている。


しかし、その穏やかな外見とは裏腹に、彼女の仕事ぶりは異次元の領域にあった。

初日に業務の概要を把握し、二日目にはほぼ完璧にこなし、三日目には早くも手持ち無沙汰と言わんばかりに先輩たちのサポートに回る。

その底知れぬ有能さは、総務部の面々を驚愕させるに十分なものだった。


そして、運命の巡り合わせか、二子が両子のサポートを担当する日がやって来た。

両子は、隣に座る二子の穏やかな横顔を盗み見ながら、狡猾な計算を巡らせる。

これほど有能で、かつ周囲からの好感度も高い新人。

彼女を自分の味方に引き入れ、自分の言葉を「裏付ける」ための装置として利用できれば、美穂を追い落とす計画は盤石なものとなるだろう。


「二子ちゃん、仕事早いね。本当に助かっちゃう。……あ、でも無理しなくていいからね?この部署、意外と人間関係で神経使うところがあるから。特に、あの人とか……」

両子は、親切な先輩の仮面を被り、二子の意識を美穂たちの「不仲」へと誘導しようと、甘く湿った声で語りかけた。


二子は、キーボードを叩く指を止めることなく、ただニコニコとした、何を考えているのか読み取れない深い微笑を湛えたまま、両子の言葉を静かに聞き届けていた。


両子にはまだ分からなかった。

その微笑みの奥に、どのような「真理」が隠されているのかを。


---


##~響き合う二枚舌と、京の微笑が暴く虚飾~


重口両子は、自分が張り巡らせた見えない糸が、狙い通りに獲物の首を絞めていく感触を愉しんでいた。

健一が自動販売機へ向かうルーティンを完璧に把握し、偶然を装っては彼の「微かな不満」を丁寧に汲み上げ、それを増幅させて美穂へと投げ返す。

逆に美穂に対しては、健一がいかに彼女の几帳面さを重荷に感じているかを「心配している友人」という体で囁き続ける。


「お互いのために、もっと歩み寄った方がいいよ」

表向きは聖母のような慈愛の言葉を投げかけながら、内心では二人の間に生じる小さな亀裂が、修復不可能な断層へと成長していく様子を眺め、ほくそ笑んでいた。


そんな工作を完璧に成し遂げたある日の夕刻、最後の休憩時間に両子が給湯室へと足を踏み入れると、そこには既に先客がいた。

先日配属されたばかりの派遣社員、二口二子である。

彼女は黒髪を凛と結い、おっとりとした笑みを湛えたまま、急須を揺らしていた。


「あ、両子さん、お疲れさんですー。緑茶飲まはります?ちょうど今、淹れたところなんです」

二子の柔らかな京言葉が、冷え切ったステンレスの空間にふわりと響く。


「うん、お願いね」

両子はいつものように、敵を作らない完璧な笑顔で応じた。


温かな湯気が立ち上る中、両子は手に入れたばかりの戦果を、さも憂いているかのように口にした。

「ねえ、知ってる?さっきの休憩時間、美穂さんから聞いたんだけど、健一さんと少し言い合っちゃったみたい。すぐに謝って仲直りしたらしいんだけど……なんだか、見ていてヒヤヒヤしちゃうわ」

両子の声には、深い懸念が込められているように聞こえた。


しかし、その言葉を聞いた瞬間、二子の微笑みの温度が僅かに変わる。


「それって、両子さんの計画通りやっちゅう事ですか?ほら、最近の若いもんが使うネットスラングって言うんかな、ありますやん?『計画通り、キリッ!』っていうやつ」


「……ッ!?」

二子の口から飛び出した、あまりにも唐突で、かつ図星を射抜くような言葉に、両子は息を呑んだ。

手に持とうとした湯呑みが、指先で微かに震える。


「な……何を言ってるの?なんでアタシの計画通りなのよ、心外だわ!」

両子は必死に平静を装い、驚きを声に乗せた。


しかし、二子は動じない。

そのおっとりとした糸のような目は、両子の仮面の下にある真実を正確に捉えていた。


「だって、自動販売機のところで、健一さんに美穂さんの悪口……あ、失礼、不満を吹き込んで、美穂さんには健一さんの愚痴を流し込んで。それを何度も繰り返しとるの、私、バッチリ見てましたよ。偶然通りかかっただけやけど。もしかして、両子さんも私と同族なんですか?お仲間やとしたら、嬉しいなあ♪」

二子は、まるでお菓子を分け合う子供のような無邪気さで、残酷な事実を突きつけた。


「なによ、同族って。それに、見てたって……ストーカーじゃないんだから」

両子の声が、焦燥から尖り始める。


だが、二子は楽しげに笑い声を上げた。

「見てましたよ、バッチリ。ほんで、私って苗字が『二口』やないですか。口が二つ。そやから、あっちで言う口と、こっちで言う口がちゃいますやろ?つまり、口が二つ。……ほら、完璧に同族でっしゃろ?」


「なによ、そのくだらない言葉遊び。全然面白くないわよ」

両子は吐き捨てるように言い、溜息をついた。


だが、その内側では警鐘が鳴り響いていた。

自分の巧妙な立ち回りを、この「おっとりした新人」が全て見抜いていたという事実に、背筋に冷たいものが走る。


「お茶、淹れましたで。まあ、ホッと一息つきましょ。そんなに肩肘張らんでも、私は誰にも言いはしませんて」

二子はニコニコと、しかし有無を言わせぬ圧力を持って湯呑みを差し出した。


両子は完全にペースを握られたことを悟り、不快感を隠せないままお茶を受け取る。

(この女、ただの派遣じゃない……)


図星を突かれた衝撃と、どこまで見られているか分からない不気味さ。

両子は、自分がこれまで築き上げてきた完璧な「操り人形の舞台」が、この二口二子という予測不能な観客によって、一瞬で崩れ去るかもしれないという強烈な予感に襲われていた。

彼女は、当面の間はあまり大きく立ち回らず、この「二口」の出方を警戒すべきだと、喉元まで出かかった次の毒を飲み込んだ。


---


##崩壊の足音と不敵な微笑


オフィス街の熱気が冷めやらぬ夕暮れ時、社内を激震させるニュースが駆け巡った。


「あの二人、別れたんだって……」


誰もが羨むお似合いのカップルとして、結婚すら確実視されていた長谷川健一と藤本美穂の破局。

それは、一人の女が密かに、そして執拗に蒔き続けた不信の種が、ついに健一の心を完全に蝕んだ結果であった。


健一は、両子の吹き込む「美穂が周囲に漏らしているとされる自分への不満」に、知らず知らずのうちに追い詰められていた。

「これ以上一緒にいても、息が詰まるんだ」

健一の方から美穂に告げられた別れの言葉は、疑心暗鬼の果てに絞り出された、苦渋の選択だった。


一方の美穂は、驚くほど淡々としていた。

彼女は数週間前から、二人の間に流れる空気が取り返しのつかないほど冷え切っていることを、その聡明さゆえに察知していたのである。


幸いにも、以前借りていたマンションはまだ空室のままであった。

彼女は流れるような手際で同居解消の手続きを進め、住み慣れた場所へと戻っていった。

周囲が「信じられない」と嘆く中、美穂だけはただ一人、失われた縁の静寂を静かに受け入れていた。


両子はこの結末に、内側で狂喜乱舞していた。

「お気の毒に……あんなに仲が良かったのに」

心配そうな顔を作り、健一や美穂に優しい言葉をかけながらも、彼女の心は勝利の美酒に酔い痴れていた。


しかし、ここで焦って健一に近づけば、狡猾な女だという正体が露見しかねない。

彼女はあくまで「誠実な同僚」として、健一の傷心が癒えるのをじっと待つことに決めた。


そんなある日の休憩時間。

両子が一人、給湯室で深い香りの珈琲を淹れようとしていると、あの女がやって来た。


「両子さん、お疲れ様ですー」

二口二子は、相変わらずニコニコとした、何を考えているのか読み取れない深い微笑を湛えていた。


「お疲れ様」

両子は素っ気なく返し、ドリップされる珈琲を見つめる。


二子もまた、慣れた手つきで自分の珈琲を淹れ始めた。

トクトクトク……。

静かな給湯室に、お湯が落ちる音だけが響く。


すると、二子が不意に、歌うような軽やかな声でとんでもない言葉を投げかけてきた。

「両子さんの狙い通りになりましたねー」


「え……?」

両子の手が、ピタリと止まる。


「だって、あの二人を別れさせたかったんでっしゃろ?まさに計画通りやないですか。いやぁ、縁切りの達人ですね、両子さんは」

二子は、まるでお天気のことを話すかのような無邪気さで、両子の魂の深淵に土足で踏み込んできた。


「ちょっと、縁起でもないこと言わないでよ。それにアタシ、別に何もしてないじゃない。二人が合わなかっただけよ」

両子は精一杯の虚勢を張り、刺すような視線を二子に向けた。


しかし、二子の微笑みは一向に崩れない。

それどころか、その瞳の奥には両子の正体を完全に楽しんでいるような、昏い悦びが宿っていた。

「だって、お得意の口二つで、上手いこと仲違いさせたやないですか。『別れさせ屋』として商売成り立つんやありません?才能ありまくりですわ」


二子は満足げに自分の珈琲を手に取ると、そのまま出口へと歩き出す。

「ほな、私はこれで。美味しいお茶菓子でも食べて、ゆっくりお祝いしはったらどうです?」

二子は最後にもう一度ニコリと笑い、さっさと給湯室から去っていった。


一人残された両子の耳の奥で、心臓の鼓動が激しく打ち鳴らされていた。

ドクン、ドクン……。


「なんなのよ、一体……。あの子、何者なの?」

自分の完璧な工作をこうも易々と、それも楽しそうに暴いていく二子の存在に、両子の内側でどす黒い殺意にも似た反感が渦巻く。


「……次はあの子を、孤立させてやろうかな」

苦虫を噛み潰したような顔をしながら、両子は冷めかけの珈琲を一気に飲み干した。

自分と同じ「二口」を持つ女への、新たな毒の調合が、彼女の脳内で静かに始まろうとしていた。


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##~凛烈な断ち切りと、忍び寄る京の監視者~


長谷川健一と藤本美穂の破局という、自身が仕組んだ「成果」を手に入れた重口両子だったが、その心は未だ晴れ渡ることはなかった。

給湯室で二口二子に突きつけられた「図星」の数々。

あのおっとりとした京言葉の裏に隠された、すべてを見通すような昏い眼光。


両子は焦燥に駆られ、二子の尻尾を掴もうと必死に粗探しを始めたが、二子のガードは鉄壁だった。

仕事は完璧、遅刻も欠勤もなく、人間関係も「ニコニコ」と如才なくこなす彼女は、攻撃する隙を一切見せない。


そんなある日、営業部の健一が事務連絡のために総務部を訪れた。

両子が手際よく対応を済ませると、健一は自然な足取りで美穂のデスクへと向かう。


「あ、長谷川さん。そちらの資料、修正しておきましたよ」

美穂は別れた後とは思えないほど穏やかな、それでいて澱みのない笑顔で健一と談笑を始めた。


「……ッ!」

その様子を離れた席から凝視していた両子の指先が、不自然に止まる。

(また、寄りが戻るっていうの……?)


胸の奥でドロリとした焦りが渦巻くが、両子は美穂の性格を熟知していた。

一度冷めた彼女の心は、決して二度と燃え上がることはない。

今はただ、大人の対応として職務を全うしているだけなのだと自分に言い聞かせ、両子は沸き立つ殺意を飲み込む。


やがて訪れた休み時間。

リフレッシュスペースには、両子を含む数名の女性社員と、美穂が顔を揃えていた。

両子は、美穂の「隙」を引き出そうと、周囲を巻き込むような親しげなトーンで声をかける。


「美穂さんって、本当に気持ちの切り替えが上手なのね。尊敬しちゃうわ。……アタシだったら、その、大好きだった人と別れた後は、暫くは仕事も手につかないくらい引きずっちゃうかも」

同情を装いながら、彼女の「薄情さ」を暗に批判するような、毒を含んだ囁き。


しかし、美穂は淹れたてのティーカップを静かに置き、淀みのない声で答えた。

「そう?私としては、一緒に暮らせばお互いの相容れない部分とか、相性の良し悪しも出てくるだろう事はわかってたし。結婚っていう話になる前に、この先一緒に暮らして行けるかどうかが見極められて、むしろ良かったと思ってるわ」


「……クールねえ、美穂さんは」「大人だわ。さすが」

周囲の女性社員たちから感心の声が上がる。両子の目論見とは裏腹に、美穂の評価はさらに高まっていく。


「それに、私たちがそこまでの信頼関係を築けなかったというだけの話だからね。どっちかが悪いという話じゃないって思ってる。それに……」

美穂は何かを言いかけ、ふと視線を落として言葉を飲み込んだ。


その微かな沈黙を破る明るい声。

「お疲れさんですー。今日の休憩時間は、えらい賑やかやないですかー。あ、クッキー一枚貰いますー」

二子は迷いなく卓上のクッキーを手に取ると、幸せそうに頬張り始めた。


ポリッ、ポリポリ……。


呑気な咀嚼音と共に現れたのは、二口二子だった。

彼女はいつもの黒い団子髪にニコニコとした笑みを湛え、皆の輪の中に滑り込んでくる。

「「「あ、二子ちゃんお疲れ様」」」


「お疲れ様……」

両子の背筋に、嫌な汗が伝う。

この女が来ると、必ず空気が「歪む」。


「そんで、女子トークの内容はなんやったんですか?コイバナですか?それとも、誰かさんの面白い噂話ですか?」

二子はクッキーを飲み込むと、首を傾げて無邪気に尋ねた。


「まあ、似たようなものかな」

美穂が穏やかに笑って応じる。

その光景は、どこからどう見ても平和なオフィスの日常そのものだった。


しかし。

両子だけは、二子の微笑みの奥にある「蛇」のような舌が、今か今かと自分を、あるいはこの場を抉り取る準備をしているのではないかと、心臓が痛いほど脈打つのを感じていた。


(また何か言い出すんじゃないの?健一さんの件、ここで暴露されたら……!)

両子は、手に持った紙コップがミシリと音を立てるほど強く握りしめ、二子の唇の動きを一分一秒たりとも逃すまいと、死に物狂いの警戒を強めていた。


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##仮面の下の安らぎと、闇に揺れる二つの影


両子は二子という得体の知れない存在への警戒心を解けぬまま、それでも何とか一日の業務を平穏に終えることができた。

しかし、胸の奥に溜まった澱のようなモヤモヤとした思いは、定時を過ぎても一向に消えてはくれない。


「……何か、美味しいものでも食べて帰ろう」

彼女は自分を甘やかすようにそう呟くと、一人暮らしを始めてから足繁く通うようになった、駅裏の小さなお気に入りのパスタ屋へと向かった。


カランカラン……。

ドアベルの音が、疲れた心に心地よく響く。

庶民的で落ち着いた雰囲気の店内で、両子は迷わず大好きな「クリームスープスパゲッティ」と「ツナサラダ」を注文した。


それは彼女にとって、幼少期の記憶と分かちがたく結びついた、特別な献立であった。

子供の頃、母が出してくれたレトルトのスープスパゲッティに、何気なく加えたツナ缶。

その意外な美味しさに衝撃を受けた両子は、家族で行ったレストランのメニューにその組み合わせを見つけて以来、すっかりこの味の虜になってしまったのだ。


嬉しいことがあった日も、今日のように心がささくれ立った日も、彼女は決まってこの味を求めてきた。

学生時代はバイト代で自分へのご褒美として食べ、そして就職を機に親元を離れたこの東京で、運良くこの味を提供してくれる店を見つけた時、彼女は自分の「居場所」を手に入れたのだと確信した。


モグモグ……。

濃厚なクリームスープがアルデンテの麺に絡み、口の中に優しい温もりが広がる。

ツナサラダのシャキシャキとした食感が、重たくなりがちなスープの味を引き締めてくれる。


「……やっぱり、これだわ」

両子はこの時ばかりは「二枚舌」の仮面を脱ぎ捨て、ただ一人の空腹な女性として、もそもそと、しかし確かな幸福を噛み締めるように食事を平らげた。


店を出ると、夜の東京は冷たい風が吹き抜けていた。

自宅のマンションへ向かって歩きながら、両子は今日一日の出来事を反芻する。


美穂と健一が別れたことについては、自分が望んだ通りの結末であり、一点の曇りもなく「成功」であったはずだ。

彼らが別れたのは、あくまで彼ら自身の相性の問題であり、自分が少し背中を押してやったに過ぎない。

そう自分に言い聞かせるが、どうしてもあの二子の言葉と笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。


「……二子のあの言い方、やっぱり引っかかるわ。アタシのこと、どこまで知ってるっていうの?まるで全部見透かされているみたいで……」


両子は思わず自分の肩を抱き、身震いした。

あの底知れない微笑み、そして自分を「同類」と呼んだ不敵な態度。

あれは単なる派遣社員の戯言にしては、あまりにも鋭く、毒に満ちていた。


やがて到着したマンションの1階にある自室。

カチャッ、ピーッ……。

オートロックを解除し、玄関のドアを閉めると、ようやく外界の視線から解放された安堵感が広がった。


両子は手早くシャワーを浴び、熱い湯で一日の汚れと不安を洗い流す。

シャー……。

浴室に響く水の音だけが、彼女の孤独を肯定してくれるようだった。


風呂上がり、濡れた髪をドライヤーの温風で乾かしながら、彼女は温かい紅茶を一口啜る。

ふと、静まり返った部屋の中で、二子が冗談めかして言っていた言葉が蘇った。


『私って二口、口が二つですやん』


鏡に映る自分の顔を見つめ、両子は小さく鼻で笑った。

「口が二つあったら、それこそ人間じゃないじゃない……ただの変な言葉遊びよ」


そう自分に言い聞かせるように呟いてから、彼女は急速に押し寄せてきた眠気に身を任せることにした。

明かりを消し、静寂に包まれたベッドの中に潜り込む。


明日の仕事のこと、健一のこと、そして二子のこと。

渦巻く思考は次第に輪郭を失い、両子は深い眠りの底へと沈んでいった。

闇の中で彼女が最後にした呼吸は、どこか怯えているようにも、あるいは更なる悪意を夢見ているようにも見えた。


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##華やぐ金曜の予感とパンの香り


待ちに待った金曜日、いわゆる「華金」の空気が、東京都心のオフィスビルを朝から包み込んでいた。

週末を控えた開放感からか、フロアのあちこちでいつもより少しだけ弾んだ声が響き、社員たちの足取りも心なしか軽い。

そんな浮き足立った社内に、今日は小さな、しかし確かな変化が訪れることになっていた。


両子の勤める会社には社食と呼べるスペースこそあるものの、それは設備も品数も簡素な、最低限の休憩所に過ぎない。

そのため、昼休みには大半の社員が外の飲食店へ繰り出すのが常であった。

だが以前から、雨の日や多忙な時期に手軽に、かつコンビニ飯よりは温かみのあるものを食べたいという要望が強く、会社側は試行錯誤を続けていた。

その「試み」の第一弾として、今日、社食フロアに移動式の出張パン屋がやって来ることになっていたのである。


両子はこの告知を以前から知ってはいたものの、彼女にとって昼食といえば、近所の喫茶店や洋食屋で大好きなパスタを啜ること。

パンという選択肢にはさして興味を示しておらず、出勤してフロアの賑わいを見るまで、そのこと自体をすっかり失念していたほどだった。


「今日は社食のパンにする?」「種類も豊富らしいよ」

総務部のあちこちから聞こえてくる会話を聞き流しながら、両子が自分のデスクに腰を下ろすと、背後から音もなくあの女が忍び寄ってきた。


「お早う御座いますー。今日は社食がリニューアルオープンみたいなもんで、みんな朝から楽しみにしてはりますね」

二口二子は、今日も完璧に整えられた団子髪に、ニコニコとした穏やかな笑みを湛えていた。


「大げさよ。たかがパン屋が来るだけでしょ?」

両子は気のない返事をしながら、PCの電源を入れる。


ピッ、ウィィィィィン……。


起動音が静かに響く中、二子が首を傾げて問いかけてきた。

「両子さんは、興味ないんですか?限定のパンとかもあるみたいですけど」


「アタシはパスタが好きなの。パンはそこまでじゃないからね。嫌いじゃないけど、わざわざ並んでまで食べたいっていう特別感はないわよ」

両子は素っ気なく答える。

それは彼女の本音であり、同時に二子に対する防衛本能でもあった。


「そうなんですか?せっかく両子さんと一緒に行こう思たのに、残念やわあ」

二子はおっとりとした口調で言い、僅かに肩を落とす振りをしてみせた。


「なんでアタシを誘うのよ。他の人と行けばいいじゃない」

突き放すような両子の言葉に、二子はふふっと小さく吹き出すと、不意に身を乗り出し、耳元で毒のように甘い声を囁いた。

「ほな……両子さんは、今日こそ健一さんを誘わはるんですか?」


ドクンッ……!

両子の心臓が、跳ねるように脈打った。


表情に出さないよう必死に平静を装いながらも、その瞳には動揺が隠しきれず、刺すような視線を二子に向けた。

「な……何を馬鹿なこと言ってるの。なんでここで健一さんが出てくるのよ。誘わないから。ほら、仕事始めて」


両子は吐き捨てるように言って、二子を軽くあしらった。

二子は「へぇ、さいですかぁ」とだけ言い残し、ニコニコと上機嫌な様子で自分のデスクへと戻っていく。


一人残された両子の指先が、キーボードの上で止まっていた。

口では否定したものの、美穂との破局から少し時間が経ち、健一の傷心も癒えつつある今。

週末の金曜日。そして、新しいパン屋の話題。


「……きっかけとしては、悪くないかもしれないわね」

二子の言動は癪に障るが、彼女が投げた言葉は、両子の内側に潜んでいた独占欲を強烈に刺激していた。

そろそろ自分からアクションを起こしても、不自然ではないのではないか。


デスクの窓越しに見える東京の空は、彼女の野心を煽るようにどこまでも高く、晴れ渡っていた。


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##過去からの視線と予期せぬ再会


ガヤガヤ、ザワザワ……。

昼休みを告げるチャイムと共に、社食スペースはかつてないほどの熱気に包まれていた。

普段は閑散としているフロアに漂うのは、香ばしい小麦の香りと甘いバターの匂い。


両子は二子にああは言ったものの、やはり健一の動向が気になり、様子を見に行くことに決めた。

すると、それを待っていたかのように、二子が背後から音もなく忍び寄ってくる。


「ほな、一緒に行きましょうよ。私もパン、楽しみにしてたんですよー」

二子は相変わらずのニコニコ顔で、両子の拒絶を許さない空気感を纏っている。


別段断る理由も見当たらず、両子は勝手についてこさせることにして、喧騒の渦中へと足を踏み入れた。

そこには、色とりどりの総菜パンや菓子パンが山のように積まれ、数軒のパン屋から派遣されたスタッフたちが、戦場のような忙しさで注文を捌いている。


その中でも、一際長く、異様な熱気を帯びた列があった。

見れば、そこには血気盛んな男性社員たちが押し寄せており、その最後尾には、お目当ての長谷川健一の姿があった。

両子の口角が、無意識に僅かに上がる。


彼女は流れるような動作で健一の真後ろに陣取った。

二子はその更に後ろで、獲物を観察する猫のような目でニヤニヤと様子を伺っている。


「健一さん、こんにちは。今日はやっぱり、パンですか?」

両子は極上の、そして計算し尽くされた親しみやすい笑顔で声をかけた。


「あ、両子さん、こんにちは。まあ、どんなものか試しに見てみたかったからね。両子さんは?パスタ派じゃなかった?」

健一が振り返り、爽やかに笑う。

「今日もパスタの店に行こうかと思ったけど、やっぱりちょっと気になっちゃって。それにしても、この列だけ凄く長いですね」


「そうだね。ここが一番人気のメニューがあるってことだと思って並んでみたけど、焼きそばパンとか、男が好きそうな定番メニューがこの列なんじゃないかな?」

二人は楽しげに談笑を続ける。


両子は背後の二子を意識しつつも、健一が端正な顔立ちの二子に特別な興味を示していないことに、密かな安堵と勝利の確信を抱いていた。


やがて健一の順番が回ってくる。

「お待たせしました!」

威勢のいい声に迎えられ、健一が手にしたのは、意外にも「健康メニュー」と銘打たれた、野菜サンドと卵サンドの包みだった。


「なるほど、健康志向のメニューがここにあったのか。来月の健康診断に向けて、みんな意識してたのかもね。それじゃあね、両子さん」

健一は満足げに笑うと、そのまま食堂の席へと向かっていった。


いよいよ両子の番が回ってくる。


「次の方、どうぞ!」

明るく、事務的な声。

しかし、両子がカウンター越しにその人物の顔を見た瞬間、時が止まった。


白の三角巾を深く被り、真っ白なエプロンを身につけた、小柄で黒髪の童顔な女性。

どこか見覚えのある、その面影。

記憶の底に沈んでいた名前が、不意に浮上して両子の喉を焼いた。


「……え?もしかして、大学で一年後輩だった、美喜ちゃん?西村美喜ちゃんよね?」

両子は驚きに目を見開いた。

美喜と呼ばれた女性は、両子の顔を正面から見据えた。


その瞬間。

先程まで営業スマイルを振りまいていた彼女の顔から、一切の感情が消失した。


「……よく覚えてましたね、両子先輩」

美喜の冷徹な一言が、熱気に満ちたフロアでそこだけ氷点下になったかのように響く。


無表情。

いや、それは深い軽蔑と拒絶が凝縮された、静かなる「怒り」の表情だった。


「あんれまあ。これはまた、えらいことになりそうやわぁ……」

最後尾でその一部始終を凝視していた二子が、面白くて仕方がないと言わんばかりの声を漏らす。


華やかな金曜日の昼下がり。

焼きたてパンの香りが満ちる中で、両子がかつて「二枚舌」で踏みにじってきた過去の残滓が、いま、牙を剥いて彼女の前に立ち塞がったのである。


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##封印された記憶と微笑みの裏側


西村美喜は、一瞬だけ幽霊でも見たかのように表情を強張らせたが、流石はプロというべきか、即座に形ばかりの営業スマイルをその幼い顔に張り付かせた。

「……失礼いたしました。いらっしゃいませ」


「美喜ちゃん、パン屋で働いてたんだね、驚いちゃった。あ、アタシも健一さんと同じ野菜サンドと卵サンドをお願い」

両子は、再会の驚きを楽しみながら、かつての「後輩」に親しげに注文を投げる。


「はい、畏まりました。540円になります」

美喜の手際よい動作で、サンドイッチが紙袋に収められる。


カサッ、カササッ。

両子がスマートフォンをQRコードにかざし、決済の電子音が響く。

ピッ――。


「それにしても、本当に久しぶりよね。最後に会ったのは大学生の頃だったから……もう3年か4年くらい振りじゃない?相変わらず可愛くて、全然変わらないわね」

両子は、かつての上下関係を誇示するかのような余裕の微笑みを浮かべた。


だが、美喜の返答は極めて短く、冷ややかだった。

「……そうですね」


両子はその温度差に気づかぬふりをして、さらに踏み込んだ。

「ダンスサークルで一緒だったよね。卒業した後、サークルのみんなと連絡取ったりしてるの?ほら、部長だったあの人とか……」


その瞬間、美喜の顔から完全に「色」が消えた。

握りしめたトングが微かに震え、彼女の瞳の奥に、言葉にできないほど深い闇が過る。


「……連絡先、誰も知りませんから。……あ、すみません。後ろが詰まっていますので、横へ移動をお願いします」

美喜は無理やり作った笑顔で、しかし明確な拒絶を込めて両子を促した。


そこへ、後ろに並んでいた二子が、鈴を転がすような声で会話に割り込んできた。

「積もる話は、休み時間にしはったらどうです?そん時に連絡先、交換しはったらええですやん。縁は大事にせなあきまへんえ、両子さん」


二子のニコニコとした提案に、両子も「そうね」と頷く。

「美喜ちゃん、今日は何時までここにいるの?休憩時間が合うなら、後でゆっくり話しましょうよ。連絡先も交換したいし」


「……あ、はい。……適当な時に」

美喜の曖昧な返事を、両子は「合意」と受け取った。


「ほな、決まりですね。両子さんは、はよ健一さんのところへ行きはったら?私にサンドイッチ買わせてくださいな」


「ああ、ごめん、つかえてたわね。それじゃあ、美喜ちゃん、また後で!」

両子は軽やかに手を振り、健一が待つテーブルへと歩き出した。


その背中に、近くの席に座る男性社員たちの騒がしい声が届く。

「なあ、あの小柄な子、めっちゃ可愛くないか?童顔でタイプだわ」

「名札に西村って書いてあったよな。あの子、俺、本気で狙っちゃおうかなあ」

「ガハハ!」


そんな会話を耳にしながら、両子は微かな優越感と共に、学生時代も美喜がその愛嬌で男たちの注目を集めていたことを思い出していた。

だが、今の彼女にとって美喜は、健一との距離を縮めるための単なる「懐かしい話題」の一つに過ぎなかった。


一方、カウンターでは二子が注文を済ませていた。

「ほな、野菜サンドと卵サンドの小さいサイズの奴、お願いしますね」


「はい、畏まりました。380円です」

美喜は事務的に対応するが、二子の視線が自分を真っ直ぐに射抜いていることに気づき、微かな違和感を覚える。


「……美喜さん、やったね」

二子が不意に、周囲には聞こえないほど低い、しかし鋭い声で囁いた。

「ほんで……再開したこの機会に、直接復讐しようとか、考えてはりますのん?」


「えっ……!?」

美喜は驚愕に目を見開いた。


二子はニコニコと、相変わらず穏やかな表情のまま続けた。

「その顔、さっきもしてはりましたから。多分、そういう『仲』なんやろうなあって思うたんです。向こうさんは恨まれるような事したん、綺麗さっぱり忘れてしもてはるようですけど」


「な、何を……」


「わだかまりがあるんやったら、直接言うだけ言うたほうがすっきりしますえ。……ほな、有難うさんです」

二子は満足げにサンドイッチの袋を受け取ると、京言葉特有の柔らかな響きを残して、優雅な足取りで食堂を出ていった。


一人取り残された美喜は、去りゆく二子の背中と、健一の隣で親しげに笑う両子の姿を交互に見つめた。

「……あの人、一体何者なの……?」

美喜の震える呟きは、パンの焼ける香りと喧騒の中に、虚しく消えていった。


かつて奪われた尊厳、踏みにじられた想い。

忘れ去られたはずの「毒」が、金曜日の昼下がり、再び静かに血管を駆け巡り始めていた。


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##甘い蜜の終焉と突きつけられた断絶


昼食時、健一の隣を確保することに成功した両子は、美喜が大学時代の「可愛い後輩」であったという話題を肴に、彼との親密な時間を存分に愉しんだ。

健一も「へえ、そんな縁があるんだね。世間は狭いなあ」と笑い、二人の距離は一気に縮まったかのように見えた。


両子は健一と楽しい昼食を共に出来た事で、午後の業務中も足取りは軽かった。


そんな中、午後の小休憩に、二口二子が再び音もなく近づいてきた。

「両子さん、美喜さんは私らの退社時間とおんなじ頃に帰らはるみたいですよ?その時に、ゆっくり連絡先交換しはったらどないです?」


二子のニコニコとした提案に、両子は不審げに眉を寄せる。

「なんで二子ちゃんがそんなこと知ってるのよ。美喜ちゃんに直接聞いたの?」


「まさかぁ。パン屋さんは、総務に必要書類を出してから帰らはる手はずになってますやん。まあ、部長と美穂さんの担当やさかい、両子さんは知らはらへんかったんでしょうけど」

二子はおっとりと笑う。


両子は、健一を飲みに誘うのは来週に延期し、今日は美喜から「過去のサークル仲間」の情報を聞き出すことを優先することに決めた。

それが、健一へのさらなるアプローチの「材料」になると確信していたからだ。


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キーンコーン、カーンコーン。

そうして、終業を告げるチャイムが鳴り響き、華やいだ空気がオフィスを包む。

そこへ、パン屋のスタッフたちが、予定通り書類の提出に総務部へと現れた。


挨拶を終え、彼らがフロアを去ろうとしたその時、両子が鋭い声をかけた。

「美喜ちゃん、ちょっといいかな?」


美喜は足を止め、一瞬だけ背中を強張らせたが、ゆっくりと振り返った。

二人は自動販売機のある、少し開けたスペースへと移動した。


「昼間はお疲れ様。来週から本格的にうちで営業するみたいね。ふふ、これからよろしく。あ、そうだ、連絡先交換しようよ。」

両子は勝利を確信したような明るい笑顔で、最新型のスマートフォンを差し出した。


だが、美喜は動かない。

それどころか、その瞳には凍てつくような冷徹な光が宿っていた。


「……両子さんは、今でもサークルの人たちと、連絡を取っているんですか?」

唐突な美喜の問いに、両子は「え?」と目を瞬かせる。

「まあ、ほとんど連絡取らなくなって疎遠にはなってるけど……連絡先はまだ残ってるわよ。みんな忙しいし、卒業しちゃうと自然とね」

両子は「大人の世渡り」を説くかのように、軽やかに笑った。


しかし、美喜の反応は、両子の想像を絶するものだった。

「そうですか。……私は、連絡先をスマートフォンに入れてませんけどね」


「そうなの?もう学生時代の連絡先は整理しちゃったってこと?思い切りがいいわねえ」

両子が余裕を崩さずに返した、その瞬間だった。


「……学生時代に『消した』んです。必要なくなったから」


「え……?」

美喜の低い、地を這うような声。


彼女は、それまでの形ばかりの表情をかなぐり捨て、剥き出しの憎悪を込めて両子を正面から睨みつけた。

「あんたが、そうさせたんでしょうが」


ドクンッ!

両子の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

美喜の瞳から溢れ出すのは、悲しみではなく、数年間の時を経てもなお色褪せることのない、純粋で鋭利な「怒り」だった。


「あんたがあっちこっちで言いふらした嘘のせいで、私の居場所はなくなった。サークルの人達も、信じてた部長も、私の言葉なんて一つも聞かずに背中を向けた。……あの日、私がどんな気持ちで全員の連絡先を消したか、あんた、一ミリでも考えたことあるの?」


静まり返った自動販売機の前で、美喜の鋭い告発が、両子の「完璧な日常」に決定的な亀裂を入れた。


忘れていた。

両子にとっては「上手く立ち回った記憶」でしかなかったその出来事が、一人の女性の人生をどれほど深く抉っていたことを突きつける。


目の前の美喜は、もはや可愛らしい後輩などではなかった。

自らの二枚舌が生み出した、呪いの化身であった。


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##~忘却の傲慢と、泥濘から咲いた不屈の徒花~


自動販売機が発する低い唸りだけが、静まり返った通路に響いている。


両子は信じられないという表情で目を見開き、乾いた喉から声を絞り出した。

「え……?アタシ、嘘なんて、そんな……」


心当たりがないわけではない。

だが、両子にとってそれは「上手く立ち回って場を収めた」記憶でしかなかった。


しかし、目の前に立つ美喜の瞳に宿る、氷のように冷たく、それでいて業火のように激しい怒りが、彼女の言葉を遮る。

「確かに、厳密には嘘は言ってなかったかもしれませんね。でも、物事を悪い方に傾けて吹聴したり、私が孤立するように立ち振る舞って、それを成功させた。しかも両子さんは狡猾に、孤立した私の『唯一の味方』っぽく振る舞ったから。……当時の私は、まさか両子さんが諸悪の根源だなんて、微塵も気づけなかった」


「何よ、諸悪の根源って……。アタシはただ、サークルの雰囲気が悪くならないように……」

両子が反論しようと一歩踏み出すが、美喜の鋭い視線がそれを押し止める。


「……覚えてすらいないんですね。やった方はあっさり忘れて、やられた方は忘れたくても消えてくれない。こういうことを言うんだな、って今、実感してます」


美喜は深く、重い溜息をついた。

その音は、かつて彼女が流したであろう涙の数よりも重く、両子の胸に突き刺さる。


「両子さんが卒業した後、サークルで何があったかも知らなさそうですね」


「え……?何があったの?」

両子は動揺を隠せず、上擦った声で問い返した。


「両子さんたちの世代が、就職活動を理由に引退する少し前。私は理由も告げずにサークルを去って、地域のダンスサークルに移籍しました。そこで、死に物狂いで再起したんです。そして、両子さんたちが卒業した後、私は全国規模の学生大会で優勝して表彰されました。別の賞金がかかった大会でも優勝を重ねたんです」

美喜の言葉には、自らの力で泥濘を抜け出した者だけが持つ、不屈の矜持が宿っていた。


「そしたら、あろうことか『戻って来ないか?』とか言われて。私の実績を欲しがったんでしょうね、サークルから全国大会優勝者が出たって自慢する材料が欲しかったんでしょう。……賞金も目当てだったのかもしれない」

美喜は吐き捨てるように言い、唇を歪めた。


「だから、『孤立させて追い出しておいて、今更戻って来いとか、都合が良すぎる』と相手にしなかったんです。そうしたら、あいつら何て言ったと思います?『あれは両子が、美喜がこんなこと言ってたって聞いてたから。あんたも悪い所あったじゃない』って」


「……ッ!」


「それを聞いた瞬間、私は悟りました。その後は大学のサークルのメンバーから何度声をかけられても一切反応せず、誰とも一言も話さずに卒業しました。連絡先なんて、その日に全部消してやった」


両子は絶句し、もはや何も言い返せなかった。

自分の「ちょっとした演出」や「情報の整理」が、一人の人間の居場所を根こそぎ奪い、どれほどの絶縁を生んだのか。

その報いが、数年の時を経て、目の前で巨大な質量を持って具現化していた。


「良かったじゃないですか、サークルクラッシュ出来て。あ、クラッシュはしてないか。壊されたのは私だけだったから。でも、そのおかげで復讐心を燃やすように頑張ったおかげで、学生時代は実績を残せました。もっとも、だからといって両子さんの功績ではありませんし、感謝なんて微塵もしてませんけどね」


美喜は冷徹に、慈悲のかけらもない言葉を突きつける。


「仕事は仕事としてやりますし、今更、両子さんの過去の悪事を言いふらす気もありません。ただ、仕事以上のやり取りをする気は、死んでもありませんから」


それだけを言い残し、美喜は一度も振り返ることなく、足早に出口へと向かって行く。

カツカツと床を鳴らすその足音は、両子の「二枚舌」が築き上げた、脆く崩れやすい優越感を踏みにじるかのように響いていた。


両子はただ、その小さくも逞しい背中を、言葉を失ったまま見送るしかなかった。

自販機の唸り音が、やけに大きく、そして不気味に耳の奥へ入り込んでくる。


金曜日の退勤時間。

誰もいなくなった通路で、両子は自分自身が吐き出してきた「言葉」の重みに押し潰されそうな錯覚に陥っていた。


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##~黄昏の誘いと、銀髪の宣告者~


美喜の背中が遠ざかり、静まり返った自動販売機の前で、両子はただ立ち尽くしていた。

頭の中では、かつて自分が吐き出した無数の「言葉」が、鋭い刃となって自分自身に突き刺さっている。


忘れていた。

いや、都合よく塗り潰していた過去が、これほどまでに冷酷な形をして目の前に立ち塞がるとは。


両子は、重い足取りでとぼとぼと歩き出した。

その視線は虚空を彷徨い、都会の冷たいアスファルトだけが彼女の視界を埋めていく。


「振られましたねー。……えらい、派手に」


「ひっ……!」

不意に背後から響いた呑気な声に、両子は心臓が止まるかと思うほど驚いて振り返った。

そこに立っていたのは、ついさっきまで隣で仕事をしていたはずの二口二子だった。


しかし、その姿は、先刻までの無機質なビジネススーツではない。

漆黒の闇を纏ったかのような、端正な黒い着物。

その姿は、都会のオフィスビルの中ではあまりにも異質で、同時に恐ろしいほどに様になっていた。


「見てたの?……それに、なんでそんな格好なのよ?」

もはや怒る気力すら湧かなかず、両子は力なく問いかけた。


二子は、いつものようにニコニコとした、底の知れない笑みを深める。

「私の普段着ですよ。会社では窮屈なスーツやけど、こっちが本来の姿なんです。……ほな、傷心の両子さんに、ええ店紹介しますさかい。そこで晩御飯食べはったら宜しゅうおっせ」


二子は迷いのない足取りで、夕闇に沈み始めた街を歩き出す。

両子は、抗う気力も、どこへ行くのかを問い詰める意志も失い、ただ引き寄せられるように彼女の背中を追った。


東京の喧騒は、歩を進めるごとに遠のいていった。

やがて景色は、高層ビルの群れから、古びた石垣や鬱蒼と茂る木々に囲まれた、奇妙な静寂に包まれた一角へと移り変わる。

そこは、広大な芝生が広がる有名な観光寺院の敷地内であったが、観光客の気配は微塵もなく、街灯すら届かない。


「どこに行くのよ?こんなところに、レストランなんてあったっけ?」


両子が不安げに周囲を見渡すと、二子は立ち止まり、暗がりの向こうへと声をかけた。

「えらいこっちゃーん、お待たせー」


二子の視線の先。

そこには、一人の小さな女の子が立っていた。


月の光を反射したかのような、長く美しい銀髪。

吸い込まれそうなほどに大きな、真ん丸な瞳。

そして、その小さな唇は、特徴的な台形の形をして不思議な開き方をしていた。

黒いベレー帽を被り、ズボンタイプの黒いセーラー服を完璧に着こなしたその少女は、あまりにも浮世離れした存在感を放っている。


「え……?誰、その子……」


両子が目を丸くして言葉を失っていると。

それ以上に大きな、そして深い洞察を秘めた瞳をした銀髪の少女が、両子の魂の奥底を覗き込むように、真っ直ぐに言い放った。


「えらいこっちゃ」


その一言は、両子がこれまで隠し続けてきた全ての嘘と罪を、一瞬で暴いてしまうかのような、静かで重い響きを持って夜の空気へと溶けていった。


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##暴かれた正体と二つの口の嘲笑


「えらいこっちゃ。」


目の前に立つ銀髪の少女から、魂を射抜くような鋭い視線と共に放たれたその一言に、両子は息を呑んだ。

あまりにも唐突で、それでいて有無を言わせぬ重みを持った言葉。


両子が目を丸くして硬直していると、少女はどこか超越的な雰囲気を漂わせたまま、淡々と口を開いた。

「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や。」


「え……?あ、そうなの?面白いあだ名ね。えっと、アタシは両子よ、重口両子」

圧倒的な存在感に気圧されながらも、両子は条件反射的に「敵を作らない」ための自己紹介を返す。


しかし、少女の次の言葉が、両子の虚飾に満ちた平穏を容赦なく引き裂いた。

「両舌おねえやん、えらいこっちゃ。おねえやんの舌は、毒でベタベタしてて、えらいこっちゃ」


「え……?」

びしっと指を差され、両子は再び絶句した。


そのやり取りを横で見ていた二子が、堪えきれないといった様子で吹き出す。

「うふふふふ!うふふ、あはははは!」


「……ちょっと、二子ちゃん。今のやり取りの何がそんなに笑うほど面白いのよ。失礼じゃない」


両子が呆れ果てた声を出すと、夜の静寂を切り裂くような、しかし聞き慣れた「二子の声」がどこからか響き渡った。

「ほんま、名前の通りやん!ほんで、ウチと一緒で口2つ、ついとんのちゃうん?」


「……ッ!?」

両子の全身に、総毛立つような戦慄が走った。

驚いて目の前の二子を見やるが、彼女は美しく長い髪を夜風に靡かせ、口を結んで微笑んでいるだけだ。

唇は微動だにせず、ただ静かに両子を見つめている。


「え……?今、誰が喋ったの?二子ちゃんじゃないの?他に誰か隠れてるの!?」

両子がパニックに陥り周囲をキョロキョロと見渡すと、二子はゆっくりと首を横に振り、妖艶な笑みを深めた。


「ふふ、今の声は私ですよ。もっとも、『こっちの口』の方ですけどね」

二子が促すように背を向け、その豊かな黒髪を左右に掻き分けた。


ザワッ。


そこには、あるはずのないものが存在していた。

後頭部の皮膚を裂くようにして、赤々と濡れた巨大な「口」が、獲物を嘲笑うかのようにニヤリと吊り上がっていたのだ。


「ひぇ!?な、なによこれ!後頭部に口が生えてる……!嘘でしょ!?」

両子は腰を抜かしそうになりながら、必死に後退りした。


しかし、二子と後頭部の口は構うことなく、饒舌に喋り続ける。

「なんや、今の20代半ばの世代やと、『二口女』は知らはらへんのですかね。寂しいねえ、情緒がないわ」

『しゃーないわ、時代や時代。今時妖怪とか怪異は流行らんのやろうな。スマホゲームには妖怪が可愛らしい女子おなごの姿で出演しとるっちゅうのに。本物見せてやっとんのに、このリアクションは悲しいわぁ』

後ろの口は、まるで漫才でもしているかのように軽妙な調子で笑い、ケラケラと空気を震わせる。


「なんで妖怪がスマホゲームなんて知ってるのよ!?え、うそ、本当に二子ちゃんって……妖怪なの……?」


「見ての通りです。改めまして、私は二口女ふたくちおんなって言います。文字通り、口が2つある怪異です」

二子は再び正面を向き、ニコニコと穏やかな笑顔で自己紹介し直した。

そのあまりにも日常的な態度が、却って両子の恐怖を際立たせる。


「ふふ、両子さんと御揃いや言うた意味、これで分かりましたよね?私には口が2つ……あ、失礼。両子さんの場合、2つあるんは舌やけど。どちらにせよ、あっちで言うこととこっちで言うことが違うんは、一緒やないですか」

二子の瞳が、暗闇の中で獲物を狙う獣のように光る。

『えらいこっちゃんの言う通りや。あんさんの舌からは、真っ黒い毒が滴ってるがな。さあ、そんな汚れた舌に、今日はどんなご飯が似合うんやろねぇ……』


二口女の冷徹な宣告が、逃げ場のない夜の静寂にどこまでも深く溶け込んでいった。


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##業火の牛車と異界への精算


「えらいこっちゃ?何言ってるのよ、どういう意味……?」

両子が震える声で問い返しても、二口女も銀髪の少女も、ただ底知れぬ沈黙を保つばかりだった。


静寂が夜の闇をより深く濃く塗り替えていく中、えらいこっちゃ嬢が不意に、天を仰いで大きく息を吸い込んだ。


「えらいこっちゃーーー!!!」


静寂を切り裂く、けたたましい叫び声。

その音波は物理的な衝撃となって両子の鼓膜を震わせた。


「ひぇ!?ちょ、な、なんなのよ、いきなり!?近所迷惑じゃない!」

両子が身を縮めて怯えた、その時であった。


ゴォォォォォォォォ……!

遠くの闇の向こうから、凄まじい熱風を伴う轟音が近づいてくる。

夜の闇を紅蓮に染め上げながら、一行の目の前に颯爽と停車したのは、あまりにも奇怪な姿をした乗り物だった。


それは、片方の車輪だけが激しく燃え盛る平安時代の牛車のようでありながら、前方には最新鋭の運転席が接合された、まさに魔改造という言葉が相応しい「怪異車」であった。


そして、牛車の客席扉が自動で開く。

同時に運転席の窓がスライドし、中から一人の女性が顔を出した。

黒い着物を見事に着こなし、艶やかな長い黒髪を後ろで一つに束ね、えらいこっちゃ嬢とお揃いの黒いベレー帽を被った着物美人だ。


彼女は爽やかな笑顔で手を振った。

「えらいこっちゃん、二口さん、お待っとさんですー」


「方輪車ねえちゃん、御疲れちゃん!えらいこっちゃな両舌おねえやん1名!行き先は『摩訶不思議食堂』!」

えらいこっちゃ嬢が威勢よく宣言したかと思うと、両子の細い手首をガシリと掴んだ。


「ちょっと、いきなりなによ!?降ろして、離して!」

両子の抵抗など無意味と言わんばかりの怪力で、彼女は牛車の中へと強引に押し込まれた。


ドサッ!


「あいたたた……。何すんのよ!」

両子が豪華な刺繍の施された座席の上を転がると、えらいこっちゃ嬢がぴょんっと軽やかに飛び乗ってくる。


「方輪車さん、ほな宜しゅうおたの申しますー」

二口女が優雅な仕草で乗り込むと、扉が音もなく閉ざされた。


脱出不可能となった空間で両子がじたばたと叫ぼうとした、その時。

天井の隅から、雪のように白く、異様に長い腕がニューっと伸びてきた。

その手の先には、「御勘定」と墨書きされた古い札がぶら下げられている。


「ひぇ!?なにこれ!?う、腕!?お化け屋敷じゃないんだから!」

腰を抜かす両子を見て、二口女がクスクスと肩を揺らした。


「ふふふ、御勘定って書いてありますやん。怖がらんでも大丈夫ですよ」


「お、お勘定って……お金を払えってこと?こんな状況で?」

両子が恐る恐る札を手に取って裏返すと、そこには見慣れた、しかしこの場にはあまりにも不釣り合いな「QRコード」が印字されていた。


「嘘でしょ……電子決済出来るの?さっきはスマホゲームがどうとか言ってたし、怪異も電子化してるってこと?」

パニックで思考が麻痺しかけながらも、両子は条件反射的にスマートフォンを翳した。


ピッ――「毎度ありー」

軽快な電子音が鳴り響くと、白い腕は満足げにニューっと天井裏へと引っ込んでいった。


「毎度ー。ほな、出発しまっせー」

運転席から方輪車の凛とした声が響く。


ゴォォォォォォォォッ!

牛車は物理法則を無視した加速で夜の闇を滑り出し、両子はただ激しい揺れの中で、自分がどこへ運ばれていくのかも分からぬまま、言葉を失って座り込んでいるしかなかった。

窓の外を流れる景色は、いつの間にか東京の摩天楼から、深い霧の立ち込める未知の領域へと変貌していた。


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##摩訶不思議食堂の静寂と地蔵店長の慈眼


摩訶不思議な空間を、次元を裂くような速さで走り続けた牛車が、不意にその速度を落とした。

キィィィィィ。

車輪の炎が静かに揺らめき、一行の目の前に現れたのは、夜の帳に浮かび上がるように建つ、端正な木造の建物であった。

その佇まいは古風でありながら、どこか新しさを感じさせる不思議な光を放っている。


牛車の客席扉が、まるで見えない手に導かれるようにスッと開いた。

えらいこっちゃ嬢が、猫のような軽やかさでぴょんっと地面に飛び降り、両子に向けて手招きをする。


両子は未だに震えが止まらない足取りで、恐る恐る異界の土を踏みしめた。

彼女が降りるのを待っていたかのように、牛車の扉が重厚な音を立てて閉まる。


「え……二子ちゃんは降りないの?」

両子が不安げに車内を振り返ると、二口女は艶やかな黒髪を揺らし、ニコニコとした満面の笑顔で手を振った。

「私は、女鬼ちゃんとこに行きますさかい。ほな、晩御飯楽しんでおくれやす」


「毎度ありー。ほな、良い夕餉をー」

方輪車もまた、運転席から清々しい笑顔を向け、窓を閉めて再び業火を噴き上げた。


ゴォォォォォォォォッ!

猛烈な突風を残し、怪異車は夜の深淵へと颯爽と走り去っていく。


「何だったのよ。それに何よ、じょきって……。私をここに連れてきておきながら、自分は一人でジョッキでビールでも飲みに行くってこと?」


両子は一人取り残された心細さを毒づくことで紛らわそうとしたが、ふと顔を上げた瞬間に言葉を失った。

建物の軒先には、古色蒼然とした看板が掲げられており、そこには力強い文字で「摩訶不思議食堂」と記されていた。


「えらいこっちゃな両舌おねえやん御一名!カウンター席へご案内!」

えらいこっちゃ嬢が、有無を言わせぬ勢いで店の扉を勢いよく開け放つ。


ガラガラッ!


木の温もりと、どこか懐かしい出汁の香りが両子の鼻腔をくすぐった。

彼女は訳も分からぬまま、えらいこっちゃ嬢に背中を押されるようにして、磨き上げられた一枚板のカウンター席へと座らされた。

用は済んだと言わんばかりに、えらいこっちゃ嬢は「えらいこっちゃ」と一言残して、奥の暖簾の向こうへと消えていく。


「摩訶不思議食堂って……。見たところ、ごく普通の和風な食堂みたいだけど」

両子は、都会の喧騒とは無縁の、あまりにも静謐な店内に戸惑い、落ち着きなく周囲を見渡した。


その時である。

カウンターの奥から、音もなく、ぬぅっと一人の人影が現れた。

驚いて視線を上げた両子の目に飛び込んできたのは、驚くべき容貌であった。

そこにいたのは、道端で見守るお地蔵様そのものとしか思えない、限りなく穏やかで慈愛に満ちた笑顔を湛えた地蔵菩薩であった。


「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。御客様、ようこそ、いらっしゃいまし」

お地蔵さんは、柔和な表情を崩さぬまま、胸の前で静かに合掌し、深く丁寧にお辞儀をした。


「私はこの店の店長をさせて頂いております。皆さんは、地蔵店長と呼んで下さいます」


その声は、聞いているだけで心の棘が抜けていくような、深く温かな響きを持っていた。

都会の荒波の中で、常に「二枚舌」という鎧を纏って戦い続けてきた両子は、そのあまりにも純粋な善意を前にして、思わず毒気を抜かれてしまう。


「は、はあ……。アタシは重口両子です」


両子は戸惑いながらも、いつもの計算された笑顔ではなく、どこか心許ない、素の自分に近い表情で挨拶を返した。

地蔵店長の透き通った瞳は、彼女がこれまで吐き出してきた無数の言葉の裏側、その深淵に沈む本心を静かに見据えているようだった。


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##魂を癒やす至高の献立と異形の料理人


地蔵店長の慈悲深い眼差しに射すくめられ、両子が言葉を失っていたその時。

いつの間にか、黒いベレー帽はそのままに、黒い作務衣に白い割烹着を凛々しく着用したえらいこっちゃ嬢が、音もなくカウンター席へと歩み寄ってきた。

彼女の手には、古びているが手入れの行き届いた、和紙のような手触りの御品書きが握られている。

えらいこっちゃ嬢は無造作に冊子を差し出し、両子の目の前に置いた。


両子は困惑しながらもそれを受け取り、ゆっくりとページを開く。

その瞬間、彼女の瞳は驚愕に見開かれた。

そこには、彼女がこの世で最も愛し、そして今日この瞬間に何よりも欲していた料理の名が記されている。


「クリームスープスパゲッティとツナサラダのセット……」


それは、両子にとって単なる料理ではなかった。

嬉しい記念日には喜びを分かち合い、今日のように美喜から明確な拒絶を突きつけられ、心が土砂降りの雨に打たれているような日には、優しく寄り添ってくれる「魔法のメニュー」だったのだ。


「これ、アタシの大好物で、今日ちょうど食べたいと思ってたメニューだ……。不思議、なんで分かったのかしら。……それじゃあ、これお願い」


両子は吸い込まれるように、えらいこっちゃ嬢に御品書きを返した。

美喜との決別で乾き切っていた彼女の心に、微かな期待の灯がともる。


えらいこっちゃ嬢は、御品書きを受け取るやいなや、厨房の奥に向かって朗々とした声を張り上げながら、厨房へ戻っていく。

「えらいこっちゃなパスタセット1丁!猫子さんの絶品クリームスープスパゲッティ!蛙仙人さんの絶品ツナサラダ!えらいこっちゃなコンビネーション!」

威勢の良い注文が、静かな店内に心地よく響き渡る。


「猫子さんに、蛙仙人……?」

聞き慣れない、しかしどこか幻想的な響きを持つ名前に惹かれ、両子はカウンター越しに身を乗り出して、暖簾の隙間から厨房の中を覗き込んだ。


「……ッ!」

そこで繰り広げられていたのは、両子の常識を根底から覆す、驚天動地の光景であった。


一人は、鮮やかな紅い着物に真っ白な割烹着を纏った、黒髪の女性料理人であった。

彼女が被っている三角巾からは、ぴょこんと可愛らしい三角形の猫耳が突き出している。

その人――否、猫の女性料理人である「猫子」は、鼻歌混じりに軽やかなステップを踏みながら、大きな鍋でパスタの茹で加減を鋭く見極めていた。


「フフフーン、フフフーン♪」

しなやかな手つきでクリームスープをかき混ぜるその姿は、優雅な舞を見ているかのようであり、時折動く猫耳が、その穏やかな顔立ちに不思議な魅力を添えている。


そして、そのすぐ傍らで包丁を振るうもう一人の料理人は、緑色の肌を持つ、直立した蛙の姿をしていた。

緑の作務衣に白い割烹着を凛と着こなしたその老料理人は、名を「蛙仙人」という。

横一直線の瞳孔を持つ穏やかな目は、慈しみを持って野菜たちを見つめている。


トントントントン、トントントン。


蛙仙人は、吸盤のある器用な指先でトマトやキュウリを鮮やかな手捌きで切り分け、瑞々しいサラダを盛り付けていく。

仕上げにツナを高く、美しく盛り付けるその動作には、長年の修練を感じさせる無駄のない美しさが宿っていた。


「猫と蛙……?嘘でしょ、どういう組み合わせよ、一体……」

両子はあまりにも現実離れした光景に、思考が完全に停止してしまった。

パニックと、空腹と、そして美喜に言われた言葉の重みが混ざり合い、彼女は椅子から崩れ落ちるようにして、ドサッと背もたれに深くもたれかかった。


ギシッ。


椅子の軋む音が、静かな店内に小さく響く。

目の前で調理されているのは、間違いなく自分の「魂の味」であるはずなのに、それを作っているのは異界の住人たち。

両子はただ、信じられないものを見るような目で、活気あふれる厨房を呆然と眺め続けることしかできなかった。


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##浄化の雫と絶品パスタの共演


厨房から漂い始めたのは、五感を優しく愛撫するような、芳醇で温かなクリームの香りであった。

その香りを吸い込んだ瞬間、両子の胃袋が、まるで長い眠りから覚めたかのように激しく主張を始める。


やがて、紅い着物を翻した猫子が、出来立てのクリームスープスパゲッティと、銀色に輝くフォークとスプーンを乗せた御盆を恭しく運んできた。

続いて、割烹着姿のえらいこっちゃ嬢が、瑞々しい輝きを放つツナサラダと箸を添えて現れる。

二人は申し合わせたような流れる動作で、一切の音を立てることなく、両子の目の前へと究極の一膳を並べ置いた。


「ほな、ごゆっくりー。心ゆくまで味わっておくれやす」

猫子は、細めた目をさらに優しく崩して微笑むと、軽やかな足取りで厨房の奥へと戻っていく。


両子の目の前には、彼女が何よりも渇望していた「大好物」が、芸術品のような美しさで鎮座していた。

パスタの熱気が、彼女の冷え切った頬を優しく温める。

心躍る瞬間に、両子は我慢できずにフォークへと手を伸ばそうとした。


しかし、強烈な視線を感じて指先が止まる。

ふと顔を上げると、そこにはえらいこっちゃ嬢が、微動だにせず、まん丸な瞳で両子を、じーーっと見つめ続けていた。

彼女は無言のまま、小さな手を合わせて「合意」を促すような合掌のポーズを取っている。


「……えっと、頂きます」

両子が戸惑いながらも手を合わせ、深々と頭を下げて感謝の言葉を口にすると、えらいこっちゃ嬢は満足げに一つだけ深く頷き、翻るようにして厨房へと消えていった。


「頂きますをしろって事なのね。……厳しいんだから」

両子は小さく独りごちてから、今度こそ銀のフォークを手に取り、輝く麺を絡め始めた。

格式高いこの食堂の空気を乱さぬよう、音を立てないように細心の注意を払いながら、一口目を運ぶ。


つるり。


「……ッ!?」

口に入れた瞬間、両子の意識は弾けた。


もちもちとした官能的な食感の生パスタに、濃厚なクリームスープがこれ以上ない密度で絡みつく。

それでいて後味は驚くほど軽やかで、しつこさは微塵も感じられない。


「なにこれ、滅茶苦茶美味しい!いつもの店も美味しいけど、それを遥かに凌駕する味があったなんて……!」

両子の頬は、文字通り「ほっこり」と赤らみ、幸せの余韻に包まれる。


続いて、スプーンでスープを掬い、一滴も零さぬよう慎重に口へと運んだ。

それはもはやパスタの引き立て役などではなく、それ単体で完成された究極の料理であった。

野菜や魚介の旨味が凝縮されたスープが、喉を通り、五臓六腑に染み渡るたびに、美喜に冷たく拒絶された心の傷が、柔らかな光で癒やされていくのを感じた。


ほっこり。

思わず漏れた溜息は、今日一日の重苦しい澱を全て吐き出したかのように清々しい。


さらに箸に持ち替え、ツナサラダへと手を伸ばす。

野菜は今さっきまで大地の息吹を吸っていたかのように瑞々しく、シャキシャキとした音を奏でる。

ツナもまた、自家製であろうか、市販のものとは比較にならないほどの濃厚な旨味が詰まっていた。

添えられた器に入った胡麻ドレッシングを回しかければ、そのほんのりとした甘みが全体の味を完璧に纏め上げる。


シャキッ、じゅわぁ。

「美味しい、本当に美味しいわ……」


両子は、自分が「二枚舌」で他人を傷つけ、孤立させてきた罪悪感も、二口女に見透かされた恐怖も、今は全て忘れてしまえる。

ただ目の前にある「ほっこり飯」に心を預け、彼女の魂は純粋な食の喜びに満たされていた。


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##断罪の甘味と因果の扉


生パスタの余韻と濃厚なクリームの温もりが、冷え切っていたはずの両子の胃袋を優しく満たしていく。

かつてないほどの多幸感に包まれ、両子は自らの「二枚舌」が招いた職場の騒動や、美喜に投げつけられた氷のような言葉さえも、一時的に記憶の彼方へと追い遣っていた。


空になった皿を見つめ、満足げな溜息を漏らす彼女の耳元に、またしてもあの無機質で、どこか全てを悟り切ったような視線が刺さる。

傍らに立つえらいこっちゃ嬢は、微動だにせず、ただ真っ直ぐに、両子の魂の深淵を暴くかのようにじーっと見つめ続けていた。


その視線の重さに耐えかね、両子は慌てて背筋を伸ばし、感謝を形にする。

「えっと……本当に、本当に美味しかったです。御馳走様でした」

両子が合掌し、深く頭を下げて挨拶を終えると、えらいこっちゃ嬢は小さく一度だけ頷き、その姿を厨房の奥へと消した。


しかし、一息つく暇もなく、彼女は再び現れる。

その手には、古びた和紙の質感を持つ御品書きが握られていた。

「食後の楽しみ、えらいこっちゃなデザート」


差し出された冊子を受け取り、両子がページを開くと、そこには奇妙な名前のメニューが並んでいた。

「デザート……両舌しっとりケーキ?なによ、『りょうぜつ』って。どういう意味かしら、この名前」


両子が首をかしげていると、えらいこっちゃ嬢が感情を排した声で、二枚のカードを提示するように言い放った。

「デザートは、タン塩2枚か、両舌しっとりケーキか、えらいこっちゃな二択」


「ちょっと、タン塩って、それ焼肉じゃない。いくらなんでも、デザートに焼肉を食べるなんてあり得ないわ。……だったら、こっちのケーキにして頂戴。しっとりしてるっていうなら、珈琲にも合いそうだし」

両子は、消去法で選んだはずのその選択が、自らのごうを具現化するものだとは夢にも思わず、御品書きを返した。


えらいこっちゃ嬢はそれを受け取ると、音もなく厨房へ戻り、間を置かずに一皿のデザートと珈琲を運んできた。

目の前に置かれたその皿を視界に捉えた瞬間、両子の表情は劇的に強張った。


「……ッ、何、これ……」


白い磁器の上に鎮座していたのは、精巧な細工が施された、人間の「舌」を模した二枚のケーキだった。

瑞々しい質感、表面の細かな隆起、そして生々しいピンク色の色彩。

それはあまりにもリアルで、まるで今しがた誰かの口から切り取られたかのような、異様な迫力を持ってそこに横たわっていた。


「ちょっと、冗談はやめてよ!本当に舌の形をしてるじゃない。しかも、どうして2枚もあるのよ。ビジュアル的に、ちょっと引くわ……食べ物に見えないわよ」


両子が眉を顰め、フォークを握る手を震わせていると。

えらいこっちゃ嬢は、台形の口を微かに動かし、地獄の底から響くような声で言い放った。


「えらいこっちゃな共食い。両舌おねえやんの口そのもの。お似合い過ぎて、えらいこっちゃ」


「共食い……?何を、馬鹿なこと……」

両子が驚愕に目を見開いた、その瞬間。


ガラガラッ!


静まり返った店内に、引き戸が乱暴に開かれる衝撃的な音が鳴り響いた。

夜の冷たい大気が激しく流れ込み、カウンターの上の珈琲から立ち上る湯気を無慈悲に散らしていく。

暖簾が激しく踊り、背後に不穏な殺気にも似た気配が立ち込めた。


両子は、フォークを持ったまま、入り口の方を振り返った。

すると、心臓が警鐘を鳴らすように激しく打ち鳴らされる。


光と闇の境界線、暖簾の隙間から滑り込んできたのは、あまりにも美し過ぎる鬼であった。


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##黄金の鬼姫と因果を包む布


ガラガラッ。

静寂を切り裂いて開いた扉の向こう側から、夜の冷気と共に、この世のものとは思えないほどに眩烈な光を放つ存在が舞い込んできた。


両子は、その場に釘付けになった。

フォークを握った手は空中で止まり、瞬きをすることさえ忘れてその人物を凝視する。


そこに立っていたのは、女子高生くらいの若々しい年頃の少女であった。

しかし、その風貌はあまりにも異質で、それでいて完璧な美を体現している。


燃えるような金色の瞳。

頭の両側からは、漆黒の闇を削り出したかのような、鋭く美しい二本の鎌状の角が天に向かって伸びている。

背中まで届く金色の長い髪は、派手なシュシュで左側に寄せたサイドテールにまとめられ、今時の「ギャル」そのものの奔放さを感じさせる。

だが、その身に纏っているのは、黒地に金色の花々が豪華絢爛な刺繍であつらえられた、溜息が出るほどに美しい着物であった。


天真爛漫なギャルの軽やかさと、着物を完璧に着こなす凛とした美しさが、奇跡的なバランスで融合している。

超絶という言葉すら生温く感じるほどの美少女。

その凛としながらも底抜けに明るいオーラに、両子は毒気を抜かれ、ただただ見惚れるしかなかった。


女鬼じょきさん、いらっしゃいまし。お疲れ様です。準備は調うて御座います」

地蔵店長が、慈愛に満ちたお地蔵さんの笑顔で、静かに合掌してお辞儀をした。


「女鬼ねえちゃん、いらっしゃいの御疲れちゃん!えらいこっちゃなベストタイミング!」

えらいこっちゃ嬢も、短めの両腕をぶんぶんと風を切る勢いで振り回し、全身で歓迎の意を表す。


「おつー♪二口ねえさんから話聞いて来たよー♪」


女鬼と呼ばれた少女は、ひらひらと軽やかに手を振って応える。

その言葉遣いは現代のギャルそのものであったが、歩き出す所作の一つひとつには、驚くほど優雅で上品な気品が宿っていた。


彼女は流れるような動作でカウンター席までやって来ると、両子の隣に座り、手に持っていた小さな風呂敷包みをトントンとテーブルに置いた。

そして、両子の前に置かれた「舌の形をしたケーキ」を一瞥し、悪戯っぽく口角を上げる。


「えっと、今晩は……。高校生くらいかしら。ここのアルバイトの子?これからシフト?」

両子は、あまりの美しさに圧倒されながらも、なんとか営業用の笑顔を貼り付けて問いかけた。


「んー、あーしはここのアルバイトではないかな。両舌おねえちゃんは、今からデザートなんだねー。グッドタイミング♪」

女鬼はあっけらかんと答え、金色の瞳を細めて両子を見つめる。


「え?……えっと、女鬼ちゃんって呼ばれてたけど、えらいこっちゃんもアタシのことを『両舌おねえやん』とか、妙な呼び方をしてるわよね。どうして女鬼ちゃんまで……それに、二口おねえちゃんって、二子ちゃんのこと?あの子、二口女とか言う妖怪だって言ってたけど……女鬼ちゃんも、まさか妖怪なの?」


混乱が極まり、両子の言葉が溢れ出す。

口が二つある女、猫耳の料理人、喋る蛙、お地蔵さんの店長。

そして目の前にいる、角の生えた美少女。


「まあ、娑婆の価値観だと妖怪って言われても、そうなのかもね。あーしは『鬼』だし♪」

女鬼はそう言って、両子に向かってパチンと可愛らしくウインクをしてみせた。


ドクンッ!

そのあまりにも魅惑的な瞳の輝きに、両子の心臓が不自然なほど激しく脈打つ。


「口が二つくっついてる妖怪に、猫とか蛙とか、お地蔵さんとか……えらいこっちゃんはよくわからないけど、今度は鬼……?ここって、一体何なのよ……?」


完全に理解の範疇を超えた事態に、両子は頭を抱えそうになりながら、絞り出すように呟いた。

すると、女鬼は包み込むような優しさを湛えた笑みを浮かべ、諭すように言った。


「ま、そういう存在が楽しく集まる、ほっこりした食堂だと思ってくれたらいいさ。そんで、なんで『両舌』かって話だったよね」

女鬼の声が、僅かに真剣味を帯びる。

「それも、すぐにわかるよ。」


彼女はそう言いながら、カウンターに置いた風呂敷包みの結び目に、白く細い指先をかけた。


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##鏡面の断罪と刻まれた二枚舌の履歴


女鬼は、その白く細い指先で風呂敷の結び目をさらりと解いた。

絹の擦れる音が静かな店内に響き、中から現れたのは、重厚な装丁が施された一冊の折本であった。

その表紙には、古風でありながら鋭い筆致で「過去帳写し:重口両子」と記されている。


両子は、己の名が刻まれたその奇妙な書物を目にし、心臓が跳ね上がるのを感じた。

「え?なにこれ……なんでアタシの名前が書いてあるのよ?」


「これはね、両舌おねえちゃん。あんたのこれまでの行いや言動、隠してきた本音から吐き捨てた嘘まで、ありとあらゆる事が記録されてる『履歴書』みたいなもんよ」

女鬼は、トントンと小気味よい音を立てて過去帳の表紙を指で叩いた。

その仕草は軽やかであったが、金色の瞳には一切の冗談を許さない深淵な光が宿っている。


すると、いつの間にか厨房から戻っていたえらいこっちゃ嬢が、両子の目の前に大きな陶器の盃を置いた。

その傍らには、透き通った炭酸水が満たされた瓶が添えられている。


えらいこっちゃ嬢は炭酸水の瓶を女鬼へと手渡すと、女鬼は「ありがと♪」と弾んだ声で言い、えらいこっちゃ嬢のベレー帽の上から優しくその頭を撫でた。

えらいこっちゃ嬢は、嬉しさを爆発させるように両腕を激しく振り回し、喜びを全身で表現する。


女鬼は瓶を傾け、美しい所作で盃へと炭酸水を注いでいく。

トクトクトク……シュワァァッ。

弾ける泡の音が店内の静寂に心地よく染み渡る。


注ぎ終えると同時に、女鬼は「パチン」と小気味よく指を鳴らした。

その合図に呼応するように、盃に満ちた水面が激しく揺れ、やがて鏡のように滑らかな像を結び始める。


両子は、吸い込まれるように水面を覗き込み、その場で硬直した。

「これ、アタシ……?まだ子供の頃の、アタシだ」


水面に映し出されていたのは、懐かしい小学校の校庭であった。

幼い日の両子が、クラスメイトの3人組のグループと親しげに話をしていた。


しかし、その口から放たれる言葉は、あまりにも醜悪であった。

『ねえ、知ってる?さっきのあの子たち、あんたたちのこと「ダサい」って笑ってたわよ』

両子は、別のグループが実際に行った些細な出来事を、悪意を持って何倍にも膨らませ、不信の種を丁寧に植え付けていた。


場面は瞬時に切り替わる。


今度は、先ほど悪口の対象として利用した別の3人組の元へ、幼い両子が駆け寄っていく。

『あの子たち、あんたたちが居ないところで、こんなに酷いことを言ってた。私は違うって言ったんだけど……』

彼女は、双方のグループに全く異なる「誇張された真実」を吹き込み、自分だけは「真実を教えてくれる味方」としての地位を確立していく。


映像は容赦なく加速していった。

中学生になり、高校生になり。

成長と共に両子の「二枚舌」はより巧妙に、より冷酷に研ぎ澄まされていく。


友情を引き裂き、不和を愉しみ、孤立する誰かを嘲笑いながら、自分だけは常に安全な場所で微笑んでいる姿。

水面から漏れ聞こえてくる、自らの若かりし頃の狡猾な声。


「何よ、これ……。やめて、見せないで……」


両子はただ、震える声でそう呟くことしか出来なかった。

自分の人生を支えてきたはずの「要領の良さ」が、怪異の盃によって「両舌」という名の業として、残酷なまでに暴き立てられていたのである。


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##断罪の鏡面と葬られた悔恨


盃に注がれた炭酸水の水面が、パチパチと弾ける泡と共に激しく波打ち、不気味なほどの鮮明さで過去の光景を映し出していく。


「ちょ、ちょっと待って……何なのよこれ!?いったいどういうつもりなの!」


両子は震える手でカウンターを掴み、隣に座る女鬼を縋るような目で見つめたが、黄金の瞳を持つ鬼の少女は、もはや先程までの天真爛漫なギャルの顔をしていなかった。


「何、眼を逸らしてんのさ。何なのよって、みりゃわかるじゃん。これは全部、両舌おねえちゃんが、その『二枚の舌』で積み上げてきた、逃げようのない事実だってば」

女鬼の声は、夜の風のように冷たく、それでいて鋭い棘を含んでいた。


「心当たり、ありまくりっしょ?あんたが吐き出してきた『言葉』が、どれだけの毒になって誰かの未来を腐らせてきたか。ほら、一番見たくないはずの、あの頃の場面が来るよ」

女鬼が全く笑っていない眼で淡々と告げると、その細い指先で盃の底をトントンと弾いた。


水面が、鮮明な光と共に一気に大学時代のダンススタジオへと切り替わる。

そこに映っていたのは、一人の少女――西村美喜が、1回生としてダンスサークルに入部してきた瞬間の光景だった。

小柄で童顔、守ってあげたくなるような愛らしさを持ちながら、彼女のステップは誰よりも鋭く、情熱に満ちていた。


「美喜ちゃん、今のステップ凄かったよ!才能あるねぇ」

「ありがとうございます、両子先輩!追いつけるように頑張ります!」


当時の両子も、最初は美喜を「可愛い後輩」として可愛がっていた。

美喜は男子部員からは憧れの眼差しを向けられ、女子グループからもその人当たりの良さで瞬く間に受け入れられた。


しかし、両子が3回生、美喜が2回生になった頃、決定的な亀裂が走る。

次回の大きな大会。団体の部のレギュラー選考において、冷酷な現実が突きつけられた。

「今回のセンター及びレギュラーメンバーは……西村美喜。重口両子は、サブに回ってもらう」


実力主義の世界で、ついに美喜の才能が両子を追い抜いたのだ。

後輩にレギュラーを奪われ、サブという屈辱的な立場に追いやられた瞬間、両子の内側に溜まっていた澱のような嫉妬が、どす黒い炎となって燃え上がった。


(なんで……あんな小娘に……)


そこから、両子の「二枚舌」による狡猾な破壊工作が始まった。

彼女はまず、美喜の懐に深く入り込み、信頼を勝ち取ることから始めた。


「美喜ちゃん、あの子たちの踊り、どう思う?改善点とかあれば教えてほしいな。アタシが上手く伝えてあげるから」


美喜は、尊敬する先輩の言葉を信じ、真摯な気持ちで仲間への懸念や改善点を口にした。

だが、両子はその純粋な言葉をドロドロに煮詰め、悪意という調味料を加えて他のメンバーに吹き込んで回った。


「美喜ちゃんがね、『あなたのダンス、基礎ができてなくて見てられない、足手まといだ』って言ってたわよ……。アタシはそんなことないって庇ったんだけど、彼女、最近天狗になってるみたいで……」


さらに、美喜に対しては「もっと直接みんなにアドバイスしたほうが、みんなも喜ぶわよ」と唆した。

何も知らない美喜が発した熱心なアドバイスは、両子の事前の工作によって、「高慢なレギュラー様による見下した説教」として、メンバーの胸に突き刺さるように仕向けられていた。

両子の目論見は恐ろしいほど正確に的中し、スタジオの空気は日に日に重くなっていく。


そして、あの日。


練習中、一人の男子メンバー・健くんのステップが乱れた際、美喜がいつものように熱心に注意を施した。

「健さん、そこ、重心をもっと意識しないと……」


その瞬間、両子から「美喜がお前のことを裏で馬鹿にしていた」と何度も吹き込まれていた健が、ついに堪忍袋の緒を切らした。

「おい、ちょっと上手いからって、見下すような言い方すんじゃねえよ!お前、何様なんだよ!」


「えっ……?私、そんなつもりじゃ……」


「うるさい!両子さんからも聞いてるんだよ、お前が俺たちのこと、実力がない癖に図々しいって陰口言ってるのをな!」

激しい怒声が響き渡り、スタジオは静まり返る。


その時、両子はあざとく、聖母のような慈悲深い笑顔を貼り付けて二人の間に割って入った。

「まあまあ、二人とも落ち着いて!健くん、美喜ちゃんも悪気はないのよ。美喜ちゃんも、そんな言い方は角が立つわ。……ねえ、ここはアタシに免じて収めてくれる?」


善人ぶって場をなだめる両子。

だが、その心の内では、完璧に仕組まれた「和の破壊」の成功に、歓喜の声を上げていた。


この出来事が決定打となり、美喜とサークルとの亀裂は修復不可能なものとなった。

「アタシだけは味方だからね」と言い寄る両子の毒に侵され、美喜は誰を信じていいのか分からなくなり、その光り輝いていた瞳から次第に光が消えていった。


そうして、両子たちの世代が就職活動で引退する少し前。

美喜はただ一人、理由を告げず、思い出の詰まったスタジオから去っていった。

水面には、荷物をまとめて一人で出口へと向かう美喜の、折れそうなほど細い背中が映し出されている。

その肩は、孤独と悲しみで微かに震えていた。


当時の両子はその背中を、勝利の優越感に浸りながら見送っていたはずだった。

しかし今、摩訶不思議食堂のカウンターでその一部始終を突きつけられた両子は、全身の血が凍りついたかのように絶句し、ただ水面に映る、自分が壊してしまった少女の過去を、血の気の引いた顔で見つめ続けることしか出来なかった。


「えらいこっちゃ。両舌おねえやんの吐いた言葉が、一人の女の子の場所、全部奪うてしまいよった」


えらいこっちゃ嬢の、感情の欠落した声が、静寂の中で残酷なまでに響いた。


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##鏡面の断罪と鬼の咆哮


盃の底に満ちた炭酸水は、もはや単なる飲み物ではなかった。

そこには、重口両子が長年「器用に生きてきた証」として積み上げてきた、歪んだ勝利の記録が鮮明に映し出されていた。


かつて自分がダンスサークルで、言葉巧みに仲間を操り、西村美喜という一人の無垢な才能を孤立させ、追い詰めていく姿。

彼女が去った後、部室で一人、ほくそ笑んでいた自分の醜悪な横顔。

逃げ場のない真実を突きつけられ、両子の顔面からは急速に血の気が引いていき、紙のように真っ白な色へと変わっていった。


「これ……これが、アタシが美喜にした事……」


両子の唇が、ガタガタと小刻みに震え始める。

記憶の中では「仕方のない対立」や「場を収めるための調整」として美化されていた出来事が、客観的な映像として再生されることで、それが単なる陰湿な破壊工作であったことが暴かれていく。


そんな彼女に、隣に座る女鬼が、射抜くような冷ややかな視線を向けた。

「これってさー、娑婆でよく言う『サークルクラッシャー』ってやつ?ま、両舌おねえちゃんはクソガキ時代から、他人様の縁をクラッシュしまくってきたわけだけど。筋金入りのクラッシャーだよね」


女鬼の声は、どこまでも冷酷に、そして軽蔑を隠そうともせずに両子の鼓膜を打つ。

彼女はさらに身を乗り出し、黄金に輝く瞳で両子の瞳の奥を覗き込んだ。


「ねえ、なんでこんな事したん?ダンスの実力で返り咲いたら良かったじゃん。その方がよっぽど格好良いのにさ。なんでわざわざ、あんな汚い真似したの?」


「だって……だって、あの子には才能があって。アタシが、アタシが逆立ちしたってかなうわけなかったし。……だから……」

両子は絞り出すように本音を漏らした。

圧倒的な才能を前にした時、努力することよりも、その才能を泥に塗って引きずり下ろす方が、彼女にとっては容易かったのだ。


しかし、女鬼はその言い訳を許さない。

「だったら、せめて足を引っ張らずにいればよかったのに。なんであんな追い出し方したのさ?結局、自分が一番じゃないと気が済まない、ちっぽけなプライドのせいだよね?嫉妬しまくって気に入らないからって、嫌がらせしただけだよね?」


「それは……」

両子は口ごもる。


「それは、何?反論があるなら言ってみなよ。あんたの二枚ある舌のうち、どっちが本当のことを喋ってくれるのかな?」


女鬼の言葉のナイフが、次々と両子の虚飾を剥ぎ取っていく。

両子はもはや言葉を失い、喉を鳴らすことしか出来なかった。


「ほら、次が始まるよ。ちゃんとその目で観て、その耳で聞きな。自分がしでかした、汚らしくて愚か過ぎる『二枚舌』の罪ってやつをさ。……逃がさないよ」


女鬼が再び、指先でパチンと音を立てる。

盃の中では、大学を卒業した後の両子が、社会人になってもなお「二枚舌」を使い分け、同僚や友人たちの間をかき乱している新たな場面が始まろうとしていた。


「嫌……見たくない!もうやめて!」


両子は耐えきれず、咄嗟に顔を背けて、耳を塞ごうとした。

醜い自分を直視することへの恐怖が、彼女の理性を塗り潰していく。


しかし。


パシッ!!

耳を塞ごうとした彼女の左手を、女鬼の美しい指が強烈な力で掴み取った。


「な、なによ……放して!」


「何、眼を逸らして、耳を塞ごうとしてんの?あーし、言ったよね?その目で観て、その耳で聞けって」


女鬼の声が、一気に低く、地を這うような重圧を伴って響いた。

驚いた両子が、恐る恐る女鬼の顔を見上げると……そこには、もはや陽気なギャルの面影は微塵もなかった。


女鬼の額には怒りによって青筋が浮かび、美しくも恐ろしい大欣の瞳は、太陽のように力強く、殺気を含んだ光を放っている。

美麗なる唇の間からは、鋭く尖った鬼の牙が剥き出しになっていた。

それは、慈悲をかなぐり捨てた、本物の鬼が見せる「鬼の形相」そのものであった。


「己の罪から目を逸らして、耳を塞いで逃げてんじゃないよ!!」


空気が震え、店の柱が鳴動するほどの鬼の咆哮が、両子の全身を貫いた。

その凄まじい威圧感の前に、両子は叫ぶことすら忘れ、ただただ圧倒されるしかなかった。


本物の鬼に魂を掴まれた彼女は、もはや一分一秒たりとも逃げ出すことは叶わない。

両子は涙を流しながら、盃の中に映し出される自分の愚かで卑劣な過去を、ただひたすらに観て、聴き続けることしか出来ないでいた。


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##虚飾の果ての無間地獄と、鬼の冷笑


次に盃の水面に映し出されていたのは、あまりにも凄惨で、それでいてあまりにも無慈悲な「断絶」の記録であった。


長谷川健一に一目惚れしたその日から、両子が密かに、しかし執拗に張り巡らせてきた二枚舌の罠。

藤本美穂という、健一にとってかけがえのない存在を貶め、ありもしない不信の種を二人の間に植え付け、育み、ついにその絆を完膚なきまでに引き裂いた自分の姿。


破局を迎えた二人の背中が、重苦しい絶望を纏って離れていくその瞬間、盃の中で鮮明に躍動していた映像は、ふっと霧が晴れるように消え去った。

後に残されたのは、ただの、何の変哲もない透明な炭酸水。

シュワシュワと弾ける無機質な泡の音だけが、静まり返った店内に、まるで誰かの嘲笑のように冷たく響き渡る。


両子は、ガタガタと全身を震わせることしか出来なかった。


「あ……あぁ……」

奥歯がカチカチと音を立て、指先は氷のように冷たくなっている。

自分の内側に秘めていた醜悪な欲望が、これほどまでに客観的で、逃げ場のない「真実」として突きつけられる。


そんな彼女の心臓を、隣に座る女鬼の鋭利な言葉が、容赦なく抉り取る。

「そんで、次は誰と誰の縁を、どのグループとどのグループをクラッシュしていくつもりなんよ?会社で結婚間近のカップルを破局させてみる?それとも、今度はライバル企業同士を仲違いさせて、同士討ちでもさせてみるとか?妄想が捗りまくるよねー」


女鬼の口調は、弾ける炭酸のように軽やかでありながら、その実、底冷えするような軽蔑に満ちている。

彼女は黄金の瞳を細め、もはや人間として見ていないかのような冷ややかな視線を両子に浴びせ続けた。


「両舌おねえちゃんってさー、マジで縁結びの真逆しまくり、まさに『縁切りの達人』じゃん。死んだら縁切りの神様にでも転生出来るんじゃね?『死んだら縁切り女神に転生してた件について』とかさ、ライトノベルの題材になれるかもよ?結構なヒット作になるんじゃないかなー、最悪すぎて」


女鬼の口から飛び出した皮肉たっぷりの例え話に、カウンターの隅で見ていたえらいこっちゃ嬢が、重い溜息を吐き出した。


「えらいこっちゃー……。呆れて物も言えん、底が見えへん業の深さ。救い難いにも程があるレベルで、えらいこっちゃ」


えらいこっちゃ嬢の、感情を排した、しかし心底から蔑むような声。

それは物理的な衝撃となって両子の背中を打った。


「ねえ、いっそのこと別れさせ屋でも始めてみたら?依頼成功率百パーいけるんじゃね?あんたのその腐りきった舌さえあればさ」


「そんな……アタシ、アタシはただ……」


「そんな、って何?否定する材料なんてどこにあるわけ?」

女鬼の追及は、一分一秒の猶予も与えない。

「そもそもさー、なんでこんなことばっかしてんの?他人の縁とか大切な組織をボロボロに破綻させるのが、あんたの唯一の趣味ってこと?それでしか自分の存在を証明できないっての?」


「そ、そういうわけじゃ……アタシはただ、自分が上手く立ち回るために……」

両子は絞り出すように答えるが、その言葉は空虚に霧散する。

自分自身でも、なぜこれほどまでに破壊を繰り返してきたのか、その根源的な理由さえ見失っていた。


女鬼は大きな溜息をつきながら、肩をすくめて呆れ果てる。

「最早、自分がなんでこんな事してるのかさえわからなくなっちゃってんじゃん。ほんっと、たちが悪いったらありゃしないねー。無意識で毒を撒き散らすとか、存在自体が害悪でしかないよ」


「救い難い両舌おねえやん、えらいこっちゃ」

えらいこっちゃ嬢も、同じく救いようのないものを見るような冷めた溜息をつく。

二人の、そして店内に流れる重苦しいまでの否定的な空気に、両子は呼吸をすることさえ苦しくなっていた。


「両舌、二枚舌になり過ぎて、完全に己を見失っちゃってるし。マジで救い難いよねー、ドン引きするくらいに。あんたの本当の舌は、もうどれなのかもわかんないでしょ?」


女鬼の冷徹な視線が、両子の皮膚をチリチリと焼くような痛みを与える。

だが、どれほどその視線が痛くとも、両子は全く反論が出来なかった。


鏡のように自分を映し出す、何も映さなくなった水面。

ただ透明で、静かなその水面を、両子は絶望と共に、ただじっと見つめ続けることしか出来ずにいた。


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##深淵の鏡と逃げ場なき自省


静寂が支配する摩訶不思議食堂のカウンターで、両子は石化したように固まっていた。

眼前にある、かつて自分自身の唇であったはずの「二枚の舌」を模したケーキが、まるで彼女の罪を嘲笑うかのように鈍い光を放っている。

盃の炭酸水は、もはや何も映してはいない。

しかし、網膜には先ほどまで突きつけられていた、美喜や美穂、そして健一を絶望の淵へと叩き落とした自分の醜悪な姿が焼き付いて離れなかった。


隣に座る女鬼は、その黄金の瞳に怜悧な光を宿し、一切の妥協を許さない声でさらなる弾劾を突きつける。

「そんで、これだけの縁をぶった切ってきたわけだけど。両舌おねえちゃんは、これからどうやって償っていくわけ?あんたがこれまでやってきた事が、どれだけの人を傷つけたかって事くらい、今見た通りだから、嫌でもわかるよね?」


「それ、は……」

両子の喉が、ひりつくように乾いていた。


あんなに得意だったはずの、場を切り抜けるための弁明や、相手を煙に巻くための美辞麗句が、一言も出てこない。

二つの舌を持っているはずなのに、自分の心から出た「本当の言葉」を紡ぐための筋肉が、完全に麻痺してしまったかのようだった。


「他人様を傷つけるための言葉は、淀みなくスラスラと出てくるってのにさ。自分の口で、自分の意志で言わなくちゃいけない肝心な言葉は、一切出てこないんだねー。せっかく二枚も舌があるのに、宝の持ち腐れじゃん」


女鬼は、心底から呆れ果てたという風に鼻で笑った。

その屈辱に、両子の瞳から熱い涙が溢れ出す。


「ご、ごめん、なさい……」


震える肩を抱き、掠れた声でようやく絞り出した謝罪。

だが、その言葉すらも、鬼の少女の前では無力だった。


「あーしに言う事じゃねえし。それにさ、今ここでごめんなさいなんて言ったって、届けるべき人たちには一ミリも届かないっての。しかも、その『ごめんなさい』は、一体何のための謝罪なん?自分がこの状況から助かりたいから?怖い思いをしたくないから?傷つきたくないからっていう、単なる保身のための口先だけのごめんなさいって事でOK?」

女鬼の問いは、逃げ道を塞ぐ杭のように鋭く、深い。


「そ、そんなつもりは……!アタシ、本当に美喜ちゃんにも美穂さんにも、健一さんにも悪いと思ってるから。客観的に見せられて……自分が何を、どんなに恐ろしい事をしてきたのか、思い知ったから……!」

両子は、必死に自分の心の中に芽生えた良心をかき集め、訴えた。


「思い知ったから、なんなん?それに、客観的に観たから悪いと思ったって言うけどさ。そのうえで何が駄目だったのかとか、そもそも、なんで自分はこんな事をしちゃったのかっていう『根っこの部分』まで、ちゃんとわかって言ってんの?」


女鬼の追及は、止まることを知らない。

彼女はさらに身を乗り出し、鬼の力強さを秘めた眼差しで両子の魂を真っ直ぐに射抜いた。


「さっき、あーし聞いたよね?そもそも、なんでこんなことをやり始めたのかって。その始まり……あんたの人生のどこかで歪んでしまった、根本の原因を掘り起こして、誤魔化さずに真正面から観て、逃げずに全てを引き受けないと、真に反省したとは言えないし、この先、善き在り方に変わることなんて絶対にできないよ」


厳しく諭すようなその言葉は、両子の耳の奥で、重い鐘の音のように響き渡った。


「それ、は……アタシは……」

両子は、今までひた隠しにしてきた、自分自身の心の暗部へと視線を向けざるを得なかった。


他人を陥れることでしか、自分の価値を確認できなかった惨めな自己愛。

誰かが幸せになることが、自分の何かを奪われることのように感じてしまう病的な嫉妬心。

そして、その醜い自分を直視したくないがゆえに塗り重ねてきた、虚飾という名の「二枚舌」。


人生で初めて、両子は自分がこれまで決して見ようとしなかった、泥濘のような闇の部分を見つめようとし始めていた。

その闇の奥深く、まだ幼い頃の自分が、なぜあんな嘘を吐き始めたのか。

その最初の一歩、腐った根源の形を、彼女はおぼつかない足取りで探し始めようとしていた。


女鬼とえらいこっちゃ嬢は、そんな両子の横顔を、静かに、ただ静かに見つめ続けていた。


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##業の深淵と「両舌」の真実


始まりは、ほんの些細な、子供じみた独占欲に過ぎなかった。

仲の良い友達が、自分以外の誰かと楽しそうに笑っているのが許せなかった。


自分だけを見ていてほしい。

自分以上に仲の良い存在を作ってほしくない。

そんな歪んだ愛情から、両子は初めて小さな嘘を吐き、友人たちの間に亀裂を入れた。

それが面白いほど簡単に「成功」してしまったことが、彼女の人生を狂わせる分岐点となった。


一度味をしめてしまえば、後は坂道を転げ落ちるようにエスカレートしていった。

自分が気に入った男子と仲良くする女子がいれば、根も葉もない噂を流して仲を裂き、気に食わない相手がいれば、周囲を抱き込んで孤立させる。

それらが上手くいくたびに、両子の内側では「成功体験」としての歪んだ快感が積み重なっていった。


自分は安全な場所に身を置き、高みの見物を決め込みながら、他人の縁を文字通り滅茶苦茶に破壊していく。

狡猾に、そして徹底的に立ち回った結果、あの美喜の件に至るまで、両子の正体を見破る者は誰一人として現れなかった。


他者を孤立させることで、自分だけが絶対的な優位に立ちたいという、醜く身勝手な思い。

特定の人物を独占するためなら、相手の幸せなどどうなっても構わないという、底なしの我が儘。

そして、自分を脅かす才能を持つ美喜に対する、どす黒い憎悪。


両子の心に渦巻く闇を、女鬼は金色の瞳で見透かし、容赦のない言葉の刃を突き立てる。

「要するに両舌おねえちゃんってば、自分は一ミリも傷つかずに、全部自分の思い通りにしたかっただけなんだよね。ねえ、それってさ、昔の戦争で敵国を仲違いさせて、戦力も国力もボロボロになったところを一気に叩き潰して奪うっていう、えげつない策略と同じじゃん。両舌おねえちゃんって、見事にそれを口先だけで成し遂げた、才能溢れる軍師にでもなったつもりだったわけ?」


女鬼の言葉は、氷のように冷たく、それでいて火傷するほど熱い怒りを含んでいた。


「そんなこと、思ってない……」


「思ってようがいまいが、やってることはそれと同じなんよ。でもさ、勘違いしちゃいけないよ。結果としてあんたの思い通りになってきたかもしれないけど、それ、成功でも何でもないから。あーしらサイド、『こちら側』の世界から観たら、はっきり言って目も当てられない大失態で罪ある悪業でしかないし。ただ単に最悪な悪業を積み上げて、消えない罪悪の記録を自分の魂に刻みつけていっただけに過ぎないんだよ」


女鬼はカウンターを指先で弾き、震える両子の瞳を真っ直ぐに射抜いた。


「成功体験だとか何だとか、勝手に勘違いして酔いしれてたんだろうけどさ。本来なら『良縁』として結ばれていたかもしれない御縁を、あんたがその薄汚い舌でぶった切り続けた時点で大失敗なんだよ。縁っていう尊い概念にとって、あんたは害悪以外の何物でもない。両舌おねえちゃんの存在自体が、読んで字の如く『縁起悪い』の塊なんだよ。おわかり?」


「そんな、そんな言い方……」


両子の力ない反論を、女鬼は烈火のごとき勢いで一蹴した。


「じゃあ、他にどんな言い方して欲しいっての?二枚舌をフル回転させて、これだけの数の縁を踏みにじって、汚しまくって、挙句の果てにぶち壊し続けてきた分際で。自分だけは優しい言葉だけに囲まれて、ぬくぬくと生きさせて下さいとか、どんだけムシが良いこと言ってんの?マジであり得ないんだけど」


女鬼の怒りは増し、その背後には鬼の威圧感がどす黒く渦巻く。


「汚らしい二枚の舌。それを両方使いまくって、数多の縁を食いちぎって、和を乱すどころか跡形もなく破壊しまくってきたじゃんよ。だから、あんたは『両舌おねえちゃん』ってわけ。己の舌で、己の居場所も他人の未来も食い潰してきた、救いようのない存在。おわかり?」


両子はもはや、一言も言い返すことが出来なかった。

自分がこれまで正当化し、武器として使ってきた言葉の数々が、どれほど醜い業として積み上がっていたのか。

その重みに押し潰され、呼吸をすることさえ苦しくなる。


「アタシ……アタシは何てことを……」


後悔の念が、濁流のように胸の内に流れ込んでくる。

しかし、どれほど涙を流し、過去を悔やんだとしても、彼女が食いちぎってきた縁が元に戻ることはない。


静まり返った摩訶不思議食堂のカウンターで、両子は何も映さなくなった水面を見つめながら、ただ自らの愚かさに打ち震えることしか出来なかった。


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##覚醒する誠実さと地蔵の慈愛


両子は、自らが積み上げてきた傲慢で愚かな行為の数々をまざまざと見せつけられ、生まれて初めて己の魂の醜さに打ちひしがれていた。

これまで「要領よく立ち回っている」と信じて疑わなかった自負は、鬼の少女が突きつける冷徹な事実を前に、跡形もなく崩れ去っていく。


そんな彼女を、女鬼は射抜くような金色の瞳で見つめながら、さらに追い打ちをかけるように告げた。

「今までは全部上手く行ってたつもりかもしんないけどさ。あんたの周りには、美喜さんのように、あんたの本性に気付いて真っ向から敵意を向けてくれる人もいれば、気付いていながらあえて何も言わず、黙って距離を置く人もいたんじゃないの?」


「え……?」


両子の喉から、掠れた声が漏れる。

その言葉の意味を理解しようとする彼女に、女鬼は呆れたように大きな溜息をついて続けた。


「美喜さんみたいに分かりやすい敵意を向けてくれる人の方が、両舌おねえちゃんにとってはよっぽど有難いことなんだよ。だってさ、あんたの正体に気付いていながら黙って去っていく人たちは、親切に間違いを指摘してくれることなんて絶対に無いんだから。それはつまり、あんたに改善する機会を与えてくれないって事。そのまま気付かずに、一人で孤独な悪の道を全力で突っ走る事になっちゃうんだよ。それって、本当の地獄だよね」


その言葉を肯定するように、横にいたえらいこっちゃ嬢も、深く、長く、心底呆れ果てた溜息を吐き出した。

「えらいこっちゃ。そのまま止まらずに独りで突っ走りよる、えらいこっちゃな大迷惑。周りは堪ったもんやない、えらいこっちゃ」


「も、もうそんなこと絶対にしないから!今、ここでちゃんと自分の過ちに気付いたの。だから、今から全てを改善するわ!もう二度と変な噂を言いふらしたり、誰かの悪口を言って周囲をかき回したりしない!それで誰かの仲を裂こうなんて、これっぽっちも思わないから!」

両子は必死に訴えた。


しかし、その必死な叫びを、女鬼は冷ややかな失笑と共に一蹴する。

「はっ、口先だけなら何とでも言えるよね。それこそ、両舌おねえちゃんの十八番おはこなわけだしさ。誰がその言葉を信じるっての?」


「ほんとに、本当に約束する!今のアタシじゃ信じてもらえないかもしれないけれど……それでも、信じてもらえるように全力で悔い改めるから!」

両子の瞳からは、溢れるほどの涙が零れ落ちる。

それは保身のための涙ではなく、自らの過去への嫌悪と、変わりたいと願う切実な渇望であった。


「ふーん。で、具体的にどうやって?変わるって言ったって、どう証明するつもりなのさ?」


女鬼の容赦ない問いに、両子は一瞬だけ言葉を失い、口ごもってしまった。


「ほら、やっぱり。言葉だけで、中身が空っぽじゃん」


「そ、それは……その……アタシ、もう誰かを仲違いさせるようなことは絶対にしない。……それに、今までアタシの言葉で傷つけた人たち全員に謝るわ!美喜さんにも、美穂さんにも……そして。美穂さんと健一さんが破局してしまった本当の原因はアタシにあるんだってこと、嘘をつかずに正直に、職場のみんなに話すから!」


その告白は、社会人としての死を意味するかもしれない。

社内での居場所を失い、蔑まれ、軽蔑される未来。


女鬼は、その覚悟を試すように、より一層鋭い声を投げかけた。

「それで両舌おねえちゃんが、今度は自分が職場で孤立して、全員から責められるようになっても、後悔しないって言えるの?」


「……うん。今まで自分がやってきたことを考えれば、それは当然の報いだわ。……だから、全部、アタシが引き受けて受け入れる。逃げたりしない」

両子の答えは、震えながらも真っ直ぐな意志を宿していた。


その答えを聞いた瞬間、女鬼の険しかった表情が、ふっと春の陽射しのように和らいだ。

彼女は優しく微笑むと、静かに視線を上げ、カウンターの奥に佇む地蔵店長の方を見やる。

えらいこっちゃ嬢もまた、同時に地蔵店長を仰ぎ見た。

二人の、そして店内に流れる空気が、断罪の重圧から穏やかな期待へと変わっていくのを感じて、両子もおずおずとその視線を追った。


そこには、変わらぬ慈悲に満ちた、お地蔵さんのようなにこやかな笑顔を湛えた店長がいる。

彼は、己の罪を認め、泥濘の中から顔を上げようとする両子の姿を、どこまでも深い静寂の中で見守っていた。


やがて地蔵店長は、柔らかな動作でゆっくりと両手を合わせ、恭しく合掌する。

そして、一言の言葉も発さず、しかし全てを許し、再出発を祝福するかのように、深々と、静かにお辞儀をした。

その慈愛に満ちた所作は、両子の乾き切った魂に、一滴の清らかな水が染み渡るような安らぎをもたらしていった。


---


##十悪の報いと四つの口業


「両子さんは今、自らの眼で観て、自らの耳で聞くべき行いを目の当たりにされて、己の業と向き合われました。御自身の悪に気づき、確かな一歩を踏み出されたので御座います」

地蔵店長は、柔和な光を湛えたお地蔵さんのような笑顔で、静かに、しかし重みのある声で語りかけた。

「気付きは智慧の第一歩。ここからが、両子さん御自身が善き方を向き、善き道を歩まれるように変わっていく、大切な始まりの時節で御座います」


地蔵店長はそう言って、再び深く合掌してお辞儀をする。

その一挙手一投足には、迷える魂を救わんとする深い慈悲が宿っていた。

両子には、もはや反論する言葉も、自分を偽る仮面も残されていない。


「……はい」

ただ静かに、震える声で頷くことしか出来なかった。

頬を伝う涙は、彼女がこれまで吐き出してきた毒を洗い流す、浄化の雫のように見えた。


地蔵店長は、両子がその教えを真っ直ぐに受け止めようとしていることを確認し、穏やかな笑みを崩さぬまま、さらなる仏の教えを授け始めた。

「えらいこっちゃんと女鬼さんは、『両舌』と、両子さんを呼ばれてきましたが、両舌は仏教由来の言葉で御座います」


「仏教の……言葉?」

両子は、初めて耳にするその言葉の真意を掴もうと、地蔵店長の唇を見つめる。


「『両舌』とは、人間の犯す十種類の悪業『十悪』の一つであり、あちらではこう言い、こちらではああ言うこと、つまり時と場所で言っている事が全く違い、その事によって人々の仲を裂き、不和を生じさせる『二枚舌』の行為を指すことで御座います」


地蔵店長は、笑顔のまま、しかし一切の妥協なく真理を説いていく。

その説明を聞くうちに、両子の脳内には、自分がこれまで無意識に、あるいは意図的に行ってきた数々の工作が、まさにこの「両舌」そのものであったという自覚が、濁流のように押し寄せた。


地蔵店長は、両子の内面に芽生えた深い内省を、静かな眼差しで肯定しながら続けた。

「今、十種類の悪業と申しましたが、両舌を含めて口に関する悪業は4つ御座います」


「4つも、あるんですか……?」


両子の問いに、地蔵店長は慈しみを込めて頷く。


「左様で御座います。一つは、今申し上げた『両舌』です。その他には、嘘をつく事である『妄語』、粗暴な言葉や乱暴な言葉である『悪口』、意味のない飾り言葉や綺麗ごと、着飾った言葉である『綺語』が御座います」


淀みなく説かれる仏の教えは、両子がこれまで武器として使ってきた言葉の正体を、残酷なまでに解剖していく。


「あーしらは両舌おねえちゃんって言ってるけどさ、両舌だけじゃなくって、今までやって来た事って、その4つ全部当てはまるよね」

隣で炭酸水を揺らしながら、女鬼がふっと冷ややかな、しかしどこか憐れみを含んだような声を投げた。


両子の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねる。

ある時は嘘を吹き込んで人を惑わし、ある時は他人の悪口を影で言いふらした。

そして、自分だけは決して汚れないように、善人ぶった綺麗ごとと飾り言葉で全てを誤魔化してきた。


二枚どころか、幾千にも枝分かれした自らの舌が、数多の縁を食いちぎってきた事実。

それが盃の映像を通して突きつけられたばかりの今、両子の胸には、焼けるような鋭い痛みが走っていた。

「……っ、う……」


「胸が痛んでるって事は、まだ改善の余地はあるかもね。本当に腐りきってたら、痛みすら感じないだろうし」

女鬼は、絶望に沈む両子の横顔を見て、微かに口角を上げて微笑んだ。


地蔵店長は、その光景を全て包み込むような深い合掌を捧げる。

「肝要は、その事に気づき、痛みを感じる事が出来ているという感性を大切にして、なぜ両舌が悪であるのかをしっかりと知った上で、これからはそれらの悪業をなさぬように努め、善き道を歩む事で御座います」


お地蔵さんの笑顔を湛えた店長が、再び静かにお辞儀をする。

その瞬間、店内に流れる空気は、これまでの断罪の重圧から、再出発を促す温かな風へと変わった。

両子は、目の前にある珈琲を一口啜り、その苦味の中に、これから歩むべき険しくも正しい道のりの予感を感じ取っていた。


---


##地獄の業火と渇きの塩水


地蔵店長は、絶望に打ちひしがれる両子を、どこまでも澄んだ、しかし逃げ場のない慈悲の眼差しで見つめていた。


「両舌は悪業であり、その事によって和を乱す行いは、十の悪い行い『十悪』と、五つの大罪『五逆』を為している状態と言えましょう」

その声は穏やかでありながら、一つ一つの言葉が重い鉄球のように、両子の良心へと振り下ろされる。

「十悪のうち、口に関する悪を四つ犯していることは、今お話しした通りです。そして『五逆』とは、死後に必ず無間地獄に落ちる極めて重い五つの罪の事で御座います」


「じ、地獄……?アタシが、地獄に落ちるんですか?」

両子は全身の震えを止めることが出来なかった。

頬を伝う涙がカウンターに滴り、彼女の視界は滲む恐怖で歪んでいく。


「左様で御座います。そして、僧侶の集団を『サンガ』と言いまして、サンガであったり仏教の教団『和合僧』を分裂させる事を『破和合僧はわごうそう』と言います。つまり、両舌によって破和合僧となるようにしてしまう事は、地獄に落ちる程の重い罪を犯している事と言えましょう」


地蔵店長は、お地蔵様のような優しい笑顔を浮かべたまま、その口から放たれる真理の重みで、両子の欺瞞を粉々に砕いていく。


「両子さんの場合は、美穂さんと健一さんの仲を引き裂いたり、大学のサークルの不和を誘発させたり、所謂仲良しグループ同士を争わせたりと、和を乱してこられました。これは和を乱して人の縁を分裂させる罪深き行いではありませんかねえ」

柔和な微笑みのまま突きつけられたその言葉は、どんな罵倒よりも鋭く、両子の魂を抉り抜いた。


美喜を孤独の深淵へと追いやり、誇りだったダンスから引き離したあの日。

美穂と健一という、本来ならば結ばれるはずだった尊い縁を、醜い嘘で食いちぎった過去。

それらの記憶が、針のような痛みとなって両子の胸を突き刺し、息をすることさえ困難にさせる。


「両子さんは、目論見通りになった事により、一時的な支配感や充足感を得られたかもしれません。しかし、それは『渇いた者が塩水を飲む』が如き行い。さらなる苦しみを生むだけであり、また、その辻褄を合わせるために、更なる両舌に染まって行かれたのではないでしょうか」

地蔵店長は、両子が最も認めたくない心の渇きを、優しく、しかし容赦なく指摘した。


「……っ。あ、あぁ……」

両子の口から、嗚咽に近い吐息が漏れる。


その通りだった。

一度嘘を吐けば、それを守るために次の嘘を吐き、また別の誰かを貶めなければならなかった。

支配感を得たと思った次の瞬間には、その偽りの牙城が崩れる恐怖に怯え、また誰かの縁を食い破る。

まさに、飲めば飲むほど喉を焼き、命を削る塩水の如き、終わりのない渇望の連鎖。


「やがていつの日か、辻褄が合わなくなって破綻した先にある未来は、報いを受ける事、そして誰からも言葉を聞いて貰えなくなる事による真の孤立ではないかと存じます」

地蔵店長が静かに放ったその「孤立」という言葉が、両子の耳の奥で、恐ろしい鐘の音のように響き渡った。


「報いに、孤立……?アタシは……一人ぼっちになるんですか?」

両子は目を見開き、愕然として地蔵店長を見上げた。


これまで「誰かを孤立させる側」に立っていた自分が、今度はその業の報いとして、誰からも見向きもされない真の暗闇へと突き落とされる。

その未来の光景を想像した瞬間、両子の目の前が真っ暗になるような、底知れぬ恐怖が彼女を襲った。


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##不信の監獄と孤高なる因果の報い


これまで、重口両子の人生は常に華やかな喧騒の中にあった。

二枚舌を駆使して立ち回り、誰かの不和を煽り、誰かを孤立させてきた一方で、自分自身が責められることは決してなく、その周囲には常に「友人」と呼べる人々が途切れることはなかったはずだった。


しかし今、地蔵店長から突きつけられた「孤立」という二文字の未来。

その冷徹な響きに、両子は足元から崩れ落ちるような眩暈を覚えた。


「確かに、現世においては上手く立ち回っているように見えていても、先程、女鬼さんが仰った通り、真なる業は嘘偽りなく正確に魂へと刻まれていきます。そして、上辺だけの上手な立ち回りも立ち行かなくなった時、忽ち人は離れていき、やがて孤立する事になりましょう」


地蔵店長は、慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔を浮かべたまま、心臓を直接握り潰すような恐ろしい言葉を淡々と紡いでいく。

その宣告に、両子の背筋にゾクッと凍り付くような寒気が走り、思わず激しく身震いした。


「そうなった場合、現世においては、次のような報いを受ける事となるかと思われます」


地蔵店長は、逃げ場のない真実を諭すように言葉を継いだ。


「一つは、『離間報りかんほう』。これは、人を離間させた者は、自らもまた周囲から見捨てられ、真に心を通わせる友を一人も持てぬ孤独に苛まれるという事です。更には、『眷属不和』と言いまして、常に周囲が争い、疑心暗鬼に包まれる環境を自ら作り出すため、一時の安らぎも得られないという事です。複数の集団が争っている間、そこがとても心地いい環境とは言えないかと存じますが、両子さんが集団同士を争わせていた時は、どのような感じだったかを想像されれば、自ずとわかる事ではありませんかねえ」


地蔵店長は、優しい笑顔を絶やさぬまま、両子の過去の残虐な振る舞いを鏡のように突きつける。

自分が火種を撒き、炎上する人間関係を安全圏から眺めていたあの「愉悦」の時間は、そのまま「安らぎのない世界」を自ら作り出す業であったのだ。


「そうして、他者を信じさせないよう工作する者は、同時に他者を信じることができなくなっていきます。これは生きながらにして疑いの炎に焼かれる精神的監獄と言えましょう。まさに、不信の地獄で御座います」

地蔵店長の語る「不信の地獄」という言葉が、両子の心に深く、鋭く突き刺さる。


そこに、女鬼が冷ややかな視線と共に、彼女の欺瞞をさらに抉り出した。

「そもそもの話、目の前の相手をちゃんと信じてるなら、いちいちその人の敵を作る工作なんてする必要ないよね。つまり両舌おねえちゃんはさ、誰からも嫌われたくないし、敵も作りたくない。そのくせ自分だけは誰からも好かれたい。なのに、結局は誰も信じちゃいなかったって事じゃん。寂しい女だねー、ホント」


女鬼の言い放った「誰も信じていなかった」という指摘は、両子の魂の急所を的確に射抜いた。

自分を守るために他人の縁を食いちぎり、自分を美化するために誰かを貶める。

その果てに待っていたのは、誰も信じられず、誰からも信じられないという、透明な壁に囲まれた絶望的な孤独であった。


「このように、不信なままに他人様の縁を容易く切り続けていけば、やがては御自身と結ばれている縁も断絶されていく。そうして孤立していき、孤独な道を歩む事になります。今までは、それが見える形にならなかっただけで、西村美喜さんの一件で如実に表れ始めたと言えましょう」


地蔵店長の声は、どこまでも穏やかで、しかし絶対的な重力を持って両子を現実に繋ぎ止める。


「肝要は、今ここで気づき、次なる一歩はどのような道を歩まれるか。その一歩を御自身で調えて踏み出す事で御座います」

地蔵店長は、柔和なお地蔵さん笑顔のまま、静かに合掌して深々とお辞儀をした。


両子は、何も映さなくなった盃の水面を見つめていた。


美喜を追い出したあの日の冷たい達成感。

健一と美穂を破局に追い込んだ瞬間の歪んだ充足感。

それら全てが「孤立」という名の巨大な負債となって、今、彼女の背に重くのしかかっている。


自分が今まで「成功」だと思っていたものは、実は自分の居場所を一つずつ破壊していく「自殺行為」に他ならなかったのだ。

両子は、涙で滲む視界の中で、初めて「本当の自分」として、暗闇の先にある新しい一歩をどう踏み出すべきかを、必死に模索し始めていた。


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##愛語の灯火と十善戒の道標


「アタシ、どうすれば……。これから、どうやって生きていけばいいの……?」


両子は力なくうなだれ、震える声でそう漏らした。

これまで自信満々に振る舞ってきた彼女の背中は、今は見る影もなく小さく丸まっている。


そんな両子に対し、地蔵店長は慈悲深い眼差しを向けながらも、逃げ場のない厳しさを含んだ声で諭した。

「どのような道を歩まれるか、それは両子さん自身にしか決める事は出来ず、誰にも肩代わりする事は出来ません。己の犯した業を背負い、時には迷いながら、もがき苦しみながら、歩み続ける他御座いません」


お地蔵さんのような笑顔のまま、地蔵店長はあえて突き放すような真実を口にする。

自らの足で立たぬ限り、真の救いは訪れないからだ。


しかし、絶望に身を焼かれる両子の様子を静かに見つめた後、地蔵店長は包み込むような温かさを込めて言葉を継いだ。

「されど、迷った時に道を踏み外さぬよう、道標を灯す事なら出来ます」


「道標……?何ですか、その道標って……。アタシに、まだ歩ける道があるっていうの……?」

両子は、暗闇の中で一筋の光を見出したかのように、必死に縋りつくような思いで地蔵店長を見上げた。

その瞳には、これまでの打算や虚飾ではない、心からの渇望が滲んでいる。


地蔵店長は、柔らかな手つきでゆっくりと合掌し、静かにお辞儀をすると、再び仏の教えを紐解き始めた。

「先程、口に関する4つの悪業について話を致しました。そして、その悪業の頭に『不』をつけたもの、悪業をなさぬように戒めた『十善戒じゅうぜんかい』が御座います」


「十善戒……」


「左様で御座います。先程の話に照らし合わせますと、『不妄語ふもうご』『不綺語ふきご』『不悪口ふあっく』『不両舌ふりょうぜつ』です。嘘をつかず真実を話し、お世辞や意味のない美辞麗句を並べ立てず、悪口や乱暴な言葉を使わず、二枚舌で中傷したり仲違いをさせない、と言う事です」

地蔵店長は、一つ一つの戒めを噛み締めるように、穏やかな笑顔で説いていく。


両子はその言葉を、乾ききった大地が雨を吸い込むように、自身の心に刻みつけていった。

地蔵店長は、両子がその教えを真摯に、そして真っ直ぐに受け止めていることを確認しながら、さらに深く、魂を導くための教えを諭した。


「両子さんはこれまで、心無い言葉や、人を傷つけるような言葉の使い方を為されていました。これからは、その逆の言葉との接し方や使い方、すなわち『愛語あいご』、相手の心を温める言葉や、和解を促す言葉を紡いでゆかれる事です。和を乱すのではなく、和を促す言葉の使い方をもってして、慈悲ある言葉を紡いでゆかれては如何でありましょうか」

お地蔵さん笑顔を絶やさず、地蔵店長はそう言って再び静かに合掌した。


「愛語……和を促す言葉……」

両子の脳裏に、これまで自分が切り刻んできた数々の縁の残骸が浮かび上がる。

人を傷つけるために研ぎ澄ませてきた言葉の刃を、今度は誰かを癒やし、結びつけるための光に変える。

その途方もなく険しく、しかし光に満ちた道のりに、両子の頬を新たな涙が伝い落ちた。


「……はい。アタシはもう、自分の都合で誰かを貶めるような立ち回りや、言葉の使い方は絶対にしません。二枚舌をやめます。これからは、愛語の教えを大切に……一歩ずつ、生きていきます」


両子は、溢れ出る涙を拭おうともせず、地蔵店長に向けて深く、深く頭を下げた。

その姿には、かつての傲慢な「両舌おねえやん」の面影はどこにもなかった。

ただ一人の、己の罪を認め、再出発を誓った人間としての真摯な決意だけが、静謐な店内に凛と響き渡っていた。


---


##再生の誓いと門出の御布施


「アタシ、美喜ちゃんにも、美穂さんと健一さんにも、アタシがしでかした事、その真実を隠さず、きちんと話して誠心誠意謝罪します。そのうえで、これからは愛語を忘れずに生きていきます。もう、こんな過ちは絶対に犯しません。」


両子の声は、もはや震えてはいなかった。

自らの喉の奥に沈んでいた澱を全て吐き出し、泥濘の中から顔を上げた彼女の瞳には、かつての打算に満ちた輝きではなく、真摯な決意という名の灯火が宿っている。

自分を偽り、他者を傷つけて守ってきた空虚な牙城を自ら崩し、裸の心で謝罪へと向かう覚悟。


その魂の叫びを聞き届けた女鬼は、険しかった表情をふっと解き、春の陽光のような柔和な微笑みを両子に向けた。


「ん、やっと真に変わろうとしたね、両子さん。」

黄金の瞳を細め、心からの肯定を込めて名前を呼ぶ。


「うん。……ふふ、やっと名前で呼んでくれたわね。まだ、両舌おねえちゃんを完全に卒業できてはいないんだろうけど。ちゃんと両舌じゃなくなったって事、女鬼ちゃん達に認めて貰えるような、そんな正しい道をこれからは生きていくから。」

両子は照れくさそうに、しかし晴れやかな笑顔で応えた。


すると、その様子を横でじっと見ていたえらいこっちゃ嬢が、小柄な体躯を弾ませて椅子の上にぴょんっと飛び乗った。

彼女は短い腕を伸ばし、愛おしそうに両子の頭を優しく、何度も撫で始める。


「やっと舌が一枚になりよった、えらいやっちゃ。おねえやん、よう踏ん張りよった。」

台形の口を微かに動かし、えらいこっちゃ嬢はどこか誇らしげに、そして慈しみを込めた声で呟いた。


「ふふ、有難う。ほんと、アタシは今まで、二枚舌の妖怪だったって事ね。……さあ、食べなきゃ。」


両子は再び銀のフォークを手に取り、皿の上に並んだ「舌の形をしたケーキ」へと向き直った。

それは己の業の象徴であり、過去の断罪そのもの。

しかし、覚悟を決めた彼女が一口運ぶと、その味わいは意外なほどに優しかった。

「これ、グロテスクな見た目だけど、イチゴ味のしっとりしたケーキなんだ。凄く美味しい……。」


「ハロウィンだと、アナトミーケーキって言うんだっけ?娑婆でもこういうケーキって、最近は流行ってるんじゃない?」

女鬼が楽しそうに笑いながら、珈琲を啜る。


「ああ、確かに。実際に目にしたことは無いけど、SNSとかでありそうよね。ジョーク系とか、ホラー系とか。……でも、今の私には、この味が一番心に染みるわ。」

両子は笑いながら、二枚のケーキを一切れ残さず、自らの内側へと取り込むように完食した。

それは、過去の罪を忘れぬよう、血肉として刻み込むための儀式でもあった。


「御馳走様でした。」

ケーキを食べ終えた両子は、地蔵店長に向き直り、静かに合掌して深くお辞儀をした。

心の底から湧き上がる感謝と、清々しい充足感。

彼女は「愛語」の第一歩として、まずはこの場所への感謝を言葉に込めた。


「それじゃあ、お会計をお願いします。現実の世界に戻って、やらなきゃいけないことが山積みだから。」


両子がゆっくりと立ち上がると、地蔵店長は穏やかなお地蔵さん笑顔のまま、合掌してお辞儀をする。


「当店では御布施形式を採用しております。決まった額は御座いません。お客様の御心のままに。」


「御布施……?ああ、なるほどね。お寺の食堂らしいわ。」

両子が納得したように頷くと、えらいこっちゃ嬢がどこからともなく「御勘定」と書かれた木製のプレートを持ってきた。

そこには、現代的なQRコードが鮮やかに掲載されている。


「さっきの妖怪タクシーもそうだったけど、QRコードってお化けとか妖怪の世界でも流行ってるの?」

思わず吹き出した両子は、スマートフォンを取り出し、お財布携帯をプレートに翳した。

画面に金額入力欄が表示されると、彼女は迷いなく「10000」と打ち込んだ。


一万円。

それは彼女にとって、過去への決別と未来への祈りを込めた、決して安くない、しかし惜しくない御布施であった。


ピッ――「毎度ありー」

軽快な電子音が店内に響き渡る。


「毎度あり!えらいこっちゃな大金!おねえやん、太っ腹!」

えらいこっちゃ嬢は喜びを爆発させ、両腕を風車のようにぶんぶんと振り回してアピールする。


その滑稽で温かな見送りに背中を押され、両子は出入り口の扉へと歩みを進めた。

敷居を跨ぐ直前、彼女は一度だけ振り返り、この不思議な場所と、自分を救ってくれた異形の住人たちに対し、腰を折って深く深くお辞儀をした。


「御来店、誠に有難う御座います。お気をつけて。善き道を。」


地蔵店長は、変わらぬ慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔で、静かに合掌し、彼女の門出を祝うようにお辞儀をした。

ガラガラと扉が閉まる音と共に、両子の背後で摩訶不思議食堂の灯火が夜の闇に溶けていく。

しかし、彼女の心の中には、消えることのない「愛語」の灯が、力強く、そして温かく灯り続けていた。


重口両子の新たなる道。

それは決して平坦ではないだろうが、彼女の舌は今、たった一枚の、真実を語るための形を取り戻していた。


---


##浄化の帰路と一枚の舌の決意


摩訶不思議食堂の重厚な扉を閉め、夜の闇へと一歩踏み出すと、そこにはあの紅蓮の炎を撒き散らす怪異車、方輪車が静かに停車していた。

車輪から立ち上る熱気がアスファルトを陽炎のように揺らし、どこか現実離れした光景を夜の静寂の中に繋ぎ止めている。

両子が吸い込まれるように牛車へ近づくと、自動で客席の扉がスッと開いた。


彼女が畳の座席に腰を下ろすと同時に、天井の隙間から例の白く長い腕が「ニューッ」と音もなく伸びてくる。

「電子決済、出来たわよね。」

両子はもはや驚くこともなく、御勘定札の裏側にあるQRコードに、迷うことなく自身のスマートフォンを翳した。


ピッ――「毎度ありー」

軽快な電子音が車内に響き渡り、千円の支払いが完了すると、白い腕は満足げな動きで再び天井裏へと引っ込んでいく。


「毎度ー。ほな、出発しまっせー。」

運転席から方輪車の凛とした声が響き、牛車は滑るように走り出した。

窓の外を流れる景色は、いつの間にか異界の霧を抜け、見慣れた現世の光を取り戻していく。


やがて牛車は、数時間前に両子がえらいこっちゃ嬢と運命的な出会いを果たした、あの観光寺院近くの人気のない広場へと辿り着いた。

完全停止と共に扉が開くと、両子は夜の冷気を吸い込みながら地面に降り立つ。


すると、運転席の窓が開き、着物姿の麗人である方輪車が、にこやかな笑顔を湛えて手を振った。

「毎度ありー。ほな、善き道を歩んで下さいましー。」


「有難う。不思議な人達、……ううん、人じゃないか。」

両子が一人ごちて小さく笑うと、方輪車は窓を閉め、再び炎を揺らめかせながら夜の闇へと颯爽と走り去っていった。

残されたのは、静かな月光と、自分の中に確かに宿った「一枚の舌」の感触だけであった。


帰宅した両子は、儀式のように丁寧にシャワーを浴び、これまでの毒を全て洗い流すかのように髪を乾かす。

いつもなら、この時間はベッドに寝転びながらSNSの海に潜り、誰かの失言を揶揄したり、ネットの匿名掲示板で毒を吐いたりするのが日課だった。


しかし彼女は、ふと手を止めた。

手にしていたスマートフォンを、画面を見ることもなくそのまま充電器に差し込み、静かに端末を手放す。


「愛語、か……。」

暗い部屋の中で、両子はポツリと呟いた。


今まで自分の口から放たれてきた言葉が、いかに空虚で、いかに鋭い刃となって人を傷つけてきたか。

それを思い出すたびに、胸の奥がチリチリと焼けるような痛みに襲われる。

自分がこれまで、どれほど尊い御縁を引きちぎり、踏みにじってきたことか。

その罪の重さは、計り知れない。


「縁切りの神様、ね。縁切り神社とかあるけど、アタシはそこの巫女とか、天職だったのかも。」


自嘲気味に漏れた笑みには、かつての傲慢さは微塵もなかった。

誰かを孤独に追い込み、自分だけが安全圏で笑っていた愚かな日々。

けれど、もう二度と、そんな生き方はしない。


「これからは、縁を紡げるような人にならないと。そのためにも、まずはやるべきことは、決まってるわよね。」


両子は決意を新たにし、静かに目を閉じた。

明日、彼女が最初に向かうべき場所。そして、最初に語るべき「一枚の舌」による真実。

その険しくも清らかな道のりを見据えながら、両子は深い眠りへと落ちていったのである。


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