第28話後編:谷口祥吾と忘却のほっこり飯
##黎明の祈りと、影差す社
あの摩訶不思議な食堂で、己の醜悪な過去をこれでもかと突きつけられた、衝撃の「華金」が明けた。
土曜日の朝、カーテンの隙間から差し込む薄っ白な陽光が祥吾の瞼を叩き、彼は予定よりも遥かに早い時間に目を覚ました。
昨夜の出来事は、決して夢などではなかった。
まだ頭の片隅に残る炭酸水の弾ける音と、女鬼の鋭い金色の眼光が、彼に深い充足感と、それ以上に重苦しい「宿題」を突きつけていた。
二度寝をする気力など到底湧かず、祥吾は這い出すようにしてベッドから降りると、洗面台へと向かった。
シャカシャカと歯を磨きながら、鏡に映る疲れ切った自分の顔を見つめていると、不意にある記憶が脳裏を掠めた。
昨日、AI導入の為に会社に現れた、あの不気味な黒衣の男性の言葉だ。
『犬にまつわる神社で、早急にお参りしはったら宜しゅうおす。』
その言葉が、まるで呪文のように耳の奥で反芻される。
祥吾は口をゆすぐと、朝食を口に流し込むのもそこそこに、枕元に放り投げていたスマートフォンを掴み取った。
「京都、犬、神社……」
指先を走らせ、検索エンジンの入力欄にキーワードを打ち込む。
これまで宗教的な事柄には全くと言っていいほど縁がなかった祥吾にとって、神と仏の違いさえ曖昧なものだった。
手当たり次第にヒットした情報を漁り、京都の街中に点在する犬に関連した神社や、ペット供養について詳しく調べ始める。
「神社は御祓いをしてくれて、供養はお寺でやるのか。あの人は神社を勧めてたけど、一体どういう意図があるんだ?」
祥吾は独り言を漏らしながら、画面をスクロールさせた。
「あの5匹の無念が、今も俺に取り憑いている……。摩訶不思議食堂で見せられたあの惨劇を思えば、まずは汚れを祓うために神社に行くべきなのか?」
確信は持てなかったが、今の自分には、何かに縋ることしか許されていないような気がしていた。
さらに詳しく調べていくと、市街地にほど近い場所で、午前6時から開門している動物に関連した寺院があることを見つける。
「あの人は神社って言ってたけど、まずは動物を大切にしている場所ならどこでもいいのかな。とにかく、行ってみるか」
祥吾はそう呟くと、まだ日が昇り切っていない、凛とした空気が漂う早朝の京都へと繰り出した。
社員寮を出て歩き出すと、冷ややかな風が火照った頬を撫で、昨夜の昂ぶった感情を静めてくれる。
京の街はまだ眠りの中にあり、時折通り過ぎるタクシーの走行音だけが、静寂を微かに揺らしていた。
そうして社員寮から南へ向かって歩き続け、午前6時30分頃、祥吾は目的の寺院に到着した。
古びた門をくぐり、線香の香りが薄く漂う境内の奥へと進んでいく。
冷たい感触の賽銭箱に、自分なりの決意を込めた小銭を投げ入れる。
カラン、という硬質な音が境内に響き、彼は静かに合掌して目を閉じた。
「俺がしてきたこと、これからしていくこと。どうか、見守っていてください」
誰に宛てるでもない祈りを捧げ、祥吾は深くお辞儀をした。
寺を後にした祥吾は、次なる目的地を定めた。
「ついでに、昨日の夜に行ったあの神社も行ってみるか」
目的地は、えらいこっちゃ嬢や人面犬と出会った、あの不思議な稲荷神社だ。
「もしかしたら、えらいこっちゃんと、あの人間の顔をした犬にも会えるかもしれないもんな。あの子なら神社のことにも知っていそうだし、そこで『犬の神社』についても聞けばいいだろう。もし誰もいなかったら、駅前の喫茶店にでも入って、もう一度ネットで調べればいい」
祥吾は決意を新たに、京都駅方面へと向かって再び歩き出した。
やがて、見覚えのある鳥居が見えてきた。
早朝の稲荷神社は、昨夜の幻想的な雰囲気とは異なり、どこか厳かで清々しい空気に包まれている。
石の地面を一段ずつ踏みしめ、祥吾が境内に足を踏み入れた、その時だった。
「……あ」
祥吾は思わず声を漏らし、その場に立ちすくんだ。
誰もいないはずの境内の奥、本殿へと続く道を颯爽と歩き去ろうとする、見知った背中。
それは紛れもなく、昨日会社に突如として現れ、祥吾をこの数奇な運命へと誘った、あの不気味な黒衣の男性だった。
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##暁の邂逅、呪術師と称する男
早朝の静寂に包まれた境内に、祥吾の呼び声が響き渡った。
「あの、此岸さん!」
その声に反応し、颯爽と歩き去ろうとしていた黒衣の男性が足を止めた。
彼はゆっくりと振り返り、祥吾の姿を認めると、風を切るような足取りでこちらへと歩み寄ってくる。
ザッ、ザッ、と砂利を踏みしめる音が、清廉な空気の中に小気味よく響いた。
「お早う御座います」
祥吾が居住まいを正して丁寧に頭を下げると、男性もまた、その無表情な顔のまま静かに会釈を返した。
「お早う御座います」
その声は低く、どこか浮世離れした響きを帯びている。
「こんな朝早くに散歩ですか?」
祥吾の問いに、黒衣の男性――此岸と呼ばれた男は、淡々と、しかし一点の曇りもない調子で言葉を返した。
「ええ。休日には、こうして早朝散歩をしてましてな。街の気が最も澄んでいる時間帯に歩くのは、習慣のようなものです」
祥吾は昨日の窓ガラスの件を思い出し、再び深く頭を下げた。
「そうでしたか。えっと、昨日は申し訳ありませんでした。あの後、色々と大変だったでしょうし……お怪我が無くて何よりです」
黒衣の男性は、それに対して表情を変えることなく、スッと白皙の手を上げた。
「いえいえ、何事も無く被害もあらへんかったさかい、お気になさらず。あの程度のことは日常茶飯事と言えば語弊がありますが、僕にとっては取るに足らんことです」
その謙虚とも無関心とも取れる態度に、祥吾は少しだけ肩の荷が下りるのを感じた。
「そうでしたか。あ、そうだ、丁度良かった。昨日、此岸さんに犬の神社に行くように言われたので、さっき町中にある動物にまつわるお寺でお参りしてきたんですよ。それで、やっぱり神社にも行った方がいいのかなって思って、とりあえず神社を巡っているところなんです」
祥吾は、今朝の自らの行動を報告するように言葉を継いだ。
「昨日、ここで不思議な……信じて貰えないかもしれませんが、奇妙な女の子と人間の顔をした犬に、ここは狐の神社だって言われましてね。でも、他に神社の心当たりが無かったので、とりあえず片っ端から神社巡りをすれば、いつか辿り着くかなって思ってたんです。こうして此岸さんに会えて、本当に助かりました。どこか、犬にまつわる神社を教えて貰えませんか?」
祥吾の必死な訴えを、黒衣の男性は静かに聞き届けていた。
「なるほど。それは数奇な出会いをされましたな」
男性は顎に手を当て、少しだけ思案するような素振りを見せた後、パッと顔を上げた。
「丁度宜しゅうおす。僕はこれから、その犬にまつわる神社へ向かうところやさかい、ついて来はったらどうですかな。ここから京都駅まで行って、そこからバスに乗って行きまっせ」
そう言い残すと、男性は再び颯爽とした足取りで歩きだした。
「え、そうなんですか?そりゃいい、ますますついてる!あ、待ってください!」
祥吾は驚きと喜びが混ざり合った声を上げ、慌ててその背中を追いかけた。
広い歩幅で進む黒衣の背中に追いつこうと必死になる祥吾。
すると、男性は不意に立ち止まり、肩越しに鋭い視線で祥吾を振り返った。
「それと」
その凛とした声に、祥吾は思わず足を止めた。
「休日は、昨日お渡しした名刺の『此岸彼岸』モードも休みやさかい、僕の事は『呪術師』とでも呼んでくれなはれ」
男性……呪術師は、それだけを言い残すと、驚きに目を見開く祥吾を置き去りにするように、再び前を向いて歩きだした。
「え……?じゅ、じゅじゅつし……?」
祥吾の口から漏れたのは、戸惑い以外の何物でもなかった。
休日の早朝、京都の街並みを背景に、自らを呪術師と名乗る男の背中を、祥吾はただ呆然と見つめることしかできなかった。
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##犬の社の深奥、予期せぬ再会
祥吾は自らを「呪術師」と名乗った黒衣の男性の後を追い、揺れるバスに揺られて京都の北西、洛外のさらに奥深くへと足を踏み入れた。
停留所を下車すると、そこには観光地の喧騒など微塵も感じさせない、深い静寂が横たわっていた。
足を進めるごとに周囲の木々は密度を増し、瑞々しい翠の香りが肺を洗う。
舗装された道はやがて砂利道へと変わり、湿り気を帯びた空気の中に、ひっそりと佇む古びた神社がその姿を現した。
神社の入り口には、この聖域を外敵から守護するように、年季の入った二匹の狛犬が石柱の上に鎮座している。
その鋭い眼光は、単なる石像とは思えぬほどの威圧感を放っており、祥吾の背筋を冷たいものが通り過ぎた。
すぐ傍らには、宮司や神職が寝起きしていると思われる、慎ましい平屋の住宅らしき建物が木々の間に埋もれるように建っている。
呪術師は鳥居の前で一度立ち止まると、敬虔な所作で一礼してからその下をくぐった。
祥吾も慌ててその背を追い、作法を真似て境内へと足を踏み入れる。
呪術師は迷いのない足取りで本殿へと向かい、厳かに二礼二拍手一礼の作法でお参りを済ませると、さらに境内の中へと進んでいく。
祥吾もその後ろ姿を必死に追うが、奥へ進むほどに空気は冷たく、密度を増していくように感じられた。
やがて二人は、一般の参拝客を拒んでいるかのような、立ち入りを制限する結界めいた空気を纏った神殿の入り口で足を止めた。
「ここは、一体・・・」
祥吾がその異様な佇まいに圧倒されて呟くと、呪術師は扉に向かって声を掛けた。
「お早う御座います。朝早くから対応してもろて、助かります」
その落ち着いた、しかし重みのある挨拶に呼応するように、中から一人の男性の落ち着いた声が返って来た。
「開いてますから、入って来て下さい」
「ほな、遠慮なくお邪魔しまっせ」
呪術師は一礼すると、板張りの玄関で靴を脱ぎ、靴台へと綺麗に揃えて置いた。
祥吾も慌てて靴を脱ぎ捨て、彼の真似をして靴を揃えると、躊躇なく奥へと進む黒衣の背を追って扉を開いた。
その瞬間、祥吾は心臓が跳ね上がるような衝撃に、目を見開いた。
薄暗い室内の奥、凛とした空気が張り詰めた神殿に立っている人物を見て、息を呑む。
そこには、40歳前後と思われる、短く切り揃えられた髪が印象的な、知的な雰囲気を纏った男性。
そしてその隣には、かつて暴漢犬から助けてくれて、以来何度か食事を共にし、祥吾が想いを寄せている女性、犬上桜子が静かに立っていた。
光の届きにくい奥の部屋で、桜子の清らかな横顔が、蝋燭の火に照らされて揺れている。
なぜ彼女が、このような隠された聖域に、それもこの時間にいるのか。
祥吾の思考は、あまりにも唐突で衝撃的な再会を前にして、完全に停止してしまった。
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##犬神遣いの師弟と、不敵なる呪術師の見物
薄暗い神殿の奥、凛とした空気が肌を刺すような静寂の中に、二人の人物が待ち構えていた。
一人は、威厳に満ちた神職の正装を完璧に着こなした、40歳ほどの精悍な男性。
そしてもう一人は、穢れを知らぬ白衣に緋袴を纏った、巫女姿の桜子であった。
呪術師は、その二人を正面から見据えると、無表情で挨拶をする。
「お初にお目にかかります。僕の事は呪術師とでも呼んでくれなはれ。犬神遣いの御二方」
呪術師は、流れるような所作で丁寧にお辞儀を捧げ、相手の正体を見抜いていることを暗に示した。
祥吾は、その聞き慣れない単語に困惑し、眉を寄せて首をかしげる。
「え?……犬神遣い?何だよ、それ……」
祥吾の戸惑いを余所に、男性が静かに一歩前へと踏み出した。
「御丁寧にどうも。俺はこの神社の宮司やっとります、犬上玄蓮っちゅうもんです。ほんで、こっちが弟子の犬上桜子です」
玄蓮と名乗った男性が重厚な声で挨拶を交わすと、隣に立つ桜子もまた、たおやかな所作で頭を下げた。
「犬上桜子です。宜しくお願い申し上げます」
その鈴を転がすような、しかしどこか意志の強さを感じさせる声に、祥吾は思わず声を上げた。
「桜子ちゃん……。巫女をやってるって聞いてはいたけど、この神社だったんだね。こんなところで会うなんて」
「ええ」
桜子は、祥吾に対しては短く肯定を返すに留め、その真剣な眼差しを呪術師へと戻した。
そして一歩前へ出ると、深く頭を下げた。
「呪術師さん、この度は大変な御無礼を致しまして、誠に申し訳ありませんでした。あのような騒動に巻き込んでしまった事、深くお詫び申し上げます。本当に、申し訳御座いません」
その謝罪の言葉には、巫女としての、あるいは犬神遣いとしての深い悔恨が滲んでいた。
呪術師は、スッと片手を上げてそれを受け流すように応じる。
「こちらこそ、咄嗟の事とは言え、横槍入れてしもて申し訳ない事です。」
呪術師が丁寧に頭を下げる姿を見て、玄蓮は一瞬驚いたように目を見開いた。
この男が、あれほどの術を使いながら、これほど謙虚な姿勢を見せるとは思っていなかったのだ。
玄蓮は、自らの非を認めるように深く頭を下げた。
「指示を出したのは俺です。そやから、全ては俺のミスですねん。貴方のような御仁がいるとは知らず、無礼を働きました。ほんまに、申し訳ありませんでした」
祥吾は、目の前で繰り広げられる異様な謝罪合戦を前に、口を半開きにして立ち尽くす。
「え?なんだよ、この謝罪合戦は?一体、何があったんだよ……?」
完全に置いてけぼりを喰らった祥吾を無視して、呪術師は淡々と続けた。
「まあ、『こっち側』には、色々と事情がありましてな。ほんで……」
呪術師は、おもむろに懐から昨日回収した「御札」を取り出した。
彼は迷いのない足取りで桜子の元へと歩み寄り、彼女の目の前でぴたりと立ち止まる。
そして、その不思議な力を持った札を、無造作に差し出した。
「ほな、お返しします。お互い、痛み分け言う事で宜しゅうおすかな」
この、あまりにも無防備な、そして懐の深い行動に、玄蓮は「え?」と声を漏らして絶句した。
師匠である玄蓮がこれほどまでに動揺する姿を、今まで一度も見たことがなかった桜子は、そんな師匠を見て更に「え?」と驚きの声を上げた。
そんな二人の驚愕を他所に、呪術師は飄々とした態度で神殿の端へと移動した。
彼は壁に背を預けてもたれかかると、腕を組んで不敵な笑みを浮かべる。
「ほな、昨日の続きをどうぞ。ここやったら誰にも邪魔されへんし、存分に出来ますさかい。それに至近距離やから、外さんでっしゃろ」
呪術師は、まるで芝居でも観るかのように、高みの見物を決め込んだ。
そのあまりに突飛な提案に、犬神神社の師弟は完全に言葉を失い、目を見開いて硬直する。
そして祥吾だけが、この場の緊迫感の意味も、昨日の因縁も、何一つ理解できぬまま、ただ呆然とそこに佇んでいた。
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##阿修羅の如き静寂、隠れ呪術師の証明
神殿の中に満ちる冷ややかな静寂を、玄蓮の震える声が裂いた。
彼は額に滲む汗を拭うことさえ忘れ、目の前で壁に背を預ける黒衣の男――呪術師の底知れぬ深淵を覗き込もうと、恐る恐るその口を開く。
「あの、……失礼ながらお尋ねします。あなた様は、その道では名の知れた『解呪師』さん、ということで宜しゅうございますか?」
玄蓮の問いかけに対し、呪術師は微動だにせず、感情を削ぎ落としたような無機質な視線を向けたまま淡々と答えた。
「まあ、どちらかと言えば解く機会の方が多いのは確かですから、解呪師と呼ばれても間違いではおへん、名は知れてませんけどな。ただの通りすがりの役職名のようなもんです」
その言葉に、玄蓮は喉を鳴らした。
「ほな、……やはり術式を解きに、こちらへ乗り込んで来はったんやないんですか?その、そっちにいる祥吾から、何らかの依頼を受けて。……そうやないと、説明がつきまへん」
玄蓮の視線が、困惑の渦中にいる祥吾へと突き刺さる。
しかし、呪術師は微かに首を振り、無造作に言葉を放った。
「勘違いせんといて下さい。彼とは表の仕事、つまり堅気の付き合いがあるだけです。呪術がどうとか、そっち方面の話での縁とちゃいますし、解呪の依頼なんて一つも受けてはおりませんで。昨日の伝令に書き残した通りです。僕はただ、一時的に預からせてもろた式神を、あるべき場所へ返しに来ただけです」
「……マジかいな。冗談やろ……」
玄蓮の声が、驚愕のあまり裏返った。
「あんな真似をされて、解呪されることはおろか、呪詛返しをされることまで覚悟しとったのに……。まさか、無傷で返しに来るなんて、そんなお人好しな話があるんか」
すると……。
玄蓮の傍らで、返された札を掌に乗せていた桜子が、悲鳴にも似た驚きの声を漏らした。
「……師匠。これ、……見てください。こんなこと、……信じられません」
桜子の指先は、まるで氷に触れたかのように小刻みに震えている。
「どないした?桜子、しっかりせえ」
「式神が、……全て、……無傷なんです。掠り傷一つ、術の乱れすらありません。……ほんまに、そっくりそのまま、主の手元へ返してくれはりました。術を力付くで剥ぎ取った形跡も、外部からの汚染も何一つない。……こんな神業、人間が出来るんですか?」
心底驚愕し、腰を抜かさんばかりの桜子の横で、祥吾だけが目を白黒させて立ち尽くしていた。
「え?……ええっ?一体全体、何が起こってるんだよ?その札がどうしたって言うんだ?」
祥吾の困惑を余所に、呪術師は欠伸を噛み殺すような気怠げな調子で告げた。
「ちょいとばかり、投げはったもんを御返ししただけです。落とし物を拾って届けるのと、何ら変わりはおへん」
「見せてくれ!……嘘やろ、マジかあ……」
玄蓮は桜子の手から札を奪い取るように受け取ると、眼球がこぼれ落ちんばかりに見つめ、そのあまりにも精密で美しい「返却」の技術に、魂を揺さぶられるような衝撃を受けた。
「呪術師さん、あんさんは一体何者です?普通、正面からバチバチにやり合うた挙句、相手の力を消滅させるか、さもなくば倍返しとか、あるいは何倍、何十倍かにして跳ね返す『呪詛返し』をするのが、この界隈やとようある事やし、その方が簡単やっちゅうのに。……札一枚だけで、ここまでの制御が出来ますか?」
玄蓮の震える問いに、桜子もまた、自らの未熟さを突きつけられたような表情で、しかしどこか崇高なものを見たような眼差しで言葉を添えた。
「呪詛返しなんて、微塵もありませんでした。ほんまに、一旦私の手元から離れて、風に吹かれて戻って来ただけのような……。完璧、という言葉すら生温い。師匠以上の術者に、私は今日、初めてお会いしました」
「そんなに大層なことやおへん。僕はどこにでもいる、平凡な呪術師ですえ。あまり買い被らんといて下さい」
呪術師は依然として淡々と語るが、玄蓮はその言葉の裏にある、深淵のような実力差に、本能的な恐怖を抱いていた。
「平凡な呪術師が、これだけの術を使い、しかも気配を欠片も出さんでここにいられる訳がありませんがな。……あの、もしかして、あんさんは歴史の裏に身を隠している『隠れ呪術師』やありませんか?」
玄蓮の核心を突く問いに、呪術師は隠す様子もなく、ふっと短く息を漏らした。
「まあ、そうですな。歴史の裏とか、そんな大層なもんやおへんが、目立ちとうないし、波風立てずにひっそりと暮らしたいんで、世間からは隠れさせてもろてますさかい、隠れ呪術師ではあります。名前なんてものは、この世界には不要なもんですんで」
「……あかん。桜子、よう聞け。……俺と君が命を賭して、死に物狂いで全力出しても、この御方の前では十秒持たんぞ。とんでもない化け物を、俺らは巻き込んでしもたんやなあ」
玄蓮は力なく頭をかきむしり、自らの無知と無謀を呪うように深く溜息を吐いた。
「あの、……さっきから全く話が見えないんだけど。此岸さんって、そんなに凄い人なのか?」
祥吾の場違いな問いかけに、玄蓮は怒気すら通り越した、呆れと深い警戒が混ざり合った眼差しを向けた。
「おどれは、自分がどれだけ恐ろしい御仁をここに連れて来たんか、爪の先ほども自覚がないようやな。こっち側……いや、おどれのような凡夫から見れば、あっち側の住人か。とにかく、俺らの住む世界では、はっきり言って人智を超えてはるんや、この御方は」
玄蓮は一歩、祥吾の眼前に詰め寄ると、地の底から響くような低い声で冷徹に釘を刺した。
「ええか、肝に銘じとけ。間違っても、この人『も』怒らせるような真似はするなよ?もしそんなことになれば、五体満足で済むなんて思わんことや。魂ごと、この世から消し炭にされても文句は言えんぞ」
祥吾は、壁に背を預けている、AI導入の為に仕事の話をしただけの男が、実は触れることさえ許されない絶対的な力を持つ存在であることを思い知り、背筋を凍りつかせるような悪寒に襲われていた。
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##砕け散る欺瞞、そして真の元凶
祥吾は、玄蓮が放った「怒らせるな」という警告を聞き、昨日の凄惨な光景を反射的に思い出した。
凄まじい音と共に砕け散ったオフィスビルの窓ガラスと、周囲を包んだ静寂。
彼は恐る恐る、己の失態を認めるようにして声を震わせた。
「あの、怒らせるなって……。昨日、目の前で窓ガラスが割れて、此岸さんを危ない目に遭わせちゃったから、もう時すでに遅しなんじゃないのか?」
祥吾の言葉には、突発的な事だったとはいえ、自らの不注意への後悔と、底知れぬ力を持つ男への純粋な畏怖が混じっていた。
しかし、壁に背を預けたままの呪術師は、表情一つ変えずにその推測を冷淡に撥ね退ける。
「窓ガラスが割れた直接の原因は、桜子さんの術式によりますがな」
「え……?」
祥吾は弾かれたように顔を上げ、隣に座る巫女装束の桜子を凝視した。
彼は混乱する思考を整理しようと、的外れな仮説を口にした。
「術式って……。昨日のあの窓ガラスが割れたのって、突風だったんじゃなかったのか?もしかして、桜子ちゃんが会社の近くまで来て、外から石を投げたとか、そういう事?いや、まさかそんな……」
その言葉が終わらぬうちに、桜子の瞳に冷たい怒りの炎が宿った。
彼女は祥吾を射抜くように睨みつけ、低く鋭い声で拒絶の意志を突きつける。
「……石は投げてませんよ。そんな稚拙な真似をするはずがないでしょう、大体、私はずっとここにおりました」
「あ、ごめん!いきなり犯人扱いみたいなこと言われたら、そりゃ怒るよな。本当に悪かったよ」
祥吾は反射的に頭を下げ、場を和らげようと必死に謝罪の言葉を並べた。
それを見つめていた呪術師は、ちらりと視線を祭壇に移し、淡々と不可視の真実を積み上げていく。
「飛ばさはったんは石やのうて、犬の式神です。それも五つ。……六つにせんかったのは、やはり清浄なままであるべき犬を巻き込みとうないからっちゅう御配慮からですか?」
「え?式神を飛ばす?」
祥吾は理解の追いつかない単語に首をかしげ、助けを求めるように桜子を見ると。
彼女は驚愕の眼差しで呪術師を凝視していた。
自らの秘められた術の数まで正確に見抜かれたこと、そしてその意図まで正確に言い当てられた事に、桜子は戦慄を禁じ得ない。
呪術師は無表情のまま、その場の全員の魂を凍りつかせるような鋭い問いを投げかけた。
「ほんで、……まだ肝心の『元凶』には、式神を飛ばさはらへんのですか?昨日は僕が横槍入れてしもたけど、今はもう、誰も横槍入れるもんはおりませんで」
その言葉を聞いた宮司の玄蓮は、最早恐怖を超えて、底知れぬ実力差への感嘆を漏らした。
「……どこまで見抜いてはるんですか。ほんまに、恐ろしい御人やなあ」
祥吾は周囲の会話の断片を繋ぎ合わせ、自分なりの結論を導き出そうとする。
窓ガラスを割ったのは、桜子が飛ばしたという「式神」なるものだ。
彼は確信を持って、その名を呼んだ。
「元凶って……。えっと、今の話からすると、桜子ちゃんが窓ガラスを割った元凶って事だよな?それで、その方法が、式神とか言うのを窓に飛ばしてって事だろ?」
呪術師は、その推論を否定することなく、静かに肯定を返す。
「窓が割れた物理的な原因については、それで正解です」
「じゃあ、やっぱり昨日の騒ぎの元凶は、桜子ちゃんだったのか。でも、何だってそんな過激なことを……。あんな危ない真似、しなくても良かったんじゃないか?」
祥吾はどこか安堵したような、しかし呆れたような口調で語るが、呪術師は即座にその甘い認識を打ち砕いた。
「そこは、大きな間違いですな」
「え?……どういうことですか?」
祥吾の問いに対し、呪術師は感情を一切排した氷のような声で、逃れようのない断罪を下した。
「昨日の騒動の、真の意味での『元凶』は……祥吾さん、おたくです」
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##剥がれ落ちる仮面、桜子の涙
静まり返った神殿の中に、祥吾の困惑した声が虚しく響いた。
「え、俺?俺が元凶って……俺は桜子ちゃんに、何かしたっていうのか?昨日だって、俺はただ会社にいただけだし……」
祥吾は必死に記憶を辿るが、目の前の巫女姿の彼女を傷つけた自覚など、これっぽっちも持ち合わせてはいなかった。
その時、それまで沈黙を守っていた桜子が、氷のように冷たい眼差しで祥吾を射抜いた。
「……祥吾さんは、嘘つきです」
その一言は、鋭利な刃となって祥吾の胸を深く抉った。
「えっ……俺が嘘、なんて……」
「あなたは、自分は人を傷つけるような人間やない、平和主義者やみたいな事を、一緒に食事をした時に言わはりましたよね?でも……それは全部、真っ赤な嘘やった。あなたは何の罪もない、無抵抗な命を奪ったんです。あなたに、何よりも大切にしていた家族を奪われた女の子が、この神社に来て、泣き崩れていましたよ」
桜子の声は怒りで震えており、その双眸からは今にも涙が零れ落ちそうであった。
そして桜子は一歩、祥吾に詰め寄る。
「祥吾さんの家で飼われている5匹の犬たちが、ミカヅキという名の犬の命を無残に奪ったこと。その犯人の話を聞いた時、私はその子から写真まで見せて貰いました。谷口家の、あの5匹の犬たちによる犯行やという証拠を。そして、その後のあなたたちの対応が、どれほど人の尊厳を踏みにじる、傲慢で冷酷なものやったか。それを、全部聞かされました」
「あ……」
祥吾の脳裏に、あの血塗られた庭の光景と、摩訶不思議食堂で見た凄惨な映像がフラッシュバックする。
桜子は、吐き捨てるように続けた。
「見損ないました。自分をよく見せるためやったら、あなたは平気で嘘をつける、最低の人なんですね」
怒りを通り越し、深い落胆に染まった彼女の言葉は、祥吾にとって死刑宣告にも等しかった。
「……ごめん」
祥吾は、ただ力なく頭を下げるしかなかった。
しかし、桜子の追及は止まらない。
「私に言うことやありませんよね?謝るべき相手は、他にいるはずです」
「……分かってる。勿論、あの家族にも誠心誠意謝罪するつもりだよ。昨日の夜、不思議な食堂で、俺は地獄のような光景を見せられて、死ぬほど叱られたんだ。そこでやっと気付かせて貰った。俺が、如何に傲慢で、救いようのない愚か者だったかを」
祥吾は震える声で、昨夜の「気づき」を告白した。
「そうか……。だから、君に嘘をついてしまった俺のことを……本当に、ごめん。申し訳ありませんでした」
祥吾は深々と、床に頭がつくほどに桜子へ謝罪した。
その様子を、腕を組んで見ていた宮司の玄蓮が、鼻で笑って吐き捨てた。
「惚れた女に、ええかっこするために虚言とか、情けないのう。自分を偽って、そんな薄っぺらな嘘で塗り固めた男に、桜子を幸せにする力も、告る資格もあらへんやろが」
「……返す言葉もありません」
祥吾はただ、その罵倒を甘んじて受け止めた。
背後の壁にもたれかかる呪術師は、ただ無表情に、この因縁の決着を静かに眺めている。
「……これから、俺が今までやって来た悪事について、今まで傷つけた人たちに対して、一つずつ償いと謝罪をしていきます。俺の人生を、一からやり直すために」
祥吾が絞り出すように決意を口にすると、玄蓮の目がスッと細まった。
「……そうか。ほな、桜子にしでかした事、今ここで償って見せろや。ついでに俺の事は……まあ、今は言わんといてやるわ」
「え?だから、桜子ちゃんについては、今こうやって謝って……。それに俺、玄蓮さんに何かやっちゃいましたか?」
祥吾の頭の中は再び混乱に支配される。
目の前の威厳ある宮司に、何か不義理をした記憶など欠片もない。
「なるほどなあ。都合よく忘れてるっちゅう事か。……まあ、無理もないわな。あの時、俺は普段着やったし、髪も今より長かった。この神社の境内の外で会えば、気付かんわなあ」
玄蓮はニヤリと、どこか残酷な笑みを浮かべた。
そして、神殿の奥に漂う線香の煙を見つめながら、重々しく口を開く。
「丁度ええわ。恐らく今この時が、全ての因縁を解き明かす頃合いなんやろな。よっしゃ、包み隠さず全部話したる」
玄蓮の目が、過去を見据える鋭い光を宿した。
「これはな、まだ今の桜子になる前の桜子から聞いた話で、おどれが悪ガキやった頃の話や」
神殿の灯火がパチリと音を立てて弾け、不気味な影が壁に揺れる。
玄蓮が語り始めたのは、祥吾が葬り去ったはずの、最悪の記憶であった。
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##十年前の邂逅――交差する因果と鉄錆の雨
神殿の空気が、玄蓮の低く重みのある声と共に、十年前のあの夜へと引き戻されていく。
祥吾は、自分が「ただの悪ふざけ」として記憶の隅に追いやっていた出来事が、一人の少女の人生をどれほど無残に、徹底的に破壊したのかを、その耳で直視することとなった。
#踏みにじられた無垢
かつて、名門私立中学の教室は、祥吾という「王」が支配する独裁国家であった。
大企業重役の息子という絶対的な盾を持つ祥吾の周りには、虎の威を借る狐たちが群がり、冷酷なスクールカーストを形成していた。
その標的となったのが、当時からひときわ目を引く美しさを持っていた桜子である。
女子たちはその美貌を妬み、祥吾たちはその「いじりがい」のある反応を娯楽として消費した。
いじめは日を追うごとにエスカレートし、陰湿な嫌がらせは直接的な暴力へと変貌を遂げていく。
そしてある日、悲劇は起きた。
祥吾たち数名に追い詰められ、揉み合いになった末、桜子は教室の窓ガラスへと叩きつけられた。
ガシャァァァン!!
凄まじい破壊音と共に、鋭利な刃と化した硝子が、桜子の右腕を深く、容赦なく引き裂いた。
手首の上あたりから肩の下にかけて、鮮血が溢れ出し、白い制服は一瞬で無残な赤に染まった。
しかし、事件は祥吾の両親という巨大な権力の前に、歪められた。
「子供同士の喧嘩で、偶発的に起きた事故」
学校側は事実を捻じ曲げ、祥吾たちは形式上の謝罪だけで放免された。
桜子の両親もまた、相手の社会的地位と支払われた多額の治療費を前に、泣き寝入りを強いられた。
「もう忘れなさい。相手はあの方々なのよ」
親にさえ背を向けられた桜子に、祥吾たちは追い打ちをかける。
「謝ってやっただろ。いつまでもぐちぐち言うなよ、粘着質だな。さっさと忘れろよ」
この瞬間、彼女の心は完全に壊れ、二度と学校へ通うことはできなくなった。
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#コンビニ前の罵倒と、影の救世主
月日は流れ、桜子が不登校のまま高校生としての籍を失いかけていた、ある夜のこと。
進学校でのエリートコースを謳歌していた祥吾たちは、塾帰りにコンビニの前でたむろしていた。
そこへ、親からの「いつまでも甘えるな」「さっさと忘れて学校に行け、それが出来ないなら自立しろ」という叱責に耐えかね、家を飛び出した桜子が通りかかる。
「あ、見ろよ!お前、まだ引きこもりやってんの?だせえ!」
祥吾の嘲笑に、取り巻きたちが下品に同調する。
桜子は震える足で立ち止まり、魂を振り絞って問いかけた。
「あなたたちは……罪の意識はないの?」
その悲痛な叫びに対し、祥吾は飲み干したばかりの空き缶を弄びながら、平然と言い放った。
「だからあの時に謝っただろうが。いつまでも根に持つなよ。昔のことでねちねち、粘着質ってお前のこと言うんだよ。さっさと忘れたらいいだろうが!」
それに同調するかのように、当時の祥吾とつるんでいた悪ガキ仲間達も罵倒を浴びせる。
「そうだそうだ!粘着質!」「忘れて前向けよ、ブス!」
そして祥吾は、その手に持っていた空き缶を、ゴミでも捨てるように桜子へと投げつけた。
しかし、その缶は狙いを外し、背後から歩いてきた一人の男性の方へと飛んでいく。
パシッ。
鋭い音と共に、缶を受け止めたのは、黒の革ジャンを羽織った、鋭い眼光を持つ三十歳ほどの男性――玄蓮であった。
「なんじゃこのクソガキ。……俺に喧嘩売っとんのけ?」
玄蓮は低く笑いながら、祥吾たちを睨みつけた。
「喧嘩やったら買うたんぞ、クソガキ共。あぁん?」
玄蓮が握りしめた拳が、一瞬、不自然な光を放ったように見えた。
そして。
グシャリ……!
硬いはずの缶が、まるで柔らかいこんにゃくであるかのように、異様な力で無残にひしゃげ、一塊の鉄屑へと成り果てる。
その尋常ならざる「握力」に、祥吾たちは顔を引き攣らせた。
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#犬上玄蓮と真山桜子
投げつけられた空き缶を受け止めた玄蓮は、怒声を叩きつけた。
「この飲み終わりのやつ、他人様に向けて投げるとかどういう神経しとんのじゃ!それとも何か?俺に捨てとけっちゅうんけ?どういう教育されてどういう育ち方しとんのじゃ!俺が再教育したろか?」
「い、行こうぜ……っ」
自分たちの手に負えない本物の「暴力」を前に、彼らは蜘蛛の子を散らすように夜の闇へと逃げ去っていった。
「おいコラ悪ガキ共!おどれの手でゴミ捨てて行かんかい!」
こうして、嵐が去った後の静寂の中で、桜子は震えながらも、丁寧に頭を下げた。
「あの……有難う御座います」
玄蓮は無造作に後頭部をかきながら、ひしゃげた缶をゴミ箱に放り込んだ。
「別に助けたわけやないけどな。……なんや御嬢ちゃん、事情持ちけ?あいつらがまた絡みよったら面倒や。おっちゃんが家まで送ったるわ」
「……あなたは、まだお兄さんだと思います」
桜子の微かな反論に、玄蓮は一瞬目を見開き、そして豪快に笑い飛ばした。
「あっはっははは!そりゃあ、おおきになぁ!こう見えても三十なんやけどな。まあええわ、ほな、家まで送ったる」
玄蓮はそう言って、怯える桜子を安心させるように一歩距離を置いた。
「そや、どこのおっちゃんかもわからんのに、家まで送られんのは嫌やんな。俺は犬上玄蓮。犬の上と書いて、玄武とか玄人の玄に、蓮の花の蓮で玄蓮や。宜しゅうな」
「……真山、桜子です」
この時、深い傷を抱えた一人の少女と、異能を持つ一人の男が結んだ縁。
それは十年という月日を経て、犬神神社の神殿で「加害者」である祥吾を裁くための、一本の太い鎖へと繋がっていた。
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##人ならぬ者への契約――忘却と呪詛の十年
玄蓮は、夜の帳が下りたコンビニの前で、震える肩を抱く桜子に静かに語りかけた。
「ほな、家まで送るで。こんな時間に女の子が一人で歩いとるもんやない」
しかし、桜子は拒絶するように首を振った。足元のアスファルトを見つめたまま、消え入りそうな声で呟く。
「今はちょっと・・・帰りたくなくて」
その横顔には、帰るべき場所を失った者の孤独が張り付いていた。
玄蓮は小さく溜息を吐くと、おどけたように、しかし包み込むような優しさで微笑んだ。
「なんや、家族と喧嘩でもしたんけ?ほな、おっちゃんが間とりもったろか。こういうんはな、赤の他人がおった方が、案外仲直りしやすい事もあるもんやからな」
そうして玄蓮は桜子を家まで送り届け、戸惑う両親の前に堂々と足を踏み入れた。
「子供が夜に飛び出すとか、今の世の中危なすぎますわ。ちゃんと膝突き合わせて、話し合うべきやと思いまっせ」
玄蓮の毅然とした態度に、両親も渋々ながら対話の席に着いた。
玄蓮が間に入ることで、辛うじてその場の破綻は免れたが、親子の間に横たわる断絶は既に修復不可能なほどに深まっていた。
玄蓮は一旦、桜子の部屋に入れてもらい、そこで彼女のこれまでの人生の全てを静かに聞き届けた。
いじめの凄惨さ、窓ガラスによる右腕の傷、そしてそれらを「無かったこと」にしようとする大人たちの欺瞞。
玄蓮は話を聞きながら、後に復讐の対象となるいじめっ子たちの氏名、その全てを一文字も漏らさず手帳に記録していった。
再び両親と対峙した玄蓮は、有無を言わせぬ圧を纏って提案を持ちかけた。
「ほな、私の養子にしても宜しいですか?もしくは、うちの神社で巫女として働いて貰うってのはどうですか?」
京都の神社の巫女として彼女を引き取りたいという打診に、厄介払いを望んでいた両親は安堵の表情を見せ、了承した。
翌日、桜子は玄蓮に連れられ、住み慣れた街を捨てて京都へと向かう新幹線に揺られていた。
車窓を流れる景色を眺めながら、彼女は堰を切ったように、心の奥底に沈めていた泥を吐き出した。
「忘れられない自分が、弱いのでしょうか。私は、あの人たちが言うように粘着しているのでしょうか」
涙が止まらない。
震える声で、彼女は死への憧憬を語り始めた。
「忘れたくても、目を閉じればあの時の笑い声が聞こえる。忘れたいのは、暴力を振るわれ続けた私の方なのに。復讐を考えた事もありました。包丁を持ち出そうとした事も、手首を切りつけた事もありました。でも、死ねなかった。玄蓮さんと出会ったあの夜、本当は何とかして死ぬことしか頭になかったんです。こんな醜い私が、全部いけなかったのでしょうか」
玄蓮は、その言葉を遮ることなく、ただ静かに聞き続けていた。
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こうして、京都駅に到着した二人はバスに乗り換えて、玄蓮の住まう神社へ到着する。
そして、京都の山深い神社の門をくぐった時、彼は桜子に驚愕の真実を告げた。
「ここは表向きこそ動物に関する神社、それも犬にまつわる色が濃い神社やが、その実はな、犬神の呪術を代々受け継いできた場所や。それも、人を呪う邪術をな」
玄蓮の瞳に、禍々しい異能の光が宿る。
「亡き祖父と父親から、俺はその全てを受け継いだ呪術師にして邪術師や。桜子が忘れたがってることを忘れる事も、そして復讐する事も、俺なら教えてやれる。ただしな、桜子。その場合は代償を支払わなあかんし、人間をやめる事になるぞ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、桜子は言い放った。
「差し出せる代償は全て支払い、人間もやめます」
迷いのない、鋼のような即答だった。
玄蓮は一瞬呆気に取られた後、腹の底から豪快に大笑いした。
「あっはっは!既に壊れとったか。いや、壊されたって言うべきやな。ええわ、気に入った」
玄蓮は表情を引き締め、師としての顔を見せる。
「十年間、死ぬ気で修行せえ。そしたら、一人前の『犬神遣い』になるで。ほんで、桜子は何を代償に支払う?」
桜子は自分の右腕の傷をなぞり、決然と告げた。
「この忌まわしい記憶と、今までの全ての縁を」
「楽しい記憶もゼロやないやろうに。数少ないとは思うが、楽しい記憶も全部消えるぞ?」
「構いません」
桜子は再び即答した。
過去の自分を構成する全てを、彼女は不要なゴミのように切り捨てた。
「俺との縁はどうする?俺とも出会う前からやり直すか?残す縁を選ぶ事は出来るがな、そのためには別の代償が必要になる。要するに別料金や」
「弟子入りするのですから、その縁だけは残して下さい」
玄蓮は満足げに頷き、最後の「代償」について笑いながら付け加えた。
「ほな、そのための別途の代償として、今日からお前は妖怪変化や怪異以外の犬からは、死ぬほど怯えられる存在になるぞ。二度と娑婆におる普通の犬を飼う事は出来ひん。人面犬とか、あの辺の怪異犬を飼いたいって言うんなら話は別やがな」
こうして、玄蓮と桜子は師弟の契りを交わした。
桜子はそれまでの人間関係に関する記憶を全て失い、ただ一人「犬上玄蓮」という恩師との縁だけを魂に刻んだ。
代償として、彼女は街を歩けば普通の犬たちが震え上がり、腰を抜かして逃げ出すほどの「捕食者の気配」を纏うこととなった。
それから「犬上桜子」となって十年の月日が流れ、彼女は一切の迷いを捨てた一人前の犬神遣い、そして呪術師・邪術師として、血塗られた才能を開花させていったのである。
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##忘却の果実と、身勝手な贖罪
全ての話を語り終えた神殿の中、祥吾は己の耳を疑うように目を見開いて立ち尽くしていたが、それ以上に、当事者である桜子の驚愕は計り知れないものだった。
彼女は震える指先で自らの右腕をなぞり、かつての自分が何を失い、何を手放したのかを、今初めて突きつけられていた。
その重苦しい沈黙を切り裂くように、壁にもたれていた呪術師が、事も無げに淡々とした調子で言葉を発した。
「……なるほど。それが呪術者にして邪術師になるための代償でしたか。荒れ狂う心を鎮め、呪術の器とするために、全ての因縁を海へと沈めた。道理で気配が澄み渡っているわけですな」
「そうですねん。そやから桜子は、真山の姓を名乗ってた時代の両親に道端で会うても、それが誰なんか全くわからんでしょうな」
すると、現連は桜子に向き直る。
「ほんで、桜子。君が祥吾と再会した時、これっぽっちも気付かんかったのも、今話したことが理由や。」
玄蓮はそう言うと、射貫くような視線を祥吾へと向け、鼻で笑った。
「おどれが桜子に気づかんかったんは、ただの鈍感過ぎる笑い話にしかならんけどな。まあ、あん時の桜子は、精神も体もボロボロで髪もぼさぼさ、眼もクマだらけやったさかい。今の凛とした姿とは別人レベルで姿形が違うとるから、しゃーないっちゃしゃーないか」
「そんな……。君が、あの時の……真山桜子だったなんて……。俺が、俺たちが壊してしまった、あの女の子だったのか……」
祥吾は膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、驚愕と罪悪感の波に呑み込まれていく。
桜子は、茫然自失とした様子で自らの腕を見つめ、静かに、しかし重みのある声を漏らした。
「私の右腕の傷、事故やなかったんですね。そして、私が差し出した記憶の中に……祥吾さんが、いてはった……」
「そや。おい、おどれ。良かったのう、望み通りになって。桜子はなあ、おどれがかつて喚き散らした『忘れろ』っちゅう言葉通り、綺麗さっぱり、一文字残さず忘れてくれたぞ?」
玄蓮の言葉は、鋭利な刃となって祥吾の心臓を突き刺した。
「そやから、今の桜子の中には過去の恨みつらみなんて欠片もあらへん。お前が桜子から恨まれてる内容は、出会った後に嘘をつかれた事と、ミカヅキっちゅう犬を絶命させたことについてだけや。どや、十年来の望みが叶うたんやさかい、祝杯でもあげるけ?」
玄蓮は口角を上げて笑うが、その眼は底冷えするような怒りに満ちており、全く笑ってはいなかった。
「そんな……。桜子ちゃん、いや、桜子……本当に、俺のこと、覚えてないのか?俺があんなに酷いことをしたのに……」
祥吾は縋るような思いで桜子を見つめるが、彼女の瞳に宿っているのは、懐かしさでも憎しみでもなく、ただ困惑と冷ややかな疎外感だけだった。
「はい。あの京都の路地での出会いが、私にとっては初対面です。それに、師匠は私の昔のことについては何も話して下さらなかったから、私の過去を聞いたのも、今この場が初めてです。そやから、あなたの事は私の記憶には無かったんです」
桜子は淡々と、まるで見知らぬ他人の物語を読み聞かされたかのような口調で答えた。
「なんや、おどれ。忘れろ言うて実際に忘れてくれとんのに、なんでそんな嫌そうな顔しとんのや?もっと喜べや。お前の罪は、被害者の記憶から消滅したんやぞ?」
玄蓮の吐き捨てるような言葉が、神殿の天井にまで響き渡る。
祥吾は必死に声を絞り出した。
「いや、そんな……。本当に忘れ去るなんて思って無かったし。それに……あの時のこと、俺は今度こそちゃんと謝りたくて……向き合わなきゃいけないって、そう思ったから……」
「なんでおどれの都合に合わせて、こっちが記憶操作せなあかんのじゃ!」
玄蓮の怒号が、物理的な衝撃を伴って祥吾を襲った。
「ええか、よう聞け。桜子の記憶はなあ、呪術の代償として魂から削り取って差し出されたもんや。その場の欲望やご都合主義で手放した安もんの記憶とは訳が違うんやぞ!」
一歩、また一歩と玄蓮が祥吾に詰め寄る。その体からは、人智を超えた禍々しい圧が溢れ出していた。
「ほんのちょいと反省したからって、過去のことを頭下げさせて下さい、許して下さいってか?ほんで、そのために、本人が思い出すのもしんどい地獄を、今度は覚えててくれんかったら都合悪いとか……なあおどれ、何様やねん?」
玄蓮のどすの効いた声が、祥吾の鼓膜を震わせ、魂の奥底までを泥沼に沈めていく。
「そ、それは……俺はただ……」
祥吾が後退りしようとした瞬間、玄蓮の咆哮が神殿を震わせた。
「ほんまに悪いと思うとるんやったら、ここで素直に桜子に殺されとけや!!」
「ひっ……!」
祥吾はびくんと大きく肩を跳ねさせ、心臓が止まるかと思うほどの恐怖に、声も出せずに立ち尽くした。
一喝された衝撃で、思考は真っ白になり、指先一つ動かすことさえ叶わない。
目の前にいるのは、慈悲深い宮司などではない。
愛弟子を地獄に突き落とした男を、魂の底から憎悪する一人の凄絶な邪術師であった。
祥吾はただただ、自らの傲慢さが招いた因果の果てで、震え上がるしかなかった。
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##慚愧の伏礼と、執行猶予の断罪
祥吾はその場に崩れ落ちるように膝を突き、冷たい板張りの床に額を擦りつけた。
かつての傲慢なエリートの面影は微塵もなく、ただ震える体で、自らが踏みにじった少女へと魂の底からの謝罪を叩きつける。
「犬神桜子さん……いや、真山桜子さん。本当に、本当に申し訳ありませんでした。俺が、俺たちがしたことは、謝って済むようなことじゃない……」
祥吾は何度も、何度も、壊れた機械のように謝罪の言葉を繰り返す。
しかし、巫女装束を纏った桜子は、その慟哭を冷ややかな、凪いだ海のような瞳で黙って見下ろしているだけであった。
「口先だけで謝るんなら、誰にでも、それこそ三歳の子供にでも出来る話やがな」
玄蓮は吐き捨てるように言い放ち、鼻で笑った。
「……勿論、言葉だけじゃ足りない。これから、俺の全てを懸けて、誠心誠意償っていきます。あなたの右腕の傷も、もう手遅れかもしれない。でも、もし少しでも痕を消したいと願ってくれるなら、最高の治療を受けられるよう、その費用も全て俺が出します。それに、俺たちが奪ってしまった命……あの茶色い犬の家族にも、誠心誠意の謝罪と賠償を尽くします」
祥吾が必死に謝罪を続ける中、不意に彼の脳裏を、ある恐ろしい疑惑が掠めた。
あの惨劇、失った愛犬たち。
彼は恐る恐る顔を上げ、桜子の静謐な表情を見つめた。
「犬……そうだ。なあ、桜子。俺の家の5匹の犬たち、あんな無惨な最期を遂げたのは……もしかして、君が……?」
祥吾は、それがなんらの過失による偶然であってほしいという、あまりにも身勝手で淡い期待を抱きながら問いかけた。
しかし、桜子の答えは、その微かな希望を無慈悲に粉砕した。
「はい」
短く、一点の曇りもない肯定。
祥吾は息を呑み、さらに喉を震わせる。
「じゃあ、俺の当時の同級生たちが次々と災難に遭っているのも、会社の先輩が脹脛を怪我したあの奇妙な事故も……」
「はい。私の犬神、式神を使ってやりました」
桜子の言葉には、罪悪感も昂ぶりもなく、ただ「当然の処置をした」という冷徹な響きがあった。
「そんな……。君が、本当に……」
祥吾は再び床に突っ伏し、己の因果が、目の前の美しくも恐ろしい邪術師を創り上げたのだという現実に絶望し、うなだれた。
「警察にでも突き出したかったら、今すぐ通報してみろや。まあ、現代の法では『迷信犯』、つまり科学的根拠のない呪詛やからな。不可罰行為ってことで、裁判所も警察も手出しは出来ひんやろうけどな」
玄蓮は愉悦に浸るような笑みを浮かべ、祥吾の絶望を嘲笑った。
「……どうして。君は記憶を捨てて、あの日から復讐心も失ってしまったはずなのに。どうして、ここまで残酷なことが出来るんだ……」
祥吾が絞り出すように問うと、玄蓮は種明かしでもするかのように、冷酷な真実を語り始めた。
「俺は元々、桜子の手で復讐を遂げされるつもりやったからな。桜子は、おどれらのような救いようのないクソガキ共に、人生で最も輝かしいはずの少女時代を無惨に奪われたんやから、桜子自身の手で、おどれらを始末させるつもりやったんよ。その絶好の機会が向こうから歩いて来てくれたんや。そりゃあ、実行に移さん手はないわな。桜子の記憶は消えても、刻まれた業は消えへん。そやから、俺が最高の舞台をセッティングしたっちゅうこっちゃ」
玄蓮は満足げに腕を組み、背後で壁にもたれかかる呪術師へと視線を送った。
呪術師は、ただ冷ややかに、傍観者としての立場を崩さずに呟く。
「因果応報、自業自得。諦めなはれ。投げた礫は、いつか必ず自分の後頭部に当たるもんです」
「呪術師さんも、今のところ全く解呪しはる気はなさそうやしな。ほな、桜子。遠慮はいらん、こいつを食わしてええぞ。仕上げや」
玄蓮が冷酷に処刑の合図を送った。
桜子は、先ほど呪術師から返却された式神の札を、しばらく無言で見つめていた。
彼女の指先が札をなぞり、やがて彼女は静かに口を開いた。
「……師匠。ミカヅキのご家族に、祥吾さんがやるべき事を全てやらはってからでも、ええんとちゃいますやろか?」
意外な言葉に、玄蓮は眉を跳ね上げた。
桜子は祥吾を見据え、氷のような声を放つ。
「勿論、お金だけで解決しようとするなら、今度こそ完全に仕留めます。でも、まずは補償とか、謝罪とか、祥吾さんが今、自分で口にしたことを全部させるのが宜しいかと思います。そのうえで、まだ魂が改まってへんようやったら、今度こそ私が引導を渡します。……師匠、それで宜しいでしょうか?」
玄蓮は暫し沈黙し、愛弟子の瞳の奥にある決意を読み取った。
「……まあ、桜子がそうしたいって言うんなら、俺は止めんよ。良かったのう、首の皮一枚繋がったぞ?命があるうちに、真心こめて頭を下げ続けろや。傷つけた家族に赦しを請うて、償いを見せてみろ。もし出来ひんかったら、今度はおどれの飼犬やった5匹の後を追わせたるからな」
「……はい」
祥吾は、許されたわけではないことを理解しながらも、差し伸べられた「償いの機会」を逃さぬよう、深く、深く頭を下げ続けた。
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##落日の誓い、そして償いの端緒
祥吾は板張りの床に額を擦り付けたまま、魂を削り出すような思いで最後の一言を絞り出した。
「必ず……必ず、やり遂げます。失った命は戻らないけれど、俺にできる全ての誠意を尽くして、一つずつ報告させていただきます」
かつては自分を高く見せるための言葉しか持たなかった男が、今はただ、目の前の巫女装束の犬山桜子――自分が壊した「真山桜子」に、嘘偽りない誓いを立てていた。
桜子は何も語らず、ただ静かに、あるいは慈悲とも断罪とも取れる沈黙を保ったまま、祥吾を見送る。
祥吾はもう一度、その場に跪いて誠心誠意の謝罪を捧げると、重い体を引きずるようにして、寄り添う呪術師と共に神殿を後にした。
その際、背後から宮司の玄蓮が、氷のように冷たく、しかしどこか試すような皮肉を投げつけた。
「おい、おどれ。これからは、空き缶くらいは自分の手で、責任持ってゴミ箱へ捨てろよ」
その言葉は、十年前のあの日、彼が放った「ゴミ」という蔑視を、今度は自分自身が引き受けろという重い戒めであった。
祥吾は立ち止まり、背中越しに「……はい、肝に銘じます」とだけ短く答え、鳥居をくぐった。
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静寂に包まれた帰り道。
鬱蒼とした木々の間を縫うように、二人の男の足音が砂利を噛む。
祥吾は、隣を颯爽と歩く黒衣の男――呪術師へ、抑えきれない疑問を投げかけた。
「あの、……此岸さん。いえ、呪術師さん。昨日の窓ガラスが割れた時……あれって、やっぱり、俺が一方的に襲われてたって事なんですよね?」
「そうですなあ。まさに桜子さんに、犬神の術式で命を狙われとった現場です」
呪術師は、夕飯の献立でも話すかのような、驚くほどあっさりとした口調で事実を告げた。
祥吾は喉を鳴らし、再び死の淵を歩いていた自分の危うさに身を震わせる。
「そうですか。……あの、本当に有難う御座います。俺、此岸さんに助けて貰わなかったら、今頃どうなっていたか。本当に、有難う御座います」
祥吾が深く頭を下げると、呪術師は歩みを止めることなく、どこか気だるげにその言葉を受け流した。
「僕は、別に祥吾さんを助けたわけやおへん。ただ、あのままやったら、式神が祥吾さんを貫通して役目を終えて散る際に、また派手に窓ガラスを突き破ったりして、周囲に破片を飛ばされるんがかなんから、あれ以上暴れんように一旦預からせてもろただけですさかい。つまりは、僕の都合です」
その冷淡とも取れる実利的な答えに、祥吾は苦笑いしながらも、さらに深く腰を折った。
「でも、結果として、俺はこうして生きています。そのおかげでこうして、自分の罪に向き合う機会を貰えたんです。本当に、有難う御座います」
「それなら、宜しゅうおす。お互い、命があるうちが華ですさかい。ほな、僕はちょいと立ち寄るところがありますさかい、ここで別れましょか。乗って来た路線バスと同じ系統の京都駅行に乗らはったら帰れます。月曜日に、またそちらさんの会社で会いましょう」
呪術師はそれだけを言い残すと、驚くほどの速さで路地の向こうへと、影が溶けるように歩き去って行った。
祥吾は、その後ろ姿が見えなくなるまで「はい、有難う御座います!」と声を張り上げ、見送った。
一人になった祥吾は、ガタガタと揺れる京都駅行きのバスに揺られながら、暮れなずむ京の街並みを車窓越しに眺めていた。
これからの、気が遠くなるような償いの工程が、重く、重く頭の中を占拠していく。
「まずは……今の物産展の期間を無事に終えたら、一旦名古屋に帰ろう」
祥吾は拳を握りしめ、自分に言い聞かせるように呟いた。
「そして、あの茶色い犬の……ミカヅキって言ったっけ。本当に酷い事をしたな、俺は。犬を殺しただけじゃない、あの家族の心まで、あの日、無残に踏みにじったんだ。謝って許される事じゃないけれど、それでも、ちゃんと謝らないと」
脳裏に浮かぶのは、血まみれになった茶色い犬を抱きしめて泣きじゃくっていた高校生の少女の顔だ。
「恨んでるだろうなあ、俺の事……。殺したいほど憎まれて当然だ……」
祥吾は、かつて自分が吐いた「粘着質」という言葉がいかに残酷な凶器であったかを思い知り、全身を襲うような凄まじい罪悪感に身震いした。
それでも今の自分には、逃げるという選択肢は残されていない。
自分が撒いた悪業の種を、自分の手で一つずつ摘み取らなければならない。
祥吾は、京都の夕闇が飲み込んでいく街並みを見つめながら、どんなに拒絶されようと、どんなに罵倒されようと、誠意ある対応を貫き通すことを、静かに、しかし鋼のような固い決意で心に誓っていた。
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##稲荷の杜の茶会と、因果の報告書
呪術師は、馴染みの豆腐屋で揚げたての香ばしい油揚げを購入すると、そのまま慣れた足取りでさらに北へと歩を進め、老舗の和菓子屋の暖簾をくぐる。
店内に漂う甘い香りに包まれながら、季節の風情を感じさせる柏餅を丁寧に包んでもらい、彼は再び山の方へと向かって歩き出した。
木々の緑が深まり、鳥のさえずりが響く参道を抜けて御狐神社に到着すると、そこには一人の少年、才狐が静かに佇んでいた。
神職の衣服を凛々しく着用したその少年は、呪術師の姿を認めるやいなや、その場に立ち止まり、深く恭しくお辞儀を捧げた。
呪術師もまた、静かに頭を下げてそれに応じ、杜の奥に集う異形にして尊き者たちへと挨拶を交わした。
「お待っとさんです。妖古さんには油揚げと烏龍茶、才狐さんと人面犬さん、それに女鬼さんとえらいこっちゃには、柏餅とほうじ茶で宜しゅうおすかな」
呪術師は穏やかな声でそう告げると、懐からそれぞれの好物を取り出し、順番に手渡していった。
本殿の古びた石階段に腰をかけていた妖古は、黄金色の油揚げから立ち上る香りに目を細めた。
「おおきになあ。ほんま、気が利く呪術師殿やで」
妖古は満足げな声を上げ、油揚げと烏龍茶をその大きな掌で受け取る。
続いて才狐も、その心を失ったかのような無表情は崩さないものの、受け取る指先にどこか浮き立つような微かな喜びを滲ませていた。
「有難う御座います」
その声は短かったが、静かな感謝が込められていた。
一方、華やかなオーラを放つ女鬼は、和菓子の包みを見てパッと表情を輝かせた。
「有難うねー♪ここの柏餅、マジで美味しいんだよね♪」
彼女は上機嫌に、柏餅とほうじ茶のペットボトルを手に取り、嬉しそうに微笑む。
えらいこっちゃ嬢も、銀髪を揺らしながら元気いっぱいに声を弾ませた。
「ありがとちゃん!えらいこっちゃな和菓子と御茶!テンション爆上がり、喜びのえらいこっちゃ!」
妖古の隣にちょこんと座る人面犬も、その顔に笑顔の皺を刻んで笑みを浮かべる。
「ありがとさんですなあ、ほんまおおきにやで。骨身に染みるで」
そうして、杜の静寂の中に全員の唱和が重なり合った。
「数多の御縁に感謝し奉ります、頂きます」
それぞれの食を楽しみ始めた穏やかな時間。
呪術師は、彼らの食が進むのを見守りながら、自らも一息ついて口を開いた。
「ほな、もう全部知ってはるでしょうけど、一応は終いまで報告しときます。あの犬神遣いの師弟、桜子さんと玄蓮さんのこと、そして過去の業に向き合い始めた祥吾さんのことを……」
呪術師は、神殿で繰り広げられた因縁の決着と、そこから始まった新たな贖罪の物語を淡々と語り始めた。
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##稲荷の杜の茶会――交差する縁と「えらいこっちゃ」な宴
木々のざわめきと冷気混ざり合う境内では、この世の理を軽々と超越した者達が集う、奇妙で穏やかな御茶会が繰り広げられていた。
数多の狐にまつわる神社を統べ、悠久の時を刻む天狐・妖古。
その長く美しい狐色の髪からは愛らしい狐耳が覗き、目の覚めるような深い朱色の着物が、千年の威厳を纏ってそのしなやかな肢体を包んでいる。彼女の釣り目は宝石のように輝き、見る者を惹きつける不思議な魔力を秘めていた。
その傍らには、自らの心を代償に差し出し、師匠である妖古から神速の技を伝授されている17歳の少年・才狐が、感情を削ぎ落とした静かな佇まいで控えている。
さらに、黒い美しき着物を奔放に着こなし、現代のギャルのような風貌を楽しみながらも底知れぬ霊力を隠し持つ鬼の超絶美少女、女鬼。
銀髪を夜風に靡かせ、黒いベレー帽とズボンタイプのセーラー服姿でちょこんと座る小柄な少女、えらいこっちゃ嬢。
そして、人の顔を持ちながら体は犬という、どこか哀愁漂う風貌の人面犬。
この奇天烈な一団の中に、呪術師は馴染みの友人であるかのように事も無げに腰を下ろしていた。
呪術師は、目の前の者達に視線を送りながら「以上が、今回の件です。僕は明後日から1週間程度やけど、祥吾さんのいてはる会社で、別のAIの会社から来はる人と一緒に仕事しつつ、様子見ときます」と、淡々と報告を締めくくった。
それを聞き、手元の柏餅を満足げに咀嚼していた女鬼が、パッと顔を上げて快活に笑う。
「ありがとね、今回も丸く収めてくれて、流石の腕前って感じ♪呪術師さんが味方でいてくれると、ホント助かるわー♪」
彼女は上機嫌にほうじ茶のペットボトルを開け、喉を潤しながら満足げな溜息を吐いた。
妖古は、その美しくも鋭い釣り目を細め、静かに微笑を浮かべた。
「ほんま、女鬼ちゃんがスカウトするんもわかるでな。呪術師殿の手際はいつもながら鮮やかじゃ。しかしまあ、なんで狐の神社で犬の御参りするもんが後をたたんのやろね?」
彼女は楽しそうにカカカと笑い、自らの長く美しい髪を指先で弄んだ。
その問いに対し、妖古の膝の温もりを堪能していた人面犬が、得意げに顔を上げて言葉を挟む。
「やっぱ、俺っちが直々に犬にまつわる神社へ案内して行かなあかんかな。ま、もしも女の子が相手やったら、俺っちのイケメンっぷりに惚れてまうから、お参りどころやなくなるかもな!」
人面犬はそう言ってニヤリと笑い、自らの端正な「人の顔」を誇示するように身を乗り出した。
妖古は「カカカ、相変わらずじゃのう」と、呆れたように、しかし慈しむように人面犬の背中を撫でながら、烏龍茶を一口含んだ。
その様子を見ていた呪術師は、僅かに口角を上げて言葉を添える。
「そやったら、人面犬さんに祥吾さんを案内してもろたら宜しかったかもしれませんな。あの方も、人面犬さんのような粋な御仁には、ええ刺激になりますやろ」
人面犬は「そりゃまあ、出来ん事はないけどな」と、少しだけ真面目な顔を作ってみせた。
「俺っちも犬神神社の事は知っとるし、あの宮司が弟子にした子も別嬪さんやさかい、ちょくちょく様子は見に行ってはおるからな。でも、今日は呪術師さんに任せとけばええやろう思て、ここで待たせてもろたんよ。それに、妖古さんの膝の上、久々に堪能したかったんや」
そう言って人面犬は、甘えるように再び妖古の膝の上へと体を埋めた。
その様子をずっと無表情で眺めていた才狐が、ふとした疑問を口にする。
「……犬と狐って、相性は良いんですか?」
その純粋な問いに、妖古は人面犬の肉球を優しく「ぷにぷに」と弄りながら、優しく諭すように答えた。
「娑婆やと色々言われとるみたいやけど、我ら側の理においては、娑婆の理屈も価値観も通用せんからのう。ふふ、肉球可愛らしいなあ」
その愛らしい感触に、大妖怪である彼女もどこか童心に帰ったかのような表情を見せる。
人面犬は「肉球もイケてるし、顔もイケてますやろ?」とニコニコし、女鬼も「あはは、イケてるイケてる♪」と声をあげて笑い転げた。
呪術師は、そんな異界の住人たちの睦まじい光景を眺めながら、どこか遠くを見るような瞳で呟いた。
「一般人が参拝に来ようもんなら、えらいこっちゃな光景でっしゃろな」
その言葉には、淡々としていながらも、この奇妙な縁を楽しんでいるような響きが混じっていた。
すると、それまで柏餅に夢中だったえらいこっちゃ嬢が、突然立ち上がって両腕をぶんぶんと大きく振り回した。
「えらいこっちゃ!えらいこっちゃ!」
彼女のその無邪気な一言に、女鬼が「あはは、まさにそれな!」と再び大声をあげて笑い、境内の静寂は楽しげな談笑の渦へと溶けていった。
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##鉄錆の涙、泥濘に咲く誠実の芽
週が明け、祥吾が身を置く会社には、京都のAI導入支援を専門とする企業から数名のスタッフが派遣されてきた。
その中に混じり、周囲の喧騒をどこ吹く風と受け流す黒衣の男――呪術師も、サポートという名目でその場に加わり、静かに業務を開始した。
祥吾は支店長と共に物産展の最終局面を必死にこなし、水曜日の閉場と共に、ある場所へと足を運んだ。
かつて自らの傲慢さが招いた「事故」により、凄惨な怪我を負った先輩の入院先である。
「先輩、……本当に、申し訳ありませんでした」
祥吾は病室のベッドの傍らで、深く頭を下げた。
彼はそこで、呪術や式神という、常軌を逸した真実を包み隠さず伝え、全ては自分に原因があると謝罪した。
しかし、あまりにも荒唐無稽なその内容に、先輩は困惑の表情を浮かべた後、優しく笑って首を振った。
「祥吾、君は責任感が強すぎるんよ。そんな漫画みたいな話を持ち出してまで自分を責める必要はあらへんがな。君が気にする事やないから、早く元気な顔を見せてや」
善意に満ちたその言葉が、今の祥吾には何よりも鋭い刃となって胸に刺さった。
夜の帳が下りる頃、祥吾は社員寮で手早く荷物を纏めると、京都駅へと向かった。
ゴオォォォ……。
重厚な駆動音と共に、夜の新幹線が暗闇を切り裂き、彼を故郷である名古屋へと運んでゆく。
自宅に到着し、門をくぐった祥吾の目に飛び込んできたのは、あまりにも静まり返った「死の庭」であった。
かつて5匹の犬たちが賑やかに、時にじゃれあって遊び回っていたその場所には、今はもう何もない。
犬小屋も、遊び道具も、そして石畳に飛び散っていたであろう鮮血も、全てが綺麗に片付けられ、そこにはただ、冷たい虚無だけが横たわっていた。
家の中に入ると、心労で倒れた母が、やつれてはいたが病院から戻っていた。
祥吾は両親を座らせ、京都での不思議な体験、そして自分たちが「ミカヅキ」という茶色い犬から奪ったものの重さを、静かに、しかし断固とした口調で話し始めた。
「俺たちは、あまりにも傲慢過ぎたんだ。他人の痛みを想像もせず、自分たちの都合だけで全てを塗り潰してきた。……今なら、大切にしている家族を失った気持ちが、俺たちにもわかるはずだよね。今更遅すぎるのは分かってる。でも、ちゃんと謝りに行こう。そして、可能な限りの補償をしよう」
静かな決意を宿した祥吾の言葉に、両親もまた、自らの過ちを認め、深く頷くしかなかった。
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翌日、有給休暇を取得した祥吾と両親は、ミカヅキの家族が住む家を訪れた。
彼らは玄関先で、冷たい地面の上に膝を突き、深々と土下座をして謝罪を捧げた。
「本当に、申し訳ありませんでした。どのような補償も誠心誠意、全うさせていただきます」
祥吾の声は震えていたが、そこには一切の逃避はなかった。
対面して頭を下げた家族の中に、一人の少女がいた。
かつて祥吾たちが嘲笑い、踏みにじった、あのミカヅキの飼い主である。
少女は、溢れ出す涙を拭うこともせず、震える声で祥吾たちを見下ろした。
「正直……、まだあなたたちの事を赦せるなんて思えません。今だって、悔しくて堪らない。少し前までは、仇を討ちたいとか、呪い殺してやりたいとさえ思いました」
少女の言葉は、氷のように鋭く、祥吾たちの魂を凍りつかせた。
「でも……、今は、こう思っています。大好きだったミカヅキを、最期まで優しく撫でたこの手を、あなたたちの汚い血で汚したくない。……これ以上、ミカヅキとの思い出に、あなたたちの影を混ぜたくないんです」
その言葉は、どんな罵倒よりも重く、祥吾の心に刻まれた。
「本当に、……申し訳ありませんでした」
祥吾は再度、地面に頭を擦り付けた。
かつて犬上神社で交わした、あの恐ろしくも尊い約束。
彼は今、その第一歩を、血と涙の混じる泥濘の中から、確かに踏み出し始めた。
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##静寂の茶事、因果を解く序曲
祥吾が名古屋で過去の罪と向き合い、一つの約束を果たした、その週末の土曜日。
京都の朝は、清冽な空気が山から吹き下ろし、犬神神社の境内を清々しく浄化していた。
呪術師が石段を上がり、静まり返った鳥居をくぐると、そこには既に巫女装束を整えた桜子が待機していた。
「お早う御座います」
呪術師が足を止め、静かに会釈をして挨拶をすると、桜子もまた、凛とした所作で深く頭を下げた。
「お早う御座います。……こちらへどうぞ。師匠がお待ちです」
彼女の案内で、呪術師は迷いのない足取りで神社の奥にある、簡素ながらも風格の漂う客室へと導かれていった。
客室の重厚な扉が開くと、そこには既に椅子に腰掛け、静かに目を閉じていた玄蓮の姿があった。
二人の到着を察した玄蓮は、スッと音も立てずに立ち上がり、威厳と敬意の入り混じった態度で言葉を紡ぐ。
「お早う御座います。休日の朝からお呼び立てして、御足労願いまして、御手間かけます」
玄蓮の丁重な挨拶に、呪術師も「お早う御座います」と挨拶して、深々とお辞儀をして応じた。
桜子は一旦部屋を退くと、すぐに盆に乗せた3人分の茶菓子を用意して戻ってきた。
対面する形で腰を下ろした呪術師の前に、彼女は淀みのない所作で菓子を置き、静かに自身の席へと戻る。
「有難う御座います」
呪術師は合掌してお辞儀をすると、ふと思い出したかのように玄蓮へと視線を向けた。
「『静座』から、始めてもろても宜しゅうおすか?」
その提案に、玄蓮は一瞬だけ驚きに目を見開いたが、すぐに悟ったような表情でフッと微笑んだ。
「……心得ておいでですか。承知いたしました」
玄蓮が「静座、一拝一拍手」と短く唱えると、呪術師と桜子は呼吸を合わせ、一拝一拍手の儀法を執り行った。
部屋を満たす張り詰めた静寂の中で、3人の声が重なり合い、食前感謝詞が朗々と響き渡る。
「たなつもの、百の木草も、天照す、日の大神の、めぐみえてこそ。頂きます」
感謝の言葉を唱え終えると、それまでの重苦しい緊張感が、茶の湯気と共に少しずつ解けていく。
玄蓮は、呪術師の迷いのない作法を感心したように見つめ、茶を一口含んでから尋ねた。
「呪術師さんって、神道の方やったんですか?所作に全く淀みがないから、てっきりそうなんとちゃうかなって思いましたわ」
呪術師は、淡々とした無表情のまま、落ち着いた声で答えた。
「郷に入っては郷に従うようにしてます。それと僕は、言うたら仏教よりですかな。軸足は仏様の教えに置いてます」
「なるほど。万物に神を見出す我らとは、また違った真理の道をお歩きや」
玄蓮は深く頷き、穏やかに微笑んだ。
三人はしばしの間、茶を啜り、供された菓子の甘みを静かに享受する。
しかし、その穏やかな時間は長くは続かなかった。
玄蓮は茶碗を置くと、表情を師匠としての峻厳なものへと戻した。
「ほな、……桜子から話して貰おか」
その言葉を受け、桜子は「はい」と短く応じて居住まいを正した。
彼女は丁寧に一礼してから真っ直ぐな瞳で、改まって呪術師へと向き直った。
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##見透かされる守護、符術の端くれ
朝の澄んだ空気が神殿の静寂をより一層深める中、桜子は背筋を正し、目の前の呪術師を真っ直ぐに見据えて口を開いた。
「谷口祥吾さんから、メッセージで連絡がありました。ミカヅキのご家族の元を訪れ、誠心誠意の謝罪と補償をしたとのことです。その直後、被害に遭われたご家族の娘さんからも直接私に連絡が入りまして。彼らは本当に、土下座をして涙を流して謝ってくれたそうです。『あんな奴らは一生許せないと思っていたけれど、あの姿を見て、少しだけ……ほんの少しだけ、憎しみの鎖が解けたような気がする』と、彼女は言っていました」
桜子の声は、かつての憎悪に支配されていた時とは違い、どこか救いを見出したかのような温もりを帯びていた。
「それからもう一つ。祥吾さんは今、犬神の術式によって傷を負い、生き残ったご友人たちにも働きかけているそうです。自分たちの非を認め、真実を話し……近いうちに全員で、私のところへ直接謝罪に伺いたいと、そう伝えてきました」
呪術師は、差し出された茶碗の縁を見つめたまま、短く、そして重みのある声で応じた。
「さいですか」
その一言には、肯定も否定もなく、ただ届いた事実をそのまま受け止める静謐さがあった。
その様子を横で見ていた玄蓮は、堪らずといった風に深く息を吐き、呪術師に向かって苦笑を向けた。
「正直、あの時もそやったけど、今もあなたの事は計り知れへんっていうんが、俺の正直な感想です。何考えてはるんか、どこまでが計算なんか。……底が見えへん怖さがありますわ」
「それこそ、あの時も申しましたけど、僕はただの通りすがりの平凡な呪術師です。縁あってここに立ち寄らせてもろただけで、それ以上でもそれ以下でもおへん。あまり買い被らんといて下さい」
呪術師は、相変わらず無表情のまま、感情の起伏を感じさせない平坦な声で淡々と答える。
しかし、その圧倒的な「無」の境地にこそ真の実力が宿っていることを、玄蓮は肌で感じていた。
「少なくとも、俺が知る呪術師の中で、あなた以上の御仁を知りませんで。ハハハ、平凡の意味を辞書で引き直さなあきまへんな」
玄蓮が明るく笑うと、張り詰めていた空気が僅かに和らいだ。
「私も、師匠がここまで認めはる人に出会った事はありません。……えっと、呪術師さんは先ほど仏教寄りだと仰いましたが、仏道にもそのような、相手の術を完璧に封じ、無傷で返すような技があるんですか?」
桜子は、自身の負けを認めた上での純粋な向上心から、興味津々に尋ねた。
「僕がメインにしてるんは、符術と言うもんです。御札に文字を書いて、そこに法力や念、呪力や霊力等を込めて使うのが一般的ですな」
呪術師はそう言って、懐から一枚の護符をスッと取り出して見せた。
そこには複雑怪奇な文字が墨で書かれており、一見しただけで凡百の呪符とは一線を画す、圧倒的な威圧感が立ち上っていた。
「なんや、桜子。めっちゃ興味津々やんけ。そんなに惹かれとるっちゅうことは、あっちに弟子入りしたいんか?俺は止めへんぞ。……まあ、俺は寂しゅうなって、夜な夜な酒浸りになってまうやろうけどな!」
玄蓮が道化るように笑うと、桜子は即座に首を横に振った。
「浮気はしませんよ。私は師匠の弟子ですから。ただ、あれだけの神業を見せてもろて、興味が湧かない方が無理な話です」
その言葉を受け、呪術師は湯呑を手に取り、ゆっくりと茶を口に運んだ。
「僕は弟子をとる気はさらさらおへん。僕かて、まだまだ仏の道を修行中の身やさかい、人に教えるような立場にはおへんのです。それに……」
呪術師は一度言葉を切ると、立ち上る湯気の向こうから桜子を静かに見据えた。
「桜子さんは犬上遣い、その関連の呪術の方が、最も相性が宜しいでっしゃろ。桜子さんには、この神社の奥底に眠る御神体と、桜子さん御自身に宿り続けてはる年季の入った古き『守護者』が、しっかりとその背中について守ってはるんやから」
そう言って、何事もなかったかのように再び茶を啜る。
その瞬間、玄蓮と桜子は雷に打たれたかのように目を見開き、言葉を失った。
「……俺、あなたに何回驚かされてますやろね。どこまで見通してるんですか、あなたは」
玄蓮は、最早恐怖を通り越した感嘆を通り越し、乾いた笑いをあげるしか出来なかった。
この神社の禁域に秘められ、歴代の宮司ですらその全貌を容易には察せぬ守護の存在。
それを初対面の、それもジャンル違いであるはずの仏道に身を置くと言った男が、茶を飲むついでに指摘したのである。
神殿には、呪術師が置いた湯呑がカチリと音を立てる音が、不気味なほど鮮明に響き渡っていた。
祥吾の贖罪が形を成し始めたこの日、京都の片隅にある小さな神社で、呪術師の底知れぬ深淵が再び、静かに顔を覗かせていた。
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##魂に宿る体温――守護霊が紡いだ皮肉な因果
静寂に包まれた神殿の客室で、桜子は湯呑を握る指先に僅かな力を込め、身を乗り出すようにして呪術師を見つめた。
「私、ここに来てからの記憶しかありませんが……時折、街で出会う犬たちにひどく怯えられながらも、心のどこかで……言葉では言い表せへん『ぬくもり』のようなものを、かすかに感じていたんです。呪術師さん、あなたには何かが観えていて、思い当たる節がおありなんですか?」
呪術師は、その問いに直接は答えず、静かに視線を玄蓮へと移した。
「『守護者』の話……まだ、してはらへんのですか?」
その淡々とした問いかけに、玄蓮は苦渋に満ちた表情を浮かべ、深く溜息を吐いた。
「……それについては、桜子が記憶を代償にした時に、その因となった記憶もろとも消えてしまいました。そんで、その事については、無理に掘り起こして話すようなことでもないやろうと思うたんです。まあ、あまりにも悲しい話でもありますんでな」
「師匠、教えてください。どんなことであっても、私は受け止める覚悟があります」
桜子の真っ直ぐな、揺るぎない瞳に射抜かれ、玄蓮はついに観念したように重い口を開いた。
それは、彼女がまだ「真山桜子」として生きていた、小学生の頃の出来事であった。
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###捨て犬の魂と、結ばれた縁
当時、小学生だった祥吾は、既に残虐な遊びに手を染めていた。
彼が悪ガキ仲間達と一緒になって瀕死の重傷を負わせ、路地裏に打ち捨てた一匹の野良犬。
その無惨な姿を見つけたのが、幼い頃の桜子だった。
彼女は懸命にその犬を庇い、泥にまみれながらも助け出そうと奔走した。
しかし、その甲斐もなく、桜子が見守る中で犬は静かに息を引き取った。
「その時の、君の野良犬への想いがあまりにも強すぎたんやろな。犬の無念と、君の慈しみの念が混ざり合い、魂が縁となって繋がった。そいつは現世に形を成して現れる力こそないが、君を見守るように、ずっとその身に宿り続けてるんや。実を言うと俺はな、桜子が差し出した縁の中で、秘かにその縁は残しといたんよ。犬神遣いとしての才の証でもあったさかいな」
玄蓮は語りながら、自らの右手を虚空へと翳した。
「桜子が少女時代に、今みたいに力を引き出せる犬神遣いになっとったら、その犬を犬神として使えとったし、何やったら……その右腕に傷がつくような事態も、力付くで止められたかもしれん。……こんな風にな」
玄蓮が指先に意識を集中させると、一定以上の異能を持つ者にしか見えない「何か」がその手に宿った。
それは半透明の揺らめきとなり、玄蓮の意志に呼応するように、まるで生き物のようにしなやかに動き回る。
「一人前の犬神遣いは、その身に犬の霊や、犬神を宿すことは教えたやろ?桜子、君は子供の頃に、知らんうちにそいつを宿しとったんよ。そやから俺は、君を弟子に取ったし、この神社に招き入れた。」
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##因果の輪と、最高の適正
その話を聞いていた呪術師は、合点がいったように静かに頷き、冷めた茶を一口啜った。
「そやから、逆凪への対策らしい対策が観られんかったわけですか。道理で……」
呪術師の言葉に、玄蓮は再び緊張を走らせる。
「どんなに強力な呪術なり邪術を使おうとも、その反動、つまりしっぺ返しを『守護者』が全て食らい尽くしてしまう。呪術を組む上での最大のリスクが最初から無効化されとる。犬にまつわる呪術や邪術を組むには、これ以上ない最高適正ですわな。皮肉なもんですなあ、祥吾さんは無自覚にも、少年時代に犬にちょっかいを出したその時点で、自分を裁くための『最高の犬神遣い』を生み出す因となってはったわけですから」
呪術師の、あまりにも冷徹で、かつ正確な分析に、玄蓮は戦慄を禁じ得なかった。
「ちょ……マジですか。あの時、あの台座をちょいと見ただけで、そこまで見抜いてはるんですか……ほんま、この人には絶対喧嘩売らんぞ。絶対の絶対に、怒らせんようにせなあきまへんわ」
玄蓮は引き攣ったような笑いを浮かべながら、呪術師の底知れぬ深淵に改めて畏怖の念を抱いた。
呪術師は、呆然と自らの手のひらを見つめる桜子に、いつもより僅かに温度の宿った声で語りかけた。
「桜子さん。今はもう、当時の記憶はあなたにはあらへんでしょうが……そのぬくもりだけは、大事にしてあげて下さい。それは、あなたがかつて命を救おうとした証なんですから」
その言葉に、桜子の胸の奥にあった、正体の分からぬ「ぬくもり」が、確かな重みを持って広がっていった。
「……はい。大切にします」
桜子は、かつての自分を守り続けてくれた目に見えぬ友を想い、春の陽光のような優しい微笑みを返した。
吹き抜ける風が、その穏やかな再会を祝福するように、静かに木々を揺らしていった。
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##因縁の残響、そして涙の乱入者
神殿の静寂の中に、桜子の清らかな微笑みが溶け込んでゆく。
自らの魂に宿り、記憶を失った後もずっと自分を守り続けてくれた「守護者」の存在を感じ、彼女の胸には言葉にできない愛しさが溢れていた。
しかし、その多幸感に包まれた穏やかな空気を、呪術師の僅かに疲れを含んだ溜息が切り裂いた。
「……桜子さん、誠にお手数なんですが。茶菓子は、もう一人分ありますかね?」
呪術師の唐突な問いかけに、桜子はパチリと目を瞬かせた。
「あ、お代わりですね。すぐにご用意いたします。少々お待ちくださいまし」
彼女が立ち上がろうとしたその時、呪術師はひらひらと手を振ってそれを制し、視線を部屋の入り口へと向けた。
「いえ、僕のお代わりやなく……そやから、最初っから顔出したらええって言うたでしょうに」
出入り口に向かって放たれる呆れたような呪術師の言葉に、桜子と玄蓮は反射的に扉の方へと視線を走らせる。
すると、固く閉ざされていた扉の向こうから、突然「ぐすっ」という、湿り気を帯びた鼻をすする音が漏れ聞こえてきた。
「あの……御客様、でしょうか?」
困惑する桜子の問いに、呪術師はさらに深い溜息を重ねて促す。
「扉開けて、中に入れてあげて下さいませんか……全く、始末に負えん御仁や」
桜子は言われるがままに歩み寄り、静かに扉を開いた。
すると……。
「わっ……!」
扉が開いた瞬間、桜子は驚きに目を見開いた。
そこにいたのは、前脚で顔を覆い、大粒の涙をポロポロと流しながら咽び泣いている人面犬であった。
その異様な光景に、玄蓮も思わず椅子から立ち上がる。
「うわ!人面犬が、なんでこんなとこに来とるんや!」
「え?師匠のお知り合いですか?」
桜子の問いに、玄蓮は頭をかきながら苦笑いを浮かべた。
「いや、街で時々見かけることはあったけどな。『あ、おるなあ』くらいにしか思うてへんかったし。各地へ出張に行った時も、たまにその地の人面犬を見かけてきたけど、そん時も別段声をかける用事もないからスルーしとったんやけど……なんや、茶菓子につられて来たんけ?」
玄蓮の無遠慮な言葉に、人面犬は真っ赤に腫らした目を擦りながら、しゃくりあげて声を絞り出した。
「俺っちも、男には別段興味なかったし、あんさんの事を見かけても『今日も御勤めご苦労さんやで』と思うてスルーしとったけど……。桜子ちゃんがここに来てから、ちょくちょく様子を見に来とったんよ。そんで、今日は呪術師さんについて来て、こっそり様子見しとってやな……そしたら、今の話を聞いてしもて。ええ話やなあ、犬と人の永劫の縁。あぁ、涙が止まらへん!」
人面犬は感極まった様子で、己が密かに見守り続けてきた理由を明かした。
「改めまして、京都の人面犬や。ほな、俺っちも仲間に入れてもらうで。あ、呪術師さん、気配遮断の護符、ありがとさんでした。これのおかげで、宮司さんにも桜子ちゃんにもバレずに済みましたわ」
人面犬はそう言って、呪術師の隣へちょこんと腰を下ろした。
呪術師は、人面犬の背に張り付いていた小さな護符を、無造作に指先で回収する。
「……桜子が来てから様子を見に来てたってか。通りでいつ頃からか、わずかやけど見かける頻度が上がっとったわけやな。まさか、桜子に惚れたんか?そやったら、遠くから見てんと会いに来たらええやんけ」
玄蓮がからかうように笑うと、人面犬はブンブンと首と尻尾を振った。
「可愛い子やとは思うけど、俺っちは可愛い子に『イケメン』って言われたいだけで、別に惚れてはおらんでな。俺っちはあくまで、イケメン美学の追求者なんや!」
その堂々とした宣言に、玄蓮は腹を抱えて笑い転げた。
「あっはっは!ええ根性しとる人面犬やなあ、気に入ったわ!」
桜子はあまりの急展開に呆気にとられていたが、その賑やかなやり取りに心が解れるのを感じ、微笑んで客室を後にした。
「では、急いで新しいお茶と菓子を持って参りますね」
呪術師は、その一部始終を湯呑を片手に見守っていた。
「御二人は、案外相性が良さそうですなあ」
無表情でありながらも、その声にはどこか温かな響きが混じっている。
異界の住人と、因果を背負った人間たち。
彼らが織りなす奇妙な縁は、かつての暗い闇を塗り替えるように、春の陽だまりのような賑やかさで神殿を満たしてゆくのであった。




