第28話中編:谷口祥吾と忘却のほっこり飯
##稲荷神社の闇、えらいこっちゃの邂逅
京都駅の喧騒を背に、八条口から南へと歩を進めていた祥吾の目に、夜の闇に浮かび上がる朱色の鳥居が飛び込んできた。
祥吾は足を止め、その脇に立てられた古びた看板を読み上げる。
「……『稲荷神社』。あぁ、稲荷って確か、狐を祀ってるんだっけ?」
祥吾は軽く首をすくめ、鼻で笑った。
「まぁいいや、神社なんてどこも同じようなもんだろう。あ、でもこんな適当なこと言ったら、桜子ちゃんに怒られちゃうかな」
自分勝手な想像に顔を綻ばせながら、祥吾は軽い足取りで鳥居をくぐった。
境内は既に日が暮れ、街灯の届かない場所は深い闇に沈んでいる。
参拝客の姿はなく、静まり返った本殿の前で、祥吾は付け焼刃の作法に従って二礼二拍手一礼の参拝を済ませた。
「これで、あいつらも安らかに眠ってくれよ」
実家で凄惨な死を遂げた五匹の犬たちを思い浮かべ、祥吾は満足げに呟いた。
供養を済ませたという達成感に包まれ、そのまま立ち去ろうと振り返った、その瞬間。
祥吾の全身の毛穴が、一斉に逆立った。
「…………!?」
そこには、いつからそこにいたのか、二つの奇妙な存在が音もなく佇み、じーっと祥吾を見つめていた。
一人は、月の光を反射して輝くような銀髪を長く伸ばした、小柄な女の子。
まん丸な瞳に、台形の形をした独特の口の開き方。
黒いベレー帽を被り、ボトムがズボンタイプになった黒いセーラー服という、夜の神社にはあまりに不釣り合いな装いだった。
しかし、祥吾をさらに戦慄させたのは、その傍らに控える四足歩行の生き物だった。
体は紛れもなく、白く美しい毛並みを誇る小型から中型犬ほどの大きさの犬。
だが、その首から上に付いているのは――やたらと彫りの深い、茶髪のイケメンの「人間の顔」だった。
あまりに奇怪で、生物学的な法則を無視したその妖怪の姿に、祥吾は声にならない悲鳴を上げ、思わず数歩後退った。
「うわ、な、なんだ……!?なんだよ、お前ら!」
祥吾の動揺を余所に、銀髪の女の子が唐突に、その小さな口を開いた。
「――えらいこっちゃ」
「え……?」
呆然とする祥吾に対し、女の子は一切の表情を変えず、どこか呆れたような、しかし宣告するような冷徹な響きを含んだ声で言い放つ。
「狐の神社で、犬の御参りをしてしまいよる。えらいこっちゃ」
「な……何を言って……」
祥吾は完全に言葉を失い、金縛りにあったようにその場に固まってしまった。
稲荷、つまり狐の神域において、その天敵とも言える犬の供養を願うという、致命的なまでの不敬。
その「えらいこっちゃ」が意味する真の恐怖を、祥吾はまだ理解していなかった。
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##えらいこっちゃ嬢と真夜中の火車、京都の怪異と顔面偏差値
朱色の鳥居を背にした静寂の中で、祥吾の常識は音を立てて崩壊し始めていた。
目の前に佇む、銀髪の少女と「それ」のあまりにも異質な存在感に、喉が引き攣り言葉が出てこない。
そんな祥吾の狼狽を一切意に介さず、銀髪の少女が、まるで幾何学模様のようにかっちりと角張った台形の口を開いて、唐突に名乗りを上げた。
「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や。」
感情の読めないまん丸な瞳が、真っ直ぐに祥吾を射抜く。
そのあまりに淡々とした自己紹介に祥吾が唖然としていると、今度はその傍らに座る四足歩行の怪異までもが、事も無げに、そして驚くほど滑らかな発声で口を開いた。
「がっははは!おったまげた顔しとるなあ、あんちゃん。俺っちは人面犬や。ほら、山形辺りやと目撃情報が多くて有名やけど、あんちゃんは知らんけ?まあ、俺は生粋の京都の人面犬やけどな」
整ったイケメンの顔をくしゃりと歪めて豪快に笑うその姿は、悪夢というにはあまりにシュールで、滑稽ですらあった。
「い、いや、知らねえよ!人面犬なんて都市伝説だろうが!なんで、なんでそんなに喋るんだよ!」
祥吾は悲鳴に近い声を上げ、縋るような思いで再び数歩後ずさる。
「そんなに怖がらんでもええがな、別に噛みついたりせえへんからよう。そっか、やっぱ今時の若い奴らは知らんかあ。一昔前は全国的に目撃例とか広がってたし、爆発的にブームになってたんやけどなあ。トレンディな俺っちを知らんとは、時代も変わったもんや」
人面犬は、まるで全盛期を過ぎた往年のスターのように、大仰に首を振って溜息を吐いてみせた。
だが、次の瞬間、その非の打ち所がない茶髪のイケメン顔が、妙に自信満々な笑みに変わる。
「それはそうと、あんちゃん。客観的に見て、俺っちってあんちゃんより圧倒的にイケメンやろ?見てみいや、この艶やかな毛並み、そしてこの彫りの深い顔立ち。顔面偏差値に関しては、あんちゃんより俺っちの方が圧倒的に上や。これは認めざるを得ん事実やろ?」
「犬の分際で顔面偏差値とか気にするのかよ!?しかもなんでそんなに自信満々なんだよ!」
あまりに突拍子もない、生物の枠を超えた容姿自慢に対し、祥吾は恐怖を忘れて思わず渾身の突っ込みを入れていた。
「がっははは!なんや、ええ突っ込みするやんけ、あんちゃん!気に入ったわ。ノリのええ奴は嫌いじゃあらへんで!」
人面犬が前脚で地面を景気よく叩きながら大笑いする。
祥吾は、自分が今、歴史ある神社の境内で化け物と漫才のようなやり取りをしている事実に、激しい眩暈を覚えた。
完全に状況に圧倒され、もはや逃げ出す気力すら削がれて立ち尽くす事しかできない祥吾。
その時、それまで沈黙を守っていた銀髪の少女が、突如として夜気を震わせた。
「えらいこっちゃーーー!!!」
神域の静寂を木端微塵に粉砕するような凄まじい大声に、祥吾の体は落雷に打たれたようにビクっと固まった。
刹那、遠方の闇の底、視界の端から燃え盛る紅い光が、空気を焦がす轟音と共に猛烈な勢いでこちらに向かってくるのが見えた。
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##摩訶不思議食堂への招待状
ゴォォォォォォ!!
凄まじい熱風と爆炎を周囲に撒き散らしながら、それはあっという間に一行の目の前で火花を散らして急停車した。
祥吾が目にしたのは、片方の車輪だけが凄まじい勢いで燃え盛る、古色蒼然とした巨大な牛車だった。
だが、その姿は彼がかつて教科書や歴史ドラマで目にしたそれとは、根本的に、そして狂気的に異なっていた。
なんと、牛車の正面部分には、近現代のトラックから引き剥がしてきたかのような無骨な「運転席」が強引に繋ぎ合わされており、それはまさに近代的な魔改造を施された、怪異としか思えない悍ましくも奇妙な乗り物へと変貌していたのである。
信じがたい光景の連続に、もはや開いた口が塞がらない祥吾。
そんな彼の前で、魔改造された運転席の窓がスルスルと滑らかに開く。
そこから顔を出したのは、夜の闇に溶け込むような黒い着物を優雅に纏い、艶やかな長い黒髪を後ろで一本に束ねた、思わず見惚れるほどの着物美人であった。
彼女は黒いベレー帽を小粋に被り、どこかいたずらっぽい、しかし慈愛に満ちたにこやかな笑顔で手を振った。
「方輪車ねえちゃん、御迎えありがとちゃん!狐に犬の供養をお願いしてしまいよった、えらいこっちゃな犬のあんちゃん御一名様ご案内!行先は、いつもの『摩訶不思議食堂』!」
えらいこっちゃ嬢が、まるで行き先を告げる車掌のように元気よく声を張り上げる。
「こんばんはやで。相変わらず、夜の闇に映える別嬪さんやな、方輪車ちゃん。その笑顔、いつ見ても俺っちの心に突き刺さるわ」
人面犬もまた、前脚をスマートに揃え、イケメンの笑顔でこれ見よがしに熱いウインクを送った。
「毎度ー、えらいこっちゃん。人面犬さんも、お疲れ様。今日もお仕事、ご苦労さんでしたね。ほな、扉開けるねー。あんちゃん、足元に気をつけてな」
方輪車と呼ばれた女性は、鈴を転がすような涼やかな声で応じると、牛車の側面にある重厚な木の扉を、遠隔操作でもあるかのように解錠した。
ギィィ……と、古い木材が悲鳴を上げるような不気味な音を立てて開かれたその先には、現実世界の常識が一切通用しない、異界へと続く暗い口が、祥吾を優しく、そして不可避に招くように待ち構えていた。
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##摩訶不思議食堂への強制招待、異界の運賃とキャッシュレス決済
牛車の重厚な扉が開いた瞬間、祥吾の思考を置き去りにする事態が起きた。
小柄なはずのえらいこっちゃ嬢が、鉄万力のような力で祥吾の手を掴んだのである。
「――ちょ、えっ!?」
抗う間もなく、祥吾の体は宙を浮いた。
彼女は驚異的な膂力で祥吾を車内へ押し込み、祥吾は板張りの床を転がるようにして乗せられる。
続いてえらいこっちゃ嬢と人面犬が、重力を感じさせない身のこなしで、ぴょんっと飛び乗ると、背後で扉が「ドンッ」と重々しく閉ざされた。
「……痛たた。何なんだよ、一体……」
祥吾が這いつくばった姿勢から体を起こそうとした、その時。
天井の隅から、白くて細長い不気味な腕が、蛇のようにしなりながらニューっと伸びてきた。
その指先には、「御勘定」と墨書きされた古い木札がぶら下がっている。
「うわぁ!?な、何だよこれ、幽霊か!?」
祥吾が悲鳴を上げると、隣で毛繕いを始めた人面犬が、片方の眉を上げてニヤリと笑った。
「見たらわかるやろ、お勘定って書いてあるがな。ほらあんちゃん、運賃、しくよろ」
人面犬はそう言って、イケメンの顔でこれ見よがしにウインクを飛ばす。
「男のウインクなんていらねえよ!てか、男じゃなくて犬か……お勘定って言われても、手持ちはあんまり現物で持ってないんだ。現金、そんなに持ち歩いてないんだよ」
祥吾が困惑して財布を探る素振りを見せると、運転席の方から方輪車の明るい声が届いた。
「ほな、電子決済ですねー。お財布に優しゅうおすよ」
方輪車が、にこやかに指をパチンっと鳴らす音が響くと、祥吾の目の前にある「御勘定」の札が、まるで手品のようにくるりと回転した。
そこには、現代的なQRコードが鮮明に印字されていた。
「なんで電子決済が出来るんだよ!神社だか妖怪だか知らないけど、文明の利器使いすぎだろ!」
祥吾はぶつくさと文句を垂れ流しながらも、この異様な状況を早く終わらせたい一心でスマートフォンを翳した。
ピッ『毎度ありー』
軽快な電子音が車内に響き渡る。
決済画面には「1111円」という、何とも奇妙なゾロ目の数字が表示されていた。
支払いが完了したのを確認すると、白い腕は満足げにニューっと引っ込んでいき、再び闇の中に消えた。
「なんで1111円なんだよ……中途半端すぎるだろ」
祥吾は納得いかない表情で座り直したが、反論する間もなく牛車がガクンと揺れた。
「毎度ー。ほな、出発しまっせー♪」
方輪車が楽しげに声を上げると、牛車は物理の法則を無視した驚異的な加速度で闇を切り裂き始めた。
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##摩訶不思議食堂、現る
猛烈なスピードで夜の京都(あるいは別のどこか)を疾走していた牛車が、やがて緩やかに減速を始めた。
外の景色は流れる光の帯のようで見えなかったが、やがて完全停車する。
扉が開き、えらいこっちゃ嬢が軽やかに外へと飛び降りた。
彼女は手短に告げ、手招きをする。
祥吾が恐る恐る足を踏み出すと、彼が降りるのを待っていたかのように重厚な扉が再び閉まった。
「ほな、俺っちは女鬼ちゃんに報告してバトンタッチしてくるわ。ああ、女鬼ちゃんはいつ見ても別嬪さんで、ときめいてまうで。俺っちのこのイケメン顔、喜んでくれるかなぁ」
人面犬はそう言って、再び自慢の顔面偏差値を誇示するように笑う。
「毎度ありー。ほな、またねー!」
運転席から方輪車が元気よく手を振ると、燃え盛る車輪が再び火花を散らし、牛車は颯爽と夜の彼方へ走り去っていった。
取り残された祥吾は、急激すぎる展開に眩暈を覚え、周囲を見渡した。
そこには、手入れの行き届いた美しい木造の建物が、静かな夜の中に佇んでいた。
温かな灯りが漏れるその建物の入り口には、古びているが品のある看板が掲げられている。
「摩訶不思議食堂」
祥吾は、その文字を呆然と見上げながら、自分がいよいよ引き返せない場所へ足を踏み入れてしまったことを悟った。
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##摩訶不思議食堂の審判
ガラガラと引き戸が開く乾いた音と共に、店内に温かな出汁の香りが広がった。
えらいこっちゃ嬢は、我が家のような足取りで軽快に暖簾をくぐる。
「ただいま!えらいこっちゃな犬のあんちゃん御一名!」
威勢のいい声が板張りの天井に反響した。
彼女は困惑しきった祥吾の腕をひょいと引き、年季の入った立派な一枚板のカウンター席を指し示す。
祥吾が促されるままに腰を下ろすと、彼女はそのまま「あらよっと」と言わんばかりの身軽さで厨房の奥へと姿を消した。
一人取り残された祥吾は、不安げに周囲を見渡す。
店内はどこか懐かしく、それでいて現実離れした静謐な空気が漂っていた。
ふと、カウンターの奥の暗がりから、何かが「ぬぅっ」と音もなく現れた。
祥吾が息を呑んで凝視すると、そこには青い作務衣を纏った、人間ほどの大きさの「お地蔵さん」が立っていた。
その顔には、石造りのはずなのに血色の良さすら感じさせる、慈愛に満ちた「お地蔵さん笑顔」が張り付いている。
「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。御客様、いらっしゃいまし。私はこの店の店長をさせて頂いております。皆さんは、地蔵店長と呼んで下さいます」
地蔵店長は、柔らかな口調でそう告げると、穏やかな笑顔のまま恭しく合掌してお辞儀をした。
「あ、どうも……。俺は、こういう者です」
人外の存在を前にしても、祥吾の染み付いたエリート意識が反射的に動いた。
彼は慌てて立ち上がると、懐から名刺入れを取り出し、慣れた手つきで一枚の名刺を差し出す。
「これはこれは、御丁寧に有難う御座います。お名刺は、えらいこっちゃんが興味を示していらっしゃいますから。彼女に渡して頂けますと嬉しゅう御座います」
地蔵店長は微笑みを崩さぬまま、視線を祥吾の傍らへと向けた。
いつの間にか、そこには黒いセーラー服から一転、黒の作務衣に真っ白な割烹着を重ねたえらいこっちゃ嬢が立っていた。
黒いベレー帽だけはそのままに、彼女は無機質な瞳で祥吾の手元をじっと見つめている。
「ああ、そうなの?じゃあ、はい。どうぞ」
祥吾が名刺を差し出すと、彼女は小さな手でそれをひょいと受け取った。
彼女は名刺を顔に近づけ、穴が開くほど凝視する。
数秒の沈黙の後、彼女は唐突に、その独特な口の形で言い放った。
「主任としか書いてへん、えらいこっちゃ」
「まあ、俺はまだ主任だからな。でも、評価は高いし出世は近いと思うぜ?20代のうちに、少なくとも係長にはなれるんじゃないかな」
祥吾は鼻を高くし、自信に満ちた笑みを浮かべて答えた。
しかし、えらいこっちゃ嬢の瞳に宿る冷ややかな光が、さらに鋭さを増した。
「動物虐待するいじめっ子って書いてへん、えらいこっちゃ」
静かな、しかし確信に満ちたその言葉が、祥吾の脳髄を直撃した。
「……え?」
祥吾の思考が、その瞬間に凍りついた。
目の前の少女が何を言ったのか、その単語の羅列が何を意味しているのか、理解が追いつかない。
えらいこっちゃ嬢は、呆然とする祥吾に見向きもせず、名刺を握りしめたままパタパタと厨房の奥へと去っていった。
祥吾は座ることも、反論することも忘れ、その場に棒立ちのまま立ち尽くしていた。
食堂を流れる穏やかな時間が、今は牙を剥いた獣の沈黙のように彼を圧迫していた。
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##摩訶不思議食堂の誘いと異世界への境界線、黄金に輝く「御品書き」の誘惑
「動物虐待するいじめっ子」という、あまりに唐突で身に覚えのない言葉の刃を突きつけられ、祥吾は金縛りにあったように立ち尽くしていた。
背筋を這い上がる冷たい汗が、上質なシャツを湿らせていく。
そんな彼の動揺など露知らず、えらいこっちゃ嬢が厨房から一冊の「御品書き」を手に戻ってきた。
パタパタという彼女の小気味よい足音が、静まり返った店内に響く。
祥吾は弾かれたように我に返ると、崩れるようにカウンターの椅子へと腰を下ろした。
えらいこっちゃ嬢は無表情のまま、スッと御品書きを差し出し、彼の目の前に置いた。
震える手でそのメニューを開いた瞬間、祥吾の瞳に歓喜の色が宿る。
そこには、墨の香りが漂う美しい文字で、こう記されていた。
「チーズハンバーグとコーンポタージュスープのセット」
「ハンバーグにコーンポタージュって、俺の大好物じゃないか。しかも、ただのハンバーグじゃなくてチーズ付きときたか。これは胸が躍るな」
先ほどまでの恐怖や困惑が、空腹という本能に塗り替えられていく。祥吾の口元には、自然と笑みがこぼれていた。
「それじゃあ、このセットをお願いするよ」
祥吾は御品書きを閉じ、えらいこっちゃ嬢に返した。
彼女はその御品書きを持って、厨房に向かって声を張り上げた。
「――猫子さんと、凜華さんの、えらいこっちゃな絶品ハンバーグとコーンポタージュスープのセット!注文入った!熱々料理、えらいこっちゃな美味さ!」
えらいこっちゃ嬢はそう言い残すと、流れるような動作で再び厨房の奥へと戻っていった。
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##厨房の住人たち、猫耳と緑の料理人
「猫子に凜華か……。なんだか可愛い名前だな」
祥吾はカウンター越しに厨房を見やり、独り言を漏らした。
「さっきの連れが『人面犬』だったからな……。もしかしたら今度は、本物の『猫』が料理してたりしてな」
冗談半分で、彼は首をぐいっと伸ばして厨房を覗き込んだ。
だが、そこに広がっていた光景は、彼の想像を絶する、文字通り「摩訶不思議」な世界であった。
「……っ!?……嘘だろ」
祥吾は言葉を失い、本日何度目か分からない「完全停止」に陥った。
ジューッ、パチパチッ……!
芳醇な肉の香りと共に、手際よくハンバーグをフライパンで焼き上げているのは、紅い着物に真っ白な割烹着を纏った女性だった。
だが、彼女の頭部には、猫耳が出るように工夫された三角巾が巻かれ、そこからは本物の、愛らしい猫耳がぴょこんと飛び出している、穏やかな顔立ちをした猫の女性料理人、猫子であった。
その隣では、大鍋を丁寧に木べらで回し、黄金色のスープを準備しているもう一人の姿があった。
緑色の着物に割烹着を合わせたその女性料理人は、なんと肌が鮮やかな緑色をしており、茶色の髪と瞳の間から、驚くほど大きく尖った耳が覗いている。紛れもなく、伝承に名高いゴブリンの女性、凜華である。
「フフフ〜♪」「フンフフ〜ン♪」
二人の人外の料理人たちは、鼻歌交じりに楽しげに、それでいてプロフェッショナルな手捌きで次々と料理を仕上げていく。
「……いや、ありえない。ライトノベルとかの読みすぎか?『異世界転生』ってやつか?」
祥吾は目の前の光景を受け入れられず、呆然と呟いた。
「俺、最近になって犬が全滅したり窓が割れたり……えらい事を体験してきたと思ってたけど、ついに一線を越えて異世界転生しちまったのか?えらいこっちゃ……」
祥吾は力なく、ドサッと椅子の背もたれに深くもたれかかった。
現実と非現実の境界が完全に崩れ去ったその空間で、彼はただ、運ばれてくるであろう「絶品料理」を待つことしかできなかった。
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##猫耳と小鬼の真心飯、芳しき湯気と異界の給仕
厨房から漂い始めた香りは、瞬く間に店内の空気を幸福な色へと塗り替えていった。
飴色に炒められた玉ねぎの甘い香気と、肉が焼ける野性味溢れる匂い、そして濃厚なクリームが熱に溶ける柔らかな香り。
それらは目に見えぬ奔流となって祥吾の鼻腔をくすぐり、空っぽだった胃袋を激しく揺さぶる。
「……っ、たまらないな。これほど食欲をそそる香りは、そうそうないぞ」
祥吾は、無意識のうちに自分の腹が「グゥ」と鳴るのを自覚し、気恥ずかしさを覚えながらも期待に胸を膨らませた。
やがて、厨房から猫耳の料理人である猫子が、ジュージューと威勢のいい音を立てる鉄板を慎重に運んできた。
その皿には、溢れ出す肉汁を受け止めるように、艶やかな人参のグラッセと、ケチャップで丹念に炒められた玉ねぎ、そして鮮やかな緑が眩しいブロッコリーが添えられている。
続いて、緑の肌をした小鬼の凜華が、黄金色のスープが注がれたボウルを静かに差し出した。
表面には、細かく刻まれたパセリと、香ばしく揚げられたクルトンが星のように浮かんでいる。
「「ほな、ごゆっくりー♪」」
二人は足音一つ立てず、それでいて真心のこもった丁寧な所作で料理を並べると、満開の向日葵のような笑顔を添えて厨房へと戻っていった。
祥吾は、目の前に並んだ「究極の日常食」に、思わず唾を飲み込んだ。
鉄板の上で弾けるチーズの香ばしい音は、耳に心地よい音楽のように響き、クルトンが浮かぶコーンポタージュスープからは、優しくも濃厚な湯気が立ち上っている。
これこそが、彼が幼い頃から愛してやまなかった黄金の組み合わせであった。
かつて、まだ幼かった頃。
百貨店のレストランに連れて行かれれば、豪奢な洋食屋のメニューの中から、迷わずこのセットを注文し、瞳を輝かせていた。
大人になり、周囲から「子供っぽい」と揶揄されるのを極端に嫌うようになってからは、あからさまに好物だとは口にしなくなった。
人前で食べるのは、厳格なドレスコードがあるような、超一流の格式高い店で提供される「洗練された洋食」としてだけだ。
だが、そんな虚飾に満ちた生活の裏で、多忙な両親が雇った家政婦だけは、彼の本当の好みを理解していた。
実家にいた頃は、大人になってからも、折に触れては内緒でこの味を食卓に並べてくれたものである。
祥吾にとって、この献立は失われた安らぎそのものであった。
「……さて。冷めないうちに、頂くとしようか」
祥吾は感傷を振り払うように、銀色に輝くナイフとフォークへと手を伸ばした。
しかし、肉を切り分けようとしたその瞬間、刺すような、それでいて無機質な視線を横に感じて動作を止めた。
視線の先を辿れば、いつの間にかカウンターの端に立ったえらいこっちゃ嬢が、微動だにせず祥吾をジーっと凝視している。
彼女は祥吾と目が合うと、唐突に小さな両手を合わせ、胸の前で「合掌」のポーズをしてみせた。
「……?ああ、もしかして……『頂きます』を言えってことか?」
祥吾の問いかけに対し、彼女は表情一つ変えないまま、そのまん丸な瞳でじっと次の行動を促している。
「ははっ、わかったよ。……頂きます」
祥吾は半ば苦笑しながらも、彼女に倣って姿勢を正し、丁寧に両手を合わせて頭を下げた。
すると、えらいこっちゃ嬢は満足したかのように、コクリと一度だけ小さく頷き、パタパタと足音を響かせて厨房の奥へと消えていった。
「ふぅ……変な子だけど、礼儀作法やマナーだけは、どこか良い家柄の子で、しっかり躾けられているのかな」
祥吾は独り言を漏らし、ようやく手にしたナイフとフォークを握り直した。
香ばしいチーズの匂いが、改めて彼を強く誘惑する。
今度こそ、彼は現実を忘れさせるほどの美食の世界へと、その一歩を踏み出すことにした。
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##至高の晩餐、虚飾を解かす黄金の味
祥吾は銀色に輝くナイフを手に取り、まずはふっくらと膨らんだハンバーグの中央に、その鋭い刃を沈めた。
ジュワッ!
切り口から勢いよく溢れ出したのは、肉本来の旨味を凝縮した透明な肉汁と、内側に閉じ込められていた濃厚なチーズだった。
熱を帯びてトロリと溶け出した白いチーズが、特製ソースと混ざり合い、熱々の鉄板の上で芳醇な香りをさらに爆発させる。
その暴力的なまでに食欲をそそる香りに、祥吾は我慢できず、一口サイズに切り分けた肉をフォークで刺し、たっぷりとチーズを絡めて口へと運んだ。
「美味い!何だこれ、滅茶苦茶美味いぞ!今まで食べてきたハンバーグで断トツの1位だ!」
祥吾は驚きに目を輝かせ、思わず大声を上げた。
噛み締めた瞬間、まず肉の力強い弾力とジューシーさが口いっぱいに弾け、続いてチーズのまろやかなコクが全体を優しく包み込む。
ケチャップの酸味が絶妙に効いた、どこか懐かしい味わいのソースは、まさに彼が幼い頃にデパートの食堂で夢中になって食べた「あの味」を、さらに贅沢に進化させたものだった。
次に、白い湯気が立ち上るコーンポタージュスープに、ゆっくりとスプーンを差し入れる。
黄金色の温かい液体を口に含めば、トウモロコシの自然な甘みが舌の上で優しく広がり、続いて生クリームの濃厚な風味が鼻を抜けていく。
サクッ、サクッ。
香ばしいクルトンの歯応えが、滑らかなスープの中で心地よいアクセントを奏で、彼の心まで「ほっこり」と、解きほぐしていくようだった。
祥吾は、自分が今どこにいるのかさえ忘れ、ただ目の前の料理を無我夢中で食べ進めた。
ここには、格式張ったレストランでの窮屈なマナーも、周囲の目を気にする必要も、自分を大きく見せるための虚勢も必要ない。
多忙な両親に代わって、寂しさを抱えていた自分のために、家政婦が心を込めて作ってくれたあの温かくて「ほっこり」とした優しい味が、そこには確かに存在していた。
「本当に、なんて美味いんだ……」
祥吾はポツリと呟き、心からの感激に震えた。
かつて、自分がエリートとしての虚飾にまみれ、冷徹な仮面を被る前に、純粋に愛していたはずの「幸せ」が、この一皿にはすべて詰まっていた。
厨房の奥からは、猫子と凜華が楽しげに談笑する鈴の音のような声が時折聞こえてくる。
祥吾は完食した皿を前に、背もたれに深く体を預け、満たされた胃袋と心を感じながら、この奇妙な食堂に流れる穏やかな時間に身を委ねた。
傍らで静かに合掌したまま微笑む地蔵店長の、慈愛に満ちた静かな眼差しに見守られ、彼は今、この場所でしか得られない至上の安らぎを、深く深く噛み締めていた。
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##追憶の五匹と、招かれざる来訪者
濃厚なチーズのコクが溶け出した肉汁溢れるハンバーグに、身も心も解き放たれるような甘みのコーンポタージュスープ。
添えられた色鮮やかな野菜のグラッセに至るまで、その全てがあまりにも完璧な調和を奏でていた。
その至福の味わいに、祥吾の表情には自然と「ほっこり」とした温かな微笑みが浮かび、彼は自分でも驚くほど穏やかな気持ちで大好物を堪能した。
百貨店のレストランでも味わえない、記憶の奥底にある優しさに触れるような料理を、彼は最後の一口まで惜しむように楽しみ尽くす。
深い満足感と共にナイフとフォークを静かに置くと、ふと、先程と同じような真っ直ぐな視線を横に感じた。
そちらを見れば、案の定、えらいこっちゃ嬢が微動だにせず、祥吾をジーっと見つめるようにして立ち尽くしている。
「ええと、御馳走様でした」
祥吾が促されるままに両手を合わせ、恭しく頭を下げて感謝を伝えると、えらいこっちゃ嬢は満足げに一つだけ深く頷いた。
彼女はそのまま音も無く厨房の暗がりへと消えていき、すぐさま丁寧な所作で珈琲を乗せたお盆を手に戻ってきた。
祥吾の前に置かれたその一杯からは、深く芳しい香りが立ち上っている。
「有難う」
祥吾が口に含んだその漆黒の液体は、ハンバーグの余韻が残る口内を心地よく洗い流し、食後の贅沢なひとときを静かに引き立ててくれた。
彼は暫し、この「ほっこり」とした至福の珈琲タイムを、全身で楽しむようにゆっくりと味わう。
すると、えらいこっちゃ嬢が再び御品書きを手に現れ、祥吾の手元へと静かに差し出した。
『犬クッキー』
そこに記された文字を目にし、祥吾は思わず口元を緩める。
「犬のクッキーって、キャラクタークッキーって事か。確かに、動物の形をしたクッキーとかってあるよな。俺もコアラの形をしたチョコレート菓子とか、子供の頃に食べてたよ。じゃあ、食後のデザートにお願いするよ」
彼が懐かしさを噛み締めながら笑って御品書きを返すと、えらいこっちゃ嬢はそれを受け取り、迷いのない足取りで厨房へ戻っていった。
そしてえらいこっちゃ嬢は、デザートを乗せたトレイを持ってカウンター席へやって来て、祥吾の前に丁寧に置く。
えらいこっちゃ嬢から供されたのは、愛らしい犬の形を模した5枚のクッキーが並ぶ、小振りの白い皿であった。
「本当に犬の形なんだな。それにしても、犬か……」
祥吾はその繊細な造形を見つめるうちに、不意に胸を締め付けられるような重い感傷に襲われた。
いなくなってしまった実家の5匹の犬たちの、最期の瞬間に立ち会うことすら叶わなかった事実が、澱のように心に沈んでいく。
「俺がいれば、犬達の喧嘩を止められてたかな」
後悔にも似た独り言を力なく呟き、祥吾が遠い目をしていた、その時。
カラン、と静寂を破る乾いた音を立てて、店の重厚な扉が開かれた。
外の冷気が一筋流れ込み、誰かが静かにその足を一歩、店内へと踏み入れる。
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##宵闇に舞う鬼の紅と、犬の徴
祥吾が扉の開く音に誘われるようにして視線を向けたその瞬間、彼の世界の時計は完全に停止した。
視神経を通じて飛び込んできたあまりの衝撃に、肺の中の空気を吐き出すことさえ忘れ、彼はただ茫然と目を見開くしかなかった。
そこに立っていたのは、現実離れした輝きを放つ超絶美少女。
吸い込まれるような黄金の瞳に、頭部の左右からは漆黒の二本の鎌状の角が、天を突くように鋭く生えている。
長く艶やかな黄金の髪は、現代的なシュシュを用いて左側で緩やかに、しかし高い位置でサイドテールとして束ねられていた。
その風貌は、流行の先端を行く現代の「ギャル」そのものだったが、纏っているのは黒地に黄金の花々が贅沢な刺繍であしらわれた、見事なまでに美しい着物。
現代の色彩と古の美学が、これ以上ないほどの調和を保って融合している。
右手に何かが入っているであろう風呂敷包みを携えた彼女は、洗練された、一分の隙もない所作で店の奥へと歩みを進めてくる。
「女鬼ねえちゃん、いらっしゃいの御疲れちゃん!えらいこっちゃなナイスタイミング!」
それまで静かにしていたえらいこっちゃ嬢が、突然弾かれたように両腕をぶんぶんと激しく振り、喜びを爆発させる。
傍らの地蔵店長も、慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔を絶やすことなく、丁寧な動作で掌を合わせた。
「女鬼さん、いらっしゃいまし。お疲れ様で御座います。準備はすべて調うて御座います」
女鬼と呼ばれた超絶美少女は、祥吾の視線を柳に風と受け流しながら、軽やかに手をひらひらとさせて応じた。
「おつー♪人面犬さんから話聞いて来たよー♪そんで、丁度デザートタイムだねー♪」
彼女は鈴を転がすような、明るく弾ける声で挨拶を交わすと、カウンター席まで滑るようにやって来た。
持っていた風呂敷包みを、まるで重さを感じさせない優雅な所作で、スッとカウンターテーブルの上に置く。
「や、やあ……。こ、今晩は」
祥吾は、あまりの神々しさと美しさに圧倒され、喉を鳴らしながらようやくそれだけの言葉を絞り出した。
「はい、こんばんは。ほんで今日も一日おつー♪」
女鬼は茶目っ気たっぷりにウインクを飛ばしてみせる。
その一瞬の仕草に、祥吾の心臓は物理的な衝撃を受けたかのように激しくドキリと跳ね上がった。
だが、その甘い空気はえらいこっちゃ嬢の無慈悲な一言によって即座に切り裂かれる。
「超絶美少女な女鬼ねえちゃんに、浮気してしまいよった、えらいこっちゃ」
彼女は祥吾を、まるで極悪人でも見るかのようにびしっと指さした。
「う、浮気なんてしてねえよ!ってか、なんで俺に彼女がいるって知ってるんだよ!」
祥吾は顔を真っ赤にして、椅子から腰を浮かせんばかりに反論した。
その狼狽ぶりを見て、女鬼は楽しげに声を立てて笑う。
「あはは、超絶美少女だって。褒められちゃった、ありがと♪」
彼女がえらいこっちゃ嬢の頭を優しく撫でると、撫でられた少女は喜びを表現するように再び両腕をぶんぶんと上下に振り回した。
一頻り笑った後、女鬼は不思議そうに小首をかしげ、祥吾を覗き込むように問いかけた。
「で、犬あんちゃんって、本当に彼女いんの?」
「あ、いや、その……彼女候補っていうか。まだ正式に付き合ってないけど、時間の問題で彼女になるはずの女性がいるっていうか……。てか、さっきから『犬あんちゃん』って何だよ。俺にはちゃんと名前があるんだ」
不本意な呼び名に祥吾が口ごもると、女鬼はからかうような色もなく、ただ真っ直ぐにテーブルの上を指さした。
「だって、ほら。それ食べてるじゃん」
彼女の視線の先には、先ほど運ばれてきたばかりの犬の形をした5枚のクッキーがあった。
「え?ああ、これはただのデザートだよ。それに、確かに俺は犬のことは好きだけどさ。犬好きが全員『犬』ってあだ名を付けられるのは流石に乱暴だよ。短絡的すぎるだろ」
祥吾は呆れたように笑いながらそう答えて、犬のクッキーをポリポリと食べ始めた。
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##水鏡の過去帳、暴かれる犬の園
祥吾の唇から漏れたのは、砂を噛むような乾いた笑いだった。
目の前の超絶美少女に「犬」呼ばわりされた困惑と、実家の惨劇を思い出した感傷が混ざり合い、表情は歪なまま固まっている。
そんな彼の内面を見透かすように、女鬼は金色の瞳を細め、不思議そうに小首をかしげた。
「ねえ、犬あんちゃんってさー、マジで犬が好きなん?」
「え?……ああ、うん。まあ、そうだよ」
祥吾は不意を突かれ、曖昧に頷くことしかできなかった。
その直後、女鬼はそれまでのギャル然とした態度を一変させ、音も無く上品で、極めて丁寧な所作で手元の風呂敷包みを解き始めた。
結び目が滑るように解かれ、中から現れた三つの品に、祥吾の心臓が不快な音を立てて跳ねる。
そこにあったのは、どす黒い乾いた血に塗れた古い首輪。
ラベルの剥がれかけた、薄汚れた空き缶。
そして、何よりも異彩を放っていたのが、表紙に「過去帳写し:谷口祥吾」と端正な筆致で記された、古い折本のような一冊だった。
「……過去帳とかいうのに、俺の名前が書いてあるんだけど。えっと、それは何かな?」
祥吾は引き攣った笑いを浮かべ、震える指先でその本を指し示した。
「過去帳ってのはね、娑婆だと故人の戒名や法名、俗名に享年なんかを記録して、仏壇に保管しておく大事な仏具なんよ。まあ、これはあくまで写しで、『こっち側』だと別の用途にも使うんだけどねー」
女鬼は淡々と、しかしどこか重みのある声で語る。
「いや、俺はまだ死んでないよ。縁起でもないこと言わないでくれ」
「死んでないってことくらい、観りゃわかるっての」
女鬼は唇を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「そんで、『こっち側』にある過去帳ってのはね、その人の過去の記録を、事細かに、それこそ本人さえ忘れてるような隅々まで記録してある代物なんだよ。つまり、犬あんちゃんの人生そのものが、ここに全部記録されてるってわけ。ここまではOK?」
彼女はピッと人差し指を立て、祥吾の鼻先へ突きつけた。
「何だよそれ。俺の記録って……。カメラや動画で二十四時間撮り続けたわけじゃあるまいし。そんなの、ありえないだろ」
祥吾はあまりの馬鹿馬鹿しさに鼻で笑った。
だが、その否定を遮るように、えらいこっちゃ嬢が音も無く厨房へと消えていく。
彼女はすぐさま、見たこともないほど巨大な白磁の盃と、冷えた炭酸水が入った瓶を持って戻ってきた。
巨大な盃が祥吾の目の前にドッ、と置かれ、炭酸水の瓶は女鬼へと手渡される。
「ありがと♪」
女鬼はにこりと微笑んでウインクを飛ばすと、えらいこっちゃ嬢の銀髪を優しく撫でた。
撫でられた少女は、言葉にできない喜びを全身で表現するように、両腕をぶんぶんと上下に振り回して応える。
そして、女鬼は背筋を正した。
その所作は、名門旅館の老舗女将でさえも舌を巻くほどに洗練され、一寸の乱れも無く、見る者を惹きつける美しさに満ちていた。
トクトクトク……。
静まり返った店内に、澄んだ炭酸の弾ける音が小気味よく響き渡り、巨大な盃へと透明な液体が注がれていく。
注ぎ終わるや否や、女鬼は「パチンッ」と小気味よい音を立てて指を鳴らした。
刹那。
盃に満たされた炭酸水の水面が、激しく波紋を描いて揺らぎ始めた。
シュワシュワと弾ける泡が、まるで銀幕のピクセルのように集合し、やがて鮮明な色彩を持って「何か」を映し出し始める。
「……えっ?」
祥吾が身を乗り出し、盃の中を覗き込む。
そこに映っていたのは、つい最近のことだ。
家族全員で連れ立って出かけた、ドッグランや美しい遊歩道を備えた、あの「犬の庭園」の風景。
陽光の下で犬たちが駆け回る、祥吾自身の記憶にあるはずの、しかしどこか違和感を覚える光景が、残酷なまでの鮮明さで水面に再現されていた。
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##水鏡に映る醜悪な真実と、鬼の叱咤
「これって、こないだ家族で行った、犬と一緒に遊べる庭園じゃないか」
祥吾は、震える指で盃の水面を指差した。
女鬼は、過去帳の記録をそのまま、この水面に映し出してるんよ、と、どこか冷淡な響きを帯びた声で説明する。
静寂が支配する店内に、炭酸の弾ける音だけが不気味に響き、盃の中の映像がさらに鮮明に動き始めた。
突然、映像の中の谷口家の犬たちが、額にある三日月型の毛が特徴的な茶色犬に向かって、獣の牙を剥いて突進し始めた。
「あ……っ!」
水面を見ていた祥吾が短い悲鳴を上げる中、映像の中では一人の少女が、その小さな体で茶色犬を必死に抱きかかえ、庇おうとしている。
だが、それを見た谷口家の人々は助けるどころか、茶色犬の一家を邪魔者扱いし、罵声を浴びせて追い出そうとしていて、周囲の他の少ない客達も、関わらないようにしていた。
仕方なくその一家は退散しようと背を向けたが、あろうことか、谷口家の犬が一頭、背後から少女に猛烈な勢いで体当たりを食らわせた。
少女は無惨に地面へと転がされ、その衝撃で、宝物のように大切に抱きかかえていた茶色犬を手放してしまう。
牙を鳴らす5匹の猟犬のような犬たちは、逃げ場を失った茶色犬を執拗に追いかけ回し、やがて寄ってたかってその柔らかな喉元や腹に噛みついた。
画面は瞬く間に、白い毛並みを汚す鮮血で赤く染まっていく。
「やめて!お願い、やめて!」
泣き叫びながら、少女が勇敢にも再び獣たちの群れへ駆け寄り、血まみれの愛犬を救出しようと必死に手を伸ばす。
ようやく、彼女の両親が血相を変えて係員を呼び、救助を要請したことで現場は騒然となり、凄惨な暴行はようやく幕を閉じた。
虫の息となった茶色犬を抱え、絶望に打ちひしがれながら隣接する動物病院へ直行する白犬の一家。
しかし、その背中に向かって谷口家が投げつけたのは、謝罪ではなく、身勝手極まりない毒のある言葉だった。
「こんなところに来るのが悪い」「放し飼いにしているからだ」
自分たちがマナーを無視してやりたい放題やっていた事実を完全に棚に上げ、一方的に被害者の一家を責め立てるその姿は、人の皮を被った獣そのものだった。
「ねえ、他人様のとこの犬を殺しといて……自分の犬に他人の犬を殺させておきながら『犬が好き』って、なんなん?」
女鬼の声が、氷の刃のように祥吾の鼓膜を切り裂いた。
「これが本当に、犬好きがやる事?もしそうなら、全人類と、あーしら鬼を始めとした『こっち側』のみんな、閻魔大王や諸仏も含めて、全ての存在が納得できる説明よろ。ま、説明されたところでさー、あーしは人間の寿命何生かかっても理解できる気なんてしないんだけど」
彼女の言い放った言葉の重みに、祥吾は肺を押し潰されたような圧迫感を覚え、言葉を失う。
「いや、これは……その、不可抗力というか……」
「もし今、『犬がやった事だから』とかアホな言い訳ぬかしやがったら、それこそ犬を飼う資格なんてねえし。そこんとこ、わかってる?」
女鬼は祥吾の言い訳を即座に踏み潰し、その美しい貌を怒りに染めた。
「飼い主の責任が欠片も無い分際で、何、5匹も犬飼ってんの?あんたらのせいで、その子たちは『人殺し』ならぬ『犬殺し』の汚名を着せられたんだよ」
あまりにも怒気のこもった声に祥吾は心底驚き、弾かれたように女鬼の顔を仰ぎ見た。
だが、そこにいたのは、店に入ってきた時のあの陽気で軽薄なギャルの顔ではなかった。
金色の瞳は爛々と輝きを放って鋭く祥吾を射抜き、その艶やかな唇の間からは、禍々しい牙が鋭く突き出している。
慈悲なき怒りに震える、正真正銘の「鬼の形相」がそこにあった。
「あーしの顔はいいからさー、己の悪行によって積み上げて来た悪業を、目を逸らさずに観なよ。それがあんたの為すべき義務だから」
金色の眼光に気圧された祥吾は、ただ震える体を押さえ、黙って水面に視線を戻すしかなかった。
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##水鏡に映る断罪、過去からの告発
祥吾が震えながら、巨大な盃に満ちた水面へと視線を戻したことを確認すると、女鬼は真っ赤なネイルが施された指先で「パチンッ」と、乾いた音を立てて小気味よく指を鳴らした。
シュワシュワと弾ける炭酸の泡が、まるで銀幕の砂嵐のように水面をかき乱し、やがて歪んだ波紋の向こう側に、また別の、さらに忌まわしい過去の情景が鮮明に浮かび上がっていく。
そこに映し出されていたのは、今から二十年近く前、小学一年生ほどの幼い祥吾と、その悪ガキ仲間たちの姿だった。
彼らは路地裏の湿ったコンクリートの上で、寄ってたかって一匹の痩せ細った野良犬に、笑いながら無慈悲な暴行を加えていた。
鈍い打撃音と、力ない悲鳴。
そこへ一人の、清らかな瞳をした可愛らしい女の子が必死の形相で割って入り、「やめなよ!死んじゃうじゃない!」と叫び、泥と血にまみれた犬を抱きかかえて逃げ出す。
幼き日の祥吾は反省するどころか、獲物を奪われた獣のような顔で「あ、こいつ!待て!捕まえろ!」と声を荒らげ、逃げる少女の長い髪を後ろから掴んで引きずり倒すなど、見るに堪えない暴力を振るう。
少女は膝を擦りむき、涙を流しながらも、何とか犬を抱きかかえたままその場を逃げ延びた。
しかし翌日、同じ小学校に通っていたその少女に対し、祥吾たちは教室の片隅で、さらに卑劣ないちゃもんを付け始める。
そんな中、少女は赤く腫らした目で泣きながら、震える声で彼らを睨みつけた。
「あの後、うちの親にお願いしたけど、なかなか許してくれなくて……。何とか頼み込んで、やっと動物病院へ連れて行ったけど、間に合わなかった……この犬殺し!」
全霊の怒りを込めた少女の叫びが、静まり返った教室に響き渡る。
だが、映像の中の祥吾たちはあろうことか、嘲笑混じりにこう言い放った。
「お前がもっと早く病院に連れて行かなかったから死んだんだろうが!俺たちのせいにするなよ!」
自分たちの振るった暴力が原因であることを棚に上げ、再び少女の髪を乱暴に引っ張って辱める。
それからというもの、祥吾の年齢が上がるにつれて、いじめという名の暴力が、まるで雪だるま式にエスカレートしていく醜悪な軌跡が、水面に次々と再生されていった。
「ねえ。この可愛らしい女の子のこと、ぶっちゃけ好きだったん?だからいじめてたってこと?小学生男子あるあるの、好きな子にはちょっかいかけちゃう的なノリ?」
女鬼は、どこか冷めた、しかし核心を突くような鋭い視線を向け、現代的なギャル特有の軽い口調で問いかけた。
「いや、そういうわけじゃなくて……。まあ、可愛いなとは、思ってたけど……」
祥吾は、自分自身の幼少期の醜態を、最も目を背けたい真実として突きつけられ、歯の根が合わないほどガタガタと震えながら答えるのが精一杯だった。
「そもそもさー、こんな子供の頃から犬殺しとかマジでありえないし。それを助けた子をいじめ倒すとか、最悪レベルで救いようのないクソガキ悪ガキ確定だね。あーし、マジで引くわ」
女鬼は、盃の縁をなぞりながら、慈悲のない言葉を淡々と、しかし重く言い放つ。
「言っとくけど、あんたがやったことは立派な犯罪だから。ガキの頃から平気で犯罪やっちゃってるとか、マジのクズ野郎じゃんよ。そこんとこ、ちゃんとおわかり?」
祥吾は、盃の水面に映し出される自分自身の醜態と、逃げ場のない真実を前に、ただ黙って項垂れるしかなかった。
女鬼の放つ言葉の一つ一つが、鋭いナイフとなって彼の自尊心を無残に切り裂いていく。
彼は、自分が歩んできた道がいかに血塗られたものであったかを、この摩訶不思議食堂のカウンターで、ようやく認めざるを得ない地獄に追い込まれていた。
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##血塗られた栄光、水鏡に沈む少女の悲鳴
巨大な盃に満たされた炭酸水の水面が、再び激しく波打ち、時を刻む歯車が軋む音を立てて逆回転を始める。
そこに映し出されたのは、15歳の頃、中学3年生へと成長し、思春期特有の残酷さをその身に宿した祥吾の姿であった。
映像の中の彼は、中心的なグループに身を置き、かつて犬を助けようとしたあの少女を、執拗なまでの標的に定めていた。
それはもはや単なる「ちょっかい」の域を遥かに超え、女子生徒たちをも巻き込んだ、逃げ場のない集団暴力へと変貌を遂げている。
ある日の放課後、夕陽が差し込む教室で、祥吾と女子グループのトップに君臨する少女が、獲物を追い詰める猟犬のような笑みを浮かべて少女に歩み寄った。
二人は目配せを交わすと、抵抗する力も残っていない少女を、二人係で思いっきり壁際へと突き飛ばした。
ドンッ、という鈍い衝撃。
バランスを崩した少女は、反射的に窓ガラスに右手をついてしまうが、そこには過剰なまでの勢いが乗っていた。
ガシャーン!!
凄まじい破壊音と共に窓ガラスが無残に砕け散り、鋭利な刃物と化した破片が、少女の柔らかな肌を容赦なく切り裂いた。
右腕の手首の上あたりから、肩のすぐ下あたりまで、ざっくりと刻まれた数本の深い傷口からは、どくどくと鮮血が溢れ出し、白い制服を瞬く間に真っ赤に染めていく。
「痛い……痛いよ……!」
泣き叫ぶ少女の悲鳴は、駆けつけた教師たちによって呼ばれた救急車のサイレンにかき消された。
後日、数週間の治療を終えて登校した少女の右腕には、痛々しい包帯の跡と、それを隠すための長袖が纏われていた。
だが、祥吾たちの加害性は、彼女の負った深い傷に怯むどころか、さらに醜悪な形へと進化を遂げる。
「おい、何隠してんだよ!見せろよ!」
祥吾たちは抵抗する少女の腕を強引に掴み、無理矢理袖をめくり上げると、引き攣った傷跡を衆目に晒した。
「うわっ、きったねえ!なんだよその腕、マジでバケモノじゃん!」
ゲラゲラと下卑た笑い声を上げ、彼女を徹底的に馬鹿にし、嘲笑の的にする祥吾。
そして、次の日から、少女が学校に登校することは二度と無かった。
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場面はさらに切り替わり、高校生になった祥吾が、仲間たちと共に夜のコンビニエンスストアの前にたむろしている光景が映し出される。
そこへ、偶然にも不登校のまま社会から取り残されていたあの少女が通りかかった。
「あ、おい!あれ、あの時の『バケモノ腕』の不登校野郎じゃねえか?」
祥吾たちは即座に獲物を見つけ、不登校で中卒確定の負け組だの、キモい傷跡だのと、口汚い言葉を浴びせかけて罵倒した。
さらに祥吾は、手に持っていた飲み終わりの空き缶を、嘲笑と共に少女へと投げつける。
カラン、という軽い音が響くはずだったが、缶は少女の横を通り過ぎ、偶然その場を通りかかった大人の男性の手に収まった。
「この飲み終わりのやつ、他人様に向けて投げるとかどういう神経しとんのじゃ!それとも何か?俺に捨てとけっちゅうんけ?どういう教育されてどういう育ち方しとんのじゃ!俺が再教育したろか?」
男性の低く地を這うような怒声が響き、祥吾たちは一瞬で硬直した。
そして男性が眼光鋭く詰め寄ると、祥吾たちは先程までの勢いを失い、蜘蛛の子を散らすように夜の闇へと逃げ出していった。
「おいコラ悪ガキ共!おどれの手でゴミ捨てて行かんかい!」
こうして、悪ガキ時代の姿をまざまざと見せつけられた祥吾。
しかし、その後の祥吾の人生に、因果応報の影が差すことは無かった。
彼は何事もなかったかのように平穏な学生生活を過ごし、ストレートで大学へ進学し、誰もが羨むような大手企業への就職を勝ち取っていく。
トントン拍子に出世し、20代のうちに主任へと昇進した彼の人生は、客観的に見れば完璧で、順風満帆そのものと言えた。
だが、その輝かしい経歴の裏側には、彼が踏みにじり、再起不能なまでに傷つけ、存在そのものを消し去った一人の少女の絶望が、真っ黒な泥のように沈んでいたのである。
盃の水面に映る「成功者」としての自分の姿が、祥吾には今は、吐き気を催すほど醜悪な怪物のように見えていた。
彼は、自分が何を作り上げ、そのために何を壊してきたのかを、この静かな食堂でようやく突きつけられていた。
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##鏡の中の虚飾、鬼の激昂と崩れる虚実
女鬼は、目の前でガタガタと震え続ける祥吾を冷ややかな一瞥で射抜くと、再びその指先をパチンと鳴らした。
静まり返った店内に鋭い音が響き、巨大な盃に満たされた炭酸水の水面が、生き物のように激しく揺れ動く。
そこに映し出されたのは、祥吾にとって記憶に新しい、彼が初めて桜子と食事を共にしたあの高揚感に包まれた場面であった。
映像の中の祥吾は、柔らかな照明の下で、自分をいかに立派な人間に見せるかに心血を注いでいる。
桜子から学生時代の生活やいじめについて尋ねられると、彼は迷うことなく、自慢げな笑みを浮かべて語り始めた。
「いじめ?……いや、俺の周りにはそんなのなかったよ。むしろ、もしそんなのを見つけたら、黙って見てられないタイプだったし。自分が止める側に回ってたかな」
好感度を上げるために吐き出されたその言葉は、あまりにも滑らかで、あまりにも醜悪な嘘であった。
女鬼は、映像の中の祥吾が浮かべる白々しい笑顔を見つめ、吐き捨てるように言い放った。
「ねえ、今さっき、あんたが実際にやらかした事実を見た直後にこれ見ると、言ってることが真逆じゃね?マジで正反対過ぎてウケるんだけど。」
その言葉に合わせるように、傍らで様子を窺っていたえらいこっちゃ嬢が、細い指をびしっと祥吾へと突き出した。
「嘘八百のええかっこしい、えらいこっちゃ」
女鬼の追求は、止まることを知らない。
「だよねー。いじめはなかった?むしろ俺が止める?何それ、マジでどの口が言ってんの?」
彼女の金色の瞳が、怒りの炎を宿してさらに鋭く輝く。
「自分が率先して女の子に暴力っていう立派な犯罪やらかして。そのうえ犬も殺しまくって『殺生』っていう大罪を犯しておきながらさあ、よくもまあそんな恥ずかしいセリフ、惚れた美人の前で吐けたよね?」
祥吾は何も言い返せず、ただガタガタと全身を震わせることしかできない。
「嘘ついて、それで運良く付き合えたとして。この彼女候補とか言ってた美人を、一生騙しきれるとでも思ってんの?」
女鬼はカウンターに身を乗り出し、祥吾の顔を覗き込むようにして詰め寄った。
「あんたが惚れたその人は、そこまで馬鹿だって思ってんの?つまりそれってさ、相手のことを舐めまくって侮辱してるし、不誠実極まりないし、無礼千万も甚だしいよね?」
「そ、そんな、ことは……」
喉の奥から絞り出した祥吾の言葉は、震える吐息にかき消される。
「わかってんの?あんたがやってきた、そのえげつない悪行。それを無かったことにして、のうのうと生きてるだけでもクズなのにさ。挙句の果てに、惚れた女性にいいかっこするために嘘つきまくって。そんなのは、罪の上乗せしてるだけでしかないかんね?」
女鬼の口調から、先ほどまでの「ギャル」としての軽薄さは完全に消え去っていた。
「そもそも、いいかっこどころか、今も昔も、あんた、格好悪すぎて超絶ダサすぎ」
次の瞬間。
店内の空気が、爆発的な威圧感と共に一変した。
女鬼の形相が、慈悲なき断罪者のそれへと変貌を遂げる。
「大罪犯した挙句に嘘ついて逃げて、勝手に無かったことにしてんじゃないよ!!」
本物の「鬼」による、魂を揺さぶるような一喝が、摩訶不思議食堂の静寂を木端微塵に粉砕した。
祥吾は、心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃を受け、椅子から転げ落ちそうな勢いで体を跳ねさせた。
最早、言い訳の一つも、謝罪の言葉さえも浮かばない。
ただ、目の前の絶対的な存在が放つ激昂に晒され、自分という存在が崩壊していく恐怖の中で、哀れに震え上がるしかなかったのである。
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##因果の終着、凄惨なる鏡の終わり
身に覚えのある過去の残虐性を突きつけられ、呼吸を忘れて震えあがる祥吾を他所に、女鬼は冷徹な眼光を宿したまま無造作にパチンと指を鳴らした。
刹那、巨大な盃に満ちた炭酸水の水面が激しく波打ち、そこには祥吾の自宅の庭で過ごしていたはずの5匹の犬たちの姿が鮮明に映し出される。
「これは……?」
喉の奥から絞り出すようにして祥吾がようやく声を出すが、女鬼は漆黒の角を揺らしたまま、何も答えずに水面を指し示した。
盃の水面に映る5匹の犬たちは、最初は陽光の下で穏やかに眠っているかのように見えたが、次の瞬間、何かに取り憑かれたかのように突然発狂して暴れ出した。
その目は最早瞳が消失して濁った白を呈し、正気を失った獣たちは互いの肉を食い破るべく、そのまま噛みつき合って血みどろの展開へと雪崩れ込んでいく。
「な、なんだよこれ!?やめろ、やめてくれ!」
祥吾は真っ青な顔で驚愕し、自分の飼い犬たちが互いを屠り合う地獄絵図に絶叫した。
「何って、犬あんちゃんとこの犬じゃん。もう自分とこにいた犬の姿、忘れちゃったん?」
女鬼の突き放すような言葉に、祥吾は戦慄しながら問い返す。
「そんな事はわかってるよ……え?これ、女鬼ちゃんが見せてるのか?」
しかし、女鬼はその問いに対して無反応を貫き、ただ冷ややかに水面の推移を観察し続けていた。
水面では、肉が裂け骨が砕ける壮絶な同士討ちが続き、異変に気づいた祥吾の両親が驚いて駆け寄ってくる光景が映し出される。
だが、あまりにも凶悪で狂暴な現場に人間が手を出すことなど到底出来ず、両親はただ立ち尽くすのみであった。
やがて一匹、また一匹と力尽き、仲間に噛み殺されて絶命していく凄惨な姿を、祥吾は水面越しに目の当たりにする。
あまりの光景に、祥吾は思わず目を逸らそうとして顔を背けようとすると……。
「なんで、眼、逸らそうとしてんの?」
女鬼の鋭い声が逃げ場を塞ぎ、祥吾の顎を強引に固定するかのような威圧感が店内の空気を支配した。
「この5匹が殺した、あの茶色い犬の残酷な最期……家族として大切にしていたあの女の子は、見たくもないのに見せつけられたって、わかってるよね?あの子には最悪な結末を見せつけておきながら、自分だけは目を逸らそうっての?そんな身勝手な事が許されるわけ、ないよね?」
女鬼の断罪は止まることなく、祥吾が最も直視したくない現実を鏡のように突きつける。
祥吾は女鬼の放つ人知を超えた恐怖に支配されながら、共に過ごしたはずの5匹の凄惨な最期を、一秒たりとも逃さず盃越しに見せつけられることとなった。
そうして、最後の一匹が痙攣を止めて全ての犬が絶命した瞬間を見届けて、祥吾の目からは堰を切ったように自然と涙が溢れ出した。
それまで過去の光景を映し出していた盃は、役目を終えたかのようにただの静かな水面へと戻る。
己が積み重ねてきた全ての悪業を突きつけられ、因果の重みに押し潰された祥吾は、涙を止めることが出来ずにその場に崩れ落ちていた。
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##過去の残響と、潰えた虚栄の仮面
祥吾が己の業の深さに打ちひしがれ、子供のように声を上げて泣き崩れる中、女鬼はその様子を慈悲の一片も感じさせない冷徹な瞳で見下ろしていた。
彼女は再び、真っ赤なネイルが不気味に光る指先をパチンと鳴らす。
すると、静まり返った店内に響く炭酸の弾ける音が激しさを増し、巨大な盃に満ちた水面が生き物のようにうねり始めた。
そこへ映し出されたのは、数年前の夜、街灯が寒々しく照らすコンビニエンスストアの前での光景だった。
祥吾が悪ガキ仲間たちとつるみ、かつて執拗な迫害によって不登校にまで追い込んだあの少女と、偶然にも再会した忌まわしき場面である。
映像の中の祥吾は、仲間たちと肩を組み、怯える少女を「おいおい見ろよ!」と、嘲笑の対象として指差していた。
「お前、結局あれからずっと引きこもりになったんだってな。マジでだせえ!どんだけ豆腐メンタルなんだよ!」
下卑た笑い声を上げ、己の罪を娯楽として消費するその姿は、あまりにも醜悪だった。
少女は震える唇を噛み締めながら、絞り出すような声で「……あなたたちは、罪の意識はないの?」と問いかける。
しかし、映像の中の祥吾は面倒くさそうに顔を歪めると、吐き捨てるように言い放った。
「はあ?それはあの時にちゃんと謝っただろうが。いつまでも昔のことを根に持つなよ。昔のことでねちねち、ねちねちとさあ……。粘着質ってお前のことを言うんだよ。さっさと忘れたらいいだろうが!」
その言葉に呼応するように、周囲の連中も「そうだそうだ!粘着質!」「いつまで被害者ぶってんだよ!」と、少女に罵声を浴びせ続けていた。
そのあまりに自分勝手な映像を祥吾に見せつけながら、女鬼は凍てつくような鋭い言葉を投げかける。
「犬あんちゃんはさあ、自分の犯した罪だけは都合よく綺麗さっぱり忘れちゃってるみたいだけど……ねえ、あんな風に一生残るような傷を心と体に刻まれまくったこの子や、大切な家族を奪われた茶色犬の飼い主一家が、あんたにされたことを忘れられるとでも本気で思ってんの?」
その金色の瞳が、祥吾の魂の奥底を暴き立てるように鋭く射抜く。
「あんたに傷つけられた人たちは、被害者面してるとでも思っちゃってんの?謝ってるから根に持つなとか、粘着質だとか、何それ?どの口が言うてるわけ?さっさと忘れろって、加害側にそんなことをぬかす権利も資格も、これっぽっちもあるとでも思ってる?ねえ、その頭の中って一体何が詰まってんのさ?それにさあ、『心』って本当にある?それとも邪魔だからって、あの5匹の餌にでもしちゃった?」
淡々と、しかし逃げ場を完全に塞ぐように詰め寄る女鬼。
祥吾はもはや何も言い返せず、自らの過去の言動がいかに血も涙もない、獣以下の所業であったかを突きつけられ、喉を詰まらせて喘ぐことしかできなかった。
「あーしが今ここで、犬あんちゃんに一生消えないような深い傷を負わせても、あんたはさっさと忘れてくれるんだよね?ごめーんって、軽く口先だけで謝った振りをしたらさ、根に持たないし粘着もしない、きれいさっぱりケロっと忘れる。……そういうことで、あってるよね?」
女鬼はさらに、カウンター越しに祥吾を覗き込むようにして言葉を重ねる。
「自分は好き放題に他人を踏みにじっても無罪放免で、自分がされるのは嫌だとか、そんな都合よすぎる頭お花畑満開なこと、まさか今更いわないよね?」
祥吾の心臓が、恐怖と罪悪感で破裂しそうなほど激しく波打つ。
「……悪いと、思ってる。今、こうして突きつけられて、俺がどれだけ本当に馬鹿なことをしてきたかって……。取り返しのつかない、申し訳ないことをしたなって、心の底から思ってる。……本当に、心から反省してるんだ」
祥吾は、溢れる涙を拭うことも忘れ、震える声で絞り出すように訴えた。
それまで彼を支えていたエリートとしてのプライドも、自分を正当化するための言い訳も、この食堂の灯りの下で完全に灰となっていた。
「口先だけなら、なんとでも言えるからねえ」
女鬼は呆れたように、深い溜息を一つ吐き出した。
「本当だ……。本当に、本当の本気で、反省してるんだ!俺がやって来た罪に対して、取り返しがつかないことをしたって……本当に……」
祥吾は椅子に座り続けることさえできず、ただ深く、深くうなだれた。
盃に映し出された自分自身の醜い笑い声。
他人を傷つけることに快感を覚えていた、ねじ曲がった根性。
それらによって積み上げられてきた数々の悪行と、逃れようのない悪業の山。
祥吾は生まれて初めて、自分自身の醜悪さと真っ向から向き合い、心の底からの反省という烈火に身を焼かれていた。
摩訶不思議食堂の静寂を切り裂く彼の嗚咽は、自らの魂を削り出すような痛みに満ちていた。
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##因果の気づきと、地蔵店長の慈光
祥吾は、震える両手で顔を覆いながらも、絞り出すように言葉を繋いだ。
「俺は・・・名古屋に戻ったら、家族と相談して、あの茶色い犬の家族に誠心誠意謝罪して、補償もちゃんとする。それが、俺ができるせめてもの償いの第一歩だ」
後悔の涙が顎を伝い、カウンターの木目を濡らしていく。
祥吾は、過去の凄惨な光景が焼き付いた脳裏を整理するように、虚空を見つめて呟いた。
「それから、あの子・・・そうだ、真山桜子。俺が右腕に一生傷をつけて、不登校にしてしまった女の子、名前は真山桜子だ。彼女にも謝罪しないとな。まだ引きこもってるのかな。そうしたら、社会復帰の支援とか、俺がしなくちゃいけないんだ」
ふと、彼はある名前に意識を奪われる。
「そうか、偶然だけど、桜子ちゃんと同じ名前、読み方も・・・。今俺が想い合っている桜子ちゃんと、あの時のあの子が、同じ名前だったなんてな」
祥吾は自嘲気味に笑い、自分の過去がいかに現在の「幸せ」に不相応なものであるかを噛み締めていた。
女鬼とえらいこっちゃ嬢は、静まり返った店内で、彼の独白をただ黙って聞き届けていた。
しかし、祥吾の思考は、まだ自らの罪の核心に完全には至っていなかった。
彼はあることに気づき、自分を納得させるように結論を急ぐ。
「あれ?そういえば桜子ちゃんも、体に傷があるって言ってたけど・・・でも、あいつは髪もぼさぼさで、あそこまで美人じゃなかったし。それに何より苗字が違うから、やっぱり別人か。あんなに素敵な彼女が、俺がいじめていた子であるはずがないよな」
都合の悪い可能性から目を逸らすように、祥吾は首を振った。
「とにかく、俺はちゃんと責任を取るよ。傷つけてきた人達に対して、誠心誠意の謝罪と賠償、それをきっちりと果たすから。それが人間として、谷口祥吾としての最低限の筋道だ」
覚悟を決めたような強い口調でそう言い放つと、彼は顔を上げた。
すると、女鬼とえらいこっちゃ嬢が、申し合わせたかのようにスッと静かに、カウンターの奥に座す地蔵店長を見上げた。
祥吾もその不自然な視線の動きに導かれるように、ゆっくりと地蔵店長の方へ視線を移す。
そこには、カウンター越しに、最初からずっと変わらぬ慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔を絶やさずに、祥吾の葛藤を見守っていた地蔵店長の姿があった。
地蔵店長は、祥吾の視線を受け止めると、ゆっくりと、そして重厚に合掌してお辞儀をした。
「祥吾さんは今、確かに御自身の悪行、そしてそれによって積み上げてしまわれた悪業に気づかれました。御自身の醜さと向き合うことは、何よりも辛く苦しい作業であったことでありましょう」
地蔵店長は、まるで春の陽光のような穏やかな笑みを浮かべ、静かに、しかし深く響く声で諭し始めた。
「気づきは智慧の第一歩で御座います。御自身が何を為し、何を壊してしまったのかを直視すること。そこから逃げ出さずに留まること。その在り方こそが、凍てついた因果の糸を解きほぐす事となるので御座います」
その声には、一切の拒絶も否定もなく、ただ迷える魂を導くような、圧倒的な包容力が宿っていた。
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##阿頼耶識の種子と、慈悲の雷鳴
地蔵店長は、柔和なお地蔵さん笑顔を絶やすことはなかったが、その双眸の奥には、迷える衆生を正道へと引き戻す仏の厳格な光を宿していた。
そして地蔵店長は静かに祥吾を見据え、その魂の深淵にまで届くような、深く、重みのある声で説き始めた。
「祥吾さんは、これまで数多くの、そして目を背けたくなるほどに凄惨な悪しき行いに、その手を染めてしまわれました。尊き生命を奪い、弄ぶ殺生。己の非を隠し、他者を欺くために重ねてきた嘘、すなわち妄語。そして、真山桜子さんという一人の人間から、学校というかけがえのない居場所と尊厳を、暴力によって奪い去ったこと。これらの凄まじい悪行を働いてもなお、つい先ほどまで全く反省することなく、それどころか更に相手を傷つけ、絶望の淵へと追い詰める所業を繰り返してこられました。あなたが盃を通して直視された惨状こそが、積み上げてきた罪の正体に御座います」
地蔵店長は、穏やかな笑顔のまま、一切の慈悲を排した事実を祥吾の胸元へと突きつけた。
「……はい」
祥吾は、もはや蚊の鳴くような声で応じることしかできなかった。
魂を削られるような罪の告発を前に、彼はただ項垂れ、絞り出すような吐息を漏らす。
地蔵店長は、合掌した指先に微かに力を込め、言葉の重みをさらに増していった。
「また、祥吾さんがこれまで傷つけた人たちに対して放たれた、『いい加減忘れてしまえ』『いつまでも粘着せず執着するな』という言葉。これもまた、目に見えぬ言葉の刃として相手を切り裂き、癒えぬ傷口に塩を塗り込むような、卑劣極まりない追い打ちに御座います」
その言葉を受け、それまで傍観していた女鬼が、鼻を鳴らすようにして不敵な笑みを浮かべた。
「マジでそれ。娑婆だとさ、過去の罪を責める人に対して、粘着質だの、忘れてしまえだの、幸せになることが復讐になるだの、それっぽいことや正論っぽいこと、綺麗事なんかもぶつける奴がいるけど、それで全部丸く収まれば苦労しないっつーの」
女鬼の金色の瞳が、夜の闇よりも深く、鋭い光を放って祥吾を射抜く。
「そもそもさあ、そういうことって被害を受けた側の心構えだとか在り方の話であって、間違っても傷つけた加害側のあんたが、ドヤ顔でぶつけていい言葉じゃないから。大体、そんな簡単に忘れられたら、この世にトラウマなんて言葉は、そもそも存在してないし」
えらいこっちゃ嬢は、白い割烹着の裾を静かに整えると、深く、重く頷いた。
「まさにお前が言うな案件、えらいこっちゃな暴論。被害者の心を蔑ろにする、えらいこっちゃな所業」
「マジでそれだよね。それにさあ、誰よりもそのことを忘れたいって願ってるのは、他でもない傷つけられた本人なんよ」
女鬼は指先で盃の縁をなぞりながら、どこか遠くを見つめるように言葉を重ねる。
「強烈に心に刻み込まれた傷ってのは、本人の意思に関係なくフラッシュバックしたり、ふとした瞬間に勝手に湧き上がってくるもんなんだよ。だからどうしようもないんだって事。忘れろなんてのが、そもそも土台無理な話なわけ。そんな言葉を軽々しくぶつける奴って、被害者の尊厳を更に踏みにじる、二次的な加害をかましてるってことに、これっぽっちも気づいてないんだろうね」
女鬼は、嘲笑うような冷たい視線を再び祥吾へと向けた。
「犬のあんちゃんも、経験あるんじゃね?嫌なことって、忘れたくてもずっと残り続けて、寝る前とかふとした瞬間に蘇っちゃうこと。それを考えればさ、何の考えもなしに『傷ついたことなんて忘れろ』なんて言葉をぶつけることが、いかに残酷で、相手を絶望させることか、流石にわかるでしょ?」
祥吾の胸に、鋭いナイフで抉られたような激痛が走った。
これまで正当防衛や正論だと思い込んで放ってきた言葉が、いかに無慈悲な凶器であったかを、彼は初めて骨の髄まで思い知らされていた。
地蔵店長は、祥吾の苦悶をすべて包み込むような穏やかな笑みを絶やさず、仏教の深淵なる教えを説き明かし始めた。
「心に受けた強烈な傷というものは、『種子』として生命の深層、『阿頼耶識』へと蓄積されます。そして、強烈なまでに深い傷を負った記憶というものは、表面上の意識で消し去ろうとしても容易に消えるものではなく、むしろ生命の根本に深く、深く根ざすものなのです。そこから芽吹き、苦しみという形を成すので御座います」
地蔵店長は、合掌したまま祥吾の目を真っ直ぐに見据え、一切の誤魔化しを許さぬ調子で続けた。
「『お前は粘着している』『さっさと忘れろ』という言葉は、この生命の仕組み、心の道理を完全に無視した暴論に他なりません。そして、仮に時が流れて被害を受けた方がそのことを忘れたとしても、刻まれた傷そのもの、そして傷つけられたという出来事そのものが無くなることは無く、傷をつけた者の罪もまた、決して消えることはないのです」
その声は慈悲深く、同時に、地獄の業火のように祥吾の逃げ道を焼き尽くす厳しさに満ちていた。
地蔵店長は、店内の静寂を重くするように、一度言葉を区切った。
「勿論、傷をつけられた方が、その傷とどう向き合うか、どのようにこれからの人生を歩んでいくか、その事後の在り方については、その方ご自身の課題ではありますし、その人自身が取り組まねばならぬことで御座います。周囲が土足で踏み込んでいい領域では御座いません」
地蔵店長は、祥吾の魂の奥底を浄化するかのように、さらに深く諭していく。
「しかし、もしもその方が、忘れられないほどの深い傷を負ったという事実を事実として受け止め、無理に忘れようとすることを手放し、『今はまだ、この痛みがここにあるのだ』と認め、忘れられぬ自身を許して引き受けて、善き道を歩もうとされているとしたら、そのような尊い努力をされているところに、『それは執着だ』『忘れろ』等と言うことは、善き道を歩もうとされる方への救い難い冒涜で御座います。そのような行為は、必死に立ち直って善き道へ踏み出そうとされる方、あるいはその可能性そのものを、言葉という暴力で摘み取ってしまう怖さがあるのです」
お地蔵さん笑顔を向けたまま、地蔵店長は祥吾の全てを見透かすように、厳しく説いた。
「言葉一つで、人の救いを奪うこともあり得る事で御座います。それを、祥吾さんはこれまでの人生で繰り返してこられたのです」
祥吾は、ただただ溢れ出る涙を堪えることもせず、その場に崩れ落ちるようにして、地蔵店長の説法を魂に刻み込むように聞き入っていた。
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##魂を穿つ慚愧の道標
地蔵店長から静かに、しかし峻厳に伝えられる仏の教え。
その一言一言が、祥吾の魂に深く突き刺さり、彼は声を殺してただ静かに、溢れ出す涙に身を任せていた。
店内の静寂を、彼の嗚咽だけが重く、切なく揺らしている。
地蔵店長は、その様子をいつものお地蔵さん笑顔で見守りながら、慈悲の光を宿した言葉をさらに重ねていった。
「肝要は、その事に気づき、これからは決して悪しき行いに手を染めぬことです。悪を止め、これからは善き行いによって善き縁を一つ一つ結び、尊き善き業を積み上げてゆくこと。それこそが、祥吾さんの歩むべき再生の道に御座います」
地蔵店長はゆっくりと、まるで慈愛そのものが形を成したかのように合掌し、深々とお辞儀を捧げる。
「勿論、これからどのような事を具体的に為さって行かれるかは、祥吾さんご自身が、時にはもがき苦しみながら、泥の中をあがきながらも、自ら手探りで進んで行かれるしか御座いません。人生に唯一つの正解などという便利なものは存在しませんし、私達が安易にこれだという明確な答えを差し上げるわけには参りませんからねえ」
その声はどこまでも優しく、しかし祥吾の甘えや逃げを一切許さない、仏の智慧に満ちた響きを帯びていた。
地蔵店長は一度言葉を切り、カウンターに伏したままの祥吾を見つめた。
「それを踏まえたうえで。時には迷い道に踏み込み、自らを見失いそうになっても、そのまま道から外れずに正道へと修正出来るよう、ささやかな道標をお渡しする事は出来ます。あくまでこれは道標ですから、それを指標としてどのように生きてゆかれるかは、どこまでも祥吾さん御自身の課題である事を、ゆめゆめお忘れなきよう」
地蔵店長が微笑むと、店内の空気が一瞬だけ柔らかく解けた。
「道標……。それは、一体何ですか?俺に……俺に教えて下さい!」
祥吾は縋るような思いで顔を上げ、地蔵店長に向かって必死に頭を下げた。
地蔵店長はゆっくりと再び合掌し、祥吾の魂がその重みをしっかり受け取れるよう、一語一語を噛み締めるように仏の道標を授け始める。
「祥吾さんが、これまで他人様に向けてなさって来られた数々の行いは、現世の道徳的な視点からも、そして一切を見通す仏様の眼から観ても、あまりにも恥ずべき行いで御座いました。この事から察するに、これまでの祥吾さんには『慚』と『愧』と言う、人間として尊い在り方が欠落していたのではなかろうかと存じます。自らに対して恥じる心である『慚』。そして他者に対して恥じる心である『愧』。この二つを持たぬことを、仏教では『無慚無愧』と言います」
「ざん……き。そして、むざんむき……」
祥吾は初めて耳にするその言葉を、己の罪を削り出すようにして何度も復唱した。
「左様で御座います。平たく申し上げれば『恥知らず』と言う事です。勿論、過度に恥を意識しすぎては、恐れで身動きが取れなくなってしまいます。肝要は、これからやろうとしている行いが、果たして正しい事か、恥じるべき行いではないか。それを一歩立ち止まって、自身の心に問いかけ、気づく事で御座います」
地蔵店長は、暗闇を照らす灯火のような優しい笑顔で、祥吾を導いていく。
「例えば、現世ではよく『お天道様が観ている』と申しますね。『お天道様に顔向け出来る事であるか』と、このように幼き頃から教えられてきた方もいらっしゃいます。また、常に仏様に顔向け出来る事であるか、と言う指標も、人生を歩む上での一つの確かな道標となりましょう」
すると、それまで黙って聞いていた女鬼が、金色の瞳を輝かせて、茶目っ気を含みつつも核心を突く言葉を投げかけた。
「仏様やお天道様に馴染みがないってんならさ、自分の親に顔向け出来るかってのも、かなりわかりやすい指標かもね。今のあんちゃんなら、桜子さんに顔向け出来るかってのも、相当効くんじゃねーの?」
女鬼がニヤリと微笑むと、その言葉は祥吾の心臓に、鋭い杭となって打ち込まれた。
「そうですね。大切な人に、今の自分自身のありのままの姿、そしてこれからやろうとしている事を堂々と見せられるか。そのように考えて行動する事も、一つ有用な方法かと存じます」
地蔵店長は、祥吾の揺れ動く心を肯定するように、静かなお地蔵さん笑顔で教えを補強した。
祥吾は、今まで自分が他人に振るってきた暴力、悪ガキ時代の残虐な数々の悪行、その全てを今の桜子がもし目の当たりにしたら、一体どう思うかを想像した。
彼女の清らかな瞳に、己の醜悪な過去が映し出された時、彼女はどんな顔をするだろうか。
その恐ろしいイメージが脳裏をよぎった瞬間、祥吾は絶句し、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
「これは、確かに……確かに効くよ。こんなことしたら絶対に彼女に嫌われるって思ったら、俺、怖くなったよ。恥じる心、か……。確かに、俺にはそんなもの、欠片も無かったかもしれない」
祥吾は己の心の致命的な欠落を突きつけられ、深い闇の中へ沈み込むように力なくうなだれた。
かつての傲慢なエリートの面影はどこにもなく、そこにはただ、自らの醜さに直面して震える、一人の愚かな男の姿があった。
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##抜苦与楽の誓い、新生の産声
溢れ出る涙を何度も手の甲で拭い、顔を真っ赤に腫らしながらも、ようやく前を向こうとする祥吾。
そんな彼の痛々しくも懸命な姿を、地蔵店長は春の陽だまりのような、どこまでも穏やかで慈愛に満ちた笑みを浮かべて見守っていた。
「祥吾さんは、これまで長きにわたり、己の欲望のままに人を傷つけ、大切なものを奪う人生を歩んで来られました。その事実は消えませんが、これからは、傷ついた人を癒し、奪うのではなく惜しみなく与える者として生きてゆかれることで、自ずと善き縁も結ばれていく事でありましょう」
地蔵店長は、祥吾の魂を優しく包み込むような、深みのある声で諭していく。
「他者の苦しみを除いて楽にして差し上げ、心に癒しを与えること。これを仏教では『抜苦与楽』と言います。また、むやみに生命を奪わない、また、嘘をついて人を惑わさないという戒めを、それぞれ『不殺生戒』『不妄語戒』と言います。これらは、仏教において守るべき最も大切な五つの戒のうちの二つで御座います。今お話しした事をしっかりと胸に刻み、一日一日、地に足を付けて誠実に歩まれると宜しいのではありませんかねえ」
地蔵店長はそう言って、細められた目をさらに和らげると、静かに掌を合わせて深々とお辞儀をした。
「抜苦与楽に、不殺生戒と、不妄語戒……」
祥吾は、その神聖な響きを持つ言葉を、自分自身の迷いを断ち切るように何度も口の中で復唱した。
その瞳からは先ほどまでの絶望の色が消え、代わりに微かな、しかし確かな決意の光が宿り始めている。
「人を助けて、命を慈しんで、嘘をつかずに、正しく誠実に生きるってこと。しっかりね、祥吾さん」
それまで祥吾を厳しく突き放していた女鬼が、不意にギャル特有の軽やかさはそのままに、しかし今までになく優しい声音で言葉をかけた。
彼女は「ピシッ」と音を立てるように人差し指を立て、悪戯っぽく、それでいて温かい微笑みを祥吾に向ける。
「……やっと、名前で呼んでくれたね。そっか。……うん、そうだな。俺、もう逃げないよ。正しい道を、誠実に、一歩一歩進んで、今度こそきちんとやり直すよ。今まで俺が迷惑をかけ、踏みにじってきた人たちにも、誠心誠意謝罪して、俺にできる償いを一つずつ果たしていく」
祥吾の言葉には、かつてのエリートとしての虚飾は一切なく、ただ一人の人間としての重みが宿っていた。
彼が力強く頷いた、その時だった。
「やっと、悪を自覚してほんまに反省しよった。えらいやっちゃ!」
えらいこっちゃ嬢が、カウンターの椅子に「ぴょんっ!」と小気味よい音を立てて飛び乗ると、そのまま祥吾の頭を優しく撫で始めた。
その小さな掌からは、言葉では言い表せないような慈しみと、再生への祝福が伝わってくる。
えらいこっちゃ嬢は、我が子を褒める母親のような、あるいは兄を見守る妹のような温かい眼差しで、祥吾の頭を何度も何度も撫で続けた。
「あはは、有難うな。……えらいやっちゃ、か。いい言葉だね。いつまでも『えらいこっちゃ』なままじゃ、やっぱり駄目だよな。俺も、もういい大人なんだから、もっとしっかりしないと」
祥吾は、気恥ずかしさとそれ以上の幸福感に包まれながら、顔を綻ばせて声を上げた。
彼の笑い声は、淀んでいた食堂の空気を清めるように明るく響き渡る。
己の罪を真に自覚し、泥濘の中から顔を上げた男は、今、この奇妙な食堂の灯りの下で、新たな人生の一歩を力強く踏み出す決意を固めていた。
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##冥途の土産と再生の門出
祥吾は腫らした目を手の甲で拭い、憑き物が落ちたかのような晴れやかな表情で一度だけ深く息を吐いた。
心の中に沈殿していた身勝手な言い訳や虚飾は、この食堂の不思議な空気と地蔵店長の説法によって、綺麗に洗い流されていた。
「……最初は驚いたけど、この食堂に来て本当に良かった。濃厚なチーズが絡みつくあのジューシーなハンバーグも、心まで解きほぐしてくれるようなコーンポタージュスープも、人生で一番美味かったよ。でも、何よりのご馳走は、これからの人生を逃げずに、一歩ずつ正しく歩いて行くための智慧を授けてもらえたことだ」
彼はそう語り、椅子を引いてゆっくりと立ち上がった。
その動作には、店に入って来た時のような傲慢な重苦しさは無く、どこか軽やかで、それでいて地に足の着いた力強さが宿っている。
「有難う御座います。……それじゃあ、お会計をお願いします」
清々しい声で会計を申し出ると、地蔵店長は穏やかなお地蔵さん笑顔を向けたまま、静かに両の手を合わせた。
「この店では、決まった代金は頂いておりません。御布施形式、つまり、お客様がこの時間と料理に感じられた価値を、そのまま納めて頂く形にしております」
「御布施……。なるほど、最後までこの店らしいな。それじゃあ……あ、一応、現金は持ち歩いてはいるんだけど、電子決済でも支払えますか?」
祥吾が尋ねると、すぐさまレジカウンターからえらいこっちゃ嬢が駆け寄ってきた。
銀髪を揺らし、黒いベレー帽を整えながら彼女が差し出したのは、「御勘定」という古風な文字と、それには不似合いなほど鮮明なQRコードが印字された木製のプレートであった。
「あはは!方輪車さんだっけ、あの世の乗り物みたいなのを見て驚いたけど、QRコードが使えるとか、結構デジタル化が進んでるんだな。このギャップこそ、えらいこっちゃだ」
祥吾は思わず声を上げて笑いながら、ポケットからスマートフォンを取り出し、お財布携帯の機能を起動させてプレートに翳した。
画面に金額入力欄が表示されると、彼は迷うことなく「1万円」と打ち込み、決済ボタンをタップする。
――ピッ。チャリーン!
店内に、軽快でどこか懐かしい「毎度ありー」という電子音が鳴り響き、支払いが完了したことを告げた。
「毎度あり!えらいこっちゃな大金、ありがとちゃん!」
目の前の金額を確認したえらいこっちゃ嬢が、驚きと喜びを爆発させるように、両腕をぶんぶんと激しく振り回して喜びを表現する。
その無邪気な姿に祥吾はもう一度だけ微笑むと、確かな、迷いのない足取りで店の出口へと向かった。
扉の前に立ち、外に広がる夜の闇を見つめた後、彼は最後にもう一度だけ振り返り、店内に向かって深く、長くお辞儀をした。
「御来店、誠に有難う御座います。善き旅路を」
地蔵店長は、カウンターの奥から祥吾の背中を見守るように、慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔で合掌し、静かにお辞儀をして彼を見送った。
扉が閉まるカランという乾いた音と共に、祥吾という一人の男の「えらいこっちゃ」な夜は終わりを告げ、償いと再生への、長い道程が幕を開けた。
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##因果の果て、茨の道への第一歩
祥吾が摩訶不思議食堂の重厚な扉を押し開けて外へ出ると、そこには彼を待っていたかのように、一台の豪華な牛車が静然と停車していた。
宵闇の中に浮かび上がるその姿は、現世の乗り物とは一線を画す圧倒的な存在感を放っており、祥吾が近づくと、主を迎え入れるかのように客席の扉が音も無く開かれた。
祥吾はもはや、この場所に漂う超常的な事象に疑念を抱くことはなく、迷いのない足取りでその不思議な空間へと乗り込んだ。
座席に深く腰を下ろしたその刹那、どこからともなく白くて長い、不気味なほどにしなやかな腕がニューっと伸びて来る。
その手にはQRコードが記された古びた札が握られており、祥吾は慣れた手つきでお財布携帯をその札に翳した。
「ピッ……チャリーン。毎度ありー」
静寂の中に軽快な電子音が鳴り響き、スマートフォンの画面には1132円の決済完了通知が表示されると、白い腕は満足げに再びニューっと闇の中へ引っ込んで行った。
「毎度ー。ほな、帰りまっせー」
運転席に鎮座する方輪車が、軽妙でありながらもどこか深みのある声で応じると、牛車は滑らかに発進した。
車窓を流れる異界の景色を眺めながら、祥吾はふと思い当たったことを口にする。
「1111円は犬の鳴き声で、ワンワンワンワンって事か。それで、さっきの1132円は……『いいみち』、つまりこれから歩むべき『良い道』って事じゃないかな」
自嘲気味ではあるが、先ほど地蔵店長から授かった教えを反芻するように祥吾が笑うと、方輪車も愉快そうに肩を揺らした。
「ふふ、大正解ー。さすが、気づきを得た方は飲み込みが早いですなあ。これからはその言葉通り、善き道を歩んで下さいねー」
方輪車はそう言って笑い、牛車は次元の境界をなぞるように走り続けた。
やがて景色は馴染みのある色彩を取り戻し、祥吾がえらいこっちゃ嬢や人面犬と初めて出会った、あの静まり返った稲荷神社へと戻って来た。
月明かりだけが降り注ぐ誰もいない境内で、牛車は音も無くその巨体を停車させた。
客席の扉がゆっくりと開き、祥吾が地面に足を下ろすと、扉は名残惜しげに閉まる。
「毎度ありー。ほな、お休みなさいましー」
方輪車は運転席からひらひらと手を振り、再会の約束を交わすような、あるいは永遠の別れを告げるような独特の挨拶を投げた。
「有難う、お休みなさい」
祥吾が深々とお辞儀をして応じると、方輪車は運転席の窓を閉め、夜の闇に溶け込むようにそのまま静かに走り去って行った。
「良い道、か。……俺のこれからの人生、間違いなく茨の道になるんだろうな」
祥吾は一人、神社の鳥居を見上げながらぽつりと呟いた。
これまで積み上げてきた虚飾を捨て、踏みにじってきた人々へ謝罪し、償いの道を歩むことは、想像を絶する苦難が待ち受けているに違いない。
「けど、それが今の俺にとっては、唯一無二の、最高に良い道なんだろう」
覚悟を決め、凛とした表情で神社を後にした祥吾は、一般道へ出て流しのタクシーを拾い、自らの罪と向き合うための戦場である会社の社員寮へと帰って行った。
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