第28話前編:谷口祥吾と忘却のほっこり飯
##因果の種、犬神の契約と古都の風
夜の闇が深く沈み、山肌を撫でる風がヒュウウと木々を揺らす京都の北、鬱蒼とした森の奥にその神社はあった。
朱色の鳥居は剥げ、禁足の地特有の静謐と、何者をも寄せ付けぬ冷徹な気配が漂う本殿。
関係者以外立入禁止の重い扉の向こう、御神体である巨大な犬の像を前に、二人の男女が並んで立っていた。
一人は、名古屋から辿り着いた、真山桜子、当時16歳。
もう一人は、この神社の宮司を務める、犬上玄蓮、当時30歳。
二人はしばしの間、言葉を交わすことなく、ただ闇の中に鎮座する御神体の威圧感を見つめていた。
すると突然、玄蓮は静寂を破り、低く掠れた声でフッと笑った。
「今言うた事が、俺と言う男……犬上玄蓮の真実で、この神社の真の姿や。驚いたか?表向きは動物の神社やけど、その実は犬神の呪術、それも邪術っちゅうもんを中心に受け継いできた呪われた血統、それが俺ら犬上家よ」
玄蓮の言葉に、桜子は動じることなく、ただ黙って深く頷く。
その瞳には迷いも恐怖もなく、ただ底なしの虚無だけが広がっていた。
「桜子、死を決意する程の苦しみ、忘れたいと思うとるか?一生消えへん傷を刻んだ過去、その傷を刻みよったクソガキ共の記憶、そして君の両親の事、何もかも全部や」
玄蓮が最後の確認をするように尋ねると、桜子は迷うことなく、喉の奥から絞り出すような声で返答した。
「はい。忘れたいです。一秒でも早く、今の自分を消し去りたい」
「そうか。ほんで、忘れながらも、復讐したいと思うか?まあ、忘れてもうたら、復讐したいっちゅう気持ちそのものも忘れてまうやろうけどな、難儀なこっちゃ。それでもええんか?」
玄蓮の問いに、桜子は再び「はい」と短く、しかし決然と答えた。
「そうか。忘れる事も、そして、その上で復讐する事も、俺なら教えてやれる。ただし、その場合は相応の代償を支払って、人間やめる事になるけどな。ええか、一度この敷居を跨いだら、もう二度と、普通の女の子としての生き方には戻られへんぞ?」
玄蓮は不敵な笑みを浮かべ、彼女を試すように言葉を継いだ。
「もし、それでもええっちゅんやったら……10年、修行せえ。そしたら一人前の犬神遣いになる。犬にまつわる呪術、その中でも特に邪術っちゅうもんを自在に操れるようになるんや。そうなりゃ、君の前に立ちはだかるもんは、何一つなくなるぞ」
玄蓮は桜子の瞳を覗き込み、核心を突くように、彼女が何を差し出すのかを尋ねた。
「ほんで、桜子は何を代償に支払う?力が欲しいなら、それに見合うもんを差し出さなあかん」
「この記憶と、全ての縁を支払います」
桜子は一切の躊躇なく、即座にそう言い放った。
「楽しい記憶もゼロやないやろうに。人の縁に絞っての記憶の削除……それに伴い、数少ないとは思うが楽しい記憶も、親しかった人らとの記憶も、全部消えるぞ?両親の顔も、お前の名前を知る誰かの存在も、全部や」
「構いません。全部いりません。そんなもの、今の私には何の価値もありませんから」
少女の冷徹な即答に、玄蓮は愉快そうに喉を鳴らした。
「決まりやな。……ほんで、俺との縁はどうする?出会う前からやり直すか?」
「弟子入りするんだから、それは残して下さい。玄蓮さんという存在だけは、私に残して下さい」
桜子はゆるぎない決意を込めて答える。
「ほな、ちょいと面倒な手順踏まなあかんからな。更にそのための代償には何がええやろな……そや、俺がかつて支払った代償と同じもんにしとくか。犬神を身に宿すっちゅうのは、そういうこっちゃ」
玄蓮の瞳が、暗闇の中で怪しく光る。
「この先の人生は、妖怪変化や怪異以外の、現世におる普通の犬からは震え上がる程に怯えられる存在になるぞ?二度と娑婆の犬を飼う事は出来ひんし、街を歩けば犬が絶叫して逃げ惑う。一生ペットは飼えへんと思え。ま、人面犬とか、あの辺の怪異を飼いたいっちゅうんなら話は別やけどな。因みに、俺もそれを代償として犬神遣いの呪術師にして邪術師になったんや。俺、こう見えても元々は犬好きやったんやけどなあ。」
玄蓮は豪快に笑い飛ばしたが、桜子はそれすらも当然のように受け入れ、静かに頷いた。
「そしたら、桜子は今日から真山の姓を捨てて『犬上桜子』と名乗れ。役所とかの面倒な手続きは俺が裏で全部しといたる。まあ、必要書類とかは後で書いて貰わなあかんけどな。君は何も気にすることなく、ただ俺の背中を見て修行に励んどけばええ」
玄蓮の不敵な笑い声が、夜の境内に響き渡る。
こうして、真山桜子は消え、犬上桜子が誕生した。
今までの人間関係について全ての記憶を失い、娑婆の犬から恐れられる存在となった彼女は、10年という歳月をかけて一人前の犬神遣い、そして呪術師・邪術師としての力を磨き上げていくことになる。
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それから、10年の月日が流れた。
かつての記憶を失った少女が修行に明け暮れていた一方、名古屋を拠点とする大手食品商社では、一人の男が「成功」という名の階段を駆け上がっていた。
谷口祥吾、26歳。
恵まれた家庭に生まれ、父親と母親が経営する企業にコネクションをフル活用して入社した彼は、要領の良さと勉強の出来を武器に、26歳という若さで主任の職に就いていた。
祥吾の人生は、まさに順風満帆そのものであった。
会社は着実に業績を伸ばし、拠点の名古屋だけでなく、今や大阪や京都にも支社を構えるほどに成長している。
「近畿圏を制覇すれば、いよいよ次は東京進出だ。俺がその先陣を切って、東京の支店長、そして最後には親父の跡を継いで社長になってやるんだ」
祥吾は、自分に用意された輝かしい未来を確信し、満ち足りた表情で野心を燃やしていた。
そんな彼に、またとないチャンスが舞い込む。
京都の一等地、御池通を北へ進んだ場所に建つ京都支店への出張が決まったのだ。
京都での展示会や物産展でバイヤーとして結果を出せば、東京進出メンバーへの抜擢は確実。
祥吾は気合十分に京都の地へ足を踏み入れ、新天地でのエリート生活に胸を躍らせていた。
「京都で俺の実力を知らしめて、一気に出世してやるぜ。親父も俺を次期社長にする事は決めてるはずだけど、どでかい手土産くらいは欲しいところだよな」
祥吾は、鏡の前で高級なネクタイを締め直し、不敵に笑った。
彼にとって、京都は自らの伝説を創り上げるための舞台に過ぎなかった。
そして、運命の水曜日。
京都の名高い百貨店の7階展示場は、開店前の緊張感と準備に追われる人々の熱気に包まれていた。
重厚なエレベーターの扉が左右に開き、祥吾は支店長や先輩社員の背中を追って、堂々とした足取りで会場へと乗り込んだ。
「谷口君、ここが戦場だ。気を引き締めていけよ」
「承知しています。京都の市場を俺たちが独占する、その第一歩ですからね」
自信に満ちた祥吾の声が、まだ誰もいない広い通路に響き渡る。
会場の至る所から、搬入作業の音や挨拶の声が聞こえてくる中、祥吾はネクタイを正し、獲物を狙う鷹のような鋭い視線で会場全体を見渡した。
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##夕闇の路地、翻る紅と沈黙の威圧
百貨店で開催された物産展の初日は、熱気と美食の香りに包まれ、祥吾にとってはこの上ない充実感と共に幕を閉じた。
会場内を隈なく歩き回り、老舗の和菓子から新進気鋭の漬物屋まで、祥吾は持ち前の鋭い観察眼と舌で商品を吟味した。
「この出汁の深み、名古屋の味付けとはまた違うが、これなら関東圏のバイヤーも放っておかないはずだ……」
実際に試食を繰り返し、出展者との短い会話から商売のヒントを掬い上げるその姿は、端から見れば熱意に溢れる若きエリートそのものであった。
夕刻、会場の片付けを終えたところで、祥吾の上司である支店長と先輩社員が歩み寄ってきた。
「谷口君、初日はお疲れ様。今日はリサーチに徹してもらったけど、君のメモの取り方、なかなか筋が良いな」
「ありがとうございます。明日からは本格的な交渉も始まりますし、気合を入れて臨みます」
祥吾は褒められて上機嫌になる。
「頼もしいねえ。よし、明日の本番を前に、今日は折角京都に来はったんやさかい、京都のええもん出してくれるとこに行こか」
支店長が穏やかな京都弁で提案すると、祥吾の表情がパッと明るくなった。
「お、いいですね!京都の『ええもん』ですか……あ、もしかして舞妓さんがいるような、あのお座敷遊びができるとこですか?」
祥吾が期待を込めて冗談めかして笑うと、隣にいた先輩が肩をすくめた。
「いきなり舞妓遊びをおねだりかいな。谷口君はほんまに欲が深いのう。あそこは一見さんお断りの世界やで」
「ははは!舞妓さんは、また今度な。それは今回の展示会でしっかり結果を出してから、打ち上げのご褒美にしとこうや」
支店長は豪快に笑いながら、百貨店を出て少し歩いたところにある、一本の狭い路地へと足を踏み入れた。
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京都特有の「鰻の寝床」のような細い路地。
格子戸の続く家並みと、控えめに照らされた足元の灯籠が、情緒ある雰囲気を醸し出している。
「この先に、隠れた名店があるんや。静かで料理も絶品やし、君も気に入るはずやで」
支店長に連れられ、祥吾が新天地での幸運を噛み締めながら路地を進んでいた、その時だった。
「――ガルルルルッ!」
突如として、背筋を凍らせるような低い唸り声が闇の中から響いた。
曲がり角から姿を現したのは、首輪もしていない大型の犬が二匹。
それらは、獲物を追い詰める狼のような眼光で、祥吾たち三人を鋭く見据えていた。
「な、なんや!?野良犬か?今どき珍しいな……」
「あ、あかん、展示会で一日中食べもんの匂いにまみれてたからやろか。服に染み付いた匂いに反応して、狙われてるんとちゃうか?」
先輩と支店長が怯えた声を上げ、後退りする。
二匹の犬は牙を剥き出しにし、今にも飛びかからんとする勢いでじりじりと距離を詰めてくる。
「ちょ、じりじり近づいて来てやがる……。こら、あっち行け!しっしっ!」
祥吾は虚勢を張り、手近な鞄を振り回して追い払おうとしたが、それが逆に犬たちの闘争心に火をつけた。
「ワンッ!ワワンッ!!」
物凄い咆哮と共に、一匹の犬が祥吾の喉元を目掛けて飛びかかろうと、石畳を蹴って跳躍した。
「うわ!?来るな!」
祥吾はあまりの恐怖に足がもつれ、無様に尻餅をついて後退りした。
視界に迫る犬の鋭い牙。
祥吾が反射的に目を閉じた、その刹那だった。
「――そこまでにしよし」
静かだが、深淵から響くような冷徹な声が路地に響き渡った。
祥吾と犬の間に、スッと影が割り込む。
それは、鮮やかな赤い作務衣を纏った一人の女性だった。
彼女がそこに立った瞬間、それまで狂暴だった二匹の犬が、まるで最強の捕食者を前にしたかのようにピタリと動きを止めた。
「キャンッ!?」
犬たちは情けない悲鳴のような声を上げると、それまでの勢いが嘘のように、全身をガクガクと震わせ始めた。
尻尾を股の間に巻き込み、恐怖に怯えた目で女性を見上げながら、じりじりと後退りしていく。
そして、一言も発することができなくなったかのように、二匹はとぼとぼと路地の奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻った路地で、赤い作務衣の女性がゆっくりと祥吾の方へ振り返った。
「……大丈夫ですか?」
その問いかけに、祥吾は返事をすることすら忘れて呆然と座り込んでいた。
肩より少し長めの、艶やかなストレートの黒髪。
完璧なまでに美しく整えられた前髪の下には、吸い込まれるような知性と、どこか常世の者を感じさせる冷ややかな美しさを湛えた瞳がある。
凛とした立ち姿、そして簡素な作務衣すらも高貴な装束に見せてしまうほどの圧倒的な美貌。
「あ……」
祥吾は、自分に手を差し伸べようとするその女性の美しさに、完全に目を奪われていた。
隣で硬直していた支店長と先輩もまた、救世主として現れた絶世の美女を前に言葉を失い、ただその神秘的な佇まいに見惚れることしかできなかった。
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##古都の路地、犬神の名と予感
「あ、有難う、御座います……」
祥吾は、自分に差し伸べられた白くしなやかな指先と、月明かりを映したような美しい瞳を間近にして、顔を真っ赤に染めながらボーッとお礼を口にした。
先ほどまで自分を襲おうとしていた野犬の恐怖など、彼女の圧倒的な美貌の前に霧散してしまったかのようだった。
尻餅をついた無様な姿であることも忘れ、祥吾はただ、目の前の女性に見惚れていた。
「あ、有難う御座います。助かりましたで。しかし、驚きました。お姉さん、もしかして犬の躾とか得意なんですか?あんなに猛り狂っとった犬が、あんたさんが割って入った瞬間に借りてきた猫みたいになるなんて、まるで手品でも見てるようでしたわ」
支店長もまた、ようやく立ち直って感心したように声を上げた。
女性は表情を崩すことなく、風に揺れる黒髪をそっと耳にかけながら、鈴の鳴るような声で短く応じた。
「まあ、そんなところやと思うてください。特別、珍しいことでもありませんから。お怪我がなくて何よりです。ほな、私はこれで」
彼女が軽く会釈をして立ち去ろうとすると、祥吾は焦ったように声を張り上げた。
「あの、待ってください!助けていただいたのに、このまま行かせるわけにはいきません、御礼をさせてください。支店長、このお姉さんに、これから行く店で何か御馳走しましょうよ。ねえ?」
「まあ、確かに。あんな絶体絶命のところを助けてもろたもんな。ほな、お姉さん、もしよろしければ、我々と一緒に美味しいもんでも食べに行きはりますか?このすぐ先に、ええ店があるんですわ」
支店長も下心を隠しきれない笑顔で誘うが、女性は静かに首を振った。
「いえ、お気持ちだけ頂戴いたします。今日は師匠の夕飯を買いに、こちらまで出て来ただけですから。すぐに帰らないといけません。……お待たせするわけには参りませんので」
丁寧ではあるが、鉄壁の拒絶。
しかし、ここで引き下がる祥吾ではなかった。
「えっと、それじゃあ、後日改めて御礼をさせてください。あの、これは俺の名刺です。今は出張で京都に来ているんですが、しばらくはこちらに滞在しています」
祥吾は内ポケットから素早く名刺を取り出すと、恭しく彼女に差し出した。
女性はそれを視線で捉えると、汚れのない指先で受け取り、慣れた様子でビジネスマナーに則って丁寧に収納した。
「あ、そうだ。ちょうど明日から、そこの近くの百貨店でやってる物産展に、俺もバイヤーとして仕事しているんですよ。良かったら案内しますから、お時間がある時にぜひ連絡を下さい。もしくは、直接会場に来てくれてもいいですよ。見つけたら俺が責任を持って案内しますから!」
祥吾は、自分の社会的地位とエリートぶりをさりげなくアピールするように、自信に満ちた笑みを浮かべて畳み掛けた。
女性は名刺を収めた懐に手を添え、静かに頷く。
「わかりました。念頭に置いておきます。では、これで失礼致します。夜の路地では、野犬には気を付けて下さいね」
そう言って、彼女はしなやかな動作で背を向け、今度こそ去ろうとした。
「あ、あの!最後にお名前を教えて下さい!」
祥吾の必死の呼び止めに、彼女は一度だけ足を止め、ゆっくりと振り返った。
夕闇の蒼に、彼女の白い肌が浮き立つ。
「……犬上桜子、と申します」
彼女は凛とした声でそう名乗り、優雅に、かつ完璧な所作でお辞儀をしてみせた。
それから、影が溶けるように路地の奥へと消えていった。
「犬上さんかあ……。いぬがみ、おうこ。……やべえ、俺、マジで惚れたかも。京都って、あんなレベルの美人がそこらへん歩いてんのかよ」
祥吾は、彼女が去った方向をいつまでも見つめながら、だらしなくにやけた顔で呟いた。
胸の奥で、エリートとしての征服欲と、今まで味わったことのない高揚感が混ざり合い、激しく波打っている。
自分の名刺を渡したこと、そして物産展という接点を作ったこと。
すべてが順調に、自分の思い描く「輝かしい未来」へと繋がっていると確信し、祥吾は熱に浮かされたような足取りで路地を歩き出した。
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##師弟の団欒と、玄米弁当の温もり
神社の静寂とは対照的に、隣接する住居の台所には温かな灯りが灯っていた。
そこは、いかにも日本の家という、懐かしい木造の香りと生活の気配が漂う家屋である。
桜子が四条の繁華街から戻ると、建物の中はひっそりとしていたが、奥の部屋からは微かに衣擦れの音が聞こえてきた。
桜子が出かける事になったきっかけは、師匠である玄蓮が、たまたま目にしたチラシを見ながら「あ、四条の弁当屋、俺が好きな玄米弁当が半額セールやっとるやんけ」と、何気なく呟いたことだった。
その一言を聞き逃さず、神社の仕事が終わった後で桜子は「では、買いに行って参ります」と静かに告げ、夕闇の街へと足を運んだのである。
桜子が買い求めたのは、玄蓮お気に入りの玄米弁当が二人分。
それを大切に抱えて台所へ向かうと、そこへ同じく赤い作務衣に身を包んだ玄蓮が、どこか飄々とした足取りで現れた。
「ただいま戻りました」
桜子は台所に弁当を置くと、師匠に向かって丁寧にお辞儀をした。
流れるような、一点の無駄もないその所作は、10年の修行が彼女の身体の隅々まで行き届いていることを物語っている。
「お帰り、ほんでご苦労さん。悪いな、わざわざ行かせてしもて。俺の独り言のせいで、手間をかけさせてしもたな」
玄蓮は照れくさそうに笑いながら、ポリポリと頭をかいた。
「いえ、外に出る良い機会やと思います。街の空気に触れるのも、修行の内ですから」
桜子はふっと、春の風のような柔らかな笑みを浮かべた。
彼女にとって、街でのあの男との遭遇は、既に「修行の過程で起きた些細な事象」として処理されているようだった。
「まあ、それもそうやな。それに、いっつも飯作ってくれてるから、弁当やとその手間も無くなるし、たまには店の弁当もええやろ。ほな、冷めんうちに頂こうか」
二人は食卓を囲んで居住まいを正した。
そして、この家で幾度となく繰り返されてきた、犬神神社に伝わる古の礼法に則った合掌を行う。
「犬神様と数多の縁に感謝し奉る」
声を揃えて言霊を捧げ、最後は短く「頂きます」と結んで、弁当の蓋を開けた。
「んー、久々に食うけど、やっぱあの店の玄米弁当は美味いなあ。玄米と鮭の弁当、全部ええ味やで。この鮭の塩加減と、玄米の香ばしさが最高や」
玄蓮は一口運ぶごとに、子供のような純粋な喜びを顔に浮かべて感嘆の声を上げた。
その様子を微笑ましく見守りながら、桜子も自らの分を口に運ぶ。
「ふふ、師匠がそんなに玄米好きなんは、もしかして名前に由来してはるんですか?玄蓮の『玄』は、玄米の『玄』ですし」
桜子が茶目っ気たっぷりに笑うと、玄蓮は箸を止めて目を見開いた。
「あはは、そうかもしれんな!言われてみれば、俺の身体は玄米で出来とるようなもんやからな。親父もそこまで見越して名付けたんやったら、大したもんやわ」
玄蓮は楽しそうに笑い、二人の間には和やかな空気が流れた。
「……しかし桜子、この弁当は確かに美味いけど、君にとってはちょいと物足りひんのとちゃうけ?もう40のおっちゃんになった俺と違って、君はまだ若いんやさかい、肉の方がええかもしれんな。もっと脂の乗った肉をガッツリ食わんと、スタミナが持たんぞ」
玄蓮が少し心配そうに提案したが、桜子は穏やかに首を振った。
「物足りないとは感じません、量も栄養価も十分ですよ、このお弁当。魚で動物性たんぱく質は取れてますし、玄米の噛み応えが満足感を高めてくれますから。私にはこれが一番です」
「まあ、そうやけどな。君は昔から、食に関してもストイックやからなあ」
玄蓮は苦笑いしながら、それ以上は何も言わず、残りの弁当を美味しそうに平らげた。
夕食を終えた後、桜子は手際よく後片付けを済ませ、淹れたてのお茶を二人の湯呑みに注いだ。
立ち昇る湯気と共に、茶葉の爽やかな香りが部屋を満たす。
「……ふぅ。食後の一杯は格別やな」
「はい。落ち着きますね」
師弟は向かい合い、食後のお茶を一緒に飲みながら、今日一日の終わりを静かに慈しんだ。
窓の外では夜の帳が完全に降り、犬神神社の森がざわざわと風に揺れているが、この室内だけは、どこまでもほっこりとした、家族のような温かさに包まれている。
10年の歳月を経て築かれた、邪術師としての絆と、それ以上に深い情愛が、そこには確かに存在していた。
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##手渡された名刺と十年の因果
温かいお茶の湯気が、卓を囲む二人の間にゆったりと立ち上る。
夕食後の静かなひとときは、犬上家の台所に穏やかな安らぎをもたらしていた。
急須の中で茶葉がゆっくりと開き、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
ふと思い出したように、桜子が作務衣の袂から一枚の紙片を取り出した。
「あ、そうや。師匠、お弁当を買いに行く途中で、犬に吠えられて困ってはった人らがいはったんですけど、その時に名刺貰いました」
差し出されたのは、真っ白で糊の効いた、いかにも高級そうな名刺だ。
それを受け取り、印字された名前に目を落とした瞬間、玄蓮の喉の奥から奇妙な音が漏れた。
「……ククク、クククッ!」
玄蓮は込み上げる笑いを抑えきれない様子で、肩を震わせ始めた。
「師匠?どうかしましたか?」
桜子は不思議そうに首をかしげ、師の顔を覗き込む。
「いや、何でもない。なあ、この祥吾っちゅう奴、桜子の事……君の顔を見てどんな反応しとった?何かこう、驚いとったか?あるいは腰を抜かしとったか?」
玄蓮は名刺を指先で弄びながら、不敵な笑みを浮かべて問いかけた。
「え?そうですね……犬に吠えられて身を守るために、必死でアドレナリンでも出てたんでしょうか。顔を真っ赤にして、何だかボーッとしておられましたけど。怪我はなさそうでした」
桜子の淡々とした答えを聞き、玄蓮の笑みはいっそう深く、そして底知れないものへと変わっていく。
「そうか。ほんで、そいつは君の名前を知っとったか?」
「え?いいえ、初対面やもん、お互い名前なんて知りませんでしたよ。あちらが名刺をくれはって先に名乗らはったさかい、礼儀として私も名前を聞かれた時に名乗りましたけど」
「……そうか。まあ、そやろな。お互いにとって『初対面』っちゅうわけや。はははッ!」
玄蓮の豪快な笑い声が、板張りの床を震わせる。
「ところで、君はこいつの事、どない思うた?イケメンやったけ?世間一般で言うところの、格好良い男やったんか?」
「え?イケメンかなあ……まあ、身なりはきっちりしてはりました。高級そうなスーツでしたし。格好良いかどうかと言われると、悪くはないんちゃいますやろか。私、その辺の事はようわかりません」
桜子は記憶を辿るように天井を見上げたが、結局また首をかしげるばかりだ。
「まあ、10年もこの地で修行に明け暮れて、学校にも行かへんかったからなあ。一応、町に買出しとかには行くし、俺も時々、神事や何やらで出張とかに連れて行く事はあったけど、男と接する機会なんて皆無やったさかい、そういう反応になるのもしゃーないか」
玄蓮は可笑しそうに目を細めた。
すると、桜子が少しだけ目を細め、ジトッとした視線を師匠へ向ける。
「……師匠、まさかとは思いますけど。この谷口さんと言う人と、私が男女の関係になるような事、想像してはりません?」
「まさか!顔を赤くしとったっちゅう事は、向こうは君に一目ぼれしとったんやろうけどな。そやけど、そこらへんに転がっとる有象無象の男が、今の君に釣り合うとは到底思わんからな。ロマンスになんてなるわけがないやろなあ」
「それこそ、まさかです。私に惚れる物好きな男性なんて、この世にいてはらへんでしょ。私はただ、術を磨くことしか考えてへんのですから、女性としての魅力なんてあるわけありませんもん」
桜子は、どこか呆れたようにため息をつく。
「ははは!君はもうちょい、自分の美貌を自覚すべきやで。その無自覚さが、時に人を一番狂わせるんやからなあ」
玄蓮は愉快そうに言い放つと、最後のお茶を飲み干した。
「さて、片付けよか。……あ、この名刺、ちょっとの間借りててええか?少し気になることがあってな」
「え?はい、どうぞ。私には必要のないものですから」
桜子は首をかしげながらも、快く了承した。
食器の重なり合うカチャカチャという音だけが台所に響き、二人は手際よく後片付けを済ませると、それぞれの部屋へと戻っていった。
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自室の畳の上にどっかと腰を下ろした玄蓮は、暗がりのなかで先程の名刺をじっと見つめた。
桜子は、既に3年前には一人前の邪術師として、そして犬神遣いとして完成されていた。
その頃から呪術関連、邪術師の仕事も請け負い始め、今や彼女は迷いのない、冷徹なプロフェッショナルへと成長を遂げている。
「あれから十年か……。まさかこんな再会の仕方しよるとは。まあ、これも縁っちゅうことか。まあでも、ようやく、時が満ちたようやな」
玄蓮は不敵な笑みを浮かべると、机の引き出しから一冊の古びた名簿を取り出した。
それは、かつて少女と何らかの関係があった、因果のリスト。
玄蓮はその名簿の一頁目の上に、祥吾の名刺をそっと置いた。
「さあて。こいつの周りから、一つずつ、丁寧に、綺麗に、消していったろか。本丸は最後のお楽しみや」
月明かりに照らされた玄蓮の顔には、邪術師としての苛烈な愉悦が滲み出していた。
復讐の幕は、既に音もなく上がり始めていた。
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##朝の約束と、再会の物産展
翌朝。窓から差し込む柔らかな朝日が、質素ながらも手入れの行き届いた台所を照らしていた。
食卓には、こんがりと焼けたトーストと、瑞々しいレタスにトマトを添えたサラダ。
師弟の朝食は、昨夜の和やかな余韻を引き継ぐように、穏やかな空気の中で始まった。
カチャ、とフォークが皿に当たる小さな音が響く中、玄蓮が思い出したように作務衣の懐から一枚の名刺を取り出した。
「この名刺くれよった男は、四条の百貨店におるんやったな。ほな、今日の仕事が終わる頃にでも、晩飯食わせて貰いに行きや」
玄蓮はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、預かっていた祥吾の名刺をテーブル越しに滑らせた。
「……晩御飯目当てで会いに行くんですか?昨日はお礼をしたいと言ってはくれはりましたけど、別に助けるつもりでもなかったし、犬を離しただけの事やから、ほんの些細な事ですし、そこまで大層なもんやないと思いますけど」
桜子は不思議そうに首をかしげながらも、祥吾の名刺を指先で受け取り、丁寧に財布の奥へとしまい込んだ。
「貰えるもんは貰っとけばええねん。それに、こういう手合いの男は、桜子みたいな美人に晩飯奢って、ええとこ見せたがりよる生き物やからな。社会勉強やと思って、試しに行ってみよし」
玄蓮は可笑しそうに喉を鳴らし、最後の一口のトーストを口に放り込んだ。
「まあ、師匠がそこまで仰るなら……。ほな、行って参ります。お昼は肉じゃがを作っておきますさかい、師匠は晩もそれを食べといて下さいね。温め直すだけで食べられるようにしておきますから」
「お、桜子の肉じゃが、味が染みててごっつ美味いからな!昼の楽しみが出来たやんけ。おおきにな」
玄蓮は満足げに目を細め、上機謙に茶を啜った。
「それでは、夕方まで巫女の仕事をやってから、百貨店に行きます。境内の掃除も早めに済ませておきますね」
「おう、頼んだで。ついでに百貨店で買い物も楽しんどいで。あ、そや。昨日は肉の話をしてたさかい、なんか俺も肉が食いとうなってきてなあ。真空パックされたステーキとかハンバーグのええやつとか、そんなんがあったら、明日の晩飯用に買うて来てくれんか?」
玄蓮は自分の腹をさすりながら、子供のような無邪気な顔で笑った。
「畏まりました。ほな、美味しそうなの見つけたら買うておきますね」
桜子は柔らかな微笑みを浮かべ、静かに席を立った。
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この日、玄蓮は以前から親交のある別の動物関連の神社から「手が足りない」と助っ人を頼まれており、午前中のうちに犬神神社を出て行った。
桜子は一人、神社の静謐な空気を守りながら、巫女としての務めを淡々とこなしていく。
竹箒で砂利を掃くサッ、サッという音だけが境内に響き、彼女の心は凪のように静かであった。
日が傾き始めた夕方前。
助っ人仕事を終えた玄蓮が「ただいまー」と少し疲れた様子で帰宅したのと入れ違いに、桜子は身なりを整えて外へと出た。
バス停まで歩き、やって来た市バスに乗り込む。
ガタン、ゴトン、と揺られながら四条へと向かう車中、桜子は窓の外を流れる京都の街並みをぼんやりと眺めていた。
百貨店前のバス停で下車すると、そこは夕刻の買い物客や観光客で賑わう喧騒の世界。
「……さて、どこにいらっしゃるやら」
桜子はエスカレーターに乗り、7階の催事場へと向かった。
これだけの規模の物産展だ、会えなければ名刺の番号にかければいいだろう。
そう思いながら、まずは師匠に頼まれた「肉」を探して、活気溢れる会場を一通り見て回ることにした。
会場内は、出汁の香りや焼きたてのパンの匂い、威勢の良い呼び込みの声が入り混じっている。
桜子が人混みを縫うように歩いていると、一角に「厳選和牛の極上ハンバーグ」と書かれた看板を掲げる店を見つけた。
ショーケースの中には、贈答用にもなりそうな、立派な真空パックのハンバーグが並んでいる。
「これなら、師匠も喜ばはるかな」
桜子が二人分を注文しようと財布を取り出した、その時であった。
「あれ!?犬上さんじゃない!?本当に、本当に来てくれたんだ!」
耳元で、弾んだ、嬉しそうな声が弾けた。
桜子が驚いて声のした方へ顔を向けると、そこには仕立ての良いスーツに身を包んだ祥吾が立っていた。
彼は、まるで待ちわびていた宝物を見つけたかのような満面の笑みを浮かべ、足早にこちらへと駆け寄って来た。
「昨日の今日だから、来てくれるかどうか正直不安だったけど、会えて嬉しいよ!わざわざ足を運んでくれたんだね!」
祥吾の瞳はキラキラと輝き、彼女の登場を心から歓迎しているのが、隠しようもなく溢れ出していた。
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##再会の催事場、交錯する思惑と巫女の微笑み
熱気と美味な香りに包まれた百貨店の7階催事場。
ショーケースの前で足を止めた桜子に、弾んだ声がかけられた。
振り返った桜子は、目の前に立つ祥吾に対し、流れるような動作で丁寧にお辞儀をして見せた。
「こんばんは。お仕事中、お邪魔しています」
静かだが凛とした彼女の声に、祥吾はパッと顔を輝かせ、浮き立つ心を隠しきれない様子で身を乗り出した。
「うん、いらっしゃい!って言っても、俺がこの物産展を主催してるわけじゃないんだけどね。それにしても、犬上さんは本当に美人だし、その簡素な作務衣姿が驚くほど似合ってるから、遠くからでもすぐわかったよ」
祥吾はどこか憂いを含んだような、熱っぽい視線を彼女に送りながらそう言った。
「お褒めの御言葉を頂きまして、恐縮です」
桜子が小さく、しかし完璧な美しさで微笑むと、祥吾の心臓はドキン!と大きく跳ね上がった。
その微笑みに一瞬で気圧されながらも、彼はエリート社員としての自信を取り戻そうと、得意げに胸を張った。
「あ、そのハンバーグは本当に美味いよ!実は俺、ハンバーグが大好物でさ。この会場に入って真っ先にここのを試食したんだけど、肉汁が凄くてね。ちょうどさっき、買い付けの交渉も成功させたばかりなんだ。京都での仕事の滑り出しとしては上々だよ」
祥吾は自らの有能さをアピールするように快活に笑った。
「そうでしたか。私も、こちらの品を買おうと思うてまして」
桜子はそう言って、買い物籠の中に入れた二つのハンバーグを祥吾に見せた。
「そうなんだ。……二つのハンバーグ、二人分って事は、その……旦那さんとか、どなたか大切な方へ?」
祥吾は、彼女の指先に指輪がないことを確認しつつも、恐る恐る、探るように尋ねた。
「いえ、師匠です……私の育ての親と言いますか。今は共に暮らしております。私は未婚ですから、夫はいません」
桜子が淡々と答えると、祥吾の表情に目に見えて安堵の色が広がった。
「そうなんだ!えっと、作務衣を着ていて『師匠』がいるって事は、犬上さんってお寺関係の人だったりするの?」
「神社です。今は師匠の神社で巫女をしています。まあ、私のところは観光客が押し寄せるような賑やかな神社ではないですから、京都の各神社への出張御手伝いが主な仕事ですが」
桜子が静かに自らの境遇を語ると、祥吾は感銘を受けたように大きく頷いた。
「へぇ、神社の巫女さんか!確かに、犬上さんのその凛とした雰囲気には凄く似合ってる気がする。いつか巫女姿も見てみたいなあ」
祥吾は鼻の下を伸ばしながら笑い、そのまま勢いよく財布を取り出した。
「あ、そのハンバーグは俺が買うよ!昨日、あんなに助けてもらったのにちゃんとお礼もできてなかったから、丁度いいや。それと……もし今晩お時間があったら、今日こそディナーを御馳走させてよ!」
身を乗り出して張り切る祥吾に、桜子は少しだけ眉を動かし、首をかしげた。
「宜しいんですか?昨日、一緒にいてはった方々と、ご一緒やないんですか?」
「今日は命の恩人にちゃんとお礼をするからって、支店長と先輩には俺から言っておくよ。だから大丈夫!じゃあ、もうすぐ俺も仕事は上がりだからさ、それまで少し物産展を楽しんでてよ。あ、そうだ、よかったら連絡先を交換しよう!」
祥吾はスマートフォンの画面を差し出そうとしたが、桜子はそれを穏やかに制した。
「名刺を頂戴しておりますから。何かあったら、名刺に書いてある電話番号の方に私からかけさせていただきます」
「そっか。まあ、連絡先の交換は、ゆっくり飯でも食いながらでいいかな。それじゃあ、また後で!」
祥吾は期待に胸を膨らませ、残された僅かな仕事を片付けるべく、足取りも軽く喧騒の中へと戻っていった。
その背中を、桜子は感情の読めない深い瞳で見送っていた。
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##琥珀色の時間、熱き告白と冷徹なる分析
物産展の営業時間が終了すると、祥吾は足取りも軽く支店長と先輩の元へ駆け寄った。
事情を説明すると、二人は顔を見合わせてニヤリと下卑た、しかしどこか親しげな笑みを浮かべた。
「おっ、やるやないか谷口君!京都で未来の嫁さん候補ゲットやな。仕事も早いが、女を落とすのも早いわ」
「ええか、デートするんやったら、ここ行ったら間違いないで。百貨店の近くにあるお洒落な洋食屋や。味も雰囲気も抜群やさかい、しっかり決めてきよし!」
支店長からそう太鼓判を押され、紹介された店へと移動した祥吾と桜子。
そこは、磨き上げられたウッド調のインテリアに、落ち着いた暖色の照明が灯る、大人の隠れ家のような空間だった。
二人は看板メニューである肉厚のハンバーグと、黄金色に輝く濃厚なコーンポタージュスープを注文した。
ジュウウゥゥッ!
鉄板の上で弾ける脂の音と、香ばしいソースの香りが食欲を激しく刺激する。
祥吾は手際よくナイフとフォークを使い、溢れ出す肉汁を楽しみながら、ふと目の前に座る桜子に視線を止めた。
「……犬上さんって、本当に食べ方が綺麗だよね。見とれちゃうよ」
「そうですか?祥吾さんも、ナイフとフォークの扱いが凄く上手やと思います。淀みがないというか、慣れてはるんですね」
桜子が穏やかに微笑みながら返すと、祥吾は得意げに少し顎を上げた。
「これでも、子供の頃からマナー教育だけは厳しく教えられてきたからね。俺ってこう見えて、両親が大きな会社の社長をやってる、いいとこの坊ちゃんなんだぜ?育ちだけは保証するよ」
祥吾は冗談めかして笑いながらも、自身の特権的な背景を隠そうとはしなかった。
それから一息ついて、祥吾は探るように尋ねた。
「ところで、女性に年齢を聞くのは失礼かもしれないけど、犬上さんって何歳なの?俺とほぼ同じくらいに見えるんだけど」
「26です」
「えっ、本当!?俺と同い年なんだ!なんだか、一気に親近感が湧いてきたよ。それじゃあ、これからは『桜子ちゃん』って呼んでもいいかな?俺のことも、祥吾で良いから。同い年なんだし、敬語もなしにしようよ」
「ええ、どうぞ。お好きに呼んでください」
桜子が淡々と快諾すると、祥吾の表情から余裕の笑みが消え、代わりに真剣な熱を帯びた眼差しが彼女を捉えた。
食後の珈琲が運ばれ、香ばしい香りが漂う中、祥吾はカップには手を付けず、身を乗り出すようにして口を開いた。
「それじゃあ、桜子ちゃん……単刀直入に言うね。俺、君に惚れてる」
空気が一瞬で、熱を孕んだ緊張感に支配された。
「え?惚れてるって……祥吾さんが、私にですか?」
桜子は驚いた様子もなく、ただ不思議なものを見るかのように首をかしげた。
「ああ、そうだ。昨日、路地裏で犬から助けてもらった瞬間に、一目ぼれしたんだ。あんなに凛としてて、美しくて、強烈な存在感を放つ女性に会ったのは、生まれて初めてだったから」
祥吾の告白に対し、桜子は感情の読めない瞳で彼をじっと見つめ返し、極めて論理的な答えを返した。
「それは所謂、吊り橋効果というやつやないですか?犬に吠えられて死の危険を感じ、心拍数が異常に上がっているところに、私が偶然通りかかっただけです。そやから、その高鳴りを恋だと脳が勘違いしてはるんやと思いますよ。一時の気の迷いです」
「いいや、違う!そんな一時的なものじゃない。本気で惚れてるんだ。だから、俺と付き合って欲しい。桜子ちゃんのことを、もっと深く知りたいんだ」
祥吾の言葉は、自信に満ちた普段の彼とは違い、どこか必死な響きを伴っていた。
京都の夜、琥珀色に染まる店内で、かつての因縁など知る由もない男の、熱烈な告白が静かに、しかし力強く響き渡った。
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##告白の余韻と、刻まれた「空白」の傷
琥珀色の照明がテーブルを照らし、カップから立ち上る珈琲の香りが、二人の間に漂う沈黙を濃密に彩っていく。
祥吾の熱烈な告白を受け、桜子は驚きで動揺するでもなく、ただ静かに、しかし明確な境界線を引くように言葉を返した。
「……私は、やめといた方がええと思います」
その一言は、拒絶というよりも、何かを取り返しのつかなくなる前に警告するような響きを伴っていた。
「まあ、昨日今日あったばかりの男を警戒するのはわかるけどさ。でも、俺の気持ちは本物なんだ」
祥吾は苦笑いを浮かべながら食い下がるが、桜子は首を横に振り、自身の右腕をそっと左手で撫でた。
「祥吾さんの問題やありません。私の方に問題があります。私には、決して消せない傷がありますから。それを見はったら、きっと祥吾さんも引いてしもて、すぐに別れ話になりますから」
「え?怪我をして、体のどこかに傷が付いてたりとか?」
祥吾の問いに、桜子は視線を落とし、どこか遠い場所を見つめるような目をした。
「私自身、それがいつ、どうやってついた傷なんかわからんのです。けれど、大きな傷が体にあるんです。恐らく、気絶するくらいの事故か何かに見舞われて、その時についたんやろうと思います。師匠は『無理に思い出す事やない』って言うてはったから、相当酷い事故にあったんやと思うてます。……そんな、過去も正体も曖昧で大きな傷があるような女、やめといた方がええですよ」
彼女の語る言葉には、血の通った記憶がないからこその、空虚な冷たさが宿っていた。
それを聞いた祥吾の顔に、深い同情と、ある種の使命感のような光が宿る。
「そっか、そんな辛い事が……」
祥吾は真剣な眼差しで桜子を見つめ直し、力強く言葉を紡いだ。
「でも、俺は気にしないよ。むしろ、俺が守るから!その傷を笑うやつがいたら、俺がとっちめてやる。どんな過去があっても、今の君が素晴らしいことに変わりはないんだ。だから……考えてくれないかな?」
そう言って、祥吾はテーブル越しに深々と頭を下げた。
その真っ直ぐな、そしてあまりにも無自覚な善意に、桜子の表情がわずかに揺れた。
「……告白されるって、初めての事やから、混乱してます」
「そうなの?絶対モテるだろうに。まあ、これだけの美人だ、高根の花と思われて敬遠されてた可能性もあるか」
祥吾は顔を上げると、少しだけ表情を緩めて微笑んだ。
「それじゃあ、返事は急かさないよ。俺が名古屋に帰るまでに、考えておいてくれないかな?それまでに俺、絶対に君を振り向かせてみせるから!」
その自信に満ちた宣言を聞きながら、桜子は熱が冷め始めた珈琲を、静かに口へと運んだ。
「わかりました。でも、期待せんといてくださいね」
そう言いながら啜った珈琲の苦みは、今の彼女の心象風景を映し出すように、どこまでも深く、重かった。
窓の外、夜の京都の街は、これから始まる因果の物語を予感させるように、静まり返っていた。
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##嘘と真実の天秤、神域の牙
祥吾にバス停まで送ってもらい、夜の静寂に包まれた京都の街をバスに揺られて帰宅した桜子は、まず台所へ向かった。
物産展で手に入れたばかりの、ずっしりと重みのある肉厚なハンバーグを冷蔵庫の奥へと丁寧に収め、一息ついてから居間で待つ玄蓮の元へと歩み寄った。
茶を啜っていた玄蓮に、桜子は先程の店で起きた出来事――祥吾からの突然の告白について、包み隠さず打ち明けた。
「そっか。ほんで、君はそいつと付き合う気はなさそうやな」
玄蓮は面白そうに口角を上げ、教え子の困惑した表情を覗き込んだ。
「ええ。まだ昨日会ったばかりと言うのもありますし、私は彼氏いない歴イコール年齢ですから、私にとって初めての事やさかい、戸惑いました。それで、きっぱり断ったんですけど、どうしても諦めてくれへんかったんです。どうやってきっぱり諦めて貰えるかわからんくて、正直、困ってます」
桜子は困り果てたように眉を寄せ、溜息を吐いた。
「ほうか。まあ、名古屋に帰るまでに返事を聞かせてくれって言うとるんやったら、それまでに祥吾とやらに色々話を聞いて、どんな奴か知ってみたらどや?それで君も万が一にでも好きになったらそれでええし、それでも好きになれんかったら、そいつは桜子にきっぱり振られて泣きながら名古屋に帰ったらええんや」
玄蓮はどこか突き放したような、それでいて何かを画策しているような不敵な笑みを浮かべた。
「そんなもんですかね……」
「そんなもんやて。あ、そや。そいつがどういう学生時代を過ごしてきたかとか……そやな、いじめとかしとらんかったか聞いてみいや。生徒会とかに入ってへんかったかとか、部活は何をやってたか。君は学生経験があらへんから、新鮮な話が聞けるかもしれんぞ?」
玄蓮の言葉は、単なる好奇心のようにも聞こえたが、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。
「連絡先は交換したんやろ?そうと決まれば、早速明日も会おうやって、自分から連絡を入れてみよし。ものごっつ食いついてきよるさかい。ついでに、そいつが名古屋に帰るまで、晩飯を存分に御馳走になっとけばええ」
玄蓮は声を上げて豪快に笑い、桜子の背中を叩いた。
「はあ……。わかりました」
桜子は気のない返事をしながらも、玄蓮に促されるままにスマートフォンを取り出した。
玄蓮の言われた通り、桜子が祥吾に短いメッセージを送ってみると、ものの数分もしないうちに、弾んだような文面の返信が届いた。
あまりの早さに、明日も会うという約束があっさりと成立してしまう。
「師匠、明日も夕飯を一緒に食べる事になってしまいました。……このハンバーグ、どうしましょう?」
「昼飯に食おうか。桜子が焼いてくれるハンバーグ、楽しみやな」
玄蓮は満足げに頷くと、自らの部屋へと引き上げていった。
桜子もまた、入浴を済ませて一日の疲れを洗い流すと、重い過去の断片さえも浮かばぬ深い眠りについた。
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深夜。
玄蓮は一人、本殿へと足を踏み入れた。
外の風が木々を揺らすザワザワという音以外、何も聞こえない漆黒の空間。
彼は、御神体である犬神の像を見上げ、静かにその場に佇んだ。
月明かりが僅かに差し込む本殿の中で、玄蓮の顔に冷徹な邪術師としての色が戻る。
「祥吾……。おどれが正直に話すか否かで、おどれらの運命が決まる。もし、その口で嘘をついたら、針千本程度じゃ済まされんからな。犬の牙っちゅうのは、痛いだけじゃ済まされへんぞ」
玄蓮は闇の中で不敵に笑い、懐から取り出した祥吾の名刺を、御神体の前へと供えた。
「嘘つこうもんなら……骨の髄まで、噛み砕いてやろうか」
その呟きは、呪となって神域の空気を震わせ、夜の闇に深く溶けていった。
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##嘘の上塗りと、偽りの学舎
翌日、京都の昼下がり。
祥吾は支店長と先輩を囲んだ昼食の席で、弾んだ声を響かせていた。
昨夜、桜子から「明日も会いましょう」という趣旨の連絡が届いたことを、彼は自らの手腕による成果だと言わんばかりに意気揚々と語る。
「いやあ、やっぱり誠意は伝わるもんですね!今夜もデートの約束、取り付けちゃいましたよ」
「ほう、やるやないか。昨日の今日で連日は、相当気に入られたんとちゃうか?よっしゃ、そしたら次は趣向を変えて、京都の真髄、絶品の和食を教えたるわ」
支店長は上機嫌で頷くと、百貨店からもほど近い、地元民に愛される隠れ家のような和食の名店を祥吾に教えた。
祥吾はその情報を宝物のようにメモに書き留め、夕刻の到来を指折り数えて待ちわびた。
日が傾き、街に街灯が灯り始めた頃。
祥吾は昨日と同じバス停で桜子と合流し、予約しておいた店へと彼女をエスコートした。
落ち着いた数寄屋造りの店内で、二人は季節の魚をふんだんに使った繊細な料理を堪能した。
「ここのお造り、身が締まってて最高だね。桜子ちゃん、口に合うかな?」
「はい。とても美味しいです」
会話を楽しみながら、やがて食事も終盤に差し掛かり、運ばれてきた熱い番茶が卓上に穏やかな湯気を立ち昇らせる。
その琥珀色の一杯を一口啜り、ふぅと息を吐いた桜子が、どこか探るような、それでいて無垢な眼差しを祥吾へと向けた。
「祥吾さん、もし宜しければ、学生時代の話を聞かせて頂けませんか?」
「え?俺の学生時代?……どうしたの、突然」
祥吾は意表を突かれたように目を丸くし、番茶の湯呑みを握る手を止めた。
「昨日、師匠に祥吾さんから告白されたことを正直に話しましたら、お相手のことをもっと知るために、これまでの歩みを聞いてみると良いと言われまして。私は、高等学校卒業程度認定試験を受けて合格はしましたが、実際に高校に通った経験があらへんのです。だから、人並みの学生生活というものを全く知らへん。師匠も、自分が知らない世界のことを知る良い機会にもなるやろうって、背中を押してくれはって」
桜子は淡々と、しかし一点の曇りもない真摯な口調で自らの境遇を明かした。
「そうなんだ……。桜子ちゃん、高校には通ってなかったんだね」
祥吾の胸の奥で、わずかに優越感が首をもたげた。
世間知らずで、どこか影のある美少女。
そんな彼女に対し、自らの輝かしい経歴を語ることは、彼にとってこれ以上ないアピールチャンスに思えた。
「祥吾さんは、生徒会とか何かの部活に入ってはったんですか?……それと、いじめや暴力沙汰のような出来事はなかったんですか?そういった、普通の学生が経験するようなお話を聞いてみたいです」
「俺の学生生活か、懐かしいな!そうだな、俺は小学校の頃からずっとクラスの中心で、成績も常に優秀だったんだ。先生からの信頼も厚かったし、リーダーシップもある方だったからな」
祥吾は堰を切ったように、自らの武勇伝を語り始めた。
「中学や高校でも、サッカー部のレギュラーでさ。小中高と、常にカーストのトップ……あ、いや、いつも周りに人が集まってくるような、中心人物だったんだ。勉強もスポーツもそつなくこなせたから、女子からも結構人気があって、正直モテて困った時期もあったくらいさ」
桜子は一切口を挟むことなく、伏せられた瞳で彼の言葉を黙って聞き届けていた。
やがて話がいじめの話題に及ぶと、祥吾は少しだけ肩を竦め、何の衒いもない様子で笑い飛ばした。
「いじめ?ああ、俺の周りではそんな暗い話はなかったな。まあ、男子同士のちょっとした『じゃれ合い』とかは多少あったけどさ。そんなの、学生ならよくある『あるある』だからね。ちょっとした喧嘩や悪ふざけの延長みたいなもんで、深刻なもんじゃなかったよ」
「いじめは、なかった……と。……祥吾さん自身は、誰かをいじめたことも、あるいはいじめられた経験も無いんですか?」
「ああ、全く無かったよ。第一、俺をいじめられる奴なんて、どこにもいなかったからね。俺はサッカーもやってて体格も良かったし、いつも明るいグループの真ん中にいたから。むしろ、もし俺の目の前でいじめなんて陰湿なものを見つけたら、俺がビシッと止めてやってたはずだよ。弱い者いじめなんて、一番格好悪いからな」
祥吾は正義感の強い男を演じるように、満面の笑みで力強く宣言した。
「そうですか。……本当に、楽しくて明るい学生生活を過ごしてこられたんですね」
桜子はふっと、どこか神秘的で柔らかな微笑みを浮かべた。
その微笑みを「自分への称賛」と受け取った祥吾は、内心で快哉を叫んでいた。
俺の輝かしい経歴を余すことなく伝えられた。
これだけ完璧な学生時代を語れば、彼女の中の俺の好感度も、一気に跳ね上がったに違いない。
祥吾は自らの言葉で塗り固めた偽りの肖像に酔いしれ、浮き立つような気分で番茶を啜り直した。
目の前で微笑む彼女の、その沈黙の奥底で「犬神」が鋭い牙を解き放つ事になろうとは、露ほども疑わずに。
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##偽りの誓いと、牙を隠す微笑
桜子を手に入れたい気持ちが止まらない祥吾は、祥吾の饒舌な語りも止まることを知らなかった。
彼は、大学時代に謳歌したエリートらしい生活から、現在の地位を築くまでの輝かしい道のりを、実家の経済的な「太さ」をこれでもかと織り交ぜながら桜子に話し続ける。
一流企業との取引、親のコネクションを武器にした成功体験、そしてそれがもたらす輝かしい将来。
祥吾は、目の前の絶世の美女を自らの「トロフィー」にしたいという欲望を、甘い言葉で包み込みながら熱烈にアピールした。
「俺と一緒になってくれたら、絶対大事にするから。そして、ゆくゆくは社長夫人だ。苦労なんて、一生させないよ」
祥吾は自信に満ちた笑みを浮かべ、確信を持ってそう告げた。
しかし、桜子はどこか所在なげに視線を落とし、困ったような苦笑いを浮かべて首を横に振る。
「……想像出来ません。それに、私みたいな学校に行っていなかった田舎娘やと、祥吾さんの御両親も眉をひそめはるんやないですか?その、御両親を悪く言うようで心苦しい事ですけど、やはり格式のある家の方やと、家柄も大事しはると思いますし、認めて下さるとは思えません。私のような者は、釣り合いませんよ」
彼女の言葉は、謙遜というよりも、自らの存在がその輝かしい世界に「異物」として混じってしまうことを危惧しているようだった。
「そんなのは昔の話さ!俺の両親も、自由恋愛は認めてくれてる。もし眉をひそめられても、俺が必ず説得してみせるから大丈夫だよ」
祥吾は頼もしさを強調するように胸を張るが、桜子はさらに、自身の「特異な体質」についても触れてみた。
「はあ……。それに、私って、特に犬には嫌われる性分やさかい。もし一緒になったら、ペットは一生飼えなくなりますよ?」
それを聞いた祥吾は、待ってましたと言わんばかりに声を上げて笑った。
「ハハハ!大丈夫、大丈夫!俺の両親は無類の犬好きで、今は実家で5匹も犬を飼ってるんだけど、5匹とも信じられないくらい人懐っこいんだ。桜子ちゃんにもすぐ懐くよ」
「犬を飼ってはるんですか?どんな子です?」
「お、見たい?」
祥吾は誇らしげにスマートフォンを取り出し、画面を桜子に向けた。
そこには、毛並みの整った立派な大型犬が5匹、豪華な邸宅の庭を背景に、両親と祥吾の3人と共に笑顔で映っているデジタル写真があった。
「……可愛いですね」
桜子は微笑んだが、その瞳の奥には冷ややかな観察者の光が宿っている。
「だろ?こんな可愛くて、しかも体もでかいから勇敢さ。桜子ちゃんを怖がることなんて絶対にないよ。むしろ、君の取り合いになるんじゃないかな」
祥吾は愉快そうに笑い飛ばすが、桜子は静かに首を振った。
「……それでも、無理ですよ。こないだの野犬、見はったでしょ?私はどの犬にも怖がられます。本能的に、避けられてしまうんです」
「あれはただの弱い野良犬だったから、君のあまりの綺麗さにビビッて逃げて行っただけだよ。ほら、よく言うだろ?弱い犬ほどキャンキャン吠えるって。うちの犬たちはエリートだから、そんな失礼なことはしないさ」
祥吾はどこまでも楽天的に笑い、彼女の懸念を「美しさゆえの勘違い」として片付けてしまった。
桜子は、自分が犬神遣いとしての呪術・邪術を受け継ぎ、その代償としてこの世のあらゆる犬から震え上がるほど恐れられる存在になったという真実を、目の前の男が理解することはないだろうと悟った。
どれほど血統の良い犬であっても、彼女の中に眠る「犬神」の気配を感じ取れば、失禁して逃げ出すか、恐怖で動けなくなるかのどちらかだ。
桜子はそれ以上反論することをやめ、ただ静かに、そして美しく愛想笑いを浮かべていた。
目の前の男が語る「温かな家庭」や「人懐っこい犬たち」の幻想が、自分の一歩でいかに無残に崩れ去るか。
その残酷な対比を思い描きながら、彼女は静かに番茶を啜った。
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##祥吾の嘘と、牙を剥く午前0時の宣戦布告
和食の滋味に酔いしれ、エリートとしての全能感に包まれた祥吾は、自分を救った絶世の美女との「確かな手応え」に胸を躍らせながら、軽やかな足取りで帰路についた。
対照的に、桜子は夜の帳が降りた京都の静寂に溶け込むように、物静かな足取りで神社の境内へと繋がる道を歩んでいく。
カツン、カツン、という彼女の草履が砂利を鳴らす音だけが、闇夜に小さく響いていた。
帰宅した桜子は、居間で寛いでいた玄蓮の元へと向かった。
湯呑みから立ち上る湯気を眺めながら、桜子は先程まで祥吾との会食で交わされた会話の内容を、一言一句漏らさず丁寧に報告し始める。
「ふーん……。ほんで、そいつは『いじめはなかった』『俺はいじめはしなかった』、そう言いよったんやな?それはまた、ずいぶんと平和で潔白な学生生活やったみたいやのう」
玄蓮は御茶を一口飲んでから、確認するように、しかしどこか突き放したような冷たい声で尋ねた。
「はい。本人曰く、周囲にはいつも人が集まり、正義感の強い中心人物として楽しい学生生活を過ごしていたようです。もし私が普通の高校生として学校に通ってたら、きっとクラスの喧騒から離れて、図書館の隅っこで静かに本を読んでそうな大人しい女子高生になっとったんちゃうかな、なんて思いました」
桜子は当時の自分の姿を想像し、どこか遠い世界の話をするように小さく微笑んだ。
「……君は、そういう大人しい学生になっとったやろな。そっか、そうか……」
玄蓮は目を細め、何かを噛みしめるように呟いた。
「あ、それと、実家で犬を5匹も飼ってらっしゃるそうです。お写真で見せて頂きましたが、大型犬が5匹、とても立派で可愛らしかったです。祥吾さんは、うちの子たちは人懐っこいから私にもすぐ懐く、なんて仰ってましたけど」
桜子がそう告げた瞬間、玄蓮の眉がわずかにピクリと跳ね上がったが、彼はすぐにそれを押し殺し、元の無表情へと戻った。
「私が犬に本能的に怯えられる体質だというお話もしたのですが、全く聞いてはくれませんでした。……もし私が間違ってあのような家に嫁ごうもんなら、きっと犬のことで即座に別居することになりそうですね」
桜子は自嘲気味に苦笑いし、茶を一口啜った。
「まあ、そりゃそうなるわな。現世の犬にとっては、君は恐怖の象徴そのものやからな、俺もそやけど。」
玄蓮はそう言って、急に表情を引き締め、邪術師としての鋭い眼光を桜子に向けた。
「そや、桜子よ。邪術師としての仕事が、また来そうやさかいな。今回の件は『式神』の数を、それなりに使うことになりそうや。明日からでええし、追加でしっかりと用意しといてくれ」
玄蓮の放つ重圧に、桜子の表情も一瞬でプロの顔へと切り替わった。
「……畏まりました。明日の朝から、早速取り掛かります。万全の準備を整えておきます」
彼女の瞳から先程までの穏やかさは消え、代わりに対象を冷徹に貫く邪術師の光が宿った。
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街の灯が一つ、また一つと消え、人々が深い眠りにつき始めた午前0時。
犬神神社の本殿では、玄蓮が一人、巨大な御神体の前に立ち尽くしていた。
灯籠の火が風もないのに不気味に揺れ、御神体の犬神の影が壁に巨大な怪物のように映し出される。
玄蓮はその影を見上げながら、喉の奥でクククと不敵に笑い出した。
「正直に、おどれの罪を話しとったら、あるいは助かったかもしれんのになあ。自ら救いの手を振り払うとは、哀れな奴っちゃ。ほな、やるか」
玄蓮は静かに本殿の床を鳴らし、重々しい扉を開けて外へと出た。
冷たい夜風が彼の頬を撫で、背後の扉がゴト、と低い音を立てて閉まる。
「他の取り巻き共には、呪殺まではかけん。だが、それで生き残るか死んでまうかは、そいつの運次第や。この古都の闇に、慈悲など端から存在せんのやからな」
玄蓮は神社の森の奥、闇が一段と濃い方角を睨みつけ、最後に一言だけ、闇を切り裂くような冷酷な言葉を放った。
「惚れた女に食われるんや、本望やろ。精々、最期の瞬間まで幸せな夢を見てろ」
玄蓮は不敵な笑みを浮かべたまま、神社に隣接する自宅へと、影を引きずるようにして歩き去っていった。
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###紅に染まる首輪と、少女の慟哭
翌朝、犬神神社の境内は、昨日までの穏やかな春の陽光を跳ね返すような、どこか張り詰めた冷気に包まれていた。
桜子は、清廉な白衣に緋色の袴という巫女装束に身を包み、早朝から奥の作業場に籠もっていた。
机の上には、上質な和紙と、深紅の魔力を練り込んだ特殊な墨、そして一本の細筆が置かれている。
彼女は、これから行われるであろう「粛清」のために、犬の式神を宿すための呪符作成に取り掛かっていた。
「……急急如律令」
スルスルと筆が走り、紙の上に複雑な呪紋が刻まれていく。
桜子は、自らの中に流れる犬神の呪力を指先に集め、念を込めて一枚一枚、丹念に呪符を練り上げていった。
精神を極限まで研ぎ澄ませるその作業は、一瞬の気の緩みも許されない。
シュウウ……と、紙から微かな魔力の熱が立ち上り、作業場には独特の焦げたような香りが漂う。
数時間に及ぶ集中の中、彼女の周囲には完成した呪符が整然と並べられていき、その一枚一葉が主の命令を待つ獣のような殺気を孕んでいた。
太陽が天高く昇り、正午が近づいた頃。
ようやく一区切りをつけた桜子は、額の汗を拭い、重い扉を開けて外の空気を吸いに出た。
眩しい光に目を細めた彼女の視界に、拝殿の前で一人、熱心に手を合わせる影が映り込む。
それは、高校生くらいに見える若い女の子だった。
手入れのされていない髪は乱れ、肩を震わせながら必死に祈るその姿は、どこか痛々しく、やつれ果てている。
そこへ、神職の正装である狩衣を纏った玄蓮が、軽やかな足取りで帰って来た。
「お、朝から御疲れさん。……おっ、なんや、あそこで拝んではる御嬢ちゃん、随分と熱心やんけ」
玄蓮は笑顔を浮かべながら桜子に声をかけたが、その鋭い眼光は瞬時に少女の異様な気配を捉えていた。
「ええ。何やら深い悩みがあるようです。……今はそっとしておきましょう。ほな、私は昼食の準備をして参りますね」
桜子が静かに促し、自宅へ向かおうと一歩を踏み出した、その時だった。
「……ごめん。ごめんね、ミカヅキ」
風に乗って、少女の掠れた呟きが届いた。
二人が思わず足を止めると、少女は顔を覆い、溢れ出す涙を堪えきれずに何度もその名を呼び続けている。
「ミカヅキ……ミカヅキ……っ」
悲痛な叫びは、やがて地を這うような低い、殺意を孕んだ言葉へと変わった。
「……仇、取るから。絶対に、許さない」
その言葉を聞いた瞬間、玄蓮の口角がわずかに吊り上がった。
彼は迷いのない足取りで少女へと近づき、いつもの飄々とした、しかし包容力のある声で語りかけた。
「――穏やかやあらへんな、御嬢ちゃん」
少女がハッと顔を上げると、そこには慈愛に満ちた(ように見える)神職の姿があった。
玄蓮は優しく目を細め、彼女の瞳の奥に沈む闇を見据える。
「なんや、訳ありみたいやんけ。良かったら、その話、俺に聞かせてくれるか?事情次第では、俺んとこの神社で良ければ、精一杯祈願したるでな」
少女は呆然と玄蓮を見上げていたが、やがてその温かな言葉に毒気を抜かれたのか、小さく、頼りなげに頷いた。
「……はい」
「こちらへどうぞ。外は冷えますから、中でお茶でも飲みながら話しましょう」
桜子が歩み寄り、静かに休憩所へと案内する。
少女はふらつく足取りで立ち上がり、二人の後を追った。
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##三日月の涙と、黄金の鎖に繋がれた悪意
休憩所の椅子に腰を下ろした少女の両手には、何かが大切そうに握りしめられていた。
それは、元々は純白であっただろう、一頭の犬の首輪だった。
しかし、その革の表面は無残に引き裂かれ、大部分が乾いたどす黒い血に染まっている。
「ミカヅキは……私の、小さい頃からずっと一緒に過ごしてきた、大切な家族だったんです」
少女が震える手でその首輪を握りしめると、血の匂いが微かに部屋に広がり、二人の鼻腔を強く刺激した。
それは、凄惨な事件の終わりと、新たな復讐の始まりを告げる合図であった。
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休憩所の中に、ほうじ茶の香ばしい香りと、微かな湯気が立ち上る。
しかし、その穏やかな空気とは裏腹に、テーブルの上に置かれた血塗れの首輪が、あまりに異質で生々しい殺気を放っていた。
桜子は静かに少女の前に茶を置くと、自らも玄蓮の隣に腰を下ろし、少女の唇が震えながら紡ぎ出す言葉を待った。
少女は名古屋在住の高校生だと、掠れた声で話し始めた。
ある凄惨な事件をきっかけに、彼女は愛犬への供養と罪滅ぼしの為に、学校の休みを利用しては全国の犬にまつわる神社仏閣を巡っているのだという。
「……ネット調べていたら、ホームページは無かったけれど地図には神社のマークがあって、この神社のことを知りました。ここなら、神様が私の苦しみを聞いてくれるんじゃないかって。そう思ったんです」
少女の瞳から、一粒の涙が頬を伝って落ちた。
彼女が語る思い出の中の愛犬は、あまりに温かく、光に満ちていた。
6歳の時、彼女の家にやってきた生まれたばかりの茶色の小型犬。
その額には、夜空に浮かぶような真っ白で美しい三日月模様の毛があり、彼女は迷わずその子を「ミカヅキ」と名付けた。
子供の頃から常に隣にいて、嬉しい時も悲しい時も共に過ごしたミカヅキは、彼女にとってただのペットではなく、魂を分かち合った唯一無二の家族だった。
しかし、その幸せは、つい先日、あまりに理不尽な形で砕け散る事になる。
出会ってから10年後、16歳になった彼女は、10歳になったミカヅキを連れて、家族と共にドッグランやアスレチックが楽しめる広場を訪れた時のことだ。
その場所は客も少なく、彼女たちは穏やかな時間を過ごせるはずだった。
そこへ、大型犬5匹を引き連れた、一組の家族がやってきた。
その5匹の大型犬は、広場に入るなり他の犬たちを威嚇して荒れ狂い、まるでその場所すべてが自分たちの領土であるかのように振る舞い始めた。
少女の家族はトラブルを避けようと、端の方で静かにミカヅキと遊んでいた。
だが、悪意は向こうから、唐突に牙を剥いてやってきた。
ガウッ!と低い唸り声を上げ、放し飼いにされていた5匹のうちの2匹が、猛然とミカヅキ目掛けて突進してきた。
「やめて!来ないで!」
少女は悲鳴を上げながら慌ててミカヅキを抱き上げ、家族と共にその家族へ抗議した。
しかし、返ってきたのは謝罪ではなく、耳を疑うような罵倒の言葉だった。
「誰に向かって口をきいているのだ」「邪魔だ、貧乏人はさっさと帰れ」
大型犬の飼い主であるその家族は、自分たちの非を認めるどころか、選民意識に凝り固まった冷酷な言葉を投げつけてきたのである。
これ以上は危険だと判断し、彼女たちがその場を去ろうとした、その時。
背後から更にもう1匹の大型犬が加わり、あろうことか逃げようとする少女の背中に、全力で体当たりを見舞った。
ドンッ!という鈍い衝撃。
地面に叩きつけられた少女は、その痛みで、抱きしめていたミカヅキを離してしまった。
「ああ……っ、ミカヅキ!」
地面に投げ出された小さなミカヅキに対し、残りの2匹も合流した5匹の猛獣たちが、一斉に襲いかかった。
ガルルルッ!という獣の咆哮と、キャンッ!というミカヅキの悲鳴が混ざり合う。
5対1、あまりに一方的で残虐な暴行。
狂ったように噛みつかれ、振り回される小さな体。
両親が必死に係員を呼び、何とかその牙からミカヅキを救い出した時には、ミカヅキの体は既にボロ雑巾のように引き裂かれ、意識を失っていた。
隣接する動物病院へ担ぎ込み、懸命な処置が行われたが、無機質なモニターの音がピー……と虚しく響き、ミカヅキはそのまま息を引き取った。
怒りに震える少女と両親が、犬を放し飼いにしていた家族に猛抗議をしたが、相手の反応はどこまでも冷徹だった。
「弱い犬が悪い。淘汰されるのは自然の摂理だろう」
あろうことか、彼らは死んだミカヅキを嘲笑い、自らの責任を一切否定したという。
園内のトラブルは飼い主の自己責任という規約を盾に、施設側は責任を逃れようとし、更に金と権力を持つその家族は、事実を都合よく捻じ曲げた。
少女たちの必死の主張は非情にも無視され、抗議を続ける彼女たちに対し、相手は札束を投げつけるような真似までした。
「金が欲しいならくれてやろうか、貧乏人」「犬のことぐらいで騒ぎ立てて、賠償金を引き出したいだけだろう」
口汚い中傷の刃が、愛犬を失ったばかりの少女の心に深々と突き刺さる。
それからというもの、少女は夜も眠れず、暗闇の中で自らを責め続けてきた。
あの時、私がもっとしっかり抱きしめていれば。
私が転ばなければ。
「守れなかった……私が、私が弱いから、ミカヅキは殺されたんだ」
そう呟く少女の瞳には、かつての輝きは欠片も残っていない。
絶望の淵で、彼女の悲しみはいつしか、ドス黒く燃え上がる怒りへと形を変えていた。
「……仇を、取ってやりたい。あの人たちを、絶対に許せない。ミカヅキが味わった苦しみを、あいつらにも味わせてやりたいんです!」
少女の慟哭が休憩所に響き渡り、テーブルの上の血塗れの首輪が、まるで彼女の怒りに呼応するように不気味に沈んでいた。
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##重なり合う因果、三日月の遺言と鏡の護符
全てを話し終えた少女は、堰を切ったように泣き崩れた。
「私が……私が、あの時ミカヅキを離さなければ……。私がもっと強く抱きしめていたら、ミカヅキは死なずに済んだのに……っ!」
自分を責めるその声は、休憩所の冷たい空気に溶けていく。
桜子は、少女の隣に静かに座り、その震える背中を優しく撫でた。
「……あなたのせいではありません。御自分を責めんであげてください。あなたは最後までミカヅキを守ろうとした。その思いは、きっとその子に届いています」
その眼差しは、慈愛に満ちた聖母のようでもあり、同時に同じような「喪失」を知る者の深い共感に満ちていた。
玄蓮もまた、低く落ち着いた声で彼女を肯定する。
「そや、君に罪はあらへん。ミカヅキの為に、最後までようやったで。ほんで、君の大事な家族を奪いよった犬と飼い主の事、どこまで知っとる?相手を追い詰めるには、まず敵を知らなあかんからな」
少女は涙を拭い、震える手でスマートフォンを取り出した。
「……これ、証拠になるかと思って、その時に私の家族が撮った写真と、ネットで見つけた相手の家族の写真です」
差し出された画面を覗き込んだ瞬間、桜子の瞳が大きく見開かれた。
「この犬……それに、この人達……」
画面に映っていたのは、血統書付きであろう立派な5匹の大型犬。
そして、その傍らで傲慢な笑みを浮かべる家族。
角度や表情、着ている服こそ昨日見せられたものとは違うが、間違いなく同一のもの――まさに昨日、谷口祥吾が「人懐っこいエリート犬」として自慢げに紹介した写真の犬と人物であった。
祥吾が語った「いじめのない平和な過去」と「優しい家族」。
その正体が、罪のない小犬を寄ってたかってなぶり殺し、被害者に札束を投げつけるような非道な怪物であったという事実に、桜子の心臓が冷たく脈打つ。
玄蓮は、桜子の反応から全てを察したのか、不敵な笑みを隠して少女に優しく語りかけた。
「……御嬢ちゃん、ミカヅキの祈願は、この神社で責任もってする。そやから、その首輪、ちょいと借りてええか?『あっち側』にきっちり届けるための、特別な儀式に使うからな」
「え……はい、お願いします」
きょとんっとした表情で、玄蓮を見つめる少女。
「ほんで、こっから先の全ての費用は、俺が、こいつらにきっちり請求したる。君の大事な家族を奪いよったこいつらの責任やさかいな。そやから、祈願にかかる金の心配も一切せんでええよ」
玄蓮は少女の頭を優しく撫でたが、その瞳の奥には底知れない暗黒の炎が灯っていた。
「有難う御座います!有難う、御座います……っ」
少女が泣きながら何度も頭を下げるのを見届け、玄蓮は桜子に向き直った。
その顔は、もはや優しい宮司ではなく、冷徹な邪術師のそれであった。
「ほな、桜子。祈願の準備と……『写し』のやつ、護符1枚と、呪符1枚ずつ、頼むで。意味は……わかるな?」
「……畏まりました」
桜子は短く答え、準備のために立ち上がる。
彼女は、師匠が何をしようとしているのかを瞬時に理解していた。
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##儀式の胎動:写しの符
桜子は奥の作業場に入ると、すぐさま精神を極限まで研ぎ澄ませた。
「写しの護符」と「写しの呪符」。
それは、特定の対象が受けた苦痛や損害を、そのまま「原因を作った者」へと鏡のように反射させる高度な呪術の媒体である。
写しの護符は、ミカヅキの魂を安らわせ、少女の心へのダメージを遮断するための盾。
写しの呪符は、首輪にこびりついた「痛み」と「絶望」を増幅し、それを5匹の犬と飼い主へ等分して跳ね返すための楔。
桜子は、まだ熱を持っている呪符用の和紙を広げ、少女から預かった血塗れの首輪をその横に置いた。
筆を執り、少女の慟哭とミカヅキの無念を墨に混ぜるようにして、一気に書き上げる。
手際よく準備を進める彼女の脳裏には、祥吾の「惚れてる」という甘い言葉がリフレインしていた。
(……あなたが『人懐っこい』と言った犬たちが、何をしたか。あなたが『いじめはない』と言った家族が、何を踏みにじったか)
桜子の手元で、呪符がドクンと脈打つような不気味な輝きを放つ。
因果応報の歯車が、いよいよ音を立てて回り始めた。
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##因果の鏡、三日月の祈りと犬神の断罪
静まり返った本殿の中に、微かな鈴の音と、低く響く祝詞が溶け込んでいく。
玄蓮と桜子に導かれ、少女は震える足取りで神域の奥へと足を踏み入れていた。
台座の中心には、あの無残に血に染まったミカヅキの首輪が置かれ、その左右を桜子が丹念に練り上げた2枚の「写しの符」が固めている。
三人の影が蝋燭の炎に揺れ、巨大な犬の御神体が、すべてを見通すような、冷徹な眼差しで彼らを見下ろしていた。
そうして儀式が終わり、厳かな一礼を捧げた玄蓮が、ゆっくりと少女に向き直る。
桜子は「写しの護符」を手に、一度その場を静かに離席した。
「今の儀式はな、君のミカヅキへの祈りを天に届けたという意味と、君自身がミカヅキを失うた事によって、闇や邪に取りつかれんようにする御祓いや。もう、自分を責める必要はあらへんで」
玄蓮の声は、夜風のように穏やかで温かい。
彼は優しく微笑み、少女の強張った肩を解きほぐすように言葉を続けた。
「名古屋の寺院でミカヅキの供養は終わっとるって聞いてはおったけど、ミカヅキの火葬と供養も、君は君なりに精一杯やったはずや。そやから、念の為のお守りやと思うて……桜子が持ってきてくれるお守りを、大事に持っときや」
丁度その時、桜子が戻ってきた。
その手には、ミカヅキの面影を写したような美しい刺繍が施されたお守りが握られている。
桜子はミカヅキの首輪を丁寧に包み直し、護符の入ったお守りと共に、少女の手へと渡した。
「ええか、御嬢ちゃん。君はミカヅキの家族として、立派にその役目を果たしたんや。一方、君の家族を傷つけた奴らは、一切の責任から逃げて、恥を知らんままや。そういう奴らにはな、やがて自然と天罰が下りよる。君がわざわざ、その綺麗な手を汚す必要はどこにもあらへん。お天道様は、ちゃんと観てはるからな」
玄蓮はそう言って、犬神の御神体を示した。
「犬神様も、ちゃんと観てくれてはる。犬に善き者は守り、犬に悪しき者には容赦のない天罰を下す。君は間違いなく守られるべき前者やし、君らを傷つけた奴らは……救いようのない後者や」
桜子もまた、少女の瞳をじっと見つめ、慈しむように微笑んだ。
「その綺麗な手は、ミカヅキを撫でてあげてこられた、温かくて優しい手です。……そやから、ずっとその優しい手のままでいて欲しい。それが、私の願いです」
その言葉に、少女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。
だが、それは先程までの絶望の涙ではなく、凍てついた心が溶け出すような、浄化の涙であった。
「はい、はい……有難う御座います……本当に、有難う御座います……っ!」
少女は何度も、何度も頭を下げ、泣きじゃくりながら感謝を口にした。
やがて顔を上げた彼女の表情からは、憑き物が落ちたような晴れやかさが戻っていた。
少女は、しっかりと前を向いて犬神神社の鳥居をくぐり抜けていった。
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そして、丑三つ時。
犬神神社の境内の更に奥、限られた者しか足を踏み入れることができず、凡人にはその存在すら認識できない「霊場」。
そこには、呪術を執行するためだけに建てられた、異様な静寂に包まれた神殿があった。
「桜子、遠慮はいらん……やってまえ」
蝋燭に照らされ、玄蓮の瞳が鋭く、残酷なまでの光を放つ。
「はい」
桜子の短い返信と共に、神殿の空気が一変した。
彼女が編み上げる術式は、もはや人間の域を超え、人智を超えた怪異の力を引き出している。
炎の前に置かれた「写しの呪符」から、漆黒の力が式神用の呪符へと音もなく乗り移っていく。
「こんなに簡単に、情報と媒体が向こうの方からやって来るとはな。あの男、祥吾とやらが、もうちょい傲慢さが改善されとったら、あるいは助かったかもしれんのになあ。御蔭さんで、桜子の十年来の復讐も、つつがなく、最高な形で出来そうやんけ」
玄蓮は不敵な笑みを浮かべ、闇の中で脈動する呪力を見つめた。
祥吾が自ら差し出した名刺、そして少女が持ってきた血塗れの首輪。
点と点が、呪いという名の鎖で強固に結ばれていく。
「それにしても、見事な術式やな。寸分の狂いもない、完璧な配分や。こりゃやっぱり、俺の後継者、次期犬神神社の宮司は、桜子にするしかないわ」
玄蓮の豪快な笑い声が、呪術の炎に煽られて神殿内に響き渡る。
復讐の炎は、静かに、しかし確実に、谷口家の輝かしい未来を焼き尽くすために燃え上がっていた。
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##狂乱の相食み、連鎖する因果の牙
翌朝、京都の空気はどこまでも澄み渡っていたが、百貨店の催事場に足を踏み入れた祥吾の心は、それ以上の高揚感に包まれていた。
一発目の物産展を大成功で終え、次なる舞台は同じ四条に位置するデパートの6階催事会場。
「ここでも結果を出せば、俺の評価は不動のものになる。京都を足掛かりに、一気に東京進出へ王手をかけてやるんだ」
早くも次なる仕事を見据え、祥吾はエリートとしての野心を燃やしながら会場の設営準備を指揮していた。
そんな時、ポケットの中のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
画面を見ると、送り主は副社長である母親。
「ははっ、母さんのことだ。早くも京都での成果を聞きたがってるんだろうな」
祥吾は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、意気揚々と通話ボタンをスライドさせた。
しかし……。
「――祥吾!大変!大変よおぉぉ!!」
耳をつんざくような、母親の泣き叫ぶ声が鼓膜を打った。
「ちょ、母さん!?どうしたんだ、そんなに慌てて」
「犬たちが、犬たちがぁぁ!!」
狂乱状態の母親は、ただひたすらに叫ぶばかりで全く要領を得ない。
困惑する祥吾が聞き返そうとすると、受話器の向こうでガサガサと音がし、父親の低く、沈み込んだ声に切り替わった。
「……祥吾、落ち着いて聞いてくれ」
「父さんこそ落ち着いてよ。一体何があったんだ?」
呆れ顔で問いかける祥吾に、父親は震える声で信じがたい事実を告げた。
「今朝、犬たちのけたたましい声で目が覚めたんだ……。見に行ったら、庭で……お互いに激しく噛み合い、食いちぎり合い……5匹とも、無残な姿で死んでいた……」
「…………え?」
祥吾の思考が停止した。
あの誇り高きエリート犬たちが、なぜ……。
「とにかく、報告だけはしておこうと思ってな……。こっちのことは心配するな。帰ってきて、静かになっているのを見たらショックだろうが、今は次の物産展のことだけを考えるんだ。ペット葬はこっちで済ませておく」
一方的に電話は切れ、祥吾の手元には不気味な沈黙だけが残された。
「な……ちょ、ちょっと!?……何だったんだ、今の」
祥吾は呆然と立ち尽くしたが、すぐに「質の悪いドッキリか何かだろ」と自分に言い聞かせた。
「まあ、いいか。帰ればわかることだ。今は仕事だ、仕事!」
彼は無理やり気持ちを切り替え、再び会場の設営に取り掛かった。
だが、それはこれから始まる「地獄」の、ほんの序章に過ぎなかったのである。
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##絶望の連鎖:級友たちを襲う見えない牙
その日から、祥吾の元にはかつての級友たちから、次々と凄惨な知らせが届き始めた。
小学生時代から、常に彼の取り巻きとして「遊び」を共有してきた、深く長い付き合いの仲間たち。
彼らが、まるで何かに狙われたかのように、あり得ない悲劇に見舞われていったのである。
ある者は、右腕と右足があり得ない方向に捻じ曲がり、神経も完全に潰れて二度と動かぬ体となり、一生を車椅子で過ごすことを余儀なくされた。
ある者は、原因不明の事故に遭遇し、両膝から下を切断しなければならない程の重傷を負った。
ある者は、何かに「かみちぎられた」ような激痛に襲われて絶叫し、そのまま階段から転げ落ちて頭を強打し、帰らぬ人となった。
ある者は、突然、脚を噛まれたような衝撃に襲われてバランスを崩し、高所から転落死した。
ある者は、襲いかかる激痛のショックにより意識を失い、そのまま植物状態となった。
そして、その惨状を祥吾に電話で伝えてきた級友までもが、通話の最中に悲劇に飲み込まれた。
「あ……ああぁっ!痛い、何だこれ、何かに腕を……噛みちぎられる……ッ!!」
受話器越しに響く、肉が裂けるような音と断末魔。
その友人もまた、右腕と下半身不随という、再起不能の事故に見舞われたのである。
「嘘だ……そんなの、偶然だよな……?」
既に次の物産展が始まっていたが、祥吾の背中には絶えず冷たい汗が流れていた。
周囲の活気ある声が、今はまるで遠い世界の出来事のように聞こえる。
祥吾は必死に客への対応に没頭することで、心の奥底から這い上がってくる「正体の知れない恐怖」から目を逸らし続けていた。
かつて自分が踏みにじった「三日月」の無念、そして、忘却の彼方に追いやったはずの何かが、今、目に見えぬ犬の牙となって、彼の周囲を確実に食い荒らしていることなど、まだ気づく由もなかった。
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##見えざる牙の追撃
デパートの6階催事場。
今日から始まる新たな物産展を前に、会場内は準備に追われるスタッフたちの活気で満ち溢れていた。
祥吾は、前回の物産展での成功を自信に変え、さらに高みを目指して意気揚々と設営状況を確認して回る。
「ここを乗り切れば、俺の評価はさらに揺るぎないものになる」
次なる大きな仕事を見据え、祥吾の野心は鋭く燃え上がっていた。
そんな祥吾の背中に、準備の手を休めた先輩がにこやかに声をかけてくる。
「谷口君、あの綺麗な子とはその後順調なん?神社の巫女さんやったっけ」
祥吾は足を止め、少しだけ困ったように笑いながら答えた。
「それが、ここ暫くは会えてないんですよ。メッセージを送っても既読にならないし、忙しいのかも。神社でお祭りでもあるんですかね?」
隣にいた支店長も、若者の色恋沙汰を微笑ましく見守るように口を開く。
「まあ、こっちも続け様に物産展やからな。お互い様や。落ち着いたら、また連絡してあげたらええやん」
「そうですね。今日の仕事終わりにでも、またメッセージを入れてみますよ」
祥吾は自慢の「未来の社長夫人候補」のことを思い浮かべ、鼻を高くして頷いた。
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そして、昼休み。
祥吾は支店長と先輩と共に、デパートのレストラン街にあるとんかつ屋に入った。
サクサクに揚がった黄金色の衣を頬張りながら、午後の仕事に向けた英気を養う。
食事が終わると、支店長と先輩が先に席を立ち、祥吾に温かい言葉を投げかけた。
「谷口君、午後の部も頼んだで。頑張りや」
「はい!お任せください!」
二人の背中を笑顔で見送り、祥吾は自分も店を出ようとした。
その時、懐のスマートフォンを取り出し、桜子に送るためのメッセージを作成しようと指を動かし始める。
――ザワッ……!
突然、レストラン街の静寂を切り裂くような、凄まじい悲鳴が響き渡った。
「――ああああぁぁぁぁっ!!」
祥吾は指を止め、弾かれたように顔を上げる。
声がしたのは、先ほど二人が向かった通路の先だ。
ただ事ではない気配を感じ、祥吾は人混みをかき分けて悲鳴の主へと走り出した。
そして辿り着いたその場所で、祥吾は目にした光景に息を飲み、顔面蒼白となった。
「な……なんだ、これは……」
そこには、無残にも倒れ伏す先輩の姿があった。
スラックスの裾が不自然に破れ、その下の脹脛は、まるで猛獣に食いちぎられたかのように肉が抉れている。
ドク、ドクと溢れ出す鮮血が床を真っ赤に染め上げ、先輩は激痛のショックからか、既に意識を失っていた。
「救急車や!誰か、早く救急車を呼んでくれ!!」
支店長が取り乱し、顔を真っ青にして周囲に助けを求めている。
しかし、周囲には瞬く間に野次馬が集まり、あろうことかスマートフォンを向けて動画を撮る者まで現れた。
「やめろ!怪我人なんだぞ!撮るな!」
祥吾は怒号を上げながら、震える手で救急車を呼んだ。
平和なデパートの一角は、一瞬にして凄惨な血の海へと変貌していた。
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救急病院へ到着した後、先輩の緊急手術が行われた。
祥吾と支店長は、祈るような思いで手術室の前の廊下を往復する。
やがて手術は終わり、先輩は病室へと移され、医師からは命に別状はないと説明を受け、とりあえずはホッとする祥吾と支店長。
「谷口君、後は俺が残る。君は一度会社へ戻って、事の次第を報告してくれ」
支店長にそう促され、祥吾は重い足取りで会社へと向かった。
会社に到着し、目の当たりにした「噛みちぎられたような」惨状を報告すると、社内は蜂の巣をつついたような騒然とした空気に包まれた。
「野生の動物でも紛れ込んだのか?」「そんな馬鹿なことが……」
飛び交う憶測を背に、祥吾はフラフラとした足取りで社員寮へと帰っていった。
寮の部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした祥吾は、手の中のスマートフォンに目を落とした。
充電器にさそうとしたその時、画面には「桜子ちゃん」への書きかけのメッセージが残っているのが見えた。
『今夜、もし良ければ……』
その文字を見た瞬間、昼間の血塗れの光景が脳裏にフラッシュバックする。
とてもではないが、デートに誘うような気分にはなれない。
祥吾は震える指でそのメッセージを削除し、スマートフォンを放り出した。
「……クソッ、何なんだよ。一体……」
忌まわしい記憶を洗い流すように、祥吾はシャワーを浴びた。
熱い湯を頭から被り、目を閉じる。
しかし、瞼の裏にはあの凄惨な肉の抉れ跡が焼き付いて離れない。
祥吾はさっぱりした体でベッドに潜り込み、嫌なことをすべて忘れたい一心で、無理やり眠りにつこうと瞳を閉じた。
街の喧騒から切り離された静かな部屋の中で、祥吾の荒い呼吸だけが空虚に響いていた。
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##此岸と彼岸の境界線、黒衣の来訪者
連鎖する悪夢は、故郷である名古屋の地さえも侵食し始めていた。
実家の犬たちが全滅したという戦慄の報告に続き、父親から届いたのは、母親が心労のあまり倒れたという報せだった。
受話器越しに聞く父の声は力なく、祥吾は自身の周囲で起きている異常事態の重圧に押し潰されそうになる。
しかし、仕事の手を止めることは許されない。
現在の物産展を終えた後、負傷した先輩の穴を埋めるべく残りの日程を完璧にこなし、それから一旦様子を見に帰る。
そう自分に言い聞かせ、祥吾は震える心を仕事という仮面で覆い隠した。
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##奇妙な来客
華の金曜日。
本来であれば週末の喧騒に沸くはずの日だが、昨日の凄惨な事故の影響で、祥吾の周囲には重苦しい沈黙が張り付いていた。
そんな祥吾の様子を察した支店長は、彼を気遣い、別の部下を連れて物産展の会場へと向かう決断を下す。
「ほな、今日はDX化を推進してることもあって、昼からAIの導入について話を聞いてくれる人が来社されるから。それまでに会社に戻るつもりやけど、もし間に合わへんかったら、谷口君が御迎えして話始めててええさかいな」
支店長は出掛け際、痛々しいほど顔色の悪い祥吾に、自嘲気味な苦笑いを向けた。
「まあ、忘れるなんて出来ひんやろうけど、出来るだけ思い出さんようにな。……言うても、俺もつい思い出してまうんやけど」
昨日の、あの肉が食いちぎられる音と血の海。
その残像を振り払うように支店長は背を向け、オフィスを出て行った。
昼食を済ませ、祥吾が事務作業に没頭しようとしていた頃、受付から内線が入る。
「AIの導入について、御客様が来社されました」
祥吾は深く息を吐き、ネクタイを締め直すと、総務の人間が案内した会議室へと向かった。
扉を開けた瞬間、室内の温度が数度下がったかのような錯覚に陥る。
そこにいたのは、あまりにも異質な空気を纏った男性だった。
黒のコート、黒のシャツ、黒のカーゴパンツ。
40代半ばから後半と思しきその人物は、頭の先から爪先までを徹底した「黒」一色で統一していた。
無造作に伸ばされた黒髪の間から、感情を一切排した瞳が祥吾を射抜く。
「初めまして、主任の谷口祥吾と申します」
祥吾は型通りの挨拶と共に名刺を差し出した。
「どうも、初めまして」
男性は抑揚のない声で応じ、自身の名刺を差し出す。
祥吾はその紙面に躍る文字を見て、思わず言葉を失った。
「……えっと、『此岸彼岸』?……失礼ですが、本名、ですか?」
「ペンネームみたいなもんやと思て頂いて、宜しゅうおす。仕事の上では、これで通しておりますさかい」
男性は淡々と告げると、祥吾が着席を施したので、祥吾の向かい側に腰を下ろした。
「支店長直々に相談したいと仰ってましたが、谷口さんが御担当なんですな。……ほな、始めましょか」
此岸彼岸と名乗る男は、テーブルの上に組んだ両手を見つめたまま、低く冷ややかな声で会議の開始を告げた。
その佇まいは、業務効率化のAIのコンサルタントというよりは、死の宣告を携えた使者のようであり、祥吾の背筋には未知の悪寒が走り抜けていた。
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##飛来する厄災、黒衣の早業
事務作業の効率化という名目で、祥吾は黒衣の男性――此岸彼岸を連れてオフィスの現場へと足を踏み入れた。
案内されたのは、窓際に位置する主任用のデスク。
そこは祥吾が日々の業務を執り行い、数々の成功を収めてきた彼の「城」とも言える場所だった。
「こちらが私のデスクです。現在は紙ベースでの処理も多く残っておりまして……」
祥吾が一通りの説明を終えようとした、その時だった。
――ビシッ、ビシィッ……!
突如として、背後の大きな窓ガラスが不自然な振動を始めた。
「なんや、地震か?」「強風かな?」
近くのデスクにいた従業員たちが顔を上げ、不思議そうに窓の外を窺う。
音は次第に大きくなり、空気を震わせるほどの地響きのような唸りへと変わっていく。
しかし、祥吾の隣に立つ黒衣の男性だけは、微塵も動じなかった。
無表情のまま、彼はコートの懐へとスッと手を入れる。
その指先が何かに触れた瞬間、均衡が崩れた。
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####刹那の交錯
ガシャァァァァァン!!
けたたましい破砕音と共に窓ガラスが砕け散り、無数の鋭利な破片がオフィス内に飛散した。
従業員たちの悲鳴が響き渡り、誰もが咄嗟に頭を抱えて床に伏せる。
割れた窓の隙間から、何かが猛烈な速度で――明確な殺意を持って、祥吾の後頭部へと飛来した。
その刹那。
黒衣の男は懐から長方形の紙、古びた、しかし重厚な気を纏う「御札」を取り出した。
『収』
静かな、しかし確かな力が込められた呟き。
空中で牙を剥きかけていた「何か」は、重力をも無視して此岸の持つ御札へと吸い寄せられた。
まるで目に見えない強力な磁石に引かれるように、御札の表面へとぴたりと張り付く。
間髪入れず、彼は別の御札を重ねるようにしてさらに一言。
『包』
御札は生き物のように形を変え、飛来した物体を包み込む「袋」のような形状へと変化した。
此岸はそれを無造作に掴み取ると、再び何事もなかったかのようにコートの奥へとしまい込んだ。
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##犬神神社の方角
再び人々が顔を上げた時には、すべてが終わっていた。
ガラスの破片が散らばる惨状はそこにあるが、飛来したはずの凶器は影も形もない。
「……強風に紛れて、何か硬いもんが飛んで来たみたいですな」
此岸は淡々と、何でもない日常の風景を語るような口調で告げた。
「そ、そうだったんですか。強風で持ち上がった石でも飛んできたのかな。それにしても、めちゃくちゃ驚いた……。あ、ガラスが危ないですから、一旦離れましょう」
祥吾は激しく動悸する胸を押さえ顔面蒼白のまま、一切の動揺無く無表情な此岸を促して窓際から離れた。
周囲の喧騒をよそに、此岸と名乗る男は静かに視線を巡らせた。
割れた窓の向こう、北西の方角。
どんよりとした曇り空の先には、鬱蒼とした森に包まれた犬神神社が位置している。
「……巻き込まんといてくれませんかなあ、犬神遣いさん」
その呟きは、誰の耳に届くこともなく、オフィスを吹き抜ける風の中に消える。
黒衣の男の瞳には、因果の糸が複雑に絡み合う京都の闇が、冷徹に映し出されていた。
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##黒衣の去り際、放たれた双翼
硝子の破片が星屑のように散らばり、未だに微かな震動の余韻が残るオフィス。
騒然とする現場の空気を切り裂くように、血相を変えた支店長が息を切らせて戻ってきた。
「遅なってしもて、本当にすみません!ほんで、なんや、一体何があったんですか、これは!」
支店長は、変わり果てたオフィスの惨状に目を剥き、その場に立ち尽くしていた黒衣の男性――此岸彼岸へと、慌てて丁重な挨拶を交わす。
「此岸さん、申し訳あらへん。私が不在やった間に、こんな……」
「いえ、お気になさらず。不慮の事故のようなもんですから」
此岸は表情一つ変えず、深淵のような黒い瞳で支店長を見据え、短く応じた。
祥吾は、未だに心臓の鼓動が耳の奥で激しく鳴り響くのを感じながら、支店長へ向けて震える声で状況を報告した。
「……支店長、突然、強風が窓に叩きつけられたかと思ったら、一気にガラスが割れたんです。本当に一瞬のことで……。幸い、此岸さんも私も怪我はありませんでしたが、肝を冷やしました」
「そうか、無事なら何よりや。……とにかく、こんな埃っぽい場所にいても仕方あらへん。一旦休憩スペースへ移動して、温かい飲み物でも飲んで一息入れて落ち着こうや。此岸さん、宜しゅうおすか?」
支店長の提案に対し、此岸は静かに頷き、コートの裾を揺らして歩き出した。
「ええ、宜しゅうおす……あ、その前に。今のうちに、ちょいと連絡しておきたいところがありますさかい、数分ほど席を外しても宜しゅうおすか?すぐに戻りますので」
「ああ、はい。どうぞどうぞ。ほな、飲み物はこちらで準備しておきますさかい」
支店長が鷹揚に頷くのを見届けると、此岸は音もなくオフィスの喧騒から離れていった。
人の気配が途絶え、空調の低い唸りだけが響く非常階段の踊り場。
此岸はそこに立ち止まると、迷いのない所作で懐から二つの御札を取り出した。
それらは、古びた紙の質感を持ちながらも、その身に宿る呪力ゆえか、微かに熱を帯びて空気を歪めている。
「とりあえず、式神飛ばさはった御本人と、女鬼さんとこに連絡しときましょかな。」
短く呟くと同時に、彼が指先を放すと……。
シュパッ、という鋭い風切り音を残し、二つの御札が生き物のような躍動感を持って宙へ舞う。
一つは、意志を持った鳥のように低い弾道で滑空し、遥か北西――犬神神社が鎮座する方角へと、一直線に姿を消した。
そしてもう一つは、物理法則を無視したような加速度で垂直に上空へ飛び立ち、瞬く間に雲の彼方、観測不可能な高みへと消え去っていった。
此岸は、それらを見送ることもなく、ただ自身の指先に残る微かな「熱」を確かめるように見つめた。
「……えらいこっちゃ、ですわ、ほんまに。京都の闇も、随分と騒がしゅうなってきましたなあ」
独り言のようにそう零すと、彼は再び何事もなかったかのように、端正な顔立ちを無機質な仮面の奥へと隠し、会社の建物内へと戻っていった。
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###不覚の対価、招かれざる神意の飛来
同時刻。
犬神神社の深奥、結界に守られた禁足の神殿。
周囲の空気を凍りつかせるほどの冷徹な集中力で術式を編み上げていた桜子が、突如として目を見開いた。
「っ!?……あ……っ」
その唇から、驚愕の吐息が漏れる。
「どないした?桜子。まだ終わりやあらへんぞ」
傍らで、愛弟子の卓越した術式を確信を持って見守っていた玄蓮が、不審そうに首をかしげた。
桜子は自らの右手の掌を見つめたまま、信じられないものを見たというように固まっている。
「……失敗、しました。……術式が、消えました」
出来るだけ落ち着こうと努めてはいるものの、その声は微かに震えていた。
「え?アホなこと言うな。術式はしっかり発動したし、因果の流れも間違いなくターゲットを捉えとったやんけ。どこにも不備はあらへんぞ?俺が横で観とったんや」
玄蓮は納得がいかない様子で眉間に皺を寄せ、祭壇の上の呪具を確認しようとする。
しかし、桜子は自嘲気味に首を横に振った。
「いえ……手ごたえが、無かったんです。獲物に噛みついた、あの肉を裂くような重みのある手ごたえが……どこにも。まるで、空を切ったような……あるいは、深淵に飲み込まれたような感触でした」
「そんな事ってあるか?むしろ、勢い余って奴の周りまで巻き込んで、手ごたえがありまくって困るくらいやったらわかるんやけどなあ。一体どうなっとるんや?」
――コン、コン、コン……。
その時。静寂が支配する神殿内に、場違いなほど軽やかな、しかし芯の通った音が響き渡った。
本来、ここはこの世の理から外れた領域。
認識することさえ許されないはずの神殿の扉を、何者かが「叩いている」のだ。
玄蓮は即座に表情を険しくし、殺気にも似た鋭い気を放って身構えた。
だが、扉の向こうから伝わってくるのは、刺すような敵意ではなく、どこまでも清澄で、それでいて抗いがたい巨大な「秩序」の気配だった。
玄蓮は迷いながらも、重々しい音を立てて扉を押し開けた。
「……なんや、これは……」
扉を開いた瞬間、神殿内に舞い込んできたのは、自ら光を放っているかのような一羽の鳥だった。
その美しさは生命というよりは芸術品のようで、優雅な軌跡を描いて玄蓮の周りを旋回する。
玄蓮が呆然と掌を差し出すと、鳥はふわりとその上に降り立ち、刹那、一枚の御札へとその姿を変えた。
桜子は、自身の師匠であり、常に不敵な笑みを浮かべていた玄蓮が、生まれて初めて「驚愕」に顔を歪めるのを、息を呑んで見つめていた。
玄蓮は、震える指先でその御札に刻まれた、あまりに洗練された言霊を読み解いていく。
読み終えた瞬間、彼は深い溜息と共に頭を乱暴にかきむしった。
「……悪い、桜子。派手にぶちかませって言うてしもた、師匠である俺のミスや。完全に読み違えたわ」
「……どういう事ですか?そのお札には、何が書いてあるんです?」
桜子の問いに、玄蓮は苦いものを噛み潰したような顔をして応じた。
「……巻き込んだらあかん人まで、巻き込んでしもたんや。今、君が放った式神、一匹残らず全部捕まってしもてな……。このお札の主が言うには『巻き込まれたないから、一旦預からせてもろてます。後日、僕が直接返しに行きます』……やとさ。ご丁寧にな」
「え……?預かられた?私の式神が、全て……?」
桜子は驚きのあまり言葉を失い、目を見開いた。
彼女が全霊を懸けて編み上げた、あの凶暴な犬の牙たちが、一瞬で、無傷で、封じられたというのか。
「ターゲットの至近距離に、こんなレベルの『解呪師』が潜り込んでるなんて、夢にも思わんやろが。……ごめんな、桜子。多分、近いうちに、俺らはこの御仁から直々に御叱りを受けることになるで」
玄蓮はそう言って、手の中の御札を恨めしそうに見つめながら、困ったような苦笑いを浮かべていた。
神域の静寂の中に、未知の強者の足音が、静かに、しかし確実に近づいてくる予感が満ちていた。
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##黒衣の警告と、八条口の偶然
表向きには「此岸彼岸」と名乗るその黒衣の男性との会談は、夕刻、ようやく一つの結論へと至った。
週明けに予定されているAI導入の本格的な指導、ならびに導入の実務サポートに、別のAI関連企業がチームを編成してやって来る。
その全般を彼が手伝う、あくまでサポート役という流れで、正式に話がまとまる。
夕闇が街を包み始める頃、此岸は席を立ち、会社を後にしようとしていた。
「此岸さん、本日は本当にありがとうございました。……それと、昼間のあのとんだ災難、重ね重ねお詫び申し上げます」
支店長と祥吾は、オフィスの割れた窓ガラスを思い出しながら、もう一度深々と頭を下げた。
だが、此岸は表情を変えることなく、どこまでも飄々とした様子で軽く手を振る。
「お気になさらず。あれはただの事故ですさかい。……ほな、また来週」
その冷ややかな声は、感情の起伏を一切感じさせない。
支店長が先に業務へ戻り、祥吾もその後に続こうとした、その時だった。
「――谷口さん。……いえ、祥吾さんと言いましたな。ちょいと、宜しゅうおすか?」
静止をかけるような低く、重みのある声に呼び止められ、祥吾は足を止めた。
「はい、何でしょう?」
振り返った祥吾の目に、此岸の深淵のような黒い瞳が突き刺さる。
「おたくは、最近か……もしくは子供の頃、犬を虐待したような覚えはありませんかね?」
「えっ……?」
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
祥吾の顔が、一瞬にして硬直する。
「……やはりですか。祥吾さん、犬にまつわる神社で、早急にお参りしはったら宜しゅうおす。今のあんたには、それが必要やと思いまっせ。……ほな、僕はこれで」
それだけを一方的に告げると、此岸は踵を返し、夕闇の雑踏へと溶け込むように立ち去ってしまった。
「な、なんだったんだ……今の。……犬、だって……?」
祥吾の脳裏に、両親から聞かされた実家の凄惨な光景がフラッシュバックする。
噛み合い、食いちぎり合い、全滅した5匹の愛犬たち。
既に火葬を済ませ、動物霊園に骨を埋めたと聞かされていたが、祥吾の身勝手な解釈は加速していく。
「……もしかして、あいつらへの供養が不十分だって言うのか?5匹が『ちゃんと供養しろ』って、飼い主の俺を突っついてるのか……?」
そう思うと、背筋に冷たいものが走った。
「……まあ、一応はお参りに行くか。……でも、どこに行けばいいんだ?」
京都の地理に疎い祥吾は、ふと、あの美しい巫女――桜子のことを思い出した。
「そうだ、桜子ちゃんに聞けばいいんだ。これなら自然に連絡する口実にもなるし、一石二鳥だろ」
祥吾はすぐさま、犬にまつわる神社について尋ねるメッセージを桜子に送った。
しかし、画面を見つめて暫く待っても、一向に「既読」は付かない。
「……忙しいのかな。巫女さんだし、お勤めが大変なんだろう」
自分に言い聞かせるように呟くと、祥吾は気分転換のために、京都駅周辺のショッピングモールへと足を向けることにした。
バスに乗り込み、揺られること十分少々。
京都駅の八条口方面の出口から外へ出ると、夜の街が煌びやかに輝いていた。
「少し回ってから、何か食べて帰るか」
南に向かって歩き出し、周囲の景色を眺めていた祥吾の目に、道路を挟んだ向こう側にある、古びた、しかし厳かな雰囲気を纏った神社の鳥居が飛び込んできた。
「お、神社があるぞ。……丁度いい、ここでお参りしておけばいいか」
不思議な引力に導かれるように、祥吾はその鳥居に向かって歩みを進めた。
その境内の奥で、何が自分を待ち構えているのかも知らずに。
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