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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第27話:えらいこっちゃ嬢の怪異紀行とほっこり飯

この世とあの世、あるいは、生者が謳歌する「娑婆」と死者が辿り着く「天国地獄」や「浄土」。

呼び名こそ多種多様ではあるが、ことわりの異なる二つの世界の狭間には、時として境界が曖昧に揺らぐ「場」が生じることがある。

現世うつしよの理法が通用せず、幽世かくりよの霧が足元に忍び寄るその奇妙な境界線上に、一軒の奇妙な店が静かに、しかし確かな存在感を放って佇んでいる。


その名は「摩訶不思議食堂」。


店を預かる地蔵店長は、常に穏やかな笑みを絶やさず、普段は食堂の2階に住まい、この世界の移ろいを見守っている。

そして、食堂の裏手を出てすぐの場所に建つもう一つの家屋には、この場所を象徴するかのような、実に不思議な少女が一人住み着いていた。


彼女こそ、摩訶不思議食堂の看板娘であり、此岸と彼岸を自由に行き来し、どちらの世界にも属しながら、どちらの世界にも縛られない、摩訶不思議を具現化したような存在――えらいこっちゃ嬢である。

親しみを込めて「えらいこっちゃん」と呼ばれる彼女が、その眠りから覚める瞬間は、唐突に訪れた。


……ぱちっ。

静寂の中に、微かな、しかし鮮明なまばたきの音が響く。

まだ夜の残滓が漂う早朝、布団の中から顔を出した彼女の両目は、覚醒と同時に特徴的な、見事なまでの「まん丸」へと見開かれた。

頭には寝癖のついた長い銀髪が乱れ、寝巻代わりの浴衣が少しばかり着崩れているが、彼女は気にする様子もない。


大きく欠伸をすると、その小さな口はこれまた特徴的な、綺麗な台形の形へと開かれた。

「ふわぁぁ……。えらいこっちゃ、もう太陽さんが顔を出そうとしとる!」

独り言を呟きながら、彼女はのそりと布団を這い出した。


まだ少しばかり眠気の残る足取りで洗面台へと向かうと、蛇口をひねり、勢いよく流れ出した冷水で顔を洗う。

ジャバジャバ、という水の音が、静かな部屋に小気味よく反響した。

タオルで水気を拭い去り、鏡に向かって自慢の台形の口を開けながら、歯ブラシを左右に動かす。

シャカシャカ、というリズミカルな音がしばらく続き、口をゆすいで吐き出したところで、彼女の朝の儀式は第一段階を終えた。


「よっしゃ、今日もえらいこっちゃな一日にしたる!」


気合を入れ直した彼女は、慣れた手つきで身支度を整え始めた。

脱ぎ捨てた浴衣の代わりに身に纏うのは、彼女のトレードマークである、ズボンタイプの黒いセーラー服だ。

仕上げに、柔らかい生地の黒いベレー帽を銀髪の上にちょこんと乗せる。

鏡に映る自分の姿を一瞥し、完璧な装いであることを確認すると、彼女は弾むような足取りで玄関へと向かった。


ガチャリ、と扉を開ければ、そこには境界の街特有の、少しばかり冷たく、しかし澄み渡った空気の香りが満ちている。

彼女が今、猛烈に欲しているのは、胃袋を優しく満たしてくれる、あの大好きな黄金色の宝物だ。


「今日の朝ご飯は、ダークエルフねえちゃんの焼く、あのクリームがたっぷり詰まった、えらいこっちゃな美味クリームパン!」


えらいこっちゃ嬢が「親友マブダチ」と呼んで憚らない、この近隣でパン屋を営むダークエルフの顔を思い浮かべ、彼女の足取りはさらに軽やかになる。

小柄な体を弾ませ、朝日が差し込み始めた路地へと飛び出した。


「今日もえらいこっちゃな爽やか早朝!待ってよし、クリームパン!」


元気な声を響かせながら、えらいこっちゃ嬢は一心不乱に、愛すべきマブダチの店を目指して歩き始めた。

ザッ、ザッ、と土を踏みしめる音が、まだ眠りの中にある街に、今日という日の始まりを告げていた。


---


## 朝霧を裂く黄金の芳香と、マブダチの温もり


早朝の静謐な空気を切り裂くようにして歩を進める、えらいこっちゃ嬢の目的地は、すでにその芳しい香りで自らの存在を誇示していた。

通りを曲がれば、そこに佇むのは、使い古された木材が温かみを感じさせる一軒のパン屋。

ここは摩訶不思議食堂へも定期的にパンを届けてくれるだけでなく、時には食堂の厨房に立って、その卓越した腕前で焼き立てのパンや、ふかふかのホットケーキを振る舞ってくれる、腕利きのダークエルフが営む店である。


店の付近には、小麦が焼き上がる香ばしさと、甘い砂糖の焦げるような、抗い難い誘惑の香りが濃密に漂っていた。

カランコロン、と、扉に取り付けられた年季の入ったベルが、清涼な音を立てて来客を告げる。


「おはようさん!今日もえらいこっちゃな美味な香り!鼻孔をくすぐられて、腹の虫がえらいこっちゃな大合唱!」


店内に足を踏み入れるなり、えらいこっちゃ嬢は小柄な両腕を大きく振り、元気いっぱいの挨拶を投げかけた。

それから慣れた足取りで、窓際に設けられた陽光の差し込むイートインスペースへと向かい、ちょこん、と椅子に腰を下ろした。


奥の厨房から姿を現したのは、しなやかな肢体と長い耳を持つ、美しいダークエルフの店主であった。


「おはようさん、えらいこっちゃん。相変わらず朝から元気だねえ。いつものクリームパン、ちょうど最高に美味しい状態で焼き立てさね♪」


ふふ、と弾むような声で応じると、彼女はトレイに乗せた黄金色のクリームパンと、湯気の立ち上る深い香りの珈琲を、えらいこっちゃ嬢の目の前へと静かに置いた。


「ありがとちゃん!今日もえらいこっちゃな焼き具合!この艶といい形といい、食べるのがもったいなくなるくらい、えらいこっちゃな芸術品!」


えらいこっちゃ嬢は、目の前の馳走にまん丸の目をさらに輝かせると、居住まいを正し、スッと丁寧な動作で両掌を合わせた。

「えらいこっちゃな数多あまたの御縁に感謝して、頂きます」

厳かに、しかしどこか嬉しそうに唱えると、彼女は愛おしそうにクリームパンを手に取った。


指先に伝わる焼き立ての熱と、驚くほど柔らかな生地の感触。

それを一口、大切に頬張れば、中からは濃厚で滑らかなカスタードクリームが溢れ出し、口内を至福で満たしていく。

その後を追うようにして、漆黒の珈琲を一口啜る。

苦味と甘味、そして熱と冷が織りなす完璧な調和に、彼女の表情は自然と綻んでいった。


「ふふ、そんなに美味しそうに食べてくれるなんて、作り手冥利に尽きるさね。御口に合って何よりだよ」


カウンターの向こうで、ダークエルフは頬杖をつきながら、幸せそうに頬を膨らませる親友の姿を、慈しむような微笑みで見つめていた。

やがて最後の一口を名残惜しそうに飲み込み、珈琲の最後の一滴までを堪能し終えると、えらいこっちゃ嬢は再び静かに合掌し、深く頭を下げた。


「えらいこっちゃな数多の御縁の御蔭さんに、御馳走様でした。心もお腹も、えらいこっちゃな満足感で満たされた」


丁寧にお辞儀をした後、彼女は空になった皿が乗ったお盆を両手でしっかりと持ち、ダークエルフの待つカウンターへと歩み寄った。


「はい、御粗末様。朝からしっかり食べられたようで安心したさね。そんじゃ、今日の仕事も気を付けてね」

ダークエルフは使い込まれたお盆を軽やかに受け取ると、遊び心たっぷりに片目を瞑り、ウインクをして送り出した。


「ありがとちゃん!今日もえらいこっちゃな美味クリームパンと珈琲の、最高に贅沢なコンビネーション!これで今日一日の活力も、えらいこっちゃなチャージ完了!」


満面の笑みでお礼を言うと、えらいこっちゃ嬢は使い慣れた携帯端末を取り出した。

レジカウンターにセットされているQRコードのプレートに、慣れた手つきで端末をかざす。

ピッ、という電子音が静かな店内に響き、スマートに会計を済ませると、彼女は力強く頷いた。


「よっしゃ、お次は蛙仙人さんの畑!えらいこっちゃな収穫が待っとるはずや!」


店を後にしたえらいこっちゃ嬢は、朝日を全身に浴びながら、次の目的地を目指してトコトコと小走りで駆け出した。

その背中からは、朝食で得た確かな幸福感が、周囲を明るく照らすように溢れ出していた。


---


## 翡翠の恵みと、えらいこっちゃな御裾分け行脚


朝の柔らかな光が降り注ぐ中、えらいこっちゃ嬢の足は、摩訶不思議食堂からほど近い場所に広がる広大な畑へと向かっていた。

そこは、土の香りが色濃く漂い、生命の息吹が翠緑の葉となって溢れ出す、この世のものとは思えぬほど豊かな実りに満ちた場所であった。


畑に到着すると、そこでは蛙仙人だけでなく、透き通った体でふよふよと空中に浮かぶお化けたちが、揃って麦わら帽子を被り、熱心に畑仕事に精を出していた。

お化けたちの顔には穏やかな笑みが浮かんでおり、その光景は実に平和そのものである。


「おはようさん、えらいこっちゃな大豊作!今日も土の神様がえらいこっちゃな大盤振る舞いをしてくれとるみたい!」


えらいこっちゃ嬢が腕を振り、元気よく挨拶を投げかけると、作業の手を止めたお化けたちが、鈴の鳴るような澄んだ声で一斉に応じた。


「えらいこっちゃん、お早うさんー。今日もええ天気で、野菜たちも喜んどるよ」


ふわりと浮き上がりながら手を振り返すお化けたちに見送られ、彼女は畑の奥へと進んでいく。

そこでは、緑色の肌に穏やかな眼差しを湛えた蛙仙人が、ちょうど瑞々しい胡瓜の収穫を終えたところであった。


「えらいこっちゃん、お早うさん。今日も、ええ胡瓜が採れたでな。ほな、あんたの分も仰山包んどくさかい、しっかり持って帰り」

蛙仙人は、のほほんとした笑顔を浮かべると、朝露に濡れて宝石のように輝く胡瓜を、手際よく袋に詰めて手渡してくれた。


「蛙仙人さん、お早うさんのありがとちゃん!これまた、えらいこっちゃな新鮮胡瓜!パキッと音が聞こえてきそうな、えらいこっちゃな生命力を感じるで!」

ずっしりと重みのある袋を受け取り、えらいこっちゃ嬢はまん丸の目をさらに丸くして喜びを露わにした。


「そや、河童さんに御裾分けしてあげたらどや?ここの胡瓜、あの方は殊の外、気に入ってもろてたからねえ。きっと喜んでくれはるでな」


蛙仙人が目を細めて提案すると、えらいこっちゃ嬢はポンと手を叩いた。


「ありがとちゃん!それはえらいこっちゃな名案!ほな、今日の行先は河童さんのとこに決定。えらいこっちゃな御裾分け行脚の始まりや!」


感謝を伝え、彼女は軽やかな足取りで畑を後にすると、摩訶不思議食堂へと向かって歩き出した。


---


食堂の暖簾をくぐると、店内では既に地蔵店長が、開店に向けた準備を静かに進めていた。

カウンター越しに彼女の姿を認めるなり、地蔵店長はいつもの温かなお地蔵さん笑顔を浮かべ、胸の前で両手を合わせる。


「えらいこっちゃん、お早う御座います。今朝も早いお出ましですねえ」


丁寧にお辞儀をする店長に、えらいこっちゃ嬢は収穫したばかりの袋を掲げて見せた。


「地蔵店長、おはようさん!見てや、このえらいこっちゃな新鮮胡瓜!何本か冷蔵庫に入れさせてもらうから、残りは河童さんのとこに御裾分けしてくるわ!」

そう言うが早いか、彼女は厨房の冷蔵庫へと向かい、手際よく胡瓜を収めると、再びカウンターへと戻ってきた。


「これはこれは、ありがたやありがたや。蛙仙人さんが出勤して下さいましたら、私からも改めて厚く御礼申し上げると致しましょう。河童さんも、きっと首を長くして待っておられ事でありましょう」

店長はニコニコと目を細め、彼女の活発な様子を眩しそうに見つめている。


えらいこっちゃ嬢はレジの方へ進み、店のレジ横にある「何か」のボタンを、迷いのない動作でカチリと押し込んだ。

それはこの食堂に隠された、境界を越えるための合図なのかもしれない。


「ほな、えらいこっちゃな御裾分け紀行に出発!えらいこっちゃな美味しいもんは、早いうちに届けてくるで!」

胡瓜の詰まった袋を丁寧に風呂敷包みで包み直し、それを大事そうに抱えて、彼女は再び店外へと飛び出していく。


「はい、お気をつけて行ってらっしゃいまし。えらいこっちゃな程に善き御縁が繋がりますよう、お祈りしております」

地蔵店長は再び合掌し、深くお辞儀をしながら、春風のように去っていく彼女の可愛らしい後ろ姿を、いつまでも静かに見送っていた。


---


## 炎の快速牛車と、現世への宇治川紀行


えらいこっちゃ嬢が食堂の扉を開け、表の空気に触れたその刹那。

遠方の空を焦がすような、凄まじい熱量を孕んだ「何か」が、猛烈な勢いでこちらへと突き進んでくるのが見えた。


ゴオォォォォォ、という地響きのような重低音を響かせ、紅蓮の炎を撒き散らしながら迫り来るその正体は、古風な牛車の体裁を保ちながらも、本来あるはずのない運転席が強引に取り付けられた、異形の魔改造乗り物である。

アスファルトを削り取るような勢いで急停車したその車体からは、陽炎がゆらゆらと立ち上り、周囲の温度を一気に上昇させていた。


キィィィッ、と小気味よい音を立てて停車した運転席の窓がスライドし、中から一人の女性が顔を覗かせた。

えらいこっちゃ嬢とお揃いの黒いベレー帽を小粋に被り、艶やかな長い黒髪を後ろで一つに束ねた、凛とした佇まいの着物美人。

黒い着物を見事に着こなした彼女――方輪車かたわぐるまは、えらいこっちゃ嬢に向けてにこやかに白皙の手を振った。


「方輪車ねえちゃん、お早うさん!いつもながら依頼ボタン一つで、えらいこっちゃなスピード御迎え!流石はえらいこっちゃな境界最速のスピードスター!」


えらいこっちゃ嬢が元気よく手を振り返すと、方輪車は涼しげな目元を細めて微笑んだ。


「お早うさんー。ほな、行きましょかー」


その言葉と同時に、牛車の後方にある重厚な扉が、自動門のように滑らかに開かれた。

えらいこっちゃ嬢は風呂敷包みを大事そうに抱えたまま、小柄な体躯をバネのようにしならせ、車内へと器用にぴょんっと飛び乗った。


すると、車内の暗がりから、まるで意思を持っているかのように白くて長い腕がニューっと不気味に伸びてきた。

その異様な光景にも慣れっこのえらいこっちゃ嬢は、怯むどころか楽しそうに笑いながら、差し出されたその手の上に、蛙仙人の畑で採れたばかりの瑞々しい胡瓜を一本、そっと乗せてやる。

白い腕は、掌に伝わる胡瓜の冷たさと新鮮な感触に満足したのか、嬉しそうに小刻みに震えると、そのまま闇の中へとニューっと引っ込んでいった。


「ふふ、その胡瓜が手土産と言う事は、行き先は河童さんとこやねー。ほな、京都の宇治川まで一気に、えらいこっちゃな速度で行きまっせー♪」


方輪車が弾んだ声で宣言すると、再び牛車の周囲に激しい火焔が巻き起こった。

車輪が火花を散らし、猛烈な加速と共に現世うつしよへの境界線を突破していく。


えらいこっちゃ嬢を乗せた燃え盛る牛車は、朝の光が差し込み始めた宇治川を目指し、風を切って疾走し始めた。


---


## 水辺の邂逅と、えらいこっちゃな京都縦断


現世と幽世の狭間を炎と共に駆け抜けた方輪車は、やがて現実の重力をその車輪に感じ始めた。

辿り着いたのは、早朝の瑞々しい空気に包まれた京都・宇治川。

まだ人の気配など微塵もない時間帯であり、川べりには草花が背丈ほどに生い茂り、外の世界からは完全に遮断された、秘密の場所である。

ボォォォッ……と、余韻のように立ち上っていた車体の炎が静まり、魔改造された牛車が音もなく停車した。


その時である。

静まり返った川面に、ポカリと小さなしぶきが上がった。


「――おや、誰かと思えば、えらい賑やかなお迎えやないの」

川底からひょっこりと顔を出したのは、全身が鮮やかな深緑色に包まれ、頭の頂に瑞々しい皿を乗せた、まさに妖怪図鑑から抜け出してきたような河童である。

彼は人懐っこい笑みを浮かべながら、手際よく岸へと上がってきた。


同時に、水辺の霧が晴れるようにして、もう一人の影が静かに姿を現す。

しっとりと長い黒髪を水に濡らし、艶やかな浴衣を身に纏った、息を呑むような美人。

しかし、その腰から下は人間のものではなく、光沢のある鱗に覆われた蛇、あるいは人魚を思わせる長大な尾が、川面をゆらりと揺らしていた。


二体の怪異――河童と濡れ女が、朝日を背にして微笑んでいた。


牛車の扉が勢いよく開くと同時に、えらいこっちゃ嬢が軽やかな身のこなしで地上へとぴょんっと飛び降りた。

「河童さん、濡れ女ねえちゃん、お早うさん!今日もえらいこっちゃな良い目覚め!これ、蛙仙人さんのとこから預かってきた、えらいこっちゃな御裾分け!」

シュタッ、と小気味よい音を立てるように手を挙げて挨拶すると、彼女は小さな腕をぶんぶんと大きく振って再会を喜んだ。


「えらいこっちゃん、方輪車さん、お早うさんー。相変わらず元気なことで、見てるこっちまで目が覚めるでな」

「お早うさん。方輪車さんも、今朝の走りは一段と冴えてはりましたねえ」

河童と濡れ女が、穏やかな声で挨拶を返す。


運転席の窓から、方輪車も涼しげな顔で手を振り返した。

「お早うさんですー。今日もええ朝やねー。宇治の川風が、えらいこっちゃに心地ええですわ」


えらいこっちゃ嬢は、大事に抱えていた風呂敷包みを解くと、中から朝露の滴るような緑色の宝物を取り出した。

「蛙仙人さん秘蔵の、えらいこっちゃな新鮮胡瓜!あんまり美味そうやったから、真っ先に持ってきた!」


そう言って、河童と濡れ女にそれぞれ二本ずつ、手際よく手渡していく。

河童はその胡瓜をまじまじと見つめると、御満悦の表情で鼻を鳴らした。


「おおっ、これは見事な!ちょうどこれから朝飯にしようと思ってたところやったから、最高に丁度ええわ!有難うなあ、えらいこっちゃん、方輪車さん♪」

ボリボリッ、バキッ!と、静かな水辺に小気味よい咀嚼音が響き渡る。

河童は至福の表情で、新鮮な胡瓜を豪快に齧り始めた。


「ほんに、有難うねえ。ふふ、蛙仙人さんの御野菜は、ほんまに新鮮で美味しくて。私らにとっても、これ以上の朝御飯はありませんわ♪」

濡れ女も、白く細い指先で胡瓜を掲げると、パリッと上品な音を立てて一口。

その瞳が、あまりの美味しさに細められた。


「喜んでもらえて、うちもえらいこっちゃな幸せ!あ、そうや。次は橋姫ねえちゃんとこにも、えらいこっちゃな御裾分けに行こうと思っとるんやけど、居場所知っとる?」


えらいこっちゃ嬢の問いかけに、濡れ女が長い髪を揺らしながら教えてくれた。


「それやったら、今日は朝から貴船神社の方へ、巫女として紛れ込むって言うてはりましたで。あの方、人の世に混じって働きながら衆生の観察がお好きやから」


「お、貴船か!北に行くんやね。それならえらいこっちゃん、北の方の河童達にも胡瓜、一本ずつ分けてやってくれたら喜びよるでな。あいつら、最近の暑さで少々バテ気味やから」

河童が胡瓜を口に含んだまま、愉快そうに付け加えた。


「ありがとちゃん!それはえらいこっちゃな有力情報!ほな、お次は北へ向かってレッツゴー!えらいこっちゃな京都縦断、一気に駆け抜けたる!二人とも、また来るで!」

えらいこっちゃ嬢は二体の怪異に元気よく別れを告げると、再び牛車の扉へと吸い込まれるように飛び乗った。


「ほなねー」「道中、お気をつけてねえ」

川面から、そして水辺から、二つの怪異が優しく手を振る。


その姿が見えなくなるよりも早く、方輪車は再び激しい炎を噴き上げた。

牛車は現世の風景を置き去りにし、人には見えない世界の狭間へと一気に潜り込む。


京都を南から北へと貫く、えらいこっちゃな弾丸紀行。

火花を散らしながら、魔改造された牛車は遥か北の地を目指し、夜明けの空を紅く染めて疾走していった。


---


## 出町の豆餅と、貴船の杜の麗しき鬼女


炎を纏った快速牛車は、土曜日という休日特有の緩やかな空気の中を切り裂き、出町柳の地へと滑り込んだ。

平日であれば足早な通勤客で溢れる時間帯だが、今はまだ人もまばらで、鴨川のせせらぎが心地よく響く静かな朝である。


方輪車が川沿いの、木々が深く茂って人の目に触れない場所に停車すると、えらいこっちゃ嬢は手際よく風呂敷から残りの胡瓜を取り出した。

川面から次々と顔を出した鴨川の河童たちに向けて、全ての胡瓜を手渡していく。


「えらいこっちゃな新鮮胡瓜!皆で仲良く食べてや!」


河童たちは「おお、有難う!」「これや、これが欲しかったんや!」と口々に歓喜の声を上げ、受け取った先からパキッ、ポリッ、と小気味よい音を立てて齧りつく。

その満足げな様子を見届けると、えらいこっちゃ嬢は「またなー!」と大きく手を振り、少しばかり足を延ばして出町柳の名所へと向かった。


出町柳と言えば、誰もが知る有名な豆餅の老舗がある。

早朝とはいえ、すでに店の前にはその味を求める客が列を作っていた。

えらいこっちゃ嬢もしばしその列に加わり、ようやく手に入れた包みを大事そうに抱えて方輪車の元へ戻る。


河童たちとの別れを惜しみながら牛車に飛び乗ると、彼女は一番大きな豆餅を一つ、運転席の方輪車へと差し出した。

「方輪車ねえちゃん、これ!えらいこっちゃな御礼!」


「まあ、有難うねえ。ふふ、ここの豆餅は、雲外鏡うんがいきょうさんの大好物でしたなあ。あの御仁も、この程よい塩味と餡の甘みの虜になってはりましたわ」

方輪車はそう言って上品に微笑むと、受け取った豆餅を一口。

もぐもぐ、と柔らかい餅と赤えんどう豆の食感を楽しみ、至福の表情を浮かべた。


食べ終えた彼女は、凛とした声で目的地を告げる。

「ほな、お次は貴船神社まで行きましょか」

再び現世の理から外れた牛車は、火花を散らしながら北へ向かって一気に加速した。


---


やがて牛車が再び現世に姿を現したのは、清冽な水流と深い緑に包まれた貴船の地であった。

奥宮からさらに奥、参拝客の足も届かぬ、深い静寂に支配された山の中。


ひっそりと停車した牛車の前に、森の影から一人の女性が姿を現した。

長く艶やかな黒髪を春風に靡かせ、清らかな巫女装束に身を包んだ絶世の美女。

その歩みは嫋やかでありながら、大地をしっかりと踏みしめる力強さを秘めている。


「橋姫様、お早う御座います、御機嫌麗しゅう」

方輪車が窓から手を振り、にこやかな笑顔で挨拶を贈る。


えらいこっちゃ嬢も負けじと牛車から飛び降り、腕をぶんぶんと大きく振り回した。

「橋姫ねえちゃん、お早うさん!えらいこっちゃな御裾分け、持ってきたで!」

そう言って、まだ温もりの残る豆餅の入った袋を高く掲げる。


橋姫と呼ばれた美女は、優雅に歩み寄ると、鈴を転がすような声で上品に笑った。

「お早うさんです、方輪車さん、えらいこっちゃん。結構久しぶりじゃったか。こうして山まで足を運んでくれるとは、嬉しいものじゃな」


二人は近くにある苔むした石を椅子代わりに腰を下ろすと、仲良く並んで豆餅を頬張り始めた。


「さっき、河童さん達と濡れ女ねえちゃんにも、蛙仙人さんの胡瓜を御裾分けしてきた。皆、えらいこっちゃな大満足で食べてくれたで!」


えらいこっちゃ嬢が報告すると、橋姫は目を細めて頷いた。


「それはええこっちゃです。皆が息災そうで何より。……ふふ、こうして菓子を頂いていると、我も久々に摩訶不思議食堂に行きとうなりもうした。食堂の御蔭様で、我も洋食の味を楽しめるようになって、善き時代、そして善き場所と御縁出来て宜しいねえ」


「洋食も、えらいこっちゃな絶品揃い!ウチはこないだ、えらいこっちゃな美味オムライスを賄いで食べたんやけど、卵がふわっふわで最高やったで!」


えらいこっちゃ嬢が身振り手振りでその美味しさを伝えると、橋姫は楽しげに微笑みを深める。


「オムライス、あれも美味じゃった。我も大層好きな洋食ですわ。前に行った時はハンバーグ定食を頂いたから、次はオムライスを頂くとしようかねえ。あの黄金色の包みにスプーンを入れる瞬間が、今から楽しみじゃ」


かつては「鉄輪かなわ」の伝説に語られ、丑の刻参りと縁深き恐ろしき鬼女、あるいは醜女しこめと言われ恐れられた怪異・橋姫。

そんな彼女と、摩訶不思議な少女、そして炎を駆る車輪の怪異が、京都の奥山で仲睦まじく豆餅を楽しむ。


現世の人間が見れば、腰を抜かして逃げ出すような、しかしどこまでも温かく奇妙な光景が、そこには確かに広がっていた。


---


## 古の鬼女が見つめる、現世の光と影


「方輪車さんは、今日はこっちの神社で巫女さんをやってはるんですね。清らかな装いも、ようお似合いやわー」


方輪車が豆餅をゆっくりと味わいながら、にこやかな表情で語り掛けた。

対する橋姫は、巫女装束の袖を軽く整えながら、鈴の鳴るような声で応じる。


「ふふ、土日は色々な人間がやって来るから、なかなかに観察し甲斐があるんじゃよ。宇治にある我の神社に引きこっておるよりも、よほど有意義じゃろ?人の欲や祈りが渦巻く様を見るのは、飽きぬものよ」

上品に笑う橋姫の瞳には、千年の時を生きた者特有の、深く透徹した知性が宿っていた。


妖古ようこねえちゃんも、橋姫ねえちゃんも、揃いも揃ってえらいこっちゃな好奇心旺盛!この世の不思議を全部知ろうとしとるみたい!」


えらいこっちゃ嬢が、感心したように両腕をぶんぶんと大きく振り回した。

橋姫はその様子を愛おしそうに見つめ、薄紅色の唇を綻ばせる。


「ふふ、我は元々が人間じゃから、人間に対する好奇心は妖古殿の方がありそうじゃけれどね。あ、そういえば先日の稲荷祭で、妖古殿と弟子の才狐さいこ殿にも会うてきたよ。彼もすっかりイケメンに成長したようで、何よりじゃ」


橋姫の言葉に、えらいこっちゃ嬢が「そうそう!」と身を乗り出した。

「才狐あんちゃん、今はあの呪術師あんちゃんに、えらいこっちゃな御執心。もう、憧れが爆発しとる感じ!」


「そうそう、妖古殿も、ちょっとばかし驚いていらっしゃったでな。彼女は放任するタイプかと思いきや、案外、弟子の心変わりには敏感なのじゃろう。心を失うておった彼が、5年経って初めて失った心を再び動かされた大人に出会えたと、それはそれは嬉しそうに話してくれたんじゃよ」

橋姫は遠くを見つめるように目を細め、かつての教え子、あるいは同胞の成長を噛み締めるように呟いた。


しかし、えらいこっちゃ嬢は少しだけ眉を下げ、台形の口をへの字にする。

「でも、弟子入りはあっさりと断られよった。えらいこっちゃな落胆ぶり、見てるこっちが切なくなるくらい」


「その辺りは、呪術師殿の言う通りじゃと思うよ。まずは妖古殿から教わるべきことを、全部教わってからじゃろね。呪術師殿から色々と教えて貰うのは、それからでも遅うはない」

橋姫は諭すように言い、ふと自分の腕に目を落とした。


「橋姫様は、術師と呼ばれる人らのことは、全員嫌っておられるわけやないんですよね。改めて考えてみると、意外というか、なんというか……」

方輪車が微笑みながら問いかけると、橋姫は苦笑いを浮かべた。


「そりゃあ、我の腕を斬り落としよった渡辺綱わたなべのつなとか、その腕を封印しようとしよった安倍晴明あべのせいめい相手には、千年程経過した今でも、まだ苦手意識はあるがね。腕は意地で取り返してやったがな」


そう言って、彼女は巫女装束から覗く白皙の腕を、ひらひらと軽く振って見せた。

伝説に謳われる凄惨な過去を、冗談めかして語るその姿には、悠久の時を越えた者だけが持つ余裕が漂っている。


「確かに我は、武士や陰陽師に苦杯を喫しはしたが、だからと言って、術使い全てを憎んでいるわけではないのじゃよ。特に、あの呪術師殿や、あの御住職は、我も尊敬しておるくらいじゃ。彼らのような在り方は、なかなか真似できるものではない」


橋姫の口から出た「尊敬」という言葉に、方輪車は驚きと共に納得の表情を浮かべた。


「ふふ、橋姫様ほどの伝説に尊敬されるんやから、才狐さんが心酔するのも頷けますね」


「呪術師あんちゃんも、住職ねえちゃんも、えらいこっちゃな実力者!二人とも、えらいこっちゃなオーラが出とる!」

えらいこっちゃ嬢が再び両腕をぶんぶんと振り、二人の強さを熱烈に肯定した。


「ふふ、本当に……。あの二人を見ていると、時折恐ろしくなるほどじゃ。彼らの本当の実力は、もはや人間かどうかを疑いたくなるくらいじゃからな」

橋姫はそう言うと、上品でありながら、どこか古の鬼としての豪快さを感じさせる笑い声を、貴船の深い森へと響かせた。

その笑い声は、清流の音と共に木々に吸い込まれ、奇妙な朝の宴を彩っていた。


---


## 黄金の福包みと、天狐が微笑む古社


三人は名残惜しそうに最後の一口を飲み込み、出町柳の名物である豆餅を心ゆくまで堪能し終えると、ふわりと立ち上がった。

清冽な貴船の空気が、餅の甘さと塩味で満たされた口内を心地よく引き締めていく。


「橋姫様は、これからまた、神社の巫女のお仕事に戻らはるんですか?」


運転席から身を乗り出した方輪車が、にこやかに問いかけた。

対する橋姫は、巫女装束の白と緋色のコントラストを整えながら、悠然と頷く。


「そうじゃな、今日は少なくとも午前中は、神社の巫女として紛れ込むとする予定じゃよ。ふふ、つい最近までは日本人の観光客が多かったがね、近頃はインバウンドがどうのこうので、諸外国からも沢山人が来て、よく写真をせがまれるんじゃ。人の世はいつの時代も、飽きることなく観察し甲斐があるからのう」

橋姫はそう言って、悪戯っぽく、しかし上品に笑う。

かつての鬼女としての凄絶な伝説を微塵も感じさせない、その穏やかな横顔には、時代を謳歌する強かさが宿っていた。


「そうでしか。巫女仕事しながらの人間観察、存分に楽しんで下さいなー。ほな、またお会いしましょ。次は宇治の方へも寄せてもらいますわ」

方輪車はそう言って手を振り、軽やかな動作で運転席へと乗り込んだ。


「橋姫ねえちゃん、巫女さん仕事、えらいこっちゃな御疲れちゃん!今日もえらいこっちゃな美人巫女として、人間たちをえらいこっちゃに驚かせたってや!」

えらいこっちゃ嬢も、負けじと声を張り上げ、牛車の扉へと吸い込まれるように乗り込む。


「では、えらいこっちゃん、方輪車さん。有難う御座いました。またの再会を楽しみにしておるよ」

橋姫は嫋やかな動作で深くお辞儀をし、山を吹き抜ける風のように静かに見送った。


「ほな、えらいこっちゃん。次はどこに向かいましょ?まだ燃料の炎は、えらいこっちゃな勢いで燃えとりますえ」

方輪車がバックミラー越しに微笑むと、えらいこっちゃ嬢は即座に指を立てた。

「さっき橋姫ねえちゃんから妖古さんの話が出たから、えらいこっちゃな油揚げを御土産にして、妖古さんの御狐神社へレッツゴー!えらいこっちゃな御土産コンボ!」


「はいよー。ほな、出発しまっせー♪」


方輪車の合図と共に、牛車は再び激しい火焔を噴き上げた。

現世の境界を軽やかに飛び越え、人には見えない「道」へと乗り、疾風のごとき速度で京都の北へと突き進む。


その道中、えらいこっちゃ嬢のたっての希望で、牛車は老舗の暖簾を掲げる豆腐屋の前で一時停車した。

店先には大豆の豊かな香りが漂い、今まさに揚げ上がったばかりの黄金色の油揚げと、分厚くどっしりとした厚揚げが並んでいる。


「これや、これがえらいこっちゃな御馳走!」


えらいこっちゃ嬢はそれらを買い込み、大事に抱えて再び牛車を走らせる。

目的地は西――古の天狐が拠点とし、その弟子が守る御狐神社である。


牛車が現世の理法を突き抜けて神社の境内にダイレクトに到着すると、重厚な扉が開くと同時にえらいこっちゃ嬢がぴょんっと勢いよく飛び降りた。

シュタッ、と着地した彼女の視線の先、本殿の階段には、すでに一人の影が座って手を振っていた。


端正な顔立ちに、迷いのない所作。

神職の服装に身を包んだ才狐が、掃除の手を止めて竹箒を脇に置き、丁寧にお辞儀をして二人を迎える。


「妖古さん、才狐さん、お早うさんですー。今朝も精が出ますなあ」

運転席から方輪車が手を振り、柔らかな声を投げかける。


「妖古ねえちゃん、才狐あんちゃん!お早うさんの、朝からえらいこっちゃな御疲れちゃん!これ、えらいこっちゃな御土産コンボ!」

えらいこっちゃ嬢は、油揚げと厚揚げの詰まった袋を、誇らしげに掲げて手渡した。


「お早う御座います。御土産までわざわざ届けてくださるとは、有難う御座います。」

才狐は静かにお辞儀をして受け取った。


弟子入りして呪術師となる契約の際、妖古に心を差し出した彼は、本来ならば感情を失っているはずである。

しかし、その無機質な無表情の奥底には、春の陽だまりのような、どこか微かな暖かさを感じさせる不思議な雰囲気が漂っていた。

才狐がその袋を階段に座る師匠へと捧げると、妖古の頭上に生えた三角形の狐耳が、ピコピコと愛らしく、かつ敏感に動いた。


「お早うさん、方輪車ちゃん、えらいこっちゃん。おっ、これは良い香りがする逸品じゃな。御土産、有難うのう」


狐色の長く美しい髪を揺らし、絶世の長身美女である妖古が、コロコロと鈴を転がすような声で笑った。

目の覚めるような深い朱色の着物を見事に着こなし、その美しく鋭い釣り目には千年の叡智と茶目っ気が同居している。


「ふふ、これじゃ、これじゃ。我はまだ朝飯を食うとらんかったから、まさに最高の朝飯じゃて」


妖古は手際よく割り箸をパチンと割り、中から現れた黄金色の油揚げを、優雅かつ上品な動作で口へと運んだ。

サクッ、ジュワッ、という芳醇な音が、静かな境内に響き渡る。

朝の光を浴びて、伝説の天狐は至福の表情を浮かべながら、美食を楽しみ始めた。


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## 天狐の教えと、新たなる御裾分けの路


絶世の美女、妖古は、黄金色に輝く油揚げと厚揚げを実に見事な手際で平らげてしまった。

最後に、袋に添えられていた烏龍茶を手に取ると、その琥珀色の液体を喉へと流し込み、ふーっと満足げな溜息を吐き出す。

その口元には微かな笑みが浮かび、千年の時を生きた天狐としての余裕と、食後の安らぎが同居していた。


「さて、稲荷祭も一段落したからのう。祭りの喧騒が去った後は、どうにも気が抜けるものじゃ。暫くは我も予定なし、といったところやね」


妖古はコロコロと鈴を転がすような声で笑い、朱色の袖を軽く整えた。

その傍らで、箒を手に直立不動で控えていた才狐が、無表情のまま淡々と言葉を紡ぐ。


「京都の各狐関連の神社仏閣の管理があります。祭りの後始末だけでなく、霊場の均衡を保つための巡回も怠るわけにはいきません」

その声には抑揚こそないが、師匠である妖古を支えようとする、揺るぎない実直さが宿っていた。


「そやから、何でもかんでもいちいち我が出向かわんでもええよう、各霊場には担当がそれぞれおろうに。何もかも背負い込むのは、古臭い狐のやり方じゃ。ほんで、ここには才狐がおるやろ。ここに来てからというもの、ぬしはようやってくれとるでな。我も鼻が高いわ」

妖古は愉快そうに笑い、弟子の献身を労うように目を細めた。


そのやり取りを微笑ましく見守っていた方輪車が、ふと思い出したように語りかける。

「そういえば才狐さんは、神奈川の高校には戻らはらへんかったんですね。あちらでも色々とあったと伺ってましたけど」


「あれは、あくまでこやつの復讐を兼ねて、高校とはどんなもんか体験させるためじゃったからのう。目的を果たした今、未練を残すこともあるまい。今は京都の高校に通うておるよ。今日は土曜日で学校は休みやがね。修行も大事じゃが、羽を伸ばすことも必要じゃ」


妖古がひらひらと手を振って答えると、才狐はわずかに視線を落とした。


「高校に行かなくても、妖古さんのところで学べばよいかと考えてたんですが。人の世の学問より、術の深淵に触れる方が有意義かと」


「そりゃあの、その方が効率はええじゃろが、人並みの経験はあった方がよかようて。術を極めるにも、人の心を知らねば深みが出ぬ……と言っても、今の主は心はぽっかり失うてはおるがな。今の時期は、とにかく色々経験しときや。酸いも甘いも、全部自分の糧になるんじゃからな」

妖古は慈しむような眼差しを弟子に向け、優しく微笑んだ。


その師弟の絆を目の当たりにしたえらいこっちゃ嬢は、感動したようにまん丸の目を輝かせた。

「妖古さんは、えらいこっちゃなええ師匠!厳しさの中に愛がある、えらいこっちゃな善い教育方針!」

小さな両腕をぶんぶんと振り回し、全身で称賛の意を表す。


「カカカ、おおきにのう。まあ、いかんせん、才狐は我にとって初弟子やから、必然的に我は初師匠。こやつが我の師匠デビューのきっかけじゃ。最初から善き師匠でいられとんのやったら、そりゃ何よりじゃて。我もこやつと共に成長しとる最中よ」


妖古は豪快に笑い飛ばすと、名残惜しそうに立ち上がった。


「ほな我は、観光客を装うて、橋姫殿のとこにでも顔出してみるかのう。あの御仁も、一人で巫女をやっておるなら退屈しておるじゃろ……いや、最近のインバウンドの影響で、外国人から色々な言語で話しかけられて面白がってそうやから、それはそれで退屈はしておられんかもな。ほんじゃ、折角じゃから才狐も連れて行くとするかのう。よし才狐、準備しよし」


「はい。承知いたしました」

才狐が深くお辞儀をするのを見届け、妖古は軽やかな足取りで境内を歩き出した。


「ほな、私らも行きましょか。まだ太陽は高いですし、次へ向かうには絶好のタイミングやわ」


方輪車がにこやかに促し、運転席へと乗り込む。

えらいこっちゃ嬢も、次なる出会いに胸を躍らせながら、牛車へとぴょんっと飛び乗った。


「えらいこっちゃな御土産行脚、再出発!次はどんなえらいこっちゃな御縁が待っとるか、お楽しみ!」


勢いよく閉まった扉の向こうで、牛車は再び紅蓮の炎を吹き上げる。

現世の境界を滑り出した魔改造牛車は、京都の町を背に、次なる目的地を目指して颯爽と走り去っていった。


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## 錦の彩りと、小豆研ぎの審美眼


御狐神社の静謐な空気を後にした牛車は、再び現世の境界へと差し掛かった。

そこで方輪車は、慣れた手つきで運転席のレバーを操作し、人知を超えた術を発動させる。

すると、燃え盛っていた牛車の車体が不思議な光に包まれ、瞬く間に形を変えていく。

炎は消え、無骨な車輪はゴム製のタイヤへと姿を変え、最終的には京都の街中に溶け込む、ごくありふれたタクシーのような車両へと擬態を完了させた。


「方輪車ねえちゃん、えらいこっちゃな魔改造!見た目は普通のタクシーやのに、中身はえらいこっちゃな化け物マシン!」

えらいこっちゃ嬢が、変形の一部始終をまん丸の目で見つめながら、両手をぶんぶん振って歓喜の声を上げた。


「ふふ、娑婆の道路を走るなら、牛車のままやと、みんな驚かはりますからねー。信号待ちで炎を吹いてたら、お巡りさんに怒られてしまいますわ。妖怪タクシーも、なかなか乙なもんでっしゃろ♪」

方輪車はそう言って、悪戯っぽく微笑みながらアクセルを踏み込んだ。


擬態した車両は滑らかに大通りを南へと進み、やがて京都の動脈である四条通へと差し掛かる。

人混みの多いこの界隈では、一度幽世との狭間に入り込んで車を停泊させ、そこから二人は再び徒歩で現世の四条通りへと戻ってきた。


活気溢れる四条通から一本入り、「京の台所」として名高い錦通りへと足を踏み入れる。

両脇に並ぶ店々からは、漬物の酸い香りや、焼き魚の香ばしい匂い、そして威勢の良い客引きの声が絶え間なく響いていた。


そんな喧騒の中、えらいこっちゃ嬢は、見知った怪異が人間の装いに化けて、熱心に店先を覗き込んでいるのを目撃した。

何やら豆製品を専門に扱う老舗の店で、一人の小柄な老人が商品をまじまじと眺めている。


「小豆洗いじいちゃん、こんにちは!こんなところで、えらいこっちゃな逸品でも見つかったん?」

えらいこっちゃ嬢が元気に挨拶すると、老人は驚いたように顔を上げた。


「あらー、小豆洗いさん、こんにちはー。そろそろお昼時やけど、今日は錦通りで仕入れか何かしてはったんですねー」

方輪車も隣で上品に笑顔を浮かべ、挨拶を交わした。


「おお、方輪車ちゃんに、えらいこっちゃんやないの。こんにちは。奇遇やねえ、こんなところで会うなんて」


小豆洗いは、にこやかに二人へ挨拶を返した。

その手には、厳選された豆が詰められた袋がいくつか握られている。


「新茶の季節やさかい、うちの鯛焼き屋で出しとる御茶用の茶葉と、ついでに娑婆の小豆とか黒豆は、今どんな感じに仕上がっとるのか見学に来たんやけど。どの店もええもん揃えてるでな。特に今年の小豆は艶が違う。こりゃ、ええ鯛焼きが出来そうやでな」


小豆洗いはニコニコと御機嫌な笑顔を浮かべ、店頭の豆を愛おしそうに見つめた。

彼は新しく作る鯛焼きの餡のためにと、幾つかの最高級の小豆をまとめ買いし、実になんとも御満悦の様子である。


「ええ買い物が出来たでな。ほな、儂は自分の店に戻って、早速この小豆を研ぐことにするわ。御二人さんも、ええ一日を過ごして、気いつけてなー」

小豆洗いは満足げに袋を抱え、手を振って去っていこうとする。


「ほな、私が送って行きましょか。車はすぐそこやし、小豆洗いさんの店まで一飛びですよ。えらいこっちゃんも、一緒に乗って小豆洗いさんの店に行く?」


方輪車が提案したが、えらいこっちゃ嬢は錦通りの活気ある風景に興味を惹かれているようだった。


「ありがとちゃん!でも、ウチはこっからは暫く一人で京都紀行を楽しむわ。せっかくここまで来たんやから、えらいこっちゃな京都見物をしてから帰ることにする!」


「左様ですか。ほな、また呼んでくれたら迎えに行くさかい、用事が済んだらいつでも呼んでなー」


方輪車は優しく頷くと、小豆洗いと一緒に牛車を停車させている場所へと向かって、人混みの中に消えていった。

一人残されたえらいこっちゃ嬢は、黒いベレー帽を少し整え、再び歩き出した。


「よっしゃ、えらいこっちゃな散策の始まりや!」


彼女は独り言を呟きながら、色とりどりの食材が並ぶ錦通りを、好奇心旺盛な眼差しで左右に見遣り、時折立ち止まっては珍しい店を覗き込んで、気ままな散歩を満喫し始めた。

市場特有の活気と、人々の熱気が、彼女の小さな胸をえらいこっちゃな期待で満たしていくのであった。


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## 錦の活気と、揺れる境界の正義


錦通りの色鮮やかな活気を抜け、えらいこっちゃ嬢の足は蛸薬師通へと向かっていた。

丁度お昼時、太陽が真上から古都の屋根を照らす頃、彼女が暖簾をくぐったのは、どこか懐かしい香りが漂う一軒の喫茶店であった。

使い込まれた革張りの椅子と、芳醇な珈琲豆の香りが、歩き疲れた体を優しく迎え入れてくれる。

席に腰を下ろした彼女は、迷うことなくこの店の名物であるナポリタン、そしてサラダと珈琲がセットになった「ほっこりセット」を注文した。


しばらくすると、銀色のトレイに乗せられて、湯気を立てる極上のひと皿が運ばれてきた。

ケチャップの焼ける香ばしい匂いが鼻孔をくすぐり、えらいこっちゃ嬢の食欲をえらいこっちゃな勢いで刺激する。


「ありがとちゃん!これまた、えらいこっちゃな美味ナポリタン!」

運んできてくれた店員に元気よくお礼を言うと、彼女は居住まいを正し、スッと丁寧に両掌を合わせた。

「えらいこっちゃな数多の御縁に感謝して、頂きます」


深くお辞儀をしてから、彼女はフォークを手に取り、真っ赤なケチャップを纏った麺を丁寧にかき混ぜた。

一口運べば、ケチャップの甘みと程よい酸味が口いっぱいに広がり、口内を至福で満たしていく。

ジュワッというソースの音、そして添えられたサラダのシャキシャキとした瑞々しい歯ごたえ。

その完璧な調和に、えらいこっちゃ嬢のまん丸な目はさらに輝き、台形の口は満足げな笑みを刻んでいた。


食後の締めくくりは、琥珀色に輝くアイス珈琲だ。

カラン、と氷が触れ合う涼やかな音を楽しみながら、ストローで一口啜る。


「ふぅ……。心もお腹も、えらいこっちゃな充実感」

すっかり「ほっこり」とした雰囲気を醸し出し、彼女はしばし、静かな喫茶店の時間を堪能した。


皿を空にし、最後の一滴まで珈琲を味わい尽くすと、彼女は再び静かに合掌した。

「えらいこっちゃな数多の御縁の御蔭さんに、御馳走様でした。活力が、えらいこっちゃな満タン具合」


そうして完食したえらいこっちゃ嬢は席を立ち、レジへと向かった彼女は、使い慣れたスマートフォンを取り出した。

お財布携帯の機能を起動し、レジ横のプレートにかざせば、ピッという軽快な音が響いて会計が完了する。


「御馳走様のありがとちゃん!えらいこっちゃなほっこり喫茶、また寄らせてもらうで!」


腕をぶんぶんと大きく振ってお礼を言い、彼女は店を後にした。

背中に「有難う御座いましたー」という店主の温かな声を受けながら、彼女の足は寺町通の方へと向けられた。


賑わう通りを散策していると、ふと、イベントホールに隣接する公園の一角から、静寂を切り裂くような不快な音が聞こえてきた。

それは、何かに怯える生き物の悲鳴と、それを見て愉悦に浸るような、下品な笑い声であった。

休日の公園は多くの人々で溢れていたが、その場所だけは、まるで影が落ちたかのように周囲から孤立している。

気になったえらいこっちゃ嬢が歩み寄ってみると、そこには目を覆いたくなるような光景が広がっていた。


「ひゃはは!ほら、もっと上に行けよ!」「石、当たったぜ!こいつ、情けない声出しやがって!」


奥まった場所にある高い木の上で、一匹の猫が降りられなくなり、必死に枝にしがみついている。

その足元では、派手な服を着崩し、髪を派手な金髪と茶髪に染めた悪ガキ中学生男子が3人、長い棒で猫を突き落とそうとしたり、地面から拾った石を投げつけたりして、ゲラゲラと笑い転げていた。

周囲の大人たちは、関わり合いになるのを恐れてか、あるいは面倒事に巻き込まれたくないのか、見て見ぬふりをして足早に通り過ぎていく。


「――えらいこっちゃ!こんな非道なこと、お天道様もウチも許さへん!」


えらいこっちゃ嬢は、怒りにまん丸の目を見開き、小柄な体からは想像もつかないような凛とした足取りで、その輪の中へと果敢に飛び込んでいった。

弱き者を挫き、境界の平穏を乱す悪意に対し、彼女の正義感がえらいこっちゃな勢いで燃え上がっていた。


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## 罪深き悪童と、紅き主人の静かなる怒り


カランッ、コツンッ。

非情な放物線を描いて飛んだ石が、逃げ場を失い震えていた猫の額に、乾いた音を立てて激突した。

「ギニャッ!」という悲痛な叫びが、静まり返った公園の片隅に空虚に響き渡る。

小さな命が味わった激痛と恐怖を嘲笑うかのように、金髪の中学生はさらに石を拾い上げ、下卑た笑みを浮かべていた。


「やってしまいよった、えらいこっちゃ!言葉も通じん猫相手に、えげつない真似をさらしてしまいよってからに、えらいこっちゃ!」


突如として響いた凛烈な声に、悪ガキ3人組は弾かれたように振り返った。

そこには、銀髪を揺らし、黒いベレー帽を被った小柄な少女――えらいこっちゃ嬢が、燃えるような怒りを宿したまん丸の目で、彼らをびしっと指差して立っていた。


「あぁ?なんやこのチビ?なんじゃてめえ、何か文句あんのけ?ガキは家でママのミルクでも飲んでろや」

金髪の悪ガキが、苛立たしげに眉を吊り上げ、威圧するように肩を揺らして詰め寄ってくる。


茶髪の仲間たちも、獲物を見つけたハイエナのような歪んだ笑みを浮かべ、左右から包囲するように距離を詰めた。

「なんやねんお前?やんのか?怪我したくなかったら、さっさと消えろやボケ!」

「しばき倒されたいんか?ああん?目障りなんじゃ、このチビが!」


三方から浴びせられる罵詈雑言を、えらいこっちゃ嬢は微動だにせず、冷ややかな視線で受け流した。

「……救いようの無い悪ガキ共、えらいこっちゃ!お天道様が見てへんと思ったら、えらいこっちゃな大間違い!」


その淡々とした、しかし確信に満ちた言葉が、彼らの浅はかな自尊心を逆撫でした。

「何やとコラ!?」「なめてんちゃうぞオラ!」


逆上した3人が一斉に殴りかかろうと腕を振り上げた、その刹那である。


ぴょんっ、という軽やかな音と共に、えらいこっちゃ嬢の体が宙を舞った。

彼女は金髪の頭の上を力強く踏み台にすると、そのまま信じられない跳躍力で、猫がしがみついている高い木の枝へと飛び移った。


「あ、痛っ!?なんじゃてめえ!」

頭を踏み抜かれた衝撃に金髪がたじろぐ間に、えらいこっちゃ嬢は枝の上で、震える猫を優しく、しかし迅速に抱きかかえていた。

そのまま流れるような動作で、隣の枝、さらに下の枝へとぴょんぴょんと飛び移り、重力を感じさせない軽やかさで地面へと着地した。


「えらいこっちゃな事を、やってしまいよった悪ガキ共!ウチがしっかりお偉いさんにチクったる!覚悟しとき、えらいこっちゃな雷確定!」


腕の中の猫を気遣いながら、えらいこっちゃ嬢は挑発するように舌を出し、そのまま一目散に走り出した。


「このクソガキ……!よくも俺様の頭踏んでくれよったな!」「逃がすかボケ!しばき倒したる!」

完全に理性を失い、顔を真っ赤にした悪ガキたちは、怒号を上げながら彼女の後を追いかけ始めた。

えらいこっちゃ嬢は、彼らの息遣いが聞こえるか聞こえないかという絶妙な距離を保ち、寺町通の喧騒から外れた、古びた小さな神社の境内へと逃げ込んだ。


朱色の鳥居をくぐり、砂利を蹴散らして本殿の前まで辿り着くと、全く呼吸も乱れていない余裕な姿の彼女は、くるりと振り返った。

ようやく彼女を追い詰めたと確信した3人は、ゼーゼーと肩で息をしながら、逃げ場のない神社の奥で下品な笑みを浮かべた。


「へっ……ようやく止まりよったか。散々走り回りやがって……!」

金髪の少年が、血管を浮き上がらせた拳をぶんぶんと振り回し、一歩、また一歩と詰め寄る。

「よくもまあ、俺様の頭を……っ。ただで済むと思うなや!」


彼らがえらいこっちゃ嬢に手をかけようとした、まさにその時。

静まり返った境内の空気が、一瞬にして凍りつくような緊張感に支配された。


「――よくもまあ、うちのとこの猫を突っついたり、石ぶつけてくれよったなあ」


逃げ道を塞ぐように背後から響いたのは、どすの効いた、低く、そして背筋を凍らせるような女性の声だった。


ハッと息を呑み、少年たちが恐る恐る振り返る。

そこには、いつの間にか鳥居の傍らに、燃えるような赤い着物を纏った絶世の美女が立っていた。

ボブカットに切り揃えられた漆黒の髪。冷徹な光を湛えた鋭い釣り目。

その美貌は、直視することすら憚られるほどの威圧感を放っている。


「……ひ、ひっ……」

少年たちの喉から、情けない悲鳴が漏れた。

赤い着物の美女は、音もなく、一歩ずつ、逃げ場を失った少年たちの方へとゆっくりと歩みを進めてくる。

その一歩ごとに、境内の温度が確実に下がっていくのを、彼らは本能的な恐怖と共に感じ取っていた。


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## 二尾の咆哮と、路地裏の弱き捕食者


赤い着物を纏った絶世の美女は、逃げ場を失い震え上がる3人の中学生の目の前まで、音もなく歩み寄った。

その一歩ごとに、境内の空気が重く、鋭く研ぎ澄まされていく。


えらいこっちゃ嬢は、腕の中で怯えていた猫をそっと地面に放した。

すると猫は、待っていましたと言わんばかりに、矢のような速さで着物美人の足元へとすっ飛んでいき、その肩口まで一気に駆け上がって飛び乗る。

着物美人は、自分に甘える猫を慈しむように優しく抱きかかえると、耳元で何やら、人間には聞き取れない低く微かな声で言葉を交わし始めた。


「猫又ねえちゃん!このワルガキ共、高い木の上で降りられんようになっとったその子を、棒で突っついたり石を投げたりして、えらいこっちゃな非道を働いとった!ウチが見つけんかったら、もっとえらいこっちゃな事になっとったで!」


えらいこっちゃ嬢が、燃えるような怒りを込めて両腕をぶんぶんと大きく振り回した。


「――そのようやなあ、有難うなあ、えらいこっちゃん。たった今、この子からも聞いたで。怖い思いをさせて、痛い思いをさせて、随分と楽しそうに笑うてたらしいやんか、そこのクソガキ共は。ほんで、きさんら3人、うちの大事な家族に何してくれとんねん、ああ?」


着物美人の額に、ピキリと青筋が浮かび上がった。

その直後、信じられない光景が少年のたちの目の前で繰り広げられた。

美しく切り揃えられた黒髪のボブカットの間から、ぴょこん、と三角形の獣の耳が突き出し、着物の裾からは、二股に分かれた長く不気味な猫の尻尾がゆらりと姿を現した。


「え!?なにこれ、コスプレ!?マジか、変質者か……!」

あまりの異常事態に、金髪の少年が恐怖を誤魔化すように、震える声で叫ぶ。


「コスプレやと?笑わせんな。それに誰が変質者じゃコラ、これは本物や。おどれら、猫又を知らんのけ?最近のガキは、妖怪図鑑の一冊も読まへんのか。まあ、妖怪図鑑よりスマホゲームしてそうなつらしとるからなあ、こいつらは。ほんま、時代やなあ」


猫又と呼ばれた美人が冷たく言い放つと、その切れ長の瞳が爛々と金色に輝く猫の眼へと変貌した。

縦に裂けた鋭い猫の瞳孔が、射抜くような鋭利な視線で3人を捉える。


「ひえ!?」「うわあああ!」

その眼光に真っ向から射すくめられた3人は、心臓を直接握られたような衝撃に襲われ、ビクッ、と全身を硬直させた。


「ほら、見ての通りウチは猫やぞ?耳もあれば、二股の尻尾もある。どこからどう見ても、見まごうこと無き猫やろ?この子にやったみたいに、棒で突っついて来いや。石でも何でも投げてみいや。その瞬間、カウンターの一撃で跡形もなく八つ裂きにしたるわ」


猫又はそう告げると、ゆっくりと右手を持ち上げた。

その指先から、スッ、と鋼のような鋭い爪が音もなく伸び、夕刻の光を反射してギラリと凶悪に輝く。


「あ、いや、その……俺ら、まさかあなた様の猫とは知らなくて……。ただの野良だと思って……」

あまりの恐怖に、金髪の少年がしどろもどろに、しかし最悪の言い訳を口にしてしまった。


「どの猫でもやったらあかんやろがこのクソガキ共がー!猫をなめんなボケェー!!」


境内の建物がびりびりと震えるほどの、凄まじい咆哮が轟いた。

それは女の声ではなく、古の獣が放つ、魂を震わせる怒りの一喝であった。

ドォォォォォン!という衝撃波に近い声に気圧され、悪ガキ3人は同時に腰を抜かした。


「ご、ごめんなさいー!!」「もう二度としません!許してくださいー!!」


彼らは競い合うようにして石畳に額を擦り付け、必死の勢いで土下座を繰り返した。

さっきまでの威勢はどこへやら、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、ただひたすらに命乞いをする無様な姿。


「……典型的な、いきり雑魚共、えらいこっちゃ……」

その光景を横目で見ていたえらいこっちゃ嬢は、台形の口をへの字に曲げ、救いようのない愚か者たちに、完全に呆れ果てた深い溜息を吐くのであった。


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## 慈悲の光と、黒衣の参拝者


猫又は、震え上がる悪ガキ3人に対し、動物虐待という行為がいかに卑劣で、どれほど重い罪であるかを、腹の底から響くような声で切々と説き聞かせた。

「命に上も下もあらへん。この子が流した血も、きさんらが流す血も、同じ赤色や。痛みに震える心も、同じ重さなんやぞ」


その峻烈な説教は、少年のたちの浅はかな自尊心を粉々に打ち砕き、傲慢だった心に後悔の楔を深く打ち込んだ。

完全に心をへし折られた悪ガキたちは、涙を流しながら、石をぶつけてしまった猫と、毅然と立ち向かったえらいこっちゃ嬢に対し、地べたに頭を擦り付けて誠心誠意の謝罪を繰り返した。


「……よっしゃ、真剣に反省しよったな。ほんなら、こんくらいでもうええ、行き。二度とお天道様に恥じるような真似はさらすなよ」


猫又が静かに告げると、彼らは力なく立ち上がり、魂が抜けたような足取りで、とぼとぼと神社を去っていった。


「有難うなあ、えらいこっちゃん。あんたが居てくれたお陰で、この子の命が繋がったわ。後の事はこっちでやっとくさかい、心配せんでええ。この子の傷の手当ては、ウチが責任を持ってやっとくさかいに」

猫又は優しく微笑むと、肩の上で小さく鳴く猫を愛おしそうに撫でた。


「えらいこっちゃな悪ガキ共、猫又ねえちゃんの迫力にビビり散らかしよってからに、ようやく自分らが何をしたか分かったみたい。これにて、えらいこっちゃな一件落着!」

えらいこっちゃ嬢は、満足げに両腕をぶんぶんと振り回すと、再会を約束して神社を後にした。


こうして路地裏の事件を無事に解決したえらいこっちゃ嬢は、京都の風情を楽しみながら、再び南へと向かって歩き出した。

賑やかな通りを抜け、京都駅方面へと暫く進んでいくと、喧騒が嘘のように遠のき、静かな街並みの中にひっそりと佇む一軒の浄土宗寺院が視界に入って来る。

清廉な空気が漂うその場所で、彼女は山門の前で立ち止まり、丁寧にお辞儀をしてから境内へと足を踏み入れた。


えらいこっちゃ嬢が石畳を進むと、その気配をあらかじめ察していたかのように、玄関の引き戸が静かに開いた。


「えらいこっちゃん、ようこそお参り下さいました」


そこに立っていたのは、この寺院の住職を務める若き女性僧侶であった。

綺麗に切り揃えられた短い黒髪、そして浄土宗の僧侶が纏う格調高い法衣と袈裟に身を包んだその姿は、見る者の魂を吸い寄せ、一瞬で浄化してしまうのではないかと思わせるほどに、神々しく、そして超絶美少女と見紛うばかりの美貌を湛えている。

彼女は、まるで一切の苦しみを知らぬ菩薩のような微笑みを浮かべ、静かに合掌してお辞儀をした。


「御住職ちゃん、こんにちはのありがとちゃん!今日もえらいこっちゃな清々しいお参り!」

えらいこっちゃ嬢も、まん丸の目を輝かせながら、元気よく合掌してお辞儀を返した。


二人は本堂へと向かい、静寂の中で阿弥陀如来に手を合わせ、心静かにお参りを済ませた。

その後、語らいのために客間へと移動しようと、開放感のある渡り廊下を歩いていた時のことである。


コツ、コツ、と山門の砂利を踏む、静かだが力強い足音が響いてくる。

ふとそちらを振り向くと、山門をくぐり、一人の男性が境内に入ってくるのが見えた。


黒い薄手のコートに黒いシャツ、黒のカーゴパンツ。

靴に至るまで徹底して黒一色で統一されたその姿は、40代半ばから後半、無駄のない引き締まった体躯から放たれる独特の緊張感を纏っている。

無表情ではあるが、その奥底には慈悲と決意が同居したような、不思議な重みを感じさせる男性――呪術師であった。


「呪術師さん、ようこそお参り下さいました。本日も一段と、御心が研ぎ澄まされておられるようですね」

女性住職は、再び菩薩のような笑顔を浮かべ、合掌してお辞儀をする。


「呪術師あんちゃん、こんにちは!えらいこっちゃなグッドタイミング!ウチもちょうど今、お参りを終えたところなんよ!」


えらいこっちゃ嬢が腕をぶんぶんと振って挨拶すると、呪術師は立ち止まり、静かに二人へと向き直った。


「こんにちは。二人して賑やかで宜しゅうおす。今日はちょいとばかり、珍しいもんが入ったさかい、御裾分けを持って来ましてなあ」

呪術師はその手に持った、何かがずっしりと入っているであろう風呂敷包みを軽く掲げて見せた。


「ほな、僕はまず本堂でお参りさせてもろて、御仏にご挨拶してから客間に行きますえ。先に行って、お茶飲んで待っといておくれやす」


呪術師は淡々とした口調で、しかし丁寧な所作で合掌し、一礼する。

その背中からは、彼が背負ってきた数多の境界の記憶と、揺るぎない信仰の重みが静かに立ち上っていた。


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## 黄金色の休息と、黒衣の語り部


「今日は朝から『こっち』方面の仕事を、二つほど片付けてきましたんよ。ほんで、二つ目の依頼主から、銘菓の羊羹とバウムクーヘンをたんまり貰いましてな。おやつの時間を少し過ぎた頃合いですさかい、丁度宜しいでっしゃろ」

呪術師は無表情ながらも、どこか労いの色を滲ませた声で言い、手にしていた重みのある風呂敷包みを女性住職へと差し出した。


「それはそれは、有難う御座います。お仕事、本当にお疲れ様で御座いました。それでは、呪術師さんがお参りして下さっている間に、早速羊羹を切って準備しておきますね」

女性住職は、見る者の心を洗うような菩薩の微笑みを浮かべて包みを受け取ると、隣で興味津々に袋を覗き込んでいるえらいこっちゃ嬢に視線を送った。

「えらいこっちゃん、一緒にお手伝いして下さいますか?」


「もちろん!えらいこっちゃな銘菓の羊羹、ウチがえらいこっちゃな速さで準備したる!」

そういうと、二人は連れ立って台所へと向かい、呪術師はその背中を見送ってから、再び静謐な空気が満ちる本堂へと足を運んだ。


しばらくして、丁寧に淹れられた緑茶の香りが客間に漂い始めた頃、お参りを終えた呪術師が静かに姿を現した。

磨き抜かれた畳の上に三人が座すと、場は一瞬にして清らかな静寂に包まれる。

三人は自然と居住まいを正し、胸の前で深く合掌した。


「われここに食をうく、つつしみて天地の恵みと人々の労を謝し奉る」


浄土宗の食前の言葉が、三人の声を合わせて唱えられる。

その響きは客間の壁に優しく反響し、供された茶菓子への感謝を空間に刻んでいく。

最後に、十回の念仏を「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」と丁寧なリズムで唱え終えると、三人は深くお辞儀をして顔を上げた。


「――ふぅ。えらいこっちゃな美味羊羹と緑茶!この組み合わせは、えらいこっちゃな最強コンビ!」

えらいこっちゃ嬢が、小気味よい音を立てて羊羹を一口頬張り、ご機嫌な様子で声を弾ませた。

きめ細やかで濃厚な羊羹の甘みが、熱い緑茶の程よい苦味によって引き立てられ、歩き疲れた体に染み渡っていく。


「本当に、美味しい羊羹ですね。小豆の風味がしっかりとしていて、心が洗われるようです。緑茶にも実によく合います」

女性住職も、茶碗を両手で包み込みながら、穏やかな表情で微笑んだ。


「依頼主は、金銭も仰山振り込んで下さって、その上茶菓子もたんまり下さいましてな。実にお人柄の良い、有難い御仁でしたわ」

呪術師は湯呑みを口に運び、熱い茶を一口啜ってから、ふーっと一息ついた。


「流石は呪術師さん。相変わらず、各方面から頼りにされていますね。そのお力が、多くの人の救いになっている証拠です」


「いやはや、1件目は正式な依頼やったさかい気合も入ってましたが、2件目はもう、災難と言いますか……通りすがったところに、流れ弾が飛んで来ましてな。そんで、急遽依頼主とならはった御仁が、あろうことか僕の方に逃げて来はったんですわ。そのせいで、ドンパチやってた怪異が僕を完全にターゲッティングしてしもて、仕方なく……という話です」

呪術師は無表情を崩さなかったが、その語り口には隠しきれない呆れの感情が混じり、思わずといった風に溜息をついた。


「――えらいこっちゃ!歩いとるだけで怪異に狙われるなんて、呪術師あんちゃん、えらいこっちゃな磁石体質!」

えらいこっちゃ嬢が、羊羹を刺した菓子楊枝を止めて驚きの声を上げた。


「ほんまに、えらいこっちゃでした。まあ、御蔭さんで先方が命の恩人やと言わはって、豪華な昼食を馳走してくれた上に、この茶菓子を山ほど持たせてくれはりましたさかい。結果オーライではありましたがね」

呪術師は、傍らに置かれた風呂敷包みの残りを一瞥した。


「どんなえらいこっちゃがあったんか、ウチ、えらいこっちゃな興味津々!呪術師あんちゃんのドンパチの話、もっと詳しく!」

えらいこっちゃ嬢がまん丸の目をキラキラと輝かせ、身を乗り出してせがむ。


「ふふ、私も気になります。呪術師さんをターゲットにするほどの怪異とは、一体どのような方だったのでしょうか」

住職もまた、楽しげに目を細めて相槌を打つ。


呪術師は二人の熱視線に苦笑するような気配を見せると、再びお茶を一口飲み、観念したように語り始めた。

午後の柔らかな光が差し込む客間にて、黒衣の呪術師が体験した「えらいこっちゃな日常」が、淡々とした口調で紐解かれていく。

三人の間には、茶菓子の甘い香りと共に、不思議で少しばかり騒がしい、ほっこりとした時間が流れていった。


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## 霊札の伝令と、汚された社の嘆き


夕刻の柔らかな光が、浄土宗寺院の静謐な境内を茜色に染め上げていく。

絶世の美貌を持つ女性住職に見送られ、えらいこっちゃ嬢と呪術師は、心地よい満足感と共に山門を後にした。

目指すは呪術師の休日の散歩コースでもある、古の気配が色濃く残る稲荷神社。

そこから方輪車の牛車を呼び出し、一日の締めくくりとして帰路に就く手はずである。


二人が並んで静かな住宅街を歩き、そこを抜けて京都駅の辺りも通り過ぎ、稲荷神社の鳥居が見え始めた、その時であった。


「――おや」

呪術師が足を止め、北の空を見据えて低く呟いた。


その視線の先、夕闇が迫る空の彼方から、何かが猛烈な速度で大気を切り裂き、一直線にこちらへと向かってくる。

それは一羽の小鳥のようにも見えたが、呪術師がスッと無造作に左手を掲げると、そのてのひらに吸い込まれるようにして静止した。

その刹那、小鳥の姿は見る間に輪郭を失い、一枚の古めかしい御札の形へと変じ、指先に収まった。


呪術師は御札に綴られた文字を一読すると、ふむ、と短く頷いた。

「妖古さん、才狐さんに伝令用の札の使い方を教え始めはったようですな。そんで、その初仕事となる僕への伝令で、彼にデビューさせはったみたいですなあ」


呪術師は淡々とそう告げると、懐から筆を取り出し、御札の余白にさらさらと返信を書き込んでいく。

再びその札を空に向かって放り投げれば、紙片は瞬時に小鳥の形へと戻り、北の空を目指して物凄い速さで飛び去っていった。


「呪術師あんちゃん、才狐あんちゃんにえらいこっちゃな懐かれ模様!伝令の練習台にされるなんて、えらいこっちゃな愛されっぷり!」

えらいこっちゃ嬢が、感心したように両腕をぶんぶんと大きく振り回した。


「憧れてくれはるんは、僕としても悪い気はせんのですがね。……ですが、僕のような日陰を歩く人間は、あんまり目指さん方が宜しゅうおす。彼にはもっと、光の当たる道を歩んでほしいもんですわ」

呪術師は遠くを見つめるように淡々と語り、それからふと、自身の感覚に引っかかる微かな違和感に意識を向けた。


「とりあえず、一仕事できましたな。ほな、現場検証に行きましょか」


彼が迷いのない足取りで路地を曲がると、えらいこっちゃ嬢もトコトコとその後を追った。


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二人が辿り着いたのは、住宅街の隙間に押し込められたような場所にひっそりと佇む、名もなき小さな神社であった。

古びた本殿の前までやって来ると、そこには一体の怪異が、今にも消え入りそうな様子でうなだれていた。

その怪異は、二人の到着に気が付くなり、パッとその目を輝かせた。


「えらいこっちゃん!呪術師はん!よう来てくれはりました!」


叫びながら駆け寄ってきたのは、藁を丹念に編み上げて作られた草履に、目と口がつき、ひょろりと手足が生えた付喪神――化け草履であった。

彼はえらいこっちゃ嬢の足元に飛びつくと、その小さな体を震わせて無念さを訴え始めた。


「化け草履さん、御無沙汰してます。……ほんで、これはまた……。まあ、えらいこっちゃな事になってますなあ」


呪術師は境内の惨状を目の当たりにし、心底呆れ果てたような溜息をついた。

えらいこっちゃ嬢も、目の前の光景に絶句し、ただ一言、深い落胆を込めて呟いた。


「――えらいこっちゃー……」


神聖であるはずの境内は、見るに堪えない惨状を晒していた。

バイクが2台ほど強引に乗り入れ、乱暴に停められていたであろう深い轍が土を抉り、その周囲には無数の煙草の吸殻が撒き散らされている。

さらには飲み干された空き缶や、お菓子の包み紙が無残に放置され、神域としての清浄さは微塵も感じられなくなっていた。


「ほんに、ほんに、よう来てくれはりましたでな!あっし、ここで一生懸命掃除しとったのに、こんなことしよった不届き者共ときたら……!ほんま、腹立たしい事やで!ばちが当たらな気が済まへんわ!」


化け草履は、自らの体をペシペシと叩きながら、プンスカと全身で怒りを爆発させていた。

その小さな体躯に秘められた怒りの裏にある深い悲しみを受け取り、えらいこっちゃ嬢のまん丸な瞳には、静かな怒りの炎が宿り始めていた。


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## 荒らされた社の嘆きと、追跡の紅き炎


「先程の才狐さんからの伝令ですが、どうやら妖古さんと才狐さんは、橋姫さんのところへ挨拶に行っておられたようですな。その留守を狙ったのか、あるいは単なる偶然か。いずれにせよ、御二方が不在の間に御狐神社も荒らされたようで、妖古さんからは『念の為、他の神社も見て欲しい。ほんで、見つけたら相応にシメておいてや。やり方と程度は任せるでな』との言付けを預かりましたわ」


呪術師は、夕闇が降りてきた境内の惨状を静かに見据えながら、感情を削ぎ落としたような淡々とした口調で告げた。

その言葉の端々には、神域を汚されたことへの静かな怒りが、冷徹な呪力となって滲み出ている。


「妖古ねえちゃん達の留守を狙うなんて、えらいこっちゃな罰当たり!神様もお化けも、えらいこっちゃな激おこ案件確定!」

えらいこっちゃ嬢が、小さな拳を握りしめ、プンスカと鼻息を荒くして憤慨した。


呪術師は、社の隣に建つ民家を一瞥し、静かに問いを重ねる。

「ほんで、御狐神社のお次は、ここがやられましたか。そやけど……バイクが乗り入れてしもたら、音で気づきますやろうに。こちらの宮司さんは今日はお出かけでっしゃろか?確かこちらの神社を見守っておられる宮司さんは、すぐ隣の建物に住んでらっしゃいますやろ?」


化け草履は、自らの藁の体を小さく震わせ、力なく答えた。

「そうなんですわ、呪術師はん。実はね、宮司はんはご家族で旅行に行ってはりますねん。そやから、昨日からずっとお留守でしてのう。あっしも、ここの藁を司る神社が留守やっちゅうさかい、そんで気になって顔を出したら、この有様やったちゅうわけですんや。今日は朝のうちにちょいと掃除して、夕方にまた来てみたら……ほんま、情けないやら腹立たしいやら……」


「なるほど、留守を承知の上での狼藉か、あるいは無人ゆえの油断か。どちらにせよ、度し難い」


呪術師は短く吐き捨てると、えらいこっちゃ嬢と化け草履を促し、二人と一体で境内の清掃を始めた。

散乱した空き缶を拾い、無数に捨てられた吸い殻を一つ一つ回収していく。


その最中、呪術師の動きがふと止まった。

彼の視線の先には、鋭い刃物か、あるいは強引な力によって引きちぎられた、細い注連縄しめなわが無残に土を噛んでいた。


「――ほんに、救いようのない罰当たりですな。清掃だけで済ませるつもりでしたが、これはもう、いっちょ『罰』を物理的に落とした方が宜しいかもしれませんなあ」

呪術師の口から漏れたのは、氷のように冷ややかな、呆れ果てた溜息であった。


「本格的にやってしまいよった、えらいこっちゃ!結界にも使う神聖な注連縄を破るなんて、えらいこっちゃな地獄行き特急券を自分で買ってしまいよった!」

えらいこっちゃ嬢が、注連縄を見つめて厳しく言い放つ。


「丁度、ここにはたっぷりと本人を特定する証拠を残してくれてはりますさかい、仕事が捗ります。掃除したゴミも、荒らされた土も、全てがやっこさんらを指し示す道標になりますさかいなあ」


呪術師はそう言うと、懐から数枚の御札を取り出した。

バイクのスタンドを立てた際に掘り返された土、先程回収したゴミの数々、そして引きちぎられた注連縄。

それらに対し、吸い付くような手つきで次々と御札を貼り付けていく。


「――『かん』」

呪術師が短く真言を唱えると、貼り付けられた御札が一斉に青白い光を放ち始めた。


「――『たん』」

続く言霊が放たれた瞬間、光り輝く御札のうちの二枚が、生き物のように意思を持って動き出した。

一枚は夜の帳へと溶け込むようにどこかへ飛び去り、もう一枚は数多の記憶を吸い込んだかのように、ふわりと呪術師の手元へと戻り、収まった。


「特定できました。案外近くにおるみたいで、おいたをやりきった祝杯でもあげておるようですな。ほな、行きましょか」


呪術師が冷徹な眼差しをえらいこっちゃ嬢に向けると、彼女は力強く頷き、大きく息を吸い込んだ。


「えらいこっちゃーーー!!!」


静まり返った住宅街に、えらいこっちゃ嬢の魂の叫びが響き渡る。

すると、遥か彼方の空が突如として紅く染まり、猛烈な勢いで迫り来る炎の塊が見えた。

ゴオォォォォォ!という空気を引き裂く轟音と共に、夕闇を焦がしながら現れたのは、あの魔改造された火焔牛車であった。

火花を散らしながら、一行の目の前で鮮やかに停車する。


運転席の窓が開き、黒いベレー帽を被った方輪車が、凛とした笑顔で手を振った。

「お呼びによりまして、境界最速でお迎えにあがりましたえ。えらいこっちゃな御用件、承りましょうか?」


その力強い助っ人の登場に、えらいこっちゃ嬢は満足げに台形の口を開いて笑った。

「待ってたで、方輪車ねえちゃん!これより、えらいこっちゃな天罰執行タイム!えらいこっちゃなハイスピードで一気に追いかけたる!」


怒りと正義感を乗せた牛車は、再び激しい炎を噴き上げ、悪意の潜む場所へと向かって夜の闇を走り出した。


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## 月下の追跡劇と、異界の快速試運転


えらいこっちゃ嬢と化け草履は、燃え盛る車輪が放つ熱気をものともせず、慣れた身のこなしで牛車の中へとぴょんっと器用に飛び乗った。

続いて、黒衣を纏った呪術師も、長い裾を翻して静かに乗り込む。

車内は幽世の香気が満ちており、外の喧騒とは隔絶された独特の静寂が支配していた。


「方輪車さん、お世話になります。これ、奴らの居場所を指し示すナビ替わりに使うて下さい」


呪術師がそう言って、空中に向かって御札を差し出した。

すると、車内の暗がりから、意思を持つ生き物のように白くて長い腕がニューっと音もなく伸びてくる。

腕は丁寧に御札を受け取ると、そのまま運転席の方輪車へと手渡した。


「はいよー。ふふ、流石のシゴデキ呪術師さんですねー♪これさえあれば、逃げ場所なんてどこにもありませんわなー」


方輪車は受け取った御札を牛車の前方にペタリと貼り付ける。

御札が青白い光を放ち始めると同時に、牛車は火花を散らしながら勢いよく発進した。

車輪が地面を削るゴオォォォォという重低音が、夜の帳を揺らす。


「おや、バイクに乗って移動し始めたみたいですな。ほんで……あろうことか、あの不届き者共、稲荷神社で煙草のポイ捨てしてから走り出すとは。どこまで不徳を積めば気が済むんですかねえ」

呪術師が御札を通して伝わる気配を感じ取り、心底呆れたような深い溜息を吐き出した。


「またしても、やってしまいよった!えらいこっちゃの3連コンボやってしまいよってからに、最早容赦なし!お天道様に代わって、えらいこっちゃしたるから覚悟しとき!」

えらいこっちゃ嬢が、燃えるような怒りを宿したまん丸の目を見開き、両腕をぶんぶんと大きく振り回した。


「こりゃあかん!あっしの草履キックを御見舞いしたらな、気が済まんでのう!藁の付喪神の神聖なる神社だけやのうて、あろうことか御狐様の神社二つにやらかしよってからに!藁の意地を見せたるわいな!」

化け草履も、負けじと小さな手足をバタバタさせて、怒りを露わにしている。


牛車は一旦、現世からは見えない幽世のはざまの道を疾走し、やがて目標のバイク2人組の背後を捉えた。

ここで方輪車が術を施し、牛車は瞬時に「現世のタクシーモード」へと擬態する。

京都の夜道を、ごくありふれたタクシーのふりをして、蛇行運転を繰り返す無謀なバイクの真後ろにぴったりと突いて走る。

2人組は背後の車に気づく様子もなく、エンジンの爆音を響かせ、更なる加速を試みていた。


「ふふ、丁度ターボばあちゃんも、新しいエンジンの試運転をしてはりますから、皆で囲んであげましょか♪」

方輪車が、楽しそうにハンドルを切りながら提案した。


「ほな、『あっち側の道』に御迎えしましょか。やっこさんらも、思いっきり飛ばしたいみたいやさかい、その望みを叶えたりましょうや。その代わり、通行料は高くつきますがね」

呪術師は、先程飛ばした呪符がバイクの上空に影のように張り付いているのを確認すると、パチンっと指を鳴らした。


その刹那。

バイクの2人組が信号無視をして意気揚々と左折した瞬間、その姿は夜の街から忽然と消失した。

周囲を走っていた車も、街灯の光も、全てが歪んで消え去っていく。


「ほな、ターボばあちゃんと合流しましょかー。えらいこっちゃな夜のドライブの始まりですえ♪」


方輪車の弾んだ声と共に、牛車もまた現世を離脱し、速度の概念が狂い、常世の風が吹き荒れる「あっちの道」へと、深く沈み込んでいった。


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## 常世の快速疾走と、ターボばあちゃんの衝撃


キャップ型のヘルメットを浅く被り、隙間から派手な金髪をのぞかせた二人組は、夜の静寂を切り裂く排気音を響かせ、猛烈な勢いで「あっち側の道」を爆走していた。


一人は鋭い釣り目が特徴的な男、もう一人は耳元で無数のピアスを揺らしている男。

お揃いのスカジャンに色褪せたデニムパンツを纏ったその姿は、どこからどう見ても、夜の街でヤンチャを繰り返す不届きな二人組そのものである。

一般道であれば即座に速度違反で捕まるであろう異常な速度域の中、彼らは周囲の景色が奇妙に歪んでいることにも気づかず、ゲラゲラと下品な笑い声を上げながらアクセルを開け続けていた。


「――おい、ここって一号線け?なんか道、さっきから変やぞ?看板も街灯も、妙にぼやけて見えるんやけど!」

バイクを走らせる釣り目男が、風を切る音に負けじと声を張り上げた。


「さっきんとこ、ちゃんと曲がったはずやろ?」

後ろでピアス男が首をかしげるが、直後、彼はバックミラーに映り込んだ「あり得ないもの」を目撃して、絶叫に近い声を上げた。


ゴォォォォォ……!

漆黒の闇の向こうから、紅蓮の炎を撒き散らしながら、凄まじい質量を持った何かが迫り来る。


「うわ、なんやあれ!?人力車か!?でも、それにしてはデカすぎるし、そもそもバイクに追いつけるわけないやろ!えらいこっちゃ!しかもめっちゃ凄いスピードやぞ!」


釣り目男がミラーを二度見して驚愕する。

そこには、巨大な車輪に炎を纏わせ、猛牛のような勢いで突き進んでくる魔改造牛車の姿があった。


「なんや、ようわからんけど、あんなんに関わってられるか!一気に引き離すぞ!」


焦ったピアス男が命じるまま、釣り目男はスロットルを回した。

爆音と共にバイクがさらに加速し、二人組は逃げ切りを確信したが、その行く手を遮るように、スッと「何か」が横から割り込んできた。


ガガガガガッ!キィィィィィッ!

金属がアスファルトを削るような激しい音を立てて、彼らの目の前を並走し始めたのは、あろうことか一台の「ショッピングカート」であった。


「な、なんやねん……今度は買い物カートやと!?」


二人が呆気に取られていると、ショッピングカートは一旦ふわりと後ろに下がり、代わって後方から追いついてきた炎の牛車が、彼らの横にぴたりと寄り添って進路を塞いだ。

逃げ場を失った二人が、バックミラーで自分たちの後ろに回ったショッピングカートを確認すると、そこにはさらなる衝撃的な光景が広がっていた。


ミラーの中に映し出されたそのカートには、本来あるはずのない小型エンジンが力強く脈打ち、ハンドル部分には本格的なクラッチレバーらしきものが強引に取り付けられている。

これ以上ないほどに魔改造され尽くした銀色の籠の中に、チョコンっと行儀よく座っているのは、小柄な体に真っ白な着物を纏い、銀色の髪を綺麗に結った、なんとも可愛らしい老婆であった。

老婆はバイクの二人組に気づくと、皺の刻まれた顔を綻ばせ、まるで縁側で茶を啜っているかのような穏やかで、しかしどこか悪戯っぽい「にこやかな笑顔」を向けた。


ターボばあちゃん――。

都市伝説として語られる音速を越える老婆が、魔改造カートを軽やかに乗りこなし、驚天動地の速度で彼らを翻弄していた。


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## 神域の報復と、月下に集う裁き手


夜の闇を切り裂き、爆音を響かせていた二台のバイクの行く手を阻むようにして、それまで横を並走していた火焔牛車が猛然と加速した。

車輪から火花を散らし、凄まじい熱気を撒き散らしながら前方に躍り出ると、牛車は二人が逃げ出す隙間を一切与えない完璧な位置取りをする。

そして次の瞬間、牛車の両サイドに備え付けられた客席の扉が、まるで生き物の顎のようにパカっと左右に開かれた。


その中から、真っ白な御札が2枚、意思を持っているかのように飛び出してきた。

御札は空中でみるみるうちに巨大化し、光を放ちながらサーフボードのような形へと変じ、重力を無視して宙に浮き上がる。

その左側のボードには黒衣を纏った呪術師が、右側のボードには小柄なえらいこっちゃ嬢がそれぞれ飛び乗り、二台のバイクを左右から挟み込むようにして再び並走を開始した。


前方には方輪車の牛車、後方にはターボばあちゃんの魔改造ショッピングカート、そして左右には異能を駆る二人の影。

まさに四方向を完全に封鎖された、逃げ場なき絶望の包囲網が完成した瞬間であった。


「な、なんやねんおっさん!?これ、どういう仕掛けやねん!ってか、この浮いてる変な乗り物はなんじゃ!?手品か!?」


左側に位置した釣り目の男が、真っ青な顔を引き攣らせて、狂ったように叫んだ。

対する呪術師は、黒いコートのポケットに両手を突っ込んだまま、ハイスピードで飛行するボードの上で微動だにせず、余裕の表情でぴったりと寄り添っている。


「僕の事は『呪術師』とでも呼んでくれなはれ。あだ名でも何でも、好きに呼びはったら宜しゅうおす。ほんで、そんなに驚かんでもええです。あんたらが信じようと信じまいと、これは現実ですわ。前後にいらっしゃる方々は、この界隈じゃあ有名どころの怪異さんやと思うんですがなあ、御存じありませんかね?」


呪術師の淡々とした、しかし有無を言わせぬ圧力を孕んだ声が、バイクの排気音を越えて男の鼓膜に突き刺さった。

右側からは、えらいこっちゃ嬢がボードの上で身を乗り出し、怒りを露わにして叫んでいた。


「やってしまいよった、この悪ガキ共!お天道様を舐め腐って、えらいこっちゃな非道を働いた報い!ウチは今、えらいこっちゃな勢いでプンスカ怒り心頭!」


彼女は浮遊するボードの上でバランスを崩すこともなく、両腕をぶんぶんと大きく振り回しながら、憤慨の意を全身で表現していた。


「な、なんやねん、えらいこっちゃって!?お前、なんなんやねん!離れろや!警察呼ぶぞ!」


ピアスを揺らした男が恐怖におののき、震える声で抵抗を試みる。

すると、えらいこっちゃ嬢は突然、思い出したように凛とした態度で自己紹介を始めた。


「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や。って、そんなことはどうでもええ!あんたら、自分が何をしたか、えらいこっちゃな頭でよーく思い出せ!」


「いや、知らんがな!?誰やねん、えらいこっちゃ嬢って!!」

ピアス男は顔面を蒼白にし、逃げられない恐怖に身を震わせながら叫んだが、その問いに答える者はいなかった。


「これから、ちょいと一緒に行って貰わなあかんとこがありますんや。嫌がっても、泣き言を言うても、最後まで付き合うて貰いまっせ。逃げようとしても無駄やということは、今の状況を見れば分かりますやろ?」


呪術師が冷徹に告げると同時に、先導していた牛車がみるみるうちに減速を始めた。

慌てて二人もブレーキを握り、強制的に速度を落とされていく。


一行は歪んだ空間の隙間、常世の理が支配する妙な道を走り抜けたかと思うと、次の瞬間、目の前の景色が唐突に切り替わった。

そこは、昼頃に二人が立ち寄り、煙草のポイ捨てを繰り返した挙句、「さびれたちんけな神社やな」と嘲笑い、本殿の扉を足蹴にし、あろうことか石灯籠に面白がって煙草の火を押し付けていた、あの御狐神社の境内であった。

夜の帳が降りた静寂の境内に、四台の異形と二台のバイクが滑り込み、一斉に停車した。


「ほな、降りよし。目的地に到着しましたさかい」


呪術師の短く鋭い言葉に、二人の男は金縛りにあったかのような硬直を解き、バイクから降りた。

逆らったら何をされるか分からない、という生存本能に根ざした直感が働き、彼らは黙って指示に従うしかなかった。


ふと、本殿へと続く石畳の先に二人の人影が立っているのが見え、二人は吸い寄せられるようにそちらへ視線を向ける。

そこには、自分たちと同世代で少し年下に見える、端正な顔立ちに透徹した瞳を宿し、凛とした神職の衣装を着用した少年、才狐が静かに立っていた。

そして、その傍らには、見る者の魂を射抜くような鋭い釣り目を持ち、赤く美しき刺繍が施された朱色の着物を見事に着こなした、長身の絶世なる美女が佇んでいる。

狐色の長く美しい髪の間からは、二つの狐耳がピンと立ち、冷徹な光を湛えた黄金の瞳が、震え上がる二人組を無言のまま、じーっと見据えていた。


千年の時を越えて神域を守り続ける天狐、妖古。

その絶対的な威圧感を前に、少年たちの口からはもはや、悲鳴すら漏れることはなかった。


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## 神域の報復と、月下に集う裁き手


静寂に包まれた御狐神社の境内に、火焔牛車の放つ熱気と、異能を持つ者たちの鋭い気配が満ちていた。

本殿の階段に座り、優雅に長い脚を組んでいた妖古は、連行されてきた二人組の無様な姿を見て、薄紅色の唇を吊り上げた。


「カカカ!流石、実に見事じゃのう。上手い事ここまで連れてくるとは。しかしまあ、わざわざここまでせんでも、そっちの道端で適当にシメといてくれても良かったんじゃがの」

妖古はコロコロと鈴を転がすような声で笑い、狐色の長い髪を揺らす。


「才狐さんから、石灯籠に焦げ目まで付けられたという詳細情報を貰うてましたさかい。それに加えて稲荷神社にもポイ捨てしとったし、そこまでされたんなら、自分の手できっちり掃除と修繕をさせるべきやと思いましてな。逃げ得は許しまへん」

呪術師は黒いコートの襟を正し、淡々と、しかし有無を言わせぬ響きを込めて語った。


「まあ、それは確かに。自分がやらかした不始末は、自分の手で落とし前をつけさせねばならんもんやさかいのう。教育的指導というやつじゃな」


妖古は愉快そうに頷くと、呪術師はそのまま、直立不動で控えていた才狐の前へと歩み寄った。


「才狐さん、先程の伝令符、実に見事な出来でしたで。方向も速度も、そして情報の正確さ、その記述法も、初仕事とは思えぬほどに研ぎ澄まされておりましたわ。これなら安心して才狐さんに伝令をお願い出来ます」


呪術師が穏やかな声で褒めると、呪術の代償として心を妖古に差し出し、感動することなど無いはずの才狐の周囲に、変化が訪れた。

無表情なその横顔の奥から、心なしか誇らしげで、微かに嬉しそうな、春の陽だまりのような空気がふわりと漂い出したのである。


「カカカ!見ての通り、尊敬する大先輩に褒められたもんやから、才狐も内心では飛び上がって喜んどるでな。有難うなあ、呪術師殿。こやつの自信に繋がったわ」


妖古は弟子の様子に満足げに微笑むと、突如としてその表情から笑みを消し、射抜くような黄金の瞳を二人組へと向けた。


「そんで、そこの若いの二匹。震えておるところやが、まずは自己紹介をしてやろう。我はこの御狐神社の主であり、この地を統べる天狐、妖古じゃ。そして、隣におるこのイケメン少年は、ここの宮司を務める才狐じゃ」

妖古は立ち上がると、ピキッと額に青筋を立て、指先で一点を鋭く指し示した。

そこには、昼間に彼らが面白半分で煙草の火を押し付けた、小さな焦げ目の残る石灯籠があった。

「さて、ここで何をしよったか。貴様らの汚れた口から、嘘偽りなく全て話してもらおか」


傍らに立つ才狐も、感情の欠落した冷徹な瞳で、逃げ場を失った二人を静かに追い詰めていく。


「ここは地元の方々にとって大切な祈りの場であり、誰にでも開かれた無人の神社です。今回のような身勝手な狼藉があった以上、我々も町内会の人達と、今後ここを開かれたままにしておくかどうかを話し合わねばならなくなります。そもそも、石灯籠に煙草の火を擦り付けるという行為の、意味が分かりません。そこに何か、論理的、あるいは合理的な理由があるのですか?」

淡々と、しかし逃げ道を塞ぐような詰問が、少年たちの精神をじわじわと削っていく。


神社を守る二人の威圧感。

そして背後には、異能を駆る呪術師とえらいこっちゃ嬢、炎を纏う方輪車、そして魔改造カートに座るターボばあちゃんに、プンスカと怒っている化け草履が、獲物を狙う獣のような目で見据えている。


「なんじゃ貴様ら、そんなに縮こまって。族、つまり暴走族の類か?今やと珍走団と言うんやったかな。他人様に迷惑をかけまくって、自分らが一番強いと思い込んでいきっとるんとちゃうんか?ほれ、我に対しても同じようにいきってみよし。ん?どうした?」


妖古が一歩、また一歩と詰め寄るたびに、二人の男は恐怖のあまり「ひぃっ」と短い悲鳴を漏らし、一歩ずつ後退りしていく。


「貴様らは、喧嘩が強いのが自慢の腕っぷし自慢やないんかのう?そら、その御自慢の拳を我に振るって見せたらどや。どんな攻撃でも真正面から受け止めたるでな。……もっとも、我のカウンターパンチか蹴りを貰った後に、五体満足でいられる保証はどこにもないがの」


妖古が不敵な笑みを浮かべて挑発すると、傍らで見ていたえらいこっちゃ嬢が、これ幸いとばかりに腕を振り回した。

「妖古さんのカウンターを一発でも食らったら、魂ごと体もえらいこっちゃな消滅確定!えらいこっちゃなワンパンで、この世からおさらば決定!」


「左様ですな。天狐の怒りに触れて、無事で済まされた人間など、歴史を遡っても一人もおらん。まあ、せいぜい今世と来世の運を使い果たす覚悟を決めなはれ」

呪術師が重苦しい溜息を吐きながら付け加えると、方輪車とターボばあちゃんも化け草履も、その結末を予見するようにニコニコと笑みを深めた。


二人組の男たちは、目の前の「狐耳の美女」が、人間が逆らって良い存在ではないことを、DNAに刻まれた生存本能で悟った。

足の震えが止まらず、喉の奥が引き攣るような恐怖が、彼らを支配する。


そして……。


「我の庭を無作法に汚しよってからに!しかも2か所も!更に藁の神社まであわせて3か所も神聖な場所を踏み荒らしよったのう!そないな事しよって無事で済まされると思うなや!この戯け共がぁぁ!!」


妖古の一喝が、境内の空気を一瞬にして爆発させた。

衝撃波のような咆哮に気圧され、理性を失った二人の男は、地面に吸い込まれるようにして勢いよく膝をついた。


「も、申し訳ありませんでしたぁぁぁ!!」

「もう二度としません!許してくださいぃぃ!!」


夜の静寂を切り裂くような謝罪の叫びと共に、彼らは砂利に額を擦り付け、必死の勢いで土下座を繰り返した。

その無様な姿を、月明かりの下で怪異たちは冷ややかに、しかしどこか満足げに見下ろしていた。


---


## 神域の清掃と、月下の和解


命を食いちぎられかねない絶望的な威圧感にさらされた二人の男たちは、もはや異を唱える気力すら残っていなかった。

彼らは妖古から提示された「石灯籠の修繕」と「境内全域の徹底した清掃」という条件を、命を救われる唯一の道として必死に受け入れた。

才狐から手渡された掃除道具を握りしめるその手は小刻みに震えていたが、今の彼らにとっては、竹箒と雑巾を動かすことだけが唯一の救いであった。


静まり返った境内に、砂利を掃くサッ、サッという音と、石灯籠の焦げ跡を丁寧に拭き落とす微かな音が規則正しく響き始める。

そんな彼らの背中に向かって、化け草履が小柄な手足を激しくバタつかせながら、再び怒声を浴びせかけた。


「これに懲りたら、二度とあんな真似はしなさんなよ!あっしが寄せてもろてる藁の付喪神神社にも、ゴミを散らかして行きよってからに!ええか、自分で出したごみは責任もって自分の手でゴミ箱に捨てるか、捨てる場所が無かったら自分で持って帰らなあかんちゅうのが、この世の、いや、あの世も含めた鉄の掟っちゅうもんなんやでな!」

化け草履はプンスカと鼻息を荒くしながら、藁の体をペシペシと叩いて手をぶんぶんと振る。


必死に箒を動かしていた男の一人が、堪えきれずに顔を上げ、戸惑いの混じった声を漏らした。

「は、はい、本当にすみませんでした……ってか、なんで……なんで草履が喋ってんねん?俺ら、マジでやばいもん見てるんじゃ……」


「失礼やな!ただの草履やないでな、あっしは誇り高き付喪神、化け草履やがな!」

化け草履は愉快そうにケタケタと笑い声を上げ、跳ねるようにして男たちの周りをぐるぐると回り始めた。

その異様な光景に、男たちは再び首をすくめて作業に没頭する。


また、今回は追跡という緊急事態ゆえに例外として境内にオートバイの進入をさせはしたが、本来ここは神聖なる神域である。

「ええか、よう聞け。本来、ここは鉄の馬が踏み入って良い場所ではない。今回は貴様らに説教するために特別に入れたが、今後は絶対にバイクに乗ったまま入って来るな。次に見つけたら、その時はバイクごと神隠しにしてやるからのう」

妖古が冷徹な声で釘を刺すと、二人は「は、はいっ!」と裏返った声で答え、黙々と掃除を続けた。


その様子を見届けた呪術師が腰を上げた。

「ほな、僕はこれで失礼しますわ。夜も更けてきましたしな。……あ、そうそう、忘れるところでした」

呪術師は方輪車の牛車へと歩み寄り、中に置いてあった茶菓子の風呂敷包みを取り出した。


「妖古さん、これ、今日の仕事の御裾分けです。羊羹一本と、バウムクーヘン二人分、良かったら貰ったって下さい。そんで、そこの二人も、自分の罪を清め終わったら、このバウムクーヘンを食べよし。甘いもんでも食べて、少しは心を入れ替えなはれ」

呪術師から差し出された包みを、才狐が恭しく受け取り、そのうちの二つのバウムクーヘンを掃除中の二人の男に手渡す。


男たちは信じられないといった表情で顔を見合わせ、深々とお辞儀をした。

「あ、有難う御座います……。大事に、大事に食べさせていただきます……」

彼らはバウムクーヘンを、まるで貴重な宝物のように大切に受け取ると、汚れのないポケットへと慎重にしまい込んだ。


「呪術師殿とえらいこっちゃん、それに方輪車ちゃんにターボばあちゃんに、化け草履が一緒やなかったら、我は慈悲をかける間もなく、貴様らをさっさと食いちぎっておったかもしれんからのう。命を拾うたことを、お世話になった方々に感謝しよし」


妖古がぴしゃりと言い放つと、男二人は「ははーっ!」と石畳に額を擦り付ける勢いで深くお辞儀をした。

その姿には、かつての不届きな傲慢さは微塵も感じられず、ただただ深い反省と恐怖、そして奇妙な感謝の色が混じり合っていた。


えらいこっちゃ嬢は、すっかり綺麗になった境内と、改心した二人組の姿を見て、満足げにまん丸の目を細めた。

「よっしゃっ!これにて、えらいこっちゃな迷惑騒動も大団円!悪いことをしたら叱られて、反省したら甘いもん。これこそが、えらいこっちゃな正しい世界の在り方!」


えらいこっちゃ嬢は両腕をぶんぶんと大きく振り回し、今日一日の出来事を締めくくる勝利のポーズを決めた。

月明かりに照らされた御狐神社には、清々しい空気と、どこかほっこりとした不思議な安らぎが満ち始めていた。


---


## 宵闇の団欒と、受け継がれる術の系譜


夜の帳が完全に降り、静寂を取り戻しつつある御狐神社の境内で、えらいこっちゃ嬢は満足げに腰に手を当てた。

「えらいこっちゃな天罰も無事に終わったことやし、お腹もえらいこっちゃな空き具合!そしたら皆で、摩訶不思議食堂で晩御飯!これぞまさに、えらいこっちゃな大団円の会食!」


彼女はまん丸の目をさらに大きく見開き、期待に満ちた眼差しで呪術師と才狐をじーっと見つめた。

その提案を聞いた妖古は、満足げに狐耳をぴこりと動かすと、扇を翻すようにして笑った。


「カカカ!そりゃあええな。一仕事終えた後の飯は、何よりの薬じゃて。才狐、ぬしは先に皆と一緒に行っときや。我は、この愚か者共がやるべきことを最後までやり遂げよるのを、ここでもうひと説教しながら見届けてから向かうでの」

妖古は掃除を続ける二人組に冷ややかな視線を送りつつ、愛弟子には慈しみ深い微笑みを向けた。


「才狐さんは、摩訶不思議食堂は今回が初めてでしたかな。あの場所は実にほっこりとする、良い食堂ですわ。ほな、才狐さんは方輪車さんに乗せて貰うと宜しゅうおす。僕はちょいとばかし風に当たりたいさかい、自分の足で向かいますわ」

呪術師はそう言うと、懐から取り出した御札を宙に放った。

御札は瞬時に光り輝くボードへと姿を変え、呪術師はその上にひらりと飛び乗る。


その鮮やかな手際を目の当たりにした才狐が、珍しく熱を帯びた眼差しを呪術師に向けた。

「……その、御札をボードにする術も、いつか教えて頂きたいです」

普段は感情を表に出さない少年の、それは切実な、未来への渇望が混じったお願いごとであった。


呪術師はボードの上でバランスを取りながら、無表情の中にも確かな期待を込めて言葉を返した。

「これは簡単そうに見えて、意外と難易度が高いもんで、中級者以上のレベルの術ですさかい、扱えるようになるには、もっと基本をしっかりと身に付けてからです。もう少し妖古さんから学んで、地力をつけてからですな。そこまでに到達しはる日を、僕も楽しみにしてますえ」


「わかりました。精進します」

才狐は静かに、しかし心の中に、いつか目の前で見せてくれた技を教えて貰う「目標」という名の火を灯しながら、方輪車の待つ牛車へと足を踏み入れた。

そして、才狐に続いて、化け草履とえらいこっちゃ嬢も、弾むような足取りで牛車に乗り込む。


「ほな、えらいこっちゃん。牛車に置いてある羊羹とバウムクーヘンを、今宵の運賃代わりにしてくれなはれ。」


呪術師の言葉に、えらいこっちゃ嬢は「合点承知!」とばかりに腕を振り回した。


「任せとき!えらいこっちゃな豪華会食へレッツゴー!これ、えらいこっちゃな特製運賃、受け取ってや!」

えらいこっちゃ嬢が車内の暗がりからニューっと伸びてきた白くて長い腕に、羊羹一本とバウムクーヘンを一つ手渡すと、腕は満足げに小刻みに揺れ、そのまま闇の中へと引っ込んでいった。


「毎度ー。ほな、妖古さん、また後で食堂でお会いしましょ。安全運転の最速で送り届けまっせー♪」

方輪車は運転席から軽やかに手を振って挨拶を交わすと、再び紅蓮の炎を噴き上げ、「あっち側の道」へと向かって猛然と走り出した。


「ほな、また後でー♪置いていかれないように、ついていきますえー!」

ターボばあちゃんも、魔改造ショッピングカートのエンジンを咆哮させ、にこやかな笑顔で牛車の後を追って夜の闇へと消えていった。


---


## 黄昏の帰還と、湯気立つ団欒のすき焼き


一行を乗せた異形の隊列は、現世の喧騒を遠く離れた「あっち側の道」を、夕闇を切り裂くようにして疾走していく。

それは、傍目から見れば異能者と怪異が織りなす極めて奇妙な光景ではあるが、当人たちの間には、どこか遠足の帰りのような和やかで楽しい空気が流れていた。


先頭を切るのは、ターボばあちゃんの魔改造ショッピングカートだ。

ズバババッ!と、小気味よい排気音を響かせながら、夕刻の風を切って突き進んでいく。


その後ろを一定の距離を保ちながら付いて行くのは、コートのポケットに手を突っ込んだまま、御札のボードの上で軽やかに身を躍らせる呪術師である。

揺れることのないその背中は、闇の中でも確かな存在感を放っていた。


更にその後ろを、えらいこっちゃ嬢と化け草履、そして才狐を乗せて走る方輪車の牛車が、ゴオォォォォォ!という重厚な火焔の音と共に追随していく。

牛車の客席では、才狐が窓の外、前を行く呪術師の背中を、言葉を失ったかのような真剣な眼差しで、じっと見つめ続けていた。

その視線には、かつての自分には無かったはずの、憧憬にも似た熱い感情が微かに宿っている。


そんな少年の成長を、方輪車はバックミラー越しに、慈しむような温かい眼差しで見守っていた。

隣に座るえらいこっちゃ嬢と化け草履もまた、才狐の横顔を静かに見つめながら、これから始まる宴への期待に胸を膨らませていた。


---


やがて一行は、夜の帳に優しく包まれた摩訶不思議食堂へと到着した。

方輪車は牛車の扉を滑らかに開き、えらいこっちゃ嬢、化け草履、才狐を丁寧に降ろすと、ターボばあちゃんと目配せをして、連れ立って駐車場へと車を停めに向かった。

呪術師は、役目を終えたボード符をシュッと一振りの動作で元の御札へと戻し、手際よく懐にしまい込んだ。

駐車を終えた方輪車とターボばあちゃんが合流し、全員が揃ったところで、店主の待つ食堂の暖簾をくぐる。


ガラガラッ!と扉を開けた瞬間、店内の熱気と甘辛い割り下の香りが、一行を包み込んだ。


「おっ、来た来た!お帰りー!待ってたよ、みんな!」


出迎えたのは、既に席についていた常連の筆頭、女鬼じょきである。

金色の瞳を輝かせ、左右に生えた黒い二本の角を揺らしながら、彼女は左側にサイドテールとして束ねた金髪を弾ませて手を振った。

黒地に金色の花刺繍が施された美しい着物を着こなす彼女の周りには、既に他の常連たちも集まっており、皆ですき焼きの鍋を囲んで、煮えるのを今か今かと目を輝かせて待っていた。


店内では、料理人の面々が忙しくも楽しそうに立ち働いていた。

兎のラビ、犬のわんぞう、猫耳を揺らす猫子ねここ、ゴブリンの凜華りんか、そして穏やかな眼差しの蛙仙人。

彼らは各テーブルに据えられた大きな土鍋の最終調整を終え、あとは具材が煮えるのを待つばかりという完璧な態勢を整えていた。

鍋の中では、極上の牛肉や豆腐、葱や春菊が、割り下の海の中で宝石のように輝いている。


その大きな鍋を囲むのは、透き通った体でふよふよと浮かぶお化けたちや、数多の怪異たち。

さらには、今日の営業を終えてから駆けつけたパン屋のダークエルフや、鯛焼き屋の仕事を終えて本来の姿に戻った小豆洗いまでもが、親しげに座を共にしていた。


「常連仲間いらっしゃいー♪」「えらいこっちゃん、おかえりー♪」

店内の至る所から、温かな歓迎の声が降り注ぐ。

呪術師たちも穏やかな表情で挨拶を返し、指定された席へと腰を下ろした。


えらいこっちゃ嬢は、目の前に広がるこの世で最も温かく賑やかな光景に、喜びを爆発させた。

「ただいまのおつかれちゃん!これこそが、えらいこっちゃな賑やか会食!」


彼女はまん丸の目をキラキラと輝かせ、台形の口を大きく開けて笑うと、両腕をぶんぶんとお祭り騒ぎのように振り回した。

今、摩訶不思議食堂には、一日の終わりを祝う最高の笑顔と、これから始まる至福の時間の予感が、えらいこっちゃな勢いで満ち溢れていた。


---


## 湯気の向こうの福縁と、至福のすき焼き


料理人たちの手によって魔法のごとき味付けが施され、蛙仙人がお化けたちと共に慈しみ育てた新鮮な野菜が、土鍋の中で踊るように煮え立っていく。

猫子に凜華、そしてラビとわんぞうが各地を巡って仕入れてきた、脂の乗った最高級の牛肉が、甘辛い割り下の海を黄金色に染め上げていた。


立ち上る芳醇な香りが店内に満ち、グツグツという小気味よい音が食欲を激しく刺激する中、地蔵店長が穏やかなお地蔵さん笑顔を湛え、静かに両の手を合わせた。

それに合わせるようにして、囲炉裏やテーブルを囲む面々も、一斉に居住まいを正して合掌の形を作る。


「我ここに食をうく、慎みて天地の恵みと人々の労、数多の御縁に感謝し奉り、頂きます」


全員の声が重なり合い、厳かでありながらも温かな食前の言葉が店内に響き渡った。

最後にもう一度、恭しく合掌を捧げ終えると、いよいよ待望の宴が幕を開ける。


箸を伸ばし、ワイワイと賑やかにすき焼きを突き合う。

今日一日の出来事を語り合い、互いの労をねぎらうその光景は、まさに此岸と彼岸が溶け合うこの食堂ならではの、至福のひとときであった。


そこには怪異も人間も、境界を隔てる壁など存在しない。

尊き縁によって結ばれた者同士が、ただ一つの鍋を囲み、心を休ませる。

そんな、ほっこりとした会食時間が流れる中、ちょうど店の暖簾をくぐって、妖古と橋姫の二人が姿を現した。


「おっ、やはり今日はすき焼きやったか。良い香りが外まで漏れておったぞ。我らも混ぜて貰うかのう」

「ほんに、北の神社の風と、宇治の川風で冷えた体に、この香りは堪りませんわ」

二体の強力な怪異も、作法に従い丁寧に食前の言葉を唱え、「頂きます」と合掌してから、皆が作る輪の中へと合流した。

妖古は手際よく肉を口へと運ぶと、満足げに目を細めた。


「カカカ!あの悪ガキバイクコンビ、我の説教を聞きながら、最後まで泣きべそをかいて境内をピカピカに磨き上げていきよったわ。途中で投げ出さんかったとは、意外と根性はあるんやもしれんなあ。まあ、最後は腰を抜かして動けなくなっておったがの」


妖古が愉快そうに笑い飛ばすと、女鬼が御茶を片手ににこやかに応じる。


「あはは♪才狐君からも聞いたけど、妖古さんにビビり散らかしてたらしいじゃん!ありゃあ相当効いたね。流石に今後は、神社に排気ガスを撒き散らしたり、煙草のポイ捨てなんて不調法はしなくなるんじゃね?」


「そうですね。僕らがまだいた段階で『バイクで神社の境内に入るな』と、妖古さんから物凄くきつい御叱りがありましたから。あの恐怖は魂に刻まれたはずです。多分もう、あんな無益な狼藉はやらへんと思います」

才狐は淡々と語るが、その表情は以前の無機質なものとは異なり、熱々のすき焼きを頬張ることでどこか「ほっこり」とした柔らかな温かみを纏っているように見えた。


「そやったら宜しゅうおす。罰が当たるっちゅう事は、ほんまにある事なんやと、骨の髄まで叩き込むべき事案でしたからな。次は無いと、あの瞬間に叩き込まれたら、もうあんな愚かな事はせんでしょう。……ふむ、この人参も実によく味が染みておりますなあ」


呪術師は淡々と、しかし一点の隙もない綺麗な所作で、丁寧に面取りされた人参を口へと運んだ。

その洗練された動きを、隣に座る才狐がじっと見つめ、自分も同じように箸を動かして所作を真似てみる。


「ふふ。妖古殿のお弟子さんは、すっかり呪術師殿に夢中のようじゃ。その真っ直ぐな憧れの眼差し、見ていて微笑ましいわあ」

橋姫が上品に袖で口元を隠して笑うと、妖古が肩を竦めて茶化すように応じる。

「カカカ!まだ弟子入りは断られ続けておるがね。そやけど、今日放った伝令符を、尊敬する先輩に褒めてもろうてからは、ずっと上機嫌やて。単純なやつよのう」


「目標となる人がおるのは、ええこっちゃでんな!上達も早よなるきっかけになるからのう。お、この葱、トロトロで最高に美味いですやなあ!口の中で甘みがとろけて、流石は蛙仙人さんの野菜は絶品やでな!」

化け草履が自らの手足をバタつかせながら葱を頬張り、御満悦の声を上げた。


「おかわりもたんまりありますでな。土の恵みを、心ゆくまで堪能して下され」

蛙仙人が穏やかな目元を細めて微笑み、大皿に盛られた瑞々しい野菜を鍋へと追加していく。


「えらいこっちゃ!この椎茸、肉厚で旨味がじゅわっと溢れ出してくる!えらいこっちゃな新鮮椎茸!」

えらいこっちゃ嬢は、味が染み込んで茶褐色に輝く大きな椎茸を、ふーふーと冷ましながら頬張った。

口の中に広がる山の幸の滋味に、彼女のまん丸の瞳は喜びでさらに大きく見開かれ、台形の口からは幸せそうな感嘆が漏れる。


その様子を、地蔵店長は一緒にすき焼きをつつきながら、微笑ましくお地蔵さん笑顔で眺めていた。


美味い飯と、気の置けない仲間たち。

夜の更けるのも忘れるほどに、えらいこっちゃな幸福感に満ちた夜宴は、どこまでも温かく続いていくのであった。


---


## 甘い香りの終幕と、静まり返る夜の帳


賑やかなすき焼きの鍋が綺麗に空になると、摩訶不思議食堂には新しい、そしてどこか芳醇な香りが漂い始めた。

本日の宴を締め括るデザートの時間である。

運ばれてきたのは、ダークエルフが猫子と凜華と共に心を込めて焼き上げた、一口サイズの小さく可愛らしいシュークリームの山だ。

傍らには、丁寧にドリップされた深煎りの珈琲が添えられ、白い湯気を優雅に立ち昇らせている。


クリームパンを始めとする甘いもの、特にカスタードクリームの料理や甘味に目がないえらいこっちゃ嬢にとって、これはまさに至福の瞬間であった。

彼女は、粉糖が薄くかかった黄金色の生地を一つ手に取ると、期待に満ちた眼差しで口へと運んだ。

サクッ、という軽やかな音と共に、中から濃厚で滑らかなカスタードクリームが溢れ出し、口内を優しい甘さで満たしていく。


「――えらいこっちゃ!このシュークリーム、生地は香ばしくて中身はとろとろ!苦めの珈琲との相性が、えらいこっちゃな最高コンビ!」


えらいこっちゃ嬢は、熱い珈琲を一口啜り、その苦味で口の中をリセットしては再び甘美な世界へと飛び込んでいく。

そのホクホクとした、心底幸せそうな「ほっこり」顔を見て、ダークエルフも耳をピコピコと揺らしながら満足げに微笑んだ。


「ふふ、有難うね♪そう言って貰えると、夜な夜な粉を練って作った甲斐があるさね。みんなの笑顔が、アタイ達料理人にとって、一番の御馳走なんだから♪」


彼女の言葉に、周囲の怪異たちも深く頷き、思い思いにデザートを堪能した。

美味しいものを共に分かち合う時間は、言葉以上に彼らの魂を深く繋ぎ合わせていく。


---


やがて夜も更け、全ての皿が空になった頃。

地蔵店長がスッと立ち上がり、穏やかなお地蔵さん笑顔を湛えて、店内に集まった面々を見渡した。


「有難う御座います、皆さん。こうして今日という一日の終わりに、とても楽しく美味しい、賑やかで暖かい時間を共に過ごすことが出来て、とても嬉しゅう御座います。皆さんの御縁に、心より感謝を」


店長が静かに合掌してお辞儀をすると、それに応えるようにして、女鬼や呪術師、常連の怪異たちも一斉に笑顔で合掌した。

「こちらこそ、御馳走様!」「明日もまた来るねー♪」

そんな温かな礼の言葉が飛び交い、一人、また一人と、それぞれの住処や異界へと帰路に就いていく。


賑やかだった店内には、やがて心地よい静寂が戻り始めた。

えらいこっちゃ嬢は、摩訶不思議食堂の凄腕料理人たちと共に、驚くほど手際よく片付けを進めていく。

女鬼が「あーしも手伝うし♪」と袖を捲り、呪術師や才狐達も無言のまま術やそれぞれの能力を駆使して空いた皿を纏めていく。


そうして、手伝ってくれた仲間たちも作業を終えて次々と去っていき、最後の一枚の皿を拭き終える頃には、外からは虫の音だけが聞こえるようになっていた。

料理人たちも「お疲れ様!」と手を振って夜の闇に消え、食堂に残ったのは地蔵店長とえらいこっちゃ嬢の二人だけとなった。

店内の灯りを一つ、また一つと落としていき、最後の締め作業を終えると、二人は玄関先で向き合った。


「それでは、えらいこっちゃん。今日も一日、本当にお疲れ様でした。ゆっくりと体を休めて、良い夢を見て下さいね、お休みなさいまし」

地蔵店長は、月明かりの下で再び菩薩のような笑顔を浮かべ、合掌してお辞儀をすると、静かな足取りで帰っていった。


「地蔵店長、今日も一日、えらいこっちゃなお疲れちゃんの、お休みちゃん!明日もまた、えらいこっちゃな良い日にしような!」


えらいこっちゃ嬢は、遠ざかる背中に向かって大きく手を振り、自分もまた、温かな余韻に包まれながら自らの住処へと歩き出す。

夜空には、彼女たちの絆を祝福するように、冴え渡る月が煌々と輝いていた。


---


## 月影の回想と、明日への休息


摩訶不思議食堂の裏手を出てすぐ、ひっそりと佇む自らの住処へと帰り着くと、えらいこっちゃ嬢は深い安らぎに包まれた。


まずは使い慣れたスマートフォンを充電器にセットし、チカチカと灯る充電ランプを確認する。

それから湯船にたっぷりとお湯を張り、一日の埃と疲れを洗い流す入浴の時間だ。

温かな湯気に包まれながら、ふぅと大きな溜息を吐き出す。


風呂上がりには丁寧に髪を乾かし、鏡の前で歯を磨き終えると、ふかふかの布団が彼女を待っていた。

布団に潜り込み、心地よい重みを感じながら、えらいこっちゃ嬢は今日という密度の濃い一日をゆっくりと反芻し始める。


始まりは早朝、ダークエルフが営むパン屋の香ばしい匂いの中でのクリームパンだった。

あの甘い一口が、今日という冒険のガソリンになったのだ。


それから、蛙仙人から託された瑞々しい胡瓜を携え、方輪車の牛車に揺られて現世へと向かった。

鴨川のほとりで河童や濡れ女に挨拶を交わし、出町柳の河童たちにも旬の味を届けた。

そういえば、彼らは「今日は北の方で宴会をする」と楽しげに話していた。

今頃は鴨川のせせらぎを聞きながら、彼らもまた賑やかな夜を過ごしているのだろうと思うと、胸の奥が温かくなるのを感じる。


その足で名物の豆餅を買い、古の鬼女であり鉄輪女、橋姫の元を訪れた。

それから天狐の妖古と、その弟子の才狐に会い、静かな神域の空気を吸った。

その後は、小豆洗いと錦通りで会って、市場の賑わいを一緒に楽しんだ。


昼食後には、あの救いようのない悪ガキ中学生3人を猫又の元へと誘導し、命の尊さをその身に刻ませてやった。

その後は、超絶美貌の女性住職が守るお寺で、黒衣の呪術師と合流しておやつの御茶会を楽しんだ。


優雅な時間は束の間、才狐からの伝令符を受け取った呪術師と共に化け草履と合流して、神域を汚した暴走バイクの二人組を追い詰めた。

方輪車とターボばあちゃんの超絶ドライビングで、逃げ場を失った彼らを妖古の元へ連行し、雷を落としてきついお灸を据えてやった。


そして一日の締め括りは、摩訶不思議食堂での最高のすき焼き。

皆で鍋を囲み、最後はダークエルフ特製のシュークリームと珈琲で、心もお腹もこれ以上ないほどに満たされ「ほっこり」とした時間を仲良しなみんなと堪能した。


「今日もいっぱい、えらいこっちゃな一日やった……」


微睡みの中で、えらいこっちゃ嬢は満足げに小さく呟いた。

まぶたが重くなり、意識がゆっくりと闇の向こうへと溶けていく。

スースーという規則正しい寝息が、静かな部屋に響き始める。


こうして、えらいこっちゃ嬢のえらいこっちゃな一日が、静かに幕を下ろした。

数多の御縁に守られ、数多の正義を貫いた彼女は、明日という新しい「えらいこっちゃ」へ向けて、英気を養う深い眠りにつくのであった。


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