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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第26話:とある呪術師のほっこり飯

##黒衣の朝、祈りの影


京都の朝は、静寂の底からゆっくりと這い出してくる。

まだ夜の帳がうっすらと残る土曜日の午前4時45分。

閑静な住宅街の一角、細長い敷地に建つその家では、一人の男が深い眠りから意識を浮上させた。


40代半ばから後半、肉体には不必要な脂肪が削ぎ落とされて筋肉質なプロの緊張感が漂っている。

男は迷いのない動作で寝具を整えると、午前5時を告げる微かなアラームが鳴る前に、仏壇の前へと静かに腰を下ろした。

読んで字の如く、朝飯前のタイミング。

凛と張り詰めた空気の中、数珠の擦れるカチカチという乾いた音が、目覚めたばかりの空間に心地よく響く。


男は日課である朝の勤行を、簡略化した形式で執り行い始めた。

重厚な読経の響きが壁に反響し、家全体を清めていく。

最後に「南無阿弥陀仏」と十回の念仏を唱え終えると、男は短く息を吐き、朝の儀式を締めくくった。


---


簡単な朝食を済ませた男が身に纏うのは、いつもの「制服」だ。

黒いシャツに黒いカーゴパンツ、その上に重厚な黒いコートを羽織る。

靴から小物に至るまで、徹底して黒一色で統一されたその姿は、夜闇の残滓をそのまま形にしたかのようであった。


男は静かに自宅の鍵を閉めると、いつもの散歩コースへと歩を進めた。

まずは、五重塔が天を突く「東寺」こと教王護国寺。

まだ観光客の姿もない清浄な境内を通って深く参拝し、そこから京都駅付近へと北上する。


この日の足取りは、東西の本願寺を目指していた。

浄土真宗の大本山、その壮大な伽藍の前に立ち、衆生の平穏を願う。

巨大な御影堂を仰ぎ見てから、男は再び踵を返し、先日も訪れたあのショッピングモール近くの稲荷神社へと戻ってきた。


---


「……おや」

神社の入り口付近まで来た男の視界に、先ほど通った時にはいなかった人影が映り込む。


女子中学生くらいの少女が3人。

まだ朝の光が斜めに差し込む境内の奥で、彼女たちは何事か、必死という言葉では生ぬるいほどの熱量で本殿に向かって手を合わせていた。

そのただならぬ雰囲気に、男は無表情な顔のまま、どこか呆れたような溜息を心の内で吐き出す。


「なんともまあ、この時代でも続いておるんですなあ。難儀でえらいこっちゃ」

男は低く、淡々とした声で独りごちた。


神に縋るか、あるいは「誰か」を呪うか。

いずれにせよ、放っておけば問題がこじれる類のものだと直感し、男は黒衣の裾を揺らしながら彼女たちの方へと歩み寄った。


---


「お早うさんです。こんなに朝早くから熱心にお参りしてはって、宜しゅうおすなあ」


不意にかけられた男の低い声に、少女たちの肩がビクッと跳ね上がった。

彼女たちが弾かれたように振り向くと、そこには朝日を背負った、全身黒ずくめの威圧的な大人の男が立っていた。


3人の中の一人、金髪に染めたショートカットの少女が、潤んだ瞳で男を見つめ返した。

「あの……っ、お早う……ございます……」

蚊の鳴くような声で挨拶する彼女の頬には、乾ききっていない涙の筋があった。


「泣くほどのことがあったみたいですな」

男は同情の色を一切見せず、ただ冷徹に事実を指摘する。


その淡々とした言葉に、別の長い茶髪の少女が、慌てて場所を空けるように後退りした。

「あ、いえ……あの、もう帰りますから。……どうぞ」


最後の一人、短い黒髪の少女が、恐怖と期待が混ざり合ったような複雑な眼差しで男を見上げる。

「……おじさん、ここの神社の関係者の方ですか?」


「僕は、ここの神職やありません」

男は無表情のまま、ぴしゃりと言い放った。

「僕はただの、通りすがりの平凡な……そやね、僕のことは『呪術師』とでも呼んでくれなされ」


男はそれ以上、彼女たちの事情に深く踏み込むような素振りは見せなかった。

興味を失ったかのように踵を返し、その場から立ち去ろうとする。


「ほな、精々踏ん張りなはれや」


その突き放すような、しかし何かを予見しているかのような呪術師の言葉だけを境内に残し、男の黒い影は朝の光の中へと溶け込んでいった。


---


##禁忌の遊戯――生贄の報いと狐の憤怒


「呪術師」

その、日常からはあまりに乖離した響きを持つ単語を聞いた瞬間、女子中学生たちの瞳に驚愕の色が走った。

しかし、それは恐怖によるものではなかった。

次の瞬間、彼女たちの絶望に沈んでいた表情は、溺れる者が一本の藁を掴むような、猛烈な期待と縋るような懇願の色へと一変した。


「あの、助けてください!お願いします!」

金髪の少女が、なりふり構わず男の裾に縋り付こうと手を伸ばす。


しかし、呪術師は振り返りざま、鋭い視線でその動きを制した。

「……不用意に触りなさんな。『御狐おきつね様』は、僕に触れたところで払い落とせませんでな。むしろ、余計に深くおたくらに食い込むだけですえ」


冷徹な一言に、少女たちは「え……!?」と息を呑んで硬直した。

呪術師は彼女たちの憔悴しきった顔を無表情に見つめ、吐き捨てるように言葉を継いだ。


「大方、遊び半分でやってしもたんでっしゃろ。責任持って、その『4人目』の子を助けなはれ。それが、あんさんらの負うべき報いです」


再び踵を返して神社を去ろうとする男の背中に向かって、3人は弾かれたように地面に膝をつき、勢いよく額を石畳に叩きけんばかりの勢いで頭を下げた。


「助けてください!お願いします!本当に、何でもしますから……!」

必死の慟哭が境内に木霊する。


「……何でも、ねえ……」

呪術師は足を止め、天を仰いで呆れたような溜息を吐き出した。


やがて呪術師はゆっくりと振り返ると、掌で本殿の脇にある木製のベンチを示した。

「……とりあえず、頭を上げて立ちなはれ。話だけは聞きましょか」


促された少女たちは、震える脚で立ち上がり、並んで椅子に腰を下ろした。

呪術師は境内にある自動販売機で温かいお茶を3本買い、彼女たちの前に無造作に置いた。


「これ飲んで、ひとまず落ち着きなされ。ほな、何があったんか、順番に話して下さい。くれぐれも、嘘は言わんように」

呪術師はベンチの前に立ったまま、腕を組んで彼女たちの告白を待った。


3人は、震える両手でお茶のペットボトルを握りしめ、2日前に起きた惨劇の全貌を語り始めた。


---


事の始まりは、思春期特有の、底の知れない好奇心だった。

放課後の教室で、誰かが「こっくりさん」をしようと言い出した。

ネットで調べれば「呪われる」「指を離してはいけない」といった警告が山ほど出てきたが、その恐怖がかえって彼女たちの心を刺激した。


しかし、彼女たちは狡猾だった。

万が一にも自分たちが呪われるのは御免だと、あろうことか「生贄」を用意することにしたのだ。

標的にされたのは、クラスでいつも大人しく、彼女たちが日常的にいじめていた一人の少女だった。


彼女たちはその少女を脅し、無理矢理10円玉に指を置かせた。

「あんたが全部引き受けるんよ」と、呪いの防波堤に仕立て上げたのだ。

儀式が始まった当初、10円玉はピクリとも動かなかった。

しかし、少女たちの嘲笑が響く中、硬貨は突然、滑るような滑らかさで動き始めたという。


「……最初は、普通の質問に答えてたんです。でも、ある程度進んだ時、突然動きが止まって……あの子、がくんっとうなだれたんです」

金髪の少女が、恐怖に顔を歪ませて言葉を紡ぐ。


その直後、10円玉が信じられない速度で文字の上を這い回った。

示された言葉は、文字を追う少女たちの背筋を凍らせるに十分なものだった。

『イイカゲンニシロ、カミツクゾ、コムスメドモ』


「その瞬間でした……大人しかったあの子が、豹変したんです。野獣みたいな声を出して飛びかかってきて、私達を凄い力で突き飛ばして……」

騒ぎを聞きつけた教師たちが駆けつけたが、少女一人の暴走を止めるには、屈強な体育教師たちが数人がかりで取り押さえ、ようやく制圧するほどだったという。


「あの子……今は大病院の精神科の閉鎖病棟に入れられてるんですけど……ずっと、ずっと『油揚げ』を要求してるんです。食べさせても食べさせても、足りないって……。病院の先生たちも、付き添いってた学校の先生たちもみんな、もうパニックで……」


そこまで一気に話し終えた少女たちは、再び顔を覆って震え始めた。

呪術師は、話の核心を聞き終えると、やはりなと言わんばかりに、深いため息を深く深く吐き出した。


---


##忌まわしき盤――誤算の祈祷


呪術師は、冷え切った朝の空気を肺の奥まで吸い込み、重苦しい溜息とともにそれを吐き出した。

少女たちの語る物語は、あまりに短絡的で、かつ救いようのない稚拙な悪意に満ちている。

だが、起きてしまった「怪異」は、もはや彼女たちの反省だけで収まる段階をとうに過ぎていた。


「……事情は分かりました。ほんで、その十円玉は、今はどこにあります?」

男は感情の起伏を一切見せず、事務的なトーンで尋ねた。

術の核となった依代よりしろの行方は、事態を収束させるための最優先事項だ。


しかし、少女たちは互いに顔を見合わせ、さらに血の気を引かせた。

「それが……あの騒ぎの最中に、どこかへ消えてしまって。床を探したんですけど、どこにも落ちていなかったんです」

金髪の少女が、消え入るような声で答える。


「ふむ、消えた、ですか」

男は短く一つ頷き、何かを思案するように目を細めた。

「……では、その暴れ出したお嬢さんは、今はどこの病院にいてはります?」


金髪の少女が、記憶を必死に手繰り寄せながら、病院の名前を口にする。

それは、ここからほど近い、京都駅の喧騒のすぐ側に建つ大病院だった。

男はコートの襟を正し、淡々と告げる。


「そこなら、ここから歩いてすぐですな。……お嬢さん、僕がその子の御見舞いに行っても宜しゅうおすか?もし、身内以外は立ち入り不可っちゅう話なら、この後のことも、あんさんらだけで何とかしなはれ。部外者立ち入り禁止やったら、僕は首を突っ込む気はござんせん」


「御見舞いなら、誰でも大丈夫です!一般の病棟じゃないけど、私たちがお願いすれば会わせてもらえるはずですから!お願いします!」

3人は、救いの神を見失うまいと一斉に立ち上がり、腰が折れんばかりの勢いで頭を下げた。


「さいですか。ほな、病院へ向かう前にもう一つだけ。あんさんらがこっくりさんに使わはった『盤』、その紙はどこにありますかね?」


こっくりさんは、十円玉という「動体」と、文字が書かれた紙という「舞台」があって初めて成立する。

その紙がまだ現世に残っているのなら、そこには必ず「通り道」が残されているはずだ。


金髪の少女は、今度は少しだけ誇らしげに、しかし不安を隠しきれない様子で答えた。

「それは、えっと……ネットとかで調べて。禅宗のお寺が狐にまつわるって書いてあったから、昨日のうちにお祓い代わりに行ってきたんです。そんで、境内の木にしっかり結んできました」


少女が口にしたのは、京都でも指折りの格式を持つ、とある禅宗の寺院だった。

それを聞いた瞬間、呪術師の顔に、深い、そして落胆の混じった溜息が刻まれた。


「……なんともまあ、えらこっちゃな事をしはりますなあ。よりによって、あのお寺さんですかいな」

男は、こめかみを押さえるようにして天を仰いだ。


「えっ……?ダメだったんですか?狐に縁があるって書いてあったから、そこに返せばいいと思って……」

長い茶髪の少女が、戸惑いながら尋ねる。


「宜しくありませんな。狐ならどこでもええっちゅう訳やない。むしろ、そこの主さんは、あんさんらが持ち込んだような『不浄なもの』を一番嫌いはります。放っておいたら、盤を結びつけた木ごと、あんさんらの縁もろとも焼き切られてまいますえ」


男はそう言い捨てると、迷いのない足取りで、神社の鳥居をくぐって外へと踏み出した。

その背中には、先ほどまでの「通りすがりの男」ではない、闇を払う専門家としての峻烈な気配が漂っている。


「あ、ま、待ってください!」

「私たちも行きます!」

少女たち3人は、慌てて黒いコートの背中を追いかけた。

朝日が昇りきった京都の街を、場違いな黒衣の男と、必死な面持ちの少女たちが、一つの「盤」を回収するために駆け出していった。


---


##聖域の浄化――穢れを解く黒衣の手


陽光が古都の町並みを鮮やかに照らし出し、朝の活気が本格的に動き始めた頃。

黒いコートを翻して歩く40代半ばの呪術師と、その後ろを怯えた様子で追いかける三人の女子中学生という、異様な一行がその寺院へと辿り着いた。


歴史の重みを感じさせる壮大な山門の前で、呪術師は足を止め、深く静かに一礼を捧げる。

その隙のない所作に圧倒されるように、少女たちも慌てて彼に倣い、ぎこちなく頭を下げてから、結界の内側へと足を踏み入れた。


案内されたのは、境内の隅にひっそりと佇む一本の古木だった。

そこには昨日、彼女たちが「お祓い」のつもりで結びつけた、あの忌まわしい『盤』の紙が、不自然なほどにそのままの姿で残されていた。


「……回収されへんかったのが、不幸中の幸いでしたな。もしかしたら取り戻しに来ると思うて、お寺さんの人らが、あえてそのままにしておいて下さったんかもしれませんがね」


呪術師はそう呟くと、無表情のまま懐から解呪用の護符を取り出した。

彼はそれを盤の紙にぴたりと貼り付けると、鋭い双眸を細める。


『――かい


短い言霊とともに、彼が護符を放り投げる。

すると、空中で護符が青白い炎を上げてひとりでに燃え尽きた。

同時に、固く結ばれていたはずの盤の紙が、魔法が解けたかのようにするりとほどけ、地面に落ちようとする。


呪術師はそれを右手で鮮やかに受け止めると、瞬時に別の護符を重ねた。

すると、その紙片が生き物のように形を変え、丈夫な袋の形となって盤の紙を完全に包み込んでしまった。


「ほな、次へ行きまっせ。時間は待ってくれまへんさかい」


男はそれ以上一秒たりとも留まる気はないと言わんばかりに、颯爽と歩き出し、寺院を去ろうとする。

「あ、ま、待ってください!」


金髪の少女が、混乱した頭を抱えながら、必死に彼の背中に問いかけた。

「えっと、今の……今のは、一体なんやったんですか?」


呪術師は歩みを止めず、前を見据えたまま、氷のように冷たく、しかし重みのある声で答えた。

「君らが、この由緒ある聖域に土足で踏み込んだ挙句、呪いの残り香を擦り付けてしもたんを、僕が解いたんです。……早い話が、妖気を解いて還した。解呪かいじゅと言うやつですわ」


その言葉には、少女たちの軽率な行動に対する明らかな落胆が混じっていた。

「呪術に手を出すんも見境なければ、その後始末も御粗末が過ぎますな。こういう事は、二度とやらんように。素人が面白半分で踏み込んでええ領域やありませんえ。全部終わったら、改めてここのお寺さんに、手土産持って頭下げに来はったら宜しゅうおす。分かってはりますな?」


無表情で淡々としていながらも、その言葉の裏には、少女たちを本気で案じ、叱る大人の厳格さが宿っていた。

三人はその威圧感に身を縮め、消え入りそうな声で「はい、ごめんなさい……」と呟くのが精一杯だった。


彼女たちは、自分たちが踏み抜いた地雷の大きさをようやく理解し始め、もはやこの黒衣の男から離れることなど考えられぬ様子で、必死にその後を追い続けた。


---


##病院の狐――剥離の護符と黄金の誘惑


呪術師は、開店直後の活気付くショッピングモールに立ち寄ると、食品売り場で揚げたてを出してくれる揚げ物屋で迷わず一袋の油揚げを購入した。

それはどこにでもある商品に見えて、その実、大豆の旨みが凝縮された質の良い一品だ。

それから一行は、京都駅の喧騒をすぐ側に臨む大病院へと足を踏み入れた。


殺風景な精神科の病棟。

呪術師は主治医を呼び出すと、有無を言わせぬ気迫で面会の許可を取り付けた。


案内された個室のベッドでは、以前は三つ編みに整えられた髪型が痛々しいほど乱れた少女が、暴れ出さないよう拘束具で厳重に縛り付けられていた。

かつての気弱な面影は消え失せ、その瞳には獣のような狂気と、煮えたぎる怒りの表情が宿っている。

変わり果てたクラスメイトの姿を目の当たりにし、付いてきた三人の少女は涙を浮かべて立ち尽くした。


しかし、呪術師は感傷に浸る間もなく、冷徹に言い放った。

「先生。問題ありませんから、その拘束具は全部外したって下さい。これから何が起ころうとも、責任は全部僕が持ちます」


「え、ええ~……。しかし、危険ですよ……」

主治医は困惑したが、男の背中から漏れ出る圧倒的な自信と、抗いようのない圧力に圧され、恐る恐るベルトを外していく。


最後に右腕の縛りを外している間、呪術師は買ってきたばかりの袋を無造作に掲げた。

「これ、あの『妖古ようこさん』もお気に入りの油揚げですえ。……食べて下さい」


その言葉が耳に届いた瞬間。

これまで獣のように唸っていた少女が、ふっと表情を和らげた。

拘束具がすべて解かれても、彼女は暴れ出すどころか、磁石に吸い寄せられるように呪術師の手元を見つめている。


呪術師は電光石火の速さで懐から護符を取り出し、目の前に掲げた。


『――はく


鋭い言霊と共に、呪術師が少女の右手に護符を貼る。

すると少女の右手が、まるで意志を持ったかのように十円玉を握りしめたまま護符に吸い寄せられた。

護符がカッと眩い光を放ち、呪術師がそれを一気に引き剥がすと……。


そこには、護符にべったりとくっついて引きずり出された、一匹の狐の姿があった。

それと同時に、三つ編みの少女は毒気が抜けたように元の気弱な表情に戻り、糸が切れた人形のように眠りへと落ちた。


「あ……!?」

目の前で起きた「狐の抽出」という非現実。

気を失った友人、そして呪術師の手に暴れる可愛らしい狐の怪異。


三人の少女たちは、もはや声を上げることもできず、ただ呆然とその光景を見つめるしかなかった。


---


呪術師は、護符の上でじたばたと足を動かす狐を冷ややかに見下ろした。


「この子らを堪忍したって下さいとは申しません。それでも、どうせ噛みつくんなら、こっちの方が宜しいでっしゃろ、気狐きこさん。妖古さんも好きな味や言うてはりまっせ」

彼はそう言って、油揚げの入った袋をひらひらと揺らした。


気狐と呼ばれた狐は、驚いたように大きな耳をぴくぴくと動かし、恐る恐る呪術師を見上げた。

「……あの。あんさん、もしや妖古様のお知り合いどすか?」


「親しくさせてもろてます。こないだも、稲荷祭を御一緒させて貰いましたでな。……あ、ここやと先生方の目もあって手狭やさかい、場所変えましょか。休憩所でも借りましょや」

呪術師はさっさと病室を後にする。


すると、気狐は先ほどまでの凶暴さが嘘のように目を輝かせた。

「やった!役得やでな!妖古さんも食べてはる油揚げ、ワタイも食べてよろしおすか!?」


狐はニコニコと尻尾を振りながら、呪術師の足元を跳ねるように付いて行く。

あっけにとられていた三人の少女たちも、ようやく我に返ると、慌てて奇妙な二人(一人と一匹)の後を追いかけた。


---


##狐の説教――罪の在り処と「痛み」の正体


病院の最上階に近い、広くて清潔な休憩スペース。

朝の陽光が大きな窓から差し込み、白を基調とした空間を明るく照らしている。

そこへ、場違いなほど真っ黒なコートを纏った男と、肩を震わせる女子中学生三人、そしてそのテーブルの上に鎮座する一匹の「狐」という、あまりに奇妙な一行が席を陣取った。


呪術師は、先ほどショッピングモールで購入した油揚げを無造作にテーブルへと広げた。

すると、それまで護符にくっついていた気狐は、ふわりと着地すると器用に前足を合わせ、深々とお辞儀をした。


「いただきやす♪」

そう言うや否や、気狐はむしゃむしゃと黄金色の油揚げを頬張り始めた。

その食べっぷりは実に見事で、あふれんばかりのご機嫌な笑顔を浮かべている。


その光景を、女子中学生たちはただ呆然と見つめ続けるしかなかった。

自分たちが呼び出し、友人に取り憑いた「恐怖の対象」が、今は目の前で幸せそうに間食を楽しんでいるのだ。


「はふー……。妖古様がお気に入りの油揚げ、まさか食べられるとは思わなんだ。ありがとさんどすなあ♪」

気狐は満足げに息をつくと、尻尾をご機嫌に揺らした。


そこへ呪術師が、あらかじめ買っておいた烏龍茶のペットボトルを差し出す。

「烏龍茶です。どうぞ」


「おや、気が利く呪術師さんどすなあ。おおきに♪」

気狐は慣れた手つきで蓋を開けると、ごくごくと喉を鳴らして茶を飲んだ。

そのあまりに人間臭い動作に、少女たちの緊張は困惑へと塗り替えられていく。


「御機嫌は戻ってくれはったみたいですな。宜しゅうおす」

呪術師は相変わらず、感情の読めない無表情のまま淡々と告げた。


「ふふん、御機嫌は直りましたがね……」

気狐は口元を前足で拭うと、急にその金色の瞳を険しく光らせた。

「こやつらを赦したわけやおへんよ!」


気狐はプンスカと怒り出すと、テーブルを前足で叩き、三人の少女たちをビシッと指差した。

「ほんまに!未だにこっくりさんを遊び半分でやりよるアホなクソガキがおるとは、嘆かわしいどすな!世も末どすえ!」


「ご、ごめんなさい……」

三人は蛇に睨まれた蛙のように、一斉に頭を下げた。


しかし、気狐の叱責はここからが本番だった。

「言っとくけどね、ワタイが怒り心頭なんは、こっくりさんをやりよった事やおへんよ!」


「え……?」

三人は驚いて顔を上げた。

遊び半分で禁忌に触れたことが罪ではないというのか。


「こっくりさんをやりたがるんは、まあ、わからんでもあらしまへんよ。子供っちゅうのは、不思議なことや怖いことが好きなんはいつの時代もそやからねえ。……しかしや!」


気狐は身を乗り出し、一文字ずつ噛み締めるように、鋭い言葉を少女たちに突きつけた。


「ワタイが本気で怒っとるんはね!一つは、あの子をいじめとる事。もう一つは、代償を誰かに肩代わりさせようとした、卑怯で汚らしいその在り方どす!」


ぴしゃりと放たれた正論に、三人は首をすくめ、返す言葉もなく黙り込んだ。


「あの子に憑依した時ね、あの子の心の奥から、助けてっていう『SOS』が響いてきましてなあ。ワタイはそれを受け取ったんどす。……ほんで、いっちょこいつらを叱らなあかん思うてね。ついでにあの子自身の手で、あんたらを一発かまさせてやりとうて、突き飛ばしたったんどすわ。あの子の……いじめられてきた痛みを、少しは思い知りや!」


「……っ」

三人は、自分たちが「生贄」として差し出した少女の苦しみが、物理的な力となって自分たちに返ってきたことを知り、激しい後悔と羞恥に顔を赤くした。


「はい……すみませんでした……」


清潔な休憩所に、少女たちの消え入りそうな謝罪が響く。

呪術師は、その様子をやはり無表情のまま、けれどどこか「教育」の成果を見届けるような静かな目で見つめていた。


---


##報いと救い――二つの穴と狐の慈悲


病院の静謐な休憩所に、気狐の放った峻烈な言葉の余韻が重く立ち込めていた。

自分たちの心の内にあった卑怯な計算を白日の下に晒され、三人の少女たちはもはや顔を上げることもできず、ただ小さく肩を震わせて石像のように固まっている。


その沈黙を切り裂くように、呪術師が冷徹な、しかしどこか教育的な響きを孕んだ声で語り始めた。

「……世間ではよく『人を呪わば穴二つ』と言いますな。あるいは、我々の世界では『逆凪さかなぎ』とも呼びますが……。まあ平たく言えば、呪術という刃を振るった際に、その切っ先が自分の方へも向いてしまう『しっぺ返し』のようなもんですわ。古今東西、あらゆる呪術の類には、大なり小なり、そういうことわりが付いて回るもんです」


男は表情ひとつ変えず、専門家としての冷ややかな視線を少女たちに据え置く。


「今回の件は、いわば一種の降霊術に近いもんです。特定の誰かを呪い殺そうとしたわけやないから、毒が直接自分らに跳ね返ってくるような即効性の『逆凪』は、本来なら起こらんはずやった。……そやけど、準備も後始末も、あまりにも雑過ぎたんが大問題でしてな。特に、代償への対策について、これが一番叱らなあかんポイントです。おたくら、代償の提示が明確にあることは、こっくりさんを自分らで調べてから始めたと言うててはったんやから、重々分かってはりましたやろ?」


淡々と、しかし逃げ道を塞ぐように問いかける男の声は、少女たちの耳元で冬の隙間風のように鋭く鳴った。


「ええですか。呪術を生業とする者は、その術を放つ前に、必ず『代償』への対策を完璧に済ませておくもんです。その対策の一つとして、あんさんらがやらはったみたいに、自分以外の誰かを『人柱』として立てることで、返ってくる衝撃を肩代わりさせるという最悪の回避策も、歴史を紐解けば存在せんわけやありません」


呪術師は一度言葉を切り、彼女たちの浅はかな思惑を、氷のような言葉で突き放した。


「そやけど、そこまでの外法げほうとも言える技を完遂するには、よほど深い恨みを持っとる者が自らの破滅も覚悟の上でやるか、あるいは、返ってくる歪みを完全に制御できる術を身につけた、熟練の専門家くらいのもんですわ。間違っても、術理も道理も知らん素人が面白半分の遊び半分で手を出してええことやおへん。それは、安全装置のない核爆弾を、おもちゃ箱に入れて遊ぶようなもんです」


気狐が、その小さな前足で机を強く叩き、少女たちを震え上がらせる一喝を放った。

「左様どす!こっくりさんを単なる遊びと侮り、あまつさえその余波を鎮める技量も覚悟も皆無のままに、卑怯にもあの子を盾にして生贄のように使いよってからに!あんたら、何様のつもりどす!?一歩間違えれば、あの子も、あんたらもただやすまへん、もしかしたら死人が出とったかもしれんのどすえ!?もっと自分のしたことの重さを、心に刻んで猛省しなはれ!」


「ひっ……ううっ、ごめんなさい……っ」

金髪の少女が、堪えきれずに嗚咽を漏らし始めた。

それに釣られるように、他の二人も顔を覆ってボロボロと大粒の涙を流し出す。


「これに懲りたら、二度とこんな真似はせんことですな」

呪術師は、泣きじゃくる彼女たちに対して一切の憐憫を見せず、冷徹に、しかし確実に釘を刺した。

「今回は、あの大事な霊域が呪いの残り香で汚されたままなんが、我慢ならんかった。そやから、あくまで僕の勝手なエゴで横槍を入れたに過ぎません。ええですか。次は無いもんやと思うて、今回味わった恐怖を一生、肝に銘じておきなはれ」


その突き放すような言葉は、同時に「次は許さない」という、大人としての最期の通告でもあった。


少女たちの涙がテーブルに滴るのを見て、気狐は少しだけ毛並みを和らげ、まるで孫を諭す祖母のような、柔らかな京言葉で語りかけた。

「あの子に対しても、本気で申し訳ないと思うたのやったら、これから逃げずにやるべきことをしなはれ。そうやって自分の過ちを認めて、恥じて、涙を流せる内は……まだ、人間としてやり直せるんどすから。ええどすか?」


「はい……っ。本当に、申し訳ありませんでした……」

「ごめんなさい……ごめんなさいっ……」

三人は、溢れる涙を拭うことすら忘れ、深く、深く頭を下げ続けた。

自分たちが生贄として差し出した少女の「痛み」が、ようやく自分たちの胸をも焼き焦がし始めた証だった。


「……ふむ。これにて、一件落着で宜しゅうおすかな」

呪術師が、わずかに纏っていた緊張の糸を解くように呟いた。


「そうどすなあ。まあ、青春の一ページと言うには、いささか刺激が強すぎましたやろね、この子らにとっては。フフフ♪」

気狐は再びご機嫌な様子を取り戻し、テーブルの上でコロコロと楽しげに笑い声を上げた。


窓の外では、古都の街を包み込む朝日がいよいよ高くなり、眩いばかりの光が休憩所を隅々まで照らし出していた。

消えることのない罪の意識と、かろうじて守られた命。

その両方を背負った少女たちの、長く、厳しい、けれど光のある贖罪の朝が、今ようやく始まった。



---


##朝霞の再会――狐の情愛と新たな誓い


三人の女子中学生たちは、友人が眠る病室の前に残ることを決めた。彼女たちの瞳にはまだ涙の跡が残っていたが、その光には、逃げ続けてきた過去と向き合う確かな覚悟が宿っていた。

「あの子が目を覚ましたら、今までのこと、全部、全部謝ります」

金髪の少女が震える声でそう告げた時、呪術師は何も言わず、ただ一度だけ短く頷いて病棟を後にした。


病院の玄関を出ると、京都の街はすっかり朝の活気に包まれていた。

眩い陽光が降り注ぐ中、並木道の側に一人の妖が佇んでいる。

狐色の長く美しい髪が風になびき、その隙間からぴんと立った狐耳が覗いている。

釣り目の美貌に宿る知的な光と、目の覚めるような深い朱色の着物を完璧に着こなすその姿は、この世のものとは思えぬ絶世の美女であった。


呪術師は足を止めると、迷わず胸の前で手を合わせた。

「妖古さん、お早う御座います」

深く丁寧な一礼。


その後ろでふよふよと浮かんでいた気狐は、主の姿を認めるなり、大慌てで空中で平伏した。

「これはこれは、妖古様直々にお越し頂けるとは、光栄に御座います!お早う御座います!」


妖古は、艶やかな唇を僅かに綻ばせた。

「お早うさん。どうやら、我の出る幕はのうなったみたいじゃの。こっくり騒動の口実に、ちょいと街に降りて来たんじゃが。連絡おおきにな、呪術師殿」

妖古が指先を弾くと、どこからともなく飛んできた一枚の御札が、呪術師の手元へと吸い込まれるように戻っていった。

それは、彼が事の次第を知らせるために事前に飛ばしていた伝令の札であった。


呪術師は淡々とその札を受け取り、懐へと収納した。

「いえいえ。気狐さんが現場でしっかりとあの子らを叱ってくれはりましたからな。僕が手を下すまでもありませんでした」


「呪術師殿に免じて、雷を落とすだけで勘弁してやりましたんよ」

気狐は胸を張って言い切ったが、すぐに不安そうな顔で妖古の機嫌を伺った。

「ほんで……あの。ワタイ、叱られるような不手際、してまへんよね?」


妖古は一つ溜息をつき、気狐をねめつけた。

「別にそんな事しとらんじゃろ。まあ、憑依したまま、油揚げをせがみ倒したっちゅう話には、あの娘に対して少々の同情はあるがの」


「……っ、そこまで大量には食べてまへんから!」

気狐が慌てて可愛らしく手をぶんぶん振る。


「して、憑依した娘の体型は?」

唐突な問いに、気狐は真面目な顔で答えた。

「痩せ型どした。憑依した時に記憶を覗いてみたら、酷いいじめのせいで、ここ最近はまともに食欲もあらへんかったみたいどす」


それを聞いた妖古は、フッと表情を和らげた。

「ほな、結果オーライじゃの。荒療治ではあったが、ぬしが憑依した娘の身体に多少の栄養は行き渡ったというわけじゃ。……ただし。憑依してから、あんまり好き放題しなや」


「あ、はい……精進しまっさ」

気狐がしょんぼりと頭を下げると、その様子を見ていた呪術師が静かに口を開いた。

「ほな。これで僕は、報告のために御狐神社まで顔を出さんでも宜しいみたいですな」


妖古はコロコロと、朝露が転がるような笑い声を上げた。

「今ここで気狐から報告を直に聞いたからのう。さて、こやつが世話になったの、油揚げまで馳走になりよって。ほんで、解呪と後処理もおおきに、呪術師殿。」


「御存じでしたか……」

気狐が耳を伏せて呟くと、妖古はくんくんと鼻を鳴らした。


「油揚げの匂いが、まだぬしに残っとるわい。折角じゃから、儂も一つ買って帰るかのう。ほな、またな」

妖古はひらひらと手を振り、雅な足取りで雑踏の中へと消えていく。


「ワタイは妖古さんに付いて行きますさかい。呪術師殿、お世話になりましたでな、おおきに!」

気狐もぺこりと頭を下げると、ふよふよと空を泳ぎながら、主の後を追って行った。


「はい、それではまた」

呪術師は去りゆく二人の背中に向けて一度だけお辞儀をすると、コートの襟を立て、何事もなかったかのように颯爽と歩き去っていった。

その後ろ姿は、朝の光に溶け込み、再び「通りすがりの平凡な男」へと戻っていく。

しかし、その懐には、少女たちの過ちを解いた確かな智慧と、達人のみが扱える御札が静かに納められていた。


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##式神の導き――浄化の微笑みと北の暗雲


病院での「こっくりさん」騒動を鮮やかに解決し、朝の空気の中で妖古たちを見送った呪術師は、再び日常のルーティンへと戻るべく歩み出した。

折角の休日、もう少しだけ古都の気配を楽しみながら、静かに帰宅の途につこうとしていた――その時である。


何処からともなく、一羽の鳥が空を切り裂き、一直線に呪術師を目掛けて飛来した。

呪術師は驚く風もなく、呼吸をするようにスッと左手を差し出すと、鳥はその指先に吸い寄せられるように止まった。

直後、鳥の姿は淡い光を放ちながら、一枚の御札へと姿を変える。


「……ふむ」

書かれた文字を追った呪術師の眉間に、深い皺が寄る。

呪術師はひとつ重苦しい溜息を吐き出すと、予定していた帰宅ルートを捨て、迷いのない足取りで「北」の方角へと向き直った。

「なんともまあ、今日はよう御縁がありますなあ。厄日というやつかもしれませんな」


独りごちて歩き出そうとした彼の背中に、春の陽だまりのように温かく、透き通った声がかけられた。

「呪術師さん、お早う御座います」


振り返れば、そこにはこの世の汚れをすべて洗い流してしまうような、菩薩の化身と見紛うばかりの女性が立っていた。

綺麗に切り揃えられた短い黒髪。浄土宗の僧侶が纏う格調高い法衣と袈裟を見事に着こなしたその姿は、見る者の魂を惹きつけ、浄化せずにはおかないほどの美貌を湛えている。

彼女こそが、この界隈で厚い信頼を寄せられる若き女性住職であった。


住職は合掌してお辞儀をすると、呪術師が手にしている御札を一目見て、すべてを察したように微笑んだ。

「呪術関連の御依頼でしたか。お急ぎのところを、呼び止めてしまいましたね」


「お早う御座います御住職。別段、急ぎやおへん、まあ……出来るだけ急いだほうが、先方は喜ばはりますやろうがね」

呪術師は無表情のまま応じるが、その目は既に北の空に漂う不穏な気配を捉えていた。


「ここで御住職とお会いできたのは、実に有難いことです。多分、少しばかり『ドンパチ』やり合うことになりそうやさかい。宜しければ、あちらで『結界』を張りに来てくれはりませんか?」


男の丁寧な、しかし切迫した要請に、女性住職は一点の曇りもない笑顔で頷いた。

「そのようですね。飛ばされてきた『式神符しきがみふ』は、どうやら一刻を争う緊急事態を伝えているようですから。私で宜しければ、喜んでお供いたしましょう」


「助かります、有難う御座います。お世話かけますな……朝の法要が終わったばっかりやっちゅうのに」

呪術師は再度頭を下げ、並んで北へと歩き出した。


「お気になさらず。それにしても……ふふ、相変わらず頼りにされていますね、呪術師さんは」

住職が微笑ましく彼を見上げると、呪術師は今日何度目かになる、達観したような溜息を吐き出した。


「御住職ほどやおへん。それに……出来れば、頼らんで欲しいんですがね。一体どこのどなたが、僕みたいな『隠れ呪術師』を指名しはるんでしょうなあ……正確には、どこの怪異っちゅうところですがな」

無表情ながらも、呆れたように肩をすくめる呪術師。


そんな彼の横顔を、女性住職は菩薩のような優しい眼差しで見守りながら微笑む。

「ふふ、どなたからの御依頼か、既にお察しの御様子ですね。」


二人の影は朝の光に揺られ、北の不穏な暗雲へと向かって真っ直ぐに伸びていった。


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##逆巻く妖気――蒼炎の猪と浄化の微笑


地下鉄の階段を上がり、古都の心臓部とも言える御所の近辺へ地上に出た瞬間、二人の肌を撫でたのは春の柔らかな風ではなく、肺の奥まで凍てつかせるような禍々しい空気の塊であった。


一般の通行人たちは、首をすくめて「急に冷え込んできたな」と呟く程度にしか感じていない。

だが、その実、御所の守りを固めるように鎮座するその神社の周辺には、どす黒い大蛇のようにのたうつ妖気が渦巻き、空の色さえも淀ませているかのように見えた。


呪術師は、黒いコートの襟を立て、今日何度目になるかも分からない呆れた溜息を吐き出した。

「なんともまあ……。朝の騒動が可愛く見えるほどの暴れっぷりですな。御所のすぐ隣でこれとは、よほど不心得な真似をした者がおるようです」


神社の鳥居まで来ると、そこには異様な緊張感が漂っていた。

参拝に訪れたはずの観光客や地元の人々が、次々と顔を青くして境内から逃げ出してくる。

「なんや、急に寒気がするわ」「この神社、なんか呪われとるんちゃうか?」

そんな怯えた声がそこかしこで重なり、静謐であるはずの聖域を不安が侵食していた。


その様子を菩薩のような慈愛に満ちた目で見守っていた女性住職が、静かに隣の男へ問いかけた。

「神職の方々が必死に結界を維持して、踏ん張って下さっているようですね。一刻を争う事態のようですが、急いだほうが宜しいでしょうか?」


呪術師は、逃げ惑う人々とは対照的に、あえてゆっくりとした足取りで歩みを進めた。

「……恐らく、中でお灸を据えられている御仁にとっては、今がええ薬になってる最中でしょう。教訓を骨まで植え付けるという意味では、もう少し時間をかけた方が良さそうではあるんですがね」

口ではそう毒づきながらも、彼の足取りは確実に速まり、二人は迷いなく大鳥居をくぐり抜けた。


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境内の奥、一般人の立ち入りを禁じる「立入禁止」の札と、太い注連縄で覆われた区画まで来ると、事態の深刻さは一目瞭然であった。

空間そのものが歪んでいるかのように、結界を示す紐がびりびりと激しく振動し、今にも弾け飛ばんばかりの悲鳴を上げている。


「結界が限界に来てますがな。あの気狐さんに負けず劣らず、ここで暴れまくってる御方も相当お怒りのようです」

呪術師が眉間に皺を寄せた、その刹那である。


境内の奥深く、深い闇が溜まる社殿の方から、ヒュンッという空気を切り裂く物凄い音が響いた。

直後、青白い炎を全身に纏った、猪の形をした巨大な火の塊が、一直線に二人を目掛けて飛来した。

それは、霊的な防護を持たぬ者が触れれば、魂ごと焼き尽くされるほどの質量を持った殺意の権現であった。


しかし。

女性住職は驚く風もなく、ただにっこりと、花が綻ぶような菩薩の微笑みを浮かべた。

彼女が静かに、そしてしなやかな動作で両手を合わせた、その瞬間……


「――南無」


青い炎の猪は、二人に到達するよりも遥か手前で、まるで目に見えない清らかな水壁にぶつかったかのように、一瞬で霧散した。

爆音も衝撃も残さず、ただ静かに、跡形もなく消え去ったのである。


「……相当、お怒りの御様子ですね」

女性住職は、微笑みのまま微塵も動じず、合掌したまま凛とした声で祝詞を唱え始めた。

すると、あんなに激しく震えていた注連縄が、まるで魔法にかかったようにぴたりと静止し、空間を支配していた不浄な振動が霧が晴れるように収まっていく。


呪術師は、その神業とも言える浄化の力を横目で見やり、感服したように頷いた。

「いつもながら、見事な結界ですな。有難う御座います。これで外に漏れる心配はなくなりましたし、結界の崩壊にも間に合いました。さて、これ以上の面倒が拡大する前に、元凶を拝みに行きましょか」


二人は躊躇することなく、静寂を取り戻した立入禁止区域の奥深くへと、その身を投じていった。


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##憤怒の人形――聖域の奥に潜む狂乱


一般客の喧騒が遠のいた結界の深奥。そこには、表向きの華やかな朱塗りの社殿とは一線を画す、鈍い銀鼠色の古木で組まれた厳格な儀式殿が鎮座していた。

その周囲では、数人の神職たちが血の気の引いた顔で右往左往し、手の施しようがないといった様子でオロオロと狼狽している。


呪術師は、懐から例の鳥の形をした御札を取り出し、それをひらひらと見せながら、先頭にいた禰宜ねぎへと声をかけた。

「こちらの式神を飛ばさはったんは、今まさに中で奮闘中でっしゃろか?」


「あ!それを持っていらっしゃるということは……貴方は神職の方ですか!?それとも、陰陽師の方ですか!?」

禰宜が、地獄で仏に会ったような必死の形相で走り寄ってくる。


「ちゃいます。僕はただの通りすがりの呪術師で、こちらは浄土宗寺院の御住職です」

男は事務的に、しかし微塵の隙もない所作で合掌し、一礼した。

「こちらの式神は、歩いてたら飛んで来ましてな。拾わせて貰ろただけですわ」


隣で控える女性住職も、たおやかな菩薩の微笑みを絶やさず、静かに合掌する。

「お邪魔致します。不調法ながら、お手伝いできることがあればと思いまして」


「その御札に気づかれたということは、心得がある人ですよね!?お願いです、助けてください!中の宮司様が……!」

巫女の一人が、涙ながらに訴えかける。


「助けるかどうかは、中の状況と事情を伺ってからにしましょか。……ほな、神殿の中に入りまっせ」

呪術師は迷いなく、巨大な威圧感を放つ建物へと大股で近づいていく。


「あ、危険ですよ!今はまだ……!」

別の巫女が慌てて制止しようとするが、二人の足取りは止まらない。


建物の前で、二人は呼吸を合わせるように「二礼二拍手一礼」を済ませると、音もなく靴を脱ぎ、磨き抜かれた木の階段を上がった。

中からは、空気を引き裂くような轟音と、何かが激しく激突する「ドンパチ」という騒ぎが絶え間なく響き続けている。


呪術師は躊躇することなく、重厚な扉に手をかけた。


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ギィ、と古びた扉が開かれた瞬間、猛烈な熱気と青白い閃光が二人を襲った。

今度は先ほどよりも巨大な、二体の「青い炎の猪」が、侵入者を排除せんとばかりに物凄い勢いで突進してきた。


しかし――。


「お邪魔しまっせ」

呪術師は無造作に右手を突き出すと、一体の猪の頭を直接鷲掴みにした。

その瞬間、凄まじい威力を誇っていた炎は、男の掌の中で一瞬にして霧散した。

もう一体は、凛と立つ女性住職の衣に触れることさえできず、彼女の放つ清浄なオーラに弾き飛ばされるようにして跡形もなく消え去った。


「ああっちょっと!誰や扉を開けよったんは!瘴気しょうきが出てまうやんか、早う閉めんか!!」

奥で祭壇を必死に守っていた白髪交じりの年配の宮司が、絶叫に近い声を上げる。


「欠片も出ていかへんから、安心して下され」

呪術師は冷徹な声で一蹴すると、騒ぎの中心へと鋭い視線を据えた。


そこには、異様な光景が広がっていた。

神殿の中心、宙に浮かんでいるのは――。


三尺はあろうかという、豪華な着物を纏った大きな人形。

だが、その可愛らしく美しいはずの顔立ちは般若はんにゃさながらの憤怒の形相へと歪み、周囲の空気を焼き尽くさんばかりに、次々と青い猪の炎を吐き出していた。


「……ほう。随分と派手な『お遊戯』ですな」

呪術師の瞳が、暗がりの奥で黒く、鋭く輝いた。


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##因果の逆転――糾弾される「被害者」


神殿の内部は、さながらこの世の地獄を凝縮したような光景であった。

十人もの神職たちが円陣を組み、必死の形相で大幣おおぬさを振り、立ち込める瘴気を押し返そうと躍起になっている。

その中心で宙を舞うのは、憤怒の形相を浮かべた巨大な人形。

その美しいはずの着物の袖からは、絶え間なく青白い猪の炎が吐き出され、空間を焼き、歪めていた。


新しく入ってきた二人を、人形は般若の如き凄まじい眼力で睨みつける。

『何人束になろうが無駄よ。この男の身勝手な業、私が焼き尽くしてやるわ!』

金切り声のような叫びと共に、再び炎を放とうとする人形。


だが、呪術師は眉一つ動かさず、入ってきたばかりの扉を静かに、そして確かな手つきで閉めた。


彼は人形の脅しを柳に風と受け流し、無表情のまま足元に視線を落とす。

そこには、高級そうなスーツを泥と汗で汚し、情けなくうずくまっている一人の青年がいた。


呪術師は彼を一瞥し、隣で大幣を振る年配の男へと淡々と問いかけた。

「……元凶は、この御仁で宜しゅうおすか?」


「そ、そうや!どこの誰か知らんが、危ない、そこをどけ!巻き込まれるぞ!」

宮司らしきその男が、息を切らしながら叫ぶ。


呪術師は懐から鳥の形をしていた御札を取り出し、宮司の目の前に突きつけた。

「宮司さんですか。この式神の気配、おたくの霊気と一致してはるさかい、これの主で間違いなさそうですな」


「おお、それを持ってるっちゅうことは、助けに来てくれたんか!?全然そんな感じせえへんけど、とにかく早う何とかしてくれ!」

宮司は藁をも掴む思いで叫び返した。


しかし、呪術師は依然として冷ややかな態度を崩さない。

「助けが必要かどうかは、話を聞いてからですわ。……ほんで、さっきの質問です。元凶は、この御仁で宜しゅうおすかな?」


呪術師が再び視線を落とすと、うずくまっていた青年が弾かれたように顔を上げた。

その顔は恐怖で引き攣り、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、必死に呪術師の裾を掴もうとする。

「そ、そうや!その通りや!そこの浮いてる化け物人形が元凶や!頼む!助けてくれ!さっさと、さっさとその不気味な人形をぶち壊してくれ!」


青年の情けない懇願を、呪術師は今日一番の深い、底の見えない溜息で遮った。

そして、冷え切った冬の月光のような声で言葉を継ぐ。

「……聞き方が悪うござんしたな。僕が聞きたいんは、怪異がどなたかっちゅう話やありません」


呪術師は、青年を射貫くような鋭い視線で見据えた。

「つまり。どこの誰か知りませんが、元凶は……『おたく』ですか?『あなた』が元凶ですかと伺っておるんです」


「「「「……え?」」」」

呆然とした声を上げたのは、青年だけではなかった。

必死に祈祷を続けていた宮司たち、さらには今まさに炎を放とうとしていた宙の人形でさえ、虚を突かれたように動きを止めた。


室内を支配していた荒れ狂う暴風が、一瞬にして凪ぐ。

その不気味な静寂の中で、呪術師は無表情のまま、一文字ずつ釘を刺すように問いを重ねた。


「おたくは……一体、何をやらかさはったんです?」


その問いは、逃げ場のない「審判」の響きを持って、神殿の奥深くに重く、低く響き渡った。


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##身内の喧嘩――突き放された救済


一瞬、神殿の内部が水を打ったように静まり返った。


荒れ狂う青い炎の残滓が火の粉となって宙に舞う中、女性住職がその清浄な衣の裾を揺らし、スッと一歩前に出た。

彼女は、憤怒の形相で宙に浮く人形に対し、恐れや嫌悪を微塵も感じさせない、慈愛に満ちた菩薩の微笑みを向けた。


「私は京都の浄土宗寺院で住職を務めさせて頂いておるものです。あなたは、固有の名前をお持ちですか?」


鈴の音のように透き通った声。

人形は、その圧倒的な「善」の気配に毒気を抜かれたのか、般若の如き表情を僅かに緩め、低い声を神殿の中に反響させた。

『……民子たみこ


「では、民子さん。暫く御時間を頂けませんか?あなたがこれほどまでに荒ぶるに至った御事情を把握する御時間を頂けましたら、嬉しゅう御座います」

女性住職は、そう言って優しく合掌し、深々とお辞儀をした。


その横で、呪術師もまた、肩の力を抜いた様子で口を開く。

「有難う御座います、助かります。民子さん、僕のことは『呪術師』とでも呼んで下され。ほんで、こちらの『元凶』らしき青年は、何もんです?」


『……敦彦あつひこ


「さいですか、敦彦さんね……ほんで、無理矢理『お焚き上げ』しようとしよったから、流石に堪忍袋の緒が切れましたか」

呪術師の鋭い視線が、民子が纏う豪華な着物の袖に止まった。

そこには、無造作に火を押し付けられたような、無残な黒い焦げ跡が残っている。


人形にとって着物は皮膚も同然。

それを、まだ「意識」がある状態で無理矢理焼こうとしたのだ。


人形――民子は、呪術師を射抜くような目で見つめた。

『……何ものよ、あんた。邪魔をするなら容赦しないわ』


「僕は通りすがりの平凡な呪術師です。邪魔をする気はござんせんよ」

男は淡々と言い捨てると、入り口近くの壁に背を預け、悠然と腕を組んだ。

その隣では、女性住職もまた彼に合わせるように静かに合掌し、傍観の構えをとる。


そして、呪術師の口から、その場の全員が耳を疑う言葉が放たれた。

「ほな、続きをやりなはれ」


「「「「え……?」」」」

神職たちも、宮司も、泥まみれの敦彦も。

そして何より、復讐の炎を燃やしていた民子までもが、呆然と声を上げた。


「民子さんと敦彦さんの関係が、どないなもんかまでは知りませんがね。端から見てれば、言うなればただの民子さんと敦彦さんによる『身内の喧嘩』ですがな。まあ、実力は喧嘩になっとりませんが、他人が首を突っ込むのは無粋っちゅうもんです。ほな、続きをどうぞ。気の済むまでやり合って、けりつけはったら宜しゅうおす」


「い、いや!助けてくれるんやないの!?あんた呪術師やろ!?仕事しろよ!」

敦彦が絶叫し、情けなく畳を掻きむしる。


しかし、呪術師はピクリとも表情を動かさず、冷徹に言い放った。

「民子さんの大事な着物に、合意もなく勝手に火をつけておいて、何を今更被害者面してますんや。しっかりお灸を据えて貰いなはれ。自業自得っちゅう言葉、お勉強しはったことありまへんか?」


呪術師はどこ吹く風といった様子で、冷ややかに、しかし徹底した「公平さ」を持って、その修羅場を眺め始めた。


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##富と慢心――捨て去られた純真と、燃えぬ業


張り詰めた空気の中、怒りに震える民子の声が、神殿の古いはりを震わせるように低く、そして悲しげに響き渡った。

「……敦彦。あんた、本当に情けない大人になったわね」


その蔑むような、けれどどこか寂しげな響きに、這いつくばっていた敦彦が顔を上げた。

「え……?何や、藪から棒に……」


「忘れたとは言わせないわよ。子供の頃のあんたは、あんなに私のことを可愛がってくれた。……この着物だって、『世界で一番綺麗だ』って言って。泣いて、泣いて、父親と母親に縋り付いて、わざわざ高級な人形店で私を買わせて……。あの時のあんたの瞳は、もっと澄んでいたわ」


民子の瞳が、過去の美しい記憶をなぞるように一瞬だけ揺れる。

しかし、次の瞬間には、冬の嵐のような鋭い睨みが敦彦を射抜いた。

「最初は片時も離さず可愛がってたくせに、少し知恵がついたらどう?『人形遊びは女の子がするもんや』って周りに言われたからって、途端にぞんざいに扱い出して。挙句の果てに、通りすがりに邪魔だって理由だけで、私を無造作に蹴り飛ばしたこともあったわよね。……ゴトッ、という嫌な音と一緒に、私の心がどれだけ軋んだか、あんたには想像もつかないでしょうね」


「ひ、ひえっ……!?」

過去の「罪」を具体的に突きつけられ、敦彦は蛇に睨まれた蛙のようにガチガチと歯を鳴らして震え上がる。


「それからよ。あんたがどんどん横柄になっていったのは。父親が経営する会社にコネで入って、手の中に大金が転がり込むようになったら……あんなに愛してくれた私を、今度は『邪魔なゴミ』呼ばわり。……挙句、自分の手を汚すのも嫌だと言って、外に捨てようとしやがって!あんたの少年時代を彩ったのは誰よ?恩を仇で返すとはこのことよ!」


怒りのボルテージが上がり、民子の周囲に再び「ヒュオオオッ」と青い炎の渦が巻き起こる。

敦彦は必死に言い訳をするように口をパクつかせた。

「で、でもっ……!ゴミ箱に捨てても、何故か次の日には部屋の定位置に戻ってるんや!あれは……母さんか、それとも召使いが気を利かせて戻したもんかと思ってた……!」


「――召使いじゃないでしょうが!!」

民子の怒号が神殿を震わせた。

「お手伝いさん、って言いなさいよ!ほんっと、なんでそんな傲慢な大人になっちゃったの!?ちょっとお金を稼いだくらいで、周りの人間を顎で使うようになって!恥を知りなさい!」


民子は宙で激しく袖を翻し、さらに言葉を叩きつける。

「それに、粗末にしているのは私だけじゃない!あんたはいつから、物を大切にすることを忘れたの!?直せばまだ使えるものも、少し古びただけで簡単に捨てて、すぐに新しいものを買い与えられて……。それが『当たり前』だと思っているその根性が、虫唾が走るわ!この愚かもんがぁ!!」


「ひいいいぃっ!堪忍して、堪忍してぇな!」

すくみ上がる敦彦の姿は、もはや哀れというより他なかった。


その様子を黙って見ていた呪術師が、壁に背を預けたまま、独り言のように静かに、けれど芯の通った声で口を開いた。

「……民子さんが『付喪神つくもがみ』になるくらい、本来は大事にしてはったはずやのに。富とは、時として人の本質を狂わせるもんですなあ」


「付喪神……?」

敦彦が首を傾げた。その表情には、まだ自分の過ちの「本質」が理解できていない鈍さが透けて見える。


呪術師は、呆れたように視線を宮司へと向けた。

「宮司さん。お焚き上げを執り行う際、その辺のことわりの話はしてはらへんのですか?」


宮司は額の汗を拭いながら、申し訳なさそうに肩を落とした。

「……いや。説明しようとしましたんやけど急かされて、そやからまずは最低限の事だけお伝えしておいて、詳しくは全てが終わって、魂が鎮まってからゆっくりお話ししようと思ておったのですが。まさか、火をつけた途端にここまで暴れ出すとは想定外でして……」


「なるほど。……では、敦彦さん」

呪術師の冷徹な双眸が、再び敦彦を捉えた。

「あんさんは、なんでよりによって『お焚き上げ』なんていう、神聖な儀式を頼もうと思ったんです?」


敦彦は鼻を啜りながら、吐き捨てるように答えた。

「いや、その……っ。何度捨てても、不気味に部屋に戻って来るから、気味悪うなって。……燃やしてしまえば、物理的に存在が消えれば、もう戻って来られへんと思ったんや。お焚き上げって……言うたら『焼却処分しょうきゃくしょぶん』の豪華版みたいなもんやろ?」


「…………」


その場に、重苦しい沈黙が流れた。

女性住職は、悲しげに目を伏せ、静かに合掌している。


呪術師は、今日これまでで最も深く、重く、そして心底嫌気が差したような溜息を吐き出した。

「……あんさん。宮司さんから『お焚き上げ』の手順と意味、始まる前に最低限の事は教えてもろてましたやろうに。……一から十まで、どう解釈してはったんか、教えてもろて宜しゅうおすか?」

呪術師の声には、もはや怒りすら通り越した、深淵のような「呆れ」が満ち満ちていた。


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##焦燥の着火具――冒涜と無知、そして「馬鹿」の宣告


神殿の張り詰めた空気の中、白髪混じりの宮司が、肩を落として力なく語り始めた。

その声には、聖域を守る者としての無念さと、手に負えない「不心得者」に対する疲弊が滲み出ている。

「……えっと、実を申し上げますと、最初からお焚き上げを執り行うつもりでは無かったんですがね」


宮司は祭壇の前に転がっている着火具を苦々しく見つめた。

「お断りしたけど、『またお焚き上げ出来る神社探すんは面倒輩ここでやれ』って、言うて聞かんのですわ。そやからとりあえず、こちらとしても無碍には出来んと思い、祝詞のりとだけでもあげる事にしたんです。それで、私が一心に祝詞を読み上げてる最中でしたわ……。この御仁が突然、『こっちは忙しいんや!』と怒鳴り散らしましてな。『時間短縮や、効率が悪い』と言って、祝詞の途中やというのに、着火具で人形に直接、火をつけはったんですわ……」


「だって、あんなん辛気臭いやんか。しかもゆっくり読み上げて、いつ終わるんか分からんし。俺の時間は一分一秒、あんたらの祈祷よりずっと価値があるんやから、早う終わらせるのが正解やろ?」

這いつくばったままの敦彦が、悪びれる様子もなく吐き捨てる。


その傲慢極まりない一言に、呪術師は本日何度目かも分からない、深く、底冷えのするような溜息を吐き出した。

隣に立つ女性住職も、悲しげに眉をひそめ、静かに合掌して目を伏せる。


「……え?俺、何か不味い事したんか?」

周囲の冷ややかな反応に、敦彦はようやく僅かな違和感を覚えたのか、首を傾げた。


呪術師は、その問いを無視して宮司へと向き直った。

「それと、宮司さん。……ここは本来、『動物の神様』を祀る神社でっしゃろ?なんでまた、そんな場所で人形供養の祝詞をあげ始めはったんです?」


「……それは重々説明したんですがな、『神社はどこも一緒やろ、さっさとやれ、金なら払ったる言うてるやろ』と強引に、力尽くで進めはりまして。あまりにも聞き訳が無かったさかい、仕方なしに祝詞だけあげて、それで納得して帰って貰おうと思うたんですが……」

宮司は声を震わせ、情けなそうに続けた。

「そんで、祝詞の最中にしびれを切らしたこの御仁が、あろうことか蝋燭に灯を灯すための着火具をひったくって、止める間もなく火を付けようとしはった。そしたら……」


「――ついに、民子さんが怒り出さはった、と……。そういう事ですな」

呪術師は、宙に浮かび、今にも青い炎を吐き出さんとする人形――民子を見据えた。

「民子さん。今の話を聞いた上での僕の提案です。さっきの猪の怨念、十連発程この男に喰らわせたったらどないです?なんやったら、猪やのうて『馬』と『鹿』の形にでもしはったら宜しゅうおす。この救いようのない『青二才』には、これ以上なくお似合いの姿でっしゃろ」


「ちょ、ちょお待て!あんた、どっちの味方やねん!?俺を助けに来たんやろ、呪術師さんよぉ!」

敦彦が顔を真っ赤にして叫ぶが、呪術師の目は一切笑っていない。

「あんさんは一回、これでもかと言うくらいに痛い目を見るべきですわ。命の重みも、物の魂も、何もかもを蔑ろにし過ぎですがな。……さて、御住職。こんな話の通じん手合いの相手をするだけ時間の無駄です。ほな、帰りましょか」


呪術師は、本当にそのまま踵を返して扉へ向かおうとする。

すると、慈愛に満ちた女性住職が、その静かな声で男を呼び止めた。


「呪術師さん。せめて、この方が『物を大切にする心』を僅かでも取り戻せるよう、法を説いてからでも宜しいかと存じます。このまま放っておけば、この方はいつか、もっと取り返しのつかない業を背負う事になりましょう」


住職の、菩薩のような優しい微笑みを伴った、しかし確固たる意志を感じさせるお辞儀。

それを受けて、呪術師は立ち止まり、頭を掻いた。


「……ふむ。それもそうですな。物を粗末にするその根性を改めんと、場所を変え、人を変え、何度も同じ過ちを繰り返しそうですからなあ」

呪術師は再び壁に背を預けると、腕を組み、冷徹な双眸を敦彦へと向けた。

「……ええですか、敦彦さん。あんさんが今、何を『焼却処分』しようとしたんか……その本質を、これからたっぷりとお勉強して貰いまっせ」


神殿の奥に、新たな、そして逃げ場のない「教育」の時間が静かに始まった。


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##仏物と煩悩――静寂に響く菩薩の問い


荒れ狂う青い火の粉が舞い、焦げ付いた匂いが充満する神殿の奥。そこに、一点の汚れも知らぬ浄らかな風が吹き抜けた。


女性住職は、法衣の裾を静かに揺らしながら恭しく一歩前へと踏み出す。

そして、指先まで神経の通った、凛とした所作で丁寧に合掌し、深くお辞儀をした。

その神聖な姿は、まるで荒れ果てた地を癒やす一輪の花のようであり、怒りに震える民子も、狼狽する神職たちも、そして地面に這いつくばる敦彦さえも、抗えぬ神々しさに思わず息を呑んで見とれていた。


「神社で仏法を説くというのも、摩訶不思議な御縁では御座いますね」


女性住職は、透き通るような鈴の音にも似た声で、静かに語り始めた。

その瞳は慈愛に満ちていながらも、深淵を見通すような鋭さを秘めている。

彼女は、視線を震える敦彦へと固定し、問いを投げかけた。


「敦彦さん。『仏物』という言葉を御存じでしょうか?」


敦彦は、その圧倒的な存在感に圧され、金縛りにあったように動けず、ただ力なく首を振る。

住職は、慈しむような菩薩の微笑みを浮かべたまま、その無知なる魂に光を差すように説いた。


「これは『全ての物は仏様からの預かりもの』という意味で御座います。私たちが手にし、生活を共にする物は、決して自分勝手な所有物ではない……。仏様からお預かりしている大切な物と思い、感謝を込めて慈しみ、大切に扱うべきであるという教えなのです」


言葉の一つ一つが、重く、深く、静寂の中に響き渡っていく。


「しかし、敦彦さん。貴方がされたことは、その教えの真逆の在り方でした。子供の頃、貴方の純粋な情愛によって『付喪神』にまで至った民子さんを……あろうことか、ぞんざいに扱うだけに留まらず、焼却処分などという傲慢な言葉を掲げ、民子さんの大切な御召し物に火を付けるという悪行に手を染めたのですよ」


優しくも厳しさを湛えたその声は、神殿の壁に反響し、敦彦の罪を白日の下に晒していく。

住職は一度言葉を切り、敦彦の心の深淵を覗き込むように問いを重ねた。

「敦彦さんは、今はもう、民子さんが御嫌いなのですか?」


「……っ、別に嫌いなわけじゃ……。ただ、その……」

敦彦は、逃げ場のない真実を突きつけられ、喉を鳴らして必死に言葉を絞り出す。

「男のくせに女物の人形を持ってるとか……格好悪いし、女々しいやろ?周りの目もあるし……」


その一言に、宙に浮く民子が再び般若の形相となって怒鳴ろうと身を乗り出した。

――ガタッ!

木造の床が激しく鳴り、青い炎が吹き出そうとしたその瞬間、呪術師がスッと右手を挙げ、無言で彼女の動きを制した。

「今は聞きなはれ」と言わんばかりの圧倒的な気配に、民子も毒気を抜かれたように動きを止める。


女性住職は、表情一つ変えぬまま、敦彦に向けて再び言葉を紡いだ。

「つまり、敦彦さんの煩悩によって、民子さんを燃やして捨ててしまおうとお考えになったのですね」


菩薩のような微笑みを浮かべたまま「煩悩がある」と言い放つその峻烈な美しさに、敦彦は混乱し、顔を真っ赤にして喚いた。

「ぼ、煩悩って……!そりゃ、金稼ぐことばっかりで金欲まみれやと言われたらそうかもしれんけど、今の話のどこに煩悩とかあるんよ!俺はただ、世間体とか格好ええかどうかを考えただけやろ!」


「『男性だから女性の人形を持つことは格好悪い』。その言葉を平然と言われるという事は、『自分を格好良く見せたい、格好良く思われたい、格好悪いと観られたり思われたくない』と言う、自分をよく見せようという意思の表れではありませんか?それは、我執によるもの、自分本位の煩悩に他なりません。そして……その価値観は一体、誰が決めたことでしょう?」

女性住職の声に、僅かな厳しさが混じる。

「確かに、現世のイメージとしては、そのような風潮はあるやもしれません。しかし、それは絶対的な真理でありましょうか?そしてそれは、これまで貴方と共に歩み、大切にしてきた物を、ぞんざいに扱っても良いという正当な理由となり得ましょうか?」


「……っ」

敦彦に動揺が広がる。


「勿論、人は無常なる生き物です。年を重ねれば好みの変化も御座いましょう。また、物も無常であり、いつかは朽ち果て、その寿命を迎える時が御座います。しかし……」


彼女はそこで一拍置き、今度は氷のような鋭い眼差しを敦彦に突き刺した。


「粗末に扱い、自らの手でその寿命を刈り取った上で、見下すように捨て去る。……これが仏様からお預かりした物に対する、相応しい手放し方と言えましょうか?貴方のその『格好良くありたい』という身勝手なこだわりこそが、大切な絆を見えなくさせる、恐るべき煩悩なのです」


菩薩の微笑みの裏にある、魂を震わせるほどの厳しい断罪。


「ましてや、付喪神にまでなられた民子さんを、単なるゴミのように燃やしてしまえばよい等とは……。敦彦さんをずっと見守り、慈しんできて下さった民子さんに対する、あまりに酷い裏切りであると、私には思えますが、敦彦さんは、どのようにお考えになりますか?」


最後の一言が、神殿を揺らす風のように鋭く放たれた。

敦彦は、もはや反論する力すら失っていた。

自分の虚栄心が、どれほど醜く、どれほど深い恩義を焼き尽くそうとしていたのか。

逃げ場のない真実の鏡を突きつけられた青年は、ただ深い絶望に沈むように下を向き、何も言えずに沈黙していた。


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##修復の誓い――解かれた呪縛と再生の予感


敦彦の魂が激しく揺さぶられ、その傲慢な仮面が完全に剥がれ落ちていくのを、女性住職は静かな眼差しで見定めていた。

彼女は今一度、迷える者に正しい道を示すべく、厳しくも温かい言霊を紡ぐ。


「敦彦さん。お焚き上げとは本来、持ち主との長い月日で育まれた神聖なる御縁に感謝を捧げ、その役目を終えた品を天へと還すための神聖なる儀式で御座います。決して、不要になった燃えるゴミを効率よく焼却処分するなどという、無慈悲な行いではありません。それを履き違えてはなりませんよ」


その言葉は、敦彦の胸の奥深くに鈍い痛みと共に打ち込まれた。

住職は、絶望の淵に沈む青年に再会の光を見せるように、慈悲深い菩薩の微笑みを浮かべて合掌した。


「貴方は、民子さんとの何物にも代えがたい大切な御縁さえも、自らの手で踏みにじろうとしてしまいました。しかし、民子さんは自ら荒ぶることで、その最悪の結末を間一髪で阻止して下さったのです。……今なら、まだ間に合いますよ。あなたと民子さんの絆を取り戻す時間は、まだ残されております」


住職の言葉に導かれるように、壁に背を預けていた呪術師が、低い声で淡々と、しかし重みのある指摘を投げかけた。


「……民子さんの、あの憤怒の勢いなら、やろうと思えば初撃でこの男を炭にでもどうにでも出来はったでしょう。そやけど、民子さんが放った猪の炎、ただの一度もこの御仁を直撃はせんかったでっしゃろ?」


「え……?」

敦彦は弾かれたように顔を上げ、宙で微かに揺れる民子を見つめた。


民子の顔は依然として般若のような憤怒の形相を崩していない。

だが、敦彦は気付いた。

あれほどの猛火を放ち、凄まじい衝撃を社殿に響かせながらも、自分の高級なスーツには焦げ跡一つ付いておらず、火傷一つ負わされていないという事実に。


「大事に思うてはる相手に、自分の分身とも言える大事な着物に火を付けられたんや。そりゃあ、堪忍袋の緒も切れますがな。それでも……民子さんはかなり荒っぽい事はしはりましたけど、致命的な結果にはせんといてくれはった。これはひとえに、民子さんがまだあんさんを心のどこかで大事に思うていて、いつか改心してくれる事を信じて待ってくれはった証拠やないですかね」


呪術師の冷徹な、しかし真理を突く語り口に、敦彦の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。彼は震える膝を突き、這いずるようにして民子の方へと歩み寄った。

「……民子。俺……俺は……」


「……人形が突然喋り出して、化け物みたいに襲い掛かって来たのよ?どうせ不気味やとか、怖いとか、そんな風にしか思っていないんでしょう?」

民子は怒った表情を崩さず、突き放すような冷たい声を社殿に反響させる。

しかし、その声の端々には、隠しきれない震えが混じっていた。


「……正直、まだ怖い。突然のことで、頭が追いつかへん。でも……勝手に火を付けられた民子は、俺なんかよりずっと、ずっと怖かったんとちゃうか?自分が一番大切にしてた誇りを、信じてた人間に無残に焼かれそうになったんやから」

敦彦は民子の前で止まり、その場に両膝を付いて深く腰を折った。


「……ごめん。ほんまに、ごめんなあ……俺、自分勝手やった。子供の頃、あんなに民子に話しかけて、毎日一緒に遊んでたのに。いつしかそういう純粋な気持ちが、大人として、男として、女々しくて格好悪いことやと思い込んでしもて……。変なプライドを持って、自分を大きく見せようとして、どんどん大事なもんをこじらせてしもたんやなあ」


床に滴る涙の音が、静まり返った神殿の中に響く。

それは敦彦の空虚だった心に、ようやく人間らしい血が通い始めた証でもあった。


その姿をじっと、射抜くような目で見つめていた民子の表情が、一瞬、本当に一瞬だけ、慈愛に満ちた元の姿へと和らいだ。

「……ようやく、自分のしたことの愚かさを反省したみたいね」


「うん。ほんまに、ごめん。これからは、物も、その背景にある心も大切にする。絶対に、約束する。……そやから、民子。一緒に帰ろ。また、俺のそばにいてくれへんか?」

敦彦が震える手を民子へと差し出すと、民子はフンと鼻を鳴らし、わざとらしくプンスカと怒ったふりをして見せた。

「……じゃあ、この無残になった着物を完璧に修復しなさい。もしくは、もっと最高級の、目が覚めるような新しい着物を買いなさいよ。今までの罰とお詫びとして、それくらい当然よね?期待してるわよ?」


「わかってる……。これからすぐに、一番の百貨店へ行こか。この後の仕事は全部キャンセルや。大事な、何よりも外せない用事が入ったって、今すぐ秘書に連絡しとくから」


敦彦が必死に頷き、スマホを取り出そうとしたその時。

壁際で腕を組んで成り行きを見守っていた呪術師が、相変わらずの無表情を崩さず、けれどどこか面倒見の良さを感じさせる声で割って入った。


「それやったら、ええ所と、ええ人を知ってまっせ。修復して貰えるかどうか、僕から一度話を通してみますでな。そっちの方が、百貨店で吊るしの品を買うより、民子さんも喜ばはるのとちゃいますか?」


その言葉に、神殿の中に澱んでいた禍々しい気配は、春の雪解けのように静かに、そして温かに消え去っていった。


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##隻腕の人形師――伝統と神秘の「岸尾人形店」


嵐のような騒動が去った境内には、春の柔らかな日差しがようやく平穏を取り戻していた。

御所のもりから吹き抜ける風が、焦げ付いた空気をどこか遠くへと運び去る。


神社の神職たちは、最悪の事態を回避できた安堵から、呪術師と女性住職に対して幾度も深く頭を下げた。

自らの慢心を骨まで刻み込まれた敦彦も、そして少しだけ表情を和らげた民子も、静かに、けれど確かな悔悟の念を込めて深くお辞儀を捧げる。


呪術師は懐から二枚の御札を取り出すと、それを無造作に空中に放り投げた。

放たれた紙片は、パサパサという音と共に鮮やかな鳥の形へと変じ、一羽は北へ、もう一羽は南の空へと一直線に飛び去っていく。

暫くの時を置かずして、北から戻ってきた一羽の鳥が呪術師の指先へと降り立ち、再び一枚の御札へと戻った。


「来てもええと返事を貰えました。ほな、まずは御土産を買うてから行きましょか」

呪術師は御札を回収して懐に収めると、女性住職と並んで悠然と歩き出す。

敦彦は、もはや手放すことなど考えられぬという様子で、焦げ跡の付いた民子を愛おしそうに抱きしめながら、慌てて二人の背中を追いかけた。


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目的地へと向かう道中、一行は楽しげに歩く親子連れとすれ違った。

まだ幼い女の子が、敦彦に抱かれた大きな民子を見て、瞳を輝かせてはしゃぎ声を上げる。

「わあ、おっきな人形やで!綺麗!」


不気味な怪異としてではなく、ただの美しい人形として向けられた無邪気な称賛。

民子は僅かに目を細め、誇らしげに顎を引いた。


女性住職は、立ち止まって女の子の目線に合わせるように屈み、菩薩のような優しい微笑みを浮かべる。

「この子の御着物が少し焦げてしまったから、これから直して下さる人形屋さんの所に行くのですよ」


「なおるん……?」

女の子が首をかしげて不安そうに尋ねると、住職はそっとその頭を撫でた。

「はい、きっと。元通り、いえ、もっと綺麗になりますよ」


「やったぁ!」

女の子は満面の笑顔で手を振り、隣で恐縮してお辞儀をする母親と共に、手を繋いで去っていった。

その小さな背中を見送りながら、敦彦は自分が守るべきものの価値を、改めてその腕の中に感じていた。


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やがて一行は、路地の奥にひっそりと店を構える「岸尾人形店」へと到着した。

年季の入った看板が、積み重ねられた歴史と信頼を物語っている。

店の前で暫く待っていると、中からカタカタ、カタカタと乾いた木の音が響いてきた。


現れたのは、一体の愛らしい市松人形であった。

その人形は一行の目の前でぴたりと止まると、滑らかな動作で腰を折り、丁寧なお辞儀をした。


「いらっしゃいまし」

澄んだ声が響く。


呪術師は少しだけ表情を緩め、持ってきた袋を差し出した。

「市松さん、御無沙汰してます。さっき連絡してた件で、今日はお世話になります。これ、こちらの依頼主が買うてくれた番茶です。休憩の時にでも飲んで下され」


「これはこれは、ほんにおおきに。ほな、中へ案内させて貰いますえ」

市松人形はくるりと身を翻し、小さな歩幅で奥へと進んでいく。


その健気な姿に、民子は興味深げに目を向けた。

「……可愛らしい子ね。手入れも行き届いているわ」


一行が奥へと入り、作業場の扉を開ける。

そこには、凛とした空気の中で静かに待ち構える店主の姿があった。

右腕を失った隻腕の人形師にして、卓越した技術を持つ呪術師、岸尾優理。


彼女は一行の姿を認めると、一分の隙もない所作で深くお辞儀をして出迎えた。

「ようおこしやす」


「お世話になります」

女性住職が菩薩の笑顔で合掌し、敦彦も「よ、宜しくお願いします……」と、緊張気味に会釈をする。

民子もまた、同胞としての敬意を込めて声をかけた。

「世話になるわ。私の『格』に相応しい修復を期待しているわよ」


最後に呪術師が、信頼を置く戦友に向けるような視線で挨拶を交わす。

「お世話になります、優理さん。ちと難儀な焦げ跡ですが、頼みますでな」


人形師の鋭い眼差しが、民子の焦げた袖を捉えた。

古都の片隅にある小さな店で、魂を宿した人形と、それを守る者たちの新たな物語が動き出そうとしていた。


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清廉なる辞退――誠意の形と再会の約束


岸尾人形店の作業場には、静謐な空気が流れていた。

隻腕の人形師、岸尾優理は民子をその唯一の手で優しく、それでいて淀みのない動作で受け取ると、鋭い眼差しで焦げ付いた袖の症状をじっくりと見定め始めた。


「これやったら、今日と明日の二日あれば直せます。ただ、民子さんの生地はかなり上等なもんですさかい、合わせる糸も布も相応のええもんを使います。念の為、先に見積もり出しましょか?」

優理が視線を上げずに淡々と告げると、敦彦は焦ったように身を乗り出した。

「金に糸目はつけへんよ!百万でも二百万でも、なんぼでも請求してや。民子が元通りになるんなら安いもんや!」


かつての傲慢さとは違う、必死の形相で言い放つ敦彦。

しかし、優理はふっと口角を上げ、困ったような苦笑いを浮かべた。

「そこまでかかりはしませんよ。精々5桁、数万円もあれば十分です。職人の技と手間賃を高く見積って評価して頂けるのは、嬉しい事ですけどね」


「そ、そうか……。それじゃあ、ほんまに頼みます」

拍子抜けしたような、それでいて安堵した表情で、敦彦は深く頭を下げた。


「承りました。ほな、明後日以降に、店まで民子さんを迎えに来て差し上げて下さい。それまで、大切にお預かりしますえ」

優理が丁寧にお辞儀をすると、預けられた民子が宙で僅かに揺れ、敦彦を真っ直ぐに見据えた。


「優理さんだったわね、それじゃあお願いね。……あと、敦彦。あんた、私がいない間もちゃんとご飯を食べなさいよ。それと、帰ってから鞄を投げ出したりしないこと!ちゃんと静かに丁寧に置きなさい、いいわね?」

まるで口喧騒やかましい姉か母親のような説教に、敦彦は決まり悪そうに頭をかいた。

「わ、わかってるから。……もう子供やないんやし」


「ふふ、どの口が言っているのかしらね」

民子の声が作業場に小さく響き、張り詰めていた空気がようやく解けていった。


呪術師はそれを見届けると、黒いコートの裾を揺らして立ち上がる。


「ほな、後は宜しゅうおたの申します」

短く頭を下げて店を出る呪術師に続き、女性住職も菩薩の笑顔を絶やさず、静かに合掌した。

「宜しくお願いします。それでは、私達はこれにてお暇致しますね」

鈴を転がすような清らかな声を残し、二人は店を後にする。


敦彦もまた、名残惜しそうに民子へ手を振った。

「宜しくお願いします、明後日迎えに来ますから。……じゃあな、民子」


「それじゃあね、敦彦」

人形の手が、機械仕掛けではない温かさを持って、ゆるりと振り返された。


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店を出て、昼下がりの穏やかな陽光が差し込む京都の街を歩きながら、敦彦は呪術師と女性住職の隣に並んだ。

先ほどまでの狂乱が嘘のような静けさの中で、彼は溢れ出す感謝をどうにか形にしようと口を開く。


「あの、本当に有難う御座いました。お蔭様で、自分がどれだけ愚かやったか目が覚めました。それに、民子の着物も修理出来そうで……本当に、助かりました」

敦彦は一度言葉を切り、意を決したように二人を見た。


「それでですね……幾ら包めばいいですか?お焚き上げの料金は神社に支払いましたけど、そんなんじゃ全然足りませんよね。お二人のこれまでの働きに対して、然るべき、まとまった金額を振り込みますから。遠慮せんと仰って下さい」


しかし、女性住職は歩みを止めることなく、菩薩の笑顔のままふんわりと合掌してお辞儀をした。

「お気持ちだけ頂きます。私はただ、御縁に導かれたまでですから」

やんわりと、しかし拒絶の隙を与えないほど慈悲深く断る住職。


呪術師もまた、前を見据えたまま無表情で後に続く。

「優理さんに修理費用をしっかり支払わはったら宜しゅうおす。僕らは別に、金のために動いたわけやありませんからな」


「いやいや、そんな!それじゃあ俺の気がすまんのです!自分の命も、民子の存在も救ってもらったんや。絶対、それなりの金額を受け取ってもらわんと困ります!」

敦彦は必死に食い下がる。

富を築いてきた彼にとって、誠意を金で示すことは唯一の、そして最大限の誠実さの証明だった。


「……頑固ですなあ」

呪術師が呆れたように溜息を吐き、女性住職と顔を見合わせる。

住職は困ったように微笑み、呪術師に目配せをした。


「……ほな、こうしましょか。明後日、民子さんを迎えに行った後で、改めてゆっくりお話を伺いましょ。その時に、まだあんさんの気が済まへんのやったら、相談に乗らせて貰いますわ」

呪術師の提案に、敦彦はようやく「わかりました……」と肩の力を抜いた。


春の光に包まれた古都の道。

ひとつの絆を修復し終えた一行の影が、石畳の上に穏やかに伸びていた。


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##鏡の怪異と豆餅――夕暮れの神社に響く豪笑


賑わいを見せる四条烏丸の交差点。現代的なビル群と古都の喧騒が混ざり合うその場所で、敦彦は何度も深く頭を下げ、夜の街へと消えていった。

残された呪術師と女性住職は、沈み始めた夕日に照らされながら、静かに向き合う。


「助かりました、有難う御座います。御蔭さんで、騒ぎがあの神社の中だけで収束しましたし、無理な解呪をせんでもようなりました」

呪術師は黒いコートの裾を整え、胸の前で深く合掌して頭を下げる。


「いえいえ、私は特に何も。それで、呪術師さんは、これから『注意』に行かれるのでしたね。それでは、お気をつけて」

女性住職は菩薩のような優しい微笑みを浮かべたまま、しなやかな所作で合掌してお辞儀を返した。

彼女のその澄んだ瞳は、これから呪術師が向かう場所にある、少しばかり厄介な「御縁」を見通しているかのようであった。


「はい、それではまた」

呪術師は短く挨拶を交わし、住職を見送った後、再び独りで歩き出す。


人混みを避けながらさらに南へと足を向け、途中で立ち寄ったのは、地元で長く愛されている和菓子店であった。

そこで手に入れたのは、薄っすらと粉を纏い、ふっくらとした豆が顔を覗かせる「豆餅」だ。

呪術師はそれを大切そうに抱え、目的の場所へと急いだ。


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辿り着いたのは、鏡の神社。

夕闇が迫り、橙色の灯籠が灯り始めた境内は、どこか異界との境界が曖昧になったような不思議な静寂に包まれている。

呪術師は鳥居の前で一度立ち止まり、深く一礼してから、砂利を踏む音さえも慎むように中へと入っていった。


彼は観光客が訪れる本堂の前を通り過ぎ、その裏手へと回る。

湿り気を帯びた空気の中、さらに奥の、人目を避けるようにして鎮座する小さな御社の前までやって来た。

古びた木の感触と、年月が刻んだ確かな霊気。

呪術師がその前で静かに頭を下げると、まるで誰かが内側から招くように、御社の扉がギィィ……と音を立てて開かれた。


中から這い出してきたのは、この世のものとは思えぬ奇妙な姿であった。

紫色の淵に縁取られた鏡の体。そこからニョキリと手足が生え、鏡面の中には目や口がはっきりと浮かんでいる。

鏡の怪異――雲外鏡うんがいきょうが、その身を揺らしながら姿を現した。


「こんにちは、雲外鏡さん。いえ、もうこんばんは、の時間になりますが。これ、御土産の豆餅です。いつもの店のですがね」

呪術師は淡々とした調子で声をかけ、豆餅が入った袋を差し出す。


「こんばんはやのう。ほう、豆餅もありがとさんやのう!」

雲外鏡は鏡の中の目を細めてニコニコと笑うと、細い手でひょいと袋を受け取った。

そのまま待ちきれないといった様子でガさがさと袋を破り、中から白い豆餅を取り出す。

そして鏡面に現れた口を大きく開け、むしゃむしゃと豪快に食べ始めた。


瑞々しい餅の食感と、絶妙な塩梅の豆の風味が、怪異の体内へと吸い込まれていく。

雲外鏡は、あっという間に三つの豆餅を平らげてしまった。


満ち足りた表情で鏡の体を震わせると、夕暮れの境内に響き渡るような豪快な笑い声を上げる。

「ワハハ!やっぱり、あの店の豆餅は美味いのう!五臓六腑に染み渡るとはこのことじゃのう!」


満足げに腹をさする雲外鏡の姿を、呪術師は無表情ながらも、どこか穏やかな目で見届けていた。


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##鏡の采配――終わりよければ全て良し


豆餅を頬張り、満足げに腹をさする鏡の怪異を見つめながら、呪術師は細めた眼差しを向けた。

その声音は相変わらず静かではあるが、鋭い追求が混じっている。


「それは何よりです。では、わざわざ式神に僕へ飛ぶようにしはったんは、豆餅のおねだりですか?」


その無表情かつ淡々とした問いに、雲外鏡は鏡面に浮かべた大きな目を愉快そうに揺らし、再び豪快に笑い飛ばした。


「ワハハ!豆餅は副産物やのう。ワイはな、一番マッチした人選や思うたんやのう。ほら、他の血気盛んな呪術師とか若い術師やったら、下手にドンパチやりよって、せっかくの由緒ある神社がえらいこっちゃになりよるからのう。あんさんは解呪師でありながら、無理に調伏したり解呪しようとせんと、解呪は最終手段にとっとく御人やからのう。そやから、空気が読めて穏便に解決出来る御仁や言うたら、呪術師さんしかおらんからのう。そういうわけで、散歩中にあの式神を見つけた時に、真っ先に呪術師さんの事を思い付いたんやのう!」


「……そんで、僕に転ずるようにしはったんですな」

呪術師は、己の特性を完璧に把握されていることに、僅かな観念を覚えた。


雲外鏡は鏡の体を器用に揺らしながら、事も無げに続ける。

「ここは鏡の神社やさかい、人形は専門外やからのう。式神を持って帰っても、どうにもならんかったんやのう。専門外の事に首を突っ込んで、余計にこじらせるんは賢明やあらへんからのう」


「それはごもっともですがね。僕が近場におったから良かったものの、もし京都を離れとったら、どないしはるおつもりやったんです?僕が東京におったら東京まで式神が飛んで来てたやろうし、その間に騒ぎが、それこそ、えらいこっちゃな事になるまで拡大してたかもしれませんえ?」

深いため息を吐く呪術師に対し、雲外鏡は微塵も動じる様子がない。

「ガハハ!そん時はそん時やのう。そないなったら、多分あの宮司が追加で式神を飛ばしまくりよったやろうし、誰かに行きつきはしたやろうからのう!」


「……まあ、優理さんに届いてたら、何とかしてくれはったかもしれませんがね。人形と言えば彼やさかい。しかしまあ、雲外鏡さんは良く言えば豪快、批判的に言えば大雑把過ぎですなあ」

呆れ果てながらも、呪術師の言葉にはどこか長年の付き合いを感じさせる親しみが籠もっていた。


憎めない鏡の怪異は、鏡面をキラリと光らせて胸を張る。

「お手数かけてしもたんは、申し訳なかったでのう。それでも、こうして一件落着したさかい、ワイの采配は実に見事やのう♪」


「終わりよければ全て良し、ですか」

呪術師は今日最後になるであろう溜息を一つ吐き出すと、夜の帳が降り始めた小さな御社を後にした。


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神社を出て、一人になった帰り道。

京都の街並みはすっかり夜の静寂を纏い始め、家々から漏れる灯りが石畳を淡く照らしている。

冷え込み始めた夜気の中、呪術師は自分の足元を見つめながら、一日の歩みを振り返った。


「今日は、朝からえらく長い散歩になってしもうて。よう歩いたさかい、ほっこりした夕餉にしましょかな」


心地よい疲労感が脚を伝う。

呪術師は自らに言い聞かせるように呟くと、いつもの散歩コースで通りがかる馴染みの場所へと足を向けた。

それは、朝に3人の女子中学生と出会い、あの奇妙な一日が始まった稲荷神社。


始まりの場所へと戻る足取りは、どこか軽やかであった。


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##黄昏の迎え――異界の牛車と「えらいこっちゃ」な夕餉


暮れなずむ稲荷神社の境内。

昼間の喧騒は嘘のように引き、朱塗りの鳥居が重なり合う奥深くは、濃密な影が支配する異界の入り口と化していた。

呪術師が人気のない、古びた社の影へと歩みを進めると、そこには約束されていたかのように「それ」が待っていた。


揺らめく提灯の灯りに照らされたのは、重厚な木造の牛車。

そして、その側で落ち着きなく跳ね回る、一人の少女の姿。


「御迎え頂きまして、有難う御座います。えらいこっちゃん、方輪車さん」

呪術師は丁寧にお辞儀をした。


すると、両腕をプロペラのようにぶんぶんと振り回しながら、えらいこっちゃ嬢が弾けるような声で叫んだ。

「呪術師あんちゃん、今日はえらいこっちゃなお疲れちゃん!噂はもう聞いてる、えらいこっちゃな御疲れちゃんで大活躍!」


「御疲れさんですー♪ほな、行きましょか」

運転席からひょいと顔を出したのは、車輪に燃え盛る炎を宿した怪異、方輪車だ。

彼女は慣れた手つきで客席の重厚な扉を開け、呪術師を促した。


「ほな、お世話になりますえ」


呪術師が静かに腰を下ろすと、えらいこっちゃ嬢も「ぴょんっ!」と軽い身のこなしで隣に飛び乗った。

直後、どこからともなく、手首に「御勘定」と書かれた古びた札をぶら下げた、白く細長い腕がニューっと伸びてくる。

呪術師が迷わず千円札をその掌に乗せると、腕は満足げに、またニューっと影の中へと引き下がっていった。


「毎度ー。ほな、出発しまっせー!振り落とされないように気をつけて下さいやー!」


ゴト、ゴトゴト……ッ!

方輪車が威勢よく声を上げると、牛車は空気を震わせて走り出した。

窓の外を流れる景色は、現実の京都の街並みから、次第に朧げな光の渦へと溶けていく。


「ふぅ……。今日は腰を落ち着かせるのは、朝に病院でお嬢さん達に御説教して以来な気がしますなあ」

呪術師は、今日初めて全ての緊張を解くように、深く背もたれに体を預けて淡々と呟いた。

揺れる車内、えらいこっちゃ嬢の賑やかな笑い声を聞きながら、彼の意識は次第に「食」への渇望へと向かっていく。


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やがて牛車が滑らかに減速し、温かな光が漏れる木造の建物の前で停車した。

扉が開き、えらいこっちゃ嬢が真っ先に「ぴょんっ!」と飛び降りる。


それに続いて、呪術師もゆっくりと地に足をついた。

「ほな、帰りは自分の足で帰りますさかい。送って頂きまして、有難う御座います」


「毎度ありー。ほな、ゆっくり夕餉を楽しんでくださいなー♪」

方輪車は運転席から笑顔で手を振ると、夕闇の中を風のように颯爽と走り去っていった。


呪術師は、目の前にある店の佇まいを静かに見上げた。

そこには、使い込まれた味のある木の看板に、力強く、けれど温かい筆致でこう記されていた。


「摩訶不思議食堂」


「ただいま!えらいこっちゃな仕事片付けた、常連さんの呪術師あんちゃん御一名!」

えらいこっちゃ嬢が元気よく暖簾をくぐり、奥へと消えていく。


呪術師はその背中を見送り、ふっと口元を綻ばせた。

「ほな、お世話になりますえ」


今日一日の全ての呪いを、そして疲れを。

この暖簾の向こうにある温かな湯気と料理が、すべて溶かしてくれることを確信しながら、呪術師はゆっくりと、その扉を開いた。


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##安らぎのハヤシライス――慈愛の味と魂の休息


暖簾をくぐると、そこには外の喧騒とも、先ほどまでの異界の風とも違う、出汁の香りと木材の温もりに満ちた空間が広がっていた。

呪術師はいつもの指定席であるカウンター席に腰を下ろす。

すると、カウンターの奥から、柔和な石の肌を持った地蔵店長がぬぅっと顔を出した。


「地蔵店長、今晩は。今日もお世話になりますえ」

呪術師は静かに手を合わせ、丁寧にお辞儀をして挨拶を交わす。


「ようこそお越し下さいました、呪術師さん。今夜は少し冷えますねえ」

地蔵店長もまた、その慈悲深いお地蔵さん笑顔を湛えたまま、合掌して深く頭を下げた。


「御住職も誘いたかったんですがね、あいにく今は御法話の最中やと思います。今日は僕だけで、ゆっくりさせてもらいましょか」


「左様で御座いましたか。それはそれは、お疲れ様で御座います」

地蔵店長の穏やかな声に、張り詰めていた肩の力が抜けていく。


「ほな、ハヤシライスをお願いします」

呪術師がそう注文すると、地蔵店長は「畏まりました。少々お待ち下さいまし」と再度合掌し、厨房へと意識を向けた。


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厨房からは、玉ねぎを炒める甘い音や、ソースが静かに煮え立つ心地よい旋律が聞こえてくる。

やがて、ベレー帽を小粋に被り、黒い作務衣の上に真っ白な割烹着を纏ったえらいこっちゃ嬢が、お盆を捧げ持つようにして現れた。

彼女は音を立てぬよう細心の注意を払いながら、呪術師の前にハヤシライスを置いた。


「猫子さん御手製、えらいこっちゃな美味ハヤシライス。おまちどう!」

大きな丸い目と台形の口を誇らしげに動かし、彼女はどこか嬉しそうに告げた。


「有難う御座います」

呪術師は、目の前に現れた琥珀色の芸術をじっと見つめ、静かに合掌する。


「われここに食をうく、つつしみて、天地の恵みと人々の労を謝し奉る」


浄土宗の食前の言葉を、一文字ずつ噛み締めるように称える。

それから、静寂の中に十回の念仏を唱え終えると、頂きますと言いながら深くお辞儀をした。

これが、彼が一日を終え、日常へと戻るための大切な儀式であった。


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スプーンを取り、丁寧に、そして音を立てずに一口運ぶ。

じっくりと煮込まれたデミグラスソースの奥深いコクと、玉ねぎの優しさが舌の上で解けていく。

それは、ただ空腹を満たすための食事ではなく、摩耗した魂を修復していくような慈愛の味であった。


「……ほっこりしますなあ。摩訶不思議食堂で食べる猫子さん御手製のハヤシライスは、とても安心する、本当に優しい味ですえ」

呪術師の口から、自然と感嘆の吐息が漏れた。


厨房からひょいと顔を出した猫子が、その言葉を聞いて満足そうに目を細める。

「有難う御座います。ごゆっくり楽しんで下さいまし。今夜は特別、心を込めて煮込みましたから」


「有難う御座います。……ほんに、今日の騒動を全部忘れられるくらい、ほっこり出来ますなあ」

呪術師は再びスプーンを動かし、温かなハヤシライスを一口ずつ大切に味わっていく。


窓の外では、古都の夜が静かに更けていく。

けれど、この小さな食堂の中だけは、明日への活力を蓄えるための、穏やかな「ほっこり」とした時間に満たされていた。


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##宵闇の来訪者――珈琲の香りと鬼の微笑


呪術師は最後の一口まで皿を汚すことなく、実に美しく静かな所作でハヤシライスを平らげた。

心地よい満腹感に包まれながら、彼は再び居住まいを正すと、胸の前でそっと掌を合わせる。


「われ食を終わりて、心豊かに力身に満つ。おのがつとめにいそしみ、誓ってご恩にむくい奉らん。」


浄土宗の食後の言葉が、夜の食堂の空気にしっとりと馴染んでいく。

続けて、深く静かな十回の念仏を唱え終えると、彼は御馳走様と言って丁寧にお辞儀をして、その日の「命」に感謝を捧げた。


「とても美味で御座いました。有難う御座います」

呪術師が柔和な声音で礼を言うと、厨房の奥から猫子が「御粗末様で御座います」と晴れやかな声を返した。

それに応じるようにして、えらいこっちゃ嬢が小走りでやってくる。

彼女は空いた皿を手際よく盆に乗せると、再び軽やかな足取りで厨房へと消えていった。


「今日は、少々手のかかる騒ぎが二つも重なりましたが……。一仕事終えた後に、こうして『ほっこり料理』を頂けるのは、本当に有難いことですな」


呪術師が独りごちていると、えらいこっちゃ嬢が再び現れ、挽きたての香りが漂う珈琲をそっと差し出した。

漆黒の液面から立ち上る湯気が、彼の疲れを解きほぐしていく。


「有難う御座います」

呪術師が合掌してお辞儀を返した、その時であった。


カランコロン、と。

摩訶不思議食堂の重厚な引き戸が開き、夜の風と共に「新しい風」が舞い込んできた。


「おつー♪妖古さんと雲外鏡さんからの伝報読んだよー♪今日は御疲れ様だったみたいだねー♪」


店内に響き渡ったのは、この場所の静謐さを一気に塗り替えるような、明るく弾けたギャルの声。

入ってきたのは、派手な装いとは裏腹に、隠しきれない強力な霊気を纏った女鬼であった。


「今晩は。御疲れ様です、女鬼さん。今し方、ハヤシライスを頂いたところでしてな。今はちょうど、至福の食後の珈琲時間を頂いているところですえ」

呪術師は親しみを込めて合掌し、丁寧にお辞儀をした。


すると、えらいこっちゃ嬢が待ってましたと言わんばかりに、両腕をプロペラのようにぶんぶんと振り回しながら駆け寄る。

「女鬼ねえちゃん、御疲れちゃんのいらっしゃい!呪術師あんちゃん、今日はほんまに、えらいこっちゃな大活躍!」


「女鬼ちゃん、いらっしゃいましー♪」

厨房からも猫子が顔を出し、楽しげに声をかける。


店内の中心に座る地蔵店長は、その慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔を絶やすことなく、ゆっくりと合掌してお辞儀をした。

「女鬼さん、ようこそお越し下さいました、御疲れ様です。それでは今夜の締めくくりに、皆で共に珈琲タイムと致しましょうか」


店主の温かな提案に、店内はより一層、和やかな熱気に包まれていく。

夜の娑婆は静まり返っていたが、この小さな食堂の中だけは、一仕事を終えた者たちの安らぎと、心地よい笑い声がいつまでも響き続けていた。


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##第二十五章:皮肉な人生と至福の珈琲


摩訶不思議食堂のカウンター席。

そこには、この世の理を超越した者たちが肩を並べ、穏やかな湯気に包まれていた。


最強の解呪師でありながら名を捨て、今はただ静かに生きる呪術師。

その隣では、銀髪を揺らす小柄な「えらいこっちゃ嬢」が、まん丸の瞳を輝かせている。

さらに隣には、金色の長い髪をシュシュでサイドテールに結び、漆黒の着物を艶やかに着こなす鬼のギャル、女鬼が座る。


カウンターの奥では、紅い着物に割烹着を纏った猫耳の料理人、猫子が静かにお代わりの準備を整え、その背後では地蔵店長が全てを慈しむような笑顔で立っていた。

並んだマグカップからは、芳醇な珈琲の香りが立ち上り、一日の終わりを告げる静かな時間を彩っている。


沈黙を破ったのは、女鬼の弾んだ声だった。


「――そんでさ、あの中学生女子3人組。あの後、目を覚ました子に、ちゃんと丁寧に謝ったんだって。気狐さんが『最後までしっかり頭下げるか見届けてやる』って言って、姿を消した状態で天井からこっそり監視してたみたいだよ」

女鬼は金色の瞳を細め、手元の珈琲を一口啜る。


「それは何よりですな。これに懲りて、気弱な人にちょっかいを出したり、ましてや『こっくりさん』を始めとした『こっち側』の世界に、遊び半分で足を踏み入れんことを祈るばかりですわ」

呪術師は淡々と、しかし確かな実感を込めて応じた。

その言葉には、境界線を超えてしまった者が負うリスクを誰よりも知る重みがある。


「ほんまに、えらいこっちゃな事をしてしまいよってからに。若気の至りじゃ済まされないこともありよる、えらいこっちゃ」

えらいこっちゃ嬢が、台形の口をへの字に曲げて呆れたように付け加えた。


「若人の好奇心というのは、時に取り返しのつかない恐ろしい事を引き起こすものなのですねえ」

猫子が珈琲を口に運びながら、しみじみと呟き、その猫耳が微かに揺れた。


「その好奇心を、もっと建設的なことに向けはったらよかったんですがね。まあ、こういうのをきっかけにして呪術師になったり、専門家としての道を歩む人も中にはいてはるから、一概に否定はできんのが、この世界の複雑なところですわなあ」

呪術師は、己の歩んできた道に思いを馳せるように、静かに語った。


「やっぱり一人の専門家としては、そういう危うさを憂う気持ちとか、将来有望な術師が育ってくれないかって、思うところはあるわけだ?」

女鬼が試すような、けれど親愛の情を込めた微笑みを浮かべて尋ねた。


「そりゃまあ……多少はありますかな。どうしようもなく人からの悪意によって、理不尽に全てを奪われた結果、復讐の道具として呪いを使う人が出てくる。それは娑婆においては、仕方のない部分もあります。その上で、そういう切実な事情が無い限り、これから呪術の世界にやって来る人らには、軽々しく悪い事に使わんようにして欲しいもんやと、そう思てます」

呪術師の言葉は、静かな水面に落ちる雫のように、深く店内に染み渡っていく。


「……復讐のために最強にして最高の解呪師にまで昇り詰めて。それでも、仏様の教えに出会ったことで、私怨や復讐のために一度も人を呪わなかった……。そんな呪術師さんが言うと、やっぱり重みが違うねえ」

女鬼は優しい眼差しで彼を見つめ、どこか誇らしげに微笑んだ。


最強の力を持ちながら、その刃を憎しみのままに振るわなかった専門家の矜持。

それは、この席に座る者たちだけが知る真実である。


「……僕はそこまで凄いもんやおへん。僕はただの、平凡な隠れ呪術師の一人にすぎませんからな」

男の謙遜に、女鬼は「あはは♪」と屈託なく笑い、軽快にウインクを飛ばした。

「隠れ呪術師になる事が出来てる時点で、既に十分すぎるほど非凡なんだけどね♪」


「……平凡に生きようとした結果がこれとは……僕の人生っちゅうもんは、つくづく皮肉で構成されとりますなあ」


呪術師は、手元のマグカップを見つめながらそう溢した。

その無表情な横顔に、珍しく、フッとほんの少しだけ、春の陽光のような微かな微笑が浮かんだ。


それは、嵐のような一日を乗り越え、安らげる場所に辿り着いた者だけが見せる、至福の表情だった。



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