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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第25話-後編:椿山武久の死を願うほっこり飯

## 朝の病室 ―― 誓いの第一歩


翌朝。

京都の街を包み込む朝陽は、昨日までの刺すような毒々しさを失い、どこか柔らかに武久の背中を後押ししていた。

武久は、京都駅付近にある大きな病院へと向かい、ミサが入院している病室の前に立ち、一度深く息を吐き出して自らの心を整えてから、彼は静かにドアをノックした。


「はい、どなた?」

中から応じたのは、ミサの母親の声だった。

武久が名前を名乗ると、扉がゆっくりと開き、母親は彼を招き入れた。


「おはよう、ミサ」

「おはよう、武久」

ベッドに上半身を起こしたミサと、短い挨拶を交わす。

痛々しく巻かれた包帯が視界に入り、武久の胸が再び締め付けられた。


ミサの母親は、二人の間に漂う少しだけ緊張した空気を察したのか、優しく微笑んで立ち上がった。

「飲み物でも買いに行ってくるわね。ゆっくり話していきなさい」

母親が気を利かせて席を外すと、病室には朝の静寂と、消毒液の匂いだけが残された。


---


武久はミサの母親にお礼を言って、母親が退室してから、枕元に置かれたパイプ椅子に腰を下ろした。

昨夜までの彼なら、照れ隠しに不遜な態度を取っていたかもしれない。

だが今の武久は、ただ真っ直ぐにミサの瞳を見つめていた。


「具合、どうだ?」

武久が低く、しかし柔らかな声で尋ねる。


ミサは視線を少しだけ落とし、包帯の巻かれた自分の右腕をさすった。

「腕と……顔は少しだけなんだったけど、火傷の跡は残っちゃうって言われたわ」


「そっか。……ごめんな、俺があんなこと言ったから。全部、俺のせいだ」

絞り出すような謝罪の言葉に、ミサは驚いたように顔を上げた。

「別に、武久が火をつけたわけじゃないじゃない。そんなに気にしないでよ」


彼女は無理に笑ってみせたが、武久は首を振った。

「そりゃ、物理的に火をつけるなんて俺には出来っこない。でもさ、俺が原因な気がしてならないんだよ。だから、本当にごめん。そもそも、ミサを傷つけるようなことを言った俺が一番悪いんだ。悪かった。退院したら、ミサの行きたい所、どこでも連れていくからさ」


ミサは目を丸くして、マジマジと武久の顔を覗き込んだ。

「やけに素直じゃない。どうしたのよ」


「昨日、晩飯を食べに行った食堂でさ、色々と教わったんだ。人を傷つけた分、これからはちゃんと癒せる人間になれって、こっぴどく叱られてな。それが本当に……魂に響いたんだよ。だから、これからはもう、ミサを傷つけたりしない。他人を傷つけるような言葉も、絶対に使わないし、しないって決めたんだ」

武久の決然とした言葉に、ミサは思わず吹き出した。

「ふふっ、何それ。武久をそこまで叱る店って、一体どんな店よ? お説教サービスでもあるの?」


「サービス、だったのかな、あれは。まあ、なんていうか……人間が一人もいない店だったよ」

武久が真面目な顔で首をかしげると、ミサはさらに可笑しそうに笑った。

「何よそれ、猫カフェか何かなの?」


「あ、猫の料理人はいたよ。それ以外にも、ゴブリンとか鬼とか……お地蔵さんみたいな店長もいた。えらいこっちゃんは……今更だけど、あの子って一体何者だったんだ?」


「ちょっと、大丈夫? 高校生で未成年なのに、ぼったくりのコスプレバーにでも行かされたんじゃないでしょうね?」

ミサの心配を、武久は明るい笑い声で飛ばした。

「まさか、流石にそんなとこには行かねえよ。とにかく、文字通りえらいこっちゃな場所で晩飯を食ったんだ。料理の味は間違いなく本物だったから、今度ミサも連れていくよ」


「ふふ、変なの。でも、武久がそこまで言うなら……料理が美味しいなら、連れてってもらうことにするわ」

「おう。その時までに、俺もちゃんとバイトして金を貯めておくからさ。楽しみにしてろよ」


朝の光が差し込む病室に、二人の穏やかな笑い声が重なる。

武久の右腕に巻かれた蒼い組紐は、かつての呪いではなく、大切な人を守るための誓いの印として、静かにその手首を飾っていた。


---


## 古都に遺した宿題 ―― 贖罪の模索


病室の窓からは、清々しい青空が広がっていた。

武久は椅子に深く腰掛け、窓の外を眺めるミサの横顔を見つめながら、静かに問いかけた。

「ミサは今日、退院して神奈川に戻るんだよな?」


「うん。お母さんと一緒に、新幹線で神奈川に帰るわ。武久も、一緒に帰るんでしょ?」

ミサは当然のようにそう言ったが、武久は小さく首を振った。

「いや。俺はまだ、この京都でやり残したことがあるんだ。確か、才狐は京都の親戚の家に戻ってるんだったよな?」


「ええ、そうよ。教室で先生が才狐君と今後の話をしてるのを小耳に挟んだし、女子の幾人かも、こっそり後を付いて行こうなんて言ってた子もいたくらいだから」

ミサの言葉に、武久は少しだけ希望を見出したような表情を見せる。

「そっか。……それで、あいつの連絡先を知ってる奴は、やっぱり誰もいないんだよな」

「ええ。狐宮君、誰にも自分の連絡先を教えようとしなかったから。……ねえ、武久。もしかして、狐宮君に会いたいの?」


「ああ。あいつに会って、ちゃんと謝らないといけないんだ。俺は小学生の頃、あいつのことを酷く傷つけた。自分勝手な理由で、取り返しのつかないことをした。だから……逃げずに、ちゃんと面と向かって謝りたいんだ」

武久の言葉には、迷いのない重みが宿っていた。

ミサは少しだけ驚いたように目を見開いたが、やがて納得したように小さく微笑んだ。


「そっか。アタシは武久とは高校からの付き合いだけど、地元が同じで小学生の頃から知ってる人達は、昔の武久達のこと、そんな風に噂してたわね」

ミサは武久の手をそっと握り、その決意を後押しするように言葉を重ねる。

「じゃあ、しっかり謝ってきなよ。中途半端な気持ちじゃなくて、今の武久ならきっと伝わるわ」


「うん、有難う。まあ、そのためには、まずあいつが今どこにいるのかを探さないといけないんだけどな。学校の先生に泣きついたら、教えてくれるかな?」

武久は困ったように頭をかいた。

「それは流石に無理でしょ。今の時代、個人情報の管理には凄く厳しいんだから。たとえクラスメイトでも、本人の許可なく住所や電話番号を教えるのは絶対にダメって、先生たちも口うるさく言ってるじゃない」


「そりゃそっか。コンプライアンスだの個人情報保護だのって、最近はどこもかしこもピリピリしてるもんな」

武久は溜息を吐きながらも、すぐに視線を前に向けた。

「まあ、とにかく根気よく探してみるよ。心当たりのある場所を回ってみて、いよいよ手詰まりになったら、ダメ元で学校の先生に、どうしても謝りたいんだって相談してみることにする」


「そうね。私も才狐君の連絡先を知ってる子がいないか、連絡が取れる女子に片っ端からもう一度聞いてみるわ。何か分かったらすぐに連絡するから」

「有難う、助かるよ」

武久は感謝を込めて、右首の蒼い組紐にそっと触れた。


「その組紐、才狐君とお揃いよね。ふふ、それを使って不思議な力で通信できたりしてね」

ミサが茶目っ気たっぷりに笑うと、武久も少しだけ肩の力を抜いて笑い返した。

「そんなに便利な魔法の道具だったら、苦労しなくて済んだんだけどな」


---


そんな穏やかな会話を交わしていると、病室のドアが開き、飲み物を抱えたミサの母親が戻ってきた。

これから午前中の最後の検診を受け、体調に問題がなければそのまま退院の手続きを進め、午後には神奈川へと発つ予定だという。

武久は母親にも丁寧に挨拶をし、神奈川に戻ったらまた改めて会いに行くことを約束して、病室を後にした。


病院のロビーを出ると、京都の街は観光客の喧騒に包まれていた。

だが、今の武久にはその賑わいがどこか遠い世界の出来事のように感じられた。

手掛かりは、何一つない。

広い京都の街で、連絡先も住所も分からない一人の少年を探し出すのは、雲を掴むような話であった。


「……まずは、あそこに行ってみるか」


武久は、自分の運命が大きく動き出したあの場所を思い描いた。

えらいこっちゃ嬢や、得体の知れない妖古と初めて出会った、あの寂れた神社。

理屈では説明できないことが次々と起きたあの場所なら、何か手掛かりが見つかるかもしれない。


武久は強い陽射しを浴びながら、記憶を頼りに神社の方向へと、一歩ずつ力強く歩き始めた。


---


## 焦燥のモール ―― 再会と小さな驚き


武久は、えらいこっちゃ嬢や妖古と初めて出会ったあの神社へと向かう足を、少しだけ止めた。

視界の先に飛び込んできたのは、昨日、ミサの腕が突如として燃え上がるという不可解な騒動が起きた大型ショッピングモールだった。


現場に立ち寄ってみると、そこには昨日の喧騒が嘘のような、冷ややかな空気が漂っていた。

「立入禁止・KEEP OUT」と書かれた黄色いテープが幾重にも張り巡らされ、警察官たちが複数人で現場を鋭い目つきで検分している。

日曜日の休日、周囲は買い物客の賑わいに溢れているというのに、その一画だけが深い静寂に包まれている光景は、どこか現実味を欠いた異様な感覚を武久に抱かせた。


ふと見れば、現場の警察官と何やら話し込んでいる二人組の姿があった。

昨日、絶望の淵にいたミサを鮮やかな手際で救ってくれた、あの女性住職と呪術師の二人だ。


武久は野次馬の買い物客を装い、彼らに気づかれないよう細心の注意を払いながら、そっと聞き耳を立ててみた。


「……ええ。突然、お嬢さんの腕から火が上がりましてな。救助のために、咄嗟に消火にあたった次第です。モールの方々がすぐに消防と警察を呼んでくれはりましたんで、我々は手当の心得があるからと、付き添う形で救急車に同乗させてもろたんですわ」

呪術師の、抑揚のない淡々とした説明が聞こえてくる。


二人は警察による事情聴取と現場検証への協力が終わると、穏やかに合掌とお辞儀をして、その場を後にしようと歩き出した。


---


「……話聞いてはったみたいやから、改めて同じこと説明する必要も無さそうですな。ほんで、お連れさんへの御見舞いでも買いに来はったんですかね?」


唐突にかけられた声に、武久は心臓が跳ね上がるのを感じた。

背後を振り返ると、そこにはいつの間にか歩みを止めてこちらを向いている呪術師が立っていた。

「き、気づいてたんですか?」


「バレバレでっせ。ほんで、お早うさんです」

呪術師は一切の感情を排した無表情のまま、淡々と挨拶を口にした。


隣に並ぶ女性住職も、昨日と変わらぬ慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、丁寧にお辞儀を返してくれた。

「お早う御座います。お連れ様の御加減は如何ですか?」


「もう大丈夫です。今朝も病院で会ってきましたから。ミサを助けていただき、本当に有難うございます!」

武久は、昨日までの自分からは想像もできないほど、深く、真っ直ぐに頭を下げた。

その言葉には、上辺だけの礼儀ではなく、魂の底から溢れ出した真摯な感謝の念が籠もっていた。


「それは何よりです。御無事で本当に良う御座いました」

女性住職は、武久の豹変とも言える素直な態度に、さらに優しく目を細めて微笑んだ。


すると、その隣で呪術師が、ジーっと武久の右首に巻かれた蒼い組紐を見つめていた。

彼を取り巻く気配が「ゴミ」のような濁りから「言辞施」の光へと移ろい始めたことに気づいたのか。

呪術師の瞳の奥には、武久という少年に対する新たな興味が微かに宿ったようだった。


---


## 翻る式鳥 ―― 聖域への通信


「ミサは今日、午前の診断が終わったら、母親と一緒にすぐに神奈川へ戻ることになりました。でも、俺はまだこっちでやらなきゃいけないことがあるから、一人で京都に残ることにしたんです」


武久が真っ直ぐな視線でそう告げると、女性住職は慈愛に満ちた瞳を細めた。

その瞳の奥には、少年の魂に灯った小さな「善の炎」を確かめるような、菩薩のごとき穏やかな静寂が宿っている。

「やるべきこと、で御座いますか。それはあなた様にとって、避けては通れぬ大切な一歩なのでしょうね」


「ふむ。宿題がおありでしたか。それは難儀なこっちゃやけど、放っておくわけにはいきまへんな」

呪術師もまた、無表情な鉄面皮の奥に鋭い光を宿し、短く言い放った。

その響きには冷たさの中にも、武久の歩みを否定しない奇妙な肯定感が混じっている。


「はい……それで、お二人は現場検証のために警察に呼ばれたんですか?」

武久の問いに、呪術師は淡々と頷き、ショッピングモールの食料品売り場の方へと視線を向けた。

「それもありますし、これが終わったら買い物に行かなあかんかったんですわ。昨日、騒動があって買いそびれてしもうた、この近くにある稲荷神社の祭礼に使う御供物と、お詫びの品をね。神様を待たせるわけにはいきまへんから」


「そうですか……。あの、もし良ければ、その様子を見学させて貰ってもいいですか? 俺、もっと色んなことを知らなきゃいけない気がして……」


武久の切実な申し出に、二人は静かに視線を交わし、何事かを目で語り合った。


やがて、女性住職が静かに口を開いた。

「それでは、稲荷神社の事は私が務めましょう。呪術師さんは、『御狐神社』の方をお願いしても宜しいでしょうか?」


「それが宜しいでしょうな。ほな、稲荷神社は御住職にお任せします。少年、稲荷神社での用事が済んだら、僕と一緒においない。あんたの求める答え、少しは見つかるかもしれまへんで」


こうして、一行はモールの食料品売り場で、艶やかな油揚げを丁寧に買い求めた。

それから3人は、朱塗りの鳥居が立ち並ぶ稲荷神社に到着すると、宮司に恭しく御供物を手渡し、そこで女性住職と別れることになった。


---


女性住職と別れてから、呪術師は武久を促し、境内の中でも一段と静まり返った、古びた小さな祠が並ぶ奥まった場所へと足を向けた。


稲荷神社の片隅。

人影の全く絶えた寂静な場所まで来ると、呪術師はぴたりと足を止めた。


「……少しの間、そこで待ってなはれ」


呪術師はそう告げると、人影のない空間で懐から一枚の真っ白な御札を取り出した。

武久が息を呑んで見守る中、彼が指先で印を結び、御札を虚空へと放り投げる。


すると、ただの紙切れだったはずの札が、空中でバサバサと羽ばたきを上げ、一羽の鳥の形へと鮮やかに変生した。

それは生き物としての体温を感じさせないほど無機質で、かつ神聖な光を纏い、北の空へと恐るべき速さで飛び去っていった。


「……っ、今のは、一体何なんですか?」

あっけに取られて呟いた武久に、呪術師は表情一つ変えずに答えた。

「通信や思うてくれたら宜しゅうおす。電話よりも確実で、手紙よりも速いもんですわ……おっと、返信が来ましたえ」


わずか数分の後、北の方角から再び鋭い影が舞い戻ってきた。

呪術師がそっと右手を差し出すと、白い鳥は指先に静かに降り立ち、一瞬で元の乾いた御札の姿へと戻った。


「会うてもええと許可を貰えました。ほな、行きましょか」

呪術師は武久の返事を待たず、迷いのない足取りで、颯爽と歩きだした。


「えっ、許可って……誰から!? ちょ、待ってください!」

武久は混乱しながらも、その黒い背中を必死に追いかけながら、自分の「宿題」がいよいよ核心へと近づいていることを確信していた。


---


## 因縁の霊場 ―― 蒼き記憶の再会


呪術師に促されるまま、武久は揺られるバスの車窓から京都の北へと移り変わる景色を眺めていた。

次第に建物はまばらになり、山々の深い緑が迫ってくる。

目的地と思われる停留所で降り、数分ほど歩いた先でその神社の鳥居が見えた瞬間、武久は喉の奥がせり上がるような衝撃と共に息を呑んだ。


そこは、他でもない。

5年前の修学旅行で、自らの傲慢さと幼稚な残忍さゆえに、才狐を置き去りにした因縁の地――御狐神社だった。


摩訶不思議食堂の盃で見せつけられた、自らの悪行が刻まれた場所。

小学生時代の才狐と最後にやり取りをし、彼を孤独という名の地獄へ突き落とした、武久にとっての原罪の霊場である。


一瞬、足がすくみ、逃げ出したい衝動が全身を駆け巡った。

しかし武久は、唇を強く噛みしめ、自らの内に言い聞かせる。

「いつかはここに来て、向き合わなければならなかったはずだ」

いつの間にか無様に震えていた脚に力を込め、彼は自らの足で、神域へと続く一歩を踏み出した。


呪術師はその様子を、励ますでも急かすでもなく、いつもの感情を排した無表情で見つめていた。

彼は武久の覚悟を確かめるように、付かず離れずの一定のペースで石段を上っていく。


やがて、長い階段を上り切った武久の眼前に、峻厳な空気を纏った本殿が姿を現した。


呪術師は本殿の手前にある鳥居の前で、敬意を込めて深く一礼した。

それから、静かにその霊域へと足を踏み入れる。

武久もまた、その背中を追うように深く一礼を捧げ、心臓の鼓動を耳元で感じながら、結界を越えて中へと進んでいった。


そして、彼の視界に二人の人影が飛び込んできた。

正確には、一体の天狐と、一人の同い年の少年である。


呪術師は彼らの前まで来ると、いつにないほど恭しく頭を下げた。

「急な訪問の許可を頂きまして、誠に有難う御座います。これは手土産です。昨日のお詫びを兼ねまして、心ばかりの品ですが」


呪術師が懐から、先ほど購入したばかりの御供物を取り出し、差し出す。

少年のほうが静かにお辞儀をしてそれを受け取ると、本殿の階段に優雅に腰掛けていた天狐へと手渡した。

天狐はそれを受け取ると、少年の献身を当然のことのように受け入れ、再びこちらへと向き直ると、少年も同じくこちらに向き直った。


武久は、目の前に立つ少年の姿を凝視したまま、金縛りにあったように動けなかった。

「……ここにいたのか、才狐。それに、妖古さんも……」

震える声で、武久は辛うじてそれだけの言葉を紡ぎ出した。


武久の目の前にいたのは、昨日、えらいこっちゃ嬢と共に夜の稲荷神社で出会った、あの気高くも恐ろしい妖古ようこ

そしてその隣には、純白の小袖に緋色の袴を思わせる、端正な神職の装束に身を包んだ、かつての被害者でもある才狐が、静謐な佇まいで立っていた。


5年前までの痩せこけて怯えていた少年の面影は、そこにはない。

神聖な気配を纏い、どこか現世から浮世離れした雰囲気を漂わせる才狐の瞳に、武久は自分の浅ましさが透かされているような錯覚を覚え、思わず拳を強く握りしめた。


---


## 噛み合わぬ贖罪 ―― 虚空を突く謝罪


妖古は受け取った包みを器用に解くと、中から現れた黄金色の油揚げを眺めて、満足そうに目を細めた。

「わざわざすまんのう、呪術師殿。ふふ、これじゃこれじゃ。あのショッピングモールの油揚げも、馬鹿にしたものではない。結構良い味をしておるからのう」


コロコロと鈴を転がすような雅な声で笑い、妖古は同封されていた割り箸をパチンと割った。

そして、まるで高級料亭の会席料理でも食すかのように、極めて上品な所作で油揚げを口へと運び始める。


その光景を、武久はただ呆然と眺めることしかできなかった。

「狐って……本当に油揚げが好きなんだな……」


あまりに伝承通りのリアクションに、武久は思わず気の抜けた呟きを漏らす。

その言葉を聞き咎めたのか、妖古は油揚げを堪能しながら、いたずらっぽく視線を武久へと向けた。


「ぬしの地元にも、狐にまつわる神社仏閣の一つや二つはあろうに。見かけたら、信心の証に油揚げを備えておくんじゃな」

楽しげに笑う妖古の姿には、昨日見せたような恐ろしさは微塵もなく、どこか浮世離れした愛嬌すら漂っていた。


武久はしばらくその異様な光景に目を奪われていたが、やがて視線を隣に立つ少年に移した。

学校にいたころの制服姿ではない、汚れ一つない白衣びゃくえと緋色の袴に身を包んだその姿は、あまりにもその場に馴染みすぎていた。


「才狐……その格好は? まさか、ここでバイトでもしてるのか?」


武久が恐る恐る尋ねると、才狐は感情の読み取れない無機質な瞳で武久を見つめ返し、静かに口を開いた。


「僕は、ここの宮司をやらせてもろてるんよ」

淡々と、抑揚のない声で才狐は答える。


「宮司……? そうか、親戚ってのは神社の家系だったんだな。それで、ここは才狐の親戚が管理してる神社ってことか」

武久が納得したように頷くと、才狐は僅かに首を横に振った。

「ちゃうよ。ここは元々、神職のいない無人神社で、地元の人がボランティアで掃除したりして、なんとか維持されてた狐にまつわる古い神社や。五年前のあの日、僕はここで妖古さんと出会って、宮司にしてもろたんや」


その言葉が、武久の心臓を鋭く突き刺した。

「五年前のあの日」という響きが、自らが犯したあまりに無残な置き去りの記憶を鮮明に呼び覚ます。

才狐が妖古という人知を超えた存在と出会ったきっかけは、他ならぬ武久が彼をこの場所に縛り付け、放置したことだったのだ。


武久は激しい胸の痛みに耐えかねるように、その場に深く腰を折って頭を下げた。

「……五年前のあの日、本当に悪かった。本当に、すみませんでした。この通りだ、どんなに謝っても足りないとは分かっているけど……」

武久の額からは冷や汗が滴り、石床を見つめる瞳は後悔で潤んでいる。


しかし、対する才狐は微動だにせず、ただ無表情のまま武久を見下ろしていた。

その様子を、呪術師もまた鉄面皮を崩さずに静かに見守っている。


「そりゃ、赦せないよな。当然だよ。俺がやったことは、一歩間違えたらお前を死なせてたかもしれないことなんだから」

武久は震える声で、自らの罪の重さを言葉に紡いだ。


すると、それまで沈黙を守っていた才狐が、不思議そうに僅かだけ首をかしげた。

「赦す……?」

その呟きは、怒りでも拒絶でもなく、純粋な困惑に満ちていた。


武久は顔を上げることができぬまま、さらに言葉を重ねる。

「わかってるよ! 一生赦せないって言われても、仕方のないことをしたんだ。本当に……本当にごめん」


地を這うような謝罪を再び捧げた武久に対し、才狐は信じられないほど淡々とした声で問いかけた。

「武久君は何を言ってるん?」


「え……?」

武久は思わず顔を上げ、才狐の瞳を覗き込んだ。


そこには憎しみも、復讐心も、あるいは冷笑すらも存在していなかった。

二人の間に流れる空気は、武久が想像していた「加害者と被害者」の対立とは、あまりにもかけ離れた形で食い違っていた。


---


## 火炎の真実 ―― 絶望の謝罪と魔術の交錯


「あの……才狐、お前は一生俺を赦さないっていう意思表示で、そんなことを言ってるのか? 五年前、俺がお前をここに縛り付けて動けなくして、そのまま……ほったらかしにしたから……っ」


武久の声は震え、その目には必死の訴えが宿っていた。

過去の罪悪感に押し潰されそうな彼にとって、才狐のあまりに平坦な反応は、かえって鋭い刃のように胸を抉る。

しかし才狐は、神職の装束を微塵も乱すことなく、冷徹なまでに客観的な言葉を返した。


「それは事実としてあったことやね」


ただそれだけを、淡々と。

恨みつらみも、激情の欠片もそこには存在しない。

そして才狐は、困惑に目を見開く武久を無表情で見据えたまま、意外すぎる一言を放った。


「武久君の目的は、そちらの呪術師さんに僕のことを注意してもらう為に連れて来たんとちゃうん?」


「……え?」

武久の口から、間抜けな声が漏れた。


意味が分からない。

自分が今必死に行っている謝罪と、才狐の言葉の間に、あまりにも巨大な断絶がある。


「だって昨日、妖古さんから術の種類と使う時と場所は選ぶようにと、厳格に注意されて教わったばっかりやから」

才狐の言葉は、静まり返った境内に不思議な重みを持って響く。


「どういう、ことだ? 術の種類? 使う時と場所……? お前、さっきから一体何を言ってるんだ?」

武久は頭を抱え、混乱の極みに達していた。

自分の知っている世界が、足元から音を立てて崩れていくような感覚。


「おっ、なんや。烏龍茶も入っとるがな。流石、呪術師殿は気が利く御仁じゃのう」

その張り詰めた空気を、妖古の無邪気な笑い声が霧散させた。

コロコロと鈴を転がすような笑みを浮かべ、妖古は手土産の中にあった烏龍茶のペットボトルの蓋を、小気味よい音を立てて開ける。


――ゴクッ。


「ふぅ。生き返るわい」

上品に一口飲み、満足げに喉を鳴らす。


「それは何よりです。そんで、そっちの二人は放っておいたら一生謝罪ごっこをやってそうですなあ」

呪術師が、鉄面皮のまま冷ややかに告げた。


「それはそれで青春の無駄遣いっぽくて、おもろいもんが観れそうではあるけどのう。まあ、そこの悪ガキやった人の子は、少しは改心しよったみたいじゃから、この辺にしといたるかの」

妖古は微笑みながらもう一度烏龍茶を口に含み、それから才狐の方へと視線を流した。

「ほれ、才狐。呪術師殿に自分から言いよし」


才狐は、妖古の促しに従い、背筋を伸ばして呪術師の方へと向き直った。

「はい……呪術師さん。それと、一緒におられた御住職のことも、巻き込んで申し訳ありませんでした。御住職にも、伏してお詫びしていたとお伝えください」


才狐が深く、丁寧に頭を下げる。

その光景を見て、武久の心臓がドクンと大きく脈打った。


「僕の方こそ、咄嗟のこととは言え、横槍を入れてしもて申し訳ないことをしました。ただ――『火炎呪かえんじゅ』を使う時は、時と場所は選びなはれ。僕は巻き込まれるんはかなんさかい、咄嗟に鎮火しましたけどな」

呪術師の声が、氷のように低く、鋭く響く。

「不用意に一般人を巻き込んでしもたら、殺生の業を積み上げてしまいますからな。それに巻き込まれたんが、もしもそのまま『呪詛返し(じゅそがえし)』をするような御仁やったら、えらいことになってまっせ。下手したら妖古さんまで巻き込みかねまへんからなあ。まあ、妖古さんやと無傷な上に、そっから億倍返しくらいしはるやろうけど」


「はい、申し訳ありませんでした」

才狐は、その静かでありながらも理路整然とした厳しい叱責を真摯に受け止め、再び頭を下げた。


武久は、自分の耳に届く会話の内容が信じられず、目を白黒させて固まっていた。

――火炎呪? 鎮火? 呪詛返し?


昨日のショッピングモールでの、あの火災。

ミサの腕が突然、原因不明のままに燃え上がった、あの恐ろしい事件。

あの炎を放ったのは、他でもない――目の前にいる才狐だったというのか。


「これを機会に、TPOを含めて符術を才狐に教えたってくれんかいのう。呪術師殿が教えてくれたら、立派な解呪師になりよるじゃろ。カカカッ!」

妖古が愉しそうに笑い飛ばす。


「僕は弟子を持つ気はありませんし、そもそも妖古さんのお弟子さんやさかい、僕が横から師匠面をする気はござんせん」

呪術師の素っ気ない拒絶に、妖古は「そう言うと思うてたわ」と、さも愉快そうに肩を揺らした。


取り残された武久は、ただその場でパクパクと口を動かすことしかできなかった。

自分が命を懸けて謝罪しに来た相手は、もはや自分が知る「いじめられっ子」の才狐ではなかった。

人智を超えた力を操り、異形の存在と共に生きる、全く別の世界の住人へと変貌を遂げていたのだ。


---


## 形代の焔 ―― 視えざる凶行の証明


武久は、自分の心臓が凍りつくような音を聞いた。

先ほどから呪術師たちが口にしている「火炎」という不吉な単語。

それが、昨日起きたあの惨劇と結びついた瞬間、彼の脳裏には最悪の結末が閃光のように駆け巡った。


「才狐……お前、何を言ってるんだ? 今、火炎って言ったか? もしかして、昨日のショッピングモールで……。ミサに火をつけたのは、お前なのか……っ?」


震える声で、武久は最も恐れていた問いを投げかけた。

その瞳には、かつての加害者としての傲慢さはなく、ただ愛する者を傷つけられたことへの恐怖と、信じがたい事実への混乱だけが渦巻いている。


「そうや」

才狐の答えは、あまりにも短く、そして冷酷なほどに淡々としていた。

まるで「今日は晴れだ」とでも言うかのように、そこには罪悪感も昂ぶりも存在しない。


「!? なんで、なんでそんなことを……! 俺への復讐か!? だったら、俺を直接狙えばいいじゃねえか!! なんでミサを巻き込んだんだよ!!」


武久は怒りに任せて叫び、一歩踏み出そうとした。

しかし、叫びながらも彼の頭の片隅で、冷徹なまでの違和感がもたげ始める。


あの大勢の人が行き交う休日昼間のショッピングモール。

その中心にある広場で、どうやって誰にも見つからずに火をつけることができるというのか。

ミサ自身、何かが飛んできたわけでも、誰かが近づいたわけでもなく「突然燃え広がった」と言っていた。

物理的な犯行であれば、目撃者が一人もいないなどあり得ない。


「なあ……才狐。お前は本当に、あのモールでミサを見つけて火をつけたのか? だとしたら、一体どうやったんだよ。あそこは人が大勢いたはずだ。誰にも見つからずに、ライターか何かで火をつけるなんて、そんなの出来るわけがないだろ!」


武久の必死の問いかけに対し、才狐は表情一つ変えずに懐へと手を伸ばした。

それは、手品の種明かしを求められたマジシャンが、その種を明かすことすら厭わないという、奇妙なまでの無関心さを伴っていた。


形代かたしろを使うたんよ」


「……形代?」

聞き慣れない言葉に、武久は首をかしげる。


才狐は「これや」と短く告げると、懐から一枚の小さな紙を取り出す。

それは、白く薄い和紙を人の形に切り抜いた、まじないの道具だった。


武久がその紙を凝視した瞬間、全身の毛穴が逆立った。

その人型に切り取られた中心には、歪な筆致でミサの本名が記されている。


そして――。


人型の右腕の部分が、まるで現実のミサが受けた火傷をなぞるかのように、黒々と焼き切れていた。

それだけではない。顔にあたる部分の端にも、ミサの湿布が貼られていた場所と寸分違わぬ位置に、小さな焦げ跡がついている。


「え……? その紙を燃やしたら、ミサの腕が……実際に燃えたっていうのか?」


「うん」

才狐の相槌は、どこまでも平坦だった。


そんな馬鹿な話があるものか、と武久は叫びたかった。

しかし、目の前で展開される現実は、彼の常識を完膚なきまでに破壊していた。


昨日から今日にかけて、摩訶不思議な食堂で過去の像を見せられ、異形の鬼や地蔵店長と出会い、そして今、目の前には天狐と共に神職姿の才狐がいる。

なにより、この紙の上の焦げ跡と、病院で見たミサの痛々しい怪我が、残酷なまでに一致しすぎている。


才狐という少年は、もはや冗談を言うような人間ではない。

というより、冗談という概念さえも持ち合わせていない、異界の住人になってしまったのだ。


武久は、自分がかつて「召使い」と呼んで踏みつけにしていた少年が、今や自分の理解を遥かに超えた、人知れぬ「力」を振るう存在であることを、絶望と共に認めざるを得なかった。


---


## 因果の糸 ―― 筒抜けの呪詛


武久は、目の前に突きつけられた「形代」という非現実な現実を前に、ただ呆然と立ち尽くした。

原理など、本当のところは1ミリも理解できていない。

だが、その薄っぺらな紙切れに刻まれた焼痕が、ミサの苦痛と完璧にリンクしているという事実だけは、認めざるを得なかった。


震える唇を噛み、武久は喉の奥から絞り出すように問いを投げかけた。

「……やり方はわかった。いや、本当は全然よくわかってねえけど、それを使って火をつけたってことだけは理解したよ。でも、だったらなんで、あんな酷いことしたんだよ……! 才狐、お前、なんでミサを……っ!」


武久の激昂とは対照的に、才狐の瞳は凪いだ水面のように静まり返っていた。

彼は感情を一切乗せない、氷のように冷徹な声でこう告げた。

「だって、君が望んだんやん」


「……え?」

武久の思考が、一瞬で真っ白に染まった。

何を聞かされたのか、理解が追いつかない。


「だって武久君、昨日彼女に『死ね』って言うたやん。心から、彼女の死を望んだんやろ?」


その言葉は、武久の心臓を直接握りつぶすような衝撃を伴っていた。

全身から嫌な汗が噴き出し、視界がぐにゃりと歪む。


「なんで、お前……そんなことまで知ってるんだ? なあ、昨日は一日中どこにいた? まさか、どこかで俺たちのことをずっと監視してたんか……?」

頬を伝う冷や汗が、石畳にポタリと落ちた。


才狐は瞬き一つせず、淡々と応じた。

「ずっとここにおったよ。本殿の中におるか、自宅となる建物……この近くに宮司用の宿舎があるんやけど、そこを行き来してただけや。一歩も外には出てへんよ」


「……っ、じゃあ、本当にその紙だけでミサに火をつけたってことは、もう認めざるを得ないな」

武久は奥歯をガチガチと鳴らし、必死に恐怖を抑え込んだ。

「でも、それじゃあおかしいだろ! 俺がミサを傷つけるようなことを言っちまったことを、お前が知ってるのはなんでだ? ここにいたなら、聞こえるはずがないだろうが!」


その問いに対し、才狐はすっと右手を挙げた。

神職の白い袖から覗いた右手首には、あの鮮やかな紅色の組紐が巻かれている。


「これが、教えてくれるんよ」

才狐は、自らの手首に指を添え、平然と告げた。


「これが……? ただのミサンガ……いや、組紐って言うんだったか。ただの紐じゃねえか、そんなもんがどうやって……!」

武久は自分の右首に巻かれた蒼い紐を掴み、引きちぎらんばかりの勢いで凝視した。


「そや。それで君のことは、僕に筒抜けなんよ」


「……は、はは……。さっき病院でミサと、これで通信できたらなんて冗談を言ってたけど、マジだったのかよ……」

武久の口から、乾いた笑いしか出てこない。

自分の行動も、暴言も、心の醜い動きさえもが、この一本の糸を介してリアルタイムで才狐に届いていたのだ。


才狐は、自分の手首の紐を愛おしむでもなく、実験道具を見るような無機質な目で見つめた。

「これを誰にどう結ぶかが、妖古さんから出された課題やったけど。高校編入初日に武久君が食いついてくれて、あっさり課題をクリアできたで。君が、自分から寄ってきてくれたんやからな」

その口ぶりは、さも簡単なパズルゲームのステージを一つクリアしただけと言わんばかりの、あまりに無慈悲な響きを持っていた。


すると、本殿の階段に座っていた妖古が、喉を鳴らしてコロコロと笑い出した。

「カカカッ! 他でもない因縁のあるぬしが、自らその糸を掴んで食いついて来るとは。因果というか、なんというか。人の子は、本当におもろいもんじゃのう」


狐の怪異が放つその笑い声は、春の陽だまりのように陽気で、どこまでも透き通っていた。

だが、その背後にある圧倒的な強者の余裕と、人の苦悩を娯楽として享受する残酷さが、武久の背筋に耐え難い戦慄を走らせた。

陽気であればあるほど、その存在の異質さが際立ち、武久はただ、彫像のように固まったまま震え上がることしかできなかった。


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## 狐憑きの檻 ―― 逃れられぬ呪縛の連鎖


武久の喉が、ヒュッと鳴った。

これまでに自分の口から放たれた「死ね」や「ぶっ殺すぞ」という呪詛。

その言葉の矛先となった友人や知人たちが、次々と無残な最期を遂げていった光景が、血の気が引くような速度で脳裏を駆け巡る。


「じゃあ……才狐。お前は……俺がその言葉をぶつけた相手を、一人ずつ選んで……次々と……」


震える声で、武久は最も認めたくない事実を、確認せざるを得なかった。

才狐は、神職の装束を微塵も乱さず、まるで事務的な確認に答えるかのようにあっさりと言い放った。


「うん。そうやで」


武久は絶句した。

もはや、声も出ない。

だが、その絶望の底で、武久の心に身勝手な「安堵」が微かに芽生えたのも事実だった。


(……俺が、直接殺したわけじゃなかったんだ。あいつらを殺したのは才狐の力で、俺の手は汚れていなかったんだ……)


そんな卑屈で甘い考えが、一瞬だけ彼の表情を緩ませた。

しかし、その浅ましさを、人知を超えた存在が見逃すはずもなかった。

さっきまで本殿の階段で油揚げを頬張っていた妖古が、冷ややかな、それでいて滑稽なものを見るような眼差しを武久に向けた。


「クククッ。わかり易い阿呆じゃのう、ぬしは。まさか、これで『自分が殺したわけやない』とでも、おめでたいことを考えとらんか?」

妖古の鋭い指摘に、武久は心臓を射抜かれたように肩を震わせた。

「え……? だ、だって、今、才狐が自分の力でやったって……」


妖古はフッと鼻で笑うと、武久の右首で鈍い光を放つ蒼い組紐をじっと見つめた。

そして、傍らに立つ呪術師へと視線を流す。

「呪術師殿は、とうに看破しとるようじゃのう。流石は現代で言うところの『神レベル』の解呪師じゃ。この仕掛け、すでに見抜いとるんじゃろ?」


呪術師は、相変わらずの鉄面皮を崩さぬまま、事務的に種明かしを始めた。

「……ええ。御丁寧に『狐憑きつねつき』の呪符が、その組紐の中に練り込まれてますさかい」


「流石じゃ。昨日、あのショッピングモールで小火ぼやの騒ぎがあってすぐ、我のところに呪術師殿から伝令札が飛んできた時、そやろなあって思うとったわ。いや……そもそも小火を鎮火した瞬間、呪術師殿と御住職の二人は、我と才狐の仕業やと気づいとったんじゃろう? ほんに、恐ろしい御仁らじゃて」

妖古はコロコロと鈴を転がすように笑うが、その内容は戦慄すべきものだった。


武久は混乱の極みにあった。

「狐憑き? 伝令? ……何を、言ってるんだ……っ」


呪術師は、混乱する武久を冷徹に見据え、言葉を継いだ。

「武久さん。どうやらおたくは、本当の意味での『狐憑き』を知らんようですな」


彼は一度言葉を切り、古の伝承と残酷な現実を解き明かしていく。


「狐の霊が人に乗り移り、異常な行動や言動を引き起こす……。日本の民間信仰ではそう語られますが、実際のところ、野生の狐の霊が取り憑くなんてことは稀ですわ。妖古さんのような妖術を使える妖狐の類や、狐の霊力を宿した者……あるいは修練を積み上げた呪術師が、対象の精神に作用する『呪い』をかける。それが、その正体です」


呪術師は、武久の右手首にある組紐を指差した。

「おたくのその組紐。中に紙が一緒に結ばれていることには、気づいとりますかな?」


「え……あ、ああ。確かに、何かが挟まっているような感触があったけど……」


「その紙は、呪符じゅふっちゅうもんですわ。特定の条件……つまり『武久さんの負の感情と言葉』が揃った瞬間、才狐さんの指示一つで『狐憑き』が発動するように、システムが組み込まれとるんです。武久さん、おたくは自分の意思で呪いを飛ばし、才狐さんはそれを『執行』したに過ぎん。共同正犯ですわな」


「俺は……呪いの御札を、ずっと身体に括り付けてたってことか!? そんなの……嫌だ!」

武久は半狂乱になり、右手で組紐を掴んで引きちぎろうとした。

しかし、指先に力を込めても、糸は食い込むだけで、解ける気配すら見せない。

それはまるで、皮膚の一部にでもなったかのようになっている。


「無駄じゃて。力づくでは、それは一生取れはせん」

妖古が愉快そうに、しかし残酷な事実を告げる。

「外せるのは、術者である才狐と、その師匠である我。それから、そこの呪術師殿や御住職……あとは女鬼ちゃんと言った、術者である才狐を軽く超えられる存在くらいじゃ。一定レベル以上の心得がある者でないと、それはびくともせんよ」


武久の顔から血の気が完全に引き、真っ青になった。

すがるような思いで呪術師と才狐を見るが、妖古の言葉は無慈悲に続いた。


「そんで。我も才狐も、そしてこちらにおわす呪術師殿も……今、それを外してやる気はさらさら無いからのう。諦めや」

妖古のコロコロとした笑い声が、静寂の境内に響き渡る。


武久は、自分が取り返しのつかない「呪いの歯車」の一部として、永遠にこの檻の中に閉じ込められたことを悟り、その場に膝から崩れ落ちた。


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## 言霊の誓約 ―― 欠落した心と妖の嘲笑


絶望に打ちひしがれ、己の右首に絡みついた「呪いの檻」を引きちぎろうともがく武久。

その無様な姿を、階段に座る妖古は実に見せ物でも眺めるような、愉悦を含んだ眼差しで見下ろしていた。


「安心せい、若いの。ぬしが『条件』を刻まん限りは、才狐がその術式を発動させることはあらへんからのう。先ほど呪術師殿が丁寧に説明してくれたじゃろ? 条件が揃うたら、とな」

妖古の声は、春風のように軽やかで、それゆえに酷く残酷だった。


武久は、荒い呼吸を整えながら、すがるような思いで顔を上げた。

「条件……? 条件って、まさか……っ」


問いかけられた才狐は、神職の装束に身を包んだまま、微動だにせず武久を見つめ返した。

その瞳は、深淵の底のように暗く、光を反射しない。


「君が誰かに対して、『死ね』とか『ぶっ殺すぞ』って。心から、あるいは脊髄反射的に他者の死を望んだ時。僕はただ、その望みをそのまま叶えるだけや」

あまりにも淡々と。まるで「腹が減ったから飯を食う」のと同じ次元で、才狐は他者の命を奪う条件を口にした。


「そんなこと、望んで、ない……。本気で死ねなんて、俺は……っ」


武久は声を震わせ、必死に否定の言葉を絞り出す。

しかし、才狐は無表情のまま、首を僅かに傾げて問い返してきた。


「望んでないのに、そんな不吉なことを言うのは理屈に合わへんで? ほんのわずかでも心の底で望んでるからこそ、そういう呪いの言葉が出るんとちゃうん? 違うの?」


あまりに純粋な疑問。

悪意すら感じさせないその問いが、武久の心に巣食う「自覚なき悪意」を無残に暴き立てる。


「……確かに、思うことはある。カッとなって、死ねばいいのにとか、殺してやろうかって、頭をよぎることはあるよ。でも……」

武久は言葉を詰まらせ、地面に視線を落とした。

「でも、それは間違っても口に出すことでも、他人にぶつけることでもなかったんだ。……俺は、最低だったよ」


武久は、己の内に飼っていた獣の正体を知り、深く、深くうなだれた。

「俺だってさ、人間なんだから……この先も、ムカついて『死んじまえ』って思っちまう瞬間はあるだろう。だけど……でも、もう二度と言わない。そんな言葉を、誰にもぶつけたりしない。この呪いは、絶対に発動させない。ここに誓うよ。その……狐の神様に誓う!」


武久はその場に両膝をつき、乾いた石畳に額を擦り付けた。

土下座。

かつての傲慢な彼からは、決して見ることのできなかった姿だった。


その様子を、才狐はただ無言で、表情一つ変えずに眺めている。

一方、妖古は「カカカッ!」と喉を鳴らして、腹を抱えるようにして笑い転げた。


「クククッ、カカカッ! 娑婆での名前にわざわざ『妖』の名を入れておるというのに、我を『神』と崇めるか! ほんに、愉快な人の子じゃのう!」

妖古のコロコロとした笑い声が、静寂な境内に反響する。


武久はゆっくりと立ち上がり、汚れのついた膝を払うこともせず、もう一度才狐の瞳を真っ直ぐに見据えた。

「才狐。……本当に、悪かった。……ごめん。すみませんでした」


何度目かとなる、心の底からの謝罪。

しかし、才狐はやはり、何も言わなかった。

ただ、武久の存在を風景の一部として認識しているかのように、静かに佇んでいるだけだ。


「……ミサも心配してたけどさ。お前、再会してから……一度も笑わなかったよな。変わったな、才狐。お前……なんだか、まるで『心』が抜け落ちちまったみたいだ」


武久は、かつての面影を探し、悲しげに顔を歪めた。

あの頃の才狐は、もっと弱くて、もっと泣き虫で、けれど確かに「心」があった。


すると、その言葉を聞いた妖古が、油揚げを口に運んでいた手を止め、怪しげな笑みを深く刻んだ。

「なんじゃ。ぬし、意外とようわかっとるやないか」


「……え?」

武久は目を見開いた。


妖古の金色の瞳が、夕闇に沈みゆく境内で、妖しく、鋭く光り輝いた。

「なんの、驚くことはない。――こやつの『心』はのう、五年前、この場所に捨てていったんじゃから。正確には、我に差し出しよったんじゃよ」


妖古の放ったその言葉の意味を理解しようとした瞬間、武久の背筋を、これまでで最も冷たく、巨大な戦慄が駆け抜けた。


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## 断罪の対価 ―― 欠落の深淵と古狐の憤怒


妖古は、手元の烏龍茶を喉に流し込むと、黄金色の瞳を細めて武久をねめつけた。

「才狐は、自分の払った代償について、わざわざ他人に話すような殊勝な真似はせん。若いの、ぬしは誰かに聞かされるでもなく、己の目だけで今の才狐の状態に辿り着いたんかのう?」


「え、え……? 一体、妖古さんは何を言ってるんですか? 代償って……さっきから、何を……」


武久は困惑を隠せず、狼狽しながら言葉を返した。

そのあまりに無知な反応を見て、妖古は再びコロコロと鈴を転がすような笑い声を上げた。


「なんじゃ、ただのあてずっぽうかいな。まあ、そうじゃろうなあ。ぬしごときの人間に、物事の深層や本質を見抜く目なんざ、はなからないじゃろうからのう」


妖古の笑い声が境内に響き渡る中、彼女は不意に笑いを止め、重苦しい事実を淡々と告げた。


「今、ぬしは才狐のことを『心が抜け落ちた』と言うたではないか。その言葉、まさに正鵠せいこくを射ておるぞ。あの日、絶望の淵にいた才狐はな、人知を超えた力を得るための、呪術師になるための『代償』として、己の『心』というやつを自らの手で差し出しよったんじゃよ。ついでに言うとな、才狐は両親との縁も、そのすべてを代償として差し出しよったわ」


その瞬間。

武久の脳裏に、いくつもの断片的な記憶が、火花を散らしながら結合していった。


再会してから一度として、まともに表情を動かさなかった才狐の凍りついた横顔。

そして今から五年前、自分たちが彼をこの神社に放置し、その直後に起きた、才狐の両親が交通事故で非業の死を遂げたという痛ましいニュース。


「……っ! まさか、あの事故も……そんな……」

すべての辻褄が最悪の形で合致したことに、武久は吐き気を伴う驚愕に襲われた。


傍らにいた呪術師が、そのやり取りを冷徹に見つめながら、静かに、しかし地を這うような低い声で言葉を添えた。

「『人を呪わば穴二つ』……。そして自らに返る反動、『逆凪さかなぎ』か。……代償の払い方については、僕と似たようなもんみたいですなあ」


才狐は、呪術師の言葉を真正面から受け止め、初めて自ら問いを投げかけた。

「呪術師さんも、代償の支払いに躊躇は無かったんですか?」


「ええ。僕も全く躊躇はなかったどころか、代償として差し出したもんについては、無い方が都合がよかったさかい、嬉々として捨てました。才狐さんが、心と両親を躊躇なく差し出さはったのと同じ、ですえ」


「才狐、お前……自分の親と、自分の心を。そんな、あっさりと……っ」

武久は、あまりにも冷酷な取引の全貌を知り、膝をガクガクと震わせた。


だが、その愕然とする武久に向かって、妖古が初めてその柔和な笑顔を完全に消し去った。

「傷つけることしかせんような毒親に、絶望しかない暗闇のような状態、そないな中において後生大事に保ちたい心なんざ、ありゃせんじゃろうよ。そしてな、才狐をそこまで追い込み、その『因』を作ったのは……紛れもなく、貴様じゃろが」


妖古の瞳が、爛々と不気味な金色の光を放ち、武久を射抜く。

その顔には、これまで見せていた茶目っ気など微塵もなく、ただ圧倒的な捕食者の冷徹さが宿っていた。

武久はその表情に、本能的な死の恐怖を覚え、声も出せずに硬直した。


「絶望して自らの死を望み、己の肉体を自らえぐって傷つけ、この神聖な境内に血を付けよったのは、確かに才狐自身の意志じゃ。……じゃがな。そうなるまでこやつを追い詰め、汚した因となったのは、間違いなく貴様じゃろが!ええ!?」


妖古の背後から、神域を揺るがすほどの凄まじい妖気が立ち上った。


「我の聖域、我の大切な庭を土足で踏み荒らした挙句に人の血を付けおいて、ただで済むとでも思うたか!!」


激昂と共に放たれた一喝は、雷鳴のように境内に轟き、武久の魂を直接震わせた。

それはまさに、神にも等しい力を持つ古狐の、容赦なき憤怒であった。

武久は完全に恐怖におののき、喉はひきつり、指先一つ動かすことさえできぬまま、目の前の「魔」の権現にただ圧倒されるしかなかった。


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## 贖罪の誓い ―― 空白の心へ贈る言葉


境内の空気は、もはや呼吸することさえ苦痛に感じるほど、妖古から放たれる圧倒的な憤怒によって重く沈んでいた。


武久は、己の目の前に立つ才狐という少年の、あまりにも深い絶望の淵に触れた気がして愕然とした。

これほど多くの「死」を目の当たりにし、自らそれを執行しておきながら、指先一つ、表情一つ動かさない才狐。

その氷のような無関心の正体は、他でもない――五年前、この場所に彼を置き去りにした自分たち悪ガキ共が生み出した「怪物」そのものだった。


才狐が自らの手で「心」を殺し、代償として差し出さなければならなかったほどの絶望。

自らの命を絶とうとするまでに追い詰め、その過程でこの神聖な霊場に血を流させ、消えぬ汚れを刻んでしまったこと。

武久の胸を、今更ながらに激しい後悔の炎が焼き焦がす。


妖古は、その恐ろしい黄金色の瞳で武久を射抜いた。

「血を付けた才狐が無事でいられたのは、自らの命を差し出したからじゃ。そして、その絶望の中で、こやつは我と対話し、弟子入りを懇願しよった。己の心と肉親をすべて差し出しながらな。なかなかに骨のあるやつじゃ。ゆえにこうして弟子にし、今に至るというわけじゃよ。その時、既にこやつは我の霊域を血で汚した償いを、己の身を削って終えとったというわけじゃよ」


妖古はそこで言葉を切り、さらに冷酷な一喝を武久に叩きつけた。


「して、武久というたのう、愚かな人の子よ。貴様はそれから五年間、何の償いもせぬまま、のうのうと生きよった。今回、貴様の身に起こった数々の不幸……そして貴様と恋仲の娘が一生消えぬ傷を負うことになったのは、我が怒りに触れた代償であると知るがいい。言い逃れや仕返しをしたいなら、存分にするがええ。……どうじゃ、我と一戦交えてみるか? 秒でその首を引きちぎってやってもええんじゃよ?」


「……首どころか、秒で存在そのものが消えますがなあ」

呪術師が、冷や汗一つ流さぬ鉄面皮のまま、大きなため息をついた。

その言葉は脅しではなく、抗いようのない「事実」として武久の心に突き刺さる。


武久は、全身をガタガタと震わせながら、再度その場に崩れ落ちるように土下座をした。

「申し訳……ありませんでした。本当に、取り返しのつかないことを……」


妖古は武久の無様な姿を鼻で笑うと、一度だけ短く頷いた。

「ふむ……ええか、愚か過ぎる人の子よ。そちらの凄腕の呪術師殿と、心優しき御住職を、我が弟子が不用意に巻き込んでしもうたこと。それに対し、二人が寛容にも事を荒立てずにいてくれたことに免じて、我からは、今回だけはこれくらいで勘弁しといたる」


妖古の纏っていた凄絶な妖気が、わずかに和らぐ。しかし、彼女の忠告は、呪いよりも重く武久の肩にのしかかった。

「ただし。才狐が貴様をこれからどうするかまでは、我は知らん。精々、才狐が『狐憑き』を発動させんように、己の醜い口をつぐんで、地を這うように生きることじゃな」


「はい。……本当に、申し訳ありませんでした」

武久は頭を下げたまま、その言葉を血肉に刻み込んだ。

やがて、彼は震える膝を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。


武久は、目の前に立つ無表情な才狐へと向き直った。

「才狐。……本当に、すまなかった。さっきも約束したけど、もう二度と、人の死を望む言葉を他人にぶつけたりしない。そして……」


武久は一度言葉を切り、震える拳を強く握りしめた。

「……才狐が、また笑えるような、そんな当たり前の日常を取り戻せるように。俺も努力する。一生かかっても、それを俺ができる償いの一つにするよ」


欠落した心、失われた肉親。

それらを奪った自分が、それを癒したいと願うのは、傲慢かもしれない。

それでも言わずにはいられなかった。


才狐は、その熱のこもった誓いを聞いても、ピクリとも眉を動かさなかった。

ただ、欠落した感情のまま、虚空を見つめるような瞳で静かに答えた。

「? ……うん」


「……じゃあな。俺は先に、神奈川に戻るよ。また……臨時休校が終わった学校で会おう」


武久は、もう一度だけその場にいる全員に深く頭を下げた。

神域を包む冷たく清らかな空気の中、彼は自らの過ちという重荷を背負いながら、けれど一歩ずつ、確かな足取りで山門へと向かって歩き出した。

武久の右手首に巻かれた蒼い組紐は、今や彼を戒める鎖ではなく、彼が人間として生きるための道標のように、鈍く、静かに輝いていた。


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## 言霊の残響 ―― 覚悟を背負う帰路


武久は、かつて自分が嘲笑とともに踏み越えた朱塗りの鳥居の前に立ち、足を止めた。

背後に広がる神域の空気は、今や彼にとって針のむしろのように鋭く、同時に洗い流されるような清冽さを湛えている。

彼は振り返り、そこにある因縁のすべてに向けて、今日一番の深々とした一礼を捧げた。


「ほな、お邪魔しました。僕は彼を駅まで送っていきますさかい」

呪術師が、鉄面皮のまま短く告げる。

その声には、武久を監視するような、あるいは支えるような、不思議な響きがあった。


「はい、それではまた」

神職の衣を纏った才狐が、音もなく頭を下げた。

その所作はあまりに美しく、完成されており、それゆえに彼の中に「心」という揺らぎが存在しない事実を、改めて武久に突きつけてくる。


「ほな、またおいない。あ、そろそろ稲荷祭りやさかい、稲荷神社に寄ったら、その足で御住職のとこにも寄らせて貰うかねえ。あの御仁が淹れるお茶は、格別じゃからのう」

階段に腰掛けた妖古が、先ほどまでの憤怒が嘘のように、コロコロと鈴を鳴らして笑う。

その切り替えの早さは、人知を超えた怪異ゆえの気まぐれか、あるいは千年単位の時を生きる者の余裕か。


「ほな、御住職に伝えときます。そん時は、阿闍梨餅あじゃりもちも用意しときましょか。それとも、やっぱり油揚げの方が宜しゅうおすか?」

呪術師の問いかけに、妖古は瞳を輝かせ、弾んだ声を上げた。

「両方がええのう♪」


「さいですか。ほな、用意しときますさかい。御茶会の際には、才狐さんも御一緒に来ておくれやす」

呪術師はサッと手を挙げて別れの合図をすると、一切の無駄がない足取りで石段を降り始めた。

武久もまた、背後に残る少年と、偉大なる仙狐の気配を背中に感じながら、前を向いて歩き出した。


---


御狐神社を離れ、京都駅へと向かう道中。

街並みは次第に現代の喧騒を取り戻していくが、武久の心は依然として、あの静寂な境内に置き去りにされたままだった。


「……俺が。俺があいつを、人殺しの呪いを躊躇なく使うような奴に……あんな風にしちまったってことか」

独り言のような呟きが、乾いた唇から漏れ出した。

その問いに対し、隣を歩く呪術師は、前を見据えたまま淡々と語り始めた。


「日本には古来より『言霊ことだま』信仰っちゅうものがあります。言葉は生きている。口から出た瞬間、それは独立した力を持って世界に干渉する……。言葉一つで人を生かすこともあれば、いとも簡単に殺すこともできる。言葉っちゅうもんは、刃物よりもずっと恐ろしい武器になりますんやで」


武久は、自分の右首に今も重く絡みついている蒼い組紐を、指先で震えながらなぞった。

「……この紐は。俺が、俺の言葉一つで人を呪い殺せてしまうという、消えない呪縛だってことか。下手したら、昨日だって……本当に、俺がミサのことも殺してたかもしれないんだな」


「そうならんように、これから口から出す言葉を、一文字ずつ慎重に選ぶことですな。一度放たれた言葉は、二度と口の中には戻りまへんえ。それは、あんたが生涯背負い続ける『カルマ』そのものなんやから」


呪術師の諭すような言葉が、武久の胸の奥底に重石おもしのように沈み込んでいく。


「……はい」

武久は短く答えた。

その「はい」という二文字でさえ、今は自らの魂を削り出すような重みを感じていた。


京都駅の巨大な建造物が見えてくる頃、武久の心の中には一つの確固たる「覚悟」が定まっていた。

神奈川に戻ったら、まずはミサに会おう。

そして、彼女にすべてを話すのだ。

摩訶不思議食堂で見た自分の醜い過去、才狐をあの日見捨てた罪、そしてミサの怪我を引き起こした本当の元凶が、他ならぬ自分自身の汚れた言葉であったことを。


もし、すべてを打ち明けて彼女に拒絶され、別れることになったとしても。

それは、今の自分が受けるべき当然の報い……自業自得なのだ。

隠して救われる道など、今の武久は望んでいなかった。


武久は、摩訶不思議食堂の店長から教わった「言辞施」の智慧、そして才狐と妖古の前で誓った贖罪の決意を、その胸に深く刻み込んだ。

彼の右手に巻かれた組紐は、今や呪いの象徴ではなく、人間として正しく歩むための、厳しくも確かな道標となっていた。


武久は、迷いのない、確かな足取りで京都駅への道を歩き続ける。

その背中は、かつての軽薄な「悪ガキ」のそれではなく、自らの罪を背負って生き抜こうとする、一人の若者の後ろ姿であった。


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## 言辞の誓い ―― 傷痕と共生する未来


武久は京都駅の喧騒の中、呪術師の無表情な背中に向けて、今日何度目かになる深く丁寧な礼を捧げた。

新幹線のホームへと向かう彼の足取りは、昨日までの軽薄なものとは明らかに異なり、自らの過ちという目に見えぬ重石をしっかりと引き受けている。


車窓を流れる京都の街並みを眺めながら、彼は右手首に巻かれた蒼い組紐をそっとなぞった。

「言葉は生きている」――呪術師の言葉が、車輪の刻むリズムに重なって脳裏に響き続ける。


神奈川へと戻った武久は、すぐにミサへと連絡を入れた。

彼女はすでに母親と共に自宅へ帰り着いており、武久は京都を発つ直前に買い求めた土産を手に、彼女の自宅を訪ねることにした。


「……あ。それ、もしかして八つ橋?」

玄関先で出迎えたミサが、武久の手元を見て目を丸くした。

「ああ。京都の定番だろ? せっかくだからと思ってな」


「うそ、アタシも駅の売店で同じやつ買っちゃった。お母さんと一緒に、これなら間違いないわねって」

二人は差し出された土産を見比べ、思わず顔を見合わせて小さく笑い合った。


数日前までの、他人を嘲笑うような歪んだ笑いではない。

どこか懐かしく、そして微かな痛みを含んだ、年相応の少男少女の柔らかな笑い声だった。


---


だが、その和やかな空気は、ミサの部屋へと場所を移した瞬間に一変した。

武久はミサの正面に座り、座布団をどけて正座をした。

その真剣な表情に、ミサは茶を淹れる手を止めて居住まいを正した。


武久は、淀みなく話し始めた。

摩訶不思議な食堂で突きつけられた自らの悪業、五年前のあの日、御狐神社で才狐を捨て置いた罪。

そして、その因縁によって才狐が「心」と「両親」を代償に異能の呪術師へと変生したこと。

ミサの右腕を焼いた火炎の正体が、武久の放った「死ね」という言葉をトリガーにした呪符の力であったこと。


すべてを洗いざらい打ち明けるまでに、どれほどの時間が経っただろうか。

語り終えた武久は、畳に手を突き、そのまま深く頭を下げた。


「……あまりに現実味がなさすぎて、信じてもらえないかもしれない。けど、今話したことは全部、俺が京都で見てきた真実だ。俺があの日、宮田才狐という気弱な子供を、狐宮才狐という恐ろしい呪術師に変えちまったんだ。そして……その業のせいで、ミサに一生消えない傷を負わせた。本当に、本当に申し訳ない!」


床に額を擦り付ける武久の姿を、ミサは沈黙の中で見つめていた。

部屋には時計の秒針が刻む音だけが虚しく響く。

やがて、ミサは包帯の巻かれた自らの右腕をそっとさすり、静かに口を開いた。


「……正直、まだアタシの頭じゃついていけてないわ。幽霊とか呪いなんて、映画の中の話だと思ってたし。でも……」

ミサの声は、震えながらも確かな強さを持っていた。

「何もないところで、いきなりアタシの腕が燃え上がったのは紛れもない事実よ。今のアタシは、この火傷が武久のせいだなんて恨んでない。でもね、残っちゃったこの傷が……今、武久が話してくれた物語は『真実』なんだって、何よりも雄弁に物語ってる気がするの」


ミサはそこで言葉を切り、武久の丸まった背中を穏やかな目で見守った。

「武久、顔を上げて。……今はもう、そんなに反省してるじゃない。確かに……武久も、周りの友達も、アタシたち全員、不用意に『死ね』とか『殺す』なんて言い過ぎてた。それは、本当はとっても恐ろしいことだったのね。武久だけじゃない。アタシ自身も、自分の言葉の重さをわかってなかった」


武久はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、隠しきれない後悔と、それでも未来を向こうとする意志が滲んでいた。


「これからは、お互いに言葉には気を付けて生きていこうよ。……そりゃね、これからも喧嘩くらいはしちゃうかもしれない。でも、それでも。絶対に超えちゃいけない一線を越えない、理性的な大人になろうね。この傷を、そのための戒めにしていこう?」


ミサの微笑みは、武久にとって何よりの救いであり、同時に最も重い「責任」の提示でもあった。


「……ああ、そうだな。お互いに気を付けて……感情に任せて人の道を踏み外さないようにしよう。俺は、もう二度と道を外れない。……お前を、もう二度と、あんな人の命を奪うような言葉で傷つけないと、ここに誓うよ」


武久は力強く宣言した。

右手首の蒼い組紐は、今も静かに彼の鼓動を刻んでいる。

それは彼を縛り付ける呪いであると同時に、正しき「言辞施」の道を歩ませるための、一生消えることのない導標となった。


夕暮れ時の静かな部屋で、二人は新たな誓いを胸に、静かにお茶を啜った。

かつての「悪ガキ」の残滓は消え、そこには自らの罪と向き合い、共に歩むことを決めた二人の若者の、小さな一歩があった。


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## エピローグ:言霊の祭りと、あやかしの午後


数日後の京都。

空は高く晴れ渡り、山々から吹き下ろす風には、春の陽気と屋台から漂う香ばしい匂いが混じり合っていた。


京都駅ほど近く、かつて武久が「えらいこっちゃ嬢」や「妖古」と運命的な遭遇を果たしたあの稲荷神社では、例大祭――稲荷祭りが賑々しく執り行われていた。

かつての隆盛を極めた時代に比べれば、その規模は縮小の一途を辿っているものの、参道には色とりどりの暖簾を下げた屋台が軒を連ね、地元の衆生たちの笑い声が絶えることはない。


「狐にまつわる神社の宮司を名乗る以上、こういう祭りの手伝いも大事な経験じゃからのう」


石灯籠の影でコロコロと鈴を転がすように笑うのは、優雅に袖を振る妖古だ。

彼女は今日、弟子である才狐に、この神社の社務所の手伝いをさせていた。


才狐は真っ白な白衣と緋色の袴に身を包み、黙々と御札の授与や境内の案内をこなしていく。

その所作に迷いはなく、淀みない。

神社の老宮司や禰宜ねぎたちは、そんな少年の働きぶりに目を細め、口々に彼を賞賛していた。

「いやあ、こんなに若い子が甲斐甲斐しく手伝うてくれて、ほんまに助かるわあ。才狐くん、あんたは将来、立派な神職になりはるえ」


周囲の大人たちに可愛がられ、忙しく立ち働く才狐。

その顔には相変わらず、生きた感情の揺らぎは見られない。

しかし、その瞳の奥には、どこか静かな充足感のようなものが灯っているようにも見えた。

妖古はフッと、師匠として、そしてどこか育ての親のような慈しみを感じさせる優しい笑顔で、その愛弟子の背中を見つめていた。


---


境内には、狐のお面を頭に乗せた子供たちや、現代風にアレンジされた狐耳のカチューシャを付けてはしゃぐ若い男女が溢れている。

「カカカッ! ここまで狐の装いをした者が多いとなると、我も耳を出したところで、誰も天狐やと疑う者はおらんじゃろうなあ。平和な世の中じゃて」


妖古が石の上に腰を下ろし、賑わう衆生を眺めて独りごちていると、その横から弾むような明るい声が届いた。


「かもねー。あーしのことも、誰もモノホンの鬼だなんて思ってないし。この角、みんなオシャレなカチューシャにしか見えてないみたいでさー、超ウケるんだけど♪」


サイドテールを軽やかに揺らし、妖古の隣にやってきたのは、女鬼だ。

その手には、しっかりと摩訶不思議食堂の看板娘――えらいこっちゃ嬢の手が握られている。


「そうみたいじゃのう。ふふ、コスプレ文化というやつは、我ら妖や怪異の類にとっては、正体を隠す手間が省ける『渡りに船』な文化じゃわ」

妖古はコロコロと笑い、やってきた二人を温かく迎え入れた。

「お早い到着じゃの、女鬼ちゃん、えらいこっちゃん」


「こっちでの面倒事は全部、呪術師さんと御住職が綺麗に片付けてくれたからね。ほんと、あの二人はどこまでシゴデキ(仕事ができる)なんだろ。あーしはあの二人についてはさ、篁さん以来のスカウト確定人材だと思ってるもん♪」

女鬼が愉快そうに笑い飛ばすと、妖古も懐かしげに目を細めた。

小野篁おののたかむらとはまた、懐かしい名前を出してきたのう。冥界の役人としても名を馳せたあの御仁に並べるとは、かなりの高評価じゃ」


すると、繋いでいない方の腕をぶんぶんと振り回しながら、えらいこっちゃ嬢が元気に声を上げた。

「えらいこっちゃなシゴデキコンビ、死後のお仕事内定! 履歴書不要の地獄極楽採用!」


「カカカッ! 二人とも生前の徳が高いゆえ、死後は極楽行きが確定しておろうに。死んでからも仕事させようなんて、女鬼ちゃんとこも相当な人使いの荒さじゃのう。まあ、そうなったら確実に女鬼ちゃんは大助かりやろうね」


そう言うと妖古は楽しげに肩を揺らし、立ち上がった。

夕刻の気配が忍び寄り、境内の提灯に灯が入り始める。


「さて、そろそろ頃合いじゃの。才狐も神社の仕事がひと段落する頃じゃ。あやつの業務が終わり次第、御住職のところまで連れてってやるかいのう。格別の茶と、阿闍梨餅に油揚げ……。今宵は賑やかな御茶会になりそうじゃて」


妖古の言葉に、えらいこっちゃ嬢は「えらいこっちゃ! 茶菓子大盛り!」と跳ね回り、女鬼は満足げに頷く。

三人は、仕事を終えてこちらへ歩み寄ってくる無表情な少年の姿を、夕闇の中で温かく待ち構えていた。


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## エピローグ:三強の背中と、芽生えた知恵の乾き


祭りの喧騒が夕闇に溶け込み始めた境内。

仕事を終え、静かに片付けを済ませた才狐の元へ、三つの影が歩み寄る。


妖古は、弟子である少年の健闘を称えるように目を細め、傍らに立つ二人を指し示した。

「御疲れじゃのう、才狐。こちら、初めましてじゃろ。女鬼ちゃんと、えらいこっちゃんじゃ」


才狐の無機質な視線が、新しく現れた二人へと向けられる。


「おつー、そんで初めまして、才狐君。あーしは女鬼だよ、よろー♪」

女鬼はサイドテールを揺らし、眩いばかりの笑顔でウインクを飛ばした。

その奔放な気配は、厳格な神域の空気さえも一瞬で彼女の色に染め上げてしまう。


「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や」

えらいこっちゃ嬢もまた、いつもの調子で元気に挨拶を決め、小さな胸を張った。


才狐は一歩下がり、神職としての礼節を崩さず、丁寧にお辞儀を返した。

「初めまして、狐宮才狐です。妖古さんの弟子です。宜しくお願いします」


その丁寧な立ち振る舞いに、女鬼は感心したように頷く。

「これはこれは御丁寧に、以後お見知りおきを。そんじゃ、挨拶はこれくらいにして、行こっか♪ 阿闍梨餅が待ってるからね!」


女鬼が軽快な足取りで歩き出し、一行は目的の寺院へと向かって移動を始めた。


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提灯の明かりが遠ざかり、静かな夜道へと差し掛かる。

妖古はふと思い出したように、才狐の横顔を見てコロコロと笑った。

「よいか、才狐よ。女鬼ちゃんは我より強いぞ? 女鬼ちゃんにかかれば、我なんぞ秒で消されてしまうわ」


「え~? 妖古さんだって、あんなに強いじゃん♪」


女鬼が笑って茶化すが、隣にいたえらいこっちゃ嬢が、待っていましたとばかりに両腕をぶんぶんと振り回す。


「女鬼ねえちゃんを甘く見たら、えらいこっちゃ! 閻魔大王も地獄極楽のお偉いさん達も、みんな女鬼ねえちゃんには頭が上がらん。細マッチョで喧嘩の強さも地獄極楽一の超エリート鬼! えらいこっちゃな超絶シゴデキ鬼の最強ギャル美少女!」


「あはは、ありがと♪」

女鬼がえらいこっちゃ嬢の頭を優しく撫でると、えらいこっちゃ嬢は真顔のまま、嬉しそうにさらに腕をぶんぶんと振った。


そのやり取りを聞いていた才狐が、珍しく目を見開いて驚きの表情を浮かべた。

「……妖古さんより、強い人がいるんですか?」


「そりゃおるよ。更にに言うとな、先日会いに来てくれたあの呪術師殿も、そしてこれから行く寺院の御住職も、我より強いぞ? 我なんざ、あの二人にかかれば簡単に調伏されてしまう。あの御仁らには、それ程の実力があるからのう」


妖古が冗談めかして笑う中、才狐の瞳にこれまでにない光が宿った。

「……妖古さんより強い人はいないと思っていたので、驚きます。そして……それは凄く、興味深い」


「へぇ、才狐君って、興味を持つことはあるんだね」

女鬼が興味深そうに少年の顔を覗き込む。


「『心』は失うておるが、『知りたい』という純粋な欲求だけは残っておるようじゃからな」

妖古の補足に、女鬼は得心がいったように微笑んだ。

「そっか。……ってことは、そこをあえて残したのは妖古さんの匙加減ってことなんだね。全部を消し去らず、知的好奇心だけを楔として打ち込んだって事か」


「カカカッ! 一目でそこまで見抜いておったとは、流石じゃな」


「なんだかんだ言って、妖古さんは面倒見が良いってことは知ってるからねー。だから、そんな気がしただけ。そんでさ、多分そのあたりのことは、呪術師さんも気づいてたんじゃない?」


妖古は一瞬、夜の京都の空を仰ぐようにして目を細めた。

「じゃろうな。呪術師殿が『代償』を支払った時の話をした際、才狐が珍しく食いついておったんやが、あの鋭い御仁のことじゃ、そこで全てを感づかれた気はしとったよ」


妖古は、自分の前を並んで歩く愛弟子と、えらいこっちゃ嬢の後ろ姿を慈しむように見守った。

二人の影が、月明かりに照らされて長く伸びている。


「ほんに……あの呪術師殿が、才狐の符術の師匠になってくれんかのう。彼ならば、この空白の器に相応しい智慧を注いでくれるじゃろうに」


妖古はコロコロと笑いながらも、その瞳には弟子の行く末を案じる、師としての深い愛情が滲んでいた。


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## エピローグ:古都の茶会 ―― ほっこりと響く念仏


夜のとばりがしっとりと降りた頃。一行は、静寂に包まれた女性住職の寺院へと到着した。

威厳ある山門をくぐり、清浄な空気が満ちる境内を抜けて玄関先へと向かう。

そこには、一行が来る気配を事前に察していたのであろう女性住職が、まるで月明かりをその身に宿したかのような菩薩の笑みを浮かべて、静かに待ち構えていた。


「皆様、ようこそお参り下さいました」

住職は温かな声とともに、胸の前で深く合掌してお辞儀をする。


その隣には、呪術師もまた、一切の無駄を排した洗練された所作で立ち、無表情ながらも敬意を込めて合掌し、深く頭を下げた。

「先にこちらにお邪魔しておりました。ほな、早速本堂でお参りしてから、客間へ移動する流れでいきましょか」


呪術師の迷いのない宣言に一同が頷き、まずは本堂へと向かう。

堂内には線香の幽かな香りが漂い、黄金色の仏像が蝋燭の火に揺れていた。

静寂の中で、住職の朗々とした読経の後に続いて一同が念仏を唱える。

その低く重厚な響きが、才狐の空白の器にも、武久の背負った罪の記憶にも、等しく染み渡っていくようだった。


---


お勤めを終え、一行は庭園を望む落ち着いた客間へと移動した。

畳の香りが心地よいその場所で、女性住職と呪術師は流れるような手際で準備を整えていく。

一人一人の前には、京都の銘菓「阿闍梨餅あじゃりもち」と、淹れたての香ばしい緑茶が供された。

そして妖古の前には、約束通り、黄金色に輝く艶やかな油揚げが特別に添えられる。


「一同、合掌」

住職の合図に合わせ、皆が静かに手を合わせる。


「われここに食をうく。つつしみて天地の恵みと人々の労を謝し奉る」


浄土宗の食前の言葉が重なり合い、続いて十回の念仏が唱えられた後、穏やかに「頂きます」の声が響いた。


「ふぃー♪ 待っておったぞ! 油揚げも阿闍梨餅も、やはり最高じゃのう♪ それに、この深く清らかな緑茶が実に合う。五臓六腑に染み渡るとはこのことじゃ」

妖古は満面の笑みを浮かべ、油揚げを頬張っては茶を啜り、文字通り全身で「ほっこり」とした幸福感に浸っている。


「御口に合って何よりで御座います」

女性住職は、その様子を慈しむように見守りながら、優しく微笑んだ。


隣では、才狐が阿闍梨餅を一口、静かに噛み締めていた。

「……美味しい」

感情の起伏こそないものの、その短く呟かれた一言には、確かな感覚の悦びが宿っているようだった。


「有難う御座います。おかわりもありますから、遠慮なく御申しつけ下さいまし」

住職が才狐の空いた茶碗を見つめ、細やかな気遣いを見せる。


すると、呪術師も自分のお茶を静かに一口飲み、端正な横顔で口を開いた。

「油揚げの約束、きちんと果たせたみたいで、何よりですえ。これで貸し借り無し、ということで宜しおすな?」


「ほんに、おおきにな。あ、お茶をおかわり欲しいのう。この香りがたまらんわい」

妖古が愉快そうに笑いながら茶碗を差し出すと、住職は「はい、ただいま」と軽やかに応じ、湯気の立つ急須から美しい翡翠色を注ぎ足していく。


「 阿闍梨餅、もっちもちで最高に美味しいねー♪ これ、何個でもいけちゃうやつだわ!」

女鬼も現代のギャルらしい明るい笑顔で、伝統の味を楽しんでいる。


その傍らでは、えらいこっちゃ嬢が満足げに何度もうなずいていた。

「えらいこっちゃ! こりゃあ、えらいこっちゃな逸品揃い! お茶も阿闍梨餅も、魂が洗われるような美味さ!」


夜の寺院に、あやかしと人間が共に食卓を囲む穏やかな時間が流れる。

殺伐とした因縁も、これから背負っていく重い宿題も、今この瞬間の温かなお茶の湯気の向こうへと、静かに溶けていくようであった。


---


## 微かな悦び ―― 師弟の絆と知の渇望


一通りお茶の時間を楽しみ、客間に和やかな満足感が漂った頃。

妖古は、ふと表情を引き締めると、傍らに控える愛弟子へと視線を向けた。

「そんで、才狐よ。今回の騒動で、こちらの御仁達を巻き込んでしもた手前、その後の経過をしっかり報告しよし」


「はい」

才狐は短く応じ、居住まいを正してから、スッと右手首を差し出した。

そこには、武久の首に繋がれた蒼い紐と対になる、鮮やかな紅い組紐が巻かれている。


「あれ以来、この組紐は全く反応していません。武久君は、僕に宣言した約束を……あの誓いを、今のところは守り続けているようです。彼はほんまに、誰に対しても『死』の言葉をぶつけんようにならはったみたいです」


淡々とした、しかし確かな事実の報告。

それを受けて、呪術師は茶碗を置き、僅かに頭を下げた。

「それはそれは……御丁寧に報告してもろて、有難う御座います。彼が正しき道を選び続けているのなら、我々が動く必要もなさそうですなあ」


「はい。改めて……今回の件、お二人を不本意な形で巻き込んでしまい、申し訳ありませんでした。呪術師さん、御住職さん」


才狐が深々とお辞儀をすると、女性住職は慈愛に満ちた菩薩の笑みで、静かに首を振った。


「大事に至らなかったのが、何よりで御座います。既に呪術師さんと妖古さんから、十分な注意を受けられたと伺っておりますから、もうお気になさらず。これからはその力を、どうか善きことのためにお使いくださいまし」


「有難う御座います。……あの、それで」

才狐は一度言葉を切り、意を決したように呪術師を真っ直ぐに見つめた。

「呪術師さん。もし宜しければ……僕に、あなたの符術ふじゅつを教えて頂けませんか?」


静寂が客間を包み込む。

少年の瞳には、失われたはずの「意志」の欠片が、知への渇望となって小さく揺れていた。


しかし、呪術師の答えは、驚くほどあっさりとした拒絶だった。

「符術なら妖古さんも、よう御存じでっしゃろ。才狐さんの御師匠さんはあくまで妖古さんやさかい、御師匠さんから直接教わったら宜しゅうおす。あの時も言うた通り、僕は弟子を取る気はござんせん」


「……駄目、ですか?」

珍しく食い下がる才狐だったが、呪術師は一切揺らぐことなく、首を縦に振ることはなかった。


その様子を見ていた妖古が、可笑しそうに、けれどどこか期待を込めて口を開く。

「カカカッ! 呪術師殿は、すっかり懐かれたもんじゃのう。まあ、才狐が将来、解呪師にまで成長することを考えると、我としては、呪術師殿ほどの凄腕から、直々に手ほどきしたって欲しいところじゃがね」


「『狐術こじゅつ狐法仙術こほうせんじゅつ』を極めるだけでも一生ものですさかい、安易に目移りせん方が宜しゅうおす。それに、狐法の中にも、札を使った符術の類は仰山あります。それを妖古さんから一定の極みまで教わるのが、今のあんさんにはベストでっしゃろ。そやないと、蒸し返すようで申し訳ないが、こないだの『火炎呪』みたいになってしまいまっせ」


呪術師の淡々とした、しかし核心を突く指摘に、妖古は「カカカッ!」と快活に笑い声を上げた。

「まあ、お気づきやとは思うがな、あれは我の気まぐれもあったんやから、あんまし才狐だけを責めんといたってや。そろそろ他の系統の術式も経験させたろう思うて、試しに符術デビューさせてみよう思うてな。そんで、我が試しにやらせてしもたんが発端じゃからのう。結果は……ふむ、時期尚早っちゅうことがわかっただけじゃったわい」


「でしょうな。かなり荒っぽくて未完成な印象でしたからなあ。まあ、荒っぽかったおかげさんで、こちらも初歩の護符だけで簡単に対処出来たんですがね」

呪術師はそう言うと、才狐の方を向き、微かに声を和らげた。

「そういうわけやから、もうしばらくは妖古さんのもとで技を磨くことですな。あんさんはその名前の通り、狐の技を誰よりも扱える『才』がある御仁です。真摯に励めば、必ずやその道の極意まで到達しはりますやろ。才狐さんは妖古さんにとって、最高のお弟子さんですえ」


「……はい」

才狐の返事は相変わらず短かったが、その場の誰もが気付いた。

呪術師と言う、妖古以外で初めて「尊敬」の念を抱いた人物に認められ、その声にほんの僅かな、羽毛が触れるほどの微かな「喜び」の色が混じったことに。


そんな愛弟子の様子を、妖古は油揚げを口に運びながら、慈しむような眼差しで見守っていた。

(……これだけ凄い連中に囲まれて、現段階で微細ながらもこれだけの心の反応を示すとはなあ)


妖古の瞳の奥で、千年を生きる知恵が静かに光る。

(こやつは……もしかしたら。失ったはずのその『心』を、いつか自力で取り戻しよるやもしれんのう)


夜の寺院に、再び穏やかな静寂が訪れる。

失われたものを嘆くのではなく、空白の器に新しい光が注がれていくのを、古狐はただ優しく、見守り続けていた。


---


## 闇夜の揺り籠 ―― 狐の情愛と因果の結末


穏やかな御茶の時間が幕を閉じ、古都の静寂を夜の帳が深い藍色に染め上げていく。

それは衆生しゅじょうの活動が止まり、あやかしたちが主役となる刻限の訪れであった。


寺院の山門を出て、闇に溶け込むように去っていった呪術師を見送ると、夜の静寂を切り裂いてガタゴトと重厚な木の軋む音が近づいてくる。

現れたのは、炎を纏う巨輪を御する異形の牛車――方輪車であった。


「方輪車姉さん、お待たせ! そんじゃ摩訶不思議食堂まで、よろー♪」

女鬼が明るく声をかけると、客室の仕切りから、あの透き通るように白い腕がスルスルとニューっと伸びてきた。

女鬼はその掌の上に、大切に残しておいた阿闍梨餅を3つ、ぽんぽんと丁寧に乗せる。


「これ、差し入れ。美味しいよ♪」

白い腕は満足げに餅を握ると、再び闇の中へとニューっと引っ込んでいった。


「方輪車ちゃん、そんでは宜しゅうな」

妖古が雅な所作で乗り込むと、えらいこっちゃ嬢もその後に続く。

「えらいこっちゃな出発! 乗り心地満点や!」


「毎度ー。ふふふ、 ほな、摩訶不思議食堂まで安全運転で飛ばしまっせー♪」

方輪車の快活な声が響き、牛車は夜の京都を滑るように走り出した。


---


揺れる車内、提灯の仄かな灯りが三人の顔を代わる代わる照らし出す。

女鬼は上品な姿勢で膝の上に手を乗せ、少しだけ真面目な表情で、隣に座る妖古へ問いを投げかけた。

「ねえ、妖古さん。……あのアホな悪ガキ君を術式の軸にしたのって、ただのお仕置きの意味以外に、やっぱ才狐君に復讐させるつもりだったん?」


妖古は窓の外、流れる夜の景色を眺めていたが、女鬼の言葉にフッと口角を上げた。


「ふふ、女鬼ちゃんは、全部お見通しなんやね。ほんに、恐ろしい鬼娘じゃわい」

その声には、隠し事を見透かされたことへの快い響きがあった。


「そや。我の聖域を汚した責任を、当人同士で取らせるのが一番の道理じゃからな。それに……心を捨てて復讐心すら微塵も無くなってしもうた才狐に、結果として『復讐』をさせる名目を作ってやりたかったんじゃよ」


「……そっか。妖古さんが初めて弟子を取ったって聞いて、実はちょっと興味あったんだよね」

女鬼は優しく微笑み、さらに踏み込んだ質問を重ねる。

「自らの手で復讐をさせてあげたのって、やっぱり……大なり小なり、情が芽生えた感じ?」


妖古はその問いに、しばし沈黙した。

かつて多くの人間と関わり、そして見送ってきた千年を超える時間。

その記憶の断片を反芻するかのように目を細める。


「そうじゃな……。いざ弟子というものを取ってみたら、案外、可愛いもんじゃて。今まで幾許いくばくかの人間と仲良うなったことはあったが、我が前に跪き、ほんまに弟子になりよったのは才狐が初めてでな」


妖古の声が、心なしか和らぐ。

「初めてだらけのあ奴に……一ミリくらいは、ある種の情が芽生えたかもしれんのう。カカカッ!」


女鬼は、その言葉の裏にある古狐の深い慈しみを感じ取り、納得したように頷いた。

「なるほどねー。妖古さんも、お人好しっていうか、面倒見がいいお狐様なんだから」


「さてさて、あ奴はどのような大人になりよるのか、なかなかに興味深いのう」

妖古は黄金色の瞳を怪しく光らせ、まだ見ぬ未来を幻視するように微笑んだ。


「もしも、いつかあ奴が心を取り戻しよったら、あの武久という人間を赦しよるか。それとも、冷徹にとどめを刺すか。すべては時が経てば見えてくるじゃろね、カカカ!」


妖古の雅で、どこかで死を思う優し気な笑い声が、方輪車の車内から夜の静寂へと溶けていく。

牛車は闇夜を切り裂き、異界と現世の狭間にある「摩訶不思議食堂」へと向かって、力強く進み続けるのであった。

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