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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第25話-前編:椿山武久の死を願うほっこり飯

## 深淵の淵に立つ少年 ―― 神去りし都の邂逅


狐宮才狐こみやさいこ

かつて宮田という姓を名乗っていたその少年は、神奈川県の喧騒に満ちた都会の片隅で、息を潜めるようにして生きてきた。


才狐という、どこか女性的な響きを持つその名。

そして、その名に呼応するかのように線の細い、たおやかですらある華奢な体躯。

それらすべてが、残酷な子供たちの世界においては、格好の「標的」となるための呪われた記号でしかなかった。


言い返す言葉も持たず、やり返す勇気も奪われ、ただ一方的に蹂躙されるだけの絶望的な日々。

小学校の学年が上がるにつれ、周囲の揶揄いは「いじめ」という名の、あまりにも剥き出しな暴力へと姿を変えていった。

五年生、そして六年生になってからは特に、クラスという名の閉鎖された鳥籠の中で、才狐は男女を問わず、あらゆる者から「ひ弱なターゲット」として規定され、暴力は日常の風景の一部と化した。


背中に浴びせられる罵声。

放課後の校舎裏で刻まれる痛み。

そして、吐き捨てられるように浴びせられる「チクったら殺すぞ」「死ね」という、死神の囁きのような脅迫。


しかし、才狐にとっての真の地獄は、学校の外にさえ用意されていた。

世間からは教育熱心な両親に見えていたであろうその実態は、子供を己の所有物としか見なさない「毒親」そのものであった。


家庭という名の牢獄。

そこでは同世代が謳歌する遊びや流行は一切が禁じられ、ただ病的なまでの勉強の日々を強いられた。

少しでも成績が振るわなければ、あるいはテストでたった一問の凡ミスを犯しただけで、「小学生の問題で間違えるなどありえない!」という怒号と共に、容赦のない掌がその頬を打った。

そこから外に出れば、同世代が興じている遊びや流行に触れる機会がない為に話が合わず、更なる迫害の対象となっていく日々。


幼少期から、己を慈しむべき肉親さえも信じることができない四面楚歌の絶望。

心が磨り減り、感情が凍りついていく日々の中で彼に訪れたのは、転機とも言えるほどに巨大な「災厄」であった。

そしてそれは皮肉な事に、才狐にとっては絶望しかない世界からの「救い」とも呼べる出来事だった。


---


六年生の初夏、修学旅行で訪れた古都、京都。

湿り気を帯びた古都の空気が肌を撫でる午前中に京都駅へ到着した一行だったが、才狐にとっての修学旅行は、逃げ場のない移動式の地獄に過ぎなかった。


午後の自由時間。

才狐を執拗に追い詰める主犯格の少年、椿山武久を中心としたグループの牙が、さっそく彼に向けられる。

修学旅行の軍資金である財布を武久に奪われ、「言うことを聞かないと返さない」という脅しに屈し、才狐は重い足取りで彼らの後に続いた。


武久を含めた十人ほどのクラスメイトたちは、修学旅行の課題として課せられていた「京都の神社仏閣についてのレポート」を、すべて才狐に押し付けるという卑劣な計画を立てていた。

自分たちは遊び歩き、その間に才狐に適当な神社を見つけさせ、情報を整理させる。

そんな、少年達の身勝手な欲望を満たすための場所探しが始まった。


やがて、一行が京都の北へと足を踏み入れた時、武久が観光地図に記された一つの名前に目を留めた。

「狐」という文字が刻まれたその場所。

才狐という少年の名に「狐」が含まれているという、ただそれだけの、あまりにも安直で、悪意に満ちた理由。

「面白そうだからここにしようぜ」という、神聖な場所を玩具にするかのような軽い調子で、彼らは「御狐神社おきつねじんじゃ」を目指すことに決めた。


新緑が眩しい京都の深奥。

そこへ踏み入ることが、この場にいる少年少女たちの、そして何より才狐という少年の運命を根底から変えてしまうことになるとは、この時の彼らはまだ、露ほども思っていなかった。


---


## 破られた結界 ―― 朱の雨と、紅蓮を纏う狐


才狐の財布から強奪された金は、椿山武久を中心とした十人ほどのグループ全員の交通費へと姿を変えていた。

彼らが辿り着いたのは、京都の喧騒から隔絶された北の端。

生い茂る木々の合間にひっそりと佇むその「御狐神社」には、人の気配が一切なく、神職さえ常駐していない無人神社であることは一目で知れた。


昼時であるにもかかわらず、境内には肌を刺すような冷たい空気が滞留している。

女子生徒たちは「何ここ、寒くない?」「気味悪いし、早く別のとこに行こうよ」と顔を顰めて口々に不満を漏らし始めた。

しかし、武久の瞳には獲物を見つけた獣のような残酷な光が宿っていた。


「おい、才狐。お前はここで大人しくレポートやっとけよ。なんだったら、こっくりさんでもやるか? あれって狐なんだろ? お前、名前に狐が入ってるし、丁度いいじゃんか」

武久は嘲笑と共に、才狐の細い身体をドンと乱暴に突き飛ばした。


抵抗する術を持たない才狐を、数人の男子たちが羽交い絞めにする。

人気のない御社の傍、風化して地面に打ち捨てられていた太いしめ縄。

それはかつて聖域を分かつための神聖な道具だったはずだが、今は才狐を拘束するための忌まわしい鎖へと成り果てた。

彼らは才狐を太い幹に押し付け、そのしめ縄を幾重にも巻き付けて木に縛り付けた。


「……っ、解いてよ! こんなの、酷すぎるよ!」


「うるせえな、両手は動かせるようにしてやったんだから有難く思えよ。課題が終わった頃に様子見に来てやるよ。もし出来てなかったら……分かってるよな? ぶっ殺すしてやるからな!」

武久は課題用のノートと筆記用具を、縛られた才狐の足元へ投げ捨てた。

そして、今度こそ京都の町を満喫するために、十人の影は蜘蛛の子を散らすように神社の外へと消えていった。


静寂が戻った境内で、才狐は一人、溢れる涙を止めることが出来なかった。

しめ縄が食い込む体。

必死に身を捩り、何とかして縄を解こうと足掻いたが、子供の力ではびくともしない。


悔しさと絶望に暮れながらも、武久の「殺す」という脅しが脳裏をよぎり、彼は震える手で足元の筆記用具を拾い上げた。

惨めな思いを抱えたまま、目の前にある古びた御社をスケッチし始める。

鉛筆が紙を擦る音だけが、虚しく境内に響く。


一通りのスケッチを終えた時、才狐はふと、身動きが取れない自分には歴史を調べることも、これ以上の詳細を書き留めることも不可能だと悟った。

その絶望に追い打ちをかけるように、灰色の空からは冷たい雨が降り始めた。


「……ぶっ殺すとか、死ねとか、毎日毎日言ってくるんなら……いっそ本当に、僕のことを殺せばいいじゃないか」


雨水が頬を伝い、涙と混ざり合う。

心から信じられる人間が一人もいない世界。

学校でも家でも居場所がなく、ただ蹂躙されるだけの人生。


「いっそ……死ねば、この苦しみから楽になれるのかな」


才狐は自嘲するように呟くと、まだ一度も使っていない、芯が鋭く尖ったままの鉛筆を手に取った。

彼はそれを逆手に握ると、震える左手の手首のあたりに、ありったけの力を込めて思い切り突き刺した。


鋭い痛みが走り、赤黒い鮮血が雨に打たれる少年の腕を伝って地面を汚していく。

しかし、鉛筆一本では死に至るほどの傷にはならない。

ただ熱い痛みが脈打つだけで、望んだ「永遠の眠り」は訪れなかった。


才狐は呆然と、自分の傷口から流れる血を見つめ、力なく項垂れた。

「……いっそ、誰か僕を殺してくれたらいいのに」


すると……。


「血の気配がするから来てみたら、娑婆に絶望しておる子供が死にに来ておったとは。……まったく、娑婆は世知辛いのう」


不意に、絹が擦れるような、嫋やかで美しい声が雨音を切り裂いて届いた。

才狐がハッとして顔を上げると、そこには現実の光景とは思えない、圧倒的な存在が立っていた。


赤く美麗なる傘を持ち、狐色の長く美しい髪を雨風に靡かせ、目の覚めるような深い朱色の着物を見事に着こなす絶世の美女。

しかし、その美貌以上に才狐の目を引いたのは、彼女の頭に誇らしげに生えている、どう見ても本物としか思えない「狐の耳」であった。


雨の中に浮かび上がる、神秘的で妖艶な狐耳の着物美人。

才狐は、さっきまで自ら死を望んでいたことさえも一瞬で忘却し、そのこの世の者とは思えない美しき「怪異」の姿に、ただ言葉を失い、魂を奪われたように見惚れていた。


---


## 天狐の誘い ―― 絶望の血が結ぶ、妖しき師弟の契り


雨に煙る朱色の鳥居の奥、朽ちたしめ縄によって冷たい大樹へと縫い付けられた少年の前に、その「異形」は静寂を切り裂いて降臨した。

人ならざる美を湛えた着物美人は、才狐が自らの手で抉った左手首の傷口を、吸い込まれるような黄金の瞳でじっと見つめる。

そして、薄紅色の唇を艶やかに綻ばせ、雨音さえも沈めるような声を響かせた。


「自死を試みる際、手首を裂くというのは娑婆の物語ではよく聞く手口やが、現実はそう容易く死にきれるものでもなかろう。その程度の浅い傷では、冥土の門を叩くための覚悟の重さが、いささか足りぬのではないかえ?」


その声は、深山に響く鐘のように重厚でありながら、同時に春の夜風のように嫋やかで、聴く者の魂を直接揺さぶる魔力を孕んでいた。

才狐は、食い込む縄の痛みも、手首から滴る血の熱さも忘れ、目の前に現れた圧倒的な「美」に意識のすべてを奪われる。


彼は震える唇を必死に動かし、掠れた声で目の前の存在に問いを投げかけた。

「……あなたは、僕を迎えに来た死神ですか? それとも、哀れな僕を救いに来てくれた女神様……?」


「カカカ、我はどちらでもあらへんよ。神だの仏だのといった、そんな堅苦しい位列に属する者ではないでのう。ただ、この地を永く預かる、しがない狐の化身とでも言うておくかのう」

着物美人は、くすっと笑い、ふわりと朱色の袖を翻し、才狐の傍らへと一歩、歩み寄った。

雨粒が彼女の髪を濡らすことはなく、まるで彼女を避けるように大気そのものが畏怖し、震えているようだった。


絶望のどん底で、才狐は本能的にこの機を逃してはならないと悟り、必死に言葉を絞り出す。

「そうですか。僕は……僕は宮田才狐と言います。才能の『才』に、動物の『狐』と書いて、サイコと読みます。変な名前ですよね」


自己紹介を受けた美人は、意外そうに細い眉を微かに動かすと、扇を広げるような優雅な所作で自身の胸元に掌を当てた。


「ほう。才に狐、か。ぬしが折角自ら名乗ったんじゃから、我も相応に名乗るとするかのう。我は位階で言えば『天狐てんこ』。天の狐と書いて、テンコと読む。個体名は、まあ、娑婆で人の姿をして時は、妖しの狐と書いて妖狐ようこの一種やかさかい、古き妖という字を当てて『妖古ようこ』で通しとる。因みに、不便がないよう戸籍もバッチリとっておるでな。娑婆ではこの通り名で過ごしておるでの。真名ではないが、偽りなき名じゃ」

妖古は、喉を鳴らすようにくすくすと笑い、才狐を鑑定するようにその全身を執拗に見つめた。


「それにしても、これほどの死地にあって、なお己の名を律儀に名乗るとは、なかなかどうして肝が据わっておるではないか、ぬしは」


その言葉が、才狐の心の中に張り詰めていた最後の糸を断ち切った。

彼の目から、堰を切ったように熱い涙が溢れ出し、血と雨に塗れた頬を伝い落ちる。


「……違います。逆です。僕は、肝が据わっているなんて……。僕はただ、気が弱くて、臆病で、こうしていじめられても何も言い返せず、やり返す勇気さえ持てず、ただやられっぱなしで……。いつも、震えることしかできなくて、怖くて、怖くてたまらないんです!」

嗚咽と共に吐き出されたのは、都会の片隅で、そして毒親の檻の中で、誰にも届かずに消えていった悲痛な叫びだった。


「ふむ。己を弱者と断じるか。そう思うのであれば、強くなればよかろう。ぬしを迫害する者を罰するのは当然の道理としても、ただ弱きままで立ち止まり、強くなる努力を自ら放り出すのもまた、己に対して無慈悲な事じゃろうが」

妖古の声には、逃げ場を塞ぐような峻烈な厳しさが混じっていた。


才狐は、雨に濡れた顔を必死に上げ、縋るような眼差しを彼女へと向ける。

「……僕でも、僕のような卑屈な人間でも、本当に強くなれますか?」


「強くなりたいという切なる想いがあり、そのための過酷な修行を積む覚悟があるのならば、自ずと強くなるじゃろうな。それはひとえに、御主の魂の性根がどれほどのものかによるじゃろう」

妖古は突き放すように言い放ったが、その黄金の瞳の奥には、湿った薪に火が灯るような、微かな期待の色が混じっていた。


「……妖古さんは、強いですか? 誰にも負けないくらい、強いんですか?」


才狐の問いに、妖古は誇らしげに顎を引き、不敵な笑みを浮かべて見せた。


「まあ、狐の怪異の中でも、我は最強レベルの一柱と言っても差し支えないじゃろね。女鬼じょきちゃん……って言うても、ぬしの知らぬ御方やかさかい、言うてもわからんやろうが、我より強いお方もいらっしゃるがの。とはいえ、そんじょそこらの怪異や人間では、我の衣の端に触れる事さえできん程には、強いと言うてええかもしれんのう」


その言葉を聞いた瞬間、才狐の胸の奥で、人間としての尊厳や日常への未練が、音を立てて崩れ去った。

このまま無様に死ぬくらいなら、あるいは地獄のような日常へ戻るくらいなら、この美しき人外の化身に、己のすべてを捧げてしまいたい。


「……僕を、弟子にして下さい!」

しめ縄で古木に縛り付けられたまま、才狐は精一杯、折れんばかりに深く、深く頭を下げた。

流れる鮮血と降り注ぐ雨、そして枯れることのない涙にまみれた少年の、魂を賭けた慟哭。


妖古は、扇で隠していた口元を驚きに微かに開き、その黄金の瞳を大きく見開いた。

これまで幾星霜の時を生き、数多の人間たちの浅ましさや欲望を見てきた彼女にとっても、絶望の淵にいながら「弟子入り」を志願し、自らの足で人外の領域へ足を踏み入れようとするこの奇妙な少年の意志は、予想を遥かに超える衝撃だった。


妖古はゆっくりと才狐に顔を近づけ、その瞳の奥に潜む「狂気」と「渇望」を確かめるように、静かに、そして深く、獲物を定めるような視線を突き刺した。


---


## 断絶の契約 ―― 「人」を捨て、狐宮こみやを継ぐ者


雨のとばりが深く降りる中、妖古の黄金色の瞳は、濡れ鼠のように震える少年を冷徹なまでに射抜いていた。

その視線には、哀れみなど微塵もなく、ただ魂の「質」を測るような峻厳な響きが宿っている。


「……ぬしは、そこまでして力を欲するか。それも、人が踏み入るべきではない、人ならざる力を。我はこれまで、人の子を弟子にとるなどという真似は一度もしてこなかったのじゃがのう」

彼女はそう言いながらも、その言葉の端々には、明確な拒絶の色は見当たらなかった。

むしろ、壊れかけの器を眺めるような、妖しき愉悦さえ混じっている。


才狐は、食い込むしめ縄の痛みも忘れ、必死に顔を上げた。

雨と涙でぐちゃぐちゃになった顔、その眼には鮮血が混じり、異様な凄みを醸し出している。


「今の生き地獄が続くくらいなら、いっそ死んだ方がマシだって、さっき本気で思ってたところです。だから、僕の命ならいくらでも差し出します。今ここで僕を殺したって構いません。でも、もし……もし殺さずに弟子にしてくれるなら、僕はなんだってします、なんだって差し上げます! 僕のすべてを、あなたに捧げます!だから僕を弟子にして下さい!」

少年は、再び折れんばかりに深く、そのこうべを垂れた。


「ほう。なんでも、我に差し出すと言うか」

妖古は低く、楽しげに問う。


「はい、なんでもです」


才狐は顔を上げ、妖古の瞳をまっすぐに見据えた。

その瞳には、もはや恐怖はなかった。

あるのは、すべてを焼き尽くした後に残る、冷たい灰のような決意だけだった。


妖古は暫くの間、沈黙を保ったまま少年の顔を覗き込んでいたが、やがて、その薄紅色の唇が弧を描いた。

コロコロと、美しくも可愛らしく笑い声を響かせる。

「ク、クク、カカカ!面白い。根っこは存外、根性が据わっとるではないか、ぬしは。そうじゃのう、確かに弟子は取ったことは一度たりとてなかったもんやが、この古びた神社を管理するもんがおれば、我としても何かと助かるとは思うとったところじゃ。よかろう。我の出す条件を呑むというのであれば、弟子入りを許してやらんでもない」


才狐の瞳に、初めて生気が宿り、輝きが灯った。

「ほんとですか!? それで、その条件って……何ですか?」


「一つは、今言うた通り、この神社の宮司を務める事。まあ、ぬしが就く事になる役職としては禰宜ねぎと言うんじゃが、我はここに常駐しておらんからな、実質的にはぬしが宮司としてこのもりを護ればええ。ふむ……少年宮司というのも、乙なもんじゃの」

妖古は楽しげに語りながら、才狐の首筋に白い指先を滑らせた。


「そして、強くなるための条件。ただの人間として鍛えるだけでは、復讐を遂げることも、己を護ることも叶わぬ。ゆえに、強くなるための一つの法として、我が術、すなわち狐の呪術や仙術、『狐術』あるいは『狐法仙術』と呼ばれる術を教えよう。ただし……その習得のためには、最初の試練であり試験として、しかるべき『代償』を支払うべし。して、ぬしは何を対価として差し出す?」


鋭い問いが、才狐の胸を突き抜ける。


「……僕の『心』と、『家族の絆』を差し出します」


才狐の口から出た言葉には、一糸の迷いもなかった。

我が子を追い詰める毒親、自分を救ってくれない血縁。

そんなものに縋るからこそ、心は痛み、絶望するのだ。

そして、そんな痛みしか感じられなくなり、絶望しかないこんな心なんていらない。


妖古は、少年の淀みのない返答に、わずかに目を細めた。

「迷いが一切ないとは。ぬし、既に壊れておったか。あるいは、それほどまでにその『心』とやらが、ぬしにとっては毒でしかなかったか」


「……こんな心、もういりません。持っているだけで苦しいだけのものなんて、捨ててしまいたい」

才狐の言葉は、氷のように冷たく、乾いていた。


「では、人である事……つまりは、人間をやめるか?」

妖古は、静かに死刑宣告のような問いを重ねる。


「はい」

才狐は迷うことなく、明確に宣言した。


その瞬間、彼を縛っていた見えない「人間」という名の鎖が、音を立てて砕け散った。


「……やれやれ。皮肉な話じゃのう。娑婆ではただの弱気者とされておった人の子が、呪術師としてこれほどの才のある者とはな。天は時折、残酷な配役をなさるものじゃ」


妖古はクックックと笑い、才狐を縛っていたしめ縄を、指先一つ触れることなく霧散させた。


「よかろう。では、今日からこの狐の宮を護りし者として、『狐宮こみや』と言う姓を名乗るがよい。今からぬしは宮田才狐ではない、狐宮才狐じゃ。良いな?」


自由になった才狐は、ぬかるんだ地面に膝をつき、最上の敬意を込めて地に伏した。

「はい! 妖古師匠!」


「カカカ!師匠とな!まさか我の永き時の中で、人の子が弟子入りする日が来るとはのう。これやから、娑婆という場所はおもろいのじゃ。さて、狐宮才狐……今日からぬしの、人外へと至る地獄の修行を始めるとしようかの」


妖古は、雨を裂いて美しく笑い、愛弟子となった少年の肩に優しく、しかし重く手を置いた。


---


## 凍結する刻 ―― 忘却の彼方と、人外の五年


あの日、古都を濡らした冷たい雨は、すべてを洗い流すかのように急激な速さで事態を動かしていった。

修学旅行の熱気に浮かされ、京都の街を奔放に満喫した椿山武久たちは、宿泊先のホテルに戻り、消灯時間を迎える直前になってようやく、北の神社に縛り付けてきた才狐の存在を思い出した。


「やべえ、あいつ、放置したままだ!」

一瞬、血の気が引くような感覚に襲われた武久たちだったが、その狼狽を打ち消すかのように、教師から信じられない報せがもたらされた。


才狐の親戚を名乗る何者かが学校に連絡を入れ、彼の両親が不慮の交通事故で亡くなったという衝撃的なニュースが飛び込んできたのだ。

報せを受けた親戚が急遽京都へと駆けつけ、悲しみに暮れる才狐を連れて修学旅行を離脱した、という話になっていた。

それが、教師や生徒たちが共有した「公式な真実」となった。


武久たちは、自分たちが縛り付けたしめ縄については「古かったから勝手に千切れたんだろう」と都合よく解釈し、発覚を免れた幸運に胸を撫で下ろした。

ただ、才狐に押し付けるはずだった課題だけは自分たちで片付ける羽目になり、彼らは舌打ちをしながら最低限の記述だけを済ませて提出した。


修学旅行が終わり、日常が戻った神奈川の教室で、担任は「宮田君は京都の親戚の元へ身を寄せることになり、そのまま転校することになった」と告げた。

こうして、椿山武久たちの日常から「宮田才狐」という気弱な少年の記憶は、新雪が溶けるように淡く、そして冷酷に消え去っていった。


しかし、彼らが忘却の海に微睡んでいる間、御狐神社の奥深くでは、一人の少年が「人間」という皮を脱ぎ捨てようとしていた。


---


十二歳から十七歳までの五年間、才狐は天狐である妖古の元で、文字通り死に物狂いの修行に明け暮れていた。

最初の三年で術の基礎をすべて叩き込み、五年が経過する頃には、並の怪異など一瞥で伏せさせるほどの卓越した呪術師へと成長を遂げていた。


日常は、宮司として杜を護り、掃き清める。

その合間に、妖古からは、義務教育から高等教育に相当する知識を学び、人外の理を識るための過酷な鍛錬に身を投じる。


本来なら、誰もが狂い、逃げ出したくなるような精神的・肉体的な苦痛。

しかし、契約の代償として「心」を差し出し、喜怒哀楽のすべてを凍結させた才狐にとって、その修行は何の苦しみも伴わない、ただの効率的な習得作業に過ぎなかった。


---


そうして時が過ぎ……。


十七歳となった才狐は、表向きには両親を事故で亡くした天涯孤独の少年。

しかしその実は、神聖にして強大なる妖古の弟子として、冷徹な理を体現する呪術師。

かつての線の細さは、静謐な威圧感を湛えたしなやかな強靭さへと変貌を遂げていた。


そんなある日、妖古はいつものように朱色の着物を揺らし、無表情な弟子に告げた。

「一度きりの人生じゃ。何も感じなくとも、高校生活というもんはどういうもんか、知識として知っておくのもよかろう」


そう言った彼女は、表向きは才狐の保護者である妖古として、才狐の古巣である神奈川の中高一貫校、かつての同級生たちの殆どが進学しているであろう学園の高等部へ、編入の手続きを済ませていた。


「向こうでそのまま暮らすも良し、週末は宮司としてこちらに帰り、平日にまた学校へ行くも良し。ぬしの好きにすりゃええ」

妖古は面白そうに、その黄金の瞳を細めて笑った。


「はい」

才狐は、ただ一言、感情の起伏が一切ない平坦な声で答えた。


「ほな、行っといで。……ああ、もし復讐がしたければ止めはせんよ。ぬしの好きなようにしよし。まあ、そもそも今のぬしには、復讐心なんざ欠片もあらへんやろうがの。あ、それから」

妖古は扇で口元を隠し、コロコロと鈴を転がすような可愛らしい声で付け加えた。

「もしも行った先で、これまでにない美味な油揚げを見つけたら、我を連れて行って貰おうかのう。土産として買うて来てくれてもええでな」


「わかりました」

才狐は再び無表情に答え、最低限の荷物を手に、五年間守り続けた御狐神社を後にした。


彼が向かうのは、かつて自分を地獄へと突き落とした少年たちのいる、あの懐かしくも忌まわしい神奈川の街。

心を捨てた少年宮司の静かなる「再会」が、今始まろうとしていた。


---


## 帰還の静寂 ―― 凍りついた観察者


かつて「宮田才狐」という名の少年が絶望と共に去ったこの地に、五年という月日を経て一人の少年が足を踏み入れた。


神奈川県内でも有数の進学実績を誇る、国公立の中高一貫校。

高等部二年生の教室。

担任に促されて教壇に立った編入生を、朝の気だるい空気に包まれていたクラスメイトたちが一斉に見上げる。

その瞬間、教室の空気は、物理的な温度が数度下がったかのような錯覚を伴って、異様なざわめきに支配された。


小学校時代、彼を徹底的に蹂躙し、その尊厳を泥にまみれさせた連中の多くが、そこにいた。

主犯格である椿山武久は、教壇に立つ青年の姿を一目見た瞬間、その端正な横顔に微かに残る面影から「あの才狐」であることを直感し、顔を引き攣らせた。

周囲の男子たちも同様に、「あいつか」と、隠しきれない動揺を視線に混ぜて互いに目配せを交わす。


しかし、そこに立っていたのは、かつての震える子兎ではなかった。

五年の歳月は、少年の脆弱な輪郭を鋭利な刃物のように研ぎ澄ませていた。

背丈は平均よりはやや小柄ながらも、決してひ弱さは感じさせない。

妖古という人外の師に地獄の底で鍛え上げられたその肉体は、厚ぼったいボディビルダーのそれとは一線を画す、ボクサーのように無駄を削ぎ落としたシャープな筋肉を制服の下に秘めている。


元より整っていた中性的な顔立ちは、一切の感情を排したことで、まるで氷細工のような非の打ち所のない美貌へと昇華されていた。

女子生徒たちが「格好良い……」「イケメンじゃない?」と、頬を染めて浮足立つのも無理もない。


当の才狐は、教室を埋める驚愕や称賛、そしてかつての加害者たちの卑屈な動揺を、どこ吹く風で受け流していた。

その眼差しは、生きた人間を見ているのではなく、ただの物質を観察しているかのように冷徹で無機質だ。


才狐は無表情を一切崩すことなく、淡々とした声で口を開いた。

「京都の御狐神社から来ました。苗字は事故で両親と死別し、親戚の籍に入ったため『狐宮』に変わっています。以前の僕を知っている人もいるようですが、今の僕には関係のないことです」

その乾いた響きには、再会を懐かしむ情も、過去を恨む激情も、一片すら宿っていない。


「この右手の紐は、身を寄せている神社のものであり、宗教上の理由で着用しているものです。許可は得ています」


彼は、右首に巻かれたミサンガのような不思議な組紐を軽く指し示した。

それは、彼が人外へと足を踏み入れた証であり、呪術を振るうための触媒でもある。

自己紹介を終えると、才狐は最前列に用意された空席へと向かい、躊躇なく着席した。


今の才狐の意識を占めているのは、ただ一点。

妖古から授かったこの呪術という力が、この「娑婆」の法において、どれほどの確実性を持って機能するのか。

その検証のための計画は、京都を発つ前に既に完成させていた。

あとは、あらかじめ設定された手順に沿って、実践という名の実験を執り行うだけのこと。


この後、自らが放つ呪いによって、誰がどのような悲鳴を上げ、どのような末路を辿ろうとも。

心を代償として差し出し、人間としての感情を完璧に喪失した才狐にとっては、もはや道端の石が砕けるのを眺めるのと何ら変わらない、無価値な事象に過ぎなかった。


黒板に記された自分の新しい名――狐宮才狐。

その文字を見つめる彼の瞳の奥で、静かに、そして冷酷に、最初の術式が起動し始めていた。


---


## 虚飾の再会 ―― 蒼き呪縛の完成


午前中の全授業を終え、帰宅を告げるチャイムが喧騒を孕んで校舎中に鳴り響いた。


午後の解放感に浮き足立つ生徒たちを前に、教壇に立つ男性の担任教師が手元の出席簿を整えながら、新しい編入生の周囲へとじわじわと集まり始めた人だかりを、苦笑い混じりに制した。

「おいおい、お前ら。あんまり初日から新入生を質問攻めにするなよー。狐宮は引っ越ししてきたばかりで、役所の手続きやら何やらで忙しいだろうからな。慣れない学校で疲れさせないように、無理に引っ張り回すんじゃないぞー」


教師はそう言って穏やかに注意を促したが、その声音には形ばかりの義務感しか宿っておらず、本気で彼らを叱り飛ばす気配は微塵もなかった。

むしろ、クラスのムードメーカーたちが早く馴染んで、教室の活気を高めてくれればいいという、無責任な善意が透けて見えていた。


教師が教室の扉を閉め、廊下へと姿を消した刹那、堰を切ったように好奇心の濁流が才狐の机へと押し寄せた。

特に女子生徒たちの勢いは、渇いた獣が獲物を見つけたかのような剥き出しの熱狂に満ちていた。

「ねーねー、これからは才狐君って呼んでもいい? 苗字より名前の方が呼びやすいし、かっこいいしさ!」

「京都から来たんだよね。あっちに彼女とかいないの? 遠距離恋愛中とか。いたらショックだなー、正直に教えてよ!」


矢継ぎ早に投げかけられる無機質な言葉の礫。

しかし、かつて「宮田」という名であった時、これらの声は嘲笑と蔑みの響きを伴っていたことを、才狐はただ冷徹に記憶していた。

彼はただの一度も表情を動かすことなく、五年の歳月で磨き上げられた氷結の瞳で、喧騒の向こう側にある虚空を見つめている。


すると、黄色い歓声を力ずくで割るようにして、一人の長身の影が才狐の肩を乱暴に叩いた。

椿山武久だ。

彼は小学校時代よりも二回りほど肥大化した肉体を誇示するように、傲慢な笑みを浮かべて才狐の顔を覗き込んできた。


「おいおい、随分と久しぶりじゃねえか。確か修学旅行の途中で、親が死んだとか言って逃げるように帰りやがって以来だったな。死んだようなツラして、またこの街に戻って来るとは思わなかったぜ」

武久は周囲に控える取り巻きたちと下品な目配せを交わし、かつての「弱き獲物」との再会を、極上の娯楽として愉しむように鼻を鳴らした。

「あれ、お前、近くで見ると結構ほっそりしてんな。一瞬服の上からだとマッチョに見えなくもなかったけど、やっぱり気のせいか。ま、んなわけねえわな。お前は昔っから、女みたいに弱っちくて、泣き言ばっか言ってたもんなあ!」


武久が周囲を煽るように下卑た笑い声を上げると、それまで才狐をちやほやしていた女子生徒たちから、掌を返したような抗議の声が上がった。

「ちょっと椿山! せっかくのイケメン君を怖がらせないでよ!いじめるのはやめてよね!」

「そうよ、デリカシーなさすぎ。最低ね!」


「なんだよ、お前らだって小学生の頃は一緒になってちょっかい出して笑ってたじゃねえか! 何を今更、悲劇のヒロインの味方ぶってんだよ!」

武久が吐き捨てるように反論すると、女子生徒たちは一瞬だけバツが悪そうに言葉を詰まらせた。

しかし、彼女たちはすぐに自分たちの過去を都合よく塗り潰し、「あれはほら、照れ隠しよ。好きの裏返しってやつ! ねー、才狐君?」と、媚びるような甘い笑みを浮かべて再び才狐にすり寄る。


だが、当の才狐は、彼女たちの身勝手な愛着も、武久が放つ攻撃的な言葉も、すべてが平等に無価値なノイズであるかのように、一切の感情を排した無表情を貫いていた。


武久は、自分の言葉が無視され続けていることに不快な苛立ちを覚えたのか、才狐の右手首に巻かれた奇妙な組紐に目を留めた。

「なあ、その手首に巻いてるミサンガ、格好良いじゃねえか。普通のミサンガにしては随分と太くて丈夫そうだけど、そういう流行りが京都にはあるのかよ。俺さ、部活でサッカーやっててさ。それ、縁起物として俺にくれよ。お前みたいな陰気な奴が持ってるより、俺が付けてた方が輝くって」


武久の強引な要求に、再び周囲の女子たちから「かわいそうじゃない!」「京都の思い出かもしれないのに!」と上辺だけの抗議が上がる。

しかし、その喧騒を裂くように、才狐は初めて微かに唇の端を動かした。


「……これはミサンガやないよ。でも、色違いやったら、ちょうど手元にあるから、結ぼか?」

才狐の声は、京都の静寂を凝縮したような、澄んだ冷たさを帯びていた。


彼は鞄の奥から一本の「蒼い組紐」を取り出すと、武久が反論する間も、周囲が息を呑む間も与えず、流れるような滑らかな動作であっという間に武久の右手首へとそれを巻き付けた。

その指先の動きはあまりに鮮やかで、まるで熟練の職人が儀式を執り行っているかのような、奇妙な厳かさを伴っていた。


「やりー! どうだ、似合ってるだろう? 才狐からの貢ぎ物だぜ」

武久は右手首に巻かれた、深海のような蒼い紐を高く掲げ、誇らしげに周囲の仲間たちに自慢してみせた。

クラスメイトたち、特にその神秘的な美しさに惹かれた女子生徒たちは「ええー、いいなあ。ずるい!」「私にも結んでほしい!」と、露骨な羨望の声を上げる。


「これに免じて、高校じゃあんまりちょっかいかけないでおいてやるよ。有難く思え、俺ってやっぱり優しいだろ?」

武久は仲間たちと肩を組み、勝者の凱歌を上げるようにゲラゲラと笑いながら、教室を後にしていった。


才狐は、遠ざかっていく武久の太い背中を、ただ無機質なレンズのように見送っていた。

彼の中に「懐かしさ」も「怒り」も、あるいは「復讐心」という名の情熱すらも存在しない。

ただ、妖古師匠から授かった呪術を発動させるための「物理的な接触」と、依代となる「呪具の譲渡」という事務的な手順が、あっさりと、そして完璧に完了した。

その冷徹な計算の帰結だけが、彼の意識に刻まれていた。


才狐は、誰にも気づかれないほど微かに、右手の指先を小さく絡ませた。

それは、これから始まる残酷な呪縛の、静かな起動スイッチであった。


---


## 言霊の反転 ―― 無機質な実験結果


人が持つ「心」という複雑な機能を完全に捨て去った才狐にとって、復讐心や赦しといった情動は、もはや遠い異国の言語のように理解不能なものとなっていた。


彼がかつての加害者である椿山武久を呪術の起点に選んだのは、昏い情熱ゆえではない。

師である妖古が、「丁度ええ具合に縁ある者達やさかいなあ。それに、ぬしから話を聞いた限りやと、検証にうってつけの愚者どもじゃ」と、冷淡な合理性に基づいて選定したからに過ぎない。

才狐は、武久が高校に入ってから付き合い出したという恋人のミサと共に、親密な様子で教室を出ていく背中を、ただの物質の移動として何の感情も抱かずに見つめていた。


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そして、編入二日目。

教室では、昨日に引き続き才狐の周囲に女子生徒たちが群がり、その端正な横顔を熱心に覗き込んでいる。

その喧騒を少し離れた席から面白くなさそうに眺めているのは、かつての絶対的強者、武久であった。


「何よ武久。もしかして、あの転校生がモテてるのが羨ましいの?」

ミサがニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、武久の反応を伺う。


「そんなわけねえだろ。大体、俺にはミサがいるんだし。あいつ、どうせ彼女もいねえんだろ? どれだけ顔が良くても、ああいうスカした奴は結局『優しい人』止まりで終わるんだよ」

武久は鼻で笑って強がると、周囲に見せつけるようにミサの肩を抱き寄せ、強引に抱き着いた。


すると、小学校時代から武久とつるんでいるワルガキ仲間の一人が、茶化すように声を上げた。

「そんな事言って。鼻の下伸ばして女の子に囲まれてるのを見て、内心羨ましくてたまんねえんじゃねえか?」


仲間の冷やかしに、武久の顔が瞬間的に朱に染まる。

「うるせえよ。お前、あんまり馬鹿な事言うくらいならさっさと『死ね』!いいか、次言いやがったらぶっ殺すぞ!」

武久はゲラゲラと笑いながら、いつものように口癖となった凶暴な言葉を冗談めかして投げつけた。


「やってみろバーカ!」

ワルガキ仲間もいつものやり取りだと笑い合い、ミサも「ほんっと、男子ってガキよねー」と呆れたように笑った。

この日、放課後の教室に響いたその言葉は、誰もが聞き流す程度の、取るに足りない雑音として霧散したかに見えた。


しかし……。


静寂は翌朝、唐突に、そして凄惨な形で破られることとなる。

一限目の前に行われるホームルーム。

教壇に立った担任の顔は蒼白で、その声は隠しきれない震えを伴っていた。


「……落ち着いて聞いてほしい。昨日の夜、自宅で突然発狂して暴れ出し……窓から飛び降りて、絶命したという連絡が入った」


担任が告げたその名は、昨日、武久に「死ね」と言われた、あのワルガキ仲間のものだった。

教室は一瞬にして凍りつき、次の瞬間には、悲鳴と困惑のざわめきが波のように広がっていった。

泣き叫ぶ女子生徒や、現実を受け入れられずに呆然とする男子生徒たち。


その地獄絵図のようなパニックの真ん中で、ただ一人、狐宮才狐だけが一切の動揺を見せず、無機質な瞳で黒板を見つめていた。


(……発動して、結果も出たな。懸念していた『逆凪さかなぎ』の対策も完璧やった。呪詛を依代よりしろに流し、起点を介して対象に定着させる。……再現性は高い。今日にでも、妖古さんに報告しよか)


才狐の頭脳は、クラスメイトの死を悼むことなど一秒たりとも考えなかった。

ただ、実験が成功したという事実と、師への報告手順を淡々と整理する。


彼にとってその死は、数式が正しく解かれたことを証明する、単なる解答欄の数字に過ぎなかった。


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## 因果の歯車 ―― 導かれる生贄たち


その後も、学園内では人智を超えた惨劇が、まるで精密な時計仕掛けのように繰り返されていった。

武久はいつもの調子で、クラスメイトたちに対して「死ね」だの「殺すぞ」だのといった暴言を、呼吸をするのと同じ軽さで投げかけ続けていた。

彼にとっては、それは単なる語彙の貧困さを露呈するだけの、冗談めかしたコミュニケーションに過ぎなかった。

しかし、その毒を含んだ言葉を投げつけられた対象は、例外なく、そして抗いようのない力によって、その日のうちに絶命していった。


ある者は放課後の駅のホームで、何かに背中を押されたかのように突然発狂して線路へ飛び込んでて

またある者は、静かな夜道で突如として制御を失ったかのように疾走する大型トラックの前に身を投げ出しで。

あるいは、団地の屋上から吸い込まれるように飛び降りる者。


物理的な直接の死因こそ千差万別ではあったが、そのすべてに共通する「因」となったのは、武久の口から放たれた死を望む言霊であった。


当の武久たちは、自分たちが吐いた言葉が死への片道切符になっているなどという、超常的な真実に行き着くはずもなかった。

昨日まで笑い合っていたワルガキ仲間が一人、また一人とこの世から消え、無害なクラスメイト達までもが謎の死を遂げていく事態に、教室は底知れぬ恐怖に塗り潰されていった。


そからほどなくして、一日のうちに三人の生徒が同時に命を落とすという異常事態に至る。

「これは学校を狙った無差別テロではないか」「あるいは未知の感染症か」といった憶測が飛び交い、流石に収拾がつかないと判断した学校側は、暫くの臨時休校という措置を断行した。


静まり返った学園の裏側で、才狐は誰にも告げず、既に京都行きの準備を終えていた。

彼は約束通り、妖古への土産として厳選した油揚げを鞄に忍ばせ、静寂に包まれた「御狐神社」へと帰還する。


一方、神奈川の自宅で独り、暇を持て余しながらも親友たちの死に怯えていた武久の元に、恋人のミサから電話がかかってきた。

スマートフォンの液晶に映る彼女の名を見て、武久は縋るように通話ボタンを押した。

電話の向こうのミサも、多くの友人を失ったショックで声が沈んでいた。

「……武久、生きてるよね。なんだか、外に出るのも怖くなっちゃって」


「ああ、俺もだよ。あいつら、なんで急にあんなことに……。次は俺なんじゃないかって、そればっかり考えちまう」

武久が弱音を吐くと、ミサは沈黙を破るように、少しだけ声を明るくして提案をした。

「ねえ、このまま閉じこもってても、悪いことしか考えられなくなるでしょ。気晴らしに、少し遠くへ旅行でも行かない?」


ミサは、残された友達にも声をかけ、皆で励まし合おうとしたようだったが、誰もが死の影に怯え、誘いに乗る余裕のある者はいなかったという。


「そうだよな……。みんな、沈んでるよな。でも確かに、こうして塞ぎ込んでても、気が狂いそうだ」


「それでね、ちょっと提案なんだけど……。転校生の狐宮君、あの子も今、京都に帰省中らしいじゃない。だから、向こうで合流してみない? ああ見えて、あの子もクラスメイトが次々に死んで、強がって気にしてないふりしてるだけかもしれないからさ。……ほら、せっかく縁があって戻ってきた子を、一人にしておくのも可哀想でしょ?」


武久は、せっかくの旅行なら彼氏彼女の二人きり水入らずで過ごしたいという不満を抱いたが、今のこの不気味な状況下で、誰かと繋がっていたいという本能的な欲求が勝った。


「挨拶だけしたら、あとは二人で遊べばいいじゃない。ねえ?」

ミサの説得に、武久も最後には頷いた。

「……まあ、それもそうだな。流石にこの状況で、あいつまで死んじまったら……いよいよ、このクラスは呪われてるって確信しちまいそうだしな。よし、行こうぜ、京都へ」


そうして、武久とミサは神奈川の駅から、東海道新幹線の下り列車に乗り込んだ。

車窓を流れる富士の絶景を眺めても、武久の右手首に巻かれた蒼い組紐が、冷たく肌を締め付けているような感覚だけは消えなかった。


しかし、彼らは気づいていない。

自分たちが向かっている場所が、救いでも気晴らしでもなく、五年前から張り巡らされていた巨大な蜘蛛の巣の中心であることを。

新幹線が京都駅のホームへと滑り込んだ時、古都の湿り気を帯びた空気が、獲物を歓迎するかのように彼らを包み込んだ。


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## 言霊の暴走 ―― 断絶の四条河原


京都の目抜き通りである四条河原町の喧騒は、初夏の柔らかな陽光に包まれ、修学旅行生や観光客たちの浮き立った活気に満ち溢れていた。

午前中に古都へと降り立ち、華やかな繁華街で一通りの買い物を楽しみ、評判の店で昼食を済ませた武久とミサ。

本来ならば恋人同士の甘いひと時となるはずの時間だったが、二人の間を流れる空気は、どこか刺々しく、湿り気を帯びていた。


ふと、アイスティーのグラスを弄んでいたミサが、伏せていた顔を上げて切り出した。

「ねえ、武久。……武久はさ、狐宮君の連絡先って知ってる? せっかく京都に来たんだし、今から会いに行ってみない? もちろん、あっちが忙しそうならすぐに諦めるけどさ」


その提案は、平穏を装っていた武久の逆鱗に、静かに、しかし確実に触れた。

「あ? なんで今なんだよ。せっかく二人で旅行に来てんのに、別に今じゃなくていいだろ」

武久は鼻を鳴らし、露骨に不快感を露わにする。


「それはそうだけど……。でも、ほら、彼だって一人で不安かもしれないし」

ミサが食い下がると、武久の苛立ちはどす黒い嫉妬へと姿を変えた。

「何だよお前、やけにあいつの事ばっかり気にすんじゃねえか。……ひょっとして浮気か? ああ?」


武久の放った心無い言葉に、ミサは絶句し、頬を怒りで赤く染めた。

「ちょっと! こんな時になんでそういう事言うの? 流石にデリカシーが無さ過ぎるわよ!」


「だってそうだろ! 女子共はあいつが来てからというもの、ずっとあいつの周りにべったりじゃんか。……まあ、今は死んじまったりして数も少なくなっちまったけどよ」


武久は吐き捨てるように言い、周囲の悲劇さえも自分の不機嫌を正当化するための材料に使い始めた。

その言葉は、ミサの堪忍袋の緒を完全に引き千切った。


「だからそういう所がデリカシー無さ過ぎるって言ってんのよ! その『少なくなった』子達……アタシの大事な友達なんだからね!」

ミサの声が震え、本気の怒りが火を噴く。


「なんだよ、そこまで怒る事ねえだろ。八つ当たりすんなよ!」

武久も声を荒らげ、河原町の雑踏の中で、二人の諍いは修復不可能なレベルへと加熱していく。


「あんただって、同じような事言われたら怒るでしょ!? 何でそんなに狐宮君を目の敵にするのよ!」


ミサの追求に、武久は顔を歪めて不貞腐れた。


「あーはいはい、浮気を疑って悪かったな! お前がやたらと才狐の事ばっかり言うから、機嫌が悪くなったのは認めるよ。……け、何だよ女子共、どいつもこいつも才狐、才狐って。あんなスカした野郎のどこが良いんだよ」

武久は毒づき、足元の石を蹴るような仕草でミサを睨みつける。


「……ねえ。武久は心配じゃないの? 狐宮君がもし、他のみんなと同じように、突然いなくなっちゃってもいいの?」

ミサの問いは、静かだが鋭い刃のように武久の胸を突いた。


「別にー。……ああ、もしかしてあいつが犯人なんじゃねえか?、死神か何かになってみんなを殺して回ってたりしてな。そのうち、俺のところにも来たりして」

武久は恐怖を誤魔化すように下卑た笑い声を上げ、無神経な冗談を重ねた。

「ま、もし来ても返り討ちにしてやるけどな!」


「……あんた。本気でそんなこと言ってんの?」

ミサの瞳から、それまでの怒りが消え、代わりに底知れない失望の色が広がっていく。


「冗談だろ、本気にするなよ」

武久が笑い飛ばそうとするが、ミサは震える肩を抱き、叫ぶように声を上げた。

「今の状況で言っていい冗談じゃないって言ってるの! アタシは、アタシ達は、友達を何人も亡くしてるのよ!?」


「何だよお前、さっきから! やけに才狐の事を肩に持つけど、やっぱ浮気か!? そんな浮気女は――『死ね』!!」


激昂した武久の口から、最悪の言霊が飛び出した。

放たれた瞬間、武久は「あ……」と声を漏らし、我に返ったように目を見開く。

右手首の蒼い組紐が、一瞬だけ異様な輝きを放ち、周囲の空気が凍りつくような錯覚が走った。


ミサは声を失い、ぽろぽろと大粒の涙を流しながら武久を見つめた。

その瞳には、もはや怒りさえも残っていない。


「……しばらく、別行動しよ。今はあんたの顔、見たくないわ」

ミサは掠れた声でそう告げると、溢れる涙を拭いもせず、雑踏の彼方へと颯爽と走り去ってしまった。


「……ミサ!」


呼びかけようとした武久の言葉は、喉の奥で虚しく消えた。

立ち去る彼女の後ろ姿を見送ることしか出来なかった武久の右手首で、蒼い呪縛は、新たな標的を定めたかのように静かに拍動を始めていた。


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## 驟雨の如き凶事 ―― 業火と沈黙の救済者


独り残された武久は、観光客の喧騒に背を向けるようにして、四条通りに面したコーヒーショップへと逃げ込んだ。

冷え切ったアイスコーヒーを前に、彼はスマートフォンの画面をただ無言で見つめ続けていた。

先ほど放った「死ね」という言葉が、自責の念となって心に重くのしかかっている。


(……あんなこと、言うつもりじゃなかったんだ。あいつがやけに他の男の事…‥才狐の肩を持つから、ついカッとなって……)


指先が震える。

謝罪のメッセージを打ち込もうとしては消し、また打ち込んでは消すという不毛な作業を繰り返す。


彼にとってその言葉は、単なる感情の爆発に過ぎなかった。

だが、その背後で蒼い組紐が、着実に「執行」の準備を進めていることなど、彼は知る由もなかった。


不意に、テーブルの上でスマートフォンが激しく震えた。

ミサの名が表示された画面を見て、武久は「仲直りの電話だ」と直感し、弾かれたように通話ボタンを押した。

「……っ、ミサ! ごめん、俺さっきは――」


「もしもし。こちらの携帯電話の持ち主の方が意識を失う前に、武久さんという方にかけて欲しいと言われまして、お電話致しました。……武久さんで、お間違いないでしょうか?」

受話器の向こうから聞こえてきたのは、恋人の声ではなく、鈴を転がすような、それでいて芯の通った凛とした女性の声だった。


「あ、はい……そうですけど。あんた、誰だよ」

武久は困惑し、首を傾げた。


「私は、寺院の住職をしている者です。今しがた、こちらの方が大怪我をなさりまして。現在は意識がない状態で、すぐに救急車を手配いたしました。……幸い、一命に別状はございません。これから搬送先の病院をお伝えします。お控えの準備はよろしいでしょうか?」


「ミサが……!? おい、何があったんだよ! 病院はどこだ! 教えてくれ!」


女性の声は、パニックに陥る武久とは対照的に、どこまでも淡々と事実を説明した。

武久は震える手で鞄からメモ帳をひり出し、殴り書きのような筆跡で病院の情報を書き留めた。

京都駅近くの大型ショッピングモール、搬送先はその近辺の救急病院。


「……ありがとう御座います!」

武久は返事も待たず、店を飛び出した。


四条通りの人波を掻き分け、ミサの無事をただ祈りながら、彼は京都駅の方向へと狂ったように走り出した。


---


時を少し遡ると……。


武久と別れたミサは、溢れる涙を拭い、高ぶった感情を鎮めるために四条河原町から京都駅周辺まで歩き続けていた。

冷房の効いた大型ショッピングモールの中に入れば、少しは頭も冷えるだろう。

そう考えて、彼女は吹き抜けの大広間へと足を踏み入れた。


だが、その安らぎの予感は一瞬で塗り替えられた。

突如として、右腕のあたりから、ありえない熱が噴き出したのである。


「あ……熱っ……!?」

驚いて腕を見ると、そこには衣服を焼き、皮膚を焦がすような「青白い炎」が勢いよく燃え上がっていた。


「火事だ! 誰か、あの人の服が燃えてるぞ!」

「離れろ! 爆発するかもしれない!」

周囲にいた客たちが悲鳴を上げて散り散りになり、大広間には一瞬にして彼女を拒絶する空白地帯が生まれた。


「助けて……誰か、助けて!」

ミサは泣き叫び、必死に腕を振って火を消そうとするが、油を被ったかのように火勢は増すばかりだった。

やがて炎は彼女の肩を舐め、美しかった顔にまで及び始める。


逃げ惑う群衆、誰も助けに来ない絶望。

熱さに意識が遠のきかけた、その時だった。


「――ちょいと失礼しまっせ」


雑踏を切り裂くような、落ち着いた男性の声が聞こえた。

何かが彼女の肩にふわりと触れた瞬間、あんなに猛威を振るっていた炎が、嘘のように一瞬で消え去る。


「あ……あ……」

激痛とショックで膝の力が抜け、ミサの身体が崩れ落ちる。


意識を手放す直前、彼女はふわりと優しく包み込まれるような感覚を覚えた。

そこには、ミサの燃える肩に赤い文字がびっしりと書き込まれた「長方形の御札」を貼り付けた、全身黒衣の男。

そして、倒れようとしていた彼女をしっかりと抱きとめ、慈愛と峻厳さを併せ持った瞳で前を見据える、凛とした美しき尼僧の姿があった。


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## 白衣の廊下と二人の守護者 ―― 蒼き紐の警告


消毒液の鼻を突く匂いが充満する病院の廊下を、武久はなりふり構わず走り抜けた。

心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打ち、全身から噴き出す冷や汗がシャツを肌に張り付かせている。


「ミサ……頼む、無事でいてくれ……!」


彼がようやく辿り着いた手術室の前では、頭上の「手術中」の赤いランプが、まるで不吉な警告灯のように冷たく点灯していた。

その静謐な緊張感に包まれた廊下に、二人の人物が微動だにせず立っていた。


武久が肩で息をしながら二人の前まで来ると、彼らは示し合わせたようにスッと丁寧に合掌し、深く静かなお辞儀を捧げた。


一人は、綺麗に切り揃えられた短い黒髪が印象的な若き女性。

浄土宗の僧侶が纏う格調高い法衣と袈裟を身に包んだ彼女は、見る者の魂を吸い寄せ、一瞬で浄化してしまいそうなほどに澄んだ瞳をしていた。

その美貌は超絶美少女と見紛うほどに端正であり、立ち居振る舞いからは底知れぬ慈愛と知性が溢れ出している。


もう一人は、四十代半ばから後半とおぼしき、精悍な顔立ちの男性。

黒いコートに黒いシャツ、そして黒いカーゴパンツと、全身を闇に溶け込むような黒一色で統一している。


「私が先ほど、お電話をさせて頂いた者です。改めまして。私はこの京都で浄土宗寺院の住職をしておるものです」

若き女性住職が、その涼やかな声を響かせて自らの素性を明かした。


「……住職さん? じゃあ、ミサを助けてくれたのは……」


武久が呆然と呟くと、隣にいた黒衣の男性が少しだけ口角を上げた。


「丁度、ショッピングモールの近くにある稲荷神社で屋台が出される時期でしてな。その時に来られる『御狐おきつねさん』への土産に油揚げを御住職と買いに来とったところで、お連れさんが燃えてらっしゃったんですわ」

男性は落ち着いた、しかしどこか含みのある口調で言葉を継いだ。

「まあ、僕の事は『呪術師』とでも呼んでくれなはれ。名乗るほどの名前はおへんのでね」


「燃えてた? ど、どういう事ですか……!? 突然火が出るなんて……それに、女の子のお坊さんに、呪術師って……一体……」


あまりに現実離れした説明と、目の前の奇妙な二人組に、武久は顔面を蒼白にして立ち尽くした。

すると、自らを呪術師と称した男性が、武久の右手に巻かれた「蒼い組紐」を鋭い眼光で一瞥した。


「なるほどなあ……。あんさん、一度『御狐さん』にお参りしといた方が、よろしゅおすえ。……手遅れにならんうちに、な」

呪術師は淡々と、一切の感情を排した無表情でそう告げた。


「え……?」


武久がその真意を問い返そうとしたが、隣の女性住職がそれを遮るように優しく微笑んだ。


「今は、彼女のことを一番に。もしご家族とも連絡が取れるのでしたら、すぐに報せて差し上げてください。彼女も、目覚めた時に知っているお顔があれば安心なさるでしょう」


その慈悲深い言葉に、武久は弾かれたように我に返った。


「あ、そうか……。あの、ミサを助けてくださって、本当に、本当にありがとう御座います!」

武久は二人に深く頭を下げ、感謝の言葉を絞り出した。


「お気になさらず。これもお導きでしょうから」

女性住職は静かに合掌し、呪術師の男性と共に、まるで霧が晴れるように静かに病院の廊下を去っていった。


一人残された武久は、まだ震えが止まらない手で鞄を探り、ミサの家族へ連絡を入れるために、足早に病院内の電話が使えるスペースへと向かった。

窓の外では京都の街に夕闇が迫り、彼の右手首に巻かれた蒼い紐が、昏い光の中で脈打つように静かに光を湛えていた。


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## 黄昏の報告と、病室の誓い


病院を後にした女性住職と呪術師の二人は、静かに夕闇が降り始めた稲荷神社の境内へと足を運んだ。

朱色の鳥居が重なる静寂の中、呪術師は懐から一枚の白い御札を取り出すと、指先で印を結びながら軽やかに宙へと投げ上げた。

すると、紙の端々が生き物のように蠢き出し、一瞬にして一羽の白い鳥の形へと姿を変え、夕焼け空を切り裂くようにして北の空へと飛び去っていく。


「咄嗟のことやったさかい横槍を入れさせてもらいましたけど、横槍を入れざるを得ない状況で術を発動させてしもうたんですから、妖古さんには筋を通しておかんといけませんわなあ」


呪術師は、御札を見送った後も淡々と無表情のまま、低く落ち着いた声で独りごちた。

その視線の先には、先ほど見た少年の右手首に巻かれた蒼い呪縛の残像が焼き付いているようだった。


「では、女鬼じょきさん達には、私からお伝えしておきましょうか」


女性住職は穏やかに微笑むと、胸の前でそっと掌を合わせ、静かに半眼の構えをとった。

彼女が手にした数珠が、呼応するように内側から神秘的な光を放ち始め、周囲の空気が一瞬だけ清浄な霊気に満たされる。

やがてその光がゆっくりと消え去ると、彼女はふうと小さく息を吐き、目を開けた。


「現段階で、我々に出来ることは報告と情報共有だけでっしゃろうから、まあ、こんなところでしょうな」

呪術師が肩をすくめると、女性住職は頷き、慈愛に満ちた表情で彼を見つめた。

「そうですね。では、油揚げの購入と、それを御受取り頂く事は、明日に改めましょうか。この後は私の寺へ戻り、お茶でも淹れて一息入れましょう」


「有難う御座います、御馳走になります」

二人は沈みゆく太陽に背を向け、影が長く伸びる参道を静かな足取りで歩き出した。


---


一方、武久はミサの家族への連絡を終えて手術室の前で釘付けになっていた。

やがて、頭上の赤いランプが消え、扉が開いてストレッチャーに乗せられたミサが運ばれてくる。

麻酔が効いている彼女は深く眠りについていたが、包帯に巻かれた右腕には痛々しい火傷の痕が透けて見え、頬のあたりにも赤く爛れたような傷が残っていた。


(……どうか、跡は残らないでくれ)

武久は祈るような想いで病室へと付き添い、パイプ椅子に腰掛けて、ただ彼女の寝顔を見守り続けた。


一時間ほどが経過した頃、ミサの睫毛が微かに震え、彼女はゆっくりと重い瞼を持ち上げた。

「ミサ……!」

武久が思わず身を乗り出して呼びかけると、ミサは焦点の定まらない瞳を彷徨わせた後、か細い声で返した。

「……武久……」


「良かった……本当に良かった。連絡を受けた時は心臓が止まるかと思ったよ。ショッピングモールでいきなり火が出たって聞いてさ……。偶然居合わせた親切な人たちが助けてくれたんだ。本当に、無事で良かった……」

武久の目から、堪えていた熱いものが溢れ出す。


「……怖かった。急に、右腕が熱くなって、燃え出して……。顔まで火が迫ってきて、もう死ぬんだって……」

ミサは恐怖を思い出したのか、涙目で声を震わせた。


武久は彼女の自由な方の手をそっと握りしめ、魂を削り出すような想いで謝罪の言葉を口にした。

「ミサ、本当にごめん。俺、あんな酷いこと言っちゃって……。俺、本当にミサのことが一番好きなんだ。馬鹿なこと言って、本当に悪かった」


「……うん」

ミサは弱々しく、しかし確かに頷いた。


「ミサのお母さんとも連絡が取れたよ。めちゃくちゃ慌ててたけど、今からすぐに京都まで迎えに来てくれるって。残念だけど、俺たちの京都旅行は、今回はここで打ち切りだな。でも約束するよ。今度こそ、ちゃんと楽しい京都旅行をやり直そう。その時は、もうデリカシーのない男なんて卒業してるからさ。絶対、幸せにするから」

武久の真摯な誓いに、ミサの口元がわずかに綻び、優しい笑みが浮かんだ。

「……うん。約束だよ」


病室の静寂の中で交わされた、幼い恋人たちの約束。

だが、武久の右手首にある蒼い紐は、まだその役割を終えてはいなかった。

主である才狐の冷徹な意志を繋ぎ止め、次の「執行」を待つかのように、暗闇の中で静かに脈動を続けていたのである。


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## 朱の神域 ―― 邂逅、えらいこっちゃの宣告


ミサの母親が息を切らせて病室へ駆けつけたのを見届け、武久は安堵と気まずさが入り混じった心地で挨拶を済ませた。

火傷の処置や着替えなど、女性同士でなければならない事も多いという配慮から、彼は一旦病院の外へと身を引くことにした。


夕闇が古都の街並みを濃く染め上げる中、武久は独り、重い足取りで舗道を歩き始める。

このまま最終の新幹線に飛び乗って神奈川へ帰るべきか、それともどこかで一泊して明日の容態を確認してからにするか。

混濁する思考の中で、ふと彼の脳裏に、昼間に出会ったあの呪術師の無機質な言葉が蘇った。


『あんさん、御狐さんにお参りしといた方が、よろしゅおすえ』


導かれるように視線を上げると、ショッピングモールの巨大な影を通り過ぎたすぐ先に、ひっそりと、しかし確かな威圧感を放つ神社の鳥居が見えてきた。

昼間の凄惨な光景と、あの不気味な忠告。

武久は抗いがたい運命の糸に手繰り寄せられるように、吸い込まれるようにしてその境内へと足を踏み入れた。


人影のない静寂。

本殿と思わしき建物の前には、「二礼二拍手一礼」と書かれた古びた看板が立てかけられていた。

武久は普段の彼からは想像もつかないほど神妙な面持ちで、その作法に従い、静かに掌を合わせる。


(……ミサの怪我が、綺麗に治りますように。あんな怖い思いをさせたバチが当たったんなら、俺が全部引き受けるから……)


祈りを終え、目を開けた武久はふと首をかしげた。

「……なんで狐の神社なんだろうな。てか、神社ってだけで来てみたけど、そもそもここって本当に狐の神社か?」


独り言を零した瞬間。

背筋に氷を押し当てられたような鋭い視線を感じて、武久は弾かれたように振り返った。

そこには、夕闇の神域にはあまりにも不釣り合いで、それでいてあまりにも「完成された」奇妙な二人の姿があった。


視線を送っていたのは、小柄な女の子と、その傍らに立つ、息を呑むほどに妖艶な赤い着物を纏った美人であった。

だが、その姿はあまりにも異様を極めていた。


一人は、銀色の長い髪を靡かせ、まん丸の瞳に台形のような独特の形に開いた口。

黒いベレー帽を被り、下衣がズボンタイプになった黒いセーラー服という、現代的でありながらどこか浮世離れした装いの少女。


そしてもう一人は、背が高く、燃えるような朱の着物を見事に着こなす超絶的な着物美人。

狐色の美しい髪の隙間からは、本物としか思えない「狐の耳」が誇らしげに突き出しており、その端正な顔立ちには、慈悲深さと食い入るような捕食者の危うさが同居した、不敵な笑みが携えられていた。


「あ、ど、どうも。……お参り、お邪魔しました」

あまりの存在感に圧倒され、武久は反射的にぺこりと会釈を返した。

彼にとって、それは単なる奇妙なコスプレイヤーか、あるいは風変わりな観光客にしか見えなかったのかもしれない。


しかし、その沈黙を破ったのは、小柄な銀髪の女の子の方だった。

彼女は台形に開いた口を微かに動かし、感情の読めない声音で、鋭く短く言い放った。


「えらいこっちゃ」


その一言が耳に届いた瞬間、武久は心臓を直接鷲掴みにされたような、得体の知れない衝撃にドクリと跳ねた。

それは単なる言葉の響き以上に、自らの足元が崩れ去るような、不吉な宣告のように響いたのであった。


---


## 魔改造の牛車 ―― 異界への片道切符


武久が「え?」と間抜けな声を漏らして立ち尽くしていると、銀髪の少女は無表情のまま、どこか誇らしげに胸を張った。

「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や」


あまりに唐突で奇妙な自己紹介に武久が面食らっていると、今度は隣の着物美人が、艶やかな袖を口元に当ててくすくすと喉を鳴らした。


「我はあやかしに古いと書いて、妖古ようこと読むもんじゃ。ぬしのような人の子からは、妖古さんとでも、妖古姉さんとでも、好きに呼びよし」

コロコロと鈴を転がすような笑い声は、美しくもどこか背筋を凍らせるような威圧感を孕んでいる。


「は、はあ……えっと、俺は武久って言います。椿山武久……」

毒気を抜かれた武久は、促されるままに、何ら隠すこともなく本名を名乗っていた。


「ほう、武久か。ここは正真正銘、狐にまつわる神社でのう。ぬしのような迷い子が紛れ込むには、いささか神気が強すぎたかもしれぬがの」

妖古が細めた瞳で本殿を仰ぎ見ると、武久は「やっぱりそうだったのか」と納得したように首を縦に振った。

「あ、そうなんすか? 狐の神社だったんだ、そりゃ良かった。……えっと、あなた方はここの神主さんか何かですか?」


武久の至極まっとうな疑問に、妖古は三日月のように目を細めて笑った。

「我はぬしの顔を直接見に来ただけの、ただの気まぐれじゃ。我が弟子をそこまで追い詰めた愚か者が、一体どんな面をしよるんか、一目観てみたくなってのう。……ほな、えらいこっちゃん。後は宜しゅう頼むわな」


「え?」

妖古の不穏な言葉の意味を武久が反芻しようとした、その時だった。


「えらいこっちゃーーーーー!!!」


静寂に包まれていた境内に、えらいこっちゃ嬢の地を這うような、それでいて天を衝くような咆哮が響き渡った。


「うわ!? な、なんだよ、急にどうしたんだよ!?」

武久が耳を塞いで飛び退くと、神社の奥から凄まじい熱風と共に、燃え盛る「何か」が猛烈な勢いで迫ってきた。


それは、土煙を上げながら一行の目の前で急停止した。

武久はそれを見て、目玉が飛び出しそうなほど驚愕する。


目の前に現れたのは、歴史の教科書でしか見たことがないような古めかしい「牛車」であった。

だが、その車輪の片方だけが青白い炎を上げて激しく燃え盛っており、さらに驚くべきことに、平安貴族の乗り物であるはずのその車体には、現代的な「運転席」が継ぎ足されるように溶接されていた。

どう見ても魔改造された、何らかの乗り物にしか見えない異様な物体。


ポカンと口を開ける武久の前で、その運転席の窓がスライドして開いた。

中から顔を出したのは、黒い着物に身を包み、長い黒髪を後ろで束ねてお洒落なベレー帽を被った、これまた溜息が出るほどの美人であった。


「えらいこっちゃん、妖古さん、お待っとさんですー♪」

彼女は親しみやすい笑顔でひらひらと手を振る。


方輪車かたわぐるまねえちゃん、お迎えありがとちゃん! えらいこっちゃな悪ガキあんちゃん御一名様、ご案内! 行き先は『摩訶不思議食堂』!」

えらいこっちゃ嬢がそう宣言すると、牛車の客席部分の扉が自動的に跳ね上がり、彼女は「ぴょん」と軽やかな動作で中に飛び乗った。


それを見届けた妖古は、満足げに頷く。

「ほな、えらいこっちゃん、方輪車ちゃん、後の事は宜しゅうに。女鬼ちゃんや地蔵店長にも、宜しゅう言うといておくれやす」


妖古は優雅に手を振ると、武久に冷ややかな視線を向ける。

「悪ガキ小僧。ぬしも、はよ乗りや」


妖古は、まだ呆気に取られている武久の背中を、有無を言わせぬ圧力で睨みつけた。


「え? いや、待ってくださいよ! これ、どこに行くんですか!?」


「はよ、御乗りやす。それとも、ここで我がぬしを食ってしもてもええんかのう、悪ガキ小僧?」

妖古の瞳が黄金色に怪しく光り、彼女が捕食者の殺気を孕んで一歩前へ踏み出す。


「ひえっ!? の、乗ります! 乗らせていただきます!」

武久は悲鳴を上げ、転がるようにして牛車の豪華な客席へと飛び込んだ。


彼が中に滑り込むと同時に、バタン、と重厚な扉が閉まった。

それは、彼がそれまで生きていた「常識」という名の世界が、完全に遮断された音であった。


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## 異形のタクシー ―― 支払いは現代的に


武久は牛車の豪華な、それでいてどこか古めかしい香りが漂う客席に放り込まれ、混乱の極致にいた。

外では片輪が燃え盛る轟音が響いているはずなのに、車内は不気味なほど静まり返っており、自分の心臓の音だけがうるさく鼓動を刻んでいる。

何が起きたのか、これからどこへ連れて行かれるのか、必死に思考を巡らせようとしたその時だった。


何処からともなく、白くて長い、節くれだった腕が虚空から、ニューっと生えてきた。

その手には「御勘定」と墨で書かれた古めかしい札がぶら下げられており、武久の目の前でゆらゆらと揺れている。


「う、うおあ!? な、何だよこれ!? 幽霊の腕か!? ヒエッ、警察……警察呼んだ方がいいんじゃないのかこれ!腕しかないって、死体の腕とかじゃないかよ!」


武久は座席の端まで飛び退き、裏返った声で叫んだが、狭い車内で逃げ場などあるはずもない。

突きつけられた札を凝視し、武久は荒い息を吐きながら必死に状況を飲み込もうと試みた。


「……何なんだよ、一体。えっと、御勘定って書いてあるってことは、つまり金をよこせってことか? 現金は一応持ってるけど……お財布携帯も使えるのかこれ?」


武久が困惑まじりに独り言を漏らすと、運転席の仕切りの向こうからパチン、と指を鳴らす小気味よい音が聞こえた。

すると、目の前の腕が持っていた札が生き物のようにくるりと回転し、その裏面に印刷されていたのは、見慣れた白黒のドット模様――QRコードであった。


「はあ!? 何だよこれ、QRコードがあるとか、ふざけてんのか! こんな平安時代みたいな乗り物のくせに、最新の電子決済が出来るのかよ!」


武久は毒づきながらも、この異様な空間で「払わない」という選択肢が命取りになることを本能で察していた。

彼は震える手でスマートフォンを取り出し、読み取り機を翳すようにお財布携帯の機能を起動させる。

画面を近づけると、「ピロリン、毎度ありー」という軽快な電子音が車内に響き渡り、正確に530円が引き落とされた。


「毎度ー。決済確認できやした。ほな、出発しまっせー!」

運転席から方輪車の陽気な声が飛ぶと同時に、牛車は物理法則を無視したような凄まじい加速を見せた。


「うわあああ!」

武久はシートに体を叩きつけられ、最早何が何だか分からず、ただ剥き出しの恐怖に耐えながら椅子にしがみついて大人しくしているしかなかった。

窓の外の景色は光の筋となって流れ、時間の感覚さえも曖昧になっていく。


やがて、猛烈なGがふっと抜け、牛車は滑らかに減速を始めた。

キィ、と静かに車体が止まると、自動ドアのように客席の重厚な扉が開く。

すると、えらいこっちゃ嬢が「ぴょん」と軽く跳ねながら、早く来いと言わんばかりに手招きを始めた。


「……生きてる、よな。俺」

武久はふらつく足取りで恐る恐る牛車を降りると、背後でひとりでに扉が閉まり、運転席の窓から方輪車が顔を出した。


「毎度ありー。無事に送り届けましたでー。ほな、良い夕餉ゆうげをー♪」

彼女は満面の笑みでひらひらと手を振ると、再びエンジン音とも咆哮ともつかない音を響かせて、宵闇の彼方へと颯爽と走り去っていった。


「な、何だったんだよ、今の……。それに、夕餉ってなんだ? 飯でも食えってことか?」

武久は呆然と立ち尽くし、去りゆく炎の轍を見送っていたが、ふと目の前に温かな光を放つ建物があることに気づいた。


視線を上げると、そこには都会の喧騒から切り離されたような、手入れの行き届いた美しい木造の家屋が佇んでいた。

入り口の上には、どこか懐かしく、それでいて不可思議な威圧感を放つ看板が掲げられている。


「摩訶不思議食堂」


墨書きされたその文字を見上げた瞬間、武久は言い知れぬ空腹感と、逃れられない運命の予感に包まれるのだった。


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## 追憶の火と、地蔵の微笑


武久が現実離れした状況の数々に呆然と立ち尽くしていると、えらいこっちゃ嬢が迷いのない足取りで店の重厚な扉を押し開けた。

「えらいこっちゃな悪ガキあんちゃん御一名! カウンター席へご案内ーーー!!」


彼女の威勢の良い叫びと共に、武久は手首を掴まれたが、そこから伝わってくる力は、小柄な少女の体からは到底想像もつかないほどにえげつない怪力であった。

抗う隙すら与えられず、ずるずると引きずられるようにして店内に連れ込まれた武久は、そのまま促されるようにカウンター席へと腰を下ろした。


「あの子、えらいこっちゃんだったか……見た目に反して、めちゃくちゃ力が強いんだな。一体どうなってんだよ、ここは」

武久は、痺れる手首をさすりながら驚きを隠せずにいたが、店内に漂う香ばしくも優しい出汁の香りに、ささくれ立っていた心が不思議と凪いでいくのを感じた。


すると、視線を落としていた武久の正面、カウンターの奥から、静寂を割るようにして、ぬぅっと穏やかな人影が現れた。

それは、慈愛に満ちた表情を浮かべ、静かに掌を合わせたお地蔵さんそのものの姿であった。


「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。そして御客様、いらっしゃいまし。私はこの店の店長をさせて頂いております。皆さんは親しみを込めて、地蔵店長と呼んで下さいます」


お地蔵さんは、福々しい笑みを湛えたまま、丁寧な所作で合掌してお辞儀をした。

その立ち居振る舞いには、あらゆる罪を包み込み、許してしまうような底知れない温かさが宿っていた。


「は、はあ、どうも。……えっと、俺は武久です。椿山武久です。よろしくお願い……します」

あまりに神聖で、それでいて親しみやすい存在感を前に、武久は柄にもなく居住まいを正し、何となく自らを名乗って挨拶を返していた。


「武久さんですね、ようこそお越し下さいました。此処は、あなたの心が欲するものを識る場所で御座います」

地蔵店長は、すべてを見通しているような慈悲深い瞳で微笑み返した。


その時、いつの間にかトレードマークのベレー帽はそのままに、黒い作務衣の上から清潔な白い割烹着をぴしりと着こなしたえらいこっちゃ嬢が、音も立てずに戻ってきた。

彼女は丁寧に蒸された熱い御絞りを、カウンター席に御供立てず、しかし完璧な位置へと静かに置く。

そして、木製の表紙が設えられた重厚な御品書きを、武久の前へと差し出した。


「これ、メニューか? 腹、減ってたんだ。ありがとな」

武久はそれを受け取り、期待と不安が混ざり合った心地で中を開いてみた。

そこには、達筆な墨書きでたった一言、本日の献立が記されていた。


『茶碗蒸しと鳥鍋膳』


その文字を目にした瞬間、武久は心臓を射抜かれたように目を見開いた。

「……これ、確か、小学校の修学旅行で京都に来た時に食べたやつだ。そんで、今夜はミサと一緒に食べようって言ってたメニューだ……」


忘れていたはずの、しかし鮮明な記憶が奔流となって脳裏を駆け巡る。

五年前の修学旅行の初日、才狐を神社の境内に置き去りにしたまま、旅館の夕食で食べたあの料理。


当時は茶碗蒸しなんて古臭い食べ物だと鼻で笑っていたが、一口食べた瞬間の、出汁の旨味が凝縮された滑らかな食感に、予想を反して物凄く感激したことを思い出す。

自分専用の小さな鳥鍋が、固形着火剤の青い炎で温められている光景も、どこか特別感があって、夢中で眺めていた懐かしい思い出。

神奈川に帰ってからも、あの味が忘れられず、事あるごとに母親にせがんでは作って貰っていた、武久にとっての「特別な御馳走」であった。


武久は、隣にいるはずだったミサの不在に胸を痛め、しかし自分の中に芽生えた確かな決意と共に、御品書きを閉じた。


「……ミサと一緒に食べたかったけど、まずは俺がこれを頂くよ。今度は必ず彼女と一緒に来るための、予行演習だ。地蔵店長、これをお願いします」

武久は、少しだけ照れくさそうに笑いながら注文を告げ、えらいこっちゃ嬢に御品書きを返した。

地蔵店長は「畏まりました」と言って笑顔で合掌してお辞儀をする。


するとえらいこっちゃ嬢は、我が意を得たりと言わんばかりに力強く頷いた。

「茶わん蒸しと鳥鍋膳一丁! えらいこっちゃな豪華料理! 」


彼女の威勢の良い咆哮が厨房へと響き渡り、いよいよ運命の夕餉が始まろうとしていた。


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## 異界の厨房と、魂の「いただきます」


武久はカウンター席に座り直し、ふと好奇心に駆られて厨房の奥へと視線を向けた。

しかし、そこで目にしたのは、彼の「常識」という名の脆弱な壁を粉々に打ち砕く、想像を絶する光景だった。


そこは、種族もことわりも超越した、まさに摩訶不思議な聖域だった。


一人は、紅い着物に真っ白な割烹着を着用して、猫耳が飛び出るように誂えられた三角巾の下から、黒髪が覗いている。

穏やかな顔立ちをした彼女は、鼻歌を交じりに蒸し器を確認し、茶碗蒸しの火加減を優雅に操っていた。


もう一人は、鮮やかな緑の着物に割烹着姿で、緑色の肌に、ピンと尖った大きな耳。

茶色の瞳を輝かせながら、手際よく一人用の鍋に新鮮な具材を盛り付けていく。

その動作には一点の無駄もなく、職人としての矜持が漲っていた。


「……まじかよ。猫にゴブリン……? ここ、本当に日本かよ」

武久が呆然と口を開けていると、厨房から戻ってきたえらいこっちゃ嬢が、慣れた手つきで一人用のコンロを彼の前に設置した。


猫子ねここさんと、凜華りんかさんの、絶品料理を独り占め! えらいこっちゃな贅沢夕餉!」

彼女は誇らしげに胸を張り、期待感を煽るように腕をぶんぶんと振り回す。


そうこうしているうちに、料理が運ばれてきた。

猫子が、湯気を立てる炊き立ての白い御飯と、陶器の蓋がついた茶碗蒸しを丁寧に手元へ置く。

続いて凜華が、美しく盛り付けられた一人用の鳥鍋をコンロの上に乗せた。


すると、えらいこっちゃ嬢が「パチンッ」と軽やかに指を鳴らした。

ボッ!

その音と同時に、マッチもライターも使わずに固形着火剤が青白い炎を上げ、鍋を静かに温め始める。


「鍋の蓋がコトコト動き出しましたら、それが食べごろの合図ですえ。熱いさかいに、火傷せんよう気をつけて召し上がって下さいまし」

凜華は優しく微笑むと、再び厨房へと戻っていった。


「茶碗蒸しを食べてはる間に、お鍋もええ具合に煮えますさかい。ごゆっくりと、ほっこりお寛ぎ下さいましー」

猫子も鈴を転がすような声で言い残し、二人の異形の料理人は再び仕事へと戻る。


目の前に並んだ、温かな湯気。

武久は喉を鳴らし、逸る気持ちを抑えながら茶碗蒸し用の小さな匙を手に取ろうとした。


だが、その時。


隣で見ていたえらいこっちゃ嬢が、無言のまま武久をジーーーッと穴が開くほど見つめていた。

彼女は言葉を発さず、ただ胸の前でぴたりと掌を合わせる。


「え……? ああ、えっと。……『いただきます』をしろってことか?」


武久は面食らったが、彼女の視線の鋭さに負け、おずおずと匙を置いた。

そういえば、五年前の修学旅行の夕食時も、旅館の広間で全員揃ってこうさせられたっけ――。

武久は背筋を伸ばし、そっと目を閉じた。

今の自分を救ってくれた見知らぬ人々、そして病院にいるミサへの想いを乗せるように、静かに掌を合わせる。


「……頂きます」


武久が素直に合掌して唱えると、えらいこっちゃ嬢はそれを見届けて満足そうに一つ頷いた。

彼女の厳格な「儀式」の確認が終わり、彼女もまた風のように厨房へと消えていく。


「意外と礼儀にうるさいんだな、あの子。……まあいい。これでようやく、晩飯だ」


武久は改めて匙を持ち、黄金色の光を放つ茶碗蒸しの蓋に手をかけた。

立ち昇る出汁の香りが、彼の凍えていた胃袋を、そして孤独な心を、静かに揺り動かし始めていた。


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## 第十九章:黄金の出汁と、不意に訪れる影


武久は震える手で匙を握り、黄金色に輝く茶碗蒸しの表面を滑らせるように掬い上げた。

まだ熱気を含んだひと塊を口へと運ぶ。

その瞬間、気品溢れる出汁の香りが鼻腔を抜け、舌の上で卵の滋味が優しく解けていった。


「……っ! なんだこの茶碗蒸し、母さんの作るのより断然美味い! そりゃ、高級料亭とかに比べたら家庭の味には限界があるんだろうけど……。それにしても、こんなに美味い茶碗蒸しは生まれて初めてだ!」

予想を遥かに超えた奥深い味わいに、武久の頬は自然と緩み、思わず「ほっこり」とした笑みがこぼれ落ちる。


中に入っている具材を一つずつ確かめるように口に運ぶ。

紅い縁が鮮やかな蒲鉾、凝縮された旨味が溢れ出す椎茸、そして奥に潜んでいた銀杏の実。

どれをとっても選び抜かれた逸品であることが分かり、武久の心は温かな幸福感に満たされていった。

彼は熱々の茶碗蒸しを「ふーふー」と丁寧に冷ましながら、その繊細な味の重なりを心ゆくまで楽しんだ。


最後の一滴まで出汁を飲み干し、名残惜しそうに器を置いたその時、まるで計ったかのように卓上の一人用鍋の蓋が「カタカタ」と小気味よく音を立てた。

鳥鍋が食べ頃を迎えた合図だ。


武久が期待に胸を膨らませて蓋を取ると、中からは真っ白な湯気と共に、艶やかに煮込まれた鶏肉と、瑞々しい葱や白菜が顔を出した。

彼はそれらを丁寧に器に取り分け、まずは鶏肉を一口頬張る。


「……あふっ、熱い……でも、めちゃくちゃ美味い!」

出汁の旨味が芯まで染み込んだ鶏肉の弾力に、武久の心は躍り、再び「ほっこり」とした笑顔が顔を出す。

炊き立ての御飯を口に運べば、鶏の脂と出汁の塩梅が米の甘みを引き立て、驚くほど食が進んだ。


葱も白菜も、ただ柔らかいだけでなく絶妙な食感が残されており、出汁をたっぷり吸った野菜の底力に圧倒される。

普段は友達と連れ立って、刺激の強いジャンクフードを腹に詰め込むことも多かったが、それとは全く違う次元の「滋味」に、武久は心から満たされていくのを感じていた。


しかし、その多幸感に浸っている最中、ふいに彼の脳裏に亡くなった仲間たちの顔がよぎった。

昼間、ミサに悲しげに放った「少なくなった友達」という言葉が、鋭い棘のように胸に突き刺さる。

武久は箸を止め、少しだけ顔を曇らせた。


「……ミサには、本当に悪いことをしたな。俺もいなくなったあいつらのことを思うと……。あんな言葉、投げつけるべきじゃなかった。もう一度、ちゃんと謝らなくちゃな」


彼はそう独りごちると、覚悟を決めたように再び箸を動かした。

最後の一口までその味をしっかりと噛み締め、次は必ずミサの手を引き、二人でこの料理を囲むのだと、静かに、しかし強く心に誓った。


空になった茶碗と鍋を置くと、武久はまたしても背後に視線を感じて振り返った。

そこには案の定、えらいこっちゃ嬢が「ジー」っと彼の一挙手一投足を観察するように見つめて立っていた。


「……ああ、えっと。御馳走様でした」


武久が居住まいを正し、胸の前で掌を合わせて深く頭を下げると、えらいこっちゃ嬢は満足したかのように、また一つ「こくり」と頷いた。

彼女は流れるような所作で空いた皿を御盆に乗せていくと、そのまま音もなく厨房へと消えていった。


しばらくすると、彼女は今度は食後の御茶を乗せた御盆を持って現れた。

武久の前に丁寧に茶碗を置く。


「有難う」

武久が礼を言い、温かな湯呑みに手を伸ばそうとした、その時だった。


カラン。


静寂に包まれていた店内に、扉が開く乾いた音が響き渡った。

入り口から流れ込んできた夜の冷気と共に、新しい「気配」が摩訶不思議食堂の暖簾をくぐり、中へと足を踏み入れて来る。

武久は反射的に、その「誰か」の方へと視線を向けた。


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## 金髪の女鬼と、暴かれる独善


カラン、と乾いた鈴の音が店内に響き、武久は何気なく入り口の方へと視線を向けた。

その瞬間、全身の血が止まったかのような衝撃に襲われ、彼は手に持っていた湯呑みを置くことさえ忘れて固まってしまう。

店内に足を踏み入れたのは、漆黒の地に眩い金色の花々が刺繍された、見事な着物を纏った一人の超絶美少女だった。


女子高生くらいの年頃だろうか、透き通るような白い肌に、煌々と輝く金色の瞳。

そして何より目を引くのは、左右の側頭部から突き出した、黒い二本の鎌状の角。

長く美しい金髪は左側でシュシュを使ってサイドテールに束ねられており、その風貌はどこからどう見ても今時の「ギャル」そのものだ。

和装という伝統的な装いを完璧に着こなしながら、現代的な派手さと圧倒的な気品が奇跡的なバランスで調和している。


武久は、あまりの超絶美少女ぶりに、言葉を失ってただただ見惚れるしかなかった。


女鬼じょきねえちゃん、御疲れちゃん! えらいこっちゃな悪ガキ、綺麗に完食しよった!」

えらいこっちゃ嬢が、先程までの無表情が嘘のように両腕をぶんぶんと振り回して喜びを露わにする。


「女鬼さん、御疲れ様です。いらっしゃいまし。準備は万端、調うて御座います」

地蔵店長も、慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔を浮かべ、静かに掌を合わせて出迎えた。


「おつー♪ 丁度良い頃合いだねー♪」

女鬼と呼ばれた少女は、ひらひらと手を振りながら、軽やかな足取りで奥へと入ってくる。

その所作の一つ一つが、まるで舞台の上で舞っているかのように優雅で上品だ。


彼女の右手には、何かを包んだ風呂敷包みが握られていた。

彼女は武久の座るカウンター席までやってくると、音も無く、流れるような動作でその包みをテーブルへと置いた。


「や、やあ……こんばんは」

武久は、あまりの至近距離に顔を赤くし、ぎこちなく挨拶を絞り出した。


「はいこんばんはのおつー♪ 晩御飯には満足したみたいだね、悪ガキ君♪」

女鬼は茶目っ気たっぷりに片目を閉じてウインクをしてみせた。

バチンッ、と音がしそうなほどの完璧なウインクに、武久の心臓はドクリと跳ね上がる。


「超絶美少女な女鬼ねえちゃんに見惚れてしまいよった! 鼻の下伸ばして、えらいこっちゃ!」

えらいこっちゃ嬢がびしっと指をさして言い放つと、武久は慌てて視線を逸らした。

「べ、別に見惚れてねえし! ちょっとびっくりしただけだ!」


「あは♪ いーじゃん、あーしみたいな鬼でも、男の子に見惚れられちゃうのは悪い気しないねー♪」

女鬼は愉快そうにケラケラと笑う。


「鬼って……その角、カチューシャだろ? ほら、ハロウィンとかで女の子がよくつけてるやつ」

武久が虚勢を張ってそう指摘すると、女鬼は不敵な笑みを深めた。

「残念、これはモノホンの角だよ。あーしは本物の鬼、女鬼。正真正銘、人外の存在だし♪」


「本物の鬼……。猫にゴブリンに、お地蔵さんに……えらいこっちゃんはよくわからないけど、この店、人間率低くないか?」

武久は目を丸くして、改めて厨房やカウンターの中を見渡した。


「ま、生物学的に純粋な人間は、この場じゃ悪ガキ君だけかもねー」

女鬼がさらりと告げると、武久は納得がいかないように頬を膨らませた。

「ちょ、えらいこっちゃんといい、君といい……えっと、女鬼ちゃんだっけ? なんでみんなして俺を『悪ガキ』扱いするんだよ! 俺はもう高校生だぞ!」


「彼女おるのに、女鬼ねえちゃんに浮気してしまいよった。心移り、えらいこっちゃ!」

えらいこっちゃ嬢が再び容赦のない言葉を投げつけると、女鬼は小首をかしげて武久を覗き込んだ。

「悪ガキ君、あーしに浮気してんの? 彼女持ちなのに? 罪な男だねー♪」


「な、浮気なんてしてねえし! てか、なんで俺に彼女がいるって知ってんだよ! 俺はミサ一筋だ! そりゃ、女鬼ちゃんは確かに可愛いとは思うけど、浮気なんて絶対しねえからな!」


必死に弁明する武久だったが、女鬼の金色の瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。


「ふーん……。自分勝手に彼女に浮気を疑っておいて、随分と都合がいいんだねー、悪ガキ君は」


女鬼の口から放たれたその一言は、先程までの楽しげな響きを一切失い、冷酷なまでの真理を突いていた。

武久は、昼間に河原町でミサに言い放った心無い言葉を思い出し、喉の奥が凍りつくような感覚に陥る。

彼の独善的な内面を、この美しい鬼はすべて見通しているようだった。


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## 第21章:断罪の目録 ―― 過去帳が暴く真実


武久は目の前の美少女が放ったあまりにも正確すぎる指摘に、まるで心臓を直接冷たい手で握られたかのような衝撃を受けた。


「え? な、なんで……なんでそんなプライベートな事まで知ってんだよ。俺とミサが今日何を話したかなんて、誰にも言ってねえはずなのに……」

武久の背筋に嫌な汗が伝い、喉の奥が乾いて引き攣る。


すると女鬼は、武久の動揺をあざ笑うかのように、カウンターに置いた風呂敷包みの結び目を細く長い指先でスルりと解いた。

中から現れたのは、この清浄な食堂にはあまりにも不釣り合いな、どこか禍々しさすら感じさせる品々だった。


古びて風化した神社でよく見かけるしめ縄の切れ端。

使い古され、角が擦り切れた一冊の学習ノートと筆記用具。

そして一番上に鎮座していたのは、重厚な装丁が施された「過去帳写し:椿山武久」と題された古風な折本だった。


武久はそれらを交互に見つめ、眉間に皺を寄せて首をかしげた。

「なんだこれ。忘れ物か? 趣味の悪いコレクションだな」


「過去帳ってのは馴染みがないかもしんないけどさ。……ねえ、このしめ縄とノート、本当に見覚えないの?」

女鬼の問いかけは、穏やかでありながら逃げ場を塞ぐような鋭さを含んでいた。


「いや、しめ縄なんて、神社を通れば嫌でも目に入るもんだろ。そういう意味じゃあ見覚えはあるけど、それがどうしたってんだよ」

武久は苛立ちを隠さず、吐き捨てるように答えた。


「ふーん……どこまでも自分に都合がいいんだね、悪ガキ君って」

女鬼は心底呆れたというように、深く、重い溜息を吐き出した。


「えらいこっちゃ。救いようがないほどに、えらいこっちゃ……」

隣にいたえらいこっちゃ嬢までが、同じように天を仰いで深い溜息を漏らす。


「な、なんだよ一体! さっきから何なんだよ、そのくそでか溜息は! 気分悪いな、はっきり言えよ!」

武久が声を荒らげるが、女鬼は冷ややかな視線を逸らさず、手元にある「過去帳写し」をトントンと美しい指先で叩いてみせた。

「なんでそんなプライベートな事まで知ってるのか、だったね。今の君の質問に答えてあげる。君がこの世に生を受けてから今日この瞬間に至るまでの軌跡はね、この過去帳ってやつに全部、一文字も漏らさず記録されてっから。無意識に吐いた嘘も、誰にも見られてないと思ってやった悪事も、呼吸一つに至るまで全部だよ」


武久は、あまりにも非現実的な言葉にまたしても目を丸くする。

「え……? 冗談だろ、そんなの。ストーカーか何かかよ」


「君に彼女がいることも、今日の昼に河原町で醜い喧嘩をしたことも、……そして子供の頃にたっくさん、救いようがないほど悪さしまくったことも。全部ここに書いてあんの。これ以上しらばっくれるなら、君しか知らない『あの日』の情報を言い当ててあげよっか?」

女鬼の金色の瞳が、獲物を射抜く捕食者のように細められる。


「い、いや、いい。……嘘だろ?ミサと喧嘩したことなんて、あの場所に知り合いはいなかったはずなのに……」

武久はゾクっとするような寒気に襲われ、思わず自分の右手首に巻かれた蒼い組紐を握りしめた。


彼は恐怖を振り払うように、精一杯の虚勢を張って言葉を繋いだ。

「あ、あのさ。女鬼ちゃんが俺のことを調べて知ってるのはわかったよ。でも、知ってるからなんだってんだ? もしかして、俺の過去の弱みを握って、何かたかろうってのか? 言っとくけど、ここはなんか高級そうだし、初対面の女の子に奢ってやれるような余裕はねえぞ」


武久が必死に茶化そうとすると、女鬼の口元から一切の笑みが消えた。

「別に君に晩御飯をたかりに来たわけじゃないよ。あーしの今日の役目はね、君に『気づかせる』ことだから」


「……気づかせる? 何をだよ」


武久が困惑して問い返すと、女鬼の周囲の空気が、肌を焼くような殺気へと一変した。


「そのすっとぼけた態度を、自らの悪業に気づかせて改めさせにきたんよ、あーしは。無自覚に目を背けてるのか、それともマジで忘れちゃってるのかは知らないけど。その無責任すぎてどうしようもない腐った根性を叩き直して、己の馬鹿さ加減と罪の重さに気づかせてやろうっての」


その時の女鬼の表情には、先程までの明るいギャルの面影は微塵もなかった。

そこにいたのは、慈悲を捨て、罪深き者に鉄槌を下す直前の、苛烈なる「鬼」そのものの姿であった。

武久は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなり、ただその圧倒的な迫力に呑み込まれていった。


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## 水面に揺れる断罪 ―― 稚気という名の残酷


「俺の、悪業……」

武久の喉がヒリつくように鳴り、嫌な汗が背中を伝う。

目の前の女鬼から発せられる、冗談では済まされない「重圧」が、彼の思考を麻痺させていた。


その沈黙を破るように、パタパタと軽快な足音が響く。

いつの間にか厨房へ戻っていたえらいこっちゃ嬢が、両手で恭しく大きなさかずきを捧げ持ち、もう片方の脇には炭酸水の瓶を抱えて戻ってきた。

彼女は武久の目の前にその真っ白な盃を置くと、無言で女鬼に瓶を差し出す。


「ありがと♪」

女鬼が柔らかな手つきでえらいこっちゃ嬢の頭を撫でると、彼女は嬉しそうに両手をぶんぶんと振って喜びを表現した。


その光景だけを見れば、仲の良い姉妹の微笑ましいやり取りだ。

しかし、女鬼が優雅な所作で瓶の栓を抜き、盃へと炭酸水を注ぎ始めた瞬間、店内の空気が一変した。

シュワシュワと弾ける泡の音が、妙に大きく、鋭く耳に届く。


「――ほら、よく見てなよ」

女鬼がパチンと景気よく指を鳴らした。

すると、盃の中に満ちた透明な水面が、まるで高性能な液晶モニターのように波打ち、鮮明な映像を映し出し始めた。


武久は吸い寄せられるように、その水面を覗き込む。

そこに映っていたのは、五年前……小学六年生の頃の、自分と仲間たちの姿だった。


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映像の中の武久は、今よりも一回り小さく、しかしその瞳には今以上に攻撃的な虚栄心が宿っていた。


負けず嫌いで、やられたら倍にしてやり返さなければ気が済まない。

自分を馬鹿にした奴、自分より下だと思った奴には徹底的に牙を剥く。

それが「格好良い男」なのだと信じて疑わなかった、強がりの悪ガキ。

担任の先生に何度怒られても、「うるせえな」と鼻で笑って聞き流していた、手の付けられない少年。


そして、盃の水面に映る場面が切り替わる。

冬の教室、赤々と燃えるストーブの周りで、武久はニヤニヤと卑屈な笑みを浮かべていた。

彼は手に持った裁縫用のはさみを、ストーブの熱でじりじりと温めていた。

そして、無防備に前を通りかかった、一人の女子生徒――。


武久は、熱を持った刃の部分を、彼女の剥き出しの首筋に押し当てた。

「あちっ!! いやあぁあ!!」

熱さと痛みに顔を歪め、涙を流してのたうち回る彼女を見て、映像の中の武久は腹を抱えて大笑いしている。

「あははは! なんだよ、今の声! 面白すぎだろ!」


翌日、激怒した先生に力いっぱいの拳骨を喰らい、こっぴどく叱られて無理やり謝罪をさせられていたが、その時の彼の心には反省など微塵もなかった。

『あーあ、運が悪かったな』、せいぜいその程度の感想しか持っていなかったのだ。


「……っ」

武久は言葉を失い、盃を見つめたまま固まった。


忘れていたわけではない。

だが、これほどまでに醜悪な自分の姿を「客観的」に見せられたのは初めてだった。


「ねえ、悪ガキ君。この女の子のこと、好きだったん?」

女鬼の問いかけは、静かだが氷のように冷たい。


「いや、好きではなかったよ。……ただの、いたずらっていうか……」


「じゃあ、なんでこんな馬鹿なことしたんよ。相手が女の子だろうが男の子だろうが絶対に駄目なんだけど、特に女の子の柔い肌に、一生跡が残るかもしれない傷をつけるとかさー。ねえ、何考えてんの?」

女鬼の金色の瞳が、武久の魂の奥底を暴こうと詰め寄る。


「いや……その……あの子には悪いと思ってるよ。ちゃんと謝ったし。……何考えてたかって言われても、その、ノリっていうか……」

武久はうなだれ、言い訳を探そうとするが、言葉が続かない。


「まあ、何も考えてなかったんだろうねー。自分の面白さが、相手の痛みより優先されるっていう、浅ましい根性。それからさー、一つ言っておくけど」

女鬼は盃の炭酸水を一気に飲み干すと、空になった盃をカウンターに置いた。

「謝ったからって、それで全部赦されて無罪放免になって無かった事になるわけじゃないかんね?」


突き刺さるようなその一言に、武久は何も言い返せなかった。

小学生時代の幼稚で、それでいて残忍な罪の記憶。

それを完全に「像」として突きつけられた彼は、ただ止まらない冷や汗を拭うこともできず、震える手で膝を握りしめるしかなかった。


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## 言霊の凶刃 ―― 繰り返される「死」の宣告


盃の中に満ちた炭酸水の泡が激しく弾け、映像はさらに具体的に、そして残酷な記録を映し出し始めた。

それは武久が小学5年生になり、あの少年――才狐と同じクラスになった時から始まる「終わりのない蹂躙」の記録であった。


水面に映る才狐は、今よりもずっと線が細く、折れてしまいそうなほどに痩せていた。

それに対して、成長期で体格の良かった武久やその仲間達は、圧倒的な力関係を盾にして、呼吸をするように彼を追い詰めていく。


休み時間、唐突に「相撲だ」と言い放って才狐を羽交い締めにし、容赦なくコンクリートの床に叩きつける武久。

「いてっ……」と呻く才狐の顔を見下ろしながら、嘲笑を浴びせる姿。

体育の時間、誰もが嫌がるように才狐とのペアを避け、無理やり組まされると「ちっ、ハズレかよ」と公然と舌打ちをする武久。

跳び箱が飛べない、足が遅い、そんな些細な理由だけで、武久の口からは刃のような言葉が次々と飛び出していた。


「おい、ぐずぐずしてんじゃねえよ! ぶっ殺すぞ!」

「そんなことも出来ねえのかよ。目障りなんだよ、死ねよ!」


映像の中の武久は、笑顔で、あるいは苛立ちに任せて、その最悪の言霊を何度も、何度も才狐に浴びせ続けていた。

一方の才狐は、拳を握りしめて震えながら、ただ嵐が過ぎ去るのを待つように耐え忍んでいる。

やり返したくても、体格差と周囲の同調圧力という絶望的な壁に阻まれ、ただただ壊れていく心を必死に繋ぎ止めているのが見て取れた。


「……う、っ」

武久は、自分の放った言葉がどれほど鋭く、深く、少年の心を切り刻んでいたのかを突きつけられ、顔を覆いたくなった。

何より耐え難かったのは、隣に立つ二人の視線だ。


「あの……そんなに二人して見られると、視線が痛いんだけど……」

耐えきれずに武久が弱々しく零すと、女鬼の金色の瞳が、夜の闇よりも深く冷たく沈んだ。

「悪ガキ君がやってきた事の方が、よっぽど痛すぎっしょ」

感情を一切排した、地を這うような冷酷な声。


「えらいこっちゃ。えらいこっちゃな事ばっかりやってしまいよってからに、ほんま、えらいこっちゃ……」

えらいこっちゃ嬢もまた、軽蔑を隠そうともせずに吐き捨てる。


「あ……はい……」

武久はもう、何も言い返せなかった。

自分が「ノリ」だと思っていたことは、ただの一方的な暴力であり、相手の魂を削る行為でしかなかったのだ。


すると、盃の中の映像が再び波打ち、舞台は神奈川から遠く離れた場所へと切り替わった。

車窓を流れる景色、新幹線の車内の喧騒。


「あ、これって……小学6年生の、京都修学旅行の時だ……」

武久が呟く。


映像の中の新幹線では、クラスメイトたちが駅弁を食べ、トランプに興じ、笑い声が絶え間なく響いていた。

しかし、その喧騒から切り離された最後尾の席に、才狐はいた。

一人ポツンと座り、膝の上で手を組み、窓の外を流れる景色をただ無言で見つめている。

まるで見えない壁に囲まれているかのように、誰からも話しかけられず、自分からも声をかけられない、完全な孤独。


そして、新幹線はゆっくりと京都駅のホームへと滑り込んでいく。

「着いたぞー! 京都だー!」

歓声を上げてホームへ飛び出していく武久たちと、その最後尾を、荷物を抱えてトボトボと歩く才狐の姿。


それから所定の場所で昼食を取って、午後からの自由時間。

班ごとに分かれて街へと繰り出す生徒たち。

そして映像は、あの忌まわしき「始まり」の舞台――古びた神社の鳥居を映し出そうとしていた。

武久の右手首の蒼い組紐が、まるでその記憶に呼応するかのように、微かに、不気味に震え始めた。


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## 神域の生贄 ―― 偽りの救済と鬼の怒り


盃の透明な水面に映し出される映像は、もはや「いたずら」という言葉では済まされない、集団心理による残酷な蹂躙へと変貌していった。

画面の中の武久たちの班には、当然のように「召使い」の役割を押し付けられた才狐の姿があった。

しかも、班単独の行動ではない。

あらかじめ示し合わせていた他の悪ガキたちの班も合流し、十数名という、小学生にしては異様なほど膨れ上がった集団が、古都の町を我が物顔で練り歩く。

その中心で、才狐だけが武久達の荷物やゴミを抱え、重さに喘ぎながら、楽しげに笑う「主君」たちの後ろを必死に追いかけていた。


やがて一行は、観光客の姿も疎らな、静まり返った御狐神社へと到着する。

そこで始まったのは、綿密に計画された「課題の押し付け」という名の儀式であった。


「おい、ここなら誰も来ねえだろ。才狐、お前の席はここだ」


武久が指差したのは、一本の古びた大樹だった。

悪ガキたちは地面に落ちていた朽ちかけた「しめ縄」を拾い上げると、手足の自由を奪わない程度に、しかし決してその場から離れられないように、才狐を木に縛り付けた。

両手だけが動く状態にされた才狐の目の前に、武久たちは全員分の学習ノートと筆記用具を、まるでゴミを捨てるように投げつけた。


「全部終わらせておけよ。一文字でも間違ってたら、どうなるか分かってんだろうな?もしできてなかったら殺すぞ」


そんな脅しを遺し、一行は泣き出しそうな才狐を一人残して、蜘蛛の子を散らすように神社の境内から走り去っていった。

その後、武久たちは夕暮れの京都を心ゆくまで満喫した。

ソフトクリームを頬張り、土産物屋で騒ぎ、自分たちの自由を謳歌するうちに、彼らの頭の中から「神社の木に縛り付けられた少年」の存在は、恐ろしいほど綺麗さっぱりと消え去っていたのだ。


集合時間に宿泊先の旅館へ戻ってきた時も、引率の教職員たちの点呼は杜撰極まりなく、才狐の不在に誰も気づかない。

ようやく誰かが「……あ、才狐はどうした?」と口にした瞬間、武久たちの背筋に冷たいものが走った。


だが、その直後、奇跡のような報せが旅館中に広まる。


「才狐の両親が不慮の事故で他界したため、親戚が迎えに来て、彼は急遽修学旅行から離脱した」

学校側から下されたその「公式発表」により、武久たちは自分たちが犯した「置き去り」という大罪に問われることなく、幸運にも逃げ切ることができてしまったのだ。


映像を見届けた武久は、どこか他人事のような、上辺だけの沈痛な表情を浮かべて溜息を吐いた。

「……そうだった。あいつ、あの時に身寄りが無くなったんだよな。今思えば、本当に可哀想な奴だったんだな……」


その瞬間、店内の空気が凍りついた。

隣に座る女鬼から放たれたのは、先程までのギャル風の明るいトーンではない。

魂の深淵から響くような、どすの効いた地這うような低い声だった。


「――君らがやったことは、どうなん?」


「え……?」

武久が思わず言葉を詰まらせて隣を見ると、そこには言葉を失うほどの迫力に満ちた「鬼の形相」があった。

女鬼の金色の瞳は、内側から不気味な光を宿して爛々と輝いている。

薄紅色の唇の間からは、鋭く研ぎ澄まされた白い牙が覗き、美貌であればあるほど、その怒りの凄絶さが際立っていた。


「可哀想……? そんな陳腐な言葉で片付けられるわけないっしょ。君らはあの日、一人の少年の尊厳を縛り上げ、孤独の中に捨て去った。……そんなえげつない絶望を叩き込んだところに、追い打ちをかけるように家族を失った少年となったんだよ、彼は」


「ひ、ひえっ……」

武久は蛇に睨まれた蛙のように、その圧倒的な鬼気に震え上がった。

反射的に目を逸らそうとするが、女鬼の冷たい声がそれを許さない。


「ほら、続きが始まるよ。自分の醜態から目を逸らすんじゃないよ。あんたが『幸運』だと思い込んでいたものの裏側で、何が起きていたのか……最後まで、その目に焼き付けな」


女鬼に言い放たれ、武久は金縛りにあったように動けなくなった。

彼はただ、溢れ出る冷や汗を拭うこともできず、盃に映し出される自らの過去という名の「罪悪」を、見続けるしかなかった。


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## 第22章:積み重なる言霊の業 ―― 崩れ去る日常


盃の中の水面は、休むことなく武久の「空白の五年」を映し出し続けた。

中学生となり、声変わりをして体格もさらに良くなった武久。そして高校生になり、ミサという愛らしい恋人を得て、一見すれば順風満帆な青春を謳歌しているように見える。


しかし、その映像の中に通底していたのは、あまりにも軽薄で、あまりにも残酷な「言葉の暴力」だった。


教室で、放課後の道端で。武久は仲間たちと笑い合いながら、挨拶代わりに「死ね」「ぶっ殺すぞ」という言葉を吐き捨て続けていた。

彼らワルガキ仲間にとって、それは強さの象徴であり、仲間内のコミュニケーションの道具に過ぎなかった。

命を奪う覚悟も、奪われる恐怖も知らないまま、出来もしない「殺意」を安っぽくバラ撒く愚かな姿。


そして映像は加速し、運命の歯車が噛み合った「高校二年生の転入初日」へと辿り着く。


教壇に立つ、かつての面影を残した静謐な少年、狐宮才狐。

再会した武久は、恐怖や謝罪ではなく、才狐の右腕に巻かれた組紐を「ミサンガ」と決めつけ、それを欲しがった。

才狐の手によって、武久の右腕に蒼い組紐が結ばれた瞬間。

その映像を観ていた武久の腕で、本物の組紐が冷たく肌を締め上げるような錯覚を覚えた。


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そこからの映像は、もはや喜劇ではなく、逃れようのない「怪談」へと変貌した。


武久がいつも通り、冗談半分に放った「死ね」の一言。

それを受けた相手が、ある者は発狂してホームから身を投げ、ある者はトラックの前に飛び出し、次々とこの世を去っていく。

一人、また一人と、昨日まで肩を組んでいたはずの親友達が、武久の周囲から消えていく。


「何なんだよ……何が起きてるんだよ……!」

映像の中の武久は、次第に増大していく「死」の気配に怯え、混乱し、余裕を失っていく。


つい先日、三人が一度に命を落とした事件。

学校が臨時休校となり、逃げるように京都へやって来た自分たちの姿。


そして、映像はついに今日の昼間、太陽が照りつける河原町での場面を映し出す。

武久が、嫉妬と苛立ちに任せてミサに言い放った、最悪の言霊。


「死ね」


その言葉を聞いた瞬間、ミサが流した大粒の涙。


場面は病院へと切り替わり、ベッドに横たわる彼女の姿が大きく映る。

右腕を覆う幾重もの包帯、顔の半分を覆う痛々しい湿布。

焼け焦げたような皮膚の赤みが、包帯の隙間から覗いている。


自分が放った「死ね」という言葉が、どのような形となって彼女を襲ったのか。

その残酷な物理的現実が、武久の眼前にまざまざと突きつけられた。


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ふっ、と。


水面の像が、灯火が消えるように掻き消えた。

盃の中には、ただ透明で無機質な炭酸水が、静かに気泡を上げているだけだ。


「な……ななな、なんなんだよ……これ……っ」

武久の震える声が、静まり返った店内に響いた。

握りしめた拳が、膝の上でガタガタと音を立てるほどに震えている。


自分の過去、自分が吐いてきた言葉、そして愛する彼女を襲った悲劇。

そのすべてが、才狐という少年を起点にして「つながってしまった」ことを、彼は認めたくない本能と、否定できない恐怖の間で、必死に足掻いていた。


武久は、冷や汗で視界が滲む中、ゆっくりと顔を上げた。

そこには、相変わらず無表情で自分を見据えるえらいこっちゃ嬢と、黄金の瞳に断罪の光を宿した女鬼の姿があった。


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### 言霊の返報 ―― 逃げ場なき断罪の咆哮


店内の空気が、物理的な重圧を伴って武久を押し潰そうとしていた。

冷え切った沈黙を切り裂いたのは、女鬼の、どこか楽しげですらある残忍な響きを帯びた声だった。


「良かったじゃん、悪ガキ君。願いや望みが、ぜーんぶ思い通りに叶ってさ」


「え……?」

武久は、本日何度目か分からない驚愕に目を見開いた。

何を言われているのか、その言葉の意味を脳が拒絶している。


「だってさー、悪ガキ君は四六時中、他人の『死』を望んでたんでしょ? 呼吸をするみたいに、当たり前みたいに。だから、それが望み通りに現実になったんだから、最高にハッピーな結末なんじゃないの?」

女鬼は首をかしげ、金色の瞳で武久の心の奥を覗き込むように問いかける。


「い、いや、いやいやいや! そんなわけないだろ! 人が死んでハッピーなんて……そんなの不謹慎すぎるだろ……っ」


武久は首を激しく振り、必死に否定の言葉を絞り出す。

だが、女鬼の追求は容赦なく彼を追い詰めていく。


「じゃあ、なんで死を願うことばっかり口にしたんよ? それにさー、そんなに人殺しになりたかったんなら、なんで表向きは平和で戦争もしてない日本なんかにいんの? 海外の紛争地に行って軍隊にでも入ったら、殺害数に応じて勲章貰えたり、英雄だって褒めて貰えたりすんじゃん。ねえ、なんでそっちに行かないのさ? あんた、毎日毎日『ぶっ殺す』って息巻いてたんだよね?」


「そんなの……そんなこと、ただの冗談で、本気でそんなことしたり、思ったりするわけ……っ」

武久の言葉は、自分でも驚くほどか細く、無力な響きしか持たなかった。

かつて教室で響かせていた傲慢な声はどこにもない。


「あは♪ じゃあさー、悪ガキ君は、出来もしないことを平然と言いふらす嘘つき野郎のチキン野郎ってことでオーケー? 自分の言葉に一ミリの責任も持てない、口先だけの腰抜けさんってわけだ」

女鬼の吐き捨てるような言葉に、武久は何も言い返せなくなる。

喉の奥が引き攣り、呼吸の仕方を忘れたかのように胸が苦しい。


「そんで、死ねとかぶっ殺すぞって言ったのは『冗談』とか抜かしてっけどさ。……ねえ、それを冗談と受け取るかどうかは、言われた相手が決めることだよね? こっちが勝手に決められることじゃないんだよ。そんなことも分かんないで、全く想像力無しに毒を吐き続けてきた。悪ガキ君って奴は、頭と性格が悪すぎるクソガキって認識で合ってる?」


「そ、そこまで言わなくても……」

武久は震え上がり、椅子から転げ落ちそうになる。


だが、女鬼はその逃げ腰を許さない。

乗り出すようにして、彼の顔を至近距離で射抜いた。

「あ? 何それ。自分は言わなくてもいい残酷な言葉を他人にぶつけ続けといて、いざ自分が必要な『真実』を言われたら逃げようっての? 今更、そんな虫のいいことが許されると思っちゃってる?」


「ひ、ひえっ……!」

武久は情けない悲鳴を上げ、身を縮める。


「ねえ、死ねって言った相手が、実際に死んだんだよ。あんたの望み通りじゃん。不満なんて一ミリもないよね? 良かったね、ぶっ殺すぞって言って、本当に殺せたんだからさ」


「お、俺は誰も殺してない……! 誰も殺してないだろ!? そりゃあ、口が悪かったのは認めるけど、俺はこの手で誰かを殺したわけじゃなくて……!」

武久は必死に、自分と死の因果関係を切り離そうと足掻く。


「口で殺したじゃん」

女鬼の声が、一段と低く、鋭くなった。


「死ねって言っただけで、人が死ぬわけ……」


「今の映像を見ても、まだそんなこと言ってんの? それに、あんたの大事な彼女は、あんたに『死ね』って言われて、実際に死にかけたじゃん。今日起きたばかりの惨劇からも、そうやって都合よく目を逸らそうっての?」


問い詰められ、武久は口をごもらせた。

病院で見た、ミサの火傷の痕。

あの時、確かに自分の放った言葉が引き金になったという、逃れようのない感覚が彼を支配していた。


そして――。


「己の言動とその結果から、目を逸らして逃げてんじゃないよッ!!」


店内の空気を震わせる、鬼の咆哮による一喝。

武久が驚愕して顔を上げると、そこにはもはや「ギャルの少女」の面影など微塵もなかった。

金色の瞳は、太陽を飲み込んだかのような凄まじい光を放って彼を射抜き、唇の端からは全てを噛み殺さんとする鋭い牙が覗いている。

絶世の美貌が、怒りと魔気によって歪み、読んで字の如く、凄絶な「鬼の形相」へと変生していた。


武久はその威圧感に、魂が凍りつくのを感じた。

自分が踏み外した道の先には、もはや言い逃れも、赦しもない。

ただ、自らが蒔いた業の結果を、その身に受ける時間だけが待っていた。


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## 断罪のカウンター ―― 逃げ場なき言霊の審判


店内の空気は、もはや呼吸することさえ憚られるほどに重く、冷たく凍りついていた。

世にも美しい鬼へと変生した女鬼から放たれる凄絶な威圧感を浴び、武久はただ座席にしがみついたまま震え上がることしかできないでいる。

金色の瞳に魂の奥底まで射抜かれ、武久の唇は小刻みに震え、喉の奥からは引き攣ったような喘ぎしか漏れてこない。


女鬼は、その凍りつくような沈黙を裂くように、再び言葉の刃を突きつけた。

「相手に対して、簡単に『死ね』だの『ぶっ殺すぞ』なんて言葉を吐き捨てるのはさー、娑婆の法律でも、脅迫罪とか強要罪、あるいは自死の教唆とか幇助なんていう関与罪にもなり得る重大なことなんだって、分かってんの? たとえ、あんたらの身勝手な仲間内での関係があるから罪にならないなんて屁理屈が通用したとしても、そもそもそんな毒を軽々しく人にぶつけること自体、人として終わってんだよね。」


女鬼の追求は、止まることなく武久を袋小路へと追い詰めていく。

武久は蒼白な顔を俯かせ、もはや弁明の言葉一つ見つけることができずに、ただ己の罪の重さに喘いでいた。


女鬼は、さらに追い打ちをかけるように、机に置かれた過去帳写しを指先で弾いた。

「それに、あの神社の木に縛り付けた少年の悲痛な姿、さっきの盃を通した映像でしっかり見たでしょ? 彼については、日常的に死ねだの殺すだの言って追い詰めた挙句、自由を奪って木に縛り付けて放置した。これ、一歩間違えたら立派な殺人事件になってたかもしんないんだよ? あの時、もし少年が身動きも取れない状態で野犬に襲われたり、あるいは急激な天候の変化で命を落としたりしてたら、縛り付けていた事実は絶対に問われるだろうからね。少年の自由を奪った奴らは、一体どんな罪に問われるんだろうね? 注連縄に指紋をベタベタ付けて、死を願いながら木に縛り付けたっていう確かな証拠があるわけだからさ。『明確な殺意があった』って断じられた時に、あんたは『そんなつもりはなかった』なんて見苦しい言い訳したところで、そんなのが通用すると思ってんの?」


鋭く、そして逃げ場のない真理が、武久の胸を容赦なく抉る。

あまりにどすの効いた低い声に、武久は心臓を直接握り潰されたような恐怖に襲われ、咄嗟に見苦しい言い訳を口にしてしまった。


「……べ、別に、本気で死んでほしいとか思って無かったし。あの時は、俺たちもまだガキで……悪ふざけが過ぎたっていうか、そこまで深く考えてなくて……」


その言葉を聞いた瞬間、女鬼の周囲の空気が一気に沸騰したかのような熱を帯びた。


「この期に及んで、まだそんなこと抜かしてんの? 君たちはあの時、取り返しのつかないことをしでかしてんだよ、おわかり?」


女鬼は美しくも凄絶な「鬼の形相」で武久を睨みつけ、その瞳の光は武久の心臓を止めてしまいそうなほどの圧を伴っていた。

武久はあまりの迫力に喉を鳴らし、全身の毛穴が逆立つような恐怖の中で、彫像のように固まってしまった。


「あの時も悪ガキで、五年経っても相変わらず悪ガキ。成長の兆し無し。えらいこっちゃ」

えらいこっちゃ嬢が、重苦しい溜息を吐きながら、心底から武久を軽蔑するように言い放つ。


「ほんとだよねー。全く、五年間も何を見て生きてきたのさ。全く成長してないし、魂の格が低すぎて反吐が出るよ」

女鬼もまた、深い溜息を漏らしながら呆れたように首を振った。


武久は、己の内に渦巻く浅ましさと、目の前の異形たちが放つ正論の前に、完膚なきまでに打ちのめされていた。

「は、反省は、してるよ……。本当に反省してます……才狐に会ったら、今度こそ、ちゃんと謝るから。だから……」

武久は縋るような思いでうなだれ、震える声でそう告げた。


だが、その言葉に、女鬼は冷たく鼻で笑った。

「謝る? ねえ、頭を下げて言葉を並べたら、はいおしまい、それで全部がチャラになるなんて、そんな甘っちょろいこと本気で思ってないよね?」


「……っ、思ってないよ。ちゃんと、償うから。言葉だけじゃなくて、俺にできることがあれば何でも……」

武久は必死に食い下がるが、女鬼はその決意さえも嘲笑うように詰め寄った。

「どうやって? あんたに何ができるの? 言葉で人を殺しかけて、実際にあんな危険な事して生命まで奪おうとして。日常的に彼の事を踏みにじり続けた事で奪いとった彼の尊厳を、あんたはどうやって取り戻すつもりなの?」


「それは……」

武久は返答に窮し、口を噤むしかなかった。

奪ったものはあまりに重く、今の自分にはそれを補うための術も、覚悟も、何一つ備わっていないことを思い知らされる。


「ま、償い方は、これからもがき苦しみながら死に物狂いで考えて実践しなよ。あんたが吐いた毒の分だけ、たっぷりと」

女鬼は吐き捨てるようにそう言うと、冷ややかに武久を見捨てた。


「はい……。……すみませんでした……」

武久はもはや、蚊の鳴くような声でそう答えるのが精一杯だった。


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## 言霊の凶刃 ―― 突きつけられた親殺しの可能性


武久はカウンターテーブルの上に無造作に広げられた風呂敷の中身を、食い入るように見つめた。


そこにあるのは、風化して千切れかかった古びたしめ縄と、表紙が擦り切れた一冊のノート、そして使い古された筆記用具。

それらは紛れもなく、五年前のあの日、修学旅行の自由時間に自分たちが遊び半分で神社にあったものを拾い、才狐を縛り付けるために使った「凶器」そのものだった。

五年の歳月を経て、それらが今この場所にあるという事実に、武久の背筋には氷柱を直接突き立てられたような戦慄が走った。


「……やっぱり、神社であんな罰当たりなことをして、俺たちに神様の罰が当たったのかな」

武久は、己の犯した愚行の代償があまりにも重いことにようやく気づき始め、震える声で独りごちた。


だが、その弱音を女鬼は鼻で笑うように一蹴した。

「悪ガキ君が罰当たりなのは当然のこととしてさ。あんたが取り返しのつかない罪を犯したって事実は、未来永劫忘れんじゃないよ」


釘を刺すような女鬼の鋭い言葉に、武久はただ肩を竦めて頷くしかなかった。

「……はい」


「もしも喉元過ぎれば熱さを忘れちゃって、また同じように傲慢に振る舞うようなら、あんたは正真正銘の殺人者になっちゃうからね」


その不吉な言葉に、武久は弾かれたように顔を上げた。

「そんな……! 俺は、俺は人殺しになんてならないよ! そんなの、なるわけないだろ!」


「何言ってんの? あんた、もう既に『死ね』って言葉一つで、何人も死なせてんじゃん」

女鬼は平然と、しかし逃れようのない事実を淡々と告げた。


「そりゃ、その……。死ねって言ってしまったことは、これまで数えきれないほどあるけど。でも、おかしいだろ? 俺だって誰かに『死ね』なんて何回も言われてきたのに、俺はこうしてぴんぴんして生きてる。なのに……なんで俺が言った時だけ……」

武久の声は次第に細くなり、最後の方は消え入るような囁きへと変わっていった。


自分の言葉だけが現実を塗り替えてしまう異常な事態。

その因果関係を、彼の幼い知性は必死に拒絶しようとしていた。


「それって、娑婆の言葉だと中二病っての? 邪気眼とか言う言い方もあるだろうけどさ。君くらいの年頃って、そういう特別な力とか設定に憧れてんじゃないの?」

女鬼はどこか楽しげに、それでいて武久の未熟さを嘲笑うように首をかしげた。

「だから本心ではさー、『俺様は言葉だけで人を殺せるんだ、俺様かっけー』とか思っちゃってんじゃねーの?」


「まさか!? 俺はそんな中二病なんかじゃねえし! それに、死ねって言って本当に人が死んだら……怖いよ! 当たり前だろ! 今だって怖くてたまらないんだから! ミサだって、あんなことになって……」

武久は叫ぶように言い返した。

その顔は恐怖に歪み、かつての尊大な態度は影も形もない。

彼が今感じているのは、万能感などではなく、自らの口から溢れ出す呪いが自分自身を食い破るのではないかという、剥き出しの恐怖だった。


「ふーん。ま、ちゃんと怖いって思って、それがブレーキになってんならいいけどさ。じゃないと、あんたみたいなタイプは、ちょっとした口喧嘩の勢いで母親に『うるせえ死ねクソババア』とか言って、簡単に親殺しをやらかしちゃうかもしんないからね」

女鬼は、事も無げに恐ろしい想像を平然と言い放った。

その無機質な言葉は、武久の脳裏に最悪の光景を鮮明に描き出させた。


「こ、怖い事言うなよ……」

武久の顔から血の気が完全に引き、唇がガタガタと震え始める。


「そっか……。もしも、もしもこの状況で、ついカッとなって親にそんなこと言ってたら、俺は……今頃……」

彼は自分の右手に巻かれた蒼い組紐を、まるで自らを戒める鎖であるかのように強く握りしめた。


もし今日、この瞬間に自分が誰かに、あるいは身内にその言葉をぶつけていたら――。

想像するだけで吐き気がするような戦慄が彼を襲い、武久は本気で震え上がり、しばらくの間、言葉を失ってその場に蹲った。


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## 蒼き紐の正体 ―― 組み込まれた呪いの芯


武久は、全身の毛穴が逆立つような悪寒に襲われていた。


これまで両親に対して、腹が立てば「うるせえ死ね」や「クソババア」といった暴言を平気で投げつけてきた経験が、苦い記憶と共に鮮明に蘇る。

そのたびに雷を落とされ、執拗なまでの叱責に辟易していたものだが、今となっては、その厳しい叱りこそが、自らを破滅から繋ぎ止めていた唯一の防波堤だったのだと痛感していた。


もしも、現在のこの不気味な呪縛の下で、いつものように短気を起こしてその呪詛を両親に向けて放っていたとしたら。

今の自分は、自らの手で血を分けた親を屠った、救いようのない大罪人になっていたはずだ。


「……っ。冗談じゃねえ、本気で怖くなってきた」

武久は、額に滲んだ冷たい汗を手の甲で拭いながら、喉の奥から絞り出すように呟いた。

しかし、恐怖が極限に達したことで、逆に冷静な疑問が彼の頭をもたげる。


「でも……今までは、こんな不吉なことは一度だって起きてなかったんだ。そうだ。あいつらが、俺の仲間たちが急に死にだしたのは、本当に突然の、ここ最近のことなんだよ。なあ、女鬼ちゃん。俺って、いつの間にか、そんな恐ろしい能力が勝手に目覚めたってことなのか?」

武久は、困惑と、どこか現実味のない万能感が混ざり合った複雑な表情で問いかけた。


女鬼は、そのあまりに短絡的で幼稚な発想に、呆れたように細い指先で自身の角を弄った。

「突然変異って形で、不意に異能を宿す人間ってのはね、この世にいなくはないけどさ。だとしたら悪ガキ君、あんたにその『覚醒』に繋がるような、決定的な心当たりでもあるわけ?」


「いや、そんな……。突然高熱を出して寝込んだ後に能力に目覚めたとか、生死の境をさまよって生還したら超能力者になってたとか、そんな劇的な変化とかイベントを体験したことは一度もないよ」


「イベント、ねえ……」

女鬼は、武久が人生の節目をゲームか何かのように語る軽薄さに、深いため息を吐き出した。


「イベントって言えば、それこそ今の京都旅行が最大のイベントって言えるかな。この旅行そのものが、何か関係あるのか? それとも他に……」

武久は、低い声でブツブツと独り言を零しながら、自身の周囲に起きた変化を必死に探り続ける。


その時、不意に視界の端を掠めたのは、右首にきつく結ばれたあの蒼い組紐だった。

彼はその紐を、穴が開くほどに凝視した。


「まさか。このミサンガが、俺の中に眠っていた隠された能力を無理やり引き出した……とか? あいつは、才狐は、宗教上の理由で自分も色違いのやつを身に着けてるって言ってたからな。だとすると、これのせいなのか?」

武久の口調は、どこか自分に言い聞かせるような、熱を帯びたものへと変わっていく。


「君にそんな大層な能力が、生まれつき備わっているわけないっしょ。修行したわけでもないんなら、後天的に身についたわけでもないよ。君さー、さっきから言ってること、マジで中二病っぽすぎて引くんだけど。さっきは必死に否定してたけど、やっぱ君って正真正銘の中二病患者なんじゃね? 17歳の高校2年生なんだから、正確には高二病かな」

女鬼は、救いようのないものを見るような、蔑みを込めた眼差しで言い放った。


「いや、そんな中二病みたいなつもりで言ったんじゃなくてだな! 女鬼ちゃんが変化がどうのって言ったから、俺に最近起きた大きな変化って言えば、このミサンガをつけたことくらいかなって思って、可能性を口にしただけだよ!」

武久は、顔を真っ赤にして慌てて弁明を試みる。


「因みにそれ、さっきからミサンガ、ミサンガって呼んでるけどさ、組紐くみひもって言うんだよ。どっちも糸を組み合わせて作るっていう共通点はあるけどね。意味も伝統も、全くの別物だから」

女鬼の言葉に、武久は「へえ……」と気の抜けた声を漏らした。

「組紐……。そうなんだな。こういう糸を編んだアクセサリーは、全部ミサンガって言うのかと思ってたよ」


武久は、才狐から贈られたその「組紐」に、初めて言葉では言い表せない異質な執着を抱いた。

彼は何となく、その蒼い糸の感触を確かめるように、指先で表面をなぞり、押し潰すように触れてみる。

すると、滑らかな糸の重なりの奥に、不自然なほど硬く、ゴワついた感触が混じっていることに、彼は初めて気がついた。


「……ん? 何だこれ」

慎重にその箇所を指先で探ってみると、編み込まれた糸の芯に、何やら極めて薄い「紙」のようなものが強引に組み込まれている。


カサッ、と。

指先に伝わるその乾いた質感に、武久の心臓は再び、不吉な早鐘を打ち鳴らし始めた。


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## 悔悟の誓いと、地蔵の導き


武久は、右首に巻かれた蒼い組紐の感触を確かめるように、何度も指先でその表面をなぞった。

糸の編み込みの中に潜む、カサリとした無機質な違和感。

それは明らかに装飾品としての糸ではない、何らかの意図を持って仕込まれた「異物」の感触であった。


「……組紐って、中に紙を入れて作る物なのか? 普通は糸だけで編むもんだと思ってたけど?紙を入れるかどうかが、ミサンガと組紐の違いなのか?」

武久が当惑したように首をかしげると、女鬼が面白そうに目を細めた。

「疑問に思うんなら、それをくれた本人に直接聞いてみなよ。あーしに聞くより、その方がよっぽどスッキリする答えが返ってくるんじゃないかな」


「そうだな。……次に才狐に会ったら、この中身が何なのか、ちゃんと聞いてみるよ」

武久はそう言って、再び組紐の芯に触れた。

どこか不気味でありながら、今の自分にはそれが必要な重石であるかのようにさえ感じられていた。


「そんで?あんたは自分自身について、ちゃんと観るべきものを観て、気付くべきことに気付いたわけ?」

女鬼の問いかけは、もはや先ほどのような殺気を孕んだものではなく、どこか試すような、静かな響きを帯びていた。


「……うん。死ねだの殺すだの、人の生死に関わる言葉を軽々しく相手にぶつけて、傷つけちゃいけないんだって、ようやく思い知ったよ。正直に言えば、なんで俺が『死ね』って言った人たちが本当に死んじまったのか、なんでミサがあんな目に遭ったのか、その理屈はまだ理解できてない。俺にそんな特別な力があるなんて、今でも信じられないしな」

武久は一度言葉を切って、自らの内面を見つめるように深く息を吐き出した。


「人に『死ね』なんて絶対に言っちゃダメだ。出来もしないくせに『ぶっ殺すぞ』なんて、そんな傲慢な言葉を吐いちゃいけないんだ。もう二度と、そんな言葉は使わないってここで誓うよ。もし、これから俺が誰かにそんな言葉を言われる側になったとしても、言い返したりしないで、まずは相手にその言葉の重さを注意できるような人間になりたい」

武久は顔を上げ、女鬼の瞳を真っ直ぐに見据えて宣言した。

その言葉には、かつての彼が持っていた薄っぺらな虚栄心ではなく、自らの醜さを認めた者だけが持つ、不器用ながらも真摯な熱が宿っていた。


「ん。立派な心掛けじゃん。口先だけで終わらせないで、ちゃんとその誓いを実践し続けるんだよ」

女鬼はフッと、まるで年の離れた弟の成長を喜ぶ姉のような、柔らかな微笑みを浮かべた。


「……はい」

武久が短く、しかし力強く頷いた、その時である。


女鬼とえらいこっちゃ嬢が、示し合わせたように同時に顔を上げ、カウンター越しに静かに佇む地蔵店長を見上げた。

その張り詰めたような、それでいて清浄な気配に導かれるように、武久もまた、店長へと視線を向けた。


そこには、変わらぬ慈悲深い「お地蔵さん笑顔」を湛え、静かに掌を合わせた地蔵店長の姿があった。

店長はゆっくりと、武久の魂を慈しむように恭しくお辞儀を捧げる。


「武久さんは今、己の欺瞞、そして無知ゆえの悪行によって積み上げてしまった悪業……その悪しき過去に自ら気づき、善き道を歩むと宣言されました。その一歩こそが、何よりも尊く、とても大切なことで御座います」


地蔵店長の声は、まるで染み渡る出汁のように、武久の乾いた心へ優しく諭すように響き渡った。

それは単なる肯定ではなく、迷える魂が正しい道へと回帰したことを祝う、深い慈愛の響きであった。


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## 口意の三業 ―― 地蔵店長の静かなる説法


地蔵店長は、柔和な「お地蔵さん笑顔」を絶やすことなく、静かにその場に居合わせた者たちの心を包み込むような声音で語り始める。

その言葉は、単なる知識の伝達ではなく、武久の魂の深層に直接語りかけるような、不思議な響きを湛えていた。


「仏様の教えには、人間が引き起こすあらゆる行動を、『身体』『言葉』『心』の三つに分類したもの……これを『身口意しんくい三業さんごう』と呼びます」


店長は一度言葉を切り、武久の目を見つめるようにして、穏やかに仏の教えを説き明かしていく。


「それでは、一つずつ見てまいりましょうか。まずは『身業しんごう』について。これは、身体で行う具体的な動作や振る舞いのことで御座います。他者への礼拝や慈悲の寄付といった善き行いもあれば、暴力や殺生といった、他者の命や尊厳を傷つける負の行動もこれに含まれます」


地蔵店長は、まるで濁った水を清めていくかのように、静かに説法を続ける。


「次に『口業くごう』は、文字通り口から発せられる言葉の業。他者を勇気づける感謝や慈しみの言葉もあれば、逆に嘘や悪口、他人を陥れる言葉も御座います。そして三つ目の『意業いごう』は、外からは見えぬ心の中で思うことや、自らの意思のことです。他者を貪る心や怒り、悪意……あるいは、一切の衆生を救わんとする慈悲の心。これら三つが合わさり、人を形作る業となるので御座います」


地蔵店長は、ここで少しだけ声を低め、しかし揺るぎない確信を持って武久を諭した。


「武久さん。先程、あの盃に映し出されていた神社での出来事は、まさにこの三つの業が、最も悪しき色に染まっていたことによってなされた『悪業』そのもので御座いましょう。『この者には何をしてもよいのだ』という、己が上の者であると錯覚した愚かなまんの煩悩。それが激しく燃え盛った悪しき『意業』により、身体は他者を木に縛り付けるといった直接の暴力を振るう悪しき『身業』を為し、口からは『死』を願う呪いの言葉を浴びせ続ける悪しき『口業』を為した……。これは、まさに悪の三業が揃った姿と言えるのではありませんかねえ」


地蔵店長は、その「お地蔵さん笑顔」を崩さぬまま、しかし刃のような鋭さで武久の慢心を一喝した。

その穏やかな表情の奥には、罪を憎みながらも、迷える若者を救わんとする厳しい慈愛が宿っていた。


「はい……」

武久は抗う術を持たず、ただ深く項垂れて頷くしかなかった。

自らが積み上げてきたものが、どれほど醜い三つの連鎖であったのかを、今さらながらに思い知らされていた。


「武久さんは、これまで『身口意』の三業が深く悪に染まっており、中でも特に『口業』が悪そのものになってしまっております。それゆえに、因果のことわりによって、最も大切な御方が火に焼かれ、大怪我をされるという大きな『苦』に見舞われることとなったのです。このような悲劇を二度と繰り返さぬためには、日々の行いにおいて三業を正しく調えることが、何よりも肝要で御座います」


地蔵店長は、武久のこれからの歩みを祈るように、静かにその胸の前で掌を合わせた。

店内に漂う香ばしい出汁の香りが、店長の諭しと共に武久の身体に染み渡っていく。


武久は、もはや反論する言葉も、言い訳を探す気力も持たなかった。

彼はただ黙って、地蔵店長の言葉を一つ一つ噛みしめるように、深く、重く頷き続けた。


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## 言霊の武器と、智慧の灯火


地蔵店長は、その福々しい「お地蔵さん笑顔」を絶やすことなく、静かに、しかし一点の曇りもない澄んだ声で説法を続けた。


「仏様の教えである仏教には、『十悪じゅうあく』と言って、人間がなすべきではない十の悪しき事柄が定められております。また、それに対応する形で、なすべき善き行いとしての『十善戒じゅぜんかい』というものも御座います。武久さん、この十の事柄のうち、実に四つまでもが『口業』……つまり言葉に関する事柄なのですよ」

言葉の一つ一つが、お香の煙のように店内の空気を満たしていく。


「口業の悪として、まずは『妄語もうご』。これは嘘をつくことです。次に『綺語きご』。中身のない言葉や、心にもない上辺だけの綺麗ごとを指します。そして『悪口あっく』。これは他者を傷つける悪口や乱暴な言葉のこと。最後に『両舌りょうぜつ』。他人を仲違いさせるような二枚舌のことで御座います」


店長はそこで一度言葉を切り、武久の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「他人様に『死ね』や『殺す』という言葉をぶつけることは、まさにこの『悪口』の極みと言えましょう。そして『死ね』という言葉は、仏様の視点から見れば、鋼で造られた鋭利な刃物と何ら変わらぬ『武器』そのものと見なされます。それをぶつけられた人が死に至った場合、それは自らの手で直接殺生したことと同義なので御座いますよ」


「武器……。俺はずっと、あんな鋭いものを振りかざしていたのか……っ」

武久の脳裏に、自分が放った「死ね」という言葉が鋭い剣となり、周囲の友人たちやミサの身体を幾度も突き刺す光景が鮮明に浮かび上がった。

心臓が激しく脈打ち、目に見えぬ己の凶暴さに身体がガタガタと震え出す。


地蔵店長は、震える武久を優しく、しかし峻厳な態度で諭し続ける。

「自ら直接手を下さずとも、言葉によって相手を絶望させ、死に追いやる『殺唆さつさ』もまた、自らが直接殺害したのと同等のカルマを形成することに他なりません。直接手を出していないから自分は無実だ、などという理屈は、仏様の視点からすれば言い訳にすらならない愚かなことです。むしろ、己の罪と真っ向から向き合おうとしないその姿勢こそが、さらなる悪を重ねているに過ぎないのです」


お地蔵さんの柔和な笑顔が、今は逃げ場のない鏡のように武久の醜さを映し出していた。


「人は時として、たった一つの温かな言葉で尊い生命を救うこともあれば、逆にいとも簡単に生命を奪い去ってしまうこともあるのです。たった一言の悪口によって殺生するという大罪を犯すことは、この世において往々にして御座います。武久さん。このことを、ゆめゆめお忘れなきよう」


「はい……。はい……っ」

武久は、己の内に巣食う「人殺し」の芽に恐怖し、ただ深く、深く頷くしかなかった。


地蔵店長は、武久が心底から己の悪行を自覚したことを見届けると、ふっと表情を和らげた。

「武久さんは今、御自身の悪行、それによって積み上げてしまった重い悪業に気づかれ、心から反省されました。ここから先、どのように生きるかが何よりも肝要で御座います。もっとも、私共から『そのものズバリ』という答えを差し上げることは出来ません。どう生きるかを決めるのは武久さんご自身であり、その道を一歩ずつ歩むのも、武久さん以外には代わって差し上げられぬことです。それが、生きるということで御座いますからねえ」


店長はそう言うと、静かに胸の前で掌を合わせた。


「ただ、武久さんが道を踏み外さぬよう、暗闇を照らす『道標みちしるべ』となる智慧をお伝えすることは出来ます。それでは、武久さんが二度と過ちを犯さぬよう、その心に小さな道しるべとなる智慧の火を灯してみましょうか」


地蔵店長は「お地蔵さん笑顔」のまま、ゆっくりと恭しく、深いお辞儀を捧げた。

その瞬間、店内の灯りが微かに揺れ、武久の心臓の鼓動が「ドクン」と大きく一つ、静寂の中で鳴り響いた。


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## 無財の七施 ―― 闇を照らす言辞の光


地蔵店長は、濁りのない澄んだ瞳で武久を見守りながら、再び静かに言葉を紡ぎ始めた。

その声は、まるで深く静かな森に響く鐘の音のように、武久のささくれ立った心に染み渡っていく。


「武久さん。先ほど私は、口や言葉に関する四つの悪しき事柄をお伝え致しました。仏教で説く『十悪』のうち、言葉にまつわる四つの悪。この悪を為さぬと誓うことこそが、善き道を歩むための『十善戒じゅぜんかい』における口業くごうの四戒で御座います」


地蔵店長は、穏やかなお地蔵さん笑顔を絶やさぬまま、その教えを一つひとつ紐解いていく。


「先ほど申しました四つの悪業の頭に、否定を表す『』の文字をつけて、『不妄語ふもうご』『不綺語ふきご』『不悪口ふあっく』『不両舌ふりょうぜつ』と呼びます。嘘をつかないこと。上辺だけの綺麗事や、中身のない無益なことを口にしないこと。悪口や乱暴な言葉で他者を傷つけないこと。そして、他人を仲違いさせるような、不和を招く言葉を言わないこと。これが善き言葉を保つための戒めで御座います」


武久は、店長の言葉を反芻するように、小さく唇を動かした。

「四つの……善の戒め……」


「左様で御座います。そして武久さん。決して難しい修行ではなく、今この瞬間からでも、あなたの意識一つで始められることが御座います。これから申し上げることを、どうか日々の暮らしの中で常々意識されると宜しいかと存じます」


地蔵店長は、慈愛に満ちた表情で問いかけた。

「武久さんは、『布施ふせ』、あるいは『布施行ふせぎょう』という言葉を耳にされたことは御座いませんか?」


「あ……聞いたこと、あります。確か、法事とかの時に親が……お寺のお坊さんに『御布施です』って言って、お金の入った封筒を渡してるのを何度か見たことがあるけど……。その、布施のことですか?」

武久は、自らの記憶の中にある光景を思い出しながら答えた。


地蔵店長は、丁寧に解説を加えながら、さらに深い教えへと導いていく。

「ええ、その布施で御座います。仏縁に感謝して金品を包んでお渡しする行いは、財施ざいせという布施の形で御座いますね。他にも、法の施と書いて『ほうせ』、あるいは『ほっせ』と読みますが、これは仏様の教え、すなわち仏法を説いて聞かせる布施の形で御座います。そして武久さん。その他には『無財の七施むざいのしちせ』という布施の形が御座います。これはお金や物品が無くとも、あなたの心一つで今すぐに行える布施行なのです」


「無財の……七施?」

聞き慣れない言葉に、武久は不思議そうに復唱した。


「ええ。読んで字のごとく七つの施しが御座います。そのうちの一つに、『言辞施ごんじせ』というものがあります。これは、出会う人に明るく挨拶をすることや、苦しんでいる人を励ますこと。あるいは慈悲の言葉や、思いやりのある優しい言葉をかけることで御座います」


地蔵店長は、ここでぐっと武久の魂に語りかけるように、その声を深めた。


「今まで武久さんは、他人様に対して『死』を投げつけるような言葉の使い方、あるいは、負の感情をぶつけ合うようなやり取りをなさってきました。それは、まさに言殺ごさつという、言葉によって人の命を、心を殺めてしまう行為に他なりません。これからは、この『言辞施』を常に意識されることです。慈しみの言葉を選び、他者を活かし、励ますための言葉を紡いでゆかれることで御座います」


言辞施ごんじせ……」

武久の胸の奥で、その言葉が重く、温かな質量を持って響いた。


「今まで放たれた言葉は、決して消えることは御座いません。無かったことには、決して出来ないのです。ゆえに、無かったことにしようと誤魔化すのではなく、自分自身の事としてしっかりと引き受けること。そしてこれからは人を癒し、励ます慈悲の言葉を紡ぐ者として歩まれることです」


地蔵店長は、お地蔵さん笑顔のまま、静かに胸の前で掌を合わせた。

そして、武久の新しい門出を祝うかのように、ゆっくりと恭しくお辞儀をした。


武久は、自分の手のひらを見つめ、それから店長を真っ直ぐに見返した。

これまでの傲慢な自分、言葉で誰かを追い詰め、傷つけてきた自分。

その醜さをすべて認めた上で、彼は心の底から誓った。


「……はい。もう、人に『死』なんて言葉はぶつけません。……これからは、人を癒す言葉を伝えられるような、そんな人間になります」


武久の瞳から、熱いものが溢れ出した。

それは、後悔の涙であり、同時に冷え切っていた彼の心が、ようやく「人間」としての温かさを取り戻した証でもあった。

一筋の涙が頬を伝い、カウンターの上に落ちて、小さな輪を作った。


店内に漂う「摩訶不思議食堂」の温かな湯気と、お出汁の優しい香りが、泣きじゃくる武久を静かに包み込んでいた。


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## 旅立ちの門出 ―― 浄化された心と新たな誓い


武久は、自分の胸の内によどんでいた醜い傲慢さをすべて吐き出すように、再び深く、深く頭を下げた。

「俺、もう絶対に、人に対して『死ね』とか『殺す』なんて言葉をぶつけたりしません。誓います」

その声は、かつてのような虚勢を張ったものではなく、自らの罪を真正面から見つめ、一歩を踏み出そうとする強い意志が込められていた。


すると、隣にいたえらいこっちゃ嬢が、座っていた椅子からぴょんっと軽やかに飛び乗り、武久の頭を優しく撫で始めた。

「やっと改まりよった。えらいやっちゃなあんちゃん」


彼女は小さな掌で、武久の硬い髪を何度も何度も、慈しむように撫で続ける。

その仕草はどこか母親のようでもあり、年の離れた姉のようでもあった。


女鬼は、その微笑ましい光景を細めた瞳で見つめながら、柔らかく微笑んだ。

「今のその気持ちと、地蔵店長から教わったこと、絶対に忘れるんじゃないよ。そんで、病院に御見舞いに行って彼女と会ったら、最高に優しい言葉をかけてあげな。武久君」


「有難う。……はは、やっと『悪ガキ君』から『武久』に昇格出来たみたいだな」

武久は照れくさそうに笑いながら、少しだけ湿った目元を拭った。

憑き物が落ちたような彼の表情には、かつての粗暴な影は微塵もなく、年相応の少年の瑞々しさが戻っていた。


武久はすっくと立ち上がり、カウンターの奥に佇む地蔵店長、そして女鬼に向き直って、もう一度丁寧に頭を下げた。

「色々と、本当に有難う御座いました。……それじゃあ、御勘定をお願いします」

彼はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を起動させた。


地蔵店長は、変わらぬ「お地蔵さん笑顔」を湛え、静かに掌を合わせて深くお辞儀をした。

「当店は御布施おふせ形式にしております。武久さんの、志のままで宜しゅう御座いますよ」


店長がそう告げると、えらいこっちゃ嬢がどこからともなく、一枚の洗練された木の板を運んできた。

そこには墨書きで「御勘定」と記されており、その下には現代的なQRコードが鮮明に刻印されている。


「摩訶不思議食堂も、電子決済出来るんだな。助かるよ」

武久は思わず笑みをこぼし、スマートフォンの決済画面をお財布携帯のリーダーにかざした。

画面には、自らの意志を反映させるための金額入力欄が表示される。


「えっと、俺はバイトしてるとはいえ、まだ高校生で、そんなに沢山の御布施は出来ないけど……。今の俺には、これが精一杯なんだ。次に来る時までには、もっとちゃんとバイトしてお金を貯めておくからさ」

武久は慎重に「3000」と数字を打ち込んだ。

ピッ、という軽快な音と共に、「毎度ありー」という朗らかな電子音が店内に響き渡り、支払いが完了した。


「毎度あり! 高校生にとってはえらいこっちゃな大金! バイト、気合入れて踏ん張りよし!」

えらいこっちゃ嬢が、小さな拳を握って力強いエールを送ってくれた。


女鬼もまた、彼の門出を祝うように言葉を重ねる。

「バイトしてお金貯めたら、彼女に最高のデートをプレゼントしてあげなよ。傷つけちゃった分、たっぷり癒してあげる事だね」


「うん、そうする。本当に有難うな、女鬼ちゃん、えらいこっちゃん。そして地蔵店長、有難う御座いました。」

武久は、まるで心が軽くなったような晴れやかな笑顔を浮かべ、店の出口に向かって歩き出した。


使い込まれた暖簾をくぐる直前、彼は最後にもう一度だけ振り返り、店内にいる全員に向かって深々とお辞儀をした。

その背中は、店に入ってきた時とは比べものにならないほど、真っ直ぐに、そして力強く伸びていた。


地蔵店長は、去りゆく武久の背中を慈しむように、合掌したまま深々と頭を下げた。

「御来店、誠に有難う御座います。どうか、お気をつけて」


夜の静寂しじまに包まれた「摩訶不思議食堂」に、店長の温かな声が、祝福の鐘の音のようにいつまでも優しく響き続けていた。


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## 第二十七章:言霊の転生 ―― ゴミから人間へ


暖簾をくぐって店の外へ踏み出すと、古都のしっとりと湿った夜風が、武久の火照った頬を優しく撫でた。

視線の先には、闇に溶け込むような重厚な造りの牛車――方輪車が静かに停車していた。


武久が客室の扉に歩み寄ると、まるで彼の意志を汲み取ったかのように、重々しい音を立てて扉がひとりでに開いた。

彼は迷うことなく、確かな足取りでその異形の乗り物へと乗り込んだ。


腰を下ろすと同時、運転席の仕切りから、透き通るような白い腕がニューっと音もなく伸びてきた。

その指先には、摩訶不思議食堂で見かけたものと同じ、QRコードが記された古めかしい札がぶら下がっている。


「……あはは、この白い腕、突然出てくるとやっぱりまだビビっちまうな」

武久は少しだけ肩をすくめて苦笑しながら、慣れた手つきでスマートフォンを翳した。


「毎度ありー」という軽快な電子音が静寂な車内に響き渡り、画面には「520円」の支払い完了通知が表示された。

武久は、その数字をじっと見つめ、ふと自身の内側に湧き上がった確信を口にする。


「……なあ、店に来る時の運賃が530円だったのは、『ゴミ』って意味だったんじゃないかな。それで、帰りのこの520円は、さっき店長に教わった『言辞施ごんじせ』に由来してる……とか?」


すると、運転席から方輪車の、どこか艶っぽくも快活な声が返ってきた。

「正解ー♪ ようわかってはりますやん。ほな、出発しまっせー」


牛車がゆっくりと、しかし力強く動き出し、京都の夜闇を滑るように進み始める。

武久は、流れる車窓の景色を見つめながら、己の吐き出した言葉の重さを反芻していた。


「ゴミ、か。……確かにそうだよな。人の命を、まるでゴミみたいに見下してあんな言葉を投げつけるようじゃ、俺自身が何よりも汚いゴミだったんだ。そしてこれからは言辞施を、絶対に忘れないようにしなきゃな」


彼は右首に結ばれた蒼い組紐を、愛おしむように、そして自戒を込めてそっとなぞった。

その指先から伝わる硬い感触が、彼の決意をより強固なものへと変えていく。


「……ごめんな、ミサ。それに、才狐……。今まで俺が死なせたみんな。……本当に、ごめん」


武久は、車内の誰に聞かせるでもなく、自然と深く頭を下げた。

その謝罪は、誰に強要されたものでもない、彼の魂から溢れ出した真実の言葉であった。

方輪車はバックミラー越しに、その殊勝な様子を優しい眼差しで一瞥すると、満足げに鼻歌を混じえて牛車を走らせ続ける。


やがて牛車は速度を落とし、かつて彼がえらいこっちゃ嬢や妖古と出会った、あの始まりの神社へと戻ってきた。

牛車が完全に停車し、客席の扉が静かに開くと、武久は名残惜しそうに、しかし前を向いて車外へと降り立った。


運転席の窓が開き、方輪車がひらひらと手を振る。

「毎度ありー。ほな、御達者でー」


「有難う」

武久は、夜の闇へと颯爽と走り去っていく牛車の後ろ姿に向かって、深々とお辞儀をした。

神社の境内を後にした彼は、すっかり夜も更けた京都の町を、一歩ずつ踏みしめるように歩き出す。


彼はほどなくして、当日予約でも泊まれる簡素なビジネスホテルを探し当てた。

チェックインを済ませ、狭いベッドに横たわると、一日のうちに起きたあまりに濃密な出来事が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。


「明日は……必ずミサの御見舞いに行かないとな」

武久は、明日の朝、彼女にかけるべき「最初の言葉」を心の中で丁寧に紡ぎながら、穏やかな眠りに落ちていった。

彼の右手に巻かれた組紐の蒼は、暗闇の中でも、未来を照らす灯火のように静かに輝き続けていた。


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