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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第24話:真壁範彦の個性的なほっこり飯

## のっぺらぼうの行進と、選ぶ側の傲慢


真壁範彦まかべのりひこ38歳は、中堅規模のIT企業で人事課長という役職に就いている。

窓の外に広がるオフィス街の景色を眺めながら、彼は自らの着実な歩みに、微かな満足感を覚えていた。


元々はプログラマーを志してこの業界に飛び込んだ範彦だったが、入社数年後の部署異動が転機となった。

慣れない事務方への異動に当初は戸惑いもあったが、そこから10年に及ぶ人事部での泥臭い業務を経て、現在の課長職を勝ち取った。


劇的な大出世とはいかないまでも、着実な昇格とキャリアアップ。

20代後半で結婚した同い年の妻と、10歳になる愛らしい小学生の娘。

範彦の人生は、仕事においても私生活においても、非の打ち所のない充実した日々であった。


人事部に配属されて以来、範彦の主戦場は「新卒採用」の現場であった。

これまでに数え切れないほどの学生と対峙し、彼らの緊張した面持ちを、机の向こう側から冷静に観察し続けてきた。


近年、SNSの普及によって「圧迫面接」という言葉が劇薬のような力を持つようになったことで、上司である部長や経営層からは、耳にタコができるほど釘を刺されている。

「真壁君、絶対に無理な追求はするなよ。間違っても圧迫面接はしないように。すぐにネットに書かれて会社のブランドが傷つくからな」

その指示に従い、範彦は常に柔和な笑みを絶やさず、学生たちが気持ちよく話せるような雰囲気作りに細心の注意を払ってきた。


表面上は、誰からも不満の出ない円満な採用活動。

それが課長としての彼の、洗練された「仕事」のスタイルであった。


しかし、その「洗練」の裏側には、面接が終わるたびに繰り返される恒例の儀式があった。

面接室を後にし、同僚や部下たちと連れ立って食堂や休憩室に集まると、範彦の口からは一変して毒のある言葉が漏れる。


「……今日も酷かったな。どいつもこいつも、判で押したみたいに同じことばかり。まるで『のっぺらぼう』の行進を見てる気分だよ」


範彦が吐き捨てるように言うと、周囲の部下たちも同調して笑い声を上げる。


「本当にそうですね。マニュアルを丸暗記してきただけの、団栗の背比べですよ」

「誰一人として印象に残らない。あんなの個性の欠片もないし、あんなんじゃどこからも採用されませんよね」


学生たちの必死なアピールを、安全な場所から嘲笑するひととき。

特に最近の若者は個性がない、みんな一緒だ、と。

そう断じることで、範彦は自分たちが「選ぶ側」という優位な立場にあることを再確認し、悦に入っていた。


そして今年も、戦場とも言える新卒採用の季節が巡ってきた。

範彦は大きな会議室で、大勢の学生を前に会社説明会のマイクを握る。

自社の強み、魅力的な福利厚生、右肩上がりの業績。

自信に満ちた声で会社のアピールを行い、筆記試験という最初のフィルターを突破した学生たちのリストに目を通す。


そして、次はいよいよ面接だ。

「さて、今年の『のっぺらぼう』たちは、どんな台詞を暗記してきているのかな」

範彦はデスクの上で、これから始まる予定の面接スケジュールを眺め、口角を僅かに歪めた。

その傲慢な心の内が、後に自分自身の「顔」を失わせる事態を招くことになるとは、この時の彼は夢にも思っていなかった。


---


## 神苑の美人と、文字通りの「打ち込み」


ある日の午後。

真壁範彦は、空調の効いた第3会議室で、部下の男女2名を従えて新卒採用の集団面接に臨んでいた。

並んでいたのは、厳しい書類選考と筆記試験を潜り抜けてきた6名の学生たちだ。

右から男子、女子、男子、女子……と男女交互に座るその光景は、リクルートスーツの黒一色に染まり、範彦の目には相変わらず「没個性の塊」に映っていた。


しかし、その中で一人だけ、異彩を放つ存在がいた。

左から2番目に座る女子学生。

彼女の姿が目に入った瞬間、範彦も部下たちも、プロの人事としての冷静さを忘れ、思わず息を呑んだ。


白磁のように透き通った肌に、艶やかな黒髪を後ろで緩く結んだその姿は、まるで博物館に展示された最上級の日本人形が、そのまま人間になったかのような大和撫子美人だった。

彼女がそこに座っているだけで、殺風景な会議室が、どこか由緒ある寺院の庭園のような静謐な空気に塗り替えられていく。


範彦は咳払いを一つして、手元のタブレットに目を落とした。

「……では、面接を始めます。まずは皆さんが『学生時代に最も打ち込んだこと』を、右の方から順にお聞かせください」


決まりきった質問。

範彦は内心で、どうせ「部活の主将としてチームをまとめた」だの「サークルの代表としてイベントを成功させた」だのという、聞き飽きたテンプレートが返ってくるのだろうと高を括っていた。


案の定、右端から4人目までの回答は、予想の範疇を1ミリも出ない退屈なものだった。

「アルバイトでリーダーを務め、売り上げを20%向上させました」

「ゼミの共同研究で、粘り強く議論を重ねる大切さを学びました」

範彦は愛想笑いを浮かべながら、手元の評価シートに「特になし」を意味する記号を機械的に書き込んでいく。


そしていよいよ5人目、あの息を呑むような美人の番が回ってきた。

彼女は背筋をスッと伸ばし、範彦の瞳をじっと見据えると、その薄紅色の唇を優雅に綻ばせた。


「そうどすねえ。新卒さん達の中に紛れ込みましたけど……。そこに書いてある通り、わたくし、そもそも学生やあらしまへんからねえ。『学生時代に最も打ち込んだこと』そのものが、あらしまへんのです」


柔らかな、しかしどこか重みのある京言葉が室内に響き渡る。

学生ではない、という突飛な告白に、範彦は思わず「はい?」と声を漏らした。


「まあ、打ち込んだ事と言いますか、日々努めておる事は……もっと色んな『お顔』を作る事でっしゃろかねえ」

嫋やかな笑顔と共に放たれた言葉に、女性の部下が不思議そうに首を傾げた。

「……お顔を作る、というのは、お化粧の研究をされているということでしょうか?」


すると美人は、扇子で口元を隠すような仕草を見せ、コロコロと鈴の鳴るような声で笑った。

「ふふっ、お化粧もしますかねえ。色々どすえ、色々」


範彦は「ああ、美容系の意識が高いタイプか」と、強引に自分の理解できる範疇に当てはめて納得した。

IT企業の仕事とは結びつかないが、その美貌だけで何らかの広告塔にはなりそうだ、などと下俗な評価を下しながら、最後の左端の男子学生に視線を向けた。

「では、最後に君。打ち込んだことを教えてください」


するとその学生は、真顔のまま範彦を見つめ返して答えた。

「キーボードをタイピングして、コードを打ち込んでました」


「……え?」

範彦は、あまりに短く、かつ当たり前すぎる回答に、思わず聞き返した。


「え? いや、『打ち込んだ事』って聞かれたから。ずっとエディタを開いて、コードを打ち込んでました。……あ、バットでボールを打ち込んだりはしていませんよ。野球には全く興味がないもので、物理的に打つ方は専門外です。あ、でもコード打ち込むのも、キーボードに触れるから、物理的に打ってますよね。」

学生は真面目くさった顔でそう言い切り、少しだけ誇らしげに笑った。


すると、隣に座る大和撫子美人が、再び楽しげに肩を揺らした。

「あら、おもろい事言わはりますねえ。確かに、読んで字の如く、それは立派な『打ち込み』どすなあ」


「そ、そうですか。……確かに、ユニークな視点ですね」

範彦は、予想外で変化球すぎる二人の回答に戸惑いながらも、ペースを乱されまいと、とりあえず次の質問ステップに移ることにした。


だが、範彦はこの時、まだ気づいていなかった。

この二人の「顔」が、実は自分たち面接官が見ているものとは全く別の何かであるということに。

---


## 強みのゲシュタルト崩壊と、突きつけられた「個性」の定義


面接は中盤に差し掛かり、範彦はさらに深掘りするための質問を投げかけた。

「……では次に、ご自身の『強み』について、右の方から順にお聞かせください」


この質問もまた、人事にとっては通過儀礼のようなものだ。

案の定、右側の4人からは、聞き飽きて耳にタコができるような回答が並んだ。


「私の強みは、何事にも積極的に取り組む姿勢です」

「私は非常に負けず嫌いな性格で、目標を達成するまで諦めません」

「チームを牽引するリーダーシップには自信があります」


範彦は心の中で「はいはい、積極性に負けず嫌いにリーダーシップね」と毒づきながら、機械的にチェックを入れていく。

彼らにとっての「強み」とは、就職活動用の参考書に載っている言葉を、自分の喉に無理やり詰め込んだだけの借り物に過ぎない。


そして、いよいよ左から2番目、凛とした大和撫子美人の順番が回ってきた。

彼女は困ったように眉を八の字に寄せ、首を小さくかしげて範彦を見つめた。

「あの、質問に質問で返してしもうて、誠に申し訳ない事どすけど……。そもそも『強み』って、一体なんでっしゃろ?」


その透き通るような声が室内に響いた瞬間、範彦を含めた三人の人事担当者は、まるで時間が停止したかのように硬直した。

「え……?」


範彦が呆気にとられていると、左端の短髪イケメン学生が、わが意を得たりとばかりに深く頷いた。

「あ、それは僕も思いました。強みってなんだろうって。比較対象があって初めて成立する相対的なものなのか、それとも絶対的な特質を指すのか……。なんなんでしょうね?」


二人の若者が、純粋な好奇心を湛えた目で範彦をじっと見つめてくる。

範彦は狼狽を悟られまいと、咄嗟に言葉を継いだ。

「い、いや、色々あるでしょう。忍耐力とか、分析力とか……君たちがこれまで培ってきた武器のことですよ」


すると大和撫子と男子学生は、身を乗り出すようにして声を揃えた。

「その『色々』とは、具体的に何を指してはりますの?」

「その『色々』とは、具体的に何を指しているんですか?」


「……っ」

範彦は奥歯を噛み締めた。

これ以上この禅問答に付き合っていては、面接のスケジュールが大幅に狂ってしまう。


「……君たち二人は、特に自分の中に語るべき強みが無い、ということですね。わかりました、次に移ります」

範彦は吐き捨てるようにそう言い放ち、強引に話題を切り替えた。

その後もいくつかの質問を繰り返したが、そのたびに左端の二人は、重箱の隅を突くような、あるいは哲学的な問いを孕んだ妙な返答を繰り返し、人事部の三人を翻弄し続けた。


全ての質問項目を終えた頃、範彦の心の中には不快な苛立ちが澱のように溜まっていた。

彼は椅子の背もたれに深く寄りかかり、いつもの「お決まりのパターン」を始めた。

「……さて。一通り話を聞きましたが、正直に申し上げます。あなたたちは、全く個性がありません。はっきり言って、私には全員が同じ『のっぺらぼう』のように見えます」


範彦の冷徹な言葉に、右側の4人の学生たちがビクリと肩を揺らす。

「私は、もっとあなたたちの個性が見たい。……そこで、ここからはルール無しの自由な『自己PR』をしてください」


これは範彦が毎年行う、いわば選別のための儀式だ。

「個性を出せ」と突き放された瞬間に、いかにして自分という存在を際立たせるか。

範彦も部下たちも、結局は誰も個性を爆発させることなどできず、無様に言葉を詰まらせる学生たちの姿を嘲笑う準備をしていた。


そうして、右端の女子学生が、今にも泣き出しそうな緊張した面持ちで口を開こうとした、その時だった。


「あのー」

左端に座る男子学生が、授業中の子供のようにひょいと真っ直ぐに手を挙げた。

範彦が眉をひそめて彼を睨むと、青年は涼しい顔で、爆弾を投げ込むように尋ねてきた。

「個性って、なんですか?」


「……は?」

あまりにも初歩的で、それでいて根源的なその問いに、範彦だけでなく室内にいた全員が度肝を抜かれたように男子学生を凝視した。


室内の空気が一瞬で凍りつく中、男子学生の隣に座っていた大和撫子だけは、扇子で隠すように口元を綻ばせ、余裕に満ちた妖艶な笑みを浮かべている。

彼女の光を宿したような瞳が、範彦の「顔」をじっと観察するように見つめていた。


---


## 定義の齟齬と、扉の向こうの不採用通知


「個性って言われてもなあ……。あまりに抽象的過ぎて、何が正解なのかよくわかりませんね」

左端の男子学生は、困ったように眉を下げつつも、その瞳には理詰めの光を宿して範彦を見据えた。

「もしも個性が『唯一』とか『その人特有』と言うのであれば、僕はここにいる全員が、既に十分すぎるほど個性があると認識しております。だって、指紋が違うのと同じように、全く同じ人生を歩んできた人間なんて一人もいないんですから」


範彦は、学生から理屈で返されたことに苛立ちを覚え、冷ややかに言葉を遮った。

「……いや、今質問しているのはこちらだから。君の持論を聞きたいわけじゃない」


「え? 認識の齟齬があったら議論がどんどんズレていくから、最初の段階でそのズレを解消しておこうと思ったんですけど? だって、仕事でも営業先の御客様や、プログラム等の仕様について最初の段階で認識の齟齬を出来るだけなくしておくことは大切な事ですよね? 僕の仕事に対する認識って間違ってますか? だったら、遠慮なくこの段階で不採用と言って下さいませんか? その方がお互いに、これ以上余計な労力も時間も使わなくてすみますから」

男子学生は、まるで快晴の空のような晴れやかな笑顔で、人事課長である範彦に引導を渡すような台詞を言い放った。


「……っ!」

範彦の顔が屈辱で赤く染まる。


すると、隣の大和撫子美人が、口元を隠しながら優雅に、かつ愉しげに肩を揺らした。

「ふふっ。確かこちらの方は、佐伯大樹さえきだいきさんでしたねえ。まさに娑婆の言うところの『他とは違う』と言う意味において、まことに個性的な御仁どすなあ。そもそも、個性を見せて欲しいって言わはりましたけど、こちらの方は最初から『他とは違う』を地で行ってはりますねえ。」

大和撫子はコロコロと鈴を転がすように笑い、場をさらにかき乱す。


「それを言ったら、君だってそうじゃないか。……あ、失礼しました、面接中でしたね」

大樹と大和撫子が親密そうに笑い合う姿に、範彦のプライドは音を立てて崩れ去った。


「個性を観たいって言わはるんでしたら、私とこちらの方の二人はもう、十分に自己PRが済んだという事で宜しゅう御座いませんか?」

大和撫子の笑顔には、もはや範彦を「面接官」として敬う色は微塵もなかった。


「……っ、それじゃあ、気を取り直して、右端から自己PRどうぞ」

範彦は顔を引きつらせ、逃げるように次の学生へ話を振った。

右端から順番に、またしても当たり障りのないテンプレート的な自己PRが繰り返され、重苦しい沈黙を孕んだまま、ようやくこの面接は幕を閉じた。


「……本日はありがとうございました。退出してください」

範彦が事務的に告げると、6人の学生たちは一礼して部屋を後にした。


学生たちが完全に退室し、扉が閉まった瞬間。

範彦と二人の部下は、溜まっていた息を吐き出すように、ドッと椅子の背もたれに深く沈み込んだ。

「……なんか、すごいのが二人、紛れ込んでましたね……」

「新卒採用の面接で、あんなに説教臭い論理展開をされるとは思いませんでしたよ……」


部下たちが疲労困憊の様子でため息を漏らす中、範彦は苦々しい表情で天井を仰ぎ見た。

「……この6人は全員不採用決定だが。……確かに、凄まじいのがいたな。なんだったんだ、あの二人は。まるで、こっちが試されているような……」


---


一方。


部屋を出てエレベーターホールへ向かったと思われていた佐伯大樹は、扉のすぐ外で密かに聞き耳を立てていた。

そして中の話を聞き終えた彼は、会社のエントランスを出たところで、一緒に面接を受けた他の5人を呼び止め、明るい笑顔を見せた。

「みんな、お疲れ様。残念だけど、僕ら全員不採用だってさ。さっき部屋の外で暫く待って中の話声に聞き耳立ててたら、中の人たちの愚痴が聞こえて来たよ」


大樹がカラリと笑って告げると、緊張から解放されたばかりの4人の学生たちは、一様に驚愕の表情を浮かべた。

すると、横にいた大和撫子が、彼らを包み込むような嫋やかな微笑みを浮かべた。

「ほな、この場ですぐに次へ切り替えられますねえ。あんな窮屈な企業の事は綺麗さっぱり忘れて、次行かはったら宜しゅうおすえ。あんたらには、あんたらだけの良さがあるんやから」


大和撫子のコロコロという笑い声に、不採用を突きつけられたはずの学生たちの心が、不思議と軽くなっていく。

「……なんだか、不採用って言われたのに、あんな面接官に選ばれなくて良かったって気がしてきたよ」

一人の学生がそう言うと、残りの4人も顔を見合わせて、思わずおかしくなって笑い出した。


こうして、不採用と言う挫折の共有は、奇妙な連帯感を生んだ。

彼らはそこで互いの健闘を称え合い、次なる就職活動へ向けて、確かな、そして力強い一歩を踏み出した。


---


## 書棚の再会と、鏡合わせの「没個性」


翌日、定刻のチャイムと共に範彦が片付けを終えて会社を出ようとした時、スマートフォンが短く震えた。

画面を確認すると、妻からのメッセージが届いている。

『今日、小学校のママ友達と一緒に急遽会食に行くことになったから、夕飯は自分で何とかしてね』

家路を急ぐ理由が消えたことに、範彦は小さく息を吐き出し「わかった。適当に外で食べて帰るよ」と返信を打った。


妻は娘を連れて会食と言う事で、夕飯はどうしようかと考える範彦。

独り身の夕食というのは、気楽ではあるがどこか味気ない。

家に帰っても誰もいない静まり返ったリビングが待っているだけだと思うと、範彦は少し寄り道をしてから、どこかの飲食店で食事を済ませることに決めた。


飲食店へ行く前に、範彦はふと本屋に立ち寄る事にした。

駅近くの大型書店。

平日の夜にもかかわらず、意識の高いビジネスパーソンや受験生、あるいは時間を潰す人々で店内は賑わっていた。


範彦は最新の経済誌でもチェックしようとビジネス書コーナーへ足を向けたが、そこで不意に、見覚えのある「整った横顔」が視界に入った。

あの面接を、その圧倒的な論理と屁理屈で滅茶苦茶に壊していった男子学生、佐伯大樹である。

大樹はこちらの視線に気づくと、本を棚に戻し、いたずらっぽく目を細めて片手を上げた。


「あ、こないだの。人事部の真壁さんじゃないですか。こんばんは」

大樹は、まるで気心の知れた先輩にでも会ったかのような、物怖じしないにこやかな笑顔で挨拶をしてきた。


範彦は、面接の時の屈辱が蘇りつつも、大人の余裕を演じるように努めて応じる。

「あ、ああ、今晩は。奇遇だね。君は大学の帰りか?」


「僕はバイト帰りです。この近くのハンバーガーショップでバイトしてるんですよ。真壁さんは仕事帰りってところですか?」

大樹はカラカラと笑い、範彦のネクタイをちらりと見た。


そして、彼は興味深そうに首を傾げると、失礼なほどストレートな言葉を口にした。

「それにしても、意外ですね」


「……何がだい? 僕が本を読むのが意外に見えるのかい?」

範彦が少し棘のある声で返すと、大樹は「いえいえ」と手を振った。

「ビジネス書は好きそうな感じがするから、意外なのはそこじゃないですよ。僕が意外だと思ったのは、真壁さんが僕の事を覚えてた事です。もっと言えば、僕の『顔』をちゃんと識別して覚えてた事が、意外だなあって」


「……え?」

範彦は言葉に詰まった。


大樹は追い打ちをかけるように、含みのある笑みを浮かべる。

「だって、僕らはみんな『のっぺらぼう』なんでしょ?」


大樹の揶揄するような言葉に、範彦は図星を突かれた思いで顔を赤くし、苦笑いを浮かべた。

「……そんな事まで覚えてたのか。あれはあくまで『ものの例え』だよ。個性が感じられないという、僕の率直な感想を少し誇張して表現しただけでね」


「そうですか。でも、のっぺらぼうなら、むしろ真壁さんの大好きな『個性』が爆発してると思うんですけどね。だって、顔が無いなんて、街を歩いてたら二度見されるレベルの強烈な個性じゃないですか」


クスクスと笑う大樹に対し、範彦は教え諭すような口調で反論を試みる。


「……別に僕は、突飛で奇抜な個性が好きなわけではないよ。あの時言った事は、君達があまりにも横並びで優劣が付け難く、強みについての質問への回答もありきたりなテンプレートばかりだったからだ。独自性が無さ過ぎて、誰を選んでも同じだという評価にならざるを得なかったという事だよ」

範彦が論理的に突き放すと、大樹は「そうなんですか?」と不思議そうに眉を上げた。

「独自性ねえ……。それを言ったら、少なくとも真壁さん個人、もしくはあの会社の採用のやり方こそ、独自性無さ過ぎでしたけどね」


「え……?」

範彦は耳を疑った。


「だって、どの企業も、大体同じ事ばっかり聞いて来るんですもん。真壁さんも例に漏れず、テンプレート的な質問項目を順番に消化してただけでしょ?個性的であることを学生に求める割には、真壁さん自身は没個性っていうか、独創的じゃありませんよね」

大樹は悪びれも無く、人事のプロである範彦のプライドを根底からなぎ倒すような言葉を、涼しい顔で言い放った。


「……っ!」

範彦の心臓がどきりと跳ねる。

学生から「没個性」と断じられた衝撃に、彼は言い返す言葉を喉の奥で詰まらせてしまった。


---


## 定義なき「個性」と、逃げ出したくなる静寂


「それに、真壁さんがそんなに個性的な人を採用したかったんなら、あの子……ほら、一緒にいた大和撫子美人ちゃん。あの子も凄く個性的でいい事言ってたんだから、あの子だけはその場で即決採用すればよかったじゃないですか。……あ、そうだ。僕、あの子の名前をうっかり聞きそびれちゃったんですよね。真壁さんは履歴書を読んだんでしょう? だったら、あの子の名前、こっそり教えてくれませんか?」

大樹は、悔しそうに後頭部をかきながら、さらに踏み込んだ質問を範彦にぶつけてながら、いたずらっ子のような目で身を乗り出してきた。


範彦は呆れを通り越して、反射的に防衛本能を働かせる。

「……出来るわけないだろう。れっきとした個人情報だ。面接官が他人に候補者の個人情報を漏らすなんて、言語道断だよ」


「ですよねー。あ~あ、残念。なんで名前を聞くのを忘れちゃったんだろうなあ。名前さえわかればSNSで探して、ワンチャン、デートくらい出来たかもしれないのに……。あんな美人と並んで歩いたら、僕の心拍数爆上がりですよ」

大樹は本気で悔しがっている。


範彦はその軽薄さに顔をしかめた。

「……君は、一体何なんだ。面接の時といい、今といい……」


「佐伯大樹ですよ。面接でも自己紹介したじゃないですか。真壁さん、やっぱり僕の名前も覚えてなかったんですね」

大樹がカラカラと笑う。


範彦は苛立ちを隠すように吐き捨てた。

「いや、そういう意味じゃなくてだな……。ああ、そうだったな。全く、君は個性的というよりは、ただの『変な奴』だということがよくわかったよ」


すると、大樹の目が輝いた。

獲物を見つけた学者のような、純粋で残酷な知的好奇心がそこにはあった。


「『個性的』と『変な奴』の違いって、なんですか?」

大樹は、本気でその定義がわかっていないような顔で、興味津々に尋ねてくる。


「……そんなことは、自分で考えなさい」


「それってつまり、人事のプロである真壁さんでも答えられない、あるいは『わかっていない』ということですか?」

逃げ場を塞ぐような大樹の質問攻めに、範彦の堪忍袋の緒が音を立てて切れた。

「もういい! 君と話していると埒が明かない。そんな理屈っぽくて社会性のない態度じゃ、どこの会社からも採用なんてされないぞ! 少しは自分を改めることだ!」


範彦は、上司が部下を叱るような、あるいは親が子を諭すような高圧的な声を出した。

しかし、大樹は動じない。


「それじゃあ、後学のためにも『どうすれば採用されるか』を教えてもらえませんか? 本職の人事の方のテクニック、是非知りたいです!」

大樹の目は、皮肉ではなく、本当に「攻略法」を求めているゲーマーのように輝いている。


「だから! それを自分で考えろと言っているんだ! 君は人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」

範彦の声が、静まり返ったビジネス書コーナーに響き渡った。


周囲の客や店員が一斉に手を止め、二人を注目し始める。

範彦は自分の失態に気づき、カッと顔を赤くした。

38歳の人事課長が、本屋で学生相手に声を荒らげるなど、あってはならないことだ。


その時、大樹のポケットの中でスマートフォンが短く、陽気な通知音を鳴らした。

「おっと、ちょっとすみませんね」

大樹は慣れた手つきで画面をチェックし、すぐに懐にしまい込むと、先ほどまでの執拗な追及が嘘のように、爽やかな笑顔を浮かべた。


「大学の友達が、これからお好み焼き食べに行こうって誘ってくれたんで、僕行きますね。真壁さん、面白いお話有難う御座いました! それじゃあ!」

大樹は軽く手を振ると、風のように軽やかな足取りで、書店の出口へと去っていった。


「……何だったんだ、あいつは……」

範彦は、嵐が過ぎ去った後のような虚脱感に襲われた。


手に取っていた経済誌の内容は、もはや一行も頭に入ってこない。

周囲の視線が痛いほどに刺さり、本を物色する気力さえも完全に失せた。


範彦は逃げるように本屋を後にし、夜の冷たい風に吹かれながら、重い足取りで駅へと向かった。

お好み焼きのソースの香りを想像し、自分の胃袋がひどく空っぽであることに、今さらながら気づかされた。


---


## 黄金色の誘惑と、銀髪の警鐘


書店を逃げ出すように後にした範彦は、冷え込み始めた夜風に首をすくめた。

大樹に浴びせられた「没個性」という言葉が、トゲのように胸の奥に刺さったままだ。

すると腹の虫が、抗議するように小さく鳴る。

家族が不在の今夜、この空虚な胃袋を何とか満たさねばならない。


ふと視線を上げると、駅のほど近くにそびえ立つ大型ショッピングモールの看板が目に飛び込んできた。

「……地下の食料品売り場なら、何かあるだろう」

範彦は導かれるように、エスカレーターを下り、地下の喧騒へと身を投じた。


範彦は子供の頃から、揚げ物には目がなかった。

サクサクとした衣の食感、そこから溢れ出す熱い肉汁。


結婚してからは、妻が彼の好みを汲んで食卓に並べてくれていたが、30歳を超えたあたりから事情が変わった。

範彦の健康診断の結果を懸念した妻が、揚げ物の頻度を露骨に下げ始めたのだ。

夫を想っての気遣いだと理解はしているが、一度火がついた「揚げ物欲」を完全に鎮めるのは難しい。

時折、妻の目を盗むようにして社食の「唐揚げ定食」を頬張ったり、飲み会等でビール片手に揚げ物を食べるのが、今の彼にとって密かな背徳の楽しみとなっていた。


今日は華金だ。

明日の出勤を気に病む必要もなく、口うるさい健康管理官(妻)もいない。

範彦は、今夜こそ心ゆくまで揚げ物を買い込み、自宅で冷えたビールと共に楽しもうと心に決めていた。

「旨そうな唐揚げか、エビ天か、メンチカツとエビフライも良いな。揚げたてを出す惣菜屋があれば最高なんだが」


地下の食料品売り場は、夕食の買い出しのピークを過ぎてはいたが、それでも華やかな活気に満ちていた。

範彦は鼻腔をくすぐる油の香りを頼りに、惣菜コーナーへと歩を進める。


だが、山積みにされたパック詰めの唐揚げや天麩羅を前に、彼は足を止めた。

蛍光灯の下で光る衣は、どこか精彩を欠いている。

時間が経ってしまったのか、湿気を吸ってしんなりとしており、彼の渇望を癒やすには程遠いように見えた。


「……やはり、スーパーの惣菜では限界があるか。ここは大人しく、揚げ物が自慢の居酒屋か専門店にでも入るべきか」

方針を転換しようとした、その時だ。


範彦は、足元に近い場所から熱烈な視線を感じて、ふと目線を下げた。

そこには、あまりにも異質な存在が静止していた。


透き通るような長い銀髪。

零れ落ちそうなほどに大きく、まん丸とした瞳。

そして、独特な台形の形に開かれた小さな口。

黒いベレー帽を被り、ズボンタイプの黒いセーラー服を纏った、小柄な女の子がそこにいた。


彼女は範彦の顔を、何らかの希少な生物でも観察するかのように、じーっと見つめていた。

範彦は一瞬戸惑ったが、彼女が自分の目の前にある「唐揚げパック」を欲しがっている子供なのだろうと解釈した。


「ああ、ごめんよ。場所を譲ろう」

範彦が気を利かせて一歩横へ退き、道を空けようとした。


しかし、女の子は唐揚げには目もくれず、ただ範彦の瞳の奥を覗き込むようにして、唐突にその小さな口を開いた。


「えらいこっちゃ」


その一言は、店内の喧騒を切り裂くように、範彦の鼓膜を奇妙に揺らした。


---


## しなびた惣菜と、のっぺらねえちゃんの誘い


「えらいこっちゃ」

目の前の銀髪の少女から放たれた、場にそぐわないほど切実な響きを持つその一言に、範彦は思わず「え?」と間抜けな声を漏らした。


面食らって立ち尽くす範彦をよそに、少女は淡々とした調子で言葉を続けた。

「ウチは、えらいこっちゃんとか、えらいこっちゃ嬢とか呼ばれとる、えらいこっちゃ嬢や。」


「え? ああ、そ、そうなのか。……えっと、えらいこっちゃん。君は、その唐揚げを買いに来たんだね?」

範彦は、この風変わりな少女――えらいこっちゃ嬢が、夕食のおかずを求めて惣菜コーナーを彷徨っているのだろうと解釈し、大人びた口調で問いかけた。


すると、えらいこっちゃ嬢はパックの中に鎮座する唐揚げを指さし、悲劇のヒロインのような仕草で首を振った。

「時間たってしなびてしまいよった唐揚げ、えらいこっちゃ」


「ああ、確かに。この時間帯だ、揚げたてを望むのは酷というものだね。……実は僕も揚げ物には少々うるさくてね。揚げたてはさぞかし美味いんだろうが、流石にこのしなびた様子では、食欲をそそられないな」

範彦が苦笑いしながら同意すると、背後から華やかな、そして聞き覚えのある鈴の鳴るような笑い声が届いた。


「えらいこっちゃん、お待たせー。あっちのメンチカツとエビフライもしなびてましたえ。……あら、真壁はんやないですか。奇遇ですねえ」

範彦が弾かれたように振り返ると、そこには数日前の面接室で、あの凄まじい存在感を放っていた大和撫子な美人女性が、着物姿で立っていた。

「え? 君は……あの時の面接の、大和撫子……っ」


驚愕に目を見開く範彦を尻目に、えらいこっちゃ嬢がぶんぶんと腕を振り回して叫んだ。

「のっぺらねえちゃん、こっちの唐揚げもしなびてしまいよってからに、えらいこっちゃ!」


「のっぺらねえちゃん?」

範彦がその不名誉な、しかしどこか昨日の自分の暴言を想起させる呼び名に首をかしげると、大和撫子は楽しそうに目を細めた。

「ふふ、ワテの事を大和撫子やと認識してはったんですねえ。それはそれは、おおきに」

彼女は範彦の困惑を愉しむようにコロコロと笑い、えらいこっちゃ嬢の頭を優しく撫でる。


「揚げたて食べたいなら、食堂一択! えらいこっちゃな熱々ホクホク!」

えらいこっちゃ嬢は、今度は期待に胸を膨らませるように両腕を交互に振り回して跳ね回る。


それを見た大和撫子は、範彦の空腹を見透かすような艶やかな微笑みを向けた。

「ほな、真壁さん。見るからに揚げもん欲しそうな顔してはる事ですし、美味しい店を紹介しましょか? サクッと軽うて、中から肉汁がじゅわっと溢れるような、ジューシーなやつですえ」


「いい店を知っているのかい? それは有難い。それじゃあ今夜はそこで夕食にしよう。良かったら、紹介のお礼に御馳走するよ」


範彦が渡りに船とばかりに快諾すると。

それまで黙ってやり取りを聞いていた惣菜コーナーの店員のおばちゃんが、ピキリと額に青筋を立てて割って入ってきた。


「ちょっとあんたたち! そりゃ揚げたてが一番なのは分かってるけどさ!うちの揚げ物はね、冷めてても味がしっかりしてて美味しいんだよ! お弁当に最適なんだから!」

おばちゃんは、自慢の商品を蔑ろにされたことにプンスカと腹を立て、トングを握りしめて抗議した。


すると、えらいこっちゃ嬢はおばちゃんの方を向き、一言だけ「えらいこっちゃ」と呟いた。

彼女はひらひらと手を振っておばちゃんに挨拶を済ませると、範彦の大きな手をその小さな手でぎゅっと掴み、出口の方へと力強く引き始めた。


「ふふ、冷めても美味しい揚げ物って、お弁当には欠かせまへんよねえ。勉強になりましたわ。ほな、ごめんあそばせー」

「のっぺらねえちゃん」と呼ばれた大和撫子は、怒れるおばちゃんに優雅な会釈を残し、颯爽とえらいこっちゃ嬢と範彦の後を付いて行く。


夕暮れのショッピングモールから、夜の帳が下りた街へと連れ出される範彦。

その先にあるのが、単なる食事処ではないということを、この時の彼はまだ知る由もなかった。


---


## 神域の無貌むぼう ―― 暴かれた本性と絶叫の招喚


範彦は、えらいこっちゃ嬢の小柄な体格からは到底想像もつかない、万力のような凄まじい力に腕を引かれ、なかば引きずられるようにして夜の街を連れ回された。

抗おうにも足がもつれ、抵抗する間もなく路地裏へと誘導される。

当惑と恐怖が混ざり合った表情で後ろを振り返れば、のっぺらと呼ばれたあの大和撫子が、相変わらず嫋やかな笑みを浮かべて静かについてきていた。


「……ああ、そうだ。彼女が言っていた『美味い店』へ案内してくれているんだ」

範彦は必死に自分を納得させ、乱れた呼吸を整えようとした。


しかし、辿り着いた先は、およそ飲食店など存在しそうにない、街の喧騒から隔絶された人気のない場所だった。

そこには古びた石段があり、奥には闇に溶け込むようにして鳥居が鎮座している。

神社の入り口のようなその場所で、えらいこっちゃ嬢が唐突にパッと手を放した。


「……えっと、食堂に連れて行ってくれるんだよね? 鳥居があるということは、ここは神社のように見えるが……」

範彦が首をかしげ、不安げに周囲を見渡した、その時である。


隣に立っていた大和撫子の大和撫子が、スッと自分の顔の前に、白磁のような細い指先をかざした。

彼女がゆっくりとその手を横に滑らせ、顔を撫で下ろすようにして「それ」を解くと――。


範彦の目の前で、あり得ない光景が繰り広げられた。

数瞬前までそこにあった、吸い込まれるような美しい目も、端正な鼻筋も、紅を差した唇も、まるで描かれた絵が消しゴムで消されたかのように、跡形もなく消え去ったのだ。

そこには、凹凸のない、ただ滑らかで血色のない白い肌だけが、壁のように広がっていた。


範彦は肺の空気をすべて吐き出したまま、声も出せずに立ち尽くし、その異形を凝視した。


「これが、本来の姿ですえ。それにしても、そこまで驚かはるとは意外ですねえ。のっぺらぼうなんて、普段から見慣れてはると思うてましたけどねえ」

顔がないはずの場所から、鈴を転がすような、それでいて芯まで冷えるような上品な声が響く。


範彦の脳裏に、自分が面接や書店で放った傲慢な言葉――「のっぺらぼうの行進」「没個性」という言葉が、呪いのように突き刺さった。

目の前にいるのは、古来より怪異として恐れられてきた本物の「のっぺらぼう」そのものだった。


「改めまして、ワテは『のっぺらぼう』です。のっぺらちゃんでも、のっぺら嬢でも、えらいこっちゃんが呼んでくれはるように、のっぺらねえちゃんでも宜しゅうおすえ」

彼女はコロコロと、淑やかに、それでいて残酷なほど優雅に笑った。


「そんな……実在したのか。作り話ではなく、本当に……」

範彦の膝が笑い、視界がぐらりと揺れる。


「実在するも何も、いっつも見てはるんやあらしませんの? 特に学生さんは、皆のっぺらぼうや言うてはりましたやん。ワテなんかより、よっぽど手厳しい方やなあと感心してたんですよ」

のっぺらぼうは、相変わらずコロコロと笑うように言葉を紡ぐ。


「いや、それは……比喩であって……」

範彦は、辛うじてそれだけの言葉を返す。


「まあ、そやろなとは思うてましたけどねえ。ほな、そろそろ迎えに来てもらいましょか。えらいこっちゃん」

のっぺらぼうがそう告げると。


それまで静かにしていたえらいこっちゃ嬢が、肺活量のすべてを絞り出すように深く息を吸い込んだ。

そして、次の瞬間。


「えらいこっちゃーーー!!!」


夜の帳をずたずたに切り裂くような、鼓膜を震わせる絶叫が神域に響き渡った。

その叫びは、ただの悲鳴ではなく、空間そのものを震わせる強大な「招喚」の響きを孕んでいた。


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## 炎の魔改造牛車 ―― 非日常へのキャッシュレス決済


えらいこっちゃ嬢の魂を揺さぶるような咆哮が、静寂に包まれた神社の境内に凄まじい勢いで轟き渡った。

その直後、遠方の闇の向こうから、ゴォォォォ、と空気を焼き焦がすような不気味な轟音と共に、真っ赤に燃え盛る「何か」が猛烈なスピードでこちらへ接近してくる。

範彦が恐怖に目を見張り、身を固くした次の瞬間、その正体が三人の目の前で派手に火花を散らしながら、キィィィィッという鋭い制動音を立てて停止した。


それは、巨大な片輪だけが地獄の業火のように燃え盛る古風な牛車……であったはずだが、あろうことかその正面には、近代的なトラックの運転席が接合されたかのような「魔改造」が施された、この世の物とは思えない奇妙な乗り物であった。


「な、なんだ、あの化け物みたいな乗り物は……っ」


範彦が腰を抜かさんばかりに呆気にとられていると、運転席の窓がスルスルと開き、一人の女性が顔を覗かせた。

黒い着物を見事に着こなし、艶やかな長い黒髪を後ろできりりと束ねたその美人は、被っているベレー帽の端を指で軽く整えながら、こちらに向かってにこやかに手を振って見せた。


方輪車かたわぐるまねえちゃん、御迎えありがとちゃん! えらいこっちゃな個性おっちゃん御一名! 行先は『摩訶不思議食堂』!」

えらいこっちゃ嬢は、開いた牛車の重厚な扉に向かってぴょんっと軽やかに飛び乗り、範彦を手招きする。


「えらいこっちゃん、のっぺらちゃん、お待たせー。今夜はまた、えらい賑やかになりそうやねえ」

運転席に座る「方輪車」と呼ばれた美人が、涼やかな笑顔で挨拶を交わす。


「方輪車さん、御迎え有難う御座いますー。ほな、真壁さんも、ぼさっとせんと御乗りやす。美味しい揚げもんが逃げてしまいますえ」

顔のない「のっぺらぼう」に背中を押され、範彦は半ばパニックに陥りながらも、恐る恐るその異形なる牛車の中へと足を運び入れた。


最後にのっぺらぼうが乗り込み、扉がバタンと重厚な音を立てて閉ざされた、その時だった。

車内のどこからともなく、真っ白で細長い、人間のものとは思えない腕が「ニューっ」と蛇のように伸びてきた。

その掌には「御勘定」と書かれた古びた札がぶら下がっており、範彦の目の前でぴたりと静止した。


「うわあああ!? な、何だこれ、幽霊か!? 手が出てきたぞ!」

範彦が裏返った声で絶叫すると、隣に座ったのっぺらぼうが、目鼻のない顔を向けたままコロコロと上品に笑った。

「落ち着きよし。これはただの料金箱やと思うてくれはったら宜しゅうおす。あ、ちなみに現金だけやのうて、電子決済も出来ますえ。今の時代、便利になりはったもんですよねえ」


「で、電子決済……? このおどろおどろしい手でか?」


範彦が呆然としていると、運転席から方輪車の楽しげな声が響いてくる。

「御客さん、電子決済しはるんやったら、QRコードにお財布携帯を翳しておくれやすー。キャッシュレスはスマートで宜しゅうおすえ」


方輪車が指を「パチン」と小気味よく鳴らすと、腕にぶら下がっていた「御勘定」の札がクルっと手品のように回転し、そこには鮮明なQRコードが印字された面が現れた。

範彦はもはや思考を放棄し、震える手でスマートフォンを取り出すと、言われた通りにその札へ翳した。

ピッ、という聞き慣れた電子音が車内に響き、同時に「毎度ありー」という、どこか機械的ながらも愛嬌のある音声が流れる。

画面には正確に「1000円」の決済完了通知が表示されていた。


「……こんな古風で怪しげな牛車に乗って、1000円をお財布携帯で払うことになるとはな。……君たちは、意外と現代的なんだな」

範彦が溜息混じりに呟くと、方輪車は「毎度ー!」と快活に声を張り上げた。

「ほな、出発しまっせー! 振り落とされんよう、しっかり掴まっておくれやす!」


ゴォォォォンッ、という地響きのような駆動音と共に、片輪の炎がさらに激しく燃え上がり、魔改造牛車は重力を無視したような爆発的な勢いで急加速を始めた。

範彦の体は座席に深く沈み込み、窓の外を流れる景色はもはや光の筋となって消えていく。

人事課長として積み上げてきた平穏な日常が、夜の闇へと置き去りにされていくのを肌で感じながら、範彦はただ、これから辿り着くであろう「食堂」という名の未知の領域に、身を委ねるしかなかった。


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## 無貌の審判と、虚無を刷り込んだ名刺


猛烈なスピードで夜の闇を蹂躙していた魔改造牛車が、不意に、磁石に吸い寄せられるような滑らかさで減速を始めた。

車輪の業火が夜気に溶け、静寂が戻る。

そこには、周囲の喧騒から切り離されたかのような、凛とした佇まいの木造建築が建っていた。


牛車が完全に停止すると同時に、客室の扉が重厚な音を立てて横へと滑る。

その隙間から、えらいこっちゃ嬢がその小さな体躯からは想像もつかないほど軽やかな身のこなしで、ぴょんっと地面へ飛び降りた。


続いて、三半規管を激しく揺さぶられた範彦が、足元を覚束なくさせながら、恐る恐る大地を踏みしめる。

彼が降りたのを見届けると、牛車のドアは意志を持っているかのようにピシャリと閉ざされた。


「ほな、ワテは女鬼じょきちゃんのところへ行きますさかい。食堂の皆さんには、宜しゅう言うといておくれやす。真壁はん、精々楽しんでいきよし」

客室の窓から、のっぺらぼうがその起伏のない真っ白なかおを出し、優雅に指先を振る。


「毎度ありー。今夜も良い因果が見られそうやね。ほなねー、おおきに!」

運転席の方輪車かたわぐるまも快活な声を上げ、火の粉を散らしてアクセルを踏み込む。

牛車は再びゴォォォォと空間を焼き焦がすような咆哮を上げ、夜の帳の向こうへと颯爽と走り去って行った。


範彦は呆気にとられ、しばらくそのテールランプのような炎の残像を見送っていたが、我に返って目の前の建物を見上げた。

軒下には「摩訶不思議食堂」と記された、古風だが手入れの行き届いた看板が掲げられている。


「……ここが、彼女の言っていた『美味い店』か」

怪異に連れられて来た場所にしては、あまりに真っ当で、同時にどこか懐かしい温かみを放っていることに、範彦は奇妙な安堵と、それ以上の違和感を覚えていた。


「えらいこっちゃな個性おっちゃん御一名、御案内!」

えらいこっちゃ嬢が、小柄な体からは想像できないほど通る声で叫びながら、店の引き戸を勢いよく開け放つ。


範彦は抗う術もなく、招かれるままに店内へと足を踏み入れた。

案内されたのは、美しく磨き上げられた一枚板のカウンター席。


「そこに座りよし。えらいこっちゃな特等席」

彼が腰を下ろしたのを確認すると、えらいこっちゃ嬢はそのままツカツカと厨房の奥へと消えていった。


範彦が所在なげに、しかし好奇心を抑えきれずに店内をキョロキョロと見回していると。

カウンターの奥、薄暗い厨房の影から、まるで地面から「ぬぅっ」と湧き出してきたかのような、不思議な威圧感を持つ人物が現れた。


「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。そして御客様、ようこそいらっしゃいました。私は、この店の店長をさせて頂いております。皆さんは親しみを込めて『地蔵店長』と呼んで下さいます」

そこにいたのは、名前の通り、穏やかな石像のお地蔵様をそのまま人間にしたような風貌の店主だった。

地蔵店長は、慈愛に満ちた柔和な微笑みを湛え、静かに合掌して深々とお辞儀をする。


「あ、どうも。初めまして、真壁です。……失礼、私はこういう者です」

範彦は、相手が人間離れした雰囲気を纏っていようとも、体に染み付いた「人事課長」としての条件反射を抑えられなかった。

彼は無意識に立ち上がり、ジャケットの内ポケットから使い慣れた革製の名刺入れを取り出す。

そして、数多の商談や面接で繰り返してきた、指先一つ狂わない完璧な所作で名刺を差し出した。


すると、いつの間に着替えたのか、ベレー帽はそのままに、黒い作務衣の上に真っ白な割烹着を纏ったえらいこっちゃ嬢が、カウンターの端から範彦の指先にある名刺を、食い入るようにジーっと見つめていた。


「これはこれは、御丁寧に有難う御座います。……おや、えらいこっちゃんが、その名刺という紙に並々ならぬ興味を示しているようですねえ。宜しければ、その一枚を彼女に渡していただけましたら、私としても嬉しゅう御座います」

地蔵店長が穏やかな声でそう促すので、範彦は「ああ、はい。どうぞ」と言って、えらいこっちゃ嬢に自分の名刺を手渡した。


えらいこっちゃ嬢は名刺を受け取ると、それを目の高さまで掲げ、瞳の奥にそのデザインを焼き付けるかのような真剣な眼差しでジーっと見つめる。


数秒の沈黙。

範彦が、何か感銘でも受けたのかと思った、その瞬間。


「……何の変哲もない名刺、えらいこっちゃ」

えらいこっちゃ嬢は、吐き捨てるわけでもなく、ただ冷徹な事実を確認するように呟いた。


「え? そりゃまあ、会社の名刺なんてそんなものじゃないのか? 機能的で、分かりやすければそれで……」


範彦が困惑しながら首をかしげると、えらいこっちゃ嬢は範彦の瞳を真っ直ぐに射抜いて言い放った。


「無個性で独創性ゼロ、えらいこっちゃ」


「――っ!?」

その言葉は、範彦の心臓の最も柔らかい部分を、鋭利な刃でひと突きにした。


今日一日、佐伯大樹に、そしてのっぺらぼうに突きつけられてきた「無個性」というレッテル。

名刺という、社会における自分の「顔」そのものにまで、その宣告が下されたのだ。


えらいこっちゃ嬢は、興味を失ったかのようにくるりと背を向けると、再び厨房の奥へと消えていった。

範彦は、自分の名前と役職が記された名刺が、ただの白紙の紙片に見えるような、猛烈な虚無感に襲われていた。


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## 怪異の厨房 ―― 黄金色の誘惑と、剥がれ落ちる現実感


範彦は、名刺という己の矜持をあっさりと「無個性」と断じられた衝撃を、乾いた喉と共に飲み下した。

今はとにかく、胃袋に何かを詰め込み、この非現実的な状況から意識を逸らしたい。


気を取り直してカウンター席に座り直すと、厨房から割烹着を揺らしながらえらいこっちゃ嬢が戻ってきて、一冊の古びた、しかし丁寧な手入れを感じさせる御品書きを範彦の前に差し出した。

「これ、えらいこっちゃな逸品」


範彦が指先に触れたその御品書きは、和紙のような質感で、どこか温かみを帯びていた。

緊張でこわばった手でそれを開くと、そこには達筆な筆致でただ一文、こう記されていた。


「揚げ物定食:メンチカツとエビフライ」


その文字が視界に入った瞬間、範彦の喉仏が大きく上下した。

「……っ、メンチカツと、エビフライか……」


それは、妻に健康を案じられて遠ざけられ、ショッピングモールの惣菜コーナーで「しなびている」と絶望した、彼が今最も渇望していた組み合わせそのものだった。

サクサクの衣を噛み締めた瞬間に溢れ出す肉汁、そしてプリプリとした海老の食感。

想像しただけで、口の中に洪水のような唾液が溢れ出す。


「……いいね、最高だ。会社を出てから結構な距離を歩いたし、今日は……本当に、信じられないほど色々なことがありすぎた。今はただ、がっつりと豪快に揚げ物を食べたかったところなんだ」

範彦は、先ほどまでの怯えを忘れたかのような上機嫌な笑顔で、えらいこっちゃ嬢に御品書きを返した。

えらいこっちゃ嬢は、我が意を得たりとばかりに深く頷くと、厨房に向かって朗々と声を張り上げた。


「揚げ物定食一丁! ラビさんと猫子ねここさんの絶品揚げ物、メンチカツとエビフライ! 新鮮野菜は蛙仙人さん! タルタルソース付きでえらいこっちゃな豪華定食!」

注文を伝えると、彼女はトコトコと厨房の奥へと戻っていく。


範彦はその威勢のいい声を聞きながら、期待に胸を膨らませていた。

「ますますいいじゃないか。エビフライにタルタルソース、これこそが最高の組み合わせだ。それにしても……ラビさんに、猫子さん? なんとも可愛らしい名前の料理人だな。それに蛙仙人、か……。こだわりのある職人さんなのかもしれないな」


範彦は、運ばれてくるであろう黄金色の御馳走を心待ちにし、弾む心でカウンター越しに厨房の様子を覗き込んだ。

その直後、彼の顔から血の気が引き、上機嫌な笑顔は氷点下まで凍りついた。


視線の先にいたのは、彼が想像していた「可愛らしい名前の人間」ではなかった。

のっぺらぼうの正体を知った時と同じ、あるいはそれを上回るほどの衝撃が、彼の理解を超えた姿でそこに存在している。

厨房の中で、楽しげに鼻歌をハミングさせながら立ち働いていたのは、三人の「怪異」だった。


一人は、鮮やかな紅い着物に割烹着を纏い、猫耳がぴょこりと突き出るように工夫された三角巾を被った、黒髪の女性。

穏やかな、どこか慈愛に満ちた顔立ちをしているが、その頭頂部には確かに三角形の耳が揺れている。

「猫子」と呼ばれた彼女は、慣れた手つきでタネに小麦粉と卵をくぐらせ、器用にパン粉を纏わせていた。


もう一人は、春を思わせる桃色の着物に白い割烹着を着た、小柄な女性。

糸のように細められた目と、猫のようにキュッと上がった口角が印象的な笑顔の持ち主だが、その頭からは長く立派な、白くふわふわとした兎の耳が伸びている。

「ラビ」と呼ばれた彼女は、猫子が衣をつけた海老を、黄金色の油の中へと次々に滑り込ませていた。

パチパチという心地よい音が、静かな店内に響く。


そして最後の一人は、深い緑色の作務衣に清潔な白い割烹着を掛けた、一際異質な料理人だった。

その肌は鈍い緑色に輝き、大きな瞳の中にある瞳孔は、人間とは決定的に異なる「横一直線」の形をしている。

しかしその顔立ちは驚くほど穏やかで、慈父のような優しさを湛えていた。

蛙仙人は、「ほい、ほい、ほい」と小気味よいリズムで、職人芸のような包丁捌きを見せ、瑞々しいキャベツを瞬く間に繊細な千切りへと変え、皿の上へと鮮やかに盛り付けていた。


「な、なんなんだここは……っ」

範彦は、腰を抜かさんばかりに震えながら、カウンター席の背もたれに強く身をもたれかからせた。

「のっぺらぼうだけじゃない……料理人まで、人間じゃないのか? ここは本当に日本なのか? 僕はまだ、生きているんだろうな……? 何かの悪い夢でも見ているんじゃないのか……っ」


激しく乱れる呼吸と共に、範彦は必死に現実を掴もうとする。

しかし、厨房から漂ってくる油の香ばしい匂いと、キャベツを刻む規則正しい音だけが、あまりにも鮮明に、これが逃れようのない「現実」であることを突きつけていた。


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## 黄金のサクサク ―― 思考を止める極上の揚げ物


範彦が厨房の異形な光景に圧倒され、半ば魂が抜けたような顔で呆然としている間に、カウンターの向こう側では着々と「完成」の時が近づいていた。

パチパチという軽快な油の爆ぜる音が鳴り止み、代わって静寂の中に、暴力的なまでに芳醇な香りが立ち込める。



割烹着の裾を軽やかに揺らしながら戻ってきたえらいこっちゃ嬢が、重厚な木製のお盆を範彦の前に置いた。

「揚げたて熱々、えらいこっちゃな豪華定食!」

音も立てず、それでいて吸い付くように丁寧な所作で置かれたそのお盆の上には、まさに範彦が夢にまで見た「理想」が凝縮されていた。


大皿の上で黄金色に輝くメンチカツと、天を突くようにそそり立つ二本の大ぶりなエビフライ。

その脇を固めるのは、蛙仙人が丹念に刻み上げた瑞々しいキャベツの千切り、そして彩り鮮やかな胡瓜と真っ赤に熟したトマトだ。

さらに、一粒一粒が真珠のように輝き、柔らかな湯気を立てる炊きたての御飯。

煮干しと昆布の深い出汁の香りが鼻腔をくすぐる味噌汁。

そして、艶やかに光る自家製の漬物。


揚げたて特有の香ばしい油の匂いと、味噌汁のどこか懐かしい香りが混ざり合い、範彦の空腹はもはや限界を通り越して悲鳴を上げていた。

「……これは、本当に美味そうだ」

範彦は先程までの恐怖も忘れ、子供のようなホクホクとした笑顔で箸に手を伸ばそうとした。


しかし、その瞬間、突き刺さるような強い視線を感じて動きを止める。

ふと顔を上げると、カウンターのすぐ向こうで、えらいこっちゃ嬢がその大きな瞳で範彦をジーっと、瞬きもせずに見つめていた。


「……え、えっと?」

範彦が戸惑いながら彼女を見返すと、えらいこっちゃ嬢は無言のまま、胸の前でそっと掌を合わせる「合掌」のポーズをしてみせた。


「あ、なるほど……。合掌して、『頂きます』をしろ、ということだね?」

範彦が彼女の動きをなぞるように手を合わせ、静かに「頂きます」と唱えると、えらいこっちゃ嬢は満足したのか、一つだけ深く頷いてから厨房へと戻っていった。


「合掌と『頂きます』を知れ、ということだったのか。不思議な子だけど、礼儀や作法についてはしっかりと躾けられているんだな……」

範彦は彼女の凛とした態度に妙な感心をおぼえ、改めて背筋を正して箸を手にした。


まずは、ずっと待ち焦がれていたエビフライからだ。

箸で持ち上げた瞬間、衣の軽やかさが指先を通じて伝わってくる。

何もつけずに一口かじりつくと、「サクッ!」という、耳元で楽器が鳴ったかのような快音が静かな店内に響いた。

衣の中からは、熱々でプリプリとした海老の身が弾け出し、濃厚な甘みが口いっぱいに広がっていく。


「美味い! 塩も何もつけなくてこの美味さ、ここは間違いなく一流の名店じゃないか!」

範彦の顔は、あまりの幸福感に思わず「ほっこり」と綻んでしまった。


続いて、小皿にたっぷりと盛られた自家製タルタルソースを纏わせてみる。

タルタルソース自体が、卵のコクと玉ねぎのシャキシャキとした食感が絶妙に調和した絶品で、これがエビフライに合わないはずがない。

ソースの酸味と海老の甘みが口の中で完璧なマリアージュを果たし、範彦のほっこりした笑顔は止まらなくなった。


エビフライを一本平らげると、口休めに野菜や味噌汁、そして御飯にも手を付けた。

だが、脇役のはずのそれらもまた、驚くほどの完成度を誇っていた。

「全部が美味いぞ、これは。特にこの御飯、炊きたて独特の香りと、噛むほどに広がる甘みが格別だ……」


範彦がうなるようにほっこりと感想を漏らすと、厨房から衣を準備していた猫子が、ニコニコと顔を出した。

「御飯は、あちらの土鍋でコトコト炊かせてもろてますえ。直火でじっくり火を通すんが、一番美味しいさかいに」


「なるほど、道理で。御飯一つとっても、これほど手間暇をかけて……。本当に本格的なんだな」

範彦は、土鍋炊きの御飯という贅沢に、改めて背筋が伸びる思いがした。


それから、もう一つの主役であるメンチカツへと箸を進める。

外側は繊細かつサクサクとした衣の歯応え。

それを突破した瞬間、中から溢れ出したのは、これでもかというほど濃厚な肉汁だった。

「……っ、熱い、でも美味い! のっぺらぼうが言っていた通りだ。『サクッと軽くて、中から肉汁がじゅわっと溢れるようなジューシーさ』……まさにそのものじゃないか」


範彦は、溢れる肉汁を逃さぬよう、御飯の上でバウンドさせてから口へ運ぶ。

肉の旨味と、それを引き立てるスパイスの配合。

すべてが完璧だった。


「僕は何で今まで、こんな名店を知らなかったんだろう。揚げ物好きなら、仕事帰りだけじゃなく休日の食事にも良いし、毎日だって通いたいレベルだぞ……」


範彦は、人事課長としての小難しい理屈も、今日受けた屈辱もすべて忘れ、ただ目の前の「食」という原始的な喜びに身を委ね、「ほっこり」とした笑顔で無心に食を進めていった。


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## 崩れたカステラと、踏みにじられた「個性」の定義


範彦は、皿の隅々まで残ったタルタルソースさえも惜しむようにして、人生で最高とも言える揚げ物定食を完食した。

あれほど恐ろしかった怪異たちの厨房も、この至福の味を前にしては、もはや「最高のスパイス」にすら思えてくるから不思議なものだ。

胃袋も心も黄金色の満足感で満たされ、範彦が「ふぅ……」とほっこりとした至福の溜息を吐きながら余韻に浸っていると、またしても横から強烈な熱視線を感じた。


ふと視線を向ければ、そこには例のごとく、一点を凝視するような銀髪の少女、えらいこっちゃ嬢が直立不動で範彦を見つめていた。

「えっと……ああ、そうだったね。御馳走様でした」

範彦が今度は迷うことなく、教わった通りの作法で胸の前で掌を合わせ、感謝の言葉を口にすると、えらいこっちゃ嬢は「よし」と言うように短く頷き、トコトコと厨房へ戻っていった。


礼儀に厳しい給仕さんだな、と範彦が感心している間もなく、彼女は再び何やら御品書きのような小さな紙片を持って戻ってきた。

「甘いもんは別腹。えらいこっちゃなデザート」


差し出されたそれを開いてみると、そこには少々奇妙な品名が記されていた。


「個性的なカステラと無個性カステラのセット」


「……個性的なカステラと、無個性なカステラ?」

範彦は思わず眉をひそめ、その文字を指でなぞった。

「無個性の方は、まあ、ごく一般的なカステラなんだろうけど……。個性的っていうのは何だい? 抹茶とか、黒糖とか……あるいは、何かスタンダードな味ではない珍しい素材を使っているとか、そういうことかな」


範彦は、自分の「個性」に対するこれまでの価値観に照らし合わせ、何らかの「付加価値」や「独創的なフレーバー」を想像して首をひねる。

「まあ、揚げ物の後のデザートまで出してくれるなら有難い。その『個性的』というのも気になるし、是非お願いするよ」


範彦が笑顔で御品書きを返すと、えらいこっちゃ嬢は無言でそれを受け取り、一度厨房へ下がった。

そして数分もしないうちに、二種類のカステラと、湯気を立てる静かな緑茶が乗ったお盆を携えて戻ってきた。

音も無く、静謐な所作で範彦の前に置かれたその皿を見た瞬間、彼は言葉を失い、大きく目を見開いた。


一つは、確かに端正な一切れだった。

きめ細やかな黄色い生地がふんわりと立ち上がり、上のザラメが美しく光る、非の打ち所がない「無個性」――すなわち、誰もが理想とするカステラ。


しかし、もう一方はどうだろう。

それは、見るも無残にぐちゃぐちゃに潰されていた。

折角のふんわりとした空気感は完全に押し潰され、形は歪み、生地の一部は千切れて皿の上に散らばっている。

まるで重い荷物の下敷きにでもなったかのような、無残な「カステラだったはずの物体」がそこにはあった。


「えっと……えらいこっちゃん。こっちの潰れたものは、何かの試作品か……もしくは、いわゆる『訳ありカステラ』というやつかな? ほら、製造工程で形が崩れてしまったから、割引価格で購入できるアウトレット品とか。その類い……なんだよね?」

範彦は必死に理性を働かせ、この無残な姿に「現実的な理由」を見出そうとした。


しかし、えらいこっちゃ嬢は範彦の狼狽を冷ややかに見据え、感情の読み取れない声で言い放った。

「個性おっちゃんの大好物。えらいこっちゃな、個性爆発カステラ。」


「え……?」

範彦の背筋を、冷たい汗が伝った。


ぐちゃぐちゃに潰され、原型を留めていない姿こそが「個性的」であり、それを自分が「大好物」だと言われた。

自分がこれまでに学生たちに求めてきた「個性」とは、一体何だったのか。

彼らのありのままを「のっぺらぼう」だと断じ、強引に形を変えさせ、潰してでも「他と違う姿」にさせようとしていたのは、自分だったのではないか。


範彦がその残酷な示唆に戦慄し、カステラを見つめて立ち尽くしていた、その時だった。


――ガラッ!


突如として、静かな店内に不釣り合いなほど力強く、店の扉が開く音が響き渡った。

夜の冷たい風が店内に流れ込み、行灯の火が微かに揺れる。

範彦が弾かれたように、扉の音がする方を振り返った。


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## 黄金の瞳の審判者 ―― 露呈する「選ぶ側」の綻び


範彦が、皿の上の「潰された個性」という残酷なメタファーに息を詰めていた、その時だった。

背後で引き戸が勢いよく滑り、夜の冷気と共に、圧倒的な「華」が店内に流れ込んできた。


範彦が弾かれたように振り返ると、そこには視界が焼けるような美しさを湛えた、一人の超絶美少女が立っていた。

年齢は女子高生くらいだろうか。

しかし、その存在感はそこらの学生とは一線を画している。

黒地に金色の花の刺繍が贅沢にあしらわれた、目の覚めるような美しい着物を着こなす彼女は、優雅に、かつ颯爽とした所作で店へと入ってきた。


範彦は、思わず息を呑んだ。

透き通るような金色の瞳に、頭の左右からは黒く鋭い、二本の鎌状の角が天を指して生えている。

長く鮮やかな金髪は、シュシュを使って左側でサイドテールに束ねられており、古風な着物美人でありながら、現代の「ギャル」としての軽やかさと風貌を併せ持つ、摩訶不思議な魅力に溢れていた。


女鬼じょきねえちゃん、御疲れちゃん! えらいこっちゃなグッドタイミング!」

えらいこっちゃ嬢が、これまでにないほど激しく両腕をぶんぶんと振り回して、その美少女――女鬼へと挨拶をした。


地蔵店長もまた、慈愛に満ちた笑みを湛えて静かに掌を合わせる。

「女鬼さん、御疲れ様です。いらっしゃいまし。準備は万端、調うて御座います」


「おつー♪ のっぺらさんから話聞いてきたよー♪」

女鬼と呼ばれた少女は、指先をひらひらと振って軽快に応えると、不思議に着物との調和がとれている黒いブーツを鳴らしてカウンター席までやってきた。


彼女は驚愕のあまり固まっている範彦の横まで到着すると、悪戯っぽく片目を閉じて見せた。

「人事課長さん、おつー♪ 丁度デザートの時間だねー♪」


「……っ」

至近距離で放たれた超絶美少女のウインクに、範彦の心臓がどきりと大きく跳ねる。

彼は人事としての理性を総動員し、何とか平静を保とうとネクタイの結び目を直すような仕草をしながら声を絞り出した。


「あ、ああ。……えっと、君とは初対面のはずだが。何故、僕が人事課長だと知っているんだ? ……ああ、そうか。今、のっぺらぼうさんから話を聞いたと言っていたね」

範彦が何とかそう返すと、女鬼はカウンターにひょいと腰掛け、屈託のない笑顔で頷いた。

「うん、面接でお世話になったらしいじゃん? ま、結局は不採用にしたらしいけどさー」


「……そんなことまで聞いていたのか。まあ、あんな、人を食ったような態度を面接でやらかしたんだから、不採用通知を出すまでもなく、本人たちも察しているだろうな」

範彦が自嘲気味に笑うと、女鬼の表情からふっと温度が消えた。


彼女は顎を少し引き、範彦の瞳を真っ直ぐに射抜いて告げた。

「あのさー。面接が終わった直後に、部下と一緒に『不採用だ』って、部屋の中で愚痴ってたらしいじゃんよ?」


「え……」


「就職活動中の学生って『会社の外でも、その行動や態度は誰かに見られているから気を付けなさい』って耳にタコができるほど指導されるみたいだけどさ。採用担当者とか面接官が会場でやらかしてるなんて、笑えないじゃん? 面接の後に堂々とその場で学生の愚痴を言ってるなんて、お世辞にも学生のお手本になるべき『社会人』のやることじゃないよね」

女鬼は、呆れたように小さくため息をついた。


範彦の脳裏に、面接後の光景が鮮明に蘇る。

学生たちが退出した直後、部下たちと椅子にふんぞり返り、彼らを「のっぺらぼう」だと嘲笑ったあの時間。


「ああ……。そんなことも、していたような気がするよ。……面接が終わった後、あの妖怪は、まさかすぐに帰らずに扉の向こうで盗み聞きをしていたのか?」

範彦が顔を青くして呟くと、女鬼はどこか含みのある笑みを浮かべた。

「聞き耳を立ててたのは、のっぺらさんじゃなかったけどね。……ま、それは置いといて」


女鬼は再び明るい表情に戻り、範彦の前に置かれた二種類のカステラを指差した。

「あーしのことは気にせずに、楽しいデザートの時間をどうぞ♪ じっくり味わってね、人事課長さん」


女鬼のにっこりとした微笑みが、範彦にはどの怪異の貌よりも鋭い刃のように感じられた。

彼は震える手で、フォークを手に取った。


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## 黄金の休息 ―― 異世界の職人が紡ぐ甘美な調べ


範彦は、とりあえず目の前に並んだ二つの対照的なカステラのうち、端正な姿を保っている「無個性」な方へと箸を伸ばした。

黄金色に輝く断面にフォークを沈めると、しっとりとした弾力と共に、どこか懐かしくも洗練された甘い香りが鼻腔をくすぐる。

一口食べてみると、生地は口の中でふんわりと魔法のように解け、上品で深みのある蜂蜜のような甘みが舌の上で踊り出した。

それは、口にした瞬間に「最高級の逸品」であると確信させるほどの、圧倒的な完成度を誇るカステラだった。


「……っ! 凄く美味いな。このカステラも、この店で手作りしているのか?」

範彦は、あまりの美味しさに感銘を受け、思わずほっこりとした笑顔を浮かべて尋ねた。

すると、カウンターの奥で穏やかに佇んでいた地蔵店長が、静かに掌を合わせた。


「こちらのカステラは、近隣でパン屋を営まれているダークエルフさんから仕入れる事もあれば、時にはダークエルフさんにこちらへお越し頂いて、その場で焼き上げて頂く事も御座います」

店長はそう言うと、慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔で、丁寧にお辞儀をした。


「……ははは。今度はダークエルフの御登場か。つくづくこの店は、僕の常識が通用しない異世界じみているな」

範彦は、そのあまりに現実離れした材料のルーツに、思わず感嘆混じりの笑みが漏れた。


しかし、この極上の味を前にしては、それすらも「美味しい理由」として受け入れられてしまうから不思議なものだ。

彼は無個性の、つまりはスタンダードなカステラを最後の一片まで惜しむように堪能し、淹れたての緑茶を一口飲んで、心身ともにほっこりと一息ついた。


続いて範彦は、隣の皿に鎮座する「個性的なカステラ」へと視線を移し、それをじっと見つめた。

形が崩れて歪んだその姿は、先程の完璧な一切れを体験した後では、より一層の異様さを放っている。


「……これは、ただ単に運ぶ途中で潰れてしまっただけなのか? それとも、何かこう、特別な工程を経て、あえてこのような個性的な形に仕上げているんだろうか」


範彦はこの店の事だ、何か深い意図があるのではないかと恐る恐るフォークを突き刺してみる。

慎重に一口食べてみると、意外なことに、その味わいは先程食べた絶品カステラと全く変わらず、最高に美味しいものだった。


「……美味いな。味については、個性的でも何でもないじゃないか。見た目に反して、いたって真面目なカステラの味だ」

範彦は、見た目の異様さとは裏腹な、どこか誠実さすら感じる「普通の美味しさ」に、心の底からホッとしたような溜息を吐き出した。


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## 矛盾のカステラと、暴かれる「選ぶ側」の虚飾


範彦は、見た目は無残に潰れていたが、素材の良さと絶妙な甘さが際立っていた「個性的なカステラ」をすべて平らげると、湯気を立てる緑茶をゆっくりと啜った。

揚げ物の脂を洗い流すような、清涼な茶の香りが鼻腔を抜ける。

人心地ついた範彦が「ふぅ……」と一息つくと、カウンターに肘をついた女鬼が、試すような金色の瞳でじっと彼を見つめてきた。


「ねえ、個性おっちゃん。今の二種類のカステラ、どっちが好みだった?」

女鬼の唐突な質問に、範彦は茶碗を置いて即座に答えた。

「え? そりゃあ、見た目がいい方だよ。味はどちらも良かったが、やはり食事は視覚的な美しさも大切だからね」


「へぇー。つまり、今しがた平らげた『個性的なカステラ』の方が好みだったってこと?」

女鬼が不思議そうに首をかしげる。


「いや、見た目がいい方って言ったろ?僕が好きなのは先に食べた方だよ。形が崩れていない、綺麗に整った方だ。」

範彦が当然の理屈としてそう断言すると、女鬼は今度は逆方向に、さらに深く首をかしげて見せた。

「……なんで?」


「え? いや、だって……綺麗な方が良いに決まっているじゃないか。潰れているよりは、整っている方が商品としての価値も高いし、食欲もそそられる。当たり前のことだろう?」

範彦が困惑しながら答えると、女鬼の唇の端が、楽しげに、そして少しだけ意地悪く吊り上がった。

「変なの。おっちゃん、個性的なのが好きなんだよね? 面接でも、いつだって自分好みの個性的な学生を選り好みして採用してんじゃん。採用基準は『個性的かどうか』なんでしょ? なのに……食べるものは、何の変哲もない標準的なのがいいんだ?」


「えっと……君は一体、何を言っているんだ?」

範彦の頭の中で、論理の歯車が狂い始める。


女鬼は、サイドテールの髪を指先で弄りながら、淡々と言葉を重ねた。

「のっぺらさんから聞いたよ。面接だと『個性が無い』って言って、学生たちのことを個性的じゃないだとか、『のっぺらぼう』だとかボロクソに批判してたって。……あ、じゃあさ。おっちゃんは『のっぺらぼう』が嫌いってことは、のっぺらさんのことも嫌いなんだねー」


「いや、 そういう意味じゃないよ。あの『のっぺらぼう』云々は、あくまで比喩的な例え話だ。彼女そのものを嫌っていたわけじゃない」

範彦は慌てて弁解した。

目の前の金髪美少女が、友人のために怒っているのだと思ったからだ。


「ふーん。まあ、のっぺらさんって超美人だもんねー」

女鬼がどこか投げやりにそう言うので、範彦はさらに必死に言葉を繋ぐ。

「ひょっとして、僕が『のっぺらぼう』なんて言い方をしたのを気にして、君の気分を害してしまったのかな? あの彼女と友達である君が、それを怒っているのなら、本当に悪かったよ。もう二度と、あんなことは言わないから」


範彦は自分の失言を認め、素直に頭をかいた。

しかし、女鬼は深いため息をつき、肩をすくめて見せた。

「あーしとのっぺらさんは確かに友達だけどさ。のっぺらさんは別に気分を害してないし、あーしもそのことで復讐的な嫌味を言いに来たわけじゃないよ。おっちゃん、自意識過剰すぎ」


女鬼はそう言うと、不意にカウンターに乗り出すようにして、範彦の瞳を真っ直ぐに覗き込んできた。

金色の瞳に、夜の行灯の火が妖しく反射する。

その視線に射抜かれ、範彦は身動きが取れなくなった。


「ねえ。おっちゃんにとっては、個性がどうのこうのだとか、個性的であるかどうかが採用基準の重要ポイントなんだよね?」

女鬼の声が、少しだけ低く、そして鋭くなる。


「……じゃあさ。そもそも、おっちゃんにとって『個性』って何?」


その質問は、今日一日、幾度となく投げかけられ、そのたびに範彦がはぐらかしてきた問いだった。

しかし、この摩訶不思議な食堂のカウンターで、本物の「鬼」を前にしては、もはや誤魔化しは通用しないことを、彼の本能が察知していた。


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# 仮面の論理 ―― 崩れ去る人事課長のプライド


「え……?」

不意に突きつけられた根源的な問いに、範彦の思考は真っ白な砂嵐に飲み込まれた。


数秒前まで揚げ物の余韻に浸っていた脳が、急激な回転を強いられて軋みを上げる。

人事課長として、面接の場で何度も口にし、学生たちに求めてきたはずの「個性」という言葉。

それが、目の前の金髪の美少女の口から出た瞬間、まるで一度も聞いたことがない未知の言語のように響いた。


「個性おっちゃんって、就職活動中の学生に対して、みんな一緒だとか、個性がないのっぺらぼうだとか言って、ずいぶんと批判的な見方をしてるよね。でもさ、そもそも『個性』ってなんなん? おっちゃんはそれを軸とする価値基準を持って学生を切り捨ててるんだから、当然、あーしにも分かるように懇切丁寧に説明できるよね?」

女鬼はカウンターに身を乗り出し、金色の瞳を爛々と輝かせて範彦を追い詰める。

その瞳の奥には、人間の浅知恵を見透かすような、冷徹な理知が潜んでいた。


範彦は額に滲む汗を拭い、喉の奥で詰まった言葉を何とか形にした。

「それは、勿論……他にはない強みを持っていたり、これについては誰にも負けないという独自の『武器』を持っていることだ。それが社会における個人の際立ち、つまり個性だろう」


「ふーん。それって本当に『個性』なん? じゃあさ、強みと個性の違いって何? 強みは個性で、弱みは個性じゃないってこと? そもそも、おっちゃんの言う『強み』って何なのさ?」

間髪入れずに飛んでくる質問の礫。

女鬼は楽しそうに、しかし容赦なく範彦の論理の綻びを突いていく。


「えっ……それは……」


「ほら、こないだの面接でものっぺらさんが尋ねてたじゃんよ。『そもそも強みって、なんです?』ってさ。あの時は『色々だ』とか言って適当に誤魔化してたけど、ここでもまた誤魔化すつもり?」

女鬼の言葉に、範彦の脳裏にあの凍りついた面接室の光景がフラッシュバックする。


あの時、答えを窮して強引に話を打ち切った自分。

その醜態を、この少女はすべて把握しているのだ。


「だから、それは他より秀でていることであってだな……仕事に役立つスキルや、突出した実績のことだ!」

範彦は語気を強めて反論した。

それしか、自分を守る術がなかったからだ。


「それじゃあ、個性おっちゃん自身の『強み』って何? 誰にも負けない、世界に一つだけの個性的な強み、持ってんの?」


「それは……そうだ、僕は人事課に配属されてから課長にまで昇進し、10年以上にわたって数々の採用活動をこなしてきた。だからこそ、僕には『人を見る目』がある。それが僕の強みだ!」

範彦は、自らのキャリアを盾にするように自慢げに言い放った。

部下たちの前で見せる、威厳ある上司の顔を必死に繕う。


しかし、女鬼は深く、深く、呆れたようなため息をついた。

「ふーん……人を見る目ねえ……。あのさ、昇進するとか、社会人やって会社員やってりゃよくある話じゃん。そんでもって、人を見る目が養われてないと、人事採用担当としてはそもそも仕事になんないっていうか、そっちの方が問題っしょ。そんなありきたりなことが、おっちゃんの言う『個性的な強み』なん? それが個性おっちゃんの大好きな、個性的で自慢できる強みがある人間の到達点なわけ?」


「……っ!」

範彦は言葉を失った。

自分が誇りとしてきたキャリアが、女鬼の言葉によって「最低限のノルマ」へと格下げされていく。


「娑婆だと個性的であることだとか、これだけは誰にも負けないって言う強みとか、オンリーワンとか、そういうのがもてはやされてる風潮があるけどさ。じゃあ実際に、個性的とか誰にも負けない強みってのを持っていて、尚且つそれが何なのかをバシッと説明できる人って、娑婆にどれだけいるんだろうね?」


女鬼はサイドテールの髪を指先で弄りながら、窓の外の夜の静寂を見つめるように言う。


「そんでもって、個性おっちゃんはその価値観にどっぷり浸って、人を見下してるみたいだけど……自分自身だってそういうのを持っていないし、全然明確に説明も出来てないじゃんよ」


女鬼は再び、範彦の鼻先まで顔を近づけた。

「そんじゃ、もう一度聞くね? ……『個性』とか『個性的』って、一体何?」


静まり返った食堂。

地蔵店長は穏やかな笑みを絶やさず、えらいこっちゃ嬢は無表情にそのやり取りを見守っている。

範彦が先程食べた「潰されたカステラ」が、まるで今の自分を象徴しているかのように思えた。


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## 個性の偶像崇拝 ―― 剥がれ落ちる「見る目」のメッキ


範彦は、絶句していた。

喉の奥まで出かかった言葉は、実体のない煙のように霧散し、唇はただ力なく戦慄くだけだった。

人事のプロとして、数えきれないほどの学生を「個性」という物差しで測ってきたはずの自分が、その物差しの目盛りが何であるかさえ説明できない。

その無様な沈黙が、店内の静寂に重くのしかかる。


「ほらね。自分でも全くわかってないから、一言も答えられないじゃん」

女鬼は、勝ち誇るでもなく、ただ哀れみを見るような目で大きなため息をついた。


「えらいこっちゃー……」

えらいこっちゃ嬢もまた、これ以上ないほど深い、地を這うようなため息を漏らす。

その小さな肩が落胆に揺れる様は、範彦の心に鋭いトゲを突き刺した。


「結局さー、個性おっちゃんは自分の中の定義も曖昧にしたまま、さも自分は『真理をわかってます』みたいなツラしちゃってるって事。個性だの強みだの、それっぽいキラキラワードを並べて、学生たちを効率よくふるいにかけてただけなんよ。その篩もスッカスカの網目で、だだ漏れにしちゃってた感じだし。」

女鬼は、指先でサイドテールの綺麗な髪を弄びながら続けた。


「本当におっちゃんが、そんなに『個性的な人』が大好きで、喉から手が出るほど欲しかったんだとしたら、あの面接で少なくとも、のっぺらさんと、あの元気な男子学生は採用決定だったはずっしょ? のっぺらさんはあの中で唯一の怪異だったんだから、他の五人と比べたら物理レベルで明らかに個性的だったし。あの男子学生だって、おっちゃんのプライドをこれでもかってくらい逆撫でして、ずっと面白いことやって個性爆発させてたじゃん」


「いや、……あれでは社会人としてのコミュニケーションとしては最悪だ! 目上の人間に対してあまりに失礼だし、あんな性格では、営業先で取り返しのつかない不祥事をやらかしそうじゃないか!」


範彦は、必死に「常識」という名の防壁を築き、自分を正当化しようと言葉を絞り出した。

しかし、女鬼はその防壁を軽々と踏み越えてくる。


「それはそう。そりゃあね、あんな鋭いナイフみたいな子に外回りの仕事は任せられないよね。営業先で取引先の人を完膚なきまでに論破して、商談をぶち壊しそうだし。でもさ、ああいう核心をズバズバ突いてくる人って、停滞した社内の改善とか、古い体質の改革とかに向いてんじゃね? 既存の枠組みを壊すのが得意な人間を、そっち方面に人員配置したら、存分に力を発揮してくれる気がするんだけどねー。ま、あーしの勝手な主観だけどさ」


「それは……そうかもしれんが……」

範彦は口ごもった。


適材適所。

人事として最も基本的なその考えを、あの時、自分の感情が塗りつぶしていたことを認めざるを得なかった。


「結局さー、個性おっちゃんは論破されたとか、答えにくいことをズバッと質問されてグサッと来ちゃって、プライドを傷つけられて嫌な気持ちになった……。それで、自分の『好き嫌い』だけで採用・不採用を決めただけなんじゃないの? 別の人事だったら『この子、尖ってて面白い!』って思って、その場で採用を決めてたかもしれないよ?」


女鬼の言葉は、鋭いメスのように範彦の深層心理を暴き出していく。


「個性的な人に価値があるみたいな言い方をして、それを立派な価値基準にしてるようだけどさ。それ自体が実体のないフワフワした、おっちゃんの気分次第で変わる曖昧なものでしかないじゃん。そんな不確かなフィルターのせいで、おっちゃんの自慢の『見る目』、すっかり曇っちゃってるんじゃね?」


ぐうの音も出ない。

範彦は、自分の積み上げてきたキャリアが、砂の城のように音を立てて崩れていくのを感じた。


そこに、女鬼が最後の一撃を畳みかける。

「個性おっちゃんって、『個性教』とか『オンリーワン教』とか『誰にも負けない強み教』とか、そういう流行りの宗教にどっぷり入信して、ずぶずぶに洗脳されてるっぽいけど。それでいて、最も肝心な『根幹』なり『核』となる部分が曖昧なままで、中身がスッカスカの薄っぺらい人間だってこと、おわかり?」


女鬼の冷徹な宣告が、範彦の耳の奥でいつまでも鳴り響いていた。

目の前の、ぐちゃぐちゃに押し潰された「個性的なカステラ」の欠片が、今の彼のプライドそのもののように無残に転がっていた。


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## 鏡合わせの選別 ―― 剥がれ落ちた色眼鏡と、沈黙の誓い


「な……!? 薄っぺらいって、幾らなんでも初対面の相手に対して失礼じゃないか! 僕はこれまで、数え切れないほどの人間と向き合い、真剣にその将来を左右する決断を下してきたんだぞ!」

範彦は椅子の脚を激しく鳴らして立ち上がり、堪らず声を荒らげた。


人事課長という肩書きが、そしてこれまで積み上げてきた三十八年間の自負が、目の前の少女に無造作に踏み荒らされたことに、耐え難い屈辱を感じたのだ。

激昂に震える範彦の叫びは、静まり返った店内の空気を鋭く震わせた。


しかし、女鬼はその剣幕に微塵も動じることなく、むしろ冷めた視線を向けて、淡々と、しかし峻烈な一撃を放った。

「そうやって大きな声を出して叫んじゃうって事は、あーしに核心を突かれたって事じゃん。深層心理では自分の薄っぺらさを自覚してるから、そうやって虚勢を張って自分を守ろうとするんだよ」

その言葉は、範彦が必死に築き上げた防御壁を軽々と貫通し、隠していた動揺を白日の下に晒した。


範彦は肺の空気をすべて吐き出したかのように、力なく椅子に座り直した。

「……そりゃあ、個性とは何なのかという事を、自分なりに知り尽くしているつもりだった。けれど、実はその実体すらよくわかっていないまま言葉を踊らせていたという事に、今初めて気が付いた。……それは認めよう。屈辱だが、君の言う通りだ。しかしだな……」


範彦が何とか反論の糸口を探そうとするが、女鬼はサイドテールの髪を指先で弄りながら、彼の思考を先読みするように言葉を重ねた。


「おっちゃんの事だから、個性とか個性的な人ってのは、他に比べて希少価値があるだとか、珍しいだの奇抜だの、そういった辞書に書いてあるレベルの表層的な理解で止まってたんだろうね。とりあえず『他と違うヤツ』を連れてこい、みたいなさ」

女鬼の言葉に、範彦はすがるように問い返した。

「個性とは、本来そのようなものであるのは間違いないだろう。違うのか? 他と区別できる独自の性質こそが、その人をその人たらしめる個性じゃないのか?」


「確かに間違っちゃいないよ。国語のテストだったら丸を付けてもらえるだろうし、概念に対する説明としては、それも一つの正解だよね。でもさ、それだけの浅い理解だと、人事採用担当としてはあまりにも危なっかしいかな」


「え? 一体何が危ないと言うんだ? 差別化こそがビジネスにおける勝機だろう?」

範彦が首をかしげると、女鬼は金色の瞳に、刺すような冷徹な光を宿して彼を睥睨した。


「だって、ただ珍しけりゃいいってんなら、えげつないレベルのサイコパスだとか、性格最悪で仕事もからっきしで全く出来ない癖に、奇抜であったり希少価値がある風に装うだけのヤツ、あるいは『能力が高くて個性的である自分を演じる事』だけが異常に上手いヤツを、間違えて採用しちゃうじゃん。今のおっちゃんに、そういう巧妙な化けの皮を見抜く能力って、本当にあるの?」


女鬼の問いかけは、範彦がこれまで目を背けてきた、採用活動における最大の「陥穽かんせい」を鋭く突いていた。


「今の個性おっちゃんは、自分の中に軸がないまま、曖昧で宙ぶらりんな頼りない価値基準を『絶対』だと信じ込んじゃってるじゃんよ。だから、その基準を突破するために小細工されただけで、コロッと騙されちゃいそうだし。今のおっちゃんに、そういう虚飾を百分の一の狂いもなく見抜ける能力と自信、本当にあると思ってる?」


「それは……」

範彦は言葉を失った。


これまでの採用面接で、自分を魅力的に見せる演技に長けた者たちを、果たして自分は一度のミスもなく排除できていたのか。

自信は砂の城のように崩れ去り、ただ冷や汗が背中を伝った。


「そのくせ、一見目立たなくて地味で、娑婆の浅い基準だと無個性に観えるけど、その実は凄くハイスペックで誠実な人を見落として、みすみす逃してきちゃったんじゃない? おっちゃんの歪んだ物差しのせいでさ」


女鬼はため息を吐き、カウンターに置かれたお盆の縁を指でなぞりながら、諭すような口調になった。


「勿論、就職活動中の学生達だって面接対策はすべきだし、嘘偽りなく正直である事を前提として、自分を魅力的に伝える力を付けて面接に臨む事は重要だよ。だから、あーしも採用側だけにすべての責任があるとは言わない。自分自身の魅力を伝える努力を怠ってはいけないし、アピールすべき事はしっかりアピールして、『この人と一緒に仕事がしたい』と思って貰えるように自分を磨く事は、学生や求職者側の責任だからね。それは間違いないよ」


女鬼は一度言葉を切り、真壁の瞳の奥を覗き込むようにして、重みのある言葉を静かに落とした。


「一方で、採用側も自分の中に曖昧で頼りない価値基準しかなくて、曇った色眼鏡でしか相手を見ていなかったり、誠実な質問を無碍にしたり、煙に巻いて誤魔化してばかりだと、相手からしたら『なんて失礼で、中身のない大人なんだろう』って思うだろうし、一瞬で信用を失うよね。企業側も求職者を値踏みしてるんだろうけどさ、求職者側もおっちゃんという窓口を通して、その企業のレベルを見てるんだよ」


「……」

範彦は、かつての自分の振る舞いを思い出し、肺が押し潰されるような重圧を感じた。


「『こっちは選んでやっているんだ、面接に来る奴の生殺与奪の権利があるんだ』なんて思い上がって、特等席にいるつもりでふんぞり返っていようもんなら、いつか簡単に足元を掬われちゃうよ? 優秀な子ほど、おっちゃんのそういう『薄っぺらさ』をすぐに見抜いて、去っていくんだから」


女鬼の冷徹かつ慈悲深い警告は、夜の帳が下りた店内に静かに、しかし深く染み渡っていった。

人事課長として、一人の大人として、範彦が守ってきたプライドの残骸が、足元に散らばっているような気がした。


「……肝に銘じておくよ。僕の慢心が、どれほど多くのものを見落とさせていたか……今、痛感した」


範彦は深く、深く首を垂れた。

その震える声には、もはや学生を「のっぺらぼう」と嘲笑っていた時の、浅薄な余裕は微塵も残っていなかった。


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## 相対性の天秤 ―― 環境が定義する「自分」という輪郭


範彦は、深く項垂れた。

その視線の先には、皿の上で無惨に押し潰された、あの「個性的なカステラ」が静かに転がっていた形が鮮明によみがえる。

それはまるで、剥き出しになった自分自身の浅はかな自意識を見せつけられているようだった。


「……僕は、自分が個性の欠片もない空っぽな人間なのに、他人に対しては『個性がない』だの『のっぺらぼう』だのと言って、一方的に切り捨ててきた。……結局、選んでいる側という特権階級にいるつもりで、傲慢になっていただけだったというわけか」

範彦は絞り出すような声で呟き、自嘲気味にため息をついた。


これまでの人生で築き上げてきた「人事プロフェッショナル」としての自負が、砂の城のように音を立てて崩れ去っていく感覚。

自分こそが何者でもなかったのだという事実に、胃のあたりが重く沈む。


すると、カウンターに肘をついていた女鬼が、範彦の沈鬱な様子を眺めながら、不意に、しかし淡々と、予期せぬ言葉を投げかけてきた。

「個性はあるよ。あーしらが『個性おっちゃん』って呼んでんのはさ、あくまで一側面でしかないし、ちょっとした皮肉を込めてるだけだかんね」


「……え?」

範彦は驚き、顔を上げた。


「おっちゃんの大好きな『希少性』とか『珍しさ』って意味での個性的ってやつ、この場ではまさに、最高潮に発揮されてるからねー」

女鬼は、悪戯っぽく金色の瞳を細めて、ケラケラと笑った。


「ど、どういうことだ……? 僕は今、君に散々、中身がスッカラカンだと断じられたばかりじゃないか。……混乱するよ」


範彦が狼狽しながら問い返すと、女鬼はサイドテールの髪を指先で弄り、店内の異形な料理人達や地蔵店長を見渡した。


「だってさー、娑婆の価値基準とか属性分類からしたら、この食堂って明らかに怪異率高いっしょ。あーしに、地蔵店長に厨房の三人。えらいこっちゃんは指鳴らすだけで爆発起こせるし、あーしらサイドにカウントしていいかな。そんで、おっちゃんは『人間』。……ほら、ここじゃ怪異より人間の方が、圧倒的に珍しい生き物じゃん」


範彦は、はっとして周囲を見回した。

猫耳の料理人、兎耳の料理人、緑色の肌をした蛙仙人、そして正体不明の地蔵店長と、角の生えた美少女。

えらいこっちゃ嬢は、人間の女の子と思えるが、何処か謎めいていて、人間に分類していいのかわかりかねる。

つまり自分という存在が、この閉ざされた空間においてのみ、比類なき希少種として成立している事実に気づかされる。


「そ、それはまあ、……理屈としてはそうかもしれない。だが、そんなもの、環境が変わったらすぐに没個性になるじゃないか。……僕が一歩外へ出れば、またただのサラリーマンの一群に埋もれてしまう」


範彦がそう言った瞬間、店内の空気がふわりと和らいだ。

地蔵店長も女鬼も、まるで迷子の子供がようやく正しい道を自力で見つけたかのような、深い慈しみを感じさせる優しい笑顔を浮かべた。


すると、これまで黙ってやり取りを見守っていたえらいこっちゃ嬢が、これまでにないほど激しく、両手をぶんぶんと左右に振り回した。

「えらいこっちゃなおっちゃんが、えらいやっちゃな事言いよった!」

その言葉は、奇妙な祝福のようでもあった。


「え? ……な、なんだ、また驚かせて。僕は何か変なことを言ったか?」

範彦は、地蔵店長や女鬼の満面の笑みを前に、ただ目を白黒させる。


「だねー。いいところに気づいたじゃん。おっちゃん、冴えてるー」

女鬼が機嫌よさそうに笑う。


「僕は……今、何かいいことを言ったのか? 当たり前の事実を口にしただけのような気がするが」


「そう、当たり前の事、でも、当たり前すぎて素通りしちゃうような事だよ。その素通りし続けて来た、気付くべきことに気づいた、って感じかな。今の、もう一度言ってみ?」

女鬼に促され、範彦は自分の思考を整理するように、言葉を一つ一つ、慎重に紡ぎ出した。

「えっと……僕は今、『環境が変わったら没個性になる』と言った。……つまりだ。僕がこの食堂を出て、また日常の、人間の社会に戻ったら、そこでは怪異の方が珍しくなる。だから、大衆の中に紛れる僕は、再び没個性に戻るということか?」

範彦は恐る恐る、自らの到達した仮説を女鬼へと尋ねた。


「わかってんじゃん♪」

女鬼は、範彦の鼻先で指をパチンと鳴らしてウインクした。


範彦の脳裏に、静かな、しかし確かな衝撃が走る。

個性とは、その人自身の内部に絶対的なものとして固定されている「不変の宝石」のようなものではないのだ。

自分が今どこにいるのか、どのような他者に囲まれているのかという「環境」という変数によって、色彩や価値が劇的に変化する。

「絶対的」だと思い込んでいた個性の尺度は、実は「相対的」な関係性の中にしか存在し得ない不確かな霧のようなもの。


自分が学生たちを「のっぺらぼう」と裁いたその物差しこそが、何よりも脆く、環境依存的な代物であったという真理。

その概念に初めて到達した瞬間、範彦の胸の奥で、人事課長としての強固な価値観が音を立てて剥がれ落ちていくのを感じていた。


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## 概念の虚構 ―― 「みんな違う」という名の真実


女鬼は、範彦の表情に去来する困惑と悟りが混ざり合った複雑な色を読み取ると、満足げに目を細めた。

「ようやく、個性とか個性的であるって事の呪縛が観えて来たみたいだね。おっちゃんを縛り付けてた、そのガチガチの価値観のメッキが剥がれてきた感じかな」

彼女は蕩けるような微笑みを浮かべ、範彦の反応を待った。


「……そうか。僕は、個性とか個性的であるという事は、その人が内に秘めた絶対的な希少性だと思い込んでいた。どんな場所に行こうとも変わらない、ダイヤモンドのような不変の価値だと信じて疑わなかった。だが、そんなものは環境が変わった途端に容易く崩れ去る、相対的なものに過ぎないという事か」

範彦は、自分が握りしめていたはずの確固たる「正解」が、掌から砂のようにこぼれ落ちていく感覚を味わっていた。


そして、その思考をさらに一歩先へと進める。

「そうしたら……個性的である事が無条件に良い事で、それこそが仕事においても強みになると信じて疑わなかったが、環境が変われば、その性質は強みではなくなる事もあるのか。……いや、下手をすれば、ただの異物として排除される弱点にすらなり得るという事か」


「そ。今の娑婆だと、有名な詩人が遺した『みんな違って、みんな良い』なんて言葉が金科玉条みたいに扱われてるじゃん?他にも、 世界で一つだけのなんとかだのオンリーワンだのってさ。個人主義的な風潮っていうか、多様性だの個性を大事にする風潮が持てはやされてるけど、そもそも、一度はその前提を疑ったり、しっかりと自分の頭で検証する事が肝要なんじゃないかな」


女鬼はサイドテールの髪をくるくると指に巻き付けながら、どこか達観したような口調で語る。

その姿は、軽薄なギャルという外見に反して、悠久の時を生きてきた知恵者のようでもあった。


「どういうことだ? みんな違うのは、実は間違いだと言うのか? 個々人の差異を認める事自体が、誤っていると?」

範彦は、現代社会の道徳の根幹を否定されたような気がして、思わず身を乗り出した。


「安易に良いか悪いかの二元論に突っ走っちゃうのが、おっちゃんの悪い癖だよねー。別に間違いだなんて言ってないじゃんよ。そもそも、皆が違うのなんて当たり前の事実でしょ。あーしとおっちゃんが違うのは勿論、米粒一つ取ってみても、一粒一粒は絶対に違うんだから。お米は成分とか形とか重さとか全部の要素が、たとえコピーしたレベルで全く同じに見えたとしても、物質そのものは個別具体的に違うものだしさ。工場で大量生産されてる製品だって、不良品が出た時のためにロット番号とかシリアルナンバーがあるでしょ? それはつまり、一つ一つが『別個の存在』である事を証明してるんだよね」


「まあ、確かにそうだな。規格が同じであっても、物理的に占めている空間も、刻まれている番号も、一つ一つは独立しているという事かい?」

範彦は、自分の「個性」という言葉の使い方が、いかに表面的な差異に囚われていたかを再認識しながら尋ねた。


「そーそー、わかってんじゃん♪ それに対して、良いだの悪いだの、皆違うからみんな良いなんて綺麗事を言うのは、人間が後から勝手に意味を付けて言ってるだけっしょ。本来は『みんな違うだけ』、ただそれだけの、ただの物理的な事実って事。良いか悪いかってのは、後からその時々の環境や都合で勝手に言ってるだけだし、評価なんてものは時代や場所が変わればコロコロ変わる、実体のないものなんだよ」


女鬼は金色の瞳をさらに細め、冷徹なまでの客観性を突きつける。

「これでわかった? 個性だとか個性的って言う概念は、後付けで色々それっぽく言われてるけど、それ自体はめちゃくちゃ曖昧なものなんだよ。それを深く考えもしないで、曖昧なまま自分の価値基準の『軸』にしちゃうのが、いかに脆くて頼りない事かって、おわかり?ま、おっちゃんだけじゃなくて、今の娑婆の人間で個性についてしっかり考えて、自分なりの確たる定義を持つまでに考え抜いて深化させてる人なんて、どれくらい存在するか怪しいもんだけどね」


範彦は、ぐうの音も出なかった。

人事として、あたかも自分が人間を正しく評価する全能の審判者であるかのように振る舞い、「個性的じゃない」と学生を批判しながら切り捨ててきた自分。

その基準は、今まさに女鬼が指摘したように、深く考え抜かれたものでもなく、環境一つで揺らぐ脆弱な「思い込み」に過ぎなかったのだ。


「そうか……個性的であるという事は、無条件でいい事で強みだと思っていたけれど……。それを疑った事すら無かった。自分の中で定義もあやふやなままなのに、それを絶対的な武器のようにして振りかざしていただなんて、……人事のプロだなんて名乗っていた自分が、恥ずかしい限りだ」


範彦は、カウンターに置かれた自分の名刺を見つめ、ただ深く、深くうなだれるしかなかった。

黄金色の至福をもたらした揚げ物の温もりさえ、今は冷たい恥辱の感覚に取って代わられていた。


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## 智慧の第一歩 ―― 聖域に響く慈悲の導き


範彦は、空になったカステラの皿を見つめ、静かに深く、自分自身の内面へと潜っていくような重いため息を吐き出した。

「……今まで疑いようもなく『良い事』として捉えていたけれど。個性とか個性的である事とは、一体全体なんだろうな。考えれば考えるほど、実体のない霧を掴もうとしているような気分だよ」

かつては他者を断罪するための鋭い武器であったはずのその言葉が、今は範彦の手の中で形を失い、頼りなく揺れている。


すると、隣で頬杖をついていた女鬼が、冷徹な審判者の顔を捨てて、年相応の少女のような、それでいて慈母のような慈しみを湛えた笑みを浮かべた。

「問いを立てられるようになったのは、劇的な進化だと思うよ。答えなんてすぐには出ないだろうし、もしかしたら一生かかっても確たる解答なんて出せないかもしれない。でもさ、安易な答えに飛びつかずに問い続けることこそが、自分を深める道……『深化』の道なんじゃね?」

女鬼の金色の瞳が、夜の行灯に優しく揺れる。


「……そうだな。すぐに答えが出るような浅い話じゃないのは、今の僕には直感的にわかるよ。それでも、逃げずに問い続けて、考え続けて行くことが……きっと大切なんだろうね」


範彦が噛み締めるように答えると、その決意を祝福するかのように、女鬼とえらいこっちゃ嬢が同時に、カウンターの奥に佇む地蔵店長を見上げた。

範彦もその吸い寄せられるような視線を追い、静かに店長へと目を向ける。


地蔵店長は、これまで以上に柔和で、すべてを包み込むような慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔を浮かべていた。

店長はゆっくりと、範彦の心に直接染み渡るような動作で、音も立てずに合掌してお辞儀をする。


「問いを立てる事、そして問い続けるという事は、他者の足跡を辿るのではなく、御自身の足で『智慧の道』を歩まれるという事に御座います。今、範彦さんは、その果てなき智慧の道へ確かな一歩を踏み出されました」

地蔵店長の声は、深い森の奥で鳴り響く鐘のように、範彦の魂の震えを静めていく。


「……智慧の道」

範彦はその言葉を、未知の宝物の名前を確認するように、大切に復唱した。


「気付きは、智慧の第一歩で御座います。問いを立て続ける事により、その歩みを止める事なく、御自身の内なる智慧を深めてゆかれる事でありましょう」


地蔵店長は、これから始まる長い旅路を寿ぐように、優しい笑顔を範彦に向けた。

そして、店長はさらに声を落とし、静謐な空気を纏わせながら言葉を繋いだ。


「その際に、御自身の尺度であったり、現世の価値観や価値基準……そういった既成の価値体系とは、全く別の価値体系があると知る事は、より智慧を深める大きな一助となりましょう。範彦さん、宜しければそのために、範彦さんが親しんできた価値体系とは別の価値体系からの見方、そのお話を致しましょうか」


「僕にはない、現世社会の価値観とは全く違う価値観、と言う事ですか……?」

範彦は思わず、吸い込まれるように身を乗り出した。

人事として、社会という枠組みの中で「評価」という刃を振り回してきた自分にとって、その枠組みの外側の視点は、想像すら及ばない未知の領域だった。


「左様で御座います。それは、社会の価値観や見方、現世社会の狭い視点とは全く別の次元にある視点……すなわち『仏様の教え』、その教えに基づいた視点に御座います」


地蔵店長はお地蔵さん笑顔を絶やさぬまま、静かに合掌し、一礼した。

その仕草一つで、食堂の空気は一瞬にして荘厳な寺院の静寂へと塗り替えられ、範彦はこれから語られるであろう「真理」の重みを、肌で感じ取っていた。


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## 無常の風と隨縁の導き


静寂に包まれた店内に、地蔵店長の穏やかで、それでいて芯の通った声が、染み渡るように響き始めた。

範彦は、その慈愛に満ちた眼差しに射すくめられ、自然と背筋が伸びるのを自覚していた。

先程までの混乱や羞恥心は、店長が発する不思議な清涼感によって、少しずつ凪いでいく。


「範彦さんは、これまで面接等の場で、目の前の他者に対して『その人固有の強みは何か』を伺い、個性的な強みを求めていらっしゃいました。勿論、仕事やビジネスと言った市場において、強みとなる特性は有用な武器となりましょう。それを求める事自体、何ら不思議な事はありませんし、むしろ利益を追求する現世社会においては必要な事でもあります」


地蔵店長は、範彦がこれまで歩んできたビジネスマンとしての正義を否定することなく、まずは優しく受け入れた。

その包容力に、範彦は心のどこかで救われたような気持ちになる。


「ただ、先程の女鬼さんとの会話で気づかれたように、そもそも、その人が言う強みと言うものが本当に強みとなるか弱みとなるかは、業種や業態、仕事の内容、更には関わる人達と言った数多の御縁によって変わってきます。それを確かな眼を持って見定めるという事は、並大抵の事ではなく、難しさも御座いましょう」

地蔵店長の言葉は、重く、深く、範彦の胸に沈んでいった。


「人との関わりや、御縁によって変わる……」

範彦は、その言葉の意味を噛み締めるように、小さく復唱した。


「左様で御座います。その縁もまた、一つの場所に留まり固定されているものではなく、常に移り変わっていくものです。これは仏教が説く基本的な教えで『無常むじょう』と言います。学生時代に平家物語を学ばれた事がありましたら『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』と言う一節を御存じなら、無常という言葉を聞いた事があるやもしれませんねえ」

地蔵店長は、いたずらっぽく、しかし温かい微笑みを浮かべて範彦を見つめた。


その刹那、範彦の脳裏に、かつての教室の風景と黒板の文字が鮮やかに蘇る。

「……っ! ああ、中学生の頃に習いました。そうか、あの時に僕は、既に仏様の教えに触れていたのか」


範彦は、雷に打たれたような衝撃と共に、大きく眼を見開いた。

何十年も前の記憶が、今この瞬間、現実の重みを伴って自分自身の人生と接続されたのだ。


「ええ。そして、縁も変われば、それに付随する特性、個性というものが強みになるか弱みになるかも変化し得るのです」

店長の声は、さらに静謐さを増していく。


「特定の環境や御縁においては強みとなっても、別の環境や御縁においては弱みにもなり得る、と言う事です。その事を踏まえて、場所や出会った人という『縁』に従って、その都度、適切な自分として機能すること。これを『隨縁ずいえん』と言います」


地蔵店長が説く「隨縁」という言葉。

それは、これまで「自分」という固執した殻を必死に守り、他者にもそれを強いてきた範彦にとって、あまりにも自由で、かつ厳しい教えであった。


すると、横で頬杖をついていた女鬼が、試すような、しかしどこか優しい眼差しで範彦に語りかけた。

「おっちゃんは個性的である事が強みだって言う価値観だったわけだけどさ、それが弱みになる事だってあるんだよ。個性を出さない方が上手くいく場面だって、世の中にはあるんじゃない?」


女鬼の言葉に、範彦は深く、重いため息をつきながら頷いた。

「……そうだね、言われてみれば確かに。個性が強すぎたり、あまりに個性的過ぎると、かえって調和が乱れるという事があるもんな。企業社会や集団生活をする上では、確かにそういった場面もあると思う。僕が切り捨ててきた『無個性』に見える彼らこそが、実はその場に相応しい姿を選んでいたのかもしれないんだ」


地蔵店長は、満足そうに一つ頷くと、範彦の言葉を補完するように合掌した。

「個性的であるという事を存分に発揮出来るところでは発揮する。個性的である事が和を乱して、かえって事を荒立てるならば、それに適した配置をする。それこそが、本来の意味での『適材適所』で御座います」

店長のお地蔵さん笑顔が、行灯の光に照らされて、より一層神々しく輝く。


「隨縁、適材適所、か……」

範彦は、その言葉を自分自身の魂に刻み込むように、再び静かに復唱した。

今、この摩訶不思議な食堂で、彼は自分という存在を縛り付けていた、目に見えない鎖が解けていくのを確かに感じていた。


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## 観察かんざつの眼 ―― 真実を射抜く智慧の光


範彦は、冷めかけた緑茶を一口啜り、自身の内側に静かに広がる波紋を見つめていた。


「……本当に、全く別の視点から観ると、こうも鮮やかに見え方が違って来るんだな」

人事課長として築き上げてきた厚い壁が、心地よい崩落の音を立てている。

絶対的だと信じていた価値基準が揺らぐ恐怖よりも、今は視界が開けていくような開放感が勝っていた。


「別の視点を持つ事で、今までの固定観念が少しずつ解きほぐされていく事でありましょう。範彦さん、これを機会に、今まで正しいと思っていたり、絶対的な正義だと握りしめていた価値観を今一度見つめ直してみると、今まで見落としていた『何か』を見つけられるかもしれませんねえ」

地蔵店長は、暖かな日差しのようなお地蔵さん笑顔でそう語りかけ、範彦の心の荷をさらに軽くした。


その言葉を引き継ぐように、カウンターに頬杖をついていた女鬼が、不敵な笑みを浮かべて身を乗り出してきた。

「そーゆーこと。これを機に、今までプラスだと思ってたキラキラした特性とか概念も見直してみるのもいいかもね。例えば、ポジティブとかさ。リーダーシップがあるとか、積極的でチャレンジ精神旺盛って事とかさー、娑婆だとプラス要素だってイメージがあるよね?」


女鬼の言葉に、範彦は思わず「え?」と素っ頓狂な声を上げた。


「それは……ビジネスの世界では、どれも素晴らしい良い事のように思えるけどね。でも、別の視点とか、今教えて貰った『縁』や人間関係という面から見ると、それすら悪い事になるという事かい?」

範彦が首をかしげると、女鬼は金色の瞳を輝かせて、ピッと人差し指を立てた。

「うん。例えば、婚活とか合コンに行くとするじゃん? そんで、ポジティブお化けでリーダーシップをバッチリ持ってる男の子が、好みド真ん中の女の子に一目ぼれしたとしようか」


「は、はあ……。まあ、よくある話だね」


「でもさ、その女の子が『ぐいぐい引っ張って行ってほしくないし、静かに寄り添うだけで幸せだ』っていう価値観の持ち主だったとしたらどうよ?そのポジティブ男が積極的にぐいぐいと迫って来たり、リーダーシップ発揮して何でもかんでも仕切って引っ張って行こうとすると、女の子からするとたまったもんじゃないっしょ? つまり、チームリーダーとしては超優秀なその男の子の『強み』は、一目ぼれしたその女の子との恋愛っていう場においては、致命的な『弱み』になっちゃうわけ」


範彦は、自分の頭の中にあったパズルがカチリと嵌まるような感覚を覚えた。

「なるほどなあ。それじゃあ、逆に『引っ張って行って欲しい』という女の子が相手だと、その特性は相性ばっちりの強みとして機能するという事か」


「そ。これが『縁によって個性は強みにも弱みにもなる』って話。場所と相手が変われば、価値なんて一瞬でひっくり返るんだよ」

女鬼は、事も無げに言って、再び人差し指をピッと立てた。


その様子を穏やかに見守っていた地蔵店長が、静かに、しかし厳かな響きを伴って言葉を繋いだ。

「肝要は、その人の持つ個性であったり、個性的であるという事や強みと言うものが、本当にそうであるか、あるいはただ言い張っているだけの独りよがりであるか。もし本当に強みであるならば、自社にとって、また範彦さんと共に仕事をする際に発揮される『強み』であるか、逆に『弱点』として機能してしまわないか。それらを、つぶさに『観察かんざつ』なさる事です」

店長の声が、範彦の意識を深く沈み込ませる。


「……かんざつ?」

範彦が聞き返すと、地蔵店長はゆっくりと深く頷いた。

「現世では『かんさつ』と読まれますが、これは元来、仏教由来の言葉で御座います。文字通り、真実を『観て』『察する』。己の偏見や執着、曇った色眼鏡を捨てて、智慧ちえを用いて対象の真実の姿を、ありのままに見極める事です。人事採用担当者として、人を見定める職務にある方であるならば、必須の事柄だと存じますが、如何でありましょうかねえ」


地蔵店長のお地蔵さん笑顔が、優しく、しかし誤魔化しを許さない強さを伴って範彦を見据える。


「そして、御自身が採用に際して持っておられる判断基準や選定基準も、常に『観察』して見直し続ける事です。個性的であるという基準を設ける事は結構ですが、それに偏り過ぎて真実を見誤ってしまう事にならぬよう、それを『観察』し続けてアップデートを重ねる事も大切で御座います。何事も固定されたままであれば、やがて腐敗して毒となってしまうかもしれませんからねえ」

店長はそう言うと、静かに合掌してお辞儀をした。


範彦は姿勢を正して、地蔵店長と女鬼に向かって深く、丁寧にお辞儀をした。

「……はい。仏の教え、そして僕が持っていなかった全く別の視点をしっかりと取り入れながら、これからは真の意味で人を見る目を鍛えていきます。自分の色眼鏡を外し、ありのままを観る『観察』を、生涯の務めとしていこうと思います」


その声には、迷いはない。

人事課長という鎧を脱ぎ捨て、一人の「智慧の道」を歩む者として、真壁範彦は今、新たな自分に生まれ変わろうとしていた。


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## 智慧の門出 ―― 「えらいやっちゃ」への一歩


「観察という行為は、想像以上に胆力を要します。真実を直視することは、時に己の非を認める痛みをも伴う、苦しい修行のような時間となるやもしれません。しかし、それを踏まえた上で、少しずつ着実に、一歩一歩進んでゆかれる事で、善き縁も結ばれていくことでしょう」


地蔵店長は、すべてを見通すような、慈悲深いお地蔵さん笑顔で話を締めくくった。

その穏やかな声には、迷い人を正しい道へと導き、背中を優しく押すような不思議な力強さが宿っていた。


範彦は、店長の言葉を一つ一つ、噛み締めるように反芻した。

「はい……。確かに、偏見を捨ててしっかりと相手を審査したり、本質を見定めたりするのは、途方もない胆力がいるし、気力も体力も要する仕事です。……僕は、本来なら人を採用するということがそれだけ重要で、かつ難しい仕事だということを知っていたはずなのに。いつの間にか、どこかで手を抜こうとしたり、効率ばかりを重視してショートカットしようとし過ぎていたのかもしれません」


範彦は、これまでの自分の慢心を振り返り、深い自省の念に沈んだ。


「だからこそ、僕は自分に都合のいい安易でわかり易い基準を勝手に設けて、目の粗いざるで、ただ機械的に学生たちをふるいにかけていた……。そして、いつしか効率的に人を選別できるようになったと大きな勘違いをして、あろうことか未来ある若者たちを『のっぺらぼう』だとか『横並びで個性がない』と言って、上から目線で見下すようになっていたのですね」


範彦の独白は、静かな後悔と共に店内に響いた。

これまで「プロ」だと思っていた自分こそが、誰よりも思考を止めた「没個性」な大人になっていたのだ。


「それに気づいて、今こうして改善しようと決意したんだから、あーしは前進したって思うよ。勿論、仕事の時間は有限だし、会社組織である以上は効率が求められるのも仕方ないことだとは思うけどさ。根幹の部分、つまり人間としての大事なところだけは外さずに、あとは上手くバランスを取ってやっていくしかないね」

女鬼は、サイドテールの髪を指先で弾きながら、範彦を励ますように微笑んだ。

その金色の瞳には、もう先ほどのような鋭い刺はなかった。


「ああ。ここで示してもらった『道標』を大切にしながら、これからは焦らず、一歩ずつ歩いていくよ」

範彦は憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔を浮かべて答えた。


「ん、いい顔になったじゃん。しっかりね、人事課長範彦さん」

女鬼が、悪戯っぽく、しかし親愛を込めて彼の名前を呼んだ。


「……やっと、名前で呼んでもらえるようになったのか。それはつまり、僕がようやく人間としてのスタートラインに立てた、ということでいいのかな」


範彦が少し照れくさそうに笑うと、それを見ていたえらいこっちゃ嬢が、カウンターを蹴ってぴょんっと椅子の上へ飛び乗った。

彼女は驚く範彦の頭へと小さな手を伸ばし、まるで幼子を慈しむかのように、優しく、何度もその頭をなでた。


「しんどい道でも行くって決めてスタートラインに立ちよった、えらいやっちゃ」

えらいこっちゃ嬢の表情は相変わらず変わらなかったが、その手からは確かな温もりが伝わってきた。

彼女なりの精一杯の、そして最大限の励ましであることは、今の範彦には痛いほど伝わっていた。


「ははは、有難う。……えらいやっちゃ、か。いい言葉だね。えらいこっちゃな無個性人事課長から、いつか皆に『えらいやっちゃ』と認められるような、頼れる人事課長にならないといけないな」


範彦は、自分を導いてくれた小さな師匠と、黄金の瞳の少女、そして慈悲の店長を順番に見つめ、力強く頷いた。

今夜、この不思議な食堂で食べた揚げ物の熱は、彼の胸の中で消えることなく、明日を照らす新たな光となって燃え始めていた。


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## 智慧の供物 ―― 晴れやかな門出と「御布施」の響き


範彦は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、今一度、地蔵店長と女鬼、そしてえらいこっちゃ嬢に向かって深く深く、魂を込めて頭を下げた。

これほどまでに清々しい気持ちで誰かに頭を下げたのは、一体いつ以来の事だろうか。

人事課長という重たい鎧を脱ぎ捨てた彼の背中は、店に入った時よりも心なしか軽く、そして真っ直ぐに伸びていた。


「色々と、本当に有難う御座います。……お陰で、失いかけていた大切なものを見つける事が出来ました。それじゃあ、御勘定をお願いします」

範彦が穏やかな微笑みを湛えて告げると、地蔵店長は慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔を向け、静かに合掌した。

「当店は、決まった代金を頂戴するのではなく、『御布施おふせ』形式にしております。範彦さんが今宵の体験に、そして御自身のこれからに、どれほどの価値を見出されたか。そのお気持ちを、そのままお供え頂ければ幸いに御座います」


店長の言葉に、範彦は一瞬だけ驚きに目を見開いたが、すぐに納得したように頷いた。

「御布施、ですか。……なるほど、最後まで仏様の教えというわけですね。えっと、電子決済は出来ますか?」


範彦がポケットからスマートフォンを取り出すと、待ってましたと言わばかりにえらいこっちゃ嬢が駆け寄ってきた。

彼女の手には、使い込まれた木の板に「御勘定」と書かれたQRコードが記されたプレートが握られていた。

「えらいこっちゃなキャッシュレス。おっちゃんのお気持ち、スキャンしよし」


範彦は「それじゃあ……」と呟き、スマートフォンのカメラをプレートに翳した。

画面に表示された金額入力欄。

彼は一瞬の迷いも無く、力強い指取りで「10000」と打ち込んだ。

揚げ物定食とカステラの代金としては破格だが、彼が得た「智慧」の対価としては、これでもまだ足りないほどだと確信していたからだ。


「ピッ」という軽快な電子音と共に、「毎度ありー」という朗らかな合成音声が店内に響き渡った。

画面を確認したえらいこっちゃ嬢は、目を丸くして、これまでにないほど激しく両手をぶんぶんと左右に振り回した。

「毎度あり! えらいこっちゃな大金! えらい太っ腹!」


「ははは、御布施、か。これで僕も、仏様の教えを一つ実践出来たかな」

範彦は、自分の執着を一つ手放したような晴れやかな心地で微笑み、入り口の引き戸に向かってゆっくりと歩き出した。


戸口まで辿り着くと、範彦は最後に一度だけ振り返り、この摩訶不思議な空間のすべてを記憶に刻み込むように見渡した。

そして、地蔵店長たちに向けて最後のお辞儀をしてから、夜の静寂が待つ外の世界へと踏み出した。


「御来店、誠に有難う御座います。範彦さんの歩まれる道が、光に満ちたものでありますよう」

地蔵店長は、去りゆく範彦の背中に向かって、いつまでもお地蔵さん笑顔で優しく合掌し、深くお辞儀を続けていた。

夜風に揺れる暖簾の向こう側で、真壁範彦の新しい日常が、今静かに幕を開けようとしていた。


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## 第二十八章:青い灯火の導き ―― 境界を越えて日常へ


範彦が「摩訶不思議食堂」の暖簾をくぐり、夜の静寂へと一歩踏み出すと、そこには既にあの燃え盛る車輪を持つ異形の乗り物が停車して待っていた。

方輪車の魔改造牛車だ。


範彦が近づくと、生き物のように滑らかな動作で客席の扉がひとりでに開き、彼を招き入れる。

範彦が座席に深く腰を下ろすと、もはやお馴染みとなったあの真っ白で細長い手が、どこからともなくニューっと伸びてきた。

掌には「御勘定」と書かれた札。

範彦は迷うことなくスマートフォンを取り出し、お財布携帯機能を使い、そこに記されたQRコードへ翳して1000円の支払いをスマートに済ませる。


「毎度ありー」という陽気な電子音が車内に鳴り響くと、満足したように白い腕が闇の中へと引っ込んでいった。

「毎度ー。ほな、帰りまっせ。しっかり掴まっときよし!」


運転席の窓から方輪車が威勢よく声を上げると、牛車は再びゴォォォォと空間を震わせる轟音を立てて発進した。

往路では、いつ命を落とすかもわからない恐怖にビクビクとおっかなびっくりだった範彦だったが、今は不思議と恐怖はない。

むしろ、腹の底から湧き上がってくるような清々しさを感じながら、窓の外を流れる異界の夜景を眺めていた。


やがて牛車が緩やかに減速し、停車した。

そこは、えらいこっちゃ嬢とのっぺらぼうと一緒に牛車に乗り込んだ、あの人気のない神社の入り口だった。

範彦がゆっくりと牛車を降りると、運転席の窓がスルスルと開き、方輪車が満開のひまわりのような笑顔で手を振ってくれた。


「毎度ありー。ほなね、あそこに見える青い鬼火について行かはったら、すぐにいつもの帰り道に出ますさかい。御達者でー!」

方輪車はそう言い残すと、窓を閉め、火花を散らしながら夜の闇へと颯爽と走り去っていった。


遠ざかる牛車の炎を見送ってから範彦が振り返ると、暗がりにぽっかりと、いくつかの青い鬼火が浮かんでいた。

その炎はまるで小さな手のようにパタパタと揺らめいて範彦を手招きしており、彼は吸い寄せられるようにその後をついて行く。

一歩、また一歩と進むたびに、湿り気を帯びた神社の空気から、都会の排気混じりの乾いた空気へと変わっていくのを感じた。

ふと気づけば、あれほど鮮やかだった鬼火はいなくなっており、目の前には街灯に照らされたいつもの見慣れた帰り道が広がっていた。


範彦は、立ち止まって深く息を吐き出し、夜空を見上げた。

ほんの数時間前まで、自分がいかに狭い価値観の中で、傲慢な大人として生きていたかを思い知らされる。


「……不思議な体験だったけれど、僕に必要な事、僕が忘れていた事、そして僕が正さなければならない事。本当に、色々な事を教えて貰ったな」

範彦は、誰に聞かせるでもなく、静かに独り言を呟いた。

その胸の中には、あやふやな個性を武器に人を裁く人事課長ではなく、真実をありのままに観ようとする一人の「えらいやっちゃ」としての決意が、静かに、しかし力強く宿っていた。


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## 休日の静寂と書棚に見つけた智慧の断片、漂う香りとカウンター越しの再会


翌日の土曜日

会社や学校は休みで、この日は妻が娘を連れて学校のママ友の家での集まりに出かけることになり、範彦は久しぶりに一人きりの自由な時間を過ごすことになった。


「あなた、くれぐれも脂っこいものは控えるのよ?昨日の晩、メンチカツにエビフライを食べたって正直に白状したのはよしとしましょう。ただし、今日は絶対に駄目だからね!」


玄関先で妻から鋭い釘を刺され、範彦は苦笑いしながら「わかっているよ」と手を振って見送った。

昨夜、あの不思議な食堂で堪能した黄金色の揚げ物の味を思い出し、今更ながら報告したことを少し後悔したが、夕飯は何を食べたのかと愛する妻に聞かれては、嘘をつけないのが彼の性分でもあった。


一人残された静かなリビングで、昼食をどうしたものかと頭をかきながら考えを巡らせる。

昨日は佐伯大樹との一件があり、本屋を途中で飛び出すような形になってしまったことが心に引っかかっていた。

範彦は身支度を整えると、昨日の喧騒とは別のショッピングモール内にある大型書店へと足を運ぶことにした。


いつもの習慣で、足は自然とビジネス書コーナーへと向かう。

最初はなんとなく、最新のマネジメント論や効率化のハウツー本が並ぶ棚を眺めていたが、ふと、視界の隅に「仏教」と書かれた案内札が入り込んだ。

普段の範彦であれば、見向きもせずに通り過ぎるか、あるいは「宗教の棚か」と冷ややかな一瞥をくれるだけの場所。

しかし、昨夜の地蔵店長との対話が、磁石のように彼の意識をそのコーナーへと吸い寄せていった。


棚に並ぶ無数の背表紙の中から、一冊の「仏教用語解説」という本が目に留まり、何かに導かれるように手に取って頁を開く。

そこには、偶然にも「無常」という文字が大きく躍っていた。


指先で頁をパラパラとめくっていくと、続いて「観察」についての詳細な解説が目に飛び込んでくる。

真実を観て察する智慧――。

地蔵店長の穏やかな声が耳の奥で再生されるのを感じ、範彦は迷うことなくその本を抱えてレジへと向かった。


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本を購入して店を出た後、範彦は仏教用語の本を鞄にしまい、モール内をあてどなく散歩していた。


ふと、鼻腔をくすぐる香ばしい肉の焼ける匂いと、ポテトの揚がる刺激的な香りが漂ってくる。

視線を向けると、そこには若者や家族連れで賑わう大手ハンバーガーチェーンの店舗があった。


妻からの「脂っこいもの禁止令」が脳裏をよぎるが、喉の渇きも覚えていた範彦は、珈琲を一杯飲むだけなら問題ないだろうと自分に言い聞かせて店内に足を踏み入れた。

注文カウンターへと続く列に並び、自分の番が回ってきたところで一歩前へ進み出る。


「らっしゃっせー!あ、真壁さん、らっしゃっせー!」

頭上から降ってきたのは、耳に馴染んだ、しかしこの場所で聞くにはあまりにも意外なほど元気で突き抜けた声だった。


範彦が驚いて顔を上げると、そこにはお決まりの制服とサンバイザーを身につけ、満面の笑みを浮かべた店員が立っていた。

先日の面接で範彦のプライドと論理をズバズバと解体した張本人、佐伯大樹であった。


「ハンバーガーショップでバイトしてるとは言っていたが、まさかここだったのか。佐伯君」

範彦が目を丸くしていると、大樹はレジを打ちながら、面接の時とはまた違う、本物の「プロの接客スマイル」で応対を続けた。


「そうです!ここが僕の戦場ですよ。真壁さん、今日は何にします?あ、奥さんに怒られそうなメニュー、いっぱいありますよ!」

大樹は悪びれもせず、それでいて親愛の情を込めたような明るい声で、範彦の心の動揺などお構いなしに畳みかけてきた。


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## マニュアルの向こう側 ―― 「観察」が捉えた個の輝き


「なんで君は、僕が妻に脂っこいものを控えるように言われてるのを知ってるんだよ」

範彦はレジの向こう側で満面の笑みを浮かべる青年を見つめ、思わず呆れたような、それでいてどこか親しみを感じる笑みを漏らした。

昨日までの彼であれば、初対面に近い若者に私生活を推測されることに不快感を覚えたかもしれないが、今の彼の心には不思議な余裕が生まれていた。


「あ、真壁さんの家でもそうなんですか? うちの父も母からよく注意されてるから、奥さんから旦那さんが脂っこいものを注意されるのって、勝手に全国共通の旦那と奥さんのやり取りだと思ってたけど、やっぱりそうなんだ」

大樹はサンバイザーの奥の瞳を細めてカラカラと笑う。

その屈託のなさは、多忙な店内にあって一際明るい光を放っているように見えた。


「いや、家庭によるだろうに。それに、よく僕が結婚してるって知っているな……って、そうか。結婚指輪をしているから、見ればわかるか」

範彦は左手の薬指に視線を落とし、自嘲気味に笑った。

人を見る目があると豪語していた自分が、最も単純な記号を見落としていたことに気づかされる。


「それで、御注文は何でしょうか?」

大樹は淀みのない、流れるような動作でレジ画面に指を添え、笑顔で尋ねてきた。


「アイス珈琲を一つお願いするよ」


「御一緒にポテトは如何でしょうか?」

大樹はお決まりの、マニュアル通りの台詞を澱みなく口にする。


「いや、脂っこいものは控えるように、今朝釘を刺されたばかりだからね。これ以上妻の機嫌を損ねたくないんだ」

範彦は苦笑いしながら会計を済ませ、商品の準備を待つための所定の場所へと移動した。

鞄の中には、先程購入したばかりの仏教用語の本が重みを伝えてくる。


アイス珈琲が用意されるまでの間、範彦は手持ち無沙汰に店内の様子を眺めていた。

そこには分刻み、あるいは秒刻みのスケジュールで動く、チェーン店ならではの効率化された風景が広がっている。

店員たちは皆同じ制服を纏い、同じマニュアルに従って、一糸乱れぬ動作で客を捌いていく。

昨日までの範彦であれば、その光景を「マニュアル人間に支配された、一律で全く個性がない没個性な集団」と吐き捨てていただろう。


しかし、地蔵店長から授かった「観察かんざつ」の教えを胸に抱いた今の範彦には、全く別の世界が視えていた。

つぶさに一人一人の挙動を、その指先の動きや声の響きまでをも注意深く見つめてみると、そこには驚くほどの多様性が潜んでいたのだ。

顔の造作は勿論のこと、接客の際のトーンは男女で明確に異なり、同じ男性店員であっても、落ち着いた低音を響かせる者もいれば、大樹のように突き抜けた高音で場を盛り立てる者もいる。


さらに、同じ要領でポテトをケースに入れている店員であっても、微妙な動作の差異が見て取れる。

手首の返し、塩を振る際の高さ、スコップを握る力の入れ具合。

今までは全員が同じことをしていると決めつけ、気にも留めていなかった些細な違いが、今は鮮明な「個」の性質として範彦の瞳に映し出されていた。


「本当に……『みんな違う』、ただそれだけでしかないんだ。それを一律で横並びだとか、個性がないという風に見えていた理由は、僕が勝手に枠を嵌めて、そういう色眼鏡で見ていただけに過ぎなかったんだな……」

範彦は、昨夜女鬼が放った言葉の真意を肌で感じ、胸の奥が熱くなるのを覚えた。


「アイス珈琲でお待ちの御客様! お待たせしました!」

大樹が元気よく番号を呼び、範彦に結露したカップを恭しく手渡した。


「有難う、バイト頑張ってね」

範彦が穏やかな微笑みを向けると、大樹は一瞬驚いたように目を見開き、すぐに満面の笑みを返してきた。


「あざーっしたー! あ、そうだ! 真壁さん、あの大和撫子ちゃんの名前教えて下さいよ! あの後ずっと気になって、バイト中もポテト揚げる手が止まりそうだったんですから!」

大樹はカウンターから身を乗り出し、瞳をキラキラと輝かせて詰め寄ってくる。


「まだ諦めてなかったのか。だから個人情報で……いや、あの子はやめておいた方がいいんじゃないかな。君の手に負えるような、普通の女の子じゃないよ」

範彦は、正体があの「のっぺらぼう」であることを思い出し、含みを持たせた笑いを浮かべた。


「え~! それって難攻不落って事ですか~? 燃えるなあ、僕ってそういう高い壁ほど登りたくなっちゃうタイプなんですよ!」

大樹は悔しそうにしながらも、その挑戦的な姿勢を崩さない。


「まあ、そうだね。それなら、今度会う機会があったら口説いてみるといいんじゃないか?それじゃあ、僕は行くよ」


範彦は軽く手を振ると、爽快な気分で店を後にした。

手に持ったアイス珈琲の冷たさが、今の自分にはひどく心地よく感じられた。


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## 雑踏の中の真理 ―― 邂逅、そして「個」の肯定


範彦はショッピングモールの喧騒を遠くに聞きながら、大型休憩スペースの一角にあるテーブル席に腰を下ろした。

手元にあるアイス珈琲の冷たさが指先に心地よく伝わり、喉を潤すたびに、先程までの高揚した思考が穏やかに整理されていくのを感じる。

モールを行き交う人々を眺めていると、昨日までの自分がいかに色眼鏡を通して世界を見ていたかを痛感せずにはいられなかった。


「早速、観察かんざつしてはりますねえ。人間観察は無趣味と同義とか言う人もいてはりますけど、『かんざつ』やと、気付きと学びの宝庫でっしゃろ?」


不意に、鈴を転がすような、どこか艶っぽくも品のある笑い声が範彦の耳朶を打った。

範彦が驚いて声のした方へ視線を向けると、そこには、あの面接の時と同じ、端正でありながらどこか神秘的な「顔」を作った着物姿ののっぺらぼうが立っていた。

人混みの中でも浮き立つような気品を纏いながら、彼女は幻のようにそこに佇んでいた。


「お向かい、宜しゅうおすか?」

のっぺらぼうが小首をかしげて尋ねると、範彦は一瞬呆気に取られたが、すぐに着席を促した。

「ああ、どうぞ。……驚いたな、君もここに来ていたのか」


「おおきに」

のっぺらぼうは優雅な所作で椅子に座り、まるで旧知の仲のように範彦に微笑みを向けた。


「ふふ、大樹はんの事、苦手なんやと思うてましたけど、ええ感じでしたねえ。先程の御様子」

のっぺらぼうがコロコロと笑いながら言うので、範彦は苦笑いを浮かべた。

「見ていたのか。だったら、彼に声をかけてあげたらどうなんだ? 彼は君に、もう一度会いたがっていたよ」


「残念ながら、大樹はんは好みの男性やありませんからねえ。あないに真っ直ぐな方は、ワテには眩しすぎますわ」

のっぺらぼうが茶目っ気たっぷりに肩をすくめるので、範彦は思わず声を立てて笑った。

「ははは、そうか。じゃあ、彼は知らないところで失恋したわけだな。君はこうして、彼の預かり知らぬ場所で振ったわけだから」


「ふふふ。大樹はんなら、きっと趣味や性格の合う人と、末永く仲良う結ばれますやろねえ。あの人、一度好きになったら一途に愛してくれはりそうですし。そういう良き御縁を、彼はすぐに結んでいかはりそうですえ」

のっぺらぼうの言葉には、皮肉ではなく、心からの祝福が混じっているように聞こえた。


「そうだな。確かに彼は、好きになった人を真っ直ぐに大事にしそうな、いい青年だ」

範彦は、かつての自分であれば決して認めなかったであろう大樹の長所を、今は素直に認め、目を細めて頷いた。


「ほんで、ハンバーガーショップの様子はどないでした? 昨日までの範彦はんやと、マニュアル人間製造工場なんていうて、思いっきり批判してはりそうやったけど。……ええ事に気づいてはった御様子でしたやん」

のっぺらぼうが、まるで範彦の心の内を覗き込んでいるかのような、深い眼差しを向けてきた。


「……確かに、仰る通りだ。あの摩訶不思議食堂に出会わなければ、鼻で笑っていただろうね。みんな同じ顔、同じ声、同じ動きの機械のようだと切り捨てていたはずだ」

範彦はアイス珈琲のカップを見つめ、静かに言葉を紡いだ。

「でも今は、同じマニュアルに従い、同じ制服を着て、同じ台詞を口にしていても……これほどまでに一人一人が違い、それぞれの性質が滲み出ているのだと気づかされたよ。同じだけど違う。上手く言語化はできないけれど、何かこう、人生においてとても大切な事を、一瞬だけ垣間見たような気がするんだ」


範彦の真摯な言葉を聞くと、のっぺらぼうは満足そうに、再びコロコロと楽しげな笑い声を上げた。

「大きな前進ですねえ、範彦はん。その『同じだけど違う』という理の中にこそ、智慧の入り口が開いてるんどすえ」


休憩スペースの喧騒の中で、二人の周囲だけが静謐な空気に包まれていた。

範彦は、買ったばかりの仏教の本を鞄越しに撫で、自分の中に芽生えた新しい視点を、大切に育てていこうと改めて心に誓った。


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## 縛りの中の真実 ―― 自由という名の没個性


のっぺらぼうは、結露したアイス珈琲のカップを眺める範彦の横顔を、静かな、しかし全てを見通すような眼差しで見つめていた。


「同じだけど、違う。……範彦はんは、個性が最も鮮烈に際立って表れるのって、一体どういう時やと思わはります?」

不意に投げかけられた問いは、まるで禅問答のように範彦の思考を揺さぶった。


範彦は、一口飲んだ珈琲の苦味を舌の上で転がしながら、人事としての経験を総動員して答えを探した。

「え? それは……やはり、物事を自由にやらせてみたり、自身の考えを自由に述べるように指示した時じゃないか。枠に囚われずに羽を伸ばした瞬間にこそ、その人本来の持ち味、つまり個性的な部分が際立って見えるものだと思っていたよ」


すると、のっぺらぼうは「ふふっ」と、まるで無邪気な子供の戯言を聞いたかのような、慈しみを含んだ声で笑った。

「あべこべどす。好きなように、自由にやらせるほどに、人はかえって没個性に陥りやすいものやと思いますえ。実際、ワテが参加させてもろたあの面接を思い出してみておくれやす。自由に自己PRをしてみよしって範彦はんが言わはった時、ワテと大樹はん以外の4人は、どこかで聞いたような、差し障りのない退屈な話ししかしはらへんかったでっしゃろ?」

コロコロと鈴を転がすような笑い声が、範彦の耳朶を打つ。


「……まあ、確かにその通りだ。だが、それは学生という立場上、どうしても無難な回答に逃げてしまうからじゃないのか? 正直に言えば、僕だって今は、彼らと同じ穴のむじなだったと自覚しているよ。佐伯君に指摘された通り、僕自身が世間一般の企業の人事と同じ型通りの質問しかしていなかった。摩訶不思議食堂で、自分もまた交換可能な『その他大勢』の一人に過ぎなかったと気づかされたばかりだ」

範彦は、後頭部を掻きながら、自嘲気味に息を吐き出した。


「今でこそ、個性が大事だとか、個々に合った教育や人物重視の採用なんて言葉が躍って、それに見合ったカリキュラムも組まれてるみたいどすけどねえ。日本の学校教育を10年前後も真面目に受けてきはった若人やと、いざ『自由にやらせる』という放任の海に放り出されたら、かえって迷子になって、最も安全な『没個性』という名の避難所に辿り着きやすいんとちゃいますやろか」

のっぺらぼうは、着物の袂を静かに整えながら、現代社会の歪な構造を淡々と指摘した。


「それは一理あるな……。日本の学校教育は、どうしても和を乱す逸脱者を排除しがちだし、平均的な人間を育てるのには向いているが、ある意味では個性を削ぎ落とすような研磨機のような側面もある。その中で生き抜こうとすれば、どうしても画一的な思考になってしまうのは、必然なのかもしれないな」

範彦が重いため息と共に同意すると、のっぺらぼうは試すような、妖しくも美しい光を宿した瞳で彼を覗き込んだ。


「ほな、自由にやらせたら、かえって型通りの没個性な回答に行き着きやすいとして……。個性が真に際立ち、その人の本質が透けて見えやすくなる状況って、一体どういう時やと思います?」


範彦は、必死に答えを絞り出した。

「それは……えっと。マニュアル通りに動けとか、細かな規則でガチガチに固めてしまうような状況だろうか。そういった不自由な環境に置かれると、それこそ個性が潰れてしまうから、そこから何とか抗おうとする部分に個性が出るという事か……?」

範彦が自信なさげに言葉を繋ぐと、のっぺらぼうは満面の笑みを浮かべ、確信に満ちた声で言い放った。


「それどす。まさに、ルールとか縛りをガッチガチにしたところで、全く同じことを同じようにやらせようとする状況こそが、最も個性が輝く瞬間どすえ」


「え……?」

範彦は、手に持っていた珈琲カップを落としそうになるほど驚愕した。


個性を守るためには自由が必要だという、これまで彼が信じて疑わなかった「常識」を真っ向から否定する逆説的な一言。

ガチガチのルールの中にこそ、個性が宿る。

想定外の角度から飛んできたその言葉に、範彦の脳内は完全に飽和し、激しい混乱の渦へと飲み込まれていった。


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## 制約の中に宿る真実 ―― 規律が暴く「個」の輪郭


範彦が困惑の渦に呑み込まれていると、のっぺらぼうは扇子を弄ぶような優雅な仕草で、さらにその逆説の真意を解き明かし始めた。

「どういう事かと言いますと、個性と言うもんは、狙って出すもんやなくて、結果として滲み出てくるもんなんどす。集団をガッチガチのルールで縛り付けて、全く同じことを同じようにやらせてみた時、どうしてもそこに『個々のズレ』が生じます。やっとる事の得手不得手や、指の長さ、筋力といった体格差……そういった抗いようのない個体差によって、全く同じ手順を踏んでも、わずかな差異と言うもんが必ず生じるもんどすえ」


のっぺらぼうは、まるでいたずらを見つけた子供のような、無邪気で鋭い笑みを浮かべた。

「試しに、集団面接でも集団試験でも宜しゅうおす。一度お手本を見せて、針の穴を通すような正確さで同じように出来るよう指導してから、一斉に資料をホッチキスで止めるとか、そういう単純な作業をガッチガチのルールで作ってやらせてみはったら、今の範彦さんやと、ようわかると思いますえ。不思議なことに、絶対にどっかに差が出てきますさかい。皮肉なもんやけど、ガチガチのルールに縛られとる時ほど、その人の隠しようのない性質……つまり個性が際立って、逆に縛りが緩い自由な場ほど、人は周りに合わせて、かえって没個性になりやすい。ワテはそんな風に考えとりますし、長い間、娑婆の人間を見てきて、そのように感じておりますんよ」


範彦は、あまりの説得力に雷に打たれたような衝撃を受け、ただ呆気に取られていた。

自由こそが個性を育む土壌だと信じて疑わなかった自らの常識が、音を立てて崩れ去っていく。


「このことについては、さっきのハンバーガーショップで垣間見はったでっしゃろ? 同じ制服を着て、同じマニュアルをこなしていても、人によって確実に差が出てきてましたやろ? しっかりと、それこそ地蔵店長から教わった『観察かんざつ』を続けておれば、このポテトは誰が揚げたとか、この接客は誰がやったとか、名前を見んでもわかるようになるんとちゃいます?」


のっぺらぼうの言葉に、範彦の脳裏には会社での日常の些細な光景が走馬灯のように駆け巡った。


誰が資料をホッチキスで止めたのか。

誰が最後にコピー機を使い、どのようにトレイを戻したのか。

誰が給湯室のカップを洗って並べたのか。


誰がやっても同じ結果になるはずの、名前すら付かないような小さな仕事の集積。

それなのに、不意に「あ、これはあの人がやった後だ」と、確信に近い直感を得る瞬間が確かにあったことを、範彦は鮮明に思い出した。

整然と並んだホッチキスの角度の微かな傾きや、資料を揃える際の丁寧さ。

それこそが、マニュアルという規律の中に咲いた、その人固有の「花」だったのだ。


「そのわずかな差異に気づいて、そこを面白がって伸ばしていくと、その人は唯一無二の個性的な人になりやすいんとちゃいます? でも、残念な事に今の娑婆やと、その人固有の性質や、そこから滲み出る差異に気づく手腕と、そこを伸ばしていく指導力が、管理者や指導者側に無かったり、むしろその差異を『エラー』として潰そうとする事の方が多いように観じますわ」


のっぺらぼうは、どこか遠くを見つめるように目を細め、静かに、しかし峻烈に言葉を継いだ。


「皮肉な話ですねえ。管理する側が楽やからと言うて、少しでも差異が出たら逸脱者扱いして排除したり削ったりして、管理者はどんどん見る目が失われていくし、管理される方はどんどん個性が失われていく……。そうやってユニークである事や固有の性質を丁寧に奪っておきながら、いざ社会と言うもんに放り出されたら、今度は『個性を発揮しろ』なんて言われて。今の社会のシステムや教育には、根深い構造的な問題が垣間見られますなあ」


「……確かにな。耳が痛いよ。今君が言った指導者側としての手腕、採用担当者としての人を見る眼というものが、自分には全く無かったという事を思い知ったばかりだからね。僕は、その差異を愛でるどころか見ようともせずに、就活生なんてどうせみんな一緒で同じような者ばかりだと決めつけていたんだ」

範彦は、冷めきったアイス珈琲の氷がカランと音を立てるのを聞きながら、自嘲気味に苦笑いした。


人事のプロを気取っていた自分が、いかに人の可能性を狭めていたか。

その罪の重さが、胃の奥にずしりと沈み込む。


すると、のっぺらぼうは立ち上がり、コロコロと鈴を転がすような、清涼な笑い声を響かせた。

「範彦はんは、仏様の視点を教わって、観察かんざつを早速実践し始めてはりますやん。立ち止まらずに歩み始めた御仁には、まだ希望はありますえ。摩訶不思議食堂で教わったことを大切にして、これからもじっくりと『観察』を続けておくれやす」


着物の裾を揺らす彼女姿を見ながら、範彦は鞄の中の本をぎゅっと握りしめた。

ルールの中にこそ宿る、自分だけの輝き。

それを一つも見落とさないための長い修行が、今日、この喧騒のショッピングモールから本格的に始まろうとしていた。


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## のっぺらぼうの正体と繋がるえにし、智慧のうどんと黄金色のささやかな決意


のっぺらぼうは、流れるような所作でゆっくりと椅子から立ち上がった。

「ほな、ワテはそろそろ行きますえ。範彦はん、どうぞ御達者で」

コロコロと鈴を転がすような笑い声を残し、彼女は丁寧に、そして非の打ち所がないほど綺麗な所作でお辞儀をして、そのまま雑踏の中へ立ち去ろうとする。


「あ、そうだ。最後に一つ、教えてくれないか?」

範彦は去りゆく背中を、思わず呼び止めていた。


のっぺらぼうは足を止め、肩越しにふわりと振り返る。

「何でっしゃろ?」


「どうして君は……あの面接会場にいたんだ? 他にいくらでも、人間社会を観察する場所はあったはずだろうに」

範彦の問いに、のっぺらぼうは唇に指を当て、悪戯っぽく微笑んだ。


「一つは、現代社会、この『娑婆』で行われとる就職活動や採用活動の様子を、肌で知りたいという純粋な好奇心どす。それと……」

彼女は目を細め、夜の残り香を纏ったような声で続けた。

「他人様のことを『のっぺらぼう』やなんていわはる所に、本物ののっぺらぼうであるワテがおりましたら、おもろいでっしゃろ? 『のっぺらぼうですが何か?』とか『ようわからはりましたねえ』って言うて、その場で正体を見せたら、どんなお顔をさはるかなあって思うとったんですわ」


「な……!? あの場で、いきなり顔のパーツを消すつもりだったのか!」

範彦は戦慄し、自分の背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

もしそんなことが起きていれば、面接会場はパニックどころでは済まなかっただろう。


「やってみてもおもろいなあ、とは思いましたけどねえ。でも、隣におった大樹はんが、思いのほかおもろい御仁やったから、結局最後まで付きおうたんです。ほんま、大樹はんは人材としても、プライベートで付き合う一人の御友達としても、宜しゅうおすえ」

のっぺらぼうは再びコロコロと笑い、大樹の存在を高く評価してみせた。


「……まあ、確かにな。佐伯君はいい性格をしているし、恐ろしいほど核心を突くようなことを平然と言う。それでいて、どこか憎めない不思議な魅力があるのは確かだ。僕自身の至らない部分をズバズバと言い当てられた時は、流石にムッとして言い返してしまったが……決して、彼のことを嫌いにはなれなかったからね」

範彦がしみじみと語ると、のっぺらぼうは満足そうに頷いた。


「ああいう感性の鋭い御仁との御縁は、大事にしはると宜しゅうおす。ほな、あんじょう過ごして下さいね~」

今度こそ、のっぺらぼうは優雅に手を振り、人混みの中へと溶け込むように去っていった。


「ああ、また会う時があれば、宜しく」

範彦は彼女の姿が見えなくなるまで、小さく手を振って別れを告げた。


---


「さて、僕も行くか。買ったばかりの本も、じっくりと読まないといけないからな」

範彦は独り言を呟き、背広の裾を整えて立ち上がった。


ショッピングモールの明るい光の下を歩きながら、彼は自分の内側に芽生えた確かな変化を感じていた。

昨日までの傲慢な色眼鏡を捨て、仏の智慧……ありのままを観る「観察かんざつ」を忘れずに、これからの面接や人事の仕事に取り組むことを、彼は自分自身に改めて強く誓った。


エスカレーターに向かって歩いていると、ふと昨夜の出来事が脳裏をよぎる。

そういえば、あの「えらいこっちゃ嬢」とは、このショッピングモールの地下にある食品売り場で最初に出会ったのだった。

地下から漂ってくる、出汁の香りと揚げ物の匂いが、範彦の胃袋を優しく刺激する。


「……海老の天麩羅を、家族に一人一本ずつ。それなら、天麩羅うどんにするという名目で、妻も許してくれるかな」

昨夜の黄金色のエビフライの感動を、ほんの少しだけ形を変えて家族にも分け与えたい。

そんな「ほっこり」とした思いが、範彦の顔を自然と綻ばせた。

「脂っこいものは駄目だと言われたが、一本なら……うん、きっと大丈夫だ」


自分に言い聞かせるように笑いながら、範彦は地下へと続くエスカレーターに足を乗せた。

ゆっくりと下降していく視界の中で、彼はこれから出会うであろう「みんな違う」人々との、新しい御縁に思いを馳せていた。


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