第23話-後編:高嶋雅之の身勝手過ぎたほっこり飯
## 古都の朝霧と、無慈悲な呪いの宣告
新幹線がホームに滑り込み、重厚なドアが開くと、雅之の鼻腔を古都・京都の少し冷たく、湿り気を帯びた空気がくすぐった。
25年という歳月の重みを背負い、不退転の覚悟で降り立ったその足元は、不思議と東京のそれよりも重く感じられる。
早朝の喧騒が始まる前の京都駅構内を歩いていると、雅之は喉の渇きを覚え、どこか店に入ろうと周囲を見渡すと、構内の片隅に早朝から灯りを灯している落ち着いた佇まいの喫茶店が目に入る。
吸い寄せられるように店内に足を踏み入れた雅之は、奥の席に視線を走らせた瞬間、心臓が跳ね上がるのを感じた。
そこには、漆黒の服装に身を包み、周囲の空気から切り離されたかのような静謐さを纏ったあの男性が、静かに珈琲を啜っていたのである。
「……あの、呪術師さん……ですか?」
雅之が震える声で尋ねると、男はカップをソーサーに戻すカチャリという微かな音を立て、ゆっくりと顔を上げた。
「おやおや、これはこれは。お早う御座います。……奇遇ですなあ。まさか、こんなところでお会いするとは」
呪術師は、驚きを見せることもなく、淡々とした口調で挨拶を返した。
「お早う御座います。……その、昨日は本当に、有難う御座いました」
雅之は、東京の寺院で受けた恩義を思い出し、深々と頭を下げた。
「土曜日にわざわざ京都まで来られたということは、出張でしょうかな。精が出ますなあ」
呪術師はどこか突き放すような、温度のない声で問いかける。
「いえ……仕事ではありません。果たすべき責任を、果たしに来た……と言ったところです」
雅之の言葉に、呪術師は「さいですか」とだけ応じ、再び珈琲に口をつけた。
再び雅之は、恐る恐る声をかける。
「……宜しければ、相席させて頂いても宜しいでしょうか? こうして再会出来たのも何かの御縁ですし、少々……お聞きしたいこともありまして。もちろん、御代はこちらで持たせて頂きますから」
「それはそれは、有難う御座います。御馳走様です。……ほな、どうぞ。丁度、二人掛けの席やさかい」
呪術師は淡々と応じ、雅之を向かいの席へと招き入れた。
着席した雅之は、手早くホット珈琲を注文した。
運ばれてきた珈琲を、雅之は口に運ぶ。
呪術師は雅之を急かすこともなく、喫茶店の窓の外を流れる早朝の旅人たちの姿を眺めていた。
そうして、温かい珈琲を一口飲んで落ちついた雅之は、居住まいを正して再び頭を下げた。
「お待たせして、すみません」
「宜しゅうおす」
呪術師はスッと手を軽く上げ、本題に入るよう促した。
雅之は深く息を吐き、昨夜から心の中に渦巻いていた、最も恐ろしく、しかし向き合わねばならない疑念を口にした。
「……それで、お聞きしたいことと言うのは……呪いの事です」
雅之の言葉に、呪術師の細い目がわずかに細められた。
「単刀直入に伺います。俺は……俺の家族は、呪われていますか?」
雅之は、自分の声が震えているのが分かった。
非科学的なことだと笑い飛ばせればどれだけ楽だっただろうか。
だが、昨夜の「摩訶不思議食堂」での出来事、そして雅英と妻を襲った不可解な症状が、それが現実であることを突きつけていた。
呪術師は、冷めかけた珈琲を飲み干すと、感情の一切を排した冷酷な瞳で雅之を射抜いた。
「ええ。全員、対象です。……逃れられぬ業の連鎖に、どっぷりと浸かってはりますなあ」
---
## 古都の道標 ―― 暴かれる人形店の深淵
「ええ。全員、対象です」
呪術師の唇から零れ落ちたその言葉は、冷たい刃となって雅之の心臓を容赦なく貫いた。
雅之は目の前が暗転するような感覚に陥りながらも、テーブルの端を強く握りしめ、かろうじて椅子に踏み止まった。
「……そう、ですか。やはり、そうだったのですね……」
絞り出すようにして紡いだ声は、自分でも驚くほどに掠れていた。
「呪われる心当たりがおありのようですな。自覚があるというのは、まだ救いがあるのか、あるいは絶望を深めるだけなのか。……さて、どちらでっしゃろ」
呪術師は、雅之の狼狽を愉しむ風でもなく、ただ淡々と、乾燥した事実を述べるように言った。
「はい。……恐らく、十中八九、この人物が呪っているという心当たりが、一人います」
雅之は、脳裏に焼き付いた優理の、あの感情の消え失せた空虚な瞳を思い浮かべた。
「ほな、その人に会いに、わざわざ京都まで来られたっちゅうことですか。土曜の朝から、精が出ますなあ」
「はい。これは……呪われて当然と言えるほどの、取り返しのつかない傷を負わせてしまいました。そして、それを25年というあまりに長い間、私は身勝手な忘却の中に放置してしまった。……その罪を償いのために、こうして京都まで来たんです。その人は、先日同窓会で会った時に、京都で店をやっているという話をしていたから」
雅之は、昨夜「摩訶不思議食堂」で盃を通して見た光景、そして女鬼に一喝された振動を今も肌で感じていた。
「その人物は……辿り着いたなら会っても良いと言ってくれました。そこで、呪術師さん。どうか、どうか協力して頂けませんか? 呪術師さんなら、これほど強力な、人を呪えるほどの力を持った人物に、何か心当たりがあるんじゃありませんか?」
雅之は、藁をも掴む思いで、机越しに身を乗り出して懇願した。
その必死な形相を見ても、呪術師の表情には微塵も動揺は走らない。
「……それはまあ、呪術師を名乗っておる通り、僕も人を呪える人物の一人ではありますからなあ。類は友を呼ぶ、と言いますさかい」
呪術師は、冷めた珈琲の最後の一口を飲み干した。
「彼は、人形の店をやっていると言っていました。それで、私は今日、京都にある人形店を片っ端から尋ねて行こうと思っていたところです。……ですが、この広い京都で、闇雲に探すにはあまりに時間が足りない」
「人形、ですか」
呪術師の口から、初めて僅かな、しかし確かな意味深な響きが漏れた。
「人形店を営んでいて、人を呪うことも出来る……そんな、浮世離れした人物に、心当たりはありませんか?」
雅之の縋るような問いに対し、呪術師はしばらくの沈黙を置いた後、何かを確認するように独り言を漏らした。
「……『辿り着いたら会っても良い』、ですか。ほな、別に隠したりせんでもええという事と解釈出来ますな。……拒んではおられん、ということですか」
呪術師はスッと、無駄のない所作で立ち上がった。
その立ち姿は、まるで影が形を得たかのように不気味で、同時に神聖ですらあった。
「残酷な真実を知る覚悟があるならば、案内出来まっせ。案内しか出来ませんがね。」
「本当ですか!? 有難う御座います! よろしくお願いします!」
雅之は弾かれたように立ち上がり、周囲の客が驚くほどの勢いで深く頭を下げた。
彼は震える手で伝票を掴み取ると、足早にレジへと向かい、二人分の会計を手早く済ませた。
店を出ると、外は京都の朝特有の、鋭く冷えた空気が満ちていた。
「御馳走様です、有難う御座います。……ほな、行きましょか」
呪術師はそう短く告げると、一切の迷いなく、雑踏の中を颯爽と歩き始めた。
雅之は、その黒い背中を見失わぬよう、自らの犯した罪の重さを一歩ごとに噛み締めながら、必死について行った。
---
## 鞍馬の静寂と、カタカタと鳴る御迎え
呪術師の先導に従い、雅之は京の市街地を抜け、次第に木々が深く生い茂る北の地、鞍馬を目指して歩みを進めた。
途上の老舗茶舗に立ち寄った際、雅之は贖罪の旅の僅かなる礼儀として、霧深い山で育まれた香りの高い上等な緑茶の葉を買い求めた。
足を進めるごとに空気は鋭さを増し、肌を刺すような清涼な風が、古都の奥深さと霊山の威厳を物語っていた。
やがて彼らは、木々の隙間から荘厳な佇まいを見せる寺院の前へと差し掛かった。
「ここは人形寺と言う通称で呼ばれております、人形にまつわるお寺さんです。古くから役目を終えた人形たちが集まり、人形供養をして貰える場所なんですな」
呪術師は歩みを止めることなく、淡々と、しかしどこか含みのある声で説明を続けた。
雅之は寺の門を横目に見ながら、無数の人形たちが抱えてきたであろう思念を想像し、背筋に薄ら寒いものを感じて襟を正した。
一行は寺院の前を通り過ぎ、さらに人跡稀な北の奥へと、湿った土を踏みしめて歩いて行く。
鬱蒼とした森の奥まった場所に、まるで周囲の風景に溶け込むかのように、ひっそりと佇む一軒の木造建築が現れた。
「岸尾人形店」
風雨に晒され、文字が僅かに掠れた簡素な木の看板が、軒先に慎ましやかに掲げられている。
一応は営業をしている体裁ではあるが、格子戸の向こう側に人の気配はなく、静寂だけが建物を支配していた。
「……工房にいらっしゃるのかもしれませんな」
呪術師は店の入り口には向かわず、建物の脇を通り抜けて、さらに奥へと移動し始めた。
雅之が呪術師の背中に付き従うように進むと、そこには小さな、しかし端正に手入れされた社が建つ開けた場所があった。
呪術師が深く合掌し、静かに深くお辞儀を捧げたので、雅之もそれに倣い、震える掌を合わせて無言で頭を下げた。
儀式を終えた呪術師は、周囲の気配を探るように目を細めた。
「そろそろ、『御迎え』が来てくれはりますさかい、ここで待ってましょか」
「御迎え……?」
雅之は、店で働くスタッフか、あるいは優理本人が迎えに来るのかと思い、期待と不安を抱きながら社の前で待機した。
その時だった。
静まり返った森の奥から、木造の床を叩くような、乾いた「カタカタ……」という音が微かに響いてきた。
音は次第に近づき、やがて雅之たちの視線の先、母屋から伸びる廊下の影から、その「御迎え」が姿を現した。
それは、呪術師たちの数歩手前の場所でピタッと静止したかと思うと、腰を深く折り、実に恭しく丁寧なお辞儀をして見せたのである。
「あ……! 昨日の……!」
雅之は、思わず驚愕の声を上げてその場に凍りついた。
そこにいたのは、生身の人間ではなかった。
昨日、あの不思議な「摩訶不思議食堂」へ足を踏み入れる直前、神社の境内でえらいこっちゃ嬢と一緒に佇んでいた、あの市松人形だったのである。
ガラス玉の瞳が雅之の姿をじっと見据え、生命を持っていないはずのその木製の体が、まるで生きているかのような滑らかさで、彼らを奥へと誘うように動いていた。
---
## 人形師の血脈 ―― 鳥居の奥に潜む声
「ようおこしやす。遠いところ、よう歩いてくれはりましたなあ」
市松人形は、まるで本物の京女のような柔らかな口調で、雅之たちを迎え入れた。
その唇は動いていないはずなのに、透き通るような声が静寂な森に溶け込んでいく。
呪術師は慣れた様子で軽く会釈を返し、懐から先ほど購入した包みを取り出した。
「お邪魔します。昨日は東京の方まで、御迎えに上がって下さったみたいですな。御疲れ様で御座います。こちら、些少ですが土産の緑茶ですえ。こちらの高嶋さんが、誠意を込めて買うてくれはりました」
「これはこれは、ご丁寧に、おおきに。高嶋はんと仰いましたか。昨日ぶりどすなあ」
人形はカラカラと、乾いた木が触れ合うような音を立てて笑う。
その視線が自分に向けられたのを感じ、雅之は喉の奥を鳴らしながら、絞り出すように答えた。
「ど、どうも。……改めまして、高嶋雅之です。昨日は失礼いたしました」
「優理はんが言ってはった通りどすなあ。専門家の方と出会わはったみたいどすから、結構早く辿り着かはるやろうって。お見通しどしたえ」
人形はまたカラカラと笑い、雅之の背筋に冷たい震えを走らせる。
呪術師は恐縮したふうを装いながらも、その目は冷静に周囲の気配を探っていた。
「僕も突然、こちらまでお邪魔することになりまして。御手間を取らせますなあ」
「呪術師さんは大歓迎どすえ。ほな、こちらへどうぞー。案内させてもらいます」
人形は「カタカタ」と音を立てて向きを変えると、滑らかな、それでいて独特の拍動を感じさせる足取りで奥へと向かって歩き出した。
呪術師が平然とその背中を追うので、雅之も置いていかれまいと慌ててその後に続く。
歩きながら、雅之はどうしても抑えきれない疑問を人形の背中に投げかけた。
「なあ、君は……君は優理の事を知っているのか? 彼と、どういう関係なんだ?」
「先代、つまり優理はんの御祖父様の時から、わたくしの修繕……今風に言うたら、メンテナンスをしてもろてましたんよ。今は優理はんが、そのお役目を引き継いでくれてはりましてなあ」
人形は歩みを止めず、懐かしむような響きで答える。
「そうか、君のメンテナンスを、優理が……。彼が今、君を守っているんだな」
「左様どす。先代さんは、わたくしのような人形の付喪神も、実に丁寧に、慈しむように修理してくれはって。山奥で細々とやってはりましたから、世間に名前は売れてまへんでしたけど、ほんまに腕のええ人形師どしてなあ。……そう、人形師としても、呪術師としても、一流どしたえ」
「呪術師……」
その言葉が雅之の耳に届いた瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
25年前、自分が「女みたいな名前でひ弱な奴だ」と嘲笑っていたあの少年の血筋は、人形に魂を吹き込み、あるいは理を操る異能の家系だったのだ。
その事実が、今まさに自分と家族を蝕んでいる「呪い」の正体を、より生々しい現実として突きつけてくる。
一行はやがて、工房と思しき建物の入り口に辿り着いた。
しかし人形はそこでは足を止めず、さらに奥、鬱蒼とした木々に囲まれた一角へと彼らを案内した。
そこにあったのは、もはや商店や工房の類ではない。
建物の入り口には小ぶりながらも威厳のある朱塗りの鳥居が据えられ、まるで神社の本殿そのもののような、神聖で近寄り難い空気を纏った空間だった。
市松人形はその鳥居の前で立ち止まり、奥の闇に向かって声をかける。
「優理はん。お連れしましたえ」
静寂が森を支配した、その数秒後。
建物の奥深く、深淵から響いてくるような、低く、落ち着いた声が返ってきた。
「……入ってくれなはれ」
その声を聞いた瞬間、雅之の足がガクガクと震え始めた。
25年という時を超えて、今、因果の終着点が扉を開いた。
---
## 深淵の再会 ―― 懴悔の土下座と拒絶の冷徹
市松人形がそっと指先を木扉に掛けると、滑らかな音を立てて扉が左右に割れるように開いた。
呪術師は慣れた所作で、玄関脇の整頓された靴棚へ自身の履物を丁寧に入れ、音も無く奥へと足を踏み入れる。
雅之もまた、その神聖ですらある空気に圧倒されながら、己の罪の重さを一歩ごとに踏みしめるようにして後に続いた。
建物の外観は小ぶりであったが、一歩中へ足を踏み入れると、そこは外の世界とは隔絶された、本物の神社の本堂としか思えない荘厳な空間が広がっていた。
部屋の中央には古式ゆかしい火をくべる炉が設置され、その奥には何らかの神事を行うための、重厚な木材で組まれた「代」が鎮座している。
その最奥、揺らめく灯火の影から、青い作務衣を纏った一人の男が静かに立ち上がった。
かつて雅之が「女みたいだ」と嘲笑った、しかし今は底知れぬ威厳を湛えた男――岸尾優理である。
「尾上さんから話は聞いてるよ。よう辿り着かはったね、高嶋君。まあ、東京でそちらの方と出会わはった事を知った瞬間、遅かれ早かれ、ここに来るやろうとは思うてたよ」
優理は感情の起伏を感じさせない、淡々とした京言葉で語りかけた。
その視線は雅之を通り越し、傍らに立つ呪術師へと向けられる。
「どうも。儂は岸尾優理。見ての通り……同業者です」
呪術師は薄く微笑み、敬意を込めて小さく頭を下げた。
「これはこれは御丁寧に。僕の事は、呪術師とでも呼んで下されば宜しゅうおす。お邪魔致します」
二人の異能者が静かに言葉を交わす傍らで、雅之はただ立ち尽くしていた。
「優理……同窓会ぶりだな」
ようやく絞り出した声に、優理は短く、そして冷たく応じる。
「ああ、同窓会ぶりやね」
雅之は、優理の失われた右袖が、風も無いのに虚空を揺らしているのを見つめた。
その刹那、雅之の膝から力が抜け、彼はその場に「スッ」と膝をつき、正座の姿勢をとった。
「優理……。25年前、君の右腕を奪い、君の大切な未来を奪ってしまった事……心より、お詫び申し上げます。……本当に、申し訳ありませんでした!」
雅之は畳に額を擦り付けるようにして、全力の土下座を捧げた。
額に伝わる床の冷たさが、25年という歳月の重みとなって雅之の脳髄を叩く。
室内を支配したのは、重苦しく、耳鳴りがするほどの沈黙であった。
やがて、頭上から降ってきたのは、想像を絶するほど無機質な一言だった。
「……ああ、そう」
雅之は顔を上げることなく、必死に言葉を重ねた。
「この通りだ。これから先、一生をかけて、どんな償いでもする。義手が必要なら、世界中から最高級のものを探し出して手配する。その後のメンテナンスも、すべて俺が責任を持って生涯負担すると約束する」
自らの財力と地位を投げ打つ覚悟での宣言。
しかし、優理の答えは、雅之の差し出した救済を真っ向から切り捨てた。
「義手はいらへん」
その平坦な拒絶に、雅之は言葉を失う。
「……そうか。それじゃあ、補償とか、金銭的なことはすべてこちらで何とかする。……もう25年が経ってしまったが、明日、いや今日にでも、俺が君の右腕を奪った張本人だという真実を公表する。捻じ曲げられたままの過去を、俺のこの身をもって正すことを、ここに約束します」
雅之は震える声で、己の社会的地位の崩壊をも厭わぬ誓いを立てた。
「本当に、申し訳ありませんでした……。本当に、申し訳ない……っ」
再度、床に額を打ち付け、雅之は慟哭に似た謝罪を繰り返した。
再び訪れた沈黙の中、炉の火が「パチッ」と爆ぜる音だけが、虚しく、そして冷酷に響き渡っていた。
---
## 因果の独白 ―― 全てを仕組んだ「無敵の人」の正体
静寂が支配する本堂の中に、パチッ、パチッと爆ぜる炉の火の音だけが、無慈悲な時を刻んでいた。
床に額を擦り付けたまま、微動だにしない雅之の背中には、冷や汗とも、己の業の重みともつかぬ湿り気がじっとりと張り付いている。
長い、あまりにも長い沈黙の末、ついに頭上から降ってきたのは、感情の温度をすべて削ぎ落としたかのような、低く落ち着いた優理の言葉だった。
「……三つ子の魂百まで、か。あの呪われた同窓会でな、そこに並んどったあんたらの顔を見た時、儂は心の底から確信しとったんよ。人間、死ぬまで変わらへんのやなあって。自分らが何をしたかも忘れ、被害者が今も流しとる血の色も見ようとせず、他人の痛みを肴にして笑うとる……。あんたらの魂は、あの日の校庭に捨て去られたままやと思うてた。せやけどまさか、あれからこんな短期間の間に、あんたという人間の魂の在り方が変わり始めるとはね。……正直なところ、驚いとるで」
優理の言葉には、怒りや憎しみといった安直な感情を超越した、どこか突き放すような冷静さと、隠しきれない困惑が混ざり合っていた。
「まあ、立ちよし」
その一言に促され、雅之はしびれた足に力を込め、ゆっくりと、しかし逃げぬ決意を込めて体を起こした。
「こちらの市松人形さんから、昨日の事も含めて大体の話は聞いとったよ。おっかなびっくりながらも、摩訶不思議な連中に揉まれ、泥を啜るような思いをしてここまで来たんやろ。……ほんまに、あんたが自分自身を根底から変えようとしてはるのは、その真っ直ぐな眼を見ていれば、嫌でも伝わってくるわ」
優理の静かな、だが深淵を覗き込むような眼差しを受け止めながら、雅之は自らの内に灯った消えない覚悟を言葉にした。
「……変わらなければいけないと思ったんだ。本気で。これまでの自分がいかに空虚で、どれほどの犠牲の上に偽りの平穏を築いてきたか、思い知らされた。そして、誠心誠意、優理に謝罪しなければならないとも……。たとえ許されなくても、それが俺に課せられた最初の『懴悔』だと気づいたんだ。東京に帰ったら、改めて尾上にも誠心誠意、謝罪する。俺があの同窓会で、彼女を嘲笑ったことも含めた全ての事に頭を下げるつもりだ」
「……そうしなはれ。尾上さんも、あんたらには本当に、ひどく、深く傷つけられたんやから。彼女がこれまでどれほどの孤独を抱えて生きてきたか、あんたには想像もつかんやろ」
優理の言葉に、雅之は重く沈み込むような心地で「……はい」とだけ短く答え、再び深く頭を下げた。
「そんで。わざわざこんな人里離れた場所にまで足を運んで、頭を下げて諸々の事を宣言するためだけに、新幹線に乗って京都まで来はったん? それだけが理由やないやろ」
優理の目が、雅之の魂の深奥にある「最大の疑念」を暴き立てるように鋭く光った。
雅之は呼吸を整え、意を決して、自らをここまで突き動かした戦慄すべき真実の核心を吐露した。
「……ああ。勿論、謝罪することと、伝えるべきことを伝えるために来た。それと……俺は、この目で真実を確かめたかったんだ。この短期間の間に、優理や尾上を傷つけた同級生たちは、俺を残して例外なく全員が右腕を失った。ある者は絶望の果てに自ら命を絶ち、ある者は今もなお、腕の無い現実という生き地獄を彷徨っている」
雅之は、昨夜聞いた「全滅」という言葉の、血の凍るような響きを思い出しながら言葉を絞り出した。
「そして俺の家族も……罪の無い雅英や妻までもが、例外なく右腕に異変をきたしている。偶然で済ませるには、あまりにも出来過ぎた不自然な惨劇だ。そしてこの数日、呪術師さんや僧侶の方、それに昨日は……信じられないような、この世の者とは思えない連中とも出会って、俺は、呪いというものが空想ではなく、厳然たる事実として存在しているのだという確信に至ったんだ」
「……それで? 核心を言いなはれ」
優理は、淡々と、まるで他人の事後報告を聞くかのように続きを促した。
雅之は喉を鳴らし、全身の毛穴が逆立つような恐怖に耐えながら、その核心を問い質した。
「教えてくれ。あの一連の出来事は……あいつらが、そして俺の家族が……雅英が右腕を失ったのは、すべて、優理……君が引き起こしたことなのか? 君が、あいつらを……俺たちを、呪ったのか!?」
雅之の叫びにも似た問いに対し、優理は眉一つ動かさず、揺らめく炉の火をじっと見つめていた。
一瞬の静寂の後、彼は全く隠す素振りも見せず、凍てつく冬の夜気よりも冷ややかに、そして確信に満ちた平坦な声で答えた。
「ああ、そうや。包み隠さず言えば、あの一連の事柄はすべて、儂一人の仕業や。……儂があんたら全員を、逃れようのない地獄に叩き落としたんや」
その独白は、二十五年の歳月をかけて練り上げられた、あまりにも重く、純然たる殺意を孕んだ断罪の宣告であった。
---
## 形代の戦慄 ―― 暴かれる因果律の仕組み
雅之は、膝の震えが全身に伝播していくのを感じながら、ただ茫然と立ち尽くしていた。
心のどこかで「どうか彼であって欲しくない」と、僅かに残っていた淡い期待は、今、本人の冷徹な告白によって無惨にも打ち砕かれた。
しかし、同時にその告白は、この数日間に起きたあまりにも不自然な惨劇のすべてのピースを、一つの悍ましい完成図へと繋ぎ合わせていく。
「……っ。やはり、君が……」
雅之の唇が小刻みに震え、確信と絶望の狭間で、その魂は激しく揺れ動いていた。
優理は、取り乱す雅之の姿をまるで興味の無い景色のように一瞥すると、ゆらゆらと炎が踊る儀式台へと手を伸ばした。
「ほんで、儂の仕業やと言う事がはっきりしたら、復讐の復讐でもするつもりやったんか? 被害者面して、儂を警察にでも突き出すつもりか?」
優理はそう言いながら、燃え盛る火の前に置かれた台の上から、真っ白な一枚の紙を指先でつまみ上げた。
それは、人の輪郭を模して精巧に切り抜かれた紙の人形。
そして、その中央には、雅之の眼球に直接焼き付くような力強い筆致で「高嶋雅之」という名前が記されていた。
「……それは……一体、何なんだ?」
雅之は、その紙切れから放たれる、物理的な圧迫感すら感じる邪悪な気配に、ぞくりと背筋を凍らせた。
「紙の人形や。……呪術師さんも、こういうのは手慣れてはりますよね?」
優理が視線を向けると、隣にいた呪術師は無言のまま、漆黒の懐から一枚の呪符を取り出した。
そこには、雅之には解読できない複雑な文様が朱書きで刻まれている。
雅之は目を見張り、二人が手にする異質な紙を見比べ、その異常な光景に息を呑んだ。
「『人形』か『符術』か、その形式の違いはありましょうがな、根底にある原理は通じるもんがありますやろ。対象の生命の一部を、紙に写し取る……いわば霊的な同期ですわ」
呪術師は、事も無げに、しかし雅之には理解の及ばない深淵の理を淡々と説明した。
「ほな、『形代』を実際に使って、術を掛けはった事も、おありのようですね」
優理は、呪術師の手にある符を鋭い眼光で眺め、感心したように頷く。
「厄除けとか、あるいは形代を用いた解呪の手伝いなら、何度もありますさかい。お寺さんで依頼主の代わりに、ようお焚き上げをさせてもろたもんです」
呪術師の言葉を聞き、優理はフッと、乾いた笑い声を漏らした。
「なるほど、解呪師としての腕前でしたか。……正直、儂の放った呪をこれほど鮮やかに遮断された時は、一体何者が介入したのかと驚きはしましたが……。これほどの使い手やったら、今の事態も頷けます。呪術師さんがいてはらへんかったら、高嶋君の奥さんも、今頃は右腕どころか、すべてを失っていたやろうね」
雅之は、二人の間で交わされる専門的な会話に、完全に置いてけぼりにされ、混乱の極致にいた。
「一体、何を言っているんだ……。かいじゅし? 解呪って……」
優理は、雅之の戸惑いを一蹴するように、冷めた瞳で彼を見据えた。
「高嶋君。あんた、東京からわざわざこの鞍馬の奥まで、必死な思いをして辿り着いたんやろ。……ほな、その根性に免じて、あの日から何が起こったのか、儂が具体的に何をしてあんたらを追い詰めたのか、その一部始終を教えてあげましょか」
優理の声には、復讐を成し遂げた者特有の静かな熱量と、雅之という人間をこれから徹底的に精神の深淵へ突き落とそうとする、容赦のない悪意が宿っていた。
雅之は、これから語られるであろう残酷な真実を受け止めるべく、握りしめた拳に力を込め、固唾を呑んで優理の次の言葉を待った。
---
## 復讐者の夜明け ―― 奪われた右腕が紡いだ呪詛
優理は囲炉裏の火を静かに見つめ、長く、重い息を一つ吐き出した。
その貌には、もはや同窓会で見せたような虚無感はなく、二十五年の歳月をかけて練り上げられた、静謐なまでの狂気が宿っている。
「『形代』と言うのはな、紙や木に人の形を写し取ったもんを指す言葉や。世間一般では、こういう人の形をした紙であったり、藁人形なんかが有名やね」
優理は、指先に挟んだ紙の人形を、まるで愛しいものを扱うかのように、あるいは無価値なゴミを摘まむかのように、雅之の眼前にかざして見せた。
「……呪いの藁人形。オカルトの話では聞いたことがある。だが、それはあくまで御伽話の類だと思っていた」
雅之は、その薄い紙切れから放たれる、刺すような冷気を感じて喉を鳴らした。
「世間では、そんなイメージやろうな。形代とは、神事で穢れを移して祓う『身代わり』の紙人形なんよ。本来は呪いに使うもんやなく、自身の罪や穢れを代わりに背負ってもらうための、清めの道具なんや。それがいつしか、憎い相手に災いを転嫁する呪術に使われるようになり、藁人形を使った丑の刻参りのような、負の道具としても伝承されてきた。光と影、表と裏。形代には、その両面があるんや」
優理の語る言葉は、歴史の教科書を読むように淡々としていたが、それゆえに雅之の恐怖を際立たせた。
優理は言葉を一旦区切り、雅之の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「自身を清める正の目的にも、人を呪い殺す負の目的にも使われる『身代わり』の道具、それが形代や。そしてな、儂は……人を呪う、負の目的にのみ使い続けた。そうして積み上げた呪が実を結び、今の惨状になったんや」
「そんな……。紙を切り取って、名前を書いただけで……。本当に人を呪い殺せるというのか?」
雅之の全身を、形容しがたい悪寒が駆け抜ける。
「修行を積んだ呪術師が、きっちりと手順を踏み、命を削る覚悟で臨めば出来る事や。それを教えてくれた儂の師匠は、先代である祖父やった。人形の作り方と、人を呪う術。祖父が他界するまで、儂はこの地で、そのすべてを血肉にするまで教わり続けてきたんよ」
優理は遠い記憶を手繰るように、視線を囲炉裏の奥へと投げた。
「あの日……二十五年前、右腕を失った儂が、祖父に真実をすべて話した時、祖父は烈火の如く激怒してな……。自分の手で、あんたら全員を呪い殺してやると、そう言わはったんよ。あの時の祖父の貌は、本物の鬼そのものやった」
「……当然だ。たった一人の大切な孫が、身勝手な遊びで右腕を奪われたんだ。祖父が君の仇を討とうとするのは、道理だろう。……俺達には、その報いを受ける義務があったんだ」
雅之は、自らの罪の深さを改めて突きつけられ、うなだれるしかなかった。
しかし、優理が続けた言葉は、雅之の想像を遥かに絶する「闇」の深さを物語っていた。
「そやけど、儂は祖父を止めた。『儂にやらせて欲しい。儂の手で皆殺しにしたるから、儂にすべてを教えて下さい』とな。……それが、儂の呪術師としての始まりやったんよ」
十五歳の少年だった優理が右腕を失ってから、残された人生のすべてを「復讐の鬼」として生きる決意をした瞬間。
雅之は、そのあまりに純粋で、あまりに苛烈な憎悪の深さに眩暈を覚えた。
一人の少年の純朴さを、自分たちがこの手で「怪物」へと変えてしまったのだ。
「それから、儂はそれまで祖父から教わってた人形師としての修業を続けながら、呪術師としての修業も始めた。そして、祖父が他界するまでにすべての秘術を継承し終えた。人形師としては、この片腕やから物理的に祖父を超える事は出来んかった。けどな、呪術師としては、歴代最高と言うて貰えるまでになったんよ」
優理は自らの残された左手を見つめ、どこか自嘲気味な笑みを浮かべた。
「皮肉な話やな。右腕を失った事で、人形師としては一生半人前になることが確定したのに……。その代償として、呪術師としては歴代で最も優れた才を開花させてしもうたんやから」
優理の漏らした溜息は、二十五年の重みを伴って、冷たく、虚しく、堂内に響き渡った。
---
## 逆凪の理 ―― 奪われた腕が払った、呪いの先払い
雅之は、炉の火に照らされて青白く浮かび上がる優理の横顔を見つめ、震える声で言葉を絞り出した。
「……右腕を奪われた恨みが強すぎたから、死に物狂いで技を磨き上げて来たという事か。その怨念が、君をそこまで……」
その問いに対し、優理はただ淡々と、どこか遠くを見るような目で自嘲気味に笑った。
「そういう精神面による成果というものも、無くはないよ。けどな、呪術師になれた理由は、もう一つあるんや。はからずして最初の段階、最も重要で、かつ最も緊張するはずの工程を……文字通り『命懸け』の儀式を飛ばすことが出来たんや。これも皮肉な話やで。儂が望んだわけやないのに、扉は最初から開いとったんやから」
優理はそう言うと、視線を隣の呪術師へと向けた。
「呪術師さんなら、もうおわかりでしょう?」
促された呪術師は、沈黙を守っていた唇をゆっくりと開き、全てを看破した者の落ち着き払った声で語り始めた。
「……『人を呪わば穴二つ』、あるいは『逆凪』。言い方は色々ありますがな。要するに、呪術師になるための最初の試練、越えなあかん試験と言ってもええでしょうか。その試練を超えるためにやらはった事は、確かに合理的というか、凄惨なやり方ですわ。おたくがその若さでここまでの術者になれた理由、ようやく合点がいきました」
呪術師の言葉は、まるで冷徹な鑑定士が真贋を見極めるかのように、一切の私情を排していた。
「やっぱり全てお見通しなんですね。……流石、凄腕の解呪師さんや」
優理がフッと口角を上げると。
呪術師は雅之の方へ向き直り、深淵の理を解き明かすように続けた。
「雅之さん、先程、優理さんは身代わりの話をしはりましたな。呪いというものは、放った分だけ自分にも返ってくる。これが『逆凪』です。優理さんはそのしっぺ返しを無効化するために、『逆凪転嫁』、つまりしっぺ返し対策用に御自身の形代を作って、その形代の右腕を斬り落とすという術理を用いた。しかし、そもそも優理さんの右腕は、25年前に雅之さんの手によって既に失われているわけです。無いものは、これ以上失いようがありまへん。つまり、疑似的に代償を支払う儀式を成立させながら、その実、本人は一滴の血も流すこと無く、呪いの代償を無効化しはった……そういう事です」
「完全解答ですやん……怖いお人やわ」
優理が感心したように頷くと、呪術師は無機質な視線を雅之に突きつけた。
「要するに、本来、優理さんが支払う事になるはずやった代償の『先払い』が、既に済んでたわけです。普通、術者は呪いを放つ度に身を削る。せやけど優理さんは、既に払いきった『欠損』を担保にして、無限に術を回せる。呪術師としては、最初からロケットスタートを切れたわけですわ。確かに皮肉なもんですなあ。雅之さん、あんたが言う『あの日』というその時に、ただ少年の腕を奪っただけやない。完成された凄腕の呪術師を、自らの手で生み出したっちゅうことです」
「そんな……。俺が……俺が、優理を……っ」
雅之は、己が招いた因果のあまりの巨大さに眩暈を覚えた。
「雅之さんに起こっている不可解な現象……東京で奥さんの右腕が突如として動かんようになったその因は、紛れもなく、あんた自身にあるっちゅうことですわ。あんたが過去に投げた石が、時を越えて、最も残酷な形で跳ね返ってきた、ただそれだけの話です」
呪術師の宣告が、雅之の脳髄を容赦なく打ち砕く。
その時、優理が儀式台に置かれていた、さらに二枚の人型の紙を静かに拾い上げた。
彼はそれを、絶望に染まる雅之の眼前に突きつけるようにして見せた。
「……っ!?」
雅之は、それを見た瞬間に呼吸を忘れ、心臓が凍りつく感覚に襲われた。
そこには、雅之の最愛の妻、そして息子の名前が、鮮血を思わせる墨色で記されていた。
そして何より、雅之の正気を奪ったのは、その紙の人形の異様な姿だった。
「雅英」の名前が書かれた人型の紙……その右腕の部分が、まるで現実の悲劇を物語るように、無慈悲に、そして無残に、根元から切り取られて失われていた。
雅之は震え上がり、世界の時間が止まったかのような静寂の中で、その二枚の紙をただ凝視し続けることしか出来なかった。
---
## 紙の命運 ―― 業火に消える名と、地獄への同行
揺らめく炉の火に照らされた雅英の名。
その右腕が欠損した不気味な紙人形を前に、雅之は己の心臓が冷たい氷の杭で貫かれたような衝撃を受けていた。
「雅英の右腕が壊死して、切断を余儀なくされる事態になったのは……やはり、優理。君が、その紙を使って……」
震える声で紡いだ問いに対し、優理はただ無機質な瞳を向け、感情の欠片も乗せないまま応えた。
「俺を憎むのはわかる。あの日あの場にいた同級生たちを恨むのも、当然の事だ。……だが、なぜ、俺の家族まで狙ったんだ? 何も知らない妻や、まだ幼い息子まで巻き込む必要があったのか!」
雅之は喉を鳴らし、父親としての悲痛な叫びをぶつけた。
「生き地獄を味わわせるためや。ただ、それだけのこと」
優理の答えは、あまりにも淡々と、そしてあっさりと雅之の胸元へ突き刺さった。
その瞬間、雅之の脳裏に「摩訶不思議食堂」で出会ったあの美しき鬼、女鬼の言葉が蘇った。
『復讐者は、最低最悪な行為こそが対象を最も苦しめる事を知っている。だからこそ、迷わずそれをやるんだよ』
世間の道徳や倫理など、この男の前では何の防壁にもならない。
愛する者が壊れていく様を見せつけること。
それこそが、雅之という男に対する最も残酷で、最も効率的な報復なのだ。
「儂の師匠である祖父。そして、今は亡き両親と祖母の痛み……。高嶋君、あんたはそれを、少しは理解しはったか?」
優理は欠落した右袖を微かに揺らし、深淵のような眼差しで問いかけた。
「……痛いほど理解したよ。君の家族が、右腕を失った君を見てどれほど絶望し、君自身の人生がどれほど捻じ曲げられたか……。今、俺の家族に起きている惨劇を通して、思い知らされている」
雅之は力なく答え、膝の震えを抑えるように拳を握りしめた。
「儂が憎いか? この場で儂を殺してやりたいか?」
優理の問いに、雅之はしばし沈黙し、自らの内側に渦巻く泥濘のような感情を見つめた。
「……正直、雅英まで苦しめたことには、激しい憤りを覚えている。父親として、君を許せないと思う気持ちはある。……だが、それ以上に。これはすべて、俺があの日に種を撒き、25年もの間放置し続けてきた悪業が招いた結果だということも、理解しているんだ。だから……憎しみだけでは語れない、複雑な心境だよ」
雅之は弱々しく首を振り、己の無力さを噛み締めた。
「俺たち家族の命は……今、この瞬間も、君の指先一つに握られている。そういうことなんだな」
「平たく言えば、そうやな。儂がその気になれば、あんたらの心臓を止める事も、そう難しくはあらへん」
優理の肯定は、死神の宣告よりも重く響いた。
「……そうか。……あ、そうだ。他の……他の連中の紙は、どうなったんだ?」
雅之は、既に変わり果てた姿となったかつての友人たちの顔を思い浮かべながら尋ねた。
「使い終わった後、そこの火にくべて燃やし尽くしたで。……もう、この世に名前を留めておく必要もなくなったさかい」
優理が視線を向けた炉の奥では、赤い炎がパチパチと音を立てて爆ぜていた。
雅之はその炎を見つめ、悟った。
火にくべられたのは、既に他界した者たちの魂の依り代。
そして、今なお生き地獄を味わっている残りの者たちも、いずれ役目を終えれば、あの業火の中へと消えていく運命にあるのだということを。
「そうか……。優理。その紙を……これ以上、傷つけられないように。俺の家族に、これ以上の苦しみが及ばないように。改めて、一生をかけて誠心誠意、君に償い続けると約束する」
雅之は、再び畳に額を擦り付け、魂を削るような思いで頭を下げた。
もはや、金や地位で解決できる問題ではない。
己の人生そのものを、優理への、そして失われた25年への供物として捧げる。それが彼に残された唯一の生存戦略であり、懴悔であった。
「さよか。……まあ、精々気張りなはれ」
優理は、足元で平伏する雅之を見下ろすことすらなく、ただ冷酷に、そして突き放すように言い放った。
その言葉は、赦しではなく、終わりのない贖罪の門が開いたことを告げる合図であった。
---
## 審判の同窓会 ―― 命の鍵を預けて
雅之は、炉の火に照らされた自分の名前が刻まれた紙を見つめ、自身の魂が曝け出されたような心許なさを感じていた。
「……優理を復讐者にしたのは、他でもない俺の責任だ。25年前、君のことを傲慢にも格下だと決めつけ、踏みにじるような愚かな真似をした時から、すべては狂い始めていたんだな。いや……狂っていたのは君じゃない。俺や、あの日笑っていた同級生たちの心の方だったんだ」
雅之の声は、自らの内に巣食う醜悪な過去を一つずつ削り落とすかのように、重く、沈痛に響いた。
優理は、感情を排した無機質な瞳で雅之を見据え、冷徹な真実を口にした。
「ようわかってはるやん。……あるいは、ようわかるようになったと言うべきか。まあ、儂があんたらを地獄へ送るという最終決定を下したんは、あの同窓会やけどな」
「え……?」
雅之は弾かれたように顔を上げ、目を見開いた。
「同窓会にわざわざ足を運んだんは、あんたらを『生かしといてもええかどうか』、その最後の判断を下しに行ったんよ。せやけど、結果は見ての通りや。二十五年経ってもあんたらは一ミリも変わっとらんかった。だから儂はあの日、呪いの発動に必要な『真名』という情報を集めきって、実行に移したんよ。みんな今の幸福な家庭生活やら、自慢の子供の話やらをベラベラと得意げに話してくれたさかい、名前を集めるのも標的を定めるんも随分とやりやすかったで」
優理の言葉は、氷の刃となって雅之の胸に突き刺さった。
あの同窓会は、単なる再会の場ではなく、自分たちの命を秤にかける「審判の場」だったのだ。
「そうだったのか……。あの時に、俺が虚勢を張らず、君にしっかり向き合って頭を下げてさえいれば……」
「……もしそやったら、少しは手心を加えるか、あるいは呪いそのものを思いとどまったかもしれんね。まあ、今更言うても後の祭りやけどな」
優理は、どこか虚しさを孕んだ溜息を吐き、視線を形代へと戻した。
雅之は、逃れられない後悔の念に震えながら、再び深く頭を下げた。
「優理が手にしていたはずの未来を奪っておきながら、俺たちは恥知らずにも幸福な未来を手に入れて、それを君に自慢していたんだ。そりゃあ……腹も立つよな。本当に、申し訳ないことをした」
雅之は拳を握りしめ、魂の底から絞り出すように最後の覚悟を口にした。
「これからは口先だけでなく、行動で謝罪と償いを示します。それでも……もし君の気が済まず、俺をこの世から消したくなったら、遠慮なくその紙を破り捨てるなり、業火に投げ入れるなりしてくれていい。俺の命の鍵は、君に預ける」
「さよか」
優理は、その重い宣告を柳に風と受け流すように、短く、淡く答えた。
雅之は最後にもう一度、静寂に包まれた本堂の中で深く謝罪の礼を捧げると、迷いを断ち切るように立ち上がり、優理のもとを後にした。
「ほな、僕も御暇します。お邪魔いたしました」
呪術師もまた、静かに居住まいを正してお辞儀をすると、音も立てずに靴を履いて玄関へと向かった。
「御足労頂きまして、有難う御座います」
優理は、去りゆく呪術師の背中に、同業者としての敬意を込めた一礼を返した。
「ほな、わたくしがお送りしまっさかい。足元気付けておくれやす」
市松人形がカタカタと乾いた音を立て、呪術師たちの後を追うようにして外へと消えていく。
一人残された本堂の中で、優理は手に持っていた「高嶋雅之」の形代を、ゆっくりと儀式台の上に戻した。
炉の火が「パチッ」と爆ぜ、一瞬だけ彼の横顔を赤く染める。
「……ふぅ」
優理は、二十五年もの間、復讐という名の重圧に耐え続けてきた肩の力を抜くように、深く、長く、重いため息を吐き出した。
その吐息は、復讐を完遂しつつある達成感よりも、終わりのない孤独と虚無感に満ちているようにも聞こえた。
---
## 不能犯の深淵 ―― 法の届かぬ復讐と、倫理の刃
鬱蒼とした森の出口で、丁寧に見送ってくれた市松人形と別れ、雅之は呪術師の背中を追って京都駅へと続く道を歩き始めた。
鞍馬の清冽な空気とは対照的に、雅之の胸中には、泥のように重く暗い疑問が渦巻いていた。
歩き始めて数分、静寂に耐えかねた雅之は、隣を歩く呪術師に、思わず浮世の常識に縋るような問いを投げかけた。
「……呪術師さん。優理は、何人も……呪いによってあっさりと二桁もの人命を消し去ったと言いました。これって、客観的に見れば凄まじい大量殺人事件……ですよね? 法治国家として、許されることではないはずだ」
雅之の声は震えていた。
その問いに対し、呪術師は前を見据えたまま、乾いた木の葉を踏みしめる音と共に淡々と、そして冷酷に事実を告げた。
「そうなりますやろな。もっとも、警察に届け出たところで、お上が動いてはくれることは、万に一つもあらへんでしょうがね」
「え? でも、あんなに多くの人間が死んで、しかも本人も『自分の仕業だ』とはっきり認めているんですよ!?」
雅之が思わず声を荒らげると、呪術師は歩みを止めることなく、冷徹な現実を突きつけた。
「死の因果関係を、どうやって科学的に証明しはります? 検察が裁判所で、紙の人形に名前を書いたから心臓が止まったなんて、本気で主張するとでも?」
呪術師の言葉は、雅之の縋っていた論理を根底からなぎ倒した。
「呪殺というものは、現在の法律や現実的な刑法の解釈においては、『不能犯』、それも『迷信犯』に分類されるでしょうなあ。殺意があっても、その手段が客観的に見て結果を引き起こす可能性が皆無やと判断されれば、未遂犯にすらなりまへん。藁人形を使うた丑の刻参りは、その典型例ですわ。優理さんの形代の術式も、理屈は同じ事です」
「不能犯……」
雅之は、その耳慣れない法的な響きを反芻した。
先ほど、優理が自嘲気味に語った藁人形の話が脳裏をよぎる。
「呪術によって人を実際に殺すことは明らかに不可能である……というのが、現代の娑婆の価値観でっしゃろ。例え目の前の相手に見立てた人形の類を、これ見よがしに壊した瞬間に、その人が心臓発作かなんかで急死したとしても、人形を壊した相手は罪に問われまへん。物理的な接触がない以上、因果関係を証明しようがありませんからなあ」
呪術師は、まるで行き止まりの壁を説明するように淡々と語った。
「所謂『視える人』やと、その因果の糸や呪術的な繋がり、張り巡らされた術式を視覚的に観る事は出来るでしょう。けどな、それを公的に証明できる人なんて、現代においては殆どおりまへん。そういうわけで、優理さんを殺人犯としてしょっ引く事が出来ひんのが、現行の法制度の限界ですえ」
「そんなの……やりたい放題じゃないか。これじゃあ彼は、法を超えた存在……まさに『無敵』じゃないですか」
雅之は、全身の血が引いていくような感覚に震えあがった。
「『無敵の人』とは、上手い事言うたもんですなあ。失うもんが何もないどころか、法すらも刃として届かへんのですから」
呪術師の言葉に、雅之は摩訶不思議食堂で女鬼が口にしていた「無敵の人」の話を思い出した。
そして、かつて純朴だった少年を、法も倫理も通じない「怪物」へと仕立て上げたのは、他でもない自分自身の慢心だったのだと、改めて激しい後悔の念に駆られた。
呪術師は、京都駅へと向かう雑踏が近づくにつれ、少しだけ声を低めて続けた。
「実際に話してみた感じやと、優理さんは倫理観や道徳観が無い人やなさそうやった。むしろ、一般の人よりもしっかりとした倫理観と道徳観念をお持ちやったというのが、僕の率直な感想ですわ。そんで、相手が最も苦しむ方法を選び抜いて実行する事が出来たのは、その感受性の表れでもあります」
呪術師の分析は、慈悲のかけらもないほど冷酷だった。
「『自分がされて嫌な事』という痛みを身を以て知ってはって、これはされたら嫌な事やって言う『人の気持ち』が痛いほどわかるからこそ、それを逆手に取って最大の苦痛を与えはったんでしょうな。優理さんとしては、復讐心が一時的に倫理的な観念を上回っただけの事で、根っこまで腐り果てたわけではあらへん。そうでなけりゃ、あんな純粋な目はしてはらへんでしょうなあ」
呪術師は一旦言葉を切り、雅之の横顔を一瞥する。
「優先する価値観の順番を、復讐のために一時的に入れ替えはっただけで、倫理観と道徳観を今も完全には捨ててはいてはらへんでしょう。即座に呪いを実行せんと、最終的な審判を下すために、わざわざ同窓会へ行かはったというワンクッションがあった事が、その何よりの証拠といえましょうなあ」
「……あの同窓会の日、俺たちが少しでも変わっていれば、こんなことにはならなかったということか」
「そやから、雅之さんが真っ当な在り方で、一生をかけて償い続ける生き方を一分たりとも崩さんかったら……まだ望みはあるかもしれません。優理さんが最後に仰った通り、『気張る』しかないんとちゃいますやろか」
「……はい、肝に銘じます。どんなに長く、苦しい道になろうとも」
雅之は深く頷き、力強く地面を踏みしめた。
京都駅の喧騒が近づき、修学旅行生や観光客の明るい声が聞こえてくる中、雅之は自らの背負った暗く重い宿命を噛み締めながら、前を向いて歩き続けた。
---
## 解呪の朝景 ―― 積み重ねる贖罪と、静かなる決断
京都駅のホームで呪術師に深々と、そしてこれまでの人生で最も真摯な感謝を込めて頭を下げた後。
雅之は、西へと沈む夕陽を背に受けて疾走する新幹線に乗り込み、東京への帰路についた。
車窓に映る自分の顔は、憑き物が落ちたようにやつれてはいたが、その瞳の奥にはかつてなかった確かな光が宿っていた。
自宅に帰り、愛する家族と再会したその日の夜、雅之は逃げ続けてきた過去のすべてをさらけ出した。
十五歳のあの日、自分がどれほど傲慢で冷酷だったか。
優理の右腕を奪い、その未来を徹底的に踏みにじったこと。
そして、今雅英の身に起きている惨劇は、巡り巡って自分が呼び込んでしまった、逃れようのない「因果」なのだということを。
雅之は涙を流しながら、畳に額を擦り付けて、妻と息子に謝罪し続けた。
小学生の雅英にとって、父の語る「呪い」という言葉は、物語の中の出来事のように現実味がなかったかもしれない。
それでも、目の前でなりふり構わず泣き崩れる父の姿と、彼がかつて級友に残酷な「いじめ」をしていたという告白は、少年の心に深い衝撃を与えた。
雅英はすぐには父を赦すことも、理解することもできなかったが、それでも、家族として共にこの「報い」を受け止めるという雅之の決死の覚悟だけは伝わった。
誠心誠意、償いの人生を歩むことで、少しでも優理の、そして家族の苦しみを和らげたい。
雅之の必死の懇願により、一家は崩壊の危機をかろうじて乗り越え、細い糸で繋ぎ止められた絆を再び紡ぎ直すことになった。
後日、雅之は尾上千恵美にも改めて謝罪の場を設けた。
千恵美は静かに彼の言葉を聞き届け、「赦します」と口にしたが、その瞳には鋭い釘が打たれていた。
「あなたが本当に人の道を外れずに歩み続けるか、私は一生、見張らせてもらうわ」
その言葉を、雅之は最高の恩赦として受け入れ、力強く頷いた。
さらに彼は、自らの社会的地位の崩壊をも厭わず、公の場で「中学時代、同級生に重傷を負わせた事実」を公表した。
会社での立場は一変し、エリート部長だった彼は一転して「過去に恐ろしいことをした男」として針の筵に座らされた。
「部長、俺の右腕まで取らないで下さいよ?」
心ない部下からそう嘲笑を浴びせられることもあったが、雅之は一度も言い返すことはなかった。
甘んじてその侮辱を受け入れ、ただ黙々と家族を養うために、そして誰かのために、部長としての職務を全うし続けていた。
---
それから暫くの時が経過した、ある土曜日の早朝。
活気づき始めた京都駅構内の喫茶店に、向かい合って座る二人の男の姿があった。
青い作務衣の上に上着を羽織った岸尾優理と、漆黒の装いを纏った呪術師である。
運ばれてきた温かな珈琲の香りが、二人の間の静かな空気を満たしていく。
「……わざわざ、朝早くにお呼び立てしてすみませんね」
優理が申し訳なさそうに頭を下げると、呪術師は穏やかに首を振った。
「いえいえ、休日の散歩がてら、よう喫茶店で珈琲飲んでますさかい。丁度宜しゅうおす。お気になさらず」
「儂も、ずっと工房に籠りきりやったさかい。たまには外の空気を吸わなあかんと思いましてね」
優理はそう言って微笑むと、懐から三枚の、人の形をした紙――「形代」を取り出した。
彼はそれを、呪術師の目の前に「スッ」と差し出した。
そのうちの一枚は、以前見せた時と同じ、右腕の部分が根元から欠落した状態のものであった。
それは高嶋雅英……雅之の息子の名を記した形代に他ならない。
しかし、呪術師はその紙を見た瞬間、奇妙な違和感、あるいは清涼な気配をそこに感じ取った。
紙の表面は滑らかで、以前に感じられたどす黒い執念や、さらなる損傷を招くような不吉な波動は一切消え去っていた。
呪術師は、目の前の形代と、穏やかな表情を浮かべる優理を交互に見つめた。
その沈黙は、プロ同士が言葉を介さずに事実を共有するための時間であった。
やがて、呪術師は珈琲カップを置き、淡々と、しかしどこか得心のいった様子でその事実を口にした。
「……解呪、しはったんですな。もう、その紙に『痛み』を刻む気はあらへんと」
呪術師の看破に対し、優理は否定も肯定もせず、ただ静かに、窓の外に広がる京都の街並みを眺めていた。
それは、二十五年の呪縛から解き放たれた者だけが持つ、凪いだ海のような瞳であった。
---
## 解呪の朝景 ―― 氷解する25年の孤独
京都駅構内の喫茶店に流れる静かなピアノ曲が、二人の異能者が交わす言葉を優しく包み込んでいた。
優理は、三枚の形代を愛おしそうに眺めた後、静かに懐へと仕舞い込んだ。
「……儂の同級生から、高嶋君が自ら宣言した事を、今も忠実にやり続けてるって連絡を貰いましてな」
優理は、かつての友人であり、今は良き監視役となった尾上千恵美から、雅之の近況を聞かされたことを明かした。
「あの傲慢だった男が、会社で針の筵に座りながらも、逃げずに耐え忍んでいる。……そやから、一旦は静かに見定める事にしたんです。まあ、一時的な見せかけであって、また同じ過ちを犯そうものなら、今度こそ容赦なく一家揃って地獄に送り届けるつもりですがね。……そんで、解呪した事を、御縁のあった呪術師さんにも一応報告しておかなあかんと思いまして」
呪術師は、揺らめく珈琲の湯気越しに優理を見つめ、短く応じた。
「さいですか。」
優理は、自分の名声や力に媚びることのない呪術師の態度に、どこか救われるような心地を感じていた。
「正直なところ、あの時……あなたが解呪するために来はったんかと思うてたんですが。まさか一切何もする事無く、あっさりそのまま帰らはったから、少々驚きはしましたで。……専門家の方なら、手柄を立てたがるもんやと思うてましたさかい」
優理が冗談めかして笑うと、呪術師は事も無げに、いつもの冷徹なまでに淡々とした調子で返した。
「奥さんの右腕の件は、あの時はまだ全ての事情を知ってたわけやなかったさかい、一時遮断の横槍を入れてしまいましたけどな。……その後、よくよく話を拝聴したところ、これは雅之さんが御自身で何とかすべき、彼自身の宿業やと判断しました。当事者が道を探そうとしている横から、外野が勝手に無理矢理な解呪をするのは筋違いでっしゃろ」
呪術師は、プロとしての、そして道を知る者としての矜持を漂わせた。
「僕はあくまで道案内と、岸尾人形師が受け継ぐ稀代の術式に興味があって、それを見学に寄せてもろただけですさかい。他人様のやり取りや因縁に無粋な首を突っ込む気なんて、これっぽっちもあらしまへん」
「……彼を案内してくれはったんが、呪術師さんで良かったです」
優理はそう言って、再び深く頭を下げた。
「それと、頂いた緑茶……有難う御座います。仕事の合間に、大切に頂いとります。あの日から、少しだけ仕事場に色が戻ったような、そんな気がしとるんです」
「買うてくれはったんは雅之さんやさかい、僕は何も。美味しゅう頂かれてるなら、宜しゅうおす」
呪術師はスッと右手を挙げ、柄にもない感謝をさらりとかわした。
「それにしても……あの頑なな高嶋君を改心させるとは、世の中には凄い場所もあったもんですね。昔、市松さんから『不思議なほっこり御飯を出してくれはる素敵なお店がある』と少しだけ話を聞いた事はあったけど……。今までずっと工房に籠りきりで、行く機会があらへんかったから。……いつか、行ってみとうなりました」
優理は、遠い地にあるという「摩訶不思議食堂」に思いを馳せ、フッと柔らかく微笑んだ。
その表情には、復讐に魂を焼き尽くされていた頃の、あの殺伐とした影は微塵もなかった。
「摩訶不思議食堂の事ですか。そやったら今度、是非御一緒しましょか。あの場所の料理は、僕も時々、無性に食べたくなりますさかい」
呪術師の誘いに、優理は今までにないほど穏やかな、そして確かな喜びを瞳に宿した。
「ええ、是非とも。宜しくお願いします」
優理が浮かべたその笑顔は、25年もの長い間、凍てつく復讐心の奥底にずっと封印されていた、心の底からの、一点の曇りもない笑顔であった。
京都駅の雑踏の中に、二人の静かな笑い声が溶け込んでいき、雅之という男が招いた凄絶な因果の物語は、一つの「救い」という名の終着点へと辿り着いたのであった。




