第23話-前編:高嶋雅之の身勝手過ぎたほっこり飯
## プロローグ:光り輝くエリートの虚飾と、暴君の素顔
都心の摩天楼を望む大手総合商社のオフィス。その一角で、高嶋雅之は、仕立ての良いスーツに身を包み、自信に満ちた背筋を伸ばしていた。
現在40歳、有名私立大学の大学院を優秀な成績で卒業し、国内有数の商社へと入社して以来、彼は一度も立ち止まることなく、文字通りエリート街道の最前線を突き進んできた。
同期たちが熾烈な出世競争に喘ぐ中で、彼は卓越した手腕と政治力を発揮し、40歳という若さで部長職という、組織の要とも言える地位にまで上り詰めていた。
彼の歩んできた道のりは、誰の目から見ても順風満帆であり、その人生のキャンバスには一点の曇りも無いように思われた。
雅之という男の根幹を成すのは、幼少期から培われた「要領の良さ」と「打算的な賢さ」であった。
子供の頃から学業成績は常に学年の上位に位置し、教師たちの前では礼儀正しく、期待に応える「模範的な生徒」を完璧に演じ切っていた。
しかし、その爽やかな笑顔の裏側には、冷酷なまでの選民意識と、他者を踏み台にする事を厭わない歪んだ性質が潜んでいた。
自分より「下」だと判断した相手に対しては、言葉の暴力に留まらず、時には執拗な蔑みや小馬鹿にした態度を取り、周囲の目の届かない場所では容赦なく暴力を振るう事さえあった。
だが、彼は決定的な証拠を残さず、大人たちを味方につける術を熟知していたため、その本性を知るのは、恐怖に震える被害者たちと、彼の威光に群がる一部の仲間たちだけであった。
大人になり、社会というより複雑な荒波に身を投じてからも、その傲慢な気質が変わる事は無かった。
流石に立場を弁え、学生時代のような直接的な暴力沙汰を起こす事は無くなったものの、部下たちに対しては「指導」の名を借りた苛烈な言葉の刃を突きつける。
彼にとって、組織の中での地位は、自らの支配欲を満たすための絶対的な力に他ならなかった。
私生活においても、彼は「理想的な家庭」という記号を手に入れる事に成功していた。
20代後半で結婚し、現在は12歳になる小学6年生の息子・雅英の父親としての顔も持っている。
雅之自身、中学時代まではサッカー部の主力として汗を流し、勝負の世界で相手を捩じ伏せる快感に浸っていた経験がある。
その影響を強く受けた一人息子の雅英もまた、地域のサッカーチームに通い、日々練習に励んでいた。
「中学に入ったら、絶対にサッカー部に入ってレギュラーを獲るんだ」
そう意気込む息子の姿に、雅之はかつての自分を重ね合わせ、自らのエリートの血筋が正しく受け継がれている事に、深い満足感を覚えていた。
地位、名誉、財力、そして自分を慕う家族。雅之の人生は、まさに完成されたパズルのように完璧であった。
そんな折、彼の元に一通の通知が届いた。
それは、同学年の全員が40歳という節目を迎えた事を記念して開催される、中学時代の学年同窓会の案内であった。
25年という四半世紀近い歳月を経て、かつての級友たちがどのような人生を歩み、どのような姿に変わり果てているのか。
雅之の胸を去来したのは、純粋な郷愁などではなく、冷ややかな好奇心と、抑えきれない自己顕示欲であった。
ストレートで課長に昇進し、今や部長職として商社の中枢を担う自分。
その「勝者」としての現在を、かつての凡庸な級友達に見せつけ、自慢してやりたいという身勝手な欲望が、彼の心を支配していた。
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## 二十五年の邂逅と、色褪せぬ支配欲
中学時代の同窓会当日。
都内の高級ホテルの宴会場は、四十歳という人生の節目を迎えたかつての級友達の熱気と、再会を祝う華やかな喧騒に包まれていた。
至る所でシャンパングラスが触れ合う音が響き、贅を尽くした料理の香りが漂う中、高嶋雅之は上機嫌そのものであった。
仕立ての良いスリーピースのスーツを完璧に着こなし、高価な酒を喉に流し込みながら、彼は周囲に集まる元級友達へ、現在の自分の地位や年収をそれとなく、しかし確実に誇示していた。
賞賛と羨望の眼差しを浴び、雅之の自尊心はこれ以上ないほどに満たされていた。
宴も中盤に差し掛かり、酒が回って思考がさらに傲慢さを増していた頃、雅之はふと会場の片隅に視線を止める。
華やかな輪から遠く離れ、一人でポツンと座りながら、時折手元の手帳に何かを書き留めている小柄な男性の姿があった。
まるで会場全体の空気や人々の動きを観察しているかのような、異質な静けさを纏ったその男。
何より雅之の目を引いたのは、彼の右腕だった。
右の二の腕から下が完全に失われており、上着の右袖が中身の無いまま、空虚に、だらんと力なく垂れ下がっている。
その特徴的な姿を目にした瞬間、雅之の脳裏に二十五年前の光景が鮮明にフラッシュバックした。
雅之は下卑た笑みを浮かべ、獲物を見つけた捕食者のような足取りでその男へ近づいていった。
「おう、優理じゃないか。久しぶりだな。元気にしてたか?」
雅之は親しげな、しかし隠しきれない優越感を込めた笑顔で声をかけた。
優理と呼ばれた男性は、手帳を閉じるとゆっくりと顔を上げた。
「……高嶋君か。久しぶりやな」
「なんだよ、なんで関西弁なんだ? 気持ち悪いな」
雅之が声を上げて笑うと、優理は表情一つ変えず、淡々と、感情を削ぎ落としたような無機質な声で答えた。
「実家は京都やからね。中学を卒業すると同時に京都に移り住んで、それっきりやから。染み付いてしもうたんよ」
「そうなのか? 卒業後の事は全く知らなかったよ」
雅之はさらに声を大きくして笑い飛ばしたが、その瞳に懐かしさの色は微塵も無かった。
「それにしても、相変わらず大人しくて暗い感じのままだな。お前、全然変わってないから遠目からでもすぐにわかったよ」
雅之の失礼極まりない言葉に、優理は残された左手で、力なく揺れる右の袖を静かに示した。
「あの頃から、この腕やからね。目立つんやろ」
「ああ、それもあってすぐわかったよ! いやあ、あの時は本当に不運な『事故』だったよな」
雅之は愉快そうに、喉を鳴らして笑った。
「……事故?」
優理が短く問い返す。
その瞳の奥に一瞬、鋭い光が宿ったのを雅之は気づかない。
「階段から落ちたんだっけか、よく覚えてないけどさ。まあ、お前らしいよな。中学の頃から体育の授業でサッカーでも全然動けてなくって、どんくさかったもんな。脚だけは無駄に速かったけど」
「……無理矢理キーパーばっかりやらされてたからね。君らに」
「そうだったか? そんな細かい事までよく覚えてないや」
雅之は、優理の言葉を意に介した様子もなく、二の腕から下が無い彼の右肩を「バンバン」と強い力で叩きながら、勝利者としての笑い声を宴会場に響かせた。
その衝撃で優理の体が微かに揺れる。
叩かれた肩の痛みを受け流しながら、優理の視線はある一点に釘付けになった。
右肩を叩く雅之の左手。
その薬指には、彼の充実した家庭生活を象徴する、高級そうな結婚指輪が鈍い光を放って輝いていた。
その輝きを、優理は射抜くような冷徹な眼差しで見つめていた。
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## 輝ける勝者の肖像と、忘れ去られた加害の傷
「高嶋君、結婚してはるんやね」
優理が、感情の読み取れない静かな声で呟いた。
その視線は、雅之の左手薬指で鈍い光を放つ結婚指輪に固定されている。
「おう、20代で結婚してさ。今は一人息子がいるんだ。見るか? 自慢の家族だ」
雅之は待ってましたと言わんばかりに、最新型のスマートフォンを取り出し、待ち受け画面に設定されている家族写真を優理の目の前に突きつけた。
そこには、美しく着飾った妻と、サッカーのユニフォーム姿で快活に笑う少年が写っていた。
「こっちが俺の妻で、こっちが息子だ。雅英って言うんだ。今は小学6年生の12歳。これからが楽しみな時期だよ」
「まさひで君……。何て字を書くん?」
雅之は鼻の穴を膨らませ、勝者の余裕をこれ見よがしに漂わせる。
「雅に英語の英で、雅英だ。俺の名から一文字取ったのさ。俺に似て、そして名前の通り本当に賢い子だぞ。将来が約束されてるようなもんだ」
雅之が声を弾ませて自慢を始めると、「えー、何々、雅之の子供?」と、周囲にいた同級生たちが次々と群がってきた。
雅之はここぞとばかりに画面を周囲に見せびらかし、羨望の声を浴びる。
「おう、俺の自慢の妻と息子だ。可愛いだろ? 雅英はサッカーも上手いし、成績も学年トップクラスなんだよ」
一通り盛り上がり、自尊心をこれでもかと満たしたところで、雅之は卑下するような視線を優理へと戻した。
「……で、優理はどうなんだ。お前、結婚してるのか? 仕事は今、何をしてるんだよ。まさか、まだ学生気分ってわけじゃないだろ?」
「儂は未婚や。独り身やね」
優理は淡々と、まるで他人の身上調査に答えるかのように告げた。
「仕事は、他界した祖父の人形屋を引き継ぎながら……。それだけやと経済的に難しいから、バイトと掛け持ちして食い繋いでるで」
その告白を聞いた瞬間、雅之を囲んでいた同級生たちの間に、冷ややかな嘲笑が広がった。
「え、40にもなってバイト生活かよ?」「人形屋とか、今時売れるわけないだろ。趣味の延長か?」「中学の頃からうだつが上がらなかったけど、大人になってもやっぱりって感じだな」
かつてこの場所で優理を徹底的に迫害し、その尊厳を執拗に踏みにじり続けてきた者たちは、自らが犯した罪を完全に記憶の底へ追いやり、今また新たな獲物をいたぶる悦びに浸っていた。
雅之は、優理の右肩から下がない不自然な空間を指差し、追い打ちをかけるように言い放った。
「情けない奴だな。まあでも、その腕だと障碍者年金とか、社会保障か何か貰えるから、働かなくても楽出来るのか。いいよな、政府から勝手に金が振り込まれてさ。俺たちみたいに身を粉にして働かなくても生きていけるんだから、羨ましい限りだよ」
雅之の露悪的な言葉に、周囲の者たちも同調して、品性の欠片もない笑い声を上げた。
「……好きでこんな腕になったんやないよ。そもそも、この腕は……っ」
優理が、奥歯を噛み締め、押し殺したような声で反論しようとしたその時である。
「岸尾君? 岸尾優理君……よね?」
その場の重苦しく歪んだ空気を割るように、一人の小柄な女性が不安げな、しかし確信を持った声で近づいてきた。
「……尾上さん。尾上千恵美さんやね」
優理は視線を上げ、自分を救い出すように現れた女性の名を、静かに呼んだ。
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## 不変の悪意と、静寂の共鳴 ―― 三つ子の魂百まで
雅之の周囲に集まっていた同級生たちは、突然現れた小柄な女性、尾上千恵美を胡散臭そうに眺め、ひそひそと囁き合った。
「誰だっけ? 尾上さん……あ、そういえば、教室の隅にこんな子いたような気がするわ」
「卒業アルバムのどこかに載ってたかもね」
薄情な笑いを浮かべる彼らに対し、千恵美は力なく、しかしどこか諦めたような苦笑いを浮かべた。
「いいのよ、私は当時から全然目立たなかったから」
「そんなことないで。まあでも、確かにお互い、クラスでは存在感のない目立たん存在やったね。一人で静かに本を読んでるのが好きなタイプやったし。儂はよう覚えとるよ」
優理が穏やかに、しかし確かな記憶を辿るように言うと、千恵美は驚いたように目を丸くした。
「よく覚えてるね。……それに、あの頃の岸尾君は、本当によく周りを見ていたよね」
「何だよお前ら。二十五年前の初恋物語でも始めるつもりか? 実は中学時代に付き合ってたとか言うんじゃないだろうな」
雅之がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、二人を冷やかすように割り込んできた。
「いや、儂と尾上さんは、そもそもそんなに話した事も無かったで。朝の挨拶を交わす程度やった」
優理が淡々と否定すると、千恵美は視線を伏せ、震える声でその理由を口にした。
「……私も岸尾君も、当時は、いじめられっ子だったから。まともに誰かと話せるような空気じゃなかった」
その一言が、雅之の逆鱗に触れたわけではなかったが、彼の鼻を鳴らさせた。
「おいおい、人聞きが悪いことを言うなよ。俺はいじめた事なんて一度も無いぞ?」
雅之が肩をすくめると、取り巻きたちも一斉に同調し、罪悪感の欠片も無い声を上げる。
「そうよ、自意識過剰なんじゃないの?」「いじめなんて無かったわよ。ちょっと『いじった』ことはあったかもしれないけど、あれはコミュニケーションの一環でしょ」
雅之は酒の入ったグラスを揺らしながら、二人を見下すようにゲラゲラと笑った。
「仮にそうだとしても、もう四半世紀も前の昔の話だろうが。まさか、まだそんな古い事に粘着してるのか、お前ら? 本当に大人げない奴らだなあ」
「全くだよ。時効だろうが、そんなの」「いつまでもうじうじしてるから、当時もそんな風にいじられてたんじゃないの? 」
取り巻きたちの嘲笑が、煌びやかな会場の空気を汚していく。
雅之はさらに追い打ちをかけるように、千恵美へ問いかけた。
「そうだ、尾上。お前は結婚してんのか?」
「……してない」
千恵美がため息のように答えると。
「だろうな!それに優理も結婚してないって、さっき言ってたよな。 まあ、そんな腕じゃまともな女は寄ってこないか」
雅之が愉快そうに笑うと、優理は怒るでもなく、ただ静かに黙って聞いていた。
「だったらさ、お前ら二人で結婚すれば? どんくさくて暗い人形屋のバイトと、影の薄い独身女。最高にお似合いじゃないか! お似合いのカップル誕生だ、おめでとう!」
雅之が囃し立てると、周囲からは下俗な喝采と笑い声が巻き起こった。
その狂乱のような騒ぎの中で、優理だけは感情の消えた無表情のまま、ぽつりと呟いた。
「……全然、変わらんな。三つ子の魂百までとは、よう言うたもんや。二十五年の月日は、中身を育てる役には立たんかったようやね」
雅之たちには、その呟きは全く聞こえず、ちょうど別の賑やかなグループが近づいてきたのを見つけると、またワイワイと盛り上がりながら、二人を置き去りにして別の場所へと去っていった。
嵐が過ぎ去った後のような静寂が、二人の間に流れた。
優理は残された左手で、空虚な右袖を無意識に握り締め、千恵美に向かって深く頭を下げた。
「当時は、ごめんなあ、尾上さん。君が嫌がらせされてんのは知ってたけど、儂にはなんも出来んかった。それどころか、止める事すら……声をかける事すら、せえへんかった」
「それはこっちの台詞よ、岸尾君」
千恵美もまた、胸の痛みを堪えるように頭を下げた。
「私こそ、あなたが酷い暴力を受けている事を知っていながら、怖くて何も出来なかった。あの頃は、お互い自分の身を守るだけで精一杯で、他人を助ける余裕なんて、どこにも無かった。だから、仕方なかったと思う」
二十五年の歳月を経てようやく交わされた、痛みを分かち合う言葉。
二人はスマートフォンを取り出し、静かに連絡先を交換し始めた。
その様子を少し離れた場所から眺めていた雅之たちは、再び酒を煽りながら、侮蔑の混じった笑い声を漏らしていた。
「あいつら、ほんとに今の言葉を真に受けて結婚したりしてな。負け犬同士、ちょうどいいんじゃないか」
彼らは、自分たちが過去に何をしたのか、そして今何を踏みにじっているのかすら理解せぬまま、勝利者の笑みを浮かべ続けていた。
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## 断罪の連鎖 ―― 奪われる右腕と、絶望の宣告
二十五年前の同窓会は、雅之にとって最高に自尊心を満たしてくれる夜となったはずであった。
懐かしい面々と高級な酒を酌み交わし、自らの成功をこれ見よがしに誇示し、そしてかつて徹底的に「いじめていた」劣等生を嘲笑う。
その全能感に酔いしれたまま、雅之は心地よいほろ酔い気分で帰路に就いたのである。
だが、その夜を境に、彼の周囲で理解し難い、そしてあまりにも凄惨な異変が次々と起こり始めた。
最初は、あの夜に談笑し、共に優理を馬鹿にしていた級友の一人が事故に遭ったという報せだった。
「不運な事故でな、右腕を二の腕から切断することになったらしい」
共通の知人から聞いたその話に、雅之は眉をひそめながらも「気の毒にな」と他人事のように受け流していた。
しかし、異変はそれで終わらなかった。
まるで目に見えない呪いの連鎖が始まったかのように、あの場にいた同級生たちが、次々と病気や不測の事態に見舞われ、例外なく「右腕」を失っていくのである。
さらには、その惨劇は本人だけに留まらなかった。
ある同級生は、一家全員が突如として原因不明の壊死に見舞われ、家族全員の右腕が消失するという、悪夢のような事態に陥った。
また別の者は、不慮の事故によって駅のホームから転落し、滑り込んできた電車に無残に肉片へと押し潰された。
中には、相次ぐ恐怖に耐えかねて発狂し、自らその命を断つ者まで現れ始めた。
変わり果てた級友達の惨状が耳に入るたび、雅之の背筋を氷のような悪寒が走り抜ける。
気が付けば、あの同窓会の中心にいた連中は、ほぼ全滅に近い形となっていたのである。
雅之は、何かに狙い撃ちにされているという確信に近い恐怖に震怯えていた。
そんなある日のこと。
重苦しい空気の中で事務処理に没頭し、必死に恐怖を紛らわせようとしていた雅之の手元で、スマートフォンが激しく震えた。
表示されたのは「緊急」の二文字と、妻からの着信だった。
「あなた! 雅英が、雅英が……っ!」
電話の向こうで半狂乱になっている妻の声によれば、近所の公園で友達とサッカーをしていた雅英が、突然「右半身が動かない」と訴えて倒れ、そのまま救急車で搬送されたという。
「……雅英が? 馬鹿な、あいつは健康そのものだったはずだ!」
雅之は椅子を蹴り飛ばすように立ち上がると、上着も掴まずに会社を飛び出し、病院へと車を走らせた。
病院の救急外来に到着すると、既に駆けつけていた妻が、手術室の前で幽霊のように青ざめた顔をしてうなだれていた。
「雅英は!? 雅英はどうなったんだ、説明しろ!」
雅之が荒い息を吐きながら妻の肩を掴んで揺さぶっても、妻はただ「わからない……先生が、すぐ手術が必要だって……」と力なく呟くだけだった。
一分が一時間にも感じられる永い沈黙。
不快な機械音だけが響く廊下で、雅之は脂汗を流しながら、かつて自分が優理の右肩を「不運な事故だったよな」と笑いながら叩いた瞬間の、あの不吉な感触を思い出していた。
ようやく手術中のランプが消え、扉がゆっくりと重々しい音を立てて開いた。
ストレッチャーに乗せられ、酸素マスクをつけられた雅英が、音もなく運び出されてくる。
その姿を見た瞬間、妻は顔面蒼白になり、喉の奥でひきつったような悲鳴を漏らして、その場に崩れ落ちた。
「…………雅、英……?」
雅之もまた、心臓を直接掴み潰されたかのように絶句した。
真っ白なシーツから覗いていたのは、雅之の自慢だった、将来サッカーのレギュラーを勝ち取るはずだった雅英の、その逞しかったはずの「右腕」であった。
正確には、右腕があったはずの場所だ。
肘から先が完全に無くなっており、その断面を覆う包帯だけが、無慈悲に白く光っている。
同級生たちが次々と右腕を奪われていく中で、ついに、その魔の手は雅之の最も大切な存在にまで及んだのだ。
優理と同じ、右腕の欠損。
雅之は、目の前が真っ暗になるような絶望感に襲われ、膝から崩れ落ちた。
自慢の息子、自慢の家庭、順風満帆だったはずの人生が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。
この凄惨な現実は、一体何の報いなのか。
雅之は声にならない嗚咽を漏らしながら、ただただ、変わり果てた息子の姿を見つめ続けるしかなかった。
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## 合理性の檻と、忍び寄る「業」の影
絶望の底に突き落とされた雅之と妻の前に現れた主治医は、沈痛な面持ちで、およそ医学的とは言い難い説明を口にした。
「……信じられないかもしれませんが、右肘から先が、まるで急速に時間が経過したかのように突然壊死してしまっていたのです。病院に搬送された時には、既に組織が完全に死滅しており、手の施しようがありませんでした。医学的にはあり得ないレベルの怪現象で、正直に申し上げて、現段階では原因が全くわかりません」
人体の摂理を無視したような細胞の崩壊。
そのあまりに非現実的な宣告を、雅之は理解を拒むように呆然と聞き届けるしかなかった。
まだ麻酔が切れず、病室の白いベッドで深く眠る一人息子の雅英。
その右側にあったはずの希望を、雅之は血の気の引いた顔で見つめ続け、途方に暮れる他なかった。
この日は、半狂乱から何とか落ち着きを取り戻した妻が付き添うことになり、雅之は重い足取りを引きずって一旦帰宅した。
静まり返った家の中、雅英のサッカーシューズや賞状が、かつての幸福な日常を無情に嘲笑っている。
翌日、雅之は何とか這いずるような思いで会社での仕事を終え、再び病院へと向かった。
病室の扉を開けると、そこには麻酔から覚めた雅英がいたが、その瞳には光が無く、ただ青ざめた顔で虚空を睨んでいるだけだった。
雅英は、自らに起こった悲劇を言葉にすることすらできず、ただ沈黙という深い檻に閉じこもっていた。
「……朝から何も食べなくて、水も飲もうとしないの。一言も話してくれないし……辛いわよね。代われるものなら、私が代わってあげたい……」
妻は、頬を伝う涙を拭うこともせず、枯れ果てた声でそう漏らした。
雅之は、喉の奥が乾き切っていることに気づき、重い腰を上げた。
「……飲み物を買って来るよ。水分補給だけでもさせないとな。倒れてからじゃ遅いから」
そう言い残し、雅之は逃げるように病室を後にした。
病院の談話室にある自動販売機コーナー。
無機質な機械の音が響く中、雅之はスマートフォンを取り出し、決済モードに切り替えようとして、ふと自分の右手に視線を落とした。
皺一つない、健康そのものである五本の指。
「……なんで、右腕なんだ。なんで雅英まで……」
雅之の脳裏に、同窓会で再会した級友達の惨状が次々とフラッシュバックした。
不幸に見舞われた同級生たちは、全員が右腕を失った。
二の腕から、あるいは肘や肩から。
一人も例外は無かった。
「まさか、あいつが……優理が、復讐したとでも言うのか?」
突如として浮かび上がった疑念に、雅之は心臓が激しく脈打つのを感じた。
だが、次の瞬間、雅之の頭脳は冷徹な「エリートとしての合理性」をもって、その考えを即座に否定した。
優理は現在、京都にいるはずだ。
物理的な距離がある上に、これほど短期間のうちに、各地に散らばった同級生と、その家族の右腕だけを正確に狙い撃ちするような芸当、人間にできるはずがない。
そもそも、優理は右腕一本を失った欠損者だ。
左腕一本しか持たぬ、あの脆弱でどんくさかった男に、これほどの超常的な力を物理的に行使できるはずがないのだ。
「そもそも、雅英は突然細胞が壊死したっていう話だ。流石に人力でそんな奇跡みたいな真似、できるわけがないか。あいつのような落ちこぼれに、俺の家族を壊す力なんてあるはずがない……」
雅之は、自分を納得させるように低く呟き、鼻で笑うような仕草を見せた。
その合理的な帰結は、彼がこれまで信じて疑わなかった、強者が弱者を圧倒するという世界の秩序を守るための防衛本能でもあった。
雅之は、3人分のペットボトルのお茶を買い込むと、重い足取りで、しかしどこか虚ろな確信を胸に秘めて、雅英の待つ病室へと戻っていった。
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## 折れた翼と、虚勢の救い ―― 失われた日常の肖像
翌日、雅英は何とか退院の許可が下り、住み慣れた自宅へと戻ってきた。
しかし、病院の無機質な壁から解放された喜びなど、今の彼には微塵も無かった。
かつてはサッカーボールを追いかけ、家中に快活な声を響かせていた少年は、今や自分の部屋に閉じこもり、生気を失った瞳で欠落した右腕を見つめるばかりであった。
「……こんな腕で学校に行ったら、みんなに何を言われるかわからないよ。それに、もうサッカーも、バスケだって出来なくなっちゃったんだ。僕、これからどうすればいいの……」
雅英は、声を殺して泣き、ふさぎ込んでしまった。
自分のアイデンティティであったスポーツを奪われ、将来への希望を断たれた絶望感は、12歳の少年の細い肩に背負わせるにはあまりに過酷であった。
かつての元気は完全に霧散し、彼の心は深い闇の底へと沈んでいた。
退院の翌朝、雅英は「外に出るのが怖い、学校に行きたくない」と震える声で訴え、登校を断念することになった。
そんな息子を一人にはしておけないと、妻は急遽、有給休暇を取得して家に残ることを決め、雅之は重い足取りで会社へと向かった。
しかし、オフィスに身を置いても、雅之の思考は家庭の惨状へと引き戻される。
仕事中も、ふとした瞬間に雅英の痛々しい包帯姿が脳裏を過り、心ここにあらずといった状態が続いていた。
エリート街道を突き進んできた雅之にとって、事務的なミスなどはあってはならないことだった。
だが、書類の誤字や会議での失念など、これまでなら考えられないような凡ミスを連発し、自ら慌てふためく場面が出始めていた。
さらに彼を苛立たせたのは、周囲の反応だった。
冷徹な部長としての雅之を恐れていた部下や同僚たちが、一人息子の不運を知った途端、腫れ物に触るような、哀れみに満ちた優しさを見せてくる。
普段なら烈火のごとく叱り飛ばすような場面でも力なく注意するだけで、ミスが見つかると「大変でしょうから、こちらで引き受けますよ」と気遣われる。
それが、雅之にはこの上なく惨めで、己のプライドが泥を塗られているように感じられてならなかった。
(このままではいけない。俺がしっかりして、家族を立て直さなければ……)
必死に自分に言い聞かせ、会社から帰宅した雅之は、家族三人で囲む夕食の席で、静かに口を開いた。
食卓には、かつての団欒の温かさは無く、食器の触れ合う音だけが虚しく響いている。
「……雅英、来週は連休があるだろう。気分転換に、どこか旅行にでも行かないか? 美味しいものでも食べて、ゆっくり温泉にでも浸かれば、少しは気が紛れるかもしれないぞ」
雅之は、思い切って提案してみる。
だが、雅英は茶碗を手に持つこともせず、ただ一点を見つめたまま首を振った。
「……嫌だ。こんな体、誰にも見られたくない。外に出たら、知らない人にジロジロ見られるんだ。怖いんだよ、外に出るのが」
絞り出すような息子の拒絶に、雅之は「そうか……」としか返せなかった。
解決策の見えない暗闇に、雅之自身も飲み込まれそうになっていた。
沈黙を破ったのは、妻の提案だった。
「ねえ、雅英。お父さんとお母さんと一緒に、義手を作ってくれる所を探しに行かない? 最近は技術も進歩しているし、今の雅英にぴったりの、かっこいいものが見つかるかもしれないわ」
雅之は、その言葉に希望の光を見たように食いついた。
「そりゃいい! 義手があれば、日常生活もずっと楽になる。実際に寸法を測ったり、雅英の今の状態に合わせたりしなきゃいけないから、本人であるお前が行かないと始まらないんだ。専門家の人に相談してみよう」
妻は、雅英の細い左手を優しく握り、諭すように続けた。
「外が怖いのはわかるわ。でも、ずっとこのままじゃ、雅英の好きなサッカーだって、どういう形なら再開できるか相談することすらできない。少しずつ、外に出られるようにしていかないと、ね?」
雅之もまた、強引なほどの自信を装って、力強く付け加えた。
「そうだぞ。いいか雅英、もし外で誰かがお前の腕を笑いものにしようものなら、すぐにお父さん達に言いなさい。お父さんがそいつの所に乗り込んで、猛抗議してやる。土下座させる勢いで謝罪させて、二度とお前の前に現れないようにしてやるからな。お父さんもお母さん、お前の味方だ」
それは、かつて優理の右腕を笑いものにしていた雅之の口から出たとは信じられない、あまりに独りよがりで攻撃的な「救い」の言葉だった。
「……うん」
雅英は、父のその激しい言葉に何を思ったか、ただ小さく、消え入りそうな声で答えた。
その瞳の奥には、まだ微かな怯えの色が、深く静かにこびりついたままであった。
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## かりそめの団欒 ―― 湯気の向こうの記憶と不安
翌朝、雅英は振り絞るような勇気を持って、学校へ行くことを決意した。
痛々しく巻かれた包帯を隠すように、少し大きめの長袖を羽織り、恐怖に強張った顔で玄関を出る息子の背中を、雅之と妻は祈るような思いで見送った。
雅之もまた、昨夜の憔悴が嘘であったかのように自らを鼓舞し、会社へと向かった。
最悪の事態は脱した――そう自分に言い聞かせながら仕事を終えた雅之は、帰りにデパートの地下街へと立ち寄った。
雅英への土産に、彼も大好きな肉まんの専門店で包みを買って帰ろうと思い至ったからだ。
店先に漂う、食欲をそそる蒸したての生地と肉餡の香りに誘われながら、雅之の脳裏にはかつての自分の姿が重なった。
中学、高校とサッカー部に明け暮れ、泥にまみれてボールを追っていたあの頃。
練習が終わった後の放課後、冬の冷たい空気の中で、友人たちとコンビニエンスストアの前に屯して頬張った肉まんの熱さと旨さ。
あの頃は、どれだけ食べても空腹が満たされないような錯覚さえ覚えるほど、旺盛な食欲に支配されていた。
部活帰りの肉まんはあくまで「おやつ」に過ぎず、家に帰れば当時の母親が用意してくれた大好物の中華料理を平らげたものだ。
山盛りの麻婆茄子、蒸したての焼売、それらを白飯と共に胃袋へ流し込む。
「雅英も好きになったんだっけな、肉まんとか焼売とか」
家庭を持ってから、妻が手作りする点心の味に雅英が目を輝かせていた光景を思い出し、雅之の口元に微かな笑みが浮かんだ。
雅之はデパートの地下街にある点心専門店で、家族三人の夕食に十分な量の肉まんと焼売を詰め合わせてもらい、家路を急いだ。
玄関を開けると、そこには久しぶりに明るい兆しを感じさせる雅英の声があった。
「……お父さん、お帰り。学校、大丈夫だったよ。みんな、すごく心配してくれて……。笑う人なんて、一人もいなかった」
雅英は少しだけ照れくさそうに、しかし安堵した表情でそう語った。
明日からもちゃんと学校へ行くと言う。
その言葉を聞き、雅之は心の底からホッと胸をなでおろした。
その夜の食卓には、雅之が買ってきた点心の包みが広げられた。
箱を開けた瞬間に立ち上る白い湯気と、肉の豊かな香り。
妻が手早く用意した彩り豊かな野菜料理が並び、沈み込んでいた高嶋家に久々の笑顔が戻ってきた。
「美味しいね、お父さん」
雅英が左手で不器用ながらも焼売を口に運ぶ姿を見て、雅之は込み上げてくる熱いものを必死で飲み込んだ。
この平穏こそが、自分の守るべき幸福なのだと確信する。
家族が寝静まった後、雅之は一人、リビングで静かに酒を煽った。
窓の外に広がる夜景を眺めながら、彼は自分を縛り付けていた恐怖を、力ずくで心の隅へと追い遣った。
「同級生達の身に起こったことは……あれは結局のところ、単なる偶然だったんだよな」
心当たりがあるとすれば、右腕を既に失っていた優理と言う男。
しかしあいつが、あの右腕のない男が何かをしたなんて、そんな非科学的なことがあるはずがない。
「俺は、俺達は、もう大丈夫だよな。不幸の連鎖は、ここで終わったんだ」
雅之は自分に言い聞かせるように、何度も何度もその言葉を頭の中で繰り返した。
しかし、その確信とは裏腹に、握り締めたグラスの中の氷が、夜の静寂の中でパキリと不吉な音を立てて乾いた響きを残した。
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## 重鉛の右腕 ―― 伽藍に響く絶望の呼声
待ちに待った「華金」の昼下がり。
オフィスビル内は、一週間の激務を終えようとする解放感と、週末の予定に浮き立つ空気で満たされていた。
部長職として多忙な日々を送る雅之も、この日ばかりは早めに仕事を切り上げ、昨夜家族が喜んでくれたあの点心専門店で、今度は焼売を多めに買って帰ろうかと思案していた。
家族にようやく戻った笑顔。
あの平穏を維持することこそが、今の雅之の最優先事項であった。
そんな彼の思考を切り裂いたのは、ポケットの中で激しく震えるスマートフォンの着信音だった。
画面に表示されたのは、息子の雅英の名。
丁度学校が終わる頃合いだ。
昨日の今日で、早速何か土産でもねだるつもりか――。
雅之は僅かに口角を上げ、周囲に配慮してオフィスから少し席を外すと、軽い調子で電話に出た。
「もしもし、雅英か? 昨日の焼売がそんなに美味かっ――」
「お父さん! お母さんが! 『右腕』が動かなくなって、助けて!」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、土産をねだる甘えた声などではなかった。
悲鳴に近い、喉を掻き切るような雅英の絶叫。
雅之の心臓が、冷水を浴びせられたように凍り付いた。
「!? ど、どうしたって言うんだ!? 落ち着け、雅英! とにかく、救急車を呼ぶんだ!」
「うわあああん! 助けて、誰か!」
電話の向こうでは、雅英の泣き叫ぶ声に混じって、「どうされました?」「大丈夫ですか?」という第三者たちの困惑したざわめきが聞こえてくる。
「雅英、周りに誰かいるのか!? 誰でもいい、周りの大人に助けを求めるんだ! お父さんも今すぐ行く、そこはどこだ!?」
焦燥感に突き動かされ、雅之は叫ぶ。
「えっと、ここはお寺で……おっきなお寺で、誰でも来ていい場所で……」
パニックに陥った息子の要領を得ない説明に雅之が苛立ちを募らせた瞬間、電話の主が交代した。
「……もしもし、お電話代わりました。この子のご家族の方でしょうか?」
落ち着いた、しかしどこか険を含んだ女性の声が響く。
「そうです、父親です! 一体何があったんですか!?」
雅之は必死に状況を聞き出そうとする。
「今、このお子さんの母親と思われる女性が、腕が突然『鉛のように重くなって動かなくなっている』と仰って、その場に崩れ落ちてしまいまして。あ……」
背後で何らかのやり取りが聞こえた後、別の女性の声に変わって、美しくも凛としたその声が状況を正確に告げた。
「ここは都内の観光寺院です。現在、ここの医務室へ移動いたします。必要とあればこちらで救急車を手配いたしますので、その時は再度お子さんの端末からご連絡します。場所は……」
教えられた場所は、都心にほど近い歴史ある大寺院だった。
雅之は震える手で電話を切ると、周囲の視線も構わず「妻の急病です!」とだけ叫んで早退を宣言し、ビルを飛び出した。
大通りでタクシーを強引に拾い、行き先を告げる。
車窓を流れる景色が、雅之の焦燥をあざ笑うかのように緩慢に感じられた。
タクシーが寺院の山門に滑り込み、雅之は料金を投げ出すように支払って車を降りた。
広い敷地を持つその観光寺院には、午後の穏やかな陽光を浴びながら、参拝客や観光客がまだ大勢行き交っていた。
雅之は目についた法衣姿の僧侶を捕まえ、必死の形相で事情を説明する。
案内されたのは、古びた、しかし手入れの行き届いた医務室だった。
「雅英……!」
医務室の扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、真っ青な顔で震える雅英と、ベッドに腰掛け、力なく右腕を垂れ下げた妻の姿だった。
そして、その周囲には見知らぬ人物が二人、異様な気配を纏って立っていた。
一人は、肩より少し上の辺りで綺麗に切り揃えられた短い黒髪を持つ、若き女性僧侶。
浄土宗の僧侶が纏う格調高い法衣と袈裟に身を包んだその姿は、凛としていて、見る者の魂を根こそぎ吸い寄せ、浄化してしまうのではないかと思わせるほどの、超絶美少女と見紛う美貌を湛えていた。
彼女は雅之の姿を認めると、静かに合掌して深々とお辞儀をした。
もう一人は、四十代半ばから後半とおぼしき男性。
黒いコート、黒いシャツ、黒いカーゴパンツ――全身を徹底して黒一色で統一した彼は、女性僧侶の隣で、彫刻のように無表情なまま僅かに会釈をした。
だが、雅之の視線が最後に釘付けになったのは、その二人ではなかった。
ベッドでうずくまる愛する妻のすぐ隣に座り、その背を優しい手つきで摩っていた人物。
雅之は、その顔を見た瞬間に、喉の奥が引き攣るような衝撃と共に絶句した。
そこにいたのは、先日、あの忌まわしい同窓会の会場で、散々笑いものにしたはずの女。
尾上千恵美であった。
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## 京都からの稀客 ―― 符術とDXの奇妙な交差
医務室の静寂の中で、尾上千恵美が静かに立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。
不意を突かれた雅之も、商社マンとしての染み付いた習性から、つられて深く頭を下げる。
「高嶋君のご家族だったのね。驚いたわ。私は本当に偶然、この近くに来たからお参りに寄っただけなんだけど、そうしたら奥様が突然蹲って、お子さんが泣き叫んでいたから。放っておけなくて」
千恵美の言葉に、雅之は安堵と気恥ずかしさが混ざり合ったような複雑な表情を浮かべた。
「そ、そうか……。尾上が助けてくれたんだな。わざわざすまない。感謝するよ、本当に有難う」
雅之が礼を述べると、千恵美は困ったように首を振って、視線を傍らの二人へと向けた。
「いいえ、私は何もしていないわ。奥様を介抱して助けてくださったのは、こちらの御二人なの」
千恵美が促すように、凛とした佇まいの女性僧侶と、黒ずくめの男性を見た。
雅之は改めて向き直り、彼らの異様な存在感に気圧されながらも、必死に言葉を紡ぐ。
「そうでしたか。妻と息子を助けていただき、有難う御座います。……高嶋雅之と申します。本当に、何とお礼を言えばいいか……」
雅之の背後で、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった妻と雅英も、消え入りそうな声で「有難う御座いました」とお辞儀をした。
すると、法衣を纏った若き女性僧侶が、静かに合掌して柔らかな笑みを浮かべた。
「私は何も。通りがかっただけの者で御座います。私は京都の浄土宗寺院で住職を務めさせて頂いておる者です」
その透き通るような鈴の音に似た声は、室内の張り詰めた空気を一瞬で浄化していくかのようだった。
続いて、隣に立つ黒ずくめの男性が、ポケットに手を入れたまま、淡々とした京言葉で口を開いた。
「僕も京都から来てましてね。こちらの寺院からDX、デジタルトランスフォーメーション……要するに、事務仕事のデジタル化についての相談を持ち掛けてもろて、東京までこちらの御住職と出張に来ておりましたんや。この後、京都に帰る予定やったんですが、最後に仏さんにお参りして行こう思うてたところで、騒ぎを観つけましてな」
そして、男性も淡々と自己紹介めいた事を口にする。
「僕の事は呪術師とでも呼んでくれなはれ。名前を名乗るほどの大層なもんやおへん」
「DXの相談……ですか」
最新のビジネス用語と、目の前の前時代的な黒ずくめの風貌、そして「呪術師」を自称する男の言葉が、雅之の頭の中で激しく衝突する。
呪術師。
その不吉で非科学的な響きに、雅之の心臓がどきりと嫌な鼓動を刻んだ。
雅之は動揺を隠すように、胸ポケットから名刺入れを取り出し、慣れた手つきで二人に名刺を差し出した。
「失礼しました。私は大手商社で部長を務めております、高嶋です。これが私の名刺です」
女性住職は名刺を恭しく受け取ると、ベッドに腰掛ける雅之の妻を見守りながら、静かに微笑んだ。
「奥様をここまで動けるように助けて下さったのは、こちらの呪術師さんですよ」
「御住職も手際よく力を貸してくれはりましたで。僕は、ちょっと札を貼っただけですさかい」
呪術師は謙遜するように、妻の右腕に巻かれた包帯を掌で示した。
そこには、純白の包帯の上から、墨書きで何やら複雑な模様が描かれた古い紙――御札が、異様な存在感を放って貼り付けられていた。
「これは……一体、何なのですか?」
雅之が恐る恐る尋ねると、呪術師は瞳を細め、感情の起伏を感じさせない冷静な声で答えた。
「術式を一時的に遮断する、いわば一時しのぎの符術っちゅうもんです。奥さんの腕には、今、この世のもんやない重圧がかかってます。それを御札の力で横から押さえ込んでるだけですな。あくまで一時しのぎですさかい、永続的な効果は期待出来る代物やおへん」
「術式? 符術……一時しのぎって、一体何のことだ……」
エリート商社マンとして論理と数字の世界で生きてきた雅之にとって、その説明はあまりにも荒唐無稽で、受け入れがたいものだった。
しかし、現に鉛のように動かなくなっていたはずの妻の腕が、その御札のおかげで僅かに震えながらも形を保っている。
雅之は、目の前で起きている超常的な現実と、呪術師の放つ底知れない冷たさに、ただただ唖然として立ち尽くすしかなかった。
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## 断罪の境界線と、銀髪の迎え人
医務室の静寂を切り裂くように、呪術師の低く、温度の無い声が響き渡った。
「僕としては、この件に横槍を入れる気はさらさらありませんがな。そやけど……あんさん、えらいもんと繋げられてしもとりますなあ。どえらい業の糸が、あんさんの背中にべったりと張り付いとる」
呪術師は淡々と、しかし突き放すような冷酷さを孕んだ眼差しで雅之を見つめる。
「え……? 繋げられているって、一体何のことですか……?」
雅之は狼狽し、思わず聞き返したが、呪術師はそれ以上を語ろうとはしなかった。
「気にならはるんやったら、こちらのお寺さんに隣接する神社に、この後で行ってみなはれ。もう夕方やさかい、丁度ええ頃合いでっしゃろ。門が閉まってる時間ではありますが……『御迎え』が来てくれはるでしょうから」
呪術師が予言めいた言葉を口にすると、雅之の背筋にゾクリとした不吉な戦慄が走り抜けた。
「は、はあ……。よく分かりませんが、何にせよ、家族を助けて頂いて有難う御座います」
雅之は釈然としない思いを抱えながらも、再び深く頭を下げた。
呪術師の施した符術の効果は劇的であった。
「なあ、本当に病院に行かなくて大丈夫なのか?」
雅之が不安げに妻へ問いかけると、彼女は恐る恐る右腕を回しながら答えた。
「もう大丈夫みたい。この御札を貼って貰ったら、さっきまでの重みが嘘のように腕が動くようになって……。何だったのかしらね、本当に、何かの呪いだったりして」
妻の冗談めかした言葉に、傍らの雅英が「お母さん……」と、泣き腫らした目で心配そうに寄り添う。
その光景を見ながら、雅之の胸中には拭い去れない不安の影が、黒いシミのようにじわりと広がっていった。
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この日、容態の安定した妻と雅英は念の為にと、寺院が管理する宿坊に宿泊することになった。
京都へ帰る女性住職と呪術師を見送った後、雅之は一人、帰路に就こうとする尾上千恵美を呼び止めた。
「尾上、待ってくれ! 改めてお礼がしたいんだ。連絡先を教えてくれないか?」
雅之がスマートフォンを取り出すと、千恵美は一瞬、複雑な表情を浮かべた。
「……うん。分かったわ」
二人は静かに連絡先を交換し、夜の帳が下り始めた境内の一角で別れた。
雅之は、呪術師に言われた言葉が耳から離れなかった。
導かれるように、寺院の奥に隣接する古い神社へと足を踏み入れる。
日は完全におち、辺りには参拝客の姿も無く、ただ鬱蒼と茂る木々のざわめきだけが「ザワ、ザワ……」と不気味に響いていた。
「少々慌ててたから、よく分からずにここまで来たけれど……そもそも『御迎え』って何なんだ? 冷静に考えたら、俺は何をやってるんだろう……」
合理的な思考を取り戻した雅之は、急激に虚しさと恐怖が込み上げ、さっさと帰ろうと踵を返した。
鳥居を抜け、背後を振り返ったその時。
「ッ……!?」
誰もいなかったはずの空間に、異質な存在感を放つ奇妙な人影が一つ、音もなく立っていた。
そこには、月光を反射する銀髪の長い髪をなびかせ、まん丸の瞳で、台形の形をした口をぽかんと開けている小柄な女の子がいた。
黒いベレー帽を被り、ズボンタイプの黒いセーラー服という、時代錯誤ながらも完成された衣装に身を包んだその少女は、じーっとこちらを射抜くように見ている。
雅之が息を呑み、金縛りにあったように動けなくなったその刹那。
少女は、その独特な形の口を僅かに動かし、唐突に、しかし重々しくこう言い放った。
「えらいこっちゃ」
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## 炎の牛車と、えらいこっちゃな強制送還
目の前に佇む、銀髪の風変わりな少女に「えらいこっちゃ」と唐突に断定され、雅之は呆然と目を丸くするしかなかった。
その異様な気配に気圧され、言葉を失っている雅之の足元で、不意に何かが動く気配がした。
カサカサ、とことこ。
暗がりの地面から姿を現したのは、古びた、しかし手入れの行き届いた市松人形のような人形であった。
「ウチは、えらいこっちゃんとか、えらいこっちゃ嬢って呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や。」
少女は、雅之の困惑を余所に、まるで道端で会った近所の人間に挨拶するかのような軽さで、突飛な自己紹介を口走る。
「あ、そ、そうか……。それで、そのえらいこっちゃんは神社にお参りに来たのか? もう門は閉まっているけれど」
雅之は、エリートとしての常識を必死に手繰り寄せ、目の前の現実を日常の枠に押し込めようとした。
すると、少女の足元にいた市松人形が、首をコトリと傾け、雅之をじっと見据えた。
「わたくしは、人形の付喪神どす。人形の怪異や思うてくれはったら宜しゅうおす。お菊人形とか、生き人形とか、後はそうどすなあ……。人形神と書いて『ひんながみ』と言うのも、この業界では有名どすなあ」
人形の口が動いたわけではない。
しかし、その艶やかな京言葉は、確かに雅之の鼓膜に、滑り込むように響いた。
「うわあ!? 人形が、人形が喋った!?」
雅之は、心臓が跳ね上がるのを感じ、悲鳴に近い声を上げた。
物理法則も合理性も通用しない怪異を前に、彼の精神は限界を迎えようとしていた。
すると、えらいこっちゃ嬢が、小さな指先を雅之の方へ「びしっ」と突きつけた。
「人形おっちゃん、えらいこっちゃ」
「え……?」
雅之がその不吉な呼び名にドキリとした、その刹那。
「えらいこっちゃーーー!!!」
夜の静寂を暴力的に引き裂く、咆哮にも似た絶叫が神社の境内に響き渡った。
雅之は鼓膜が破れるかと思い、思わず後ずさる。
「な、なんだ突然大声を出して!? 気が触れたのか……!?」
慌てふためく雅之の視界の端に、異様な赤光が飛び込んできた。
ゴォォォォォ、と激しい炎の爆ぜる音が、遠くから急速に近づいてくる。
やがて二人と一体の前に、猛烈な熱風と共に滑り込んできたのは、あまりにも異形な「乗り物」であった。
それは、平安時代の歴史の教科書で目にするような優雅な牛車であったが、どこか様子がおかしい。
車体には現代的な運転席が無理矢理取り付けられ、あちこちが「魔改造」されている。
運転席の窓がスッと開くと、黒い着物を小粋に着こなし、長い黒髪を後ろで束ねてベレー帽を被った、凄絶なまでの着物美人が笑顔で手を振っていた。
「えらいこっちゃん、市松ちゃん、お待っとさんー。」
「方輪車ねえちゃん、御迎えありがとちゃん! えらいこっちゃな人形おっちゃん御一名! 行き先は『摩訶不思議食堂』!」
えらいこっちゃ嬢が声を弾ませたかと思うと、唐突に、雅之の右手を物凄い力で掴んだ。
「ちょっと待て、離せ! どこに連れて行くつもりだ!」
雅之は抗おうとしたが、少女の小さな手からは、到底人間とは思えない、重機のような圧力がかかっていた。
あれよあれよという間に客室の扉が開け放たれ、雅之はゴミ袋のように中へ押し込められた。
市松人形も「ぴょんっ」と器用に客席へ飛び乗り、逃げる隙を与える間もなく扉が「ガチャン」と冷酷な音を立てて閉まる。
「ちょ、ちょっとなんだ!? あの呪術師が言っていた『御迎え』とは、これのことなのか!?」
雅之は、燃え盛る車輪が地面を削る振動に翻弄されながら、パニック状態で叫び続けた。
牛車は夜の闇を裂き、この世とあの世の境界線を越えて、未知なる食堂へと加速する準備を整えていた。
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## 異形の決済と、夜の帳に浮かぶ「摩訶不思議」
牛車の揺れと外で爆ぜる炎の音に、雅之が半ばパニック状態で座席にしがみついていると、どこからともなく白くて長い、不気味なほどに細い腕がニューっと伸びてきた。
その青白い手首には、古びた木札がぶら下がっており、そこには墨書きで大きく「御勘定」の文字が書かれている。
「うわあぁっ!? な、なんだこれ、人の腕か……!? どこから生えてきてるんだよ!」
雅之が腰を浮かせて悲鳴を上げると、隣に座った市松人形が、首をカクカクと揺らしながらコロコロと鈴を転がすような声で笑った。
「お化け屋敷に行かはったら、入り口から出口までずっと絶叫してはりそうどすなあ。この御仁は、見た目によらず賑やかなお人どすなあ」
「な、なんなんだよ……っ。御勘定って書いてあるからには、運賃を払えばいいのか? 電子決済なんて無理そうだし、やっぱり現金のみなのか?」
雅之は、恐怖を虚勢で塗りつぶすように、必死に「客」としての体裁を保とうと震える声で尋ねた。
すると、運転席の仕切りの向こうから、方輪車の明るい声が響いてくる。
「ほな、こちらでどうぞー。現代のお客さんにも優しい仕様になってますさかいに」
方輪車が「パチン」と小気味よく指を鳴らすと、手首から下がっていた「御勘定」の札が、まるで生き物のようにクルっと回転した。
驚いたことに、その裏側には、見慣れたキャッシュレス決済用のQRコードらしきものが印字されていたのである。
「こ、これ、電子決済できるのか? 奇妙なのか便利なのか、もう訳がわからないな……。とにかく先払い方式なんだな? 1000円くらいで足りるか?」
雅之は混乱の極致にありながらも、スマートフォンを取り出し、震える指でお財布携帯モードを起動して木札のコードに翳した。
「ピッ」という無機質な反応の後、「毎度ありー」という、どこか脱力するような電子音が牛車の中に響き渡り、1000円が支払われた。
「毎度ありー。ほな、発進しまっせー! 振り落とされんように気ぃ付けなはれや!」
方輪車の威勢のいい掛け声と共に、牛車は生き物のように咆哮し、物理法則を無視した最高速度まで一気に加速した。
雅之が座席で目を回し、驚くことさえ忘れて固まっていると、やがて牛車はゆるやかにスピードを落としていった。
炎の照り返しが消え、静寂が戻ってきた頃、車体はしっとりと夜露に濡れた綺麗な木造の建物の前で停車する。
牛車の扉がガラリと開き、待っていましたと言わんばかりにえらいこっちゃ嬢が「ぴょんっ」と外へ飛び降りた。
雅之はふらつく足取りで恐る恐る地面に降り立つと、背後で重厚な扉がパタンと閉まった。
「ほな、わたくしは女鬼さんのところへ今回の件を報告して、バトンタッチさせて貰います。えらいこっちゃん、食堂の皆さんに宜しゅうおたの申します。おっちゃんも、しっかり食べておくれやす」
市松人形が客室の窓から身を乗り出し、まるで人間の子供のように器用に手を振って別れを告げた。
「ほなねー、行って来ますー。 またいい御縁があったらお会いしましょー。」
方輪車も運転席の窓から満面の笑顔で手を振ると、窓を閉めてアクセルを一気に踏み込む。
炎を撒き散らしながら、魔改造された牛車は夜の闇の中へ颯爽と走り去っていった。
「な、なんだったんだ、今のは……。俺は、夢でも見ているのか……?」
雅之は呆然と立ち尽くし、冷たい夜風を頬に受けてようやく我に返った。
足元は確かに地面の感触があるが、漂ってくる空気の密度が、先ほどまでいた神社とは決定的に異なっている。
ふと雅之が顔を上げると、そこには温かな橙色の光が漏れる提灯が揺れ、古びた、しかし品格のある看板が掲げられていた。
そこには、墨の匂いが立ち上るような力強い筆致で、「摩訶不思議食堂」という文字が記されていた。
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## 地蔵店長の慈悲と、剥がされた「肩書き」
えらいこっちゃ嬢は、小さな体からは想像もつかない軽快な動きで店の重厚なドアを蹴破るように開け放った。
「えらいこっちゃな人形おっちゃん御一名! カウンター席へご案内!」
彼女は腕をぶんぶんと振り回し、呆気にとられる雅之を強引な手つきで店の奥へと連行していく。
雅之は、何かに導かれるようにあれよあれよという間にカウンター席へ押し込まれ、そこに座らされると、えらいこっちゃ嬢は嵐が過ぎ去った後のように、素早く店の奥へと姿を消してしまった。
雅之は、訳も分からぬまま周囲を見渡した。
そこは、温かな木の温もりと出汁の香りが漂う、どこか懐かしくも幻想的な空間だった。
しかし、そんな情緒に浸る暇もなく、カウンターの向こう側から、まるで大地からせり上がるように「ぬぅっ」とお地蔵様のような顔立ちの人物が現れた。
その人物は、古びた、しかし清浄な空気を纏った袈裟を身にまとい、穏やかな微笑みを湛えて合掌した。
「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。そして御客様、いらっしゃいまし。私はこの店の店長をさせて頂いております。皆さんは地蔵店長と呼んで下さいます」
店長は、仏像がそのまま動き出したかのような優しい笑顔で深々とお辞儀をした。
雅之は、その圧倒的な慈悲の気配に飲まれそうになりながらも、染み付いたエリートとしての虚勢を張り、慌てて立ち上がった。
「あ、どうも。えっと、俺は……いえ、私は高嶋雅之と申します。大手商社で部長職を務めております」
雅之はそう告げると名刺を取り出し、恭しく差し出した。
地蔵店長は差し出された名刺を見つめ、慈しむような笑顔のまま再びお辞儀をした。
「高嶋雅之さん。雅之さんと仰るのですね。ご丁寧に有難う御座います。名刺は、えらいこっちゃんが興味があるようですから、彼女に渡して頂けましたら嬉しゅう御座います」
店長が促す方向に視線を向けると、いつの間にか、黒いベレー帽はそのままに、黒い作務衣と真っ白な割烹着に身を包んだえらいこっちゃ嬢がそこに立っていた。
彼女は、まん丸の瞳をさらに大きく開き、雅之の手元にある名刺をじーっと見つめている。
「あ、ああ……。それじゃあ、はい。どうぞ」
雅之は、毒気を抜かれたような気持ちでえらいこっちゃ嬢に名刺を手渡した。
少女は名刺を手に取ると、台形の口を小さく結び、表と裏をまじまじと、まるで未知の遺物でも鑑定するかのような真剣な眼差しで観察し始めた。
「……部長としか書いてへん、えらいこっちゃ」
唐突に少女が漏らした一言に、雅之は苦笑いを浮かべて言葉を添えた。
「え? まあ、そうだな。今はまだ部長だが、俺のこれまでの実績ならもっと上のポスト……常務や専務に行ける可能性も十分にある。」
雅之は、自分を正当化するように自慢げに笑った。
しかし、えらいこっちゃ嬢は名刺から視線を外さず、氷のように冷たく、それでいて確信に満ちた声を響かせた。
「……いじめっ子の罪人って書いてへん、えらいこっちゃ」
そう吐き捨てるように言い残すと、彼女は雅之に反論の隙すら与えず、厨房の奥へと消えていった。
「え……?」
雅之の心臓が、まるで鋭い針で刺されたかのように「どきり」と跳ねた。
背中を嫌な汗が伝い、視界が僅かに歪む。
今の言葉は何だ。
なぜこの少女は、俺が誰にも知られぬように心の奥底に封印し、自分ですら忘れ去っている過去を、そんな言葉で表現したのか。
雅之は厨房へと消えていくえらいこっちゃ嬢の背中を、ただ絶句して見送るしかなかった。
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## 異形の厨房 ―― 芳しき中華の誘惑
えらいこっちゃ嬢が放った「いじめっ子の罪人」という言葉の礫が、雅之の胸の奥底に刺さったまま抜けない。
冷や汗が背筋を伝い、心臓の鼓動が早まるのを感じながら雅之がまた呆然と自失していると、いつの間にか戻ってきたえらいこっちゃ嬢が、一冊の古びた、しかし品格のある帳面をスッと差し出してきた。
「えらいこっちゃな御品書き。人形おっちゃんの腹の虫が鳴いてしまいよる」
手渡されたのは、和紙で作られた美しい御品書きだった。
震える手でそれを開いてみると、そこには力強い筆致で「中華料理セット」という文字が躍っている。
「……ジューシー肉まん、熱々焼売、それにピリ辛麻婆茄子か」
雅之は思わず生唾を飲み込んだ。
どれもこれも、中学時代の部活帰りに貪り食い、今もなお家族で囲む食卓の主役となっている、彼の人生に深く根付いた好物ばかりだった。
「これ……俺の好物ばかりじゃないか。よし、この中華料理セットをお願いするよ」
雅之が御品書きを返すと、えらいこっちゃ嬢はそれをひったくるように受け取った。
「中華料理セット一丁! 猫子さんと凜華さんの、えらいこっちゃな絶品中華!」
えらいこっちゃ嬢が厨房に向かって声を張り上げると、バタバタと威勢のいい足音と共に厨房の奥へと消えていく。
「猫子さんに、凜華さん……? 料理人の名前か?」
雅之は、ふと気になってカウンター越しに首を伸ばし、その厨房の様子を覗き込んだ。
そこには、現代の常識と合理性に塗り固められた雅之の脳を、再び根底から揺さぶるような異様な光景が広がっていた。
厨房では、二人の可愛らしい女性料理人が、楽しそうに鼻歌を交えながら手際よく調理を進めていた。
しかし、その姿はどう見ても人間とは言い難いものだった。
一人は、鮮やかな紅い着物に真っ白な割烹着を纏い、黒髪の間からぴょこんと飛び出した猫耳が特徴的な、穏やかな顔立ちの猫耳料理人、猫子。
彼女は大きな中華鍋を軽々と操り、香ばしい音を立てながら麻婆茄子を仕上げていく。
「ふふふん♪今日もいい火加減、お茄子がトロトロに踊ってるますねえ♪」
猫子が尻尾を上機嫌に揺らしながら鍋を振る。
その隣では、瑞々しい緑の肌を持ち、茶色の髪と瞳、そして大きくて尖った耳が特徴的なゴブリンの料理人、凜華が立ち働いていた。
彼女は緑の着物に白い割烹着を重ね、大きな蒸し器から立ち上る真っ白な湯気の中にいた。
「こっちの肉まんと焼売も、もうすぐ食べ頃ですねえ。皮がふっくら、お肉はぎっしり。最高にジューシーですえ♪」
凜華が手際よく蓋を開けると、そこから溢れ出した熱気が、さらに濃密な肉の香りを運んでくる。
「猫と……ゴブリン? いや、妖精か? なんなんだ、一体この店は……」
雅之は驚愕のあまり腰を浮かせかけたが、鼻腔をくすぐるあまりにも暴力的なまでの「旨そうな香り」に、胃袋が力強く反応するのを止められなかった。
ニンニクと生姜の刺激的な香り、豆板醤の食欲をそそる辛味、そしてゴマ油の芳醇な風味が混ざり合い、雅之の空腹を極限まで引き絞っていく。
人智を超えた光景への恐怖よりも、目の前の美食への渇望が、雅之の理性をじわじわと侵食し始めていた。
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## 第十五章:至福の肉まんと、湯気の向こうの家族愛
やがて、芳醇な香りと共に、熱々の麻婆茄子を乗せたトレイを抱えて猫子がやって来た。
続いて、蒸したての焼売を凜華が、そして白く輝く大きな肉まんをえらいこっちゃ嬢がそれぞれトレイに乗せて運び込み、雅之の目の前へ丁寧に、一つずつ並べていく。
「ごゆっくりー」
猫子と凜華は、花が咲くような愛らしい笑顔を残して、足取りも軽く厨房へと戻っていった。
雅之は、目の前に並んだ中華料理独特の刺激的で豊かな香りに、かつてないほど胸を躍らせていた。
この空腹こそが最高のスパイスだ。彼はまず、主役とも言える肉まんから手をつけようと決めた。
備え付けのおしぼりで念入りに指先を拭い、逸る気持ちを抑えながら白く柔らかな塊へ手を伸ばそうとしたその時、雅之は何やら熱い視線が自分に刺さっていることに気づいた。
ふと顔を上げると、そこにはえらいこっちゃ嬢が立ち止まり、まるで彫像のように微動だにせず、ジーっと雅之を見つめていた。
何事かと言葉を失う雅之の前で、彼女は突然、パッと両手を合わせて合掌のポーズをして見せた。
「え? あ、ああ……。合掌して『頂きます』をしろって、そう言いたいのか?」
雅之が戸惑いながら尋ねると、少女は答えず、ただ真っ直ぐに彼を見据え続けている。
雅之は、毒気を抜かれたような心持ちでえらいこっちゃ嬢の所作を真似て、静かに両手を合わせた。
「……頂きます」
その言葉を聞き届けると、えらいこっちゃ嬢はどこか満足げな様子で、一言も発さぬままくるりと背を向けて厨房へと消えていった。
気を取り直した雅之は、再度、白く温かな肉まんに手を伸ばした。
指先から伝わる生地の柔らかさと弾力に、期待は極限まで高まる。
意を決して、大きな一口をその肉まんへ運んだ。
口の中に溢れ出したのは、暴力的なまでにジューシーな肉の旨味だった。
絶妙な塩梅で整えられた味付けは、肉そのものの甘みを極限まで引き出している。
外側の皮の部分だけでも、ほんのりと甘く、きめ細やかで十分に美味い。
その中に、溢れんばかりの餡がぎっしりと、隅々まで詰まっている。
それは、巷にある名店をも凌駕するような、至高の味わいであった。
あまりの美味さに、雅之の強張っていた顔が、春の雪解けのように「ほっこり」と自然に綻んだ。
「……美味いな、この肉まん。本当に美味い」
噛みしめるたびに、体の芯から温かな幸福感が広がっていく。
雅之は思わず、独り言のようにほっこりと呟いた。
「ああ……。これ、家族にも食べさせてあげたいな。雅英も妻も、きっと喜ぶぞ」
自分のことしか考えていなかったエリートの胸に、湯気の向こう側で笑う家族の姿が、温かな灯火のように浮かび上がっていた。
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## 土鍋の輝きと、浄化された食卓 ―― 未来への約束
肉まんの余韻に浸りながら、雅之は次に箸を伸ばし、蒸し器の中で艶やかに輝く海老焼売をそっとつまみ上げた。
一口運べば、その上に鎮座していた小さな海老が「ぷりり」と弾け、口いっぱいに芳醇な海の幸の旨味が広がる。
絶妙な柔らかさで練り上げられた餡は、噛み締めるたびに肉汁を溢れ出させ、雅之の舌をこれ以上ないほどに楽しませてくれた。
「……はは、これは堪らないな」
味付けの完璧さ、海老の確かな食べ応え。
先日、仕事帰りに名店と名高いデパ地下の専門店で買って帰ったあの点心も、あれはあれで十分に美味かったはずだ。
しかし、目の前の絶品を前にしては、それすらも霞んでしまう。
雅之の顔には、エリートとしての険しさは消え失せ、またしても「ほっこり」とした満ち足りた笑みが浮かんでいた。
最後に、色鮮やかな麻婆茄子へと手を伸ばす。
丁寧に刻まれた挽肉と、シャキッとした食感を残すピーマン。
そして何より、主役である茄子がそれらすべての旨味を吸い込み、実に鮮やかな調和を見せている。
喉を抜ける程よい辛味が食欲をさらに加速させ、雅之が夢中で箸を進めていると、厨房から凜華が姿を現した。
「ホカホカの炊き立て御飯の頃合いですねえ」
凜華は、ニコニコと上機嫌にゴブリン特有の尖った耳をピコピコと動かしながら、お盆に一膳の御飯を乗せて運んできてくれた。
彼女は「カタン」と音を立てぬよう、丁寧に雅之の目の前へ茶碗を置く。
「土鍋でじっくり炊き上げまして、ふっくらしてますえ。どうぞ、麻婆茄子と一緒に召し上がっておくれやす」
「あ、ああ、どうも……有難う」
雅之は、その丁寧なもてなしに気圧されながらも、立ち上る真っ白な湯気に誘われて御飯を口にした。
土鍋で一粒一粒、魂を込めて炊き上げられた米は、一粒一粒がしっかりと立ち、噛むごとに瑞々しい甘みが溢れ出してくる。
それが麻婆茄子のピリ辛な餡と混ざり合い、至福のアンサンブルを奏でる。
「御飯一つとっても、ここまで手間暇をかけて作っているのか……。こりゃあ、美味いはずだよ」
雅之は、合理性と効率ばかりを求めてきたこれまでの自分の価値観が、この一杯の白飯によって優しく否定されていくような、不思議な感覚に包まれながらほっこりとしていた。
やがて、すべての料理を米粒一つ残さず綺麗に平らげた雅之は、お腹も心も満たされた満足げな笑みを浮かべ、ゆったりと背もたれに身を預けた。
ふと気づくと、またしてもえらいこっちゃ嬢が、カウンターの端から自分を「ジー」と射抜くような目で見つめていた。
雅之は今度は戸惑うことなく、静かに両手を合わせた。
「……御馳走様でした。本当に、美味しかった」
深々と頭を下げて感謝を伝えると、えらいこっちゃ嬢は満足したのか、小さく頷いて再び厨房の奥へと戻っていった。
「いい店だな、ここは。……よし、次は必ず家族と一緒に来るとするか」
雅之は、久々に心の底から湧き上がるような「ほっこり」とした笑顔を覗かせた。
かつて支配欲と傲慢さに塗り固められていた彼の瞳には、いま、大切な人々とこの味を分かち合いたいという、ささやかな、しかし真に人間らしい願いが宿り始めていた。
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## 黄金色の断罪 ―― 奪われた右腕の肖像
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至福の余韻に浸っていた雅之の目の前で、えらいこっちゃ嬢は一切の無駄を排した、流れるような所作で動いた。
空いた皿や茶碗を、まるで重さを感じさせない軽やかさで御盆へと乗せていく。
磁器が触れ合うカチャリという音すら立たせず、彼女は恭しく会釈をすると、嵐が去った後のような静寂を残して一度厨房へと引っ込んでいった。
雅之は、膨らんだ腹をさすりながら、この非現実的な場所で得られた「ほっこり」とした安らぎを噛み締めていた。
だが、その安らぎは長くは続かなかった。
再び姿を現したえらいこっちゃ嬢の手には、一冊の使い込まれた御品書きがあった。
彼女はそれを雅之の眼前にスッと差し出し、無言で開くよう促した。
「……ん? デザートか。どれ……」
雅之が何気なくその頁に目を落とした瞬間、そこにあった文字が視神経に突き刺さった。
『右腕クッキーと紅茶のデザート』
「……右腕クッキー? なんだ、その妙な名前は。まさか、本当に右腕の形をしたクッキーなのか? さっきの料理が最高だっただけに、なんだか悪趣味で不気味な響きだな」
雅之は思わず首をかしげ、眉間に深い皺を刻んだ。
しかし、これまでの料理がどれも超一流の、いや、人生で最高とも言える味わいであったことを思えば、デザートの質もまた保証されているはずだ。
その奇妙な造形を実際に見てみたいという好奇心が、不気味さを上回った。
「……よし。味は間違いないんだろう。じゃあ、そのデザートもお願いするよ」
雅之は自らを納得させるように頷き、御品書きをえらいこっちゃ嬢に返した。
彼女は名残惜しそうにその冊子を受け取ると、深い溜息にも似た沈黙を伴って厨房へと戻っていった。
しばらくして、えらいこっちゃ嬢が重々しい足取りで御盆を運んできた。
彼女はカウンター席に辿り着くと、音を立てぬよう、細心の注意を払って磁器の器と菓子皿を並べていく。
最初に鼻腔をくすぐったのは、気高くも芳醇な紅茶の香りだった。
琥珀色に透き通ったその液体は、極上の茶葉を贅沢に使用していることが、その一嗅ぎで雅之にも分かった。
「ほう……。これはまた、驚くほどの逸品だな。香りが素晴らしい」
雅之は思わず唸る。
しかし、そのすぐ横に並べられた皿を見た瞬間、彼の言葉は凍りついた。
そこにあったのは、こんがりと黄金色に焼き上げられた、紛れもない「右腕」の形をしたクッキーだった。
可愛らしいキャラクターや人形を象ったものなら、雅之もこれまでの人生で何度か目にしたことがある。
だが、これはあまりにも「生々しかった」のである。
五本の指の節々、浮き出た血管のような筋、そして手首から肘にかけての滑らかな曲線。
平べったくデフォルメされてはいるものの、それは紛れもなく人体の一部を無慈悲に切り取ったかのような、悍ましい造形をしていた。
「……人形の形というか、キャラクターもののクッキーなら馴染みがあるんだが。こうして右腕単体という形で見せられると、これほどまでに不気味なものなんだな」
雅之は、生理的な嫌悪感と正体不明の恐怖が混ざり合った感情に襲われ、思わず眉を顰めて後ずさった。
甘い焼き菓子の香りが、その造形によって、何故か血生臭い呪縛のように感じられたのだ。
雅之が動揺し、そのクッキーへ手を伸ばすことを躊躇っていた、その時。
えらいこっちゃ嬢が、細く鋭い指先を雅之の胸元へ「びしっ」と突きつけた。
「他人様の右腕を奪い取ってしまいよってからに……。えらいこっちゃ。ホンマに、えらいこっちゃ」
少女の吐き捨てた言葉は、冷徹な宣告となって雅之の脳髄を叩いた。
「え……? 奪い取ったって、俺が? 何を言っているんだ、そんな覚えは……っ」
雅之が驚愕し、心臓が激しく脈打つのを感じながら声を上げた、まさにその刹那。
――カラン、カラン。
静まり返った店内に、表の扉が開く乾いた音が、まるで審判の鐘のように鳴り響いた。
外の凍てつくような夜気と共に、誰かがこの「摩訶不思議食堂」へと足を踏み入れた。
雅之は、背後から忍び寄るその圧倒的な殺気、あるいは悲哀に満ちた気配に、弾かれたように振り返った。
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## 第十九章:黄金の瞳と黒き角 ―― 女鬼が告げる非情なる対価
カラン、カラン、という澄んだ鈴の音が、静まり返った店内に鋭く響き渡った。
夜の重く冷たい湿り気を伴って開かれた扉から入ってきたその存在を目にした瞬間、雅之は言葉を失い、喉の奥で呼吸が凍りつくのを感じた。
そこに立っていたのは、女子高生くらいの瑞々しさを湛えた、人智を超えた美貌を持つ金髪の美少女であった。
彼女は、漆黒の地に金色の花々が豪華絢爛な刺繍であつらえられた、目も眩むほどに美しい着物を完璧に着こなしていた。
しかし、その装いは伝統的な枠には収まりきらない。
透き通るような金色の瞳の上からは、左右に黒く鋭い二本の鎌状の角が天を突くように生えており、長く輝く金髪はシュシュによって左側で快活なサイドテールにまとめられている。
和装の着物美人でありながら、どこか現代の「ギャル」を彷彿とさせる奔放で華やかな風貌。
片手には古風な風呂敷包みを携え、優雅でありながらも周囲を圧するような荘厳な佇まいで、彼女は颯爽と店の奥へと歩みを進めてきた。
「女鬼ねえちゃん、御疲れちゃん! えらいこっちゃなベストタイミング!」
先ほどまで無機質な宣告をしていたえらいこっちゃ嬢が、一転して子供のように無邪気に腕をぶんぶんと振り回し、全身で喜びを表現しながら挨拶をする。
地蔵店長もまた、カウンター越しにいつもの穏やかな慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、静かに合掌してお辞儀をした。
「女鬼さん、いらっしゃいまし、御疲れ様で御座います。丁度、良い頃合いで御座いますよ」
女鬼と呼ばれた超絶美少女は、その圧倒的なオーラを隠すこともなく、ひらひらと手を振り返して応えた。
「おつー♪ 丁度ベストなタイミングみたいだねー♪紅茶の良い香りが漂ってんじゃん♪」
彼女は軽快な口調で、弾むような足取りのまま雅之のすぐ近くのカウンター席までやって来た。
その非現実的な美しさに、雅之は一瞬の迷いの後、営業スマイルに近いぎこちない笑みを浮かべて声をかけた。
「やあ、今晩は。……君はここの常連の子かな? それとも、えらいこっちゃ嬢みたいに、ここの店員さんだったりするのかい?」
雅之の精一杯の挨拶に、女鬼は金色の瞳を僅かに細めて彼を視界に捉えた。
「んー、あーしは常連っちゃ常連かな、店員ではないね。今日はちょっと一仕事あってさ」
彼女はそう答えると、手に持っていた重みのある風呂敷包みを、カウンターのテーブルの上へそっと、驚くほど丁寧に、音を立てずに置いた。
その流れるような優雅な所作に、雅之は思わず見惚れてしまう。
「人形おっちゃんは、ちょうどデザートの時間だね。最高じゃん♪」
女鬼がそう呟くのと同時に、えらいこっちゃ嬢が彼女の前にも淹れたての紅茶を置いた。
「ありがと♪」
女鬼がえらいこっちゃ嬢の頭を優しく撫でると、彼女はまた嬉しそうに腕をぶんぶんと振っている。
そして女鬼は、一分の隙もない美しい所作で雅之の隣の席に腰を下ろすと、優雅に紅茶のカップを手に取り、一口含んだ。
湯気の向こうで微笑む彼女は、夜の闇に咲いた大輪の華のようであった。
しかし、その静寂は長くは続かなかった。
女鬼は紅茶の香りを愉しみながら、視線だけを雅之の皿へと向けた。
「……そのデザートのクッキー、食べないんだ」
「え? あ、ああ。その、なんだ。流石にこの、人体の一部を模したビジュアルがね……。齧るのには少しばかり、心の準備がいるというかさ」
雅之が冗談めかして、引き攣った笑いを浮かべながら答える。
その瞬間、隣に座る美少女から、先ほどまでの快活な「ギャル」の空気感が、陽炎が消えるように霧散した。
微笑んでいた口元から笑みが消え、その金色の瞳には一切の感情が宿らなくなる。
彼女は、まるで深淵を覗き込むような冷たく、射抜くような眼差しで雅之を正面から見据えた。
「ふーん。……じゃあ、それを『奪われた』方は、心の準備なんてさせて貰えたのかな?」
低く、温度を失ったその声が、雅之の鼓膜を氷のように叩いた。
刹那、雅之は足元から全身の体温が急速に奪われていくような、凄まじい寒気に襲われて身震いした。
「え……?」
心臓が警鐘を鳴らすように激しく打ち、雅之はただ驚愕と恐怖に固まり、女鬼の無機質な貌を見つめ返すことしか出来なかった。
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## 偽りの被害者と、剥がされた加害の面皮
金色の瞳に冷徹な光を宿し、射抜くような視線を向けてくる美少女を前に、雅之は喉の奥が引き攣れるような感覚に陥った。
「えっと、君は一体……何を言っているんだ? 俺は、ただデザートを食べるのに躊躇しているだけで……」
しどろもどろに言葉を紡ぐ雅之に対し、女鬼は呆れたように深く、長く、重い溜息を吐き出した。
「典型的な『やった方は都合よくきれいさっぱり忘れてる』ってやつだねー。いじめっ子あるあるってやつ。記憶の改竄、乙って感じ」
その冷ややかな言葉に呼応するように、傍らに立つえらいこっちゃ嬢も、沈痛な面持ちで首を振った。
「えらいこっちゃー……。救えん。ホンマにえらいこっちゃ」
「な、なんなんだ一体! そういえば、えらいこっちゃ嬢もさっき、他人の右腕を奪い取ったとか何とか言ってたな。心外だ! 俺はそんな恐ろしい事、断じてしてないぞ? そんな事したらそれこそ重大な犯罪だし、社会的地位も何もかも失って、こうして平穏にここにはいられないじゃないか!」
雅之は必死に虚勢を張り、エリートとしてのプライドを盾に反論を試みる。
心臓の鼓動が耳障りなほどに早鐘を打ち、乾ききった喉を潤すために、彼は目の前の紅茶へ逃げるように手を伸ばした。
カップを口に運び、一口流し込む。
その瞬間、高貴で華やかな香りが鼻腔を抜け、洗練された上品な味わいが舌の上で踊った。
そのあまりの美味さに、雅之は一瞬だけ恐怖を忘れ、目を細めて感嘆の声を漏らした。
「……っ。美味い紅茶だな。これは。香りも味の深みも最高級だ。甘い洋菓子と実によく合いそうだ」
「そう思うんなら、紅茶と一緒にそのクッキー食べりゃいいじゃん。お似合いだよ」
女鬼が、顎で「右腕」の形をしたクッキーを指し示す。
雅之はカップを置き、琥珀色の液面に映る自分の青ざめた顔を見つめながら、弱々しく首を振った。
「そ、それはおいおい食べるよ。ただ、さっきも言ったように、ビジュアル的な抵抗があるのと……。それに『右腕』っていうのは、今の俺にはあまりに重い意味を持っていてね……」
「右腕にまつわる嫌な思い出でもあんの?」
女鬼が小首をかしげ、試すような眼差しで問いかけてくる。
「……ああ。息子が、不運にも右腕を失ってしまって……。それに妻も今日、寺で参拝している時に、突然右腕が動かなくなってしまう症状に見舞われたんだ。幸い、寺院で応急処置をして頂いて、今はすぐに症状は治まったけれどね。だから、今の俺にとって右腕の欠損というイメージは、生々しすぎるんだ」
雅之は、揺れる紅茶の表面に家族の悲劇を重ね合わせるように、独白を続けた。
「ここの料理は確かに美味かった。だから、きっとデザートのクッキーも紅茶も美味いんだろうと思って注文したはいいけど……。やっぱり、今の心理状況では抵抗があるな。まあ、紳士として、注文した以上は責任を持って食べるつもりだよ」
雅之が自分に言い聞かせるようにそう告げると、女鬼の表情から一切の温度が消え去った。
「注文した責任をとって、お残ししない宣言はわかったとして。そんで、おっちゃんが奪った右腕の責任、もっと言えば、それによって手にするはずだった未来を根こそぎ奪って、踏みにじって潰した責任は取らないの?」
女鬼の言葉は、氷の刃となって雅之の胸を貫いた。
「え……?」
「おっちゃんってさー、もしかして自分は完全無欠の純然たる被害者とか、勘違いしちゃってない? 『俺の子供と奥さんは右手に異常をきたして、家族が不幸に見舞われたから僕ちゃんかわいそー』なんて本気で思っちゃってない?」
女鬼は嘲笑を交えながら、雅之を極限まで追い詰めていく。
「な、何を……っ! いや、実際に俺たちは被害者だろうが! 雅英は右腕を失って、大好きなサッカーも満足に出来なくなったし、バスケとかそういったスポーツも、もう二度と出来ないんだ! 体育の時間だって、一人寂しく見学しなければならない機会が激増したんだぞ! 妻だって……明日には精密検査のために病院に連れて行くつもりだが、一体どう診断されるか、親として、夫として怖くて仕方がないんだ!」
雅之は、抑えきれない怒りと恐怖を爆発させるように叫んだ。
その声は、静かな店内に虚しく響き渡る。
「俺の家族が、一体何をしたって言うんだよ……。何の落ち度もない、完全に被害者だろうが……っ」
膝から力が抜け、雅之がカウンターに突っ伏すようにうなだれると、頭上から女鬼の冷酷な宣告が降り注いだ。
「家族は被害者かもしんないけどさー、おっちゃんは加害者だからね? 被害者面なんて一ミリも許されない、愚かすぎる加害者だし。あんたが過去に投げた石が、二十五年かけてあんたの大事なものを粉砕しに来た。ただそれだけの事じゃん」
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## 水面に揺れる断罪の鏡 ―― 埋もれた過去の再演
「な、一体君は何を言っているんだ!? 断じて、俺はそんな非道な事はしていない!」
雅之は、喉を掻き切るような必死の形相で反論の声を上げた。
「そりゃあ、会社では部下に厳しく接する事はある。だがそれは上司としての責任を果たし、組織を成長させるための正当な叱責だ! それに、右腕を奪うような直接的な暴力なんて、これまで一度だってした事は断じてない! 俺は法を遵守する社会人なんだ!」
必死に自分を正当化し、記憶の蓋を無理やり押さえつけようとする雅之。
だが、その必死の抗弁を嘲笑うかのように、えらいこっちゃ嬢が静かに動いた。
彼女はいつの間にか厨房から、漆が美しく輝く大きな盃と、炭酸水が入った透明な瓶を運んできていた。
雅之の目の前にあった最高級の紅茶と不気味なクッキーの皿を、無機質なほど丁寧な所作で少し脇へ避けさせると、その正面へと大きな盃を音も無く静かに据え置いた。
続いて、えらいこっちゃ嬢が炭酸水の瓶を女鬼へと手渡すと、彼女は「ありがと♪」と小さく囁き、スッと目を見張るほど美しく立ち上がった。
女鬼は、重厚な着物の袖を片手で優雅に抑えながら、一点の淀みもない流麗な所作で盃に炭酸水を注ぎ込んでいく。
パチパチと弾ける泡の音が、静まり返った店内に妙に大きく響く。
注ぎ終えると同時に、女鬼は金色の瞳を僅かに細め、「パチン」と指先で乾いた音を鳴らした。
刹那、盃の平坦な水面が生き物のように大きく揺れ、やがて鏡のような透明度を持って「何か」を映し出し始めた。
「……ッ!? これは……」
雅之は絶句し、盃を凝視したまま身を凍らせた。
水面の中に映っていたのは、今から二十五年ほど前。
中学3年生の頃、まだ若さと傲慢さに満ち溢れていた14歳から15歳の頃の自分自身の姿だった。
「中学時代の、俺……か? なぜ、こんなものが……」
驚きに目を見張る雅之の視界の中で、水面はもう一人の人物を鮮明に映し出す。
それは、当時はまだ右腕を失っていない、かつての岸尾優理であった。
優理は子供の頃から、どこか儚げな優男顔をしており、体つきも華奢で肉付きが薄かった。
趣味はピアノ、実家は歴史ある人形店。
そんな繊細な背景も相まって、周囲からは「女の子みたいな名前だ」「女みたいな奴だな」と、日常的に揶揄われていた存在だった。
雅之と優理は3年生で初めて同じクラスになったが、雅之は一目で優理を「自分より下の存在」だと格下認定したのである。
水面の中の雅之は、ニヤニヤと卑屈な笑みを浮かべながら、早速、優理への揶揄いを始めた。
最初は言葉の暴力だった。
だが、それは日に日にエレートしていき、既に優理を格好の標的にしていた他のクラスメイト達と結託し、娯楽として彼を追い詰めていく。
やがて揶揄いは身体的な苦痛へと変わり、雅之は平気で優理を強く殴り、その人としての尊厳を泥靴で踏みにじるようになっていった。
同時に、水面の隅では、女子の間で迫害を受ける尾上千恵美の姿も映し出される。
男女それぞれに、所謂スクールカーストと呼ばれる歪な階級社会の「生贄」が作り上げられていく、地獄のような教室の光景。
二十五年前、雅之が「教育」や「遊び」という便利な言葉で塗り潰し、記憶の深淵に葬り去ったはずの残酷な真実が、盃の冷たい水面で容赦なく再生され続けていた。
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## 歪んだ英雄志向と、地獄一のシゴデキ鬼
盃の炭酸水が弾けるたびに、水面は雅之が「若気の至り」という身勝手な忘却の檻に閉じ込めていた記憶を、鮮明な色彩と共に引きずり出していく。
映し出されたのは、泥にまみれた中学校の校庭で行われていた、体育のサッカーの授業風景であった。
優理は中学三年間、サッカーのみならずハンドボールなど、守護役が必要なあらゆる球技において、常にこの「生贄の座」に固定され続けていた。
そしてこの時も、華々しいサッカー部のレギュラーとして君臨していた雅之達サッカー部の連中は、誰もがやりたがらず責任だけを押し付けられるゴールキーパーの座に、気の弱そうな優理を無理矢理据えていた。
水面の中の優理は、素人ゆえに飛んでくる強烈なシュートに対応できるはずもなく、なす術もなく得点を許してしまう。
すると、雅之を含む少年達が駆け寄り、舌打ちと共に優理の頭や肩を無造作に殴りつけた。
「お前のせいで負けただろうが!」「やる気あんのか! もっと気合入れて動けよ!」
失点のたびに繰り返される暴言と、指導を装った一方的な暴力。
水面の中の若き雅之は、優理の恐怖に歪んだ顔を見ても、罪悪感どころか「正しい教育をしている」と言わんばかりの歪んだ正義感をその瞳に宿していた。
「……ほんと、頭悪いクソガキ共の典型例だよねー」
隣に座る女鬼が、心底軽蔑しきったような溜息と共に、冷たく吐き捨てた。
「サッカー部の連中は調子に乗ってガンガン攻めてさー。素人のディフェンダーとかキーパー相手に無双して『俺様かっけー』とか勘違いしちゃって、もう痛々しくて見てらんないよねー。傍から見たらただの弱い者いじめで、笑い話にもなんないくらいダサいし。上手くできない子に丁寧に教えてあげる方がよっぽど格好良いし、その方が女子からも『優しい男子』って目で見られてモテたかもしんないのにねー」
彼女の言葉は、雅之が信奉してきた「強さ」という価値観を真っ向から、かつ論理的に否定していく。
「そもそもさー、ゴールキーパーって専門職でしょ? 難しいじゃん。それを素人にやらせて、オフェンスのサッカー部が複数人で迫ってきたら止められるわけないじゃんよ。おっちゃんって学生時代は成績良くて頭いいってことになってるみたいだけどさ、性格とか人間としての根本的な『頭の良さ』はマイナス確定じゃね?」
女鬼の金色の瞳が、冷徹な分析官のような鋭さで雅之を射抜く。
「い、いや……。あいつ、いつもおどおどしてやる気が無さそうに見えたからさ。俺としては、あいつを鼓舞するために気合いを入れてやるつもりで……」
雅之の口から出たのは、自分の過去を正当化しようとする、あまりに見苦しい言い訳であった。
「へぇー。やる気出させるためだったら、殴っても良いわけ? それ、最高の免罪符じゃん」
女鬼は口角を吊り上げ、愉悦と殺意が混ざり合ったような笑みを浮かべた。
「そんじゃあさ、おっちゃんの腐りきった根性叩き直して、その寝ぼけた目を覚まさせるために、あーしが今からあんたをぶん殴っても、文句言わないよね?」
彼女はそう言うと、着物の袖を「スッ」と美しく、迷いなく腕まくりした。
そこに現れたのは、単に誇示するために肥大した肉の塊ではなかった。
無駄な脂肪は一グラムたりとも存在せず、相手を確実に、そして最も効率的に破壊することだけに最適化された、肉弾戦のための「究極の武具」としての腕があった。
芸術的なまでに引き締まり、美しくも禍々しい威圧感を放つその腕に、雅之は言葉を失い、恐怖のあまり椅子の上でのけぞった。
「発破掛けるためだったら、思いっきりぶん殴ってもいいんだよね?」
彼女の黄金の瞳が、獲物を定めた猛獣のように煌めく。
「女鬼ねえちゃんは、あの閻魔大王様も、地獄極楽のどんなお偉いさん達も頭が上がらない存在! 細マッチョで喧嘩の強さも地獄極楽一の超エリート鬼! 超絶シゴデキ鬼のギャル美少女!舐めてかかると、えらいこっちゃ!」
えらいこっちゃ嬢が、誇らしげに両腕をぶんぶんと振り回しながら、彼女の恐るべき正体をアピールした。
「あはは、ありがと♪」
女鬼はえらいこっちゃ嬢にウィンクを飛ばして優しく頭を撫でると、えらいこっちゃ嬢はさらに嬉しそうに腕を振り回した。
「い、いや、その……確かに、当時は愚かだった。今思えば、優理には本当に悪いことをしたと思っている……。キーパーを無理矢理やらせた挙句、あんな暴言や暴力を振るったことは反省しているよ。だから……今度会ったら、ちゃんと謝ると約束する。それで勘弁してくれないか」
雅之は喉を鳴らし、必死に謝罪の言葉を並べ立てた。
だが、女鬼の冷たい眼差しは一分の揺るぎもなかった。
「当時は、ねえ。今は愚かじゃないって言い方してる気がするけど……まあ、今のあんたの腐り具合はおいといて。続きを、目を逸らさずに観なよ。あんたが壊したものの、本当の姿をさ」
そう言って、女鬼が顎で盃を示す。
雅之はもう反論も抵抗もできず、蛇に睨まれた蛙のように、ただ言われるままに盃の底に沈む忌まわしい過去を、じっと見つめ続けるしかなかった。
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## 壊れた日常と、消えた右腕の残響
盃の中の情景は、雅之の浅はかな正当化を嘲笑うかのように、さらに陰惨な色を帯びて動き出す。
移動教室へ向かう途中の廊下、雅之の問いかけに恐怖で喉を詰まらせ、上手く答えられずにいた優理。
その姿を見た水面の中の雅之は「ノリが悪いなあ、突っ込んどいたるわ!」と下卑た笑みを浮かべ、手に持っていた上履きで、優理の頭を、顔を、何度も何度も思い切り小突いた。
ゴム底が皮膚を叩く乾いた音と、散らばる砂。
周囲の取り巻きたちが囃し立てる中、抵抗も出来ずにうなだれる優理の尊厳を、雅之は無邪気な残酷さで蹂躙し続けていた。
そして、運命のあの日。
盃に映し出されたのは、放課後の静かな階段の踊り場だった。
理科室の後片付けを頼まれたのか、優理は数本の試験管やビーカーが入った重そうな段ボール箱を抱え、慎重な足取りで階段を下りようとしていた。
そこへ通りかかったのが、部活帰りの雅之たち数人の少年グループだ。
雅之は獲物を見つけたような歪んだ高揚感を瞳に宿し、背後から優理の肩へ飛びついた。
「よう、優理! 何だその重そうな箱、俺が手伝ってやろうか?」
拒絶する隙すら与えず、雅之は優理の首筋に太い腕を回し、ヘッドロックのように強引に肩を組んだ。
そのまま「一気に下まで駆け降りるぞ!」と叫び、嫌がる優理を引きずるようにして、一段飛ばしで階段を駆け降りた。
「ちょっと、危ないからやめて! 割れ物が入ってるんだ!」
優理の必死の制止の声も、雅之の耳には心地よい悲鳴にしか聞こえなかった。
「おんなじ速さで降りればいいだろうが! お前、逃げ足だけは速いから余裕だろ! これで特訓して、万年キーパーから少しは動けるようになれるんじゃないか?」
雅之は仲間たちとゲラゲラと下品に笑い転げ、次の階下へ向かって、さらに勢いをつけて飛び出そうとした。
その、刹那。
最上段の角に、優理の靴先が不自然に引っかかった。
「あ……」
均衡を失った優理の体は、雅之の腕をすり抜け、重力に導かれるまま宙に浮いた。
雅之が手を伸ばす間もなく、優理の体は右側から無防備にコンクリートの階段へと叩きつけられた。
ガシャアッ、と、段ボールの中のガラスが砕け散る鮮烈な音。
そしてその直後、メキッ、という、人間の骨が砕ける耳障りで嫌な音が静かな校舎に響き渡った。
「…………ッ!?」
あまりに唐突な惨劇を前に、雅之と友人たちはその場で硬直した。
段ボールの中には薬品が残ったビーカーや試験管が詰まっており、それらが落下の衝撃で粉々に粉砕されていた。
優理はその鋭利なガラスの破片の上に、自重を乗せて右腕から激突したのだ。
白い制服の袖は瞬く間にどす黒い鮮血に染まり、折れ曲がった腕の隙間からは、無数のガラス片と潰れた肉が覗いていた。
「おい……嘘だろ……」
唖然とする雅之たちの前を、一人の教師が血相を変えて通りかかる。
「どうした!? 何があったんだ!」
雅之は震える声で、保身のために核心を隠した。
「……優理が、階段から足を踏み外して落ちて……」
雅之達の嘘を暴く者はいなかった。
優理は意識を失ったまま、けたたましいサイレンと共に救急車で運び去られていった。
それからしばらくして。
盃の水面は、季節が移ろい、再び学校へ登校してきた優理の姿を映し出した。
教室のドアを開け、一歩中へ入ってきた優理。
その姿を見た瞬間、雅之たちクラスメイトの間に、凍りつくような沈黙が広がった。
優理の制服の右袖。
かつてそこにあったはずの、ピアノを弾き、繊細な人形を扱っていた彼の右腕は、二の腕から先が跡形もなく失われていた。
風に吹かれて力なく揺れる、空虚な右袖。
それが、雅之が「遊び」の代償として奪い去った、一人の少年の未来そのものだった。
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## 埋められた真実と、憤怒の鬼神
盃の底に揺らめく影は、目を背けたくなるような醜悪な真実を暴き出していく。
「俺が……あいつの右腕を、奪った……のか……?」
雅之の喉から、ひきつったような、かすれた声が漏れ出した。
二十五年間、心の奥底に何重にも鍵をかけて封印していた事実が、白日の下に晒される。
雅之の指先は小刻みに震え、全身から嫌な脂汗が噴き出していた。
盃の水面は、さらに残酷な後日談を映し出す。
そこには、今は亡き優理の両親、そして優理が誰よりも敬愛していた育ての親である祖父母の姿があった。
変わり果てた孫の姿に慟哭し、何があったのかを聞き出した彼らは、学校や雅之たちの自宅へ何度も足を運び、魂を削るような思いで猛抗議を繰り返した。
しかし、あの時あの階段にいたのは、口裏を合わせた雅之とその取り巻きたちだけだった。
「優理が勝手に躓いて、自分から階段を落ちたんです」
少年たちの厚顔無恥な「証言」が採用され、真実は冷酷な「事故」として闇に葬り去られた。
一度だけ、包帯を巻いた優理が、消え入りそうな声で雅之たちに尋ねた場面があった。
「君達は……何も思わないの?」
だが、水面の中の雅之は、鼻で笑ってこう吐き捨てたのである。
「俺達は何も悪くないだろ、事故なんだから。こうなるなんて思ってなかったしな。第一、お前がしっかりついてこれば、こんな事にならなかったんだよ」
「そうだそうだ!」「お前がしっかり踏ん張れなかったのが悪いんだろ! そんなひ弱なのがいけないんだ。もっと鍛えとかないからだぞ!」
周囲の嘲笑を浴びながら、優理の瞳から最後の一滴の光が消えた。
その日から、彼の顔からは一切の感情が失われた。
盃を揺らしていた映像が、スッと霧のように消える。
「……そんで、なんだっけ? 『右腕を奪ったことは無い』って、さっき自信満々に言ってたよね?」
隣から響いたのは、奈落の底から這い上がってくるような、低く、冷え切った女鬼の声だった。
雅之が弾かれたように隣を見ると、そこには絶句するしかない光景があった。
先程までの陽気な「ギャル」としての表情は、カケラも残っていない。
金色の瞳は、内側から燃え上がるような禍々しい輝きを放ち、引き結ばれた口元からは鋭く尖った鬼の牙が覗いている。
その貌は、慈悲を切り捨てた本物の鬼が見せる、美しくも圧倒的なまでの殺意を孕んだ「鬼神」の形相であった。
雅之は、恐怖のあまり震えることすら忘れ、ただその迫力に縫い付けられたように絶句した。
「おっちゃんはさー、自分がやった事を『やってない』って嘘ついた事、おわかり? 良い度胸してんじゃん。地獄の閻魔大王の話、聞いたことあるでしょ? 嘘ついたら舌を引っこ抜かれる。……嘘ってのは、それくらい重い大罪なんだよ」
女鬼の金色の瞳が、雅之の魂の芯を焼き尽くすように睨みつける。
「そんでもって、奪ったのは右腕だけじゃないからね? その腕が紡いだであろう輝かしい未来も御縁も、あんたが根こそぎ奪い取ったんだよ。優理さんが奏でたはずのピアノの音色も、祖父から継承するはずだった人形作りの技も……。それによって人々を喜ばせ、幸せにするはずだった無数の未来を、全部あんたが踏みにじって潰したって事、わかってんの?」
女鬼の言葉の一つ一つが、雅之の罪を抉り出す。
そして、彼女の喉の奥から、空気を震わせるほどの轟鳴が響き渡った。
「これだけの事をしでかした分際で、嘘ついた挙句に被害者面してんじゃないよッ!!」
鬼の咆哮とも呼ぶべき一喝が、店内の空気を爆ぜさせた。
雅之は脂汗を流し、今すぐにでも目を逸らしたいのに、女鬼の放つ圧倒的な迫力に金縛りに遭ったように抗えない。
ただ、その恐ろしき鬼の形相を至近距離で見つめながら、絶望の中で絶句するしかなかった。
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## 差し出されたレプリカと、一ミクロンの進展
重苦しい沈黙が、店内の空気を鉛のように重く変えていた。
雅之は喉の奥を上下させ、震える指先を隠すように握りしめ、ごくりと唾を飲み込んだ。
目の前の鬼の形相に、抗う術など何一つ持ち合わせていなかった。
女鬼は、そんな雅之の醜態を冷淡な眼差しで見つめたまま、カウンターのテーブルに置いていた風呂敷包みに手をかけた。
彼女の長く白い指先が、流麗な所作で結び目を解き、布をスッと左右に広げる。
そこから現れたのは、雅之の心臓を直接鷲掴みにするような「品々」であった。
伝統的な美しさを纏った、日本人形のような小さな、しかし精巧な人形。
そして、その隣に横たえられていたのは、人間の肌の質感を模した「右腕」であった。
「ッ……!」
雅之はそれを見た瞬間、反射的に椅子を蹴る勢いで身構え、奥歯を鳴らした。
「……これ、もう何かわかってんじゃないの? おっちゃんのその顔に出てるし」
女鬼は淡々と、まるで日常会話を交わすような温度の無い声で説明を始めた。
「この右腕はね、優理さんがあの日……あんた達の遊びのせいで失った右腕のレプリカ。そしてこの人形はね、優理さんが亡き御祖父さんから教わって、生まれて初めて一人で作り上げた人形のレプリカだよ」
女鬼は慈しむように、しかしどこか冷徹にその右腕の指先をなぞった。
「この腕さえあれば、優理さんはこういった美しい人形を、将来はずっと作り続けてたかもしれないのにね。あんたはその輝かしいはずだった未来を一方的に奪い去ってさ……。どうやって責任とるんよ? ねえ」
女鬼の金色の瞳が、雅之の魂の奥底を暴くように真っ直ぐに見据える。
「おっちゃんが代わりに、一生かけてこのレベルの人形作ってみる? それとも、誠意を見せるためにその右腕を差し出してみる?」
女鬼は口角を吊り上げ、冗談とも本気ともつかぬ恐ろしい提案を突きつけた。
「まあ、こんな薄汚れてて、根性ひねくれてる奴の腕なんてさ、誰も欲しがらないだろうし。何より優理さん自身が一番嫌がるだろうけど。……でもまあ、もしかしたらワンチャン、哀れみで受け取ってくれるかもね。試しに今すぐ右腕斬り落として差し出してみたら?」
その言葉は、まるで鋭利な刃物のように雅之の神経を逆撫でした。
「そ、それは……そんなことは……っ」
雅之は真っ青な顔で口ごもった。
自分から何かを奪うことには躊躇いもなかった男が、いざ自らの体の一部を求められると、情けないほどに言葉を失う。
「他人様の腕を奪ってしまいよった分際で、自分の腕が無くなるんは嫌がっとる。身勝手過ぎて、えらいこっちゃ」
いつの間にか背後にいたえらいこっちゃ嬢が、ぴしゃりと言い放った。
「25年も責任取らん無責任な男。そんなんで会社で『部長』なんて大層な役職なんて、やったらあかん無責任おっちゃん、えらいこっちゃ!」
彼女の言葉は、雅之が築き上げてきた地位を真っ向から否定し、その空虚さを剥き出しにする。
「まさにだよねー。これだけえげつない事しでかしておいてさー、一切責任取らずに今までのうのうと生きて、それでいて責任ある役職が務まるなんて、笑わせるなって感じだし」
女鬼の追い打ちをかけるような冷酷な言葉。
極限まで追い詰められた雅之は、脂汗を拭い、震える声でようやくひとつの提案を絞り出した。
「……優理の、あいつの義手は、俺が責任を持って作らせる。最新の、最高級のものをだ。メンテナンスだって、俺が一生……一生面倒見る。謝罪しに行って、そのこともちゃんと話すから……」
「……『面倒見る』、か」
女鬼は大きく、そして深い溜息を吐き出した。
「何様って感じ。一生かけて『償わせて頂きます』って這いつくばって言うべきところを、平気で『面倒見る』なんて言葉が出るところが、いつまで経ってもクソガキ時代からまるで成長してない証拠じゃん」
彼女は呆れたように肩をすくめた。
「結局さー、心のどこかでずっと優理さんを見下しっぱなしなんだよね、あんたは。……まあ、それでも、クズの自覚すらなかったさっきよりは、一ミクロンくらいは前進したかな。本当に一ミクロンだけどね」
女鬼は冷たく突き放すようにそう告げ、再び紅茶のカップへと手を伸ばした。
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## 虚飾の謝罪と、消えない「嘘」の正体
雅之は、喉の奥にこびりついた乾きを飲み込み、自らを奮い立たせるようにカウンターを拳で小さく叩いた。
「……奪ってしまった未来も、何もかも、俺が謝罪して補償する。経済的な支援だって、俺に出来る限りのことは全てやると約束する。ここに……ここに誓うよ」
それは、エリート商社マンとしてこれまで数多の契約を成立させてきた彼なりの、最大級の誠意の表明であった。
だが、その言葉を聞いてもなお、隣に座る女鬼の金色の瞳に温かな色が宿ることはなかった。
「それについてはさー、あーしらに言うことでもなければ、誓うことでもないんだけどね。そもそも今更過ぎるし、わざわざ『宣言』することじゃなくて、黙って実践することが肝要なわけ。口先だけなら、どんな綺麗なことだって並べられるんだから」
女鬼は、ふん、と鼻で笑い、雅之の覚悟を紙屑のように切り捨てた。
「そ、そうだな……君の言う通りだ。身勝手な言葉だった。帰ったらすぐに、しっかりと実行していくよ。今度は口先だけじゃない、本当にだ。嘘をついたら、閻魔大王に舌を抜かれるんだったよな。その重みを忘れないよ」
雅之が必死に食らいつくように言う、しかし……。
女鬼はさらに鋭い一喝を浴びせた。
「舌を引っこ抜かれようが抜かれまいがさ、そもそも妄語とか妄言……嘘をつくこと自体、そんな抑止力が無くたってやっちゃダメなんだって。おわかり?」
「仰る通りだ。肝に銘じておくよ」
雅之が神妙な面持ちで返すと、女鬼は「ほんとにわかってんのかねえ」と、心底疑わしそうな深い溜息を吐き出した。
その様子に、雅之は焦燥を募らせ、さらなる自己弁護を重ねてしまう。
「いや、本当だって信じてくれ! そりゃ確かに、今までは忘れていたというか……その、自分がやったという意識があまりに薄かったから、優理の右腕を奪ったことについて『奪っていない』なんて言ってしまったけれど、もうそんな嘘は絶対に言わないから」
必死に自らの「更生」をアピールする雅之。
だが、女鬼は、そしていつの間にか横に並んでいたえらいこっちゃ嬢も、同時に呆れ果てた溜息を漏らした。
「……全然わかってないじゃん。ま、予想通りっちゃ予想通りだけどさ。救いようがないっていうか」
女鬼の蔑むような視線に、えらいこっちゃ嬢も「えらいこっちゃー……」と、力なく肩を落とした。
「な、どういうことだ? 俺は本当のことを言っているんだぞ! 何が不満なんだ!」
混乱し、声を荒らげる雅之。
そんな彼を、女鬼は冷え切った眼差しで射抜いた。
「嘘つきっぱなしの分際で、そんなこと言っても説得力ゼロってことに全く気付いてないとかさ。ほんと、学校の勉強だけは出来るクズの典型じゃんよ。テンプレ過ぎて、マジで引くレベルだし」
「な、何を言っているんだ! 嘘をつきっぱなしって、どういう意味だ!」
雅之がますます混乱して叫ぶ。
すると、女鬼は紅茶のカップを静かに置き、最後の手解きを施すように口を開いた。
「じゃあさ、ヒントね。いつまで優理さんは『事故に遭った』ままなん? ……あ、これ、もうほぼ答えじゃん」
「え……?」
雅之の思考が、一瞬だけ停止した。
「おっちゃんって頭いいんだよね? 商社でバリバリ部長やってるんでしょ? だったら、今のでわかんない?」
女鬼の問いかけは、雅之が必死に守り、維持しようとしていた「社会的な虚飾」の根幹を鋭く突き刺した。
「それは……一体……」
雅之は、考え込んだ。
自分が私的に謝罪し、金を払えば済む話だと思っていた。
だが、世の中の記録、学校の記憶、そして優理の家族が最後に抱いた絶望の中では、今この瞬間も、優理の右腕は「不運な事故」によって失われたことになっている。
雅之が沈黙を貫き、真実を公にしない限り、二十五年前のあの「嘘」は、今もなお現在進行形で生き続けているのだ。
雅之は、脂汗を流しながら、自らが抱える罪の底知れぬ深さに、ようやく指先が触れたような感覚を覚えていた。
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## 断罪の過去帳と、堕ちたエリートの全面降伏
静まり返った店内に、雅之の荒い呼吸の音だけが、絶望的なリズムを刻んでいた。
自らの築き上げた「完璧な人生」という虚飾の城が、足元から音を立てて崩れ去っていくのを、彼は幻覚のように感じていた。
女鬼が放った「いつまで優理さんは事故に遭ったままなのか」という問いの切っ先が、雅之の心臓の最も柔らかい部分を、容赦なく抉り続けている。
雅之は、溢れ出す脂汗が目に入るのも厭わず、必死に思考の糸を辿り、ようやく血を吐き出すような思いで結論を導き出した。
「……優理が事故に遭ったという状態のまま、か。それは、つまり……。俺があの日の真実を、本当は俺がやったのだという事実を隠蔽したまま、誰にも……世間に対しても、学校に対しても、二十五年もの間、口を閉ざし続けてきたという事か……?」
雅之が、己の喉を締め上げながら絞り出したような言葉に、女鬼はふっと口角を歪め、冷ややかな、しかしどこか満足げな笑みを浮かべた。
「やっとわかってきたじゃん。これだけ手厚いヒントを出してあげて、こんだけ時間がかかるってことは、おっちゃんにとっては丁度良い脳トレになったみたいだね。エリートの頭脳が聞いて呆れるレベルだけど」
女鬼の金色の瞳が、雅之の狼狽を見透かすように、昏く、鋭く、カウンター越しに彼を射抜く。
「……俺が、優理の右腕を奪ってしまった、あの日、階段から突き落とした張本人だと……。公に……公表しなければならないという事か……っ」
雅之は、自らの社会的地位や、積み上げてきた信頼が、砂の城のように崩れ落ちる恐怖に全身を戦慄かせた。
「本当に悪いと思ったんなら、そんなの誰かに言われなくたってやるのが当然だよね。そもそもさ、おっちゃんに良心とか罪悪感が一ミリでもあったら、人が嫌がるアホな事自体やらないはずだよね。そんで、やっちゃった事に対しては、十五歳のあの時に、恐怖で震えながらでも正直に自分から真実を告げて、誠心誠意謝罪してたはずじゃんよ。」
女鬼の声には、一切の慈悲は含まれていない。
「良心とか罪悪感のかけらもなかったからこそ、当時は保身のために『事故だ』って平気で嘘をついて逃げた挙句、被害者の優理さんに対して、あのワルガキ仲間達と一緒になってあんなふうに暴言を吐きまくったんじゃないの?ほんと、なんなん? おっちゃんって生まれながらのサイコパスってやつ? あーし、マジで引くレベルで理解不能なんだけど」
女鬼は心底呆れたように吐き捨て、雅之をさらに奈落へと突き落とす。
「それどころかさ、二十五年もの間、真実をひた隠しにしたままのうのうと生きて、ちゃっかり幸せな家庭生活をエンジョイしてるし。その間、優理さんは左腕一本で、どれだけ血を吐くような思いをして懸命に生きてきたと思ってんの? しかもだよ、そんな優理さんを同窓会でよってたかって馬鹿にしまくってるとか、おっちゃんも含めてあそこにいたアホ共ってどういう神経してたん? ……まあ、今はおっちゃん以外、ふさわしい報いを受けて全滅しちゃったけどさ」
「な、なんで……なんでそんなことまで知っているんだ!? 君は、あの同窓会の会場にいなかったはずだろ!?」
雅之は、自らの全生活、全行動を何者かに監視されていたかのような底知れぬ恐怖に、喉をヒクつかせながら震えあがった。
「おっちゃんの過去も現在も、ちゃーんとここに記録されてっからね。これはただの写しだけど」
女鬼はそう言うと、風呂敷包みの中にあった人形の下に隠されていた、古びた折本をスッと取り出した。
そこには墨書きで『過去帳写し:高嶋雅之』という、血の気が引くような文字が力強く刻まれていた。
女鬼はその折本を指で「トントン」と、軽やかながらも死の宣告のようなリズムで叩いてみせた。
「このままここに、『嘘をつき通して人生を終えました』って記録されるか。それとも、ちゃんと嘘をついたことを認めて、真実を公にして訂正しましたって記録されるか。どっちの道を選ぶかは、おっちゃんが自分で決めりゃいいよ。あーしは強制はしない。勿論、前者を選んで、生きてる間に報いを受けなくてもいいよ。でもさ、死んだ後でしっかりと、あーしらが地獄で詰めまくって、逃げ場のない極上の報いを受けさせるからね。絶対、逃がさないよ」
女鬼の目が、捕食者のように妖しく、禍々しく煌めいた。
その圧倒的な圧力と、決して逃れられない運命の宣告に、雅之の精神のダムはついに決壊した。
「わ……わかった……。ちゃんと、嘘をついて罰を逃れたことも……俺がやったことも……全部……全部正直に話すよ……。真実を……公にする……」
雅之は、逃げ場を完全に封じられ、ただただ女鬼の言う通りに、己の罪を白日の下に晒すしかなかった。
自らの社会的破滅を受け入れること。それが、二十五年の逃走の果てに彼に残された、唯一の、そして最も険しい償いの道であった。
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## 25年の地続きと、凍りついた想像力
自らの罪を公に晒す。
その決断を下した雅之の胸中は、嵐の前の静けさのような、あるいは死刑宣告を待つ囚人のような、底知れぬ恐怖に支配されていた。
エリート商社マンとしての輝かしい経歴も、手に入れた地位も、誇りに思っていた名声も、その全てが瓦解していく。
失うものの大きさに足が震えながらも、雅之は自分を律するように何度も言い聞かせていた。
これは、25年前のあの過ちに向き合うための、避けては通れない儀式なのだと。
しかし、冷静さを取り戻そうとするほどに、先ほど女鬼が放った「おっちゃん以外全滅した」という言葉が、不吉な残響となって脳裏にこびりついて離れない。
あの卑劣な「遊び」に加担していた同級生たちが、一人、また一人と右腕を失い、ある者は絶望の中で命を落とし、ある者は今もなお出口のない生き地獄を彷徨っている。
雅之は喉の奥をヒクつかせながら、カウンターの端に座る女鬼へと、這いずるような声で問いかけた。
「なあ……。さっき君は、俺以外は全滅したと言ったよな? それについては、その過去帳とやらに書いてあるから知っているというのはわかったよ。でも……だとしたら、どうしてみんな例外なく右腕を失ったんだ? やはりそれも……この25年前の事と、何か密接な関係があるのか?」
雅之の瞳には、論理的な思考では説明のつかない事象への、根源的な恐怖が宿っていた。
「それに……そうだ、あの呪術師だ。彼は確か、家族が『えらいものと繋がっている』とか、『一時しのぎ』だとか、神社に行けとか……色々と言っていた。なあ、まさか……まさかあいつ、優理が俺たちを呪っているなんてことは無いよな? そんな……そんな非科学的なことが……っ」
雅之は自嘲気味に笑おうとしたが、頬が引き攣って上手く笑えなかった。
そんな彼の醜態を、女鬼は冷たく、どこか突き放すような無関心さで眺めている。
「それこそ、謝罪に行った時に、直接本人に聞いてみたらいいんじゃね? 答え合わせは本人の前でするのが筋でしょ」
淡々と、温度のない声が返ってくる。
「本当に呪いなんて……。でも、あまりにも不可解なことが連続で起こり過ぎているんだ。それに、雅英と妻は……右腕が……」
雅之は、病院で診察を受ける家族の姿を想像し、激しく身震いした。
「なあ、教えてくれ。呪いっていうのは、本当にあるのか? あるとしたら、俺は……俺の家族は呪われているのか? もしそうだとしたら、どうやったら解けるんだ! 何でもする、だから、どうすればいいのか教えてくれ!」
雅之はカウンターに身を乗り出し、なりふり構わず、救いを求めるように懇願した。
しかし、女鬼の返答は、彼の淡い期待を無慈悲に踏み砕くものだった。
「もしも優理さんが、あんたらを呪ったとしてもさー、そんなの当然の報いじゃん。呪いたくなるようなこと、先にやっちゃったのはあんた達なんだし。自業自得って言葉、エリートな商社のお偉いさんなら知ってるよね?」
冷酷な一喝が、雅之の胸を貫く。
「それはそうだが……。でも、だからって、死んだ奴までいるんだぞ!? 流石にやり過ぎじゃないか! それに、家族は何もしていないんだ! 何も落ち度のない家族まで巻き込むなんて、そんなの、あまりにも不条理じゃないか!」
雅之は思わず叫んだ。
それは、自らの罪を棚に上げた、あまりに独善的な抗議であった。
女鬼は、信じられないものを見るような目で雅之を見つめ、深いため息を吐いた。
「それってさー、一体誰の、何に対する言い訳? 自分らがやられたくないことを他人様にしておいて、いざ自分が同じ目に遭ったら、今度は全力で被害者面? さっきは1ミリくらい前進したかと思ったら、今の一言で一億光年くらい後退しちゃった感じだね。呆れてものも言えないし」
「いや、それは……。その、俺が報いを受けるのは仕方ないよ。実際に、俺が優理の右腕を奪ったんだからな。でも、それじゃあなんで、俺には直接的な報いが来なくて、他の連中が、そして何より……俺の大切な家族がこんな目に遭うんだ? おかしいじゃないか! 大体……そんな25年も前の、そんな昔のこと……っ」
「『そんな昔のこと』?」
女鬼の口から漏れたのは、氷点下の静寂を伴う、低く、重苦しい響きだった。
刹那、彼女の纏う空気が一変した。
金色の瞳が激しく燃え上がり、引き結ばれた口元からは鋭い鬼の牙が覗く。
その貌は、雅之の存在そのものを否定するかのような、恐ろしき「鬼の形相」へと変貌を遂げていた。
「ひぇっ……!?」
雅之は椅子の背もたれに叩きつけられるようにしてのけぞり、歯の根も合わないほどに震えあがった。
「おっちゃんさー、マジでなんもわかってないんだね。もしかして、頭下げて事実を公表しただけで、全部きれいさっぱり赦されるとでも思った? ほんと、勉強だけはできるクズの典型。学校の勉強だけにステータス全振りして生きてきちゃってさ、知性とか精神の成熟に一ミリも振ることなくここまで来ちゃったんだね。反吐が出るわ」
女鬼の声が、店内の器を共鳴させるほどに低く響き渡る。
「おっちゃんにとっては、その時だけの自分に都合の良い『昔のこと』として切り捨てた過去であってもさ。優理さんにとっては25年も、一秒の断絶もなく地続きで続いている『苦』だってこと、全く理解できてないんだね。そんな昔からずっと、25年もの間、絶え間なく苦しんで……そして、今この瞬間も苦しんでるんよ。それがわかんないとか、想像力の欠如も甚だしいし、よくそんなんで人の上に立つ地位にいるよね。はっきり言って相応しくないから。一生、平でいなよ。部下を持つ資格なんて、あんたにはこれっぽっちもねえから」
女鬼の黄金の瞳が、至近距離で雅之を射抜く。
そこに込められた、犠牲者の25年という歳月の重みに、雅之は押し潰されそうになった。
反論の言葉など一言も出てこない。
ただ、鬼の形相から放たれる圧倒的な憤怒の気配に曝され、雅之は呼吸の仕方さえ忘れたかのように、絶句して固まるしかなかった。
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## 無敵の人と、終わらない悪業の連鎖
女鬼は、冷え切った紅茶のカップを置くと、獲物を追い詰める捕食者のような冷徹な眼差しを雅之へと向けた。
「もしも優理さんが、おっちゃん達を隅から隅まで呪い尽くしたとしても、それはもう自業自得でしかないからね。他人様の大事な未来を奪っておきながら、自分の大事なものは取らないでねーなんて、そんなのムシが良すぎじゃんよ。おっちゃんってさあ、これまでの人生で物事を『もし自分がされたら』って、そんな当たり前の想像力すら働かせてこなかったんだね」
彼女の吐き捨てるような言葉は、雅之の脳髄に直接氷の楔を打ち込むような鋭さを持っていた。
「……だからって、何も子供を……雅英や妻まで狙う事なんて無いじゃないか……っ。あの子には何の罪も無いんだ!」
雅之は、喉の奥から絞り出すような、苦し紛れの反論を口にした。
震える拳を握りしめ、必死に父親としての正義を盾にしようとする。
だが、女鬼は呆れたように片眉を上げ、鼻で笑った。
「だーかーらー。それがまさに想像力の欠如で、自分事として考えられてないって事、おわかり? どこまでも他人事なんだよね、おっちゃんは」
女鬼は椅子に深く寄りかかり、金色の瞳を妖しく煌めかせながら問いを重ねる。
「おっちゃんはさ、仮に優理さんが本当に人を呪う事が出来て、同級生全員を地獄に叩き落した上に、おっちゃんの最愛の家族まで奪おうとしてたとしたら、どう思う? 最低だし、卑怯な事だと思うわけ?」
「そんなの、当然じゃないか! たとえ過去に何があろうと、罪の無い子供まで巻き込むなんて、人として最低な事だし、卑怯者のする事だ! 断じて許される事じゃない!」
雅之は、ここぞとばかりに語気を強めて叫んだ。
それは彼が縋ることの出来る、唯一の道徳的な「正論」だった。
「はい、お前が言うな案件。おっちゃんには、それ言う資格なんて、これっぽっちも無いから」
女鬼の冷酷な一喝が、店内の空気を一瞬で凍りつかせた。
「最低な事をしたっていう事については、さっきの盃を通して見たんだから、おっちゃん自身が一番わかってるよね? 自分が散々やってきた事を棚に上げて、どの面下げて道徳語ってんの?」
「それは……。でも、子供に対して……あんな風に、右腕を奪うなんて……。そりゃ、俺も、子供の頃に優理の右腕を奪いはしたけれど……っ」
雅之は、自らの加害の記憶と、目の前の現実の整合性が取れなくなり、しどろもどろになって視線を泳がせた。
「そんでさ、今おっちゃんは、家族を狙うのは『人として最低の事』だって、最低最悪な事だって、自分の口ではっきり言ったよね?」
女鬼の追及は、逃げ場を塞ぐように緻密で、容赦がない。
「……そうだ。恨みがあるなら、どうせなら俺を直接狙えばいいじゃないか! なぜ俺ではなく、家族なんだ!」
「だから、やるんじゃん」
女鬼は、あまりにも淡々と、当然の理を述べるように言った。
「……え?」
雅之が呆然と口を開けた瞬間、女鬼は残酷な真実を、その喉元に突きつけた。
「おっちゃんは今、物凄くダメージ受けてるよね? 心臓がバクバクいって、絶望で死にそうな顔してるし。それってさあ、効果絶大って事じゃん。つまりはね、最低であればある程、ダメージは大きいって事。傷つけられた方はさ、嫌って程それをわかってるからこそ、最もダメージが大きくて、最もえげつない方法を採用するって事なんよ」
雅之の背筋に、ドロリとした冷たい汗が流れ落ちる。
「そして、そこまでの決意を固めた復讐者ってのはさ、ブレーキなんて最初っから持っちゃいないからね。世間の常識とか娑婆の価値体系で構築された、おっちゃんの大好きな倫理や道徳なんて、そんなの復讐を決意した者には何の役にも立たないから。一度アクセルを踏んだら最後、どっちかが全滅するまでやめないよ。娑婆だとよく言うっしょ、『無敵の人』ってさ。おっちゃんが彼を、そうしちゃったんだよ」
「そん、な……。そんな馬鹿なことが……」
雅之は、底無しの暗い穴に落ちていくような絶望感に襲われ、ガタガタと全身を震わせた。
震えが止まらず、歯の根がカチカチと音を立てる。
「あーしは優理さんが呪ってるなんて一度も明言してなかったけどさ。おっちゃんは、もう心の中で『優理さんが呪ってる』って確信してるんでしょ? だったらさ、おっちゃん自身やその家族、同級生達を執拗に狙う復讐者であるかどうか、本人に直接聞いてみなよ。そしたら、おっちゃんが優理さんを『無敵の人』にしちゃったかどうか、おっちゃんの過去の悪業によって、お子さんの右腕が失われて、今まさに妻の右腕が失われようとしているのかどうか、嫌でもわかるからさ」
女鬼の冷徹な宣告が、雅之の脳内で「雅英の右腕」と「妻の右腕」のイメージと重なり、轟音を立てて弾けた。
25年前に、自らの指先一つで引き起こしたあの残酷な出来事。
それを、若気の至りという名の嘘で捻じ曲げ、平然と放置してきた事の報いが、四半世紀の時を超えて、今、最も失いたくないものへと襲いかかっている。
「ああ……ああああぁっ……!」
雅之は、生まれて初めて、己の存在そのものを呪うほどの深淵なる後悔に苛まれた。
自らの慢心と冷酷さが招いた自業自得の連鎖が、愛する家族を地獄へと引きずり込もうとしている。
その圧倒的な恐怖と、逃れようのない現実の重みに、雅之はただただ、心の底から嗚咽し、震え上がる事しか出来なかった。
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## 慈悲の眼差しと、等流果の断罪
雅之は、己の犯した罪の凄まじい質量に押し潰されそうになりながら、激しく乱れる呼吸を必死に整えようとしていた。
「それじゃあ、本当に優理が呪いをかけていたとしたら……あいつの匙加減一つで、俺も、そして俺の家族も……。俺は、一体どうすれば……っ」
頭を抱え、カウンターに突っ伏さんばかりに絶望する雅之の隣で、女鬼とえらいこっちゃ嬢が、ふと視線を上げた。
その先には、カウンターの奥で静かに、しかし確かな存在感を放ちながら佇む地蔵店長の姿があった。
雅之も、弾かれたようにその視線を追い、お地蔵様のような穏やかな顔立ちをした店長を見上げた。
地蔵店長は、柔和で慈愛に満ちた笑顔を絶やすことなく、静かに合掌してゆっくりとお辞儀をした。
「加害側の『昔の事だから』『若気の至り』と言う言い訳は、道理としても、そして仏様の眼から見ても、全く通用しない論理です」
店長は、春風のような優しい声色でありながら、その言葉の芯には鋼のような厳しさを込めて諭し始めた。
「被害者の心に深く植え付けられた苦しみの種は、何十年という月日が経とうとも、その痛みが癒えない限りは、いつまでも消えることのない『現在進行形』の苦悩です。加害者が勝手に『過ぎたこと』と時間を区切るのは、自らが生み出した『悪因』を直視せず、因果律の鎖から卑怯にも逃亡しようとする傲慢な姿勢に他なりません」
雅之は、その淀みのない正論に、一言も返せず立ち尽くす。
「仏様の教えに『善因善果、悪因悪果(ぜんいんぜんか、あくいんあっか)』とあります。雅之さんの件におきましては、過去のあまりに重い悪因が、25年という時を経て成熟し、廻り巡って今、大切な方々へ報いとして及んでいる……。すなわち、雅之さんの過去の過ちが因となりて、現在の不幸が果として現れた事と言えましょう」
地蔵店長は、雅之が自らの言葉を一つ一つ咀嚼し、その理を理解できていることを深く観察してから、再び静かに教えを説き始めた。
「雅之さんは先程、『昔の事だから』と仰いましたが、『因果の理法』において、時間の経過が罪を浄化することなど万に一つもありません。過去に犯した罪、それによって作られた重き業、それは『宿業』と言う形で、魂に刻まれ、消える事無く残り続けます」
雅之の背筋に、しっとりと冷たい汗が滲む。
「そして、例え現世にいる間……生きている間に直接報いを受けることがなくとも、先程、女鬼さんが仰った通り、死してこの世を離れた後に、必ずや相応の報いを受けることになります。決して、逃れられることでは御座いません」
地蔵店長は優しい笑顔を崩さぬまま、逃げ場のない真理を突きつけた。
「……はい」
雅之は、最早反論する気力も失い、魂を抜かれたように素直に頷いた。
「報いというものは、今まさに雅之さんが現在進行形で苦しんでいるように、直接罪を犯した者だけではなく、その者が大切にしている人々にも波及するものです。御自身が受ける報い、雅之さんが現在受けている精神的な苦しみは『自業自得』であり、ご家族が受けている肉体的な苦は『等流果』で御座います」
「……とうるか?」
雅之は、聞き慣れないその仏教用語を、縋るような思いで復唱した。
「はい。悪行はそれと同質の苦しみを生み出し、その余波は周囲、眷属や環境にも波及すること、それを等流果と言います」
地蔵店長は、迷える子羊を見るような慈しみの目で、さらに言葉を重ねた。
「加害者が『自分の子供は無関係だ』と主張するのは、世俗の理屈では一見筋が通っているように見えます。ですが、親が積んだ悪業や負の遺産は、家庭という縁を通じて子に多大な影響を与えるのです」
地蔵店長は、優しいお地蔵さんの笑顔を絶やさず、しかし逃げ道を塞ぐ金剛石のごとき厳しさで、尊き教えを授けていった。
「自分が一方的に奪った被害者の平穏な子供時代を棚に上げ、自分の子供の平穏だけを権利として主張するのは、極めて自己中心的な『我執』であり、加害者の欺瞞で御座います。この事から目を背けていては、自身の真実から目を背けている事になり、真の反省も、そこから善き道へ踏み出すことも出来ないと心得る事です」
雅之は、ただ黙ってその言葉に聞き入っていた。
カウンターに置かれた「右腕のクッキー」と「過去帳」。
それらを視界の端に捉えながら、彼は己の中に巣食う根深い「悪」と、生まれて初めて真正面から、真剣に向き合い始めていた。
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## 真なる懴悔と、報いを越えた謝罪の在り方
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地蔵店長は、カウンター越しに深く項垂れ、己の中に巣食う醜悪な悪性と真剣に向き合い始めた雅之の姿を、慈しむような眼差しで見守っていた。
その顔には、冬の陽だまりのような穏やかな微笑みが浮かんでいる。
「今、雅之さんは御自身の悪性について、そして過去の過ち、悪行によって積み上げた悪業に気づかれ、真に向き合われています。これこそが、闇から抜け出し、善の道へと踏み出すための尊きスタートラインと言えましょう」
地蔵店長の声は、さざ波のように静かに、しかし雅之の荒んだ魂の深層まで染み渡るように響いた。
「ですが、雅之さん。一つ、心に深く刻んで頂きたいことが御座います。口先だけの謝罪や、世間体を繕うための上辺だけの謝罪仕草では、傷つけた相手の心に届かないことは勿論、それは真の『懴悔』とはなりません」
店長は、柔和な笑顔を絶やさぬまま、その言葉に峻烈なまでの真理を込めて説いた。
「さんげ……?」
雅之は、その聞き慣れない響きを、乾いた喉で微かに復唱した。
「はい。現世においては一般的に『ざんげ』と言うと分かりやすいでしょうか。仏教ではこれを『さんげ』と言いまして、単に言葉を吐き出すことではないのです。己の犯した罪の重さを、それこそ自身の魂が震えるほどに心の底から恐れ、深く反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないと固く誓うこと。そして、自らが苦しめた被害者の、その計り知れぬ苦悩に心から同調すること……それこそが懴悔の本質で御座います」
地蔵店長は、迷える子羊を導くように、しかし一歩の妥協も許さぬ厳しさで教えを説いていく。
「言葉だけを美しく並べ立てて、その上で『これだけ謝っているのだから、いい加減赦すべきだ』などという身勝手な煩悩にまみれていては、それは懴悔とは呼べないのです。自分を楽にするために、あるいは現在の苦境から逃れるために相手へ『赦し』を強要する行為は、さらなる『慢』という傲慢さを心の中で燃やしておるだけで、結局のところ、己の煩悩をさらに燃やして、悪しき業を積み重ねているに過ぎません」
地蔵店長は、雅之がこれまで無意識に抱いていた「謝れば解決する」という身勝手な謝罪観を、根底から優しく、かつ無慈悲に破壊していく。
「肝要は、報いを受けたくないという自業自得の恐怖から逃れるためではなく、自身の欲を満たす為でもなく、ましてや赦しを期待し求めるのでもなく、ただただ、過ちによって傷つけて苦しめた人に対して、例え一生赦されなくとも、誠心誠意謝罪を尽くす事、そしてそれを続けることで御座います」
地蔵店長はお地蔵様のような柔和な笑顔で、静かに合掌してお辞儀をした。
その隣で、女鬼が金色の瞳を僅かに細め、冷ややかに付け加えた。
「赦すか赦さないかを決めるのは、いつだって相手側だからねー。こっちがコントロール出来ることじゃないし、ましてやコントロールしようとするなんて、お門違いもいいとこって話」
雅之は、二人の言葉に、自らの傲慢さを再び突きつけられた。
自分がいかに「赦されること」を前提にして謝罪を考えていたか。
その浅ましさを恥じるように、彼は拳を震わせた。
「真の謝罪、真なる懴悔を為しているかは、言葉の巧拙ではなく、その者の在り方と行動、行為によって如実に現れます。長年苦しめられてきた方は、何を言ったか以上に、相手が何を為しているかを、それこそ射貫くような鋭さで観ているものです。そのことを常に意識し、御自身の存在全てをもってして、償いに取り組まれると宜しいかと存じます」
地蔵店長は、最後にもう一度、深い慈悲を湛えた笑顔で合掌し、雅之に教えを授けきった。
「……はい」
雅之は、短く、しかしこれまでで最も重みのある返事をした。
その声には、先ほどまでのエリートとしての虚飾も、保身のための震えもなかった。
そうして雅之は、目の前に置かれている右腕クッキーに手を伸ばし、逃げることなく丁寧に咀嚼して味わっていく。
「……味は美味いんだな。」
見た目に躊躇していたクッキーの味は、ほんのりと甘く、最後の日と口まで食べ終わってから、すっかり冷めた紅茶を飲み干した。
それから彼は、カウンター越しに地蔵店長、そして厳しくも自分を導いた女鬼たちに向かって、静かに、そして人生で最も丁寧に、深く深く頭を下げた。
己の罪の深さを、そしてこれから歩まねばならない険しき贖罪の道の重さを、その背中で受け止めるかのように、ただ只管に頭を下げるのであった。
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## 茨の道の第一歩と、摩訶不思議な送り出し
雅之は、深く下げていた頭をゆっくりと上げ、地蔵店長、女鬼、そして厨房の入り口で見守る、そして凜華を順番に見つめた。
その瞳からは、先ほどまでの濁った保身の輝きは消え失せ、底知れぬ恐怖を抱えながらも逃げぬ覚悟が宿っていた。
「……正直に申し上げます。まだ心のどこかで、赦して欲しい、過去を水に流して欲しいという、浅はかと断じられるであろう願望は、完全には消えていません。自分勝手で、情けない話ですが」
雅之は自らの醜い本音を隠すことなく、震える声でさらけ出した。
「ですが、それ以上に……今の教えを胸に刻み、真の懴悔となるように、これからは逃げることなく、誠実に謝罪を続けて、一生涯をかけて償い続けます。これから我が身に、そして家族に降りかかるであろう、どんな報いも……そのすべてを、私の罪として受け入れます」
雅之の悲壮なまでの宣言に、店内の空気がわずかに和らいだ。
それまで「鬼の形相」で彼を射抜いていた女鬼が、ふっと口角を上げ、少女のような無垢で慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「ん。こっからが本番だからね。しっかりやりなよ、雅之さん」
すると、えらいこっちゃ嬢がカウンターの椅子に「ピョンッ」と身軽に飛び乗り、雅之の頭を、まるで子供をあやすかのように優しく撫でた。
「やっとほんまに歩き出せよった。えらいやっちゃ」
雅之は、少女の小さくも温かな手のひらの感触に、こらえていた涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
「やっと歩き出せた、か。確かに、今までは自分はエリートだと傲慢になって、偽りの椅子にふんぞり返っていたんだもんな。……そんな椅子、最初からどこにも無かったのに」
雅之は自嘲気味に、しかし清々しい表情で呟いた。
そして、彼は居住まいを正し、目の前の異形でありながらも尊き導き手たちに向かって、深く一礼した。
「皆さん、本当に有難う御座います。……お陰で、目が覚めました」
感謝を伝えて立ち上がった雅之は、カウンター越しに地蔵店長を見据えた。
「それじゃあ、御勘定、お願いします」
「当店は御布施形式にしております。雅之さんの志をお預かりいたしましょう」
地蔵店長は、いつもの優しいお地蔵さんのような笑顔を湛え、静かに合掌してお辞儀をした。
「それじゃあ、電子決済できますか?」
雅之が尋ねると、えらいこっちゃ嬢が「御勘定」と古風な墨書きがされた、QRコード掲載のプレートをスッと差し出してきた。
雅之はお財布携帯モードにしたスマートフォンをそのプレートに翳した。
「ピコンッ」という無機質な電子音と共に金額入力欄が表示されると、彼は迷うことなく「30000」という数字を打ち込んだ。
3万円という金額を支払い、決済完了の画面を店長に見せた雅之は、静かに語りかけた。
「俺の飲食代と、今日ここで教えを頂いた事の分。……そして、優理と千恵美の分だ。これを、私の償いの始まりとするよ。これがこの場から始まる、謝罪のしるしだ」
「毎度あり! えらいこっちゃな大金!」
えらいこっちゃ嬢は、金額を確かめると両腕をぶんぶんと大きく振って喜びを表現した。
雅之はその賑やかな光景を最後に目に焼き付けると、踵を返して出入り口のドアへと向かった。
扉に手をかけ、最後にもう一度だけ振り返ると、彼は店内に向かって深く、長く頭を下げた。
そのまま一度も振り返ることなく、雅之は夜の静寂が広がる「摩訶不思議食堂」を後にした。
地蔵店長は、暗闇へと消えていく雅之の背中を見送りながら、慈悲に満ちた笑顔で再び合掌した。
「御来店、誠に有難う御座います。善き道を歩まれますよう」
その静かな声は、雅之が歩み始めた茨の道を、一筋の光明となって照らし出すかのように、夜の帳の中へ溶けていった。
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## 贖罪への第一歩と、繋ぎ直す縁
店の外に出ると、そこには夜の闇を裂いて燃え盛る車輪を持つ、あの魔改造された方輪車の牛車が静かに停車していた。
雅之が覚悟を決めた足取りで近づくと、まるで高級車の自動ドアのごとく客席の扉が滑らかに開き、彼は迷うことなくその異形な空間へと身を投じた。
「バタン」と扉が閉まると同時に、またしてもどこからともなく白くて長い腕が「ニュー」と伸びてくる。
雅之は躊躇することなくスマートフォンを取り出し、お財布携帯モードを起動して、腕にぶら下がった木札のQRコードへかざした。
「ピコン」という軽快な音と共に千円が支払われ、「毎度ありー」という無機質な電子音が牛車の中に響き渡る。
「毎度ー。ほな、帰りまっせー。しっかり捕まっといて下されやー」
運転席の窓から方輪車が弾けるような笑顔を見せて窓を閉めると、牛車は猛烈な勢いで発進した。
瞬く間に加速し、周囲の景色が光の奔流となって流れていく最高速度の中、雅之は静かに目を閉じた。
これから自分が歩むべき道には、近道もショートカットも存在しない。
それは、これまで避けてきた棘だらけの茨の道であり、どんなに足が傷つこうとも、どんなに歩みが遅かろうとも、一歩一歩着実に進まなければならないのだと、彼は改めて己の魂に深く刻み込んだ。
やがて、猛烈な加速が緩やかに減速へと変わり、牛車はえらいこっちゃ嬢やあの喋る市松人形と最初に出会った、神社の鳥居の前へと静かに滑り込んだ。
雅之が地面に降り立つと、方輪車が再び運転席の窓を開けて、満面の笑顔で手を振ってくれた。
「毎度ありー。ほな、善き道をー」
「善き道、か……。茨の道こそが善き道だなんて、不思議なものだけど。……ありがとう」
雅之が少しだけ自嘲気味に笑って答えると、方輪車は力強く頷き、再びエンジン音を轟かせながら夜の闇へと颯爽と去っていった。
一人残された雅之は、冷たい夜風を肺いっぱいに吸い込み、この日は寺院の宿坊に宿泊することになっていた家族の元へ向かって、ゆっくりと歩き始めた。
宿坊の重厚な門扉の前まで来ると、雅之は一度立ち止まり、震える手でスマートフォンを取り出した。
画面を操作し、今日連絡先を交換したばかりの、尾上千恵美の名前を表示させる。
一瞬の迷いの後、彼は通話ボタンを押した。
数回の呼び出し音の後、千恵美が電話に出てくれた。
「もしもし、今晩は。高嶋です。夜分遅くにごめん。ちょっと話せるか?」
「ええ……」
電話越しの千恵美の声は、どこか警戒を含みながらも、雅之の変化を感じ取っているかのように静かだった。
「家族の事、改めて有難う御座います。本当に助かったよ。それと……同窓会の時も、中学時代も、本当に済まない事をした。申し訳ありませんでした」
雅之は、宿坊の壁に向かって深く頭を下げ、真摯な謝罪の言葉を告げた。
その言葉の重みに、電話の向こうで千恵美が「え?」と小さく驚く気配が伝わってくる。
「君へのお礼と謝罪は、改めてしっかりとするつもりだ。必ず約束する。それで……俺にはどうしても、今すぐやらなければならない事があってね。折り入ってお願いがあるんだ」
雅之の声は、決意に満ちていた。
「優理と直接会って、謝罪したいんだ。もし……もし君が今も優理と連絡が取れるのなら、取り次いでもらえないだろうか? 頼む、お願いします」
雅之は、かつて見下していた相手に対しても、今はただ一人の「罪人」として、必死に懇願した。
25年という歳月の澱を雪ぎ、失われた未来の欠片を繋ぎ直すための、本当の戦いがここから始まろうとしていた。
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## 新幹線と、25年の断絶を越える鉄路
受話器の向こう側で、静寂が重く、長く横たわった。
千恵美の吐息混じりの沈黙は、雅之が突きつけた謝罪の重さと、彼が踏み込もうとしている領域の険しさを物語っているようだった。
やがて、千恵美の低く落ち着いた声が静寂を破る。
「……分かったわ。聞くだけ聞いてみるわね。ちょっと待ってて」
それだけを告げると、電話は一度プツリと切れた。
雅之は、宿坊の冷たい板張りの廊下で、スマートフォンの青白い画面を凝視しながら立ち尽くした。
心臓の鼓動が、静まり返った夜の伽藍に「ドクン、ドクン」と響き渡る。
数分が永遠のようにも感じられた頃、待ち望んでいた折り返しの着信が夜の闇を震わせた。
「……もしもし、岸尾君と話したわ」
通話が繋がると同時に、千恵美が淡々と、しかしどこか試すような響きを持って伝えた。
「彼が言うにはね。『本気で会う気があるなら、探すなり誰かに頼るなりして、自分の足で会いに来ればいい。辿り着いたなら拒まない』……との事よ」
「……そうか。有難う、恩に着るよ。本当に助かった」
雅之は、自分に課せられた「試験」の重みを感じ、喉の奥を鳴らした。
住所を安易に教えず、自ら辿り着くことを求める。
それは、優理が雅之の「本気」を推し量るための、最低限の防壁なのだろう。
「……やるべきことをすべてやり終えたら、改めて君にも直接会いたい。その時、また話をさせてくれ」
「……そう」
千恵美は、否定も肯定もせず、ただ短く一言だけを返した。
「夜遅くにすまなかったね。おやすみ」
最後の一言を夜気に溶かすように告げ、雅之は深く息を吐き出した。
雅之は、家族が宿泊している静かな部屋へと戻った。
障子の向こう側からは、妻と雅英の穏やかな寝息が聞こえてくる。
幸い、二人はすでに深い眠りについていたため、雅之は起こさないよう細心の注意を払い、宿泊客用の大浴場で入浴と身支度を済ませた。
湯船に浸かりながら、彼は自らの右腕をじっと見つめた。
この腕が、誰かの未来を奪い、そして今、家族の平穏を脅かしている。
その事実を突きつけられた「摩訶不思議食堂」での一夜が、まるで幻のように、しかし消えない火傷の痛みのように彼の意識に焼き付いていた。
翌早朝、まだ周囲が薄闇に包まれている頃。
雅之は枕元に一通の置手紙を残した。
『家に帰る時は気を付けて帰って下さい。お父さんは用事があるから朝一番に京都へ向かいます』
簡潔にそれだけを記し、雅之は宿坊の受付で家族分の宿泊費をすべて前払いで済ませると、身軽な装いで寺院を後にした。
始発の電車に乗り込み、まだ眠る東京の街を抜けて東京駅へ。
そこから、彼は弾丸のように疾走する京都行きの新幹線に飛び乗った。
ゴオォォォッ……という微かな風切り音を立てながら、新幹線は西へと加速していく。
窓の外を高速で流れ去る景色を眺めながら、コンビニで買った朝食を食べ終えた雅之の脳裏には、昨夜の出来事が走馬灯のように駆け巡っていた。
地蔵店長の慈悲深い笑顔、女鬼の激憤、そして、あの日階段から転げ落ちた優理の、砕けた右腕の音。
これまで「若気の至り」という無責任な言葉で置き去りにしてきた25年前の悪業。
それが、逃れようのない「因果」となって今、自分を取り囲んでいる。
雅之は、座席の肘掛けを強く握りしめた。
これから向かう場所は、単なる謝罪の場ではない。
自分が犯した罪の清算。そして、25年間地続きで苦しんできた一人の男の人生と、真っ向から対峙する戦場だ。
「待っていてくれ、優理……。今度こそ、逃げない。この命に代えても向き合ってみせるから」
雅之は、流れる車窓の向こうに、かつての自分を嘲笑うかのようにそびえる富士の姿を見つめながら、固い決意を固めていた。
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