表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/32

第22話-後編:山下潤花の冤罪とほっこり飯

朝霧の再会 ―― 鏡の社と黒衣の導き手、差し出された傘と深まる御縁


京都の朝は、ひやりと冷たく、それでいてどこか清々しい空気を孕んでいた。

昨日までの、重く澱んでいた心とは対照的に、潤花の意識は澄み渡る泉のように静まり返っていた。


目が覚めると同時に、彼女は迷いのない手つきで身の回りのものを整理し始めた。

これまでの自分を象徴するような、華美で重厚な荷物の数々は、今の彼女には不釣り合いな重石にしか感じられない。

潤花はそれらをまとめて自宅への配送手続きを済ませ、手元に残したのは、最低限の必需品を詰め込んだ小ぶりなバッグ一つだけだった。


そして、もう一つ。

東京の寺で、土砂降りの雨の中で見知らぬ男性から受け取った、あの黒い傘。

潤花はその傘を、まるで自分の進むべき道を指し示す杖のように、大切に手に取った。

今日は雲一つない快晴の予報だが、彼女はこの傘を返すべき相手に、あるいは自分自身の決意のために、持ち歩くべきだと直感していた。


ホテルをチェックアウトした潤花は、軽やかになった足取りで、まだ眠りから覚めきらない古都の街へと踏み出した。

彼女が最初に向かったのは、えらいこっちゃ嬢と出会った、あの運命の神社だった。

朝日が朱塗りの鳥居を鮮やかに照らし、境内の砂利を踏む音だけが静寂の中に響き渡る。


本殿の前で深く頭を下げ、静かに手を合わせる。

昨夜、摩訶不思議食堂で授かった「智慧」と、地蔵店長に誓った「償い」の決意を、改めて神前で反芻した。

参拝を終え、いよいよ鏡の神社を探そうと歩みを進めようとしたその時、彼女の視界に、周囲の色彩を吸い込むような深い黒の衣を纏った背中が映り込んだ。

その人物は、境内の木々を愛でるようにして、ゆっくりと散歩を楽しんでいた。


見間違えるはずもない。

あの雨のの中、潤花に傘を押し付けるように渡して去って行った、あの男性だった。


「あの! お、お早う御座います!」


潤花は思わず声を張り上げ、駆け寄った。

その声に反応し、男性が静かに振り向く。


「おや。お早う御座います。昨日、東京のお寺さんでお会いしたお嬢さんですなあ」

男性は以前と変わらず、淡々と、そして感情の起伏を感じさせない無表情のまま挨拶を返した。

しかし、その瞳にはどこか潤花の心根の変化を見透かしているような、深い洞察の色が宿っているように見えた。


潤花は彼の前で立ち止まると、両手で大切に抱えていた傘を、恭しく差し出した。

「昨日は傘を貸して下さって、本当に有難う御座います。その……もうお会いできないのではないかと諦めかけていたのですが、こうしてお返しできて、本当に良かったです」


潤花が安堵の笑みを浮かべて傘を返そうとすると、男性はそれをじっと見つめるだけで、受け取ろうとはしなかった。

「これも何かの御縁です。その傘は、そのままお持ちになれば宜しゅうおす。」


「えっ……。それじゃあ、申し訳ないですけれど、有難く頂いておきます。本当に、有難う御座います」

潤花は戸惑いながらも、彼の言葉に従って再び深く頭を下げた。

「それにしても、京都に来られていたのですね。あの、今日はお休みなんですか?」


潤花の問いに、男性は境内の奥へと視線を向けながら、ゆったりとした口調で答えた。

「ええ、東京へは出張で行っていただけで、私の地元はここ、京都ですさかいに。土日は基本的に休日でしてな。休みの日の朝は、こうして散歩をするのが常になっとるんですわ」

男性は淡々と、しかし京都特有の柔らかな響きを纏った言葉を紡ぐ。


その穏やかな振る舞いに、潤花は自分が今、正しい縁の糸を手繰り寄せていることを確信した。

潤花はバッグの紐をぎゅっと握りしめ、一度大きく深呼吸をしてから、意を決して男性の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。

「あの、もしお時間があるようでしたら……お願いがあります。昨日、仰っていた『鏡の神社』のこと、詳しく教えていただけませんか?」


昨夜、浄玻璃鏡に映し出された醜悪な己の姿。

そして、これから始まる過酷な贖罪の旅。

その一歩を踏み出すために、彼女には鏡の智慧が必要だった。

潤花は、かつての傲慢な自分であれば決してできなかったであろうほど、真摯に、そして深く、その男性に向けて頭を下げた。


朝の光が境内の緑を透かし、二人の間に、目には見えない新たな導きの線が引かれていった。

潤花が求めたのは、単なる知識ではなく、己の人生を照らし直すための光であった。


---


呪術師の随伴、運命を解く鍵


潤花は手元にある黒い傘を握り締め、意を決したように言葉を紡ぎ出した。

「私……実は、鏡にとてもゆかりのある人が京都出身で。そのこともあって、昨日あなたに鏡の神社を探すように言われた後、すぐに京都へ向かうことに決めたんです。どうしても、自分の目で確かめなければならないことがあって」


潤花の切実な響きを含んだ声が、朝の静謐な境内に染み渡っていく。

かつての彼女なら、見ず知らずの男にこれほど私的な事情を話すことなどあり得なかったが、今は縋るような思いが勝っていた。


男性は潤花の告白を静かに聞き届け、表情を変えずに僅かに顎を引いた。

「さいでしたか。こうして再び顔を合わせたのも何かの御縁、そして、僕が鏡の神社について口にした以上、そこには御縁と責任が生じますさかい。宜しければ、僕がその場所まで案内しましょか」

男性はそう言うと、流れるような美しい所作でスッと頭を下げた。


その謙虚でありながらも底知れない深みを感じさせる立ち振る舞いに、潤花は圧倒されながらも、力強く頷いた。

「あ、有難う御座います! よろしくお願いします!」


潤花は勢いよく頭を下げて礼を言うと、ようやく自身の名を名乗っていないことに気づき、慌てて口を開いた。

「私は、山下潤花と申します」


「山下潤花さんですか。僕のことは名乗るほどのもんでもおまへん。『呪術師』とでも呼んで下され。ほな、早速行きましょか」

男性は淡々と、しかし拒絶させない響きを持ってそう告げると、迷いのない足取りで翻り、颯爽と歩き始めた。


潤花は「呪術師」という、現代社会にはおよそ不釣り合いな響きに一瞬心臓が跳ねるのを感じたが、置いていかれまいと慌ててその背中を追いかける。

えらいこっちゃ嬢と出会い、不思議な牛車で送り迎えをしてもらったあの神社を後にし、二人は古都の石畳を踏み締めて歩き出した。


潤花は隣を歩く無機質な黒衣の背中を見つめ、抑えきれない好奇心と一抹の不安を抱えながら問いを投げかけた。

「あの、呪術を……その、お仕事にしていらっしゃるんですか?」


「兼業ですな。表向きはIT関連、最近やとAI関連の仕事をフリーランスで請け負いながら、呪術師としての依頼があれば務めると言ったところです。現代はデータと呪術の親和性が高いもんでしてな」

呪術師は一切の感情を排した無表情のまま、淡々と現代的な業務内容を口にした。


そのギャップに困惑しながらも、潤花は昨夜から自分を苛んでいる「業」の重みを思い出し、震える声で核心に触れた。

「それじゃあ……呪いを解くことも、できたりしますか?」


その問いに対し、呪術師は歩みを止めることなく答えた。

「解ける呪いについては、解くことは出来ますなあ。もっとも、呪いの正体にもよりますが」


呪術師のその言葉を聞いた瞬間、潤花の脳裏に、自らが犯してきた数々の悪行と、現在進行形で崩壊していく家族の姿が鮮烈に蘇った。

もしこれが「呪い」であるならば、この目の前の男に縋れば、すべてを無かったことにできるのではないか。


一瞬だけ、卑怯な甘えが潤花の心を掠めたが、彼女は寸でのところでその言葉を飲み込み、奥歯を噛み締めて黙り込んだ。


本当に何らかの呪いによって今の苦しみを受けているとしても、これは他人に頼って「解除」してもらうべきものではない。

自分が犯した罪、自分が撒いた種が実らせた報いであるならば、それは呪術で消し去る類のものではなく、自分自身の力で向き合い、解決すべきことなのだ。


昨夜、摩訶不思議食堂で鏡に映し出された醜い己の姿を思い出し、彼女は安易な救済を求めることを自らに禁じた。


「……そう、ですか」

潤花が絞り出すようにそう呟くと、わずかな沈黙が二人の間に流れた。


すると、前を歩いていた呪術師が、微かに、しかし確かに言葉を漏らした。

「……ふむ。まだ、救いはゼロやおまへんな」


「え?」

潤花はその予期せぬ言葉に驚き、問い返そうとしたが、呪術師は足を止めることなく一定のリズムで歩を進めていく。


言葉の真意を尋ねる隙も与えられず、潤花はただ、遠ざかる黒い背中に置いていかれないよう、必死に食らいついて行くだけだった。

朝の光が京都の街並みを照らし始める中、二人の影は長く伸び、まだ見ぬ鏡の社へと向かっていった。


---


隠れ里の鏡社と供物の豆餅、幽世の扉 ―― 紫淵の鏡との再会


柔らかな朝陽が古都の街並みを黄金色に染め上げる中、呪術師に導かれた潤花は七条にある一軒の和菓子屋へと足を踏み入れた。

店内に漂う甘く香ばしい餅の香りに、昨夜からの緊張で強張っていた潤花の心も僅かに解けていく。

呪術師は慣れた様子で、この店の名物である豆餅を三人分購入した。

店の一角にある簡素なイートインスペースに腰を下ろすと、呪術師はそのうちの一つを丁寧にパックへと移し替え、残りの二つを潤花と自分の前に並べる。


「いただきます……美味しい。すごく、優しい味がしますね」

潤花は、黒豆の程よい塩気と、キメの細かい餅の弾力、そして上品な餡の甘みが口の中で完璧に調和するのを堪能した。

生きるために、そして抗うために必要な活力が、一口ごとに身体に染み渡っていく。


ふと、潤花は呪術師が大切そうに抱えているパックへと視線を向け、不思議そうに首をかしげた。

「有難う御座います、御馳走様でした。本当に美味しいですね、これ。でも、何で3つ買ったんですか? 誰かへの御土産か、それとも呪術師さんのおやつですか?」

潤花の問いに、呪術師は表情一つ変えず、取り出した風呂敷包みにしっかりと豆餅が入ったパックを収めながら答えた。

「これは御土産用です。さて、腹ごしらえも済みましたな。ほな、行きましょか」


それ以上の説明を拒むような、しかし確かな目的を感じさせる足取りで、呪術師は再び歩き始めた。


二人は京都の五条辺り、住宅や商店がひしめき合う町中にある、ひっそりとした鏡にまつわる神社へと辿り着いた。

一見すればどこにでもある小さな社に過ぎないが、呪術師は躊躇うことなく本堂の裏手へと回り込んでいく。

周囲に人気がないことを確認すると、彼はスッと指先を複雑に絡め、何かの印を結んだ。


『……かい

呪術師が低く呟いた瞬間、大気が微かに震え、景色が陽炎のように歪んだ。

そのまま彼が進むと、潤花も吸い込まれるようにその後を追う。


次の瞬間、潤花の目の前には、現実の京都とは思えない光景が広がっていた。

空は薄紫色の霧に包まれ、静寂が耳を刺すような、まさに「幽世」と呼ぶに相応しい隔絶された空間。

その中央には、長い年月を経て苔むした、しかし圧倒的な威厳を放つ壮麗な御社が鎮座していた。


呪術師は静かに歩み寄り、御社の前で立ち止まると、深く頭を下げて挨拶を口にした。

「お早う御座います」


潤花は、ここが目的の鏡の神社であり、呪術師は祀られている高貴な神様に挨拶をしているのだと信じて疑わなかった。

自分も粗相のないようにと背筋を伸ばし、祈りを捧げようとしたその時である。

御社の重厚な扉が、ギギィ……と音を立ててゆっくりと左右に開かれた。


中から姿を現したのは、神々しい神職でもなければ、静謐な御神体でもなかった。

手足がニョキリと生え、紫色の淵に縁取られた鏡の体。

その鏡面には、目や口がはっきりとついていて、潤花は昨夜えらいこっちゃ嬢の隣にいた鏡を思い出した。


「あ!」

潤花が思わず驚愕の声を上げ、その場に固まる。


「お早うさんやのう」

鏡の怪異は、ひょいと片手を挙げて、まるで行きつけの店の馴染み客にでも接するかのように、陽気に挨拶を返してきた。

そのユーモラスでありながらもどこか底知れない迫力を秘めた姿を前に、潤花は言葉を失い、ただただ目を見開いて立ち尽くすしかなかった。


---


雲外鏡の通信と、嘘なき瞳の輝き


幽世の静寂の中に、呪術師の落ち着いた声が朗々と響き渡った。

「雲外鏡さん、御無沙汰しとります。これ、土産の豆餅ですえ。朝食代わりになりますやろか」


呪術師は懐から、先ほど買い求めたばかりの豆餅が入ったパックを差し出した。

無表情なその横顔からは想像もつかないほど、その仕草は丁寧で、相手への敬意に満ちている。


「おお、これはこれはご丁寧に有難うさんですのう。ここの豆餅は絶品やからのう、嬉しいのう♪」


紫の淵を持った鏡の怪異――雲外鏡は、鏡面から生えた細い腕を器用に動かし、パックを受け取った。

そして、鏡の中に浮かび上がった大きな口で、モチモチとした豆餅を実においしそうに頬張り始める。

鏡がお菓子を食べるという、あまりにもシュールで現実離れした光景を前に、潤花はただ立ち尽くすしかなかった。


「……昨日の、えらいこっちゃんの隣にいた鏡のお化けが、豆餅を食べてる……。」

潤花が呆気にとられて呟くと、最後の一口を飲み込んだ雲外鏡が、満足げに腹(鏡面)を撫でた。

「怪異とか妖怪かて、甘味は食べるからのう。特にええ素材を使ったもんは、魂に響く味がするもんやのう。御嬢ちゃんも機会があったら、小豆洗いさんとこの鯛焼きを食べてみるとええかいのう。ほんで、呪術師さん、御馳走さんですのう」

雲外鏡は鏡面いっぱいに愉快そうな笑みを浮かべ、ケタケタと豪快に笑った。


呪術師は小さく頷き、本題を切り出すように懐から一枚の古びた御札を取り出した。

「お気に召して何よりです。ほな、雲外鏡さん、ちょいと頼まれてくれませんかな?」


呪術師はその御札を鏡の前に掲げた。

「これから、下鴨の更に奥まったとこにある『加賀見神社』に行きますさかい、今から向かいますと先方に伝えてくれませんか?」


「あいわかったのう。ほな、宮司はんに通信しますさかいのう、ちょっと待ちよし」


雲外鏡が応じると、その表面から目や口がスッと消え去り、代わりに呪術師が掲げた御札の模様が鮮明に映り込んだ。

次の瞬間、鏡面が青白く、神秘的な輝きを放ち始める。

それはまるで、古の技術を用いた超常的な通信機器のようであった。


「有難う御座います、助かります」

呪術師が深く頭を下げると、潤花もそれに倣い、慌てて腰を折った。


加賀見神社――その名を聞いた瞬間、潤花の胸は期待と不安で激しく脈打った。

自分の人生を狂わせ、そして救おうとしてくれた教師の名と同じ神社。

そこに、何らかの答えがあるのかもしれない。


しばらくすると、雲外鏡の放っていた輝きが収まり、再びひょっこりと目と口が表面に現れた。

「用件は伝え終えたでのう。……ところで、御嬢ちゃん。昨日とは違って、随分とええ顔になりよったのう」


不意に自分へ向けられた言葉に、潤花はどきりとして肩を震わせた。

「え……?」


「自分の顔、よう観てみる事やのう。鏡は嘘を吐かんさかいのう」

雲外鏡の目と口が再び消え、鏡面には現在の潤花の姿が映し出された。


「目が腫れて酷い顔ね。昨日、あんなに泣いたから……。」

鏡を覗き込んだ潤花は、赤く腫れぼったい自分の瞼を見て、思わず顔を背けそうになった。

しかし、雲外鏡の声はどこまでも優しく、包み込むような温かさを湛えていた。

「ちゃんと泣いて、逃げんと前を向くようになって、迷いがのうなった、ええ顔しとるのう。形ばかりの美しさより、よっぽど輝いとるでのう」


その言葉は、誰からも肯定されず、孤独な戦いを始めようとしていた潤花の心に、温かな灯をともした。

偽りの令嬢ではなく、一人の人間として歩み始めたことを、この怪異は認めてくれたのだ。


「……ありがとう、妖怪鏡さん。」

潤花が素直に、そして感謝を込めて頭を下げると、雲外鏡は再び腹を揺らして笑った。

「ワイは妖怪鏡やのうて、雲外鏡うんがいきょうやのう。あ、でも鏡の妖怪やから間違ってもおらんのう! ワーハハハ!」

その豪快な笑い声は、幽世の空気を震わせ、潤花の背中を力強く押し出してくれるかのようであった。


---


再会 ―― 五年の歳月を越えて


「ほな、ワイも久々に加賀見神社に行くかいのう。」

雲外鏡は、その紫色の縁取りを満足げに揺らしながら、独り言のように、しかし確実な意志を持ってそう告げた。


それを聞いた呪術師は、一切の躊躇なく懐から一枚の古びた御札を取り出す。

「ほな、僕がお持ちします。少しばかり窮屈かもしれませんが、我慢しておくれやす。」


呪術師がその御札をひらりと宙へ放り投げ、指先で小気味よく「パチン」と乾いた音を鳴らす。

その瞬間、虚空を舞う紙片が生き物のようにうねり、淡い光を放ちながら形を変えていく。

それは瞬く間に、柔らかな質感を備えた上質な風呂敷包みへと変貌を遂げ、宙に浮いたまま雲外鏡を優しく、それでいてしっかりと包み込んだ。

意思を持っているかのように呪術師の手元へとふわりと舞い戻ってきたそれを、彼は壊れ物を扱うような手つきで両手で抱える。


「らくちんで有難い事ですやのう。これなら道中、居眠りでもしてられそうやのう。」

風呂敷の中から雲外鏡の呑気な笑い声が漏れ、潤花は驚きに目を見張りながらも、急いでその背中を追って歩き出した。


一行は五条の喧騒を離れ、市バスに揺られて出町柳へと向かう。

車窓から流れる景色を眺めながら、潤花は自分の心臓の音が次第に速まっていくのを感じていた。


バスを降りると、そこには鏡にまつわる有名な神社が鎮座していたが、呪術師はそこへは寄らず、さらにその奥、木々が鬱蒼と茂る山裾の方へと迷いなく足を進めていく。

観光客の姿は消え、清冽な空気が肌を刺すほどに静まり返った場所。


鳥のさえずりと風に揺れる葉の音だけが支配する神域に辿り着いた時、呪術師の腕の中で雲外鏡が身を揺らした。

「ほな、ワイが宮司はんのとこまで行って、先に挨拶してきますさかいのう。お嬢ちゃん、あんまり緊張しなや。」

そう言うが早いか、雲外鏡は御札の風呂敷から「ぴょんっ」と器用に飛び降り、宙を滑るようにして木々の合間に建つ御社の奥へと消えていった。


呪術師はそれを見送ると、立ち止まって静かに息を吐く。

「僕らはここで待ってましょか。慌てても始まらん事ですしな。」


潤花は、今まさに訪れようとしている瞬間への予感に、全身が小刻みに震えるのを止められなかった。

何を言えばいいのか、どのような顔で向き合えばいいのか。

嵐のような葛藤と、逃げ出したいほどの羞恥心、そしてそれ以上に強い贖罪の念。


五分が数時間にも感じられるような永い沈黙を突き破り、やがて奥から雲外鏡が戻ってきた。

しかし、その背後には、別の確かな足音が続いていた。


深い森の静寂を割り、ゆっくりと、しかし確かな歩調でこちらに向かって歩いてくる一人の男の影。

その姿が木漏れ日の中に現れた瞬間、潤花の息が止まった。

五年という歳月は、彼の面影をより深く、静謐なものへと変えていた。


かつて高等学校の教諭を務め、潤花の卑劣な嘘によってその職も名誉も、そして平穏な日常さえも奪い去られた男。

加賀見鏡映が、神職の装いを纏い、そこに立っていた。


鏡映はやがて、呪術師と潤花の数歩手前で静かに足を止めた。

その眼差しは、五年前のあの日、学校を去る際に見せたあの悲しげな光を宿したまま、より透徹とした強さを湛えている。


「ようこそ、加賀見神社へ。遠路、御苦労様です。」

鏡映は静かな声でそう告げると、丁寧な所作で二人に向けて深くお辞儀をした。


「お初にお目にかかります。雲外鏡さん経由で御存じの通り、僕の事は呪術師とでも呼んでくだされ。」

呪術師が落ち着いた声で挨拶を返し、丁寧に応じる。


潤花は、足元が崩れ落ちるような感覚に陥りながらも、逃げ場のない視線で彼を見つめた。

そして、震える拳を握り締め、腹の底から勇気を振り絞って頭を下げる。


「……お久しぶりです、加賀見先生。」

地面を見つめる彼女の視界が、急速に溢れ出した涙で歪んでいく。


鏡映は、そんな潤花の痛々しい姿を、遮ることもなく静かに見つめ続けていた。

やがて、記憶の奥底に眠っていたあの頃と同じ、しかしどこか慈しみさえ感じさせる声が、森の空気を震わせた。


「……久しぶりやな、山下。あれから五年か。時は、止まってはくれんかったようやな。」


その一言が、潤花が五年間積み上げてきた虚飾の壁を、音も立てずに粉々に砕き去っていった。


---


## 第六章:真実の重みと、赦しの兆し


潤花は、目の前に立つ鏡映の姿を、呆然とした面持ちで見つめるしかなかった。

かつての教壇でチョークを握っていた彼とはあまりにもかけ離れた、神聖な空気を感じさせる白衣びゃくえ緋袴ひばかまの装い。


「先生の、その格好は……。」

掠れた声で問いかける潤花に対し、鏡映は穏やかな笑みを浮かべ、己の背後に建つ古びた社を見上げた。


「俺は元々、この加賀見神社の者でな。引退したら宮司をやるという条件で、実家に我儘を言うて教師をやらせてもろてたんや。せやけど、それもあんな形で終わってしもうたから、5年前にここへ戻って来て宮司になったんや。それが、俺の現在の姿やな」

鏡映は淡々と、しかしどこか懐かしむような響きを込めて語った。


実家の伝統を継ぐという定めを一時的に棚上げしてまで、彼が守りたかった「教師」という道。

それを、自らの浅はかな嘘とプライドのために無惨に引き裂き、彼の純粋な情熱を奪い去ってしまったという重い事実。

潤花の胸の奥から、堰を切ったように罪悪感が溢れ出した。


「あ……ああ……。」


視界が急激に滲み、熱い涙が頬を伝って地面へと落ちる。

潤花はたまらず、鏡映の前で激しく膝を突き、砂利の音も厭わずに勢いよく土下座をした。


「ごめんなさい、本当にすみませんでした! 申し訳ありませんでした、申し訳……ありませんでした……!」


冷たい地面に額を擦りつけ、彼女は何度も、何度も謝罪の言葉を繰り返した。

その声は嗚咽に混じり、震え、これまで虚飾で固めていたプライドは、この瞬間に完全に砕け散った。


「……正直、驚いてる」

頭上から降ってきた鏡映の声には、怒りよりも困惑、そして意外なほどの穏やかさが含まれていた。


「え……?」

潤花は涙を流したまま、土下座の姿勢で恐る恐る鏡映を見上げた。


「とりあえず、自分が悪いって思うて、心の底から反省してるんはわかったから。顔を上げて立ちや、山下。そんなところで泥まみれになる必要はない」

鏡映に促され、潤花はふらつく足取りで立ち上がり、袖で必死に涙をぬぐった。


鏡映は、潤花の隣で無表情を貫いている黒衣の男へと視線を移した。

「山下が、こちらの呪術師さん……実力は高位も高位、最高位を突き抜けてるレベルの『解呪師かいじゅし』さんを連れて来たから、てっきり俺に解呪をさせに来たんかと思ったんやけどな」


鏡映の口から漏れた衝撃的な言葉に、潤花の動きが止まる。


「え……?」

驚愕して隣を観たが、呪術師と呼ばれた男は、どこ吹く風といった風情で、相変わらず無機質な無表情を崩さない。


「雲外鏡さんを通した連絡で、とんでもない解呪師がここに来るって知った時から、てっきりその話かと思うたんや。俺からかけられたもんを強引に解きに来たんかと……。けど、この呪術師さん、ほんまに解呪する気がさらさらあらへんみたいやから、本気で驚いてるんよ。」

鏡映は、呆然とする潤花の様子を見て、フッと自嘲気味に、しかし優しく笑った。

「山下の様子からして、この方がどれくらい凄い人かっていうことは、ほんまに知らへんみたいやな」


「僕はただの通りすがりの、平凡な隠れ呪術師です」

呪術師は淡々と、感情の乗らない声で自己紹介とも取れぬ否定を口にした。


「隠れ呪術師、それも解呪師である時点で、もう十分に非凡ですやん」

鏡映は、かつての授業中に見せていたような、茶目っ気のある表情で笑い飛ばした。


その笑い顔。

かつて多くの生徒に慕われ、学び舎の教室で冗談を言いながら笑っていた、あの頃の鏡映の面影。

奪ってしまったはずの彼の笑顔が、今この場所で、自分に向けられている。

その慈悲深さと、自らの行いの残酷さが鮮明な対比となって潤花の心を打ちのめし、止まっていたはずの涙が再び激しくあふれ出した。


「ごめんなさい……先生……ごめんなさい……」


潤花は子供のように声を上げ、静寂に包まれた神域の中で、いつまでも泣き続けるしかなかった。


---


術式の完成と、悲しき鏡の真意


「立ち話もなんやから、中へどうぞ。」


鏡映の静かな促しに導かれ、潤花たちは社の奥にある客間へと足を踏み入れた。

そこは古びてはいるが、隅々まで掃き清められた清潔な和室であった。

微かに漂う古い木材の香りと、窓から差し込む柔らかな光が、潤花のささくれ立った心を不思議と鎮めていく。

鏡映は手慣れた所作で人数分、三人と一体の鏡の前に、丁寧に淹れたての緑茶を置いていく。


呪術師と潤花、そして風呂敷から解放された雲外鏡は、それぞれ丁寧にお辞儀をして礼を口にした。

雲外鏡は鏡面から器用に細い腕を伸ばすと、湯呑みを持ち上げて美味しそうに喉を鳴らす。

「豆餅を食べた後の、この渋い緑茶は格別やのう。魂の洗濯をしてる気分やわ。ワーッハッハ!」


ケタケタと愉快そうに笑いながら茶を味わう鏡の怪異を、潤花は呆然とした目で見つめていた。

「……ねえ、さっき食べた豆餅も、今飲んだお茶も、一体どこに消えてるのよ。それに先生も呪術師さんも、この鏡の妖怪を見ても全然驚かないし……。京都だと、こういうお化けが普通にいるのが当たり前なの?」


潤花の率直すぎる問いに、雲外鏡は茶柱が立ったのを喜びながら、鏡の体をゆらゆらと揺らした。

「加賀見神社の歴代の宮司とワイは、古くからの顔見知りやさかいのう。宮司を継承したら、ワイがこうして様子を見に来て仲良うなっていくのが、いつの間にかこの神社の伝統になっとるんやのう。鏡の社に鏡の怪異、これ以上にお似合いな組み合わせもなかろうかのう」


雲外鏡は豪快に笑い飛ばすが、潤花の思考は、別の「鏡」へと向けられていた。

「そう……それじゃあ、あの鏡。先生があの日、学校を去り際に私や隆司、あの場にいた他の子たちも順番に映した、あの古びた銅の鏡も……やっぱり、この雲外鏡みたいな妖怪だったんですか?」


潤花が震える声で尋ねると、それまで静かに茶を啜っていた鏡映の手が、ぴたりと止まった。

鏡映はゆっくりと湯呑みをテーブルに置き、潤花の目を真っ直ぐに見据えた。

「あれは別もんや。雲外鏡さんのような意思を持つ怪異やなくて、あれは純粋な、呪術用の銅鏡でな」


「呪術用の……それじゃあ、やっぱり……。」

潤花の背筋を、氷のような悪寒が走り抜けた。


「私も隆司も、あの場にいたみんなも……先生を疎ましく思ってた他の先生達まで、今みんなが滅茶苦茶な目に遭ってるのって、あの時、先生が……。」

潤花の声は次第に小さくなり、恐怖でガタガタと歯の根が合わなくなる。


対する鏡映は、一切の否定をせず、重く冷徹な事実を突きつけた。

「想像してる通りや。今、山下の周りで起こってる災いは、あの日から積み重ねられた術式が、5年の歳月を経て完成したことの証やな」


「……私たちが、先生を冤罪で陥れて、仕事も名誉も、全部奪ったから。だから、私たち全員が先生に呪われたのね……っ。」

潤花は、自らの業が招いた報いの正体を突きつけられ、膝の上で拳を握り締めた。

そのあまりにも強大な因果の重みに、呼吸をすることさえ苦しくなる。


「まあ、平たく言うと、そういうこっちゃな」

鏡映は淡々と、否定も肯定も超えた境地でそう言い放った。


すると、それまで黙ってお茶を楽しんでいた雲外鏡が、「うーん」と深く唸り声を上げた。


「何よ、お茶のおかわりが欲しいの?」

潤花が精一杯の虚勢で問いかけると、雲外鏡は鏡の体を左右に揺らし、不思議そうに首(?)をかしげる素振りを見せた。

「鏡映はんは、ほんまに呪いたかったんかいのう? ワイには、どうもそうは思えんのやがのう」


「え……?」

潤花の口から、予期せぬ言葉に呆然とした声が漏れる。


「話を聞いとったら、御嬢ちゃんも、御嬢ちゃんとつるんでた子らも、相当な悪ガキやったみたいやのう。しかも親が金持ちで、他の教師や大人は誰も手が出せんかった。そんな御嬢ちゃんたちみたいな連中を、権力に屈することなく、真正面からきっちり叱ってくれるような熱い先生がや、ただ恨みを晴らして「ざまあみろ」って言うためだけに、教え子を呪うもんかいのう?」

雲外鏡の問いかけは、静かではあったが、鋭い刃のようにその場の空気を切り裂いた。


潤花は言葉を失った。

雲外鏡の言うことは、あまりにも正論だったからだ。

あの日、去り際の鏡映が向けた鏡の光の中に、ただの憎悪だけがあったのだろうか。


潤花が縋るような思いで鏡映の顔を覗き込むと、そこには怒りも憎しみもなかった。

神職の装いに身を包んだかつての恩師は、ただ、言葉にできないほど悲しい、深い哀愁を帯びた顔で伏せ目になっていた。

その表情は、教え子を奈落へ突き落とした復讐者のものではなく、救えなかった何かを悼む、慈悲深い求道者のそれであった。


---


## 発動の鍵 ―― 5年越しの遺言


潤花の脳裏に、今はもう存在しないはずの、あの騒がしい学び舎の情景が鮮やかに蘇る。

周囲の大人が山下家の権力や財力に怯え、あるいはそれに取り入ろうと卑屈な笑みを浮かべる中で、加賀見鏡映だけは違っていた。


彼は真っ向から潤花たちの歪んだ振る舞いを叱り、その一方で、ほんの些細な善行……例えば、取り巻きに押し付けず自ら掃除用具を片付けた際などには、驚くほど真っ直ぐに、心から褒めてくれた。

もしも彼が、ただ教え子を疎ましく思い、憎悪だけで繋がるような人間だったなら、あんな風に熱を持って、自分たちに向き合うような真似はしなかっただろう。


潤花は静かに目を閉じ、あの日、彼が学校を去る間際に遺した、忘れられない言葉を口にした。

「先生は、最後にこう言ってましたよね。『今回だけは俺が泣いといたる。けど、次はないからな』……って。」


鏡映は、湯呑みを見つめたまま、低く短い息を吐いた。

「完全に忘れ去っとると思うてたけど、よう覚えとったな。その言葉が、山下の中に残っとったとは、嬉しく思うで」


「昨夜、不思議なお店で晩御飯を食べたんだけど……その時に当時の事を観る機会があって、それで思い出したんです。」

潤花はポツリポツリと、昨夜の非日常的な体験を鏡映に打ち明けた。


そして、ずっと胸に引っかかっていた疑問を投げかける。

「あれって、どういう意味だったんですか? 次は無いって……また同じような事をやったら、呪うっていう意味だったの?」


潤花が震える声で尋ねると、鏡映は悲しげな眼差しを潤花に向けた。

「……そや。あれは警告であると共に、俺の最後の願望であり、俺なりの願掛けでもあったんよ」


「願掛け……?」

潤花は首をかしげ、鏡映の真意を測りかねた。


「山下、君らがどれだけ荒れとっても、いつか自分の足で立てるようになるって、信じたかった。同じ過ちを、絶対に二度と犯さんといて欲しい……そう願って、あの一言を放ったんや。せやけど、5年経って、大藪が同じ過ちを犯しよった。よりによって、山下の親父さんにな。」

鏡映の声は、静かだが鋭い刃のように研ぎ澄まされていた。


潤花はその言葉に、心臓を直接握りつぶされるような衝撃を覚える。

「……そっか。それで、隆司がまた罪を犯した事を知った先生は、私達に呪いをかけた……。」


潤花がうなだれ、自分の運命を呪おうとしたその時であった。

これまで置物のように黙って茶を啜っていた呪術師が、音も無く湯呑みを卓に置いた。


「正確には、その隆司さんとやらが自らの手で呪いを発動させた、ちゅうところでしょうかな。」

呪術師の無機質な声が、張り詰めた客間の空気を冷たく切り裂く。


「え……?」

潤花は驚愕して呪術師を凝視したが、男の表情は相変わらずどこ吹く風といった風情で、微塵も揺るがない。


一方、鏡映の方は、図星を指されたかのように力なく苦笑いを浮かべた。

「……あなたは、どこまでお見通しなんですか。恐ろしい人やな」


「さっき、鏡映さんが『術式が完成した事の証』と仰ったのがヒントでした。鏡映さんご自身が怨念を込めて引き金を引いたのではなく、術式そのものが自動的に牙を剥いた……そう思えましてなあ。」

呪術師は淡々と、まるでIT機器のシステムエラーを解説するかのような口調で語る。


潤花は二人の会話についていけず、ただただ困惑するばかりであった。

「どういう事ですか? 隆司が呪いを発動させたって……一体、何が起こっているの?」

わけがわからず、潤花は絶望の淵で、ただ二人の顔を交互に見つめるしかなかった。


鏡の社を吹き抜ける風が、ピシリ、と窓を鳴らす。

その音は、かつての恩師が仕掛けた「最後の授業」の始まりを告げる合図のようであった。


---


## 反射する業 ―― 教育者の遺した「鏡」の正体


静まり返った客間に、呪術師の低く、温度を失った声が響き渡った。

「鏡を使った呪い……有名どころでは『ミラーボックス・鏡の箱』というもんがありますがね。鏡映さんが仕掛けはったんは、原理としてはそれと同じのとちゃいますやろか? 使うた手法は違いますが、根底にあるもんはね」

呪術師は、目の前の熱い緑茶に意識を向けることもなく、淡々と分析を口にする。


鏡映は、その言葉に僅かに目を見開き、感心したように深く頷いた。

「御名答。流石は、とんでもない実力をお持ちの解呪師さんやな。俺の小細工など、とうに見透かされとるわけや」


「ミラーボックス……?」

聞き慣れない単語に、潤花は困惑して首をかしげる。


その様子を横目に、呪術師は解説を続けた。

「これは主に防御主体の呪術でしてな。相手からの攻撃や、ドロドロとした負のエネルギー、そういった恨みやら妬みやらを跳ね返すためのもんです。言うなれば、相手が放った悪意をそのまま相手に突き返す、絶対的な拒絶の壁ですわ」


呪術師はどこまでも淡々と、まるでシステムの仕様を読み上げるかのように語り続ける。

「鏡映さんが当時使わはったんは、代々伝わる古い銅鏡でしょうから、呪力の練り方も手法も今の呪術とは比べもんにならん重みがあるでしょうが。原理としてあるんは『反射』……ただ、それだけですな」


「呪術師さんは鏡の専門やあらへんと御見受けしますが……そこまで本質をご存じとは、全く……底が知れませんね」

鏡映はフッと自嘲気味に笑い、湯呑みを両手で包み込んだ。


「知識として知っとるだけですえ。実際に僕が使こうたことは一度もおへん」

呪術師の冷徹な否定を、鏡映はどこか楽しげに聞き流し、改めて潤花へと向き直った。


「どういうことですか? 反射って……鏡で、私たちを反射したってこと?」


「山下、5年前のあの日を思い出し。俺が学校を去る際、君らをあの銅鏡に映したやろ」

鏡映の瞳が、静かに、そして鋭く潤花を射抜く。

「あの時、俺は術を仕掛けたんや。もし君らが今後、再び同じ過ちを犯したら……つまり、誰かを冤罪で陥れたり、卑怯な真似をして人をハメたりしようものなら、その悪業を『倍返し』するようにセッティングしたんや。そやから……君らが同じ罪を犯さん限り、その術式は永遠に眠ったまま、発動することなどあらへんかったんよ」


「…………!」

潤花は、息をすることさえ忘れてその言葉を飲み込んだ。


すると、横で茶を啜っていた雲外鏡が、しみじみとした、どこか物悲しい声で補足した。

「なるほどのう。ちゅうことはや、御嬢ちゃん。ここまで話を聞いたら、もうわかるやろうのう?」


「……隆司が、同じ罪を犯した。……あいつ、また、お父さんをハメるために、5年前と同じことをやった。……だから、術が発動した。鏡に映された私たちは……全員、自分たちが撒いた悪意を、鏡越しに浴びることになったってこと……。」


潤花の声は震え、膝の上で握りしめた拳が白く染まる。

復讐のために呪われたのではない。

自分たちが再び、超えてはならぬ一線を越えてしまい、再び悪意に手を染めたからこそ、鏡がそれを忠実に「反射」したのだ。


「術式が完成されたことは、手元にある銅鏡を通せばすぐにわかるからな。……正直、その知らせを受け取った時は、悲しかったで。」

鏡映は視線を落とし、絞り出すような声で続けた。

「そして同時に、俺は教育者としても失格やったって、改めて思い知らされた。情けない話やけどな」


「え……どうして? 自分の人生をメチャクチャにした教え子を、呪ったからですか?」

潤花の問いに、鏡映は首を横に振った。

「違う。万が一にも同じ過ちを犯そうものなら、その痛みをしっかりと教えるつもりでの術式なんや、俺がかけた呪術は。言うたら、悪い事した生徒を叱るための拳骨やな。叱る意味を込めたから、術式を組み込んだ事自体は、後悔しとらん。」


そして、鏡映は目を細める。


「……君らが同じ過ちを犯さんように、正しい道へ導くことができへんかったから、それがごっつ悲しかったし、悔しかった。俺の警告が届いていれば、俺がちゃんと君らに警告を届かさせておれば、君らが『人間』として踏みとどまってくれていれば、鏡の術式が発動する事はあらへんかった」


鏡映は窓の外、静まり返った神域の木々に目を向けた。


「俺の教師としての命はあの日、確かに途絶えた。けれど、どのみち長くは続けられんかったかもしれんな。教え子に正しき道を示し、その道を踏み外さんように導く事が出来ひんかった、指導力のない男やったんやから」


「…………っ!」

その言葉は、どんな罵倒よりも潤花の心を激しく打ちのめした。


自分を陥れた相手を、今もなお「救えなかった教え子」として案じ、その不徳を己の責任として背負おうとする恩師。

彼にここまでの悲しみを背負わせたのは、紛れもなく自分たちの慢心と愚かさであった。


「先生が、悪いんじゃない。先生の警告を真面目に聞くこともなく、平気で同じ過ちを繰り返した……私たちが悪いのよ。ほんと、自業自得だわ。あの店にいた女鬼さんたちの言う通り……。」

潤花の声は、深い後悔に濡れていた。

「先生に、こんな悲しい思いまでさせて……。私、どこまで……最低だったんだろう……。」


潤花の目から、一筋の涙が静かに溢れ落ち、客間のテーブルに小さな染みを作った。

かつての自分を、そして消えない罪を、ただただ真っ直ぐに嘆く、清らかな涙であった。


---


## 贖罪の誓いと、晴れゆく鏡の曇り


潤花は、絞り出すような声で再び深く頭を下げた。

「……ごめんなさい、本当に申し訳ありませんでした。」

その言葉は、昨夜から幾度となく繰り返してきたものだったが、今の潤花の言葉には、自らの内面を浄玻璃鏡で焼き尽くした後のような、一切の不純物がない響きがあった。


鏡映は、湯呑みから立ち上る湯気を静かに見つめながら、穏やかに、しかし断固とした口調で語った。

「もう、後の祭りやけどな。俺はな、山下。さっきも言うたように、君らにあの術を仕掛けたこと自体は、今でも後悔しとらんし、悪いとも思うとらんのや。かつてのお節介な教師からの、遅すぎた拳骨みたいなもんやからな。今の時代、学校でリアルに拳骨食らわせようもんなら、体罰や言うて大問題になるんやろうけど。」


潤花はうなだれたまま、かつての高校生活を思い返した。

「先生って、あの頃、一度も暴力を振るいませんでしたよね。私の勝手な振る舞いを止めるために手を掴まれたりはしたけど、一度も手を挙げなかった。……あの頃、ちゃんと先生に拳骨を喰らっていた方が、私はもっと早く人間になれていたのかも。」


暴力すら振るう価値のない生徒だと思われていたのではなく、鏡映がどこまでも教育者であろうとしていたこと。

その矜持を、自分たちが踏みにじったのだと改めて痛感する。


「そっか。」

鏡映は短く応じると、潤花の顔を覗き込むようにして、小さく微笑んだ。

「せめてもの救いは、山下がこうやって更生したことか。あの頃のトゲトゲした君とは、まるで見違えるようや。」


「更生なんて、まだ出来てません。自分を甘やかして、人を平気で傷つけてきたツケは、これから返していくんです。ちゃんと先生に心から更生したって認めて貰えるように、私はこれから、誠実に生きます。」

潤花は涙を拭い、確固たる決意を込めて鏡映の瞳を見つめ返した。

「私は、隆司を説得して……いえ、あいつが何と言おうと、5年前の冤罪について全てを一緒に公表します。先生の名誉を回復して、一生をかけて、奪ったものを償います。それが私の歩むべき『良い道』だと思っていますから。」


鏡映は、その覚悟の重さを計るように、しばしの沈黙を置いた。

「……世間から、想像もできんような集中砲火を浴びることになるで。山下家の名も、君の将来も、今の比やないほど無惨に叩かれる」


「当然のことだと思います。先生は、やってもいない罪で世間からいわれのないバッシングを受けたのに、仕掛けた側の私が平穏に逃れるなんて、ムシが良すぎますから。どんなに大きな石を投げられても、私は逃げません。」

その言葉を聞き、鏡映は憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔を浮かべた。

「そうか。山下の謝罪と覚悟、確かに受け取ったで。君のその言葉だけで、俺の5年間は報われたような気がするわ。」


重苦しかった客間の空気が、一瞬で和らいだ。


それまで静かに状況を見守っていた雲外鏡が、鏡の体を左右に揺らしながら、エールを送るように言った。

「ほな、とりあえずは仲直りかのう。御嬢ちゃんはこれから、ほんに茨の道を歩むことになるやろうけど、しっかりのう。根性据えて歩かな、すぐ転んでまうさかいのう。」


「うん、有難う、化け鏡さん。」

潤花は、その異形ながらも心優しい怪異に、本日初めての、嘘のない微笑みを向けた。


「そやから、ワイは雲外鏡やっちゅうんやのう! あ、でも化けもんの鏡やから、間違ごうてはおらんのう! ワーハッハッハ!」

雲外鏡の豪快な笑い声が、鏡の社を明るく揺らした。


呪いという名の鎖が、鏡映の赦しと潤花の懺悔によって、新たな絆へと形を変えようとしていた。


---


## 旅立ちの背中 ―― 呪いを超えた先にある光


朝の澄み切った空気が、鏡の社の翠の静寂をより一層際立たせていた。

一行は、神社の境界を示す朱塗りの鳥居まで歩みを進め、そこで足を止めた。


木漏れ日が石畳に美しい斑紋を描く中、加賀見鏡映はかつての教え子である潤花を見据え、静かに、しかし温かみのある声をかけた。

「ほな、大藪にも宜しゅうな。もしあいつも、自分と向き合う決心がついたんなら……。会いに来たいなら、いつでもここで待っとる、そう伝えてやってくれ」


「はい、有難う御座います。先生からのお言葉、必ず隆司に伝えます。それじゃあ先生、またね……っ。今度はもっと、胸を張って会いに来られるように頑張るから」


潤花は、溢れ出しそうになる涙を堪えて、力強く頷いた。

そして、隣に立つ黒衣の呪術師と、浮かんでいる鏡の怪異へも向き直る。


「呪術師さんも雲外鏡さんも、本当に有難う御座いました。お二人のおかげで、私は自分を……真実を見つけることが出来ました」

潤花は深々と頭を下げ、晴れやかな笑顔で小さく手を振りながら、参道の坂道を下っていった。


呪術師は、その小さくなっていく背中を無表情のまま見守っていたが、静かに腰を折ってお辞儀を返した。

「気を付けて帰りなはれや。御達者で」


雲外鏡もまた、鏡面から生えた手をちぎれんばかりにぶんぶんと振り回す。

「ワーッハッハ! やっと名前覚えはったのう、御嬢ちゃん。ほな、達者でのう。また鏡を覗く時は、ええ顔して覗きよしや!」


潤花の姿が完全に見えなくなったのを確認してから、呪術師は鏡映へと向き直った。

「ほな、僕は摩訶不思議食堂へ事後報告がありますさかい、これにて失礼します。雲外鏡さんも、来はるんでしたな」


「地蔵店長さんのとこの食堂、あの御出汁の香りが恋しゅうてたまらんからのう」

雲外鏡が笑いながらそう言うと。


呪術師は懐から、先程の不思議な御札を取り出してパッと宙へ放り投げた。

御札は空中で鮮やかに形を変え、柔らかな風呂敷包みとなって雲外鏡を優しく包み込む。

呪術師はそれを慣れた手つきで抱え上げ、再び腕の中に収めた。


「またまたらくちんで、有難い事やのう。これから行ったら、丁度ええ昼飯時になりそうやのう。今日は何を食べさせてくれるんやろかのう」

雲外鏡が風呂敷の中からケタケタと笑う。


その光景を眺めながら、鏡映は深く、静かにお辞儀をした。

「御二人共、ほんまに有難う御座います。山下をここまで導いてくださって、ほんに感謝申し上げます」


「こちらこそ。鏡映さんに淹れて頂いた、あの美味なる緑茶、心に沁みました。有難う御座います」

呪術師もまた、古都の礼儀に則り、静かに頭を下げた。


ふと、鏡映が茶目っ気のある苦笑いを浮かべて問いかけた。

「……それにしても。呪術師さん、ほんまに最後まで『解呪』しはりませんでしたね」


その言葉に、呪術師は表情を変えることなく、淡々と、しかし真理を突くような口調で答えた。

「今回は、解呪そのものが目的やありませんでしたさかい。それに、呪術的なことで下手に横槍を入れん方がええ案件や思いましてな。たとえ解呪するにしても、ほんまにあの御嬢さんらが事実を公表して、自ら為すべきことを為した後でも宜しいでっしゃろ」


呪術師の瞳に、人間のごうを見透かすような鋭い光が宿る。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる、と言うのが、人間っちゅう生きもんです。今ここで安易に呪いだけを取り去ってしもうたら、またいつか、同じ過ちを犯さんとも限りません。それでは、彼女のためになりませんさかいなあ」


「なるほどのう。あの御嬢ちゃんも、先生にちゃんと更生したって認めてくれるまで、真っ当に生き続ける言うてましたからのう。それを見届けてから、呪いという鎖をどうするか決めても、決して遅くはないんとちゃいますかのう」

雲外鏡の声が、風呂敷の中から重々しく同意するように響いた。


鏡映は、二人の深い慈悲に根ざした厳しさに、感服したように声を漏らした。

「……そうですね。ほんま、あなた方にはかないませんわ。俺よりもずっと、あの子たちの未来を想うてくれてはるんやな」


「それでは、また。……良い御縁を」

呪術師はそれだけを言い残すと、黒い衣を翻し、颯爽とした足取りで歩き始めた。


朝の光の中、神域の入り口を後にする呪術師の背中は、世俗の喧騒へと戻っていく一人の男のようでありながら、どこかこの世ならざる高潔な気配を纏っていた。

神社の参道に、規則正しい砂利の音だけが響き、やがてその音も、古都の日常の音の中に溶け込んで消えていった。


---


断罪の朝と、二人の誓い、病室の再会 ―― 鏡の中の真実を携えて


東京へ戻った潤花の足取りには、迷いも躊躇いもなかった。

品川駅に降り立ち、その足で向かったのは、隆司が療養を続けている都内の病院だった。

消毒液の鼻を突く匂いが漂う廊下を抜け、静まり返った個室の扉を開ける。


「……潤花?」

ベッドに力なく横たわっていた隆司が、驚きに目を見開いた。

かつての傲岸不遜な面影は消え、頬はこけ、その瞳には底知れない絶望と恐怖がへばりついている。


「隆司。……私、京都へ行って、加賀見先生に会ってきたわ」

潤花が放った言葉は、病室の静寂を鋭く切り裂いた。


隆司の身体がビクリと跳ね、繋がれたモニターから「ピッ、ピッ」と心拍数の上がる音が速く刻まれる。

「あいつに……加賀見に会ったのかよ? 冗談だろ……」


「本当よ。先生は今、京都の神社で宮司をされているわ。……ねえ、隆司。私と一緒に、ちゃんと先生にやったこと、公表しよう。それが、私達がつけるべき唯一のけじめだと思うの」


潤花の真っ直ぐな、一点の曇りもない瞳に射抜かれ、隆司は顔を歪めて首を振った。

「そんなの、今更できるわけないだろ……っ! それに、あいつが呪ったから……! あいつが俺たちを呪ったから、俺も直美もこんな目に遭ったんだ。俺は家族も、仕事も、未来も全部失ったんだぞ! 全部あいつのせいなんだ!」


隆司の声は悲鳴に近い叫びとなって室内に響いた。

しかし、潤花は怯まなかった。

それどころか、憐れむような、それでいて慈悲深い微笑みを浮かべて隆司を見つめた。


「いいえ、違うわ。今、私たちに起こっていることは自業自得でしかないのよ。隆司、思い出して。私たちはあの時、何の罪もない先生の人生を奪った。教師でありたいという先生の純粋な願いを踏みにじって、完膚なきまでに踏みつぶしたのよ。今の苦しみは、その当然の報いなの」

潤花の言葉は、冷徹なまでに事実を突きつける。

「私たちの悪意を、先生が持っていた鏡がただ反射しただけ……。呪ったのは先生じゃない。自分たちの行いそのものが、今の私たちを縛り上げているのよ」


潤花は隆司のベッドに歩み寄り、深く、静かに頭を下げた。

「お願い、隆司。一緒に、きちんと罰を受け切ろうよ。逃げるのはもう終わり。……ねえ、お願い」


「……そんなことして、罰を受けきったら……そしたら、少しはましになるかな? この地獄みたいな毎日が、マシになるっていうのかよ?」

隆司の掠れた声には、消え入りそうな希望と、深い不信が混ざり合っていた。


「そんな見返りは求めちゃいけないし、求める権利なんて私たちには一ミリもないわよ」

潤花は毅然として告げたその声には、以前のような他者を見下す響きは微塵もなかった。

「私たちに出来ること、やるべき事はただ一つ。事実をすべて公表して、先生の名誉を取り戻すこと。そして、法に裁かれ、社会に裁かれ、きちんと罰を受けること。それしかないのよ」


隆司は呆然と潤花を見つめた。

「……潤花、お前……変わったな。別人みたいだ」


「全然変わってないよ」

潤花はふっと、自嘲気味に笑った。


「本心を言うと、やっぱり怖くてたまらないもん。世間からどんな石を投げられるか、想像するだけで足が震えるわ。でも……私がどれだけ醜い人間だったかを、気付かせてくれた人たちがいてね。……あ、人じゃないかもしれないけど」

脳裏を掠めるのは、お地蔵さん笑顔の店長や、ケタケタと笑う鏡の怪異、そして無表情な呪術師の姿だった。


「とにかく、隆司。一緒に誠心誠意謝罪して、茨の道でも……嘘のない、誠実に生きる道を歩こうよ」

潤花の言葉が、隆司の閉ざされた心の深淵に、一筋の光となって差し込んでいく。


「……先生、赦してくれるかな。あんな酷いことをした俺達を」

隆司が弱々しく問いかけると、潤花はあの頃の少女のような、少しだけ悪戯っぽい微笑みを浮かべた。

「そうね……。でも、赦してもらうことを期待するより前に、まずはたっぷり叱られるくらいの覚悟はしとかないとね。先生、昔からお節介だったじゃない?」


「……はは、そうだったな」

隆司の口元に、5年ぶりに微かな、本当の笑みが浮かんだ。

外は冷たい雨が降り始めていたが、病室の空気は、長い冬の終わりを告げるような静かな決意に満たされていた。


---


## 白紙の未来へ 剥落した虚飾と贖罪の誓い―― 静寂の病室に響く、共犯者への宣告


隆司の病室を後にした潤花の足取りには、迷いも躊躇いも無かった。

病院の長い廊下を渡り、次に向かったのは、あの忌まわしい事故で両足を失い、絶望の淵で虚空を見つめている直美の病室であった。

消毒液の鼻を突く匂いが漂う静寂の中で、潤花は直美の枕元に静かに座り、濁りの無い声で、すべての真実を語り始めた。


5年前に自分と隆司が犯した、あの取り返しの付かない冤罪でっち上げの事。

そして、その因果の円環が巡り、今度は隆司と直美が共謀して、潤花の父である山下潤司を陥れようとした事。

自分達が現在進行形で味わっているこの生き地獄は、誰のせいでも無い、自分達が撒いた悪意が鏡に反射して返ってきた「業」の結果なのだと、潤花は一切の容赦無く、淡々と説いていった。

そして、自分と隆司は過去の罪を、隆司と直美は現在の罪を、すべて公にすることを静かに提案した。


「……ねえ直美さん、お互い、本当に救いようが無いくらいに愚かよね。たった一度きりの人生を、こんなに汚して、壊してしまって……」


潤花は、かつての傲慢な令嬢の面影を完全に脱ぎ捨て、自嘲気味に、しかし清々しささえ感じさせる顔で笑った。

その言葉を聞いた直美の瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。


「……うん、ほんとに。呪いって、本当にあるのね。あの日、あんなことさえしなきゃ……呪われて、こんな風に両足を失うくらいなら、あんなこと、絶対に、しなきゃよかった。潤花さん、本当に……申し訳、ありませんでした。お父様の事、そして、山下家の皆様を……家族を滅茶苦茶にしてしまった事、なんて謝ればいいか……」

直美は、シーツの下で二度と動く事の無くなった足を震わせ、嗚咽を漏らしながら何度も何度も、深く頭を下げた。

それは虚飾を剥ぎ取られた魂が放つ、むき出しの懺悔であった。


こうして三人は、協力して一本の動画を投稿し、真実を詳細に綴った特設ウェブサイトを開設した。

その瞬間、ネットの海には濁流のような悪意と罵声が溢れ出した。

「自業自得だ」「一生苦しめ」「死んで償え」という凄まじいバッシングの嵐。

マスコミや、再生数稼ぎのために人の不幸を漁るハイエナのような迷惑系動画配信者、暴露系動画の運営者達が、面白がって獲物を見つけた猛獣のように狂喜乱舞して殺到した。


しかし、潤花は決して逃げなかった。

不躾なカメラのフラッシュを浴びても、耳を劈くような罵声を浴びせられても、彼女は一人ひとりに丁寧にお辞儀をし、真摯に、そして誠実に事実を伝え続けた。

誰に対しても誠実に対応しようとするその姿には、かつての山下潤花の影は無く、地蔵店長から授かった一筋の「智慧」の光が宿っていた。


やがて、当然の結果として、三人は卒業を目前にして大学から退学処分を下された。

家柄も、将来も、約束されていた輝かしい道も、文字通りすべてが崩れ去り、目の前は「白紙」となったのである。

潤花は、大学の門を最後に潜り、高く澄み渡った空を、眩しそうに見上げた。


「……今こそ、ゼロからちゃんとやり直すんだ。過去は、どれだけ悔やんでも白紙に戻す事は出来ない。でも、この真っ白になった未来になら、誠実な人生を新しく書き込んでいける。そうでしょ、先生……」


潤花は、遠く京都の空の下にいるであろう加賀見鏡映の穏やかな笑顔を思い浮かべ、その場に立ち止まって、心に深く誓った。

冷たい風が彼女の頬を撫でたが、その足取りは、かつて無いほどに力強く、確かな足音を刻み始めていた。


---


## 出町の豆餅と精算されたごう、因果の帳尻と本殿への誘い


早朝の加賀見神社には、張り詰めたような、それでいてどこか清々しい空気が漂っていた。

宮司である加賀見鏡映は、手元の端末や新聞で、世間を騒がせている「山下潤花」と、その共犯者たちによる告白動画のニュースを静かに見つめていた。

自らの社会的地位をかなぐり捨て、凄まじいバッシングの暴風雨の中に身を投じたかつての教え子達。

その報いを受ける覚悟を知り、鏡映は深く、長く、溜息を吐き出した。


そこへ、境内の砂利を踏む規則正しい足音が聞こえてきた。

黒衣を纏った呪術師が、出町柳の名店で買い求めたばかりの豆餅を手に、紫の淵を持つ鏡の怪異・雲外鏡を伴って現れた。


「お早う御座います。朝早くから御足労願いまして、お手数おかけします」

鏡映は鳥居の近くまで出向き、丁寧な所作で二人を迎え入れ、深くお辞儀をした。


「お早う御座います、御招き有難う御座います。これ、心ばかりの土産もんですえ」

呪術師は一切の感情を排した無表情のまま、ずっしりと重みのある豆餅の包みを差し出した。


「お早うさんですやのう! 今日も京都の朝は清々しくて、気分がよろしおすのう」

雲外鏡もまた、鏡面から生えた手をひらひらとさせて、陽気に挨拶を交わす。


客間に通された一行の前には、淹れたての渋い緑茶と、包みから出されたばかりの真っ白な豆餅が並んだ。

雲外鏡は、待ちきれないといった様子で餅を頬張り、鏡の体を幸せそうに揺らした。

「出町の豆餅は、やっぱり絶品やのう。この塩気と餡の甘みの塩梅が、ほんに緑茶にも合いますのう。ワーッハッハ!」


ケタケタと笑いながら菓子を味わう怪異の横で、呪術師も静かに茶を啜る。

一息ついたところで、鏡映が静かに口を開いた。


「ニュースにもなっとりましたさかい、呪術師さんも御存じでっしゃろ。……あの子ら、本当に言うたことをやっとります」

鏡映の声には、かつての恩師としての複雑な想いが滲んでいた。


「ええ。御嬢さんはほんまに、僕らに言うた事をその通りにやらはりましたなあ。逃げずに、自ら泥の中に飛び込まはった」

呪術師は淡々と、しかし潤花の行動を肯定するように応じた。


「ほんまに、あの子は変わりました。大藪も、あんなに強情やったのに、今はほんまに反省しとる事が手元の銅鏡を通してようわかりましたで。……術式が、彼らの心根を確かに捉えたようですわ」

鏡映は、微かな微笑みを浮かべながらも、その奥にある痛ましさに眉をひそめた。


「5年越しに、鏡映さんの指導がようやく響いたんでしょうなあ。あの鏡の術式はある意味、彼らにとっての『ええ薬』にはなったんとちゃいますやろか」

呪術師の言葉はどこまでも冷徹で、真理を突いていた。


「受けた苦は、想像を絶するほど、えげつないものでしょうがね……」


鏡映は、自分が仕掛けた「倍返し」の術が、どれほど彼らを精神的にも肉体的にも追い詰めたかを想い、再び重い溜息をついた。

それに対し、呪術師は湯呑みを卓に置き、真っ直ぐに鏡映を見据えた。


「倍返しと言わはったけど、鏡映さんが5年前に受けた損失と、今回あの子らが5年越しにやらかした件を合わせたら、因果の帳尻はきっちり合っとります。僕の目から見れば、これはもう完全に『イーブン』やと思いますがね。業が一周して、ゼロに戻っただけですわ」

呪術師のその指摘に、鏡映は一瞬目を見開き、やがて憑き物が落ちたように穏やかに微笑んだ。

「確かに……そのような見方も出来ますね。呪術師さんにそう言うていただけると、少し救われる想いがします」


客間に、しばらくの間、静かな沈黙が流れた。

窓の外で風に揺れる木々の音だけが聞こえる中、鏡映は意を決したようにゆっくりと立ち上がった。


「……呪術師さん。宜しければ、当社の『本殿』、お見せしましょか」

その言葉の裏にある「覚悟」と「信頼」を、呪術師は瞬時に察した。

「では、謹んで見学させて貰います」


呪術師は、鏡映が何を為そうとしているのか、そしてなぜこのタイミングで聖域を見せようとしたのかをすべて理解した上で、表情を変えずに立ち上がった。

呪術師と雲外鏡は、静かに歩き出した鏡映の背中を追い、神域のさらに奥深く、秘められた神の居所へと黙ってついて行った。


---


## 封じられた残像 ―― 解呪の儀、始動


二人と一体の怪異は、木々のざわめきさえも畏れ多いと感じさせるほど、厳かに佇む本殿へと足を踏み入れた。

そこには、加賀見神社の御神体である荘厳なる大鏡が祀られていた。

眩いばかりの光を放つその鏡は、参拝者の魂を真っ直ぐに射抜くような威風堂々とした佇まいで鎮座している。


呪術師と雲外鏡は、古より伝わる作法に則り、鏡の神に対して静かに、そして深く挨拶を捧げた。

その礼節を見届けた後、鏡映は「こちらへ」と短く告げ、彼らをさらに神域の奥深くへと誘った。


本殿の脇にある、関係者以外立ち入り禁止の看板が掲げられた細い通路。

そこを抜けると、空気の密度が一段と増したかのような、重厚な静寂に包まれたこじんまりとした建物が現れた。

その建物――奥の院とも呼ぶべき場所に足を踏み入れた一行の視線の先。

中央の祭壇には、五年前に鏡映が潤花たちの業を映し出し、その身に焼き付けたあの「銅鏡」が、何者も寄せ付けぬ威厳を纏って鎮座していた。


鏡映は、かつての教師としての情念と、現在の宮司としての慈悲を湛えた眼差しでその鏡を見つめた。

「これが、くだんの銅鏡です」

そう静かに告げると、鏡映は銅鏡の正面に、背筋を正して正座した。


呪術師もまた、その鏡から放たれる五年の歳月が凝縮された重圧を感じ取り、頷いた。

「……歴史を観じますな。単なる呪具の域を超え、人の想いそのものが宿っとる」

呪術師が隣で同じように正座し、雲外鏡もまた、鏡の専門家としての鋭い眼差しでその隣に腰を据えた。


雲外鏡は、鏡面に映るぼんやりとした影を見つめ、しみじみと呟いた。

「確かに……。あの御嬢ちゃんたちの、あの日の姿がそのまま封じられとるようやのう。若さゆえの過ちも、傲慢も、すべてこの中に閉じ込められとるのう」


「ええ。あの時に映した子らは、今もこの鏡の中に、当時のまま残っております」

鏡映は、目を細めて懐かしむように語った。

それは復讐のためではなく、彼らを「見守り続ける」ために自らの魂の一部を削り取った者の言葉であった。


呪術師は、鏡映の覚悟を静かに受け止め、淡々とした口調で先を促した。

「ほな、いよいよ解呪して、彼らを解き放たはるんですな。……まあ、あの子ら本人は、自分が解呪されたなんて、こっちから言わん限り一生気づくことはあらへんでしょうがね」


「ええ。解呪を知るのは、ここにいる三名だけです。それで構わんのです。彼らが自分たちの足で歩き始めた今、もうこの鎖は必要ありません」

鏡映の声は、憑き物が落ちたように穏やかだった。


すると、呪術師は懐から数枚の護符を取り出すと、それを銅鏡の周囲へ、結界を張るようにして置いた。


「ほな、僕からは『器』だけ用意しましょか。解き放たれた膨大な因果の残滓が、周囲に散らばらんように受け止めるための器です」

呪術師はそう言って元の位置に戻り、再び厳かに正座した。


鏡映は、その配慮に心から感謝するように微笑んだ。

「有難う御座います、恩に切ります。ほんま、呪術師さんに来てもろて良かった。これで、何にも邪魔されることなく、つつがなく解呪が出来ますわ」


「僕としても、これほど希少な鏡にまつわる儀式を見学させていただけるのは、有難き御縁です。どうぞ、存分に為さってくだされ」

呪術師が深くお辞儀をすると、雲外鏡もそれに倣った。

「ほな、見せて貰いますかのう。加賀見神社の現当主、鏡映はんの真骨頂を」


鏡映は恭しく一礼し、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。

その手には、神職としての力が宿っている。


こうして、呪術師と雲外鏡が見守る中、鏡映は静かに印を結び、解呪の儀式を始めた。

薄暗い建物の中に、古の祝詞の響きが満ち溢れ、鎮座していた銅鏡が、まるで魂を呼び戻すかのように静かに共鳴し始めた。


---


## 鏡の浄化と、未来への足跡 ―― 誠実であらん事を


神域の奥深くに漂っていた濃密な因果の気配が、加賀見鏡映の手によって静かに、しかし鮮やかに解き放たれた。

銅鏡の奥底に澱んでいた五年前の残像は、清らかな祝詞と共に光の中へと溶け、鏡面はただの古びた銅の輝きを取り戻した。


鏡映との別れの挨拶を済ませた呪術師と雲外鏡は、静まり返った参道をゆっくりと下り、神社の境界である鳥居の辺りまで戻ってきた。


朝の清冽な空気の中に、目を引く鮮やかな色彩が二つ、待ち構えるように佇んでいた。

一人は、眩いばかりの金髪を流れるようなサイドテールに結い、雅な着物をさらりと着こなした美少女、女鬼。

もう一人は、その女鬼としっかりと手を繋ぎながら、溢れんばかりの生命力で腕をぶんぶんと振り回している、小柄で不思議な少女、えらいこっちゃ嬢。


「女鬼ちゃん、えらいこっちゃん、お早うさんですのう。無事に、加賀見の宮司さんの手で解呪が終わりましたでのう」

雲外鏡が風呂敷の中から「ぴょんっ」と器用に飛び降りて挨拶をすると、えらいこっちゃ嬢はその小さな手で雲外鏡と力強く握手を交わした。


呪術師もまた、彼女たちの前で足を止め、相変わらずの無表情を崩さぬまま丁寧にお辞儀をした。

「お早う御座います。宮司さんは見事に術式を解かはりました。これで、あの鏡に封じられていた重い鎖も、すべて解き放たれましたで」


「おはよー♪ 今回も本当にお疲れ様!これでようやく、一旦は一件落着っていったところかな」

女鬼は満足げな笑みを浮かべ、朝日に輝く金髪を揺らして二人を労った。


「えらいこっちゃな大団円! 悪いこと全部飛んでった、えらいやっちゃなハッピーエンド!」

えらいこっちゃ嬢が、全身で喜びを表現するように腕をぶんぶんと振り、その周囲にはまるで見えない花が舞うような明るい気が満ちていく。


「後は、潤花さん達がこれから先の人生において、どういう道を、どういう足取りで歩んでいくかってところだね」

女鬼がふと視線を遠くへ向け、どこか慈しむように目を細めた。


呪術師は、その視線を追うように静かに前を見据え、温度のない、しかし確かな重みのある声で語った。

「ええ。これだけの大騒動を経験し、自ら泥の中に飛び込んで真実を叫ばはったさかい。これからの人生、要所要所において、例え道を踏み外しそうになっても、今回の痛みが彼女らにとっての、一生消えん大切なブレーキになってくれますやろ」


「そうやのう。苦い思いをした分だけ、まっとうな道が尊いものに見えるはずやからのう」

雲外鏡が鏡の体を左右に揺らし、ケタケタと陽気に笑い声を上げた。

「ほな、積もる話は朝のおやつでも食べながらにしましょうかのう。さっきは出町の豆餅を頂いたし、今度は少し趣向を変えて、洋菓子がええのう」


「京都と言えばレトロ喫茶、えらいこっちゃな美味洋菓子と珈琲! えらいこっちゃな空腹具合!」

えらいこっちゃ嬢が再び腕をぶんぶんと振って賛同すると、呪術師も僅かに頷き、行き先を提示した。

「そやったら、四条まで降りてクラシックな純喫茶へ行きましょか。ステンドグラスが綺麗な、静かな所がありますさかい」


呪術師が颯爽と歩き出すと、女鬼は「おお、いいねー♪ じゃ、そこに決定!」と弾んだ声で応じ、楽しげにその後を追った。

石畳の道を歩きながら、異形と人間が混じり合った不思議な一行は、朝の光に溶け込むように街へと戻っていく。


賑やかな足音と雲外鏡の笑い声が響く中、呪術師は不意に足を止め、誰に聞かせるでもなく、静かな祈りを呟いた。

「……願わくば、生涯に渡り、誠実であらん事を切に願い奉る」


その呟きは春の風に乗り、茨の道を歩み始めた一人の女性のもとへ、確かな祝福として届いたかもしれない。

一行はそのまま、美味しい洋菓子と珈琲が待つ喫茶店を目指し、ワイワイと賑やかに古都の朝を歩んでいった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ