第21話-1節:西谷肇のパワハラを戒めるほっこり飯
## 「選ばれし者」の冷徹なる進撃、踏みにじられた正義の残滓
天空に突き刺さる、全面ガラス張りの超高層オフィスビル。
その最上階に近い一角、大手商社・通信事業部のオフィスには、外界の喧騒を遮断した静謐な重圧が満ちていた。
西谷肇は、1ミリの狂いもなくプレスされた高級なスリーピーススーツを纏い、窓の外に広がる東京の街並みを見下ろしている。
その冷徹な瞳には、眼下に広がる街も、そこで蠢く数多の人間も、すべては自らが支配し、利用するための無機質な駒としてしか映っていない。
「ふん、役員の椅子か。それも時間の問題だな。」
肇は、鏡のように磨かれたデスクに置かれた、大学生の一人娘・初菜と妻との家族写真に一瞬だけ目を向けたが、すぐにその表情から慈父の面影を消し去った。
家庭という名の安息所で見せる顔は、彼にとって完璧な社会的地位を飾るための「清潔な仮面」に過ぎないのだ。
肇の誇りの源泉は、あの地獄のような「就職氷河期」を勝ち抜いたという強烈な成功体験にある。
日本全体が経済の冷え込みに震え、同世代の若者たちが何百社という不採用通知を突きつけられて絶望の淵に沈んでいたあの頃。
彼は自らの研ぎ澄まされた才覚と、他人を蹴落とす冷酷なまでの合理性によって、この超一流企業の切符を実力でもぎ取った。
「努力が足りない連中が、非正規雇用だ、不況だ、と喚き散らす。笑わせるな。俺はあの極寒の季節に、己の力だけでこの居場所を確立したんだ。」
その歪んだ自負は、いつしか「内定を勝ち取れなかった敗北者」や「未だ非正規で燻る同世代」への強烈な蔑視へと変貌していった。
肇にとって、自分以外の人間は「価値ある勝者」か「排除すべき弱者」の二種類に大別されており、その峻烈な境界線こそが彼の正義であった。
出世の階段を一段登るごとに、肇の心には傲慢という名の猛毒が浸透していった。
部長という権力の頂点に近づくにつれ、彼は部下を人格を持った人間としてではなく、目標数字を達成するための「消耗品」として扱うようになっていく。
「お前の代わりなど、外を歩けばいくらでも転がっている。無能な分際で権利ばかり主張するな。」
そんな暴言は日常茶飯事となり、彼の周囲には常に、部下たちの静かな悲鳴と絶望が澱んでいた。
部下たちは陰で彼を「鬼の西谷」「パワハラ部長」と呼び、恐怖に震えながらその顔色を窺う日々を送っている。
しかし、肇本人は自らが「厳格な指導者」であると信じ込んでおり、自分がパワーハラスメントを行っているという自覚など、爪の先ほども持ち合わせていなかった。
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そんな中、かつて、その異常な支配体制に終止符を打とうと、決死の覚悟で人事部や経営陣に告発状を叩きつけた勇敢な部下がいた。
だが、巨大な組織が選んだのは、組織の秩序を守ることではなく、利益を出す「優秀な駒」である肇を温存することであった。
告発は巧妙にもみ消され、経営層は肇に非公式の注意を与えるどころか、逆にその「指導力」を高く評価したのである。
結果として、正義を求めた部下は「精神的に不安定」という名目で閑職へと追いやられ、冷遇の末に退職へと追い込まれた。
「結局、この会社に正義なんてものは存在しない。あるのは『誰が稼ぎ、誰が不要か』という単純な等式だけだ。」
この『勝利』こそが、肇を完全な怪物へと作り変えた。
自分は何をやっても許される、会社が盾となって守ってくれるという無敵の万能感。
その確信が、彼のパワハラ気質に翼を与え、最早誰にも止められない暴走を加速させていったのである。
そして今年も、無垢な若者たちが社会という戦場へ放たれる春が訪れた。
真新しいリクルートスーツに身を包んだ新卒の若手たちが、希望に満ちた瞳で大手商社の門を潜る。
肇が支配する通信事業部にも、数人の新人が配属されてきた。
「……ほう、今年も新鮮な『素材』が届いたか。」
肇は、オフィスのドア越しに新入社員たちの浮足立った声を聞きながら、冷たく歪んだ笑みを浮かべた。
彼らにとっての輝かしいキャリアの第一歩は、この「鬼部長」の支配する聖域において、魂を粉々に砕かれるまでのカウントダウンに他ならない。
「社会の厳しさを教えてやる。精々、数ヶ月で音を上げないことを祈るよ。」
肇は、獲物を前にした猟食者のような鋭い眼光を放ち、手元の名簿をゆっくりと、しかし執拗に眺めていた。
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##「教育」という名の蹂躙、引き裂かれた真実と若き魂の悲鳴
春の陽光がガラス張りのオフィスビルを眩しく照らす中、1週間の全体研修を終えたばかりの初々しい若者たちが、通信事業部の重厚な扉を潜った。
西谷肇が部長として君臨するこの部署に配属されたのは、期待と不安を胸に抱いた8人の新人たちであった。
その中に、唯一の女性新入社員として、おっとりとした柔和な空気を纏う真智子という大卒の女性がいた。
彼女の持つ独特の慎ましさと、競争社会には不向きな押しの弱さは、西谷肇という冷酷な捕食者にとって、格好の獲物として映るのに時間はかからなかった。
配属から数日も経たぬうちに、肇による執拗な「洗脳」と「選別」という名の猛威が、彼女一人に集中し始めた。
最初は些細な事務ミスを大声で叱責する程度であったが、わずか1週間が経過する頃には、肇の言葉はもはや指導の域を逸脱し、剥き出しの刃となって真智子の心を切り刻んだ。
「おい、真智子。こんな子供でも分かるような簡単な事が出来ないなんて、お前は一体何を学んで大学を卒業したんだ? それとも、学費をドブに捨てて遊んでいたのか?」
静まり返ったフロアに、肇の罵声が響き渡る。
「もう一度大学に行くか? いや、お前のその絶望的な頭の悪さを見るに、幼稚園からやり直すべきだな。出来が悪いどころの騒ぎじゃない、お前はこの部署の『お荷物』確定だ。」
人格を否定する言葉の暴力は留まることを知らず、ついには女性としての尊厳を汚す領域にまで踏み込んだ。
「仕事も出来なきゃ愛嬌も無い。女としても終わっているな。そんな根性で一生結婚なんて出来るわけがない。お局一直線か、さもなくば根性が無くて早々に逃げ出すのが関の山だ。」
肇の唇から放たれる呪詛のような言葉の数々に、真智子はただ震える肩を抱き、涙を堪えて俯くことしか出来なかった。
地獄のような日々の中で、同期の新人たちは自分たちがターゲットにされることを極端に恐れ、真智子から静かに距離を置き始める。
いつしか彼らは、保身のために肇へ媚びを売り、彼の不興を買わぬよう真智子を冷遇する西谷の言動に同調し、彼女を自分たちの出世のための「踏み台」にするような扱いを始めた。
だが、その沈黙と追従の渦中で、ただ一人だけ、燃えるような正義感を抱き続けた青年がいた。
都内の有名国公立大学を卒業したエリートでありながら、誰よりも優しい心を持つ式宮善喜であった。
彼はある日、肇が真智子を激しくなじろうとした瞬間、その間に割って入り彼女を庇い立てした。
その勇気ある行動は肇の逆鱗を激しく揺さぶり、善喜自身もまた真智子と共に「不適合者」としてパワハラのターゲットに指定される結果となった。
肇は狡猾にも、二人を物理的に引き離しにかかった。
当初は善喜が可能な限り真智子の近くに寄り添い、彼女に降りかかる言葉の暴力を盾となって防いでいたが、肇は二人に全く別々の、そして膨大な量の仕事を割り振ることで、直接的な接触を完全に遮断したのである。
それでも善喜は、僅かな隙を見つけては真智子に力強い言葉を送り続けた。
「真智子さん、僕はひそかに西谷部長のパワハラの記録を日記に付けているんだ。日付、時間、場所、そして彼が放った言葉のすべて。いつか必ず武器として使うために、記録を蓄積しておくんだ。だから、今は耐えて、自分を責めないでくれ。」
善喜のその言葉だけが、暗闇を彷徨う真智子の心の唯一の灯火となっていた。
しかし、運命の日は残酷な形で訪れた。
ある同期の社員が犯した重大な発注ミスを、その当人が保身のために真智子の責任として肇に報告したのである。
肇はその嘘を暴くどころか、待っていましたと言わんばかりに真智子のミスとして仕立て上げ、フロア中の社員が見守る前で、凄まじい勢いの叱責を浴びせた。
「貴様の無能さがついに会社に実害を与えたぞ! これ以上お前のようなゴミを置いておく余裕は無い!」
それを見た善喜は、すぐさま自分の手元にある仕事のログや通信記録を集め出し、真智子の無実を証明しようと肇の元へ駆け寄った。
「部長! 真智子さんのミスではありません! この記録を見てください、彼女はその時間、別の作業に従事していました!」
だが、肇はその証拠を一瞥もせず、冷笑と共に善喜を突き放した。
そればかりか、上層部に対して「真智子の不注意による重大な過失」として虚偽の報告を上げ、彼女を組織的に抹殺する手はずを整えたのである。
その翌日、極限まで張り詰めていた真智子の心身はついに限界を迎えた。
打ち合わせ中、彼女は突然顔を蒼白にしてその場に崩れ落ち、意識を失ったまま救急車で病院へと搬送された。
入社からわずか半年、希望に満ちていたはずの彼女の社会人生活は、病院のベッドの上で唐突な終焉を迎えようとしていた。
夕刻、病室を訪れた善喜に対し、真智子は青白い顔で弱々しく微笑み、声を振り絞って退職の意思を告げた。
「善喜君……ごめんなさい。私にはもう、無理……あそこに戻る勇気が、もう残っていないの。」
自分の不甲斐なさを責め、涙を流して謝る真智子の姿に、善喜の胸は張り裂けんばかりの憤りに満たされた。
善喜は真智子の冷たく震える手を優しく、しかし確かな体温を伝えるように握りしめ、静かに、そして慈愛に満ちた声で語りかけた。
「君が頭を下げることは、何一つとして無いんだよ、真智子さん。悪いのは君じゃない、君を追い詰めたあの場所と、あの男だ。今は何も考えなくていい。自分の心と体を守るために、無理をせずにゆっくりと休むんだ。」
善喜の揺るぎない肯定の言葉に、真智子は涙を拭い、長い沈黙の後に小さく頷いた。
「……うん、有難う。善喜君、本当に有難う……。でもね、善喜君も、どうか無理をしないで。あんな地獄のような場所、君ももう辞めていいと思う。君のような優しい人が、あそこで壊されていくのを見たくないの。」
窓の外で、春の終わりの風が静かに吹き抜けていた。
二人の若き魂が受けた深い傷跡は、無機質な病室の静寂の中で、静かに、しかし消えることのない痛みを刻み続けていた。
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## 潰された若き希望、屋上から消えた魂の叫び
真智子が絶望の中で戦線を離脱し、静まり返った通信事業部において、西谷肇の狂気はすべて式宮善喜へと一点集中した。
逃げ場を失った善喜に割り振られる業務量は、もはや一人の人間が処理できる限界を遥かに超え、連日のように終電までデスクにしがみつく日々が続く。
時には終電の灯火さえも逃し、静まり返ったオフィスで冷え切った夜を明かすことも珍しくはなかった。
肇が独断で設定する納期は、物理的な法則を無視するほどに短く、わずか1秒でも超過すれば、フロア全体を震わせる罵倒の嵐が彼を襲う。
「貴様の無能を、会社がいつまで看過すると思っているんだ?」
肇の冷徹な声が、善喜の削り取られた精神を執拗に突き刺した。
それでも、善喜は歯を食いしばり、泥沼のような日々を耐え続けた。
自分がここで折れてしまえば、次に配属される無垢な若者が同じ地獄を味わうことになるという、あまりにも純粋すぎる優しさ。
そして何より、幼い頃に両親を亡くした自分を、たった一人で慈しみ育ててくれた祖母、喜乃のため。
一流企業に入社した孫を誇りに思い、毎朝笑顔で送り出してくれる彼女の期待を、自らの弱さで裏切るわけにはいかなかったのだ。
「やるべきことをやり遂げるまでは、逃げるわけにはいかない。」
うつろな意識の中で、善喜はその一念だけを杖にして、崩れゆく心身を繋ぎ止めていた。
しかし、ついに限界が訪れた。
善喜は勇気を振り絞り、社内のパワハラ気質を根底から変えるべく、地獄のような日々の詳細な記録を携えて人事部や社内相談室の門を叩いた。
だが、待っていたのは救済ではなく、組織による完璧な「抹殺」の儀式であった。
肇の生み出す利益と、圧力にも耐えて会社に従順になる人員を選別する事を優先する上層部は、善喜の訴えを若者の甘えとして一蹴し、逆に彼を「組織の和を乱す異分子」として全社的な標的に仕立て上げたのである。
それからの日々は、もはや地獄という言葉ですら生ぬるいものへと変貌した。
肇からの人格否定は苛烈を極め、公衆の面前での容赦ない罵倒に加え、時には書類を叩きつけ、肩を突き飛ばすといった直接的な暴力さえも日常化した。
最愛の祖母に心配をかけまいと孤独を貫く善喜は、誰にも助けを求められぬまま、正常な思考能力を致命的なまでに失っていく。
鏡に映る自分の顔さえ認識できぬほどに心身を壊しながら、彼の魂の輪郭は音もなくすり減っていった。
そして、入社からちょうど1年が経った、ある日の事。
肇は自らが犯した巨額の計算ミスを、あろうことか善喜の過失として完璧に偽装した。
会社は善喜に対し、個人の支払い能力を絶望的に超える多額の賠償を支払うよう、逃げ場のない圧力をかける。
その瞬間、善喜の中で張り詰めていた最後の糸が、音を立ててぷつりと切れた。
昼休みの喧騒に紛れ、彼はうつろな瞳のまま階段を登り、禁じられた屋上のフェンスを越えた。
そして、眩しい春の太陽を最期に仰ぎ、若き命は冷たいアスファルトへと吸い込まれていったのである。
緊急搬送先の病院。
白く無機質な廊下に、善喜の祖母である式宮喜乃の震える足音が響いた。
変わり果てた姿で横たわる孫の前に立ち尽くし、彼女はただ、その冷たくなった手を握り締める。
つい数時間前まで、確かに鼓動を刻んでいたはずの優しい命。
真っ白なシーツに包まれた善喜の、もはや微笑むことのない横顔を前に、喜乃は子供のように声を上げ、激しく慟哭した。
その悲痛な叫びは、病院の静寂を切り裂き、奪われた命の無念を物語るようにいつまでも響き渡っていた。
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## 「沈黙の遺言」と「繋がれた勇気」、慈愛が灯す逆襲の火
式宮善喜という一人の若き命が、冷たいアスファルトの上で無残に散った。
その報せを受けた祖母・喜乃の心に渦巻いたのは、底知れぬ悲しみを超えた、会社という巨大な組織に対する凄まじいまでの不信の業火であった。
警察や会社側の説明によれば、善喜は業務上の重大な計算ミスを犯し、多額の賠償を命じられたことに絶望して自ら命を絶ったという。
しかし、喜乃はその無機質な説明を聞けば聞くほど、胸の奥でどす黒い違和感が膨れ上がるのを感じていた。
「あの子が、ミスをしたくらいで背中を向けて逃げ出すような、そんなひ弱な性根の持ち主やないことくらい、うちが一番よう知っとる。あの子の誠実さを踏みにじって、本当は一体何があったんやろか……。」
喜乃の瞳には、会社が仕立て上げた「責任逃れの自殺」という偽りの物語を見透かすような、峻烈な光が宿っていた。
そんな絶望の淵に立たされ、仏壇の前で力なく座り込んでいた喜乃の元を、一人の若い女性が訪ねてきた。
それは、かつて善喜に救われ、今は別の会社でようやく心身を回復させて再起を果たしていた真智子であった。
テレビのニュースで善喜の悲報を知った彼女は、居ても立ってもいられず、東京の静かな住宅街にある喜乃の自宅へと駆けつけた。
真智子は、仏壇に飾られた善喜の遺影――あの優しくも意志の強かった瞳――を前にした瞬間、堰を切ったように激しく、そして痛切に泣き崩れた。
「善喜君、ごめんなさい……。私をあんなに助けてくれたのに、私だけが逃げ出してしまって……。こんなことになるなら、私がもっと側にいれば……私が代わりに壊れればよかったのに……っ。」
震える声で自分を責め立て、畳を濡らすほどの涙を流して謝罪を繰り返す真智子の背中に、喜乃は静かに、しかし確かな温もりを持って、そっと手を添えた。
「真智子さんも、よう耐えた者同士やと、うちには思えるわぁ。辛かったやろ。顔を上げとおくれやす。真智子さんは何も悪うないし、謝ることなんて何ひとつあらしまへんえ。」
喜乃は、慈愛に満ちた柔らかな微笑みを浮かべ、真智子の震える背中を優しく、慈しむように何度もなでた。
そのたおやかな京言葉の響きに、凍てついていた真智子の心は僅かに解け、彼女はあの日獄のような職場で、自分たちがどのような蹂躙を受けていたのかを、震えながらも克明に語り始めた。
西谷肇という部長による、執拗で陰湿な人格否定の数々。
「女としても終わっている」「幼稚園からやり直せ」といった言葉の刃。
善喜が自分を庇い続けてくれたがゆえに、共に「お荷物」として地獄へと引きずり込まれていった過程。
そして、善喜がいつか反撃の狼煙を上げるために、日々の凄惨なパワハラの記録を日記に綴っていたこと。
「私は半年ほどではありますが、これを見てください。私があの会社でされた事を記録してあります。私も善喜君のために、御婆様と一緒に闘います。一緒に善喜君の無念をはらさせて下さい。、彼の死を、決して無駄にはさせません。」
真智子は鞄の底から、自身が西谷や周囲から受けていた、血を吐くような嫌がらせを記録した手帳を取り出し、震える手で喜乃に託した。
「ありがとう、ありがとうね、真智子さん……。あの子の孤独な闘いを、あんさんが繋いでくれたんやね。本当に、有難うねえ……。」
喜乃は涙を流しながら、真智子の細い手をしっかりと、その温もりを分かち合うように握り締め、何度も何度もお礼を繰り返した。
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真智子が帰った後、喜乃は彼女に教えられた通り、善喜の遺品が乱雑に収められた段ボールの中を、祈るような気持ちで必死に探った。
やがて、埃を被った書類の束の奥底から、数冊の重みを感じるノートが姿を現した。
表紙には善喜の几帳面な筆跡が並び、その中身には、西谷によって魂の一片一片を削り取られていった凄惨な日々の記憶が、叫び声さえ聞こえてくるような言葉でびっしりと書き込まれていた。
「〇月〇日、また皆の前で殴られた。死ねと言われた。おばあちゃん、ごめん、まだ辞められないんだ」
そんな記述を目にするたび、喜乃の心は千々に乱れ、ノートを抱きしめて嗚咽した。
日記を抱き締める喜乃の視界の端に、一つの小さな、しかし何よりも見覚えのある、色の褪せた物が映り込んだ。
それは、善喜が学生時代に「これがあれば、僕のおばあちゃんが守ってくれてる気がするんだ」と言って、片時も離さず肌身離さず持ち歩いていた、喜乃手作りのお守りであった。
ボロボロに擦り切れ、幾重もの涙と汗が染み込んだそのお守りを、喜乃は震える指先で、壊れ物を扱うようにそっと手に取った。
お守りから伝わってくるのは、絶望的な孤独の中で最後まで祖母を想い、正義を貫こうともがき続けた孫の、切なくも力強い魂の鼓動の残滓のようであった。
「善喜……堪忍え、気付くのが遅くなってしもて。こんなボロボロになるまで、ひとりで闘うてたんやねぇ……。」
喜乃は、そのお守りを胸に強く、痛いほどに押し当て、静まり返った部屋の中で誓った。
「見ておいでやす。善喜を壊した者共に、必ず報いを受けさせてあげますさかいに。」
その瞳には、穏やかな慈愛の奥に、決して揺らぐことのない断固たる決意が、静かな炎となって灯っていた。
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## 「解呪師」の覚醒と絶望の宣告、踏みにじられた魂の咆哮
式宮喜乃には、世間には決して明かしていないもう一つの顔があった。
表向きは閑静な住宅街で筆を執る穏やかな書道教室の講師であるが、その正体は、言葉に宿る霊力を操る「言霊」の類を得意とする、所謂「隠れ呪術師」の一人であった。
京都の由緒ある家系に生まれ、厳格な修練の末に呪術の奥義を極めた喜乃は、若くして最高位の呪術師である「解呪師」の称号を手にしていた。
結婚を機に東京へと移り住み、修練は続けていたので技は一切衰えていなかったものの、長くその力を封印して呪術とはおよそ無縁で平穏な余生を過ごしてきた彼女であったが、最愛の孫を奪われた理不尽が、眠っていた古の力を呼び覚まそうとしていた。
喜乃は、善喜の遺品の中から見つけ出した、あのボロボロに擦り切れた手作りのお守りを静かに祭壇へと供えた。
「善喜、あんたがこの一年、どれほどの地獄を歩いてきたんか……うちが全部、その目に焼き付けてあげますさかいな。」
喜乃が祝詞を唱え、お守りに触れた瞬間、彼女の意識は時空を超えて「過去視」の深淵へと潜り込んでいった。
そこには、西谷肇によって魂を削り取られ、深夜のオフィスで一人震える善喜の姿や、理不尽な暴力に耐え忍ぶ凄惨な光景が、鮮明な映像となって焼き付いていく。
後日、喜乃は善喜と真智子が遺した詳細な日記を携え、弁護士を伴って会社側との交渉の場に臨んだ。
しかし、会議室に居並ぶ会社側の人間や会社の顧問弁護士達は、提出された記録を一瞥しただけで、鼻で笑うような態度を隠そうともしなかった。
「式宮さん、お気持ちは分かりますが、こんな日記など今の時代、想像でいくらでも書けるものです。客観的な証拠にはなり得ませんよ。被害妄想に等しい内容ですな。」
会社側の弁護士が冷淡に言い放つと、喜乃は静かに、しかし地を這うような低い声で応えた。
「これだけやありませんよ。あんたらから受けた、善喜の酷い仕打ちの数々は……このうちの目で、しっかりと『視た』んです。嘘偽りのない、あの子の魂の叫びをな。」
その言葉を聞いた瞬間、会議室には下卑た嘲笑が渦巻いた。
「『視た』だと?現場にいないあなたが何を見たって言うんです?冗談はやめてくださいよ。お婆さん、身内を亡くしてショックなのは分かりますが、被害妄想も大概にしてください。ありもしない幻覚を証拠だと言い張るのは、少々正気を疑いますな。」
幹部たちが肩を揺らして笑う中、肇はあろうことか、さらに追い打ちをかけるような冷酷な言葉を吐き捨てたのである。
「そもそもですな、彼は未熟で心が弱すぎたんですよ。遅かれ早かれ、あれでは社会人としてやっていけない。今回のような事にならなくとも、いずれもっと取り返しのつかない失敗をして、会社に多大な迷惑をかけていたでしょうな。死んで正解だったとは言いませんが、適性が無かったのは事実だ。」
その瞬間、部屋の温度が氷点下まで急降下したかのような、凄まじい殺気が喜乃から放たれた。
長年、慈愛の心を持って生きてきた喜乃の逆鱗が、人生で最も激しく、そして決定的に打ち鳴らされたのである。
彼女の背後に、目には見えぬ巨大な怨念の影が揺らめき、額に浮き出た血管が怒りの深さを物語っていた。
「……きさんら、全員呪い殺したる! 覚悟する暇さえ与えたらんからな!」
喜乃は烈火の如き怒りの言葉で断罪の宣告を叩きつけると、椅子を蹴るようにして立ち上がり、一切の未練を捨ててその場を後にした。
肇や会社側の人間たちは、去りゆく老人の背中に向かって、負け惜しみに何か喚いていると最後まで嘲笑い続けていた。
「呪い殺すだと? まるで時代劇だな。やはりボケが始まっているのか。」
肇は不快そうにネクタイを緩め、勝利を確信したような傲慢な笑みを浮かべていた。
しかし、式宮喜乃という「解呪師」を本気で激怒させたことが、これからどれほど取り返しのつかない破滅を招くことになるのか。
この時の彼らは、目に見えぬ「言霊」の刃が、すでに彼らの首元に鋭く突き立てられていることさえも、まだ知る由もなかった。
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## 「言霊」の業火と堕ちたエリート、崩壊する偽りの聖域
式宮喜乃は東京の喧騒を離れ、古都・京都の奥深くにひっそりと佇む「言霊の社」へと足を踏み入れた。
そこは地図には決して記されず、一般の参拝客が立ち入ることも叶わない、人知れず存在する古の霊域であった。
最高位の「解呪師」である彼女が、封印していた禁忌の術式を解き放つために選んだ、因縁の場所。
「善喜、あんたを壊した連中に、きっちりとお返ししてあげますさかいな。」
喜乃が祭壇に善喜の血の滲むような日記とお守りを供え、静かに、しかし峻烈な殺気を込めて呪詛を唱え始めると、周囲の空気が凍りついたように静まり返り、やがて怨念が黒い影となって渦を巻き始めた。
呪詛の術式が発動した瞬間から、会社という巨大な組織を「死の影」が覆い尽くしていった。
まず標的となったのは、善喜の訴えを嘲笑い、肇を擁護し続けた社長や役員、そしてその家族たちであった。
原因不明の突然死が相次ぎ、ある者は真昼の路上で心臓を射抜かれたように倒れ、ある者はのたうち回って苦しんだ後、二度と目を覚まさなかった。
最初は喜乃の宣告を「老いぼれの妄想」と吐き捨てていた者たちも、あまりの異常事態に顔を蒼白にさせ、慌てて高名な僧侶や神職を呼んで御祓いに奔走したが、解呪師の頂点が放った呪詛の前では何の効果もなかった。
死を免れた者たちも、凄惨な交通事故で四肢を失う大怪我を負い、あるいは精神を病んで発狂し、一生涯を拭い去れぬ後遺症と苦痛の中で過ごすという「生き地獄」が確定した者も少なからずいた。
この一連の怪死事件は、瞬く間に世間の耳目を集め、ネット上では「過労自殺した若者の呪いではないか」という噂が急速に広まり始めた。
「あんなに立派な青年を追い詰めた報いだ」「会社が組織ぐるみで隠蔽していたツケが回ってきたんだ」
世論の風当たりがかつてないほど強まる中、それに呼応するかのように、かつての被害者たちが次々と声を上げ始めた。
真智子を中心に、数年前にパワハラを訴えて不当に閑職へ追いやられた元社員たちが、肇や会社の悪行を告発。
事態の収拾に窮した上層部は、ついに長年守り続けてきた「優秀な駒」である西谷肇に全ての責任を擦り付けたうえで切り捨てる決断を下した。
「西谷部長、君がパワハラをしたことが一連の元凶であることは明白だ。会社としてもこれ以上の庇護は不可能であり、本日付で懲戒解雇とする。」
会議室で突きつけられた非情な通告に、肇は耳を疑い、椅子から転げ落ちそうになった。
「待ってください! 私は会社のために尽くしてきた! あなた方も私のやり方を認めていたじゃないですか!」
必死に縋り付く肇であったが、かつての「手厚い保護」はどこにもなく、そこにはトカゲの尻尾切りを完遂しようとする冷徹な視線しかなかった。
役員就任を目前に控え、絶対的な権力者として君臨していた男は、わずかばかりの退職金と共に、誇りとしていた大手商社の肩書きも、社会的な居場所も、一瞬にしてすべてを失った。
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しかし、不幸の連鎖は、それだけに留まらなかった。
西谷肇と言うトカゲのしっぽを切り取った後も、会社に関わる者達の不幸の連鎖は止まらず、次々と絶命する者や一生涯の生き地獄が確定する者達が続出する。
更にネット社会の闇は、地に堕ちたエリートを執拗に追い詰め、西谷の実名、顔写真、そして自宅の住所までもが白日の下に晒された。
「パワハラ殺人鬼の家はここか!」
連日、マスコミのカメラや再生数を稼ごうとする迷惑系配信者たちが自宅を包囲し、深夜まで怒号と罵声が鳴り響く。
就職活動の真っ最中であった一人娘の初菜は、父の不祥事によってすべての内定を取り消され、大学に行くことさえ叶わなくなった。
かつての輝きを失い、絶望の中でみるみる衰弱していく娘の姿を目の当たりにしながらも、肇の心には未だに「反省」の二文字は存在しなかった。
「……なんで、俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ。俺は選ばれた人間のはずだ。これは何かの間違いだ……。」
荒れ果てたリビングで、肇は震える手で頭を抱え、ただひたすらに自己弁護の言葉を繰り返していた。
自分に踏みにじられ、屋上から飛び降りた善喜の絶望。
その苦しみを一秒たりとも想像することなく、肇は自らを「運の悪い被害者」であると信じ込み、出口のない闇の中で、ただただ無様に震え続けていた。
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## 「古都」の静寂と二人の守護者、呪縛を断つ夜明けの護符
連日、西谷家の自宅を取り囲んでいたマスコミや、再生数のために倫理を捨てた迷惑系配信者たちの狂騒。
深夜から早朝にかけての僅かな時間だけは、その薄汚れた熱狂も一時的に引き、住宅街には死んだような静寂が訪れる。
その隙を突き、フードを深く被った初菜は、震える手で玄関の鍵を開けて外へと滑り出した。
父・肇の犯した罪の余波によって、かつての煌びやかな生活は見る影もなく崩壊し、彼女の精神は限界まで磨り減っていた。
どこへ行く当てもなかったが、ただこの場所から遠くへ逃げたいという本能だけに突き動かされ、彼女は始発の新幹線へと滑り込んだ。
新幹線の自由席には、まだ数人しか乗客の姿はなく、車内には乾燥した無機質な空気が流れている。
ある時から、初菜の眠りを執拗に侵食し続けている「悪夢」――あの屋上から飛び降りたという、見知らぬ青年の幻影。
睡魔に抗えず微睡みに落ちた彼女は、またしても暗闇の中で、静かに微笑みながら奈落へと堕ちていく青年の姿を視た。
「……ああっ!」
悲鳴と共に跳ね起きた時、窓の外には見慣れた、しかしどこか異質な重みを湛えた古都の風景が広がっていた。
列車は丁度、京都駅のホームへと滑り込むところであった。
導かれるように京都駅で降りた初菜は、朝靄に包まれた駅周辺を、亡霊のようにあてもなく歩き続けた。
ふと目に留まったのは、街の喧騒の中にひっそりと佇む古い神社であった。
何かに縋りたい、この悪夢を止めてほしいという切実な願いを胸に、彼女は震える手で賽銭を投げ入れ、深く頭を下げて祈りを捧げた。
だが、お参りを終えて神社を去ろうと振り返った瞬間、初菜の喉は恐怖で凍りついた。
そこには、毎晩の夢に現れ、自分を暗闇へと誘うあの名も知らぬ青年が、透き通るような姿で立っていたのである。
「……いやあっ!」
短い悲鳴が境内に響き渡り、初菜はそのまま、糸が切れた人形のように意識を失って倒れ込んだ。
すると、静寂を切り裂いた悲鳴を聞きつけ、一人の人物が別方向から足早に近づいてきた。
綺麗に切り揃えられた短い黒髪に、浄土宗の僧侶が纏う格調高い法衣と袈裟を身に包んだ若き女性。
その美貌は、見る者の魂を根源から吸い寄せ、一瞬にして浄化してしまうのではないかと思わせるほど、超絶美少女と呼ぶに相応しい神々しさを放っている。
彼女は倒れた初菜の傍らに膝をつくと、手際よくその容態を確認し始めた。
すると、もう一人の人物、黒一色のコートとシャツ、機能的なカーゴパンツに身を包んだ40代後半の男が、影のように歩いて来る。
端正な顔立ちをしながらも、その身に纏う雰囲気はあまりに静謐で、現世の理から一線を画したような浮世離れした存在感を放っていた。
「お早う御座います、御住職。休日の早朝散歩をしてましたら、悲鳴が聞こえましたさかい、様子見に来たんですが……なるほど、これは少々、訳ありのようですなあ。」
男性は鋭い眼差しで初菜の全身を、あるいは彼女に憑りついている「見えぬ力」を観察し始めた。
女性僧侶は、男に向けて小さく頷いた。
「お早う御座います、呪術師さん。気を失っていますが、幸い頭は打っていないようですし、外傷もありません。ですが、この気配は……。このまま放っておくわけにもいきませんね。一旦、私の寺院へ運びましょう。」
「ほな、私がお連れします。」
男はそう短く応じると、初菜の身体に触れる直前、スッと懐から古びた御札を取り出した。
それを彼女の右肩にそっと貼り付けた瞬間、男は無表情のまま、わずかに目を見開く。
「おや、穏やかやあらしまへんな。」
男の表情に微かな驚きと敬意が混じり合う。
「……これはまた、えらい高位の解呪師さんですなあ。相当な念が込められとる。何やら御事情がおありのようですが、今だけは『一時的遮断』を堪忍しとおくれやす。」
男は京言葉を低く響かせながら、別の呪符を今度は左肩へと貼り付けた。
すると、初菜を苛んでいた禍々しい冷気が僅かに和らぎ、意識を失ったままの彼女の強張っていた表情が微かに緩んだ。
男は初菜を壊れ物を扱うようにそっと抱き上げると、超絶的な美貌を持つ女性僧侶と共に、白く煙る早朝の京都を静かに歩き出し、彼女を救うための「聖域」へと向かったのだった。
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## 聖域の客間と「とばっちり」の真実、菩薩の慈愛に守られし一刻
早朝の冷気を孕んだ空気が、静まり返った寺院の境内に沈殿していた。
呪術師と女性住職の二人は、境内で倒れた初菜の姿を認めたその瞬間、彼女の細い肩に纏わりつく「異常な気配」を、一目見ただけであっさりと看破していた。
それは、並の祈祷師では太刀打ちできないほどの、深淵から湧き出した執念。
その身を包む黒い霧は、彼女自身の罪ではなく、血脈や因縁を辿って流れ込んできた不吉な余波そのものであった。
このまま放置しておけば、彼女の魂は内側から蝕まれ、二度と現世の光の中へは戻れなくなるだろう。
事態の深刻さを瞬時に悟った二人は、一刻も早い保護が必要だと判断し、呪術師が初菜をその逞しい腕で静かに抱き上げ、住職の寺院へと運び込んだ。
寺院の客間に運び込まれた初菜は、丁寧に敷かれた清潔な布団の上に横たえられた。
呪術師が施した「一時的遮断」の呪符と寺院と言う聖域が外からの怨念を退け、部屋には沈香の微かな香りと、古き木造建築特有の静謐な重みが満ちていた。
やがて、初菜の睫毛が僅かに震え、重い瞼がゆっくりと持ち上がる。
視界に飛び込んできたのは、見たこともない古風な意匠の天井と、柔らかな朝の光であった。
「……ん、ここは……」
霞む意識の中で彼女が傍らに視線を向けると、そこには二人の人物が静かに佇んでいた。
一人は、まるで菩薩が慈悲の微笑みを浮かべて下界を見守っているかのような、息を呑むほどに美しい女性僧侶。
そしてもう一人は、影のように寄り添い、一切の感情を排した無表情で彼女を見つめる、40代半ばから後半と思われる黒一色の装束に身を包んだ男性。
「お早う御座います。御気分は如何ですか?」
女性僧侶が、鈴の音のように清らかな声で初菜に語りかけた。
その眼差しからは、凍てついた心を溶かすような温かな慈愛が溢れ出しており、初菜は戸惑いながらも上体をゆっくりと起こした。
「私……あの、もしかして、気を失ってたとか? お坊さんの格好してるから、お坊さんですよね? じゃあ、ここはお寺? なんにせよ、助けてくれて有難う御座います。」
困惑を隠しきれないまま、それでも初菜は自らを救ってくれた二人に、深々と頭を下げた。
しかし、安堵の直後に襲ってきたのは、現実という名の重苦しい沈黙であった。
「えっと……気分は、最悪です。嫌な事ばかり立て続けに起こって……。それに最近、ずっと眠るのが怖くて……さっきも、あの神社で、見たこともない若い男性の霊が見えて……。」
初菜の瞳から、堪えていた大粒の涙がポロポロと布団を濡らした。
執拗に追いかけてくる悪夢と見知らぬ男性の姿、父の不祥事、そして自分の身に起きている不可解な現象。
「私は……私は呪われてるんでしょうか?」
彼女は自らの不運に押し潰されるように、思わず口にして、弱々しくうなだれた。
「直接呪われてるわけやのうて、お嬢さんはとばっちり受けとるだけです。」
その悲痛な叫びに対し、黒衣の呪術師が無表情のまま、淡々と事実を告げた。
その言葉は冷酷に聞こえるが、そこには一切の誇張も欺瞞もない、真理のみが含まれていた。
「え?」
初菜は驚きに目を見開き、涙に濡れた顔を上げた。
自分が何かをしたわけではない、ただ誰かの「怒り」の飛沫を浴びているだけだという言葉は、彼女にとって救いであると同時に、更なる混迷を招くものであった。
「現段階で我々が言えることは、それくらいです。このお寺さんに寄せてもろてる間は心配する事はあらしませんから、一旦は安心してもろて宜しゅおす。」
呪術師は微動だにせず、しかしその声の響きには、どんな邪悪な存在もこの「聖域」には踏み込ませないという、絶対的な自信が宿っていた。
「そう、ですか……。」
初菜は、その言葉に僅かばかりの安らぎを見出し、小さく頷くことしかできなかった。
未だに混沌とした状況ではあるが、この美しき僧侶と、謎めいた呪術師に守られているという事実が、彼女の疲弊しきった魂を僅かに支えていた。
女性住職は、彼女の心の動揺を汲み取るように、一層柔らかな笑顔を向けた。
「御茶を入れますね。その間に、ご家族へご無事である事を伝えられると良いでしょう。貴女を心配している方々がいらっしゃるでしょうから。」
そう言い残すと、女性住職は静かな足取りで席を立ち、初菜を労わるための茶の準備へと向かった。
呪術師と女性住職は、彼女に纏わりつく呪詛を今すぐに解こうとはしなかった。
高位の「解呪師」による凄まじい念が込められた術は、無理に解こうとすれば、受け皿である彼女自身を破壊しかねない。
今はただ、外の世界から切り離されたこの寺で、傷ついた彼女を保護し、その心身を休ませることが最善である。
二人は、沈黙という名の結界で初菜を守りながら、彼女が自らの足で再び立ち上がるための時間を、静かに提供し始めた。
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## 「無自覚な怪物」への宣戦布告、古都に響く不気味な産声
澱んだ空気が漂う寺院の客間で、初菜は女性住職の静かな言葉に従い、震える指先でスマートフォンの画面を叩いた。
『家にいたくないから新幹線に乗ったら居眠りしちゃって、気が付いたら京都まで来てた。心配ないから』と短く、最低限の事実だけを記したメッセージを肇へと送信する。
送信完了の表示を見つめる初菜の瞳には、安堵よりも、これから起こるであろう波乱への怯えが色濃く滲んでいた。
一方、東京の自宅では、西谷肇と妻が愛娘の失踪という未曾有の事態に、正気を失わんばかりに狼狽していた。
かつての輝かしい栄光は剥がれ落ち、四面楚歌の状況で唯一の心の拠り所であった娘まで失う恐怖に、肇の心は千々に乱れていた。
だが、手元のスマートフォンが短く震え、初菜からのメッセージが画面に躍った瞬間、肇は憑き物が落ちたように大きく息を吐き出した。
「京都……京都にいたのか、初菜は。ああ、良かった、無事だったんだな。」
肇は焦燥感に突き動かされるように、家の周りにいる人達が少なくなる頃合いを見計らって、玄関先に群がるマスコミや迷惑系配信者たちの包囲網を、なりふり構わず振り切った。
罵声とフラッシュの嵐を背に受けながら、彼は逃げるように新幹線へと飛び乗り、一路、娘が待つ京都へと向かう。
夕闇が古都の路地を侵食し、街灯が一つ、また一つと孤独な光を灯し始めた頃。
京都駅に降り立った肇は、待ち合わせ場所も決めぬまま、重い足取りで駅周辺を彷徨い始めた。
ふと、視界の端に古びた神社の鳥居が目に留まる。
「……初菜を見つけるために、神頼みでもしておくか。」
かつては神仏など「非科学的な弱者の慰め」と切り捨てていた肇であったが、今の彼は藁にも縋りたい一心で境内の奥へと進み、賽銭を投げ入れて深く頭を下げた。
参拝を終え、何か重荷が取れたような錯覚に浸りながら肇が振り返った、その時であった。
そこには、夕闇の静寂を切り裂くように、一人の奇妙な少女が立っていた。
長い銀髪を夜風に揺らし、黒いベレー帽にズボンタイプの黒いセーラー服という、時代錯誤ながらも洗練された装い。
零れ落ちそうなほどに真っ向から自分を見つめる丸い瞳と、どこか無機質な台形の形に開かれた独特な口元。
少女は微動だにせず肇の魂の奥底を覗き込むような眼差しを向け、抑揚のない声で一言、呟いた。
「……えらいこっちゃ。」
肇は、心臓を直接掴まれたような衝撃に、思わず声を漏らした。
「え? ……あ、ああ、驚いた。君もお参りに来たのかな? 俺はもう参拝し終わったから、どうぞ。場所を空けるよ。」
場にそぐわぬ少女の存在感に気圧されながらも、肇は努めて紳士的に振る舞おうと言葉を返した。
しかし、少女は動く気配すら見せず、唐突に自己紹介を始める。
「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんて呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や。」
「え? ああ、そ、そうか。えらいこっちゃ嬢、えらいこっちゃん……変わった名前だね。それで、えらいこっちゃんも参拝するのかい?」
肇の問いかけに対し、少女の瞳の奥に、言葉では言い表せぬほど冷徹で、かつ慈悲深い光が宿る。
そして彼女は肇の顔を真っ直ぐに指差すと、逃げ場のない断罪の言葉をびしりと吐き捨てた。
「無自覚パワハラおっちゃん、えらいこっちゃ。」
肇は雷に打たれたように目を見開き、あまりの無礼さと的を射た言葉に言葉を失った。
「え……? 何だ、君は……! 何を根拠にそんな失礼なことを……!」
肇の反論が口を衝いて出るよりも早く、えらいこっちゃ嬢は深く息を吸い込み、その小さな身体からは想像もつかないほどの肺活量で、夜の境内を震わせる咆哮を上げた。
「えらいこっちゃーーー!!!!!!」
その叫びは、肇がこれまで積み上げてきた欺瞞と傲慢、そして彼が踏みにじってきた数多の魂の絶叫を代弁するかのように、鼓膜を、そして魂を激しく揺さぶった。
肇は耳を塞ぎ、あまりの音圧に足をもつれさせて後ずさった。
不気味な少女の叫びが止まぬ中、肇は自らが足を踏み入れた場所が、もはや現実の理が通用しない「審判の場」であることを、本能的に悟り始めたのであった。
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## 炎の片輪車と異界への拉致、狂騒の牛車は闇を裂く
不意に放たれた、えらいこっちゃ嬢の鼓膜を震わせる咆哮に、肇は心臓を素手で掴まれたような衝撃を覚え、その場に凍りつく。
「な、なんだ突然……! どうしたんだ、一体何が起きている!?」
肇が困惑と恐怖に顔を歪め、後ずさりしながら叫んだその時、夕闇に沈みかけた京都の街並みを切り裂いて、異様な熱気と光がこちらへと猛スピードで接近してきた。
神社の参道の向こう、家々の屋根を焦がさんばかりに赤々と燃え盛る何かが、物理法則を無視した挙動で宙を滑るように突き進んでくる。
瞬く間に肇の眼前にその姿を現したのは、平安の世から迷い込んだかのような、漆黒の漆塗りが施された巨大な牛車であった。
しかし、それは単なる古の乗り物ではなく、片方の車輪だけが猛烈な勢いで炎を噴き上げ、まるで現代のレーシングカーのように「魔改造」された歪な姿を晒している。
驚くべきことに、本来の牛車には存在しないはずの近代的な「運転席」が前面に取り付けられており、そこには計器類が不気味な光を放っていた。
「はいよー、お待たせしましたー。ええタイミングやねぇ。」
運転席の窓がスッと下ろされ、中から一人の女性が顔を覗かせた。
黒い着物を艶やかに着こなし、腰まで届く長い黒髪を後ろでゆったりと束ね、頭には小洒落たベレー帽を被っている。
見る者を惑わすような妖艶な美貌を誇るその女性は、肇の戦慄など露ほども気にする様子はなく、親しみやすささえ感じさせる満面の笑顔でひらひらと手を振ってみせた。
肇がその光景に口を半開きにして硬直していると、牛車の側面にある重厚な客席の扉が、意志を持っているかのようにバタンと勢いよく跳ね上がった。
「……っ!?」
逃げようとした肇の腕を、えらいこっちゃ嬢がその小さな外見からは想像もつかない、万力のような凄まじい力で掴み取った。
少女は肇の巨体を軽々と宙に浮かせると、そのまま車内へと強引に放り込み、自らも素早くその隣へと陣取った。
あれよあれよという間に異形の牛車へと押し込められた肇は、豪華絢爛ながらもどこか墓石のような冷たさを感じさせる車内で、ガタガタと歯の根を鳴らした。
「う、うわあ!? なんだこれは、降ろしてくれ! 誘拐だ、警察を呼ぶぞ!」
肇が必死に扉を叩こうとしたその時、座席の下にある暗がりから、白く細長い「手」がにゅーっと音もなく伸びてきた。
その手は人間のものにしては節々が長く、爪は貝殻のように鋭く磨かれており、掌には「お勘定」と墨書きされた古い木札がぶら下がっている。
「ひいっ!? な、何だこれは! 手……なのか!? 生きているのか!?」
パニックに陥る肇を余所に、白い手は催促するように指を折り曲げ、小刻みに木札を揺らしてみせた。
「お勘定って……運賃を取るのか? こんな化け物みたいな乗り物で……。」
肇は震える手で財布を探り、逃げ出したい一心で千円札を取り出すと、それを恐る恐る白い手の上に置いた。
札を受け取った手は、満足げに指をくねらせると、再び暗闇の中へと滑るように引っ込んでいった。
「準備万端! えらいこっちゃなパワハラおっちゃん御一名様、ご案内ー! 行き先は『摩訶不思議食堂』!」
えらいこっちゃ嬢が車内で元気に手をぶんぶんと振り回し、景気の良い声を張り上げる。
「はいよー。ほな、出発しまっせー。舌噛まんように気ぃつけなはれやー♪」
運転席の着物美人が豪快にアクセルを踏み込むと、牛車は生き物のような咆哮を上げ、片輪の炎を一際激しく燃え上がらせた。
ドン、という背中を叩くような衝撃と共に、牛車は重力を無視して猛烈な加速を開始する。
神社の鳥居が、京都の家並みが、瞬く間に光の帯となって後方へと過ぎ去っていく。
肇は座席に深々と沈み込み、現実感を喪失したまま、ハイスピードで異界の闇を疾走する「方輪車」の激しい振動に身を任せるしかなかった。
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## 「異界の暖簾」と「消失した肩書き」、慈悲の微笑みが迎える黄昏の客席
猛烈な勢いで異界の闇を切り裂いていた方輪車の轟音が、ふと、低く唸るような余韻を残して減速し始めた。
流れる景色が次第に輪郭を取り戻し、炎を噴き上げていた車輪が静かにその回転を止めた場所は、古都の喧騒を遠く離れた、清冽な空気に満ちた聖域とも言える空間の入り口であった。
見ると、時代から取り残されたかのような、しかしどこか神聖な輝きを放つ端正な木造の建物が佇んでいる。
カシャン、と小気味よい音を立てて牛車の客席の扉が開くと、そこには現実と幻想の境界線が淡く揺らめいていた。
「方輪車ねえちゃん、ありがとちゃん! えらいこっちゃな安全運転!」
えらいこっちゃ嬢は、軽やかな身のこなしでぴょんっと地面に飛び降りると、運転席に向かって元気よく手を振った。
肇が腰を抜かしたまま、這い出すようにして牛車を降りると、運転席の窓がスッと下ろされ、あの着物美人が再び艶やかな微笑みを浮かべた。
「毎度ありー。ほな、うちはこれで失礼しまっせ。……おっちゃん、あんまり無理しなや、ほなねー。」
窓が閉まったかと思うと、牛車は生き物のような加速で闇の向こうへと消え去り、後には静寂と、微かに残る白檀のような香りが漂うばかりであった。
肇は呆然と立ち尽くし、目の前の建物を見上げた。
そこには、年季の入った木の看板に、力強くも温かみのある筆致で「摩訶不思議食堂」と記されている。
「ここは……食堂か? 和風レストランか何かなのか……?」
首をかしげ、周囲を見回す肇であったが、逃げ出す隙も与えぬ速さで、えらいこっちゃ嬢が再びその小さな手で彼のコートの袖を力一杯引っ張る。
抗う間もなく店の扉が開かれ、肇は吸い込まれるようにして暖簾を潜った。
「えらいこっちゃなパワハラおっちゃん、御一名様ご案内ー!」
店内に入ると、そこには外見からは想像もつかないほど広々とした、どこか懐かしくも荘厳な空間が広がっていた。
えらいこっちゃ嬢は、迷いのない足取りでカウンター席を指し示すと、そのまま「地蔵店長ー、えらいこっちゃな御客さん連れてきた!」と叫びながら、奥の厨房へと姿を消していった。
肇は促されるまま、年季の入った一枚板のカウンター席に、重い腰を下ろした。
「……あの子、俺のことを『パワハラおっちゃん』なんて呼んて……一体、何なんだここは。俺をどうしようというんだ……。」
独り言のように呟いた肇の言葉が、店の静寂に虚しく溶けていく。
その時、カウンターの奥の暗がりから、音もなく「ぬうっ」と、巨大な影が姿を現した。
肇が息を呑んで凝視すると、そこには、見る者の魂を根源から解き放つような、慈愛に満ちた「お地蔵さん笑顔」を浮かべた人物が立っていた。
その顔立ちは文字通り、道端で人々の苦しみを見守り続けてきた石仏のように穏やかで、一瞥しただけで肇の荒んだ心に、雫のような静かな波紋を広げた。
「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。そして、御客様。ようこそ、いらっしゃいまし。」
その声は、春の陽だまりのように温かく、しかし揺るぎない芯の強さを感じさせる響きを持っていた。
「私はこの店の店長を務めさせて頂いております。皆さんは、親しみを込めて『地蔵店長』と呼んで下さいます。」
地蔵店長は、肇の瞳を真っ直ぐに見つめると、優しく合掌し、静かに深々とお辞儀をした。
「は、はあ。……地蔵、店長……ですか。俺は……。」
肇は、染み付いた習慣から懐の名刺入れに手を伸ばそうとしたが、ふと動きを止めた。
かつて自分を武装していた「大手商社の部長」という重厚な肩書きも、部下を支配していた絶大な権力も、今はもう、塵のような価値もないことに気づいたからである。
「俺は、西谷です。西谷肇です。俺はもう、名刺を出す意味もない、部長でも何でもない男なんです。」
自嘲的な笑みを浮かべ、うつむきながら絞り出したその自己紹介には、プライドを粉々に砕かれた一人の男の、剥き出しの絶望が滲んでいた。
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## 「社食」という名の追憶、消えた威厳と塩鮭の香り
カウンターの奥で静かに佇む地蔵店長は、肇の自嘲気味な言葉を否定も肯定もせず、ただ春の陽だまりのような微笑みを湛えていた。
「西谷さん……肇さんと仰るのですね。部長職を務めていらっしゃいましたか。」
その声は、現世の荒波をすべて浄化してしまうかのような、穏やかな慈悲に満ちている。
「ええ、まあ。……それも、今はもう昔の話ですがね。この前リストラ……解雇されてしまいまして。今の私には、守るべき部下も、座るべき椅子もありませんよ。」
肇は力なく笑い、自らの空っぽになった両手を見つめた。
かつてあれほど誇りに思い、他人を見下すための武器にしていた肩書きが、今では砂のように指の間から零れ落ちていく。
そんな重苦しい空気の中、いつの間にかベレー帽はそのままに、黒い作務衣に真っ白な割烹着を纏ったえらいこっちゃ嬢が、肇の傍らに立っていた。
彼女は小さな手で、古びた、しかし手入れの行き届いた御品書きのようなものをスッと差し出す。
「……お品書き、か。有難う。」
肇がそれを受け取り、ゆっくりと頁を開くと、そこには達筆な墨書きでたった一行、こう記されていた。
『社食の和定食』
「社食……? この店は、どこかの会社と提携している食堂なのか? それとも、誰かの福利厚生で運営されているのか?」
肇は不思議そうに首をかしげた。
だが、その「和定食」という質素な響きに、彼は心の奥底を優しく撫でられるような、奇妙な懐かしさを覚えずにはいられなかった。
肇の脳裏に、かつて勤めていた大手商社の巨大な社員食堂の光景が、鮮明な色彩を伴って蘇る。
昼時になれば、彼は決まって「和定食」のレーンに並んでいた。
日替わりの焼き鮭や、脂の乗った鰤の煮付け、あるいは揚げたてのアジフライ。
それらに、ふっくらと炊き上がった御飯と、出汁の効いた味噌汁、そして小皿の漬物が付いた、何の変哲もない、しかし確かな満足感のある定番の和食。
役員候補として恐れられていた肇の周囲には、食事を共にする仲間や同僚、ましてや心を通わせる部下など一人もいなかった。
彼はいつも、食堂の最も端にある壁際の席に一人で座り、ただ黙々と、冷めていく和定食を口に運んでいたのだ。
「懐かしい……なんて言うほど、大昔の事じゃないはずなんだがな。もう二度と、あの社食を食べることもないと思っていたけれど……。」
肇は独り言のように呟き、自らの孤独だった黄金時代を、和定食のイメージに重ね合わせた。
「……それじゃあ、この和定食をお願いするよ。鮭とアジフライの組み合わせで。」
肇は、かつての自分が無意識に選んでいた「いつもの味」を、縋るような思いで注文した。
御品書きをえらいこっちゃ嬢に返すと、彼女はそれを小脇に抱え、満面の笑みで厨房に向かって声を張り上げた。
「鮭とアジフライの和定食一丁! 猫子さんの焼き鮭と土鍋御飯、ラビさんのアジフライ、えらいこっちゃな絶品定食!」
えらいこっちゃ嬢は、ダンスでも踊るかのように手をぶんぶんと振りながら、活気溢れる足取りで厨房の奥へと消えていく。
肇は、その賑やかな背中を見送りながら、これから供される「社食」が、自らの乾ききった魂にどのような味をもたらすのか、期待と不安の混じり合った不思議な高揚感を感じていた。
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## 異形の厨房と黄金の御膳、忘却の「いただきます」を求めて
肇は、えらいこっちゃ嬢が口にした「猫子さん」や「ラビさん」という、まるでお伽噺から抜け出したような可愛らしい名前に思わず耳を疑った。
あまりに現実離れした店内の空気に押されるようにして、彼は気付かぬうちにカウンター越しに身を乗り出し、厨房の中を覗き込んで見ると。
そこには、これまで合理性と効率性のみを追求してきた彼のエリート人生では決して遭遇することのなかった、世にも奇妙で不可思議な光景が広がっていた。
紅い着物に真っ白な割烹着を纏い、猫耳が収まるように工夫された三角巾を付けた女性が、炭火の上で鮭を丁寧に返している。
その横顔は穏やかで、三角巾からぴょこんと飛び出した黒い猫耳がピクピクと動き、時折楽しげに喉を鳴らしているようにも見えた。
そのすぐ隣では、桃色の着物に割烹着を着た、常に糸のように細い目で猫口笑顔を浮かべた兎の女性料理人が、流れるような手付きでアジの開きに衣をつけていた。
彼女は長い耳を邪魔にならないよう器用にピンっと立てながら、熱した油の中へアジを滑り込ませると、軽やかな音と共に立ち昇る香ばしい湯気の中で、黄金色の花を咲かせていたのである。
「な、なんだ……!? あれは、人間なのか? それとも……」
肇は言葉を失い、自分の目を疑うように何度も瞬きを繰り返した。
二人の異形の料理人たちは、肇の驚愕などどこ吹く風といった様子で、鼻歌を交えながら阿吽の呼吸で調理を進めていく。
エリートとして走り続け、挙句の果てに奈落へ突き落とされた最近の心労のあまり、ついに自分は幻覚を見るほど発狂してしまったのではないか。
肇は冷や汗を流しながら、こめかみを押さえて激しく狼狽する。
しかし、立ち昇る油の弾ける音や、鮭の焼ける芳醇な香りは、幻覚にしてはあまりに鮮烈で、五感を強烈に刺激した。
やがて、えらいこっちゃ嬢が大きなお盆を器用に抱え、迷いのない足取りで肇の前にやってきた。
彼女は音を立てることなく、磁器の触れ合う繊細な響きと共に、出来立ての和食を丁寧に肇の目の前へと供え置いた。
そこには、皮目がパリッと焼き上げられた美しい紅色の鮭と、荒めの衣が芸術的なまでに狐色に揚がった、熱々のアジフライが鎮座していた。
脇には千切りキャベツと瑞々しい胡瓜が添えられ、その横には、粒の一つひとつが真珠のように輝く炊き立ての土鍋御飯が鎮座している。
豆腐とわかめ、そして刻み葱が浮いた味噌汁からは、極上の出汁の香りが立ち昇り、彩りとして添えられた沢庵と紫色の柴漬けが、完璧な「和」の色彩を完成させていた。
「是は……美味そうだ。」
料理の圧倒的な存在感に、肇の喉が自然と鳴り、その瞳に微かな輝きが宿った。
箸を手に取ろうとしたその時、彼は自分をじーっと見つめ続けるえらいこっちゃ嬢の、逸らしようのない強い視線に気づいた。
少女は微動だにせず、ただ真っ直ぐに肇を見つめると、促すようにサッと自らの小さな手を胸の前で合わせ、合掌の仕草をしてみせる。
「あ、ああ、そうだな。……いただきます。」
肇は、独りで食べていた頃にはとうに忘れていたその儀式を、少女の圧力に押されるようにしてぎこちなく再現した。
彼が深く合掌し、「いただきます」と呟いたのを見届けると、えらいこっちゃ嬢はどこか満足げに小さく頷いた。
彼女はそのまま、踊るような足取りで再び厨房の奥へと戻っていき、肇の前には、湯気を立てる至高の御膳と、それを静かに見守る地蔵店長の眼差しだけが残された。
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## 「絶品」が解かす心の凍土、土鍋の湯気と黄金の衣
立ち昇る芳醇な香りに誘われるまま、肇はまず、黄金色に輝く焼き鮭へと箸を伸ばした。
一切れの鮭に箸を沈めれば、皮目は小気味よい音を立てて弾け、中からはうっすらと脂の乗った美しい紅色の身が顔を覗かせる。
一口含んだ瞬間、肇の瞳は驚きに大きく見開かれた。
中までしっかりと火が通っていながらも、パサつきなど微塵もなく、ホクホクとした柔らかな鮭独特の濃密な旨味が口内いっぱいに優しく広がっていく。
苦い焦げ付きは一切なく、それでいて皮の部分はパリッと香ばしく焼き上げられており、噛み締めるたびに溢れ出す滋味深い味わいに、肇の強張っていた頬は自然と緩み、気づけば「ほっこり」とした穏やかな顔になっていた。
続いて彼が箸を向けたのは、荒めの衣が芸術的なまでに狐色に揚がったアジフライであった。
サクッ、という軽快な音が静かな店内に響き、その衣の中から湯気と共に現れたのは、これまた驚くほどホクホクとした美味なるアジの身であった。
「鮭もアジフライも、どっちも絶品だ。……あの立派なビルにあった、大手商社の社食とは比べ物にならないな。」
肇は、思わず独り言のようにほっこりとした感想を漏らした。
かつて無機質な空間で、ただ腹を満たすためだけに胃に流し込んでいたあの食事とは、注がれた手間も愛情も、そして魂の在り方さえもが根本から違っていると感じる。
これほどのおかずがあれば、御飯も相当に進むだろう。
そう確信した肇は、白磁の茶碗にこんもりと盛られた御飯を一口頬張った。
すると、またしても想像を絶する絶品ぶりに、彼は言葉を失う。
「なんという甘みだ……。最高級の米を使っているのか、これだけで何杯でもおかわりできそうだ。」
粒の一つひとつが立ち、口の中で解けるたびに豊かな香りが鼻を抜けていく。
あまりの美味さに肇がほっこりとした笑顔を浮かべていると、厨房の仕切りからひょっこりと、猫耳の料理人・猫子が顔を出した。
「土鍋でじっくり炊かせてもろてます。お米の機嫌を伺いながら、火加減を調節するのがコツなんですわぁ。」
猫子は、柔和な猫口笑顔でそう応えると、満足げに喉を鳴らして再び厨房の奥へと引っ込んでいった。
「土鍋で丁寧に炊き込まれた御飯か。……そりゃあ、美味いわけだ。」
肇は再び訪れたほっこりとした余韻に浸りながら、今度は味噌汁を啜った。
豆腐とわかめという定番の具材でありながら、出汁の深みが体の芯まで染み渡り、疲弊しきった臓腑を優しく洗い流していく。
添えられた沢庵も柴漬けも、塩加減が絶妙で御飯の甘みを一際引き立てており、さらに添えられたキャベツや胡瓜の千切りからは、大地の生命力を感じるような瑞々しい新鮮さがダイレクトに伝わってきた。
一連の騒動が始まり、世間から石を投げられ、自らの居場所を奪われてからというもの、肇にはゆっくりと美味しい料理を味わう余裕など一秒たりともなかった。
常に背後に迫る視線に怯え、後悔と自己弁護の狭間で泥のような日々を過ごしてきた彼にとって、この一口、一噛みは、失われかけていた人間としての感覚を繋ぎ止める聖域のようなものであった。
肇は、目の前に並ぶ「社食」という名の至高の献立を前に、ただ黙々と、しかし心の底から感謝を噛み締めるようにして、この贅沢でほっこりとした時間を余すことなく味わい尽くしていた。
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## ――静寂の甘味と「二つの豆餅」、溶けゆく意地と緑茶の雫
至福の和定食を最後の一粒、最後の一滴まで完食した肇は、深い充足感と共に箸を置いた。
ふと視線を感じて顔を上げると、そこには案の定、えらいこっちゃ嬢が微動だにせず彼を凝視している。
その無垢でいて全てを見透かすような瞳に促されるように、肇は自然と背筋を伸ばし、両手を合わせて深く頭を下げた。
「……御馳走様でした。」
その言葉を聞き届けると、少女はどこか満足げな気配を纏い、空いた皿の乗ったお盆を音もなく、しかし流れるような所作で下げて厨房へと戻っていった。
だが、静寂が訪れたのも束の間、彼女は再び何らかの御品書きらしきものを手に、肇の傍らへと歩み寄ってきた。
「……ん? まだ何かあるのか。」
肇が差し出された頁をめくると、そこには不思議な品名が墨書きされていた。
『柔らか豆餅とパワー豆餅のセット』
「柔らか豆餅と……パワー豆餅? なんだか妙な組み合わせだが、これは食後のデザートということかな。」
肇は首をかしげながらも、これほどの名料理を出す店が勧めるものならと、御品書きを返して注文を託した。
えらいこっちゃ嬢が厨房へ消えてから、待たされる間もなく、盆に乗せられた二つの小ぶりな豆餅と、立ち昇る湯気が美しい緑茶が運ばれてきた。
「ああ、有難う。……ほう、これはまた対照的な見た目だな。」
肇は目の前に並んだ二つの餅を興味深く眺めた。
一つは、京都の歴史ある名店に並んでいるかのような、粉を纏った白く柔らかな質感が伝わってくる正統派の豆餅。
対してもう一つは、同じ豆餅の形をしていながら、妙に表面がツヤツヤと光り輝き、どこか過剰なまでの存在感を放っていた。
肇はまず、無難で馴染みのある、柔らかそうな方の豆餅へと指を伸ばした。
持ち上げた瞬間に指が沈み込むほど餅は瑞々しく、口へ運べばほんのりとした米本来の甘みが優しく広がっていく。
餅の中に埋め込まれた黒豆は、それ自体が選りすぐりの逸品であることを証明するように、絶妙な塩梅で炊き上げられ、噛むほどに豊かな旨味を放っていた。
さらに中に包まれた漉し餡は、舌の上でさらりと溶けるほど繊細で、しつこさは一切感じさせない気品溢れる甘さであった。
「これはいい。食後のデザートには、これ以上ない最高の豆餅だ。」
肇は、極上の甘味がもたらす安らぎに目尻を下げ、完全に「ほっこり」とした心持ちで顔をほころばせた。
彼は熱い緑茶を一口啜り、茶葉の爽やかな苦みで口中を清めると、再び上品な味わいの豆餅を慈しむように楽しみ始めた。
失った地位や、外を取り囲むマスコミの喧騒、そして自分を追い詰めた過去の過ちさえも、この一瞬だけは霧の向こうへと消えていく。
しかし、肇はまだ気づいていなかった。
もう一つの、不自然なまでに光り輝く「パワー豆餅」が、どのような意図でそこに並べられているのかを。
彼は穏やかな時の流れに身を任せ、ただひたすらに、目の前の甘美なひとときを味わい尽くしていた。
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## 牙を剥く自業自得の甘味、断罪の扉が開く時
肇は喉の奥を洗い流すような、僅かに渋みの勝ち勝った緑茶を最後の一口まで飲み干すと、盆の上に残されたもう一つの「パワー豆餅」へと視線を落とした。
それは先程の、指が沈み込むような瑞々しい餅とは対照的に、どこか不自然なまでの光沢を放ち、サイズも一回り、いや二回りほど小ぶりで、大福というよりは少し大粒の飴玉のように見えた。
「……さて、こちらはどんな趣向かな。」
摘まみ上げれば、カツンと乾いた硬質な音が響き、その感触だけで、これが到底「餅」と呼べるような柔らかい代物ではないことが伝わってくる。
恐る恐る口へと運び、奥歯で一噛みしようとしたその瞬間、肇はあまりの硬さに「……っ!?」と顔を顰めた。
それは餅の粘りなど微塵もなく、まるで川底で磨き抜かれた小石を噛まされたかのような頑強さで、不用意に力を込めれば自分の歯の方が砕け散るのではないかという戦慄が走った。
「何だこりゃ、全然歯が立たないよ。これが餅だなんて、冗談にも程がある。」
肇は渋い顔をして吐き出そうかとも思ったが、その飴玉にも似たサイズ感から、口の中で転がして溶かすのが正解なのだろうと思い直し、飴玉を嗜むようにして口の端へと追い遣った。
口の中で、からころ……からころ……と、奇妙に乾いた音を立てて転がる豆餅。
肇は舌の上でそれを転がしながら、唾液で僅かずつ溶けていく感覚を楽しもうとしたが、次第に口内の粘膜に違和感が走り始めた。
段々と小さくなっていく気がして、肇は豆餅の形をした飴玉なのだろうと思い、そのまま口の中で転がしていくと、事態は思わぬ方向へと変化し始めた。
段々と豆の部分らしきところが尖り出して、食べられない程ではないが、ちょっとちくちくしたりと落ち着かない刺激が肇を苛む。
「全く……豆餅の形をした飴玉なんて珍しいが、舐めていくとこんなに鋭くなるものなのか。」
やっとのことでその刺すような不快感も薄れ、塊が消え失せようとするところで、彼は口直しに再び熱い緑茶を啜った。
「豆餅の形をした飴玉って珍しいけど、舐めていくと鋭くなっていくんだな。まあ、時々溶け方によって鋭くなって、いつの間にか舌を切ったりする事もあるから、これは気を付けないといけないな。」
肇は、自分の不用意な言葉で誰かの心を切り裂いてきた過去など思い出しもしない様子で、飴の特性を分析するようにして、どこか他人事のように笑った。
するとその時。
肇の様子を、底知れぬ深淵を覗き込むような瞳でじっと見つめていたえらいこっちゃ嬢が、静寂を切り裂くような冷徹な一言を放った。
「……まさに自分の鋭さでパワハラ自爆してしまいよった、パワハラおっちゃんそのもの。えらいこっちゃ。」
「え……?」
肇は、飴の欠片を飲み込みかけたまま、目を見開いて硬直した。
彼女が何を言わんとしているのか、その真意を咀嚼する暇さえ与えられぬままでいると、絶妙なタイミングで店の入口から響きが漏れた。
カランコロン……。
夜の静寂を静かに、しかし断固たる意志を持って押し開くような、乾いた音が店内に響き渡る。
肇が反射的に首を巡らせたその先、摩訶不思議食堂の重厚な木の扉が、ゆっくりと、何者かの手によって開かれようとしていた。
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## 黄金の瞳と断罪の目録、鬼の少女が運ぶ「因果」の包み
摩訶不思議食堂の重厚な木の扉が、静かな夜の空気を震わせてゆっくりと開かれた。
カランコロン、という乾いた音が店内に波紋のように広がり、肇が反射的にそちらへ視線を向けた瞬間、彼は言葉を失い、ただ目を見開いて硬直するしかなかった。
そこには、この世のものとは思えない圧倒的な美貌と、それ以上に異様な存在感を放つ一人の少女が入店していた。
燃えるような金色の瞳に、額の左右からは漆黒の輝きを放つ二本の鎌状の角が、夜気を切り裂くようにして生え出ている。
長く波打つ金色の髪をシュシュで左側に寄せ、サイドテールに束ねた彼女の姿は、一見すると現代の流行を追うギャルのようであったが、その身に纏うのは黒地に金色の花の刺繍が贅沢にあしらわれた、息を呑むほどに美しい着物であった。
女子高生ほどの若々しい瑞々しさと、数千年の時を刻んだかのような深淵な威厳が奇妙に同居する超絶美少女。
彼女の手には、何かが重々しく収められているであろう、落ち着いた柄の風呂敷包みが大切そうに抱えられていた。
「女鬼さん、いらっしゃいまし。御疲れ様で御座います。」
カウンターの奥で、地蔵店長がお地蔵さん笑顔を浮かべ、穏やかに合掌しながら深々とお辞儀をした。
「女鬼ねえちゃん、御疲れちゃん! 流石のえらいこっちゃなベストタイミング!」
厨房から顔を出したえらいこっちゃ嬢も、弾けるような笑顔で両腕をぶんぶんと振り回し、その場に相応しい陽気な挨拶を投げかける。
女鬼と呼ばれた鬼の美少女は、その黄金色の瞳を悪戯っぽく輝かせ、軽やかなギャルの仕草で二人に応えた。
「地蔵店長、えらいこっちゃん、おつー♪ 今日もよろー♪」
パチン、と景気の良い音を立ててウインクを飛ばす彼女の所作は、どこまでも陽気で砕けていたが、一歩一歩カウンターへ近づくその足運びは、決して足音を立てず、洗練された静謐な美しさを湛えている。
そして女鬼は、あっけに取られて見惚れている肇のすぐ隣まで来ると、その類い稀なる美貌に微かな嘲笑を滲ませ、カウンターのテーブルに風呂敷包みを音もなく置いた。
「……豆餅で、口の中は切れなかったみたいだねー。よかったじゃん。」
「え? あ、ああ……うん。なかなか鋭かったけどね、あの飴玉。……えっと、君は一体、誰なんだ?」
肇は、先程の「パワー豆餅」の衝撃と、目の前の非現実的な少女の存在感に翻弄されながら、喉の奥から絞り出すようにして問い返した。
「あーし? 見たまんまだよ。あーしは鬼だし♪」
女鬼は鈴を転がすような声で笑い、自分のサイドテールを指先で弄ぶ。
「鬼って……その角はカチューシャじゃないのか? ハロウィンとかでよく見る、あの手の小道具だろ。よく出来ているとは思うがな。」
肇は、自らの常識という名の細い糸を必死に手繰り寄せ、彼女の正体を理性で否定しようと試みた。
「あはは! まあ確かに、娑婆だとハロウィンで鬼のコスプレしてる人も結構いるらしいよねー。パワハラおっちゃんの娘さんも、去年辺りにやってたりして。」
「……え?」
女鬼の口から飛び出した、あまりにも具体的な「家族」という単語に、肇の心臓が大きく跳ね上がった。
「俺は君に娘がいるなんて話した事ないよな? そもそも今日、ここで初めて会ったのに、なんで俺に娘がいるって知ってるんだ?」
肇の問いに、女鬼は黄金色の瞳を細め、冷徹なまでの光をその奥に宿した。
「家族構成だけじゃないよ、あーしが知ってる事は。……あんたがこれまで、どんな悪業をなしてきたのかも、バッチリ記録されてっからね。全部筒抜けだし。」
女鬼の言葉は、これまでの陽気なトーンを完全に消し去り、逃げ場のない断罪の宣告となって肇の魂を射抜いた。
彼女はそのまま、カウンターに置いた風呂敷包みに、そっと、しかし抗いようのない意志を込めて、白い指先を添える。
その包みの中に、一体何が封じられているのか。
肇は、自らの過去という名の怪物が、今まさに目の前で目覚めようとしている戦慄に、ただ息を殺すしかなかった。
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## 「過去帳」が暴く密室の醜行、逃げ場なき断罪の宣告
西谷肇が凍りついたような表情で見守る中、女鬼は細くしなやかな指先を使い、芸術的なほど美しい所作でカウンターの上の風呂敷包みを解いた。
色鮮やかな布が左右に開かれると、そこには善喜や真智子が命を削る思いで書き連ねた数冊のノートが重なり、その一番上に、古めかしい和紙で仕立てられた一冊の折本が鎮座していた。
表紙には重厚な墨書きで「過去帳写し:西谷肇」と記されており、その文字を目にした瞬間、肇の背筋に氷柱を叩きつけられたような旋律が走る。
「過去帳……過去帳って、確か、亡くなった方の戒名や命日を記しておく、あの……。まさか、俺はもう……」
肇の顔から血の気が引き、ガタガタと歯の根が合わぬ音を立てるのを見て、女鬼は可笑しそうに口角を吊り上げた。
「あはは、そんなにビビんないでよ。別に今すぐこの場でパワハラおっちゃんの命を取ろうってわけじゃないからさ。そこんとこは安心していいよ、今のうちはね。」
女鬼はサイドテールの髪を指でくるくると弄びながら、事も無げに続けた。
「でもね、ここにはパワハラおっちゃんの人生の全部、あんたがこれまで何を積み上げてきたかってことが、一文字の狂いもなく克明に書かれてんの。それこそ、今日のお昼ご飯は買い置きのカップラーメンを奥さんと啜ってたとか、そんなプライベートな事までバッチリ♪」
女鬼が茶目っ気たっぷりにウインクを一つ飛ばした瞬間、肇の心臓は激しく脈打った。
自分の生活の細部、誰にも見られていないはずの夫婦の情景までが完全に筒抜けになっているという事実に、彼は底知れぬ恐怖と剥き出しの羞恥心に晒される。
「そんで、パワハラおっちゃんが、なんでえらいこっちゃんから、そしてあーしからも『パワハラおっちゃん』って呼ばれてんのか……その理由となる悪行の数々も、ここに全部バッチリ記録されてっからね。」
「パワハラって……。確かに世間ではそう言われているし、解雇の理由も形式上はそうだった。だがな、俺の若い頃はもっと過酷だったんだ! 理不尽な怒号や鉄拳制裁の中で、俺は必死に食らいついて這い上がってきたんだ! それを今の軟弱な連中の基準で裁かれるのは納得がいかん!」
肇は震える声を振り絞り、自らの正当性を主張するために、過去という名の泥沼から言い訳を必死に手繰り寄せた。
しかし、女鬼はその浅はかな反論を、黄金色の瞳で冷たく射抜いた。
「へぇー、そんじゃあ聞くけどさぁ。真智子さんだっけ、あんたの元部下の人。あの人に、あんた何て言った? 『お前なんか結婚できない』とか、『女として終わってる』とか散々吐かして、挙句の果てに二人きりになった時にはさ、逃げ場のないのをいいことに体べたべた触ってたよね。ねえ、パワハラおっちゃんも、若い頃にそんなことされて這い上がってきたん? もっと過酷だったんだから、おっちゃんは上司に『結婚できないぞ』って言われながら体触られて、それをバネにして部長にまでなったんだよね? そうなんでしょ?」
女鬼は首をかしげ、無垢な少女のような仕草で、しかしその中身は猛毒を孕んだ問いを肇に突きつけた。
「え……? な、なんでそれを……」
肇は言葉を失い、額から滝のような脂汗を流した。
誰にも見られていない、証拠など残っていないと確信していた密室でのセクハラ行為。
真智子の尊厳を徹底的に踏みにじり、己の歪んだ支配欲を満たしていたあの醜い瞬間を、まるでその場で見ていたかのように言い当てられ、彼は文字通り震え上がる。
「これってさー、奥さんに知られたらどうなるんだろうねー。そんで、娘さんは初菜さんだっけ? もしお父さんのこんな裏の顔を知ったら『お父さんキモイ』とか『信じられない』とか言われて、それこそ一瞬で絶交されちゃうかもねー。一生、顔も見てもらえないかもよ?」
女鬼の口から放たれた言葉は、肇にとって最も守りたかった「清潔な家庭」という名の仮面を無慈悲に引き剥がす、鋭利な刃であった。
「そ、それは……」
肇は口ごもる事しか出来ない。
「パワハラ部長でセクハラ部長とか、部下になった人はたまったもんじゃないよね。今風に言うとさ、『上司ガチャ大爆死』ってやつ? ま、もう部長じゃないから、今はただのパワハラおっちゃんでセクハラおっちゃんでしかないけど。」
女鬼は淡々と、しかし容赦なく肇の存在そのものを貶める言葉を並べ立てた。
そして、女鬼はそれまでの軽薄なトーンを完全に捨て去り、その黄金色の瞳に昏い焔を宿して肇を正面から射抜いた。
「クビにされたのは当然の報いでしかなくて自業自得。だけどさ、勘違いしないでよね。クビになったからって、それで罪が消えるなんて思ったら大間違いだし。あんたが壊した魂と命の重さは、職を失った程度で帳消しになるほど軽くねえんだよ。」
女鬼の眼差しは、冷酷な執行人の如く鋭く、肇の逃げ道を完全に封鎖していた。
カウンターに添えられた彼女の白い手は、開かれた過去帳がこれから肇に与えるであろう、真の地獄へのカウントダウンを告げているかのようであった。
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## ――水面に揺らめく「業」の深淵、鬼神の咆哮と戦慄の告解
西谷肇が己の罪の重さに言葉を失い、喉を鳴らすことさえできずに硬直していると、厨房からえらいこっちゃ嬢が再び姿を現した。
彼女はその小さな体躯には不釣り合いなほど巨大な、深紅の漆が塗られた大盃を恭しく掲げ、もう片方の手には無機質な炭酸水の瓶を携えている。
軽やかな身のこなしで椅子にぴょんっと飛び乗った彼女は、肇の目の前にその大盃を置くと、炭酸水の瓶を傍らの女鬼へと手渡し、期待に満ちた顔を上げた。
女鬼は「ありがと♪」と短く応じ、えらいこっちゃ嬢の頭を慈しむように撫でてから、茶目っ気たっぷりにウインクを一つ飛ばした。
そして彼女は目を見張るほど洗練された美しい所作で炭酸水の瓶を開けると、大盃へと透明な液体を丁寧に、かつ淀みなく注ぎ込んでいく。
シュワシュワと弾ける気泡が盃を満たした頃、彼女は水面に向かって、魔力を込めるように「パチンっ」と指を鳴らした。
その瞬間、無機質なはずの気泡がゆらゆらと不気味に揺らめき始め、澄み切った水面に鮮明な光景が映し出された。
そこには、西谷肇がこれまでエリートとしての地位を築き上げる過程で踏みにじってきた、凄惨なパワーハラスメントの目録が克明に刻まれていた。
かつて勇気を持って組織の歪みを人事部へ申告し、その正義感ゆえに肇の卑劣な根回しによって閑職へ追いやられ、やがて退職へと追い込まれた部下の、絶望に染まった横顔が映る。
さらには真智子に対して半年に渡り執拗に繰り返した、卑猥で陰湿なセクハラまがいの暴言や、逃げ場を奪うような卑劣な振る舞いの数々。
そして善喜に対し、1年以上という果てしない月日をかけてその尊厳を徹底的に嬲り、精神を限界まで削り殺した地獄のような日々が、当時の音や空気感さえ伴って生々しく再現されていく。
そして、肇が自らの致命的なミスを善喜へと一方的に押し付け、狼狽する彼をフロア中の面前で激しく叱責し、冷酷に賠償請求を突きつけたあの決定的な場面。
やがて水面は、善喜の命の灯火を消し去る最後の一押しとなった、最悪の瞬間を映し出した。
画面の中の肇は、泣き崩れそうになっている善喜に対し、勝ち誇ったような冷笑を浮かべながら信じがたい呪詛を吐き捨てていたのである。
「死んで詫びて保険金か何かで金を作って支払うんだな。ま、お前にそんな根性も甲斐性も価値もないか」
その残忍な嘲笑と、光を完全に失った善喜の瞳が重なった瞬間、肇はあまりの恐ろしさと生理的な嫌悪感に耐えきれず、咄嗟に盃から眼を逸らそうとした。
しかし、その卑怯な逃避を許さぬ、地を這うような低い声が、摩訶不思議食堂の空気を一瞬で氷結させた。
「……なに、眼、逸らそうとしてんの?」
肇が反射的に声の主を見上げると、そこには先程までの天真爛漫なギャルの笑顔を完全に消し去った、戦慄すべき鬼の姿が立っていた。
額の左右に生えた二本の角の根元には、怒りのあまりに青筋が浮き出し、その黄金色の瞳は暗闇を切り裂くような凶々しい光を放っている。
漆黒の着物の袖を激しく翻し、圧倒的な威圧感を持って仁王立ちするその姿は、文字通り現世に顕現した鬼の形相であった。
「過去の過ちから、眼を逸らしていいとでも思ってんの? あんたが殺したあの子は、最期までその薄汚れた邪悪過ぎる汚らしい眼から逃げられなかったんだよ?」
逃げ場を失った肇の魂を射抜くように、女鬼の黄金の眼光が一層強く輝く。
「言葉一つで人の命を摘み取っておきながら、自分だけは綺麗なままでいたいなんて、そんな虫のいい話が通ると思ってんの?いいから眼を逸らさず黙って見続けなよ。あんたがどれだけ醜くて、どれだけ下劣なことをしてきたのか。一秒も、一瞬も瞬きせずに、その腐った根性に焼き付けな」
肇が「ひぇ!?」と情けない声をあげた瞬間。
「己の悪業から目を逸らしてんじゃないよ!!」
女鬼の咆哮は物理的な衝撃を伴って、静まり返った店内の空気を激しく震わせた。
雷鳴の如き咆哮が、肇のプライドを、欺瞞を、そして魂を根底から粉砕した。
肇は悲鳴を上げることさえ許されず、肺を押し潰すような重圧の下で、ただ黙って盃に映し出される自らの醜く、逃れようのない現実を見続けるしかない。
その頬を、恐怖と後悔が入り混じった脂汗が、一筋、また一筋と伝い落ちていった。
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## ――封じられた救済と奪われた理性、逃げ場なき「殺人者」の刻印
炭酸水が揺らめく盃の水面には、善喜が絶望の果てに自ら命を絶った後の、余りにも醜悪な光景が映し出されていた。
そこには、最愛の孫を失い、悲しみの淵で必死に真相を求める式宮喜乃を、冷酷にあしらう肇と会社側の役員たちの姿があった。
喜乃が絞り出すような声で放った「呪い殺してやる」という魂の絶叫。
それを「耄碌婆の非科学的な負け惜しみ」と切り捨て、鼻で笑いながら背を向ける自分の姿を、肇は吐き気を催すような嫌悪感と共に凝視させられた。
やがて、水面の映像は霧が晴れるように消え、ただの透明な水へと戻っていく。
静まり返った店内で、肇は激しい眩暈に襲われながら、自らの醜態を脳裏に焼き付けていた。
客観的に観れば、そこにあったのは指導などという言葉では到底正当化できない、パワーハラスメントとセクハラの極致。
中には明白な暴行や、傷害事件として立件されてもおかしくない非道な悪行の数々が、紛れもない事実としてそこにあった。
「確かに、酷い姿だ……。客観的に観て、悪い事をしていたと、自分でも思える……。」
肇は絞り出すような声でそう漏らし、深い後悔に沈むように頭を抱えてうなだれた。
しかし、その様子を冷ややかに見つめていた女鬼は、心底呆れ果てたというように鼻で笑い、大きな溜息を吐いた。
「客観視出来てるとは思えないけどねー。ほんとにわかってんのかねえ。」
「流石に、こんなものを見せつけられたら、嫌でもわかるよ。俺が悪かった事は認めるし、今では部下達に対して、本当に申し訳ない事をしたと思う。でも……。」
肇はそこで言葉を切り、喉の奥に詰まった「言い訳」を、無意識のうちに吐露してしまった。
「……だからと言って、何も死ぬ事……死ぬまでのことはなかったんじゃないか……。」
「は?」
その瞬間、店内の空気が文字通り凍りついた。
女鬼の口から漏れたのは、先程の怒声よりも遥かに鋭く、命を凍らせるほどの怒気がこもった声であった。
「パワハラおっちゃんさあ、やっぱなんもわかってないじゃん。え、何? 自分は善喜さんの死について、直接手を下してないから無関係とでも思ってんの?死ぬまで追い詰めておきながら、『死ぬ事はなかった』って、何それ?」
女鬼は椅子を蹴るような勢いで立ち上がると、再び額に青筋を立て、黄金の瞳を怒りで燃え上がらせて肇の顔面に詰め寄った。
「善喜さんを殺したのって、間違いなくおっちゃんだし、これ観ても全然わかんなかった? あのさあ、善喜さんに自分の致命的なミスをなすりつけた挙句、死ねって言ってる時点で、おっちゃんが彼の死の決定的な要因になってんじゃんよ。おわかり?」
肇は、目の前に迫る鬼の形相の迫力に腰を抜かし、「ひえ……っ!?」と情けない悲鳴を上げて後ずさった。
しかし、女鬼の追及は止まらない。
その眼光は一層激しく輝き、肇の逃げ道を徹底的に塞いでいく。
「もしかして、『だったら誰かに相談したら良かった』とか思ってる? 善喜さんは既に、上層部とかコンプライアンス相談窓口とかに、勇気を出して相談してんじゃん。それを握りつぶして、踏みにじったのはどこのどいつらさ?」
女鬼の言葉は、正論という名の鋭利な刃となって肇の良心を切り刻んだ。
「大体、1年以上もこんなことされ続けたら、そりゃ正常な判断とか、思考能力を奪われちゃってても不思議じゃないよね。極限状態まで追い込んで、最後にとどめを刺したのは誰か、今の映像観たら一目瞭然だよね?」
肇は最早、反論の言葉を何一つ見つけられなかった。
女鬼の指摘は、彼が「自分は殺していない」という最後の逃げ場にしていた卑怯な論理を、根底から粉砕したのである。
「これ以上、頭悪過ぎる見苦しい保身のための言い訳する? 言っとくけど、その一言一言が全部『罪』としてカウントされっから。これ以上、悪業を積み上げたいわけ?」
容赦なく言い放たれた女鬼の宣告に、肇はただ震え上がり、脂汗を流しながら沈黙するしかなかった。
自分が手にかけた命の重さと、それを否定しようとした自らの卑劣さが、巨大な岩となって彼を押し潰そうとしていた。
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## 「醜態長」への昇格と真実の告白、血を吐くような贖罪の誓い
摩訶不思議食堂の店内に、澱んだ沈黙がしばしの間、重苦しく横たわった。
誰も口を開かず、ただ炭酸水の気泡が弾ける音だけが、肇の心臓の鼓動を急かすように微かに響いている。
その静寂を切り裂いたのは、カウンターの椅子から肇を射抜くように見つめていた、えらいこっちゃ嬢の峻烈な一言であった。
「パワハラ悪業を保身の言い訳で正当化してしまいよった、えらいこっちゃな醜態おっちゃん。ほんま救いようがあらへん、えらいこっちゃ。」
感情を排したその声は、肇の逃げ道を完全に断つ非情な審判となって響き渡る。
すると、傍らに立っていた女鬼が、鼻で笑いながらそれに応じた。
「だねー。醜態おっちゃんかー、まさに今のあんたにピッタリの、どんぴしゃな呼び名だし。おめでとう、部長からさらに上のポストへ昇格したじゃんよ。これからは部長じゃなくて『醜態長』とでも名乗ってみたら? あんたにはお似合いの役職っしょ。」
女鬼の冷ややかな皮肉が、肇のプライドを無慈悲に抉り取る。
かつてあれほど誇りにしていた肩書きを、これ以上ないほど汚らわしい蔑称へと塗り替えられ、肇は震える拳を膝の上で固く握りしめた。
「……俺が、俺が悪かった事は認める。言い訳のしようもない、卑劣な人間だった。」
肇は絞り出すような声で、ようやく自らの非を認める言葉を口にした。
「俺が式宮善喜を殺した、取り返しのつかない張本人だという事も認める。逃げ隠れはしない。式宮さんに……彼のお婆さんに、きちんと会いに行って、心からの謝罪もするから。」
「頭下げて、はいおしまい、なんて思ってないよね?」
女鬼の黄金の瞳が、肇の魂を値踏みするように鋭く光る。
「わ、わかってるよ。一生かけて償うつもりだ。この罪から目を背けずに、生きていくつもりだから。」
「どうやって?」
女鬼の更なる追及に、肇は言葉を詰まらせ、脂汗を流しながら視線を泳がせた。
「そ、それは……その、法的な賠償とか、金銭的な事も含めて、色々と、自分にできる限りのことを……。」
言い淀む肇に対し、女鬼は呆れたように小さく首を振った。
「ま、どう償うかはあんたが一生かけて、地獄のような苦しみの中で、もがきながら実践していくしかないよね。答えなんて簡単に見つかるわけないんだから。」
女鬼はそこで言葉を区切ると、広げたままの風呂敷包みの底に積み重なっている、数冊の古びたノートを指先でトントンと叩いた。
「それとさ、償う相手はお婆ちゃんだけじゃないから。そこんとこ、ちゃんとおわかり?」
「これは……?」
肇が怪訝そうに問い返すと、女鬼はその中から一冊を無造作に掴み取り、肇の前へと差し出した。
「読んでみりゃわかるよ。あんたが無視し続けてきた現実が、そこに書いてあるから。あの時おばあちゃんがあんたの会社に持って来たのは、幾つかのコピーだったけどさ、あのおばあちゃんからも見せて貰った事あるよね?」
肇が震える手でそのノートを開くと、そこには整った、しかしどこか怯えの混じった筆跡で、彼が真智子に対して行ってきた執拗なパワハラとセクハラの数々が、日付と共に克明に記録されていた。
「これは、彼女の……真智子の記録か?」
「そ。ここに積んであるノートは、現物を忠実にかたどった複製品だけどさ。パワハラおっちゃんをはじめとした、会社のパワハラ老害共からの被害を、勇敢な部下達が血の涙を流しながら記録したノートの一部だよ。あんたらが会社で『こんなものは妄想だ、想像で書いてるから証拠にならない』とか抜かして、笑いながらゴミ箱に捨てようとしてたやつね。」
女鬼の言葉は、かつて会議室で傲慢に振る舞っていた肇の記憶を、鮮烈に呼び覚ました。
部下たちの魂の叫びを、紙切れ一枚の価値もないと切り捨てた自らの傲慢さが、今、圧倒的な質量を持って目の前に積み上げられている。
「一部だけでも、これほどまでの数があるのか……。」
肇は、目の前に積まれたノートの山の重みに、改めて愕然とした。
それは、彼一人の手によって人生を狂わされ、心を壊された人々の、消えることのない怨念の積層であった。
「さっき見せた水面の映像と、この記録の内容ってさー、ものの見事に一致するよねー。嘘偽りなんて、どこにもないんだよ。」
女鬼の冷ややかな眼差しに射抜かれ、肇は深く、深く項垂れた。
「……これらのノートに書かれていた事は、全て事実であると、俺が責任を持って公表する。あの日記を、妄想だと言って切り捨てたのは間違いだった。」
肇は、自らの内に残った最後の良心を振り絞るようにして、真っ直ぐに女鬼を見据えた。
「そのうえで、改めて被害に遭われた人……俺が無情に傷つけてきた人達全員に、誠心誠意の謝罪をすると約束する。どんなに罵られようと、石を投げられようと、俺はもう逃げない。」
その言葉を聞いた地蔵店長は、カウンターの奥で静かに目を閉じ、慈愛に満ちた仕草で合掌した。
一方でえらいこっちゃ嬢は、相変わらず台形の口を開けて、じーっと肇の覚悟を監視し続けていた。
こうして、自らの人生を賭けた贖罪の旅路が、この「摩訶不思議食堂」から始まろうとしていることを、肇は痛いほどに自覚したのだった。
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## 覚悟の天秤と鬼の掌、愛娘を襲う絶望の予兆
女鬼は、カウンターに肘をつきながら肇を横目で眺め、ふっと小さく口角を上げた。
「そういうのは、あーしに言う事じゃないけどさ、少しはまともな顔するようにはなったかな。さっきまでの、あの何かに取り憑かれたような醜悪な顔よりはマシじゃんよ。」
その言葉に、肇は自らの内に渦巻く後悔を隠すこともなく、深く、重いため息を吐き出して項垂れた。
「さっきの、水面に映った俺は、本当に酷い顔をしていたよ。傲慢で、冷酷で……自分の性格の悪さが、あんなにもはっきりと人相に出ていたなんてな。」
椅子の上で膝を抱えていたえらいこっちゃ嬢が、肇の言葉を遮るようにして、その小さな指を力強く突き出した。
「性格の悪さも、素行の悪さも、全部隠しきれずに顔に出よる。えらいこっちゃな悪人面のパワハラおっちゃん。」
身に沁みる断罪の声に、肇は力なく、しかしどこか吹っ切れたような自虐的な笑みを浮かべた。
「ああ、全くその通りだよ。あんな自分の醜い姿を客観的に見せつけられた後じゃ、返す言葉もない。俺は、自分が思っていた以上に、どうしようもない人間だったんだな。」
「パワハラおっちゃんにパワハラ父ちゃん、ほんまにえらいこっちゃな人生。」
えらいこっちゃ嬢の追い打ちをかけるような一言に、肇の心臓が不吉な音を立てて跳ね上がった。
「流石に家庭では、そんなことは……いや、待て。そうだ、初菜だ!」
肇は弾かれたように、上着のポケットから震える手でスマートフォンを取り出した。
液晶画面を何度も叩き、連絡を確認するが、初菜からの新しいメッセージは1つも届いていない。
自分を避けるようにして家を出た娘の、冷たい拒絶が画面越しに伝わってくるようで、肇は焦燥感に突き動かされるようにして腰を浮かせた。
「俺は、初菜を迎えに京都に来たんだった。こうしちゃいられない。あの子の所に行かないと!」
席を立とうとした肇の背後に、女鬼の冷徹な問いかけが、氷の棘のように突き刺さった。
「娘さんには、正直に話すん?」
その問いに、肇は一瞬だけ足を止めたが、迷いのない声で答えた。
「そりゃあ、自分の罪を事実として公表するんだから、必然的に初菜にもすべて知られることになる。それで軽蔑されても、嫌われても、それはすべて自業自得だ。甘んじて受け入れるよ。」
肇は、自分の過ちが家族の平穏さえも奪い去ってしまった現実を、ようやく真正面から見据え始めていた。
「俺のせいで、現在進行形で家族には不便で不憫な思いをさせてしまっている。是で親子の縁を切られても、文句は言えない。それが、俺という人間が犯した罪の報いなんだ。この先、どんな過酷な運命が待ち受けていても、すべて自業自得と受け入れる覚悟だ。」
その言葉は、悲壮ではあったが、一人の人間としての誠実さを辛うじて取り戻そうとする響きを持っていた。
しかし、女鬼の黄金の瞳には、一切の同情も、宥めも宿ってはいなかった。
彼女はゆっくりと、死神が獲物の喉元に鎌を当てるような、底冷えのする低い声で言い放った。
「例え、娘が死んでも?」
肇の動きが、完全に凍りついた。
「え……?」
「例え、あんたの大事な娘が、式宮善喜さんと同じ結末……つまり、絶望の果てに自ら命を絶つことになっても、それでもあんたは一生かけて善喜さんとご家族に頭を下げ続け、償い続ける覚悟、本当にあるんだよね?」
女鬼の声は、もはやギャルのような軽薄さを微塵も感じさせず、因果応報を司る執行人の如き響きを湛えていた。
そして女鬼は、戦慄に目を見開く肇の肩に、そっと、触れた。
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##「鬼の眼」が暴く真実の地獄、纏わりつく怨念と因果の宣告
「座っといた方がいいよ? 多分、腰抜かしてひっくり返るからさ。」
女鬼が、先程までの冗談めかした口調を捨て去り、地を這うような低い声で告げた。
肇がその言葉の意味を理解する間もなく、女鬼の金色の瞳が一際強く、神々しくも禍々しい光を放つと。
その瞬間、肇の体内からどす黒い霧のようなものが、ぶわっと勢いよく噴き出した。
それは形のない、しかし確かな悪意を孕んだ「怨念」や「呪詛」の塊であり、瞬く間に肇の全身を覆い尽くす。
「うわあぁ!? な、なんだこれは!? 何が起きているんだ!」
肇は絶叫し、あまりの衝撃と重圧に耐えきれず、カウンター席の椅子にドスンっと深く腰を落とした。
必死になって体中にまとわりつく「黒い何か」を払いのけようとするが、指先は虚しく空を切り、どれだけ掻きむしってもそれを剥がし取ることはできない。
パニックに陥り、涙目で視線を彷徨わせた肇の前に、それは現れた。
店の隅、薄暗い影の中から、死したはずの式宮善喜が音もなく姿を現したのである。
善喜は生前と変わらぬ、しかし一切の感情を排した無表情のまま、ただ静かに、そして真っ直ぐに肇を見つめて立ち尽くしていた。
「ひっ……善喜君……! なぜ、君がここに……!」
肇が再び悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちそうになった時、ようやく女鬼の瞳の輝きが静かに収まった。
彼女が肇の肩からそっと手を放すと、先程まで視界を埋め尽くしていた無数の異形も、善喜の姿も、嘘のようにかき消えてしまう。
「い、今のは……一体……。それに、彼は、彼は死んだはずだろう……!」
肇は荒い呼吸を繰り返し、脂汗を垂らしながら、辛うじてそれだけを呟いた。
震えが止まらない指先を組み、地蔵店長に助けを求めるような視線を送ったが、地蔵店長はただ悲しげな慈愛の微笑みを浮かべて見守るばかりであった。
「今のはね、あーしの『鬼の眼』を通して、あんた自身、そしてあんたの周囲の『現状』をそのまま見せたんよ。」
女鬼は淡々と、しかし容赦のない事実を突きつけた。
「今はあんたの目には見えなくなってるけど、今この瞬間も、パワハラおっちゃんの体には恨みつらみ、怨念の類がびっしりとまとわりついてるからね。それは消えたわけじゃない、ただ観えてないだけだよ。」
女鬼はカウンターに寄りかかり、逃げ場を塞ぐようにして肇を覗き込んだ。
「そして、善喜さんの姿が『観えた』と思うけど、彼は今もそこに『いる』から。ずっと、あんたの隣にね。」
「そ、そんな……。彼は、いつから……いつから俺のことを見ていたんだ!?」
肇の驚愕に対し、女鬼は心底呆れたように深い溜息を吐き出した。
「それについては、最大のヒントを既に貰ってるじゃん。まだわかんない? あんなに丁寧に、そして強烈に、御婆ちゃんが教えてくれてたのにさ。」
「御婆ちゃん……? え? まさか、あの婆さんが……本当に、俺を呪ったのか?」
肇の脳裏に、あの会議室で「全員呪い殺したる」と言い放った喜乃の、峻烈な瞳が蘇る。
あれは単なる老人の負け惜しみなどではなく、最高位の呪術師による、逃れようのない「死の宣告」であったのだ。
女鬼はその問いに直接は答えず、ただ氷のように冷たい微笑を浮かべた。
「是も全部、自業自得だから受け入れることだね。体中にまとわりついてる怨念と呪詛も、この先、あんたの愛する人がどういう事になろうとも。」
女鬼の黄金の瞳が、肇の良心を抉るように鋭く光る。
「さっき自分で言ったよね? 何があっても自業自得だから受け入れるって。例え、初菜さんがどうなっても、受け入れるんだよね?」
肇は声も出せず、ただ戦慄に身を震わせた。
「今までしでかしてきた事の報いを真正面から受けながら、誠心誠意償うって事は、生半可な事じゃないからね。地獄はこれからだって事、しっかりと覚えておきなよ。」
女鬼の淡々とした、しかし重い宣告が店内に響き渡り、肇の背負った「罪」という名の鎖が、ガチャリと音を立ててその身を縛り上げた。
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## 「悔恨の涙」と「不退転の誓い」、地蔵の慈悲が照らす贖罪の門
「これが、俺の罪……俺が重ねた罪の重さなのか……。」
西谷肇は、自らの魂にびっしりと絡みついたどす黒い怨念の質量に押し潰されるように、ただ愕然としてその場に崩れ落ちんばかりにうなだれた。
これまで築き上げてきたエリートとしての自尊心も、部下を支配していた傲慢な優越感も、今は見る影もなく瓦解し、ただ一人の「加害者」としての惨めな正体だけが白日の下に晒されている。
そんな肇の絶望を、女鬼は黄金の瞳で見据え、突き放すような冷淡さの中に、逃げ道を断つための微かな慈悲を込めて言い放った。
「当然っしょ。逃げる場所なんてこの世のどこにもありゃしないんだからさ。これからは、ただ誠実に、その重さを背負って償い続ける人生を這いずり回って歩むしかないんだよ。」
「……そうするしか、ないよな。今の俺には、それ以外に残された道なんてないんだ。」
肇は、喉の奥から絞り出すような声で自分自身に言い聞かせるように呟いた。
肇には、女鬼が放った「愛する人がどういう事になっても」という峻烈な言葉が、刃となって彼の胸に深く突き刺さっている。
「家族は既に、俺のせいで世間から後ろ指を指され、肩身の狭い思いをしている。俺が身勝手に積み上げた業のせいで、妻とあの子にどれほど窮屈で苦しい思いを強いてしまっていることか。」
肇の脳裏に、憔悴しきった妻の顔と、家を飛び出していった愛娘・初菜の震える背中が浮かび上がる。
「当事者である俺自身が、誰よりも誠実に、逃げずに償う姿を見せないといけない。それが、せめてもの……。少しでも世間からの強い風当たりから、家族を守る唯一の方法なんだ。」
自らの犯した罪が、かけがえのない家族の未来さえも漆黒の闇に染め上げようとしている。
その現実に、肇の目からは熱い一筋の涙が伝い落ち、カウンターの木目に小さなしみを作った。
「本当に、巻き込んでしまって……こんな夫で、こんな父親で、ごめんよ。本当に、申し訳ない……。」
肇は、溢れ出る涙を拭うこともせず、先程まで確かに式宮善喜が立っていた、今は虚空となっている場所へと向き直った。
そこにはもう、鬼の眼を通さなければ何も見えないが、あの優しくて誠実な青年は、今も冷徹な静寂の中で自分を見つめ続けているはずだ。
その確信が、肇の背中を深く、深く折り曲げさせた。
「本当に、申し訳ありませんでした。」
震える声で搾り出した謝罪の言葉と共に、彼は魂を削り出すようにして頭を下げた。
続いて肇は、風呂敷包みの上に積み上げられた、かつての部下たちの血と涙の記録であるノートの山に向き直った。
そこに記された一行一文が、彼が切り捨ててきた「命」の断片であることを、今の彼は痛いほどに理解している。
彼は何度も、何度も、壊れた機械のように頭を下げ続け、自らの傲慢が踏みにじってきた数多の人生に対して、慟哭に近い謝罪を繰り返した。
「喜乃さんと言ったか、善喜君の御婆さんは。あの方が俺を呪うのも、当然のことだ。」
肇は、今なお自分を取り巻く呪詛の冷たさを感じながら、その源流にいるであろう老婦人の名を呼んだ。
「例え一生赦されなくても、あの人にも誠心誠意の謝罪をしなければならない。俺の言葉が届かなくとも、俺の命が尽きるまで、お孫さんの無念に向き合い続けると誓うよ。」
その決死の覚悟を秘めた言葉が店内に響いた瞬間、女鬼とえらいこっちゃ嬢は、それまでの厳しい追及を止め、示し合わせたかのように同時に視線を動かした。
二人がフッとカウンター越しに見上げた先には、静寂そのものを具現化したかのような佇まいで、地蔵店長が立っている。
肇もまた、導かれるようにして地蔵店長を見上げた。
そこには、全てを許すわけではなく、かといって全てを突き放すわけでもない、ただひたすらに深い慈悲を湛えた「お地蔵さん笑顔」があった。
地蔵店長は、肇の覚悟をその温かな眼差しでしっかりと受け止めると、静かに、しかし迷いのない所作で胸の前で掌を合わせた。
一切の言葉を発することなく、地蔵店長は合掌して、肇に対して静かにお辞儀をする。
その一礼は、罪を犯した一人の男が、ようやく「人間」として歩き出すための門出を、静かに祝福しているかのようにも見えた。
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## 「愚者」の証言と法句経の戒め、自己滅亡の淵で灯る智慧
摩訶不思議食堂の静謐な空気の中で、地蔵店長は肇を射抜くような眼差しを向けた。
その瞳はどこまでも深く、肇が積み上げてきた欺瞞の層を一枚ずつ剥ぎ取っていく。
店長は、カウンターの奥でいつものお地蔵さん笑顔を絶やさぬまま、しかしその声には逃げ場のない峻烈な響きを込めて、肇を厳しく諭し始めた。
「パワーハラスメント、パワハラと言うものは、上司として、あるいは先輩として、その背中を見せて進むべき道を示しながら育むべき後輩に対し、力任せに傷つけたり、時には生命まで奪い去ってしまう危うき行為であり、まさに愚者の行為と言えましょう。」
その言葉は、優しさを纏いながらも、肇がこれまで誇りにしてきた「指導」という名の暴力を、真っ向から否定する断罪の響きを持っていた。
肇は、内臓を直接掴まれたような鋭い胸の痛みを感じながらも、ただ項垂れて聞くしかなかった。
「……はい。」
掠れた声で応じる肇の脳裏には、自分がかつて「未熟な若者を鍛えてやっている」と思い込んで放った、数々の傲慢な言葉が苦い記憶となって去来していた。
地蔵店長は、肇の心根を深く見つめるように人差し指をピッと高く上げた。
「ダンマパダ、法句経と言う御経に、このような教えが御座います。」
静まり返った店内に、古の聖者が残したとされる、時代を超えた真理の響きが満ちていく。
店長は、その一言一言に重みを乗せるようにして、肇の魂へ法句経の言葉を突きつけた。
『愚かな人は他人に害を与えることを好む。その言葉にはまごころや真面目さがない。他人に与えることをしないで、奪うことをする。そのような人は好んで他人の女を犯す』
その言葉が店内の空気に溶け込むと、地蔵店長は笑顔のまま、さらに踏み込んだ教えを肇へ授け始めた。
「愚かな人は他者に害を与えることを好み、言葉の暴力や肉体的な暴力を振るい、相手を陥れる者で御座います。そしてそのような愚者は、心が真面目さを失っており、自己滅亡へ向かいます。」
店長は、決して目を逸らすことを許さないという意志を湛えた微笑みで、肇の現状を容赦なくえぐり出した。
「自己滅亡につきましては、肇さんが今まさに体験している事ですし、自己だけではなく、ご家族の現在置かれている状況を見れば、報いを受けるのは自身だけとは限らぬことを、身を以て知られた事でありましょう。」
その指摘は、肇にとって何よりも恐れていた事実であった。
自分の犯した罪が、愛する家族を巻き込み、彼らの人生さえも漆黒の闇に染め上げている。
それが「自業自得」という四文字では片付けられないほどの、あまりに重い代償であることを、肇は震える背中で受け止めていた。
「はい、本当に……。仰る通りです……。」
肇は、もはや涙を拭うことすら忘れ、ただ自らの愚かさを呪いながらうなだれるしかなかった。
地蔵店長は、絶望に沈む肇を静かに見守り、その声に一筋の慈悲を混ぜて語りかけた。
「肝要は、その事に気づいたのであるならば、過ちの道から正しき道へ踏み出し、正しく誠実に歩み続ける事で御座います。気づきは正しき智慧の道を歩み始める大切な一歩ですからねえ。」
その「一歩」という言葉に、肇は暗闇の中で微かな灯火を見つけたような錯覚を覚えた。
しかし、地蔵店長は決して甘い救いだけを与えることはなかった。
「勿論、これからどのように歩み、どのような行いを為していくかは、肇さんご自身が考え、時にはもがき苦しみながら見つけ出して行くしか御座いません。」
救済の主体はあくまで肇自身にあり、犯した罪の重さに相応しい、茨の道が待ち受けていることを地蔵店長は冷静に告げる。
そして地蔵店長は最後に、カウンター越しに肇の瞳を真っ直ぐに見つめ、一人の人間として彼が再び立ち上がるための指針を示した。
「私共から答えを差し上げる事は出来ませんが、道標となる智慧を灯す事は出来ます。」
地蔵店長は、すべてを見通すお地蔵さん笑顔を浮かべたまま、静かに胸の前で掌を合わせた。
そして、肇という一人の罪深き人間が、自らの足で智慧の道を歩み始めることを祈るかのように、合掌して深くお辞儀をする。
これまで他人から「奪う」ことしか知らなかった肇にとって、地蔵店長の静かな一礼は、何よりも重く、そして何よりも温かい、人生で初めて受け取る「智慧」という名の贈り物であった。
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## ――「自慢」が招いた人格否定、法に照らされる傲慢の正体
静まり返った摩訶不思議食堂の中で、地蔵店長は絶やさぬ微笑みを向けながらも、その言葉の切っ先を肇の心の深淵へと突き立てた。
「肇さんは、役職が上がり会社での立場が上がるにつれて、部下も多くなってゆかれた事でありましょう。それと同時に、年下の部下と言う立ち位置にいらっしゃる方々に対して、『自分の方が上だ』と、役職や能力だけではなく、人間としての価値や、人格においても上にいると思われた事は御座いませんか?」
お地蔵さんのような優しい表情とは裏腹に、その問いは肇が心の奥底に隠していた最も醜悪な傲慢さを、容赦なく白日の下に曝け出すものであった。
「……はい。」
肇は絞り出すような声で答え、深く首を縦に振った。
先程まで大盃の水面に映し出されていた自らの姿が、今更ながらに恐ろしい質量を持って脳裏を支配していく。
真智子や善喜といった特定の部下だけではない。
成績で自分を下回る後輩や、時にはライバルであった同輩に対しても、彼は「勝った」という優越感を得るたびに、人格そのものを否定するような攻撃を繰り返してきた。
「こんな簡単な事も出来ないなんて、それでよく大学に行けたな」
「もう一回大学に行くか?いや、幼稚園からやり直すべき頭の悪さで、出来が悪い」
「部署のお荷物確定だな」
次々と溢れ出す暴言の記憶。
それらは当時の肇にとって「教育」であり「ハッパをかける」ことだと正当化されていたが、今こうして客観的に突きつけられれば、それは教育などではなく、単なる「人格の蹂領」でしかなかったことに気づき、彼は激しい後悔と共に胸を抉られるような痛みを感じた。
「そのような事をする人は、『慢』の煩悩が燃え盛っておる事が一つの要因として御座います。肇さんの場合は、『自慢』と『我慢』が、猛っていたのでありましょう。」
店長は相変わらずの優しい笑顔のまま、肇の魂を蝕んでいた病理を厳しく言い当てた。
「自慢、ですか?確かに俺は、いい大学を出た事や、エリート街道を突き進んでいるという事を自慢したりした事に思い当たります。それに、確かに我慢をする時期もありましたけど、どうして我慢が煩悩なんですか?」
肇は、現代社会で一般的に使われる「自慢」や「我慢」という意味との乖離に戸惑い、眉を顰めて問い返した。
「確かに、現世において自慢と言うと、自分の力をひけらかしたり、持っている物を見せびらかしたりする事を言いますね。」
地蔵店長は肇の困惑を受け止めるように頷き、再び穏やかに説き始めた。
「『自慢』『我慢』、これらは仏教由来の言葉でして、仏様の教えとしては、また違った意味があるのですよ。」
その指先は、迷える者の進むべき道を示すように、静かに空を指した。
「『自慢』とは、自分より低い能力の人や、自分のいる場所に到達していない人達、わかり易く言えば、自分より低いレベルにあると思われる者に対して、自分は優れているという事を示そうとする事を言います。」
淡々と、しかし核心を突く教えが肇の耳朶を打つ。
「そしてそれは『驕慢』とも言い換える事が出来ましょう。自惚れによる慢心、自分を高く見て他人を軽んじる傲慢な態度や在り方、それを『自慢』と言う煩悩であると、仏様は教えて下さいます。」
店長の言葉が紡がれるたびに、肇の心は切り裂かれるような感覚に襲われた。
大盃に映っていた、他人を見下し、その尊厳を嘲笑う自分自身の醜い表情。
あの冷酷な眼差しこそが、仏が戒めた「自慢」という名の業火であったのだと、彼は今、地獄の業火に焼かれるような心地で痛感していた。
地蔵店長の静かな説法は、肇の逃げ場を完全に塞ぎ、彼を沈黙の淵へと深く沈めていった。
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## ――「我慢自慢」という名の牢獄、自己中心的な怒りの果てに
地蔵店長は、カウンターの向こう側で静かに、より一層深く、肇の魂に染み入るような声で説法を続けた。
「そして『我慢』とは、仏様の教えにおいては、我執によって、自分が中心でなければ不平不満を漏らしたり、自分の思い通りにならないことを不満に思い、時には怒り狂ったり他者に八つ当たりするようなことを言います。わかり易く表現すれば、徹底した『自己中心的な在り方』ということで御座います。」
店長はいつものお地蔵さん笑顔を絶やさないが、その言葉は肇がこれまで「厳格な指導」と称して部下にぶつけてきた怒りの正体を、赤裸々に暴き出していく。
「肇さんの場合ですと、思い通りに動かない部下や仕事仲間を、純粋に仕事のためではなく自分都合で叱責したり、感情的になって怒りをぶつけるだけで建設的な話は何もしない、と言ったところでありましょうか。」
その一言は、肇の最も痛いところを正確に突き刺した。
思い通りに進まないプロジェクト、期待したレベルに達しない部下。
その度に彼は、相手を改善させるためではなく、自分の苛立ちを解消するために、役職という武器を振り回して怒号を浴びせてきた。
肇が言葉を失い、店長の言葉を一字一句噛み締めるように咀嚼しているのを見届けると、地蔵店長はさらに深く、現代社会に潜む「慢」の罠について説き始めた。
「仏教が説く我慢は、今お話ししたことでありますが、現世における『耐え忍ぶ』という意味での我慢にも、慢の煩悩を増長させる恐ろしい罠が潜んでおります。」
その言葉に、肇は心臓を掴まれたような衝撃を覚え、思わず肩を震わせた。
「『自分は我慢強い、我慢をしている自分は偉い』。そのように思うようになり、何時しかそれを他人様に強要し始めたりなさったことは御座いませんでしたかねえ。」
店長の鋭い問いかけに、肇は過去の自分を振り返り、愕然とした。
「俺はこれだけの激務に耐えてきた」「俺の若い頃はもっと理不尽だったが耐え抜いた」。
そんな「耐えている自分への酔い」が、いつしか部下に対して「俺ができたのだからお前も耐えろ」という、理不尽な強要に変換されていたことに気づく。
「勿論、肇さんが我慢強かったり、色々な困難を耐え忍ぶ力が確かにあるということも御座いましょう。しかし、万人が同じ強さがあるとは限りません。ましてや、人格を否定しながらそれを強要する等と言うことは、あってはならぬことで御座います。また、『我慢している自分は凄い』『自分はこんなに我慢している、だから周囲も我慢すべきだ』と言うのは、まさに『我慢自慢』と言うことになりましょう。」
店長は優しい笑顔のまま、肇が「美徳」だと思い込んでいた忍耐の裏側に潜む、醜い自己愛と傲慢さを厳しく教え諭した。
その話を聞いていた女鬼が、呆れたように黄金の瞳を細め、鋭い皮肉を投げかけた。
「慢の煩悩二連コンボ決めちゃってさ、それを周囲にまき散らしてくるとか、周囲からするとたまったもんじゃないし、痛々しいだけだよね。大体『俺はこんなに苦労した、だからお前らも苦労しろ』とか、何言っちゃってんのって感じ。自分が苦労した分、これからを担う後輩達が苦労せずに済む方法を考える方が、圧倒的に格好良くない?」
女鬼の言葉は、肇が必死に守ろうとしていた「苦労の美学」が、いかに時代遅れで生産性のない、ただの自己満足であったかを残酷に浮き彫りにした。
横でじっと聞いていたえらいこっちゃ嬢も、冷ややかな視線を肇に向けたまま、びしっと言い放つ。
「煩悩熾盛二連コンボ、えらいこっちゃな大迷惑。そんなおっちゃんが上司やなんて、部下の子らはたまらんこっちゃな、えらいこっちゃ。」
肇は最早、返す言葉も見つからず、ただただ深くうなだれるしかなかった。
「自慢」によって他人を軽んじ、「我慢」によって自己中心的な怒りを正当化してきた。
自分の歩んできたエリート街道が、実は煩悩という泥濘にまみれた醜い道であったことを、彼は今、この奇妙な食堂で初めて突きつけられた。
地蔵店長は、絶望に打ちひしがれる肇を慈愛に満ちた目で見つめ、最後に静かな導きの言葉を添えた。
「肝要は、そのような在り方に気づき、そこからどのように正していくかで御座います。気づきは智慧の始まりですからねえ。」
地蔵店長はお地蔵さん笑顔を絶やさぬまま、静かに胸の前で掌を合わせ、合掌してお辞儀をした。
その所作は、肇という一人の人間が、自らの傲慢さを捨てて真の正しき道へと歩み出すことを、静かに、そして力強く促しているかのようであった。
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## ――慈悲の灯火と「叱る」の真義、怒りに濁らぬ導きの智慧
地蔵店長は、カウンター越しに慈愛に満ちた眼差しを向けながら、静かに、しかしその一言一言が魂を打つ重みを持って問いかけた。
「以前までの肇さんは、慈悲の心、慈悲の在り方を持って、他者と接していたと言えるでしょうか?」
その問いは、肇が築き上げてきた「厳格な上司」という仮面を木端微塵に砕く、至高の直球であった。
「いえ……。真逆だったと、今では痛感しております。私は、自分の立場を守り、自分の苛立ちをぶつけることしか考えていませんでした。」
肇は絞り出すような声で、自らの罪を認め、深く項垂れた。
その背中は、かつての傲慢な部長の面影はなく、ただ自らの至らなさに打ちひしがれた一人の男のそれであった。
「その事に気づかれたのであれば、これからは慈悲の心を持って、他者と関わる事で御座います。勿論、それはただの甘やかしとは違います。時には厳しさを持って『叱る』事も必要ですからねえ。」
地蔵店長は、肇の悔恨を優しく受け止めながらも、次に進むべき正しい道の在り方を説くために、柔らかな笑顔の中に鋭い釘を刺す。
「肝要は、叱る際も慈悲を持ちて叱る事で御座います。肇さんは、『怒る』と『叱る』の違い、指導の在り方を御存じでしょうか?」
「え……?」
肇は不意を突かれ、言葉に詰まった。
これまで部下に怒声を浴びせてきた自分にとって、それは同じ意味だと思い込んでいた概念であった。
地蔵店長は答えを急かすことなく、ただ穏やかなお地蔵さん笑顔を浮かべて、肇が自らの内側から答えを導き出すのを静かに待ち続けた。
肇は、自分がこれまで行ってきた罵詈雑言、人格否定、そしてあの冷酷な嘲笑を一つひとつ反芻し、必死に思考を巡らせた。
「感情的になるのが……怒る事で。そうではない冷静な状態が、叱る事……でしょうか?」
ようやくひねり出した答えに、地蔵店長は満足そうににっこりと笑い、胸の前で静かに合掌した。
「善き気づきで御座います。確かに、感情任せに怒鳴り散らしたりするのは、まさに怒っている状態と言えましょう。相手の為ではなく感情任せになり、そこに慈悲はなく、燃え盛る煩悩があるのが『怒る』。対して、煩悩を捨て慈悲を持って相手の成長や未来の為に導く事が『叱る』。私はこのように、『怒る』と『叱る』について思うております。」
地蔵店長は、お地蔵さん笑顔を絶やさぬまま、肇の魂に刻み込むように、合掌して深くお辞儀をした。
その傍らで、金色の瞳を細めて話を聞いていた女鬼が、どこか清々しい微笑を浮かべて言葉を添えた。
「そもそもさ、目の前の相手をちゃんと一人の人間として認識して、その人の成長や未来につながるように導こうと思ったら、めちゃくちゃ頭使って考えるじゃん? その時点で、感情任せになって怒鳴る余裕なんてなくなっちゃうんだよね。そんでさ、慈悲の心をもって『叱ろう』としたら、間違っても人格否定なんて汚い言葉、出てくるわけないっしょ。」
女鬼の言葉は、ギャル風の砕けた口調でありながら、本質を鋭く突いていた。
「今後、肇さんが誰かを導く場面に立った場合、この事を忘れずにいる事で、道を外したり、同じ過ちを犯す事も無くなっていく事でありましょう。煩悩が燃え盛ったまま相手に感情をぶつけようとしていないか、そこに慈悲心はあるか。一度立ち止まる『余白』を大切にされては如何でありましょうかねえ。」
地蔵店長は、再びお地蔵さん笑顔で合掌し、静かに肇へとお辞儀をした。
「はい……。はい。」
肇の目からは、とめどなく涙が溢れ出していた。
それは、かつて自分が踏みにじってきた人々への、そしてあまりにも愚かだった自分自身への、真の悔恨からくる涙であった。
「教わった事を肝に銘じ、二度と忘れぬように致します。……これからは、正しい道を歩みます。本当に、有難う御座いました……。」
肇は、頬を伝う熱い雫を拭うこともせず、静かに、しかし揺るぎない覚悟を持って、深く、深く頭を下げ続けたのである。
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## 黄金の誓いと柔らかな再生、パワー豆餅が教えし「とげ」の終わり
西谷肇は、これまで自分を縛り付けていた醜い自尊心や傲慢さを全て吐き出すかのように、カウンター席でスッと背筋を伸ばした。
その所作には、かつて部下を威圧するために虚勢を張っていた時のような不自然さは微塵もなく、ただ一人の人間としての誠実さが宿っている。
彼は深く、静かに、そして誰よりも丁寧にお辞儀をした。
「地蔵店長、女鬼さん、えらいこっちゃん。ここで教わった事、生涯忘れません。俺は、自分の足で正しい道を歩み直します。」
その言葉は、消え入りそうな震えを伴いながらも、確かな重みを持って店内の静謐な空気に溶けていった。
すると、それまで肇を厳しい目で見つめていたえらいこっちゃ嬢が、椅子にぴょんっと軽快な動きで飛び乗った。
彼女は肇のすぐ隣に立つと、小さな掌を彼の頭にそっと乗せ、まるで幼い子供を慈しむような手つきで優しく撫で始める。
「やっと力みが消えて、ええ顔になりよった。えらいやっちゃ。」
その言葉には、これまで彼を「パワハラおっちゃん」と呼び捨てにしていた峻烈な響きはなく、どこか安堵したような温かさが混じっていた。
その様子を眺めていた女鬼が、黄金の瞳を細めてどこか楽しげに口を開いた。
「パワーハラスメント、か。パワハラする人ってさ、パワーって言うだけあって、まさに力みまくりって感じで近寄りがたいよね。本人は強い力を持ってるつもりなんだろうけど、周囲から見ればとげとげしいったらありゃしないし。そんで、いざ近づいたら攻撃されるんだから、誰も寄り付かなくなるのは当然じゃんよ。そう考えるとさ、今までの肇さんって、まさにあの『パワー豆餅』そのものだったんじゃね?」
女鬼の鋭くも本質を突いた指摘に、肇は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに納得したように自嘲気味な笑みを浮かべた。
「確かに、そうだね。あの餅は硬すぎて歯が立たないし、無理に食べようとしたらとげとげして口の中を切りそうになる。俺が部下や家族に接してきた態度は、まさにあの、人を傷つけるためだけに存在するかのような飴玉のようだったよ。」
そう答えた肇は、ふと自分の胸の内に湧き上がった不思議な充足感に気づき、穏やかに顔をほころばせた。
「あ……。女鬼さん、今初めて、俺のことを『パワハラおっちゃん』じゃなく、名前で呼んでくれたね。なんだか、それだけで救われたような気がするよ。」
「ん。もうパワハラなんてつまんない事しないように、己を戒めて生きようと一歩踏み出したからね。名前で呼ぶくらい、安いもんでしょ。」
女鬼の唇には、確かな優しさを湛えた微笑が浮かんでいた。
地蔵店長は、肇の心の雪解けを温かな眼差しで見守り、最後に最も重要な「因果」の教えを静かに説き始めた。
「悪しき行いは自らを傷つける。パワー豆餅が口の中を傷つけるが如し、で御座います。部下や後輩を人格否定し、苦しめることは、自らの心を汚し、その報いは必ず自分に返るものです。因果応報により自らもその報いを受けるということは、現状の肇さんを鑑みれば、もはや一目瞭然でありましょう。」
店長の言葉は、お地蔵さん笑顔の中に、法を司る者の厳格さを秘めていた。
「さらに言えば、それは御自身だけでなく、大切な人達をも傷つけてしまいます。今回の騒動で、肇さんが何よりも守りたかったはずの家族が、どれほどの涙を流したか。これから先、再就職される等して、再び新天地で誰かを指導する立場になる事も御座いましょう。その際は、この店での話や、あのパワー豆餅の痛みを、思い出されると宜しいかと存じます。」
地蔵店長はお地蔵さん笑顔を絶やさぬまま、肇の魂に誓いを刻み込むように、合掌して深くお辞儀をした。
「はい。……本当に、有難う御座いました。」
肇は地蔵店長の言葉を全身で受け止めると、重たい鎖から解き放たれたかのようにスッと立ち上がり、改めて深く頭を下げた。
彼の瞳には、かつての濁りはなく、未来を見据える一筋の強い意志が宿っていた。
「俺は、もう二度とあのパワー豆餅のような生き方はしません。これからは、柔らかく漉し餡を包む、あの美味しい豆餅のように、接する人々が笑顔のままでいられるような、そんな穏やかで慈愛に満ちた人になれるよう、一生をかけて努めます。」
西谷肇の宣下は、摩訶不思議食堂の湯気の中に溶け込み、新たな人生の幕開けを告げる鐘の音のように響き渡った。
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## 「布施」という名の再出発、夜闇を駆ける牛車と父の悔恨
心の澱をすべて吐き出し、新たな光を胸に宿した肇は、居住まいを正して地蔵店長へと向き直った。
「それじゃあ、お勘定をお願いします。」
その声には、店を訪れた当初の傲慢な響きは微塵もなく、深遠な教えを授かった者としての慎ましさが宿っていた。
地蔵店長は、すべてを慈しむようなお地蔵さん笑顔を浮かべたまま、静かに胸の前で掌を合わせた。
「当店は御布施形式にしております。肇さんがこの場所で得たもの、その価値に見合う分だけ、お心のままに納めていただければ幸いです。」
店長は、肇の魂の再生を祝うかのように、合掌して静かにお辞儀をした。
肇は少しの間、自らの財布を見つめて考え込んだが、中から一万円札を取り出し、傍らに控えていたえらいこっちゃ嬢の手へとそっと手渡した。
「では、これで。……今の私にできる、精一杯の感謝の印です。」
それを受け取ったえらいこっちゃ嬢は、目を丸くしてそのお札を凝視した。
「毎度あり! えらいこっちゃな大金! 」
彼女は弾けるような笑顔で叫ぶと、その小さくも力強い足取りでレジへと走り去っていく。
肇は重厚な出入り口まで歩みを進めると、外へ出る直前で一度立ち止まり、最後に振り返って深く、深々とお辞儀をした。
「本当にお世話になりました。……行ってきます。」
その言葉に応えるように、えらいこっちゃ嬢と女鬼が、カウンター越しに大きく手を振って見送ってくれた。
地蔵店長もまた、いつまでも変わらぬ穏やかなお地蔵さん笑顔を湛えたまま、静かに合掌してお辞儀を返した。
「御来店、誠に有難う御座います。……お気をつけて、歩まれますように。」
その温かな見送りの声に背中を押されるようにして、肇は摩訶不思議食堂の重い扉を押し開け、夜の静寂が支配する外の世界へと踏み出した。
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外へ出ると、そこにはまるで行く先を予見していたかのように、一台の方輪車が静かに停車していた。
肇がその古風な姿に近づくと、牛車の客席の帳が音もなく開き、彼を招き入れる。
肇が腰を下ろすと同時、どこからともなく、ニューっと白くて長い不気味な腕が宙を泳ぐようにして伸びてきた。
その人ならざる者の所作に、今の肇は驚くこともなく、静かに千円札をその掌の上に乗せた。
すると、白い手は満足げに親指を立てる仕草を見せると、再び闇の中へニューっと引っ込んで消えていった。
「毎度ー。ほな、帰りまっせ。しっかり掴まってな。」
運転席から方輪車が、人懐っこい笑顔で声をかけ、それに応じるように牛車がゆっくりと車輪を回し始めたのである。
「お願いします。」
肇は、心地よい揺れに身を任せながら、車窓を流れる夜闇を見つめていた。
心は不思議と凪いでいたが、一歩ずつ「現実」へと近づくにつれ、胸の奥を締め付けるような切なさがこみ上げてくる。
頭をよぎるのは、自分を拒絶し、今はどこかで一人震えているであろう愛娘・初菜の姿であった。
これまでの自分は、娘に合わせる顔がない、自分は被害者なのだ、といった自己中心的な保身ばかりを優先させていた。
しかし、あの摩訶不思議な空間で己の「慢」を知った今、肇の心にあるのは、親としての真の責任感であった。
「初菜に再会したら……まずは、あの子をこんな騒動に巻き込んだことを、心の底から謝らなければならないな。」
単に職を失った不祥事の謝罪だけではない。
自分の傲慢な生き方が、娘の誇りを傷つけ、不憫な思いをさせてしまったこと。
父親として、最も見せてはならない醜態を晒し、彼女の居場所を奪ってしまったこと。
たとえ許されずとも、まずはあの子の苦しみを真っ向から受け止め、一人の人間として、そして父親としての誠実な言葉を届けなければならない。
牛車が揺れるたびに、肇の決意は固まっていく。
初菜に、一人の男としての「柔らかい豆餅」のような優しさと、揺るぎない贖罪の意志を示すために、肇は夜の街を静かに、しかし力強く、誠実に進み続ける事を誓った。




