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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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20/20

第20話:高木敬吾のマルチ商法とほっこり飯

京都の蒸し暑い空気が澱む、古びた食品加工工場。

機械の駆動音と、鼻を突く独特の食材の匂いが充満する作業場で、黙々と手を動かす男がいた。


高木敬吾、40代後半。独身。


長らくアルバイトや不安定な日雇い労働を転々とし、明日をも知れぬ生活を何とか食いつないできた彼が、ようやく契約社員という形で今の仕事に就けたのは、つい最近のことである。

コンベアから流れてくる食材を検品する敬吾の横顔には、深い疲れと、過去の重みが刻まれている。

今の慎ましい、しかし地味で泥臭いこの生活とは正反対の場所にいた、あの「狂騒の時代」を思い出すたび、彼の心にはどす黒い後悔が込み上げてくる。


敬吾の人生が決定的に狂い始めたのは、20代前半の時だった。

きっかけは、工業高校時代の同級生に誘われて就職した、一軒の会社。


しかしそこは、華やかな毛皮を売り物にした、マルチ商法とデート商法を組み合わせた悪徳商法の巣窟であった。

若く未熟だった敬吾は、先輩たちの巧妙な言葉と「成功」という名の毒に、あっという間に洗脳されていった。


彼らのやり口は、執拗で、そして卑劣そのものであった。

新たな会員を勧誘するために、ターゲットを喫茶店に呼び出しては、3人から4人がかりで取り囲む。

何時間も、相手が精神的に疲弊し、思考を停止させるまで執拗に揺さぶりをかけ続ける。


敬吾もまた、同窓会の相談などと嘘ぶいて、かつての同級生に次々と声をかけ、毛皮の展示会という罠に連れ込んでは、喫茶店で執拗な拘束を繰り返すという毒牙にかけていった。


どれほど友人が去っていっても、周囲から「怪しい」「洗脳されている」と蔑まれても、敬吾は一切耳を貸さなかった。

否定されればされるほど、彼は決まってこう叫んだ。

「俺の両親を知ってるやろ? 鉄道会社で働く、あの堅実な両親やぞ。その両親も認めたビジネスなんやから、怪しいわけがないやろ!」


真面目一筋だった両親さえも、自分の正当性を主張するための盾にする。

その異常さに気づくことさえ、当時の彼には不可能だった。


どれほど断られても、友人が一人も首を縦に振らなくても、敬吾たちは悪びれることすらなかった。

「……ふん。俺たちのこの高尚なビジネスを理解できひん低能共が。勝手にすればええわ。」

自分たちだけが選ばれた人間であるかのように振る舞い、去っていく者たちを嘲笑う日々。


この時、敬吾はまだ知る由もなかった。

この20代前半の、あまりにも浅はかで傲慢な選択が、その後の人生を永劫に呪うことになるということを。

そして、その報いを一生涯かけて受け続けることになるとは、夢にも思っていなかったのである。


---


## 偽りの栄華と断絶の果て、孤独を背負う帰り路


工場の終業を告げる無機質なブザーが、蒸し暑い作業場に鳴り響いた。

シュウウウ……という蒸気の抜ける音が、まるで高木敬吾の身体から生気が抜けていく音のように重なり合う。


敬吾は脂ぎった手袋を脱ぎ捨て、深く、深いため息をついた。

かつて「成功者」を気取り、高級な毛皮を身に纏って街を闊歩していた20代前半の記憶が、今の土気色の顔をした自分を嘲笑うかのように脳裏をかすめる。


あの頃、敬吾は盲信していた。

中学、高校時代の友人、そして共に汗を流した陸上部の仲間たち。

彼らを「友情」という名のリストに並べ、一着数百万円の毛皮へと換金しようとした代償は、想像を絶するほどに重かった。


「あいつはマルチに手を出した」「もう縁を切る」「あいつの電話には出るな」

背後でそんなヒソヒソ……という囁き声が渦巻いていたことにも気づかず、敬吾はどっぷりとその毒に浸かり続けていた。


「俺の両親は鉄道会社で働く堅実な人間や。その親が認めたことなんやから、怪しいわけがない!」

実直な両親さえも詐欺まがいの商売の盾にし、正論を吐く友人を「低能」と見下したあの傲慢さ。


しかし、あくどい栄華は長くは続かなかった。


ネットの掲示板には「犯罪者集団」「悪徳マルチ」という被害者たちの血を吐くような告発が溢れ出し、ついに警察の強制捜査が入る。

幹部たちが次々と手錠をかけられていく中、末端の兵隊に過ぎなかった敬吾は何とか難を逃れたが、その時にはもう、彼の世界から「人」の気配が消え失せていた。


20代中頃、会社が霧散した後に残ったのは、凄まじいまでの「総スカン」という現実であった。

偶然、京都の街角でかつての同級生を見かけ、思わず声をかけようとしても、相手は汚物を見るような目で彼を睨みつけるか、あるいは存在そのものが無いかのように無表情に通り過ぎていく。


「……なんで、あんなことしてしもたんやろな。」


マルチ商法が破綻した当時、いたたまれなくなった敬吾は、逃げるように故郷である京都を離れた。

日雇いや工事現場のアルバイトを転々とし、身を隠すようにして各地を彷徨う日々。


その間に、盾にしていた両親も他界した。

たった一人の息子の不祥事を、あの堅実な両親がどのような思いで見届けていたのか。

それすらも今は知る術はない。


ようやく京都に戻り、綱渡りのような生活の中で、やっとの思いで手にしたのが今の食品加工の仕事であった。


当然のことながら、同窓会やかつての仲間の集まりに、敬吾の名が呼ばれることは二度となかった。

SNSのタイムラインで時折流れてくる、幸せそうな友人たちの集合写真。

そこには、自分がかつて「低能」と笑い、そして裏切った人々の眩しい笑顔がある。


どれほどの罪を犯し、どれほどの信頼をドブに捨ててきたのか。

40代後半という年齢になり、孤独が骨の髄まで染み渡る今、激しい後悔の念だけが、波のように敬吾の心に押し寄せては引いていく。


「……帰ろ。」

ぼそりと独り言をこぼし、敬吾は工場の通用門を出た。


京都の夕暮れは美しく、しかし残酷なほどに静かだ。

街灯が点り始めた暗い道、スーパーで買った値引きシールの貼られた惣菜が入った袋を一つ下げ、敬吾は歩き出す。

人影の疎らな夜道を、誰とも目を合わさぬように、ただ黙々と。


安アパートへと向かうその背中は、かつての傲慢な面影など微塵もなく、ただ冷たい夜風に吹かれて寂しく丸まっていた。

扉を開けても「おかえり」と迎えてくれる声はない。

ただ、自分が蒔いた「孤立」という種が育てた、冷え切った部屋が待っているだけであった。


---


## 再会の残照、鉄錆と汗が滲む誘い


夕闇が古都の路地を侵食し始めた、ある日の就業後。

敬吾は工場の制服から着替え、いつものように誰とも目を合わせることなく、ただ重い足取りで帰路を歩いていた。

値引きシールの貼られた弁当が入ったビニール袋が、歩くたびにカサカサと虚しい音を立てる。


ふと、街灯の下を横切る男の背中に、敬吾の心臓が大きく跳ね上がった。

がっしりとした体躯に、迷いのない足取り。

すっかり大人になり、かつての華奢な少年の面影は薄れていたが、その独特の歩き方は記憶の底に眠っていた一人の友人を呼び覚ました。


中学時代、共に汗を流した陸上部の仲間。

敬吾は中長距離の苦しさに耐え、彼は短距離の爆発的な加速で常に先頭を駆けていた男。


「……岸見か?」

震える声を絞り出すようにして、敬吾は呼びかけた。


岸見と呼ばれた男性は、静かに足を止め、ゆっくりと振り返った。

その瞳は、夏の太陽のように眩しかったかつてのものとは違い、鋼のように鋭く、深く敬吾を見据えている。


「……ひ、久しぶりや。えっと、最後に会うたん、20歳くらいの時やったっけ?」

敬吾は、引き攣ったような笑みを浮かべ、何とか場を繋ごうと言葉を紡いだ。

かつての自分が彼に何を仕掛け、どのような不義理を働いたかという恐怖が、喉元までせり上がってくる。


「……25年ぶりくらいでっしゃろか?」

岸見は、感情の読めない声でそう答えた。


「あ……それくらいぶりやったっけ。まあ、なんや、久しぶりやな。これから帰るところか?」


「……職場に行きますねん。丁度ええわ、一緒においない。」


突き放されることを覚悟していた敬吾にとって、その言葉は予期せぬ救いの手のようにも聞こえた。

まさか、自分のような「裏切り者」を誘ってくれるとは思わず、敬吾の胸には熱い塊が込み上げる。


「え、ええんか? ほな、お言葉に甘えて……。」

敬吾は、ホイホイと小走りで岸見の背中に続いた。


歩くほどに、周囲には独特の熱気が漂い始め、どこからか「シュッシュッ」という鋭い呼気と、何かが激しく衝突するような鈍い音が響いてきた。

たどり着いた建物の前で、敬吾は足を止める。

そこは、古びたビルの二階に居を構えるボクシングジムであった。

「ここって、ボクシングジムか?」


「ちょっと備品が足らんかったから、休みの今日の間に買出しに行ってたんですわ。」

岸見はそう言うと、提げていた買い物袋から、まだ新品の白いバンテージを取り出してみせた。

夕陽を反射するその白さが、敬吾の薄汚れた指先とは対照的に眩しく映る。


岸見は、ジムの鉄扉を無造作に開け、入り口を顎で指し示した。

「入りなさい。」


重厚な扉の向こう側から、革のグローブがサンドバッグを叩く、乾いた、しかし重みのある音が敬吾の鼓膜を震わせる。

鉄錆と汗の匂いが混じり合うその異空間へ、敬吾は誘われるままに一歩、足を踏み入れたのである。


---


## 過去からの拳、沈黙を破るリングの裁き


重厚な鉄扉を潜り抜けると、そこには工場の湿った熱気とは質の違う、火を噴くような熱量が渦巻いていた。

「シュッシュッ!」という鋭い呼気と、革のグローブが肉厚なサンドバッグにめり込む「ドォォン!」という重低音が、絶え間なく鼓膜を叩く。


「トレーナー!御疲れ様です!」

「御疲れ様です、お願いします!」

練習に励む若者たちが、一斉に動きを止めて岸見へと深々と頭を下げる。


「……御疲れ様です。続けてください。」

岸見は短く応えると、呆然と立ち尽くす敬吾をジムの奥へと促した。


「私は今、アマチュアを引退してから、ここのトレーナーやっとるんです。……さて、敬吾。」

岸見は買い物袋をベンチに置くと、それまでの同級生としての顔を捨て、冷徹な勝負師の眼差しで敬吾を射抜いた。

「……当時いつも一緒におった、あのちょっと太った同僚とは、今でも連絡取れますかいな?」


「え? 誰のことや? 25年も前のことやぞ、そんなん覚えてへんわ……。」

敬吾の言葉に、岸見は底知れない冷たさを湛えた溜息を吐き出した。

「ほな、思い出させてあげましょか。あの日、君が同窓会の相談や言うて、展示会に私を連れて入った騙し討ちの時にもおって……その後に喫茶店で何時間も拘束しよった時の御仲間ですわ。ご丁寧に、私の前で煙草ふかして、更には思いっきり私に煙をかけてくれましたよな?」


「え? そんなこと、あったっけ……?」

敬吾の記憶は、都合よくその場面を削ぎ落としていた。

しかし、岸見の記憶の中では、その不快な煙の臭いまでが今も鮮明に焼き付いている。


「……ほな、あの小太りが、ボクシングについての会話になった時、『ボクシングなんて、へちょい(弱くて情けない)』とか言いよったんも、都合よく忘れましたか?」

岸見の声が、地を這うような低音へと変わる。

「あの時、その場にいた全員、一人残らず殴り殺したろう思たけど……私もアマチュアボクサーとして、やってはいけない倫理観はありましたからな。拳を握り締めて、ただ耐えるしかなかった。」


「岸見、それは……。」


「もう縁を切ったと思うたから、わざわざ呼び出したり乗り込んだりはせんかったけど……こうして偶然会ったんやったら、丁度ええですわ。ボクシング、へちょいんでっしゃろ? その言葉、今ここで証明してみせて下さいよ。」


敬吾の背中に、嫌な汗が伝い落ちる。

「え? いや、俺が言うたわけやないし……それに、もう25年も前の話やんか。今更そんなこと……。」


「時効なんてあらしませんで? それに君、きっちりと自分のしでかした罪を自覚した上で、一度でも私や騙した人達に、頭下げに来よったか?」

岸見の放つ圧倒的な威圧感に、敬吾は足が震え、逃げ場を失った。


「今から、あの小太りをここに呼べ。それが出来んかったら、あの時その場にいて私を小馬鹿にして、大事な人生の時間を奪った償いを、今ここでしろ。そのうえで、ボクシングなんてへちょいって言うたこと、ここで証明しろ。私が直接相手になったってもええし、うちの選手で君と階級が同じ選手とスパーリングをやらせたるわ。」

岸見は一歩、また一歩と敬吾のパーソナルスペースを侵食し、逃げ道を塞ぐように立ちはだかった。


「正直な、あの時から、再会したらぶち殺したろう思てたんですわ、君のこと。……けじめも付けんとのうのうと生きていけると思うなや。」


蛇に睨まれた蛙のように、敬吾はただ立ち竦む。

周囲で練習していた選手たちも、異様な殺気を感じ取り、静まり返ったジムの中に岸見の激しい憎悪だけが鳴り響いていた。


---


## 断絶の断罪、跪く魂と逃走の果て


ジムの中に漂う、重く、張り詰めた沈黙。

サンドバッグを叩く音さえも、いつの間にか止んでいた。

練習生たちの刺すような視線の中、敬吾の心臓は喉元を突き破らんばかりに激しく鼓動し、額からは脂ぎった汗が滴り落ちる。


「いや、そんな……。素人がかなうわけないやん……。頼む、勘弁してくれ……。」

敬吾の弱々しい掠れ声に対し、岸見は一切の慈悲を排した、氷のように冷徹な声で言葉を紡いだ。

「一度言葉にした事は、二度と消せん事くらい、大人やったらわかりますやろ。体重は? ……ああ、ボクシングなんて『へちょい』と言うたんですから、多少の体格差は関係あらへんのですな。ミドル級クラスの選手とやってもええか。」


「あの時は、ほんまにごめん! 反省してる……。だから、赦してください。」

敬吾は震える手で何度も顔を拭い、縋るように頭を下げた。


しかし、あまりの恐怖に、口からは無意識に「防衛本能」という名の醜い言い訳が漏れ出す。

「それに……。25年も前の事やんか。その……今更仕返しとか大人げないって言うか、そんな昔の事で……それって、ちょっと『粘着』やんか……。」


その瞬間、岸見の瞳の奥で、どす黒い怒りが静かに爆発した。

「……加害者が、それを言う権利があると思うてるんですかねえ。」

岸見の低く、地を這うような声が敬吾の背筋を凍らせる。


「それは被害を受けた側の心構えの話であって、決して、あんたが自分の言い訳の為に使うて良い言葉やありませんがな。赦すか赦さんかを決めるのは、踏みにじられた側や。」

岸見は一歩踏み出し、敬吾の胸ぐらを掴むかのように間合いを詰めた。

「それに、この25年の間に、君は一度でも……不義理を働いた相手に自ら頭を下げに来たか? けじめをつけたか? けじめをつけた事も無い分際で、何を偉そうに抜かしよるんです?」


「それは……。」

敬吾は、ぐうの音も出なかった。


かつてのマルチ商法で友人たちを裏切り、彼らの時間を、尊厳を、信頼を奪ったこと。

それを「若気の至り」として心の奥底に押し込め、自分だけが被害者であるかのような顔をして生きてきた自分の醜さが、岸見の正論によって完白の下に曝け出される。


「倫理観を欠如させた事しでかしといて、貴様にそんな事を説く資格はあらへんのですわ。……ほな、選手に声かけましょか。一番上の階級の連中でええやろ。」


「申し訳ありませんでした!! 赦して下さい!! かんにんして下さい!!」

敬吾は、プライドも何もかもをかなぐり捨て、鉄錆の匂いが染み込んだ床に額を擦り付けた。

床に這いつくばり、必死に許しを請うその姿は、かつて友人を嘲笑っていた傲慢な男の面影など微塵もない、あまりにも惨めな敗北者の姿であった。


「…………。」

岸見は、土下座する敬吾の頭を冷ややかに見下ろし、深く、心底失望したような溜息を吐いた。


「……殴る価値も、生かしとく価値もあらへんな。」

その一言は、拳を振るわれるよりも深く、鋭く敬吾の魂を切り裂いた。

自分は、かつての友人に「殴る価値さえない」と断じられたのだ。


敬吾は弾かれたように顔を上げると、岸見の視線から逃げるようにジムを飛び出した。


「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!!」

階段を駆け下り、京都の夜の街へと飛び出す。


長年の不摂生と運動不足で、身体は鉛のように重い。

足がもつれ、肺が焼け付くような熱さを帯び、心臓が爆発しそうな痛みに襲われるが、敬吾は必死に足を動かし続けた。

背後から岸見の怒声が聞こえてくるのではないか、あるいは誰かに追いかけられているのではないか。

そんな根拠のない恐怖に追い立てられ、安アパートへと続く道を、敬吾はただ無様に、寂しい背中を丸めて走り去っていくしかなかった。


---


## 凍てついた過去の咆哮、闇夜に佇む銀色の予兆


安アパートの薄い壁越しに、隣人の生活音が微かに響く。

高木敬吾は何とか自分の部屋まで辿り着くと、玄関に倒れ込むようにして荒い呼吸を整えた。

心臓が肋骨を突き破らんばかりに脈打ち、全身の筋肉が経験したことのない恐怖で硬直している。

震える手でシャワーを浴び、こびりついた脂汗を洗い流したが、心の奥底にへばりついた岸見の「殺気」だけは、どれだけ熱い湯を浴びても落ちることはなかった。


布団に潜り込み、固く目を閉じる。

脳裏に蘇るのは、中学時代の岸見の姿だ。

当時は細身で気が弱く、どこか頼りない印象だったはずの男。

それが25年の月日を経て、自らの拳と倫理観を鍛え上げ、復讐の権化のようなトレーナーへと変貌を遂げていた。


「……あいつだけやない。俺がだまし討ちにした連中、みんな俺を恨んでるんやろうな。」


取り返しのつかないことをしてしまった――。

その自覚が、今更ながら冷たい刃となって敬吾の胸を抉る。

かつて「成功」の名の下に踏みにじった友人たちの顔が次々と浮かんでは消え、敬吾は逃げ場のない後悔と恐怖に震えながら、深い眠りへと落ちていった。


---


翌朝、重い身体を引きずるようにして工場へ出勤する。

金曜日、世間は「華金」と浮き足立ち、終業後には同僚たちが「一杯行こうか」と盛り上がっているが、敬吾には無縁の話だ。


誰にも見つからないよう、そして何より岸見のような「過去の被害者」に鉢合わせないことを祈りながら、彼は逃げるように帰路についた。

夕食の買い出しのためにスーパーマーケットへと向かう道、頭の中は岸見の冷徹な眼差しで支配されていた。


「……岸見に会わんことばっかり願って、ぼーっと歩いてたら、道間違えたか。」

ふと気づけば、見慣れない路地へと足を踏み入れていた。

一本裏に入っただけで、京都の街は迷路のような静寂を纏い始める。

そのまま進めば大通りに出るだろうと、敬吾はとぼとぼと歩みを早めた。


太陽が地平線の彼方へと沈み、空が群青色から本格的な闇へと塗り替えられようとしたその瞬間。


パッ……。


一本の古い街灯が、瞬きするように点灯した。

その頼りない光の輪の下、まるで最初からそこにいたかのように、じーっとこちらを見つめる視線があった。


長い銀髪を揺らし、零れ落ちそうなほどに丸い瞳をした小柄な女の子。

台形の形に開いた口が、無機質でどこか人間離れした雰囲気を醸し出している。

黒いベレー帽に、ズボンタイプの黒いセーラー服。


奇妙な装いの少女は、微動だにせず、敬吾の魂の深奥まで覗き込むような眼差しを向けていた。


敬吾が恐怖で足を止めた、その時。

少女は抑揚のない、しかしよく通る声で、静かに唇を動かした。


「えらいこっちゃ。」


その一言が、静まり返った路地に不気味な余韻を残して響き渡った。


---


## 誘いの銀髪、消えた半額惣菜と禁断の味


街灯の下、静止画のように佇む少女の姿に、敬吾は思わず足を止めて声を漏らした。

「……え?」


困惑する敬吾を余所に、少女は表情一つ変えず、しかしどこか誇らしげに淡々と自己紹介を始めた。

「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や。」


唐突な名乗りに、敬吾は毒気を抜かれたように瞬きを繰り返す。

「あ、ああ、そうなん? で、その、えらいこっちゃんは、俺になんか用なん?」


敬吾が恐る恐る尋ねると、少女の丸い瞳がさらに大きく見開かれた。

「マルチおっちゃん、えらいこっちゃ。」


その一言が、敬吾の心臓を鋭く射抜いた。

「え……?」


25年前の、誰にも知られたくない過去。

岸見に糾弾されたばかりの、あの忌まわしい呼び名を初対面の少女が口にしたことに、敬吾は全身の血が引くような衝撃を受ける。


しかし、少女は彼の動揺など意に介さぬ様子で、悲しげに首を振った。

「スーパーの半額総菜、売り切れてしまいよった。えらいこっちゃ。」


「あ、そうなん? そっか、えらいこっちゃんも、スーパーの半額総菜狙いやったんやね。あはは、売り切れたかあ。金曜日の夜は、みんな外食するから、むしろ余ると思ってたんやけどなあ。」

敬吾は自嘲気味に笑った。

孤独な自分と同じように、この少女もまた安売りの時間を狙っていたのかと思うと、僅かな親近感が湧いた。


「青椒肉絲と2枚重ねバーガー、売り切れてしまいよった、えらいこっちゃ。」

えらいこっちゃ嬢は、小さな手をぶんぶんと激しく振って悔しさを表現する。


「あ、それは俺の大好物や。陸上部時代は、ようコンビニのハンバーガーを昼飯にしてたし、部活終わったら食べてたで。青椒肉絲も肉たっぷりで、陸上で疲れた日に、よく母さんに作ってもろてたなあ……。」

敬吾の脳裏に、かつての眩しい放課後の光景と、食卓に並んだ温かな料理の香りが蘇る。

あの頃は、未来がこんなに暗いものだとは夢にも思っていなかった。


「ウチが働く食堂は、青椒肉絲と2枚重ねバーガーは絶品、えらいこっちゃな食べ応え。」

少女が意外な言葉を口にした。


「そうなん? えらいこっちゃんは、飲食店で働いてるんか?」

敬吾が問いかけると、彼女は力強く頷き、再び手をぶんぶんと振って肯定した。


「うちの食堂で晩御飯食べていきよし。空腹のままは、えらいこっちゃ。」


その誘いに、敬吾の乾いた心が微かに揺れる。

「そやな……。総菜売り切れやったら、たまには外食もええか。華金やもんな。それに……ちょっとええもん、食べたい気分やし。」


敬吾が観念したように呟いた、その時である。

ガシッ。

えらいこっちゃ嬢の小さな手が、敬吾の太い腕を掴んだ。


「え……?」

驚く暇もなかった。


「マルチおっちゃん御一名!」

少女の細い指先からは想像もつかない、ダンプカーに引っかけられたような凄まじい力が敬吾を襲う。


「ちょ、ちょっと! 待って、えらいこっちゃーー!」


敬吾の悲鳴が夜の路地に虚しく響き渡る中、彼は文字通り地面を滑るようにして、銀髪の少女に強引に引っ張られていった。

向かう先は、夜の闇にぽつんと灯る、一軒の奇妙な食堂の明かりであった。


---


## 摩訶不思議な誘い、業を背負う客と慈愛の主


えらいこっちゃ嬢は、困惑し狼狽える敬吾の手を引いたまま、迷いのない足取りで京都の入り組んだ路地を抜けていく。


やがて視界が開けた先に現れたのは、周囲の現代的な景観からそこだけが切り離されたような、古風で、しかし手入れの行き届いた美しい木造の建物であった。

ガシッと掴まれていた手がふっと離され、敬吾がおそるおそるその建物を見上げると、そこには温かな灯火に照らされた「摩訶不思議食堂」という、一際異彩を放つ看板が掲げられていたのである。


「えらいこっちゃなマルチおっちゃん御一名!」

えらいこっちゃ嬢が勢いよく引き戸を開け、店内に響き渡るような大声で叫んだ。


「……ちょ、ちょっと、変な呼び方せんといてくれ……。」

敬吾は顔を真っ赤にして俯きながら、促されるままに店内へと足を踏み入れる。


そこには磨き上げられた木のカウンターが伸び、どこか懐かしく、そして魂を鎮めるような線香の香りが微かに漂っていた。

えらいこっちゃ嬢に案内されるまま、敬吾は吸い寄せられるようにカウンター席へと腰を下ろしたが、彼女はそのまま「えらいこっちゃ」と呟きながら、足早に奥の厨房へと消えていった。


静まり返った店内で、敬吾は所在なげに自らの指先を見つめていた。

すると、カウンターの向こう側から、まるで霧が晴れるかのように、ぬうっと一体のお地蔵様のような人物が姿を現した。

それは、穏やかという言葉を体現したような、至福の微笑みを湛えた人物であった。


「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。そして御客様、ようこそいらっしゃいまし。私はここで店長をさせて頂いております。皆さんは地蔵店長と呼んで下さいます。」

地蔵店長は、一点の曇りもない「お地蔵さん笑顔」を浮かべ、胸の前で静かに合掌して深々とお辞儀をした。


「は、はあ……。えっと、高木です。高木敬吾です……。」

あまりに清らかなその佇まいに気圧され、敬吾は思わず本名を口にして、ぎこちなく頭を下げた。


25年間、誰に対しても虚勢を張り、あるいは逃げるように生きてきた彼にとって、これほど真正面から慈愛を向けられるのは、いつ以来の経験だっただろうか。


敬吾が緊張に身体を硬くしていると、いつの間にか傍らに気配があった。

見れば、先程の銀髪を揺らした少女が、黒いベレー帽はそのままに、黒の作務衣の上に真っ白で清潔な割烹着を着用した姿で立っていたのである。

彼女は、まるで古文書のような趣のある「お品書き」を手に持ち、じーっと敬吾を見据えながら、給仕としての凛とした空気を纏っていた。


「マルチおっちゃん。これ、お品書き、えらいこっちゃ。」

彼女の台形の形に開いた口から、再びその独特な呼び名が漏れたが、今の敬吾には、その言葉さえもが何らかの「縁」の始まりのように感じられていた。


---


## 異界の厨房、響き合う鼻歌と情熱の鉄板


えらいこっちゃ嬢は、無機質な動作でスッ……と年季の入った御品書きを敬吾の前に差し出した。

敬吾はどこか現実味のない心地でそれを受け取り、ゆっくりとページを開く。

そこには、墨で書かれたような力強い筆致で、一行のメニューが記されていた。


「青椒肉絲とマルチバーガーのマルチセット」


「……なんや、これ。えらいけったいな名前のメニューやな。それに、マルチ、マルチって……。」

敬吾は、引き攣ったような自嘲の笑みを浮かべ、独り言のように呟いた。


「俺のことまで『マルチおっちゃん』なんて呼ぶけど、俺はマルチやないよ。今はもう、たった一人や。……はは、一人者って意味で、マルチになれへん、独りぼっちの男や。」

自らの虚勢が招いた孤独を皮肉るように、敬吾は力なく肩を落とした。


「さっきも俺の好物で思い出の食べ物やって言うたけど……この『マルチバーガー』ってのは、一体どんなバーガーなんや? 想像もつかへんわ。」


敬吾が尋ねると、えらいこっちゃ嬢は台形の口を微かに動かし、感情を排した声で答えた。

「ジューシーパテが重なってる、えらいこっちゃな食べ応え。」


「お、つまりダブル……いや、マルチって事は、それ以上ってことかな。よっしゃ、ほなこのセットにするわ。今の俺には、それくらいの刺激が必要やしな。」

敬吾は御品書きを閉じ、えらいこっちゃ嬢に返した。


「えらいこっちゃなマルチセット一丁! 猫子ねここさんの青椒肉絲と、ダークエルフねえちゃんのバーガー、えらいこっちゃな絶品コンビ!」

彼女の鋭い掛け声が店内に響き渡ると、彼女はパタパタと足早に奥の厨房へと吸い込まれていった。


「猫子さんに、ダークエルフ……?」

聞き慣れない名前に首を傾げた敬吾は、吸い寄せられるようにカウンター越しに厨房の様子を窺った。

そこには、彼の常識を根底から覆す光景が広がっていたのである。


まず目に飛び込んできたのは、艶やかな黒髪に、ぴょこんと可愛らしい猫耳を覗かせた女性の姿だった。

猫子と呼ばれた彼女は、鮮やかな紅い着物に真っ白な割烹着を纏い、猫耳が出るように工夫された三角巾を器用に付けている。


「フンフフ〜ン♪」

鼻歌交じりに中華鍋を振るうその手捌きは鮮やかで、炎を操るようにして青椒肉絲を仕上げていく。


そのすぐ隣では、さらに異質な存在が鉄板に向き合っていた。


透き通るような白い髪を一本の三つ編みにして背中に垂らし、深い青色の瞳と、美しい褐色の肌を持つ女性。

何より目を引くのは、髪の隙間からピンと突き出した、長く尖った耳。

ファンタジー世界の物語に登場するダークエルフそのものの美貌を持つ彼女は、一流シェフが被るような長い白帽子を戴き、清潔感溢れるコックコートに身を包んでいた。


彼女もまた、猫子のリズムに合わせるように楽しげに鼻歌を口ずさみながら、手際よく分厚いパテを鉄板に並べていく。

ジューッ! という肉の焼ける官能的な音と、香ばしい脂の香りが、一気にカウンターまで押し寄せてきた。


「な、なんやこれ……コスプレか? いや、料理作るのにわざわざこんな気合の入った格好する必要ないよな?」

敬吾は目を丸くし、座席に深く沈み込むようにして驚愕した。


「お地蔵さんみたいな店長もおるし……俺、いつの間にか異世界にでも迷い込んだんか? ここは、ネットでよく見る異世界ものの料理屋なんか……?」


鉄板の上で踊る肉と、中華鍋で弾ける野菜。

二人の美女が織り成す不思議な調理風景を前に、敬吾は自らの後悔さえも一時忘れ、ただただ圧倒されるばかりであった。


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##黄金の雫と肉の咆哮、魂を震わせる「マルチセット」


厨房の奥から、胃袋を直接掴んで揺さぶるような、暴力的かつ芳醇な香りが溢れ出してきた。

ジュウウ……ッという、鉄板の上で肉の脂が弾ける官能的な音と、カンッカンッという小気味よい中華鍋の音が重なり合い、まるで極上の二重奏のように店内に響き渡る。

敬吾がその圧倒的な熱量に呆然としている間に、カウンターの向こう側で「完成」の合図が鳴った。


まず、えらいこっちゃ嬢が、湯気を豪快に立ち昇らせる青椒肉絲のトレイを恭しく捧げ持ってきた。

続いて、あの褐色の肌を持つダークエルフの女性が、二枚の分厚いパテを贅沢に積み上げ、瑞々しい新鮮野菜をたっぷりと挟み込んだ二枚重ねバーガーを手に、敬吾の元へと歩み寄る。

彼女たちは、その重厚な料理をカウンターの上へと、驚くほど静かに、そして丁寧に、一切の音を立てずに置いてみせた。


「熱いから、火傷しないように気を付けてね。」

ダークエルフの女性は、潤んだ青い瞳を細め、慈しむような柔和な笑みを浮かべてフッと囁いた。

至近距離で放たれたその人知を超えた美貌と、甘く落ち着いた声音に、敬吾は心臓がドクリと跳ね上がるのを感じ、思わず頬が熱くなる。


「あ……はい、どうも。ありがとうございます……。」

ようやく絞り出した声は、情けないほどに上ずっていたが、彼女は満足そうに微笑みを残すと、しなやかな動作で厨房の奥へと戻っていった。


余韻に浸る暇もなく、敬吾は横からの無言の圧力を感じて視線を巡らせた。

そこには、えらいこっちゃ嬢が微動だにせず立ち尽くし、零れ落ちそうなほど丸い瞳で、じーっと敬吾の顔を覗き込んでいた。

彼女は台形の口を真一文字に結んだまま、胸の前で両手を合わせる「合掌」のポーズを執拗に繰り返している。


「あ、ああ……頂きますをしろって事か。えっと……合掌。頂きます。」

敬吾が促されるままに両手を合わせ、深く頭を下げると、えらいこっちゃ嬢はどこか満足げな表情を浮かべ、ダークエルフの女性に続いてパタパタと厨房へ消えていった。


「ふう……。客もしっかり礼儀を守れって事か。まあ、これだけ格式のありそうな不思議な店や、それくらいの決まりは当然かもしれんな。」

敬吾は独り言をこぼし、改めて目の前に並んだ「奇跡のセット」に視線を落とした。


ハンバーガーの圧倒的なボリュームを計算してか、青椒肉絲の分量はやや控えめに調整されており、その計算し尽くされた盛り付けに職人の矜持を感じる。

二枚のパテから溢れ出す肉汁と、色鮮やかな野菜に彩られたハンバーガーの神々しい姿は、もはや芸術品の域に達していた。


「……凄く美味そうや。ほんまに、これ以上ないくらいに。」

牛肉の焦げた香ばしさと、ピーマンの瑞々しい香りが鼻腔をくすぐり、敬吾の喉は自然とごくりと鳴った。


もしも、陸上部の厳しい練習に明け暮れ、常に飢えた獣のようだった少年時代の自分がいまここにいたなら。

きっとこの目の前のセットを一瞬で平らげ、間髪入れずにおかわりを注文していただろう。


そんな遠い日の記憶を反芻しながら、敬吾は孤独な大人になって初めて、心からの期待に胸を膨らませて穏やかに笑った。


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##五感を震わせる「真実の味」、孤独な空腹が満たされる時


目の前に並んだ、相反するようでいて不思議な調和を見せる二つの主役。


敬吾はまず、箸の先を青椒肉絲へと伸ばした。

黄金色の油を纏い、絶妙な細さに切り揃えられたピーマンと筍、そしてそれらに見事に絡み合う豚肉の一片を、一度に口へと運ぶ。


シャキッ、という鮮やかな歯ごたえが鼓膜を叩いた直後、肉の旨味と筍の滋味、そしてピーマンの微かな苦みが、程よい甘辛さのソースと共に舌の上で爆発した。


「……っ! 青椒肉絲って、こんなに美味いもんなんや……。」

敬吾の口から、感嘆の吐息が漏れる。

それは、工場の味気ない弁当や、スーパーの冷めた惣菜では逆立ちしても味わえない、火と油の魔法がかけられた「本物」の味だった。


噛みしめるたびに、素材の瑞々しさが溢れ出し、喉を通るたびに心の奥底がじんわりと温かくなっていく。

気づけば、敬吾の険しかった表情は、雪解けのように柔らかな「ほっこり」とした笑顔へと変わっていた。


「ほんま、箸が止まらへんわ。……これ、白い御飯が猛烈に欲しいところやけど、まだ隣にこの2枚重ねのハンバーガーが控えてるからな。……よし、決めた。今度来た時は、絶対に青椒肉絲と御飯のコンビでガッツリいかせてもらうわ。」


独り言を呟きながらも、敬吾の手は止まらない。

最後の一欠片まで名残惜しそうに、しかし夢中で青椒肉絲を完食した。


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一呼吸置き、敬吾はいよいよ真打ち、「マルチバーガー」へと手を伸ばした。

ずっしりとした重み。

そのボリュームに圧倒されながらも、大きく口を開けて豪快にかぶりつく。


「…………う、うまっ……!!」

思わず唸り声が漏れた。


世に溢れるハンバーガーショップの、どこかジャンクでこってりとし過ぎた味とは一線を画している。それでいて、家庭的な手作りバーガーのような物足りなさは一切ない。

肉汁が溢れる二枚のパテは、力強い肉の旨味を主張しながらも、驚くほど後味が澄んでいる。

味付けは、もはや「完璧」という言葉以外に見当たらないほどの黄金比で調えられていた。


共に挟まれたレタスやトマトも、先程の青椒肉絲同様、驚くほど新鮮であることがその弾力ある歯ごたえから伝わってくる。


「これ、中学の頃に知ってたら、絶対に病みつきになってるで。部活帰りにこんなもん食べられたら、それだけで次の日の練習も頑張れたはずや。……こんなに美味いハンバーガー食べたの、生まれて初めてやわ。」

敬吾の心に、またしても温かな「ほっこり」とした感覚が広がっていく。

和食の趣が強いこの店で、まさかこれほどまでに魂を揺さぶるアメリカンな逸品に出会えるとは、想像だにしていなかった。


「……もっと早く、この店を知りたかったなぁ。」

敬吾は、一口ひと口を愛おしむように、ゆっくりと時間をかけて食べ進めた。


新鮮な野菜のシャキシャキ感と、肉のダイナミックな食感。それらを包み込む香ばしいバンズ。

最後の一口を飲み込み、敬吾の胸には、25年間の孤独や岸見への恐怖を一時的に忘れさせるほどの、深い充実感が満ち溢れていた。


久方ぶりに、心の底から「美味しい」と思える、ほっこりと温かな食事。

高木敬吾という一人の男の凍てついた魂が、摩訶不思議食堂の料理によって、静かに、しかし確実に解きほぐされていったのである。


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## 沈黙を破る鈴の音、糾弾の毛皮と開かれた扉


ハンバーガーの最後の一片を名残惜しそうに咀嚼し、嚥下した敬吾は、ふと自分に向けられた強い視線に気づいて顔を上げた。

カウンターの隅、影に溶け込むようにして、えらいこっちゃ嬢が瞬きもせず、零れ落ちそうなほどに丸い瞳で、じーっとこちらを観察していたのである。

その無機質な眼差しに、敬吾は慌てて背筋を伸ばした。


「あ、えっと……御馳走様でした。」

彼がぎこちなく両手を合わせ、深々と合掌の礼を捧げると、彼女はどこか満足げな様子で小さく首を縦に振り、音もなく厨房の奥へと戻っていった。


入れ違いに、柔らかな足音と共に現れたのは、あの褐色の肌を持つダークエルフの美女であった。

彼女は、美しく磨き上げられたトレイの上に、熱気を帯びた珈琲と、角砂糖がちょこんと乗った小皿、そして真っ白な珈琲用ミルクが満たされた小さな陶器を乗せていた。


「食後の珈琲さね。淹れたてで凄く熱いから、火傷しないように気をつけてね。」


フッと慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、彼女は一切の音を立てずにトレイを置き、再び優雅な動作で厨房へと消えていった。

そのあまりに完成された美貌の残り香に、敬吾はまたしてもドクリと心臓を跳ねさせる。


そうして、まずはブラックのまま一口、その芳醇な香りと深い苦みを愉しむ。


「……はぁ。珈琲まで、こんなに美味いんやな。」

ハンバーガーの力強い肉の旨味を、珈琲の清涼な苦みが鮮やかに洗い流していくその絶妙な調和に、敬吾の心には再び温かな「ほっこり」とした感覚が広がった。


彼は添えられた角砂糖を1つ落とし、陶器からとろりとミルクを注ぎ入れた。

琥珀色に染まったそれを啜れば、優しい甘みが全身の疲れを解きほぐしていくようであった。


「ほんま、ええ店見つけたな。まあ、見つけた言うても、えらいこっちゃんに半ば強引に連れてきてもろたんやけど……。これなら、たまの贅沢に常連になってもええかもな。」

笑いながら、敬吾は久々に訪れた心の平穏を噛み締めていた。

しかし、その安らぎは、唐突に現れた異質な気配によって無残に切り裂かれることとなる。


厨房からパタパタと足音を響かせ、えらいこっちゃ嬢が再び姿を現した。

しかし、その首元には、割烹着姿には到底似つかわしくない、艶やかな光沢と圧倒的な質感を放つ毛皮のマフラーのようなものが、重々しく巻き付けられていたのである。


「なんや、えらいこっちゃん。えらい御洒落やんか。そのマフラー、よう似合ってるで。」

敬吾が冗談めかして笑いかけると、彼女は台形の口を微かに動かし、冷徹な響きを含んだ声を発した。

「マルチな毛皮、えらいこっちゃな高額商品。」


「え……? ああ、そうなん? まあ、確かに見るからに高そうな感じはするな、はは……。」


敬吾の乾いた笑いは、彼女が放った次の一言で凍りついた。


「毛皮売りつけて、仲間を勧誘しまくったマルチおっちゃん。えらいこっちゃ。」

びしっ、と。

彼女の小さな人差し指が、敬吾の鼻先を射抜くように突きつけられた。


「え……っ!?」

敬吾は目を丸くし、全身の血が足元から引いていくような感覚に襲われた。


25年前、自らの手で汚した過去。親さえも盾にし、友人たちの信頼を毛皮に変えて売り飛ばした、あの忌まわしい記憶。

それを、初対面の少女に、この「ほっこり」とした空間で突きつけられたのである。


ガタッ……!

敬吾が動揺のあまり椅子を鳴らした、その瞬間であった。

店内に、乾いた、しかし冷たい入店音が響き渡った。


カランコロン……。


夜の帳を連れてくるかのように、重厚な扉がゆっくりと、しかし確かな意思を持って押し開かれた。

開かれた扉の向こう側から、夜の冷気と共に、新たな「誰か」が静かにその足を踏み入れてきたのである。


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## 黄金の瞳と断罪の包み、鬼のギャルは微笑む


カランコロン……。


静寂を切り裂く入店音と共に、夜の冷気と「圧倒的な華」が店内に流れ込んできた。

えらいこっちゃ嬢の言葉に動揺のあまり椅子を鳴らした敬吾が、縋るように入口を振り返った瞬間、その視界は鮮烈な色彩によって塗り替えられた。

そこに立っていたのは、女子高生くらいの瑞々しさを湛えた、金髪の超絶美少女であった。


黒地に黄金の花刺繍が豪華にあつらえられた着物を艶やかに着こなし、その頭上、美しい金色の髪の間からは、二本の漆黒の鎌状の角が左右に鋭く突き出している。

金色の長い髪はシュシュで左側にまとめられ、サイドテールとして肩に流されており、どこか「ギャル」を思わせる奔放な風貌と、人知を超えた美貌のアンバランスさに、敬吾は息を呑んで固まる。

彼女の右手には、中身の詰まった大きめの風呂敷包みが、ずっしりと提げられていた。


女鬼じょきさん、いらっしゃいまし。御疲れ様で御座います。」

地蔵店長が、穏やかなお地蔵さん笑顔を浮かべ、一点の曇りもない所作で合掌してお辞儀をした。


「女鬼ねえちゃん、いらっしゃいのお疲れちゃん! えらいこっちゃなグッドタイミング!」

えらいこっちゃ嬢が、毛皮のマフラーを揺らしながら、ちぎれんばかりに両手をぶんぶんと振って歓迎の意を示す。


「いらっしゃいましー、今日の賄いは青椒肉絲とパテ重ね乗せハンバーガーですえー。」

猫子もひょっこりと厨房から顔を出して挨拶をした後、顔を引っ込める。


「地蔵店長、えらいこっちゃん、猫子さん、ダークエルフちゃん、おつー♪」

女鬼と呼ばれた美少女は、その黄金の瞳を細め、ひらひらと軽やかに手を振って挨拶を返した。


「女鬼ちゃん、御疲れさん。丁度いい頃合いさね。ついでに言うと、珈琲には苦い思い出は無さそうな感じだよ、このマルチおっちゃんは。」

厨房からひょっこりと顔を出したダークエルフが、茶目っ気たっぷりに笑い、敬吾をからかうように顎をしゃくった。


「そりゃダークエルフちゃんの珈琲は絶品だかんねー。頭ん中は今、その美味しさでいっぱいになっちゃって、過去の悪事どころじゃなくなっちゃったんかも♪」

彼女の陽気で明るい笑顔は、まるで春の陽光のようでありながら、その言葉の端々には鋭いナイフのような「確信」が潜んでいる。

女鬼は、一歩一歩が舞いであるかのような美しい所作でカウンター席まで歩み寄ってきた。


「あはは♪ えらいこっちゃんの毛皮マフラー、似合ってる似合ってる♪ 超イケてるじゃん!」

女鬼は、えらいこっちゃ嬢のベレー帽の上から、優しくその頭をなでた。

えらいこっちゃ嬢は、それが最高に嬉しいと言わんばかりに、再び両手をぶんぶんと振って御機嫌をアピールする。


敬吾は、突如として現れた「金髪鬼の超絶美少女」という、あまりにも浮世離れした存在に心を奪われ、ただ呆然と口を開けてその一挙手一投足を追うことしかできなかった。

しかし、その「華」のような雰囲気は、彼女が次の動作に移った瞬間に一変した。


女鬼は、手に提げていた大きな風呂敷包みを、カウンターの上にそっと置いた。

それは、ずっしりとした重量感を感じさせながらも、一切の音を立てない、恐ろしいほどに洗練された所作であった。


スッ……。


その微かな、しかし決定的な音が、敬吾の鼓膜を震わせる。

風呂敷の結び目が、彼女の白く細い指先によってゆっくりと解かれ始めた。


その包みの中に、一体何が隠されているのか。

敬吾の背中に、再び嫌な汗が伝い落ちた。


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##開かれた過去帳、地獄の業火と「コミッション」の虚飾


女鬼の白く細い指先が、まるで芸術品を扱うかのような淀みない所作で、大きな風呂敷の結び目を解いていく。

さらりと滑り落ちた布の中から姿を現したのは、かつて敬吾が「成功者の証」として心酔し、友人たちの信頼を切り売りしてまで追い求めた、あの艶やかな光沢を放つ毛皮のショールであった。


そして、その上に鎮座していたのは、時の重みを感じさせる古色蒼然とした折本だ。

表紙には、墨痕鮮やかに「過去帳写し:高木敬吾」という、逃れようのない自らの名が記されていた。


「毛皮……? えっ……と、女鬼ちゃんって呼ばれてたよな。女鬼ちゃん、もしかして毛皮の販売員か何かか?」

敬吾は、引き攣った笑みを浮かべ、必死に喉の渇きを堪えながら冗談めかして問いかけた。


目の前に突きつけられた、自らの暗部を象徴する品々。

そこから放たれる無言の圧力を、何とかして「現実の出来事」の枠内に押し込めようと足掻いていた。


「んー、はずれっ♪」

女鬼は金色の瞳をいたずらっぽく細めると、薄い唇の両端をキュッと吊り上げた。


「むしろ、それってマルチおっちゃんの方の担当じゃね?」

彼女は、まるでファッションの好みを尋ねるかのような軽やかな仕草で、人差し指を自らの顎に当て、小首をかしげて見せた。

その仕草は、どこからどう見ても現代の女子高生やギャルのように可愛らしいものだったが、敬吾は反射的に、激しい拒絶の言葉を叩きつけた。


「い、いや! それは……それは大昔、20代の頃の未熟な時の話や! って、なんで君がそんなこと知ってるんよ。それに、君ぐらいの年齢の子に毛皮を売った覚えなんてこれっぽっちもないし、そもそも、その頃はまだ君みたいな年齢の子は、この世に生まれてすらおらんはずやろ……!」

敬吾は、自らの震える声を隠すように、乾いた笑いを漏らした。

時間の壁さえあれば、この美少女の追及から逃げられると信じたかった。


「年齢を言っちゃうとさ、こっち側の価値観とか尺度じゃ測れないんだけどねー。まあ、年の話はいいとして……。」

女鬼は、敬吾の反論など最初から興味がないかのように聞き流すと、スッと迷いのない動作で折本――過去帳を手に取った。

彼女は折本の表紙を、トントン……と、指先で軽やかに叩く。その一定のリズムを刻む音が、敬吾の心臓に直接響き渡る。


「毛皮を無理やり売りさばきながらさー、必死こいて仲間を勧誘してたよね? 喫茶店に複数人でターゲットを囲んで、何時間も拘束して詰め寄っちゃって。あの時のおっちゃんの先輩って奴、めっちゃくちゃ失礼なことしてたっけ。初対面の人にいきなりタメ口で、上から目線で偉そうに説教垂れるような真似しちゃったりしてさ。おまけに煙草の煙を吹きかけるとか、見てるこっちが恥ずかしくなっちゃうレベルでやらかしてたよね?」


「!? な、なんで……なんでそんなことまで、君が……っ。」

敬吾の顔から、一気に血の気が引いていく。


25年前、煙草の煙が充満した喫茶店の奥のボックス席で繰り広げられた、あの醜悪な密室劇。

良心を麻痺させ、友人を「数字」としてしか見ていなかった自分たちの傲慢な姿を、なぜこの少女は、まるでその場にいたかのように語れるのか。


「あとさ、なんだっけ? 入ってくるお金のことを『コミッション』とか呼んでたっけ? なんなのさコミッションて。意味わかんないんだけど? 素直にお給料とか、もっと分かりやすい言葉でいいじゃんよ。 当時は組織ぐるみで『横文字カッケー』とか思っちゃってた感じ? それとも、なんか後ろめたいことを煙に巻いて誤魔化すためだったとか?」

女鬼の言葉は、まるで鋭利なメスのように、敬吾が25年間抱え続けてきた「虚飾」を一つひとつ剥ぎ取っていく。


「な、なっ!? ちょっと待て、なんでそんなことまで知っとるんよ! な、なんなんや君は、一体なにもんなんや……っ!」

驚愕と恐怖のあまり、敬吾は椅子から転げ落ちそうになりながら叫んだ。

すると、隣で毛皮を巻いていたえらいこっちゃ嬢が、待ってましたと言わんばかりに激しく動き出した。


「女鬼ねえちゃんを甘く見たらえらいこっちゃ! 女鬼ねえちゃんは閻魔大王も地獄極楽のお偉いさん達も、みんな揃って頭が上がらん! 細マッチョで喧嘩の強さも地獄極楽一の超エリート鬼! 超絶シゴデキ鬼のギャル美少女! 嘘ついても全部バレバレ、舌引っこ抜かれて、えらいこっちゃ!」

えらいこっちゃ嬢は、ちぎれんばかりに両手をぶんぶんと振り、女鬼の正体を興奮気味に捲し立てた。

彼女の丸い瞳は、畏敬の念でいっぱいに輝いている。


女鬼は、その言葉を聞いてフフッと柔らかく、どこか楽しげに微笑んだ。

「ありがと♪ えらいこっちゃんにめっちゃ褒められちゃった♪あっでも、舌を引っこ抜くのは、基本的には閻魔さんとこの担当者か、閻魔さん直々の仕事だかんね。あーしも出来るっちゃ出来るけど、今はそういう担当じゃないかな♪」

彼女は、まるで明日の天気を予想するかのような軽い調子で、とんでもない地獄の刑罰を平然と言い放った。


黄金の瞳に射抜かれた敬吾は、もはや恐怖で声も出せず、ただガチガチと歯の根を鳴らしながら、自らの罪が曝け出されていくこの異界の夜に震えることしかできなかった。


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## 逃れられぬ業の鎖、静寂を切り裂く審判の珈琲


「あの、もしかして君は、俺が昔に勧誘した人の子供か何かなんか? それで俺に復讐したり、返品の為に来たとか、そういうことか?」

敬吾は、引き攣った笑みを浮かべ、必死に喉の渇きを堪えながら問いかけた。


目の前に突きつけられた、自らの暗部を象徴する毛皮のショール。

そこから放たれる無言の圧力を、何とかして「現実的な因縁」という枠内に押し込めようと足掻いていた。


「んー、あーしはマルチおっちゃんの被害に遭った誰かの子供でもないし、返品しに来たわけでもないよ。それに、25年も経っちゃってるとクーリングオフなんて法律上は出来ないじゃん。あーしも、そんな無駄なことをしに来るほど、暇じゃないんだよね。」

女鬼は呆れたように肩をすくめ、長い金色のサイドテールを揺らした。

その態度はどこまでも現代の若者らしい軽薄さを装っているが、金色の瞳の奥に宿る冷徹な光は、一切の言い逃れを許さない刃となって敬吾を射抜いている。


「そりゃまあ、そやけど……。じゃあ、一体なんの用なんや?」


「あーしの仕事はね、クーリングオフを代わりにしてあげることでもなければ、個人的な復讐でもないんよ。簡単に言うと……マルチおっちゃんに、自分自身の魂が今どこに立っているのか、それを『自覚』させること。それが今回のあーしの役目。」

女鬼は、ピッと細い人差し指を立て、敬吾の鼻先を真っ直ぐに指し示した。


「自覚、て……。それに、さっきからみんなして『マルチおっちゃん』って言うけど、俺はもうマルチなんてやってへんよ! あの会社はとっくに警察に潰されて壊滅したし、俺もとっくに足を洗ったんやから! 今更そんな風に呼ばれる筋合いはないはずや!」

敬吾は、自らの潔白を証明するかのように声を荒らげた。

自分はもう過去とは決別したのだという、25年間自分に言い聞かせ続けてきた、脆く崩れやすい「免罪符」を必死に掲げる。


「……『足を洗った』?」

女鬼の声が、不意に地を這うような低いトーンへと変貌した。

その圧倒的な圧力プレッシャーに、敬吾の身体は反射的にびくっと跳ね上がる。


「足洗ったって言うけどさー、それで禊を済ませたとでも思っちゃってる感じ? 全身ずぶずぶで組織に思いっきり洗脳されて、他人様に不要な高いもんを売りつけた挙句……『同窓会の相談』だとか何だとか嘘ついて、他人様の大切な時間を、最高に不快な思いをさせる形で奪っておきながら、自分は何の償いもしないで、ただ時間が経ったからって勝手に赦された気になってんの?それ、単に逃げてるだけだよね?」

女鬼の言葉は、氷の刃となって敬吾の胸の奥底に溜まった澱みを抉り出す。


「いや、そんなことは……。」


「組織が壊滅した後はどっか別の街へ逃げてって、ほとぼりが冷めた頃にまたこっそり戻って来たってのがさ、あんたに罪の意識も無ければ、ただ勝手に『過去のこと』にして時効にしちゃってる、その卑怯な在り方を如実に表してんじゃん。口先だけの反省なんて、この世の誰も、ましてや地獄の住人も観ちゃくれないよ? あーしらが観てるのは、その上辺の言葉じゃなくて、あんたの行動と、そこから透けて観える逃げ続けてきた魂の在り方だからさ。」

言い放たれた冷酷な事実に、敬吾はたじろぎ、言葉を失った。


「そんじゃ、マルチおっちゃんが昔、仲間と一緒に人を囲んでやらかし続けた、あのどんよりした空気の喫茶店の味を再現した珈琲、アタイが特別に淹れてみよっか? そしたら嫌でも当時の自分の醜さを思い出すんじゃないかねえ。」

厨房から深い溜息と共に、ダークエルフの女性が静かに歩み寄ってきた。

彼女の青い瞳は、慈悲と同時に、逃げ続ける者への憐れみを湛えている。


「時間がたてば自動的に罪が消えて時効になるとか、この世界にそんな都合のいいルールはありえないから。積み上げた『ごう』が自然に消えることは絶対にないんだよ。やられた側からすれば、おっちゃんはいつまで経っても、何年経っても『マルチおっちゃん』でしかないし、『マルチ商法の加害者』でしかないんだから。そこんとこ、おわかり?」

女鬼は、最後にぴしゃりと、決定的な断罪を言い放った。


敬吾は、ガチガチと歯の根を鳴らし、全身の毛穴から冷や汗が噴き出すのを感じていた。

目の前のお地蔵さんのような店長も、銀髪の少女も、絶世の美女も、そして目の前の鬼のギャルも。

ここにいる連中は全員、自分が25年前に犯し、心の奥底に封印していた汚れた過去の行いを、指紋一つに至るまで全て把握している。


これは偶然の出会いなどではない。

逃げ続けてきた自分の「業」を断罪し、逃げ場を完全に失わせるために用意された魂の裁判所なのだと、敬吾は今さらながらに思い知り、底知れぬ絶望に震え上がった。


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## 剥がされた被害者の仮面、逃避の果ての断罪


「確かにあの頃は、誘われた事がマルチやって見抜けへんかったし、それで洗脳されて、同級生達に嫌な思いさせてしもたけど……。」

敬吾は脂ぎった指先を震わせながら、喉元まで出かかった苦しい弁明を絞り出した。

かつての栄光を夢見た浅はかな自分を状況のせいにすることで、今なお重くのしかかる良心の呵責から逃れようと必死だった。


「『しもたけど』の後は、一体何が続くん? 『若気の至りだから自分は悪くない』とか、『本当は自分も被害者だ』とか、そんな風に自分を甘やかして逃げようっての?」

女鬼は、金色の瞳を嘲るように細めると、冷ややかな言葉を叩きつけた。

その言葉は、敬吾が自らの心に幾重にも巻き付けていた「言い訳」という名の包帯を、容赦なく引き剥がしていく。


「そ、それは……。でも、俺かて被害者の一人やろ? 加害者に回ったんは確かやけど、でも、俺かてある意味、最初にあいつらに騙されて被害受けたわけやし……。」

敬吾は、自らの正当性を守るための最後の砦として、自己弁護を捲し立てた。

自分が傷つけた人々の痛みよりも、自分が騙されたことへの哀れみを優先させるその姿は、あまりにも身勝手で醜悪なものであった。


「そんじゃあさー、マルチおっちゃんがその汚い手口で勧誘した人達全員に、今の言葉をそのまま言うてみ? なんて返って来るかねえ? 手始めに、こないだ再会したトレーナーさんに言ってみたら?」

女鬼は、まるで見世物の結末を知っている観客のように、不敵な笑みを浮かべて言い放った。


「ま、結果は観えてるけどねえ。被害者面すんなって吐き捨てられて、ボクシング体験コースの範囲内って事で、スパーリングでフルボッコにされるのがオチだろうさね。」

厨房の柱に背を預けたダークエルフが、心底呆れたように深い溜息を漏らした。

彼女の冷徹な指摘に、敬吾の脳裏には岸見のあの鋼のような拳と、軽蔑に満ちた眼差しが鮮明に蘇り、背筋に凍りつくような悪寒が走る。


「大体さー、トレーナーさんにビビり散らかして、けじめも付けずに逃げて来たのって、過去と向き合って引き受けたうえで誠心誠意謝罪する気はさらさらないって事でしょ?」

女鬼は過去帳の表紙を爪で軽く弾きながら、鼻で笑った。

逃げ出すことで問題を先送りにし、なかったことにしようとする敬吾の姑息な本性が、彼女の鋭い観察眼によって完膚なきまでに曝け出される。


「マルチ商法、いわゆるマルチレベルマーケティングだとかいうやつは、被害者が容易に加害者へと反転する不気味な連鎖となるさね。マルチおっちゃんも、最初は確かに純粋な被害者側だったかも知れないけどさ、あんたの手で泥水を飲まされた被害者たちからすりゃ、あんたは徹頭徹尾、加害者側にしか見られない。被害者面なんて出来るわけないし、何より、被害者面をしちゃいけないさね。」

ダークエルフの言葉は、静かながらも圧倒的な重量感を持って敬吾の魂を圧迫した。

被害者であったという事実は、誰かを傷つけた瞬間に、加害の免罪符にはなり得ないという厳然たる真理。


「マルチおっちゃんってさ、今流行りの闇バイトとかにも手を出して、散々実行犯やった挙句に『自分は指示されただけの被害者だ』とか平気で言ってそうだよねー。」

女鬼は、軽蔑を隠そうともせずに吐き捨てた。

その言葉の一つ一つが、敬吾が築き上げてきた薄っぺらな平穏を粉々に打ち砕いていく。


「ま、とにかく、償うどころか、過去をなかったことにしようと、時効だなんだと逃げ回り続けてるから、あんたはいつまで経っても『マルチおっちゃん』なわけよ。勿論、どんだけ住む街を変えても、どれだけ年月が過ぎても逃げ切れることは絶対にないからね。ここにちゃーんと、逃れようのないあんたの業が記されてっから。これは写しだけどさ。」

女鬼がトントンと過去帳の表紙を叩く乾いた音が、静まり返った店内に冷酷に響き渡った。


「そ、そんな……。」

敬吾は、膝の力が抜け、ガタガタと震える手でカウンターを掴むのが精一杯だった。

25年という歳月をかけて遠ざけてきたはずの「罪」が、今この瞬間、逃げ場のない檻となって自分を閉じ込めたことを、彼は今さらながらに思い知り、愕然としてその場に崩れ落ちそうになった。


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## 醜い擦り付け、底知れぬ浅ましさと冷徹な宣告


「でも、それでも、俺を誘った奴らだって、同罪やん! 俺だけこんなに責められるなんて不公平や! あいつらの方が先に始めて、俺をあんな泥沼に引きずり込んだんやぞ!」

敬吾は顔を真っ赤にし、カウンターを叩かんばかりの勢いで身を乗り出した。


自分一人が悪者にされ、この異様な空間で袋叩きに遭っているという被害妄想が、彼のなけなしの自尊心を逆なでし、醜い怒りとなって噴出したのである。

自分を勧誘した先輩や、共に甘い汁を吸おうとした組織の人間を引き合いに出すことで、自らの罪の重さを少しでも希釈しようとする。

それは、25年間逃げ続けてきた男が繰り返してきた、あまりにも身勝手で幼稚な生存戦略であった。


その醜い叫びに対し、ダークエルフの女性と女鬼の二人は、示し合わせたかのように深く、重苦しい呆れの溜息を吐き出した。

その吐息は、敬吾の放った言葉がいかに価値のないゴミ屑であるかを物語っていた。


「えらいこっちゃー……。」

えらいこっちゃ嬢もまた、その丸い瞳に深い落胆の色を浮かべ、やれやれと言った様子で首を振る。


「ほんっと、わかり易いくらいに肝っ玉の小さい悪党だねえ。自分だけが泥を被るのが、そんなに怖いのかい?」

ダークエルフは、腕を組みながら冷ややかな声で敬吾を見下した。


「自分の事を棚に上げて『あいつらはもっと悪い』とか『あいつらはこうだったから、まずはあいつらを罰しろ』とか、自分の話から逸らしちゃうその浅ましさと頭の悪さ。こりゃいよいよ、世間を騒がせてる闇サイトの実行犯まっしぐらじゃね?」

女鬼は、金色の瞳を鋭く尖らせ、容赦のない言葉で敬吾の心臓を抉る。


「いや、だって……あいつらだって、今ものうのうと生きてるかもしれんし、俺だけがこんな目に遭うのは納得いかへんやろ……。」


「今はさー、マルチおっちゃんの話をしてんだよね。 心配しなくても、あんたが指差した他の悪党連中は、それぞれ別個にきっちりと裁かれんだから、あんたがわざわざ他人の心配する必要なんてないわけ。おわかり?」

女鬼は、ピシャリと、まるで見えない壁を築くように手のひらを敬吾に向けた。


「見苦しい言い訳をして論点をずらそうったって、ここから逃げられやしないんだよ。今し方、女鬼ちゃんが懇切丁寧に教えてくれたってのに、まだ理解出来なかったのかい? それとも、頭と耳の治療でもして欲しいのかい?」

ダークエルフは、エルフ特有の長く尖った耳を、挑発的にピクピクと動かしてみせた。

その動作は優雅でありながらも、反論を許さない冷徹な威圧感を放っていた。


「往生際も頭も悪いのは十分にわかったからさ。もう、そのみっともない真似はやめときなよ? 騒げば騒ぐほど、惨めになるのはマルチおっちゃん自身なんだから。」

女鬼は呆れ果てた溜息と共に、まるで汚い物でも見るかのような視線を敬吾に投げかけた。


「かっこ悪すぎて、えらいこっちゃ。」

えらいこっちゃ嬢が、これ以上ないほどの嫌悪を込めた、あきれ果てた声で追撃する。


「君ら、ちょっと酷過ぎひんか……? 容赦なさすぎやん……。」

敬吾は、全身の力が抜け、糸の切れた人形のように椅子の上で項垂れた。


逃げ場を失い、自らの浅ましさを四方八方から糾弾され、もはや一言の反論さえも喉の奥に詰まって出てこない。

ただ、25年間の逃走劇の果てに待っていた、あまりにも残酷で正当な報いに、敬吾はただ震えながら沈黙するしかなかったのである。


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##「謝罪」の虚像と、見落とされた罪の根源


「わ、わかった。もう見苦しい言い訳はせえへんし、話を逸らしたりもせえへんから……。」

敬吾は力なく両手を挙げ、白旗を揚げるように椅子の上で力なく項垂れた。

逃げ場を完全に塞がれ、自らの浅ましさを鏡のように突きつけられた今、これ以上の抵抗は自分をさらに惨めにするだけだと悟る。


「その……俺が悪いんは、ようわかった。そもそも、あの中学の頃は仏みたいに優しかった岸見が、あれだけ激しく怒って、俺を殴る価値さえないと断じたんやから……。相当ひどい事をしたんやなって事を、思い知らされたばっかりなんよ。正直、めちゃくちゃショックやった……。」

敬吾の脳裏には、ボクシングジムで再会した岸見の、射抜くような鋭い眼差しと、自分に向けられた冷徹な殺気が鮮明に焼き付いている。

かつて同じ陸上部で汗を流した部活仲間で、優しかった旧友にすら拒絶されたという事実は、25年間の逃避を続けてきた敬吾の心に、ようやく「後悔」という名の重い楔を打ち込んだ。


「そこに、君らがそんな追い打ちをかけてきたら、流石に……自分でも情けないって言うか。ちゃんと反省してる。だから、岸見にも、他の連中にも、ちゃんと正式に謝罪に行くと約束する。もし俺が逃げたり、不誠実な真似をしたりしたら……君らの事や、どこにいてもちゃんとわかるんやろ?」

敬吾は、消え入りそうな声で、しかし自分なりの誠実さを込めて言い放った。

自らの非を認め、謝罪という「けじめ」を付けることを決意したその横顔には、僅かながら一人の大人としての覚悟が宿っているように見えた。


「やっと少し、自分の置かれてる状況がわかって来たみたいだね。ま、これでもまだ、反省の度合いとしては半分も行って無いかな。」

女鬼は、金色の瞳を僅かに細め、鼻で笑うようにして吐き捨てた。


「え? いや、ちゃんと反省してるし、謝罪もきっちりしに行くって。あの頃は洗脳されてたからとか、正常な判断ができひん状態やったとか、そんな自分を擁護する言い訳は一切やめて、ほんまに向き合って頭下げる。信じてくれへんかもしれへんけど、信じて貰えるように努力するから。」

敬吾は、自らの真剣さを疑われたことに焦りを感じ、必死に言葉を重ねた。


「ふーん。悪いことしたとは、本気で思ってるんだ?」

女鬼は、肘をカウンターについて、品定めをするような視線を敬吾に向けた。


「そりゃあ、岸見があんなに怒ってた事とか……自分が洗脳から解けて、あのあくどい商売……いや、商売ちゃうな、あんなん詐欺みたいなもんやし。あくどい事をしてたんやなって事は、幹部が逮捕されて組織が崩壊してから、やっと気づいたから。ほんまに、ひどい事をしとったんやなって……。」

敬吾が、自らの過去を「詐欺」と断じ、悔恨の情を露わにしたその瞬間。


「「「…………えらいこっちゃあぁぁ。」」」

ダークエルフと女鬼、そしてえらいこっちゃ嬢の三人が、一斉に、そして深く、底知れない呆れを含んだ溜息を吐き出した。

その吐息は、冷たい北風のように店内の空気を凍りつかせ、敬吾の言葉を無価値な塵へと変えてしまった。


「え……? なんでそこで呆れるんや? 俺、ちゃんと自分の罪を認めて、詐欺やったって言うて……反省してるって言うてるやんか。」

敬吾は、三人の冷ややかな反応に困惑し、狼狽えた。


「根っこの部分。根本的な事が丸っきりわかってないだねー。やっぱりマルチおっちゃんは、このままだと闇バイトまっしぐらか、また同じような手にホイホイ引っかかるんじゃないかなーって思ってさー。」

女鬼は、心底うんざりしたといった様子で、首を横に振った。


「根っこの、部分……?」

敬吾は、女鬼の言葉を鸚鵡返しに繰り返した。


自分は確かに、友人を騙し、高額な毛皮を売りつけ、時間を奪い、そして信頼を裏切った。

それが罪であり、詐欺であったと認めたはずだ。


しかし、彼女たちが求めている「反省」の核心は、そこではないというのか。

「マルチ商法」という形式や、「詐欺」という行為そのものよりも、もっと深く、もっとおぞましい何かが、自分の内側に潜んでいるというのか。


敬吾は、目の前に並ぶ「異界の住人達」の、一切の妥協を許さない視線を浴びながら、自らがまだ気づいていない「本当の罪」の正体に怯え、再び暗い深淵へと引きずり込まれるような感覚に襲われていた。


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## 「親の威光」という名の盾、歪んだ権威の証明


「そもそもさー、なんでマルチおっちゃんは、マルチ商法なんてもんに加担しちゃったわけ?」

女鬼は、まるで放課後の教室で友人に世間話でも振るような軽さで、しかしその金色の瞳には一切の逃げ道を許さない鋭い審判の光を宿して問いかけた。

その問いは、敬吾が25年間、自分自身にさえ問いかけることを避けてきた、最も根源的な痛みを突くものだった。


「それは……当時は就職難、いわゆる『就職氷河期』っちゅう時代やったんや。なかなか就職が決まらへんかったのもあって、そんな精神的に追い詰められてた時に『ええ話があんねん』って誘われて……。」

敬吾は、当時の重苦しい社会の空気感を思い出すように、絞り出すような声で答えた。


何十社受けても届くのは不採用の通知ばかりで、社会から拒絶されているような強烈な疎外感に苛まれていたあの頃。

その心の隙間に滑り込んできた「成功」という名の甘い毒は、当時の彼にとって、暗闇の中に唯一差し伸べられた救いの手のように見えてしまったのだ。


「それでホイホイ着いてっちゃったわけだ。」

女鬼は、面白くもなさそうに鼻を鳴らし、退屈そうに長い爪を見つめた。


「まあ、今思えば浅はかやったかなって思う。でも、当時はまともな職に就けへんかったら人生終わりやっていう恐怖が凄まじかったんや。その焦りもあったから……まあ、言い訳やと言われたらそうなんやけど、ほんまに精神的にしんどかったんや。」

敬吾は、自らの心の脆さを正当化するように言葉を重ねた。

誰かに必要とされたい、何者かになりたいという切実な願いが、詐欺的な組織のロジックに塗りつぶされていった日々の記憶。


「それで、両親にもその話をしてな、認めてくれたって言うか、わかったって言ってくれて、その会社に入ったんや。」

敬吾がそう付け加えると、女鬼の口角が皮肉めいた形に吊り上がった。

「あー、それで『鉄道会社に勤める両親も認めてる仕事』って話に繋がるんだね。ま、犯罪はあくまで犯罪で、仕事じゃないけどさ。」


その言葉に、敬吾は一瞬言葉を詰まらせた。

「……ごもっともです。まあ、そやね。親も認めてくれたって事で、俺も自信を持って毛皮を売ったり、会員を増やす活動を始めたんや。」


「その時は、両親を説得するくらいには、マルチおっちゃん自身もどっぷり洗脳されてたってわけなんだねー。でもさー……。」

女鬼は、カウンターに肘をつき、不思議そうに小首をかしげて見せた。


「なんで勧誘する時に、いちいち『鉄道会社に勤める両親も認めてる』なんて、そんな個人的な情報を言う必要があんの?」

その予想だにしない角度からの問いに、敬吾は「え?」と間抜けな声を漏らし、戸惑いの表情を浮かべた。


「だってさ、自分のやってる事に自信があって、絶対に犯罪じゃない、素晴らしいビジネスだって本気で思ってんなら、わざわざそんな身内の職業まで持ち出す必要なんてなくない? どういう中身のことやってんのか、事実をそのまま伝えればいいじゃん。なんでわざわざ、誰々に認められてるとか、親がどうこうとか言ったわけ?」

女鬼の追及は、さらに鋭さを増して敬吾の胸に突き刺さる。


「それは……。」


「もっと言うとさ、後ろめたい事が一ミリも無かったら、わざわざそんな事言う必要ないよね? 『有名な誰々も認めた!』とか『大学教授お墨付き!』みたいな、世間体のいい看板を狙ったん? 自分のやってることに本当に自信があって、一点の曇りも後ろめたくないなら、そんな権威性バイアスの出来損ないみたいな補強、しなくていいじゃん。」

女鬼は、逃げようとする敬吾の瞳を黄金の輝きで射抜き、その魂の欺瞞を暴いていく。


「それってさー、本当は心のどっかで、猛烈な後ろめたさがあったんじゃないの? それを自分自身でも誤魔化すために、実直に働いてる両親の仕事まで無理やり巻き込んだんじゃない? はっきり言って、わざわざ『鉄道会社に勤める両親も認めてる』なんて言って勧誘してるその行為自体が、客観的に見て意味不明で、最高にダサいんだよね。」


女鬼の容赦のない突きつけに、敬吾は言葉を失い、ただ口をパクパクとさせることしかできなかった。

自分が「安心材料」だと思い込んでいたその言葉こそが、実は自らの「罪悪感」を覆い隠すための、最も醜い嘘の象徴であったことを突きつけられたのである。


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## 暴かれた「不義理」の正体、逃げ場なき沈黙の審判


「そりゃあね、洗脳を仕掛けてくる相手はさ、そういった事のプロフェッショナルなわけだから。まだ人生経験が浅い当時のマルチおっちゃんがコロッと洗脳されちゃうのは、しゃーない部分もあるってのはわかるよ。最も、それはマルチおっちゃん自身が言い訳に使っていい話じゃないけどね。」

女鬼は、突き放すような冷たさの中に、僅かながら「理解」という名の残酷な慈悲を混ぜて釘を刺した。

その金色の瞳には、若さゆえの過ちを認めつつも、その後の逃避を一切許さない絶対的な審判の光が宿っている。


「もしも心のどこかに僅かでも違和感があったり、後ろめたさを感じていたりしたにも関わらず、それを他者に強引に勧めたり勧誘したりしている時点で、あんたは自分がどれほど不義理なことをしでかしているか、その重大さに気づくことすらできなかったんだね。」

女鬼の言葉は、氷の刃となって敬吾の魂の深淵に澱んだ「自覚なき悪意」を暴き出していく。


「一体、何が本当の『不義理』なのか。マルチおっちゃん、あんたはそれを、ちゃんと自分の頭で理解できているのかい?」

柱に背を預けたダークエルフが、静かながらもカミソリのように鋭い問いを投げかけた。


「そ、それは……その……。」

敬吾は、何かを言いかけようとして、情けなく口ごもるしかなかった。

自らの口から出る言葉が、すべて自分をさらに貶める泥沼のような言い訳にしかならないことを、本能的に察知していたのである。


「そんじゃあね、アタイが例え話をしようか。アタイがもし、消費期限をとうに過ぎた食材や、口にしちゃいけない不衛生なものを使ってパンを焼いたとして。そのことに自分自身で後ろめたさを感じながらも、『これは世界最高のパン職人も絶賛だったから間違いない』なんて嘘を並べて、その後ろめたいパンを客に強引に売りつけたら、あんたはどう思うんだい? それは、目の前の人間に対して無礼極まりないし、この上ない不義理だとは思わないかい?」

ダークエルフの問いは、料理を愛する者としての誇りと、信頼を裏切る行為への静かな怒りに満ちていた。

その青い瞳に射抜かれ、敬吾は喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じる。


「……はい、思います。」

蚊の鳴くような声で、敬吾はそう答えるのが精一杯だった。

彼女の言う「後ろめたいパン」とは、まさに自分がかつて友人たちに売りつけた、あの高価な毛皮であり、歪んだビジネスそのものだったからだ。


「これで、自分が何をしていたかようやくわかったんじゃね? 後ろめたいことがあるのに、かつての友人を平然と、しかも強引に勧誘して、自分自身が後ろめたさを感じているその『毒』を、他人にも無理やり飲ませようとしたんだよ。そんなことされちゃ、そりゃあ相手は怒るし、縁を切られるのは必然の流れじゃん。あいつはマルチに手を出したって指差して言われて絶縁されるのは当たり前なんだよ。」

女鬼の容赦のない断罪が、静まり返った店内に冷酷に響き渡る。


「マルチおっちゃんはさ、自分自身の心も誤魔化した挙句、他人様に不誠実なことを平然としでかして、その上、責任も取らず、けじめもつけずにのうのうと生きて来たんだから。今のそのみじめな姿は、なるべくしてなったとしか言えないよね。誰のせいでもない、全部あんたが自分で選んで積み上げてきた『結果』なんよ。」

女鬼の言葉が、最後の一撃となって敬吾の胸に深く突き刺さった。


敬吾は、もはや一言の反論も、一滴の涙を流すことさえも許されないような絶望の中にいた。

自らの人生がいかに空虚で、いかに多くの不義理の上に築かれた砂の城であったか。

その残酷な真実を、異世界の住人たちに完膚なきまでに曝け出され、彼はただ沈黙の中で、己の罪の重さに押し潰されそうになりながら深く、深く項垂れるしかなかった。


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##「徳」を捨てた代償、孤立という名の無慈悲な解答


「……俺が悪いんは、十分にわかってるよ。でも、完全に縁を切られてしもて、謝りに会いに行こうにも会えんし、岸見はあんなに今でも怒ってて……俺、どうすれば……。」

敬吾は、自らの膝の上に置いた震える拳を見つめ、消え入りそうな声で漏らした。


かつての部活仲間にさえ「殴る価値も、生かしとく価値もあらへん」と断じられた絶望は、25年間の逃避を続けてきた彼の魂を、音を立てて粉砕するのに十分な破壊力を持っていた。

謝罪という言葉すらも、今や岸見という壁の前では無力な、ただの虚しい響きにしか聞こえない。


「それこそ、マルチあんちゃんが必死に頭回転させてもがき苦しみながら、なすべきことをなすしかないね。あーしらが懇切丁寧に答えを授けてあげられるもんじゃないし。」

女鬼は、突き放すような冷たさの中に、ある種の厳格な「正論」を込めて言い放った。


彼女はそのまま、カウンターの奥で静かに微笑んでいる人物へと視線を向ける。

ダークエルフも、そしてえらいこっちゃ嬢も、まるで導きを求めるかのように、一斉に店主の方を仰ぎ見た。


敬吾もまた、吸い寄せられるようにその視線を追い、カウンター越しに佇む地蔵店長を見上げた。

そこには、全てを包み込むような、慈悲深くも底知れない深淵を湛えた、ニコニコとした「お地蔵さん笑顔」があった。

地蔵店長は、敬吾の揺れ動く瞳を真っ直ぐに見据えたまま、胸の前で静かに合掌してお辞儀をした。


「悪徳商法は、悪の名がついている通り、悪を為し徳を捨てる行為に御座います。世の中には『徳を積む』という言葉や行為が御座いますが、まさに徳を積む事の真逆と言えましょう。」

店長の穏やかな、しかし重厚な鈴の音のような声が、静まり返った店内にゆっくりと染み渡っていく。


「マルチ商法に加え、ねずみ講等は、人の『縁』に直接影響を及ぼす事柄で御座います。」

店長は一度言葉を切り、敬吾の心にその真理が深く沈み込んでいくのを待った。


「洗脳されている時は、その愚かさに気づく事が困難ではありましょうが、マルチ商法等の悪徳商法にはまり、無理な勧誘をして自滅し、破綻するという事例は後を絶ちません。そうして、洗脳が解けた後、ふと周りを見渡せば誰もいなくなり、気が付けば孤立していたという話は、現世にはよくある話ではありませんかねえ。」


お地蔵さん笑顔のまま、淡々と突きつけられたその言葉は、敬吾が25年かけて築いてきた「平穏」という名の幻想を無残に引き裂いた。

自らが特別な悲劇の主人公などではなく、ただの愚かな「典型」に過ぎないという事実は、彼にとって何よりも残酷な毒として回った。


「当時は、そこまで考えられてなくて、気付く事も無くて……。でも、気が付けば、確かに誰も周りにおらんようになってました。よくある話、典型的なマルチに手を出した者の末路……。俺は、まさにその一人になってしもたんですね。」

敬吾は、再び深く、深く項垂れた。


自分が犯した「悪を為し、徳を捨てる」という行為が、どれほどまでに自分の人生の根底にある「縁」を腐らせていたのか。

組織が崩壊した後のあの総スカンも、街を離れた孤独な日々も、そして今の誰とも目を合わせられない生活も。

すべては、自分が蒔いた種が育てた、あまりにも必然的で、あまりにも「よくある」悲惨な果実であったのだと、彼は今更ながらに骨の髄まで思い知り、激しい後悔の念に身を焦がしたのである。


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## 「邪命」の果て、汚された恩愛と沈黙の親心


地蔵店長は、カウンターの奥で静かに合掌したまま、まるで全てを見通しているかのような穏やかな、しかし逃げ場のない「お地蔵さん笑顔」を絶やすことなく仏法を説き始めた。

「他者を騙したり、あるいは無理な勧誘によって大切な人間関係を破壊したりする金儲けの手段は、仏教の視点から観ますと、『邪命じゃみょう』と言う事が出来るかと存じます。」


「じゃみょう?」

敬吾は、聞き慣れないその響きを力なく復唱した。

その言葉が、自分の人生を定義する残酷な烙印のように感じられ、背筋に冷たいものが走る。


「邪命とは、邪な手段で生活をしたり、あるいは他者を害したり道徳的に不正な手段で糧を得たりする事を言います。本来であれば尊ぶべき人の御縁を金銭へと換算して、友人や家族を単なる『金儲けの道具』として扱う事で糧を得る行為は、まさに邪命と言えませんかねえ。」

地蔵店長の声は、春の陽だまりのように優しい響きを持っていたが、その内容は敬吾が25年間必死に目を逸らしてきた自らの罪悪感を、真っ向から抉り出す厳しさに満ちていた。


「長年かけて築いてきた友人や家族との掛け替えのない信頼を、自らの欲を満たすための単なる『収益の標的』へと変えてしまう。これは、尊い慈しみの心を汚す『恩愛おんあいの道具化』と言えましょう。」

地蔵店長は、一言ずつ噛み締めるように教えを説き、敬吾の魂にその真理を刻み込んでいく。


「……友達との縁を、家族との縁を、自分の欲望のために金に換える行為……。」

敬吾は、自らの震える指先を見つめながら、そのおぞましい言葉を呆然と呟いた。


かつて毛皮の展示会に同級生を誘い出した時、自分は彼らの顔を「友人」としてではなく、自分の懐を潤す「コミッション」と言う名の源泉、つまり自分が得る金銭としてしか見ていなかった。

その醜い本性を指摘され、敬吾は吐き気すら覚えるような自己嫌悪に襲われる。


「そのような事をして御縁を汚してしまうと、周りには『利』で繋がる者しか残らなくなります。それも、自分の利益しか関心がないという『我利』の者同士の縁です。そして最後には、そのような『利』だけで繋がった者達も、その『利』が無くなると同時に断絶される、あるいは断罪された挙句に関係も消滅してしまいます。そして残るのは、自らの徳を損ない、深い業を刻み付け、尊い御縁も途絶えてしまうという動かしようのない事実だけ。このことは、敬吾さん御自身が身を以て、痛いほどにご存じではないでしょうか。」

地蔵店長は、お地蔵さん笑顔のまま、静かにその事実を言い放った。


「利」が尽きた瞬間に霧散したかつての仲間たち、そして警察沙汰になった途端に自分を見捨てた幹部たちの冷たい顔が、敬吾の脳裏を次々と掠めていく。


「また、敬吾さん御自身の御縁が途絶えるだけでなく、残されたご家族も『マルチ商法に手を染めた者の家族』という消えないレッテルを貼られてしまう事にもなります。御自身だけの問題ではなく、守るべき大切なご家族の御縁までも、その身勝手な行為で汚すことになるのです。」


地蔵店長の優しい笑顔は、今や敬吾にとって何よりも鋭い刃となって、彼の心臓を突き刺していた。


「……俺は、両親から一度も責められた事は無かったけど。もしかしたら、俺の知らないところで、近所の人からそういう目で観られたり、心無い事を言われてたとしても、俺には何も言わずに黙っててくれたってことなんかな……。」

敬吾の目から、熱いものが溢れそうになる。


鉄道会社で実直に勤め上げ、真面目一筋だった両親。

そんな彼らが息子の不祥事によって、どれほど肩身の狭い思いをし、どれほどの「縁」を失ったのか。

それを想像するだけで、胸が張り裂けそうな申し訳なさが込み上げてくる。


「娑婆だとさ、家族の誰かが犯罪者になったりすると、途端に周りから『犯罪者一家』なんて言われたりする事は、往々にしてあるじゃんよ。悪いことするとね、その責め苦を受けるのは本人だけじゃないって事。御両親はきっと、マルチおっちゃんが何も知らないところで、相当な苦労をしたんじゃないかな……。」

女鬼は、いつもの陽気なギャルとしての顔を消し、どこか悲しげで慈愛に満ちた表情で、静かに、しかし残酷な真実を告げた。


「……ごめん。ほんまに、ごめん……。俺、なんて駄目な息子やったんや……。」

敬吾は、もはや顔を上げる事すらできず、カウンターに額を擦り付けるようにして深く、深く項垂れた。


両親が他界するまで、自分は一度でも彼らの抱えた苦悩に寄り添うことができただろうか。

親の信頼さえも商売の盾にしていた自分がいかに傲慢で、どれほどまでに彼らの人生を汚してしまったのか。

その救いようのない罪の重さに、敬吾はただ沈黙の中で震え続けることしかできなかったのである。


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## 新生の誓いと導きの灯、智慧の杖を手に歩み出す


深々と項垂れ、自らの過ちの重さに震える敬吾の前に、再び微かな湯気が立ち昇った。

トトト……という静かな音と共に、ダークエルフが空になったカップに、琥珀色に輝く新しい珈琲を注ぎ入れてくれる。

芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、凍てついていた敬吾の心に、僅かながらの温度を運んできた。


「己の過ちに気づいて、真に反省して、心から申し訳ないって思って……そこに確かな贖罪の念があるなら、ここが本当に大事な正念場さね。」

ダークエルフは、慈しむような柔らかな眼差しを向け、聖母のように優しく微笑んだ。


「口先だけで謝ったって、そんなんじゃ何一つ変わんないからね。特にマルチおっちゃんに騙されたり、酷い目に遭わされた人達はさ、言葉じゃなくてあんたのこれからの行動や行為を、滅茶苦茶シビアに見てるから。こっから先、どんな道を選んで、どんな生き方をしていくか。それだけが、あんたの魂を証明するんだよ。」

女鬼もまた、金色の瞳に温かな光を宿し、いつもの軽薄さを脱ぎ捨てた真剣な面持ちで頷いた。

彼女の言葉は、厳しくもありながら、逃げずに立ち上がろうとする者への力強いエールのように敬吾の胸に響く。


「己の過ち、そして自身の現在の状態や心の在り方に気づかねば、それを見直し、改善する事も出来ません。しかし、過ちに気づく事が出来たのであれば、二度と同じ過ちを犯さぬように、これからの生き方を正しく改める事が出来ます。敬吾さんは今、確かに大切な事に気づかれました。ここから、御自身を根本から改める為の、尊き一歩を踏み出す時で御座います。」

地蔵店長は、カウンター越しに慈愛に満ちた「お地蔵さん笑顔」を向け、敬吾の魂を優しく包み込むように説いた。


敬吾は、溢れそうになる涙を必死に堪えながら、ゆっくりと、しかし力強く顔を上げた。

「俺は……俺は、もう二度と自分を誤魔化したりせえへん。ちゃんと正しい人間に生まれ変わって、岸見達に謝罪して……。例えアイツにボコボコに殴られても、誠心誠意、魂を込めて頭を下げて、一生をかけて償い続けます。」


敬吾は、自らの中にある醜いプライドをすべて捨て去るように、深く、深く頭を下げた。

その背中には、先程までの惨めな逃亡者の影はなく、一人の人間として責任を引き受けようとする静かな覚悟が宿っていた。


地蔵店長、女鬼、ダークエルフの三人は、そんな彼の姿を我が子の成長を見守るかのように、優しく、温かく微笑みながら見守っている。

えらいこっちゃ嬢にいたっては、その溢れんばかりの喜びを表現するように、細い両腕をブンブンと力一杯振って、彼を祝福していた。


「それでは、二度と同じ過ちを犯さぬ為の杖となる、仏様の御智慧をお借り致しましょうか。これからの険しい道のりを照らす、揺るぎない道標をお持ち帰り頂く事に致しましょう。」


地蔵店長は、満足げに目を細めると、お地蔵さん笑顔のまま、静かに合掌してお辞儀をした。

その瞬間、店内の空気が一際清らかに澄み渡り、敬吾の眼前に、新たな運命の扉が開かれる予感が満ち溢れたのである。


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##「正命」の光と、再生へと続く自利利他の道


地蔵店長は、カウンター越しに静かに佇み、濁りのない澄んだ瞳で敬吾を見つめながら説き聞かせた。

「汚してしまった御縁を、魔法のように一瞬で清めることはできません。まずは、利用しようとした人々に対し、偽りのない心で自らの非を認めることです。たとえ直ぐには許されずとも、その『誠実な謝罪』という種を蒔き続けることこそが、汚れた縁を浄化する唯一の修行となります。縁の修復と懺悔さんげ、これを常に意識して歩まれると宜しいかと存じます。」


地蔵店長の声は、寄せては返すさざ波のように穏やかで、敬吾の荒んだ心に深く、静かに染み込んでいった。

敬吾がゆっくりとその教えを咀嚼し、自らの魂に刻み込んでいる様子を見定めながら、地蔵店長は微笑みを絶やさずに更なる仏法を語り始める。


「マルチ商法を辞めた後、貴方の身に経済的な苦境や深い孤独が訪れたのは、他ならぬ過去の邪命がもたらした『宿業しゅくごう』による果報に御座います。決してそこから逃げ出さずに現状を受け入れ、正当な労働、すなわち正業によって生きる糧を頂き、善き道を一歩ずつ歩み続ける事です。」

その言葉は、どん底の生活を送る今の敬吾にとって、厳しくも温かい救いの光であった。


「これは、先程お話しした邪命の反対、四諦八正道と言う教えの中の一つである『正命しょうみょう』と言う教えで御座います。」

地蔵店長は、まるでお地蔵さんが慈悲の雨を降らせるかのような表情で、言葉を重ねていく。


「しょうみょう……。」

敬吾はその言葉を、忘れないようにと大切に復唱した。


「正命とは、正当な方法で生計を立てる事。まさに、敬吾さんがかつて手を染められた悪徳商法の真逆の在り方と言えましょう。また、新たな悪業を積まず、正しい行いによって正しい業を積み上げていく事を『正業しょうごう』と言います。正業と正命、この二つの教えを意識しながら、これからの生き方を正して行かれると宜しいかと存じます。」

地蔵店長は、迷える子羊を導く羊飼いのように、優しく、しかし確かな力強さを持って教え諭していく。


「これまでの行いにつきましては、今までは『我利我利がりがり』と、ただひたすらに我が利のみを追求されてきた事により、尊い善き御縁が断絶されてしまわれました。さすれば、これからは行おうとしている事が我利ではなく『自利利他じりりた』の在り方に沿っているか、自らも他者も利する事であるか、それを一度立ち止まって、しっかりと見定めて行われる事で、再び悪行に手を染める事から回避されましょう。」

地蔵店長は、合掌した手に力を込め、敬吾の目を見据えた。


「最初の頃は失敗続きかも知れません。しかし肝要は、どうあろうとするか、その時々の心の在り方は悪に傾いていないか、その事に常に気づきながら、一日一日を大切に生きてゆかれる事で御座います。」

地蔵店長は、最後ににっこりと、陽だまりのようなお地蔵さん笑顔を浮かべ、深く合掌してお辞儀をした。


「……はい。もう、悪い方に傾いてしまわないように、今度こそ二度と間違いを犯さないように。地蔵店長の言葉を胸に、きちんと意識して生きていきます。」

敬吾の心からは、いつの間にか濁った霧が晴れ、清々しい風が吹き抜けていた。

彼は、教えを授けてくれた地蔵店長に対し、自然と背筋を伸ばし、感謝の念を込めて深く深くお辞儀をしたのである。


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## 逃避の終焉、真実の贖罪と「再生」への誓い


高木敬吾は、深く、長く、自らの肺にある澱んだ空気をすべて吐き出すように大きく息を吐いた。

その瞳からは、先程まで彼を支配していた卑屈な怯えや、過去を濁そうとする醜い迷いは完全に消え去っていた。

彼はゆっくりと、しかし確かな力強さを持って顔を上げ、地蔵店長と三人の女性たちを真っ直ぐに見据えた。


「……俺、やるべきことが決まりました。もう、過去の自分からも、犯した過ちからも逃げんと、きっちりと果たすべき事を果たします。」

その宣言は、静まり返った店内に、まるで誓いの鐘の音のように重く、そして清々しく響き渡った。


すると、隣でじっと様子を伺っていたえらいこっちゃ嬢が、小動物のような身軽さでぴょんっ!と椅子の上に飛び乗った。

彼女は、敬吾の少し白髪の混じった頭にそっと小さな手を置くと、慈しむような手付きで何度も優しくなでた。


「やっと過去を受け入れよった、えらいやっちゃ。あんたは、えらいやっちゃな決断をしたんやで。」

彼女の丸い瞳には、迷いを断ち切った男への最大級の賛辞が込められていた。


「こっからが本当の仕切り直しさね。道は険しいだろうけど、しっかりやんなよ。」

カウンターの奥で腕を組んでいたダークエルフが、三日月の如き美しい微笑みを浮かべて敬吾を鼓舞した。

彼女の青い瞳は、かつての「マルチおっちゃん」ではなく、一人の不器用な男として彼を認め、その背中を押している。


「過去に積み上げた悪業は、残念ながら決して消えることはないんだよね。でもこれからは、それをただの重荷にするんじゃなくて、糧にして新しい善き縁を紡ぐことは出来るからね。」

女鬼は、金色の瞳をキラリと輝かせ、茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせた。

彼女の言葉は、罪を消すことは出来ずとも、その罪を背負ったまま「善」を成すことは可能だという、力強い希望の光であった。


「うん。もう、過去にやった事から逃げへんし、頭を下げて回るべき人達に、真正面から頭を下げて回る。そんで……この自分の犯した大過ちを、生きた『失敗事例』として伝えていくよ。どんなに罵倒されても、冷たくあしらわれても、一度でもマルチ商法とか悪徳商法に手を染めてしもたら、俺みたいに惨めになってしまうんやって事を、魂を込めて伝えていくよ。」

敬吾の言葉には、自らの恥部を晒してでも、他者が自分と同じ泥沼に嵌るのを防ぎたいという、切実な願いが宿っていた。


かつて友人の時間を奪った償いとして、これからは他人の未来を守るために、自分の時間を使いたい。

その決意は、彼の中に眠っていた「誠実さ」という名の種が、25年の時を経てようやく芽吹いた瞬間でもあった。


「ん。敬吾さんなら、誰よりも痛みを伴った実体験に基づいた話が出来るからね。上っ面の言葉じゃない、熱のこもった確かな話が出来るだろうからさ。悪に手を染めそうになっている人達を、崖っぷちで止める役目を担えるはずだよ。しっかりね。」


女鬼は、慈愛に満ちた表情で優しく微笑んだ。

その穏やかな声音に、敬吾は一瞬、ハッとしたように目を見開いた。


「……有難う。あはは、初めて『マルチおっちゃん』じゃなく、名前で呼んでくれたな。なんか、それだけで救われたような気がするわ。」

彼は少し照れくさそうに、しかし心底嬉しそうに目尻を下げて笑った。


「あはは!でも、まだ油断しちゃダメだよ。ちょっとでも気を緩めて、またマルチおっちゃんに戻らないようにね。」

女鬼が陽気な笑い声を上げると、敬吾もそれに応えるように力強く頷いた。

「うん、約束する。もう、あんな惨めでしんどい思いをするのは、真っ平御免やからな。あんな地獄みたいな日々には、絶対に戻りたくないで。今度は、真っ当な太陽の下を歩いていくよ。」


敬吾の晴れやかな笑い声は、摩訶不思議食堂の温かな灯りと溶け合い、彼の新しい門出を祝福するようにいつまでも店内に優しく響いていた。


---


## 清算の「御布施」と、工場の旋律に誓う明日


ガタッ……と、椅子が心地よい余韻を残して鳴り、敬吾は決然とした表情で立ち上がった。

かつての卑屈な影はどこにもなく、その背筋は驚くほど真っ直ぐに伸びている。

彼はカウンターの面々を見渡し、感謝を込めて深々とお辞儀をした。


「ほな、お勘定お願いします。ほんまに、ご馳走様でした。」


地蔵店長は、柔和な光を湛えたお地蔵さん笑顔を絶やすことなく、静かに合掌した。

「当店は決まった価格を設けておらず、御布施形式にしております。お客様がその価値を感じた分だけ、お納めいただければ幸いで御座います。」

店長の声は、まるで古寺の鐘のように深く、敬吾の心の奥底まで染み渡るようであった。


「ほな、これで。……取っておいてください。」


敬吾は、今の自分にとっては決して安くない、しかし魂を再生させてくれた対価としてはあまりに安すぎる一万円札を財布から取り出した。

指先に伝わる紙幣の感触は、これまでの「汚れた金」とは違う、汗水垂らして働いた尊い重みがあった。

彼はそれを、えらいこっちゃ嬢の手へと、託すように手渡した。


「これからは、正業と正命、それに自利利他を意識して生きていきます。他人様に顔向け出来ないような事はせんと、堂々と胸張って生きられるようにします。……まずは、今の食品加工工場で、地道にコツコツと日々の仕事を真面目に取り組みます。ラインを流れる食品の一つひとつが、誰かの笑顔に繋がると信じて。」

敬吾の言葉には、迷いのない熱がこもっていた。

かつては「底辺の仕事」だと蔑んでいた工場の作業が、今では自らの魂を磨くための、最も尊い修行の場に感じられていた。


「えらいこっちゃな大金! えらいやっちゃな再出発! おっちゃん、えらいこっちゃなグッジョブ!」

えらいこっちゃ嬢は、受け取った一万円札を高く掲げ、喜びを全身で表現するようにぴょんぴょんと跳ねた。

彼女はそのまま、軽快な足取りでレジへと向かい、敬吾の新たな門出を賑やかに祝福した。


敬吾は、どこか懐かしさを感じる店内の風景を目に焼き付けるように見回し、出口へと歩みを進めた。

重厚な木の扉に手をかけ、外へと踏み出す直前、彼はもう一度だけ振り返った。


厨房のダークエルフ、微笑む女鬼、そして合掌する地蔵店長。

彼は最後にもう一度、魂を込めて深くお辞儀をした。


カランコロン……。

扉が閉まる音と共に、夜の街へと踏み出した敬吾の足取りは、かつてないほど軽く、そして力強いものへと変わっていた。


「御来店、誠に有難う御座います。またの御縁を、心よりお待ちしております。」

地蔵店長は、扉が閉まった後も、お地蔵さん笑顔で静かに合掌してお辞儀を続けていた。

その祈りに満ちた姿は、新たな「正しき道」を歩み始めた男の背中を、いつまでも温かく見守っているようであった。


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## ――鬼火の導きと、リングに刻む沈黙の懺悔


摩訶不思議食堂の重厚な扉を背に、夜の帳へと踏み出した敬吾を待っていたのは、幻想的な青い輝きであった。

視界の端でゆらりと揺れたそれは、青い炎を全身に纏った鬼火のような怪異であり、まるで意思を持っているかのように小さな手で手招きする仕草を見せている。

ふよふよと頼りなげに、しかし確かな方向性を持って夜道を進むその光に、敬吾は吸い寄せられるように歩みを止めることはなかった。


数分ほどその後を追って歩みを進めていくと、やがて視界が開け、街灯に照らされたよく見知った大通りへと辿り着いた。


「ああ……案内してくれたんやな。有難うな。」

敬吾が感謝を込めて呟き、ふと顔を上げた時には、導き手であった鬼火は既に影も形もなく、夜の闇に溶けるようにして消え去っていた。

彼は、その不可思議な光が揺らめいていたであろう方向に向かって、誰もいない夜道で深々とお辞儀をしてから、確かな足取りで自らのアパートへと帰路についた。


---


翌日。

勤め先の食品加工工場が休日ということもあり、敬吾は朝から一点の曇りもない決意を胸に、岸見が経営するボクシングジムを訪れた。


午前中から開かれたジムの扉を潜ると、そこには先日の重苦しい空気とは対照的な、活気ある朝の喧騒が満ち溢れている。

縄跳びが床を叩く乾いたリズム、サンドバッグを打つ鈍い音、そして練習生たちの荒い呼吸。

敬吾は受付で挨拶を済ませると、指導に当たっていた岸見を呼んでもらうよう、一人の練習生に丁寧にお願いした。

リングの傍らで、練習生にミットを持って熱心に指導していた岸見が、敬吾の姿を認めると、険しい表情のまま真っ直ぐに歩み寄ってきた。


「お早う御座います。……何か、忘れ物でもありましたか。」

岸見の挨拶は、極めて事務的で冷淡なものであったが、敬吾はそれを当然の報いとして受け止めた。

「お早う……あの、先日のこと、それに以前の事、ほんまに反省してます。取り返しのつかない事をしたんやと、心の底から思い知らされました。申し訳ありませんでした。」


敬吾は、ジムに響く喧騒さえも遮るような深い沈黙の中、腰を直角に折って、かつての部活仲間に対して力強く頭を下げた。

岸見は何も言わず、ただ眼前の男の「在り方」を値踏みするように、射抜くような鋭い視線を投げかけている。


敬吾はゆっくりと顔を上げると、逃げ場のない真っ直ぐな瞳で岸見を見つめ直し、覚悟を決めた一言を絞り出した。

「それから……自分勝手なお願いなのは承知の上やけど。俺と……スパーリング、して下さい。お願いします。」


その唐突な申し出に、岸見は一瞬だけ目を見開き、意外なものを見るように眉を動かした。

「こないだは逃げるように出て行かはったのに。冗談やありませんか?」


「冗談なんかやない!出来れば、岸見本人に相手をして欲しいとは思うけど、もし無理やったら、俺より体重の重い人でええから、お願いします。俺がやってきた事の重さを、身体で……拳で、受け止めさせて欲しいんや。殴られても文句は言わへん。頼む、やらせてくれ!」

再び深く頭を下げ、必死に食い下がる敬吾の姿に、岸見は顎に手を当てて、少しの間だけ考える素振りを見せた。


ジム内に張り詰めた緊張感が最高潮に達したその時、岸見は低く、しかしこれからの行程を定めるような声で応えた。

「……わかりました。それなら、まずは準備運動しましょか。あんた、格闘技に関してはど素人やから、このままリングに上げても怪我するだけや。ある程度基本を教えてからにしますさかい、まずは着替えてきなさい。」


岸見はそう言い放つと、敬吾に練習用のウェアを貸し出し、基礎的なスタンスやガードの仕方を教え始めた。


「まずは足を肩幅に開いて、右足を少し引く。拳は頬の高さや。脇を締めて、顎を引け。……そうや、その姿勢を崩すな。」

岸見の指導は厳しく、一切の妥協を許さないものであったが、敬吾はその一つひとつの言葉を、かつての信頼を取り戻すための儀式のように真摯に受け止めた。


一通りの基礎練習を終え、敬吾の額にじっとりと汗が滲み始めた頃、岸見は静かにリングへと視線を向けた。

「ほな、始めましょか。きちんとヘッドギアを付けるように。」


二人は教えと学びの時間を経て、ついにリングという名の審判の場へと足を踏み入れた。


---


## キャンバスに沈む罪と、空虚な拳の行方


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ジム内に響き渡る電子音のブザーが、無慈悲な審判の幕開けを告げた。

3分間という、素人にとっては永遠にも等しい地獄の時間が動き出す。


敬吾は身体の奥底から湧き上がる恐怖を打ち消すように、大きく息を吐くと、教わったばかりの基本も忘れてがむしゃらに腕を振り回した。

素人の、あまりにも不用意で大きく外れた大振り。


サウスポーに構えた岸見は、その拳を紙一重で見切ると、吸い込まれるような鋭さで右のリードジャブを繰り出した。

パァン、という乾いた音が鼓膜を叩いた直後、敬吾の視界は激しく揺れ、気づいた時には無様に尻餅をついていた。


「……っ、う、ああ……!」

肺から空気が漏れ、鈍い衝撃が脳を揺らす。


しかし、敬吾は必死に歯を食いしばり、震える足に力を込めて気合いで立ち上がった。

逃げるわけにはいかない、ここで倒れたままでは昨日の決意が嘘になってしまう。


再び岸見に向かって不格好に突進する敬吾だったが、待っていたのは容赦のない現実であった。

岸見の正確無比な左ストレートが、敬吾の鼻っぱしを真っ直ぐに捉える。

グシャリという嫌な感触と共に、鮮血が舞い、敬吾は今度こそ盛大にひっくり返った。


意識が朦朧とし、天井の蛍光灯が幾重にも重なって見える。

鼻の奥がツンと熱く、生温かい液体が顔を伝う不快感。


それでも、敬吾は何とか四つん這いになり、泥を啜るような思いでキャンバスにしがみついて立ち上がった。

その折れない執念を目の当たりにし、岸見は一瞬だけ、驚きを含んだように目を見開いた。

だが、その瞳はすぐに氷のような冷静さを取り戻す。


「脇締めてガード、さっきやりましたやろ。腕を遊ばせるな、もっと顎を引いて。」

岸見の口から出たのは、怒りではなく、淡々とした「指導」の言葉であった。


慌てて敬吾が脇を締め、グローブで顔を覆うようにガードを固めてみる。

直後、岸見の容赦のない連打がそのガードの上から叩きつけられた。


重い、あまりにも重い拳。

ガード越しであっても、一発ごとに脳が揺さぶられ、敬吾の身体はなす術もなくロープ際まで吹き飛ばされる。

いつしかそれは、単なる一方的な蹂躙ではなく、岸見が敬吾の身体にボクシングの厳しさを叩き込む、形を変えた練習へと変貌していた。


そして……。


終了を告げるブザーが、静まり返ったジムに鳴り響く。

3分間の終わりと共に、敬吾の糸が切れた。


彼は息を絶え絶えにしながら、滝のように流れる汗と血に塗れ、リングの上に力なく転がった。

肺が焼け付くように熱く、指一本動かす気力さえ残っていない。


しばらくの間、天井を見つめたまま動けないでいる敬吾に、岸見が冷ややかな、しかしどこか落ち着いた声で指示を出す。

「鼻血、止めたって下さいや。」

岸見の声に反応し、控えていたジムのスタッフが手際よく敬吾の元へ駆け寄り、止血の処置を施してくれた。


やがて、ようやく肺の痛みも引き、動けるようになった敬吾は、スタッフに肩を貸されるようにしてフラフラとリングを降りた。

パイプ椅子に深く腰掛け、重たいヘッドギアとグローブを外してもらう。


全身を襲う疲労感と痛みに耐えていると、目の前に冷えたペットボトルが差し出された。

見上げると、そこには無表情のままペットボトルを持つ岸見の姿があった。


「あ、有難う……助かるわ……。」

敬吾は震える手でそれを受け取り、渇ききった喉を潤すように、貪るように水を飲み干した。


「……やっぱり、素人じゃ何も出来ひんかったな。手も足も出えへん、完敗や。……そんで、岸見。これくらいで、ちょっとは気がすんだかいな?」

敬吾は、腫れ上がった顔で自嘲気味に笑いながら、恐る恐る岸見の顔を伺った。

自分の身体に刻まれたこの痛みが、少しでも彼の心の傷を癒やす代償になってくれればという、淡い期待を込めて。


しかし、岸見は短く吐き捨てるように答えた。

「虚しいだけでしたな。……そんなことで、過去が消えるわけやありません。」


岸見の言葉に、敬吾は言葉を失った。

「そっか。まあ、そうやんな。俺がこんなに弱すぎて話にならんかったやろうから、スカッとするどころか、余計に腹が立ったかもしれんな。」


敬吾が項垂れ、自らの不甲斐なさを噛み締めている間。

岸見は、手に持ったタオルで自分の拳を拭いながら、黙って敬吾の姿をジーっと見つめ続けていた。

その沈黙の視線には、かつての軽蔑だけではない、何か複雑で、言葉にできない感情が混ざり合っているようであった。


---


## 「3分間」の清算、そして孤独な謝罪行脚への門出


ジムの喧騒が遠くで鳴り響く中、リングサイドの静寂を破るように、岸見がその重い口を開いた。

その瞳は、先程までの冷徹な色を微かに変え、どこか測りかねるような複雑な光を宿して敬吾を捉えている。

「……一度はあんなに無様に逃げ出したのに、一体なんでまた、ここに戻ってきはったんです?」

岸見の問いは、静かながらも敬吾の魂の奥底を直接揺さぶるような、鋭い響きを持っていた。


敬吾は腫れた瞼を押し上げ、ペットボトルの水を一口含んでから、真っ直ぐに岸見の瞳を見つめ返した。

「……逃げたらあかんって、心の底から思うたからや。岸見に対してもそうやし、自分が過去にしでかしてしもた、あの数々の過ちからもな。今までずっと背中を向けて逃げ回ってきたけど、もうこれ以上、自分を騙して生きるんは限界やったんや。」

敬吾の声は掠れていたが、そこには昨日までの卑屈さは微塵もなく、確かな熱量を持った決意が込められていた。


「もう絶対に逃げへんし、過去の自分の醜い過ちから目を逸らしたりもせえへん。言葉だけやなくて、逃げたりせえへんっていう覚悟を、その姿をきちんと見せなあかんって……それが俺にできる最低限のけじめやと、そう思うたんや。」

敬吾が吐き出したその言葉には、25年間の逃亡生活を経てようやく辿り着いた、剥き出しの真実が宿っていた。


その必死の訴えを、岸見は腕を組んだまま、微動だにせず受け止めている。

「……それで、あの無謀なスパーリングですか。」


岸見がポツリと漏らした言葉に、敬吾は力なく、しかし清々しさを滲ませて自嘲気味に笑った。

「うん。口先だけで『反省してます』なんて言うても、誰にも響かへんやろ。きちんと行動で、この身体の痛みで観て貰わなあかんと思うたんや。……結果は見ての通り散々で、岸見の気を晴らすどころか、逆に虚しい思いをさせてしもたけどな……。」


沈黙が再び二人を包み込んだ。

サンドバッグを叩く音だけが響く中、岸見はようやく敬吾から視線を外し、自らの赤く染まったバンテージを見つめた。


「……あんたの覚悟は、ようわかりました。そして、その情けないくらいに真っ直ぐな姿も、きっちりと見せて貰いましたわ。」

岸見はそう言うと、ふっと憑き物が落ちたような、穏やかな溜息を漏らした。


「ええですか、過去にやった事は、死ぬまで消えることはありません。せやけどな、私個人の件に関しては……今の3分間で、全部チャラにしときます。あんたが私の拳を避けんと受け止めた、その心意気に免じてな。……これから先、君が過去に薄汚い言葉で毒牙にかけようとした人達に、一件ずつ謝罪行脚して回らはるんやろ? 途中で挫けんと、しっかりやりなはれ。」

岸見の口から出た言葉は、冷たい決別ではなく、ある種の「赦し」と、これからの苦難の道への激励であった。


「……っ、うん。有難うな、岸見。……そして、ほんまに、ほんまに申し訳ありませんでした。」

敬吾の目から、溢れそうになる熱いものを必死に堪え、彼は今日一番の深さで、魂を込めて頭を下げた。

25年という歳月が、たった3分間の拳のやり取りで埋まるわけではないが、二人の間に横たわっていた高い壁は、確かに今、崩れ去ったのである。


やがて、スタッフの手によって鼻血が止まったことを確認すると、敬吾はどこか憑き物が落ちたような軽い足取りで立ち上がった。

彼はジムの入り口まで歩くと、最後にもう一度、熱気に包まれたジムの風景と、背中を向けて再び指導に戻った岸見の姿をしっかりと目に焼き付けた。


「お世話になりました!」


深々とした挨拶をジム全体に響かせ、敬吾は眩しい午前中の光が差し込む外の世界へと、一人静かに踏み出した。

その背中には、これから始まる長く険しい贖罪の旅への、揺るぎない覚悟が刻まれていたのである。


---


## ――「正道」への階梯、八正道の導きと誓いの門出


ジムを出た敬吾は、鼻の辺りに丁寧に貼って貰った湿布の感触を、指先でそっとなぞった。

ズキズキとした痛みは残っているものの、その疼きこそが岸見という一人の友人と、二十五年もの間放置し続けてきた自らの罪にようやく向き合った証拠のように思えて、不思議と嫌な気分ではなかった。


敬吾はこれからの事を歩きながら静かに、そして深く考え始める。


過去に強引に声をかけ、あの異様な熱気に包まれた不気味な毛皮の展示会へ連れ出し、あるいは逃げ場のない喫茶店に連れ込んで大勢で囲んだ人たちの顔を、記憶の底から丁寧に掬い上げてリストアップしていこう。

一人ひとりに会いに行き、例え門前払いを食らおうとも、石を投げられようとも、偽りのない心で頭を下げて回る。

それが今の自分に課せられた、終わりのない修行の始まりなのだ。


そんな決意を胸に歩いていると、ふと目の前に現れた大型書店の自動ドアが開き、吸い込まれるように中に入ってみる。

今までの自分であれば、娯楽雑誌や実用書のコーナーへ足を向けていただろうが、今の敬吾の足が自然と向かったのは、人生で一度も足を踏み入れた事の無い「仏教コーナー」であった。


棚に並ぶ静謐な雰囲気の書籍群に圧倒されながら、一冊の入門書を手に取り、ぱらぱらとめくっていると、ある項目に目が留まり、敬吾は驚きで目を見開いた。

そこには「四諦八正道」という文字が並んでおり、その中の「八正道」という項目には、昨夜、あの摩訶不思議食堂で地蔵店長から教わった「正業」と「正命」の文字が、はっきりと記されていたのである。

八正道には他にも「正見しょうけん」といった項目が並んでおり、敬吾は導かれるようにその頁を読み進めた。


「『正見』って……。俺、今までの人生で、全く正しく物事を見てへんかったんやなあ。」

自らの無知と、歪んだ色眼鏡で世界を見ていた事実を突きつけられ、敬吾は誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。


物事の真理を、自分の都合の良いように捻じ曲げ、他者の痛みさえも数字としてしか見ていなかった自らの浅ましさ。

彼はその入門書を大切に抱えるようにしてレジへと持って行き、なけなしの所持金からその一冊を購入すると、まるで聖典でも手に入れたかのような心持ちで店を後にした。


「正しく生きる、か。他人様に顔向け出来ないような後ろめたい事を、『鉄道会社に勤める両親も認めてる』なんていう看板で誤魔化して、他人様を勧誘して無理やり巻き込もうとして……。正しさの真逆、邪悪そのものを生きてたんやなあ、俺は。」

自嘲的に、しかしどこか晴れやかな気持ちで、敬吾は街の雑踏の中で呟いた。


自らの足元がどれほど汚れていたかに気づいた今、もう二度と泥沼へと戻るわけにはいかない。

ちゃんと正しい道を歩み、一日一善を積み重ねるようにして、自分自身を変えていかなくてはならないのだ。


「次にまた、あの摩訶不思議食堂に行った時は、地蔵店長や皆さんに、胸を張って、今の俺は他人様に顔向け出来る真っ当な生き方をしてるって、笑顔で報告できるようにするんや。それが、俺の新しい人生の目標や。」


澄んだ空を見上げ、敬吾は心の中で強く、熱く誓った。

かつてマルチ商法という虚飾の夢に溺れた男は、今、一冊の智慧を抱えながら、誠実という名の光差す道を一歩ずつ、力強く歩み始めた。


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