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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第19話:山県夫妻の後悔先に立たぬほっこり飯

ザッ、ザッ……。


清冽な朝の空気が満ちる京都、稲荷神社の周辺。

鳥居の朱色が朝陽に照らされ、幻想的な陰影を地面に落とす中、一人の男が静かに砂利を踏みしめて歩いていた。


40代半ばから後半。

黒いコートに黒いシャツ、そして機能的なカーゴパンツ。

全身を闇のような黒一色で統一したその男は、端正な顔立ちにどこか浮世離れした静謐な雰囲気を纏っている。

その歩みは迷いなく、しかし周囲の霊的な気配を慈しむかのように穏やかであった。


「――おや、呪術師さん、お早う御座います。清々しい朝の空気に誘われて、今日もお散歩で御座いますか?」


不意に、鈴の音を転がしたような澄んだ声が響く。

そこには、浄土宗の僧侶が纏う格調高い法衣と袈裟に身を包んだ、一人の若き女性が立っていた。


綺麗に切り揃えられた短い黒髪。

見る者の魂を吸い寄せ、浄化してしまうのではないかと思わせるほどの超絶美少女と言える美貌。

彼女は菩薩のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、胸の前で静かに合掌して挨拶を贈った。


呪術師と呼ばれた男性は、その声に足を止めると、ゆったりとした動作で向き直る。

「これはこれは、お早う御座います、御住職。ええ、仰る通り、おもての仕事の休日恒例、いつもの朝の散歩ですわ。この辺りは早朝の霊気が格別に澄んでおりますから、心身を整えるには最適の場所に御座います。」

男もまた、深く静かな所作で合掌を返し、柔らかな敬意を込めて言葉を紡いだ。


二人が視線を交わし、朝の挨拶を交わしていたその時である。


フラ……、フラ……。

神社の奥、鳥居の影から逃げ出すようにして、一組の男女が姿を現した。


40歳の夫婦。

その顔は土気色に沈み、頬はこけ、まるで数日も眠っていないかのように酷くやつれ果てている。


何かに怯えているのか、あるいは重い呪縛にでも耐えているのか、二人の足取りは幽霊のように力なく、とぼとぼとしたものであった。

夫婦は呪術師と女性住職の姿に気づくと、生気のない瞳で、何となく申し訳なさそうにぺこりと会釈を寄越した。


「…………。」

呪術師と女性住職は、無言のまま深く合掌し、お辞儀を返してその夫婦を見送る。

夫婦は視線を逸らすようにして、再び力なく歩き出した。



それから暫く、二人が並んで歩き始めた時、前方から一人の若い女性がやって来た。

その傍らには、元気よく尻尾を振る一匹の飼い犬が寄り添っている。

平和な日常の光景――。


しかし、その犬が先程の夫婦とすれ違おうとした瞬間、事態は一変した。


「ガルルル……ッ! ワンッ! ワンワンワンッ! グルルル……ッ!!」

突然、犬が毛を逆立て、狂ったように夫婦に向かって吠え立てたのである。

それは単なる警戒を超えた、明確な敵意と恐怖が混じり合った、激しい威嚇の咆哮であった。


「ひっ……!?」

「う、うわあああっ!」

夫婦は心臓を射抜かれたかのようにびくっと体を震わせ、悲鳴にも似た声を漏らす。

まるで自らの罪を突きつけられた罪人のように、顔を覆いながら、蜘蛛の子を散らすような勢いでその場からそそくさと退散していった。


「あ、こら、吠えたらあかんでしょ! すみませんねえ、普段はこんなことないんですけど……。ほんま、すみません」

散歩中の女性は慌ててリードを引き、必死に犬を宥めながら謝罪の言葉を投げかける。

しかし、夫婦は振り返ることもなく、既に遠くへと逃げ去った後であった。


その光景を、呪術師と女性住職は遠くからじっと見つめていた。

犬の吠え声が止み、再び静寂が戻った路地で、女性住職が静かに口を開く。

その瞳は鋭く細められ、先程までの慈愛の微笑みの奥に、真理を見通す僧侶としての厳しさが宿っていた。


「呪術師さん……。今の、あの夫婦の纏っていた影。もしや、ただの不摂生ではございませんね……?」


隣に立つ呪術師は、表情を一切変えることなく、夫婦が消えていった先を見据えていた。

その瞳には感情の欠片も映っていないが、その周囲には肌を刺すような冷徹な空気が漂い始める。


「ええ、左様で御座いますな。あの身から立ち上る澱み、そして獣があれほどまでに忌み嫌う不浄の気……。これは……えらいこっちゃな事ですなあ。」

男の声はどこまでも低く、冷たく、早朝の空気を凍てつかせるように響いた。


---


ヒソヒソ……、ガヤガヤ……。


犬の吠え声が止んだ後の静かな通りに、場にそぐわない湿った囁き声が漂い始める。

視線を向ければ、そこには近所に住んでいるのであろう3人のおばさん連中が、身を寄せ合ってこちらを伺っていた。

その瞳には好奇と、そして隠しきれない忌避の色が混じっている。


「……なあ、見た? 今日のも凄かったなあ。最近、あの山県さんところの御夫婦、こっちに引っ越してきてからずっとあんな感じやんか。どこの犬にも思いっきり吠えられてはるやろ? やっぱりあれ、呪いとちゃうか。」

一人の女性が、首をすくめながら声を潜めて言う。


「そらそうよ。ほら、あそこの家の息子さんとその友達のこと知らんの? 確か、犬に滅茶苦茶に噛みつかれて、それはそれは酷い最後やったらしいやん。あんなん、犬に呪われてるに決まってますやん。絶対そうやって。」

二人目のおばさんが、まるで見てきたかのような口調で、忌々しげに首を振った。


「あんたら、知ってるか? あそこの息子って、前のとこでは大層な悪ガキやったんやで。何でもな、前に住んでたとこのお年寄りが大事にしてた犬を、面白半分にいじめて殺してしもたらしいやん。そやから今の状況は、その犬の呪いやわ。絶対そうに決まってるわ。」

三人目のおばさんが、毒々しい確信を込めて言い切った。


その不穏な会話を、呪術師と女性住職は聞き逃さなかった。

黒い装束を纏った男が、音もなく彼女たちの輪へと歩み寄る。


「……失礼。今のお話、少々気になりましてな。そんな凄惨な事があったのですか?」

呪術師の低く、しかし有無を言わせぬ響きを持った声に、おばさんたちは一瞬肩を震わせた。


「今の皆様の御話の内容は、穏やかではありませんね。物騒な御話ですが、それは確かな事なのでしょうか?」

隣に並び立った女性住職も、憂いに満ちた表情で問いかける。


朝陽に照らされた女性住職の美貌に、おばさんたちは思わず毒気を抜かれたように目を見開いた。

「いやー、なんやこの女の子のお坊さん、えらい別嬪さんやねー! モデルさんか何かかと思ったわ、ハハハ!」


一人が緊張を解くように笑い声を上げると、他の中年女性たちもつられるようにして相好を崩した。

しかし、すぐにその表情は真剣なものへと戻る。

「今の話、ほんまやで? ほら、新聞にも載ってたん知らんか? 地方のローカル事件コーナーの、ほんの小さな三面記事やったけどな。当時はな、うちらの間では、その話で持ちきりやったんよ。」


「左様で御座いますか……。確かに、私もそのような内容が掲載されていたのを記憶しております。」

女性住職は静かに目を伏せ、記憶の糸を辿るように頷いた。

その仕草には、僧侶としての重みと、ある種の覚悟が滲んでいる。


「ほんま、怖い話やで。子供3人が野犬に襲われてな、その後にその野犬らも仲間同士で共食いを始めたって……。えげつない現場やったらしいで。ほんま、えらいこっちゃえらいこっちゃ。」

おばさんたちは震えを払うように何度も頷き、足早にその場を立ち去っていった。


再び訪れた静寂。

呪術師は、去っていったおばさんたちの背中を見送った後、ゆっくりと女性住職へと視線を向けた。

その瞳の奥には、全てを察した鋭い光が宿っている。


「ここでも、犬、ですか……。因果は巡り、澱みは形を成す。ほんまに、えらいこっちゃですなあ。」

呪術師の呟きに、女性住職もまた深く重い頷きを返した。


あの山県夫妻が背負っているものの正体。

二人の間には、もはや疑いようのない確信が共有されていた。


---


## 禁忌の業、命を賭した呪いの地


おばさんたちから聞き出した情報を頼りに、二人は老人が住んでいたという場所へ向かって歩き出した。


京都駅から歩いて30分以上南へ下った、古くからの住宅が立ち並ぶ静かな一角。

そこには周囲の家々とは明らかに違う、寒々しい空気を纏った一画があった。

敷地の境界には無機質なロープが張られ、「空き物件」と書かれた看板がぽつんと置かれている。


「……ここですな。」

呪術師は足を止めると、懐から一枚の呪符を取り出した。

二本の指でそれを挟み、淀んだ気配が渦巻く地面へと鋭く張り付ける。


シュッ……!


呪符が地面に触れた瞬間、紙の端が生き物のように蠢き始めた。

バサバサと音を立てて形を変え、やがてそれは、一匹の犬の形を成して地面に鎮座した。


実体を持たぬ紙の犬。

しかし、そこから放たれる執念の重さに、周囲の空気がピリリと震える。

いよいよ、二人は逃れようのない核心へと足を踏み入れた。


「……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」


せめてもの供養にと、女性住職が静かに掌を合わせ、浄土宗の形式で念仏を称え始めた。

澄んだ声が住宅街に響き、亡き老人と、その愛犬であった魂を慰めるように空気を浄化していく。

呪術師もまた、その隣で静かに合掌し、深く頭を垂れて供養を共にした。


しばらくして、二人は静かにその場を離れ、女性住職が住持を務める寺院へと歩を進める。


「やはり……『犬神』でしたか。」

女性住職の声はどこか悲しげで、その美しい瞳には深い哀悼の色が浮かんでいた。


「ええ、どんぴしゃりでしたな。それも……ただの呪いでは御座いません。自らの命を削るどころか、ほんまに命のすべてを使いきる形で成就させはった。生前は、恐らくかなりの使い手、それも呪詛の専門家であり、一流の「解呪師」でしたでしょうなあ。あのご夫妻、えらい人を敵に回したもんです。」

呪術師は前を見据えたまま、淡々と、しかし重みのある口調で語る。


「……頭部を使った方式の、完璧な術式ですね。」

女性住職は、その凄惨な術の正体を正確に看破していた。

己の命を贄とし、最も純粋で苛烈な執着を固定化させる禁忌の業。


「ええ、いかにも。我々なら解けんことは無い。けれど、自身のすべてを使うて永劫の呪、完璧な術式にしはったその意志を、部外者が介入して遮ることは憚られます。今は、そっとしておきましょか。」

呪術師は一度立ち止まると、後方を振り返った。

「まあ、イレギュラーと言えばイレギュラーですから、あちらさんには連絡しときましょかな。」


彼は犬の形をした呪符に、もう一枚別の御札を重ねるように貼り付けた。


ボワッ……!


青い炎が音もなく立ち上がり、呪符を優しく包み込む。

炎は熱を発することなく、呪符を跡形も無く消し去り、静かに溶けていった。


「それでは、寺院で御茶をお入れしましょう。少し、心を落ち着かせる時間が必要ですね。」

女性住職が柔らかな微笑みを浮かべ、再び並んで歩き出す。


「有難う御座います、お世話になります。」

呪術師は恭しく合掌してお辞儀をすると、彼女の後に続いて、古都の路地へと消えていった。


---


## 遺されたオムライスと、拭えぬ罪の記憶


チーン……。


静まり返った山県家のリビングに、仏壇の鈴の音が力なく響く。

今朝の騒動から逃げるように帰宅した山県将史と直美の夫妻は、揃って仏壇の前に正座し、深く頭を垂れて掌を合わせていた。


仏壇の中央には、あどけない笑顔を浮かべた一人息子、将生の遺影が飾られている。

その手前には、湯気が立ち上る一皿のオムライス。

生前、将生が何よりも大好きだった、鶏肉がたっぷり入ったケチャップライスの上に、フワフワでトロトロの卵を乗せた特製の一品だ。

その傍らには、将生を誰よりも溺愛し、孫の死という過酷な現実に耐えきれず、うわごとを繰り返しながら後を追うように他界した将史の両親も共に眠っている。


「……将生、お腹空いてるやろ。お母さん、あんたが一番好きな味に作ったで。」

直美の声はかすれ、今にも消えてしまいそうなほどに細い。

脳裏を過るのは、あの日、放課後の河川敷で起きた地獄のような光景だ。


グチャッ、バリバリッ……ッ!


野犬たちの咆哮と、肉を食いちぎるおぞましい音。

友達二人と一緒に遊びに行ったはずの河川敷で、将生は無残に食いちぎられた姿となって発見された。


どれほどの恐怖の中、どれほどの痛みを感じて絶命したのか。

想像するだけで胸をえぐられるような痛みが走り、二人の身体は小刻みに震え始める。


災厄は、それだけでは終わらなかった。

将生の死をきっかけに、将司と直美が小学生の頃から「ワルガキ仲間」としてつるんでいた友人たちにも、次々に異変が起きたのだ。

ある者は不慮の事故で命を落とし、また別の者は原因不明の重病を患って重い後遺症に苦しんでいる。

将史と直美は結婚した時、二人の結婚を心から祝福してくれた、かつての仲間たちに降りかかる凄惨な災難の数々。


そして何より、将生を失ってからというもの、夫妻は行く先々で犬たちから異様なまでの敵意を向けられ続けてきた。

ただ歩いているだけで、あらゆる犬が牙を剥き、魂を呪い殺さんばかりの勢いで威嚇してくる。

当初は偶然だと言い聞かせていたが、日を追うごとに、その異常さは増していくばかりであった。


「なあ、直美……やっぱり、あれのせいなんかな。」

将史が、絞り出すような声で呟いた。


二人の胸の奥底には、一つの「心当たり」が黒い澱のように沈んでいる。

かつて、近所に住んでいた老人が大切にしていた犬を、将生たちが面白半分に痛めつけた挙句、死なせてしまったという事実。

当時は「子供のいたずら」として深く考えず、呪いなどという非科学的な噂も鼻で笑い飛ばしていた。


だが、今やその余裕は微塵も残っていない。

逃れられぬ恐怖に支配された二人は、ついに今朝、神縋る思いで稲荷神社へと足を運んだ。

しかし、その帰り道ですら、散歩中の犬に激しく吠え立てられ、這う這うの体で逃げ帰るしかなかった。


「……なんで、なんでこんなことに。あんなに可愛かった将生が、なんであんな酷い死に方をせなあかんかったんや。それに……やっぱり、将生があんなことしたから、俺達にも天罰が下ってんのやろか……。」


将史は畳に額を擦り付けるようにして、深く、深くうなだれた。

その背中には、窓から差し込む朝陽ですら照らすことのできない、濃密で禍々しい影が這い寄っていた。


---


## 歪んだ庇護の果て、般若の如き憤怒


将生はわんぱくに育ち、近所からも時々苦情が来るような悪ガキであった。

しかし、資産家で会社経営者でもあった祖父母、つまり将史の両親と、その後を継いで社長となった将史の力は絶大であった。


彼らはその財力と権力を笠に着て、息子が起こす不祥事の数々を力ずくでねじ伏せてきた節があった。

「子供のしたことやないか」「金で解決すればええ」

そんな傲慢な庇護が、将生の増長をさらに加速させていったのである。


そんな中、取り返しのつかない事件が起きた。


近所に住む業千寺千寿という、当時すでに70を超えていた老人が、一匹の老犬と共に静かに暮らしていた。

その老犬に対し、将生とワルガキ仲間2人の3人が、「遊び」で激しい暴行を加えたのである。

現場を見つけた千寿が止めに入った時、老犬はすでに瀕死の重傷を負い、動物病院へ担ぎ込まれたものの虫の息という惨状であった。


当然、千寿は怒りに震えながら山県家を訪れ、猛抗議を行った。

しかし、迎え撃つ将史と直美の態度は、謝罪とは程遠いものであった。


「子供のやった事で、えらい大人げないじじいやな。」

将史は吐き捨てるように言い放ち、傍らで直美もまた、小馬鹿にしたように鼻で笑った。


その言葉を聞いた瞬間、千寿の表情は一変し、般若の如き凄まじい形相となった。

「あんたら……。大人になったらマシになるかと思ったら、あの子供にしてこの親ありとは……。」


「じじいが怒ったところで怖ないぞ。じじい、犬くらいでガタガタ抜かすなや。そんなに犬欲しかったら、新しいの買うたろか?」

軽くあしらう将史に対し、千寿は静かに、しかし地を這うような低い声で言葉を漏らした。


「……儂の事、覚えとらんか……そうか。もう、容赦する必要は無さそうやな。改心する可能性を考えて今まで待ってたけど……あの頃の事も含めて、一言、頭下げてくれたら……。」

老人はそれだけを言い残すと、静かに、そして不気味なほどの決意を背負って帰っていった。


「なんやってん、あのじじい。気味の悪い。」

将史はさっさと扉を閉め、厄介な老人を追い払うのに成功したとさえ思っていた。


しかし、惨劇はそれから間もなくして訪れた。

読んで字の如く、将生たちは野犬の群れの餌食となり、この世を去ったのである。

それは、あまりにも凄惨、あまりにも酷過ぎる結末であった。



「……あのじじい、ほんまに、呪い殺しよったんか。例えそうやとしても、何も命まで奪うこと……。そんなん、あんまりやないか……。」


仏壇の前でうなだれる将史の呟きは、誰に届くこともなく虚しく消えた。

彼らが踏みにじった「命」の重さが、今、牙を剥いて彼らの魂を食らい尽くそうとしていた。


---


## 狐の社の奇妙な少女と、迫り来る紅蓮の影


夕闇が京都の街を包み込み始めた頃。


台所に力なく立つ直美の手は、冷え切ったシンクの縁を掴んだままぴくりとも動かなかった。

夕食の準備をしようと冷蔵庫を開けても、何を作ればよいのか、何を食べたいのかという感情が、砂漠に水が吸い込まれるように消えていく。


「なあ、直美。たまにはどっかに飯食いに行こか。お前もしんどいやろ?」

背後からかけられた将史の声に、直美は力なく頷くことしかできなかった。


二人は重い足取りで家を出た。

路地の影から犬が飛び出してこないか、どこからかあの忌々しい咆哮が聞こえてこないか。

周囲を過剰なまでに警戒し、ビクビクと肩を震わせながら歩く二人が辿り着いたのは、奇しくも今朝訪れたばかりの伏見稲荷大社であった。


朱色の鳥居が夕闇に溶け込み、どこか異界への入り口のような不気味さを湛えている。

二人は吸い寄せられるように境内へと入り、拝殿の前で深く、縋るように掌を合わせた。

将生の魂が救われるように。

そして、自分たちを追い詰めるこの呪いが解けるように。


祈りを終えて振り返ったその時、将史は背中に突き刺さるような強い視線を感じて足を止めた。

そこには、一人の小柄な女の子が立っていた。


腰まで届く長い銀髪。

零れ落ちそうなほどまん丸な瞳に、台形の形をした不思議な口の開き方。

黒いベレー帽を被り、ズボンタイプの黒いセーラー服という独特の装いの彼女は、手にはスーパーの買い物袋を提げ、じーっと無表情に夫妻を見つめている。


「……えらいこっちゃ。」

唐突に、少女の口からその言葉が漏れた。


「え、どないしたん? 迷子?」

直美が戸惑いながら尋ねる。


「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や。」

少女はいきなり、抑揚のない声で自己紹介を始めた。


「そ、そうなん? そんで、えらいこっちゃんもお参りしにきたんか?」

将史が調子を合わせるように問いかけると、少女の瞳がわずかに細められた。


「狐の神社で犬の御参りやってしまいよる、えらいこっちゃ。」


その言葉に、山県夫妻の心臓が跳ね上がった。

「な、何でそれを……あ、思わず何か、口に出してたか?」


将史が冷や汗を流しながら狼狽えた、その瞬間である。


「えらいこっちゃーーー!!!」


少女が天を仰ぎ、鼓膜を震わせるほどの凄まじい大声で叫んだ。

夕暮れの静寂を切り裂くその咆哮に、夫妻は驚愕してその場に立ち尽くす。


すると、遥か参道の奥、立ち並ぶ鳥居の隙間から、何やら燃えるような赤い光がゆらゆらと揺れながら近づいて来るのが見えた。

それは圧倒的な熱量を帯び、夜の帳を焼き払いながら、確実に二人の方へと迫りつつあった。


---


## 闇を裂く炎の車輪、迷い込んだ摩訶不思議


ゴォォォォッ……!!


朱色の鳥居を赤々と照らし出し、猛烈な熱気と共にそれは姿を現した。

闇を切り裂いて突進してきたのは、巨大な片輪だけが激しく燃え盛る牛車のような異形の乗り物。


しかし、その形状は古めかしい牛車とは似て非なるものであった。

前方にトラックのような運転席が無理やり取り付けられた、まさに「魔改造」と呼ぶにふさわしい異様な姿。

凄まじい迫力で迫り、山県夫妻の目の前でキィィィィッ! と耳を裂くような音を立てて停車した。


パカッ、と運転席の窓が開く。

そこから顔を出したのは、えらいこっちゃ嬢とお揃いの黒いベレー帽を被った、一人の着物美人であった。

艶やかな黒い長髪を後ろで一つに束ね、穏やかな微笑みを浮かべている。


「えらいこっちゃん、お待っとさん。ええ買い出しはできたかな?」

美人がしなやかな手でひらひらと手を振ると、ガバッ、と客席の扉が勢いよく開かれた。


片輪車かたわぐるまねえちゃん、御迎えありがとちゃん! えらいこっちゃな美味い鶏肉と玉ねぎ買えた! えらいこっちゃな犬呪い夫婦2名様! 行先は『摩訶不思議食堂』!」

えらいこっちゃ嬢は買い物袋を揺らしながら、小さな体からは想像もつかない凄まじい力で、腰が抜けていた夫妻の背中をぐいぐいと押し込んだ。


「ちょ、ちょっと何!? どこ連れて行くの!?」

直美が悲鳴を上げる間もなく、二人は無理やり客席に放り込まれ、えらいこっちゃ嬢もその隙間にひらりと飛び乗る。

バタンッ! と扉が閉まり、逃げ場は失われた。


「な、なんやねんこれ! 誘拐か!?」

将史が取り乱して周囲を見渡すと、天井の隙間から何かがニューっと伸びてきた。

それは「お勘定」と書かれた札をぶら下げた、白くて不気味なほど長い腕であった。


「ひえ!? う、腕……っ!?」

あまりの光景に、夫妻は抱き合って震え上がる。


「お、お勘定って……えっと、料金払えって事か?」

将史は震える手で財布を取り出すと、言われるがままに中から千円札を一枚抜き取った。

それを恐る恐る、宙に浮く真っ白な掌に乗せる。

すると腕は満足したように千円札を握りしめ、再び天井の闇へとニューっと引っ込んでいった。


「毎度ー。ほな、発進しまっせー。」

運転席から片輪車の朗らかな声が響く。


ドゴォォォッ!!


次の瞬間、片輪の炎がさらに激しさを増し、牛車は猛烈な勢いで加速を始めた。

伏見稲荷の景色が瞬く間に後方へと流れ去り、一行を乗せた魔改造牛車は、夜の闇のさらに奥へと突き進んでいった。


---


## 異形の料理人と、迷い路の果ての食卓


キィィィィッ……!!


激しく燃え盛る車輪が火花を散らし、魔改造された牛車が緩やかに速度を落としていく。

夕闇の向こう側に、温かな提灯の灯りに照らされた、一軒の美しい「摩訶不思議食堂」と書かれた看板の木造建築が姿を現した。

都会の喧騒からは完全に切り離された、静謐で、どこか懐かしさを覚える佇まいの店である。


「はい、到着ですえー。」

方輪車が笑顔で到着を告げて牛車を停めると、停車と同時に客席のドアが勢いよく開き、えらいこっちゃ嬢がぴょんっと軽やかに地面へと飛び降りた。

彼女が「おいで」と小さく手招きするのを見て、山県将史と直美の夫妻は、腰を引かせながらも恐る恐る車を降りる。


パタン、とドアが閉まると、運転席の窓から片輪車がにっこりと笑顔を覗かせた。

「毎度ありー。ほなねー。」


颯爽と手を振り、窓を閉めると、牛車は再び猛烈な炎を撒き散らしながら、夜の闇へと消え去っていった。

残された二人の前には、ただひっそりと、その店だけが建っていた。


「……な、なんなんや、ここは。狐の神社と火の車の次は、料理屋か?」

呆然と立ち尽くす夫妻の前で、建物の引き戸がカラリと開く。

そこから姿を現した人物――いや、その「存在」を目にした瞬間、二人は息を呑み、全身を強張らせた。


そこに立っていたのは、青い作務衣に白い割烹着をきっちりと着こなした、一人の男性料理人……のような姿をした、一匹の「白い犬」であった。

閉じているような細い目に、愛らしく垂れた白い耳。

どこからどう見ても、穏やかな笑顔を浮かべた犬そのものである。


「えらいこっちゃん、お帰りやす。御新規の御夫婦も、ようおこしやす。」

犬の料理人は人語を解するばかりか、京言葉の混じった柔らかな物腰で丁寧に頭を下げた。

その礼儀正しい仕草が、かえってこの世の理を超えた異常さを際立たせている。


「わんぞうさん、ただいま! えらいこっちゃな犬夫婦2名様! えらいこっちゃな食材買うて来た!」

えらいこっちゃ嬢が意気揚々とスーパーの袋を差し出すと、わんぞうと呼ばれた犬は、その中身を覗き込んで嬉しそうに目を細めた。


「ありがとうさん。おお、これはええ鶏肉と、新鮮な玉ねぎですなあ。こりゃ、ええのが出来まっせ。」

わんぞうは満足げに何度も頷くと、ニコニコと御機嫌な様子で、パタパタと足音を立てて奥の厨房へと消えていった。


「えらいこっちゃな夫婦、カウンター席へご案内!」

呆気にとられたまま動けない夫妻を、えらいこっちゃ嬢が再び手招きして店内へと促す。


訳も分からず、そして先程の「わんぞう」という存在に対する底知れぬ恐怖と困惑に震えながらも、二人は吸い寄せられるようにカウンター席へと腰を落ち着かせた。

その先で待ち受けているものが、救いなのか、あるいはさらなる断罪なのかも分からぬままに。


---


## 聖域の微笑み、失われた食卓の記憶


将史と直美が、逃げ場のない緊張感に包まれながらカウンター席に腰を下ろすと、厨房の奥から何かが静かに近づいてくる気配がした。


ぬうっ……。

湯気と香ばしい匂いの向こう側から現れたのは、圧倒的な存在感を放つ「お地蔵さん」そのものであった。

石造りのようでありながら、その肌には温かみがあり、何よりもその顔には、すべてを包み込むような慈悲深い笑みが湛えられている。


「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。2名様、いらっしゃいまし。私はこの店の店長をさせて頂いております。皆さんは地蔵店長と呼んで下さいます。」

地蔵店長は、ニコニコとしたお地蔵さん笑顔のまま、静かに合掌してお辞儀をした。

その声は、深く、穏やかに、夫妻の凍りついた心を解きほぐすように響く。


「え、あ、ああ……えっと、山県です。山県将史です。こっちは妻の直美です。二人共、同じ会社で働いていて、社長をやっておるもんです。」

あまりに現実離れした存在を前に、将史は圧倒されながらも、咄嗟に会社の名刺でも出すかのような勢いで自己紹介をした。

隣で直美も、弾かれたように何度も丁寧にお辞儀を繰り返す。


「これはこれは、ご丁寧に有難う御座います。どうぞ、肩の力を抜いて、ごゆっくりなさってくださいまし。」

地蔵店長は、どこまでも柔和なニコニコ笑顔を絶やさない。


すると、いつの間にかベレー帽はそのままに、黒い作務衣と白い割烹着姿に着替えたえらいこっちゃ嬢が、一冊のメニュー表らしきものを将史の前に差し出した。

将史が震える手でそれを受け取り、ゆっくりと頁を開いてみると、そこにはたった一行、手書きのような温かい文字でこう記されていた。


――「懐かしの家族オムライスセット」


「オムライスって……。」

将史の口から、乾いた呟きが漏れる。


「……そういえば、洋食屋に家族で行った時に、オムライスが美味しくて。将生にせがまれてから、家でも作るようになったんやったね。私は包むんが下手やから、いつも上に乗せるタイプにして……それが、うちの味になったんやんね。」

直美は遠い目をして、愛おしそうに呟いた。


彼女は震える指でカバンを探ると、いつも肌身離さず持ち歩いている、色褪せた家族写真を取り出し、カウンターの上にそっと置いた。

そこには、大好きなオムライスを前に、満面の笑みを浮かべる将生の姿があった。


「……3人分って、出来ます? 一人は子供用で。」

将史は、何かを振り切るようにして、えらいこっちゃ嬢にメニュー表を返した。

もうここにはいない息子の分を注文するという行為が、彼らにとっての切実な祈りのようでもあった。


「懐かしの家族オムライス、大人一人分、ハーフ一人分、子供一人分! えらいこっちゃな懐かし食卓!」

えらいこっちゃ嬢が、威勢よく厨房に向かって叫ぶ。

「わんぞうさんと猫子ねここさんの、えらいこっちゃな絶品コンビネーションオムライス、添え付け野菜は蛙仙人さんの新鮮野菜!!!!」


その声に応えるように、厨房の奥から「アイヨッ!」という活気ある返事が重なった。

いよいよ、山県家の記憶を呼び覚ます、摩訶不思議な調理が始まろうとしていた。


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## 異形の厨房、人ならざる者たちの饗宴


「猫子にわんぞう……? 犬と猫みたいやな。」

将史は戸惑いを隠せないまま、カウンター越しに首を長くして厨房の奥を覗き込んだ。


ジュウゥゥゥッ! パチパチッ!


食欲をそそる香ばしい音と共に、先程の白い犬、わんぞうが大きなフライパンを力強く振っていた。

鶏肉と玉ねぎがたっぷりと入ったケチャップライスが、鮮やかなオレンジ色の弧を描いて宙を舞う。

その手付きは迷いなく、まるで熟練の料理人が乗り移ったかのような見事な手捌きであった。


しかし、驚きはそれだけでは終わらなかった。


そのすぐ隣で、黄金色に輝くフワトロの楕円形オムライスを、人数分同時に仕上げている存在に将史は目を剥いた。

黒髪で穏やかな顔立ちをした、猫耳が可愛らしい女性料理人――猫子である。


紅い着物に割烹着を纏い、猫耳がひょっこりと出るように工夫された三角巾を付けた彼女は、真剣な眼差しでフライパンを叩き、卵を美しく巻き上げていた。

その仕草は優雅でさえあるが、ぴくぴくと動く耳は、彼女が人間ではないことを雄弁に物語っている。


さらにその傍らでは、三つの皿に新鮮な生野菜をせっせと盛り付けている姿があった。

緑色の肌に、瞳孔が横一直線になった穏やかな目を持つ、優しい顔立ちの蛙――蛙仙人である。


「ほっほっほっ、瑞々しいお野菜をどうぞ。これで栄養も完璧ですわ。」

緑の作務衣に白い割烹着を着た彼は、鼻歌を歌うような軽やかさで包丁を使い、芸術的なまでに美しく野菜を切り分けては、彩り豊かにお皿を飾っていく。


「な、なんやこの料理屋……人間が、一人もおらん……。」

将史はあまりの光景に、椅子から転げ落ちそうになるのを必死で堪えた。


厨房にひしめき合っているのは、犬、猫、蛙、そしてカウンターにはお地蔵様。

どこを見渡しても、自分たちが知っている「人間」の姿はどこにも見当たらない。


「あなた……あの子も、ひょっとしたら。」

直美が震える声で、給仕をしているえらいこっちゃ嬢に視線を向けた。


「見た目は小柄な女の子にしか見えへんけど、えらいこっちゃんも、人間やなかったりして……。」

その言葉に、将史は背筋に冷たいものが走るのを感じた。


この世の理が通用しない、摩訶不思議な空間。

自分たちは一体、どこへ連れてこられてしまったのか。


そんな二人の困惑をよそに、厨房からは、これまで嗅いだこともないほど芳醇で、それでいてどこか泣きたくなるような懐かしい香りが漂い始めていた。


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## 記憶の再現、涙と微笑みの三人の晩餐


厨房での活気ある音が静まり、香ばしいバターとケチャップの香りが最高潮に達した。

えらいこっちゃ嬢が、将史の前に大皿のオムライスを、音を立てず静かに、そして丁寧に置く。


続いて猫子が、直美の前へと歩み寄った。

彼女の手には、少し小さめのオムライスと、さらに愛らしい子供用のオムライスが乗った二つの皿がある。

猫子もまた、宝物を扱うかのように、それらを音もなく直美の前へと並べた。


「二つで一人分の分量ですさかい、お子さんと一緒に味わうて貰えますえ。」

猫子は、陽だまりのような優しい笑顔を浮かべて深くお辞儀をすると、しなやかな動作で厨房へと戻っていく。

その後ろを、えらいこっちゃ嬢も満足げな顔で付いていった。


「……お心遣い、有難う御座います。」

直美の声は震え、今にも溢れ出しそうな涙を必死に堪えていた。


彼女は震える手で、大切に持ち歩いていた将生の写真をカウンターの端に立てる。

「将生、一緒に頂きますしよな。頂きます。」

静かに合掌し、祈るように言葉を捧げてから、二人はゆっくりとスプーンを手に取った。


「……頂きます。久々の家族で晩御飯やな。」

将史もまた、込み上げるものを飲み込むようにしてスプーンを動かした。


一口、黄金色の卵とケチャップライスを口に運んだ瞬間、二人の動きが止まる。

舌の上で広がる甘みと酸味の完璧な調和。

それは、かつて将生がオムライスをせがむきっかけとなり、その後も何度も家族で通い詰めた「あの店」の味そのものであった。


「これ……あの店の味や。去年、店の御主人が高齢で閉店してしまった、あの洋食屋のオムライスの味。私ら家族の、思い出のオムライスの、始まりの味やわ……。」

直美は信じられないといった様子で、愛おしそうに皿を見つめ、静かに微笑んだ。


「閉店って知った時、もう二度と食べられへんって、将生もほんまに残念な顔しとったなあ。でも、ここやったら、こうしてまた食べられたのに……。」

将史の瞳に、在りし日の息子の表情が浮かぶ。


「ほっこりする味……将生と一緒に来たかったなあ……。」


直美の目から、ついに大粒の涙が零れ落ちた。

しかしそれは、今朝までの恐怖や絶望の涙ではなく、心の奥底が温かな灯火で照らされたような、救いの涙であった。

二人は一口ずつ、噛み締めるように、丁寧に料理を食べ進めていく。


「野菜も美味いな。新鮮なんがようわかるで。土の香りと甘みが、体に染み渡るみたいや。」

将史は、蛙仙人が盛り付けた瑞々しい野菜を口にし、その力強い味わいに感嘆の声を漏らした。


「全部美味しいね。ええ店に来れたわあ……。」

直美は、隣に立てた写真の中の将生に語りかけるように、穏やかな表情で頷いた。

凄惨な呪いの影が漂う日常の中で、この食卓だけは、かつての幸せな山県家の時間を確実に取り戻していた。


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## 綻び始める安らぎ、断罪の響き


幸福な時間は、皿の上に残ったソースの跡と共に静かに幕を閉じた。


オムライスを綺麗に食べ終えた夫妻の元へ、えらいこっちゃ嬢と猫子が音もなく歩み寄る。

二人は阿吽の呼吸で、空いた皿を片付け始めた。

カチャリ、という小さな音すら立てない、徹底して丁寧な所作。


一度厨房へと戻った後、再び現れたえらいこっちゃ嬢の手には、三つの飲み物が乗ったトレイがあった。

芳醇な香りを漂わせる珈琲を二人の前へ。

そして、たっぷりのミルクが入ったカフェオレを、カウンターに立てられた将生の写真の前にそっと置く。


音を立てず、静かに、そして慈しむように置かれたその一杯に、直美は目を細めた。

「有難うねえ。ふふ、思い出すわあ。」


「将生、背伸びして珈琲飲もうとしてな。でもやっぱり苦くて飲めへんから、砂糖と牛乳をこれでもかって入れて、やっと飲めたんやったな。」

将史は、当時の息子の必死な顔を思い出し、喉の奥で小さく笑った。


「……ブラックも飲めるようになるまで、あの子の成長していく姿を見守りたかったなあ。」

直美の言葉には、拭いきれない悔しさが滲む。


「ほんまにな。……よし、これから、毎朝カフェオレも仏壇に供えることにしよか。」


将史が静かに決意を口にした、その時であった。


「頭下げて拝むべき相手にはただの一度も頭下げて拝まんと、自分とこの仏壇だけ拝みよる、えらいこっちゃ。」

不意に、えらいこっちゃ嬢が冷や水を浴びせるような声を上げた。

その瞳は、先程までの給仕の時とは打って変わって、二人を射抜くような鋭さを帯びている。


「え?」

夫妻は思わず顔を見合わせ、呆然と彼女を見返した。


「そりゃ、自分とこの仏壇は拝むとして、他もせなあかんことあるんか? その、宗教的に墓参りも毎日いかなあかんとか、そういう話か?」

将史の問いは、どこか焦点がずれていた。


「反省の色無し、被害者面してしまいよってからに、えらいこっちゃ。」

えらいこっちゃ嬢は、逃げ場を塞ぐようにびしと言い放った。


その言葉の真意を測りかね、夫妻が驚愕に目を見開いた、その瞬間である。


ガラガラガラッ……。


夜の静寂を切り裂いて、店の重厚な引き戸が開く音が響き渡った。

店内に流れ込んできたのは、夜の冷気だけではない。

そこには、二人にとってあまりにも縁深く、そして恐ろしい「因果」の気配が満ち満ちていた。


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## 黄金の瞳の執行者、風呂敷包みの真実


ガラガラガラッ……。

夜の冷気と共に店内に足を踏み入れたその姿に、山県夫妻は息を呑み、言葉を失った。


絶世の美少女という言葉ですら生ぬるい、この世のものとは思えぬほどの美貌。

黒地に金色の花の刺繍が豪華にあしらわれた、艶やかな着物を纏った少女。

女子高生くらいの年頃に見えるが、その頭上には、黒く鋭い二本の鎌状の角が左右に生えていた。


眩いほどの金髪を、シュシュで左側にまとめたサイドテール。

金色の瞳には知性と、どこか現代的なギャルのような快活さが宿っている。

鬼としての底知れぬ威厳と、今時の少女のような華やかさを併せ持つ、不思議な存在であった。


女鬼じょきさん、いらっしゃいまし、御疲れ様です。準備は調うて御座います。」

地蔵店長は、いつもの穏やかな笑顔で合掌し、深くお辞儀をした。

その声には、単なる客に対するもの以上の、深い敬意が込められている。


「女鬼ねえちゃん、いらっしゃいのおつかれちゃん! やっぱり被害者面して反省の色無し! 覚えてすらおらんかった、えらいこっちゃ!」

えらいこっちゃ嬢が、ぶんぶんと手を振って彼女を出迎える。

その報告を聞いた瞬間、少女の金色の瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。


「おつー、お邪魔しまーす♪ 家族の会食は、ちょうど食後の珈琲タイムってところかなー♪」

女鬼と呼ばれた少女は、はじけるようなギャルの笑顔を見せながらも、その足取りは驚くほど上品で優雅であった。


彼女は手に大切そうに抱えていた風呂敷包みを持ち、カウンター席までやって来ると、夫妻の隣に立った。

そして、その包みを音も立てずに、丁寧にカウンターへと置く。


「えっと、今晩は……。可愛らしい子やね、着物も綺麗やし。高校生くらいかしら?」

直美が、その圧倒的な美貌に見惚れながら、おずおずと声をかける。


「常連さんかな。えらいこっちゃんと地蔵店長とも顔見知りみたいやし。」

将史もまた、現実感を失ったような顔で頷いた。


「ま、常連っちゃ常連かなー。」

女鬼はいたずらっぽく微笑み、二人を金色の瞳で見つめ返した。

その視線の奥には、すべてを見透かすような冷徹な光が潜んでいる。


「女鬼ちゃん、おいでやす。香りでわかったと思うけど、今日はオムライスやでな。」

厨房から、わんぞうが顔を出し、穏やかに笑いかける。


「やったー♪ わんぞうさんと猫子さんのオムライス、それに蛙仙人さんの野菜盛り盛りだー♪ 楽しみにしてるねー♪」

少女は無邪気に喜び、ぱあっと表情を輝かせた。


しかし、その直後。

彼女は傍らに置いた風呂敷包みに、そっと白く細い指を添えた。


「そんじゃ、娑婆しゃばから連絡貰った事だし、きっちりお仕事しよっかな。」

少女の纏う空気が、一瞬にして凍てつくような峻厳なものへと変わった。


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## 宣告の序曲、語られざる恐怖の淵


金色の瞳を細め、どこか楽しげにカウンターの風呂敷包みを指先でなぞる女鬼に、将史が怪訝そうな声を向けた。

「……仕事って、ここのバイトやったんやね。こんな時間まで、学生さんも大変やなあ。」


「んー、あーしは摩訶不思議食堂のバイトじゃないよ。ここはね、あーしにとっても特別な場所なんだけど、所属してるわけじゃないからねー♪」

女鬼は人差し指を立ててチッチッチ、と軽快に振ってみせる。


「そうなん? ほんなら、仕事ってなんなんやろか。その着物……演劇か何かのお仕事?」

直美が首をかしげると、女鬼は人差し指を自分の顎に当て、少し考えるような仕草を見せた。

「そーだねー……一言で言うなら、『気づかせる事』かな?」


「気付かせる事?」

二人の声が重なり、店内に奇妙な残響を残す。


「そ。自分自身で気づかせる事。あーしはそのための『きっかけ』を運んできただけなんだよねー。」

女鬼の口調は軽い。

しかし、その金色の瞳には一切の笑みがなく、鏡のように無機質な光を放っていた。


「……ちょっと、ようわからんな。何を気づけって言うんや。」

将史が戸惑い混じりに吐き捨てると、女鬼は再びギャルのような快活な笑みを浮かべた。


「今はわかんなくても、嫌でもわかるよ。もうすぐそこまで来てるし。」


パタパタ……。


そこへ、厨房からわんぞうがひょっこりと顔を出した。

穏やかな白い犬の顔が覗いた瞬間、将史と直美は椅子を鳴らして「びくっ」と激しく身体を震わせた。


「あはは! わんぞうさんの事、そんなに怖いんだ。優しい凄腕の料理人なのに。もしかしてさー、わんぞうさんに食べられちゃうとか思っちゃってる?」

女鬼の突き刺すような言葉に、将史は顔を強張らせて口ごもる。

「い、いや、そんな事は……。ただ、その、慣れへんもんで……。」


「その……オムライスは、凄く美味しかったのはわかるし、感謝もしてるんやけど……。」

直美が、絞り出すような声で言葉を継いだ。

「でも、その、犬は……ちょっと、苦手というか……。」


「へー、犬が怖いん?」

女鬼の問いかけに、直美はカウンターの将生の写真を握りしめた。

「……前までは怖くなかったんやけど、正直、今は凄く怖いや。なんでかわからんけど、道行く犬に絶対吠えられるようになったし。それに、その……息子が、な……。」


「直美、もうええ。犬の話はやめようや。」

将史が遮るように言い放った。その声は怒りよりも、底知れぬ恐怖を必死に押し殺そうとする震えに満ちている。

「その……思い出したくもないんよ。今はせっかく、家族で飯食えたんやから。頼むわ。」


将史は逃げるように目を逸らし、冷めかけた珈琲を啜った。

しかし、彼らの背後では、女鬼が置いた風呂敷包みが、まるで何かの呼吸に合わせるかのように、僅かに、しかし確実に蠢き始めていた。


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## 血塗られた過去帳、暴かれる三十年前の罪


「あは、犬に対して、そんなに嫌な思い出があるんだねー。」

女鬼は、含みのある笑みを浮かべながら、手元の風呂敷包みを指先でトントンと叩いた。


「まあ、そうやな。あんな酷い死に方……。そやから、犬の姿なんて正直言うて、二度と見たくもないんよ。」

将史が吐き捨てるように言うと、女鬼は金色の瞳をさらに細め、射抜くような視線を夫妻に向けた。


「じゃあさ、自分たちの『悪ガキ時代』の思い出は、いい思い出? それとも、思い出したくないくらい悪い思い出? もしかして、都合よく忘れちゃってる感じかなー?」

突き刺すような言葉が、店内の空気を一瞬で凍てつかせる。


「え……?」

夫妻は絶句し、目を見開いて立ち尽くした。

自分たちの過去――それも、誰にも触れられたくない、心の奥底に封印したはずの記憶を、目の前の少女が土足で踏み荒らそうとしている。


女鬼は返事を待つことなく、流麗で無駄のない所作で、カウンターに置いた風呂敷包みの結び目を解いた。

カサリ、と乾いた音が、静まり返った店内に不気味に響く。

中から現れたのは、重々しい装丁の折本、そしてあまりにも異様な「遺品」の数々であった。


「過去帳写し:山県将史」

「過去帳写し:山県直美」


そう記された二冊の折本の傍らには、びりびりに破れたノートや教科書が積み上げられていた。

そして、その下から覗いていたのは、どす黒く変色した血にまみれ、ボロボロに引き裂かれた女子用の体操服。

さらには、同じように無残に破れたカジュアルなシャツと長ズボンが、まるで死体の抜け殻のように姿を現したのである。


「……これ、は……? なんなんや、これは!」

将史は身を乗り出し、喉を鳴らしてその惨状を凝視した。


「ノートの名前欄、よーく見ればわかるんじゃない?」

女鬼が白く細い掌で、バラバラになったノートの一角を示した。

そこには、幼い筆跡で、しかしはっきりと「業千寺優美」という名前が書かれていた。


「あ…………っ!」

それを見た瞬間、直美の顔から血の気が一気に失われた。

ガタガタと椅子を鳴らし、彼女の身体が激しく震え始める。


「奥さん、心当たりあるんだねー。完全に忘れたわけじゃないんだ。よかった、話が早くて。」

女鬼の声には、先程までの明るさは微塵も残っていない。


「これ……『ごうせんじゆみ』って、優美のノートや。間違いないわ……。」

直美が、ひきつけを起こしたような掠れ声で呟く。


「優美って、そんな子、小学生の頃におった子やったっけか? もう30年位前の話やぞ。そんなもん、今更なんやねん。」

将史は必死に記憶を辿りながらも、苛立ちを隠せない。


「そうよ、そうそう。でも、なんでこれがここにあるの? それに、この体操服みたいなのって……これ、ほんまもんの血なん?」

直美は、目の前の血塗られた布切れから目を逸らすことができず、震える指を口元に当てた。


「……なんで体操服が血塗られてるのか。そんなの、旦那さんと奥さんが一番わかってんじゃないの?」

女鬼の言葉は、冷たい刃となって二人の心臓を貫いた。


「え……?」

再び驚愕に染まる夫妻に対し、女鬼は深いため息をついた。

その瞬間、彼女の纏う雰囲気が一変した。


快活なギャルの風貌は霧散し、その背後には絶対的な断罪者としての鋭い威光が立ち昇る。

金色の瞳には慈悲の欠片もなく、神霊としての峻厳な力が店内の空気を圧倒し、夫妻を金縛りにした。


「……そりゃ、なるべくしてなった結果としか言えないねー。まさに因果応報、自業自得。あんたたちに、同情の余地とか救いようって、果たしてあんのかな?」


女鬼は極寒の氷点下を思わせる声で、冷酷に言い放った。

その言葉は、三十年前から繋がっていた呪いの鎖を、完膚なきまでに締め上げる宣告であった。



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## 揺らぐ水面、暴かれる忘却の罪


山県夫妻がその場に縫い止められたように驚愕に震える中、いつの間にかえらいこっちゃ嬢が厨房から姿を現した。

その手には、重厚な輝きを放つ大きな盃と、炭酸水が入った瓶が抱えられている。

彼女はトコトコと歩み寄ると、炭酸水の瓶を女鬼の手へと渡し、夫妻のちょうど中央に位置するカウンター席のテーブルへと静かに、しかし確かな存在感を持って盃を置いた。


「ありがと♪」

女鬼は優しくえらいこっちゃ嬢の頭をなでると、見る者を見惚れさせるような、流麗で美しい所作で盃に炭酸水を注ぎ始めた。


シュワシュワ……パチパチッ……!

透明な気泡が弾ける涼やかな音が店内に響き渡る。


注ぎ終わったその時、女鬼が白く細い指先で「パチン」と小気味よい音を立てて指を鳴らした。

すると、静止していたはずの水面が生き物のように激しく揺れ動き、やがて鏡のような滑らかさを取り戻したその場所に、鮮明な映像が浮かび上がり始めた。


そこには、三十年近く前の景色が広がっていた。

まだ幼さが残る、少年時代の将史と少女時代の直美。

そしてその隣には、黒くて短い髪を揺らし、清潔感のあるシャツと長ズボンを凛々しく着こなした、一人の美少女の姿があった。


「この子……私と将史と、優美……?」


直美は息を呑み、吸い寄せられるように水面を覗き込んだ。

水面の中で、三人は小学3年生になるまで、教室の仲間たちと屈託のない笑顔で笑い合い、日が暮れるまで遊び回っていた。

誰もが疑わなかった、平穏で幸せな日常の光景――。


しかし。

映像の中の空気が、小学3年生の途中で一変した。


ある日の放課後、将史と直美が中心となり、クラスの数名で当時流行っていた「こっくりさん」を始めようとしていた。

十円玉に指を添え、異界の扉を叩こうとする子供たちの無邪気な好奇心。


そこへ、優美が静かに歩み寄り、二人を見つめて口を開いた。

「素人がそんなことやったら危ないから、やめとき。遊びで済まなくなるよ。」

それは、幼馴染としての、そして真実を知る者としての、精一杯の優しい忠告であった。


だが、好奇心を邪魔された将史と直美の顔には、瞬時に醜い不快感が広がった。

「なんやねん優美の奴、何が危ないんじゃ! しけた面して、うっとおしいねん!」


将史は言い放つなり、優美の細い肩を力任せに突き飛ばした。

無防備だった優美の身体は地面に叩きつけられ、砂埃にまみれる。


この瞬間を境に、水面の中の優美の運命は暗転した。

将史と直美が先導し、学年中から「こっくりさんの使い魔」「呪われた子」という忌まわしいあだ名を付けられた彼女は、凄惨ないじめと暴力の対象へと堕とされていった。

教科書を破かれ、血を流し、泥を投げつけられても、かつての山県夫妻にとっての親友達は嘲笑を浮かべてそれを見下ろしている。


その光景を、現在の将史と直美は、魂を削られるような思いで凝視し続けていた。

忘却の彼方に追いやったはずの、自分たちの手で引き起こした地獄が、今、鮮明な「業」として目の前に突きつけられていた。


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## 雪下の牢獄、閉ざされた叫びの果て


水面が激しく波打ち、三十年前の凍てつくような冬の光景を映し出す。

優美から事情を聞いた両親、業千寺千寿と妻は、怒りに震えながら何度も学校へ猛抗議に訪れていた。

「親子を交えて、きっちりと話し合うべきです!」


しかし、学校側の対応は冷淡そのものであった。

「子供達の喧嘩ですから」「よく注意しておきますから」

事なかれ主義の教師たちは、その場しのぎの言葉で千寿たちの訴えを切り捨て、いじめの根を放置し続けたのである。


暴力は日に日に凄惨さを増し、教科書やノートには見るに堪えない落書きが躍り、最後にはびりびりに破り捨てられた。

優美は全く身に覚えがないにもかかわらず、荒らされた所持品が見つかるたびに、事情を知らぬ先生から「整理整頓しなさい」と叱責される不条理に晒される。

そのたびに千寿たちは胸を締め付けられる思いで抗議を重ね、一時は転居も考えた。


「私が中学受験をして、あの子達と違う学校に通うようになれば、自然と離れるから。それまで頑張らせて。」

優美は涙を堪えてそう言い切り、両親は娘の強い意思を尊重し、身体を張って彼女を守り抜くことを誓ったのである。


しかし、惨劇は12歳の冬、小学6年生の時に起こった。


将史と直美が主導し、クラスメイトたちを巻き込んだ、取り返しのつかない「遊び」の結末。

しんしんと雪が降り積もる日の4時間目、体育の授業を終えて更衣室に戻った優美は、自分の着替えが消えていることに気づく。

外へ出ると、直美と将史、そして10人ほどのクラスメイトたちが、勝ち誇ったようなニヤニヤとした笑みを浮かべて着替えを掲げていた。


「……返して。」

優美は悲痛な表情でお願いする。

しかし、彼らは優美を嘲笑いながら走り出し、優美は震える身体でそれを追いかけた。


行き着いた先は、敷地の隅にひっそりと佇む、古びた体育倉庫であった。

屋根にはどっさりと重い雪が積もり、倒壊の危険があるため、周囲には立ち入りを禁じるロープが張られている。


「着替えたかったら、取ってこいや!」

将史と直美は、嘲笑と共に優美の着替えを倉庫の奥深くへと放り投げた。

はやし立てるクラスメイトたちと共に、彼らは足早にその場を去っていく。


優美は凍える寒さに耐えかね、仕方なくロープを潜り、薄暗い倉庫の中へと足を踏み入れた。

すると……。


バタンッ!

その瞬間、外から扉が勢いよく閉められた。

将史たちは扉が開かないよう、近くにあった太い角材をつっかえ棒にして固定し、そのまま何食わぬ顔で暖かい教室へと戻っていったのである。


「開けて! ここって立ち入り禁止で危ないんやから! お願い、開けて!」

中から扉を叩く鈍い音と、必死な叫び声が響く。

しかし、その声は厚い雪と冷たい悪意に遮られ、誰にも届くことはなかった。


そして、教室では将史や直美たちが、温かい給食を囲んで楽しげな笑い声を上げていた時……。


ドゴォォォン……ッ!!!


突然、校庭にけたたましい破壊音が轟いた。

職員室にいた先生たちが悲鳴に近い叫び声を上げながら、一斉に外へと飛び出していく。

やがて、けたたましいサイレンを鳴らして救急車が校内に入ってきたかと思うと、一刻を争うようにして再び走り去っていった。


5時間目が始まって間もなく、担任が沈痛な面持ちで教壇に立った。

「……旧体育倉庫が、雪の重みで崩れ落ちました。中にいた業千寺優美さんが、意識不明の重体で病院に搬送されました。」


教室中が静まり返る中、将史と直美と、一緒に優美を閉じ込めた生徒達は顔を伏せ、自分たちのしでかしたことの重さに、ただガタガタと震えることしかできなかった。



病院に駆けつけた千寿と妻が見たのは、無数の管に繋がれ、冷たくなっていく娘の姿であった。


「優美! 目を覚ましてくれ! 優美!」

両親の必死の呼びかけも、懸命な医療チームの処置も、積もった雪のように冷酷な現実を覆すことはできなかった。

祈りは届かず、12歳の短い生涯は、冷たい冬の空気の中で静かに幕を閉じたのである。


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## 解呪師の執念、黙殺された真実と孤独


三十年という歳月を隔ててなお、鮮明すぎる悪意の奔流が山県夫妻を襲った。

あまりの惨状に耐えきれず、将史と直美は悲鳴を上げて両手で顔を覆おうとする。


「――目を逸らそうっての?」

女鬼の低く、氷の刃を突きつけるような鋭い声が響いた。


その圧倒的な威圧感に、夫妻の身体は石のように硬直する。

逃げることさえ許されぬまま、二人は恐怖に震えながら、盃の水面に映り続ける「過去」を直視せざるを得なかった。


優美という少女は、誰よりも規律を重んじる心優しい子であった。

そんな彼女が、倒壊の危険がある立ち入り禁止区域に自ら足を踏み入れるはずがない――。


その不審を誰よりも強く抱いたのは、父である千寿であった。

近所では穏やかな普通の会社勤めの男性と思われていた千寿だったが、実はその正体は、この世の禍々しい呪いを解く「解呪師」という、卓越した力を持つ呪術の専門家だったのである。


千寿は愛娘を奪った理不尽な現実を前に、絶望の中で立ち上がった。

凄まじい執念を燃やし、その土地に宿る記憶の断片を拾い上げ、時には御霊寄せを行い、ありとあらゆる呪術的な手を尽くして真実を追った。


幸いなことに、優美もまた解呪師として人々を救う父の背中に憧れ、秘密にするという約束で、その技を教わっていた。

彼女が肌身離さず持ち歩いていた一枚の御札、そして現場に残された血塗られた衣類の残滓には、優美が最期に込めた正確な情報の欠片が宿っていたのである。


しかし。


「……そんなものは証拠にならん。呪術だの霊視だの、そんな非科学的な話で人を疑うのはやめなさい。」

血を吐くような千寿の訴えに対し、学校も警察も冷たく背を向けた。


当時は監視カメラもなく、目撃証言も得られない。

結局、事件は「優美が勝手に危険な場所に立ち入った不運な事故」として、強引に幕を引かれてしまったのである。


「あの子はそんな子やない! 何故あの場所にいたのか、何故扉が閉まっていたのか、少しも疑問に思わんのか!」

千寿は何度も再調査を求め、狂ったように抗議を続けた。

だが、その叫びは厚い組織の壁に跳ね返され、誰にも聞き入れられることはなかった。


時が流れるにつれ、教室の空気はさらに歪んでいく。


将史や直美、そして優美を閉じ込めた共犯者たちは、いつしか「あれは事故だったんだから、自分たちは悪くない」と、本気で思い込むようになっていった。

そうしなければ自分の精神を保てなかったのか、あるいは最初から良心など持ち合わせていなかったのか。

いずれにせよ、子供たちは一人、また一人と、自らの犯した罪の意識を完全に削ぎ落としていったのである。


やがて、心労が重なった千寿の妻は、娘を追うようにして静かに他界した。

千寿はただ一人、この町に留まり続け、必死に真実を訴えかける。

「往生際が悪い」「まだそんなことを言っているのか」

周囲から蔑まれ、石を投げられ、孤独に苛まれながらも、彼は真実を訴え続けた。


だが、残酷な時の流れは、すべてを「忘れ去られた過去」へと変えていく。

かつての凄惨な事件も、一人の少女の死も、すべては静寂の中に埋もれ、千寿は誰にも知られることなく孤独な生を繋ぎ続けた。


水面の中の千寿は、老いさらばえた背中で、一人寂しく優美の墓前に跪いていた。

その瞳には、三十年経っても消えることのない、昏く深い憤怒の炎が静かに揺らめいていたのである。


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## 罪の味、塗り潰された「殺人」の記憶


「……あ、あれは、事故で……。建物が古かったから起きた、不幸な事故やったんや……!」

将史は、震える声で絞り出すように言い逃れを口にした。

隣に座る直美も、激しく首を振りながら夫の言葉に縋り付く。


「ふーん、罪の意識ゼロなんだねー。罪悪感も良心も無いんだ、サイコパスって言うやつ?」

女鬼は、突き放すような冷ややかな視線を二人に投げかけた。


「確かに、いじめた事は、可哀そうな事したかなって、今なら思うけど……。でも、あれはあくまで事故で……!」

将史が必死に弁解を重ねると、直美もまた、自分たちを正当化しようと声を荒らげる。

「私らかて罪悪感も良心もあるよ。優美に酷いことしたのは認める。でも、体育倉庫が壊れたんは、私らのせいやなくて……!」


「そもそもさー、あの中に押し込めて閉じ込めなきゃよかったじゃん。そしたら、あんたらがあったかい部屋で何食わぬ顔で給食をバクバク食べてホクホクしてる間に、潰れた建物に押しつぶされて、寒い中で凍えながら死んでいく事もなかったのに。」

女鬼の言葉は、鋭い針となって二人の鼓膜に突き刺さった。


「ねえ、同級生殺して食べる給食はどんな味がした? ほっぺた落ちそうになるくらい美味しかった? それとも、血を連想させる鉄の味がした?」

感情を一切排除したその問いに、二人は息を呑み、言葉を失って立ち尽くす。


「建物壊れたんは経年劣化でも、閉じ込めよったんは悪意でしかあらへん。それを誤魔化しよった、えらいこっちゃな極悪人!」

えらいこっちゃ嬢が、カウンターの端からびしと言い放った。

その無垢な瞳に宿る糾弾の光が、夫妻の欺瞞を無残に剥ぎ取っていく。


「優美ちゃんをあの中に入れなきゃ、ただ建物が壊れただけだったのに。大体、人の着替え持ち去った時点で罪人じゃん、そんな事もわからないんだねー。」

女鬼は嘲笑うように言葉を継いだ。

「あんたらは殺人者。一緒に共謀して笑ってたワルガキ共も全員人殺し。これは紛れもない事実で逃れられない業だから。『あれは事故だったから自分達は悪くない』って、なんなん? 」


そして。


「自分らのやった事を都合よく捻じ曲げて正当化して、頭悪過ぎなアホ過ぎる言い逃れしてんじゃないよ!」

女鬼が鋭く吐き捨てたその瞬間、店内の空気が凄まじい圧力で膨れ上がった。


穏やかだった少女の風貌は跡形もなく消え去り、そこにあったのは、見る者の魂を凍りつかせる真の鬼の形相。

金色の瞳は燃え盛る業火のように輝き、左右の角が不気味な黒い光を放つ。

地獄の底から響くようなその威圧感に、山県夫妻は絶叫を上げることさえ忘れて、ただ圧倒的な恐怖に平伏すしかなかった。


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## 暴かれる連鎖、逃れられぬ断罪の残影


絶望に打ちひしがれる夫妻に対し、女鬼は追い打ちをかけるように冷ややかな吐息を漏らした。

「……はぁ。こんな両親に育てられたらさ、そりゃ子供も救いようのないクソガキに育っちゃうよね。子は親の背中を見て育つって言うかさ、教育の賜物ってやつ?」


女鬼が再び指を「パチン」と小気味よく鳴らす。

すると、盃の水面が再び激しく波打ち、今度は成長した息子・将生の姿を映し出した。

そこには二人の少年と一緒に、痩せこけた一匹の老犬を囲む将生の姿があった。


三人は下卑た笑い声を上げながら、抵抗もできない老犬に代わる代わる暴行を加えている。

重い棒で何度も叩き、力任せに蹴り飛ばす。

キャンッ、という悲痛な鳴き声が響くたび、少年たちの笑い声はさらに大きく、残酷に響き渡った。


「こら! 何をしとるんや! やめなさい!」

そこへ、70歳を超えた千寿が必死の形相で叫びながら駆け寄る。


将生たちはそれを見ると、蜘蛛の子を散らすように笑いながら、悪びれる様子もなくその場から逃げ去っていった。

千寿は震える手で血塗れの老犬を抱きかかえると、すぐに動物病院へと走り出す。

その背中には、最愛の娘に続いて愛犬までも奪われようとする、底知れぬ絶望が張り付いていた。


「まさに、この親にしてこの子ありって感じだねー。この子らってさ、これまでの短い人生で、何度『親の顔が見てみたい』って言われてきたんだろうね。一体、どんな親何だろうねー。あ、今目の前にいたわ。」

女鬼が冷ややかに言い放つと、将史と直美の顔は、もはや生気を感じさせないほど真っ青に染まった。


「さて、次はお楽しみのクライマックスだよ。」

女鬼が三度、指を「パチン」と鳴らす。


映し出されたのは、あの忌まわしい河川敷の光景であった。

悪ガキ三人組が、夕暮れの河原でいつものように騒ぎ立てている。


その時である。


堤防の向こうから、10頭を超える大型の野犬の群れが、物凄い勢いで現れた。

どの犬も眼は血走り、口からはだらりと涎を垂らし、正気を失った獰猛な獣そのものへと変貌している。

犬たちは一切の躊躇なく、獲物を見定めた瞬間に子供たちへと一気に飛び掛かった。


「やめて! もうやめて……っ!」

直美が、耳を塞ぎながら咄嗟に絶叫した。

しかし、水面の残酷な映像は止まらない。


牙が肉を裂き、骨を砕く凄まじい音が店内に響き渡る。

あまりの惨状を直視できず、直美は顔を覆って背を向け、将史もまた「こ、こんなん見せんといてくれよ!」と、喉を鳴らして顔を背けた。


「見たくなかったであろう我が子が冷たくなっていく姿と、見たくなかったであろう愛犬が傷ついて虫の息になった姿を、あのおじいちゃんは嫌でも見せつけられたってのに、あんたらは平然と目を背けるんだね。」

女鬼の声が、極寒の闇のように二人の背中に突き刺さる。


「そんな身勝手が、この期に及んで、この場所で、許されるとでも思ってんの?」


女鬼が二人の襟首を掴むかのような威圧感で、その場に縫い付ける。

その顔は、もはや美しい少女のものではない。

逃げることを一切許さない、真実を裁く本物の鬼の姿であった。


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## 結実する悪業、逃れられぬ断罪の咆哮


盃の水面は、あざ笑うかのようにさらなる地獄の光景を映し出した。

子供たちを貪り喰らった十数頭の野犬たちは、その血の匂いに狂ったのか、今度は互いの喉笛に食らいつき、おぞましい共食いを始める。


ガリッ、ボリッ……!!

生肉を断つ音と断末魔が店内に響き渡り、やがて河川敷には動くものがいなくなった。

遅れて到着した救急車のサイレンが虚しく空気を震わせる中、結果は山県夫妻が知る通り、3人はこの一件で、苦しみと絶望の中で短い生涯を閉じたのである。


凄惨な映像は、それで終わりではなかった。

あの一件以来、山県夫妻の両親は呪いに引きずられるように立て続けに他界。

将生と共に絶命した他の2人の子供の両親達も、相次いで精神を病んで自らこの世を去った。


その他、友人や知人など周囲の人々にも、不幸という言葉では片付けられない災いが次々に襲いかかる。

他界する者、重大な後遺症によって残りの人生が生き地獄となった者……。


特に小学生時代、共に優美を傷つけた者たちは、大切な人を相次いで失い、中には発狂してそのまま命を落とした者さえいた。

ペットを飼っていた家庭では、すべての愛玩動物が相次いで絶命し、犬に至っては見るに堪えぬ最期を遂げたという。



「……なあ、この器の映像って、君の能力で見せてるんか?」

将史は、歯の根が合わないほどガタガタと震える声で尋ねた。


「まあ、きっかけはそうかな。ここに過去帳があるっしょ? これとリンクさせて、2人の過去をそのまま再生してるだけ。あと、悪業に紐づけられた『果』も映し出せるよ。」

女鬼は、事もなげにそう言い放つ。

「今、お子さんの最期を映し出したように、ね。」


「!? な、なんでそんな……何も、将生のことまで見せんでもええやろ!?」

直美が、魂の底から絞り出すような悲鳴を上げた。


「言ったじゃん。あのおじいちゃんに、そして優美ちゃんにしでかした悪行による悪業と、それに紐づいてる『果』を映し出しただけなんだって。そして、あんたらはそれを観て思い出す義務がある事は、わかるよね?」

女鬼の金色の瞳が、冷酷なまでに二人を射抜く。

「ねえ、眼を背けていいと思ってんの? このまま見なくて済むとでも思った? 自分達がしでかした事から眼を背け続けた結果、今の状態になったんじゃん。おわかり?」


「親子揃っておじいちゃんの一家にやってしまいよった分際で、被害者面してしまってよる、えらいこっちゃ。」

えらいこっちゃ嬢が、蔑むような視線を向けてびしと言い放った。


「全くだよねー。どの面下げて被害者面って感じ。」

女鬼は深くため息をつき、一歩、夫妻へと歩み寄った。


「そりゃさあ、我が子を失って悲しいよねえ。でもさ、今感じてるその悲しみを、30年も前におじいちゃんに味わわせて、あんたらの子も犬に瀕死の重傷負わせてさ、おじいちゃんをさらに悲しませることをしでかして……。親子で大罪を犯しておきながら、現世では捕まったりせずにいられたからって、ただで済むとでも思ってんの?」


そして、女鬼の周囲に、爆発的な殺気と威光が渦巻く。


「自分がされて嫌な事を笑いながらやっといて、被害者面してんじゃないよッ!!」


「――ッ!!」

本物の鬼による、魂を叩き割るような一喝。

山県夫妻は最早何も言えず、ただ、溢れ出る涙を流しながら、崩れ落ちるように震えあがることしか出来なかった。


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## 業の連鎖、無垢なる生贄


静まり返った店内に、将史の震える声が力なく響いた。

「……将生が、あのじいさんの犬に大怪我させたから、あの犬に呪われたんか? そやから今、俺と直美は、犬にずっと吠えられたりしてるんか?」


将史の問いに対し、女鬼は金色の瞳を細め、指先を弄ぶ。

「んー、子供のやった事も一つの原因ではあるかなー。恨みの種って、どこで芽吹くかわかんないし。」


「でも、怪我はさせても、直接は殺してないはずやん。私も将生も、直接誰かの命を奪ったりなんてしてへんやん。そこまでされる筋合い、ないはずやわ!」

直美が、自分たちを正当化するために、縋るような叫びを上げた。


「それ、誰の何に対する言い訳? あんたらの行為は間違いなく優美ちゃんの死の因となり、子供の暴力が犬の死の因となったのは、見た通りじゃん。直接手を下してないから無罪放免とか言いたいわけ? この期に及んで、まだ逃げおおせようっての?」

女鬼の言葉は、氷の刃のように冷たく、二人の逃げ道を完全に塞いだ。


「それは……。」

将史は言葉を失い、喉を鳴らすことしかできなかった。


「確かに、加害者やった事は認めるよ。でも……でも、被害者面するなと言われても、将生を失った事については、私らは間違いなく被害者やん!」

直美は、せめて「母親」としての悲しみだけは守ろうと、必死に抵抗する。


「まあ、お子さんは加害者でもあるけど、被害者でもあるかな。」

女鬼が、含みのある笑みを浮かべてポツリと漏らした。


「そうやんな、将生は犬に殺された被害者で、私達は愛する我が子を失った被害者で……。」

直美が安堵の色を浮かべようとしたその瞬間、女鬼の言葉がその希望を粉砕した。


「お子さんは、あんたらの被害者だかんね。」

女鬼の金色の瞳に、逃れようのない断罪の光が宿る。


「え……?」

二人が目を見開いて硬直する中、女鬼は残酷な真実を淡々と告げた。


「あんたらは報いを受けただけ。あのおじいちゃんから大切な愛娘を奪った報いを、そっくりそのまま受けただけじゃん。そんでもって、あのおじいちゃんが受けた苦しみを、あんたらが味わうための『材料』にされたのが、あんたらのお子さんなんよ。、そういう意味では、あんたらのお子さんは、あんたらが報いを受けるために酷たらしい死を味わう事になったんだから、被害者と言えるかもね。」


女鬼は一歩、身を乗り出すようにして、二人を射抜く。

「要するに、あんたらが原因で、あんたらのお子さんは死んだってわけ。」


店内に、絶望の沈黙が落ちた。

「ねえ、自分達の悪業に端を発して、廻り巡って子を失った親になった今、どんな気持ち? 言っとくけど、お子さんの身体が食いちぎられたのは、あんたらの積み上げた『業』そのものによる結果だからね?」


山県夫妻は最早、言葉を返すことすら叶わなかった。

ただ溢れ出る涙を流しながら、自らの首を絞め続ける過去の重みに震えるしかなかった。



## 露呈する欺瞞、理解の及ばぬ断罪


将史は、震える口を必死に動かした。

「……俺達のせいで、将生が、死んだ、と?」


「そ。始まりからずっと悪化の一途をたどって、都合の悪い事はきれいさっぱり忘れて悠々自適に暮らしてさ。今度は子供が他人様の大切な家族を奪ったら……えっと、なんだっけ?『子供のやった事で大人げない』『じじい犬くらいでガタガタ抜かすな』だったっけ?親子そろって救いよう無さ過ぎ。おたくらの悪ガキがまだ生きてたら、もっとえげつない犯罪に手を染めてそうじゃね?」

女鬼は、一切の容赦なく、鋭い言葉の礫を投げつけた。


「そ、そんな言い方、酷過ぎやろ!?私ら、あの子を愛してたのに、そんな風に言うなんて……!」

直美が、なりふり構わず絶叫した。


しかし、女鬼は冷ややかな溜息一つでそれを切り捨てた。

「じゃあさ、今言った話、大切な老犬を傷つけられたおじいちゃんが抗議に来たところだけどさ、その盃に映そっか?当時は確か、おたくらの悪ガキは家まで来たおじいちゃんに謝るどころか、顔も出さないで反省もせずに、自室で漫画を読みふけってたんだっけ?」

女鬼が、スッと指を鳴らす仕草を見せた。


「それは……確かに、悪かったよ、あんな言い方して追い返して。反省してる。本当に、あの時はどうかしてたんや。」

将史は、膝に拳を押し当てて深くうなだれた。

彼は自らの傲慢さを認めるしかなかった。


「私も、ちゃんと叱るべきやった、それは認めるよ。親として、間違ってた。本当にそう思う。」

直美もまた過去の過ちを認めた。

溢れ出す涙と共に、言葉を絞り出した。


「ま、今更だけどねー、まさに後の祭りだし。」

女鬼はふーっと、心底呆れたように大きく溜息を吐き出した。


「ほんまやな……こんなことになるなら、優美をあの時、体育倉庫に閉じ込めたりせんかったら……。そっか。始まりからって君は言うたけど、その時から、歯車が狂ってたんか。」

将史は、自らの罪が30年近く前のあの日から黒い鎖となって繋がっていることを悟り、深い虚脱感に襲われた。


女鬼は深くため息を一つ吐いた。

「どーしょーもないね。根っこからして腐ってるし。」

彼女は呆れたように二人を見据えた。


「ど、どういうことや?罪を認めて、反省したと言うてるのに……これ以上、何をどうすればええんや?」

「そうよ、私ら、心から悪いと思ってるのに……。」

最早、女鬼が何を言わんとしているのか、その真意が夫妻には全く理解できなかった。


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## 傲慢の代償、選別された命への嘲笑


「あんたらはさー、そこに至るまで散々、優美ちゃんに暴力振るい続けたよね?」

女鬼は、獲物の喉元に冷たい氷の刃を突き立てるような、低く、そして鋭い声を店内に響かせた。

その言葉は単なる問いかけを超え、夫妻が三十年間蓋をしてきた醜い本性を抉り出し、白日の下に晒そうとする断罪の調べであった。


「それは……。」

将史は、喉の奥で引き攣れたような音を漏らし、言葉を失う。


かつて自分の振るった拳が、少女の細い肩を、震える背中を、どれほど無残に打ち据えてきたのか。

その感触が、今さらながらに悍ましい悪寒となって這い上がり、彼の指先を狂おしく支配し始めた。


「もっと言うとさー、こっくりさんを止めた時が本格的な暴力の始まりで、そこから一切ブレーキかからなかったよね?」


女鬼は、カウンターをトントンと指先で叩きながら、逃げ道を塞ぐように問いを突き付ける。

パチ、パチッ……と弾ける炭酸水の気泡が、静まり返った店内で、まるで破滅へのカウントダウンのように不気味に響いていた。


「確かに、あの時は優美のこと、思いっきり突き飛ばしてしもたし……暴力振るったんは、確かや。そっか、あの時から……俺は、ずっと、止められんかったんやな……。」

将史は己の掌を見つめ、そこに刻まれた、目に見えぬ血の汚れに怯えるように肩を震わせる。

自らの加虐性が芽生えた瞬間を突きつけられ、彼は呼吸をすることさえ忘れたかのように、ただ愕然と立ち尽くしていた。


「お話になんないね。ま、もっと根深いことに全く気づいてないのは、予想できてたけどねー。」

女鬼の声は、心底から吐き捨てるような、寒々しいまでの呆れに満ちていた。

金色の瞳は、夫妻の表層的な後悔など見向きもせず、その奥に潜む醜悪な本質を冷徹に見透かしている。


「根深いことって……何? 私ら、こうして悪いって認めてるのに……これ以上、何を言えって言うのよ……。」

直美が、震える声で精一杯の反論を試みる。


「わかんない? よく思い出して、その鈍い頭を使って考えてみなよ。あんたらに思い出せるだけの記憶力と、考えるだけの智慧が、ひとかけらでもあるならね。」

女鬼は、慈悲のかけらもなく、冷酷に言葉を突き放した。

彼女の背後で、目に見えぬ鬼の気配が爆発的に膨れ上がり、店内の空気は物理的な圧力となって、夫妻の骨を軋ませんばかりに荒れ狂う。


夫妻は必死に、泥沼のような過去の記憶を掻き回し始めた。

しかし、どれほど必死に答えを探そうとも、自らの傲慢さを「当たり前」の権利として生きてきた彼らに、真実の答えは一向に姿を見せない。


「ま、そんなこったろうとは思ったけどねー。あんたらは一生かかってもわかりっこないか。時間の無駄だったかな。」

女鬼は大きく、そして深い溜息をついた。

その仕草一つで、二人の存在価値そのものを全否定するかのような、圧倒的な拒絶が突きつけられる。


「な、なんなんや!? 俺たちは、一体何が悪かったんや! 悪かったと言ってるやろ、全部認めて謝るから、教えてくれよ!」

将史は、もはやなりふり構わず、縋り付くように声を荒らげた。


「じゃあさ、ヒントをあげよっか。優美ちゃんを見て接していくうちに、彼女に対してどう思うようになった? 心の底の底でさ。」

女鬼が促すと、直美が震えながら、絞り出すような声で答える。

「え? そりゃ、可愛い子やとか……いつも優しくて、穏やかな子やなあって……。」


「そんだけ? 本当にそれだけしか思ってなかった?」

女鬼が、首を左右に傾げる。

その動作はどこか愛らしくもありながら、底知れぬ恐怖を夫妻の心に植え付けていく。


「勉強もできて……頭のいい子やなあって、そう思ってた……。」

将史も続くが、女鬼の表情は、冬の枯野のように冷め切ったままであった。


「話になんないね。じゃあさ、どうしてこっくりさんを注意された時、あんなに平気で暴力が振るえたの?」


その問いに、将史の思考が、まるで回路が焼き切れたかのように停止した。

「え? そ、それは……腹が立って、つい……。」


「もし、注意してたのが学校の先生だったり、同級生でも自分より体格が良くて、喧嘩がめちゃくちゃ強い子だったら、あんたは同じように暴力振るった?」

女鬼の問いは、逃げ場のない鉄格子の檻となって、二人を閉じ込める。


「それは、その……相手による、というか……。」

将史が口ごもる中、直美が何かに打たれたように、ガタガタと歯を鳴らして顔を上げた。


「……優美が、弱そうに見えたから? 私らが何を言っても、何をしても、優美ならどうとでも出来るって……私らが、上やって……見下してたから……?」

その答えを聞いた瞬間、女鬼の金色の瞳が、夜の闇を焼き払うような鋭い光を放った。


「ようやく、地獄の入り口まで辿り着いたね。そうだよ。あんたらはさ、『こいつは自分より弱い』って勝手に認定した相手にだけ、威勢よく強く出られたんだよ。優美ちゃんのことは、一人の人間として尊敬するどころか、対等の友達なんて微塵も思ってなかった。あんたらが優美ちゃんに向けてたのは、愛情でも友情でもない。ただの『こいつには何をしてもいい』っていう、浅ましい差別意識と、自分達の方が上だっていう特権意識だったってわけ。優美ちゃんをそんな風に見た時点で、あんたらの人間としての尊厳は、とっくに終わってたんよ。」


女鬼は完膚なきまでに真実を突きつけた。


「あんたらと、そしてあんたらと一緒になって優美ちゃんに暴力を振るってたあのクソガキ共の中にさ、一ミリでも人の痛みがわかる心、せめて痛みを想像できたり、自分がやられて嫌なことはしないようにしようって真っ当な感性があったら、今のこの無残な状況は違ってたかもしれないよね。マジで今更過ぎるし、死んだ奴には届かない話だけどさ。あんたらの罪の根底にあるのは、卑怯な『選別』なんだよ。」


女鬼は吐き捨てるように言い放ち、二人を冷徹に見据えた。

その言葉は、絶望の淵にいる夫妻の魂に、決して抜けない呪いの楔となって深く、深く打ち込まれた。


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## 因果の螺旋、剥がれ落ちた被害者の仮面


女鬼は、鼻で笑うように冷たく吐き捨てた。

「そうして、自分たちは無抵抗な優美ちゃんの尊い命をゴミみたいにして、無惨に奪っておいてさ。今度はあんたらの大事なお子様が、これまた抵抗なんてできない年老いた犬を、3人がかりで寄ってたかって痛めつけて……。まさに『この親にしてこの子あり』って感じだね。血の繋がりって、時として呪い以上に残酷なバトンタッチになるんだよ。あーし、反吐が出るくらい呆れちゃった。」

その金色の瞳には、生物としての慈悲など微塵も感じられない。

ただ目の前の泥に塗れた罪人を冷徹に観察する、絶対的な観測者の光が宿っていた。


「自分らが痛みを知らんから、自分の子供にも痛みを教えられん。そやから痛みを知らんと、平気で他所様を痛めつけてしまいよる、えらいこっちゃなクソガキが出来てしまいよった。ほんまに、えらいこっちゃ。」

えらいこっちゃ嬢が、カウンターの端に座ったまま、凍りつくような無感情な声で追撃した。

彼女の幼い容姿から放たれる「クソガキ」という言葉の鋭さは、山県家という血脈にこびり付いた「欠落」を、無残なまでに抉り取っていく。

彼女の背後で揺らめく不気味な気配が、店内の空気を重く、そして暗く歪ませていた。


「ちょっと、そんな言い方……あんまりやわ……っ! あの子はもう、あんなに惨い死に方をして、骨も残らんくらいに……。親である私らに、そこまで酷いことを言わんでもええやろ……っ!」

直美は、顔をくしゃくしゃに歪ませて、喉を掻き切るような悲鳴を上げた。


せめて、この世を去った息子への侮辱だけは止めさせたい。

それが、崩壊しかけた彼女に残された、母親としての最後の、そしてあまりにも独善的な抵抗であった。


「それじゃあさ、あーしらにどんな言い方をして欲しいわけ? 他人様に向けて、自分たちが散々やってきた悪と同じ『果』が、いざ自分たちに降りかかってきた途端、悲劇のヒロインぶって不幸自慢でも始めるつもり? 『自分たちは愛する我が子を亡くした可哀そうな夫婦なんです』って、誰かに頭を撫でて慰めて貰いたいっての?」


女鬼の言葉は、逃げ場を完全に塞ぐ鉄格子の如く冷酷に、そして容赦なく放たれた。

彼女は一歩、また一歩と夫妻へ歩み寄り、その圧倒的な美貌に断罪者の峻烈な威光を湛えて見下ろす。

ゾクッ……とするような殺気が店内の隅々にまで行き渡り、夫妻の心臓を物理的に締め上げていく。


「さっきも言った通り、今のあんたらの無残な状態は、自分たちでコツコツと積み上げてきた過去の悪業による、正当な報いでしかないんよ。因果応報、自業自得。それ以外に呼びようがないよね? だから同情の余地なんて万に一つも無し。少なくとも、あーしはあんたらのことを可哀そうだなんて、これっぽっちも思っちゃいないよ。むしろ、よくそれだけ図々しく生きてこれたねって感心しちゃうくらい。」

女鬼は、突き放すように、そして底知れぬ無慈悲さをもってその結論を叩きつけた。

店内の空気は、彼女の言葉一つで氷点下まで凍りついたかのように静まり返り、夫妻の震える呼吸音だけが虚しく響き渡る。


「同情の余地無し、えらいこっちゃ。」

えらいこっちゃ嬢が、最後の一撃を加えるように短く、そして一切の情を排して言い放った。

その無垢で冷徹な一言が、山県夫妻に許されていた唯一の逃げ道である「悲劇」という名の免罪符を、粉々に打ち砕いたのである。


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## 因果の鎖、終わりなき生き地獄の宣告


将史は、もはや自分のものとは思えないほど激しく震える唇を、必死に動かして声を絞り出した。

「……確かに、俺達夫婦も、将生も、他人様に後ろ指を指されるような、悪いことしたんは認める。それはもう、言い逃れできん事実や。そやけど、だからって、こんなこと……。たった一度の過ちで、これほどまでに何もかも奪われなあかんのか。将生まであんな惨い死に方をしなきゃならんほど、俺達は悪いことをしたと言うんか……!」

彼の叫びは、救いを求めるというよりは、あまりにも重すぎる「罰」の天秤を、受け入れがたいと拒絶する哀れな足掻きに近かった。


直美は、カウンターの角を指が白くなるほど強く握りしめ、魂の底から縋り付くような悲鳴を上げた。

「私らは、これからどうすれば赦されるん? 謝ればええの? どこに行ってお祈りすればええの? 誰に何を捧げれば、この悪夢は終わってくれるん?私らは、死ぬまでこうして、一瞬も休まる暇なく、一生ずっと苦しまなあかんの……?」

彼女の瞳からは、枯れることのない涙が溢れ出し、その表情には、出口のない暗闇に放り出された迷い子のような絶望が張り付いていた。


「わかってんじゃん。」

女鬼は、一切の情けを排した氷のような声で、短く、そしてあまりにも残酷に言い放った。

その不敵な微笑みは、今後二人の人生に訪れるであろう果てしない漆黒の闇を、一言で凝縮して楽しんでいるかのようであった。


「そんな……そんなん、生き地獄やん! これから先、一筋の光も見えへん場所で、ただ怯えて生きていけって言うの!? それがあんたの言う『仕事』なん……!?」

直美は、あまりの衝撃に膝から崩れ落ちそうになりながら、狂ったように激しく首を振り、現実を拒絶した。


「だからさ、それが殺生親子の代償なんだって。あれだけの事を平気でやっといて、自分たちだけは楽で幸福な人生を、ニコニコ笑って歩めるとでも思ってんの? 甘いね、砂糖たっぷりのカフェオレなんて比べ物になんないくらい甘いよ。ちょっとやそっと神頼みしたり、どっかの偉いお坊さんや神職の人達に御祓いして貰ったところで、あんたらの魂に染み付いた罪も業も消えないし、呪われた人生は死ぬまで終わんないからね。」

女鬼の言葉は、希望という名の灯火を容赦なく踏み消し、二人の心に絶望の楔を深く打ち込んだ。

彼女の背後で揺らめく鬼の気配が、物理的な圧力となって店内の空気をさらに重苦しく、そして禍々しく歪ませ、夫妻の呼吸を奪っていく。


「そんな……え? 呪われた、人生って……やっぱり、呪われてるん、私らって……。今まで起きたことも、これから起きることも、全部、目に見えん何かに操られてるって言うの……。」

直美は、全身の血の気が一気に引いていくのを感じ、青ざめた顔で己の細い身体を抱きしめた。

目に見えざる冷たい鎖が、自分の首をじりじりとしなやかに締め上げているような、形容しがたい戦慄が彼女を支配する。


「まさか、あのこっくりさん……。俺らはあの時、優美に止められて結局やらへんかったはずや。十円玉も動かしてへんし、儀式も完成してへん。だから、あれが原因なわけがない……。そうや、俺らはこっくりさんはやらへんかったで?」

将史は、必死に記憶の断片を掻き集め、この不幸の正体を無理やりこじつけようと、溺れる者のように藻掻いた。


「こっくりさんは関係ないよ。さっき見た通り、優美ちゃんが勇気を出して止めてくれたから、こっくりさんは実行されてないもん。霊的な門が開く前に終わってるし、それ自体に呪いなんて発生してないよ。」

女鬼の声は、どこか退屈そうにさえ聞こえた。


「じゃあ、一体……あ! やっぱり、将生があの犬を大怪我させて、その、死に至るほどの酷い怪我を負わせたことを、あの老犬が恨みを持ったまま死んで、その怨念が、犬霊となって私らを呪ってるんやわ! そうに決まってる!」

直美は、ようやく見つけた「犯人」に縋り付くように、激しく声を荒らげ、正解を求めるように女鬼を凝視した。


「確かにあの老犬も、自分を痛めつけた3人の悪ガキを恨んだりはしてたろうね。死の間際に見たのが、笑いながら石を投げるガキの顔なんて、そりゃあ呪いたくもなるよ。でもさあ、ただの犬の霊単体で、これだけの精巧で残酷な報復ができると思う? 犬の恨みだけで、あんたらの周りの人間まで次々と地獄に叩き落とすなんて、そんな芸当、普通はできないよ。」

女鬼は淡々と、しかし決定的な否定を口にした。

その響きには、より巨大で、より底知れぬ、人知を超えた「何か」の存在を予感させる、不気味な重みが伴っていた。


「じゃあ、やっぱり、あのじいさん……業千寺さんが、俺らを? あの時、俺らを恨んで、何か禁じられた術でも使って、俺らの一家を滅ぼそうとしてるんか?」

将史は、かつて自分たちが玄関先で嘲笑い、冷酷に追い返した老人の、悲しみに暮れた背中を思い出し、背筋に冷たい氷柱を差し込まれたような戦慄を覚えた。


「そもそもさあ、一度に10頭を超える大きな野犬が、都合よく子供達だけを狙い撃ちで襲う事なんて、自然界であり得ると思う? そして、役目を終えた野犬が、狂ったように共食いを始めて全滅するとか……そんなの娑婆の価値観だと、どう考えても異常事態っしょ。」

女鬼の言葉に、将史は心臓を氷の手で直に掴まれたような、凍りつくような感覚を覚えた。


あの河川敷の凄惨な光景。

偶然という言葉では決して説明できない、緻密に構成された死の旋律。

それは、何者かが周到に用意した、血塗られた処刑台であったことに、彼は今さらながら気づかされる。


「あんたたち2人が、わざわざ神社にお参りに行ったのは、なんで? 本当に神様を信じてるほど信心深いの? それとも、本当は自分たちでも薄々気づいてんじゃないの? 自分の子供の死に方、お子さんの御仲間も含めて、周囲で次々と起こった事が不自然なくらいに出来過ぎてるってさ。それが誰かの『意志』だって、魂のどこかで理解してるんじゃない?」

女鬼の金色の瞳が、夫妻の心の奥底に隠された、認めたくない根源的な恐怖を白日の下に晒し出す。

その鋭い視線は、逃げ場のない真実の矢となって、彼らの魂を容赦なく貫いた。


「それじゃあ、本当に……呪いって、あるの? 私らには見えへん何かが、ずっと後ろに張り付いてるの……?」

直美は震えながら、その問いを口にした。

もはや、理性で否定することも、目を背けることもできない巨大な深淵が、目の前で静かに、そして貪欲に口を開けていた。


「あるって言っても頑なに否定する人もいるし、無いって言っても信じて疑わない人もいるからね。まあ、あーしが口で説明するより、これを観てから、あるかどうか自分達で決めるといいよ。百聞は一見に如かずってね。」

女鬼は、金色の瞳に冷徹な光を浮かべながら、突き放すようにそう告げた。


その美貌には、慈悲を微塵も持ち合わせぬ断罪者としての峻烈な威光が宿っており、彼女の放つ一言一言が、夫妻の魂を凍てつく深淵へと引きずり込んでいく。

山県夫妻は、もはや言葉を返す力もなく、ただ目の前の「鬼」が次に何を示すのかを、蛇に睨まれた蛙のように震えながら見つめることしかできなかった。


女鬼は、また「パチンッ!」と、静まり返った店内に響き渡るほど鋭く指を鳴らした。

その乾いた音が空間を叩いた瞬間、カウンターに置かれた大きな盃の中で、満たされた炭酸水の水面が激しく波打ち始めた。


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## 永劫の咀嚼、魂の檻に響く断末魔


朱い盃の中、炭酸水が激しく弾けるシュワシュワという音に混じり、いつしか悍ましい「音」が響き始めた。


グチャ、ベキッ、ムシリ……。


それは、肉を断ち、骨を砕き、魂を貪り食らう、この世のものとは思えぬ地獄の咀嚼音であった。

水面には、底知れぬ深淵から這い出してきたような黒い靄が立ち込め、その中に3つのどす黒く濁った魂のような塊が、苦悶に震えながら浮かんでいる。


その魂の周囲には、数えきれないほどの「犬」の形をした白銀の輝きが揺らめき、猛然とした勢いでその黒い魂に噛みつき、生きたまま肉を食いちぎっていた。

食いちぎられた魂は、その瞬間にどろりとした闇を噴き出しながら再生するが、完治する間もなく再び鋭い牙が突き立てられ、永劫に終わることのない激痛の輪廻を繰り返している。

さらにその周囲には、行き場を失い、泥を塗りたくったような姿でうごめく薄汚れた魂たちが無数に群がり、救いを求めて虚空を掻き抱いていた。


「……これは、一体何なんや? この地獄絵図みたいな光景は、何を見せようとしてるんや……っ!」

将史は、盃から漂い出す強烈な死臭と負の情動に当てられ、込み上げる吐き気を必死に抑えながら震える声で尋ねた。


「そこにある、お子さんの写真を近づけてみたらわかるよ。真実ってやつはさ、いつだって残酷なくらいにシンプルなんだよねー。」

女鬼は、金色の瞳に冷徹な光を湛え、カウンターを指先でトントンと叩きながら、実験を楽しむ子供のような無邪気さで促した。


直美は、自身の心臓の音が耳元で爆発するように鳴り響く中、震える手で将生の写真を水面にそっと近づけた。

その瞬間、写真の中から細く頼りない、しかし逃れようのない宿命を象徴する「白い糸」のようなものがすうっと伸び、3つのどす黒い魂のうちの一つと、吸い寄せられるように結ばれた。


「……白い糸みたいなもんが、繋がってた……。これ、どういう事? なんで将生の写真から、あんな不気味な塊に糸が伸びてるんよ……っ!」

直美は、喉を掻き切るような震え声で、自分でも気づいているはずの恐ろしい正解を、どうか否定してほしいと願うように叫んだ。


「もう、心の中じゃ想像出来てんじゃない? わかり易く言うとさー、それがおたくらのお子さんの魂って事。この世からは消えても、ここにはしっかり残ってるんだよね。」

女鬼の声は、絶望の淵にいる直美の背中を、奈落へと突き落とす容赦ない一撃であった。


「そんでさ、この周囲でガシガシ齧ってるような輝きが、あんたらの子が痛めつけたあの犬と、食い殺した後で共食いした犬達の魂なんよ。ここまで言えば、もうわかるよね? やられた方はさ、死んだからって赦してなんてくれないんだよ。」

女鬼は、盃の中を覗き込み、噛み砕かれる魂の悶絶をあざ笑うように真実を突きつけた。


「!? う、嘘やろ……っ! 死んだ後も、あんな風にずっと、犬に噛まれ続けなあかんのか!? 将生は……あの子はもう、この世におらんのに、まだあんなに苦しんでるって言うんか!」

将史は、驚愕と親としての狂おしいほどの後悔に顔を歪ませ、絶叫した。


「そ。ほっときゃ永遠にこの状態ってわけ。自業自得、因果応報だね。ついでに言うとさ、この周りでうごめいてる薄汚れた魂達は、一体誰なのかって事は、もう察しがついてんじゃない?」

女鬼は、ふーっと炭酸水の水面に息を吹きかけ、さらにその周囲の惨状を明確に映し出してみせた。


将史と直美は、その薄汚れた魂たちの顔が、自分たちの両親や、かつての友人、そして共に優美を虐げ、相次いで命を落としていった周囲の人間たちであることを確信した。

彼らもまた、山県家が積み上げた業の連鎖に巻き込まれ、死してなお、暗い深淵で永遠に足掻き続ける運命にあるのだ。


「あ、あああ……っ!!」

夫妻は、自分たちの過去の悪辣な「選別」と、息子の犯した「殺生」が、これほどまでに巨大で悍ましい破滅を招いた事実に愕然とし、ただただ、救いなき恐怖に震え上がるしかなかった。


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## 魂の牢獄、執念が紡いだ漆黒の帳


盃の底で蠢く凄惨な光景を前に、将史はガタガタと膝を打ち鳴らし、もはや自身の身体を支えることすらままならなかった。


「これは……こんなことが……現実に起こっているというのか……。」

掠れた声は店内の静寂に吸い込まれ、ただ絶望だけが重く澱んでいる。


直美は、なりふり構わずカウンターを乗り出し、女鬼の着物の袖に縋り付くようにして悲鳴を上げた。

「なあ、何とかならへんの!? 将生の魂だけでも、あの地獄から逃がしてあげられへんの!? お願い、何でもするから……助けて、助けてよおっ!」

彼女の瞳からは枯れることのない涙が溢れ出し、出口のない恐怖が張り付いていた。


「無理だね。そりゃあさ、あーしの力とか、閻魔様とか仏様レベルの超絶パワーだったら、力業で何とかしようと思えば出来なくはないし、娑婆の人間でも最高位レベルの解呪師やお坊さんならワンチャンあるんだけどね。でもさ、あんたらにそんな義理立てする理由なんて一ミリもないし、そもそも因果応報なんだから、黙って受け入れるっきゃないんじゃね?」

女鬼は、縋り付く直美を冷たく突き放すように、一切の感情を排した声で言い放った。

金色の瞳は、ゴミを見るかのような冷徹な輝きを湛え、彼女の周囲にはどろりとした負のオーラが渦巻いている。


「その他の方法としてはさ、術者自らが自分の手で解呪するってのがあるんだけど、それはもう物理的に無理だからね。」

女鬼は、ふーっと炭酸水の水面に息を吹きかけ、消えかかる絶望を再び鮮明に映し出した。


「術者自らって……。つまり、あのじいさん……業千寺さんなら、この呪いを解けるってことなんか!? あの人が、将生を赦してくれさえすれば……!」

将史は、暗闇の中に一筋の光を見つけたかのように、血走った眼で女鬼を凝視した。


「でも、業千寺さんは、もう……。あの日、一人で寂しく、誰にも看取られずに……。」

直美は、老人の孤独な最期を思い出し、絶望の淵で項垂れた。


「だから、もう術者が解くことは永遠に無いってこと。さらにエグい真実を教えてあげるとさ、今あんたらの目の前でみんなを閉じ込めてるそのドス黒い霧、それ自体があのおじいちゃん自身なんよ。まさに一世一代の大呪術。命がけどころか、マジで全生命力を使い切って成し遂げた執念の結晶なんだから。相当の恨みと気合、そして覚悟の表れだよね。」

女鬼の言葉は、希望の欠片を微塵も残さぬほど徹底的に、二人の心を粉砕した。


ヒュゥゥゥ……ッ

店内の温度がさらに数度下がったかのように、悍ましい冷気が足元から這い上がり、夫妻の魂を凍てつかせていく。

あの穏やかだった老人が、自らの魂を削り、どす黒い霧へと変えてまで、彼らを永遠に閉じ込める牢獄となったという事実に、二人は息をすることさえ忘れて戦慄した。


「あのおじいちゃんって、本来は仏様みたいに温厚で優しい人だったんでしょ? そのおじいちゃんにここまで変えさせて、魂を全部使ってまで呪わせるなんてさ、夫婦揃って悪の才能ありまくりじゃんよ。感服しちゃうねー。」

女鬼は、ニヤリと不敵な、それでいて底知れぬ嘲弄を込めた笑みを浮かべ、二人を冷徹な眼で見定めた。

その視線は、もはや人間を相手にしているものではなく、地獄の業火で焼かれるべき罪人を品定めする、冷酷な執行者のものであった。


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## 復讐の設計図、生贄に捧げられた魂


直美は、カウンターに力なく突っ伏し、震える指先で写真の中の息子に触れようとした。


「将生……将生……。お母さんが、変われるもんなら変わってあげたい……。あんなに痛くて怖い思い、お母さんが全部代わりに引き受けて、あの子だけは助けてあげたかったのに……。」

彼女の嗚咽は、静まり返った店内に、救いのない残響となって虚しく響き渡る。


その隣で、将史は血走った眼を剥き、天を仰ぎながら、怒りと悲しみが混濁した叫びを爆発させた。

「なんでや……! なんで俺ら大人に直接やり返さんと、何の罪もない将生を連れて行ってしまったんや! 子供に仕返しするなんて、そんなん卑怯すぎるやろ! 最低や、人としてやってええことと悪いことがあるやろ!」


彼の叫びは、自らの過去を棚に上げた、あまりにも無様で独善的な憤怒であった。

その激昂に呼応するかのように、店内の空気はさらに重く、禍々しく歪んでいく。


「だからこそ、やったんじゃん。」

女鬼は、まるで世間話でもするかのような軽さで、平然と言い放った。

そのあまりに無慈悲な一言に、夫妻は心臓を氷の楔で撃ち抜かれたように目を見開き、言葉を失って凍りついた。


「守るべきものも、愛する対象も、未来への希望も何もかも奪われてさ。復讐者となる決意が揺るがなくなった時点で、もうその人にはどんな倫理や道徳の説教も、人道的な説得も届かないんだよね。まさに何でも出来ちゃう、娑婆で言う『無敵の人』ってやつ。失うものが何もない人間が、一番怖いって知らないの?」

女鬼は、ふーっと長く冷たい息を吐き出し、金色の瞳を絶望に染まる二人へと向けた。

その瞳には、慈悲の欠片もなく、ただ地獄の理を淡々と説く冷徹な輝きだけが宿っている。


「そんで、相手が最も苦しむように、考え得る限り最も残酷で最低な方法を取る。これ、復讐のセオリーとしては当然の流れじゃん。それがさっき、あーしが『お子さんはある意味あんたらの被害者でもある』って言った話と繋がるんよ。ねえ、わかんないかな?」

女鬼の言葉は、逃げ場のない鉄格子の檻となって、夫妻をさらに深い暗闇へと閉じ込めていく。


「ど、どういう、ことなん……? 将生が被害者って……あの子がどうして……。」

直美は、震える唇で、その深淵の答えを問うた。


「最も大切なものを奪われる苦しみを、あんたらにも骨の髄まで思い知らせて、その上で、あんたらにとっては復讐の対象者となるであろうおじいちゃん自身もこの世から消えることで、あんたらは直接怒りをぶつける事も文句を言う事も、やり返すこともできなくなる。そうやって手出しできない『死者』からの呪いに怯えて、死ぬまで生き地獄を味わわせる。ここまではオケ?」

女鬼は、ピッと真っ白な人差し指を立てて、理路整然と地獄の設計図を語って聞かせた。


「その生き地獄を味わわせる最大の『材料』として、お子さんの惨めな死と、死後の終わらない苦しみを与え続けていることを見せつけること。つまりさ、あんたらを絶望のどん底に突き落として苦しませるための、ただの『道具』として、お子さんの短い人生は使われたってわけ。ま、他人様の大切な家族……おじいちゃんの最愛の娘と、かけがえのない愛犬を奪った親子なんだから、なるべくしてなった現状って感じだよねー。」

女鬼は、あざ笑うかのように残酷な真実を突きつけ、静かに冷笑を浮かべた。


「そんな……。将生が……あの子が、私らを苦しめるための、ただの生贄に……。」

直美は、もはや涙も出ないほどの衝撃に、ただ深く深くうなだれた。


自分たちの積み上げた醜い業が、愛する我が子を「地獄の部品」に変えてしまったという、到底受け入れがたい事実に、彼女はただ、際限のない絶望の海へと沈んでいくしかなかった。


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## 因果の連鎖、絶望の果てに見出した細き糸


女鬼は、肺の中の空気をすべて吐き出すかのような、長く冷ややかなため息を一つついた。

その金色の瞳には、憐れみなどは微塵も存在せず、ただ道理を解かぬ無知な魂を見下ろすような、静かな呆れだけが湛えられている。


「……あんたらはさ、『親の因果が子に報う』っていう諺を知ってる? 子供が味わう難儀や不幸は、元を辿れば親の報いであるっていう教え。親の放った言葉や積み重ねてきた行為は、子供の人生に大きな影響を与えるだけじゃないんだよ。その報い自体を子供が背負わされる事だって、この理不尽な世界じゃ当たり前にある話なんよ。」


女鬼の言葉は、まるで鋭い氷の針となって、夫妻の鼓膜を容赦なく突き刺した。


「人が悪を為したり、誰かの心を殺すような大罪を犯した時、責任を取ったり、その凄惨な報いを受けるのは本人だけとは限らないんだよ。罪の汚れは血の繋がりを伝って、家族や親しい人達にまで及ぶ。それが『業』の恐ろしいところだって事は、今ここであんたらが嫌というほど見た通りだし。」

女鬼は、淡々と、しかし決定的な真実として、逃れられぬ因果の理を説いた。


「そんな……俺らのやった事で、将生が……。それを苦にして、俺の両親も、直美の両親も、次々に亡くなって、周りの人らも次々に不幸に見舞われて……。全部、俺らが招いたことやったんか……。俺たちが優美に見せたあの傲慢な笑みが、巡り巡って、俺たちの大切な人達の命を奪い尽くしてたんか……。」

将史は、自らの両手を見つめ、そこにこびり付いた目に見えぬ呪いの重さに絶望し、項垂れた。


かつて自分たちが「自分より弱い」と蔑んだ少女の涙が、三十年の時を経て、巨大な濁流となって彼らの人生を飲み込んでしまった。

その事実に、彼は魂の底から打ち砕かれ、ただガタガタと震えることしか出来なかった。


「なあ、何とか、何とか出来ひんの!? 将生を、あの子を……今からでも私らが償って、せめて将生だけでも、あの黒い檻の中から解放させてあげられへんの!? お願い、何でもする! どんな苦労だって厭わない! だから助けて、助けてよおっ!」

直美は、なりふり構わずカウンターを乗り出し、喉を掻き切るような悲鳴を上げて泣き縋った。

母親としての狂おしいまでの執着と、出口のない後悔が混ざり合い、彼女の瞳からは枯れることのない涙が溢れ出していた。


「あーしはあんたらのために解呪してあげる気なんて、さらさら無いし。可能性があるとすれば、おじいちゃんを解放してあげたいって心底から思う心優しい誰かが、いつか目の前に現れて解呪してくれるってとこくらいかな。ま、この世の中に、そんなお人好しの聖人君子がいればの話だけどさ。何でもするってんなら、その、奇跡みたいな善人を、死ぬまで気長に探してみればいいんじゃね?」

女鬼は、希望という名の毒を微量だけ混ぜるかのように、淡々と、しかし無慈悲な真実を突きつけた。

その提案は、到底達成できぬ難業のようであり、同時に、夫妻を永遠の悔恨に繋ぎ止めるための、精巧な罠のようでもあった。


「そんな……。私らに、そんな力……。誰を探せばいいの……。」

直美は、あまりの遠い道のりに、その場に崩れ落ちるようにして絶望の溜息を漏らした。


しかしその隣で将史の瞳に、これまでとは違う静かな、しかし確固たる光が宿り始めた。

「……でも、可能性がゼロやないんやな。直美、これからは、俺たちは生まれ変わらなあかん。これまでみたいに自分勝手に生きるんやなくて、ちゃんと正しく生きて、優美や業千寺さんに償い続けなあかん。そうして、将生を救い出せるような力のある人、心優しい人を、俺たちの足で探しに行こう。それが、俺たちに残された、たった一つの道や。」

将史は、震える手で直美の肩を支え、自らの罪を背負って歩き出す決意を口にした。


「……うん、何年、何十年かかっても……一生かかってもやるわ。将生を……あの子を独りぼっちであんな暗い場所に置いておけない。私、死ぬまで探し続ける。それが、私の犯した罪の、せめてもの償いになるんなら。」

直美は、涙を拭い、目の前の盃を見つめて強く頷いた。


かつて他人を「選別」し、踏みにじってきた二人の傲慢な魂は、皮肉にも最悪の絶望を経て、初めて真実の「悔い改め」へと辿り着いたのである。


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## 共業の理、異熟の果実が結ぶ道


凄惨な過去と地獄の光景を突きつけられ、震えながらも贖罪を誓った夫婦の言葉を聞き届けた女鬼とえらいこっちゃ嬢は、ふっと静かに地蔵店長を見上げた。

二人の鬼気迫る視線の先、絶望に濡れた瞳を上げた将史と直美の視界に入ってきたのは、全てを包み込むような柔らかな慈愛を湛えた地蔵店長の姿であった。


店長は、穏やかなお地蔵様そのものの笑顔を浮かべ、静かに合掌して深々とお辞儀をした。

チリーン……という、どこからともなく響く清らかな鈴の音が、澱んでいた店内の空気を一瞬で清めていく。


「親の因果が子に報いる。現世でよく見られる現象として、親が犯罪者となった場合、そのお子様までが犯罪者家族として不遇の人生を歩むことになると言った事例があるのは、御二人も御存じではないでしょうか。」

地蔵店長は、穏やかな笑顔を絶やさぬまま、静かに語り始めた。


「親が犯した悪行の結果が、そのお子様や子孫、あるいは大切なご家族に災いとして及ぶこと。これは、単にその人一人で完結せず、血縁や環境を通じて業が引き継がれる、あるいは影響し合うという考え方に基づいております。これを共同の業という意味で『共業ぐうごう』と言います。人は決して独りで生きているわけではなく、その行いの波紋は、最も近しい存在へと真っ先に届いてしまうので御座います。」

地蔵店長は、切々と教えを諭していく。

その言葉が紡がれるたび、盃の中でシュワシュワと弾ける気泡の音が、まるで因果の歯車が静かに回り続ける音のように、不気味な重みを持って店内に響き渡った。


「悪いことをしても、すぐに本人が報いを受けるとは限りません。果実が熟すまでに時間を要するように、時間が経過してから、あるいは全く別の形に変えて結果が現れることが御座います。これを『異熟果いじゅくか』と言います。蒔いた種がどのような花を咲かせ、どのような果実を結ぶかは、誰にも選ぶことは出来ないのです。」

お地蔵様のような穏やかな笑顔のまま、地蔵店長は逃れられぬ真理を二人の魂に刻み込んでいく。


「異熟果……。俺らの悪行が、別の形で熟してしもたと言うんか……。優美を閉じ込めて笑ってたあの時の罪が、三十年もの時を経て、将生を連れていかれるという最悪の結果となって熟しきってしもたんか……。」

将史は、膝の上に置いた拳を白くなるほど強く握りしめ、掠れた声で呟いた。

自分たちが過去に蒔いた毒の種が、長い年月をかけて巨大な禍根へと育ち、最愛の息子の命を喰らうどす黒い果実となった事実に、彼は魂を削られるような痛みを覚えていた。


「そして、例え自分以外の誰か、ご家族や近しい人が報いを受けたとしても、それは『誰かが身代わりに罰を受ける』ということでは御座いません。罪の肩代わりではないのです。」

地蔵店長の声が、ここで一度、鋭い響きを帯びて二人を厳しく注意した。

安易な自己犠牲や代償の概念を打ち消すように、その言葉は逃げ場のない厳格な響きを伴って店内に響き渡る。


「『自分の行いは自分に帰ってくる』という因果応報、自業自得の本質は変わりなく御座います。今回の件では、大切なお子様を失われたことによる別れの苦しみ、仏教ではこれを『愛別離苦あいべつりく』と言いますが、その耐え難い苦を今まさに感じられていることからも、実感されているかと存じます。お子様が受けた苦しみとは別に、あなた方自身もまた、最愛の者を失うという形で、己の業をその身に受けておられるので御座います。」

地蔵店長の言葉が、夫妻の胸の奥底を鋭く、そして重く突き刺した。


失った息子の痛みだけではない。

「愛する者と永遠に別れる苦しみ」そのものが、彼らに与えられた報いであるという峻烈な宣告であった。


「また、現世では一生涯に渡り報いを受けることが無かったとしても、死後にその報いを受けることは、今し方、盃を通して観られた通りです。悪行の業は、消しゴムで消すように消えることは決して無く、その報いは必ず受けることになります。宇宙の記録からは、何一つ零れ落ちることは御座いません。」

地蔵店長は、静かに目を閉じ、再び深く頭を下げた。


「そうそう。あんたらがこれまで自分勝手な理由で人を選別して踏みにじってきた悪行の数々は、一文字も漏らさず全部記録されてるからね。どこまで逃げても無駄、絶対に逃げられないよ。」

女鬼が、二人の過去帳の写しを指先で弾きながら、突き放すような冷ややかな声を添えた。


「消せない悪業をこれからも増やしてゆかれるのか。それとも、ここで真に悔い改め、正しき道を歩み、徳を積む道を歩まれるか。どちらの道に一歩踏み出されるか。もし、償う道を歩むと決められたのであれば、自ずと次の一歩も決まっていらっしゃる事でありましょう。その一歩こそが、いつか善縁が結ばれる種になるかもしれません。」

地蔵店長は、優しいお地蔵さん笑顔で再び合掌し、深々とお辞儀をした。

その所作はあまりにも清らかで、罪に汚れた夫妻を導く、かすかな、しかし確かな一筋の灯火のようにも見えた。


「……はい。」

将史と直美は、重く垂れ込めた絶望の中で、ただ静かに、しかし決然と頷いた。

二人の瞳からは、これまでの醜い欲や傲慢さが消え、果てしない贖罪の旅路を見据えるような、静かな覚悟の涙が零れ落ちていた。


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## 贖罪の門出、結ばれた魂と再生の誓い


絶望の深淵を覗き込み、自らの罪の重さに打ちひしがれた夫婦は、今ようやく真実の「悔い改め」へと辿り着いた。

将史と直美は、重く垂れ込めていた暗雲が晴れるかのように、澄んだ瞳で互いを見つめ合うと、静かに居住まいを正した。


「これからは、過去の罪から決して目を背けず、奪ってしまった命への謝罪を片時も忘れず、真っ当に生きることを誓います。」

二人は声を揃えてそう告げると、胸の前で深く手を合わせ、地蔵店長に向かって深々とお辞儀をした。


地蔵店長は、その光景を眩しそうに、そして慈しむように見つめ、柔らかなお地蔵様のような笑顔を浮かべて合掌し、丁寧なお辞儀でそれに応えた。

店内に満ちていた禍々しい殺気はいつしか霧散し、代わりに静謐で温かな空気が、傷ついた二人の心を優しく包み込んでいく。


「人の痛みを知るのに、随分と遠回りしちゃったみたいだけどさ。これからは、その痛みを絶対に忘れずに生きなよ。あんたたちが流した今の涙が、いつか誰かを救う力になるかもしれないんだから。」

女鬼は、それまでの峻烈な断罪者の表情を和らげ、どこか姉が弟を見守るような、慈愛に満ちた優しい微笑みを浮かべた。


「はい。一生忘れません。自分たちがしてしまったこと、そして今日ここで教えていただいたこと、すべてを背負って歩いていきます。」

夫妻は、彼女の言葉を噛みしめるように深く頷き、再び静かに頭を下げた。


すると、それまでカウンターの陰にいたえらいこっちゃ嬢が、小気味よい音を立てて椅子の上にぴょんっと飛び乗った。

彼女は短い足をぶらつかせながら、大人のように神妙な面持ちで、夫妻の頭を交互に、よしよしと優しく撫でていく。

「やっと真っ当な道に入りよった。逃げんと自分と向き合うんは、ほんまにえらいやっちゃ。その覚悟、しっかり見届けたる!」


その小さな手の温もりに、直美は思わず目尻を熱くし、柔らかな微笑みを浮かべた。

「……うん、有難うね。ふふ、将生が生きてたら、きっとえらいこっちゃんに振り回されて、タジタジになってたかもね。あの子、案外押しに弱いところがあったから。」


「ほんまやな。将生くらいやんちゃで手に負えん男の子でも、流石にえらいこっちゃんには敵わん気がするわ。今頃、向こうでこっそりあんたを見て、震えとるかもしれんな。」

将史も、久しぶりに心からの穏やかな笑みを浮かべ、亡き息子に思いを馳せた。

かつての自分勝手な親心ではなく、一人の人間として息子を案じる、真実の愛情がそこにはあった。


そうして、夫妻は椅子を引き、ゆっくりと力強い足取りで立ち上がった。

「お勘定、お願いします。これまでの人生で一番、価値のある時間をいただきました。」


将史が真っ直ぐに店長を見据えて切り出すと、地蔵店長は再び合掌し、お地蔵さん笑顔で静かに首を振った。

「当店は、決まった金額は頂いておらず、御布施形式にしております。お客様がこの時間にどれほどの価値を見出されたか、そのお心をお預かりいたします。」


「ほな、これでお願いします。」

将史は懐から財布を取り出すと、将史と直美、そして愛する息子・将生の分として、3万円を丁寧に揃え、えらいこっちゃ嬢に手渡した。


「家族3人分の食事代、そして……足りひんかも知れへんけど、どんな形であれ、将生の今の居場所や状態を教えてもろた代金です。本来なら、この世で知る術のない、あり得へん事ですから。俺たちにとっては、何物にも代えがたい救いです。」


「ほんまに、有難う御座います。知った真実はあまりにもショックで、足が震えるほど恐ろしかったけど……これは、私らが招いた事やって、心して受け入れます。あの子を一人にはさせません。私たちが変わることで、いつかあの子も救えると信じて歩みます。」

直美もまた、清々しい表情で感謝の言葉を述べた。


えらいこっちゃ嬢は、渡された紙幣を両手でしっかりと受け取ると、その重みを確かめるように胸元で抱きしめた。

「毎度あり! 家族3人分、えらいこっちゃな大金、確かにお預かりしたで! このお金は、あんたらの決意の証として、大切に使わせてもらうわな!」

彼女は嬉しそうに笑うと、丁寧に紙幣を抱えたまま、パタパタと小走りでレジへと持っていった。


そうして、山県夫妻は出口の扉まで辿り着くと、最後に一度だけ振り返った。

そこには、自分たちの人生を根底から変えてくれた、奇妙で温かな食堂の住人たちが、穏やかな光の中に立っていた。

二人は改めて深くお辞儀をしてから、夜の静寂が広がる店を後にした。


「御来店、誠に有難う御座います。また道に迷われた際は、いつでもお立ち寄りくださいませ。」


地蔵店長は、暗闇に消えていく二人の背中に向けて、お地蔵さん笑顔で合掌し、静かに見送った。

扉が閉まる音と共に、摩訶不思議食堂の灯火は、夜霧の中に静かに溶けて消えていった。


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## 帰路の導き、星霜を越える誓いの足跡


将史と直美が食堂の外に一歩踏み出すと、そこにはあの奇妙な牛車が、静かに、しかし確かな存在感を放ちながら入り口付近で待機していた。

夜の冷気が、罪を認め、二人の頬を優しく撫でて通り過ぎていく。


二人が吸い寄せられるように近づくと、客席の重厚な扉が音もなく開き、まるで招き入れるかのように二人を迎え入れた。

夫妻が静かに乗り込むと、座席の隙間から、あの透き通るような白い腕がニューっと長く伸びてくる。


「……宜しくお願いします。」

将史は、感謝の念を込めて千円札を財布から取り出し、その白い掌の上へと丁寧に置いた。

すると、掌に乗った紙幣は、魔法にかかったかのようにそのままスーッと霧の中に消えるように見えなくなった。


「毎度ー。ほな、帰りまっせー。しっかり掴まっときなはれや!」

運転席に座る方輪車が、快活な声と共にニカッと太陽のような笑顔を向け、牛車を力強く走らせ始めた。


ゴトゴト……という心地よい車輪の音が響いたかと思うと、牛車は見る見るうちに加速し、夜の景色を光の帯へと変えていく。

ヒュゥゥゥンッ! という風を切る音が周囲を包み込み、あれよあれよという間に、景色は二人が最初にえらいこっちゃ嬢と出会った、あの静かな稲荷神社の境内へと移り変わっていた。


神社に到着すると、牛車の扉が再び静かに開き、二人は導かれるように地面へと降り立った。


「毎度ありー。ほな、これからは善き道を、一歩ずつ踏みしめて歩きなされやー。」

方輪車は運転席の窓から顔を出し、満面の笑顔で大きく手を振ると、颯爽と夜の闇の中へ、文字通り風のように走り去っていった。

一瞬の出来事に呆然としながらも、夫妻は自分たちが戻ってきた場所の神聖な空気を感じ、何となく吸い寄せられるようにして、夜の帳に包まれた御社に向かって深く頭を下げた。


「……えらいこっちゃ嬢が、ここは狐の神社やって言うてたな。次はちゃんと、犬の神社を探して、手を合わせに行ってみよか。」

将史は、神社の鳥居をくぐりながら、自らの内に芽生えた静かな決意を口にした。


「そやね。ほんまは自分の力で歩かなあかんし、今更神頼みなんて都合よすぎるって、女鬼さんやえらいこっちゃんに、また叱られてしまいそうやけど。それでも、まずはあの老犬に、そして優美に、心から手を合わせたいって思ってたから。」

直美もまた、将史の言葉に深く頷き、穏やかな、しかし強い覚悟を秘めた瞳で夜道を真っ直ぐに見つめた。

二人は並んで歩き出し、家へと続く帰路を、今までの人生で最も確かな足取りで一歩ずつ踏みしめていった。


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## 贖罪の墓標、過去と対峙する沈黙の誓い


翌日から、山県将史と直美の日常は一変した。


これまでのような、自分たちの都合だけを優先し、他者を見下す傲慢な心は消え失せ、二人はまるで薄氷を踏むかのように、一歩一歩を慎重に、そして誠実に歩み始めた。

仕事の場でもプライベートでも、目の前の誰かに対して「できる限りの善きこと」を尽くし、ほんの些細な悪事さえも自らに禁じて過ごす日々。

それは、失われた命への祈りにも似た、静かな克己の始まりであった。


将史は、自らの両親から受け継いだ会社を守るべき立場にありながら、重大な決断を下した。

30年前に起こった悲劇――自分たちが優美を体育倉庫に閉じ込め、その尊い命を奪う原因を作ったという真実を、一切の虚飾を排して公表したのである。


「……卑怯な沈黙は、もう終わりにする。それが、俺らが最初にするべきけじめなんや。」


当然のように世間からは猛烈なバッシングが巻き起こり、誹謗中傷の嵐が二人を襲ったが、将史も直美もそのすべてを「当然の報い」として甘んじて受け入れた。

罵声の中に身を置きながらも、彼らの心は不思議と、偽りの安寧の中にいた頃よりも澄み渡っていた。


二人は会社での仕事が終わると、休む間もなく業千寺家の足跡を辿り始めた。

部屋で資料を広げ、業千寺家の人々が眠る墓地がどこにあるのか、日本各地に点在する犬の神社の由来、そして「呪い」という不可解な現象と、それを解く術を持つ「解呪師」の存在について、血眼になって調べ始めた。

夜な夜なパソコンの画面を見つめ、図書館に行っては古い文献を紐解くその姿は、かつて他人を嘲笑っていた頃の二人とは似ても似つかぬ、必死な形相であった。


そして、次の週末。

仕事の休みを利用して、二人はついに、業千寺家の人々が永い眠りについている墓地へと辿り着いた。


業千寺家は優美と千寿を最後に、継ぐ者が誰もいなくなってしまった家系である。

管理する者がいないその墓は、まさに取り壊され、遺骨を共同墓地へと移動させる寸前の状態であった。

将史と直美は、なりふり構わず管理事務所や寺院へ通い詰め、自分たちがその管理を引き継ぐことを必死に交渉した。


「私たちが、生涯をかけてこのお墓を守らせてください。」

彼らの真剣な訴えはようやく聞き入れられ、間一髪のところで業千寺家の墓を守り抜くことができた。


しんしんと冷たい空気が漂う中、二人は業千寺家の墓石の前に立った。

丁寧に雑草を引き抜き、汚れを洗い流した墓石は、微かな陽光を浴びて静かに輝いている。

山県夫妻は、その前に膝をつき、胸の前で深く手を合わせて、誠心誠意の謝罪を捧げた。


「親子揃って、あなた方の尊い命を奪ってしまったこと、本当に申し訳ありませんでした。我々の身勝手な振る舞いが、どれほどの絶望を招いたか、ようやく知りました……。」

将史は、震える声でそう告げると、額を地面に擦り付けるようにして深く、長く頭を下げた。

墓石に刻まれた「業千寺」の名が、彼の魂を真っ直ぐに射抜く。


「本当に、申し訳ありませんでした。もう手遅れやけど、これからの人生、誠心誠意償う人生を歩みます。私たちが変わることで、いつか、将生やあなた方が救われる日が来ることを、一日たりとも忘れずに生きていきます。」

直美もまた、溢れ出る涙を拭うこともせず、ただ一途な祈りを墓標に捧げた。

かつて自分たちが「自分より弱い」と蔑んだ人々の重みを、二人は今、ようやくその両肩に正しく背負ったのである。


こうして、過去の自分たちへの一通りのけじめをつけた二人は、墓地を後にした。

しかし、彼らの旅はここからが本番であった。


今なお黒い霧の檻の中で苦しみ続ける将生の魂。

それを解き放つことができる「心優しい誰か」を探し、自分たちの悪業を徳へと変えていく果てしない旅路。

夫妻は互いの手を固く握り締め、償いの道を一歩ずつ、力強く踏み出し始めた。


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## 慈悲の微笑、導きの法衣


墓参りの帰り道、山県夫妻は導かれるように再びあの稲荷神社へと足を運んだ。

静寂に包まれた境内で、二人は並んで深く手を合わせ、これまでの己の傲慢さを改めて詫び、真っ当な道を歩む決意を御社に報告してから、穏やかな夕暮れの帰路についたのである。


休日、柔らかな陽光が降り注ぐ京都の街並みを歩いていると、散歩中の犬たちが次々と二人に向けて牙を剥き、激しく吠え立ててくる。

「グルル……ワン! ワンッ!!」


鋭い威嚇の声が響き渡るが、夫妻はかつてのように毒づいたり無視したりすることなく、ただ静かに足を止め、深々とお辞儀をしてからその場を去っていった。

それは、自分たちの悪業が招いた「果」を、そのまま受け入れるという覚悟の表れであった。


「……少し、京都の町を歩いてみよか。この空気を感じながら、自分たちのすべきことを考えたいんや。」

将史の提案に直美も静かに頷き、二人は細い路地へと足を踏み入れた。


しかし、古都の風情を楽しむ間もなく、一頭の野良犬が二人の前に立ちはだかった。

「ウゥ……ガウッ!!」

血走った瞳で二人を睨みつけ、今にも飛びかからんとする野良犬の凄まじい殺気。


「きゃっ!?」

あまりの迫力に、直美は驚きのあまりバランスを崩し、その場に激しく尻餅をついてしまった。


バシャッ!!

地面に強く手を突いた瞬間、そこにあった鋭利な石の破片が彼女の掌を深く切り裂いた。


「……痛っ……!」

直美が顔を顰め、赤く染まり始めた掌を押さえて震えていると、背後から凛とした、しかし春の陽だまりのように温かな声が響いた。


「御無事でしょうか?」

その声に弾かれたように顔を上げると、そこには一人の若き女性が立っていた。


彼女は浄土宗の僧侶が纏う、凛とした法衣と袈裟を身に着けており、整えられた短い黒髪がその透き通るような肌に映えている。

その容姿は、あまりの美しさに超絶美少女と見紛うほどの美貌でありながら、同時に俗世を超越したような気高さを湛えていた。


女性僧侶は、驚きに目を見開く夫妻を一瞥すると、そのまま唸り声を上げる野良犬の方へと向き直った。

彼女は一切の恐怖を見せず、ただ菩薩のような慈しみ深い微笑みを口元に浮かべると、静かに胸の前で合掌し、優しく目を細める。

すると、あんなに猛り狂っていた野良犬が、まるで何かに諭されたかのように、すっと尾を下げて静かにその場を去っていった。


「……あ、あの……有難うございます。」

将史が呆然としながら礼を述べると、女性僧侶は再び夫妻の方を向き、柔らかな笑みを深めた。


「手を切られていますね。そのままでは化膿してしまいます。幸い、私の住まう寺院はすぐそこです。そこで消毒を致しましょう。」

彼女の声は、聞く者の魂を清めるような澄んだ響きを持っており、二人はその不思議な引力に抗うことができなかった。


「お気遣いいただき、本当にありがとうございます。お言葉に甘えてもよろしいでしょうか……。」

直美が震える声で答えると、女性僧侶は「さあ、こちらへ」と促し、ゆっくりと歩き出した。


カツ、カツ……という足袋の音が静かな路地に響き渡る。

夫妻は、この美しい女性住職が守る寺院へと導かれながら、自分たちの止まっていた歯車が、再び静かに回り始めたような予感に胸を震わせる。


女性僧侶の背中を追い、二人が辿り着いたのは、京都の喧騒から切り離されたかのように静まり返った、古色蒼然とした佇まいの寺院であった。

山門を潜ると、そこには手入れの行き届いた枯山水の庭が広がり、線香の香りが鼻腔を優しく掠めていく。

二人は、この導きが自分たちの贖罪の旅に何をもたらすのかを、まだ知る由もなかった。


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## 導かれし古刹、静寂を破る黒衣の影


女性住職の指先は、驚くほど繊細な動きで、そして淀みがない。

彼女は、まるで壊れ物を扱うかのような手つきで、直美の掌を丁寧に消毒していく。

シュッ、シュッという霧吹きの音が、静まり返った客間に響き渡る。

手際よくガーゼを当て、真っ白な包帯を巻き終えると、彼女は菩薩のような笑みを浮かべて頷いた。


「有難う御座います。……お見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした。」

直美は、痛みよりも彼女の放つ慈悲深い空気に打たれ、深くお辞儀をした。


「あの……お寺さんやったら、本堂ってありますよね? その、厚かましいお願いだとは承知していますが、お参りさせてもろても宜しいでしょうか?」

将史が、どこか緊張した面持ちで、しかし真っ直ぐに願いを口にした。


「はい、勿論で御座います。当寺の本尊も、きっとお二人を歓迎なさるでしょう。」

女性住職は、法衣の袖を揺らしながら、静かに立ち上がった。


「あの、いきなりよせてもろて厚かましいとは思いますが、加持祈祷って言うか、供養ってして貰えますか? 料金……あ、御布施って言うんですよね、ちゃんとお包みしますさかい。」

直美が、まるで濁流の中で藁を掴むような切実な表情で、縋るようにお願いを重ねた。


「畏まりました。お心遣いにつきましては、お気持ちにお任せ致します。どうぞ、こちらへ。」

女性住職は、合掌してお辞儀をすると、二人を導くように廊下を歩き出した。


本堂は、長い年月を経て黒ずんだ木の香りと、線香の芳香が混ざり合う、厳かな空間であった。

将史と直美は、亡き息子・将生の名、そして自分たちが奪ってしまった業千寺親子三人の名を、震える声で女性住職に伝えた。

やがて朗々とした読経の声が、高い天井へと響き渡る。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。


その浄土宗の念仏の響きは、二人の背負った鉛のような罪悪感を、ほんの少しずつ解かしていくようであった。

女性住職の背中を見つめながら、山県夫妻はただひたすらに、過去の過ちへの謝罪と、これからの贖罪を誓い、手を合わせ続けた。


法要が終わり、線香の煙が静かに棚引く中、将史は懐から財布を取り出した。

「用意せんと来たから、御布施用の袋を持ってないんです。申し訳ないですが、こちらに入れさせて貰います。」


コトッ……。

将史は本堂の正面にある浄財箱へ、5千円札を一文字に整えて、丁寧な手つきで入れた。


「お心遣い、痛み入ります。確かに頂戴致しました。きっと、御霊も喜んでおられることでしょう。」

女性住職は、優しい笑みを絶やさず、再び合掌してお辞儀をした。


一通りの儀式を終え、一行は再び客間へと戻ることになった。

外には、美しく手入れされた枯山水の庭が広がっており、本堂から伸びる渡り廊下からは、日に照らされた砂紋が黄金色に輝いているのが見える。


カツ、カツ……。

静寂の中に、足袋が板張りを踏む音だけが規則正しく響いていた、その時。


「おや、来客でしたか。ほな、また改めましょか。」

寺院の入口に、低く、しかし驚くほどよく通る声が聞こえてきた。


声の方へ視線を向けると、そこには一人の男性が立っていた。

40代半ばから後半くらいのその男は、黒いコートに黒いシャツ、さらには黒いカーゴパンツと、全身を徹底して黒で統一している。

その手には、何かが入っているのか、少し重みを感じさせる風呂敷包みを、大切そうに抱えられていた。


二人の姿を見ると、男は丁寧にお辞儀をして、値踏みするような視線を一瞬だけ山県夫妻に向けた。


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## 影を纏う者、呪術師との邂逅


「いらっしゃいまし。ようこその御参りで御座います。」

女性住職は柔らかな日の光に包まれながら、その慈悲深い菩薩のような笑顔を崩すことなく、静かに合掌して深々とお辞儀をした。

彼女の纏う清らかな空気が、廊下を渡る涼やかな風と共に、黒衣の男を優しく迎え入れる。


「ちょいと、こっち方面で一仕事頼まれてましてな、それが終わったところです。そしたら、依頼主が和菓子をたんまりくれはりましてなあ。ほんで、御裾分けして回ってましたんよ。」

男は、黒いコートの裾を微かに揺らしながら、抱えていた風呂敷包みを愛おしそうに、そしてどこか慣れた手つきで軽く撫でた。

その仕草には、日々の過酷な「仕事」の疲れを感じさせない、不思議な余裕と落ち着きが漂っている。


「こんにちは。御客さんも宜しければ持って帰らはりますか? 縁起物というわけやありませんがね。」

男は、傍らで硬直している山県夫妻に視線を向け、穏やかではあるが、どこか底知れぬ深みを感じさせる声で語りかけた。


「あ、有難う御座います。えっと、失礼ですが……こちらのお寺の関係の方、ですか?」

将史は、男の全身を包む圧倒的な存在感と、京都の古い街並みに溶け込みながらも異彩を放つ黒装束に圧倒され、震える声で尋ねた。


「僕はお寺関係のもんやありません。仏様の教えは大切にしておりますがね。そうですな、僕の事は『呪術師』とでも呼んで下さい。」

男は淡々と、そして感情の起伏を感じさせない無表情のまま、その衝撃的な肩書きを口にした。

線香の煙が流れる静寂の中で、その言葉だけが重く、鋭い重奏となって空間に響き渡る。


「呪術師……!?」

「呪術……師……!?」

将史と直美は同時に目を見開き、息を呑んだ。


摩訶不思議食堂で聞き、自分たちが血眼になって調べていたその存在が、今、目の前に生身の人間として立っている。

その衝撃に、二人の心臓は早鐘を打つように激しく脈打ち始めた。


「これからお茶を入れますから、宜しければ呪術師さんも御一緒にいかがでしょうか? 渡り廊下は少々冷えますし、温かいお茶で一息つきましょう。」

女性住職は、驚愕する夫妻を包み込むように優しく微笑み、自然な仕草で茶室へと促した。


「丁度、茶菓子も頂いてきた事やさかい、ほな、御言葉に甘えさせて貰いましょか。」

呪術師と呼ばれた男は、丁寧にお辞儀をすると、迷いのない足取りで建物の中へと入ってきた。

カツ、カツ……という足音が、静まり返った本堂に響き、運命の歯車が更なる速度で回り始めたことを告げていた。


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## 因の探究、静寂に灯る呪術の灯火


客間に通された一向は、使い込まれた畳の香りと、どこか懐かしい線香の芳香に包まれた。

黒装束に身を包んだ呪術師は、大切そうに抱えていた風呂敷包みを解き、その中から老舗の風格漂う羊羹と、京都名物の阿闍梨餅を静かに取り出した。


「……ほう、これは見事な。ほな、羊羹を頂くとしましょか。」

呪術師が丁寧に羊羹を差し出すと、女性住職は菩薩のような笑みを浮かべてそれを受け取り、一度、奥の台所へと向かった。

カチャカチャという微かな食器の音と共に、丁寧に淹れられた緑茶の香りと、綺麗に切り分けられた羊羹が銘々皿に載せられて運ばれてくる。


「どうぞ。冷めないうちに召し上がってください。」

女性住職の柔らかな声に促され、呪術師と山県夫妻は揃って深々とお辞儀をして、感謝の意を述べた。


茶を啜る前に、女性住職と呪術師は胸の前で静かに手を合わせ、目を閉じた。


「われここに食をうく、つつしみて天地の恵と人々の労を謝し奉る。」


浄土宗の食前の言葉を朗々と、しかし静かに唱えると、続けて「南無阿弥陀仏」と十回繰り返す十念を捧げた。

山県夫妻もその厳かな空気に飲まれるように、不慣れながらも二人の所作に倣い、心を込めて念仏を唱える。


温かい茶菓子を口に運び、ようやく人心地ついた頃、直美が震える指先で茶碗を握りしめながら、意を決したように口を開いた。

「あの……呪術師さんとおっしゃいましたよね。その、呪いとか、そういった類の、目に見えない事柄に詳しいのでしょうか?」

直美の問いには、藁をも掴むような必死な色が濃く滲んでいた。


「まあ、兼業ではありますが、生業の一つにしている以上、一通りはわかります。万能ではありませんがね。」

呪術師は、羊羹を一口運んだ後、感情の機微を一切感じさせない無表情のまま淡々と答えた。

その声は低く、まるでお経の響きのように客間に染み込んでいく。


「ほな、犬の呪い……犬にまつわる因縁とかって、わかりますか? そういう呪いというものは、本当に実在するんでしょうか?」

将史が身を乗り出すようにして、呪術師を凝視した。


「犬の呪い、ですか。よく知られているのは、古来より伝わる『犬神』の類ですかなあ。」

呪術師は、茶を一口啜り、その深い響きのある声で応じた。


「犬神……?」

夫妻が耳慣れない言葉に聞き返すと、呪術師は視線を落としたまま説明を続けた。


「そうです。古くは平安時代、あまりの凶悪さから禁止令を発令するほど、人々に恐れられた呪術です。犬にまつわる怨念や、その命を材料とした呪術というものは、この国には古くから根深く存在しております。」

呪術師は一瞬、夫妻の表情を伺うように視線を上げた。

「……どうやら、単なる興味でお聞きになっているわけではなさそうですな。犬にまつわる呪いに、何かご興味がおありなんですかね。」


呪術師の射抜くような視線に、直美は心臓を掴まれたような衝撃を覚えた。

「信じて貰えるかどうかわからんけど……。今まさに、その呪いにかかってるんです、私達夫婦は。……いえ、私達だけやない、亡くなった息子も……。」

直美は絞り出すような声で、自らの内に秘めていた最悪の確信を告白した。


「さいですか。」

その告白に対し、呪術師は驚くことも否定することもなく、ただ短く、石のように淡々と応えた。

そのあまりに平坦な反応に、将史は逆に期待を抱き、縋り付くように言葉を重ねた。


「何とか、この呪いを解く事って出来ますか!? 呪術師って仰るくらいなら、何とか出来はるんとちゃいますか! 俺達は……俺達は今まさに、そういうお力のある人を探してたんです!」

将史の叫びは、静かな本堂の廊下まで響きそうなほど切実であった。


しかし、呪術師の表情は、冬の枯野のように冷め切ったままであった。

「なんで呪われはったんです? 呪いと言うもんは、理由なく空から降ってくるようなもんとは違います。呪う相手が明確に存在するか、あるいは自分でも知らん間に、呪いを発動させる何らかの引き金を引いてしまったからこそ、呪われる。まずは、その辺りの『因』となる話、根源を知らん事には、解呪も何もありません。どうにも出来ませんな。」


呪術師は、冷徹なまでに理路整然と、呪術の理を説いた。

「勿論、事情を知ったところで、僕に解けるかどうか。そして内容次第では、僕が実際に解くかどうかも、現段階では結論を出せませんな。呪術とは、倫理をも食らう劇薬ですから。」


「それは……。」

将史は、呪術師の言葉の重みに気圧され、一瞬口ごもった。


自分たちが優美に、そして業千寺親子にしでかした凄惨な過去。

それを、初対面のこの男にすべて曝け出さねばならない。


将史は隣に座る直美と、静かに顔を合わせた。

二人の瞳には、三十年前の凍てつく冬の記憶と、愛する息子を失った現在が、複雑に混ざり合って揺れていた。

そして二人は覚悟を決めたように、深く、重く、静かに頷き合った。


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## 絶望の等価交換、語られざる呪詛の深淵


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客間に、重く、そして息が詰まるような沈黙が降りた。


将史と直美は、三十年前の凍てつく冬の日、体育倉庫の扉を閉ざした瞬間の手の感触から、愛する息子が犯した残酷な過ち、そして彼が遂げた凄惨な最期に至るまで、そのすべてを曝け出した。

言葉の一つひとつが、自らの魂を削り取るような苦痛を伴い、語り終えた二人の顔には、隠し事のなくなった清々しさと、それ以上に深い、救いようのない疲弊が滲んでいた。


「……取り返しのつかないことをしたと、心の底から後悔してます。後悔したところで、もう遅過ぎるのは重々承知してます。それでも、これから先の残された人生、すべてをかけて精神誠意、償い続けるつもりです。」

直美は、震える膝の上で拳を握りしめ、絞り出すような声でそう告げた。

その瞳には、かつての傲慢さは微塵も残っておらず、ただ一途な贖罪の念だけが灯っている。


「やったことの事実は、どんなに足掻いても消えません。でも、それでも……少しでもそれが、業千寺さん達への供養と、誠実な償いになるのなら。それが、将生の魂のためになるのなら……俺たちは、どんな茨の道でも歩む覚悟です。」

将史もまた、呪術師の無表情な顔を真っ直ぐに見据え、震える声の中に揺るぎない決意を込めた。

ゴゴゴ……という、目に見えぬ「業」の重圧が、二人を押し潰さんばかりに客間に満ちていく。


「……本気で反省して悔い改めてはるかどうかは、言葉ではなく行為、行動を観ん事には、僕には何とも言えませんな。そやから、現段階では、あなた方が解呪に値する人物であるか、ほんまに償いの人生を歩んではるかどうかを結論付けるのは、あまりに時期尚早やと思うてます。口では何とでも言えますさかい。」

呪術師は、冷めた茶を見つめたまま、一切の情を排した声で淡々と、しかし鋭く言い放った。

彼の言葉は、救いを求める夫妻の淡い期待を、冷徹な現実という名の刃で容赦なく切り裂いていく。


「ほんまに変わらはったか否か……また過ちを犯しそうな局面で、それが最も如実に表れます。人間、窮地に立たされた時にこそ本性が出るもんです。解呪するに値するかどうかの判断は、その後でしょうな。僕が動くのは、あんたらがその『本物』であると、証明できてからですわ。」

呪術師の射抜くような視線が、夫妻の魂の深奥を暴き出すかのように向けられる。


「……はい。」

「……肝に銘じます。」

将史と直美は、ただ短く、自分たちの歩む道の険しさを噛みしめるように深く頷いた。


「まあ、現場を見たわけやないから、あくまで想像の範囲の話にはなりますが……現段階で僕からお話し出来ることは、業千寺さんがどのようにして『犬神』の術式を完成されたのか……という事くらいです。」

呪術師は、そう言ってゆっくりとお茶を飲み干し、茶碗をカチリと音を立てて置いた。

その微かな音が、まるで地獄の門が開く合図のように不気味に響き渡る。


「これを知ったら、業千寺さんが、どれ程の絶望と血を吐くような覚悟を持って、一世一代の術式を完成させたか、素人でも嫌というほどわかりますやろね。呪いとは、単なる恨み言やありません。それは、己の命、魂、そして未来のすべてを燃料にして燃え上がる、極めて効率の悪い、しかし絶対的なエネルギーの形ですから。」

呪術師の瞳に、ほんの一瞬だけ、深淵を覗く者のような妖しい光が宿った。

外では、夕闇が静かに迫り、本堂の影が長く伸びて客間を侵食し始めていた。


「……さて。御夫婦がこの話に、どこまで耐えられるかわかりませんが、業千寺千寿という男が、最後に何を成したのか。お話ししましょうか。」


呪術師は、淡々と、しかしこれから語られる内容が如何に凄惨で、如何に重いものであるかを予感させる沈黙を置いた。

夫妻は、心臓を鷲掴みにされたような緊張感の中で、次に続く言葉を待つしかなかったのである。


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## 禁忌の対価、犬神が繋ぐ血塗られた絆


呪術師は、冷め切った茶碗を置くと、その無機質な瞳を山県夫妻へと向けた。


「『犬神』の術式を発動させる方法はいくつかありますが、業千寺さんが選ばはったんは、恐らく犬の頭部を使った古くから伝わる方法で、最も確実な方法でしょうな。」

彼の声は淡々と、まるで料理の工程を説明するかのように、背筋が凍るような内容を紡ぎ出した。


「本来なら、目の前に馳走を置いて、犬を極限の飢餓状態に追い込み、餓死寸前で欲望が頂点に達した瞬間にその頸を刎ねるやり方なんですがね。お話を聞く限り、あの老犬は既に瀕死の状態やった。業千寺さんは、その死の間際の苦しみと、主人を慕う最期の執念を上手いこと応用させて、その頭をはねはったんでしょう。」

その言葉が耳に入った瞬間、直美は胃の底からせり上がる不快感に、思わず口元を押さえた。


「これをすることによって、その犬は霊的な『道具』となり、永久に術者に憑りついて、その執念を成就させます。業千寺さんにとっては、復讐の道具としてだけやなく、死ぬまで、そして死んだ後も愛犬と共にあろうとした、深い情念の意図も見えますな。」

呪術師は、一瞬の沈黙を置いてから、さらにその奥にある「闇」へと踏み込んだ。


「ただし。呪いっちゅうもんは、決して一方通行の力やありません。人を呪った者、つまり術者もまた、その報いとしての業を真っ向から背負わねばならんのです。『人を呪わば穴二つ』、あるいは『逆凪さかなぎ』。呼び方は色々ありますがね。要するに、これほどの規模の大呪術を完成させるためには、それ相応の、人生すべてを投げ出すような代償を払う事になる。術者である業千寺さんも、無事では済まんということですわ。」

呪術師の言葉は、まるで鋭いメスのように、夫妻がこれまで見て見ぬふりをしてきた「真実」を切り裂いていく。


「業千寺さんの場合は、自らの生命そのもの。そして死後も闇を彷徨い、決して成仏できず、永遠に救いのない暗闇を漂う事……。それらすべてを代償として差し出し、術式を完成させはったんでしょうなあ。先程あなた方が話してくれた、業千寺さん自身が『闇の檻』そのものに成り果てていたという話……。その光景から察するに、代償は今申し上げたことで、まず間違いないでしょうな。」


その瞬間、将史と直美の脳裏に、あの「摩訶不思議食堂」で観た凄惨な映像が鮮明に蘇った。

どす黒い霧となって蠢き、愛する息子や親族たちの魂を噛み砕く犬たちの「檻」となっていた、あの業千寺千寿の成れの果て。

あれは単なる幻覚ではなく、彼が自らの魂を削り、永遠の苦しみと引き換えに作り上げた、文字通りの地獄だったのだ。


「業千寺さんは恐らく、呪術師の中でも、最も高位に位置する『解呪師』の類だったと思われます。呪いの解き方を知っているということは、その仕組み……つまり、かけ方も自ずと熟知しているということ。呪いというものは、かけるよりも解く方が何倍も難しい。そやから、犬神という禁忌の術を完璧に使いこなす技量があったとしても、何ら不思議ではありませんな。」


呪術師は、溜息を一つ吐き、日が差し込む畳を静かに見つめた。


「それほどの御方なら、術を完成させた後の自分がどうなるのか。その代償がいかに恐ろしく、取り返しのつかないもんかも、きっちりわかってはったはずです。その上で、自分の未来をすべて捨ててまで、これだけの事をやってのけはった。……相当、肝が据わってらっしゃったんでしょう。そして、それほどまでの人物を修羅へと変えさせたのは、あなた方が彼に与えた、言葉では言い表せんほどの絶望と怒り、憎しみ。そして、底なしの悲しみがあったのではなかろうかと、想像に難くありませんな。」


客間に、重苦しい沈黙が降り積もる。

将史と直美は、自分たちがしでかした事の「本当の重さ」に、改めて肺を潰されるような圧迫感を覚えた。


ただ一人の少女を、老犬を、一人の老人を追い詰めただけではない。

自分たちは、本来なら人々を救う側であったはずの尊い魂を、自らの命と引き換えに他者を呪う「鬼」へと、無理矢理変えさせてしまったのだ。


あのお地蔵さんのように温厚だった老人が、地獄の檻となって死後の闇を彷徨っているのは、他でもない、自分たちの身勝手な傲慢さが引き起こした結末なのだという事実。

その罪悪感は、包帯を巻いた直美の手の痛みさえも忘れさせるほど、鋭く、そして深く、二人の心臓に突き刺さっていた。


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## 試される誠実、四国へ続く贖罪の道標


客間に流れる空気は、もはや呼吸をすることさえ躊躇われるほどに重く、鋭い。

直美は、包帯を巻いた自分の掌を見つめ、そこに滲む微かな血の赤が、まるで優美や愛犬、そして業千寺千寿が流した血の叫びであるかのように感じて震えていた。


「……これほどまでの、魂を削るような凄惨なことをさせてしまった私らは……。今さら、この呪いを解いてくれなんて願うのは、やっぱりおこがましいと言いますか……あまりにも、厚かましすぎるでしょうか?」

救いを求めるように、しかし自らの罪の深さに絶望しながら放たれた彼女の声は、静寂の中に消え入りそうに細かった。


「……ようわかってはりますね。その自覚があるということ自体、あんたらが今、本気で過去と向き合い、本気で泥を這うような償いの道を歩もうとされている、その証左ではあるでしょうな。」

呪術師は、感情の読めない無機質な瞳で直美を見据え、淡々と、しかしどこか突き放すような冷徹さを持って答えた。

「これ程までの命を賭した術式を解呪するというのは、挑む側にとってもそれ相応の技量と、最悪の場合は命を落とすほどのリスクを負う事になります。並の術者であれば、関わることすら拒むでしょうし、誰も安請け合いなどせんでしょうなあ。」


「あの……差し支えなければ、参考までに伺わせてください。呪術師さんは……あなた様なら、解けるのでしょうか? 業千寺さんが命を削って完成させた、この『犬神』の呪いを。」

将史が、暗闇の中に一筋の光を探し求める旅人のように、縋るような眼差しで尋ねた。


呪術師は、冷めきった茶碗の底に残った僅かな茶柱を眺め、一瞬の沈黙を置いてから口を開いた。

「……まあ、解けん事はありません。今は、その気が全く無いだけで。」


そのあまりにも平然とした、そして圧倒的な自信を感じさせる答えに、将史は息を呑んだ。


「解く気が無い理由は、大きく分けて二つ。一つは先程も申し上げた通り、御二方がこれから先、どんな困難な局面に出くわしても道を踏み外さず、真摯に償う人生を歩んではるかどうか……。それが、現段階では全く見えないからですわ。こっちがリスクを背負って下手に呪いを解いてみれば、『喉元過ぎれば熱さを忘れる』という言葉通り、すぐに元の傲慢な人間に戻ってしまう事も十分に考えられますさかい。そんな不確かな賭けに、自分の魂は売れません。」

呪術師の言葉は、氷の刃となって夫妻の胸をぴしゃりと言い放つように貫いた。


「それともう一つは……。業千寺さんの地獄のような覚悟に、外野が軽々しく割り込みたくない、という僕自身の勝手な思いからです。あの御仁が何を思い、何を捨ててその檻になったのか……。それを思うと、今はまだ、その情念を剥ぎ取る時期やないと勝手に思うてます。もし、いつか業千寺さん自身が『もう、安らかになってもええかな』と、そう思える時が来たと感じたなら、僕も腰を上げるかもしれませんが……。今はその時やないと、そう確信しております。」

呪術師は淡々と、しかし呪術に関わる者としての、死者への敬意を込めて語った。


「そうですか……。そう、ですよね……。」

将史は力なく項垂れた。

自分たちの願いが、いかに自分勝手なものであるかを改めて突きつけられた思いだった。


すると、呪術師は少しだけ視線を和らげ、二人に向けて新たな道標を示した。

「……まあ、救いがないわけでもありません。四国には、古くから犬神憑きを落としたり、憑き物を鎮める神社として有名な場所がいくつかありますさかい。そこで定期的に、きっちりと自分たちの罪を告白し、祈祷を続けていけば、多少は現象がましにはなるかもしれませんな。今のように、犬に吠えられたり威嚇されたりするのも、少しは緩くなるやもしれません。」


呪術師はそこで一度言葉を切り、鋭い眼光で釘を刺した。

「ただし。これはあくまで、あなた方が日々を懴悔し、徳を積むための行為であって、決して自分の都合だけを考えた『神頼み』にしてはいけません。神様も仏様も、そして地獄の鬼や閻魔大王も、あなた方の心の奥底……その化けの皮の裏側まで、すべてお見通しでっせ。形だけの祈りなど、却って業を深くするだけです。」


「有難う御座います。……はい、必ず行ってみます。都合のいい救いなんて望みません。ただ、あの方々に少しでも祈りが届くのなら……。」

直美は、隣に座る将史と顔を見合わせ、二人で同時に畳に額を擦り付けるようにして深く頭を下げた。


「教えていただき、本当にありがとうございます。四国へ、自分たちの足で向かいます。どれほどの時間がかかっても、そこから始めてみます。」

将史の力強い誓いの言葉が、静かな客間に響き渡る。


女性住職は、その光景を慈悲深い微笑みを浮かべて見守り、静かに合掌していた。

外では沈みゆく太陽が空を燃えるような茜色に染め上げ、夫妻がこれから歩むべき険しくも確かな路を、長く伸びる影が指し示しているようであった。


---


## 茜色の境界線、新たなる旅立ちの刻


寺院の古びた山門は、沈みゆく夕日の残照を浴びて、燃えるような朱色に染まっていた。

長く伸びた影が境内を侵食し、街には一番星が微かな光を放ち始めている。

山県将史と直美は、重い足取りながらも、その瞳には淀みのない光を宿して山門の前に立った。


女性住職は、法衣の袖を静かに整えると、夕風に揺れる短い黒髪を耳にかけ、慈悲深い菩薩の笑顔を夫妻へと向けた。


「あなた方は、自らの罪に気づき、正しき道を歩み始められています。先程、呪術師さんが仰った通り、喉元過ぎれば熱さを忘れるということが無いよう、御自身の現在地を見失わぬよう、そして何より、御自身を見失うことの無いようにして下さいまし。」

彼女の声は、凛としていながらも、迷い人を導く温かな灯火のように夫妻の心に染み渡った。

女性住職は、静かに胸の前で手を合わせ、深々とお辞儀をした。


「はい、肝に銘じます。自分たちの犯した罪の重さ、そして今日いただいたお言葉を、一刻たりとも忘れることはありません。……色々と、本当に有難う御座います。」

将史と直美もまた、合掌してお辞儀を返し、幾度も頭を下げた。


パタ……パタ……という、乾いた足音が静まり返った参道に響き始める。

二人は一度も振り返ることなく、生涯をかけた贖罪の旅路へと、一歩ずつ夜の帳へと踏み出していった。

その背中が、街の灯りの中に溶け込み、やがて完全に見えなくなるまで、門前の人々は静かにそれを見送っていた。


「……僕達に出来る事は、ここまでですな。」

呪術師は、黒いコートの襟を立て、感情を排した声でぽつりと呟いた。

その視線は、夫妻が消えていった暗がりの先、因果の糸が絡み合う虚空を見つめているようであった。


「ええ。後はあの御夫婦が、また道を踏み外さぬことを願うばかりです。人は弱く、また容易に忘れる生き物ですから……。」

女性住職は、細めた瞳に憂いと祈りを湛え、静かに風に吹かれていた。

どろりと濃くなった夜の気配が、寺院の静寂をより深いものへと変えていく。


「では、僕もそろそろ帰ります。美味しい御茶を有難う御座います。明日にでも『摩訶不思議食堂』まで報告がてら、このお土産を持って行くとしますわ。」

呪術師は、大切そうに抱えた和菓子の風呂敷包みを軽く叩き、薄い笑みを浮かべた。

彼の立ち振る舞いには、生者と死者の境界を歩む者特有の、どこか浮世離れした軽やかさが漂っている。


「はい。」

女性住職は再び合掌し、闇に消えゆく黒衣の背中を、丁寧なお辞儀で見送った。


カラン……カラン……という、遠くで鳴る風鈴のような音が、不思議な余韻を残して夜の空気に溶けていく。

古都の静寂の中に、それぞれの宿命を背負った者たちの足跡だけが、静かに刻まれていった。


---


:エピローグ:


## 宵の余韻、摩訶不思議な御裾分け


摩訶不思議食堂の店内は、今日も外界の喧騒を忘れさせるような、穏やかで不思議な時間が流れていた。

カウンターから一番近いテーブル席では、えらいこっちゃ嬢と女鬼、そしてわんぞうと猫子が、湯気の立つ茶碗を囲んで和やかに御茶を飲んでいる。

シュンシュン……という茶釜の煮える音が、静寂の中に心地よいリズムを刻んでいた。


カランコロン……。

店の扉が軽やかな音を立てて開き、黒装束を纏ったあの呪術師が、例の風呂敷包みを大切そうに抱えて姿を現した。

その隣には、法衣を端裏に整えた女性住職が、菩薩のような慈悲深い微笑みを浮かべて静かに寄り添っている。


「いらっしゃい! 今日の御茶は、えらいこっちゃなまろやかさ!」

えらいこっちゃ嬢は、椅子の上でぴょんぴょんと跳ねるようにして手を振り、元気いっぱいの挨拶で二人を迎えた。

彼女の明るい声が、店内の空気を一気に華やかに彩っていく。


「おつー♪ 今回も色々ありがとねー! 無事に大仕事終わったみたいじゃん、お疲れ様ー♪」

女鬼は、肘をついたまま片目をパチンと閉じ、軽やかなウインクを飛ばして呪術師に声をかけた。

その仕草には、長い付き合いを感じさせる親愛の情が滲んでいる。


「いらっしゃいましやで、呪術師さん、御住職さん。ようこそお越しくださいましたんや。」

「いらっしゃいまし、御二方。」

わんぞうと猫子は、椅子から降りてちょこんと丁寧にお辞儀をすると、可愛らしい肉球をパタパタと振って、歓迎の意を表した。


「お世話になります、皆さん。今日はお招きいただき、誠に有難う御座います。」

女性住職は、清らかな鈴の音のような声で挨拶を述べると、静かに胸の前で手を合わせ、深々とお辞儀をした。

彼女がそこに立つだけで、店内の空気が一層澄み渡っていくような錯覚を覚える。


「お世話になります。これ、呪術師としての仕事を片付けたら、依頼主さんからお礼にって、えらいことたんまり貰いましてなあ。うちらだけでは食べきれんさかい、御裾分けに持ってきましたんよ。」

呪術師は、テーブル席へと歩み寄ると、抱えていた風呂敷包みをスルスルと手際よく解いて広げた。

中から現れたのは、老舗の紋が誇らしげに記された立派な羊羹と、香ばしい香りが漂ってきそうな阿闍梨餅の山であった。


「あ、やった! 阿闍梨餅じゃん! あーし、これ大好きなんだよねー♪ さっすが、わかってるじゃん!」

女鬼は、包みから覗く和菓子を見つけるなり、瞳を輝かせて身を乗り出した。


「これはこれは、ご丁寧に有難う御座いますなあ。甘いもんには目がありませんわ。ほな、淹れたての熱い御茶を入れて来ますでなあ。少々お待ちを。」

わんぞうは、尻尾をパタパタと嬉しそうに振りながら、満面の笑顔で厨房へと向かった。


「ほな、私も準備してきますさかい。」

猫子も耳を可愛らしくピコピコさせながら、わんぞうの後を追って厨房に入っていく。


厨房からは、トントン、コトッという、茶器を準備する軽やかな音が響き始める。


「有難う御座います。皆様と一緒に頂ける尊き御縁、何よりの功徳で御座います。」

女性住職は、わんぞうと猫子の背中を見送りながら、再び合掌して丁寧にお辞儀をした。


「えらいこっちゃな高級羊羹! これ、箱からしてただもんやないで! 今日はえらいこっちゃな御茶会!」

えらいこっちゃ嬢は、目の前に並んだ色とりどりの菓子を覗き込み、その豪華さに興奮を隠せない様子で歓声を上げた。


こうして、摩訶不思議食堂に集った不思議な住人たちによる、ささやかで贅沢な御茶会が、賑やかに幕を開けようとしていた。


---


## 縁の円環、浄化の茶会


香ばしく焼き上げられた阿闍梨餅の皮から、上品な餡の甘みがじゅわりと広がる。

温かな緑茶が喉を潤すと、かつての凍てつくような因縁さえも、一時の安らぎの中に溶けていくようであった。

不思議な縁が交差するテーブル席に、静かな、しかし確かな連帯感が漂っている。


そこへ、厨房から白い割烹着を揺らし、地蔵店長がゆっくりと姿を現した。


「いらっしゃいまし、呪術師さん、住職さん。ようこそお越しくださいました。」

地蔵店長は、すべてを見通しながらもすべてを包み込むような、慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔を浮かべ、胸の前で静かに合掌してお辞儀をした。


「お世話になります、お邪魔しております。いつもながら、この店の空気は心が洗われますな。」

「御無沙汰しております、地蔵店長さん。皆様のお元気そうな御顔を拝見できて、何よりの功徳に御座います。」

呪術師と女性住職は、すぐさま立ち上がって、深々とお辞儀をして返礼した。


地蔵店長も空いた席に腰を下ろし、種族も生業も異なる摩訶不思議な御茶会が賑やかに再開された。


ひと段落して、湯呑を置いた女鬼が、金色の瞳を細めて呪術師へと向き直った。

「今回も色々助かったし♪ あのおじいちゃんの『檻』は今のところ、あーし達がこっち側できっちりと管理してるから安心して。暴走もしないし、因果の理から外れないように見張ってるからさ。」


「流石の手腕、恐れ入ります。あの規模の呪詛を制しておられるのは、やはり皆様のお力あっての事ですな。」

呪術師は、感銘を受けたように低く唸り、敬意を表した。


「それにしても、あの御夫婦……儂が顔を出すと、まるで化け物でも見たみたいにビクッてならはりましてなあ。まあ、無理もありませんわな。せっかくのおもてなしを楽しんでもらおう思いましたけど、配膳は全部、えらいこっちゃんと猫子さんにやって貰いましたでなあ。」

わんぞうは、ふさふさとした自分の手を眺めながら、豪快にハハハと笑った。


「まあ、そうなりますやろな。あの段階では犬という属性そのものに、魂の芯から怯えてはったでしょうし。わんぞうさんのその立派な御姿も、当時の彼らには恐怖の象徴にしか見えんかったんでしょうなあ。」

呪術師は、淡々と、しかし心理の深淵を突くような口調で応じた。


「わんぞうさんって、こんなに可愛いし、愛嬌だって満点なのにねー♪ 」

女鬼が楽しげに笑いながら、わんぞうの肉球をぷにぷにと綺麗な指で押す。


「 あの日のオムライスは、ウチも賄い飯で食べて、えらいこっちゃな絶品やった! 卵がふわふわで、あのおっちゃんもおばちゃんも、えらいこっちゃな勢いで食べてよった!」

えらいこっちゃ嬢が、その時の美味しさを思い出したのか、小さな両手をぶんぶんと振って興奮気味に語った。


「そりゃあ、料理人冥利に尽きますなあ。作り甲斐があったというもんですわ。」

わんぞうは嬉しそうに鼻を鳴らし、再び茶を啜った。


「ふふ、美味しく出来て何よりですねえ。」

猫子も耳をピコピコ揺らして、満面の笑みを浮かべる。


「これから恐らく、あの御夫婦は四国の犬神神社に、定期的に通われる事でありましょう。自ら足を運び、泥を這うようにして過去と向き合う道を選ばれました。今はただ、その歩みが止まらぬよう、静かに見守る事がよいかと思います。」

女性住職は、清らかな鈴の音のような声で、二人の未来を祈るように告げた。

その瞳には、かつての加害者としてではなく、一人の迷える子羊としての夫妻への慈悲が宿っていた。


「ええ。仰る通りに御座います。悪行により、悪業を積み上げて悪縁を紡いでしまわれた人生から、これからは一つひとつの善行にて善業を積み、いつか誰かと善き縁を結ぶ人となられることを、切に願うことに御座います。」

地蔵店長は、窓の外に広がる夕暮れの空を見つめ、静かにお地蔵さん笑顔で合掌した。

「因果は巡り、縁は結ばれる。今日という日が、あの方々にとっても、我らにとっても、また新たなる救いの種となりますよう。」


それぞれの祈りが混ざり合い、摩訶不思議食堂の灯火は、夜の帳へと溶けゆく古都の街角で、今宵も優しく、そして力強く輝き続けていた。


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##阿波の鳴動、消えぬ業と歩む路


週末。

四国の地に降り立った山県将史と直美は、徳島県の深い山間にひっそりと佇む「犬神神社」へと辿り着いた。

そこは、かつて呪術師が口にした通り、犬神という峻烈な霊威を鎮め、あるいは祀るための、独特の静寂に包まれた聖域であった。


立ち並ぶ古びた石灯籠の間を、冷たい風がヒュゥゥゥ……と吹き抜け、二人の背筋を正させる。

拝殿の前に立った二人は、かつてのように自分たちの富や安寧を願うような、傲慢な神頼みは一切しなかった。

ただ、胸の前で深く手を合わせ、自分たちが奪ってしまった命への懺悔と、これから先の人生を贖罪に捧げるという誓いだけを、沈黙の中に込めたのである。


一泊二日の行程。

お参りを終えた二人は、予約していたホテルへと向かう道すがら、夕暮れに染まる街並みを少しだけ歩くことにした。

どこか遠くで、カァ、カァ……と烏が鳴き、家々の窓に橙色の灯りが灯り始める。


「……そういえば、こうして二人でゆっくり歩いたり、旅行したりなんて、本当に全然してへんかったよな。まあ、仕事やなんやでバタバタしてたから、しゃーないと言えばそうやけど。」

将史が、ふと足を止めて、隣を歩く直美を見つめながら呟いた。

その声には、過ぎ去った三十年という月日の、あまりにも虚しい空白への後悔が滲んでいる。


「確かに、こんな風に肩を並べて歩くのなんて、いつ以来か思い出せへんくらい、久々な気がするね。」

直美は、包帯が巻かれた掌をそっと反対の手で包み込み、寂しげな、しかし穏やかな笑みを浮かべた。

これまで自分たちが守ってきたと思っていた「幸福」が、いかに脆く、他者の犠牲の上に成り立っていた砂上の楼閣であったかを、二人は今、痛いほどに噛み締めていた。


キャン、キャンッ!!

不意に、近くの民家の庭先から、一頭の小型犬が二人に向けて吠え立てた。


ビクッ……と反射的に肩を震わせる二人であったが、その犬の態度は、これまで京都で出会った犬たちのような、剥き出しの殺意や凄まじい威嚇を伴うものではなかった。

犬は数回吠えた後、すぐに興味を失ったかのように、フイと顔を背けて奥へと引っ込んでいく。


「……なんや、あの子。あんまり吠えへんかったな。もう、お参りの効果があったんかな。」

将史は、胸の鼓動を落ち着かせながら、どこか救いを求めるような期待を込めて口にした。


「まさか。今日初めてお参りにきたばっかりなんやから、そんなんただの偶然やろ。」

直美は、夫の淡い期待を優しく、しかし厳しく打ち消すように首を振った。

彼女の瞳には、自分たちが背負った「業」の重さが、そんな簡単に拭えるものではないという覚悟が宿っている。


「一回お参りに来ただけで、はいおしまい、なんて態度にしたらあかんよね。私らは、自分たちのした事と……あの盃で見た将生の苦しみと、これから生涯にわたって向き合い続けなあかんのやから。」


「……ああ、そうやな。時効なんて、俺らにはあらへん。摩訶不思議食堂で地蔵店長さんたちが言うてはった通りやな。」

将史は、冷たくなった夜の空気を深く吸い込み、夕闇の先にある自分たちの帰るべき場所を見つめた。


「業って言うのは、絶対に消えることはない。俺たちが歩むこの道が、いつかあの方たちの魂を少しでも休めることに繋がるなら……たとえどれだけ時間がかかっても、俺たちは止まったらあかんのやな。」


こうして二人は、宿泊先までの静かな道のりで、自分たちの内側に新たな、そして決して揺らぐことのない誓いを立てた。

徳島の夜空に輝き始めた星々は、まるで因果の糸を見守る瞳のように、二人の歩む贖罪の路を静かに照らし続けていた。


山県夫妻の、長きにわたる魂の浄化の旅は、今、始まったばかりであった。



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