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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第21話-2節:西谷肇のパワハラを戒めるほっこり飯

## ――夜明けの境内に響く「呪術師」の名、連鎖する因果の糸


やがて夜の静寂を切り裂くようにして進んでいた牛車は、かつて肇がえらいこっちゃ嬢という不思議な少女と運命的な出会いを果たした、あの古びた神社の前へと到着した。

ギィ、という微かな音を立てて客席の扉がゆっくりと開き、肇が外へと降り立つと、まるで役目を終えたかのように扉は自動的に、そして静かに閉ざされた。


運転席の窓からは方輪車が、相変わらずの人懐っこい笑顔を浮かべ、闇に溶け込みそうな手をご機嫌そうに振って見送ってくれた。

「毎度ありー。ほな、御達者でー。あんさんの行く末に、ええ風が吹くとええどすなー。」

方輪車は軽やかな声を残すと、牛の足音一つ立てることなく、夜の霧の向こうへと滑るように走り去っていった。


肇はその消えゆく後ろ姿に向かって、感謝を込めて深々とお辞儀をしてから、震える手でスマートフォンを取り出した。

深夜というにはあまりに遅い時間ではあったが、一刻も早く娘の安否を確かめたいという一心で、「今日はもう遅いけど、これから迎えに行く。」というメッセージを送信した。


すると初菜から、驚くほど直ぐに返信が届いた。

『今日は、助けてくれたお寺に泊めてくれるって。だから心配しないで。』

画面に映し出されたその文字を読み、肇は肺の中の空気をすべて吐き出すような深い安堵と共に、ようやくホッと胸を撫で下ろす。


メッセージの続きには、明日の朝一番に、ある神社の境内まで向かいに来てくれる人がいるという旨が記されていた。

肇はその指定された場所を地図で確認し、思わず目を見開く。

そこは、正に今自分が立っている、この神社であった。


えらいこっちゃ嬢に出会い、摩訶不思議食堂へと導かれ、そして今また娘との再会の地として指定されたこの場所に、肇は単なる偶然ではない、抗いようのない不思議な縁の連鎖を感じずにはいられなかった。

肇は、『御迎えして下さる方と、明日の朝一番に迎えに行く。おやすみ。』と短く返信を送り、その夜は京都駅周辺のホテルで、己の罪と向き合いながら静かに一夜を明かした。


---


翌朝。

澄み渡るような冷たい空気の中、肇は朝一番でホテルを後にし、昨日お参りをして運命が変わったあの神社へと再び足を運んだ。


石段を登り、境内へと足を踏み入れると、そこには初菜が事前に教えてくれていた特徴そのままの人物が一人、静かに佇んでいた。

黒いロングコートの裾を微風に揺らし、黒いカーゴパンツに黒いシャツという、全身を徹底した黒一色で統一した装い。

年齢は40代半ばから後半といったところであろうか、その背中からは、ただの通行人ではない、どこか世俗を離れたような独特の威圧感と静謐な気配が漂っていた。


肇は「この人だ」と確信し、緊張に強張る体を律しながら、その人物の傍らへと歩み寄って深くお辞儀をした。

「初めまして。西谷初菜の父、西谷肇と申します。……娘を助けて頂いたこと、そして本日の段取りをつけて頂いたこと、心より感謝申し上げます。本日は宜しくお願いします。」


肇の丁寧な挨拶を受け、その男性はゆっくりと振り返った。

その瞳はすべてを見通すかのように鋭く、しかしどこか飄々とした不思議な色を湛えていた。


「初めまして。……まあ、僕の事は『呪術師』とでも呼んでくれなはれ。堅苦しいのは無しにしましょ。ほな、参りましょか。お嬢さんが待ってはります。」

男性はそう短く告げると、肇の返事を待たず、颯爽とした足取りで歩きだしたのである。


「呪術師……。」

その耳慣れぬ、しかし今の肇にとっては不吉な響きを持つ言葉を耳にした瞬間、彼の脳裏には、あの会議室で式宮喜乃が放った「全員呪い殺したる!」という壮絶な叫びが鮮烈に蘇った。

もし、この世に本当に呪術というものが存在し、目の前の男がそれを生業とする者であるならば、自分の周りで起きていることはやはり……。


肇は背筋を走る冷たい戦慄を必死に抑え込み、自らの罪が招いたであろう因果の結末を確かめるべく、黒衣の男の後を必死についていった。


---


## 弥陀の慈悲に包まれて、父娘を繋ぐ念仏の響き


呪術師の揺るぎない背中を追い、迷路のような京都の路地を抜けた先に、その寺院はひっそりと姿を現した。

喧騒を拒絶するように佇む浄土宗の古刹は、朝の光を浴びて厳かな気配を纏っている。

山門の前で呪術師が足を止め、深く一礼して結界を跨ぐのを見て、肇もまた、己の内に溜まった澱を吐き出すような面持ちで静かに頭を下げ、門をくぐった。

一歩足を踏み入れれば、そこには手入れの行き届いた枯山水の庭と、凛とした静寂が広がっている。


正面の本堂へと続く石畳の先に、一人の女性が立っていた。

綺麗に切り揃えられた短い黒髪が、朝露を弾くように艶やかに光っている。

彼女が纏うのは、浄土宗の僧侶としての格調高さを物語る法衣と、美しい袈裟であった。


女性住職は、肇たちの姿を認めると、慈愛に満ちた柔らかな笑顔を浮かべて、静かに合掌してお辞儀をした。

「お早う御座います。」

鈴の音のような、清らかな声が境内に響く。


呪術師もまた、その場の空気に溶け込むような流麗な動作で合掌を返し、言葉を繋いだ。

「お早う御座います、御住職。お連れしました。」


「お待ちしておりました。そして、そちらは初菜さんの御父上、肇さんですね。どうぞこちらへ。お疲れでしょう。」

住職の温かな眼差しに、肇の強張っていた肩の力が僅かに抜ける。


「お早う御座います。西谷肇です。娘を助けて下さいまして、本当に有難う御座います。感謝の言葉も御座いません。」

肇は精一杯の謝意を言葉に乗せ、案内されるままに格式高い寺院の奥へと足を進めた。


通された客間の畳の上には、待ち焦がれていた娘、初菜が静かに座っていた。

その顔には疲れの色が見えるものの、昨晩の絶望的な逃避行の影は、寺院の清浄な空気によって幾分か和らいでいるように見えた。


「お父さん……お早う。」

ぽつりと漏らされたその声に、肇の胸は締め付けられるような愛おしさと、それ以上の申し訳なさで一杯になる。


「ああ、お早う。……無事でよかった。本当に、よかった。」

肇は顔をほころばせ、ようやく我が子の生存を肌で感じることができた安堵に、目元を熱くした。


肇は、溢れそうになる涙を堪えながら、居住まいを正して女性住職に向き直った。

彼は懐から、昨晩用意していた重みのある封筒を取り出し、両手で恭しく差し出した。

「娘が大変お世話になりました。泊めて下さり、何とお礼申し上げてよいのか。あの、娘を助けて下さったお礼と、御布施と言う事でお納めください。」


しかし、女性住職はその封筒を一瞥すると、困ったような、しかしどこまでも優しい微笑みを湛えて、静かに首を振った。

「恐縮です。お心遣い、大変嬉しゅう御座います。ですが肇さん、そちらはご家族とのこれから、再出発のために使われては如何でしょう。私共は、やるべき事をしたまでですから。」


やんわりと、しかし強い慈悲を持って断る住職に対し、肇は引き下がらなかった。

今の彼にとって、この布施は単なる対価ではなく、己の傲慢さを手放し、仏に救いを求める切実な儀式でもあった。

「どうか、お受け取り下さい。今の私にできるのは、こうして御布施をさせて頂くことだけなのです。そうしなければいけない気がしてなりません。私の我欲を、少しでも手放させて下さい。」


肇の言葉に込められた不退転の覚悟を感じ取ったのか、女性住職は静かに目を閉じ、承諾の意を示した。

「畏まりました。それでは財施と言う尊き行として、有難く頂戴致します。阿弥陀様への御供えとして、お預かりしましょう。」

彼女は深く合掌してお礼を述べると、肇と初菜、そして呪術師を促して本堂へと向かった。


本堂の重厚な扉が開かれれば、芳醇な線香の香りが鼻腔をくすぐり、中央には黄金に輝く阿弥陀如来像が鎮座していた。

住職が流れるような所作で木魚を叩き、短い御経と「南無阿弥陀仏」の念仏を称える。

肇は、隣で小さく手を合わせる初菜の横顔を見ながら、これまで自分がいかに「奪う」ことばかりを考え、「与える」ことや「祈る」ことを忘れていたかを痛感した。


読経が終わると、肇は自らの手で封筒を阿弥陀如来への御供物として献上し、その後、浄財箱へとその厚みのある封筒を納めた。

箱の底で音が響いた瞬間、彼の背負っていた「慢」という名の重荷が、ほんの僅かだけ軽くなったような気がした。


儀式を終え、再び戻った客間には、香ばしいお茶の香りが漂っていた。

女性住職が淹れてくれた温かな茶を一口啜ると、肇の乾ききった心に熱が戻ってくる。

初菜もまた、茶碗から立ち昇る湯気をじっと見つめ、落ち着きを取り戻していった。


静まり返った客間で、外から聞こえる鳥の囀りと、衣の擦れる音だけが優しく時を刻んでいる。

一息ついた肇は、この静寂の中で、ようやく娘と向き合うための本当の言葉を探し始めた。


---


## 弥陀の浄域に響く戦慄の告白、因果を解き明かす呪術師の眼


客間に漂う香ばしいほうじ茶の香りが、張り詰めた親子を僅かに解きほぐしていく。


湯気の向こうで、初菜は小さな茶碗を両手で包み込むように持ち、消え入りそうな声で口を開いた。

「……心配かけて、ごめん。その、あんな見世物になってる場所に、もう一秒だっていられなかった。自分の家なのに、誰かにずっと覗き見されてるみたいで……いたたまれなかったから。」

その言葉は、自分たちの私生活が世間の好奇の目に晒された屈辱と、信じていた父親への不信感が入り混じった、悲痛な叫びであった。


肇は深く項垂れ、逃げ場のない自責の念にその身を焦がした。

「無理もない事だ。初菜にそんな思いをさせてしまってたなんて。そして、そうなった原因は……全てお父さんにある。本当にごめん、申し訳ない事をした。」

かつての傲慢な部長としてのプライドを捨て去り、一人の父親として、震える声で愛娘に頭を下げる。


肇は、昨日体験した「摩訶不思議食堂」での出来事を反芻し、決然とした眼差しを初菜へ向けた。

「お父さんね、昨日は不思議な料理屋にいたんだ。そこで、自分の愚かさと、これからどうすべきかを教わった。自分がどれだけ傲慢で、周囲を傷つけてきたか、ようやく思い知らされたんだ。これから真っ当に、誠実に生きて、二度と家族がこんな風に苦しまないようにするから。お父さんの生き方で、証明していくつもりだ。」

その宣言には、あの女鬼の眼光や地蔵店長の静かなる導きを経て得た、不退転の覚悟が宿っていた。


初菜は、父のこれまでにない真剣な様子に戸惑いながらも、静かに「うん。」と頷いた。

しかし、彼女の表情は晴れないまま、どこか怯えるような色彩を帯びていく。

「お父さんが変わってくれたら……そしたら、あの人も、いなくなるかな?」


「あの人って……誰のことだ?」

肇が怪訝そうに尋ねると、初菜は視線を落とし、記憶の淵にある恐怖を絞り出すように語り始めた。


「最近、ずっと夢にも出てくる人がいてね。最初は気のせいだと思ってたんだけど……。それに、昨日京都に来てから神社でお参りしたら、すぐ傍にその人が立ってたの。すごく悲しそうで、でも動けなくて。あまりのショックで気絶しちゃったところを、この人達に助けて貰ったんだ。」


肇は、心臓を直接冷たい手で掴まれたような戦慄に襲われた。

「え……? 夢に、そして神社にまで現れたというのか?」


「うん……全然知らない人なのに……。私、この人に何か悪い事しちゃったのかな?知らない間に、誰かを傷つけちゃったのかなって、そればかり考えてたの。」

初菜の言葉は、肇が昨夜、摩訶不思議食堂で女鬼の「鬼の眼」を借りて「観た」光景と残酷なまでに一致していた。


「それって……初菜には今も見えてるのか?」

肇は顔を真っ青に染め、震える声で娘の視線の先を確認した。


「今は見えてない。ここに来てからは、一度も。」

その一言に、肇は肺の底から安堵を吐き出した。


「そうか……初菜にも見えていたのか。あ、でも、今はもう見えていないんだな? それじゃあ、もう成仏したという事か。まあ、ここは格式高いお寺だもんな。阿弥陀様の前で、きっと救われたんだな。」

ようやく最悪の事態は脱したのだと、自分に言い聞かせるように肇は安堵の色を浮かべた。


すると、それまで静かに見守っていた女性住職が、落ち着いた、しかしどこか核心を突くような響きを伴って問いかけてきた。

「肇さんも、その方を見られたのですか?」


「え? あ、ええ。昨日、先程お話しした食堂で彼の姿を観たばかりですし、俺も夢で見るようになって。……やはり、式宮善喜君は怨霊となって、俺達家族にとりついたという事だったのでしょうか。私の罪が、娘にまで及んでしまったのでしょうか?」

肇は、自分がしでかした悪行の報いが、ついに人知を超えた災いとなって愛する家族に牙を剥いたのだと確信していた。


その言葉を聞いた呪術師は、鋭い眼光を僅かに細め、唇の端にどこか冷めた笑みを浮かべた。

「怨霊、ねえ……。あんたさんにはそう見えましたか。」


その含みのある言い方に、初菜がふと思い出したように顔を上げた。

「あ、そういえば。呪術師さんは昨日、私のことを見て『とばっちり』って仰いましたよね? あれってどういう意味なんですか? 私が見たあの男性と、何か関係があるんでしょうか?」


「親父さんには耳の痛い話で、お嬢さんにはショック受ける話になりますけど……聞かはりますか?」

呪術師は淡々と、一切の感情を排した無表情で親子を見据えた。


初菜と肇は一瞬、不安げに顔を見合わせたが、肇は真っ直ぐに呪術師を見つめ返し、深く息を吸い込んだ。

「聞かせて頂けませんか? どんなに耳が痛くても、胸が痛くても、今起きている事の真実を聞かなければならない気がしてなりません。逃げてはいけないことだと思うのです。」


「私も……教えて下さい。何が起こってるのか、ちゃんと知りたいんです。」

初菜もまた、不安を振り払うように呪術師の黒い瞳を見据えた。


客間に張り詰めた静寂。

呪術師はゆっくりと腕を組み、因果の糸を解き明かすための、残酷な「真実」を告げるべく、静かに口を開こうとしていた。


---


## 「自業自得」の旋律、解呪師が告げる真実


静まり返った客間に、呪術師の冷徹な声が刃のように響き渡った。

「今し方、肇さんが『私の罪が、娘にまで及んでしまった』と仰いました通りです。肇さんのこれまでの悪業が『因』となって、今起こってる残酷な状況が『果』となっとるんですわ。因果応報、それ以外に呼びようがありまへん。」


呪術師は感情を一切挟まず、ただ事実を整理するように淡々と、それでいて重い真実を突きつけた。

「肇さんがいてはった会社の人らが、凄まじい勢いで次々と突然死しはったり、生き地獄味わってると思えるような事に見舞われてるのも、すべてはその『果』によるもんです。」


その言葉を聞いた瞬間、肇の背筋を凍り付かせるような戦慄が走り抜けた。

頭をよぎるのは、共にエリートの座を謳歌していた役員や部長たちの無惨な末路であった。

善喜の死を「自己責任だ」と鼻で笑い、式宮喜乃の悲痛な叫びを「耄碌婆の戯言」と切り捨てていた連中が、根こそぎこの世を去っている。

ある者は原因不明の心不全で、ある者は発狂した末に自ら生命を絶ち、ある者は不幸な事故で手足を失い、またある者は全身麻痺の後遺症を負い、文字通り「死ぬよりも辛い」生き地獄の淵で喘いでいた。


「それじゃあ、やはり……。喜乃さんが、善喜君の御婆さんが、本当に全員を呪い殺そうとしているのか。俺が、俺のパワハラがあの子を自死まで追い詰めたから、その怨念が……。」

肇の喉は恐怖で引き攣り、言葉を絞り出すのが精一杯であった。


隣に座る初菜は、父の言葉と凄惨な現実に顔を青ざめ、震える声で呟いた。

「それじゃあ、私をずっと見るようになった、あの男性って……。」


「呪いって、本当にあるんですよね。昨日、摩訶不思議食堂と言う場所で、そのような人知を超えたものがあると思い知らされました。俺達は……俺達家族は、もう呪われているんですよね。」

肇が絶望に染まった瞳で問うと、呪術師は恐ろしい事実を平然とした無表情で告げる。

「ええ、呪われとります。このままですと、今回の件に関わっとる人達は楽にはなれへんし、楽には死なせてもらえんでしょうなあ。魂まで削り取られるような、永い永い苦しみが待っとります。」


「そんな……!」

初菜はあまりの恐怖に言葉を失い、真っ青な顔になる。


肇は必死に呪術師に縋り付いた。

「何とかならないんでしょうか! 俺はいい、俺は罰としてどれだけ呪われても構わない! でも、せめて、せめて初菜と妻だけは助けられないでしょうか! 彼女達には何の罪もないんです!」


「呪術師さんは、その名前の通り呪術師なんですよね? だったら、その呪いを解く事って出来ませんか? お願いです、助けてください!」

初菜もまた、一筋の希望を求めて必死に助けを求めた。


呪術師は、二人を見据えながら、ゆっくりと腕を組んだ。

「まあ、読んで字の如く、それが僕にとって一つの生業ではありますがね。結論から申しますと、技術的にやろうと思えば、解呪は出来ます。」


「それじゃあ!」

肇の顔にパッと希望の光が差したのも束の間、呪術師の次の一言がそれを無慈悲に打ち砕いた。

「ただし、技術的に出来るというだけであって、実際に僕が解呪するかどうかは、真実を見定めてからですわ。情けや金で動くような、安い仕事はしてまへんのでね。」


呪術師の眼光が、これまで以上に鋭く、肇の魂の奥底までを射抜いた。

「これほど精緻で凄まじい術式を、高位な呪術師……正確には解呪師と言いますがね、これほどの事がなせる解呪師から直接呪われる事となった詳細な経緯を、今ここで聞かせてもらいましょか。あんたさんが何をしたんか。その告白の内容によって、今後、僕がどう動くかどうかを決めます。ええですか、真っ正直に、一切の誤魔化しなく、正確にすべてを話して下さいや。」


呪術師の淡々とした問いかけは、逃げ場を許さぬ絶対的な命令であった。

女性住職は静かに合掌し、肇が自らの罪を完全に吐き出すのを静かに待ち構えている。


肇は、自分がしでかしてきた全ての非道を、そして「解呪師」と呼ばれた式宮喜乃との間に何があったのかを、一から語り始める覚悟を決めた。


---


## 「とばっちり」の正体、愛娘を蝕む残酷なる肩代わり


寺院の客間に漂う静寂の中、西谷肇は搾り出すような声で、自らが積み上げてきた悪業の全てを独白し始めた。

将来有望であった式宮善喜という若者の尊厳を粉々に砕き、自死という最悪の結末へと追い込んでしまった経緯を、一切の虚飾を排して語り進める。

彼が守ろうとした女性部下・真智子への卑劣な仕打ちや、さらには過去、勇気を持って組織の歪みに異を唱えた者たちを、執拗な報復人事によって「追い出し部署」へと放り込み、再起不能なまでに追い詰めて退職へ追い込んできた事実。

これまで「エリートの階段」だと思い込んでいたその道が、実は他者の屍を積み上げた血塗られた階段であったことを、肇は血を吐くような思いで洗いざらい話し終えた。


隣で話を聞いていた初菜は、父の口から次々と語られる非道な現実に、震える手を膝の上でぎゅっと握りしめていた。

肇はその震えを視界の端に捉え、堪えきれずに深く、深く項垂れる。


「ごめんな、初菜……。こんな最低な父親で。家では良いお父さんの振りをしていたけれど、一歩外に出れば、会社では……部下を、人を、道具のようにしか思えない、まさにパワハラ上司の怪物だったんだ。」

懺悔の言葉と共に、肇は娘に向かって深く頭を下げた。


その様子を、黒衣の呪術師は一切の感情を排した無機質な眼差しで見つめていた。

肇が全ての罪を吐き出し、重苦しい沈黙が部屋を満たした頃、男はゆっくりと腕を組み直した。


「嘘は言うてはりませんな。あんたさんが今、心から己の過ちを悔い改め、今度こそ誠実に生きようとしてはる……その本気度は、よう伝わりましたわ。」

呪術師の言葉に、肇は一筋の光を見出したかのように顔を上げた。

しかし、次に放たれた宣告は、その希望を無慈悲に粉砕するものであった。

「せやけど、結論から申しますと。僕は今回、直接お嬢さんの『解呪』は致しません。……というより、やらん方が良いんです。仮に僕が無理やり術を解いたところで、術者である喜乃さんは、また同じ術式を即座に、それも更に強力にかけ直すだけですさかい。そうなると、今よりもずっと厄介な事になります。」


「厄介な事って……一体、何なんですか?」

初菜が不安を隠せない様子で尋ねると、呪術師は淡々と、死を告げる執行人のような冷徹さで答えた。


「お嬢さんが受ける『呪苦じゅく』……つまり呪いの強度が、前回の倍以上に膨れ上がるっちゅうことです。」


「え……?」

肇も初菜も、その言葉の意味が理解できず、幽霊でも見たかのように青ざめて硬直した。


呪術師は、困惑する親子を突き放すように、さらに深い呪術のことわりを語り始めた。

「これはね、術者……つまりは式宮喜乃さんの、呪術師としての在り方に起因しとるんですわ。実のところ、直接呪われるよりも遥かに性質たちが悪い。……『人を呪わば穴二つ』、あるいは『逆凪さかなぎ』。色々な呼び方はありますがな。要するに人を呪うという行為は、まず自分自身を呪うことから始まります。呪術を使う者は、常にその反動……自分側に空く奈落の穴をどう埋めるか、逆凪の衝撃をどう逃がすか、そこから修行を始めるんですわ。」


「それじゃあ、喜乃さんも……今は、自分の呪いで苦しんでいるということですか?」

肇の問いに、呪術師は鼻で笑うかのような冷ややかな笑みを浮かべた。

「いいえ。呪ったという行為そのものの『業』は残りますが、術を発動させた瞬間に発生する激しい反動、言うなれば『しっぺがえし』のダメージは、式宮喜乃さんに限ってはゼロでしょうなあ。」


呪術師ははそう言うと、視線をスッと横にずらし、凍りついている初菜を真っ直ぐに見据えた。

「なんせ、その凄まじい反動を引き受けるための『身代わり』が、こうして僕らの目の前にいてはりますさかい。」


初菜は「え?」と小さく声を漏らし、小動物のようにビクッとして体を強張らせた。

「つまりこういう事ですわ。喜乃さんが人を呪う事によって生じる、本来ならば彼女自身が受けるはずの『逆凪』の苦しみ。それを全て、本人に代わって一身に受けてるのが、他でもない、お嬢さんです。お嬢さんは式宮喜乃さんの『盾』にされとるんですわ。そやから、もし僕が無理に解呪をして喜乃さんの感情を逆撫でし、もう一度彼女が術式を発動させたとしたら……。その反動の衝撃は、逃げ場を失ってさらに巨大な塊となり、身代わりであるお嬢さんを木端微塵に砕きにいく。そういうわけです。」


呪いの真実、そして初菜が「とばっちり」だと言われた本当の意味。

それを理解した瞬間、肇はあまりの恐怖と絶望に全身を真っ青に染め、ガタガタと歯の根が合わないほどに震え上がった。

初菜もまた、自分が知らないところで「呪いのしっぱ返しの防波堤」にされているという救いのない現実に、視界が涙で滲み、今にも崩れ落ちそうなほど震え、泣き出しそうになっていた。


清浄なはずの寺院の客間が、一瞬にして底知れぬ深淵へと変貌したかのような感覚。

肇は震える手で初菜の肩を抱こうとしたが、自分の手がその呪いをさらに悪化させるのではないかという恐怖に駆られ、指先を空中で彷徨わせることしかできなかった。


---


## ――「身代わり」という残酷な慈悲、闇を穿つ黒衣の好奇心


静謐な空気が漂う客間。

お茶の熱とは対照的に、肇の背筋には氷のような冷たさが走り続けていた。


呪術師は、組んでいた腕をゆっくりと解き、冷え切った茶碗を卓へと戻した。

「今し方、お嬢さんがその男性の姿……恐らくは善喜さんの御姿やと思いますが、その御姿が見えてへんのは、一旦はこちらの寺院と言う清浄なる場所にいてはるからですわ。阿弥陀様の結界による一時的な遮断状態にあるから、今は干渉が防げとるんです。」


淡々としたその言葉を裏付けるように、傍らに座る女性住職が慈愛に満ちた表情で静かに合掌し、深くお辞儀をした。

しかし、呪術師の次の一言は、束の間の安寧を求めた肇の期待を容赦なく打ち砕いた。

「ただし、あくまでそれは一時的な凌ぎに過ぎまへん。場所を変えればまた現れる。根本解決には全く至ってまへんのでな。」


根本解決という言葉が、肇の胸に重くのしかかった。

肇は震える指先を膝の上で固く握りしめ、縋るような想いで呪術師を凝視した。

「根本的に解決するには……やはり喜乃さんに直接、その、呪いを解いて貰うしかないという事でしょうか?」


呪術師は天井の梁を仰ぎ見るようにして、少しだけ目を細めた。

「それが最も穏便で、かつ確実な納まり方でしょうな。ただ、喜乃さんが直接、あんたさんの話を聞いて下さるかどうかが最大の難関でしょう。これほど精緻で残酷な術を構築しはるくらいですさかい。その胸中に秘めた怒りと覚悟は、並大抵のもんやおへん。」


その言葉の重みに、初菜は堪えきれずに「そんな……」と、掠れた涙声を漏らした。

肇の胸を、鋭い刃で抉られるような激痛が通り過ぎていく。

「ここまでの事を……俺が、俺が彼女にさせてしまったという事か。初菜までこんな恐ろしい事に巻き込んで……。」


呪術師はそんな肇の嘆きを突き放すこともせず、ただ観察するように静かに問いかけた。

「なんで御嬢さんを、逆凪防止の道具……言うなれば自分を守る盾に使わはったか。その理由、あんたさんは理解してはるみたいですな?」


肇は、昨夜摩訶不思議食堂で突きつけられた「自業自得」の四文字を噛み締め、血を吐くような思いで言葉を紡いだ。

「それは……やはり、喜乃さんから、たった1人の孫を、彼女の愛する人を奪ったからですよね。愛する人を失う絶望と苦しみを……俺にも同じように味わわせるために。初菜を身代わりにしたんですね。」


「ようわかってはりますな。目には目を、喪失には喪失を。それが彼女なりの因果の精算っちゅうわけでしょうなあ。」


呪術師の冷徹な肯定に、肇はもはや耐えきれず、大粒の涙を流して畳に額を擦り付けるようにうなだれた。

「ごめん、ごめんな初菜……。本当にお父さんのせいで、こんな、こんな恐ろしい目に……。」


初菜は、父の震える背中を見つめながら、言葉にならない悲しみと恐怖に身を震わせ、ただ共に涙を流すことしかできなかった。


その時、バサッという衣擦れの音と共に、呪術師が椅子からスッと音もなく立ち上がった。

その唐突な動きに、肇と初菜は驚きを隠せず、涙に濡れた眼を上げた。


「ほな、僕はこれから喜乃さんと話してきますわ。」


「え……?」

玄関へと向かおうとする黒い背中に向かって、肇が慌てて声を上げる。


呪術師は足を止めることなく、肩越しにどこか飄々とした、しかし底知れぬ凄みを湛えた口調で言い放った。

「勘違いせんといてください。別に、術式を止めて貰うようにお願いしに行くわけでも、ましてや解呪しに行くわけでもありません。僕とは全く違う理を使いこなし、これほどまでの『逆凪転嫁』を完璧になし遂げる解呪師に、一度会うてみたい思うただけです。呪術師としての、ただの興味本位ですわ。」

そう言い捨てると、男は颯爽とした足取りで、長いコートの裾を翻して部屋を出て行った。


見送る女性住職は、阿弥陀様の如き穏やかな微笑みを浮かべ、その背中に向かって静かに声をかけた。

「行ってらっしゃいまし。お気をつけて。」

住職は合掌したまま、深い祈りを捧げるようにお辞儀を続ける。


肇と初菜もまた、自分たちのために……あるいはその「興味」のために動こうとする男の背中に向かって、溢れる涙を拭いながら、魂の底からの言葉を絞り出した。

「有難う御座います!」

「……お願いします、有難う御座います!」


呪術師の足音が遠ざかる中、肇は娘の肩を震える手でそっと抱き寄せた。

肇が立ち向かうべき現実は、未だ暗く深い淵の底にある。

だが、その瞳には昨日までの逃避ではなく、罪を背負い、家族を守り抜こうとする微かな光が宿り始めていた。


---


## 北の奥宮に座す「白髪の鬼」、言霊が紡ぐ冷徹なる審判


京都、下鴨。

世界遺産にも登録された名高き大社のさらに北、喧騒の届かぬ奥まった地へと、呪術師は足を運んだ。

周囲を包むのは、古の記憶を宿したような湿り気のある静寂と、木々の隙間から差し込む鋭い陽光のみである。


呪術師は慣れた手つきで二礼二拍手一礼を済ませると、懐から一枚の呪符を取り出し、無造作に空中に放り投げた。

放たれた紙片は空中でひらりと舞い、瞬時に命を吹き込まれたかのように一羽の蝶へと姿を変える。

淡い光を放つ蝶は、道筋を導くように森の奥へと吸い込まれていった。


やがて蝶は、迷いなき軌跡を描いて呪術師の掲げた掌へと戻り、再び冷たい紙の感触へと帰した。

呪術師はそれを懐にしまい込むと、迷いのない足取りでさらに奥へと歩みを進める。


たどり着いたのは、長い歳月に晒され、黒ずんだ木肌を晒すこじんまりとした本殿であった。

周囲を圧倒するような威圧感はなくとも、そこには踏み入る者を峻別するような、研ぎ澄まされた「気」が満ちている。

呪術師は賽銭を投じ、再び丁寧な作法で参拝を済ませると、足袋の音さえ立てぬほど静かに靴を脱ぎ、堂々とその中へと足を踏み入れた。


本殿の中央。

薄暗い堂内には、一人の老婆が鎮座していた。


短く切り揃えられた白髪は、月光を反射する刃のように白く輝いている。

彼女こそが、西谷肇の人生を根底から覆し、その魂を呪詛で縛り上げた張本人、式宮喜乃であった。


呪術師は、待ち構えていたかのような彼女の視線を正面から受け止め、深々とお辞儀をした。

「お初にお目にかかります。僕の事は先程伝令しました通り、呪術師とでもお呼びください。言霊師であり、解呪師である式宮さん。」


「儂は式宮喜乃と申します。符術師であり、解呪師である呪術師さん。」

喜乃もまた、澱みのない所作でお辞儀を返す。


互いの肩書きを確認し合うその空気は、一触即発の緊張感というよりは、互いの技量を認め合った職人同士の静かな火花のようであった。


「自分で言うのもなんやけど、名前を捨てたのに肩書ばかりが増えるとは、皮肉な話ですな。ほな、喜乃さんと呼ばせてもらいますわ。」

呪術師はそう言って喜乃の目の前まで進み、彼女と同じく、寸分の乱れもない姿勢で正座した。


堂内を吹き抜ける風が、二人の間に流れる静寂を僅かに震わせる。


「今日はよう晴れてますけど、お出かけはなさらんのですな。」

世間話のような呪術師の言葉に対し、喜乃は微塵も表情を動かさず、ただ前を見つめたまま応えた。

「……散歩する気にもなりまへんからねえ。この場所に座り、為すべき事を為すだけで十分や。」


「さいですか。」

呪術師は短くそれだけを返すと、組んでいた腕を解き、静かに老婆の顔を見据えた。


喜乃の唇が、僅かに綻ぶ。

それは慈悲ではなく、冷徹な理を悟った者の微笑であった。

「やはり、何が起こっとるのか、儂が何をしとるのか……すべてお見通しの御様子やね。そして、それを全く止める気もあらへんとは。物好きな御方や。」


「止める気も無ければ、割って入る権利もありませんからなあ。それに……今回の件は自業自得、因果応報です。他人が口を出す隙間なんてどこにもおへん。」

呪術師は淡々と、しかし一点の曇りもない真実として言葉を継いだ。

「無理に解呪したり、喜乃さんを力ずくで止めたところで……奴さんの事や、喉元過ぎれば熱さを忘れて、また元の傲慢な道に逆戻りにならんとも限りません。それでは、亡くなったお孫さんの魂も浮かばれへんでしょう。」


そして、呪術師は無表情なまま、自らの来訪の真意を告げた。

「僕はただ純粋に、言霊による『呪殺』に興味があるだけです。これほどの規模の術式、そしてこれほどの熱量を伴う呪いの現場。それを見学させて貰いに来ただけですえ。呪術師としての、ただの興味本位。邪魔は致しません。」


その言葉を聞いた喜乃の瞳に、鋭い光が宿る。

二人の間に流れる空気は、もはや「敵」か「味方」かという低次元なものではなくなっていた。


これから始まるのは、一人の老婆が人生を賭けて紡ぐ、最も美しく、そして最も残酷な報復の儀式。

呪術師はその深淵を覗き見るために、静かに、そして冷徹に、その特等席へと腰を据えたのであった。


---


## 白髪の解呪師の慈悲と矜持、紙片に宿る呪いの反動


薄暗い本殿の静寂を、喜乃の乾いた笑い声が細く、しかし鋭く切り裂いた。

「なんともまあ、物好きな御人どすなあ。実にあんたさんは、変わってはりますねえ。」

老婆の眼光は、老いを感じさせぬほどに研ぎ澄まされ、目の前の男の正体を暴こうと静かに燃えている。


対する呪術師は、風にそよぐ柳のようにその視線を柳に流し、一切の気負いもなく応じた。

「僕は単なる、通りすがりの平凡な呪術師ですわ。それ以上でも以下でもおへん。」


二人の視線が空中で絡み合い、火花を散らすような、それでいて深い淵を覗き込むような沈黙がしばし流れる。


すると突然、喜乃が堪えきれぬといった様子で声をあげて笑い出した。

「平凡な呪術師、ですか。呪術師である時点で既に非凡な上に、解呪師としても儂より使い手と御見受けしますけどねえ。これ程の御方が、自分を平凡やと言い切るとは。はは、面白いお人や。」


喜乃は膝を叩きながら笑い、その笑みの奥に隠した観察眼をさらに鋭くする。

「ここは人避けの結界を何重にもはっておりますさかい。その筋で高名な人でも近づく事はおろか、認識する事さえ出来ひんと言うのに、呪術師さんは何の準備も無く、スッと入ってきはった。その時点で非凡ですがな。儂の『迷い家』が、まるでお散歩コースのようや。」


「先日、あのお嬢さんに『一時的遮断』の護符を肩にはった時点で、僕の存在に気づかはった。だからこそ、お嬢さんへの力を一時的に弱め、僕が来る事を予見して結界を緩めて下さったんちゃいますか?そやから、僕は迷いなく入る事が出来た、僕はそう思うようにしてます。」


呪術師が淡々と核心を突くと、喜乃はいたずらが見つかった少女のような、しかし冷酷な笑みを浮かべて微笑んだ。

「そんな面倒な事はしとらんことくらい、あなた程の御方ならわかってはりまっしゃろ。私は一度放った矢は、決して戻さへんし、術式を緩めるような事は致しまへんわ。」


喜乃は細めた眼の奥に、僅かながらの情愛に似た光を灯した。

「善喜を奪いよったパワハラ部長はどうしようもない者やけど。その御嬢さんは、あなた程の方と御縁を結ばれて、これまた儂より格上のお坊さん、そしてそのお坊さんが御住職を務めてはるお寺さんと御縁を結ばれて救われた。それは、あの娘さんの方には、まだ仏様に見捨てられん何かが残っとるのかもしれませんねえ。」


老婆はそう言うと、ふっと居住まいを正した。

「……人型の護符、お持ちではありませんか?」


その言葉に、呪術師の眉が僅かに動いた。

「おやおや。……『逆凪転嫁』の再転嫁、しはるんですか。」


「人型の護符って言うただけで言い当てはるとは。やはり、あなた様にはかないまへんなあ。あんたさんの言う通りや。儂の身代わりに、あの娘を使い続けるのは、少々興が削がれてしもた。」

喜乃は自嘲気味に微笑み、呪術師を見据えた。


「それをやらはったら、喜乃さんがやろうとされている復讐に、水を差してしまいませんかな。まあ、僕がここに来た時点で、土砂降りの雨レベルで水差してしもてるでしょうが。」


「呪術師さんと、高位のお坊さんに免じて、お嬢さんだけは勘弁しときます。もっとも、父親が同じ過ちを犯したり、娘があの父親と同じ過ちを犯そうもんなら、その時こそ容赦しまへんけどねえ。」

老婆の言葉には、一度決めたことは曲げぬ鬼の意志と、高潔な者への敬意が混在していた。


呪術師は「さいですか。」と短く呟き、懐から一枚の和紙を取り出した。

それは、丁寧に人の形に切り抜かれた『人型ひとがたの護符』であった。

それを、滑るような動作で喜乃の前へと手渡す。


「あの親子には、会われませんか?」

呪術師の問いに、喜乃は静かに首を横に振る。


「会う気はありまへん。顔を見れば、また呪いたくなるだけや。ほな、使わせて貰いますえ。ほんに、おおきに。」

喜乃は受け取った護符を、本殿の奥にある、禍々しい気配を放つ儀式用の棚へと置いた。


「左様で。」

呪術師はそれ以上追求せず、再び沈黙の中に沈んだ。


パチッ、パチッと。

堂内に置かれた灯明が爆ぜる音が、不気味なほど鮮明に響き渡る。

喜乃は、深く、長く息を吸い込むと、護符に向かって指を組み、印を結び始めた。


「――臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前。」

老婆の口から、重々しく、湿った言霊が紡ぎ出される。


ビィィィィン……。


大気が激しく震動し、本殿の床板が悲鳴を上げる。

喜乃が放った呪いの反動、すなわち「逆凪」の力が、目に見えぬ奔流となって、初菜の肩から引き剥がされていく。


ゴォォォォォォ……!


凄まじい風が吹き荒れ、棚に置かれた人型の護符が、生き物のようにバタバタと暴れ始めた。

初菜の代わりに全ての呪苦を引き受ける新たな「器」として、紙片が黒い霧に飲み込まれていく。

喜乃の顔には、反動を直接受ける者の苦悶ではなく、術を完成させようとする執念の汗が滲んでいた。


呪術師は、その因果の組み換えの光景を瞬き一つせずに、冷徹な観察者として見守り続けていた。


---


## 「釘」に込められた警告、因果の淵で誓う誠実なる歩み


静まり返った本堂。

阿弥陀如来の慈悲深い眼差しに見守られ、肇と初菜は寄り添うようにして椅子に腰掛けていた。

本堂を包むのは、微かな線香の残香と、親子の震える吐息だけである。

すると、祭壇に供えられた和蝋燭の炎が、風もないのに微かに、しかし確かに揺らめいた。


その瞬間、静かに座っていた女性住職がスッと細めた眼に、安堵の光を宿す。

彼女は流れるような所作で座布団から立ち上がり、正面の阿弥陀如来像に向かって深く合掌し、一礼を捧げた。


それから親子の方へと穏やかに向き直ると、春風のような笑みを湛えて声をかける。

「一度、お茶の時間に致しましょう。張り詰めていた心に、温かな潤いが必要です。」


住職の案内に導かれ、親子は再び客間へと移動した。

そこには、既に人数分のお茶と、深緑の色鮮やかな抹茶羊羹が、四つの席に整然と用意されていた。


それを見た初菜が、不思議そうに小首を傾げる。

「あの……もう一人、どなたかがいらっしゃるんですか? 席が一つ多いような……。」


「ええ。呪術師さんが、間もなく御戻りになりますから。」

住職の予言めいた微笑みに、肇と初菜が顔を見合わせたその時、廊下から静かな足音が聞こえてきた。


「ただいま戻りましたえ。……おや、ちょうどええタイミングや。」

黒いコートの裾を揺らし、呪術師がひょっこりと客間へ姿を現した。

その表情からは、先程までの張り詰めた気配が幾分か和らいでいるように見える。


女性住職は菩薩のような柔和な笑顔で合掌し、彼を出迎えた。

「御疲れ様です。ちょうど今、抹茶羊羹を御用意したところで御座います。」


「これはこれは、有難う御座います。緑茶に抹茶羊羹とは、ほんに嬉しゅう御座いますなあ。この甘みが、仕事終わりの体には一番のご馳走ですさかい。」

呪術師は満足げに目を細めると、重厚なコートを脱ぎ、座布団の上に寸分の乱れもなく正座した。


肇と初菜は、ようやく戻ってきた案内人に対し、安堵と緊張が入り混じった声で挨拶を交わす。

「お帰りなさい……。」


肇は、喉の奥まで出かかっていた問いを、震える声で絞り出した。

「呪術師さん……。喜乃さんには、会えたんですか? その、一体何が……。」


呪術師はすぐには答えず、まずは丁寧な動作で合掌してお辞儀をした。

それから湯気の立つお茶を一口啜り、その温もりが腹に落ちるのを待ってから、静かに口を開いた。

「会えましたえ。ほんで……次は同じ過ちを犯さないようにと、強烈に釘を刺してはりましたわ。まあ、釘を刺す言うても、藁人形に五寸釘をガツガツ刺さはったわけやあらしまへんから、そこは御安心を。」


呪術師の淡々とした、しかしどこかユーモアを含んだ言い回しに、肇は一瞬だけ表情を緩めたが、続く言葉には再び全身の血の気が引くのを感じた。


「次はないと思うて、誠実に生きることですな。もし万が一、また同じような真似をしてみなはれ。次は警告も何もおへん。恐らくは即死レベルで呪われ、地獄の業火に焼かれることになりまっせ。」

無表情なまま、淡々と恐ろしい宣告を投げかける呪術師。


初菜はその言葉の重圧に目を見開き、言葉を失って震えた。

「えっと、それって……。」


「なんだかんだ言うて……あの婆さんも、自分の孫と同じくらいの年頃の子には、思うところがあったんやもしれませんなあ。あんな残酷な身代わりにしといて何やと言われるかもしれんけど、真意は僕にもわかりまへん。ただ、一つだけ言えるのは、あんたさんはもう一度だけ、生き直すチャンスを貰うたんやっちゅうことですわ。」

呪術師はそう締めくくると、お茶を一杯飲み干し、静かな沈黙の中に答えを委ねた。


その時、女性住職が静かに、しかし力強い慈悲を込めて親子に語りかけた。

「仏様と、そして喜乃さんと、亡くなられた御孫さんが、あなた方が道を踏み外さぬよう、常に傍らで見て下さっている……そのように思いながら、二度と同じ過ちを犯さぬよう、慈悲の心を持って誠実に生きる事です。謝罪と感謝の気持ちを、一瞬たりとも忘れずに。」

住職の菩薩のような笑顔と、深く合掌してお辞儀をする姿に、肇の心の中にあった最後の防波堤が決壊した。


「……はい。はい……有難う御座います。本当に……本当に有難う御座います。」

肇の目からは、とめどなく熱い涙が溢れ出した。

隣の初菜もまた、父の肩に縋り付くようにして、声を殺して泣きじゃくっている。

二人は何度も、何度も、畳に額を擦り付けるようにして深く頭を下げ続けた。


これまでの傲慢な日々。

人を傷つけ、奪い、蔑んできた報い。

それら全てを背負いながらも、今日という日を境に、彼らは新しい「生」を歩み始めたのである。

弥陀の慈悲に満ちた客間には、懺悔と感謝の涙が、静かな雨のように降り注いでいた。


---


## 崩壊する牙城、そして古都に集う「因果」の立会人


東京へと戻った西谷肇を待っていたのは、かつての平穏な日常ではなく、自らが撒いた種が招いた凄まじい逆風の嵐であった。

肇は、摩訶不思議食堂で誓った通り、過去に行ってきた凄惨なパワハラの事実、そして真智子たちが血の滲む思いで記録し続けた告発内容の全てを「事実である」と潔く公表した。


テレビやネットは連日、エリート部長による非道な追い込みと、その裏に隠された犠牲者の存在を報じ続け、世間からは猛烈なバッシングが浴びせられる。

SNSに溢れる罵詈雑言や、自宅にまで及ぶ好奇の視線。

それら全てを、彼は言い訳一つせず、ただ黙って、真摯に受け入れ続けた。


そんな中、肇が人生を捧げてきた会社は、決定的な破滅の時を迎えた。

主要な役員や部長級の人間たちが、原因不明の突然死や再起不能な事故によって次々と現場を去ったことで、組織は瞬く間に機能不全に陥った。

信頼を失い、人が消え、巨城は砂の城のように崩れ落ち、ついに倒産という形で消滅した。


生き残った社員たちにとっても、それは終わりの始まりに過ぎなかった。

世間の風当たりは想像以上に厳しく、倒産した「呪われた会社の出身」というレッテルは、彼らの再就職の道を絶望的なまでに閉ざす生き地獄となった。


肇は、自分が傷つけた人たち一人ひとりに対し、誠心誠意の謝罪行脚をすることを決意した。

中でも、善喜が命懸けで守ろうとした真智子への謝罪を切望し、何とか連絡を取ろうと八方手を尽くして奔走した。

だが、ようやく繋がった電話の向こうで、彼女は震える声で拒絶の意志を告げた。


「……二度と、私の前に現れないでください。お会いしたくありません」

その一言に、肇は胸を抉られるような思いをしたが、それでも「当然の報いだ」と自分に言い聞かせた。

会うことは叶わずとも、彼は再就職活動の合間を縫って、手紙やあらゆる手段を通じ、誠心誠意の謝罪を送り続け、己の罪を生涯かけて贖う姿勢を崩さなかった。


一方、愛娘の初菜もまた、厳しい現実に直面していた。

大学の単位は取り終えていたものの、父の不祥事という影は、彼女の未来を無慈悲に蝕んでいた。

就職活動を再開したものの、書類選考の時点で門前払いを食らう日々。

「西谷」という苗字を見ただけで、面接の機会すら与えられない理不尽な連続に、彼女は幾度も挫けそうになった。


しかし、京都で出会った不思議な縁と、父の変化を目の当たりにした彼女は、決してめげなかった。

「……今度は、あの時お世話になった人たちがいらっしゃる、京都の企業を中心に探してみる」

初菜は前を向き、力強くそう宣言した。


その姿を見て、肇は娘を巻き込んだことを激しく後悔しながらも、彼女に恥じぬ父親になるため、そして何より被害者たちへの誠実さを貫くため、泥を這うような日々を懸命に生き抜いていた。


---


数日の間に、西谷家の環境は目まぐるしく、劇的な変貌を遂げていった。


その喧騒から遠く離れた京都。

昭和の香りを色濃く残す、重厚な木造建築が並ぶ路地の喫茶店。

カランコロン、と懐かしい音を立てて扉が開く。


琥珀色の空気が漂う店内の一角、四人掛けの奥まった席には、一人の着物姿の老婆、式宮喜乃が静かに座っていた。

彼女は、丁寧に淹れられた珈琲の香りを楽しみながら、誰かを待つように入り口へと視線を向ける。


そこへ、周囲の空気が一瞬にして浄化されるような、神々しい気配を纏った女性が現れた。

浄土宗の法衣を美しく着こなし、菩薩の如き超絶美少女と言うべき風貌をした女性住職である。

その後ろからは、黒いコートの裾を靡かせ、飄々とした、しかし底知れぬ威圧感を漂わせた呪術師が続いた。


喜乃は、二人の姿を認めると、峻烈な表情を僅かに和らげ、温かな微笑みで迎えた。

「よう来てくれはりましたねえ。お二人とも」


「こんにちは」

女性住職は、菩薩のような慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、胸の前で静かに合掌してお辞儀をした。


「こんにちは。お待たせしましたかな」

呪術師も短く挨拶を交わすと、長い足を畳んで奥の席へ腰を下ろし、女性住職がその隣に寄り添うように座った。


喜乃は、目の前に並んだ二人の救い主を見つめ、感謝を込めて深々と頭を下げた。

「東京に帰る前に、急なお呼びだてをしてしもて……。せやのに、こうしてよう来てくれはりました。ほんまに、おおきに」


店内に流れるクラシックの調べと、珈琲を啜る静かな音。

東京で起きている激動とは対照的な、因果の糸を解き終えた者たちだけの、静謐な時間がそこには流れていた。


---


## 薫香の静寂、阿弥陀の慈悲と老婆の再起


昭和の面影を色濃く残す喫茶店内に、芳醇な珈琲の香りがゆるやかに満ちていく。

純白のカップがカチリと音を立てて置かれると、女性住職と呪術師は、差し出された熱い液体へ向かって、流れるような所作で同時に掌を合わせた。

「有難う御座います。」

二人の清廉な声が重なり、店員に対して深々とした合掌とお礼が捧げられる。


この異質な組み合わせの三人が集う四人掛けのテーブル席には、因果の糸を解き終えた者だけが共有できる、穏やかで重厚な時間が流れていた。

三人はそれぞれ、立ち昇る湯気の向こうで珈琲を一口、ゆっくりと口に含んだ。


深い苦みが喉を通り、張り詰めていた空気がようやく霧散し始めた頃、式宮喜乃が穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。

「呪術師さんは、この間ぶりどす。御住職とは、お初にお目にかかります。どうぞ、宜しゅうに。」

老婆の京都言葉は、かつて会議室で鬼の如き咆哮を放った時とは別人のように、柔らかく、それでいて凛とした響きを湛えている。


女性住職は、その菩薩の如き超絶的な美貌に、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて応えた。

「こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。」


その瑞々しい声と、一点の曇りもない合掌の姿を見つめ、喜乃は思わず「ふふっ」と声を漏らして笑う。

「ふふ、孫くらいの年の子を見ると、どうしても顔がほころんでしまいましてなあ。若々しい光を浴びるんは、何よりの薬どす。」


喜乃は珈琲カップを静かに置き、遠い空を見つめるように目を細めた。

「今回の事につきましては、ほんに有難う御座います。ほんまやったら、儂は全生命力つぎ込んで、人知れず呪詛と共に朽ち果ててたところやけど……。これも、善喜が『まだ死んだらあかん』って、こんな年寄りを気遣ってくれてる御縁なんやろかねえ。」

愛する孫を失った深い悲しみは消えることはないが、その瞳には自らを滅ぼそうとしていた暗い炎の代わりに、静かな慈悲の光が宿っていたのである。


女性住職は、喜乃の心の深淵に寄り添うように、再び合掌して言葉を紡いだ。

「御孫さんは、自らの身を挺して他者を守られる、真に心優しき方だと伺いました。先日報じられた西谷肇さんの真実の発表でも、彼は御孫さんの事をそのように仰ってましたから。今まさに仏となられたお孫さん、善喜さんの御縁が、喜乃さんをこの場所に導かれたとも言えましょう。それは、悲劇を超えた救いの形なのです。」

菩薩のような笑顔で語られるその教えは、喜乃の傷ついた魂を優しく包み込んでいく。


「ふふ、高位なお坊さんが言わはると、ほんまにそう思えてきますわ。そやね、あの子はほんまに優しい子やったから。いつまでも儂の事を案じて、浄土から見てくれてるやろね。」

喜乃は一筋の涙を拭うことなく、晴れやかな微笑みを二人に向けた。


「これで一旦は、儂の復讐はひと段落とします。これ以上、あの子を悲しませるようなことはしとうおへん。これから東京に帰って、細々とでも書道教室を再開しますさかい。もし東京に来る御縁がありましたら、いつでも顔を出したって下さいや。」

老婆の言葉には、過去の怨念を断ち切り、新たな生へと踏み出す不退転の決意が込められていた。


喜乃はスッと背筋を伸ばして立ち上がると、卓の上の伝票を迷いのない手つきで拾い上げた。

驚く二人を制するように、彼女は優雅な所作でレジへと歩み出す。

「ここは儂に持たせとくれやす。因果を解いて下さった、せめてもの御礼どす。……ほな、御達者で。」

喜乃は最後に、二人に向かって深々と、しかし清々しいお辞儀をした。


「有難う御座います。御馳走様です。」

女性住職と呪術師は一度席を立ち、力強く合掌してお辞儀を返した。


カランコロン、という乾いた鈴の音を響かせ、式宮喜乃は喫茶店を後にした。

その背中には、もう「復讐」という名の重圧はなく、ただ一人の書家として、一人の祖母としての、静かな誇りが満ち溢れていた。


静寂が戻った店内で、二人は冷めかけた珈琲を飲み干し、一人の女性が再生へと向かう後ろ姿を、いつまでもその心に焼き付けていた。


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