204. 警戒態勢
「屋敷内に虫が立ち入るなんて、珍しいこともあるのですね」
執事を観察している蜘蛛の聴覚が共有され、シルクは再び動きを止める。
此方の蜘蛛はほとんど動かずにいるというのに、執事の気配察知能力の高さについ警戒心を覚えてしまう。
『これは一旦退避が良いかしら…』
蜘蛛も警戒しており、脚を一本もぴくりとも動かそうとしない。
逃げ道を確保しようにもドアは開いておらず、窓も締め切られた状態。
どうにか隙をついて距離をとろうにも、部屋から出る逃げ道を確保しない限り厳しい状況である。
すると執事は椅子から立ち上がり、蜘蛛が潜んでいる書類棚に近付く。
蜘蛛はすかさず奥へと隠れ、暗い影を利用し執事と距離をとろうとした。
しかし蜘蛛が向かおうとした先に執事の手が伸びる。
視覚を共有しているシルクも思わず驚き、ティーカップを手にした状態で目を軽く見開かせた。
まずい、このままでは捕まる。
シルクは心の中で咄嗟に蜘蛛へ指示を送った。
(敢えて執事の方に向かって飛躍して)
蜘蛛自身にとっても危ない指示に聞こえるが、蜘蛛はシルクの指示に素直に従い行動に移す。
執事の方へめがけて勢いよく飛び付くように本棚から脚を離し、空中に蜘蛛の身体が露わになった。
執事は驚くように軽く目を丸くさせるが、その場から一歩も引かず固定された状態で視線だけを動かす。
もし蜘蛛が苦手の部類に入っていれば反射的に身を反らすなど動きを見せただろうが、そうしなかった辺り執事は蜘蛛が平気なのだろう。
捕まえようと手を伸ばしてきた時点で予想はついていたことだが、突然飛び掛かって来たことに対しても落ち着いた様子でいることから、肝が据わっている者だなとシルクは静かに分析しながら続けて蜘蛛に指示を送る。
(そのまま絨毯の暗い模様に沿って距離をとって)
蜘蛛は絨毯に着地すると、指示通りに動いて執事から離れていく。
身体の黒い蜘蛛にとって絨毯の模様は丁度良くカモフラージュになり、無事距離をとることに成功した。
しかし、蜘蛛が絨毯の端で様子見しようと動きを止めたところでも警戒心は治まらない。
執事は蜘蛛の位置が分かっているかのように、くるりと振り返っては丁度蜘蛛がいる場所に視線を留めたのだ。
(気配察知能力が高すぎる)
『相当ね…友達が皆警戒するくらいだわ』
(…皆?)
シルクはつい蜘蛛の訴えに耳を傾けさせる。
蜘蛛は警戒心を保ちながら、顔周りの汚れを取るように前脚を動かしては言葉を続けた。
『此処にいる使用人達の多くは魔法使いなんだけど、その中でも特にメイド長と執事は優秀なのよ。屋敷の管理が徹底されているのはこの二人がいるからこそね。最近聞いた話では、屋敷に侵入しようとした不審者を直ぐに捕まえて縛り上げたとかどうとか…まぁ、聞いた感じ私にとってはメイド長の方が相手にしたくないわね』
(…よく私の指示を受け入れてくれたね)
『実際にその光景を見たわけじゃなかったし、丁度暇だったから。まぁ…流石に今回で懲り懲りかしらね、あの執事もちょっと怖いわ。メイド長の方についてる友達は大丈夫かしら?』
(今のところは上手く隠れられてる…けど、油断できない。対象を別のメイドに変えようか)
『その方が賢明ね』
シルクはすかさずメイド長のところにいる蜘蛛に意識を向け、一旦その場から離れるよう指示を送る。
そちらの蜘蛛はその指示を待っていたかのように素早く脚を動かし、僅かに開いていた扉の隙間から逃げるように出て行った。
『ま、またあの針で攻撃させるかと思った。やべぇよあのメイド長!』
(怖い思いをさせてゴメン。…他のメイド達の観察はできそう?)
『多分それなら大丈夫だと思う…メイド長程の話は出てないからな。兎に角此処から離れるぜ』
指示を拒否されること無くその場から離れられたことにシルクは一先ず安堵し、執事の方へと意識を向ける。
そちらの蜘蛛は変わらず絨毯の端から一歩も動けずにおり、警戒態勢状態だ。
その後再び執事が動き出したと思えば、意外にも蜘蛛のいる方向ではなく反対側の窓の方へと足を進めていた。
シルクはふと執事のいる部屋の位置から見えるであろう窓の景色の風景を予測し、目の前の視線をティーカップからずらしてしまう。
窓から見える景色は美しい薔薇園が広がっており、薔薇と薔薇の隙間からは僅かにお茶会の様子が伺えられる。
ほんの僅かな隙間だが、執事にはしっかりと見えているようだ。
再びシルクの頬に冷や汗が一筋流れていく。
もし此処で視覚魔法を発動させて視力を拡大させれば、執事とばっちりと目が合っていただろう。
「貴方から僅かながらもシルク様のものと似た魔力を感じ取られますね。…丁度事務仕事が終わりましたし、私もお茶会の方へ伺いましょうか」
『あら、貴方の仕業だってバレてるんじゃない?覚悟しておいた方が良いかもね、今のうちに言い訳を考えましょうよ』
(…そうだね)
下手な言い訳はできないな、とシルクは敢えて遠くの方へと視線を向けては小さく溜息をつく。
「そうだ、お茶会の後シルクさんに薔薇についての説明をする必要があるねぇ…メラーシェ君、例の物は準備できているかい?」
「はい、いつでも大丈夫ですよ。…フレイス様も是非ご一緒にどうぞ」
「良いのですか?」
クロテッド社長と庭師メラーシェの話をそわそわと落ち着かない様子で聞いていたフレイスは、話を振られたことで瞳を宝石のようにきらきらと輝かせては嬉しそうに明るい表情になる。
シルクもそちらの話に意識を向けては切り替えるように気持ちを落ち着かせ、二杯目の紅茶を静かに飲み干した。




