2. 案内
「いやぁ、内見無しでいきなり入居を決めた人がいるって聞いた時は驚いたよ。これまでの人達は先に内見してから決めるって流れだったからさ…まぁ誰も入らなかったんだけどね」
あの後早速アパート内を案内されることになったシルクは、前で喋りながら歩いて行くグレイに耳を傾ける。
どうやらシルク以外にも入居を考える人達がいたようだが、全員に見送られたとのこと。中にはアパートに入る前に断りを入れた者もいたのだとか。
恐らく手入れされていない環境や独特な薬品の臭いから察してのことだろう。
実際に内見したとしても、玄関から入って早々目に映るのは、整理整頓されておらず埃を被ったまま放置されている家具や段ボールの山。
そして更に強く感じる薬品の臭い。
薬品を普段から扱っていない者や匂いに敏感な者にとっては堪らない環境と言えるだろう。
これまで断られ続けた経緯がある為か、シルクが入居を確実としていることにグレイは驚くと同時に強く興味を持ったようだ。
グレイは内心わくわくさせながら一階を一通り案内し、続いて二階へと向かう。
「今は研修中でいないけど、僕以外にもあと二人入居者がいるんだ。色々細かいことを言ってくるけど、僕と同じ研究者を目指している頼もしい子達だよ」
「成程…他に入居者はいないんですか」
「いないよ。元々は空きが無い状態だったんだけど、僕が研究に没頭している間にどんどん皆出て行っちゃってさ。最終的に僕を含めた三人だけになったのさ」
寧ろ静かになって研究に集中しやすくなったけど、と付け足した後にグレイは大きく欠伸する。
このアパートは三階建て、二階と三階に各入居者の暮らす部屋がある。
一階には広間だけでなく、広めの食卓やキッチンが設備されている部屋など、共有スペースがいくつか設けられている。
今は三人で一階と二階を中心に使用しており、三階は大半が倉庫として扱われているようだ。
肝心のシルクの部屋は三階に準備されているようで、軽く掃除はしてあると伝えられる。
しかしシルクはグレイに対して掃除ができない人物と印象付けてしまっているため、ジト目で疑いの視線を送った。
二階に着くとグレイは早歩きになり、とある扉の前で立ち止まる。
そのまま振り返って自信満々な表情でシルクに語りかけた。
「この部屋は僕が普段から使用している研究室さ」
研究室として使われている部屋の前で立ち止まり、より一層薬品の臭いが鼻につく。
流石のシルクも限界があり、首元に巻いているストールでぐいと鼻元を覆った。
「研究の途中だから今はごちゃごちゃしてるけどね…そんなに臭うかい?」
「…そうですね」
ちなみに現在シルクは狐面を外している状態である。
本当はつけたままでいたかったのだが、グレイがそれに納得いかず断りを入れたのだ。
「仮面を外さないと案内する気にならない」と子どものようにふいっと顔を逸らしながら宣言され、シルクは仕方なく狐面を外すことにした。
ストール越しに溜息をついて、再び充満する臭いに向き合う。
薬草の臭い、化学反応による刺激臭のような臭い、何かを炙って発生したような複雑な臭い。
そんな中にも関わらずグレイは平気な様子で「今は取り寄せた薬草の研究をしていてね…」と現在進めている研究について話し出す。
どうやら嗅覚が麻痺してしまっているらしい。
このままでは進まないと察すると同時に、シルクはふと気になる光景を目にする。
まさか…と予想を立ててはそうでないことを確認するように、グレイに問いかけた。
「博士、気になることがあるのですが」
その瞬間、先程まで研究についてぺらぺら話していたグレイがぴたりと停止する。
問いかけた身であるものの、流石に固まられるとは思っていなかったシルクは少し身体を強張らせた。
「…博士?どうかしました?」
グレイはシルクの無表情に近いきょとんとした表情を見つめる。
そしてみるみるうちに表情を緩ませ、嬉しそうに目を輝かせた。
「何だい、博士である僕にどのような質問があるんだい?」
どうやら博士と言われたことが嬉しいようだ。
自己紹介の時にやたらと博士を強調していたが、まさかここまで嬉しそうに反応するとは。
何だか純粋そうな人だな、と軽く考えつつ気になっていることを口にする。
「あの突き当りの部屋…壁や扉の周りが黒くなっているのは一体何が…?」
視線の先、突き当りにある部屋の扉周りが焦げているように黒っぽくなっている。
よく見れば扉は壊れているのか、中途半端に開いている状態だ。
シルクは予想が間違いであることを願いながら返答を待つ。
「あぁ、あの部屋も元々は研究室だったんだよ。爆発した時に少し焦げてしまってね」
グレイは照れながらそう答えた。
少しとは言っているが、扉周りの広範囲が黒く煤だらけになっている。何なら壁が若干崩れかけていて、触れれば外側に壁が崩れて穴が開いても可笑しくない状態だった。
とんでもなく癖の強い住居者だな、と思いながらシルクは静かに溜息をついた。




