1. 引っ越し
心地良い風が吹き、草木が揺れてはさらさらと優しい音がする。
それに合わせて小鳥のさえずりや羽ばたかせる音が響いていく。
辺りの自然を肌で感じながら、魔法使いのシルクはとある目的地へと向かう為に一人静かに歩いていた。
「この先で合っているはず…」
様々な依頼を引き受ける何でも屋として活動している彼女は現在、引っ越しの最中であった。
引っ越しと言っても彼女にとってはそこまで大層な出来事ではない。
数多くの地域や国を転々としながら仕事をこなしている身であり、慣れているも同然のことであった。
しかし今回ばかりは彼女は眉を顰めさせていた。
歩を進めていくにつれて、心地良いはずの自然が少しずつ変化していく。
青々とした草原が途中から色褪せ、枯草のようにしおれている。
咲き乱れていた綺麗な花は見かけなくなっていき、小鳥のさえずりは聞こえなくなったことから、自然で暮らす生き物の姿が見当たらないのに気付く。
先程まで心地良く感じられていた風は、寂しさを強調するようになってしまった。
「…此処で合ってるね」
シルクは手にしている地図を確認し、更に歩いてから目の前を仰ぎ見る。
視線の先には三階建ての大きな建物。
これから暮らすことになるであろう場所、”ヴェール・フォレット”という名のアパート。
正面玄関まで足を進め、再び眉を顰めた。
向かう途中から感じていた、独特な薬品の臭いが強く漂ってきている。
シルクはこの物件を紹介した者の言葉を思い出す。
『このアパートにいる住居者なんですが、少しやっか…独特な人でして。それでも行かれますか?』
厄介と言いたくなるような人物が住んでいるのか、と考えながらシルクは玄関ベルを鳴らす。
そのような物件を紹介する方もどうなんだと思うのが一般的かもしれないが、シルクにとってはどうでも良かった。
まともな人がいるから大丈夫とは限らない。人数が多ければ尚更。
シルクは敢えて入居者が少ない、人里離れた土地の物件を選んだのである。
間を置きながら二回程ベルを鳴らすと、扉の中からドタドタと物音が聞こえてくる。
扉が開いた瞬間、気になっていた薬品の臭いが一層濃く感じられた。
そして同時に現れたのは、所々汚れた長い白衣を身にまとい、眼鏡をかけている長身の男。
「っとと…もしかして君が新しい入居、者……」
男はズレた眼鏡を整えながらシルクの姿を確認する。
その後数秒間の沈黙が訪れた。
シルクは黒いローブを着用し、更にはフードを被り、目元は狐面で隠れ、首元から口元にかけては長めの黒いストールがぐるりと巻くように覆われている。
完全に素顔が分からず、初対面からすれば不審者と言われても可笑しくない姿である。
しかし白衣の男は数秒固まった後、にやりと笑顔を浮かべる。
そのまま扉の奥へと進むのを促すように半歩後ろへ下がった。
「聞いていた通り面白そうな人だねぇ。さぁさぁ入って、先に広間に案内するよ」
白衣の男に案内されるがまま、シルクはアパートの中へと入っていく。
広間へと続く廊下の隅にはいくつもの段ボールが積まれており、本来は広々としているであろう廊下が窮屈に感じられる。
ふと半開きの扉があるのに気付き、シルクは前へと進みながらちらと部屋の中を確認し、その後直ぐに白衣の男の後ろ姿に視線を戻した。
「この先にあるのが広間だよ、空いてるところに座ってくれ」
「…失礼します」
広間に辿り着き、空いているソファに腰を掛ける。
流石に広間は廊下ほどの圧迫感は無いが、逆に殺風景としていた。
部屋の真ん中に大きめのテーブルと、それを囲むように設置されたソファ。
白塗りの壁には何も飾られておらず、以前は絵画が掛けられていたのか金具が外された痕跡がある。
大きめの窓から外の様子を伺えるが、庭の手入れはされていない。しかもカーテンは破れかけの状態。
どうやらこの白衣の男は掃除というものができないらしい。
シルクは狐面越しに冷ややかな視線を送った。
「さてと…自己紹介しても大丈夫かい?」
「はい、お願いします」
少しぎこちない様子で話しかけてくる白衣の男であったが、大丈夫であるのを伝えられると安心したかのように眼鏡をくいと上げる。
流石に緊張しているのだろうかと思いながら、シルクはそのまま様子を伺った。
「僕はグレイ・ケミスティア。魔法薬学研究者をやっている者だよ。グレイ博士でもケミスティア博士でも、自由に呼んでくれたまえ」
博士という言葉を強調しながらグレイは両手を腰に当てて決め顔をする。
先程から嫌というほど薬品の臭いが漂っているのを踏まえて、シルクは薬学研究者という言葉に納得した。
グレイ本人から薬品の臭いがするのは当然として、広間に向かう途中で通った二階に上る階段付近からも、特に強く臭いが感じられた。
恐らく上階に研究室として使用している部屋があるのだろう。
そもそも研究室以外の部屋、ましてやこのアパートに辿り着く前から薬品の臭いが漂っていた。
どのような管理をすればこうなるんだ、とシルクは静かに遠い目をする。
グレイから興味津々な視線を向けられ、自己紹介の順番が回って来たなと察しては淡々とした様子で口を開いた。
「シルクといいます。只の魔法使いとして個人活動しています」
「只のっていうのが気になるね…ところで、その仮面は取らないのかい?」
グレイはそわそわとした様子でシルクを見つめる。
確かに自己紹介をする中で狐面をつけたままでいるのは失礼にあたるだろうか。
…一瞬だけなら大丈夫だろう。そう思いながらシルクはフードを脱いで狐面を外し、ストールを軽く下にずらした。
そして再び数秒間の沈黙が訪れる。
「…普段からその仮面をつけているのかい?」
「はい、そうです」
「もしかしてプライベートでも?」
「基本的にはつけています」
グレイはむっとした表情を浮かべてから、脱力するように溜息をつく。
突然大袈裟に溜息をつかれたことにシルクは疑問を浮かべた。
「何と言うか…勿体無いよ」
何が勿体無いのか主語をはっきりさせてくれと思いながら、シルクは再び狐面をつけた。




