第六章 みおが隣にいる
正午の旭川空港。
神崎は到着ロビーで待っていた。
時計の針を見ながら、自分でもわからないが、少しそわそわしている。
――一週間ぶりに、いつもと違う場所で会う。
そう思うと、なぜかいつもより落ち着かなかった。
やがて、到着ロビーに東京からの乗客が現れ、その中にみおの姿を見つけた。
さわやかなベージュのパンツスーツ。
神崎を見つけると、みおが少しだけ笑った。
「零さん」
「やぁ。長旅ご苦労」
二人は立ち止まる。
「……」
「……」
なんとも言えない沈黙。
みおが笑う。
神崎も小さく微笑んだ。
「わざわざ迎えに来てくれたんですね」
「当然だ」
「ありがとうございます」
みおは、そこで少し間を置いた。
「それで、零さん」
「何だ?」
「ひとつ聞きたいんだけど」
「どうぞ」
「私、今日、飛行機に乗っただけですよね?」
神崎は少し考えた。
「その認識で間違いない」
「ですよね」
「何か問題が?」
「ありました」
みおは即答した。
「それもかなり」
神崎が首をかしげる。
「快適ではなかったか?」
「快適でした。むしろ快適すぎるくらいでしたよ」
「なら良かった」
「良かったんですけど、ちょっと落ち着かなくて…。あの零さん、あれはどういうことだったんです?」
「日東航空にはちょっとしたコネがある。学生時代からの投資先の一つだ」
「……そんなに前から…。初めて聞きました」
「聞かれなかったから」
「そういうところですよ」
「そういうところ?」
「零さん、そういうこと、聞かれるまで言わないですよね」
神崎は少し考えた。
「必要な情報なら伝えている」
「私にとって必要な情報かどうか、零さんが決めないでください」
「……」
神崎が黙った。
みおは少し驚いた。
どうやら、少しだけ本気で反省しているらしい。
「たまには」
みおは、少し声を柔らかくした。
「聞かれる前に教えてくれることがあっても、嬉しいかな」
神崎はみおを見る。
「……覚えておく」
みおが笑う。
「その返事も、付き合いだした時から変わってない」
神崎は少し考えるような顔をした。
「では、次からは、聞かれる前に伝えるようにしよう」
「本当ですか?」
「善処する」
「その『善処する』も変わってない!」
「お決まりだな」
みおが小さく笑った。
神崎も、ほんの少しだけ笑った。
二人は空港内を散策する。
「なんだか、デートみたいですね」
神崎は真顔になる。
「事件の調査だ。」
「そうですよね」
「ただ――」
神崎が言葉を止める。
「ただ?」
「空港の近くに、巻村ファームという評判のアイス屋があるらしいんだ。」
「アイス屋さん?」
「ここはミルクジェラートはもちろん、果物のアイスが絶品だと評判だ。まるで果物そのものを食べている感覚になるそうだ。ここに来る途中に食べても良かったんだが、せっかくの機会だ、君と食べたくて、まだ食べていない。」
みおが黙る。
神崎は続ける。
「一人で食べるより、二人で食べた方がいいと思って」
みおは神崎を見る。
「……零さん」
「何だ?」
「それって」
「?」
「デートじゃないんですか?」
神崎は数秒考える。
「……そうともいえる。」
「もういいです」
みおは笑いながら歩き出した。
神崎もその後を追う。
そして二人は、事件のことを一瞬忘れてアイスを食べた。
神崎は満足そうだった。
「……実に美味しい」
手にしたジェラートを、名残惜しそうに見つめる。
「他の味も気にならないか?」
みおが笑った。
「そうですね。いくらでも食べられちゃいそう」
「だろう」
「でも、食べ過ぎるとお腹を冷やしますよ?」
「いや、大丈夫だ」
「その自信はどこから来るんですか」
「経験則だ」
「何の経験ですか」
神崎は答えなかった。
おそらく、本当に答えられなかったのだろう。
神崎はもう一口、ゆっくりとジェラートを食べた。
そして、何気ない調子で言った。
「君と食べるからこそ、より美味しく感じるんだろう」
みおが止まる。
「……」
神崎は気づいていない。
彼は時に、あまりにも直球すぎる言葉でみおを口説き、
そのたびに彼女を困惑させていることを。
「どうした?」
「……なんでもありません」
「そうか」
みおは少しだけ顔を赤くした。
そして、小さく息を吐く。
――この人は、本当に困る。
でも、憎めないし、時にものすごく頼りになる――
幾度かの食べ損ないによって、神崎の機嫌はここ数日、決して良いとは言えなかった。
楽しみにしていた朝食が消えた。
予約していた店が休業していた。
注文した料理が、なぜか提供されなかった。
普通ならば、多少不機嫌になる程度の出来事だろう。
しかし神崎にとって、「楽しみにしていた食事を食べ損ねる」というのは、
精神衛生上、決して軽視できない問題だった。
それでも、アイス屋を出る頃には、彼の機嫌はかなり回復していた。
理由は単純だった。みおが隣にいるからである。
もっとも、本人はそれを「恋愛感情による精神的安定」とは考えていなかった。
犯罪心理学者である神崎は、自分の感情についても、
可能な限り客観的に分析する癖があったが、
大いに的を外すことが多くあった。ことに恋愛に関しては…
そのため彼は、こう結論づけていた。
――親しい人物との再会によって、心理的な安定が得られたのだろう。
実に客観的な分析である。そして、それは実に間違っていた。
空港へ戻り、二人はレンタカーを借りた。
神崎が運転席に座り、みおが助手席に乗り込む。
車はゆっくりと旭川市街へ向けて走り出した。
「零さん」
「何?」
「旭川って、何が有名なの?」
神崎は即答した。
「やはりラーメンだな」
「……やっぱり」
「特に醤油ラーメンは有名だ」
「聞いてないです」
「聞いていただろう」
「旭川そのものについて聞いたんです」
神崎は少し考えた。
「地元の銘菓も個性があって良いようだ」
「それも食べ物です」
「それから、旭山動物園」
みおが少し驚いた顔をする。
「食べ物じゃないものも知ってるんだ」
「もちろん」
神崎は、少しだけ誇らしげだった。
「美瑛町も近いと聞いている。景観が美しいらしい」
「美瑛町、聞いたことがあります。近いんだ。行ってみたいな…」
「あと、富良野も」
「ちゃんと観光地、知ってるんですね」
「当然だ」
「ちょっと安心しました」
「何に?」
「零さん、旅先でも食べ物しか見ていないじゃないかと思って」
神崎は数秒、考えた。
「それは偏見だ」
「そうですか?」
「食文化を理解するには、その土地の歴史や風土を知る必要がある」
「なるほど」
「気候、地形、人々の生活。それらが食を生み出す」
みおが感心したように頷く。
「零さん、たまにはちゃんとしたこと言いますね」
「失礼だな」
「ごめんなさい」
「反省しているようには見えない」
みおは笑った。
「じゃあ、せっかくだし、少し観光もしよっか」
「その前にラーメンだ」
「……」
「どうした?」
「何でもない」
「そうか」
神崎は前を向いたまま、満足そうにハンドルを握っている。
みおは窓の外を眺めた。
――結局、こうなるんだ。
この人と付き合っている以上、食事の話は生活の一部なのだ。
そう割り切ることにした。
もっとも、その日の数時間後。
みおは、その認識があまりにも甘かったことを思い知ることになる。
旭川に入って最初に目にしたラーメン店が、臨時休業していたからである。
「本日、臨時休業。」
神崎はしばらく動けなかった。
「ここでもか……」
その声には、ここ数日の食べ損ないによって蓄積された、
深い悲しみと怒りが滲んでいた。
みおは、すぐに助手席から身を乗り出した。
「零さん、次、行きましょう次!」
「……そうだな」
神崎はゆっくりと顔を上げた。
「旭川には、ラーメン店が多い。通りすがりの店は開いていた」
「そうですよ!」
「一軒が駄目でも、次がある」
「その意気です!」
神崎はスマートフォンを取り出した。
「次の候補は、車で十分ほどだ」
「近いですね!」
「評判もいい」
「じゃあ決まりですね!」
「ただし」
神崎が画面を見つめる。
「定休日ではない」
「よかったじゃないですか」
「営業時間も問題ない」
「完璧です!」
「……だが」
みおが黙る。
「何ですか?」
神崎は、ゆっくりと顔を上げた。
「嫌な予感がする」
「そんな不吉なこと言わないの!」
二人は、次のラーメン店へ向かった。
そして、このときはまだ知らなかった。
旭川で待っているのは、ラーメンだけではないことを。




