第一章 イクラは、まだ遠い
函館ベイエリアのホテルで神崎はチェックインをしていた。
「朝食は七時からです」ホテルのフロント係がそう告げた瞬間、神崎零の目が変わった。
「七時……」
「はい」
「最終入場は?」
「九時半です」
「海鮮は?」
「ございます」
「種類は?」
「はい、刺身でしたらカンパチ、イクラ、甘エビ、マグロなど……」
「スルメイカは?」
「ございます」
「焼き魚は?」
「道産の鮭、他にサバにホッケなどがございます」
神崎は満足そうに頷いた。
「素晴らしい」
隣に誰もいないことに、神崎は気づいていなかった。
今回、交際相手の横田みおは函館には来ていない。
みおの担当する学会の取材と、神崎の参加するシンポジウム、道警函館署での犯罪心理の講習が重なっており、みおは東京に残っていた。
神崎が函館まで来た目的は、もちろん学会と講習である。
ただし――本人の中では、函館の朝食ビュッフェもまた、極めて重要な研究対象だった。いや。正確には、研究対象ではない。楽しみなのだ。
函館のホテル朝食ビュッフェ、それは絶対に外すことのできないものである。神崎は事前に情報を仕入れ、数あるホテルの朝食の比較・分析の結果、今回のホテルに決めた。
あふれんばかりに盛り付けられる真っ赤なイクラ、その場でさばかれる新鮮な海の幸、そして、北海道ならではの料理の数々…
そのために、前日の夕食を軽く済ませたほどだった。
翌朝。
午前六時四十二分。突然、非常ベルが鳴り響いた。
「ご安心ください!火災ではありません!」
ホテルスタッフが走り回る。
「厨房設備のトラブルです! 安全確認が取れるまで朝食会場を閉鎖します!」
神崎は時計を見る。六時四十三分。
「……」
六時五十二分。
「……」
七時。
朝食会場は開かなかった。
七時十五分。
まだ開かない。
七時三十分。
そして館内に非情なアナウンスが流れた。「お客様には大変申し訳ございませんが、諸事情により、本日の朝食は、提供を中止させていただきます。既に朝食をお申し込みの方は、返金対応をいたしますのでチェックアウトの際、フロントの方にお申し出いただきますようお願い申し上げます。繰り返します…」
神崎は静かに目を閉じた。
「……そうですか」
そして神崎は静かに部屋に向かって歩き出す。
その声を聞いたホテルスタッフは、なぜか背筋に寒いものを感じた。これまで理不尽に怒鳴り込んでくる宿泊客を何度も相手にしてきたことはある。
しかしこの人は違う。「怒らせてはいけない人を怒らせてしまった…」そう思わせる静かな恐怖感を与える不思議な空気がこの人にはあった。
「強盗犯、放火犯、連続窃盗犯……人間がどのように怒り、憎み、復讐を企てるのか」
神崎はエレベーターホールで立ち止まる
「しかし――、朝食を奪われた人間の心理については、まだ研究していない」
その日の午前。
神崎は、朝食を食べなかった。
昼、学会会場近くのラーメン店へ向かった。
ところが――
「本日、臨時休業です」
神崎は店の前で立ち尽くした。
「……」
「二度目だ」
その時、背後から声がした。
「いやー、お兄さん残念ですねぇー!臨時休業!いや、わたしもかー!うわー、くやしいー!」
振り返ると、派手なジャンパーを着た顔のでかい男が立っていた。




