94 マリウスの答え
「破談にしていただいて構いません」
ご縁がなかったということで、私はマリウスさんの幸せを陰ながらお祈りする人生を送ればいい。
大丈夫、結婚や出産だけが人生のすべてじゃない。
望みが全部叶う人生は素敵だけど、そうじゃなくてもいい人生にはできる。だって私にはレオくんやクリスタちゃんがいて、情熱を注げる仕事もあるんだから。
「マリウスさんの幸せを祈ってます」
部屋に沈黙が流れる。お互いの呼吸だけがひそやかに流れる部屋。
沈黙が辛い。
マリウスさんは額に手をやった。
「サティさん、がっかりです」
その言葉に、自分の体温が下がっていくのがわかる。
異世界でも同じ理由で婚約破棄されるだなんて。自分で言ったことなんだしわかってたけど、さすがに泣きそう。
「ごめんなさい…」
彼の顔を見られない。彼がどんな目で私を見ているのか、確認するのが怖い。
マリウスさんは私の手をぎゅっと握った。
「俺を見てください」
私はこわごわと目を開く。
彼の目に映っているのは失望だろうか。それとも諦め?軽蔑?憎悪?
緑の瞳には、怒りが宿っているように見える。
「怒ってます…?」
「ええ。サティさんが俺のことを全然わかってないので」
「どういう意味…」
「俺がこんなことくらいで破談にするような男だと思ったんですか?そんなことくらいであなたを手放すと?だとしたら俺を見くびってます」
ちょっと待って、理解するのに時間がかかる。
「俺のあなたへの気持ちは、こんなことで折れたりしません。あなたが誰で、どこから来た人で、この先の未来に何があってもなくても、俺はあなたを妻に迎えます」
「…本当に?」
「ええ、破談になんて絶対しません。俺がどれだけあなたを愛してても、あなたがどれだけ俺を好きでいてくれても、あなたが自分の正義を優先してしまうところは腹立たしくもありますが…そういうあなたが好きなので」
夢、なのかな?
「言ってほしかった言葉」が全部聞こえたような気がするんだけど。
「いいんですか?」
「ええ」
「本当の本当に?」
「本当です」
彼は私を抱きしめてくれた。私もおずおずと彼の背中に腕を回す。
「ようやく捕まえたんですから、絶対に離さないしどこにも行かせません。離れようとしてもどこまでも追いかけます」
息が苦しくなるくらい抱きしめられて、苦しいくらいに嬉しい。
「ありがとうございます…」
「礼を言うのは俺のほうです。打ち明けるのは怖かったでしょう。何も知らないふりをして黙って結婚することだってできたのに、誠実であろうとしてくれてありがとうございます」
背中に回した腕に力を入れながら、聞く。
「後悔しません?」
「するはずありません。俺はずっと子どもをもつことはおろか、誰かを愛することも諦めて生きてきました。なのに今はもう立派な息子がいるうえに、初恋の女性が妻になってくれる。何を後悔するんでしょうか」
しつこく彼の気持ちを確かめる質問にも、こんなに嬉しい言葉が返ってくる。
パーフェクトじゃなくても自分のままでいていいって思えて、安心する。
私だって後悔しない。こんなに満ち足りている。どこにも足りないものなんてない。
「うう…好きぃ…」
「俺もです。俺のほうがずっと好きですよ」
どれぐらいそうやって、抱きしめてもらってただろう。
耳元で「サチとは、元の世界でどういう意味ですか?」と聞かれる。吐息がくすぐったい。
「幸せ、っていう意味です」
「いい名前ですね。ご両親があなたの幸せを願ってつけたのでしょう」
「はい。そう聞きました」
お父さんお母さん。私、名前の通りに幸せになるね。
――ううん、もう今幸せ。
だから、生きてる世界は違うけど、どうか悲しまないで。
「これからは、サチと呼んでも?」
「もちろんです」
「俺があなたを名前の通りに幸せにしますから」
マリウスさんは私の髪をひと束すくって、キスをする。緑の目が、私だけを映してる。
「もう幸せですよ」
「じゃあ今以上に幸せにします」
これ以上、どうやって幸せになれるっていうんだろう。だけど彼がそう言ってくれるなら、できるような気もする。彼と一緒に、これからいくつも新しいことに向き合っていくんだろうから。
「だから俺以外の誰にも、その呼び名は許さないで」
「…っ!」
有無を言わせない口調に、「何にも誰にも興味がなかった男」と評されたマリウスさんの執着心の片鱗を見てしまった気がする。でも意外に、悪い気はしない。
「わかりました」
ーーー
「サティ、すっごくきれい!」




