黒狼団、最後の戦い
黒狼団、最後の戦い
前書き
守るために戦う者と、
奪うために戦う者。
同じ剣を握っていても、
その重さは同じではありません。
怒りだけでは、人は立ち続けられない。
憎しみだけでは、誰かを守れない。
それでも。
背後に守るべき者がいる時、
人は自分でも知らなかった力を出すことがあります。
⸻
《主人公・相良ユウキ視点》
「王国監査局、特別監察官セレナ・ハルトマン」
森の暗がりで、灰銀色の髪が風に揺れた。
その胸に輝くのは、銀色の秤と剣。
徴税官バルトンの紋章ではない。
王都監査局の紋章だった。
「徴税官バルトン」
セレナは弓を構えたまま、静かに告げる。
「横領、違法徴税、誘拐、殺人および反逆容疑により、貴殿を拘束します」
森に沈黙が落ちた。
ほんの一瞬だけ。
衛兵も。
傭兵も。
黒狼団も。
誰もが動きを止めた。
その沈黙を最初に破ったのは、バルトンの笑い声だった。
「は……」
豪華な馬車の窓から突き出た顔が、歪む。
「ははははは!」
最初は小さかった笑いが、やがて森全体へ響くほど大きくなる。
「監査局だと?」
バルトンは馬車の扉を乱暴に開け、外へ降りた。
地面へ足を着いた瞬間、太った身体を支えきれず僅かによろめく。
それでも本人は気にした様子もなく、セレナを指差した。
「貴様一人で何ができる!」
「一人ではありません」
セレナが答える。
その声に呼応するように。
森の奥で枝が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
暗闇の中から、紺色の外套をまとった者たちが次々と姿を現す。
弓兵。
剣士。
槍兵。
人数は多くない。
十数人ほど。
だが、全員が同じ紋章を胸へ付けていた。
王国監査局直属の武装監察隊。
「モンテーヌ衛兵隊の諸君!」
セレナが声を張る。
「武器を捨てなさい!」
「バルトンの命令に従っただけの者については、事情を調査した上で処遇を決定します!」
「しかし!」
その視線が灰色の外套を着た男たちへ向く。
「人質の殺害に加担した者!」
「町民へ刃を向けた者!」
「証拠を隠滅しようとする者には、反逆者として対処します!」
衛兵たちが動揺する。
互いの顔を見合う。
武器を下げる者。
逆に剣を強く握る者。
命令に従ってきただけの人間と、最初から金で雇われた者。
一枚の壁に見えていた軍勢に、僅かな亀裂が生まれた。
その亀裂を見逃さなかったのが、ヴァルターだった。
「惑わされるな!」
黒馬の上から、怒鳴る。
「監査局を名乗る偽物だ!」
「黒狼団と手を組み、モンテーヌを奪おうとしている!」
セレナが眉を寄せる。
「ヴァルター・グライス」
「元第三辺境軍団副団長」
「軍需物資横領および民間人虐殺の容疑についても、王都で記録を確認しています」
「記録?」
ヴァルターは鼻で笑った。
「戦場の記録など、勝者が好きに書き換えるものだ」
「だからといって、殺した者が生き返るわけではありません」
セレナの声は冷たかった。
「貴方が焼いた村も」
「貴方が捨てた兵士たちも」
「消えはしない」
黒馬が落ち着かない様子で地面を蹴る。
ヴァルターの口元から笑みが消えた。
ガレスが門の上で斧を握り直す。
二人の視線が、松明の海を越えてぶつかった。
「門を開けろ」
ヴァルターが言った。
今度は叫びではない。
ガレスだけへ向けた、低い声だった。
「貴様一人が下りてくるなら、砦の者には手を出さん」
「信用できると思うか」
「信用など必要ない」
ヴァルターは剣先を人質たちへ向けた。
「選ぶだけだ」
「貴様が死ぬか」
「こいつらが死ぬか」
ネッドの妹ミーナが、震えながら兄を見上げている。
声を上げることすらできない。
口元には布が巻かれ、両手も背中で縛られていた。
その隣には、行商人エドワルドの姿もある。
他にも町の住人。
バルトンへ逆らった者。
税を払えなかった者。
黒狼団へ物資を売った者。
皆が見せしめとして連れて来られていた。
ガレスはしばらく何も言わなかった。
砦の中から。
子どもの泣き声が聞こえる。
母親が宥める声。
武器を手にした男たちの荒い息遣い。
守らなければならない命が、前にも後ろにもあった。
「頭領」
ルガーが門の上へ上がってくる。
「奴の言葉を聞く必要はありません」
「だが人質がいる」
「門を開けても殺されます」
ルガーは断言した。
「ヴァルターはそういう男です」
ガレスは横目でルガーを見る。
「分かっている」
「なら」
「だから助ける」
ガレスは斧を肩へ担いだ。
「全員だ」
ルガーが息を止める。
ガレスは門の内側を見下ろした。
そこには、すでにクリフさんが弓を構えている。
アーサーが大盾を持ち、門の前へ立つ。
カシオンは地図を広げ、伝令たちへ指示を出していた。
あーさんは子どもたちを地下へ導きながら、負傷者のための布や薬を運ばせている。
誰も逃げていなかった。
恐怖がないわけではない。
手は震えている。
顔も青い。
それでも皆、自分にできることをやろうとしていた。
ここは。
山賊の砦ではない。
ここにいる者たちは。
ただ、家を守ろうとしているだけだった。
「ユウキ!」
ガレスが俺を呼ぶ。
「人質を頼めるか」
俺は柵の外を見る。
人質の周囲には、灰色の外套を着た傭兵が八人。
その背後には衛兵。
正面から行けば、辿り着く前に殺される。
けれど。
最初から正面へ行くつもりはなかった。
「行けます」
隣でよっしーが笑った。
「行けるんやなくて、行くんやろ」
「そうですね」
俺も剣を抜いた。
レオンが屋根の上から飛び降りる。
「話はまとまったか?」
「人質を助けます」
「簡単に言うねぇ」
口ではそう言いながら、レオンは楽しそうだった。
腰の二本の短剣を抜き、くるりと回す。
「嫌いじゃないぜ」
ネッドも前へ出た。
顔は真っ青だった。
それでも、足は止まっていない。
「俺も行きます」
ルガーが厳しい目を向ける。
「足手まといになる」
「分かっています」
「なら残れ」
「妹がいるんです!」
ネッドの声が砦へ響いた。
恐怖と。
後悔と。
覚悟が入り混じった声だった。
「俺が流した情報で、皆が危険になった」
「俺があいつらを砦まで連れてきたのと同じです」
「だから」
握った拳から血が滲む。
「俺にも行かせてください」
ルガーは何も答えなかった。
代わりにガレスが言う。
「死ぬな」
ネッドが顔を上げる。
「妹を助けて、お前も戻れ」
「……はい!」
ガレスは俺たちを見回した。
「東側の排水路から外へ出ろ」
カシオンが地図を差し出す。
「古い採掘坑へ続いています」
指先が砦の東から森を回り込み、人質たちの背後へ伸びる細い線をなぞる。
「ただし途中で崩れている可能性があります」
「可能性って」
よっしーが嫌そうな顔をした。
「それ、通られへん可能性もあるっちゅうことやろ」
「はい」
「先に言うてや」
「今、言いました」
「そういう意味ちゃうわ!」
こんな状況なのに。
俺は少し笑いそうになった。
よっしーは、いつも通りだった。
いつも通りに見せているだけかもしれない。
でも。
それでいい。
俺たちまで恐怖に飲み込まれたら、助けられるものも助けられない。
「合図は?」
俺が尋ねる。
クリフさんが門の上から答えた。
「俺がヴァルターの右側へ火矢を撃つ」
「それが開始の合図だ」
「人質を確保したら?」
「青い煙を上げろ」
レオンが小さな筒を取り出した。
「持ってる」
「なんでも持ってますね」
「情報屋は準備が命なんでね」
セレナの監察隊が来たことで、敵の意識は森の西側へ向いている。
今なら東へ抜けられる。
時間はない。
ヴァルターがいつ人質を殺し始めるか分からない。
「行くぞ」
俺たちは暗い通路へ飛び込んだ。
◇
排水路は、人が通ることを考えて作られていなかった。
低い。
狭い。
臭い。
雨水と汚水が混ざった泥が足首まで溜まり、歩くたびに嫌な音がする。
天井からは冷たい水が滴っていた。
先頭はレオン。
続いてネッド。
俺。
よっしー。
「なんでワイが最後なん」
後ろから不満そうな声が聞こえる。
「誰か来た時、強そうだからです」
「絶対適当やろ」
「静かに」
ネッドが振り返る。
その表情は必死だった。
外から微かに声が聞こえる。
ヴァルターたちが何かを叫んでいる。
時間を稼いでいるのはセレナか。
ガレスか。
どちらにしても、長くは持たない。
排水路を進むほど天井は低くなった。
やがて、レオンが止まる。
「崩れてる」
前方。
石と土砂が通路を塞いでいた。
隙間はある。
だが、人が通るには狭過ぎる。
よっしーが後ろから覗き込む。
「ほら見ぃ」
「どうします?」
「掘るしかない」
俺たちは手で土を掻き出した。
音を立てないように。
崩さないように。
焦るほど指が滑る。
爪の間へ泥が入る。
石が手の甲へ擦れ、皮膚が裂けた。
外から角笛が響いた。
一度。
続いて。
人々の叫び声。
「始まった」
ネッドが呟く。
その声が震えている。
「急ぎましょう」
石を一つ抜く。
土が崩れる。
開いた穴の向こうから、冷たい空気が流れ込んだ。
「通れる」
レオンが身体を横にして隙間へ潜り込む。
ネッドも続く。
俺はどうにか通れた。
よっしーだけが途中で止まった。
「ちょ、待て」
「どうしました?」
「引っ掛かった」
「お腹ですか」
「肩や!」
「本当ですか?」
「今それ揉めてる場合ちゃうやろ!」
俺とネッドで腕を引く。
後ろからよっしーが地面を蹴る。
泥まみれになりながら、ようやく抜けた。
「二度と通らへんぞ、こんなとこ」
「帰りは別の道にしましょう」
「絶対やで」
排水路の出口は、茂みの下に隠れていた。
レオンが草を僅かに持ち上げ、外を確認する。
「人質の後ろまで、二百歩ってところだ」
俺も隙間から見る。
松明の光。
灰色の外套。
人質たちは、少し高くなった土の上へ並ばされている。
周囲には傭兵。
その前方では、ヴァルターとガレスが何かを話していた。
砦の門はまだ閉じたまま。
監察隊は敵の側面へ回ろうとしているが、衛兵の一部に阻まれている。
戦闘はまだ本格的には始まっていない。
ギリギリ間に合った。
「どうする」
ネッドが囁く。
レオンは地面へ小石を並べ始めた。
「傭兵が八人」
「右に三」
「左に二」
「後ろに三」
「俺とユウキで後ろの三人を落とす」
「よっしーは右」
「ネッドは妹の縄を切れ」
「俺一人で右の三人?」
よっしーが眉を上げる。
「無理か?」
「誰に言うとんねん」
よっしーは落ちていた太い枝を拾った。
軽く振り、具合を確かめる。
「任せとけ」
「武器、それでいいんですか」
「人間相手に何でもかんでも斬ったらあかんやろ」
彼らしい。
こんな時でも。
相手を殺すことを当然とは思っていない。
俺は剣を握り直した。
「左の二人は?」
「合図の後でクリフが落とす」
レオンが空を見る。
「来るぞ」
門の上。
小さな光が生まれた。
クリフさんの弓。
火矢。
弦が鳴る。
赤い光が夜空を横切り、ヴァルターの右側にある地面へ突き刺さった。
「今だ!」
レオンが茂みから飛び出す。
俺も続いた。
灰色の外套を着た男が振り向く。
声を上げる前に、レオンの短剣の柄が喉へ入った。
もう一人へ俺が体当たりする。
剣を抜かせない。
身体ごと地面へ押し倒し、顎へ拳を叩き込む。
三人目が剣を振り上げる。
俺の横から枝が飛んだ。
よっしーが投げたものだ。
男の手首に当たり、剣が落ちる。
「おらぁ!」
そのままよっしーが突っ込む。
落ちた剣を蹴り飛ばし、男の懐へ潜り込む。
腹へ一発。
前のめりになった顔へ膝。
男は声もなく沈んだ。
「一人ちゃうやん!」
「助かりました!」
「後で高いで!」
左側。
二人の傭兵がこちらへ向く。
だが。
矢が飛んだ。
一人の肩。
もう一人の太腿。
クリフさんの狙撃だった。
殺してはいない。
確実に戦闘力だけを奪っている。
ネッドが人質へ駆け寄る。
「ミーナ!」
少女が顔を上げる。
目を見開く。
声は出せない。
それでも。
兄の姿を見た瞬間、涙が溢れた。
ネッドは震える手で口元の布を外す。
「兄さん……!」
「すまない」
「遅くなった」
「兄さん!」
二人が抱き合う。
だが、再会を喜ぶ時間はなかった。
「伏せろ!」
俺が叫ぶ。
矢が飛んできた。
地面へ突き刺さる。
敵が気付いた。
灰色の外套を着た男たちが一斉にこちらへ向かってくる。
「縄を切れ!」
レオンが叫びながら傭兵の剣を受ける。
短剣で受け流し、身体を回転させる。
相手の脇へ入り、肘を打ち込む。
速い。
狐面の時にも思ったが、こいつは情報屋というより暗殺者に近い。
俺も人質の縄を切る。
エドワルドが自由になった手で、隣の老人を支えた。
「走れますか」
「やってみるさ」
「森の東へ!」
「監察隊がいます!」
その時。
馬の嘶きが聞こえた。
振り向く。
ヴァルターがこちらを見ていた。
「小鼠が」
黒馬の腹を蹴る。
真っ直ぐ人質へ向かってくる。
「ユウキ!」
よっしーが叫ぶ。
俺は剣を構えた。
馬上の相手。
正面から止められるのか。
ヴァルターが剣を振り上げる。
その直前。
横から大きな影が飛び込んだ。
ガレスだった。
砦の門から飛び降りたのか。
斧を横薙ぎに振るう。
ヴァルターは馬上で身体を反らし、刃を避けた。
だが黒馬は驚き、前脚を高く上げる。
ヴァルターが地面へ飛び降りた。
ガレスとヴァルター。
二人が、ついに同じ地面へ立つ。
「来たか」
ヴァルターが笑う。
「ガレス」
「待たせたな」
ガレスは俺たちへ背を向けたまま言った。
「人質を連れて行け」
「でも」
「こいつは俺がやる」
その声には。
長い年月が詰まっていた。
戦争。
裏切り。
捨てられた仲間。
帰れなかった故郷。
すべてを終わらせる覚悟。
俺は頷いた。
「死なないでください」
「誰に言ってる」
ガレスは少し笑った。
「俺は頭領だぞ」
◇
その頃。
砦正面では、戦闘が始まっていた。
灰色の傭兵団が北門へ押し寄せる。
先頭に立つのは、大盾を持った男たち。
その後ろから槍兵が続き、さらに弓兵が火矢を放つ。
夜空へ赤い線が幾つも昇った。
「放て!」
クリフさんの声。
砦側から矢が降る。
盾へ当たり。
地面へ刺さり。
敵の足を止める。
だが、数が違う。
黒狼団の戦える者は多くない。
老人や負傷者を含めれば人はいる。
しかし実際に武器を持てる者は限られている。
敵はその数倍。
正面からぶつかれば、長くは持たない。
「門へ近づけさせるな!」
ルガーが柵の上を走る。
長槍を振るい、梯子へ手を掛けた傭兵を突き落とす。
次の男が登る。
槍の石突きで顎を打つ。
さらに横から飛んできた矢を身体を沈めて避け、そのまま槍を投げた。
弓兵の足元へ突き刺さる。
殺さない。
しかし前へ出させない。
ルガーは予備の槍を受け取った。
「次!」
「右側、来ます!」
見張りの声。
柵の弱い部分へ、丸太を抱えた兵たちが向かっている。
「アーサー!」
ルガーが叫ぶ。
「任せろ!」
門の内側。
アーサーが大盾を地面へ置いた。
そして。
丸太のように太い腕で、門を支える梁を掴む。
外から衝撃。
ドォン!
門全体が揺れる。
子どもたちの悲鳴が地下から聞こえた。
アーサーの足元の土が沈む。
それでも。
門は開かない。
「もう一度だ!」
外から声。
再び。
ドォン!
アーサーの腕が震える。
額に血管が浮かぶ。
「効かん!」
彼は吠えた。
「この門を通りたければ!」
外から三度目の衝撃。
木片が飛び散る。
アーサーの膝が僅かに折れる。
それでも持ち直した。
「俺を倒してからにしろ!」
その声に。
砦の男たちが奮い立つ。
恐怖で動けなかった者まで、石を運び、矢を渡し、水を用意する。
戦える者だけが砦を守っているのではない。
皆が。
それぞれのやり方で戦っていた。
◇
地下倉庫。
あーさんは泣く子どもたちの間を歩いていた。
「大丈夫です」
一人ずつ。
手を握る。
頭を撫でる。
「外には、とても強い方たちがいます」
「ガレスおじちゃんも?」
小さな少年が尋ねる。
「はい」
「あの大きいおじちゃんも?」
「アーサーさんですね」
あーさんは微笑む。
「もちろんです」
「怖いよ」
少女が震える。
あーさんはその子を抱き寄せた。
「怖くていいのです」
「怖くても、誰かの手を握ることはできます」
少女の小さな手が、あーさんの服を掴む。
その時。
天井から土が落ちた。
大きな衝撃。
北門が攻撃されている。
地下倉庫の奥で、ロベルトが負傷者のための薬を調合していた。
エレナは布を裂き、包帯を作っている。
ライラも震えながら手伝っていた。
「お母さん」
「大丈夫よ」
エレナの手も震えていた。
それでも娘へ笑いかける。
「ここを守ってくれている人たちがいる」
「だから、私たちは私たちにできることをしましょう」
ライラは唇を噛み。
強く頷いた。
◇
森の東側。
俺たちは人質を連れ、監察隊のいる場所へ向かっていた。
走れない老人もいる。
怪我人もいる。
速くは進めない。
背後から傭兵が迫る。
「先に行け!」
よっしーが立ち止まった。
拾った剣を地面へ突き刺し、両手を開く。
「一人で?」
「時間稼ぐだけや」
「俺も残ります」
「ユウキは前や」
「でも」
よっしーは振り向かない。
「こういう時くらい、年上の言うこと聞け」
いつも軽い男が。
珍しく真面目な声を出した。
「連れて帰るんやろ」
「全員」
俺は迷った。
けれど、人質たちを見る。
ミーナ。
ネッド。
エドワルド。
怯えた町の人たち。
ここで俺が止まれば、彼らも止まる。
「絶対来てくださいよ」
「当たり前や」
よっしーが首を回す。
骨が鳴る。
「ワイ、まだ晩飯食うてへんからな」
俺たちは走った。
背後で。
男たちの怒声。
よっしーの声。
何かがぶつかる音。
振り返りたかった。
けれど、振り返らなかった。
前へ進む。
今は、それが役目だった。
森を抜けた先。
セレナの部下たちが待っていた。
「こちらです!」
負傷者が引き取られる。
縄が切られる。
老人が支えられる。
ようやく。
人質は助かった。
「ユウキ!」
ネッドが叫ぶ。
「よっしーさんが!」
分かっている。
俺は来た道を振り返った。
その時。
茂みの向こうから、一人の男が転がるように飛び出してきた。
灰色の外套。
地面へ倒れる。
続いて。
よっしーが現れた。
服は破れ。
頬から血を流し。
片方の靴がない。
「なんや」
肩で息をしながら笑う。
「先に着いとるやん」
「遅いですよ!」
俺は思わず叫んだ。
「うるさいな」
よっしーはその場へ座り込む。
「四人は、ちょい多かったわ」
「無茶し過ぎです」
「勝ったからええやろ」
「勝ってないでしょう」
「立っとる方が勝ちや」
言っていることは滅茶苦茶だった。
けれど。
生きて戻ってきた。
それだけで十分だった。
レオンが青い煙筒へ火を点ける。
煙が夜空へ昇る。
人質救出成功の合図。
砦から歓声が上がった。
◇
青い煙を見た瞬間。
ガレスの口元が僅かに緩んだ。
「何を笑っている」
ヴァルターが剣を振るう。
ガレスが斧の柄で受ける。
火花。
重い金属音。
「人質は助かった」
「だから何だ」
ヴァルターの剣が連続で襲う。
速い。
元軍団副団長。
年齢を感じさせない剣だった。
首。
肩。
脇腹。
急所だけを正確に狙う。
ガレスは斧で受け続ける。
一撃ごとに腕が痺れる。
ヴァルターは力だけではない。
ガレスの癖を知っていた。
戦場で。
何度も見ていた。
「右足を踏み込む前に、肩が動く」
ヴァルターが笑う。
「昔から変わらんな」
剣先がガレスの腕を裂く。
血が飛ぶ。
ガレスは後退する。
「お前の戦い方は、俺が教えた」
「そうだったな」
「なら分かるだろう」
ヴァルターが間合いを詰める。
「貴様では俺に勝てん」
突き。
ガレスは身体を捻る。
完全には避けきれない。
剣が脇腹を掠める。
服が裂け、血が滲む。
周囲では戦いが続いている。
監察隊と衛兵。
黒狼団と傭兵。
怒号。
悲鳴。
火の粉。
けれど、ガレスの目には。
目の前の男しか映っていなかった。
「確かに」
ガレスが呟く。
「俺はお前に剣を教わった」
「斧だろうが同じことだ」
ヴァルターが踏み込む。
「貴様のすべてを俺は知っている!」
剣が振り下ろされる。
ガレスは斧で受けなかった。
身体を前へ出した。
刃が肩へ食い込む。
ヴァルターの目が見開かれる。
ガレスは剣を受けたまま、左手でヴァルターの手首を掴んだ。
「だから」
低い声。
「俺も知ってる」
頭突き。
鈍い音。
ヴァルターがよろめく。
ガレスは肩へ刺さった剣を自ら引き抜く。
血が流れる。
それでも止まらない。
「お前は自分より弱い奴が」
斧を振り上げる。
「命を捨てて向かってくる時だけ」
ヴァルターが剣を構え直す。
「一歩下がる!」
斧が振り下ろされた。
ヴァルターは。
確かに一歩下がった。
その足が。
折れた枝を踏む。
僅かに体勢が崩れる。
ほんの一瞬。
だが。
ガレスには十分だった。
斧の柄がヴァルターの胸へ突き刺さる。
骨の軋む音。
ヴァルターの身体が後方へ吹き飛び、地面を転がった。
剣が手を離れる。
ガレスは肩から血を流しながら、ゆっくり近づいた。
「終わりだ」
ヴァルターは咳き込む。
口元に血が滲む。
それでも笑っていた。
「終わり?」
「何も終わらん」
「俺を倒しても」
「バルトンを捕らえても」
「この国は変わらん」
ガレスは斧を構える。
ヴァルターは地面へ手を着き、顔を上げた。
「貴様らのような連中は、また捨てられる」
「次の戦争が始まれば使われ」
「終われば忘れられる」
「それが国だ」
ガレスは黙っていた。
「正義などない」
ヴァルターが笑う。
「あるのは力だけだ」
「力のない者は奪われる」
「力のある者が奪う」
「それだけだ」
ガレスは斧を下ろした。
ヴァルターの表情が変わる。
「何のつもりだ」
「お前を殺すのは簡単だ」
ガレスは答える。
「だが、それじゃ何も残らん」
「甘いな」
「そうかもな」
ガレスはヴァルターの剣を蹴り飛ばした。
「だから、お前には生きてもらう」
「王都で全部話せ」
「死んだ仲間のことも」
「焼いた村のことも」
「俺たちを捨てた理由も」
ヴァルターの顔から笑みが消えた。
「貴様」
「死んで逃げるな」
その言葉は。
剣より深く。
ヴァルターへ突き刺さった。
◇
一方。
戦場の後方では、バルトンが馬車へ戻ろうとしていた。
「どけ!」
護衛を押し退ける。
「町へ戻るぞ!」
「ですが、閣下!」
「うるさい!」
青い煙。
人質救出。
ヴァルターの敗北。
衛兵の一部はすでに武器を捨てている。
流れは完全に変わっていた。
「馬車を出せ!」
御者へ怒鳴る。
だが。
馬車の前に、一人の女が立っていた。
セレナ。
弓ではなく、細身の剣を抜いている。
「どこへ行かれるのですか」
「貴様!」
バルトンの顔が赤くなる。
「私は領主代理だぞ!」
「代理です」
セレナは訂正した。
「領主ではありません」
「王都には私の味方がいる!」
「誰でしょう」
「貴様ごときが知る必要はない!」
「では、王都で聞きます」
セレナが一歩近づく。
バルトンは護衛の背中へ隠れた。
「殺せ!」
護衛二人が剣を抜く。
一人目が斬り掛かる。
セレナは半歩だけ横へ動いた。
剣を受けず。
相手の手首へ柄を打ち込む。
武器が落ちる。
続けて腹へ膝。
男が崩れる。
二人目の剣を自分の刃で滑らせ、身体を入れ替える。
肘が相手の顎へ入った。
一瞬だった。
護衛二人が地面へ倒れる。
バルトンは口を開けたまま動けない。
「貴方には」
セレナは剣先を向ける。
「話していただくことが山ほどあります」
「待て」
バルトンが後退する。
「金なら払う!」
「不要です」
「地位が欲しいか!」
「結構です」
「なら何が望みだ!」
セレナは静かに答えた。
「記録です」
「貴方が奪った金」
「潰した店」
「追い出した住人」
「殺させた人々」
「すべてを記録へ戻します」
バルトンの背中が馬車へ当たる。
もう逃げ場はない。
「町は」
セレナの剣先が喉元で止まった。
「貴方の財布ではありません」
◇
戦いは。
夜明け前まで続いた。
だが、決着そのものは早かった。
ヴァルターが倒れ。
バルトンが拘束され。
人質が救出されたことで。
戦う理由を失った衛兵たちは、一人ずつ武器を置いた。
灰色の傭兵団だけは抵抗を続けたが、監察隊と黒狼団に挟まれ、やがて降伏した。
火矢が刺さった柵から煙が上がっている。
北門は半分壊れていた。
地面には武器。
折れた矢。
血。
泥。
倒れた者たち。
勝った。
そう思った。
けれど。
戦いが終わった場所に、歓声はなかった。
生き残った者たちは。
ただ荒い息を吐き。
立っていた。
勝利とは。
もっと明るいものだと思っていた。
でも実際は違う。
失わずに勝つことなど。
ほとんどない。
「負傷者を運んでください!」
あーさんの声が砦から響く。
ロベルトとエレナも外へ出てくる。
敵も味方も関係なく、倒れた者を診ていく。
ライラは布と水を抱えて走っていた。
小さな身体で。
自分にできることを探していた。
クリフさんが柵の上から下りてくる。
右腕に矢が刺さっている。
「クリフさん!」
「掠っただけだ」
「刺さってますけど」
「抜けば掠り傷だ」
「それは違うでしょう」
ルガーも槍を杖代わりに歩いてくる。
額から血を流している。
アーサーは門の前に座り込み、両手をだらりと下げていた。
「大丈夫ですか」
俺が声を掛けると。
アーサーはゆっくり顔を上げた。
「腹が減った」
「元気ですね」
「朝飯はまだか」
「門を支えながら何考えてたんですか」
「朝飯だ」
本当に。
この人は最後までこの人だった。
ネッドとミーナは、互いの手を離さずにいた。
言葉は少ない。
ただ。
生きていることを確かめるように。
何度も相手の顔を見ていた。
よっしーが俺の隣へ来る。
片方だけ靴を履いた姿で、砦を見上げる。
「終わったんか」
「たぶん」
「たぶんて」
「まだ分からないでしょう」
「せやな」
空が。
少しずつ白んでいる。
長い夜が終わろうとしていた。
その時。
セレナが俺たちのところへ歩いてきた。
「相良ユウキさんですね」
「なんで名前を?」
「調べました」
「いつの間に」
「監察官ですので」
便利な言葉だった。
「ガレス殿が呼んでいます」
俺たちは彼女についていく。
森の外れ。
ヴァルターが監察隊の兵士たちに拘束されている。
その近くに。
ガレスが立っていた。
肩と脇腹に包帯が巻かれている。
顔色は悪い。
それでも。
倒れずに立っていた。
「無事だったか」
ガレスが言う。
「なんとか」
「人質は」
「全員助かりました」
ガレスは目を閉じる。
僅かに。
肩の力が抜けた。
「そうか」
その一言だけだった。
でも。
その声には。
今まで背負っていたものが、少しだけ軽くなったような響きがあった。
セレナがヴァルターの荷物から回収した鞄を地面へ置く。
「中を確認しました」
帳簿。
命令書。
金貨。
偽造された白鷹隊の紋章。
灰色の傭兵団への支払い記録。
そして。
王都から送られたと思われる封書。
「これでバルトンとヴァルターの罪は立証できます」
カシオンが帳簿を確認する。
「徴収した税の一部が、傭兵へ流れています」
「残りは」
「王都の口座へ送られている」
セレナが一通の封書を持ち上げる。
封蝋は壊れていた。
差出人の名前はない。
ただ。
見慣れない紋章が押されている。
翼を広げた鳥。
その背後に。
三本の塔。
「誰の紋章ですか」
俺が尋ねる。
セレナはすぐに答えなかった。
その表情が。
初めて僅かに曇った。
「王国西部開発院」
「開発院?」
「街道、鉱山、砦、開拓地の管理を担う組織です」
カシオンが封書を読む。
その顔から血の気が引いていく。
「これは」
「何が書いてある」
ガレスが尋ねる。
カシオンは信じられないものを見るように、紙を見つめていた。
「モンテーヌ周辺住民の退去計画」
「退去?」
「違います」
カシオンの声が震える。
「これは」
紙を持つ手に力が入る。
「町そのものを、消す計画です」
誰も言葉を発せなかった。
封書には。
鉱山再開発。
街道拡張。
周辺集落の整理。
不穏分子の排除。
そう書かれていた。
バルトンの違法徴税。
薬草価格の操作。
商人への圧力。
黒狼団への罪のなすり付け。
すべては。
住民を町から追い出すためだった。
「バルトンが黒幕ではなかった」
俺が呟く。
セレナは静かに頷く。
「彼は利益を得ていました」
「ヴァルターも、自分の傭兵団を維持するために協力していた」
「ですが」
封書へ目を落とす。
「計画そのものを立てたのは、別の人物です」
ガレスが笑った。
乾いた。
疲れ切った笑いだった。
「倒しても倒しても、上がいるってわけか」
「王都へ持ち帰ります」
セレナは言った。
「この証拠は、必ず正式な記録にします」
ルガーが鋭い目を向ける。
「信用しろと?」
「いいえ」
セレナは正面から受け止めた。
「見ていてください」
「私が失敗した時は」
銀色の秤と剣の紋章を外し、ルガーへ差し出す。
「この印を王都の中央広場へ投げ捨ててください」
ルガーは受け取らなかった。
しばらくセレナを見つめ。
やがて槍を地面へ突き立てた。
「自分で持っていろ」
「まだ信用したわけではない」
「承知しています」
「だが」
ルガーの視線が。
救出された人々へ向く。
「今日のことは忘れん」
セレナは小さく頭を下げた。
夜が明ける。
朝日が森の向こうから差し込み。
壊れた砦を照らす。
煙。
血。
折れた門。
それでも。
砦は立っていた。
黒狼団も。
町の人々も。
生きていた。
けれど。
モンテーヌを覆っていた灰色の空の向こうには。
さらに大きな影がある。
そのことを。
俺たちは知ってしまった。
⸻
(続く)
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回はモンテーヌ編最大の総力戦となりました。
黒狼団の砦を守るガレスたち。
人質を救出するユウキ、よっしー、レオン、ネッド。
監察官として本当の立場を明かしたセレナ。
そして、ついに決着したガレスとヴァルターの因縁。
ガレスはヴァルターを殺さず、王都で罪を語らせる道を選びました。
また、人質とされていたネッドの妹ミーナたちも無事に救出されています。
しかし。
最後に見つかった命令書によって、バルトンもヴァルターも事件の頂点ではなかったことが判明しました。
モンテーヌを苦しめていた違法徴税や物価操作。
黒狼団へ罪を着せる計画。
その目的は、町の住人を追い出し、周辺地域を再開発することでした。
次回はモンテーヌ編最終話。
戦いの後。
黒狼団と町の人々の選択。
ライラ一家の未来。
ガレスたちの新たな居場所。
そして、ユウキたちの旅立ちを描きます。




