裏切り者
裏切り者
前書き
裏切りとは、
信じていた者が敵になることです。
ですが。
最初から敵だった者よりも、
守りたいものを奪われ、
敵になることを強いられた者の方が、
ずっと苦しいのかもしれません。
誰かを裏切るか。
大切な誰かを失うか。
その二つしか選べない時、
人は正しい選択などできるのでしょうか。
⸻
《主人公・相良ユウキ視点》
「徴税官バルトンの秘書だそうです」
見張りの青年が告げた言葉に、部屋の空気が硬直した。
カシオンの指は閉じた帳簿の上に置かれたまま動かない。
ルガーは壁に立て掛けていた槍を引き寄せ、アーサーは身を起こしただけで狭い部屋をさらに狭くした。
ガレスだけは椅子から立たなかった。
けれど、その目は先ほどまでとは違う。
静かだった。
静か過ぎるほどに。
「一人か」
「はい」
見張りの青年は頷いた。
「護衛らしき男を二人連れています。ただ、門の外で待たせております」
「武器は」
「全員持っています」
「当然だろうな」
ガレスは短く息を吐き、机の上に置かれていた短剣を引き寄せた。
ヴァルターが森へ残した、第三辺境軍団の紋章入りの短剣だった。
刃にはまだ乾き切っていない泥が付着している。
ガレスはそれをしばらく見つめていたが、やがて鞘へ戻した。
「通せ」
ルガーが振り向く。
「頭領」
「ここまで来て追い返しても意味はない」
「罠です」
「だろうな」
ガレスはあっさりと答えた。
「だから会う」
その声には、迷いがなかった。
◇
使者を通す場所として選ばれたのは、砦中央にある食堂だった。
昼間は子どもたちの声や食器の音で賑わう場所だが、今は長机と椅子が端へ寄せられ、広い空間の中央だけが空けられている。
窓はすべて閉められていた。
出入口には黒狼団の男たちが立ち、二階の足場には弓を持った者も配置されている。
そこまでしても、不安は消えなかった。
俺たちはガレスの後ろに立った。
右側にルガーとアーサー。
左側にカシオンとクリフさん。
少し離れたところに、よっしーとあーさん。
レオンは柱の陰に身体を預け、あくびでもしそうな顔で入口を見ていた。
だが、その右手はいつでも短剣を抜ける位置に置かれている。
やがて、扉が開いた。
最初に入ってきたのは、黒い外套を着た二人の男だった。
腰に剣。
胸元にはモンテーヌの衛兵章。
その間を歩いてきた人物を見て、俺は少し意外に思った。
徴税官の秘書。
そう聞いて、俺が勝手に想像していたのは、腹の出た中年男か、威張り散らす役人だった。
だが。
現れたのは女だった。
年齢は二十代後半。
長い灰銀色の髪を首の後ろでまとめ、紺色の上着に細身の黒いズボンを合わせている。
派手さはない。
装飾品も、小さな銀の耳飾りが一つだけ。
ただし、歩き方に隙がなかった。
姿勢が良いというより、いつ襲われても対応できる歩き方だった。
その目は冷静で、食堂へ入った瞬間から出口、窓、階段、梁の上までを短時間で確認している。
役人というより。
軍人。
いや。
もっと別の何かだ。
女はガレスから数歩離れたところで立ち止まり、軽く頭を下げた。
「徴税官バルトン様の秘書、セレナ・ハルトマンと申します」
声は落ち着いていた。
「黒狼団頭領、ガレス殿とお見受けします」
「そうだ」
ガレスは腕を組んだまま答える。
「山賊に殿を付ける役人は初めて見た」
「肩書と礼儀は別のものです」
「随分と口が回るな」
「秘書ですので」
二人の会話には、笑いがなかった。
言葉だけを聞けば穏やかだ。
しかし互いに、相手の喉元へ刃を突き付けているような緊張感があった。
セレナは懐へ手を入れた。
その瞬間、二階の弓兵たちが一斉に弦を引く。
護衛二人も剣の柄へ触れた。
食堂の空気が爆発寸前まで張り詰める。
「待て」
ガレスが片手を上げた。
セレナは動きを止めなかった。
懐から取り出したのは、折り畳まれた一枚の羊皮紙だった。
「徴税官バルトン様からの通達です」
「読め」
セレナは紙を開いた。
「黒狼団は近隣の街道において、複数の商隊を襲撃し、町の住民を誘拐、殺害した疑いがある」
淡々とした声が響く。
「よって三日以内に武器を捨て、全員投降すること。応じない場合、モンテーヌ衛兵隊および領主直属部隊による討伐を開始する」
食堂のあちこちから、低い唸り声が上がった。
「ふざけるな!」
「人を殺したのは俺たちじゃねぇ!」
「どの口で言いやがる!」
アーサーが一歩前へ出るだけで、床板が鈍く鳴った。
護衛二人が剣を抜き掛ける。
だがセレナは振り返りもしなかった。
「静かにしてください」
その言葉は大きくなかった。
それでも、不思議と食堂全体へ届いた。
「これはバルトン様の言葉です。私の言葉ではありません」
「なら、お前はどう思っている」
クリフさんが聞いた。
セレナの視線が動く。
俺たちを一人ずつ見ていく。
クリフさん。
ルガー。
カシオン。
レオン。
そして俺。
僅かな間だった。
だが、彼女が俺たちを観察していることは分かった。
「秘書の意見に意味はありません」
「便利な言葉だな」
ルガーが吐き捨てる。
「自分は命令を伝えただけ。後で何人死んでも、自分には関係がないとでも言うつもりか」
セレナはルガーを見る。
目の色は変わらない。
だが。
ほんの一瞬だけ。
何かが揺れた。
「三日です」
彼女は通達書を机へ置いた。
「それまでに投降してください」
踵を返す。
早い。
あまりにも早過ぎる。
これだけを伝えるために、危険を冒して山賊の砦へ入ったのか。
違和感があった。
ガレスも同じだったらしい。
「待て」
セレナが足を止める。
「ヴァルター・グライスを知っているか」
女の肩が、ごく僅かに動いた。
振り返りはしない。
「存じません」
「嘘だな」
レオンが柱の陰から言った。
セレナの護衛が剣を抜いた。
「貴様!」
「落ち着けよ」
レオンは両手を上げながら笑う。
「俺は嘘を見抜くのが仕事でね」
「情報屋風情が」
「お互い、まともな仕事じゃないだろ」
護衛が前へ出ようとした。
その時。
セレナが片手を上げた。
「下がりなさい」
「しかし」
「命令です」
二人は不満そうに剣を鞘へ戻した。
セレナはようやくこちらを振り向いた。
「三日後」
彼女はガレスを真っ直ぐに見た。
「この砦は包囲されます」
「通達に書いてある」
「いいえ」
僅かに声を落とす。
「衛兵隊だけではありません」
誰も動かなかった。
「何が来る」
ガレスが尋ねる。
セレナは答えない。
代わりに、机の上の通達書を指先で軽く叩いた。
一度。
二度。
三度。
そして、そのまま食堂を出ていった。
護衛二人も後へ続く。
扉が閉まってからも、しばらく誰も口を開かなかった。
やがて、よっしーが首を傾げた。
「なんや、最後のあれ」
「三回」
あーさんが呟く。
「三日後という意味でしょうか」
「それなら口で言ったばかりだ」
カシオンは机へ近づいた。
通達書を持ち上げる。
表を確認し、裏返す。
何もない。
透かす。
火へ翳す。
すると。
羊皮紙の端に、薄い線が浮かび上がった。
「何かあります」
全員が集まる。
火の熱によって現れたのは、小さな文字だった。
【北門を使うな】
その下に。
【鐘が二度鳴る前に、子供を地下へ】
さらに。
【灰色の外套を信じるな】
食堂の空気が変わった。
セレナは、警告を残していった。
「やはり」
レオンが口元を歪める。
「あの女、バルトンの犬じゃない」
「何者なんだ」
俺が尋ねる。
レオンは肩を竦めた。
「さあな。ただ、役人の秘書にしちゃ動きが良過ぎる」
クリフさんも頷く。
「歩き方が軍人だ」
「軍人ではありません」
カシオンが羊皮紙の文字を指でなぞる。
「もっと細かく、周囲を見ていました。護衛される側ではなく、護衛する側の見方です」
「王都の監察官か」
ガレスが言った。
レオンが目を細める。
「可能性はある」
「王都が動いているなら、なぜバルトンを捕らえない」
ルガーの問いに、レオンは答えなかった。
答えられないのだろう。
王都の監察官。
そう聞けば、国が正してくれるように思える。
だが、そんなに簡単なら。
この町は三年も苦しんでいない。
◇
その夜。
砦では、いつもの夕食が始まっていた。
けれど、笑い声は少なかった。
子どもたちは大人たちの表情を敏感に感じ取り、騒ぐこともなくスープを飲んでいる。
入口には見張りが増えた。
北門は封鎖され、地下倉庫には毛布や食料、水が運び込まれていた。
警告をどこまで信じるか。
疑えば何もできない。
信じ過ぎれば罠に掛かる。
結局、できることは両方に備えることだけだった。
俺は食堂の隅で黒パンを千切りながら、周囲を見渡した。
ガレス。
ルガー。
カシオン。
アーサー。
黒狼団の幹部たちは、それぞれ別の場所に座っている。
意図的だった。
誰か一人が襲われても、全員が巻き込まれないためだ。
こんな食事は嫌だった。
同じ場所で飯を食っているのに、互いを疑わなければならない。
悪いのは敵だ。
それなのに、疑いは味方同士を削っていく。
「ユウキさん」
あーさんが小声で呼んだ。
「どうしました」
「あの方」
視線だけを動かす。
食堂の出口近く。
一人の若い男が立っていた。
昼間、使者の到着を知らせに来た見張りの青年だった。
名前は確か。
「ネッドです」
あーさんが囁いた。
「先ほどから、何度も外を気にしています」
言われてみればそうだった。
食事を運ぶふりをして入口へ近づき、外を確認している。
戻ってきても、落ち着かない。
手が震えている。
俺はよっしーを見る。
よっしーも気付いたらしく、僅かに顎を引いた。
クリフさんはすでに立ち上がっていた。
何も言わず、食堂の外へ出る。
その直後。
ネッドも空になった木皿を重ね、裏口へ向かった。
俺とよっしーは目を合わせる。
そのまま少し間を置いて、後を追った。
◇
裏口の外は暗かった。
雲が月を隠し、砦の柵沿いに置かれた松明だけが地面を照らしている。
ネッドは薪置き場の陰へ入っていく。
俺たちは距離を取り、建物の壁に沿って進んだ。
そこには、すでにクリフさんがいた。
指を唇へ当てる。
声が聞こえた。
「……約束が違う」
ネッドの声だった。
震えている。
「今日、返すと言ったじゃないか」
返事は聞こえない。
いや。
誰かがいる。
柵の外。
小さな穴から紙を渡している。
「もう無理だ」
ネッドは必死に声を抑えていた。
「北門のことも、見張りの交代も教えた」
「これ以上はできない」
短い沈黙。
そして。
低い男の声が聞こえた。
「妹がどうなってもいいのか」
ネッドの身体が固まった。
「……やめろ」
「次は、地下倉庫の場所だ」
「子どもを隠す場所を教えろ」
「嫌だ」
初めて。
ネッドがはっきり拒絶した。
「子どもは関係ない」
「お前の妹も子どもだろう」
「……!」
「明日の夜までだ」
「待て!」
柵の外で気配が動く。
ネッドが穴へ手を伸ばした瞬間。
クリフさんの矢が放たれた。
闇の中で男の悲鳴が上がる。
「逃がすな!」
俺たちは走った。
柵の脇にある通用口から外へ回る。
しかし。
森へ飛び込んだ男の姿は、すでに闇に紛れていた。
クリフさんは追わなかった。
足元には、矢が突き刺さった灰色の外套の切れ端が落ちている。
【灰色の外套を信じるな】
セレナの警告。
本当だった。
◇
砦へ戻ると、ネッドは食堂中央に座らされていた。
両手を縄で縛られている。
周囲には黒狼団の者たちが集まり、怒りと戸惑いの入り混じった目を向けていた。
「裏切り者!」
誰かが叫んだ。
「こいつのせいで仲間が死んだんだ!」
「吊るせ!」
「待ってくれ!」
ネッドが顔を上げる。
まだ若い。
二十歳を過ぎたばかりに見える。
その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
「妹を……」
声が裏返る。
「妹を捕まえられたんだ」
ざわめきが止まる。
ネッドには、町に妹がいた。
病気の母親を看ながら、仕立屋で働いている十六歳の妹。
数日前。
灰色の外套を着た男たちに連れ去られた。
返してほしければ、砦の情報を流せ。
そう命じられた。
見張りの配置。
出入りする者。
ガレスの動き。
ライラの両親を保護したこと。
そして。
ヴァルターと接触したことまで。
「全部お前が流したのか」
ルガーの声は冷たかった。
ネッドは俯いた。
「……はい」
「木札を置いたのも」
「違います」
「なら荷車を燃やした場所を教えたのは」
「……はい」
周囲から怒号が上がる。
アーサーが壁へ拳を叩き付けた。
大きな音に、子どもたちが別室で怯える声がした。
あーさんがすぐにそちらへ向かう。
ガレスは黙っていた。
ネッドも何も言わなくなった。
言い訳をする気力すら残っていないように見えた。
「頭領」
ルガーが振り向く。
「規律通りに」
その言葉の意味は、俺にも分かった。
裏切り者は処刑。
共同体を守るためには、そうするしかない。
一人を許せば、次が出る。
そう考えるのが普通だ。
けれど。
ガレスはすぐに答えなかった。
ゆっくりネッドの前へ歩み寄る。
そして。
膝を折り、同じ高さまで腰を下ろした。
「いつからだ」
「……三日前です」
「妹が捕まったのは」
「五日前」
「なぜ言わなかった」
ネッドの顔が歪む。
「言ったら……殺すって」
「誰を」
「妹も」
「砦の子どもも」
涙が床へ落ちる。
「怖かった」
「死ぬのも怖かった」
「でも、それより妹が」
声が続かなくなった。
ガレスはしばらく彼を見ていた。
その横顔からは、何を考えているのか分からない。
やがて。
腰の短剣を抜いた。
周囲が息を呑む。
ネッドは目を閉じた。
「すみません」
小さな声だった。
「頭領」
「みんな」
「すみません」
ガレスの短剣が振り下ろされる。
切れたのは。
ネッドの首ではなかった。
両手を縛っていた縄だった。
「立て」
ネッドが目を開く。
理解できないという顔でガレスを見る。
「でも」
「立てと言った」
ネッドは震えながら立ち上がった。
「お前は裏切った」
ガレスの声が食堂へ響く。
「仲間を危険に晒した」
「死んだ者もいる」
「それは消えない」
ネッドの肩が震える。
「だから許しはしない」
周囲の者たちも黙って聞いている。
「だが」
ガレスは続けた。
「妹を守りたかった気持ちまで、俺は罪とは言わん」
ルガーが眉を寄せる。
「頭領」
「こいつを殺せば、妹は戻るのか」
「戻りません」
「死んだ仲間は」
「戻りません」
「なら、使える命を捨てるな」
ルガーは唇を噛んだ。
「甘過ぎます」
「かもしれん」
「また裏切ったらどうするんです」
ガレスはネッドを見たまま答えた。
「その時は俺が殺す」
静かな声だった。
「それまでは、こいつに自分のしたことを背負わせる」
ガレスはネッドの肩を掴む。
「妹を助けたいか」
「……はい」
「仲間へ償いたいか」
「はい!」
ネッドは叫ぶように答えた。
ガレスは立ち上がった。
「なら敵のところへ戻れ」
誰もが驚いた。
「情報を流せ」
「嘘の情報をな」
カシオンが目を見開く。
すぐに意図を理解したらしい。
「逆に利用するのですか」
「そうだ」
ガレスは周囲を見渡した。
「奴らはネッドを通じて、こちらの動きを知っていると思っている」
「なら、そう思わせておけばいい」
レオンが笑った。
「なるほど」
「包囲する側に、罠を踏ませるわけか」
クリフさんも頷く。
「北門から逃げると伝える」
「実際は東の森へ誘導する」
カシオンはすでに机へ地図を広げていた。
「東には古い採掘坑があります」
「崩落している場所も多い」
「少人数なら通れますが、部隊では動けません」
「そこへ偽情報で誘い込む」
ルガーが地図を見る。
まだ納得していない顔だった。
だが、反対もしなかった。
「妹はどうする」
俺が聞いた。
ガレスは答える。
「助ける」
「どうやって」
「町へ入る」
食堂の空気が再び張り詰めた。
「バルトンの屋敷か」
よっしーが尋ねる。
「おそらくな」
「罠かもしれへんで」
「分かってる」
ガレスは地図の上へ手を置いた。
「だから二手に分かれる」
「一方は砦を守る」
「もう一方は町へ入り、捕らわれている者と証拠を奪う」
レオンが柱から離れる。
「その役目、俺向きだな」
「俺も行く」
俺は言った。
よっしーがすぐ横へ並ぶ。
「ほなワイもや」
「あーさんは砦へ残ってください」
俺が振り向くと、あーさんは一瞬だけ不満そうな顔をした。
けれど、地下へ避難する子どもたちを見て、静かに頷いた。
「分かりました」
「皆さんが戻る場所を守ります」
その言葉は優しかった。
けれど、とても強かった。
◇
作戦会議は夜更けまで続いた。
砦を守るのはガレス、ルガー、アーサー、クリフさん。
避難誘導と物資管理はカシオンとあーさん。
町へ潜入するのは俺、よっしー、レオン。
そして。
ネッド。
妹が囚われている場所へ案内できるのは、彼だけだった。
明日の夕方。
ネッドは敵側へ、偽の情報を渡す。
黒狼団は夜明け前、北門から子どもたちを逃がす。
そう伝える。
敵が北側へ兵を集めた隙に、俺たちは町へ入る。
ただし。
セレナの警告では北門を使うな、とあった。
つまり、敵は北門に何かを仕掛けている。
偽情報が罠として機能するか。
それとも、こちらの意図まで読まれているのか。
誰にも分からない。
◇
会議が終わった頃には、月は真上を過ぎていた。
俺は外へ出た。
砦の中では、まだ誰も眠っていない。
武器を研ぐ音。
荷物を運ぶ足音。
子どもを安心させるための、わざと明るい笑い声。
その全部が混ざり合っていた。
ネッドは柵の近くに立ち、暗い森を見つめている。
俺が隣へ立つと、彼は深く頭を下げた。
「すみません」
「俺に謝っても仕方ない」
「分かっています」
声が震える。
「でも、言わないと立っていられなくて」
俺は何も答えなかった。
正直。
腹は立っていた。
こいつが情報を流したことで、誰かが死んだ。
子どもたちも危険に晒された。
事情があったから仕方ない。
そんな簡単な話ではない。
けれど。
もし自分の家族が人質に取られたら。
俺は絶対に仲間を裏切らないと言い切れるだろうか。
無理だった。
そんな格好良いことは言えない。
「妹さん」
俺は尋ねる。
「名前は」
「ミーナです」
「助けよう」
ネッドが顔を上げる。
「助けて」
言葉が詰まった。
「助けてください」
「そのために行く」
ネッドは何度も頷いた。
◇
その時だった。
砦の見張り台から、鐘の音が響いた。
一度。
全員が動きを止める。
続いて。
二度目。
【鐘が二度鳴る前に、子供を地下へ】
セレナの警告。
だが。
まだ夜明け前ではない。
予定より早い。
見張り台から声が上がった。
「森に火だ!」
俺は柵へ駆け寄った。
暗い木々の向こう。
赤い光が幾つも浮かんでいる。
松明。
十や二十ではない。
森全体を囲むように、数え切れない火が動いていた。
「敵襲!!」
鐘が激しく打ち鳴らされる。
砦の空気が一瞬で変わった。
子どもたちの泣き声。
走る大人たち。
剣を抜く音。
弓へ矢をつがえる音。
ガレスが斧を担ぎ、中央広場へ出る。
その表情に驚きはなかった。
まるで。
こうなることを最初から知っていたようだった。
森の中から、低い角笛が響く。
一度。
二度。
三度。
松明の群れが止まる。
そして。
闇の向こうから、大きな声が響いた。
「黒狼団へ告ぐ!」
「武器を捨て、門を開け!」
「従わぬ場合!」
「砦にいる者を一人残らず反逆者として処刑する!」
泣いていた子どもたちが、さらに強く母親へしがみつく。
ライラはエレナの手を握りながら、青ざめていた。
ガレスは門の上へ登る。
柵の向こうを見下ろす。
松明の海。
衛兵。
傭兵。
灰色の外套を着た男たち。
そして後方には。
黒い馬に乗ったヴァルターの姿があった。
その隣。
豪華な馬車の窓から、太った男が顔を覗かせる。
徴税官バルトン。
ついに。
本人が現れた。
ガレスは斧を肩へ担いだ。
「三日じゃなかったのか」
門の下から、バルトンの笑い声が上がる。
「山賊との約束など、守る必要があるのかね?」
その声を聞いた瞬間。
ネッドが絶望したように呟いた。
「違う」
「何が」
俺が聞く。
ネッドは松明の向こうを指差した。
灰色の外套を着た男たちの間。
縄で繋がれた十人ほどの人影がいる。
女。
老人。
商人。
そして。
一番端に。
小柄な少女がいた。
「ミーナ……」
ネッドが柵へ縋り付く。
「妹です」
ヴァルターが剣を抜いた。
切っ先を、捕らえた人々へ向ける。
「門を開けろ」
その声は、砦の中まで冷たく届いた。
「さもなくば」
「一人ずつ殺す」
ガレスの手が、斧の柄を強く握り締める。
門を開けば。
砦の全員が殺される。
開かなければ。
捕らえられた人々が殺される。
選択の時間はない。
ヴァルターの剣が上がる。
その先にいるのは。
ネッドの妹、ミーナだった。
「始めろ」
剣が振り下ろされた。
その瞬間。
森の反対側から、一筋の矢が飛んだ。
金属音。
ヴァルターの剣が弾かれる。
誰もが振り向いた。
木々の間。
灰銀色の髪が風に揺れる。
徴税官の秘書。
セレナ・ハルトマンが弓を構えて立っていた。
ただし。
その胸にあるのは、バルトンの紋章ではない。
銀色の秤と剣。
王都監査局の紋章だった。
「王国監査局、特別監察官セレナ・ハルトマン」
彼女は二本目の矢をつがえる。
「徴税官バルトン」
「横領、違法徴税、誘拐、殺人および反逆容疑により」
その瞳が鋭く細められる。
「貴殿を拘束します」
森の空気が震えた。
そして。
モンテーヌ最後の戦いが始まった。
⸻
(続く)
後書き
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は、砦内部から情報を流していたネッドの正体が明らかになりました。
彼は黒狼団を憎んでいたわけでも、金で仲間を売ったわけでもありません。
妹ミーナを人質に取られ、選択を強いられていました。
もちろん、事情があれば裏切りが消えるわけではありません。
被害も、死んだ者も戻りません。
それでもガレスは、ネッドを処刑するのではなく、責任を背負わせる道を選びました。
そして終盤。
バルトンとヴァルターによる砦への総攻撃。
人質にされた町の人々。
さらに、徴税官の秘書として現れたセレナの本当の身分も判明しました。
次回はモンテーヌ編最大の総力戦です。
ガレスとヴァルター。
ルガーと灰色の傭兵団。
クリフの狙撃。
アーサーの門防衛。
レオン、ユウキ、よっしーによる人質救出。
それぞれの戦いが同時に動き始めます。




