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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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裏切り者

裏切り者


前書き


裏切りとは、


信じていた者が敵になることです。


ですが。


最初から敵だった者よりも、


守りたいものを奪われ、


敵になることを強いられた者の方が、


ずっと苦しいのかもしれません。


誰かを裏切るか。


大切な誰かを失うか。


その二つしか選べない時、


人は正しい選択などできるのでしょうか。



《主人公・相良ユウキ視点》


「徴税官バルトンの秘書だそうです」


見張りの青年が告げた言葉に、部屋の空気が硬直した。


カシオンの指は閉じた帳簿の上に置かれたまま動かない。


ルガーは壁に立て掛けていた槍を引き寄せ、アーサーは身を起こしただけで狭い部屋をさらに狭くした。


ガレスだけは椅子から立たなかった。


けれど、その目は先ほどまでとは違う。


静かだった。


静か過ぎるほどに。


「一人か」


「はい」


見張りの青年は頷いた。


「護衛らしき男を二人連れています。ただ、門の外で待たせております」


「武器は」


「全員持っています」


「当然だろうな」


ガレスは短く息を吐き、机の上に置かれていた短剣を引き寄せた。


ヴァルターが森へ残した、第三辺境軍団の紋章入りの短剣だった。


刃にはまだ乾き切っていない泥が付着している。


ガレスはそれをしばらく見つめていたが、やがて鞘へ戻した。


「通せ」


ルガーが振り向く。


「頭領」


「ここまで来て追い返しても意味はない」


「罠です」


「だろうな」


ガレスはあっさりと答えた。


「だから会う」


その声には、迷いがなかった。



使者を通す場所として選ばれたのは、砦中央にある食堂だった。


昼間は子どもたちの声や食器の音で賑わう場所だが、今は長机と椅子が端へ寄せられ、広い空間の中央だけが空けられている。


窓はすべて閉められていた。


出入口には黒狼団の男たちが立ち、二階の足場には弓を持った者も配置されている。


そこまでしても、不安は消えなかった。


俺たちはガレスの後ろに立った。


右側にルガーとアーサー。


左側にカシオンとクリフさん。


少し離れたところに、よっしーとあーさん。


レオンは柱の陰に身体を預け、あくびでもしそうな顔で入口を見ていた。


だが、その右手はいつでも短剣を抜ける位置に置かれている。


やがて、扉が開いた。


最初に入ってきたのは、黒い外套を着た二人の男だった。


腰に剣。


胸元にはモンテーヌの衛兵章。


その間を歩いてきた人物を見て、俺は少し意外に思った。


徴税官の秘書。


そう聞いて、俺が勝手に想像していたのは、腹の出た中年男か、威張り散らす役人だった。


だが。


現れたのは女だった。


年齢は二十代後半。


長い灰銀色の髪を首の後ろでまとめ、紺色の上着に細身の黒いズボンを合わせている。


派手さはない。


装飾品も、小さな銀の耳飾りが一つだけ。


ただし、歩き方に隙がなかった。


姿勢が良いというより、いつ襲われても対応できる歩き方だった。


その目は冷静で、食堂へ入った瞬間から出口、窓、階段、梁の上までを短時間で確認している。


役人というより。


軍人。


いや。


もっと別の何かだ。


女はガレスから数歩離れたところで立ち止まり、軽く頭を下げた。


「徴税官バルトン様の秘書、セレナ・ハルトマンと申します」


声は落ち着いていた。


「黒狼団頭領、ガレス殿とお見受けします」


「そうだ」


ガレスは腕を組んだまま答える。


「山賊に殿を付ける役人は初めて見た」


「肩書と礼儀は別のものです」


「随分と口が回るな」


「秘書ですので」


二人の会話には、笑いがなかった。


言葉だけを聞けば穏やかだ。


しかし互いに、相手の喉元へ刃を突き付けているような緊張感があった。


セレナは懐へ手を入れた。


その瞬間、二階の弓兵たちが一斉に弦を引く。


護衛二人も剣の柄へ触れた。


食堂の空気が爆発寸前まで張り詰める。


「待て」


ガレスが片手を上げた。


セレナは動きを止めなかった。


懐から取り出したのは、折り畳まれた一枚の羊皮紙だった。


「徴税官バルトン様からの通達です」


「読め」


セレナは紙を開いた。


「黒狼団は近隣の街道において、複数の商隊を襲撃し、町の住民を誘拐、殺害した疑いがある」


淡々とした声が響く。


「よって三日以内に武器を捨て、全員投降すること。応じない場合、モンテーヌ衛兵隊および領主直属部隊による討伐を開始する」


食堂のあちこちから、低い唸り声が上がった。


「ふざけるな!」


「人を殺したのは俺たちじゃねぇ!」


「どの口で言いやがる!」


アーサーが一歩前へ出るだけで、床板が鈍く鳴った。


護衛二人が剣を抜き掛ける。


だがセレナは振り返りもしなかった。


「静かにしてください」


その言葉は大きくなかった。


それでも、不思議と食堂全体へ届いた。


「これはバルトン様の言葉です。私の言葉ではありません」


「なら、お前はどう思っている」


クリフさんが聞いた。


セレナの視線が動く。


俺たちを一人ずつ見ていく。


クリフさん。


ルガー。


カシオン。


レオン。


そして俺。


僅かな間だった。


だが、彼女が俺たちを観察していることは分かった。


「秘書の意見に意味はありません」


「便利な言葉だな」


ルガーが吐き捨てる。


「自分は命令を伝えただけ。後で何人死んでも、自分には関係がないとでも言うつもりか」


セレナはルガーを見る。


目の色は変わらない。


だが。


ほんの一瞬だけ。


何かが揺れた。


「三日です」


彼女は通達書を机へ置いた。


「それまでに投降してください」


踵を返す。


早い。


あまりにも早過ぎる。


これだけを伝えるために、危険を冒して山賊の砦へ入ったのか。


違和感があった。


ガレスも同じだったらしい。


「待て」


セレナが足を止める。


「ヴァルター・グライスを知っているか」


女の肩が、ごく僅かに動いた。


振り返りはしない。


「存じません」


「嘘だな」


レオンが柱の陰から言った。


セレナの護衛が剣を抜いた。


「貴様!」


「落ち着けよ」


レオンは両手を上げながら笑う。


「俺は嘘を見抜くのが仕事でね」


「情報屋風情が」


「お互い、まともな仕事じゃないだろ」


護衛が前へ出ようとした。


その時。


セレナが片手を上げた。


「下がりなさい」


「しかし」


「命令です」


二人は不満そうに剣を鞘へ戻した。


セレナはようやくこちらを振り向いた。


「三日後」


彼女はガレスを真っ直ぐに見た。


「この砦は包囲されます」


「通達に書いてある」


「いいえ」


僅かに声を落とす。


「衛兵隊だけではありません」


誰も動かなかった。


「何が来る」


ガレスが尋ねる。


セレナは答えない。


代わりに、机の上の通達書を指先で軽く叩いた。


一度。


二度。


三度。


そして、そのまま食堂を出ていった。


護衛二人も後へ続く。


扉が閉まってからも、しばらく誰も口を開かなかった。


やがて、よっしーが首を傾げた。


「なんや、最後のあれ」


「三回」


あーさんが呟く。


「三日後という意味でしょうか」


「それなら口で言ったばかりだ」


カシオンは机へ近づいた。


通達書を持ち上げる。


表を確認し、裏返す。


何もない。


透かす。


火へ翳す。


すると。


羊皮紙の端に、薄い線が浮かび上がった。


「何かあります」


全員が集まる。


火の熱によって現れたのは、小さな文字だった。


【北門を使うな】


その下に。


【鐘が二度鳴る前に、子供を地下へ】


さらに。


【灰色の外套を信じるな】


食堂の空気が変わった。


セレナは、警告を残していった。


「やはり」


レオンが口元を歪める。


「あの女、バルトンの犬じゃない」


「何者なんだ」


俺が尋ねる。


レオンは肩を竦めた。


「さあな。ただ、役人の秘書にしちゃ動きが良過ぎる」


クリフさんも頷く。


「歩き方が軍人だ」


「軍人ではありません」


カシオンが羊皮紙の文字を指でなぞる。


「もっと細かく、周囲を見ていました。護衛される側ではなく、護衛する側の見方です」


「王都の監察官か」


ガレスが言った。


レオンが目を細める。


「可能性はある」


「王都が動いているなら、なぜバルトンを捕らえない」


ルガーの問いに、レオンは答えなかった。


答えられないのだろう。


王都の監察官。


そう聞けば、国が正してくれるように思える。


だが、そんなに簡単なら。


この町は三年も苦しんでいない。



その夜。


砦では、いつもの夕食が始まっていた。


けれど、笑い声は少なかった。


子どもたちは大人たちの表情を敏感に感じ取り、騒ぐこともなくスープを飲んでいる。


入口には見張りが増えた。


北門は封鎖され、地下倉庫には毛布や食料、水が運び込まれていた。


警告をどこまで信じるか。


疑えば何もできない。


信じ過ぎれば罠に掛かる。


結局、できることは両方に備えることだけだった。


俺は食堂の隅で黒パンを千切りながら、周囲を見渡した。


ガレス。


ルガー。


カシオン。


アーサー。


黒狼団の幹部たちは、それぞれ別の場所に座っている。


意図的だった。


誰か一人が襲われても、全員が巻き込まれないためだ。


こんな食事は嫌だった。


同じ場所で飯を食っているのに、互いを疑わなければならない。


悪いのは敵だ。


それなのに、疑いは味方同士を削っていく。


「ユウキさん」


あーさんが小声で呼んだ。


「どうしました」


「あの方」


視線だけを動かす。


食堂の出口近く。


一人の若い男が立っていた。


昼間、使者の到着を知らせに来た見張りの青年だった。


名前は確か。


「ネッドです」


あーさんが囁いた。


「先ほどから、何度も外を気にしています」


言われてみればそうだった。


食事を運ぶふりをして入口へ近づき、外を確認している。


戻ってきても、落ち着かない。


手が震えている。


俺はよっしーを見る。


よっしーも気付いたらしく、僅かに顎を引いた。


クリフさんはすでに立ち上がっていた。


何も言わず、食堂の外へ出る。


その直後。


ネッドも空になった木皿を重ね、裏口へ向かった。


俺とよっしーは目を合わせる。


そのまま少し間を置いて、後を追った。



裏口の外は暗かった。


雲が月を隠し、砦の柵沿いに置かれた松明だけが地面を照らしている。


ネッドは薪置き場の陰へ入っていく。


俺たちは距離を取り、建物の壁に沿って進んだ。


そこには、すでにクリフさんがいた。


指を唇へ当てる。


声が聞こえた。


「……約束が違う」


ネッドの声だった。


震えている。


「今日、返すと言ったじゃないか」


返事は聞こえない。


いや。


誰かがいる。


柵の外。


小さな穴から紙を渡している。


「もう無理だ」


ネッドは必死に声を抑えていた。


「北門のことも、見張りの交代も教えた」


「これ以上はできない」


短い沈黙。


そして。


低い男の声が聞こえた。


「妹がどうなってもいいのか」


ネッドの身体が固まった。


「……やめろ」


「次は、地下倉庫の場所だ」


「子どもを隠す場所を教えろ」


「嫌だ」


初めて。


ネッドがはっきり拒絶した。


「子どもは関係ない」


「お前の妹も子どもだろう」


「……!」


「明日の夜までだ」


「待て!」


柵の外で気配が動く。


ネッドが穴へ手を伸ばした瞬間。


クリフさんの矢が放たれた。


闇の中で男の悲鳴が上がる。


「逃がすな!」


俺たちは走った。


柵の脇にある通用口から外へ回る。


しかし。


森へ飛び込んだ男の姿は、すでに闇に紛れていた。


クリフさんは追わなかった。


足元には、矢が突き刺さった灰色の外套の切れ端が落ちている。


【灰色の外套を信じるな】


セレナの警告。


本当だった。



砦へ戻ると、ネッドは食堂中央に座らされていた。


両手を縄で縛られている。


周囲には黒狼団の者たちが集まり、怒りと戸惑いの入り混じった目を向けていた。


「裏切り者!」


誰かが叫んだ。


「こいつのせいで仲間が死んだんだ!」


「吊るせ!」


「待ってくれ!」


ネッドが顔を上げる。


まだ若い。


二十歳を過ぎたばかりに見える。


その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。


「妹を……」


声が裏返る。


「妹を捕まえられたんだ」


ざわめきが止まる。


ネッドには、町に妹がいた。


病気の母親を看ながら、仕立屋で働いている十六歳の妹。


数日前。


灰色の外套を着た男たちに連れ去られた。


返してほしければ、砦の情報を流せ。


そう命じられた。


見張りの配置。


出入りする者。


ガレスの動き。


ライラの両親を保護したこと。


そして。


ヴァルターと接触したことまで。


「全部お前が流したのか」


ルガーの声は冷たかった。


ネッドは俯いた。


「……はい」


「木札を置いたのも」


「違います」


「なら荷車を燃やした場所を教えたのは」


「……はい」


周囲から怒号が上がる。


アーサーが壁へ拳を叩き付けた。


大きな音に、子どもたちが別室で怯える声がした。


あーさんがすぐにそちらへ向かう。


ガレスは黙っていた。


ネッドも何も言わなくなった。


言い訳をする気力すら残っていないように見えた。


「頭領」


ルガーが振り向く。


「規律通りに」


その言葉の意味は、俺にも分かった。


裏切り者は処刑。


共同体を守るためには、そうするしかない。


一人を許せば、次が出る。


そう考えるのが普通だ。


けれど。


ガレスはすぐに答えなかった。


ゆっくりネッドの前へ歩み寄る。


そして。


膝を折り、同じ高さまで腰を下ろした。


「いつからだ」


「……三日前です」


「妹が捕まったのは」


「五日前」


「なぜ言わなかった」


ネッドの顔が歪む。


「言ったら……殺すって」


「誰を」


「妹も」


「砦の子どもも」


涙が床へ落ちる。


「怖かった」


「死ぬのも怖かった」


「でも、それより妹が」


声が続かなくなった。


ガレスはしばらく彼を見ていた。


その横顔からは、何を考えているのか分からない。


やがて。


腰の短剣を抜いた。


周囲が息を呑む。


ネッドは目を閉じた。


「すみません」


小さな声だった。


「頭領」


「みんな」


「すみません」


ガレスの短剣が振り下ろされる。


切れたのは。


ネッドの首ではなかった。


両手を縛っていた縄だった。


「立て」


ネッドが目を開く。


理解できないという顔でガレスを見る。


「でも」


「立てと言った」


ネッドは震えながら立ち上がった。


「お前は裏切った」


ガレスの声が食堂へ響く。


「仲間を危険に晒した」


「死んだ者もいる」


「それは消えない」


ネッドの肩が震える。


「だから許しはしない」


周囲の者たちも黙って聞いている。


「だが」


ガレスは続けた。


「妹を守りたかった気持ちまで、俺は罪とは言わん」


ルガーが眉を寄せる。


「頭領」


「こいつを殺せば、妹は戻るのか」


「戻りません」


「死んだ仲間は」


「戻りません」


「なら、使える命を捨てるな」


ルガーは唇を噛んだ。


「甘過ぎます」


「かもしれん」


「また裏切ったらどうするんです」


ガレスはネッドを見たまま答えた。


「その時は俺が殺す」


静かな声だった。


「それまでは、こいつに自分のしたことを背負わせる」


ガレスはネッドの肩を掴む。


「妹を助けたいか」


「……はい」


「仲間へ償いたいか」


「はい!」


ネッドは叫ぶように答えた。


ガレスは立ち上がった。


「なら敵のところへ戻れ」


誰もが驚いた。


「情報を流せ」


「嘘の情報をな」


カシオンが目を見開く。


すぐに意図を理解したらしい。


「逆に利用するのですか」


「そうだ」


ガレスは周囲を見渡した。


「奴らはネッドを通じて、こちらの動きを知っていると思っている」


「なら、そう思わせておけばいい」


レオンが笑った。


「なるほど」


「包囲する側に、罠を踏ませるわけか」


クリフさんも頷く。


「北門から逃げると伝える」


「実際は東の森へ誘導する」


カシオンはすでに机へ地図を広げていた。


「東には古い採掘坑があります」


「崩落している場所も多い」


「少人数なら通れますが、部隊では動けません」


「そこへ偽情報で誘い込む」


ルガーが地図を見る。


まだ納得していない顔だった。


だが、反対もしなかった。


「妹はどうする」


俺が聞いた。


ガレスは答える。


「助ける」


「どうやって」


「町へ入る」


食堂の空気が再び張り詰めた。


「バルトンの屋敷か」


よっしーが尋ねる。


「おそらくな」


「罠かもしれへんで」


「分かってる」


ガレスは地図の上へ手を置いた。


「だから二手に分かれる」


「一方は砦を守る」


「もう一方は町へ入り、捕らわれている者と証拠を奪う」


レオンが柱から離れる。


「その役目、俺向きだな」


「俺も行く」


俺は言った。


よっしーがすぐ横へ並ぶ。


「ほなワイもや」


「あーさんは砦へ残ってください」


俺が振り向くと、あーさんは一瞬だけ不満そうな顔をした。


けれど、地下へ避難する子どもたちを見て、静かに頷いた。


「分かりました」


「皆さんが戻る場所を守ります」


その言葉は優しかった。


けれど、とても強かった。



作戦会議は夜更けまで続いた。


砦を守るのはガレス、ルガー、アーサー、クリフさん。


避難誘導と物資管理はカシオンとあーさん。


町へ潜入するのは俺、よっしー、レオン。


そして。


ネッド。


妹が囚われている場所へ案内できるのは、彼だけだった。


明日の夕方。


ネッドは敵側へ、偽の情報を渡す。


黒狼団は夜明け前、北門から子どもたちを逃がす。


そう伝える。


敵が北側へ兵を集めた隙に、俺たちは町へ入る。


ただし。


セレナの警告では北門を使うな、とあった。


つまり、敵は北門に何かを仕掛けている。


偽情報が罠として機能するか。


それとも、こちらの意図まで読まれているのか。


誰にも分からない。



会議が終わった頃には、月は真上を過ぎていた。


俺は外へ出た。


砦の中では、まだ誰も眠っていない。


武器を研ぐ音。


荷物を運ぶ足音。


子どもを安心させるための、わざと明るい笑い声。


その全部が混ざり合っていた。


ネッドは柵の近くに立ち、暗い森を見つめている。


俺が隣へ立つと、彼は深く頭を下げた。


「すみません」


「俺に謝っても仕方ない」


「分かっています」


声が震える。


「でも、言わないと立っていられなくて」


俺は何も答えなかった。


正直。


腹は立っていた。


こいつが情報を流したことで、誰かが死んだ。


子どもたちも危険に晒された。


事情があったから仕方ない。


そんな簡単な話ではない。


けれど。


もし自分の家族が人質に取られたら。


俺は絶対に仲間を裏切らないと言い切れるだろうか。


無理だった。


そんな格好良いことは言えない。


「妹さん」


俺は尋ねる。


「名前は」


「ミーナです」


「助けよう」


ネッドが顔を上げる。


「助けて」


言葉が詰まった。


「助けてください」


「そのために行く」


ネッドは何度も頷いた。



その時だった。


砦の見張り台から、鐘の音が響いた。


一度。


全員が動きを止める。


続いて。


二度目。


【鐘が二度鳴る前に、子供を地下へ】


セレナの警告。


だが。


まだ夜明け前ではない。


予定より早い。


見張り台から声が上がった。


「森に火だ!」


俺は柵へ駆け寄った。


暗い木々の向こう。


赤い光が幾つも浮かんでいる。


松明。


十や二十ではない。


森全体を囲むように、数え切れない火が動いていた。


「敵襲!!」


鐘が激しく打ち鳴らされる。


砦の空気が一瞬で変わった。


子どもたちの泣き声。


走る大人たち。


剣を抜く音。


弓へ矢をつがえる音。


ガレスが斧を担ぎ、中央広場へ出る。


その表情に驚きはなかった。


まるで。


こうなることを最初から知っていたようだった。


森の中から、低い角笛が響く。


一度。


二度。


三度。


松明の群れが止まる。


そして。


闇の向こうから、大きな声が響いた。


「黒狼団へ告ぐ!」


「武器を捨て、門を開け!」


「従わぬ場合!」


「砦にいる者を一人残らず反逆者として処刑する!」


泣いていた子どもたちが、さらに強く母親へしがみつく。


ライラはエレナの手を握りながら、青ざめていた。


ガレスは門の上へ登る。


柵の向こうを見下ろす。


松明の海。


衛兵。


傭兵。


灰色の外套を着た男たち。


そして後方には。


黒い馬に乗ったヴァルターの姿があった。


その隣。


豪華な馬車の窓から、太った男が顔を覗かせる。


徴税官バルトン。


ついに。


本人が現れた。


ガレスは斧を肩へ担いだ。


「三日じゃなかったのか」


門の下から、バルトンの笑い声が上がる。


「山賊との約束など、守る必要があるのかね?」


その声を聞いた瞬間。


ネッドが絶望したように呟いた。


「違う」


「何が」


俺が聞く。


ネッドは松明の向こうを指差した。


灰色の外套を着た男たちの間。


縄で繋がれた十人ほどの人影がいる。


女。


老人。


商人。


そして。


一番端に。


小柄な少女がいた。


「ミーナ……」


ネッドが柵へ縋り付く。


「妹です」


ヴァルターが剣を抜いた。


切っ先を、捕らえた人々へ向ける。


「門を開けろ」


その声は、砦の中まで冷たく届いた。


「さもなくば」


「一人ずつ殺す」


ガレスの手が、斧の柄を強く握り締める。


門を開けば。


砦の全員が殺される。


開かなければ。


捕らえられた人々が殺される。


選択の時間はない。


ヴァルターの剣が上がる。


その先にいるのは。


ネッドの妹、ミーナだった。


「始めろ」


剣が振り下ろされた。


その瞬間。


森の反対側から、一筋の矢が飛んだ。


金属音。


ヴァルターの剣が弾かれる。


誰もが振り向いた。


木々の間。


灰銀色の髪が風に揺れる。


徴税官の秘書。


セレナ・ハルトマンが弓を構えて立っていた。


ただし。


その胸にあるのは、バルトンの紋章ではない。


銀色の秤と剣。


王都監査局の紋章だった。


「王国監査局、特別監察官セレナ・ハルトマン」


彼女は二本目の矢をつがえる。


「徴税官バルトン」


「横領、違法徴税、誘拐、殺人および反逆容疑により」


その瞳が鋭く細められる。


「貴殿を拘束します」


森の空気が震えた。


そして。


モンテーヌ最後の戦いが始まった。



(続く)


後書き


ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回は、砦内部から情報を流していたネッドの正体が明らかになりました。


彼は黒狼団を憎んでいたわけでも、金で仲間を売ったわけでもありません。


妹ミーナを人質に取られ、選択を強いられていました。


もちろん、事情があれば裏切りが消えるわけではありません。


被害も、死んだ者も戻りません。


それでもガレスは、ネッドを処刑するのではなく、責任を背負わせる道を選びました。


そして終盤。


バルトンとヴァルターによる砦への総攻撃。


人質にされた町の人々。


さらに、徴税官の秘書として現れたセレナの本当の身分も判明しました。



次回はモンテーヌ編最大の総力戦です。


ガレスとヴァルター。


ルガーと灰色の傭兵団。


クリフの狙撃。


アーサーの門防衛。


レオン、ユウキ、よっしーによる人質救出。


それぞれの戦いが同時に動き始めます。

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