北の山道にて
ステルネ・ツィフを出立したのは、朝日が山の稜線を越えたばかりの頃だった。
町の背後には霜を被った針葉樹の森が広がり、白く霞んだ息がゆっくりと空へ昇っていく。
石橋を渡るたび、靴底の霜が“ぱきっ”と音を立てた。
「さっむ〜……! 祭りの熱気どこ行ったんや」
よっしーが肩をすくめる。
「昨日あれだけ踊ってたのに、よく筋肉痛になりませんでしたね」あーさんが微笑んだ。
「それが日頃の鍛え……いや、ちゃうな。関西のノリ筋や!」
「ノリ筋とは新しいですわね」
軽口に、ニーヤが尻尾をぴんと立てる。「ノリ筋、おいしいですニャ?」
「食べ物やない!」
朝霧の道に笑い声が広がる。
しかし山道に入ると、風の色が変わった。
岩壁の隙間から吹き抜ける空気は冷たく、どこか湿っている。
小川が凍りかけ、氷の膜の下で水がゆっくりと動いていた。
ユウキは足を止め、振り返る。遠くに、もう小さくなった星の町が見えた。
提灯の残光がまだ薄く揺らいでいるように見えた。
「……いい町だったな」
「うむ。おぬしの目に星が宿っておる」ニーヤが尻尾をくねらせる。
「おいおい、ロマンチック発言やな」よっしーがからかう。
ユウキは笑いながらも、どこか目を細めていた。
胸の奥に、昨夜の鐘の響きがまだ残っていたのだ。鳴らさぬ鐘――静かな祈りの余韻。
前を歩くクリフが、ふと足を止めた。
「……ユウキ、右足の紐、緩んでるぞ」
「え、あ……ほんとだ」
クリフはしゃがみ込み、手早く結び直す。
「こういう坂道じゃ、一つの結び目が命取りになる。歩くのは速さより安定だ」
「……うん。ありがとう」
「気にするな。俺も昔、似たような場所で転んだことがある。師匠にどやされたっけな」
彼の口調はいつも通り寡黙だが、その横顔にはわずかに懐かしげな笑みがあった。
風が強くなり、マントの裾がはためく。
ユウキは小さく呟いた。
「クリフってさ、なんか兄貴みたいだな」
「兄貴ならもっと説教くさいさ」
「十分くさいよ」
「そうか?」
二人の会話に、よっしーが笑う。「お、なんや青春してるやん。背中に夕陽しょってるで!」
「朝だよ、今」ユウキが即座に突っ込み、また笑いが起きた。
あーさんが微かに二鈴を鳴らした。
「どうぞお足もと、お気をつけあそばせ。凍結の坂は油断なりませぬ」
ニーヤが前に出て、猫のような身軽さで先を探る。「霜の先に、風の匂い……何かありますニャ」
その言葉に、クリフが即座に手を挙げて合図する。
「止まれ」
全員が静止した。前方の木々の陰で、枝がざわりと揺れた。
ユウキの背筋が伸びる。
しかし、出てきたのは一頭の白い山ヤギだった。
よっしーが肩を落とす。「脅かすなや、心臓止まるか思たわ」
「まあ、命は鳴らさぬ鐘で守られたということですわ」あーさんが小さく笑った。
山道をさらに進むと、谷の向こうに雲が割れ、光が差した。
太陽が氷の斜面を照らし、万華鏡のような輝きを放つ。
その美しさに、一行は思わず足を止めた。
「……この世界って、たまに反則みたいに綺麗だよな」ユウキが呟く。
「人の世でも、似たような瞬間はある」クリフが応える。「気づくかどうかの違いだ」
その言葉に、ユウキは少しだけ笑った。
風が、彼らの背を押す。
前方には、まだ見ぬ道。
霜を踏む音がリズムのように響き、どこか遠くで鐘の音が微かに重なった。
――鳴らさぬ鐘の祈りは、たぶん今も届いている。
そう思いながら、ユウキは一歩前へ踏み出した。
冷たい空気の中で、イシュタムの魂が胸の奥で静かに息をつく。
その声は、どこか優しく、懐かしかった。




