病床の再会と女医の眼差し〜前編〜
「……クレア?」
はじめが呆然とその名を呟くと、白衣の女性――クレアは、くわえ煙草を指で挟み、器用に紫煙を横へ逃がした。
「なんだい、藪から棒に。少し見ない間に私の顔まで忘れたのかい? 寂しいことを言ってくれるね、はじめ」
彼女ははじめの困惑を気にする風でもなく、ひらひらと手を振ると、迷いのない足取りで家の中へと入っていく。
その背中は、まるで行き慣れた自分の部屋に戻るかのような自然さだった。
はじめが慌てて後を追うと、中では義理の母親が、慣れた様子でクレアに茶を差し出しているところだった。
どうやら彼女は、この家の家族とは古くからの顔見知りであるらしい。
「立ち話もなんだ。お互い疲れているだろうし、中でゆっくり話そうじゃないか」
クレアの促しに、はじめは釈然としないものを感じつつも、カエデとマナを連れて居間へと上がった。
泥だらけの靴を脱ぎ、家の中に漂う懐かしい「生活の匂い」に触れた瞬間、ようやく魔境から生還したのだという実感が込み上げてきた。
だが、はじめが何より驚いたのは、その直後のことだった。
「お兄ちゃん! お帰りなさい!」
奥の部屋から響いたのは、ここ数ヶ月、掠れた呼吸音しか出せなかったはずの妹・リフリッジの明るい声だった。
はじめが慌てて寝室の扉を開けると、そこにはベッドの上で上体を起こし、頬に赤みを差したリフリッジが座っていた。
「リフリッジ! お前、動いて大丈夫なのか!? 熱は……」
「うふふ、平気だよ。クレアさんが来てくれてから、なんだか体がすっごく軽くなったんだもん」
リフリッジは満面の笑みを浮かべ、帰還した兄を歓迎するように両手を広げた。
はじめは、手に持っていた月光蓮の小瓶を握りしめた。
命がけで手に入れた特効薬を使うまでもなく、彼女の病状は劇的に回復しているように見えた。
しかし、その幸福な再会の時間は、一瞬にして凍りついた。
はじめの背後から、ひょっこりと二人の少女が顔を出したからだ。
「……ねぇ、お兄ちゃん。その子たちは、だれ?」
リフリッジの笑顔が、まるで夕立の前の空のように、急速に暗い雲に覆われていった。
彼女の視線は、はじめのすぐ隣に立つ獣耳のカエデと、不思議な威圧感を放つマナに突き刺さっている。
「あ、いや、これはだな……」
はじめが説明に窮していると、カエデが深いため息をつきながら、リフリッジに聞こえないような小声でボソッと呟いた。
「……はぁ。こういう色恋沙汰に巻き込まれたくないから、たぬきの姿が便利なのにぃ。やっぱり、この姿(女の子)で人間界を歩くのはトラブルの元だよね……」
カエデは肩を落とし、失われた精霊狸の力を別の意味で惜しんでいるようだった。
対照的に、空気の読めない「自称神様」のマナは、人懐っこい様子でベッドのリフリッジに詰め寄った。
「お姉ちゃん、病気なの? マナちゃんは神様だから、お見舞いに来たよ! ほら、この杖、すごいでしょ!」
「……お、お姉ちゃん……神様……?」
リフリッジは、あまりにもマイペースなマナのペースに毒気を抜かれたのか、一瞬だけ呆気に取られた表情を見せた。
その後、はじめはクレアと家族が見守る中で、この数日間に起きた出来事をかいつまんで説明した。
南ウォー沼での『4号』との死闘、アンナという不思議な少女との出会い、北ウォー沼での幻想的な体験、カエデが力を失った経緯、そして自称神様のマナの出現。
リフリッジは、はじめの身を案じて何度も青ざめたり、あるいは彼がアンナの話をするたびに露骨に眉をひそめたりしながら、最後まで話を聞いていた。
「――それで、これがその月光蓮の薬だ。使う必要がないなら、それに越したことはないんだけど」
はじめが小瓶を差し出すと、それまで窓際で煙草を燻らせながら黙って話を聞いていたクレアが、ゆっくりと腰を上げた。
「……なるほどね。よく生きて帰ってきたよ。褒めてあげる、はじめ」
クレアは小瓶を受け取ることもなく、はじめの肩にポンと手を置いた。
彼女の瞳は、医者としての冷静さと、何かを見通しているような鋭さを併せ持っていた。
「リフリッジの病状については、私が責任を持って診よう。だが……はじめ、お前に少し聞きたいことがあるんだ」
クレアの声音が、わずかに低くなった。
「リフリッジ、悪いけど少しお兄ちゃんを借りるよ。立ち話じゃ済まない、大事な相談だ」
「えっ……でも、クレアさん……」
リフリッジの不安げな視線を遮るように、クレアははじめの腕を取り、半ば強引に彼を部屋の外へと連れ出した。
居間から離れた廊下の隅。
夕暮れ時の薄暗い影の中で、クレアは再び新しい煙草に火をつけ、はじめを真っ直ぐに見据えた。
「さて、ぼうや。……『アンナ』が言っていたことについて、もう少し詳しく、二人だけで話そうか」
はじめは息を呑んだ。
自分はまだ、アンナが消え際に言った「7本の鍵」の話までは、家族の前で詳しく話していなかったはずだった。




