神様の導きと白衣の女
月光蓮の薬草を小瓶にしっかりとしまい込み、はじめたちは北ウォー沼を後にした。
帰路につくはじめの足取りは、希望に満ちてはいたものの、同時に重苦しい予感も抱えていた。
なにせ、行きはアンナの的確なナビゲートと、精霊狸としてのポン吉の野生の勘があったからこそ、この魔境を突破できたのだ。
今はアンナの声は聞こえず、カエデも力を失ってただの(獣耳としっぽはついているが)少女になってしまっている。
その上、手には自分と同じ背丈の杖を持った、10歳にも満たない手のかかる子供——マナまで連れているのだ。
(ただでさえ危険な沼なのに、マナを連れて無事に村まで帰れるだろうか……)
はじめの不安は、出発して早々に的中したかに見えた。
はじめが記憶を頼りに、行きで通った比較的安全と思われる道を進もうとした時のことだ。
「そっちは嫌ぁー!!」
突如として、マナが地面に座り込んでジタバタと暴れ始めたのだ。
「えっ!? なんだよ急に。こっちの道なら、泥も浅くて……」
「嫌だ嫌だ嫌だ! そっちに行ったらお洋服が汚れちゃうもん! マナちゃんはあっちに行くの!」
マナは涙目になりながら、はじめが選んだのとは全く違う、巨大なシダ植物が鬱蒼と茂る不気味な獣道をビシッと杖で指差した。
「おいおい、あんな薄暗い道、何が潜んでるか分かったもんじゃないぞ。頼むからわがまま言わないでくれ……」
はじめがいくらなだめすかしても、マナはテコでも動こうとしない。
ついには「あっちに行かないなら、ここで一生息を止める!」と頬をパンパンに膨らませて抗議し始める始末だった。
結局、折れたのははじめの方だった。
しぶしぶマナが指差した道を進むことになったのだが——驚くべきことに、その道中は信じられないほど平穏だった。
マナが「こっち!」と指差す道は、一見すると危険極まりないように見えて、実は地盤がしっかりと固まっており、底なし沼に足を取られることは一度もなかった。
また、北ウォー沼に生息しているはずの魔物や凶暴な野生動物、不気味な虫たちも、まるでマナの姿を避けるかのように、一切姿を見せなかったのだ。
行きに半日以上かかった険しい道のりが嘘のように、3人はあっという間に沼の出口へと近づいていた。
霧が晴れ、見覚えのある村の近くの森の景色が視界に飛び込んでくる。
「……なんだか、気のせいかな」
はじめは、拍子抜けしたようにポツリと口にした。
「行きよりもずいぶん早く、それに安全に抜けられた気がする。マナのわがままに付き合わされたのに……」
その言葉を聞き逃さなかったマナが、くるりと振り返った。
彼女は先ほどまでの泣き顔から一転、プクッと大きく頬を膨らませて、ツンとそっぽを向いた。
「違うよ! 気のせいじゃないもん!」
「えっ?」
「マナちゃんは神様だから、お前たちを悪い魔物や泥んこから守ってあげたの! わがままじゃないもん、神様のナビゲーションなんだからね!」
怒っているようで、どこか得意げなマナの言葉に、はじめは苦笑いするしかなかった。
「はいはい、神様のおかげだな」と適当に相槌を打つ。
しかし、その後ろを歩いていたカエデだけは、そんなマナの背中を不思議そうな目で見つめていた。
(……ただの子供の勘じゃない。この子が進む先だけ、自然の魔力が道を譲るように退いていた……)
先祖の力を失い、精霊としての感覚が薄れてしまった今のカエデにも、マナが発する微かな、しかし底知れぬ威圧感のようなものは感じ取れていた。
彼女が自称する「神様」という言葉は、あながちただの幼児の妄想ではないのかもしれない。
そんなカエデの思考をよそに、森の木々が途切れ、ついに懐かしい村の全景が眼下に広がった。
「見えた……村だ!」
はじめの顔に、パァッと明るい色が灯る。
「帰ってきた……! カエデ、マナ、急ごう! 早くリフリッジにこの薬を……」
妹の命を救う月光蓮のペーストが入った小瓶を胸に抱きしめ、はじめは村の坂道を駆け下りた。
住み慣れた我が家へ続く見慣れた道。
家の煙突からは細く煙が上がり、いつもと変わらない日常の風景がそこにあった。
「ここが俺の家だ!」
息を切らしながら自宅の門の前に辿り着いたはじめ。
しかし、そのまま勢いよく扉を開けようとした彼の足は、ピタリと止まった。
はじめの家の玄関先に、見慣れない人物が立っていたのだ。
パリッとした清潔な白衣を羽織り、けだるげな空気を纏った大人の女性だった。
彼女は壁に背中を預け、細い指で挟んだ煙草をくわえて、紫色の煙をふうっと空に吐き出している。
足音に気づいた女性が、ゆっくりと視線を落とした。
切れ長の瞳が、泥だらけのはじめと、その後ろにいるカエデ、マナを値踏みするように見つめる。
「……おや」
女性はくわえ煙草のまま、低く落ち着いた声で口を開いた。
「随分と遅いお帰りじゃないか。待ちくたびれて、煙草が一箱空になっちまうところだったよ」
白衣の医者らしきその女性は、まるで初めからはじめが帰ってくるのを知っていたかのような、意味深な笑みを浮かべていた。




