煎餅の音と、聞いていない妹
居間の空気は、まるで氷点下のように冷たく、そして重苦しかった。
テーブルを挟んで、気まずそうに視線を泳がせるはじめと、その腕に必死にしがみついているフリルの少女。
少し離れた席には、「お手並み拝見といくか」とばかりに、少し余裕の笑みを浮かべてタバコを弄るクレアが座っていた。
「……なんか、一体何が始まるの? 面白そうだから、おやつ用意してこようっと!」
ただ一人、この地獄のような修羅場の空気を全く読まないカエデが、ウキウキとした足取りで台所へと消えていく。
そして、はじめの真正面。
リフリッジは腕を組み、はじめと、彼にピッタリとくっついている見知らぬ少女の姿を、射殺さんばかりの冷たい目でじっと見つめていた。
「……ちょっと、そこの子?」
地を這うような、低く静かな声だった。
「名前は、なんて言うの?」
リフリッジは一切目を逸らさず、少女の顔に穴が開くほどの鋭い目線を浴びせながら質問した。
「ひっ……!」
尋問のようなその態度に、少女ははじめの腕にさらに強くしがみつき、先ほどよりも小刻みに震え始めた。
見かねたはじめが、慌てて口を挟む。
「いや、リフリッジ。この子には、今はちょっと名前を言えない事情があるんだよ」
「へぇ……事情、ね」
リフリッジは、はじめの庇うような態度に内心でギリッと歯軋りをしながらも、少女から一切目線を外さずに言葉を返した。
「じゃあ、なんて呼んだらいいの?」
「『キミ』って呼んでる。とりあえずだけども」
はじめが答えると、腕に隠れた少女が、怯えながらもコクコクと小さく頷いた。
「……まぁ、お兄ちゃんがそういうなら、それでもいいけど」
リフリッジの、少女を見る目にさらにグッと力が入る。
「あのさ。お兄ちゃんに、そんなにベタベタしがみつかないでくれる?」
絶対零度の、ひどく冷たい声だった。
「……話に集中できないから」
「あぅ……っ」
リフリッジの完全な拒絶のオーラを浴びた少女は、恐怖で涙目になり、完全に石のように固まってしまった。
「やれやれ」
その様子を見ていたクレアが、ボリボリと頭を掻きながら立ち上がった。
「それなら私の隣においで。怖いお姉ちゃんから守ってあげるから」
クレアが手招きすると、少女は助け舟に乗るように、はじめの腕から離れてクレアの白衣の裾へと移動し、そこにギュッとしがみついた。
しかし、その光景すらも、今のリフリッジにとっては逆効果だった。
嫉妬で完全に余裕が無くなっている彼女は、「お兄ちゃんから離れたと思ったら、今度は大人の女の人に甘えるの!?」とばかりに、クレアのことまで鋭く睨みつけた。
「……コホン。とりあえず、聞いてくれ。昨日の夜から、色々なことがあったんだ」
はじめは咳払いをして空気を変えようとし、ゆっくりとこれまでの出来事を説明し始めた。
エアリアルの強襲、マナが皆を助けるために力を使い果たして消えてしまったこと、そして絶体絶命のピンチを、この少女(巨大な白龍)が救ってくれたこと。
しかし――。
リフリッジの心の中は、それどころではなかった。
(なんなの? あの媚びを売ったような上目遣いと、やたらヒラヒラした服! しっぽまで出して、あざといにも程があるわ!)
リフリッジの頭の中は、どす黒い感情で埋め尽くされていた。
(それにお兄ちゃんだけじゃなく、あのクールなクレアさんまで手玉に取って……! にくい。あの女が、にくいっ!)
世界を揺るがす戦いや、マナの喪失という重大な話をしているというのに、はじめの必死の説明は、リフリッジの耳を完全に素通りしていた。
『バリッ! ボリボリボリッ!』
そんなリフリッジのすぐ隣で、おやつを取りに行っていたカエデが席に戻り、袋から出した大きな醤油煎餅を、凄まじい音を立てて豪快に噛み砕いていた。
『ボリッ! バリバリバリッ!』
はじめのシリアスな説明の裏で鳴り響く、間の抜けた咀嚼音。
やがて、はじめが息を吐き、静かに口を閉じた。
リフリッジは、隣の煎餅の音が止まったことで、なんとなく話が終わったのだと理解した。
「……わかってくれたかい、リフリッジ?」
はじめが、心底安心したような、そしてマナを失った悲しみを堪えるような優しい微笑みで、妹に語りかけた。
(やばっ! 全然聞いてなかったなんて、絶対に言えない!)
リフリッジは内心で冷や汗をかきながら、必死に表情を作って頷いた。
「う、うん。そ、そういう事情なら……仕方ないよね!」
完全に的外れな相槌で、なんとか誤魔化すリフリッジ。
「話終わったー?」
カエデが、口の周りに煎餅の欠片をつけながら、バリボリと咀嚼しつつ呑気に尋ねた。
テーブルの向こう側では、クレアの白衣にすっぽりとしがみつきながら、リフリッジの追及が終わったことに心底安堵の表情を見せる「キミ」の姿があった。




