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北の魔境と月光蓮の番人

「月光蓮を探しているのよね、少年」


アンナが、卓上に置かれた古びた地図を指差しながら言った。


はじめは真剣な顔つきで頷く。


「ああ。リフリッジの熱病を治すためには、どうしても必要なんだ。


南ウォー沼の奥深くにあるって聞いて、村から抜け出してきたんだけど……」


「南ウォー沼で探すのは、賢明とは言えないわね」


アンナは銀縁の眼鏡を押し上げ、地図の北側をトントンと叩いた。


「見つけやすさで言えば、確かに南ウォー沼よ。


でも、あそこには薬にするほどの量が群生していないの。


リフリッジの病状を好転させるだけの量が必要なら、南ではなく……『北ウォー沼』へ行くべきね」


「北ウォー沼……」


はじめが地図を覗き込むと、そこには黒々としたインクで複雑な模様が描かれていた。


「体は? 激しい衝撃を受けていたけれど、本当に完治したのかしら」


アンナの問いかけに、はじめが答えるよりも早く、獣耳を揺らしたカエデが胸を張って前に出た。


「大丈夫! 私の完璧な治癒能力で、細胞の隅々までちゃんと完治してるはずだよ!」


はじめも自分の脇腹をさすりながら、力強く頷いた。


「ああ、不思議なほど痛みが全くない。呼吸も苦しくないし、問題なく動けるよ。……カエデ、本当にありがとう」


「えへへ、どういたしまして!」


妹を救う道筋が見えたことで、はじめの心に希望の光が差した。


準備を整えた3人は、アンナの仮の住処を後にして、ただちに北ウォー沼へと足を踏み入れた。


道中、「ポポンのポーン!」という甲高い音と緑色の煙と共に、カエデは再び元の丸っこいタヌキの姿――ポン吉――へと戻った。


戦闘や過酷な環境での移動には、精霊狸としての本来の姿の方が適しているらしい。


北ウォー沼は、南とは全く異なる様相を呈していた。


一面が泥に覆われている南に対し、北ウォー沼は無数の沼と奇妙に捻じ曲がった陸地が、まるで迷路のように入り組んだ地形を形成していた。


一見すると歩けそうな地面が底なし沼であったり、逆に水面に見える場所が強固な岩盤であったりする。


そして凶悪な野生動物と魔物も生息している、正しい知識と観察眼を持たない者が足を踏み入れれば、わずか数分で命を落としてしまう、まさに「魔境」であった。


アンナの的確なナビゲートと、危険な匂いを察知するポン吉の嗅覚に助けられながら、はじめは慎重に歩みを進めた。


数時間が経過した頃、鬱蒼と茂る巨大なシダ植物の陰で、ポン吉が「ポン……」と悲しげな鳴き声を上げた。


はじめが近づくと、そこには朽ち果てた旅人の亡骸があった。


装備の風化具合からして、かなり前にこの魔境で力尽きたのだろう。


『……可哀想に。誰にも見つけられずにこんな所で。弔ってあげようよ』


はじめの頭の中に、カエデの優しい声が直接響いた。


タヌキの姿であっても、意思の疎通はできるらしい。


はじめも無言で頷いた。


3人は周囲の石や倒木を集め、泥に沈まない乾いた土の上に、ささやかながらも形ばかりの墓を作った。


はじめが手を合わせ、ポン吉がその隣でちょこんと頭を下げる。


その時だった。


積まれた石の隙間から、淡く幻想的な青白い光がフワリと浮かび上がった。


光は意志を持っているかのように3人の周囲を一度だけ旋回し、分厚い雲に覆われた空の彼方へと、静かに昇って消えていった。


「今の……」


「不思議な経験ができたね」


はじめが空を見上げたまま呟くと、アンナも静かに頷いた。


「魂の残滓が、大地に還ったのよ。……先を急ぎましょう」


それからさらに半日と少し、険しい道無き道を歩き続けた。


やがて、分厚い霧と木々のドームが不自然に途切れ、視界がぱあっと開けた。


「……すごい」


はじめは思わず息を呑んだ。


時刻は夕暮れ。


西の空に沈みゆく夕日が、沼地をオレンジと紫のグラデーションに染め上げている。


そして、彼らの目の前に広がる広大な浅瀬には、水面から顔を出すようにして、無数の「月光蓮」が咲き誇っていた。


夕日の光を浴びながら、花びらそのものが内側から発光しているかのように、淡い銀色の幻想的な光を放っている。


それは自然に生えたというよりも、誰かが丹念に手入れをしている「畑」のように、整然と群生していた。


そして、その月光蓮の畑の中心には、長い年月を経たような立派な木造の「ほこら」が、静かに鎮座していた。


「あそこが、群生地の中心ね」


アンナの言葉に促され、はじめとポン吉が月光蓮を傷つけないよう慎重に祠へと近づこうとした、その瞬間だった。


「おい!!」


背後から、空気を切り裂くような甲高い怒声が浴びせられた。


はじめたちが驚いて振り返ると、そこには巨大な蓮の葉の上に立つ、一人の幼い少女の姿があった。


年齢は10歳にも満たないように見えるが、その手には彼女の背丈ほどもある、先端に巨大な宝石が埋め込まれた「魔法の杖」がしっかりと握られていた。


少女の瞳は、侵入者に対する明確な敵意で燃え上がっている。


「マナの許可なく入ってくるな! ここはマナの場所だ!」


少女――マナは、杖を勢いよくはじめたちに向けた。


杖の先端の宝石が、バチバチと危険な魔力の火花を散らし始める。


「私のナワバリを荒らす奴らは、全員消えろ!!」


マナの怒号と共に、周囲の空気がビリビリと震え始めた。


ただならぬ魔力の奔流に、ポン吉が低い唸り声を上げて身構え、アンナがスッと懐に手を入れる。


探し求めていた希望の地で、新たな戦闘の火蓋が切られようとしていた。

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