精霊狸の少女とテルモビレの影
淡い光が、閉じた瞼の裏で揺れていた。
はじめがゆっくりと目を開けると、そこはむき出しの金属パイプと温かみのある木材が入り混じった、奇妙な天井の下だった。
南ウォー沼の腐敗臭はなく、代わりに薬草のようなどこか甘い香りが漂っている。
「……あ、目が覚めた?」
鈴を転がすような可愛らしい声がすぐそばで聞こえ、はじめは弾かれたように首を巡らせた。
ベッドの脇に座っていたのは、見知らぬ少女だった。
はじめと同年代くらいだろうか。
しかし、普通の人間ではないことは一目でわかった。
ふんわりとした栗色の髪の間からはピンと立った獣の耳が覗き、スカートの裾からは、ふさふさとした立派な尻尾が揺れている。
「……君は、誰? ここは?」
「よかったぁ、痛みが引いたみたいだね! ここはアンナちゃんの仮の住処。私はポン吉だよ!」
「……は?」
はじめは我が耳を疑った。ポン吉といえば、あの「ポポンのポーン!」と間の抜けた声で咆哮し、木の葉の竜巻で化け物を吹き飛ばした、あの丸っこいタヌキのはずだ。
どう見ても目の前の可愛らしい少女と結びつかない。
それに、あのタヌキは男だと思っていた。
「ポン吉って……あのタヌキの? 嘘だろ、だってオスじゃなかったのか?」
「むっ、失礼だなあ。私の本当の名前は『カエデ』っていうの。
『ポン吉』っていうのは、力のある精霊狸だったご先祖様の名前なんだから」
カエデと名乗った少女は、ぷくっと頬を膨らませた。
「私の一族はね、先祖の力を継承して戦う時、とても男らしい振る舞いと勇ましい見た目になるの! わかるでしょ?」
「いや……ただのタヌキにしか見えなかったけど……」
「えっ!? あんなに凛々しかったのに!?」
はじめの正直な感想に、カエデはショックを受けたように耳をぺたんと伏せた。
しかし、すぐに気を取り直したように、胸元から何かを取り出して見せた。
それは、鈍く輝く純金で出来た玉だった。
「これが、ご先祖様から受け継いできた力の源。
女の子の姿になると戦闘の力はほとんど使えなくなっちゃうんだけど、その代わり特殊な治癒能力だけは使えるようになるの。
あなたの怪我、私が治してあげたんだからね」
「治療…」
はじめは自分の体を触ってみた。
あんなに酷く抉られ、内臓まで達していたはずの脇腹の傷が、跡形もなく塞がっている。
服の破れと血の跡だけが、先ほどの惨劇が現実だったことを物語っていた。
「目が覚めたようね」
不意に、部屋の奥の扉が開き、漆黒のコートに身を包んだ銀縁眼鏡の少女——アンナが入ってきた。
手には、泥を落として綺麗にされたはじめの荷物が握られている。
「アンナ……助けてくれて、本当にありがとう。カエデも」
「礼には及ばないわ。たまたま通りかかっただけだから。それより……」
アンナは眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷徹なまでに澄んだ瞳ではじめを見据えた。
「リフリッジの具合はどう?」
その言葉に、はじめの心臓がドクンと大きく跳ねた。
「なっ……! なんで、妹の名前を知っているんだ!?」
リフリッジ。それは、原因不明の熱病で伏せっている、はじめの妹の名前だ。
こんな辺境の沼地にいる見知らぬ少女が、なぜその名を知っているのか。
「知っていて当然よ」
アンナは感情の読めない声で淡々と告げた。
「いずれ、あなたの本当の母親……『たまこ』と決着をつける時が来るのだから」
「母さん……と?」
はじめの頭の中が混乱の渦に飲み込まれた。
はじめの家庭環境は、少し複雑だった。
数年前、はじめの実の母親である「たまこ」が、どこからか幼いリフリッジを連れてきて、現在の父親に「この子を育てて」と一方的に押し付けて姿を消したのだ。
現在、はじめは父親と、後からやってきた義理の母親と共に暮らしている。
リフリッジは、兄であるはじめに対し、ただの家族以上の「淡い恋心」を抱いているようだった。
はじめもそれに気づいてはいたが、今は何よりも大切な妹として、彼女の命を救うことだけを考えていた。
「どういうことだ……。母さんが、君と何の関係があるっていうんだ」
「それを話すには、まだ早すぎるわ。
あなたは巻き込まれただけ。
早く薬草を見つけて、ここから立ち去ることね」
アンナは核心をはぐらかすように視線を外した。
はじめは食い下がろうとしたが、それよりも先に聞かなければならないことがあった。
「じゃあ……あの化け物は何なんだ。アンナはあいつのことを『4号』って呼んでいたよな」
はじめの問いに、アンナは小さく息を吐き、静かに口を開いた。
「あれは『テルモビレ』と呼ばれている生き物よ」
「テルモビレ……?」
「そう。自然界の生物ではないわ。
狂気にとり憑かれた『ERage』と呼ばれる人物が、禁忌に触れて作り出した生体兵器。
今日あなたを襲ったのは、その失敗作の一つ……『4号』よ」
アンナの言葉には、深い憎悪と、どこか悲哀のようなものが入り混じっていた。
時を同じくして。
南ウォー沼から遠く離れた、光の届かない地下深く。
朽ち果てた石柱が立ち並ぶ廃屋のような空間の中心に、禍々しい装飾が施された玉座が鎮座していた。
静寂に包まれた空間で、玉座の周囲を浮遊する7つの水晶玉が淡い光を放っている。
そのうちの1つが、突如として脈打つように点滅を始め、やがて不吉な濁った赤色に染め上げられた。
玉座に深く腰掛けていた影が、ゆっくりと動いた。
闇に溶け込むような黒衣を纏った不気味な男の口元が、三日月のように歪む。
男は、赤く染まった水晶玉を見つめながら、ひび割れたような低い声で呟いた。
「4号が深手を負ったか……」




