南ウォー沼の泥濘と銀縁の少女
「南ウォー沼には、絶対に近づいてはいけないよ。あそこは生者が足を踏み入れる場所ではないのだから」
村の長老が囲炉裏の火を見つめながら語ったその言葉を、はじめは今更ながらに思い出していた。
南ウォー沼。村の西方に広がるその湿地帯は、一年中どんよりとした灰色の霧に覆われ、日の光すら満足に届かない呪われた土地として恐れられていた。
腐敗した植物が発する鼻をつくような泥の匂いと、どこからともなく聞こえてくる不気味な水音が、侵入者の正気を削り取っていく。
沼の底には底なしの泥が広がり、一度足を取られれば二度と地上に戻ることはできないと言われている。
しかし少年、はじめには、どうしてもこの沼を探索しなければならない理由があった。
原因不明の熱病に伏せっている妹を救うためには、この南ウォー沼の深部に自生するという幻の薬草「月光蓮」が必要だったのだ。
「……くそっ、どこにも見当たらない」
はじめは腰まである防水の革長靴を履き、慎重に泥濘を掻き分けながら進んでいた。
一歩足を踏み出すごとに、ズブッ、ズブズブッという粘着質な音が静寂な沼に響き渡る。
周囲には捻じ曲がった奇妙な形をした枯れ木が乱立し、まるで苦悶の表情を浮かべて天に向かって腕を伸ばしている亡者のように見えた。
時刻は昼下がりのはずだが、分厚い霧と天蓋のように覆い被さる巨大なシダ植物の葉に遮られ、周囲は夕暮れ時のように薄暗い。
はじめの額には冷たい汗が滲んでいた。
恐怖と疲労で足が震える。
それでも、妹の青白い顔を思い出すと、引き返すという選択肢はなかった。
その時だった。
ピタリ、と。
それまで周囲を満たしていた、湿地の虫の音やカエルの鳴き声が、まるで巨大な刃物で断ち切られたかのように一斉に鳴り止んだ。
「……え?」
はじめは足を止め、息を殺した。
不自然すぎる静寂。
沼の空気が、急激に冷たくなり、肌をピリピリと刺すような異様な重圧感に包まれた。
鼓動だけが、やけに大きく耳の奥で鳴っている。
背後の霧が、不自然に渦を巻いた。
――ズルッ……ズルルッ……。
何か重いものを泥の上で引きずるような、不快な音が近づいてくる。
はじめは恐怖で硬直する首を必死に動かし、振り返った。
濃い霧の中から、ヌゥッと一つの影が浮かび上がった。
それは、人間の形をしていた。
しかし、あきらかに何かがおかしい。
身長は二メートルを優に超え、腕は膝の下までだらりと伸び切っている。
身に纏っているのはボロボロに引き裂かれた襤褸切れのような外套だが、そこから覗く皮膚は、まるで沼の泥を直接塗り固めたかのように黒緑色に変色し、ブクブクと腫れ上がっていた。
何より恐ろしいのはその頭部だった。
顔の半分はグズグズに崩れ落ちており、残された片方の眼球だけが、黄色く濁った光を放ちながらはじめをギョロリと見下ろしている。
そして、その怪物が、大きく開かれたままの空洞のような口から、この世のものとは思えない音を発した。
「――ブゥン!」
それは声というよりも、巨大な羽虫の羽音を何万倍にも増幅させたかのような、鼓膜を直接揺さぶる低い振動音だった。
その音を聞いた瞬間、はじめの視界がぐにゃりと歪み、強烈な吐き気が胃の腑から込み上げてきた。
「ひっ……!」
逃げなければ。
脳が必死に警鐘を鳴らすが、泥に足を取られて動けない。
次の瞬間、男の姿が掻き消えた。
「えっ――」
ドゴォォォォン!!
鈍い衝撃音と共に、はじめの体が宙を舞った。
何が起きたのか理解するよりも先に、凄まじい激痛が左脇腹から全身へと稲妻のように駆け抜けた。
怪物の信じられないほどの豪腕が、はじめの胴体を薙ぎ払ったのだ。
「あ……がっ……!」
数メートル先の泥水の中に、はじめは叩きつけられた。
口から生暖かい鉄の味が広がり、激しく咳き込むと同時に大量の血が泥水に混ざって散った。
肋骨が何本も折れ、内臓が破裂したような致命的な痛みが体を支配する。
息ができない。
肺に空気が入ってこない。
「ブゥン!……ブゥン!!」
奇怪な男が、歓喜のステップを踏むように泥を跳ね上げながら近づいてくる。
黄色く濁った瞳が、獲物の死を待ち望むように三日月型に歪んでいた。
男は太い丸太のような腕を高く振り上げた。その手には、錆びついた巨大な鉈のような刃物が握られている。
(あぁ……死ぬんだ……。妹を、助けられなかっ……)
はじめは霞みゆく視界の中で、死を覚悟し、ゆっくりと目を閉じた。
その時である。
『ポン吉、そこっ! 吹き飛ばして!!』
凛とした、しかしどこか冷たさを帯びた少女の声が、静寂の沼に響き渡った。
「ポポンのポーン!!」
少女の声に応えるように、今度は間の抜けた、しかし力強い鳴き声が弾けた。
はじめの閉じた瞼の裏にまで届くほどの強烈な緑色の閃光が走ったかと思うと、轟風が巻き起こった。
「ブゥ……ン!?」
男の驚愕の呻き声。
目を開けたはじめの視界に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
はじめと男の間に、一匹のタヌキが立っていた。
しかし、ただのタヌキではない。
頭には葉っぱを乗せ、首には赤いスカーフを巻いたそのタヌキ——ポン吉——の周囲には、無数の木の葉が鋭い刃物のように旋回し、竜巻を生み出していた。
ポン吉が短い前足を振り抜くと、木の葉の竜巻が巨大な大槌となって男の腹部に直撃した。
二メートルを超える巨体が、ボールのように弾き飛ばされ、数十メートル先の枯れ木の群れに激突してへし折った。
「……見つけたわよ、4号」
泥を跳ね上げることもなく、静かに、まるで足元に氷の道でも敷かれているかのように滑らかに歩み寄ってくる影があった。
漆黒のコートを身に纏い、その上からでも分かる華奢な体つきの少女だった。
歳ははじめより少し上くらいだろうか。
色素の薄い銀色の髪が、沼の湿気を含んで重たげに揺れている。
そして彼女の顔には、この場所には不釣り合いなほどに洗練された、銀縁の眼鏡がかけられていた。
眼鏡の奥の瞳は、氷のように冷たく、鋭い光を放っている。
アンナ。
ポン吉がそう呼んだのか、はじめの頭の中に直接その名前が響いたのかは分からなかった。
ただ、彼女が「アンナ」という名であることだけが、なぜか直感的に理解できた。
倒れた木々の山から、奇怪な男が這い上がってきた。そのダメージは浅くないようで、ドロドロの体液を流しながらも、アンナの姿を見た瞬間、激しい憎悪に満ちた声を上げた。
「ブゥゥゥゥゥゥンッ!!!」
「うるさい。相変わらず品のない声ね。
……でも、今日はあなたを倒すための準備をしてきていないの。
ポン吉、目くらましを」
「ポンッ!」
アンナの指示を受けたポン吉が、大きく息を吸い込み、頭に乗せた葉っぱを吹き飛ばした。
瞬く間に、発光する特殊な煙幕が周囲を包み込み、怪物の視界を完全に遮断した。
怪物が煙の中で盲滅法に暴れ回り、「ブゥン!」という怒号を上げているのが聞こえる。
「……生きているわね、少年」
冷たい声がすぐ耳元で聞こえた。はじめが痛みに顔を歪めながら視線を向けると、アンナがしゃがみ込み、はじめの傷口を見下ろしていた。
銀縁の眼鏡の奥の瞳は、感情を読み取らせないほどに凪いでいる。
「ひどい傷……。内臓まで達しているかもしれない。ここで止血だけしても、もってあと一時間というところかしら」
「た……すけ……」
「喋らないで。肺に血が回るわ」
アンナは手袋をはめた手で、はじめの傷口の周辺に謎の粉末を振りかけた。
すると、焼け付くような痛みが嘘のようにスッと引き、傷口から流れていた血がピタリと止まった。
しかし、それはあくまで応急処置に過ぎないことは、はじめ自身の体が一番よく理解していた。
手足の感覚はすでに消え失せ、恐ろしいほどの寒気が全身を襲っていた。
「ポン吉、この子を運んで。
『仮の家』へ戻るわよ。あいつ(4号)が煙から抜け出してくる前に」
「ポンポン!」
ポン吉がはじめの側に寄ると、その小さな体がポンッという音と共に膨張し、一匹の巨大な熊のようなサイズへと変化した。
巨大化したポン吉は、器用にはじめの体を咥え上げ、そっと自分の背中に乗せた。
毛皮の温もりが、冷え切ったはじめの体に少しだけ安堵を与えた。
「なぜ、あいつがここにいるのか… 因果の影響?」
アンナはブツブツと呟きながら、霧の奥へと歩き出した。
はじめはポン吉の背中から、遠ざかる男の怒号を聞きながら、薄れゆく意識の中でアンナの背中を見つめていた。
彼女は一体何者なのか。
なぜ、あの恐ろしい怪物と顔見知りのようだったのか。
そして、「4号」とは何のことなのか。
「しっかりつかまっててね、少年。……私の『隠れ家』まで、少し揺れるから」
アンナが振り返り、眼鏡の奥で少しだけ同情の色を見せたような気がした。
ポン吉は泥を蹴立て、沼のさらに奥深く、誰も立ち入ったことのない前人未到の領域へと向かって疾走し始めた。
巨大なシダ植物の群生を抜け、不気味に光るキノコが生い茂る洞窟のような大樹の根本へと潜り込んでいく。
そこには、沼の環境に溶け込むように巧妙にカモフラージュされた、金属と木材が歪に融合したような奇妙な建造物があった。
それが、少女の仮の住処だった。
はじめは、その建造物の重厚な扉が開くのを見たのを最後に、完全に意識を深い闇の中へと手放した




