失格の女神と、信じる声〜後編〜
夢の余韻――神々しい光と、顔に押し付けられた場違いなほどの柔らかい感触――が、窓から差し込む朝のまぶしい陽光と共に急速に薄れていく。
「……んん」
はじめがゆっくりとまぶたを開けると、視界にいつもの自室の天井が映った。
しかし、ベッドのすぐ脇には、彼を見下ろす二つの影が立っていた。
リフリッジと、マナだった。
「あ、はじめちゃん起きたー!」
マナがパッと顔を輝かせ、ベッドに身を乗り出してきた。
「あのね、はじめちゃんが寝てる間、リフリッジちゃんがはじめちゃんの顔を舐め回すようにずーっと覗き込んでいたからね。
マナちゃんが『おいおい、それは兄弟とはいえドン引きされる行為だぜ』って言って、バシッと止めておきました!」
「ちょ、ちょっと! 私が変態みたいじゃないの!」
隣にいたリフリッジが、茹でダコのように顔を真っ赤にして叫んだ。
「お兄ちゃん、違うからね! ただ熱がないか心配で見てただけで……マナちゃん、お兄ちゃんに変なこと吹き込まないでよ!」
「キシシッ、照れ隠しだねぇ~」
「もうっ!」
朝からギャーギャーと騒ぐ二人のやり取りに、はじめは「はは……」と力なく苦笑いしながら身を起こした。
夢の中で見た妖艶な大人の姿と、目の前で生意気に笑う幼児の姿のギャップで、なんだか頭がクラクラする。
「ほら、二人とも。朝ごはんを食べるぞ」
はじめは二人を促し、着替えを済ませて居間へと向かった。
居間に入ると、すでにテーブルの準備が進められていた。
そして、窓際の定位置には、昨日警備隊に担架で運び込まれ、ずっと気を失っていたはずのクレアの姿があった。
「クレア、起きたんだな。体調は大丈夫なのか?」
はじめが声をかけると、クレアはコーヒーの入ったマグカップを片手に、けだるげな視線を向けてきた。
「ああ。少し魔力を使いすぎただけさ。心配をかけたね、はじめ」
はじめは周囲の家族に聞こえないよう、クレアのすぐそばまで近づき、声を潜めて耳打ちした。
「……昨日の『実験』はどうだった? 結局、マナは……」
「後で話す」
クレアはカップに口をつけたまま、短く、しかし確かな緊張感を含んだ声で答えた。
はじめはそれ以上追及するのをやめ、小さく頷いて体を離した。
しかし、その二人の内緒話のような親密な距離感を、配膳を手伝っていたリフリッジが見逃すはずもなかった。
彼女の顔が、楽しげな朝の空気の中でスッと曇る。
マナが言うところの「嫉妬」の炎が、再び彼女の胸の奥でチリチリと音を立てていた。
「さぁさぁ、みんな席について! 今日の朝ごはんは、私が腕によりをかけて作ったんだから!」
険悪になりかけた空気を吹き飛ばすように、エプロン姿のカエデが元気よく声を上げた。
テーブルの上にドンッと置かれたのは、大皿に盛られた料理の数々だった。
しかし……。
「なんだこりゃ……」
はじめは思わず顔を引きつらせた。
青や紫といった毒々しい色をした葉っぱの炒め物や、謎の木の実がゴロゴロと入ったドロドロのスープ。
精霊狸としての野生の感覚で作ったのか、はじめたちが見たこともない、奇妙で前衛的な見た目の料理ばかりが並んでいたのだ。
「これ……本当に食べられるのか? 腹を壊したりしないよな?」
はじめが冷や汗を流して疑問を口にした、その瞬間。
「いっただっきまーす!!」
マナが真っ先にテーブルに飛びつき、両手に持ったスプーンとフォークで、その奇妙な料理を猛烈な勢いで貪り食い始めた。
「おいしー! なにこれ、すっごくおいしー!」
頬をパンパンに膨らませ、マナはご満悦の表情で次々とおかずを口に運んでいく。
神様というより、完全に腹を空かせた小動物だった。
「マジか……」
はじめは恐る恐る左手でスプーンを取り、紫色のスープをすくって口に運んだ。
「……ん?」
舌に触れた瞬間、見た目からは想像もつかないほど豊かで、奥深い旨味が口いっぱいに広がった。
「うまっ! なんだこれ、すげえ美味しいぞ!」
「ふふんっ、でしょ!」
カエデが「えへん」と胸を張り、頭の獣耳をピクピクと揺らして、ものすごく得意げな顔ではじめを見つめ返した。
どうやら、森の恵みを知り尽くした精霊狸の料理スキルは本物らしい。
「あ、ほんとだ。カエデちゃん、お料理上手なんだね!」
リフリッジも恐る恐る口をつけ、すぐにパァッと顔を輝かせた。
温かく、美味しくて、そして騒がしい朝の食卓。
マナがおかずを取り合い、カエデが笑い、リフリッジが微笑み、クレアが静かにコーヒーを飲む。
昨日の白昼の凶行や、ERageの恐怖、狂気に支配された村人たちの不気味な態度が、まるで悪い夢か嘘であったかのように、そこには平穏で温かな日常の風景があった。
はじめは、温かいスープを飲み込みながら、ふと窓の外の青空を見上げた。
(このまま……時が止まってしまえばいいのに)
過酷な運命の歯車が回り始めていることを知りながらも、はじめは今この瞬間だけは、目の前の小さな幸せにただ浸っていた。




