失格の女神と、信じる声〜前編〜
大人の妖艶な姿のまま、マナはふわりと花が咲くように明るく笑った。
「でもね、わたしがしたことに後悔はないよ」
「後悔は、ない?」
「うん。だって、相手がどんなに悪い心を持っていて、騙されるとわかっていても……
目の前で必死に助けを求められれば、思わず手を差し伸べて助けちゃうのが『神様のサガ』だからね」
マナはあっけらかんと言ってのけた。
自分を裏切り、力を奪い、あまつさえ世界を脅かす独裁者となった男を助けたというのに、彼女の言葉には微塵の淀みもなかった。
「それにさ」
マナは悪戯っぽく片目をつむり、顔を近づけてきた。
「力を失った結果、こうしてはじめちゃんとも会えたし。キシシッ!」
絶世の美女の顔から発せられる「キシシッ」という幼児の笑い声。
相変わらず脳がバグりそうなギャップだったが、はじめは少しだけ呆れたように息を吐き、ぶっきらぼうに聞き返した。
「……あのさ、お前、神様なんだろ? 神様なんだから、あいつが裏切ることくらい、最初からなんでもわかってたんじゃないのか?」
すると、マナは顔の横で人差し指を立て、左右にチッチッと振った。
「チッチッチ。はじめちゃん、それは買い被りすぎ。
人間はね、神様をなんでもお見通しな『便利な存在』だと思っているみたいだけど、神様だって万能じゃないの。
私たちには『与えられた役割』しかできないことがあるんだから。
……だいたい、日頃のわたしを見てればわかるでしょ?」
「あー……たしかに」
はじめは無意識に左手で顎を撫でながら、深く納得して頷いた。
泥道を嫌がって駄々をこね、お菓子に釣られ、常に偉そうにふんぞり返っている日頃の「自称神様」の姿を思い返せば、全知全能とは程遠いことは火を見るより明らかだった。
「ちょっと! そこはもう少しためらったり、考えたりしなさいよ!」
マナが豊満な胸を揺らして、顔を真っ赤にして怒り出した。
「いや、自分で言ったんじゃないか。納得してもらいたいのか、そうでないのかどっちなんだよ」
「とーにーかーく! 神様についての認識を改めてよね! わかった!?」
ぷくぅっと限界まで頬を膨らませて怒るマナ。
大人の美女の姿でやられると破壊力が凄まじいが、中身は完全にいつものマナだった。
はじめが苦笑いしながら「はいはい、わかったよ」と降参すると、マナはひとしきり怒った後で、ふっと視線を落とし、少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。
「……でもね。たいくつな日常がただ延々と続くだけの日々に、少し嫌気がさしてたのもあったかもしれない」
マナの足元に広がる白い波紋が、彼女の心を表すように静かに揺れた。
「え……?」
「キシアの連中が歴史を書き換えるためにやって来なくても……私の存在は、人々から少しずつ忘れられつつあったから」
はじめは驚いて目を見開いた。
「えっ! そんな事あるのか? 神様ってのは、無条件で人間に敬われるものだろ?」
マナはジト目でこちらを睨み返してきた。
「はじめちゃんって、案外おめでたい思考してるのね。……ご利益のない存在に、人間がいつまでも親切にすると思う~?」
その鋭い指摘に、はじめは言葉に詰まった。
(……そういえば、困った時にしか神様のことって考えないよな)
リフリッジが熱病で苦しんでいた時、はじめは藁にもすがる思いで「どうか助けてくれ」と見えない何かに祈った。
だが、平和な日常の中で、ただそこにあるだけの神様に感謝を捧げることなど、ほとんどなかったのだ。
人間とは、そういう身勝手な生き物だ。
「なっとくした?」
マナは自嘲気味に微笑んだ。
「私は、神様としては『失格』の部類に入っちゃったのかもね。人にとっては、もう必要のない……」
「そんな事ない!!」
白い空間に、はじめの怒鳴り声がガンッと響き渡った。
「え……」
「あっ……」
マナが目を丸くし、叫んだはじめ自身も、自分から出たあまりにも強い声に驚いて口を手で塞いだ。
しかし、一度口から出た感情は、もう止めることができなかった。
「いや……俺は、マナのこと信じてるから……」
はじめはバツが悪そうに視線をそらし、顔を真っ赤にしながら言葉を続けた。
「お前が失格の神様だなんて、絶対に思わない。……現に俺は、お前に何度も助けられてるんだから」
静寂が下りた。
マナはしばらくぽかんとはじめを見つめていたが、やがて、春の陽だまりのような、この上なく優しく慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「……はじめちゃん」
マナは一歩踏み出し、長い腕を伸ばしてはじめの体をギュッと抱き寄せた。
「えっ!? ちょっ、マナ……!」
大人の女性の柔らかく甘い香りが、はじめの鼻腔をくすぐる。
そして何より、彼女のはち切れんばかりの豊満な胸が、はじめの顔にムギュッと直接押し付けられたのだ。
「うわわわっ!?」
思春期真っ只中の少年には、あまりにも刺激が強すぎる。
はじめの脳内はパニックを起こし、手足をバタバタとさせて逃れようとしたが、神様の抱擁は思いのほか力強かった。
マナははじめの頭を胸に抱きとめたまま、よしよしと優しく撫でた。
『ありがとう。わたしの事を信じてくれて』
耳からではなく、心の中に直接、マナの温かい声が響き渡った。
その声を聞いた瞬間、はじめの意識は急速に白い光の中へと溶け出していった。
強烈な恥ずかしさと、それ以上の深い安心感に包まれながら、夢の境界線が薄れていくのを感じる。
(マナ……)
目を覚ます直前、はじめの心を満たしていたのは、身勝手な人間たちを許し、それでも手を差し伸べてしまう、優しくて不器用な一柱の女神のことだった。




