永遠の錯覚と夢への招待
「……こっちだ」
はじめは短く答え、重い足取りで自分の部屋へと続く廊下を歩き出した。
背後からは、マナの小さな足音が規則正しくついてくる。
家の中は、不気味なほど静まり返っていた。
居間で「フワフワとした」奇妙な態度をとっていた義理の母親も、リフリッジも、そしてカエデも、まるで強制的にスイッチを切られたかのように、すでにそれぞれの部屋で深い眠りに落ちていた。
気を失ったまま運び込まれたクレアも同様だ。
廊下には、気まずく、そして重苦しい沈黙が流れていた。
先ほど担架の脇で見せた、マナのあの冷たく古い神の眼差し。
それが背中に突き刺さっているかと思うと、はじめは生きた心地がしなかった。
やがて、自分の部屋の前に辿り着く。
いつもなら何気なく開けているはずの木製のドアが、今日はまるで鉛でできているかのように重く感じられた。
ドアノブに伸ばした手が、微かに震えている。
(……開けたら、何が起こるんだ?)
はじめは深く、長く深呼吸をした。
心臓の鼓動が、耳の奥で早鐘のように高く鳴り響いている。
ドクン、ドクンという音が、静寂な廊下に漏れてしまいそうなほど大きかった。
意を決し、はじめは冷たいドアノブを回して部屋の扉を開け放った。
――その瞬間だった。
「……えっ?」
はじめの意識が、奇妙な感覚に飲み込まれた。
現実の時間は、間違いなく一瞬の出来事だったはずだ。
しかし、ドアを開けてから部屋の空気に触れるまでのそのわずかな隙間に、まるで数年、いや、何十年もの悠久の時が流れ去ったかのような、途方もない錯覚を覚えたのだ。
星が生まれ、枯れていくような圧倒的な時間の奔流。
それが一瞬だけ脳裏を駆け抜け、はじめは軽いめまいを覚えた。
(今のは……)
息を呑み、はじめは恐怖を振り切るようにして、勢いよく背後を振り返った。
そこに、あの冷酷な神の顔をしたマナが立っていると覚悟して。
「はじめちゃん! 神様を試すような事をしたら、バチが当たるよ!」
「……は?」
振り返った先にいたのは、両手を腰に当て、ぷくぅっと大きく頬を膨らませて怒っている、いつもの天真爛漫な「自称神様」の子供だった。
先ほどまでの底知れぬ威圧感や、冷たい瞳の影はどこにもない。
「あのねぇ、お医者さんのねーちゃんが急に剣を振り回すから、マナちゃんすっごくビックリしたんだからね! ……あっ」
マナはそこでハッとしたように両手で自分の口を塞ぐと、キョロキョロと辺りを見回した。
「夜だから、もうちょっと静かにしないとだね。みんな起きちゃうもんね」
小声でそう言いながら、マナはえへへと無邪気に笑った。
その「いつも通り」の顔を見た瞬間。
はじめの体から、張り詰めていた緊張の糸がプツンと音を立てて切れ、全身の力が一気に抜け落ちた。
「うわっ……」
膝から崩れ落ち、そのまま床へ倒れ込もうとするはじめの体を、小さな腕がガシッと受け止めた。
「おっと!」
「……マナ……?」
「きんちょーした?」
はじめの体を下から支えながら、マナは覗き込むようにして、カラカラといつもの調子で笑った。
はじめの頭の中は、もう完全にキャパシティを超えて大混乱を起こしていた。
白昼の殺人未遂、炎の剣の透過、警備隊や家族の洗脳じみた態度、ドアを開けた瞬間の永遠のような錯覚、そして今のマナの能天気な笑顔。
今日は一体、何がどうなっているんだ。
どれが現実で、どこからが夢なんだ。
狂っているのは世界か、それとも俺の頭の方なのか。
思考がショートし、荒い息を吐くはじめの顔に、マナがそっと手を伸ばした。
小さな、少し冷たい手のひらが、はじめの両目の瞼を優しく覆い隠す。
視界が真っ暗になった。
「ねむりたいの?」
耳元で、甘く、そしてどこかイタズラっぽい声が囁かれた。
「じゃあ、夢の中で話そっか。キシシッ……その方が、わたしも都合がいいからね~」
その「キシシッ」という独特の笑い声を聞いた瞬間。
はじめの意識を、抗いようのない強烈な睡魔が襲った。
それは疲労による眠りではなく、文字通り「神の手」によって強制的にシャットダウンされるような、深く重い眠りだった。
「あ……」
はじめは抵抗する間もなく意識を手放し、そのままマナの腕の中で、完全な暗闇の底へと落ちていった。




