甘い誘惑と剣の切っ先
実の母親であるたまこが、狂気じみた「ハートの王国」の女王として君臨している――。
そのあまりにも現実離れした、しかし紛れもない真実に、はじめは縁側で深くうなだれていた。
自分の血に対する嫌悪感と、捨てられた過去の傷がじくじくと痛む。
そんなはじめの背中に、クレアがふと声のトーンを変えて語りかけた。
「……ショックを受けているところに悪いが、少し話を変えよう」
クレアは吸い殻を灰皿に落とすと、いつになく真剣な、まるで張り詰めた糸のような表情ではじめを見下ろした。
「ちょっと、マナを借りたい。……いいかい?」
「え……?」
はじめは顔を上げ、目をパチクリとさせた。
実母の重い話から急にマナの話題に切り替わったこと、そして何より、クレアがこれまで見せたことのないほど切迫した顔をしていたからだ。
「マナを貸してって……。いや、俺はあいつの保護者じゃないけど……。勝手についてきただけだし……」
はじめが困惑しながらそう答えると、クレアの顔に張り付いていた緊張が、ふっと緩んだ。
「ぷっ……ふふっ、あはははっ」
彼女は突然肩を揺らして吹き出し、白衣のポケットに手を入れて笑った。
「いや、ごめん。私の言い方が悪かったね。あんたがあの騒がしい神様の保護者だなんて、誰も思っちゃいないさ」
クレアは目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、小さく息を吐いた。
「ただ、ちょっと気になっていることがあってね。私の『実験』に付き合ってもらいたいだけさ。
……ただ、私の見立てが間違っていたら、あの子に大怪我を負わせてしまうかもしれない。
そう思ったら、いくら元ERageの兵器だった私でも急に怖くなってね。
つい、あんたに変な許可を求めてしまった。すまない」
「大怪我って……一体何をさせるつもりなんだよ」
はじめが聞き返そうとした、その時だった。
「お話し、おわったー?」
居間の奥から、トテトテという軽い足音と共にマナが顔を出した。
大人の深刻な空気など微塵も察していない、天真爛漫な笑顔だ。
あるいは、神様を自称する彼女の野生の勘が、自分についての話題だと察知して出てきたのかもしれない。
クレアはすぐにいつものけだるげな表情に戻り、マナの目の高さに合わせてしゃがみ込んだ。
「ああ、終わったよ。ねえ、マナ。
美味しいキャンディをあげるから、お姉さんのちょっとした『実験』に付き合ってくれないかい?」
「キャンディ!?」
マナの瞳が、星のようにキラキラと輝いた。キシアの役人が子供を騙した手口と同じような甘い誘惑だが、食い意地の張ったマナには効果覿面だった。
「やるやるー! マナちゃん、イチゴ味のキャンディがいい! あとメロン味も!」
「ああ、いいとも。実験が終わったら、好きなだけ食べさせてあげるよ」
クレアはにっこりと笑い、はじめに視線で合図を送った。
場面は変わって、村の公園。
昨夜はじめが火球を放ったのと同じ場所だが、今はまだ日が落ちる前の明るい午後だった。
「すいません、ここは今から村の設備の点検で……あ、おばさん、申し訳ないけど向こうの道を通ってくれませんか」
はじめは公園の入り口に立ち、必死に人払いをしていた。
村人たちに頭を下げて回る彼の額には、嫌な汗が滲んでいる。
無理もない。
もし今の公園の中の状況を誰かに見られでもしたら、間違いなく村の警備団に通報されてしまうだろう。
誰もいなくなったことを確認し、はじめが公園の中を振り返る。
「は、話がちがうよぉ……。
キャンディくれるって言ったのにぃ……」
公園の中央にある太いシンボルツリー。
そこに、マナが太いロープでぐるぐる巻きに縛り付けられていた。
魔法の杖も手の届かない場所に転がされており、彼女の目には大粒の涙が浮かんでいる。
そして、その涙目のマナの鼻先わずか数センチのところに
クレアが、どこから取り出したのか、鋭く冷たい光を放つ『長剣』の切っ先をピタリと突きつけていたのだ。
「悪いね、マナ。
これも実験のためだ。……さあ、あんたが本当に『女神』なら、この程度、どうってことないだろう?」
白衣を風に揺らしながら、クレアは剣を握る手にジリッと力を込めた。




