にぃにの波紋と、野生化するカエデ
快適な『夢の空間』での休息を終え、現実の荒野へと戻ってきた一行。
ニール鉱山への道のりは、まだまだ遠く長く続いていた。
しかし、昨日のどんよりとした重い空気はどこへやら。
今日の列の真ん中を歩くアズマは、フリルの裾を軽やかに揺らし、朝からずっとニコニコと満面の笑みを浮かべていた。
そのあまりにもあからさまなご機嫌ぶりに、昨日まで自分を蛇蝎の如く嫌って不機嫌だったカエデが、不審そうに目を細めた。
「ねぇ、あおちゃん! 昨日、私が寝ている時に何かいい事でもあったのー?」
カエデがアズマの顔を覗き込みながら尋ねる。
(……こういう時のカエデの妙な勘の良さって、なんなんだろうな)
はじめは少し離れた場所から、ヒヤヒヤしながらその様子を見ていた。
「ふふっ。秘密です」
アズマは上機嫌に微笑み、口元に人差し指を当てた。
その嬉しそうな「秘密」という言葉の響きに、カエデはピンと何かを(悪い方向に)察知したらしい。
彼女はくるりと踵を返し、はじめの方へズンズンとそっとにじり寄ってきた。
「……この、ケダモノ」
カエデははじめの胸ぐらをガシッと掴むと、ジロリと凄みをきかせた声で囁いた。
「さては、私がぐっすり寝ている間に、あの子を『毒牙』にかけたな……?」
「はぁ!? お、お前、何を言ってるんだ!」
はじめが目を丸くして否定する。
「にぃには、そんな事してないですよ、カエデさん」
すかさずアズマが横から庇うように口を挟んだ。
「…………え?」
その言葉を聞いた瞬間、カエデの動きがピタッと止まった。
『どうぶつの人』と呼んで頑なに自分の名前を呼ぼうとしなかったアズマが、『カエデさん』と呼んだ。
さらに、はじめの事を『にぃに』という破壊力抜群の甘い呼び方をしている。
その態度のあまりの急変に、カエデは驚愕を通り越して、パニックに陥った。
「こ、このケダモノぉぉっ!! 本当に手を出す奴があるかぁぁっ!!」
カエデはポロポロと涙を流し始め、バチンッ! バチンッ! と容赦なくはじめの頬を両手でビンタし始めた。
「痛っ! ちょ、誤解だ! 落ち着けって!」
「ちょっとちょっと、カエデちゃん落ち着いてー!」
はじめが防戦一方になる中、マナが慌てて二人の間に割って入り、カエデを必死に止めようとする。
そのカオスな修羅場を少し離れて見ていたクレアは、呆れ顔で小さく呟いた。
「……はじめが大人になったら、あちこちでこんな修羅場が見れそうだな」
極めて冷静な将来予測だった。
一方、ただ自分が呼び方を変えただけで、カエデがどうしてこんなに泣いて怒っているのか全く理解できないアズマは、その混乱ぶりに少々困惑していた。
マナに引き剥がされ、なんとかビンタをやめたカエデだったが、まだムスッと頬を膨らませ、はじめをジロリと睨みつけた。
「……それで? にぃにさんは、リフリッジちゃんやイオリちゃんに、この事をどう説明するわけ!?」
「いや、どうって……。そこまでは考えてなかったけど」
はじめが素直に答えると、カエデはズビッと鼻をすすり、ビシッと指を突きつけた。
「はじめちゃん! こういう事(女の子の扱い)は大事なんだから、もっと真面目に考えなさいよ!!」
やたらと力説するカエデによる、謎の説教が始まってしまった。
「まぁまぁ! とりあえず今は、ニール鉱山の事を考えましょうよ、ねっ!?」
マナがヒートアップするカエデの肩を叩き、必死に話題を逸らそうとする。
しかし、そこでアズマが、カエデに向かってきっぱりと言い放った。
「はじめさんを『にぃに』と呼んでいいのは、私だけです! カエデさんは別の呼び方を考えてください」
アズマ自身にカエデを煽るつもりは全くなく、ただの独占欲からの純粋な主張だったのだが――。
「…………ッ!!」
それを聞いたカエデの目が見開き、頭の中で何かの糸がプツリと切れる音がした。
「ポキョォォォーーーッ!!」
突如、カエデが鳥とも獣ともつかない謎の奇声を上げ、アズマへ向かって猛然と突進し始めた。
「うわぁっ!? な、なんなんですか!? 突然野生化した!?」
アズマは悲鳴を上げ、フリルのスカートを掴んで荒野を全力で逃げ惑う。
「待てこのトカゲ女ーッ!!」
「ひぃぃっ! にぃに、助けてー!」
「こらー! ここは魔物も多いんだから、無闇矢鱈に暴れ回らないでー!!」
逃げるアズマ、奇声を上げて追い回すカエデ、それを泣きそうになりながら追いかけるマナ。
三人のドタバタとした追いかけっこが、広大な荒野に砂埃を巻き起こす。
「……やれやれ」
クレアは深く深いため息をついた。
だが、その目はすでに周囲の地形を鋭く観察し、剣の柄に静かに手を添えていた。
こんな騒ぎを起こせば、魔物を引き寄せるのは時間の問題だ。
いつどこから魔物が襲ってきても即座に対処できるよう、クレアが一人静かに臨戦態勢に入った




