甘い弾圧と眠りに落ちる少年
「女神マナ……? あの、泥道を嫌がって駄々をこねてた子供が?」
夜の公園で、はじめは間の抜けた声を上げた。
どうしても、あの騒がしい少女と「女神」という神聖な響きが結びつかない。
「信じられないのも無理はないさ。……だがね、はじめ。
あんたが知っている神話や伝承は、すでに『改ざん』された後のものなんだよ」
クレアはブランコの鎖に寄りかかり、夜空を見上げながら静かに語り始めた。
「かつてクロベキア帝国を滅ぼし、侵略者としてやってきた隣国『キシア』
彼らの統治は、敗戦国に対するものとしては不気味なほど寛容だった。
自国の資源を惜しみなく注ぎ込み、戦争で荒廃したクロベキアの復興を全力で手助けしたんだ。
生活水準は劇的に向上し、労働環境や賃金も戦前とは比べ物にならないほど改善された。
傀儡として選ばれた新しい国王も、人当たりが良くクリーンなイメージでね。
多くの国民は、豊かになっていく生活の中で、支配されていることへの疑問すら抱かなくなっていった」
「……いい国じゃないか。戦争に負けたのに、生活が良くなったなら」
「そう、表面上はね」
クレアの奥の瞳が、スッと細められた。
「彼らは、物質的な豊かさを与える代わりに、クロベキアの『歴史と精神』を奪い取ったんだ。
平和的な復興を妨げる勢力だというプロパガンダを流し、特に神話や古い伝承に関する情報は徹底的に弾圧された。
女神マナについての神話を研究していた学者たちは次々と粛清され、歴史の表舞台から姿を消した」
クレアはふっと冷たい息を吐いた。
「やり方も陰湿でね。
大人を脅すだけじゃない。
キシアの役人たちは、女神マナの古い神話が書かれた絵本を持ってきた子供たちに、見たこともないような高級なお菓子をプレゼントして回ったんだ。
貧しかった子供たちは喜んで家中の本を探し出し、役人に差し出した。
そうやって、家庭の書棚からすら、古い神話を完全に消し去ったのさ。
文字を持たない口伝の語り部たちは国からマークされ、軟禁状態に置かれた。
……すべては、都合の悪い『本当の神話』を消し去るためにね」
はじめは黙って聞いていた。
お菓子と引き換えに歴史を売る子供たちの姿を想像し、背筋に冷たいものが走った。
「あんたたちが行ってきた北ウォー沼。あそこも元々は、ただ獰猛な野生動物が多く生息しているというだけの、普通の湿地帯だった。
だが、キシアの侵略後、段々と人が寄り付かない立ち入り禁止の地域に指定され
キシアに生息している魔物や凶悪な野生動物も持ち込んで、今のような『生きては帰れない魔境』という評価が定着したんだ」
「なんで、わざわざそんな事を……」
「隠したかったからさ。
北ウォー沼の奥深く、人が容易に踏み入れられない場所には、
古い神殿の跡地があり、そこに『女神マナの祠』が安置されていた。
……あんたたちが見つけた、月光蓮の花畑の中心にあった祠だよ」
クレアの言葉が、はじめの脳内でパズルのピースのようにカチリと音を立ててはまった。
あの異常な魔力。
北ウォー沼の泥が彼女を避けるような現象。
そして、アンナが言っていた「人ではないモノの力が流れ込んでいる」という言葉。
マナが、キシアが歴史から消し去ろうとした本物の「女神」なのだとしたら、すべてに説明がつく。
「……なるほどな。だから、あいつは……」
はじめは相槌を打とうとしたが、まぶたが鉛のように重くなっていることに気づいた。
死と隣り合わせの魔境の探索。
強敵ERageとの死闘。
そして帰還後のリフリッジの嫉妬騒動に、満腹になるまで食べた夕食。
さらに、左手から火球を放ったことで魔力と体力を大きく消耗していた。
彼の体と精神は、とうの昔に限界を突破していたのだ。
「……それで……マナは……」
はじめの頭がカクンと揺れ、言葉が途切れる。ブランコの支柱によりかかったまま、彼の意識は急速に遠のいていった。
「……疲れているのかい? まあ、無理もない。仕方ない、続きは……」
はじめの様子に気づいたクレアは、言葉を止め、そっと目を閉じた。
彼女は自分の内側に意識を向け、精神を研ぎ澄ませる。
暗い意識の底で、ERageの玉座にある水晶玉との繋がりを探った。
「……まだ、支配下には戻っていないか」
微かな安堵の息を漏らす。
ERageの呪縛はまだ彼女の脳を侵食してはいない。
だが、この自由がいつまで続くかは誰にもわからなかった。
クレアが再び目を開けると、はじめは完全に支柱に寄りかかり、スースーと静かな寝息を立てて深い眠りに落ちていた。
「続きは明日にしよう」
誰に言うともなく呟き、クレアはくわえていた煙草を携帯灰皿にしまい込んだ。
「やれやれ。肝心なところで寝ちまうとは、大物なのか子供なのか……手のかかるぼうやだ」
彼女は少し呆れたような、それでいてどこか優しい笑みを浮かべ、夜空に溶けていく月を見上げた。




