第2話 静かな侵食と、許されざる理
朝は、あまりにも普通に訪れた。昨日すべてを失ったはずの世界が、何事もなかったかのように動いている。人々は笑い、商人は声を張り上げ、焼きたてのパンの香りが通りに満ちる。
その中を───アンナは歩いていた。いいえ、今の彼女を動かしているのは、その内側に宿る別の意志。
「随分と賑やかね……」
その声は、もはやアンナのものではない。静かで、澄み切っていて。どこか世界そのものを値評するような響き。
リリーは、深い眠りに落ちたアンナの意識を包み込みながら、その身体を借りていた。歩幅、視線、呼吸。すべてがわずかに整いすぎている。それだけで、見慣れたはずの町娘は、まるで深窓の令嬢……あるいはそれ以上の、不可侵な気品を纏って見えた。本当に町娘ではなく、独特な雰囲気を纏った少女だった。誰も彼女をアンナとは気付かない。
アンナはくすりと笑い、歩を進める。向かう先は、王都中央通り。そして、その中心にある場所。
「ここね」
人だかりの向こう、ひときわ華やかな看板が掲げられている。
───聖女ミサキ謹製薬舗。
白と金で飾られた店構え。清潔さを誇示するような硝子瓶。それらは、この世界の「薬」の在り方とは、明らかに一線を画していた。
「いらっしゃいませ! 聖女様の薬はいかがですか?」
店員の声は弾んでいる。当然だろう。ここは今、王都で最も富と期待を集める場所なのだから。
「ええ、そうね。置いてあるもの、すべていただけるかしら」
リリーは、柔らかな笑みを浮かべた。迷いも躊躇もない。ただ「必要だから」という、冷徹なまでの合理性。
「えっ……全、全部ですか!?」
「聞き間違いかしら? 準備をお願いするわね」
アンナの財布から、必要なだけの硬貨を差し出す。店員は驚きに目を見開きながらも、その不思議な威圧感に気圧されるように、商品をカウンターへ並べ始めた。
商品を抱え、アンナの……今は主を失った店へと戻る。
リリーは奥の調剤室に入ると、手に入れた品々を並べた。白い粉末。半透明の固形物。どれもが、この世界の道具や指先では辿り着けないほどに「均一」だ。
「アンナ、貴女の知識を少し借りるわね」
眠る彼女の意識から、薬草の性質、土の匂い、煮詰める時の温度といった記憶を引き出す。職人として積み上げてきた研ぎ澄まされた感覚。それらと照らし合わせた瞬間、リリーの瞳は冷たく冴え渡った。
「……やはり、異物だわ」
これは「薬」ではない。少なくとも、この世界の土から生まれ、火と水で練り上げられたものではない。
例えば、この白く均一な錠剤。この形状、この純度。人の手が介在した痕跡が、欠片も見当たらない。
「積み重ねがないのよ。種を蒔かずに、花だけが咲いている……そんな不自然さだわ」
過程を飛ばし、「結果」だけがそこに置かれている。それはこの世界の職人たちが数百年かけて築いてきた体系を、根底から腐らせる劇毒。
「キラ、ダーク。来なさい」
リリーが短く呼ぶと、調剤室の影が揺れた。
「主様ー! 呼んだ? なにこれ、すっごく変な匂いする!」
白銀の髪を揺らし、キラが鼻を摘まんで現れる。対照的に、ダークは無言のまま影から這い出し、置かれた錠剤を凝視した。
「観測の結果を」
「……この薬、この世界の素材の比率を無視しています。何らかの力で無理やり形を固定されている。不自然なほどに……純粋すぎます」
ダークの報告に、リリーは満足げに頷く。
「ええ。これは技術ではなく、持ち込まれた『結果』よ。本来この世界には存在しない、あるいは存在するはずのなかったものが、無理やり楔のように打ち込まれている」
キラが首を傾げる。
「それって、壊しちゃっていいやつ?」
「いいえ。無理に壊せば、この世界の理まで歪んでしまうわ。まずは、この『奇跡』がどれほど脆い法律の上に立っているか……それを見極めるのが先よ」
リリーは不敵な笑みを浮かべ、手元の錠剤を軽く弾いた。
「偽りの奇跡は、その根拠を失えばただの塵になるもの。聖女様がどんなに立派な城を築こうと、その土台がこの世界の法に背いているなら……崩すのは容易いわ」
静かな調剤室で、リリーの意志がアンナの指先を通じて深く、鋭く浸透していく。理不尽な「奇跡」を正すための、音のない戦いが始まろうとしていた。




