第1話 聖女の横暴と、名もなき職人の涙
王都の空は、やけに白々しかった。石畳の上を行き交う人々のざわめきは、いつもと変わらぬはずなのに───その日だけは、どこか浮ついている。理由は単純だ。
「聖女様が、新しい“万能薬”を完成させたらしいぞ!」
誰かのその一声が、波紋のように広がっていく。万能薬。その甘美な響きに、誰もが夢を見る。病に苦しむ者も、家族を失った者も、そして───商いで生きる者ですら。だが………。
「……そんなものが、本当にあってたまるものかっ!」
小さく、押し殺すような声があった。
王都の外れ。裏路地にひっそりと店を構える『ハートウェル製薬店』。店先に立つ少女・アンナは、固く唇を結んでいた。三つ編みにした茶色の髪、そして薬草の灰とアクで荒れた指先。
彼女は、知っている。薬とは、そんな奇跡のようなものではない。一つひとつの症状に向き合い、季節に合わせて薬草を選び、慎重に調合する───地道で、気の遠くなるような積み重ねの果てに、ようやく人を癒す。それが、この世界の「理」だ。なのに───。
「アンナ、もう……無理よ。ギルドからの通達……来てしまったの」
差し出された書状。そこには『営業停止命令』の文字。突如現れた“聖女”が、見たこともない技術で王侯貴族に取り入り、あっという間に「正しさ」を塗り替えてしまった。「選ばれたのは、あちらだ」───街の冷たい沈黙が、アンナの心を削り取っていく。
夕暮れが街を染めていく。店の扉には封印の札が貼られた。気づけば、アンナは王都の片隅にある古い教会にいた。
「悔しい……悔しいよ……」
堰を切ったように、涙が溢れた。
「私たちは……ちゃんとやってきたのに……」
その呟きが静寂に吸い込まれようとした、その時。
───コツン。
小さな音がした。顔を上げると、そこにいたのは一匹の黒猫だった。夜のように艶やかな毛並み。そして、何より───不自然なほどに美しい、金色の瞳。
「……猫?」
猫は音もなく歩み寄り、アンナの足元でぴたりと止まった。じっと見上げてくるその瞳が、微かに細められる。まるで、アンナの胸の奥にある慟哭を、すべて聴き届けているかのように。不意に、アンナの視界が黄金色の光に包まれた。
『───貴女の積み上げてきた時間が、形のない“奇跡”に塗り潰されてしまったのね』
声がした。耳元ではない。脳の、もっと奥。魂の芯に直接響くような、穏やかで慈愛に満ちた声。
『ですが、もう大丈夫。貴女のその指先が、嘘をついていないことを証明したいかしら?』
「したい………っ! こんな理不尽に、負けたく、ない………っ!」
『わかったわ。貴女の願い、私が叶えてあげる』
黒猫が、すっと前足をアンナの甲に重ねた。その瞬間、熱い何かがアンナの手のひらから全身へと駆け巡る。
「……っ、あつい……なに、これ……」
『これは契約。貴女の悔しさも、正義も、わたしが証明するわ』
猫の姿が揺らぎ、光の粒子となってアンナの胸へと吸い込まれていく。アンナの…自分の記憶の中が読まれているような、でも不思議と不快感はない。
(アンナ……私を受け入れて。貴女の唇を、わたしの言葉で満たすの)
「……あ、ああ……」
アンナはゆっくりと立ち上がった。先ほどまで頬を濡らしていた涙は、一瞬にして乾いている。三つ編みの髪が、意志を持つかのようにわずかに波打った。ふと、教会の水溜りに映った自分の顔を見る。茶色かったはずのアンナの瞳は、今やあの猫と同じ、鮮やかな黄金色へと変わっていた。
「……さぁ、反撃の狼煙を。準備を始めるわ」
アンナの口から漏れたのは、彼女自身の声でありながら、どこか彼女にはない、不敵さを持っている。
「偽りの奇跡を、この世界の『法』で叩き潰してあげるわ………聖女様」
瞳を細め、アンナは不敵に微笑んだ。




